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「アイドルはトイレに行かない」は宗教的信仰である
登録者:えっちな名無しさん
作者:名無しの作者
(・∀・)4(・A・)2

「アイドルはトイレに行かない」
これは現代の日本において常識である。
もっとも、本当に排泄しないとアイドルはものの数週間で死ぬことになる。じゃあウソか、と言われると制したくなるのが人なのである。
宗教がそれほど強く生活に根差しているわけでもない日本においてもかなり広く共有されているという意味で、これは一つの宗教的教義のようなものであるともいえる。
幸田文の幼年期を描いたエッセイである「みそっかす」では、
「きれいな人がなぜ排泄なんかするのだろう」
という一文がある。
明治から大正にかけて幼年期を過ごした氏でも「きれいなひとは排泄をしない」と認識していたわけで、こうした直感的な認識は「アイドルはトイレに行かない」という教義ともつながる部分がある。
実はこの美しさと排泄の問題は、極めて哲学的な問題である。
ミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」という作品には以下のような言葉がある。少し長いが引用してみる。めんどうなら飛ばしても問題ない。
「ヴァレンティノスはこの糞いまいましい問題を解決するため、イエスは食べ、飲みはしたが、排便はなさらなかったと主張した。糞は悪よりもはるかに困難な神学上の問題である。神は人間に自由を与えた。従ってわれわれは神が人間のもろもろの罪に責任がないというのを結局許容することができる。しかし、糞に対する責任は人間を作り出した者だけが全面的に負うことになる。……つい最近まで糞という語が本の中で××と書かれていたとしても、これは道徳的な理由からではない。糞が不道徳であるなどと、まさか主張なさりたくはないであろう!糞との不同意は形而上的なものである。排便の瞬間は創造の受け入れがたさを日々証明している。あれかこれかで、糞が受け入れられるか(もしそうなら便所を閉めるのを止めよう!)、われわれは受け入れがたい方法で想像されているか、二つに一つである。」
神様が人を作ったのであれば排便につながる腸を作ったのも神様であり、そして人は神様に似せて作られたとされているのであれば、神もまた排便をすることになる。
クンデラ自身、神と糞が両立するとするのは「冒涜的」との見方を示しているが、たしかに感覚としては非常にマッチングが悪い。
アイドルというのは、クンデラが言及しているイエスの話をそのまま置き換えれば話が早い。
きれいなものから汚いものが出てきて
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