母と祖母と

2008/01/23 01:50 登録: えっちな名無しさん

先週の水曜日の夜に自宅の電話が鳴った。

ということは、母からだ。
その他にこの番号に電話をしてくる人間は考えられない。

出てみると、案の定そうだった。
僕はそっけなく用件を聞く。

「何かね?」

母は申し訳なさそうに言う。
「悪いんだけど、23日の午後半日、おばあさんを見ていてくれない?」

「おばあさん」とは、僕の祖母のことで、電話主の母の実母である。
2年前の年末に腰を傷めてから、徐々に体力が低下し、1年ほど前から入退院を繰り返し、そしてとうとう半年前くらいからは殆ど寝たきり状態になってしまった。

今は、それを母が付ききりで介護しているのである。

祖母は、ぼぼ寝たきりの状態になってしまった所為で、近頃は意識も混濁し、現実と夢と古い記憶の世界の区別がかなりあいまいになってきている。
かといって、完全に呆けてしまったわけでもなく、意識が混濁している自分をどこかで認識してしまっているというところに本人の不幸がある。

完全に呆けてしまっているわけではない証拠に、この日も母とのやりとりのあと、僕は祖母と電話でちゃんと会話を交わしているのである。

つまり祖母は、面倒を見てもらわないと生きられない自分の状況を、ある程度認識したまま、体も心も衰弱していっているのだ。

まさに、生き地獄といって良い。

さて、母の用件を聞いてみるとこんな感じだった。

23日に、母はそれこそものすごく久しぶりに友人と約束をしており、外出する予定になっていた。

そこで、たまに手伝いに来てくれる親戚のおばさんに、その間の祖母の世話をお願いしておいたのだが、折り悪く、そのおばさんが風邪を引いてしまったのだという。

他の家族もその日は用事があったり仕事の為、他に頼める人間もおらず、僕に話が回ってきたと、そういう訳だ。

僕は、しばらく考えた後、その依頼を受けた。

実は僕にも予定があったのだが、日頃の母の苦労を考えると、受けないわけにはいかないと考えたからだ。
母は、それこそ半年以上は友人となんか会っていなかったはずなのだ。
それを考えれば、自分の事情は多少差し置いてでも、息抜きをさせないわけにはいかない。

僕は自分の約束の相手に事情を話して予定の変更の承諾をとった。
待ち合わせ時間を決めずに、僕の予定が終わった時点で連絡をするという風にしてもらったのだ。

そして23日当日。
午前中に横須賀の実家に着いた僕は、2日前とは少々事情が変わっていることを母から説明された。

祖母が、前日から風邪を引いて熱を出していたのだ。
計ってみると、37.6度。
ちょっと高い。

もちろん母は、僕が到着する以前にその件をいつも回診に来てもらっている医師に相談していたのだが、その結果、今回は病院には行かずに自宅でしばらく様子を見ることにしたらしかった。

下手に病院に連れて行っても、待ち時間や往復のストレスで逆に症状を悪化させてしまう恐れがあるからだ。

それを聞いた僕は少々心配になった。
しかし、それでも、母のせっかくの楽しみをふいにするのは忍びないので、母から注意事項やいざという時の対応の説明を受け、母を送り出した。

12時だった。

祖母の具合が悪くなりだしてからこっち、ここ1年以上は1月に1度程のペースで顔を見には来てはいたが、僕にとって、独りで祖母の面倒を見るというのは初めての体験だった。

水やジューズを飲ませたり、アイスや母が用意した小さく切ったフルーツを食べさせたり、氷枕の交換をしたり、たまに話しかけたりしながら、時間が過ぎた。

仮に何もすることがなくても、何かあった時の為に常に近くについていなくてはならない状況。
それだけでも僕にとっては大変だった。
にもかかわらず、それをきちんと食事から下の世話までして、毎日24時間体制でやっている母。
その大変さを、僕は今更ながら思い知った。
いや、そうじゃない。
正直言って、想像もつかない程の大変さなのだろうと、改めて思ったのだった。


時計が20時を指そうとした頃、母が帰ってきた。

実は、その頃には僕は結構心細くなってきていた。
というか、かなり心配になってきていた。

祖母の熱が、明らかに上がっていたからだ。
息も荒く、僕が声を掛けても、返答がこなくなっていたのだ。

母にその事をつたえて熱を計ってみると、38.6度あった。
これは、高い。
しかし、この数ヶ月、このようなことを繰り返してきた母は、流石に落ち着いていた。

母はすぐさま、いつもこういう場合に連絡しているらしいどこかの看護サービスに電話をし、相談をした。
そして、救急車を呼び病院に連れてゆくことになった。

そうと決まったあと、母はテキパキと準備をしながら僕に言った。
「今日はありがとう。でもあんたはお友達との約束があるんでしょ?もうこんな時間だし、早く行きなさい」

僕は、いささか後ろ髪を引かれる思いではあったが、母の落ち着いた様子から、これは大丈夫だろうと思い、帰ることに決めた。

「じゃあね、おばあさん。また来るからね。がんばってよ」
息が荒く、意識があるのかないのか分からない祖母の額に手のひらを乗せ、そう声を掛けた僕は、実家を後にした。

・・・・・・、僕が実家を後にして10分。
祖母が、息を引き取った。

享年九十。
いかに平均寿命が延びた現在の日本であっても、この年齢まで生きれば大往生と言って良いのではないか。

最終的な死因は、「呼吸不全」。
正確には、肺炎になってしまった上でのことらしいが、これは既に、病名でもない。症状だ。
最後の半月は、もう腕さえも上がらないくらいまで体力が衰弱していた事を考えると、まさしく老衰であり、今回はその上に、とどめの風邪を引いてしまったという状態だろう。

母にとっても祖母にとっても、この1年は本当に大変な日々だったに違いない。
特に、春先に入院して、それこそ奇跡的に命を取り留めて家に帰ってきた後は・・・。

痴呆にならないまま衰弱してゆく事が、人にとってどれ程悲しく、またつらい事であるかを、今回僕は目の当たりにした。

その退院の後、自分ではトイレにも行くことが出来なくなった祖母。
夢と現実と過去の記憶が混濁する自分を認識している祖母。
それを必死に介護する母の苦労を痛いほど感じている祖母。

最後の半年間、祖母は、意識がハッキリするとよく母にこう漏らしたそうだ。

「もういいよ」

「何か、楽になれる(死ねる)薬とかもらえないものかしら」

「いっそ殺してくれないかねえ」

もし祖母に自ら首をくくる体力が残っていたら、迷わずそうしたであろう。

しかし実際には、自殺さえできないのである。
介護する側される側、双方にとって、これは悲劇以外の何ものでもない。

母だって、本心を言えば、そんな風に生きる事を辛く思う実母を、早く楽にさせてやりたいと思っていたに違いない。
それは、「愛するものには一日でも長く生きていて欲しい」という残される側のエゴを越えたものだ。

だから母は、祖母の死を迎えた後、悲しみにくれるわけではなく、むしろ穏やかな表情をしていた。
介護しながら、いつかやってくるこの瞬間への覚悟だって充分すぎるほどしていたに違いなく、そういう意味では至極まっとうな反応のように僕には思えるし、悲しみがやってくるとしたら、それはもうしばらく時間が経った後なんだろうと思う。

故に、今は唯々、僕は祖母と母に言う、
「ご苦労様でした」と。



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