遺棄された日本兵の話
2008/08/01 11:30 登録: えっちな名無しさん
<一部、作者によって編集されています>
1945年の冬、冷たい北風が吹き、大雪が舞っていた。
黒石街の入口付近を通りかかった河南省南召県太山廟村の農民・孫邦俊
は、大勢の人々が一人の乞食を囲み、殴る蹴るをしているのを見た。
一人の男が棒で乞食の腹を叩きながら、
「お前は俺たちの仲間を何人殺したんだ。
お前なぞどんなに切り刻んでも足りない」
と、激しい声で怒鳴り罵っていた。
乞食の頭髪は短く、弾痕で無数の穴が開き、汚れきった軍服を着ていた
が、体を丸め、恐怖でちぢみ上がっていた。
その乞食は、遺棄された日本兵であった。
孫邦俊はその乞食が可哀相になり、周りの人々にさまざまに頼み込んで、
乞食を助け、連れて帰った。
孫邦俊は、負傷したこの日本の廃殘兵を『我が弟』のように養っていく。
戦闘で頭部に重傷を負ったらしいが、脳の損傷が少なかったのか、意識も
身体も正常であった。ただし、完全な言葉を発することはできなかった。
1953年冬、この日本兵は半身不随に。
床からき起きられなくなり、自分では動けず、昼は叫び、夜は泣いた。
孫邦俊は昼も夜もつきっきりでご飯、着替えから大小便の世話までした。
言葉を話せないこの日本人は感激して何時もしっかり孫邦俊の手を握り、
じっと顔を見つめ、ポロポロと涙を流した。
孫邦俊は家の金になりそうな物を売ったり、三回も売血して看病の金に
換えた。
一年経ち、日本兵は奇跡的に再び起き上がれるようになった。
月日は流れ十年が過ぎた。
孫邦俊は、階級闘争の真っただ中にずっとこの日本侵略軍の兵士を名前も
住んでいた所もはっきりしないまま匿まい、多くの大衆に何と言っていたの
だろうか。孫邦俊一家は、この大きな重荷を背負い、一緒に仲よく暮らせた
とは、不思議なことである。
1961年、孫邦俊の一人っ子・孫保杰は初級中学を卒業し南召師範に合格
した。これは農家の子供にとって、鯉が滝に登るように出世する足がかりだ。
一家が喜びに酔い、あの『乞食』も喜んだ。
そんな時、突然村に見慣れない人間が三人来て、孫邦俊の事情を調べて
行った。その結果だろう。孫保杰にはとうとう採用通知が来なかった。
一家は何処に理由があるかわかっていた。
孫保杰は、自分の前途を悲観して家を恨み、兵士を恨み、父を恨んだ。
すると孫邦俊は涙を流しながら、息子に、他人にはけして言うことのない
昔の話をした。
父・孫邦俊も孤児であった。
大雪の舞う冬、雪の中で凍えている時、死んだ孫保杰の祖父に救われ育て
られたのだ。
孫保杰は父と『おじ』に謝り、黙って不幸な運命を受け入れた。
1964年夏、孫邦俊は58歳で疲労のあまり、体を壊し病を得て亡くなった。
いよいよ臨終の時、息子を枕下に呼び、
「わしは、おじさんを見てやれなくなり、お前に頼るしかない。
人にはみんな父母、兄弟がある。
おじさんは日本からここに来て何十年もわしらと暮らした。
食うや食わずの暮らしで可哀相で済まなかった。
これからもおじさんの面倒を見てやってくれ。
機会があればおじさんの肉親を捜してやってくれ。
捜せたらわしにも話してくれ」
と、言い残した。
『おじさん』を拾ってきた父・孫邦俊は既に亡く、生活はわずか20歳の
孫保杰にかかってきた。
日本の老人はそれを心配し、少しでもできる家事をやろうとした。
文化大革命の間、孫保杰は外国と通じ、家に『時限爆弾』を隠していると
言われ、何度も審査を受け、街を引き回され、社会的な苦しみをなめ尽くし
た。けれども保杰は、日本のおじにその苦しみを見せることはなかった。
1975年の夏、日本の老人は重い関節炎を患い、また床について動けなく
なった。
孫保杰は父と同じように方々に借金し、自分で車を引いて老人を病院に
連れていった。保杰の妻はずっと老人の身の周りで看護した。一家は僅かな
物を分け合って食べ、お金を節約して治療の費用にした。
優しい一家の努力は報われ、ついに老人はまた起きられるようになった。
こうして孫保杰父子は日本兵を四十年あまりも世話をし長い間日本兵と
寄り添って暮らした。
1986年、中日両国の関係が正常化した後のこと。
保杰は父の遺言を守り、この日本老人の肉親を捜し始めた。けれども老人
は話すことができず、書く字も曲がりくねって誰にも読めず、肉親捜しは
困難を極めた。
孫保杰は県の外事事務所と日本大使館に連絡した後、老人が書いた字と、
三枚の写真を国際赤十字社と日本の民間組織に送ったが、結局老人のことは
分からなかった。
1991年10月 5日の『南陽日報』に、中日友好訪問団が南陽市に来ている
ニュ−スが載った。
孫保杰はこれを読んで思った。
『いい機会だ、老人を連れて行って代表団団長に会わせてみよう』
多くの日本人が日本語で聞いたり説明したり、書いた字で名前と住所を
見たりを繰り返し、この元日本兵の『おじ』の名前は『小門野郎』、家は
松山市らしいと分かった。
しかし所属していた部隊の名は書けなかった。
訪問団は老人の写真を持ち返り日本の12社の新聞に掲載した。
その後、五つの家族から連絡があり何回か連絡を取り合ったが、全て違っ
ていた。
歳月は、元日本兵を白髪の老人へと変えていた。
孫保杰も中年になった。
考えられる限り、できる限りのことをしてきたが、日本の老人の肉親は
分からなかった。
保杰は失望して、父親の墓に行き、
「許して下さい、私は、お父さんから託されたことができませんでした」
と、頭を下げた。
1992年 4月18日、日本の友好訪問団がまた来た。
保杰は再び老人を連れて訪問団を訪ねた。
今度は、肉親捜しが目的ではない。
老人の先のことを考え、ただ老人の同胞に会わせたかった。
訪問団と話していると『経済ニュ−ス速報』の副編集長・津田康道、恒子
夫妻が嬉しいニュ−スを伝えくれた。
それは、老人が同社の編集長・石田小太郎の兄ではないかと言うのだ。
石田小太郎の家は秋田県で、兄の石田東四郎は1939年侵略戦争に参加。
その時、石田小太郎はまだ10歳。ただし、年齢と名前が違う。
津田康道夫妻は決定できないまま帰り、できるだけ早く返事することを
約束した。
訪問団は帰国し、津田康道夫妻は石田小太郎に詳しくこのことを話した。
石田小太郎は三回、南召県の外事事務所に手紙を送り、本人と孫保杰の
事情を尋ねた。写真を調べ、この日本の老人は確かに石田東四郎で、1912年
8月生まれ。日本軍の中国侵略のあと名前を小門野郎と名を変えたということが
分かってきた。
1993年正月上旬、石田小四郎から託された友人・明治東一道は、正月21日
に南召に来て、石田東四郎の血液を採り帰国。秋田大学法医学研究室の血液
鑑定を経て、石田東四郎は確かに別れて50年たった兄であることが判明した。
1993年6月、石田小太郎は、日本播州中日友好訪問団と共に南陽市に来た。
同月6日、梅渓賓館の広い中庭に歓迎の旗がひらめいた。
ホ−ルの入口に20人の日本人が並んだ。
この時、一輌の乗用車『奔馳』が、ゆっくりと中庭に入ってきた。
まだ車がとまらないうちに、日本人は車を囲んだ。車から銀髪の老人が降りた。
この銀髪の老人が、戦争で遺棄された日本兵・石田東四郎であった。
一緒に降りたのは、孫保杰夫妻である。
石田小太郎は急いで走り石田東四郎としっかり抱き合った。
石田東四郎は夢を見ているようで80の高齢になって50年会えなかった弟に
会えるとは、考えてもいなかった。
この情景はその場にいた者を感動させずにはいなかった。
石田小太郎は孫保杰夫妻に万感の感謝をした。
そして兄を連れて帰国した。
孫保杰はとうとう父の遺言を完成させたのだ。
しかし5ケ月後、石田東四郎が再び中国に帰り、南召県で暮らすことに
なり、裕福でもない孫保杰の家に戻るとは誰も想像していなかった。
老人は、石田小太郎の書いた手紙を持って再び孫保杰の家の戻った。
『孫保杰ご一家様
わたしは石田小太郎です。
兄が再び御地に帰り、またあなた方に負担をおかけするのは誠に心苦しく
思います。
あなた方は、兄を細かい所までお世話くださり、たび重なる病にも肉親に
まさる看護をしてくださり、兄は感謝しています。
私は兄の晩年を故国でと思いましたが、こちらの食事、住居、交通にも、
人にも馴れず、それに言葉も話せず心も通じません。ただ手振りで私たちは
兄の要求を探るだけで満足に満たしてやれません。
私たちは小さい時から長い間別れていて肉親の情も通じず、私は、兄の
悲しみを変えることができませんでした。
ただ兄の意思を尊重して御地で晩年を過ごさせたいのみです。
わたしもできる限りの援助をいたしますので、兄を再びお世話してくださる
ようお願いします。
石田小太郎』
この孫父子の純朴善良な心は、青い山。
綿々たる中日両国の深い情は、それを支えた大地と言うことができる。
(出典サイト運営者の寺内重夫氏には、氏の拾い集めた中国での実話や逸話に
ついて、個人的に広めて行きたい旨、ご了解を頂いています。)
出典:『故事報』(1994年 5)月第 9期所蔵
リンク:http://homepage1.nifty.com/kotobatokatachi/sub209.htm

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