今日俺が一人で近所の公園でリフティングをしてたら
2008/09/02 15:56 登録: えっちな名無しさん
339 :U-名無しさん :2005/04/22(金) 22:54:07 ID:HWkByy530
「だーかーらーっ!お前ら、なんでここにこんないるわけぇ?」
森本が大声を出すが、部屋にいる誰も聞いちゃいない。
誰からも反応がない、とわかった森本は俺のほうを睨む。
お前からもなんか言えよ、という表情だ。
俺は黙って肩をすくめる。俺が言ったって効果があるとも思えない。
普通のツインに男がひぃ・ふぅ・みぃ・・・、
数えてみたら俺たち含めて10人もいやがった。むさくるしいわけだ。
テレビにつないだプレステでウィイレやる者あり、それを眺める者もあり。
ひとりでPSPやってる奴もいれば、ただひたすら本を読む者もいる。
ここは一応、俺たちの部屋のはずなんだけどなぁ・・
メンバーの中でたぶん一番年齢が近いからということなのだろう、
俺と森本は同じ部屋に割り振られたのだが、
いつのまにかみんなの居場所になってしまっている。
別に部屋でひとりで何かしようということではないのだが、
みんなが自分たちの部屋でのんびりとしてるのを見ると、
森本がしゃくにさわるのも、わからないでもない。
もちろん森本も俺もそう真剣に腹を立てているわけではないのだが。
俺は窓から外を見る。広がっているのは見慣れない異国の町並み。
ああ、ほんとに来たんだなあ・・。俺は実感する。
ここ数ヶ月で俺はそれまでの人生からは考えられないほどいろんな経験をした。
そしていま、オランダにいる。2005ワールドユース。
それが俺たちがオランダに来た目的だ。
「また、モニカちゃんのこと、考えてたんだろー」
たむろしてる連中を叩き出すのをあきらめたらしい森本が、
今度は俺にちょっかいを出してきた。
俺は馬鹿は相手にしない、とばかりに無視する。
「しっかし、モニカちゃんのパイオツ、最高だよなあ・・
もうぷりぷりって感じで・・あんなのでこすられたら、俺、すぐイッチゃうよ」
軽く森本に蹴りを入れてやった。よく見ると森本の奴、
マジで目が妄想モードに入ってやがる。ほんとコイツ、アホだ。
ヴェルディがメディアに森本のインタビューをほとんど許可しないのは、
建前は森本の健全な成長のため、ということになってるが、
その実、どんなアホなことをしゃべるか怖くてしょうがないからだ、と
カレンがそっと教えてくれたのを思い出した。
最初は冗談だと思ってたが、一緒にいるとだんだん本当に思えてくる。
もっとも、森本の名誉のためにいえば、
この環境でその手の話が出ないほうがおかしい。
考えてみて欲しい、むさ苦しい男ばかり顔をつきあわせて、
やることは練習場と試合会場とホテルの往復だけ。
たまにはスタッフが気を使って、観光に連れ出したりしてくれるが、
別に自分で行きたい場所を決めてコースや日程を組むわけじゃない。
無理矢理気分転換するために、疲れる散歩に連れていかれる、と
いうのが選手の立場としての偽らざる実感だ。
サッカーをやっていないときは、
ひたすらホテルの中でミーティングか体の手入れか、あとはごろごろするだけ。
以前、日本代表のトルシエ前監督だったと思うが、
選手はテレビゲームばかりやっていて、サッカーの話をしないと怒っていたが、
他にやることがない、というのが、俺の正直な感想だった。
もちろん練習後や話の流れによっては、
ベッドの上で輪になってサッカーの話をすることもあるが、
一日中サッカーの話だけしていろ、というのも無理がある。
必然的にちょうどいまのように、集団でだらだらすることになってしまう。
その一方で、俺たちは闘っている集団だ。
端から見ればのんびりしてるように見えても、
ひとりとして集中の糸を完璧に切っているやつはいない。
消防士が仮眠しているようなものだ。寝ているようにみえても、
サイレンが鳴れば瞬時に戦闘モードに突入することができる。
そのためのエネルギーを各自が体の中に溜めこんでいる。
増して活気あふれた俺たちの年頃。こういう生活にはそれなりにストレスがある。
森本の下品な「振り」も、なかば集団の中での役割みたいなものだ。
それを俺も含めて、みんな承知している。
妄想モードに入っている森本は放っておいて、ぼんやりと窓の外の景色を見る。
だが、森本は俺のことを放っておいてくれない。
「おい、もうモニカちゃんとはお前やっちゃったのか?
あの巨乳をモミモミしちゃったりしたのか?」
アホか、お前。
「別に彼女でもなんでもねえもん。そんなわけねえだろ」
一応、この誤解してるバカにそこだけははっきりいっておく。
なーんだ、根性のない野郎だな、と
森本はさも俺が甲斐性なしであるかのように言いやがる。
「ああ、モニカちゃんと試合してみてえな。
おい、今度うちのサテライトと練習試合やろうぜ。
お前の彼女でないなら、俺がぜひお近づきになってだな・・・
俺のテクニック見せたらモニカちゃんももうすぐに俺の虜だな。
昼間は足のテクニック、夜は指のテクニックも見せちゃったりして」
俺はもう一度森本に、今度は少し強めに蹴りを入れる。
こいつのことだ、同じピッチに立ったら
絶対にセクハラまがいのディフェンスをするに違いない。
今後どんなことがあっても、こいつだけは
モニカに近づけないようにしようと俺は心で誓った。
「なーに、さわいでるんだよ」
俺と森本がじゃれていると、さっきまでベッドで横になって
雑誌を読んでいたカレンが起き上がっている。
「また森本が発情してるのか」とカレンが笑った。
代表との練習試合で宮本を見たときも、そのかっこよさにしびれたが、
ルックスだけとったらカレンのほうが上かもしれない。
一緒にいて近くでその顔を見ると、
しみじみと容姿ってやつについて考えさせられる。
俺や森本と同じ人間という種族だなんて思えないくらいだ。
カレンと付き合う女性はどんな気持ちなんだろう。
こんな整った顔が目の前にあったら、ほんとうに夢見心地だろう。
「悪かったな、誰かさんみたいなモテモテ野郎とは違うんだよ」
森本が言い返す。
「そういえば、カレンは彼女いたよな?」
森本の問いかけに、
「ん。いるよ」とカレンがさらりと返す。
その余裕が絵になっている。きっと俺や森本が一生手に入れることのない余裕だ。
なんとなく俺は森本と顔を見合わせる。
一瞬の沈黙の後、ああ、これだからモテ男くんは嫌だ、と森本は大げさに首を振った。
「大丈夫だよ、森本も彼女なんかすぐできるって」とまた別の声。
声のしたほうを向くと、平山さんが文庫本を片手にこっちを見ていた。
2年前のUAEワールドユース。そして去年のアテネオリンピック。
いつもひとつ上の世代に混じってメンバー表に名を連ねてきた、
日本の次代を担うセンターフォワード。
だが一緒にいる平山さんは、そんなことを感じさせないほど物腰が柔らかい。
このチームでも俺や森本の面倒を見ているのはなんだかんだいって平山さんだ。
きっとこの人は兄貴肌なんだという感じがする。
子どもと触れ合う先生みたいな仕事はきっと向いているに違いない。
「ていうか相太に言われても、あまり信憑性ないよ」
森本の突っ込みに思わず平山さんが苦笑いする。
森本はチームの誰でも呼び捨てだ。
俺はカレンはなんとなくフランクに呼び捨てにできるのだが、
平山さんにはつい「さん」がついてしまう。
別に二人に対する気持ちに違いがあるわけじゃなくて、なんとなく雰囲気なのだが。
「ていうか、相太は彼女できたの?」
さらに鋭さを増す森本の突っ込みに平山さんは苦笑いしながら首を横に振る。
だめじゃーん、と森本がベッドの上で後ろにひっくり返る。
その姿を見て平山さんとカレンが優しく笑う。
ガキ大将でやんちゃ坊主の面影が強い森本。
ルックスはもちろん立居振る舞いまで含めて典型的な「いい男」のカレン。
気配りにたけ、全体に目を配るいい兄貴分の平山さん。
これほどまでにキャラの違うフォワード陣も珍しいな、と思う。
プレイスタイルだってみんな違う。
高さの平山さんに、スピードのカレン、テクニックの森本。
だが、それがかえって三人のコンビネーションをよくしている。
中盤の選手にしてみると、これだけバラエティに富んだ
フォワードの組み合わせは使いがいがあるというものだ。
森本と平山さんは何か話を続けている。
俺はもう一度窓の外を見る。見慣れない景色。
モニカはいま、日本でどうしているだろう?
3月中旬、U-20日本代表のブラジル遠征のメンバーが発表された。
放課後の職員室、俺を呼び出した岩崎はほとんど表情を変えずに淡々と、
俺がメンバーに選ばれたことを伝えた。
激励の言葉でもあるかと思ったが、それだけだった。
岩崎らしいといえば岩崎らしい。
職員室を出た俺は、図書室のネットにつながってるパソコンで、
発表されたメンバーを調べてみた。
平山、森本、カレン、水本、本田、高柳。
代表やJリーグで活躍するそうそうたるメンバーにはさまって、
俺の名前はいかにも所在無さげにMFの欄の一番下に並んでいた。
事前にパスポートを持っているかの確認等、正式ではないものの打診が来ていたため、
青天の霹靂というような驚きはなかったが、
いざ名前がリストに記されると、実感が少しずつこみあげてきた。
だが、嬉しいという気持ちはほとんどなかった。
むしろ、ちゃんとできるだろうか、という不安のほうが大きかった。
他のメンバーの所属を見れば、Jのクラブ名がずらりと並ぶ。
森本を除けば、みんな俺より二、三学年は上の人ばかり。
その上、俺には何の実績もない。どう考えても俺だけが場違いだった。
なんとなくもやもやした気分のまま、俺はいつものように練習に出た。
タカシが声をかけてくる。
「よかったじゃん、正式発表だってな」
いつものように軽口を飛ばそうと思うのだが言葉が出てこない。
俺は黙ってうなづいた。
そんな俺の様子を怪訝に思ったのか、タカシが俺の顔をのぞきこむ。
「どうしたんだ、お前。プレッシャーでも感じちゃっているのか?」
返事のしようがなくて悩む。今、感じてるこれはプレッシャーなのだろうか?
「プレッシャーつうか・・俺が行って、なにかできるのかなあって。
そもそもなんで俺なんかわざわざ呼んだんだろうって。」
森本の名は既に広く知れ渡っているが、それ以外にも
ガンバの家長、ジェフの水本、グランパスの本田ら、
Jリーグでもレギュラーに近いポジションを確保しつつある選手が揃っている。
まさにこの年代のキラ星たちだ。
俺にとって彼らは、テレビに映し出される
スタジアムの中にいる選手、画面の向こう側にいる選手たちだ。
そんなやつらと同じピッチでサッカーをすることが俺はまだうまく想像できない。
なんとなく俺の気分を察したのか、タカシが真顔になって、
「まあ、そんな真剣に考えるなよ。
第一、お前がレギュラーで試合に出るって決まったわけじゃないんだぜ。
むしろ、どれくらい試しに呼んでみたというところだろ。
この合宿ではアピールして生き残ることだけ考えてりゃいいんだよ。
お前、そういうアピールが下手なところあるからな。
挑戦者の立場なんだから気楽にやってこい」
そうだよな、と俺は答える。レッズのジュニアユースにいたタカシは、
そういうセレクトされる場の経験も豊富だ。
タカシの言うことは100パーセント正しい。
テストしてみて期待通りの働きができなければ、次は呼ばれることはないだろう。
そう、俺は挑戦する立場。失うものは何もない。
そう自分に言い聞かせてみたが、胸のもやもやは晴れなかった。
いざ練習をはじめても、自分の動きの一つ一つが妙に気になる。
こんな動きで、こんなテクニックで、果たして代表で恥をかかずやっていけるのだろうか。
自分の動きの欠点がやたらと気になる。
いけない、いけないと首を振る。これじゃどんどん動きがばらばらになる。
全体練習が終わって、グループでの練習に切り替わったが、
俺は続ける気になれず、山口に断って抜けさせてもらった。
そのままグラウンドの端に腰掛けて、みんなの練習を見学する。
ひとりになったら思わずため息が出た。なんか煮え切らねえなー、俺って。
ぼんやりしていたら突然背後から声をかけられた。
「キブン、悪いノ?」
振り返るとモニカの心配そうな顔。
俺はモニカを見て無性にほっとした気持ちになる。
この前、女子代表の合宿にいってから、モニカの日本語はいっそう上達した。
共同生活の中で、同じ女性同士、いろいろと話も弾んだのだろう。
凝った言い回しをしなければ、日常会話なら
ほぼ問題なく意思の疎通ができるようになっていた。
驚くべき上達の速さといっていいだろう。
「いや、ちょっと休んでいただけ」
俺の言葉に、ほっとしたというようにモニカは笑顔を見せた。
そのまま俺の隣に座る。俺たちは並んで座って練習風景を見る格好になった。
外から見てると、みんながめきめきと力をつけているのがよくわかる。
モニカのおかげで強豪との練習試合も多くなり、いい経験が積めている。
あの代表との試合をきっかけに、校内での注目度も高くなった。
見られているという意識があるので、毎日の練習もだらけることなく、
充実した内容になっている。もちろんサボる奴なんていない。
それが練習試合でのいい内容につながり、
それが自信となりサッカーが楽しくなり、またやる気を引き出す。
すっかりうちのチームはいい循環に入っていた。
その輪の中心にいるのはいつもモニカだった。
レイナスから改称したレッズレディースや女子代表での練習を経て、
そのテクニックはますます幅を広げ、成長していた。
その一方、練習時には女ということを意識させない捌けた明るい性格。
そのくせ時に、はっと女らしい優しさを感じさせたりもする。
そうちょうど今みたいに。さりげない気配りを見せるのだ。
ボールを無心に蹴る部員を眺めながら、俺はしみじみと思う。
こいつのおかげで、俺たちはこんなにサッカーが楽しくできてるんだなあ・・
「ダイヒョウ、オメデトウ」
モニカも当然俺が代表に選ばれたことは知っている。
サンキュ、と礼を言う。けれどその後の言葉が出てこない。
俺は今、モニカに何を話したいんだろう。何を伝えたいんだろう。
俺とモニカの間に沈黙。
俺が言葉を探していると、
「ダイジョウブ、デキルよ」
俺はモニカのほうを振り向く。モニカがじっと俺を見ている。
モニカの金色の髪が白い頬に軽くかかっている。
俺はそのままモニカの顔から目が離せない。
モニカはゆっくりとかすかに微笑む。
呪いが解けるように、俺の中に優しい力が水のように満ちていく。
「デキルよ。ダイジョウブ」
モニカはさらに一言言うと、
ぽーんと俺の肩を叩いてみんなのほうに走っていった。
俺はそのまま座っている。さっきまでのもやもやはきれいに消し飛んでいた。
気づいていた。そう、俺は誰かに言って欲しかったのだ。
大丈夫だよ、と。君はできるよ、と。
代表のメンバーの中に入っても、君は立派にできるよ、と。
自分自身に自信が持てないから、誰かに自信をつけてもらいたかったのだ。
まったくガキとしかいいようがない。
どうしようもない甘えん坊だ。でもそれが今の俺だった。
モニカはそれをわかっていた。俺のだめな部分、弱い部分。
ありがとよ。俺はモニカに心の中で礼を言う。ほんとありがとう。
あとは俺一人で頑張ってみるよ。
ゆっくりと立ち上がる。モニカが去りがけに口にした言葉を小さく呟いてみる。
yes, you can.
そう、俺はやってみせる。
今日も日差しが強い。俺は照り返りがきつい芝生の上で空を見上げた。
今日は何度くらいになるんだろう。
多少慣れてはきたものの、まだ冬の寒さが残る日本から来た身体が、
このブラジルの陽気にちょっと戸惑っている。
スタジアムにはちらほらと人の姿が見える。
この後、トップチームの試合があるとのことで、
待ちきれずにグラウンドに来てしまった人たちなのだろうか。
もう今日のスタメン組はベンチに引き上げた。
メンバーに入らなかった者が、最後のシュート練習を行っている。
俺はここに何しに来たんだろうか?俺はふと自問する。
このブラジル遠征は6日で6試合が組まれているハードスケジュールだ。
相手のレベルにばらつきはあるものの、サンパウロを拠点とするチーム相手に
まるで道場破りのように移動しながら試合を繰り返す。
小熊監督はこの遠征をコンビネーションや
戦術を熟成させるチーム作りのためのものではなく、
誰を連れて行くかのセレクトの場として位置づけていると、
メディアにはっきり語っていた。
その言葉はほんとなのだろう。事実、ここまでの3戦、
怪我など個々の選手の状態を考慮しつつも、ほぼ均等に起用がされてきた。
だが俺に監督から声がかかることはなかった。
遠征メンバーでまだ試合に出ていないのは、
到着後、怪我が悪化した小林さんと俺の二人だけという状況だ。
監督は俺をテストするために呼んだんじゃないのか。
俺の中では疑問が大きくなっていたが、
そのことに対する監督からの説明は何もなかった。
いや、そもそもメンバーに選ばれてからいままで、小熊監督との会話はないに等しい。
小熊監督とはじめて会ったのは、この遠征で集合したときだ。
挨拶はしたが、それ以上の会話はない。
その後遠征がはじまってからもこの過密日程では、
練習も軽い試合に向けた調整程度のものしかなく、
メンバー同士の連携を深める練習時間などないに等しい。
俺自身も他のプレーヤーの癖などわかるはずもないし、
周りも俺がどういう選手なのか、俺をどうやって使えばいいのか見当もつかないだろう。
メディアはこの合宿メンバーに俺を選んだ意図について、
小熊監督に執拗に質問を繰り返したが、
監督は必要だから呼んだ、とのコメントを繰り返すばかりだった。
俺は監督がなにを考えているのかわからない。
この状況で監督は俺にいったい何を期待しているんだ?
日差しがじりじりと俺の焦りを焼いていく。
無性に苛々が高まり、俺はそれを右足ごとボールにぶつける。
シュートはゴールバーの遙か上を飛んでいった。
「ヘイヘイ、枠入れてこうぜー」森本が近くで声をかける。
悪気はないんだろうが、その声がどうもしゃくにさわる。
同い年で本来なら一番とっつきやすいはずの存在なのだが、
どうもこいつとは相性が良くないようだ。
思わずむっとして睨み返した俺の視線など気にもとめずに、
森本が足を振り抜いた。きれいな弾道のシュートがサイドネットに突き刺さる。
そこで練習終了の合図。俺は足元のボールをぽーんとタッチラインへ蹴り出した。
また笛が鳴った。ボールがゴールの中で転がっている。
喜ぶ相手選手たちと膝に手をついてうなだれる日本の選手たち。
4点目。時間はようやく30分が過ぎるか、というところか。
試合は一方的なものになっていた。
始まってすぐ、コーナーのこぼれ玉を押し込まれて先制されると、
相手の怒涛のような波状攻撃に耐え切れない。
相次いで失点を重ね、そして今のゴールで0−4。
見に来ている相手チームのサポーターはお祭り騒ぎだ。
ベンチの雰囲気も重い。隣にいる平山さんが、
「ブラジルの選手はこういうラッシュがうまいんだよな」と呟く。
前回のワールドユース準々決勝を思い出しているのだろうか。
あのときも、ブラジルに前半で4点を決められるワンサイドゲームだった。
最後、平山さんが1点を返したが結局1−5の完敗。
そのときのことを思い出しているのだろうか。
この遠征を通じて、ベンチから見ていてもやはりブラジルの選手はうまい。
それは認めるが、だが同時に技術だけなら
日本の選手だってそこそこのレベルに達しているというのも実感だった。
ここまで一方的に叩きのめされるほどの違いはないはずだ。
ならばなぜここまで差がついてしまうのか。
何が違うんだろう。俺は考える。
流れが自分たちに向いたとき、
言い替えるなら相手がひるんだとき、相手が背中を見せたとき。
その時、氾濫する川の流れのごとく、一気呵成に相手を押し流すラッシュする力。
一撃で相手の息の根を確実に止めようとする意思。
ゲームのコントロールに関するチーム全体の意思統一が完璧になされている。
ここは行くぞ、となったらチームの一人残らず、相手に襲いかかっていく。
獲物は逃がさない、まさに猛獣を思わせる迫力。
相手に一日の長があるとすればそこだった。
見ているとはがゆい。俺なんかよりはるかに上手い選手たちが、
何もできずにピッチに立ちすくんでいる。恐れおののいている。
もっとできるはずなのに、すっかりびびってしまっている。
くやしい。俺も試合に出たい。痛切に俺はそう思った。
このメンバーの中で一番下手な俺が試合に出ても、
できることはたかが知れているかもしれない。
それでも、たとえドブ鼠の抵抗だとしても、
せめて相手の喉笛に食いついてやりたい。あいつらをびびらせてやりたい。
お前の実力でおこがましいと言われようが、とにかくピッチに立ちたかった。
むざむざ喰われるだけの羊じゃないことを相手にわからせたかった。
だけど、今の俺はチームの中で実績も評価も持たない一番格下の選手。
俺とピッチの距離は近いように見えて遠い。
今日は、客を入れたスタジアムでの試合ということもあり、
俺たちは熱い太陽光線によく映える青の代表ユニフォームを着ている。
年代別代表とはいえ、はじめて通す青のユニフォームの袖。
いざ着用して自分の胸についているやたがらすのエンブレムを見たときは、
言葉に出来ない喜びがこみあげてきたが、ベンチに座っていると
そんなさっきの喜びはどこかに消し飛んでしまう。
ユニフォームは戦う人間が着る服。今の俺に戦いの場は与えられるのか。
俺はふと空を見上げる。日本の夏のそれよりも強い太陽の光。
モニカ。
俺はこのブラジルで何を見れば、何をつかめばいいんだ?
そのとき、監督とあわただしく打ち合わせていた滝沢コーチが歩いてきた。
うちの学校の岩崎と同い年で、高校選手権で活躍したという話だ。
そのときの話を聞いてみたいと思ってるのだが、まだ機会に恵まれていない。
「平山、西川、樋口。後半の頭から行くぞ。準備しておけ」
体に電撃が走る。ついに来た。ピッチにたてる。
平山さんと西川さんが短く、はい、という返事。
俺から返事がないので滝沢コーチが俺のほうをいぶかしげな顔で見る。
はい、といそいで返事した声が少しうわずっている。
この状況で俺が起用されるなんていったいどういう意味だ?
そんな疑問も心の中に浮かぶが、いまはそれを考えている時ではない。
「行こう」平山さんの声。平山さんがすっくと立ち上がり、ベンチの外へ歩いていく。
俺は急いでその後ろをついていく。
平山さんと西川さんの二人にならって軽く走る。
さっき試合前の練習でひととおり動かしてあるし、
この陽気ならば大事な代表デビュー戦で体が切れてこない心配はなさそうだ。
ピッチに出たときの自分のプレーをイメージしながらアップする。
その作業に集中していると、前半終了の笛が鳴った。
1点こそ返したものの、結局1−4のスコアで前半は終了だ。
歩いてくる選手の表情が対照的だ。
屈辱とやりきれなさで下を向いて戻ってくる日本の選手たち。
逆に反対側のポンチプレッタの選手たちは笑顔、笑顔。
何を話しているかわかるわけもないが、どうせ
「今日は簡単な試合になりそうだな」とでも思っているのだろう。
いまのうちに笑ってろ、と俺は心の中でつぶやく。
気を抜いてくれれば抜いてくれるほどありがたい。
後半、必ず一泡吹かせてやる。
審判の確認が終わったのを見届けて俺はゆっくりとピッチに入る。
芝が薄い感じがする。これじゃボールはよく跳ねて、スピードも上がるだろう。
システムは前半と同じ3−5−2のままだ。
トップ下を務めていた中山さんの後に俺が入る。
前の二枚は辻尾さんと新しく入った平山さん。
俺はもう一度自陣をぐるりと見渡して、メンバーを確認する。
DFにジェフの水本さん、中盤にはセレッソの苔口さんら、
Jでも定位置を確保しつつある顔が見える。
そうそうたる顔ぶれの中、この俺がトップ下として指令塔を務める。
なかなかわくわくできる話じゃないか。
後半開始の笛。
俺は相手の出方をうかがいながらボールを回す。
ロッカールームで監督から修正は入っているのだが、
やはり前半のショックが抜けていないらしく、
うちのボランチとDF陣の腰が完全に引けてしまっている。
風が草木を揺らす音におびえるかのように、理由もなくプレーが消極的だ。
どうするか。俺は判断に迷う。
が、迷ってる暇を与えてくれるほど、サッカーのピッチというのは平和な場所ではない。
相手のドリブル。見ていてそんなにキレがあるとも思えないのだが、
なまじ守る側の腰が引けているだけに、やすやすと突破されてしまう。
カバーに入った水本さんが強引に止めるしかなくなってファール。
前半の悪い流れを切れていない感じだ。
ゴールラインから少し入ったところでのFK。嫌な位置のセットプレイだ。
立ち上がりということもあって、辻尾さんだけ残して、全員エリア近辺まで下がる。
平山さんも戻ってきて、ヘディングではじき返す構えだ。
相手が蹴る。俺や平山さんの頭上を越えてファーに飛ぶボール。
ボールの飛んだ方向を見ると、先制点をとった11番のマークがはずれ気味だ。
DFがなんとか防ごうとするが、体勢を作った段階で負けていては話にならない。
スピードのあるヘディングシュートが、ゴールネットに突き刺さった。
5点目。しかも後半開始早々の失点。
DFのメンバーは顔面蒼白で言葉もでない様子だ。
俺は黙ってボールを拾い上げた。この雰囲気は声でなんとかなるレベルではない。
プレーで、俺たちのペースに引き込むしかない。
どうせ次の出番があるかどうかわからない立場、
たとえ後半途中でガス欠になっても構わないから、
自分のやりたいようにやらせてもらおうと心に決める。
どうせ戦術上の指示なんて受けてないんだし。
試合再開のキックオフ。
下げられたボールを前線へけり込む。辻尾さんが落下点めがけて走るが、
それより先に相手の中盤がキープ、ワンタッチで回す。
平山さんのチェック。それを交わしてボールは左サイドへ。
うちの両サイドが少し引き気味になっている分、スペースがある。
「苔口、詰めろ、詰めろ!」俺が大声で指示を出す。
苔口さんがちらっと俺を睨むが、ボールを持ってる相手にチェックに行く。
余裕綽々の相手は苔口さんを相手にせず、いったんボールを横パス。
そこは俺の番だ。懸命にダッシュして相手との間合いを詰める。
気づいた相手はセーフティにいったん、DFにボールを下げる。
俺はさらにそのボールを追う。敵陣から鉄砲玉のように飛び出してきた俺を、
相手のディフェンダーがカミカゼでも見たかのように面食らった顔でみる。
相手の横パス。俺はそれも追いかける。
平山さんも辻尾さんも完全に追い越している。
誰かが俺の名前を呼んだ気がするが、無視した。
プレスの連動性や、約束事なんて知ったこっちゃない。
どうせ戦術練習なんてしていない身だ。ただボールを追う。
無抵抗のまま、殺られるなんてごめんだ。
相手の軽い切りかえしに俺はバランスを崩す。
負けるもんか。くらいつけ。俺は後ろから相手にまとわりつく。
代表との試合でモニカに怒鳴られたとき。
相手に背中を見せたことを怒られたあの時から、
俺はピッチに立ったら逃げちゃいけない、とわかったんだ。
ハーフウェーラインからボールが入ってくれば、
庭を守る番犬よろしくひたすら追いかけ続ける。
さすがにサッカーの本場、ブラジルの選手。ボールは奪えない。
だが、それを繰り返しているうちに、
他のメンバーも積極的に間合いを詰めるようになった。
さっきまで仕掛けられるのを恐れて、間隔を取っていたのが、
積極的に相手の足元に足を入れるようになってきた。
すると相手も簡単に前を向けなくなり、縦のパスが出せなくなる。
必然的に横パスやバックパスが多くなる。
ボールキープこそできないが、試合の流れが幾分落ち着いてきた。
この調子だ。もう少しだ。
相手の中盤の選手にくさびのパスが入る。
すかさず間合いを詰める。後ろに戻すか、と思ったらステップを踏んで抜きにきた。
後ろにばかりパスを出すのはもう飽きた、といわんばかりの動き。
迫ってきた俺を簡単にターンして交わそうとする。
だが予想していたとおりプレーが軽い。大量点で微妙に相手の集中も切れている。
ターンの方向を読み切って足を入れる。
すぱーんときれいにボールだけが足に引っかかった。
しまった、という相手の動揺が空気を伝わってくる。
瞬時にドリブル開始。ここは一気にカウンターだ。
ボールを奪われると思ってなかった相手は、
知らず知らずのうちに前がかりになっている。
きびすを返して戻ろうとするが、油断していた分、こっちのほうが早い。
前には敵のセンターバックが二人。
少し上がりすぎていた相手のサイドバックが俺と併走する格好だ。
味方は平山さんと辻尾さんの二人。
平山さんは中央で縦に走っている。辻尾さんはやや右サイドに開き気味。
サイドの苔口さんはまだ俺より後ろだ。どうする?
俺は自分で行くことに決める。スペースのある左サイドへ全力で進む。
一気にライン際までドリブルで持っていく。
追いついたサイドバックが中を切って俺を止めに来る。
目だけ動かしてゴール前を確認、相手選手も戻ってきているが、
その中でもぽつんと高い平山さんの頭が見える。
なるほど、ほんとにあの身長は放り込みやすい。
ライン際、単純にクロスをあげると見せかけてキックフェイント。
すかさず左足でボールを中に戻して、
右足でクロスをあげようとしたが相手がついてくる。
ならばもう一度だ。今度はさっきと逆に右足でボールをライン際へ押し出して左足を振る。
いける、と思ったボールはサイドバックが必死に伸ばした足に弾かれてラインを割った。
二度のフェイントで振り切った感触はあったのに、足が伸びてくる。
これがよくいう、足が思ったよりも伸びてくる、日本でやってるときとの感覚の違いか。
だがボールはこっちのコーナーキック。まだうちのボールだ。水野さんが走っていく。
このメンバーでのセットプレイの練習なんて、まったくしていない。
平山さんがファーにポジションどり。辻尾さんはだいたいエリア中央。
誰かから指示が来るかと思ったが、声がかからなかったので勝手にエリア中央外で待つ。
水野さんのコーナーキック。助走と同時に目の前で選手たちが、
ゴールできるポジションを求めて動きだす。
平山さんがファーからゴール中央へDFをふりほどきながら走る。
水野さんが巻きながらその平山さんの頭にどんぴしゃであわせるボール。
しかし、DFにおされて平山さんがほんのわずかバランスを崩す。
頭の少し上をボールは通り抜け、平山さんが空けたファーのスペースに
移動していた俺の目の前に、こんにちは、と挨拶しながら落ちてきた。
これは決める。
俺は何の躊躇もなく、ワンバウンドしたボールを右足に全身の力を集中させてぶっ叩く。
足の甲に残るジャストミートの感触。
ボールはあっと言う間にゴールへ突き刺さった。
審判の笛。俺は予想外の失点に白けた雰囲気が漂う相手チームを尻目に、
素早くゴールネットからボールを回収する。
まだまだ試合は終わってないんだぜ。悪いけどもう少しつきあってもらうよ。
平山さんがテレビで見慣れたあの笑顔で祝福してくれる。
他のメンバーも集まってきて喜びをわかちあう。俺の回りに輪ができる。
大丈夫、チームのムードがよくなってきた。前半の雰囲気とは違う。
後半は互角にやれるぞ、という気持ちがみんなから伝わってくる。
おこがましいが自分のプレーが流れを変えた、という実感があった。
そこで俺は唐突にモニカのことを思い出した。
この前の代表戦、俺たちは無邪気にモニカのために、とハッスルしていたが、
そんな俺たちの姿をモニカはどんな気持ちで見ていたんだろう。
モニカ自身は内心では、不安な気持ちでいたんじゃないだろうか。
いくら類い希なテクニックを持っていても、結局は女の子。しかも相手は代表だ。
自分のプレーが通用するかどうか、という不安がまったくなかったはずがない。
しかも俺たちは無責任にモニカなら通用するだろうと期待している。
そういう環境はモニカにとって精神的な負担のかかる状況じゃなかっただろうか。
でも、モニカはそんな不安は、これっぽっちも表に出さなかった。
余裕綽々の顔で、代表をからかってみせた。
そんなモニカの姿を見て、モニカが通用する姿を見て、
俺たちは勇気づけられていたんじゃないか?
モニカのプレーを見て安心して、自分たちを信じてサッカーができたんじゃないか?
だから、あれだけのスコアを残すことができたんじゃないのか。
いま、自分が同じ環境に置かれて、はじめてモニカの気持ちがわかった気がする。
モニカは俺たちのために、プレーでチームを鼓舞し続けてくれた。
この前半で大量失点してしまった試合、
俺がこの状況でやらなければいけないのは、
この前の練習試合でモニカが俺たちにしてくれたことと同じだ。
闘う姿勢を見せ続ける。自信を持ってプレーする。それがチームに力を与える。
結局試合は4−6で終わった。
その後は拮抗した試合になり、相手に追加点も奪われたが、
俺たちも、なんとか2点を返すことができた。
もちろん負けは負けだ。6点とられた事実は重い。
だが、俺自身は試合の内容に満足していた。
俺はびびらなかった。今日の俺は逃げなかった。
「いいシュートだったね」
ベンチに引き上げる途中で、平山さんが俺の頭をなでる。
俺は笑顔で礼を言う。
代表に選ばれてからはじめて、素直に笑うことができた気がした。
上を見上げれば広がるブラジルの空。
モニカがここにいてくれたらなあ。
でも、モニカはオーストラリア遠征の真っ最中だ。
ふたりを隔てる距離はとてつもなく遠い。
そばにいてくれたなら、
今日の試合について自慢できたのに。いろいろ話せたのに。
きっとモニカならいつもの笑顔で喜んでくれる。
モニカ、とりあえず試合に出たよ。点もとったぜ。
モニカがそばにいない寂しさを少し感じながら、
ブラジルの空の下、俺は心の中でモニカに語りかけた。
中盤の選手からパスが入る。右足でトラップ、すばやくターン。
エリアまでまだちょっと距離がある位置。
前こそ向けたが、タカシがすぐそこまでチェックにきている。
随分下がってディフェンスに来ている。
ボールを両足の間において、タカシの呼吸を計る。
ボールを動かしながら、肩で右、左と細かくフェイントを入れる。
不意にタカシのバランスが崩れたのが気配でわかる。
あっさりとつられたのに少し驚きながら、
俺が間髪いれずにボールを動かすと、タカシはついてこれない。
俺の前に視野が広がる。
1年生のフォワードがディフェンスラインの裏に動き出している。
落ち着いて浮き球のラストパス。
1年生がそれをしっかりとヘディングでゴールに突き刺した。
「なんかお前うまくなったな」
紅白戦が終わると、タカシが声をかけてきた。
俺はなんと返事していいか少し迷う。
いつもだったら「ばーか、俺の実力にようやく気づいたか」ぐらいの
軽口はさらりと言いかえせるのに。
まだ俺の体内にはさっきのフェイントの感触が残っていた。
タカシを簡単にフェイントで置き去りにした感触。
今までなかったことだった。タカシは決定力が売りのフォワードだが、
ジュニアユースで揉まれていただけあって、基本的な技術はしっかりしている。
そのタカシを抜くというのは相当骨が折れる仕事だったはずだった。
だが今のプレーに限らず、最近、部活でプレーしてて
楽だな、と感じることが多くなった。
余裕を持って前を向ける。相手のプレッシャーをいなすことができる。
しっかりと周囲を見てパスを出すことができる。
判断のスピードがまちがいなく俺は早くなっている。
「やっぱ代表でやってくると違うのかなあ」
俺が何も言わないでいると、タカシがぼそりと呟いた。
タカシの言うとおり、代表に参加するようになって、
俺は技術面も含めてレベルアップしたという実感があった。
ちらりと横を盗み見た俺は、
タカシがなんともいえない複雑そうな表情をしているのに気づいた。
見てはいけないものを見てしまったような気分になる。
ブラジル遠征では、ポンチプレッタとの試合の後、
遠征最終日のコリンチャンスとの試合にも、
後半からの途中出場だが、30分ほどゲームに出してもらえた。
その試合では特に可もなく不可もなくというデキで、
ポンチプレッタとの試合で点こそとったものの、
そうそうたる代表候補の顔ぶれを考えると、
その後も呼んでもらえるかは微妙だ、と自分でも思っていた。
だが、四月の国内合宿のメンバー発表でも、
変わらず俺の名前はMFの一番下におさまっていた。
自分が監督からどういう評価をされているかは結局わからないが、
呼ばれている以上なにがしかの価値を見出しているのだろう。
四月の合宿では、梶山さんをはじめ怪我人が出たことや、
Jリーグの試合を優先して召集できなかった選手もいたためか、
最終日に行われたジェフのトップチームとの試合ではボランチの位置で先発した。
メンバーに俺の名前が呼ばれたとき、
周囲のみんなが息を呑むのがわかったが、一番驚いているのは俺自身だった。
ジェフとの試合はほんとうに楽しかった。
なんていったって、ベンチにはサッカーファンの絶大な支持を集める
あの名将オシム監督がどっかりと座っているのだ。
そして俺がピッチで向き合うのは紛れもないJ1クラブのトップチーム。
こんな経験、誰にだってできるものではない。
何ヶ月か前の俺からしてみれば、文字どおり夢のような話だ。
この試合ではボランチのポジションで、
試合前に小熊監督から「守備重視で行け」といわれたこともあり、
ボールを奪って散らす、人に預けるのが仕事のほとんどという90分間だったが、
俺にとっては楽しい時間だった。
早いスピードのサイクルの中に身を置いている自分がとても心地よかった。
相変わらず、監督から細かい指示はなかったし、
自分がワールドユースへのメンバー争いで
どのような評価をされているかはわからなかったが、
俺にとってはそれは今は二の次のことだった。
「次は合宿いつあるんだ?」
タカシが話題を変えた。俺は内心ほっとする。
「5月の上旬。選ばれれば、だけどな」
「選ばれそうなのか?」
わかんね、と首を振る。
ネットで見た四月の合宿に関する小熊の俺へのコメントは、
「競争に加わる存在だと思っている」の一言だけだった。
とりようによっては、ダメを出されてないだけいいともいえるが、
Jリーガーがずらりとそろったライバルの名前を考えてみると厳しい気もしてくる。
「サッカーはクラブ名や学校名でやるもんじゃないぜ。
自分がどれだけできるかだ」
俺の気持ちを読み取ったみたいにタカシが言う。
落ち着いて考えればその通りだ。相手がJクラブにいようが、
結局は個人の能力が選ばれるかどうかの基準だ。
タカシはジュニアユースでやってきたせいか、
そのへんの競争に対する考え方というのはしっかりしている。
この前もそうだったが、そんなタカシの言葉は俺にとって結構助けになっている。
「しかしなー、モニカちゃんがいないとほんとさみしいよなー」
さっきの微妙な表情は消えて、もういつものタカシに戻っている。
今日のモニカはレッズレディースの練習に行くため、部活のほうは休みだ。
最近のモニカは大忙しだ。
三月中旬のJヴィレッジの合宿から帰ると、下旬にはオーストラリア遠征。
俺がちょうどブラジルでポンチプレッタとの試合にでた26日、
モニカもオーストラリアで女子日本代表としてのデビュー戦を飾っていた。
不思議な縁ともいえた。
その試合でモニカは2得点を挙げる文句なしのデビュー。チームも2−0で勝った。
モニカ人気は凄いもので、さすがに生中継とはいかなかったが、
試合の模様は深夜にちゃんと録画放送されたらしい。
五月のニュージーランド代表との試合に呼ばれるのも確実だ。
代表とレッズレディース、それにトレセン関係の話も入る。
最近は俺も代表の活動が入ってきたので、チームを留守にすることが増えてきた。
すれ違いばかりで、モニカとゆっくり顔をあわせることが最近ない。
あわただしさの中で忘れていたけど、よく考えると寂しい話だ。
「ま、チームのほうはよろしく頼んだぜ」とタカシに言うと、
「力をつけたお前が合流すれば、今年はマジで冬の選手権に行けるからな。
お前も代表でしっかりやってこいよ」と真顔で返された。
既にはじまってる公式戦では、フォワードのタカシの大爆発で
うちの学校は俺がいなくても快進撃を続けている。
タカシが真剣に冬を見据えているのがひしひしと伝わってくる。
「ああ。頑張るよ。選ばれたら、の話だけどな」というと、
タカシが、大丈夫さ、お前なら、とにっこり笑った。
「意外と人はいってるな」タカシが周囲を見渡して呟いた。
「アテネ効果もあるし、俺たちみたいにタダの人も多いしな。
といっても、一番大きいのはやはりモニカ効果なんだろうな」
俺が応じる。いま、俺たちがいるのは西が丘サッカー場。
文字どおりの五月晴れ。
今日はこれから女子日本代表のニュージーランド戦だ。
観客席は、ほぼ満席といっていいぐらいの混雑だ。
協会加盟選手はタダで見ることができるので、
うちの部も予定がないやつは全員来ているが、
まとまっては座れないのでいくつかのグループに分かれて、ちらばっている。
ピッチではモニカが試合前の練習をしている。
ビブスを見る限り、今日も先発のようだ。
いつも同じグラウンドに立っているとわからないけれど、
こうやって離れた観客席から見ていると、
モニカの動きは女子日本代表の中でも群を抜いている。
なにげないステップやボールの扱い、シュートに行く身のこなし。
「やっぱモニカちゃん、うめえよなー」
タカシが隣でため息を漏らす。
そのため息が届いたわけじゃないんだろうが、
練習していたモニカが俺たちのグループに気づいた。
なんのてらいもなく、笑顔で両手を上げて大きく振る。
うちのバカどもが大喜びで一斉に立ち上がり、手を振り返した。
モニカはそれを見ておかしそうに笑う。
少しすると練習の時間が終わり、モニカも他のメンバーと一緒に
ロッカーへ引きあげていった。
もうすっかりチームにもなじんだのだろう、歩きながらみんなと楽しそうに話している。
やがて選手紹介のアナウンスがはじまる。
GKはアテネでもゴールを守りし、今年は海外へ活躍の場を求めた山郷。
その可憐な容姿で絶大な人気を誇る川上の名も呼ばれる。
澤。誰もが認めるなでしこジャパンの屋台骨だ。
選手の名前が呼ばれるたびにスタンドが盛り上がりを高めてゆく。
そしてモニカ。モニカの名前がコールされると
スタンドは一番の盛り上がりとなった。
男子代表相手にフリーキックをぶち込んだ二月の試合はもはや伝説だ。
この試合が、日本の観衆の前でのデビュー戦となる。
新しいヒロインを目の前で見る興奮に、
客が熱狂的に盛り上がるのも無理はなかった。
発表されたメンバーを見る限り、今日のモニカは4−4−2の
中盤の4の真ん中を澤と二人で努めるらしい。
上島監督は澤とモニカのダブル司令塔というやや攻撃にシフトした布陣を、
これからのなでしこジャパンの基本に考えているようだ。
試合開始の笛が鳴る。
相手のニュージーランドはFIFAランク20位。
数字上は12位の日本のほうが格上となるが、
FIFAランクの誤差を考えるとほぼ互角の試合になるか、という
俺の予想はあっさりと外れた。
開始10分、敵陣で澤が倒されてファール。
モニカの蹴ったフリーキックはゴール前の密集から、
頭ひとつ抜け出した荒川のボンバーヘッドにどんぴしゃりと合った。
ヘディングシュートがゴールに吸い込まれ、あっさりと先制。
さらに25分、モニカがサイドへドリブルで持ち込み、
ゴールライン際の狭いスペースをディフェンダーを翻弄して突破。
キーパーを前に釣りだしたところで、余裕を持ってマイナスのパス。
走りこんできた澤がキーパーのいないゴールへ確実に蹴りこんだ。
さらに40分、川上のロングボールを受けたモニカが、
ディフェンダーの頭上を抜く鮮やかな浮き玉のトラップで裏へ抜け出す。
カバーに来た相手のセンターバックをひきつけてからフリーの荒川へラストパス。
荒川が飛び出したゴールキーパーの脇を抜いてシュートを決め、
前半で3−0。一方的な展開になった。
流れは後半も変わらない。しっかりとボールを持てるモニカを中心に、
なでしこジャパンは圧倒的なボールポゼッションでゲームを支配。
落ち着いたパス回しに、じれたニュージーランドはたまらずゴール前でファール。
ゴールほぼ正面、エリアから2,3メートル離れたところ。
観客席から一斉に歓声が湧き上がる。
モニカが歓声の意味はわかってるといわんばかりに、堂々たるそぶりでボールをセット。
助走からモニカの左足が振りぬかれる。
ボールは相手選手の壁を越え、落ちながら左に曲がり、
相手のゴール左に吸い込まれる。相手キーパーは呆然とボールを見送るだけだ。
相手選手たちはありえないものを見たという表情で立ち尽くしている。
再びピッチ上では日本の選手の喜びの輪ができる。その中心にいるのはモニカだ。
「信じられねえ・・逆にカーブかけたんか・・?」
タカシがあきれたようにつぶやく。
右足で蹴って左に曲げる、左で蹴って右に曲げるのはたやすい。
だが、地面においてあるボールを左足で蹴って左に曲げる、
しかも壁を越えて落としながら曲げるというのは、非常に高度な技術が必要だ。
プロでフリーキックの名手といわれる選手でも、簡単に蹴れる代物ではない。
まったくとんでもないやつだ、なかなか追いつけないわ・・・
俺は、心の中でそっと苦笑いしながら荷物を持って立ち上がる。
「どうした?もういくんか?」
タカシが声をかけてくる。
「ああ。試合のほうはもう決まっただろう。
試合終了後だと混みそうだから、余裕持って出るよ」
俺は自分の荷物をまとめる。そばにいた下級生が手伝ってくれる。
「終了後の挨拶だってあるのに。当分、モニカちゃんと会えないんだろ?お前。
なにか話していけよ、モニカちゃんに冷たいぞ」
タカシは少し不満そうだ。
明日から代表の強化合宿がはじまる。今日中に宿舎に集合しなければならない。
合宿中、壮行試合をこなしながら、合宿は5月いっぱいまで続き、
そのまま俺たちはワールドユースの行われるオランダへ出発する。
現地で最終調整を行って、6月10日にいよいよ本番の
グループリーグの初戦、オランダとの試合に臨むことになる。
一ヶ月近く、勝ちあがれたならばもっと長い間、学校のみんなとは会えなくなる。
タカシの憎らしい顔もしばらく見納めだ。
モニカもこの後、そのままロシア遠征へ出かけることになっている。
二人ともいないのはタカシにしてみればずいぶんさみしいかもしれない。
「大丈夫だよ、俺とモニカは心でふかーくつながっているからな」
「ぬかせ、モニカちゃんとつながってるのは俺のほうだ」
とタカシは笑って言い返した後で、真顔に戻って
「おい、あんな舞台誰でも経験できるわけじゃないんだからな。
しっかり気合入れて頑張ってこいよ」
わかってるよ、と俺はタカシの顔を見ながら答える。
こいつが友達でよかった。俺は心底そう思う。
タカシもゆっくりもう一度うなずき返した。
周りに座ってた部のやつらからも口々に、頑張ってこいよ、応援してるぞ、
という声がかかる。俺は一つ一つに返事しながら、
いい仲間を持ったことに感謝していた。
試合を見ている周りの客に迷惑がかからないうちに引き上げることにする。
通路を抜けスタンドの出口まで来たところでピッチを振り返る。
もちろん試合はまだ続いている。ピッチを走るモニカの姿が見える。
その走る姿がなぜか妙に遠いものに見えてしまう。
モニカ、行ってくるぜ。
会えないのはちょっと寂しいけど、頑張ってくるぜ。
俺はズボンのポケットに手を入れて、大事なものがちゃんと入っているのを確かめる。
指の感触が昨日の朝のことを思い出させた。
いつもの朝の日課。
公園で一人でやるリフティング練習。
ボールを蹴り上げる、頭を経由して首の後ろでホールド。
そのまま背中づたいに落として右足のヒールで蹴り上げる・・
はずだったが、背中を転がったボールは足にきっちりあたらず、
見当違いの方向に転がっていった。
あと少しなんだけどなあ。モニカの教えてくれたこのトリック。
突然拍手が聞こえる。びっくりして音のしたほうを振り向くと、
モニカが笑いながら立っていた。
「モニカ!?」俺は驚く。「どうしてここに?」
モニカは明日の親善試合に備えて今日から代表に合流する。
今日は学校は公休扱いで休むはずだ。
モニカが俺の背骨をさわる。どうやらトリックのコツを教えてくれるらしい。
俺が首にホールドした状態から体を起こし、ボールを離す。
モニカが俺の背中で手に持ったボールを動かして、
どういう感じでボールを背後に落とせばいいのか、感覚をつかませてくれる。
2、3回モニカのガイド付きでやった後、実際に試してみる。
さっき背筋に伝わったボールの感触を忘れないように意識しながら、首でホールド。
起き上がりながらボールを離す。ボールが背中を伝って落ちていく。
そこを右足のヒールで軽くキック。ボールがかかとに当たる感触。
狙ったよりは大きくなったが、ボールは見事に弧を描いて俺の正面に落ちてきた。
俺は急いで足を伸ばしてそのボールをトラップする。
「very good!」モニカの拍手。ようやくできた。
俺たちはそのままベンチに並んで腰掛けて、話しはじめた。
「お前、試合のほうは大丈夫なのか?」
モニカが優しく笑って手を出した。その手に何かが握られている。
「明日カラ、当分会えないから渡シニ来たノ」
手のひらの上に袋に入ったお守りがのっている。
「プレゼント。ワールドユースがんばっテネ」
不思議な気持ちで胸がいっぱいになる。俺はそのお守りを手にとる。
暖かい力が自分の中に流れ込んでくるような気がする。
「ケガしないで、がんばっテネ」
「モニカも明日は頑張れよ」こういうときに気の利いたことがいえない。
俺はU-20、モニカはなでしこジャパンにレッズレディース。
最近はどちらかがいない、ということが多くて、
モニカと顔をあわせる時間も随分少なくなっている。
俺は久しぶりにゆっくりとモニカと話ができることが嬉しかった。
神様がくれた初夏の朝のプレゼント。
モニカが話す。なでしこジャパンの練習のこと、チームメートのこと。
同じように俺はU-20の代表の話をする。
身振り手振りを入れながら、サッカーファンの間ではすっかり有名な
小熊監督の試合中のパフォーマンスの真似をする。
モニカは大きく口を開けて笑っている。
もうプロでやってるうまいチームメートのこと。ブラジルで対戦した相手のこと。
よく考えてみれば、モニカに話したいことがたくさんあった。
代表という新しい世界で新しいものに触れ、何かを感じるたび、
自分の見たもの、自分の感じたことを、
俺はモニカに伝えたいといつも思っていた。
きっとモニカなら俺が感じた様々な気持ちを、
一緒にわかちあって、わかってくれるような気がしていた。
「おい、モニカ。これ、交通安全のお守りじゃん」
もらったお守りをよく見た俺は思わず声をあげた。
よく見ると大きく「交通安全」と書いてある。
「コウツウアンゼン?」モニカは意味がわからないようだ。
「ううーんと、traffic accidentでいいのか?」
何度か言葉をやり取りして、ようやくモニカにも意味が通じたようだ。
お守りにもいろんな種類があって、
これは主に自動車やバイクに乗る人が事故にあわないように、
身につけるお守りだということを、さらに言葉を費やして説明する。
「ゴメンナサイ。マチガエタ」とモニカがしょげている。
「オーケー、オーケー。これがあればきっと飛行機に乗っても大丈夫だよ」
モニカのしょげっぷりに急いでフォローしたものの、
モニカはほんとうに落ち込んでいる様子だ。
「マダ、日本のこと、ヨクワカラナイ。モット勉強スル」
それでいいんだ、と俺は元気づける。
モニカにはこれからまだまだ時間がある。これからどんどん日本を知ればいい。
俺だって何も知らないガキだけど、日本のことなら少しは教えることができる。
「そうだ、モニカ。俺がワールドユースから帰ってきたら、
一緒に遊びに行こう。いろんなとこ連れてってやるよ」
さりげなくいったつもりが、どきどきしてる。
俺、モニカのことをデートに誘ってるんだ。
モニカが俺のそんな狼狽に気づいたかのように、小悪魔のように笑う。
反応を楽しむかのように、じっと俺の顔を見返す。
思わず俺の視線があらぬところをさまよう。
「イイヨ。イッショに、アソビに、行こう」
モニカの笑顔。
気持ちが通じあえてる、という感覚があった。
「約束だぞ」「オーケー」
もう時間だ。俺とモニカは立ち上がる。
「ワールドユース、ガンバレ」
モニカの声援に俺は任せとけ、とばかりにガッツポーズで応える。
「なに、ニヤニヤしてんだよ」
はっと我にかえると、森本が目を細くしてこっちを見ている。
「ああ、またモニカちゃーんの妄想ふけってたのか。
帰ったらデートにでも誘おうとか考えてたんだろう」
森本がルパン三世の不二子ちゃんの真似をして語尾を延ばす。
図星をつかれて、俺は思わず森本にヘッドロックをかける。
「あ、いてえな。なにすんだ、このやろう」
森本が抵抗するが俺は離さない。
そのまま二人でベッドの上を転げ回る。
「お前ら、いつのまにかほんとうに仲良くなったな」
平山さんが呆れ顔で俺たちを見ている。
いわれてみれば、まったくそのとおりだ。
最初部屋割りで森本と二人部屋と聞いたときは、
正直いい気分はしなかったものだ。憂鬱だな、というのが本音だった。
だが、いつのまにかすっかり意気投合している。
一緒に生活している、というのもある。そして、この前の試合・・
「お、みんなそろそろ時間だぜー。ミーティングに行くぞ」
ポータブルのDVDプレーヤーで映画を見ていた増嶋さんが立ち上がった。
もうそんな時間か、とカレンも起きる。
みんなが動き出して、自分の部屋に戻る準備をし始める。
「おい、ちゃんとちらかしたもの片付けていけよ」と
森本が叫んだが、みんな聞いているのかいないのか。
森本が口を尖らせて俺を見る。お前も言えよ、ということらしい。
俺は苦笑いしながら肩をすくめてみせる。
やれやれ、あとで簡単に床の掃除をしておこう。
日本での10日間の強化合宿を経て、オランダ入りした俺たちは、
現地での最終調整を経て、ワールドユースに臨んだ。
初戦の相手は開催国のオランダ。
日本は初戦の固さもあってか、相手のしっかりとした個人技に
ボールを支配されて、ペースをつかめないまま試合を進めてしまう。
中盤でボールを奪えず、いいようにパスを回されてしまう。
やがて、中盤と前線の間が開きだし、平山さんが孤立しはじめる。
前半こそ0−0で持ちこたえたものの、
後半の開始早々にゴール前の混戦から押し込まれて先制点を許すと、
20分にはセットプレイから失点して、2点差をつけられる。
小熊監督は、前田さんを投入してベースの3-5-2から、
左サイドが高い位置で構える3トップに近い形へ変え、
点をとるべく、さらに森本を投入する。
その効果あって後半は何度かチャンスを作るが、
相手もしっかりとゴール前を守り、そのままスコアが動くことはなかった。
後半、多少の見せ場こそ作ったものの、試合全体を通してみれば
オランダに終始完璧に流れを握られて、内容的には完敗といってよかった。
俺はベンチでタイムアップの笛を聞いた。
中四日開けての第2戦はアフリカのベナンが相手。
正直、はじめて名前を聞いた国だったが、
身体能力の高いアフリカ勢、万に一つも油断なんかできない。
試合は、ベナンのスピードと速さに手を焼きつつも、
日本代表も連携の取れたパス回しと組織立った守備で対抗する。
先制点は日本。ボールを奪った本田さんがすばやくサイドに散らし、
中村さんが右サイドから早めのクロス。
このボールを平山さんがヘディングで合わせ、今大会、日本代表の初ゴールを決めた。
後半に入ると、今度は相手ペースの試合になる。
セーフティに行こうという意識が強く出てしまったのか、
相手の個人技に体力を消耗させられたのか、
初戦と同様にFWと中盤との間にギャップができて、ベナンにボールを持たれてしまう。
もはやすっかり名物となっている小熊監督の猛烈な激が飛ぶが、
なかなか中盤に開いてしまったスペースを埋められない。
攻め込むベナン。だが、日本のディフェンス陣も粘り強く相手にしがみつく。
ここで負けたらグループリーグ突破の可能性はほとんどなくなる。
ベナンが立て続けにフォワードの選手を二人投入する。
それを見た小熊監督も動く。兵藤さんに代えて、怪我から癒えたばかりの杉山さんをイン。
ボランチの本田さんを兵藤さんがいたトップ下にスライドさせて、杉山さんがボランチ。
動きの落ちていた兵藤さんを下げ、本田さんをトップ下に上げることで、
前のほうでの守備を厚くするとともに、
カウンター時のパスの出し手も残しておく、という狙いか。
35分にはカレンに代えて原さんを投入。
ピッチに入った原さんは前線で懸命にボールを追う。
小熊監督の激が、それに重なる。
「ボールを追え!コースを切れ!」
点差は1点だったが、最後のほうはベナンも手詰まり感が漂い始めていた。
日本も、何度かカウンターのチャンスを掴み、シュートチャンスもあったが、
追加点を奪うことはできなかった。
結局そのまま1−0でタイムアップ。
決勝トーナメント進出のためには、大きな意味を持つ1勝だ。
今日もスタンドは観客が少ない。
それでもスタンドの一角には、青いユニフォームで埋まったブロックが見える。
日本のサポーターたちだ。彼らの唄が聞こえてくる。
こんな遠いところまで俺たちの応援に来てくれる。
異国の地だからこそ、そのありがたみを俺は改めて実感した。
とはいえ、スタンド全体を見渡すとやはり寂しい感じはする。
地元オランダと対戦した開幕戦こそ、そこそこの入りだったが、
この前のベナン戦、そしてこのオーストラリア戦といい、ほとんど客がいない。
オランダ人はあまりユース年代のサッカーに興味がない、という話を
耳にしたが、どうやらほんとうなのかもしれない。
俺たちが予選リーグ3試合を闘うのはパルクスタットリンブルクスタディオン。
最近建てられたスタジアムらしく、
白い半円をつなげた形の屋根がきっちりと観客席を覆っている。
建物がまだ新しさがかもし出す清潔感を漂わせている。
改めて思うのがスタンドとピッチの距離が非常に近い。
日本語で言うとスタジアムというよりも、
サッカー場という言葉が持つイメージのほうがこの場所にふさわしい。
今日は観客がいないから気にならないが、
満員だったら相当な圧迫感を感じるだろう。アウェーだったらなおさらだ。
これが本場のスタジアムなんだ、と俺は妙なところに感心する。
といっても、まだ俺はそのスタジアムのピッチにもたっていないが。
俺たちがベナンに勝った日、オランダはオーストラリアを破り、勝ち点6。
2位以上を確定し、グループリーグ突破を早くも決めた。
今日の相手のオーストラリアは初戦でベナンを2−0で破り、
オランダには0−1の1点差の敗戦だった。
勝ち点3は日本と同じだが、得失点差は+1と日本を上回っている。
すなわちこの試合で勝てば、俺たちは2位以内が確定し、
決勝トーナメント進出が決まる。
引き分けもしくは負けてしまって3位になった場合でも望みはある。
ワールドユースの勝ち上がりはやや変則的な仕組みになっていて、
六つある各グループリーグの3位チームのうち、
上位4チームまでが決勝トーナメントに進出できる。
マスコミは日本代表が勝ち上がるにはどんなパターンがあるが、
あれこれと計算をしているみたいだが、
試合に臨む側にしてみれば、他力本願のケースは計算に入れていない。
オーストラリアに勝ち、きっちり2勝して
2位以内を確保する、それ以外は頭にない。
それに何位で抜けるかによっても、相手の強さが変わってくる。
決勝トーナメント初戦で必ず他のリーグ1位とあてられる3位抜けより、
2位抜けのほうがいいのは誰の目にも明らかだ。
この試合で、グループリーグの3試合で終わりたくない。
まだ、俺は何も掴んでない。何も肌で感じていない。
次の試合を、そしてもっと高みへ。
その切符は願わくば俺自身がピッチにたって掴みたい。
だが現実は今日も俺はベンチからのスタートだ。
今日のシステムはベースにしている3−5−2。
スタメンはGKにいつもどおり大分トリニータの西川さん。
DFは、左にレアルマドリーとの親善試合で名を売ったジェフの水本さん。
真ん中にアジアユースでもキャプテンのイケメンの闘将、増嶋さん。
右に柏の成長株の小林さん。
ボランチはルーキーながら名古屋で完全にスタメンに定着、
評価も急上昇中の本田さんに、
清水でもコンスタントに試合に出ている杉山さんが努める。
今日のトップ下は疲れが見える兵藤さんに代えて水野さん。
今年に入ってジェフでも一気にブレイクし、注目が集まっている有望株だ。
アウトサイドは右にアビスパの中村さん、左にガンバの家長さん。
ともに早い時期からそれぞれ評価の高かったテクニシャンだ。
FWはJ初得点も記録して今季好調のカレン。
そしてこのチームの誰もが認める不動の中心、平山さんだ。
ほぼ小熊監督の考える基本形のスタメンといっていい。
俺の出番があるとすれば、後半ある程度の時間が経過したところだ。
このチームは中盤の流動性が高い、ありていに言ってしまえば、
怪我人が多かったせいで中盤が固めきれてない。
俺もチーム練習では、中盤のすべてのポジションをひととおりやらされている。
三試合目ということもあってスタメン組のスタミナの残り具合も気になるし、
怪我などのアクシデントも考えなくてはいけない。
やるだけだ。俺は心の中で呟く。どんなシチュエーションであれ、
与えられた状況の中でベストを尽くすだけだ。チャンスよ、来い。
ベンチの中で俺は一人祈る。
見ている側にしてみればスペクタクルに欠けるつまらない試合だが、
ピッチにいる側にしてみれば胃が痛くなるような、そんな試合展開になっている。
中盤での激しい潰しあいが延々と繰りかえされている。
この試合の重みがわかっている双方のディフェンス陣が、
集中を切らさずに、激しいチャージで攻撃の芽を摘み取り続ける。
思わずベンチから立ち上がるような決定機もない代わりに、
目を覆ってしまうようなピンチもない。
長い長い膠着状態。どちらかが根負けして穴が開くのを待っている。
やっている側にしてみれば、相手とにらめっこしながら
湯舟に肩まで浸かって我慢し続けるようなそんな辛い持久戦だ。
だが先に音を上げることは許されない。それはすなわち敗北への一本道だ。
ハーフタイムをまたぎ、後半に入る。
開始してしばらくは多少ボールが落ち着かない時間帯があったが、
それが過ぎると、前半と同じようなひりひりするゲーム展開になった。
日本のロングボール、こぼれ玉。相手の出足が早い。
ボールを拾った選手がすばやく前にボールを送るが、そこは日本の中盤が網にかける。
本田さんと水野さんがふたりがかりでボールを奪ってサイドへ。
だが、4−4−2のオーストラリアはしっかりと
人数をかけてサイドの攻防に対処してくる。
突破できずにボールを奪われる。そしてまた前へ。
そのボールをまた日本が奪う。これの繰り返しだ。
だが時間とともにあせりがでてくるのは日本のほうだ。
得失点差ではオランダが日本を上回っている。
引き分けなら2位以上を確保するのはオランダだ。
点をとるしかない。小熊監督はまちがいなく攻撃のオプションを使う。
後半が開始して少しした時点で、控え選手はみんなアップをはじめている。
15分過ぎ、最初に呼ばれたのは前田さん。家長さんと交代する。
前田さんは左足が武器だが、本来サイドの選手ではない。
だが、小熊監督は前田さんの攻撃力を買ってサイド起用を何度か試していた。
前田さんが少し高めに位置する3トップに近い変則的な3−5−2に変わる。
ピッチに入った前田さんが懸命に左サイドをかきまわす。
ゴールに向かえ、という指示なのか、サイドをえぐるだけでなく、
ボールを受けると積極的にエリア目指して中へ切れ込んでいる。
だが、オーストラリアもその辺のエリアは人数をかけて守っている。
なかなかきれいに抜けきるところまでいかない。
逆にオーストラリアはボールを奪うと、
ロングボールを前田さんの後ろのスペース、うちの左サイドに
ほうりこんでくることが多くなった。
どうやら守ってカウンターのサッカーに切り替えたらしいが、
本田さんと水本さんが破綻することなく対処する。
今日のディフェンス陣はいい集中ができている。
残り15分になるかというタイミングで、森本が呼ばれる。
ようやく出番が来たか、という表情で歩いていく。
カレンに代わって森本がイン。ポジションはそのまま2トップの一角。
もう日本は点をとるしかない。オーストラリアは完全に
引き分けを頭に入れたサッカーをしている。この時間帯なら当然だ。
森本が前線で平山さんの周りを衛星のように動き回る。
前線に入るロングボール。平山さんが懸命に競る。
オーストラリアのディフェンダーも結構上背があるが、
それでも互角の勝負をしているのはさすが平山さんだ。
そのこぼれ玉を森本が必死に追うが、相手の人数が多い。
たまに足元に収めたときも、すぐに囲まれてつぶされてしまう。
倒されてボールを奪われた森本が悔しそうに腕を振った。
アップしながら横目でピッチを見ていて、ふと不審に思う。
平山さんと森本が前線で孤立しているように見える。フォローがない。
だからパスの出しどころがなくて、
時間稼ぎにキープしてる間に複数の相手に囲まれてボールを奪われてしまう。
後ろの選手がロングボールを放り込むだけで、蹴った後の動きがない。
小熊監督も後ろの選手に、もっと押し上げるように
声を張り上げているが、選手たちの反応は鈍い。
なぜ?確かに3試合目で疲労は蓄積しているが、
そこまで動きが止まってしまうような感じの試合ではなかった。
事実、飛んできたボールにはきちんとすばやく反応している。
押し上げられないのではなくて、押し上げていないのだ。
勝たなければ意味がない試合なのに、と思ったが、すぐに合点がいった。
このまま引き分けで終われば日本は勝ち点を1上積みして4。
いま、同時進行で行ってる他グループの結果次第だが、
勝ち点4なら3位抜けできる可能性はそれなりにある。
だが、ここでオーストラリアに1点奪われて
負けてしまった場合、勝ち点は3どまり。
万が一、ベナンがオランダに勝つと勝ち点で並ばれてしまうし、
仮に3位を確保できたとしても、勝ち点3では
3位抜けの4チームに入れるかは、はなはだ微妙な位置になる。
果敢に攻撃して2位をとるしかない、という試合をするのか、
6分の4の可能性に賭けて、3位突破も睨んだ試合運びをするのか。
3位突破の選択肢が微妙にピッチにいるメンバーの頭にちらついている。
この時間になるとカウンターの恐怖が守備の選手の足を縛る。
その恐怖がラインを押し上げようとする足を止める。
ベンチにいる身としては自力できっちり決めてくれ、と思う。
他会場の結果次第なんてまっぴらだ、と思う。
だが同時にいま、ピッチに立っている守備の選手の気持ちも痛いほどわかる。
リスクを侵す恐怖。自分のミスから決勝点を奪われたらという恐怖。
そのときだった。
「樋口!」滝沢コーチの呼ぶ声。出番だ。
周りでアップしていた選手からふっと息が漏れる。
今日は自分の出番はないことを知った心が漏らすため息だ。
俺は手早くトレーニングウェアを脱いでユニフォーム姿になる。
監督の前に立ち、指示を聞く。
小熊監督の目が俺を射る。話す声はこの大会、大声で激を
飛ばし続けたせいか、すっかりがらがらだ。
「お前はトップ下のポジションに入れ。
中村がでるから水野が右サイドに回るように伝えろ。
お前の仕事は、フォワードとボランチの間のカバーだ。
とにかく走り回ってボールを奪え。早く寄せろ。
どんどんエリア内へシンプルにラストパスを入れていけ。
もう時間はない。最短距離で点を狙っていけ」
俺はうなずく。
ボードを掲げる審判の後ろに立ち、出番を待つ。
目の前に広がるバックスタンドが俺を待っている。
軽くステップを踏んで足を動かす。
モニカ、見てるか。確か生中継あったよな。
もし3試合目まで待たせちゃったのならごめんな。
パンツの腰の部分にそっと手を当てる。
パンツに縫いこんだお守りの感触。
ホペイロの方に事情を話したら、
プレー中にとれたり、邪魔になったりしないよう、ていねいに縫いこんでくれた。
審判の笛。プレーが切れた。
中村さんがラインまで走ってくる。
「後は任せたぞ」「はい」
俺は芝の感触を足の裏で味わいながら、ピッチに走り出す。
センターサークルまで走り、周囲をぐるりと見回す。
緊張をほぐすのと、距離感をしっかり掴むために、
ピッチに入ったらまず周りの景色をじっくり見ろ、というのがタカシのアドバイスだった。
まず水野さんのところへいってポジションチェンジの伝達。
多少疲れが見える。最初見たときは、この華奢な体でジェフのあの運動量豊富な
サッカーをこなしているのか、と随分驚かされたものだが、
さすがに3戦目ともなると、タフな水野さんでもいくらかは堪えるらしい。
後ろの本田さんにも大声で監督の指示を伝える。
だが、点を取れといっても、なかなか前へは出てこられないだろう。
そこをカバーするのが俺の役割だ。
時間は残り少ない。オーストラリアは完全に引いている。
ハーフウェーラインまで引いて、本田さんからボールをもらう。
前を見る。前線の選手にはきっちりマークがついている。
動き回り小刻みに進路を変えて、マークを外そうとしているが相手も必死だ。
右サイドの水野さんを見る。
ロングキックを入れると見せかけてフェイント、相手の動きを観察する。
マークがすっと水野さんに近寄ったのが見えた。
あの間隔じゃ放り込んでもチャンスにつながる確率は低いだろう。
ちらりと見る左サイドも状況は同じようだ。
徐々に前に進出。ハーフウェーでは好き放題持たせてもらえるが、
ここから先はそうも行かないだろう。相手の視線がボールを持つ俺に絡みつく。
森本がいったん引いてくさびのパスを受けにくる。森本にパス。
森本は前を向こうと試みるが、背後についているマークがそれを許さない。
俺にボールが返ってくる。
試しに前に突っかけてみるか、という考えが頭をよぎるが、相手の人数が多い。
中央に単独ドリブルで突っかけてボールを奪われたら、
相手に絶好のカウンターの機会を与えることになる。
じゃあ、安全にロングボールで行くか?それは確率も低いし、まさに相手の思う壷だ。
ボランチの二人にもう少しリスクをとってもらって、
前目の位置で顔を出してもらわないと手詰まりだ。
俺はボールを本田さんに預け、自分が前線に入ってみる。
バイタルエリアまで入るときっちり相手のマークがついてくる。
動き回ってみるが、なかなかスペースがない。
何度か縦の動きで引いてパスを受けてみるが、勝負できる位置ではマークが外れない。
ボールを奪われるリスクを考えると、ついついセーフティにボールを戻してしまう。
ボランチにもう少し前でプレーするよう手を振って叫んでみるが、
恐怖に足元を縛られた彼らの動きは鈍い。
観客の声が何かを叫んでいるのが聞こえる。日本のサポーターか。
もう何も考えずに平山さんの頭めがけてほうりこめ、と言っているのだろうか。
確かにもう時間がない。押し上げが期待できないのなら、
自分の力で勝負するしかない。危険は承知のうえで、前を向くしかない。
右でボールを受け、本田さんへ戻すと横へダッシュ。
本田さんからピンボールのようにパスが返ってくる。
足下を通して前を向こうと思ったが、マークもぴったりついてくる。
ダッシュ一本でマークを外そうというのはさすがに押しが太い。
俺はパスのボールをスルーして、そのまま相手の体を抱いて背後に入れ替わる。
見ようによってはボールを離す、軽率な、危険なプレーだ。
怒られるかもしれない。だが、俺にはそれぐらいしかアイディアがなかった。
ええい、ままよ。ステップを切った俺の足元にボールが収まる。
うまくいった。成功だ。目の前には相手のディフェンダーがむき出しだ。
急げ、迷ってる時間はない。後ろから手が伸びてくる気配。すぐに決めろ。
右に平山さん、左に森本。どっちだ?
左の視線を感じた俺は、迷わず正面へショートパス。
森本がラインを巻く、ウェーブの動きで中に入ってくれば、
どんぴしゃであうはずだった。
だが、森本は縦へ、ゴールライン側へ走っていた。
受け手を失ったパスは力なく転がり、相手キーパーが拾い上げる。
森本が怒った表情で手を広げる。俺は言い返したいのをぐっとこらえて、
カウンターに備え、ハーフウェーライン目指して全力疾走する。
キーパーのパントキックが相手フォワードへ。
だが、ハイボールの1対1の競り合いはあっさりと水本さんが勝った。
こぼれたボールを落ち着いて本田さんがキープ。これでカウンターの危険はない。
もう一度やってみる。平山さんとの距離を確保しながら、
横方向へのダッシュを繰り返して相手を撹乱する。
さっきのプレーのおかげでマークがきつい。
ボールも持っていないのに、がしがしと体を当ててくる。
邪険に押し返したが、相手は平然と体を密着させてくる。
俺の様子を見た本田さんが、俺に出すのは無理だと判断して右サイドに散らすが、
サイドも前に突破させてもらえない。水野さんが悔しそうにボールを戻す。
本田さんは逆サイドの前田さんを、前線の平山さんを見るがパスが出せない。
俺は一度ハーフウェーまで引いてボールを受ける。
ここまで戻るとマークは外れるが、相手が残っている分、敵陣にスペースはない。
どうする?こうなったら幸運に期待してパワープレーしかないのか?
杉山さんにボールをあずけて、前線に走る。すかさず二人の視線が俺をマークする。
杉山さんから俺にくさびのパス。ゴールに背を向けてトラップ。
すかさず背中に相手の気配。さらにもう一人来る。
これじゃキープするのがやっとだ。どうする?そう思ったときだった。
「樋口!」迷わず声の方向にパスを出す。
本田さんが上がってきている。本田さんが、ここまで、こんな前まできている。
マークが俺に二人よってきた分、俺の周りにはちょっとしたスペースができている。
本田さんがそのスペースを使って俺のパスを受ける。
相手選手がすかさず本田さんのいるスペースを潰しにかかる。
本田さんは迷わず左へ横パス。そこにきているのは杉山さんだ。
ボランチ二人が上がってきている。思わぬ動きに相手が混乱した。
さすがにこのエリアでプレッシャーをかけなければ、
ゴール前へ精度の高いボールを放り込まれる、と判断した相手が杉山さんのチェックへ。
本田さん、杉山さん二人の動きにつられて相手が動いた分、
今度は俺の周りに小さいスペースができた。
俺はその隙に相手選手の背後に回りこんでからダッシュ。
ほんの一瞬だが相手が俺を見失う。
俺は空いたスペースに動いて杉山さんとの間に縦のパスコースを確保。
俺の目にはパスコースを示す杉山さんと俺の間に伸びる
白いラインが見えたような気がした。
そのラインをなぞるような杉山さんのパス。半身になって受ける体勢を作る。
チェックが来る。ツータッチしてる時間はない。ダイレクトかワンタッチだ。
視野の左すれすれで森本が動き出しているのが見えた、いや感じとった。
俺はキーパーと森本の間に、ダイレクトの柔らかいパス。
ほとんど力を与えない、杉山さんのパスの勢いを使ったショートパス。
ボールは思ったところにコントロールできた。
だが、森本は走りこんできていない。もう一度縦に行っている。
イメージが一致していない。
キーパーの近くに出したい俺と、キーパーと距離をとって受けたい森本と。
二人のイメージがずれてしまっている。
キーパーが慌てて飛び出してきて滑り込みながらキャッチ。俺は天を仰ぐ。
「ここに出せ!」と森本が足元を示しながら絶叫。
俺の中で何かがぷちりと切れる。
「時間がねえんだ!ゴール前で受けろ!!シュートできる位置にいろ!」
負けないような大声で言い返す。森本がきっ、と睨み返してくる。
俺はありったけの力を目にこめて森本の顔から目を離さない。
俺と森本の間に険悪な雰囲気が漂う。
その隙に、相手キーパーがロングスロー。
中央で受けた相手の8番から相手フォワードの足元にくさびのパス。
ボランチ二人が上がりきってしまったうちは、3枚のディフェンスしか残っていない。
フォワードが上がってきた選手に、教科書どおりのリターン、そして自分は裏へダッシュ。
杉山さんと本田さんが懸命に走るが、あれは間に合わないだろう。
フォワードのリターンを受けた相手選手が広大なディフェンスラインの裏へ縦パス一発。
俺は線審をちらりと見るが、オフサイドの旗は上がらない。
相手フォワードと増嶋さん、少し離れて水本さんがボールを追って並走する。
一歩抜け出した相手選手が、よりによってこんなときにと思わせてくれる
絶妙のトラップでぴたりとボールを足元に収める。
増嶋さんが前に回り込んでシュートコースを切るが、そこでフェイント。
増嶋さんの腰が砕ける。それを見て水本さんが思わず寄ってきたところを、
ボールを滑らせて逆を突く。シュートコースがぽっかりと開く。
ああ。やばい。決定的だ。俺は思わず目をつむった。
その瞬間、鈍い音が敵陣にいる俺の耳まで届いた。
バーだ。バー直撃だ。助かった。俺は思わず安堵で腰が抜けそうになる。
だがほっとしている暇はなかった。そのボールは幸運にも小林さんの足元へ。
その小林さんからすばやくハーフウェーにいる本田さんへ。
俺はすかさず首を振って周囲を、前線の様子を確認。俺の周りには誰もいない。
首を戻したときにはもう本田さんからのパスが来ている。
決定機をものにできなかった相手が微妙に動揺しているのがはっきりとわかる。
もう残り時間は少ない。これが最後のチャンスかもしれない。
俺は迷うことなく、さっきマークがゆるくなってるのを確認した水野さんへパス。
水野さんが右サイドを駆け上がって、タッチラインすれすれでボールを止める。
そのままライン際をドリブルで持ち込む。
マークを緩めたミスに気づいた相手ディフェンスが懸命に戻って中を切る。
水野さんは中へ切れ込もうと、右、左と体を揺らして相手を揺さぶる。
俺は声をかけながらその水野さんの後ろへサポートに走る。
中を見る。水野さんにひとり、俺にひとり、相手が来ている。
二人引き剥がした分、さっきに比べればゴール前が手薄になっている。
水野さんが俺にボールを戻す。ボールが来るまでにゴール前をルックアップ。
相手のディフェンスラインの中、ニアに平山さん、ファーに森本。
その時、森本が俺を見ながら
バックステップを踏んでさらにファーに下がるのが見えた。
森本、わかったぞ。お前の得意なあの動きだよな?
俺は森本を信じて水野さんからのパスをダイレクトでゴール前に蹴りこんだ。
平山さんがジャンプ。平山さんにあわせたボールと判断した
ディフェンダーがすかさず平山さんに競りかける。
だが、ボールはその頭のわずか上を通っていく。そうだ、そういうふうに蹴ったんだから。
さっきの森本のバックステップ、ファーに逃げる動きに、ディフェンダーがついていった。
その分、森本と平山さんの間のスペースが少し広がった。
平山さんの後ろのそのスペース。
ゴルフのアプローチショットよろしく、そこへぴたりと落とすのが俺の仕事だ。
バックステップにディフェンスがついてくるのを見た森本が、
今度は一転して正面へダッシュ、ゴール正面のスペースへ猛然と飛び込む。
平山さんの頭を越えたボールに森本のダイビングヘッド。
ボールは鋭角にワンバウンドしてゴール左隅に突き刺さった。
森本が起き上がりながら、左手を突き上げる。
そのまま駆け寄った平山さんと満面の笑みで抱き合う。
そこに水野さんが、前田さんが加わる。
試合を決める劇的な1点に日本の選手の輪ができた。
グループリーグ突破を確実にするゴールに、みんなお祭り騒ぎだ。
俺はそれを横目に、そのまま立っていた場所で、ゆっくりとストッキングをあげる。
体を起こしながら腰にそっと手を当てる。
モニカ見ててくれたか。意思の通じ合ったいいプレーだったろ。
俺もこれで少しは活躍したことになったよな。
時間はカードをもらわない程度にゆっくり使ったほうがいい。
俺は自陣に意気揚々と戻っていく日本の選手の集団を前に見ながら、
ゆっくりゆっくりモニカと話しながら歩いていく。
オーストラリアは死に物狂いで前にラッシュしてきたが、
俺たちは落ち着いて時間を使う。ほどなくして試合終了の笛が鳴った。
次の場所へ進むための切符を手に入れた報せだ。
日本のサポーターの拍手と歓声が聞こえる。
相手と握手を交わした後、俺たちは一団となってサポーターの基へ歩く。
スタンドで青が波のように揺れている。
ピッチからはこんな風に見えるんだ。みんなの顔が思いのほかよく見える。
サポーターが興奮さめやらずというように森本の名前を呼ぶ。
コールを浴びた森本が満面の笑みで手を振る。
フォワードはこういうときおいしいよな、と
俺はそれを横目で見て苦笑する。その時だった。
サポーターが俺の名を呼んでいた。
俺は思わず呆然と立ち尽くす。繰り返される熱いコール。
みんなが。俺の名を呼んでいる。
魂を抜かれたように棒立ちになりながら、
俺は自分の名前が繰り返し繰り返し呼ばれるのを聞いていた。
「ちゃんと応えなくちゃ」
いつのまにか隣にいた平山さんが柔和な笑顔を見せている。
「そうだよ、手ぇ振れよ」
森本もいじめっ子の親分みたいな笑顔で俺の背中を叩いた。
俺は深く頭を下げた後、二、三度ぎこちなく手を上げた。
声がさらに大きくなった。上げた腕が少し震えているのがわかる。
サポーターとピッチに別れを告げて、俺たちはロッカールームに戻る。
通路を歩く途中で森本が俺の隣に来た。
「おまえ、よく俺の意図がわかったな」
「森本の初ゴールはテレビで見てて印象に残ってたからな」
森本のJ初ゴール。バックステップでディフェンダーの視界から一瞬消え、
吊られて動いたディフェンダーがあけたスペースでのヘディング。
よくそんなもん覚えてるな、と森本が驚いたように言った。
憧れたからな、とは口が裂けても言わないでおこう。
「もっと俺にああいうボールをくれ。最高のボールだった」
横を見ると森本の真剣な横顔。
点をとるためには妥協しない、その意思が浮かび上がっている。
真顔だとこいつ、結構いい面構えじゃん。まあお世辞にも美男とはいえないが。
「わかってるよ。まだ次があるんだからな」
ああ、と日本の若きストライカーが隣でうなずいた。
「監督、おはようございます」
小熊は、おはよう、と言葉を返す。
声をかけてきたのはフリーライターの元山だった。
サッカーをメインにしてるライターで、
前回、前々回のワールドユース大会でも現地まで来ている。
ユースについても、普段から熱心に記事にしてくれていて、
取材を受けた回数は数え切れないほどだ。
スタッフや選手たちともすっかり顔馴染みになっている。
この商売をやっていると、メディアと常に友好的とはいかない部分もある。
チームの状況によっては、規制めいたものをかけなければいけない場合もあるし
批判をされればこっちも人の子、腹も立つ。
その記事が、根拠がなかったり誤解に基づくものだったりすればなおさらだ。
元山にもそういう部分が皆無というわけではなかったし、
関係者でも元山のことを悪く言う人間もいたが、
それでも大会の何年も前のチームの立ち上げ時から、
ほとんど他のマスコミが取材に来ないような強化合宿まで足を運び、
そのレポートを媒体を通じてファンに届けてくれていることを
考えると、小熊はやはり元山には感謝していた。
「まず、グループリーグ突破おめでとうございます」
ありがとう、と小熊は礼を言う。
「グループリーグ3試合を振り返ってみての感想はどうですか?」
小熊は少しだけ考える。
「やはり楽な試合はひとつもなかったな、と。
対戦したオランダ、ベナン、オーストラリアのどこも、
それぞれ持ち味がある強い、いいチームでした。
その中で2位でグループリーグを通過したことについては、
選手たちをほめてやりたいと思っています」
「一昨日の試合では、樋口君、森本君の
若い二人のホットラインで見事な決勝点を奪いました。
樋口君についてはブラジル遠征から監督が抜擢したわけですが、
いきなりの出番で見事なアシスト。
監督の期待どおりの活躍というところですか」
「期待どおりというか、ああいう場面で活躍できるのは
それだけのものを持っているんじゃないですか」
小熊は一ヶ月前のことを思い出す。ジェフとの練習試合。
試合終了後、小熊は相手ベンチに足を運んだ。
通訳を通じて「今日はありがとうございました」と挨拶する。
分厚い手が差し出される。小熊はその手を握りながら、
その手に秘められた名将の辿ってきた時間に思いを馳せる。
激変した東欧の地図。大きく時代が移り変わる中で、
この手はサッカーの何を、どんな姿を見てきたのだろう。
「どう思われますか、うちのチームを?」
簡単な挨拶をニ、三交わした後、小熊は単刀直入に聞いた。
メディアの質問には難解な答えを返すこの監督も、
おそらく直接相対してたずねれば、
何かを答えてくれるだろうという確信があった。
チームを率いる人間が他人の意見を求めるというのは、
もしかしたら監督としては失格かもしれないが、
小熊は自分が妙なプライドにこだわらない人間だという自覚もあった。
相手は数秒だけ考えたが、
「中盤が固まっていないね」
「おっしゃるとおりです」
小熊がずっとこのチームの軸として期待していたFC東京の梶山は、
一縷の期待をこめてこの合宿に召集したものの、
結局怪我の具合がおもわしくなく、途中でクラブに返していた。
Jリーグでのプレイを見ても、試合勘が戻っていないのが明らかで、
怪我だけなら本番にまにあうかもしれないが、
試合勘も含めたプレイの質が、本番までに元に戻るのはまず無理だ。
梶山をあきらめなければいけないのは、小熊にとって大きな誤算だった。
また、今回のメンバーはJでレギュラーもしくは
ベンチ入りメンバーとして活躍している選手が前回大会と比べて多い。
それ自体は小熊にとって喜ぶべきことなのだが、
その代償として、候補となる選手たちに怪我が多発している。
Jの過密日程もあって、試合には出ているが慢性的な怪我を抱えている選手も多い。
また、そういった選手はクラブもユースの合宿に出すのを渋る。
その結果、小熊の想定するメンバーが顔をあわせて、連携を深める時間が確保できない。
結局、今回の合宿も戦術面ではチャリティーマッチの即席チームと大差ない有様で、
選手の能力の伸び具合を確認するだけになっているのが実情だった。
「中盤で軸となる選手がほしいね。
技術ではなく、気持ちでチームの軸となる選手が」
さすがによくわかっている。小熊は無言でうなずくしかない。
選手の粒は揃っている。これから本番に連れて行く21人の選考には
頭を悩ませることになるだろう、という予感もあった。
だがその選考が、どの選手も、特に中盤の選手が、
他の選手との比較での選考になるだろうという予感があった。
あいつより、こいつのほうが調子がよさそうだ。
あいつより、こいつのほうが怪我がなくて計算がたちそうだ。
小熊がほしいのは、そういうものを超越した、
こいつだけはなにがあってもオランダへ連れて行きたい。
不安要因があってもこいつがいなければだめだ、と思わせてくれる選手。
そう思わせる存在がほしい。
それ以上、監督は何もしゃべらない。
時間もあれだし、そろそろおいとまするか、と小熊が思ったときだった。
「あのMFの、15番の彼は高校生だそうだね」
樋口のことか。小熊はうなずく。
「彼はサッカー選手に必要な勇気を持っている。それもたくさん。
勇気は大切なものだよ」
そういうと名将は小熊の目を見てウィンクした。
年に似合わずチャーミングな人だ。
どうやら潮時らしい。小熊は礼を言って引き上げることにした。
クラブハウス目指して歩きながら、小熊は物思いにふける。
俺の目もなかなか、ということか。
ブラジル遠征のポンチプレッタ戦。前半で決まりかけた試合を、
後半実のあるものにしたのは樋口の投入だった。
他のメンバーの集中が切れかけた中、ひとりで走り回ってプレスをかける。
ボールを奪えば思い切りよく前へ飛び出していく。
それを見た他の選手も動きがよくなり、プレーが積極的になっていった。
候補選手の中で彼が唯一人、ミスしても失うものがない
チャレンジャーの立場であったことを差し引いても、
あの試合で樋口が流れを変えたことは評価できると考えていた。
そして今日のジェフとの試合。樋口をボランチ起用したのは、
梶山の離脱に伴う予定外の事態だったが、
小熊が感心したのは、周囲に違和感を感じさせずプレーしていたことだ。
元々はただの公立高校の生徒。
ブラジル遠征は経験済みとはいえ、今日の相手は正真正銘のJクラブのトップチーム。
レベルを考えても、ゲームの中で浮いてしまっても不思議はないのだが、
そこにいるのが当然であるかのように堂々とプレーしていた。
攻撃は控えろ、と小熊が指示をしたこともあって、
目を見張るようなプレーはなかったが、
試合の雰囲気にすっかり溶け込んでいたのが印象的だった。
樋口の抜擢に疑問を投げかける声は、マスコミのほか
協会内部からも小熊の耳に届いていた。
協会の育成システムをほとんど経験していない樋口の起用は、
ある意味、協会自身の育成システムの自己否定につながる部分もあり、
関係者にとって微妙に癪に障るものらしかった。
だが・・。小熊の腹は固まりつつあった。
「監督?監督?」
元山の声に引き戻される。すっかり自分だけの世界に入り込んでしまった。
小熊は元山に詫びる。
「監督、疲れてるんじゃないですか?3試合怒鳴りっぱなしでしょうから」
小熊の目の前で元山が軽やかに笑う。
いまもきれいだが、この女も若い頃は相当な美人だったに違いない。
言い寄ってくる男にも不自由しなかったろうに、
こんなサッカーの試合追いかけてばかりいたんじゃあ、
男も見つからないぞ、と言いたくなるのをさすがにぐっとこらえる。
そんなことを口にしたらセクハラで大問題になる。
「大丈夫、大丈夫。で、どんな質問だったっけ?」
「今後の樋口君の起用についてはどうですか?
スタメンもありうるんでしょうか」
小熊は首を振り、
「いまのところはまだ連戦に耐えうるだけのスタミナがない。
他にスタートを任せられる選手もいるし、
彼については、後半から流れを変える役割を期待している。
もっとも、勝ち上がっていけば、疲労も蓄積するだろうから、
そのときに応じて、状態のいい者を起用していくことになると思う」
外国に来ている以上、報道が直接選手の目に触れることはまずないが、
メディアの選手への直接取材の中で、ここでしゃべったことが
選手への取材スタンスに影響を与え、それを選手が敏感に感じ取ることもある。
日本にいた選考段階であれば、それを計算して発奮を促すこともあるが、
本番に突入した今は、よほどのことがない限り、
無用な刺激は与えないにこしたことはない。
結果、起用に関するコメントはどうにでもとれるような内容にぼかしておく。
「明日はベスト8をかけて、グループCを2位で突破したモロッコとの対戦になります。
どのような布陣で臨まれる予定ですか?」
「怪我でダメ、という選手はいないので、
いままでの先発をベースにした布陣になると思う。
とはいえ、3試合をこなし、今回は移動もあって、
選手も疲労が抜けていない面もあるのでそのへんは臨機応変に行くつもりです」
本音を言えば、中盤はまだ確固たるスタメンが決まっていない。
グループリーグを終えてもその状態が続いているのは、非常事態とも言えた。
トップ下には水野と兵藤、どちらも捨てがたいが、
こっちへ来てから兵藤が調子を落とし気味なので、
3戦目は水野をトップ下で起用して、ある程度の正解は出たが、
次の試合も水野の先発で行くのか。
右サイドは中村北斗を使ってきたが、ここにカレンを入れて、
2トップの一角に原を入れて試合を始めるオプションも小熊は選択肢に入れている。
ボランチは本田、杉山の二人で決まりだが、
水野をトップ下に入れた場合、兵藤を杉山に代えて先発させる手もある。
これに加え途中交代の切り札、森本と樋口。
彼らが入ったときの組み合わせまで考えれば、バリエーションはさらに増える。
つくづく連携を深める時間を確保できなかったのが惜しまれた。
とはいえどの国の、どのカテゴリーの代表監督もそれは思っていることなのだろうが。
「明日の試合に向けての抱負をお願いします」
元山の言葉に、小熊は遠く日本で試合を見てくれるサポーターに語りかける。
「目標はベスト4ですので、これで満足するわけにはいきません。
いい試合をして、そして勝ちたいと思います」
いい雰囲気だな。ピッチに足を踏み入れるとそんな気持ちになった。
グループリーグ3試合を戦ったケルクラーデを離れ、
今日の舞台は、アルケスタジアム。
相変わらず日本の熱心なサポーターこそいるものの、
観客席全体は閑古鳥が鳴いている。
ここはピッチと観客席の距離がとても近く感じる。
スタンドの傾斜がきついせいもあるのだろうか。
ピッチから見ると、まるで壁のように立っている。
ラインの外はすぐフェンスで囲まれていて、
気分的にはスケート場のリンクの感覚に近い。
しかしこれがヨーロッパのスタジアムの雰囲気なのか。
日本にもいいスタジアムはあるが、やはり何かが違う。
いったいその違いはなんなのだろう。
やはりこれが歴史の重みというやつなんだろうか。
俺は試合と関係のないことにあれこれと思いをはせる。
こういうスタジアムに来ると、サッカーが、少なくともプロのサッカーは、
ショーでありエンターテインメントであることを実感する。
俺たちは差し詰め闘牛士みたいなものだ。
観客の視線の先で、俺たちは体を削りあい、技を競い合う。
きっとエールディビジの試合では、熱くなったサポーターが、
絶叫のような野次を飛ばし続けるのだろう。
そんな熱狂とプレッシャーのるつぼの中で、
客を満足させるプレーを見せたものだけが、このピッチで生き残っていける。
日本にこんなスタジアムがあったら、
サッカーをとりまく雰囲気もまた変わっていくのだろうか。
当然のことながら、今日も俺はベンチスタートだ。
オーストラリア戦までは、せめて一度はピッチに立ちたい、と思っていたのが、
いざ願いがかない、ピッチに立ってみると、
もう一度、もっとあの場所へ、という気持ちが止まらなくなった。
出場機会への渇望は、いままでよりもむしろ今日の方が強い。
既に3試合を消化し、最後のオーストラリア戦から、中二日。間には移動も挟んでいる。
今日はフォワードの一角にカレンに代えて原さん、
そしてボランチは杉山さんが外れて兵藤さんが入るスタメンだ。
昨日の前日練習を見ても、グループリーグで長い時間を戦ってきた
先発組に疲労が蓄積しているのがはっきりと見てとれた。
まちがいなく選手交代で動きがある展開になる。
そのとき呼ばれるのは誰か。
試合がはじまって、すぐにやばいな、というムードがベンチに漂いはじめた。
相手の仕上がりが明らかに日本よりいい。
モロッコは、中三日と日本より一日多く休養がとれている。その差が如実に出ている。
また技術と戦術の方もしっかりしている。
昨日の前日ミーティングで、モロッコのグループリーグの試合をビデオで見た。
小熊監督は相手のプレーを解説しながら
「かつてアフリカといえば、飛び抜けた身体能力だけが
持ち味だった時代があったが、それは過去の話だ。
むしろ、いまアフリカを勝ち上がってくるチームは、
よく整備された戦術と組織をベースにしていることが多い」
と言っていたが、その言葉どおり中盤でショートパスを駆使して、
細かくボールを動かすことで日本のプレスに的を絞らせない。
このオランダワールドユース、アフリカからの出場は4チーム。
モロッコは大陸予選も兼ねたアフリカU-20選手権で4位。
この前、グループリーグで戦ったベナンは3位通過。
一見、アフリカの中ではくみしやすいチームなのかと思うが、
準決勝は、決勝でエジプトを破って優勝したナイジェリアと2−2のドロー。
PK戦で敗れて3位決定戦に廻り、そこでもベナンと1−1のドロー。
そのPK戦で敗れての4位であり、
アフリカ勢は実力的には横一線と見るのが妥当だろう。
むしろアフリカU-20選手権は地元開催でホームの利があったベナンよりも、
モロッコのほうが客観的に見たチーム力は上ではないか、
というのが監督の見立てだった。
細かいパス回しの連続に、スタミナの消耗を考えて追い回すのをセーブすると、
余裕ができた中盤からすかさずフォワードに長いくさびのパスが入る。
この9番が長い手足を生かして、日本の選手のチェックを
ものともせずに、しっかりとボールをキープする。
9番が要注意だというのは、昨日のミーティングでも言われていた。
アフリカU-20選手権では5ゴールを決めていて、チームの得点源だ。
その中には準決勝でナイジェリアから奪った2ゴールも含まれている。
日本の選手が囲んで奪いに行くと、
手薄になったスペースに2列目から選手が飛び出してくる。
またはサイドに大きく散らされてゴール前が脅かされる。
すぐに小熊監督の絶叫がはじまった。
「本田ー、9番をしっかり見ろ、9番だ、しっかり見るんだ!」
「平山、追え!前線からしっかり追え!そうだ、その調子だ!」
まずディフェンスを固めろという小熊の指示。
その檄に応えるように、本田さんはフォワードへのマークを強め、
平山さんは前線で懸命に走り、パスコースを切る。
だが、相手の技術が実にしっかりしている。
プレッシャーを受けても冷静にボールを回す。
距離をぴったり詰めてもなかなかボールを奪えない。
モロッコという大きな大会であまり名前を見ないような国の選手でさえ、
これだけの技量を持っているという事実に、改めて世界は広いと思う。
世界で勝つと口で言うのは容易いが、それがどれだけ難しいことか。
さらにモロッコは技術だけでなく、組織の面でも統率が行き届いている感じだ。
誰かがボールを持つと、ボールを持っていない選手も
スムースに動いてパスコースを確保する。
その連動には相当訓練してきてるな、と思わせるオートマチズムを感じさせる。
相手フォワードが素早い反転から、ゴール下隅のいいコースへ飛ぶシュートを放つ。
これは西川さんが好セーブ。横っ飛びで左手を伸ばしてはじき出す。
3試合を消化して西川さんの勘もかなり冴えてきている。
次の決定機は前半15分過ぎ。モロッコが右サイドに展開。
それまでは徹底してフォワードの頭にあわせてきていたのが、
一転グラウンダーの早いボールを放り込む。
虚をつかれた日本ディフェンスの反応がほんの少し遅れる。
前に飛び出す西川さん。その体の先で、
相手の9番が足を伸ばす。つま先に当てたシュート。
西川さんの体の下をすり抜けたシュートは、左のポストをかすめて外れた。
相手選手が頭を抱えて悔しがる。
シュートが外れるとベンチからも一斉にふう、という安堵の吐息が漏れる。
前に立っている小熊監督も寿命が縮んだ、という表情だ。
ここで先制されるとこの後の試合展開が非常に苦しくなる。
このビッグチャンスを外して流れがこっちへ向いてくれれば、と思ったが、
モロッコは気落ちすることもなく、しっかりとボールを回している。
日本が相手の中盤からボールが奪えないので、
自信を持ったモロッコの両サイドが次第に高めの位置どりになっている。
その分、こっちの3バックの両脇がそれぞれのサイドに少しずつ引きだされている。
そうすると逆に今度は中央の2トップへの圧力が薄くなり、チャンスを作られてしまう。
それを見たボランチがディフェンスライン近くまで引くようになり、
サイドも中央も劣勢と見たうちの両サイドもじわじわ下がって守備をする。
守備にさく人数が増えた分、なんとか得点を許さず持ちこたえているが、
全体がじわじわと下がり、日本の選手が自陣に押し込められていく。
何度か日本のサポーターの悲鳴が響いたが、
奇跡的にいくつかの決定的なシュートは、ゴールを外れてくれた。
小熊監督が前半で動くとすれば、先制されたときだ。
0−0でいったならば、延長もあるこの試合、
手元の3枚のカードをすぐに切ってくることはしないはずだ。
前半終わりに近づくと、モロッコが
ポゼッションこそ落とさないものの、若干ペースダウンした。
チャンスは多く作れているが点が取れない状況を見て、
勢いで突っ込み続けるだけでなく、一度クールダウンして頭を冷やそう、というところか。
日本もそれを機に、選手同士が声を掛けあって布陣を立て直すが、
ようやく得た休息に一息というところで、ボールを奪って攻め込むには至らない。
読みどおり、0−0では小熊監督は当然動かない。
そのまま前半終了の笛が鳴った。
杉山さんが呼ばれる。おそらく疲労からか動きのよくなかった兵藤さんと交代か。
まだだ。いまはただ熱を溜めるとき。俺は自分に言い聞かせる。
ロッカールームで小熊監督から指示が出たのだろう。
後半になると家長さんのポジショニングが目に見えて下がり目になった。
前半はうちの左サイドからクロスをあげられることが多く、
左のDFの水本さんが対応に終われまくっていた。
ここは人数をかけてまず相手の右サイドを封じ込もうという狙いか。
その分、フォワードの原さんがやや左寄りの位置。
右サイドの中村さんもやや高めの位置から、
時折中に絞りながら相手の中盤の選手に絡んでいく。
全体が少し左に寄った斜めに右上がりの布陣。
左は捨てて右からゲームを作ろうということか。
だが、後半もモロッコのペースでゲームが進んでいる。
ディフェンダーの一瞬の隙をついて強烈なミドルシュートがゴールを襲う。
西川さんが本気でダイブ。ボールは伸ばした左手の先を通り抜け、
そのままゴール裏のフェンスにあたって大きな音を立てた。
枠に行っていたらやばかった。ピッチのみんなが肝を冷やしたのが伝わってくる。
さらに西川さんのパントキックを相手のボランチが奪うと、
即座にこっちの左サイドへ放り込む。
先にボールに追いついていたのは水本さんだったが、
後ろから追いかけてきた相手の右サイドが、
水本さんを引き倒して強引にボールを奪った。
本田さんが、増嶋さんが、主審と線審にファールをアピールするが、
審判は小憎らしい無表情で首を横に振るばかりだ。
日本の守備陣がパニックを起こしながら一斉に戻る。
増嶋さんが内を切りに来るのを見た相手は、いったんフェイントを入れて、
増嶋さんの足を止めてから、中央で待つフリーの9番へ。
相手の左足が振り抜かれるその瞬間、小林さんが猛然とスラィディング。
小林さんの足にあたってはじかれたボールを、
杉山さんがとにかく外へ、とダイレクトで大きく蹴り出した。
ピッチでは小林さんが、みんなによくやった、とぺしぺし頭を叩かれている。
今日何度となく惜しいシュートを放っている9番が
悔しそうに何事かを叫んでいる。
しかし、これだけチャンスを外してくれれば、
いくら地力の違いはあっても、一度は流れが回ってくるはずだ。
攻めて攻めて決定機を作りながら点が入らないのは、気持ち的にしんどいものだ。
一度、流れをつかめれば、モロッコを崩せる可能性は低くない。
後半も15分が過ぎたそのとき、
「樋口!」滝沢コーチから声がかかった。今日は俺が先か。
立ち上がった俺のケツを隣に座っていた森本が叩いた。闘魂でも注入してくれるのか。
小熊監督の指示を聞く。
「そろそろモロッコは攻め疲れが出てくるはずだ。
そこをお前の粘っこいプレスでつぶして、流れを引き寄せろ。
うちがボールを奪って回せるようになれば、
相手の疲労はどんどん大きくなっていくはずだ。
そこを狙ってラストパスを通せ。
お前ならこの試合の流れを持ってこれる。いいな」
頭の中で復誦。わかったとうなずく。
「この前と同じように水野が右サイドに回れ。
お前は水野のポジションに入れ」
オーストラリア戦と同じ形だ。大丈夫、理解できている。
タッチラインのそばに立つと、サポーターたちが
俺の名前を呼んでくれているのが聞こえてきた。
この前の試合でも呼んでくれていたんだろうか。
それとも俺が緊張していて聞こえていなかっただけなんだろうか。
このスタジアムは距離が近いからよく聞こえるのか。
中村さんとの交代。手を軽く合わせて気合いを引き継ぐ。
ピッチへ走り出す。芝が厚い。高い絨毯の上を歩いているような感触だ。
体を回転させながら、二、三度急停止のステップを踏んでみる。
水野さんに指示事項の伝達。お前が入ってきた時点でわかってる、と
いうような表情で水野さんがうなずく。
試合がはじまる。
相手の中盤がボールを持つ。ダッシュで間合いを詰める。
相手が元気のいいのが入ってきやがった、というような醒めた目で横にはたく。
サイドが引いてしまってる分、前にスペースがある。
俺は懸命にダッシュしてそのスペースを埋める。
お前、そんなことしてボール奪えるわけないだろ?
ボールがさっきの選手のところへ戻っていく。
俺はもう一度そのボールを追いかける。
少し前日本人は勤勉な民族だと、言われていた。
それは当たってるかもしれない、とボールを追い続けながら俺は思う。
ブラジル遠征、そしてこの前の試合、
先にプレーが荒くなったのはいつも相手の方だった。
いつまでもあきらめずにボールを追い続ける力、
それは遺伝子レベルでも俺を支えているのかしれない。
相手の左サイドハーフが中に寄ってボールを受けた。
杉山さんが見る。俺が後ろからつぶしにいく。
サイドハーフの選手が空けたライン際のスペースを
サイドバックが風のように上がってくる。
パスが通るが水野さんのマークは外れてない。
サイドでの攻防。俺はボールと、中央にいる相手選手の動きを見るため、
せわしなく首を振って確認する。
相手のサイドハーフと杉山さんがそれぞれ加勢に行く。
2対2の攻防。だがボールを奪ったのは水野さんだった。
水野さんからのパスが来る。周囲に人はいない。
今日のファーストタッチ。気持ちいいくらいボールが足についた。
調子いいかも。俺はそっと自画自賛する。
左サイドから中央にすぅーっと流れてきた家長さんがボールをもらえる位置にいる。
すかさずインフロントの早いパス。
センターサークルの手前で家長さんが前を向く。
相手はセンターバックのふたりに、右サイドバックがしっかり残っている。
右の中盤の二人も十分戻れる位置だ。
家長さんは相手の攻め上がりで空いている右側へドリブルで逃げながら上がりを待つ。
ちらりと横を見ると、さっきボールを奪われた、敵の二人が歩いている。
監督のいうように攻め疲れが出ているのかもしれない。
家長さんがハーフウェーを越えたところで、テンポを落とす。
上がりを待っている。くそ、さぼらせてはもらえねえ。
俺は体にむち打って走るスピードを上げる。
左サイドに向けて斜めに走り、ハーフウェー手前まで
たどり着いたところで、家長さんからパスがきた。
前線には平山さんと原さん。だが、しっかりと3人のディフェンダーが見ている。
その手前にも3人の敵。相手の人数は足りている。
どうするか、完全にスローダウンして後ろにボールを戻すか。
ペースを落ち着かせ、自分たちの流れを引き寄せるという意味では悪くない選択だ。
中を向き、視野を確保する。そのとき、ライン際を疾走する水野さんの姿。
気分的にはオーバーラップといっていい長い距離。懸命に上がっている。
胸が熱くなる。だが俺のいる場所からは距離がある。
俺は全身の力をこめてていねいにサイドチェンジのボールを蹴った。
ボールは思い通りの軌跡を描き、右サイドへ飛んでいく。
きれいに蹴られたサイドチェンジのボールは、
それだけでなぜか人の心に美しいと感じさせる。サッカーの不思議の一つだ。
2トップの二人をケアしていた分、
サイドにはちょっとしたベルト程度のスペースが残されている。
全力で走る水野さんの足元に俺のボールがどんぴしゃで入る。軽い満足感。
にわかに前線の動きが慌ただしくなる。
相手ディフェンスが一人、ゴール前から離れて水野さんをケア。
それにともなってゴール前でマークの受け渡し。
家長さんが、俺がゴール前へ走り込む。それを確認する相手の視線。
水野さんが相手に寄せきられる前に早めにクロスをあげた。
平山さんが飛ぶ。相手も飛ぶ。どちらの頭に当たったかわからないボールが
走り込む俺の前に転がってくる。エリアまではまだ5メートルくらいある。
ボールとの距離を測り、前を見る。少し遠いが、ゴール左隅が見える。
行ったれ。左足でミドルシュート。
だが、このキックは芯を食わず、ボールは詰めてきた相手選手に簡単に弾かれる。
そのボールを家長さんがトラップ。俺は少し迷ったが、
バックステップで下がって前に勝負できるスペースを作って、ボールを待つ。
家長さんが俺のほうを見る。蹴った瞬間に驚き。ボールが俺の頭を越えて飛んでいく。
ボールの行方を追うと本田さんが走り込んできていた。
さっきのクロスで中に絞った分、今度は左サイドにもスペースができていた。
家長さんが右に流れたのを見てとった本田さんの華麗な攻め上がり。
自分たちでやっていてもわくわくするような展開だ。
本田さんはサイドに開いて中を向くと、ドリブルで持ち込む素振り。
それを見た相手の選手がたまらずひとり飛び出してくる。
右へ、左へ、相手のディフェンス陣を振り回す。
そして相手の守りを一枚ずつ引き剥がしていく。
相手が出てきたのをみた本田さんは、ノーステップでクロスをあげる。
ニアに走る平山さんにあわせたボール。
平山さんの前には相手ディフェンスは飛び込めてない。打てる。
斜め後方へバックヘッド気味のシュート。
キーパーが反応できない。俺は思わずゴールの期待に息を呑む。
だが、シュートは惜しくもゴールの角に当たってラインを割った。
平山さんが思わず頭を抱える。この試合初めての決定機らしい決定機。
惜しい。けどいまのプレーができるなら、絶対にまたチャンスはある。
今度はうってかわって日本の攻勢になった。
後半も30分に近くなってモロッコの選手の足が止まってきた。
さっきまでボールを奪いに伸びてきた足が伸びてこない。
さっきまでかかっていたプレッシャーが緩くなっている。
ようやく向こうが積んでいたガソリンが切れたらしい。
これからはガス欠同士の、体に残る一滴の燃料を絞りあうゲームだ。
その意味ではほんとうは条件はようやく同じになったというところ。
だが、前半のプレーとの落差が、モロッコを苦しめ、日本を勇気づける。
さっきまでできていたことができないモロッコと、
さっきまでできなかったことができるようになった日本。この立場の逆転は大きい。
俺がセンターサークルでボールを受ける。
じりじりと前に進むとディフェンダーが出てくる。
それを引き連れて俺が下がると、その脇を本田さんが上がる。
前で受けた本田さんが左右にその高い制球力で自在に散らす。
守備の負担から解放された両サイドが、
やっと攻められる、と嬉々としてドリブルでがんがん勝負する。
前半とは逆にモロッコが自陣に釘付けだ。
ゴール前をしっかり固めてくる。平山さんはもうがちがちにマークされている。
ならば、と俺が、本田さんが、積極的に
ミドルを打っていくが、ゴール前に作られた壁が厚い。
森本か前田さんが欲しい。
原さんもよく体を張っているが、疲れがにじんでいる。
フレッシュなフォワードを入れて、流れがあるうちに決めたい。
だが、ベンチの小熊監督は動かない。
90分で決着がつかなければ、延長戦のあるこのゲーム。
負傷者の出る可能性があることを考えると、監督としては簡単には動けない。
森本がベンチでうずうずしてるのがピッチからもわかる。
小熊監督の頭としては延長の頭から入れてくる考えなのか。
スタジアムの時計を確認する。42分。
ゲームが止まることの少ないクリーンな試合だった。
ロスタイムはほとんどないだろう。
この時間になるとさすがにうちのディフェンス陣にも、
再び失点の恐怖が頭をもたげてきてもおかしくない。
ここでスコアが動けば、ほぼ勝負は決まる。
できればうちの流れのうちに決めておきたいが、ここは我慢なのか。
増嶋さんが自陣の深いところから前線にロングボール。
だがミスったのかボールはフォワードがいないところに飛んでいく。
俺はダメで元々とボールを追ってみるが届く場所ではない。
落下点に入った相手のセンターバックがしっかりとヘディングで跳ね返す。
ボールが俺の頭を越えていく。ボールの軌跡を目で追う。
その瞬間、本田さんと目があった。意思が通じた。
相手のヘディングしたボールは、本田さんのところへ飛んでいく。
それを本田さんがダイレクトでディフェンスラインの裏へ蹴り返した。
もちろんその瞬間には走り出した俺は既にトップスピードにのっている。
縦パス一本で裏をつく攻撃。俺はディフェンスラインを切り裂いて走る。
相手の反応が一瞬遅れた。集中が切れてたのか。ツイてる。
俺が一歩抜け出す。振り返る時間はないが、
俺のすぐ後ろを相手のディフェンダーが走っているのは見なくてもわかる。
ボールは俺の走る真正面に落ちてくる。
少しでも右にぶれてたら、相手の方が先に触れてしまうところ。
絶妙のコントロールだ。だが、そこまでどんぴしゃりでも、
俺に与えられた時間はほとんどない。
トラップした瞬間にファールで引き倒されることも覚悟しなくてはいけない。
俺の頭に電流が流れる。回路が計算をはじめる。
エリアまではまだ若干距離がある。
キーパーは前目。一気のドリブル突破をケアしているのか。
目の前でボールがバウンドする。次のバウンドで俺は落下点に入れる。
ますます回路がその計算速度を上げていく。
さらに前に蹴って持ち込むか、いや、バウンドがあわない、
ボールが流れて前に行きすぎてしまいそうだ。
少しでも流れれば、キーパーが飛び出して拾ってしまう。
足元に止めるか。だが、後ろのやつにまちがいなくつぶされる。
ファールをもらえればいいが、審判がとってくれなかったら?
いちかばちか、走ってるはずのフォワードに
自分のイメージを頼りにダイレクトで浮き球を蹴ってあわせてみるか。
どうする?どうする?
ありとあらゆる選択肢が俺の頭の中を流れていく。
ボールが目の前に迫ってくる。さすが本田さん、バウンドして止まるボールだ。
相手の息づかいが耳のすぐ後ろで聞こえる。
俺は右足をバウンドして落ちてくるボールの下に差し込むと高く蹴り上げた。
次の瞬間、足が地面から離れ、俺の体が宙に浮く。
飛び込んできた相手の太い腿で腰からなぎはらわれた。
バランスを失った俺の上体が右側に倒れる。視界がぐらりと90度傾く。
その視界の中を俺が蹴ったボールは、ゆっくりと飛んでいる。
なんであんなにゆっくりなんだろう。俺は思う。
自分だけ時間の流れから切り離されたみたいにいろいろなことを考える余裕がある。
危険なタックルだったけど準備はできていたし、
きれいに倒されたから怪我する心配はなさそうだ。すねや足首には入ってないし。
むしろこのままきれいに倒れる方が大事だ。
変に手をついたりすると指や手首を痛めそうだ。
景色の中でキーパーが二、三歩背走し、バックジャンプ。手を伸ばす。
届くなよ。俺は祈る。
重力に導かれて俺の体がゆっくりと芝の上に落ちていく。
俺の体が地面に落ちたのを待っていたかのように、
俺の蹴ったボールはバーをすれすれにかすめて鋭角にゴールの中に飛び込んでいった。
ああ、よかった。決めたぜ、モニカ。やったよ、俺。
これでまた少しデートの予定が延びちゃうけど、もうちょい待っててくれよな。
ネットが静かに揺れるのが見える。
それを見た瞬間、俺は大きな大きな充足感に包まれる。
試合してるのに、戦ってるのに、安心するって変だよな。
でもうまくいえないけど、すごくすごく嬉しくて幸せな気分なんだ、いま。
なんなんだろうな、この感覚って。
次の瞬間、音が押し寄せてきた。世界が元に戻る。時間が自分に追いつく。
どこかから歓声が聞こえる。あれ、いま聞こえたのは監督の叫び声か?
起きあがって確認しようとしたら誰かの体が覆い被さってきた。平山さんだ。
「すげえ、すげえぞ」興奮状態で俺の頭をぺしぺし叩く。痛い、痛い。
男に上に乗られて喜ぶ趣味はないです、といおうとしたが、
俺の体にかかる重みはどんどん増していく。
おい、俺をこのままこのスタジアムのピッチに埋め込んで人柱にでもする気か。
俺は自由になる手の先で懸命に地面を叩いてタップしたが、
興奮したみんなは誰も気づいていない。
しばらく耐えていると重みがようやく軽くなった。
最期に平山さんが起きあがり、俺の手を引っ張って起こしてくれた。
起きたら起きたでまた笑顔のみんなからはたかれた。
「なんつう、すげえループ打つんだよ!狙ったのか?」
増嶋さんが満面の笑みだ。
「キーパーが少し前に出てたから。トラップしてたらつぶされそうだったし」
俺の返事に増嶋さんが、ひゅーっと口笛を吹く。
たいしたやつだわ、と増嶋さんがあきれたようにつぶやいた。
「おい、絶対にこの試合勝つぞ!」増嶋さんがチームに気合いを入れる。
あちこちから、おう、と雄叫びが返ってくる。
この試合、いける。俺の中で確信めいた予感が広がった。
長く鳴った笛に、平山さんが、原さんが両手を広げる。
勝った。これで次に行ける。
センターサークル付近で俺たちは
軽くハイタッチを交わし、簡単に喜びをもう一度分かちあう。
整列。そしてモロッコの選手たちと順々に握手。
この試合でチャンスを外し捲った相手の9番が泣いている。
俺が力強く手を握ると、俺を抱いて背中をぽんぽんと叩いてきた。
もちろん言葉は通じない。
でも、今日は負けたけど次はこうは行かないぞ。
お前たち、次の試合も負けるなよ、上まで行けよ。
そんな相手の気持ちが、背中に置かれた手からすうっと俺の中に入ってきた。
同じピッチに立って戦った同士だからこそ
わかりあえるものがあることを背中の手が教えてくれていた。
モロッコの選手と離れ、熱狂やまないサポーターの前へ。
これを凱旋というのだと思った。
サポーターたちが興奮の極みにいるのがピッチから観ててもわかる。
その中を増嶋さんのリードに従って、全員そろって手をあげる。大きな拍手。
そして俺のコール。足を止めて、頭を下げた後、手を振って応える。
「随分それっぽくなってきたじゃん」と水野さんに冷やかされた。
「まぐれ、まぐれ」と今日は出番のなかった
森本がちょっと悔しそうに混ぜっかえす。俺は軽く森本に体をぶつける。
みんながこれだけ熱狂的に喜んでくれる。
もちろんできが悪いときにはブーイングが待っているわけだ。
長くやっていれば当然そういう経験もすることになるのだろう。
でも、それでも。これだけみんなを喜ばせてあげられる
サッカー選手って、幸せな人種だよな。
俺たちが挨拶を終えても、ニッポンコールは終わらない。
タッチライン沿いに歩く俺たちの背中に、喜びの声が後ろから降り続ける。
「ベスト8進出おめでとうございます」
元山の言葉に、ありがとうございます、と小熊は頭を下げた。
「モロッコ戦も前半は何度か危ない場面が目立ちましたが、
監督としては後半にうまく修正できた、という感じでしょうか」
「やはり前半は相手の高い身体能力に選手たちが面食らった部分がありました。
後半、相手の動きにこっちが慣れてきたことや、
向こうが前半飛ばしすぎて、後半足が止まってきたこともあって、
後半はだいたい自分たちのやりたいゲームができたように思います」
「そして決勝点はまたしても交代で入った樋口君でした。
起用がズバリ当たったというところですか」
ちょっとピントのずれた質問だな、とも思うが、
マスコミ的にはこういう聞き方になってしまうのもしょうがないのだろう。
「彼がああいう難しい試合の、あの時間帯で
決めるだけの力を持っていたということです」
小熊は簡潔に答える。自分の眼力を誇るつもりはない。むしろその逆だ。
あのゴールまでの距離で、背後からプレッシャーを掛けられた状態で、
ループシュートを打つ、という選択をする意思。
そしてそれを形にした、寸分の狂いもなく狙いどおりの軌道に載せたキック。
あのシーンと同じように裏に走り込む場面は、
比較的頻繁に見かけるありふれた光景だ。
だが、あのときの樋口と同じシチュエーションに立ったとき、
ループシュートを選択し、意図どおりにボールを蹴れる選手がどれほどいるだろう。
俺がどういう起用をしたかは関係ない、完全に樋口個人の力で奪ったゴールだった。
小熊がピントがずれた質問だな、と感じたのはそういう理由だった。
「さて次はいよいよ準々決勝です。
監督はこの大会の目標はベスト4進出だとずっといわれてきましたが、
試合を前にしたいまのお気持ちは?」
「こういう真剣勝負の場でひとつでも高い場所を目指すことの大切さは、
選手たちもよくわかっていると思います。
一試合でも多くこなし、そして何かを学んで今後に生かす。
そのためにも明日はいい結果を出したいと思います」
「あれ、みんなは?」
ドアを開けるとそこにいたのは平山さんだった。
「カレンや増嶋さんたちとリラックスルームに行ってます。
みんなでアルゼンチンのビデオ見てますよ」
俺たちはモロッコの試合を終えた翌日、すなわち昨日、
準々決勝に備え、ユトレヒトのホテルに移動していた。
「ヒロはいかないの?」
平山さんは俺のことをそんなふうに呼ぶ。
学校では苗字で呼ばれることがほとんどなのでちょっと落ち着かない。
「いま、みんな行ってるから混んでますよ。
後で見に行くつもりです」
じゃあ、俺もそうすっかな、と平山さんが言う。
しばらく俺たちの部屋で一緒に待ってますか、とたずねると
「いいかな?本読んでるだけだから別に一人でいればいいんだけど、
やっぱり部屋に一人でこもってるとどうしてもさみしくて」
平山さんが笑った。俺も笑った。その気持ちはわかる。
俺が窓際に椅子を置いてぼーっと窓の外を見ている後ろで、
平山さんはゆっくりとベッドに座って本を読みはじめた。
ちらっと見ると伸びた足が本当に長い。
「平山さんて、本好きですよね」
読書の邪魔しちゃ悪いかな、と思いつつ話しかけてみる。
平山さんは別に気にした様子もなく
「そんな難しい本、読んでないよ。暇つぶしにいろいろ読んでるだけ」
「でも平山さんて頭もいいんでしょ」
平山さんは口を大きく開けて笑うと、
それはマスコミの書いた嘘だって、と手を振って否定した。
サッカーも上手くて、頭もいいんじゃ鬼に金棒ですね、というと、
「俺はサッカー上手くないよ」と平山さんは首を横に振った。
十分上手いですよ、と俺が言うと、平山さんは真顔になって
「でも、俺はサッカー選手になる気はなかったんだ」
意外な答えに、え、どうしてですか?とたずねると
「自分がサッカーで食っていける人間だとは思えなかったんだ。
だから、大学でサッカーをやって、その後は先生になるつもりでいたんだよ。
で、大峰先生みたいに、学校の部活の指導とかできたらいいなって」
平山さんが大学で教員免許を取得しようとしていたことは、
俺も新聞の報道で見た記憶があった。
「でも小熊監督が急に前回のワールドユースのメンバーに呼んでくれて・・
それまで全然合宿とか参加してなかったんだぜ、
もうびっくりした、としかいいようがないよ。
最初は大学の試験と日程が重なってるんで無理です、って。
でもそれでもいいからとにかく来いって。
一度UAE入りしてから日本に戻って受験して、またUAEに行ったんだぜ。
小熊さんも無茶言うよなあって思ったよ」
平山さんが笑う。俺もつられて笑う。
「でも選ばれても、それでも俺の考えは変わってなかったな。
ワールドユースにでれば、将来子どもたちを教えるときに、
いい経験として話してあげられるかなって、それぐらいの気持ち。
だからワールドユースに選ばれても、ちゃんと受験したんだけどね。
ただワールドユースが終わって日本に帰ってきたら、
もう次はオリンピックだ、みたいな雰囲気になっちゃってるんだよね。
まさかと思ったら本当に合宿に呼ばれるし。
あとはもう流れにのってるだけ。あっという間の出来事だったね。
なんか余計なことを言えるようなムードじゃなかった」
平山さんが苦笑いする。
サッカー雑誌でも、大学に行くような奴を呼ぶなんて・・
みたいな論調の記事がごくたまに出ていた。
そんな雰囲気の中何かを言えば混乱が大きくなるだけなのは、
火を見るよりも明らかだっただろう。
「平山さん、先生のほうは・・」
「うん、もう無理だろうね。これだけ遠征が入ると必要な単位がとれないんだ」
そのことも新聞報道ででていた。
「自分自身、サッカーで食っていけるかというと、
やっぱりいまでも自信はないんだ。
まあこんな性格だからプロはやめておいたほうが
いいのかな、と思ったんだけど。
ただここまでみんなが期待してくれるんだから、
きっと俺にもそれだけの価値があるんだろうと最近は思うんだ。
だからやるだけやってみようと。いまはそう思ってる」
なんとなくしんみりしてしまった。
そんな俺の顔を見て、
「そんな暗くならないでよ。
別に俺自身納得してる話だし、悔いはないからさ」
平山さんがあわてたように言う。
俺は自分自身のことを考える。
サッカーが好きだ。それはまちがいない。
ずっとサッカーをしていたいと思っている。
でも、プロのサッカー選手になるということは、
そういう気持ちとはまったく別の次元の話なのだろうか。
激しい競争の世界、明日の保証のない世界。
サッカーが好きという気持ちだけでは、簡単に飛び込んではいけない世界なのだろうか。
この前の試合でループシュート決めたとき、どんな気持ちだった?」
考え込んでしまった俺に平山さんが優しくたずねる。
「シュート決めたとき、ですか?」「うん」
俺は思い出してみる。
相手のタックルを受けて倒れながら
俺は自分が蹴ったボールがゴールに吸い込まれるのを見ていた。
ああ、あの時。俺は確かになにかを感じていた。
なんだろう、あの気持ち。
気分がよかったけど、快感というのとは少し違う。
なんといえばいいんだろう、いい言葉が見つからない。
「俺がこの前のワールドユースにでたとき、
エジプト戦で点とったのは知ってる?」
知ってます、テレビで見てました。俺は答える。
終始押し込まれる苦しい流れの試合。その中で一本の縦パスから、
鮮やかにディフェンスとキーパーを交わして流し込んだ美しいゴール。
そっか、じゃあ説明はいらないね、と平山さんは言うと
「あれを決めたときね、すごい感動したんだ」
俺の中ですっと腑に落ちるものがある。
ああ、そうか。あのときの俺の気持ち、あれは感動なんだ。
「もちろんいままでに数え切れないほどゴールは決めてる。
大事な試合、大きな試合で決めた思い出のゴールもたくさんある。
でもね、あのとき俺が蹴ったボールが転がっていって、
相手のゴールに入ったとき、そのときのうわぁーって気持ち。
あの時の感動にはかなわないんだ、なんでだろうね」
俺はうなずく。
「わかります、俺が感じたのも同じだと思います」
平山さんは俺の言葉に嬉しそうに微笑むと、
「正直、去年は結構しんどいこともあったんだ。
いつも記者の人にはあれやこれやと聞かれるし、
なかなか怪我や疲労とかでコンディションが上がってこない時期もあってさ。
そうするとね、やっぱりいらいらしてくるんだ」
平山さんの横顔にちょっぴり憂いの色がさす。
辛かったときのことを思い出したのだろうか。
「でもオランダに来て思ったんだ。
あのゴールを決めたときの感動。
あれがあるから、俺、なんだかんだいって頑張ってるのかなって。
あの感動をもう一度味わってみたいって思うんだ」
草食動物のような平山さんの顔がもっと優しくなる。
「いま思うのは、もっと大きな舞台でゴールを決めたら、
俺はどんな気持ちになるんだろうって。
あれ以上、もっと感動できるのかなって。
俺はそれを見てみたいんだ。体験してみたいんだ」
平山さんは首を振って俺の顔を正面から見つめると、
「だから明日はどうしても勝ちたい」
きっぱりと力強く言いきった。
こんな力強さにあふれた人の言葉を聞いたのは久しぶりのような気がした。
「この前はベスト8で終わってしまったから。
はじめて来たみんなには申し訳ない言い方だけど、
ここまでは俺は一度もう見たことのある世界だから。
この上を見なければ、俺の二年間は無駄だったことになってしまう」
ああ、重い。俺はそう思う。
瞬く間に期待のホープとして祭り上げられ、走り続けた前回大会以降の時間。
この人はどれだけの無責任な期待を背負い続けてきたのだろう。
「必ずいいパス送りますよ」
控えの俺の根拠のない言葉、それでも平山さんは信じてるよとばかりにうなずく。
「明日は頼むよ。ヒロがでてくると、
なんかチームのリズムがよくなるからさ」
意外な発言に俺はびっくりする。
そうですか、と思わず問い返すと、平山さんは真顔で
「うん、ブラジル遠征ではじめて出てきたときに思った。
その後もヒロがでてくると、チームが活気づくなって感じるよ。
ちょうどジュビロの中山さんみたいな感じかな?
ほら、ヒロって結構意味もなく走り回ったりするじゃん、
あんまりプレスとしては効いてないんだけどさ」
俺は思わず苦笑する。
「ただそれ見てると、俺なんかも前のほういて、
ああ、もうちょっと守備しなくちゃな、もう少し走らなくちゃなって思うんだ。
一番若いやつがあんなに頑張って走ってるんだから、
俺なんかもっと走らなくちゃダメだって。
きっとみんなヒロのプレイを見てそう思ってるんじゃないかな」
そうだったんだ、全然気づかなかった。
俺も自分のプレーで少しは人に何かを伝えられるようになったのだろうか。
モニカ、俺のプレーはお前に何かを伝えてるか?
「そういえばこの前森本が騒いでたけど、
モニカちゃんとはほんとのところどうなんだい?」
急な話の展開に俺は思わず椅子から滑り落ちそうになる。
「なんですか平山さん、藪から棒に」
「いや、モニカちゃんかわいいからさ。どうなんだろうなと思って」
平山さんは楽しそうにニヤニヤしている。
「ただのチームメートですよ。それだけです。別に付きあってないし」
それだけ?と平山さんが聞き返す。意外と突っ込みがきつい。
「うーん・・まあ、チームの中じゃ仲のいいほうだとは思いますよ。
でもそれだけです。お互い別に何もいってないし・・」
公園でのことが頭をよぎり、つい歯切れが悪くなる。
「ヒロはどう思ってるの?モニカちゃんのこと」
どう思ってる、ってどういう意味ですか?と聞き返すと、
平山さんは最高に人の悪そうな笑顔で
「ヒロはモニカちゃんのことが好きなのかってことだよ」
うー・・ん。俺は答えに詰まってしまう。
俺にとって、モニカは学校の他の女たちとは、次元の違う存在だ。
サッカーのことを話せ、一緒にプレイして楽しくて、
そして勉強させられることがたくさんある。
俺にとって大切な存在なのはまちがいない。
でも、それが好きってことなのか・・・真剣に考えるほどよくわからない。
「好きっていうのかよくわからないです。
でも、俺にとって大事な存在だなとは思ってます」
俺の言葉に平山さんは静かにうなずく。
「ま、俺もその手の話について、
人に何か言えるほど経験あるわけじゃないんだけどさ。
ヒロは旅行ってしたりする?」
いいえ、ないです、と首を振ると、じゃあ、俺と同じだな、と平山さんは言って、
「俺もほとんどサッカーの試合なんだけどね、遠くに行くのは。
本かなにかで読んだんだけど、
旅にでて、俺たちみたいにこういう遠征でもいいんだけど、
新しいものをいろいろ見たり、それで感じたりするじゃん。
ああ、きれいな景色だな、とか、ああ、なんでこんなものがあるんだろう、とか、
知らない場所にいくと、新鮮な気持ちで感動したりすることがあるよね」
俺は同意する。
俺にとってはこの数ヶ月、そんな新鮮な体験ばかりだ。
「そのときね、その感動を伝えたいって思った人、
それがね、自分にとって大切な人間なんだって。そうその本に書いてあってね。
俺、それ読んで妙に納得しちゃったんだ。
そうかもしれないって。
今日、こんなものを見たよ。こんなことを考えたよ。
そんな気持ちを遠くにいる誰かに伝えたいと思う気持ち。
それが誰かを好きってことなんじゃないかって」
俺の意識はブラジルのグラウンドから空を見上げていたあの瞬間に飛んでいた。
この目で見てるかのように頭の中にあの空がありありと映し出される。
どこまでも高く、青かったブラジルの空。
少し陽も落ちかけてほのかに赤みも差したきれいな、美しい空。
俺が見たものをモニカにも見てもらえたらなあ、と思った。
俺が感じたものがモニカにも伝わったらなあ、と思った。
そうあのとき、俺は思っていた。モニカがそばにいない寂しさ・・
そんな俺の様子に
「ヒロの答えは聞かないでおくよ。聞かないでもなんとなくわかったし」
平山さんがいたずらっぽい目で見た。
俺は思わず顔がちょっと赤くなる。
「そろそろ俺たちもビデオ見に行こうか。もう幾分すいたろ」
平山さんがベッドの上から立ち上がる。
俺は部屋の鍵を手にとってその後をついて、ドアのほうへ歩く。
目の前に大きな平山さんの背中。
明日。俺はこの人にパスを送りたい。最高のパスを送りたい。
この人のために俺ができることをしたい、そんな気持ちでいっぱいになる。
水色と白のストライプ。
近くで見ると改めてそのデザインセンスの良さに舌を巻く。
シンプルに美しい。
もちろんそれだけではない。
フットボールの世界ではその組み合わせは、
観る者にとっては憧れの、そしてピッチに立つ者にとっては畏怖の対象だ。
それに対抗できる力を持つのは、あとはカナリアイエローしかない。
心なしか握手を交わしてるスタメンの顔も引きつっているようだ。
ワールドユース準々決勝。相手はアルゼンチン。
グループリーグをぶっちぎりの強さで勝ち上がってきた。
決勝トーナメント1回戦では、グループBを3位通過した中国を、
4−0と文字通り粉砕してこのベスト8進出を決めている。
俺はベンチに座ったまま、水色と白のユニフォームの中から18番を探す。
いた、あいつか。背はさほど高くないが、それなりに厚みのある体つき。
一見人見知りしそうなおとなしそうな顔だちだが、
その眼光の鋭さは、こいつがただものでないことを物語っている。
アルゼンチン代表のホープ、メッシだ。
13歳でスペインに渡りバルセロナへ加入。
この5月リーガで得点を挙げ、バルサの最年少ゴール記録を塗り替えた。
このワールドユースでも既に4得点をあげ、
アルゼンチンの快進撃の原動力となっている。
俺とほぼ同じ年で既にエトーやロナウジーニョと同じピッチに立っている男。
これが世界か。俺は実感する。
ふと気づくと隣に座っている森本も鋭い目つきで、メッシを睨んでいる。
何度もビデオでメッシのプレーをチェックしていたのを俺は知っている。
こいつだってJの数々の最年少記録を塗り替えてきているが、
世界にはまだまだ化け物がいる。
俺も早くピッチに出たい。出て世界を見てみたい。
世界にはどんな奴がいるのか。どんな化け物がいるのか。
そしてそいつらを相手に、俺はどこまでやれるのか。
モニカにあったときもそうだった。
こんなうまい女がいるなんて。
今までの狭い自分の世界では考えられなかった存在。
モニカをきっかけに動きはじめた俺のサッカー。
モニカに負けないように、と懸命に走っていたら、
俺はいつしか日本の若き才能たちの中にほうり込まれていた。
そこでも負けないように喰いついていたら、
とうとう俺はこのオランダまでやってきていた。
俺はメッシを見る。お前は俺にどんな世界を見せてくれる?
俺は平山さんの姿を探す。いつものひょうひょうとした表情。
あなたの気持ちがわかります。
俺も自分がまだ見たことのない世界を見てみたい。
ミーティングで小熊監督は、
「アルゼンチンは立ち上がりで一気に来るから覚悟しておけ」
という指示を出していたが、そのとおりアルゼンチンは仕掛けてきた。
やはり彼らの中で日本はいまでも格下扱いだ。
格下の相手と戦う時には、序盤で得点を奪ってリードしておくのが、
「間違い」を起こさない一番確実な方法だ。
事実、去年の夏に親善試合でフル代表が戦ったときも、
果敢なプレスとスライディングでボールを奪うと、
開始4分で先制点をとってゲームの流れを決めてしまった。
日本の選手もそれは理解している。
しかし、理解しているのと、実行できるかはまた別の問題だ。
中村さんが鋭いスライディングにボールを奪われる。
そのボールがすばやく前に送られる。
敵のフォワードが左サイドに開いてボールを受ける。
小林さんと杉山さんが二人がかりで道をふさぐ。
だが、相手の技術もしっかりしている。
杉山さんが足を伸ばしてとりにきたところを、
すっとボールをずらして交わすと、中へ逃げるようにドリブル。
小林さんは杉山さんがスクリーンになって追うのが遅れる。
ゴール前にいるフォワードは増嶋さんががちがちに詰めているが、
そんな日本を笑うかのように、エリア手前のスペースへ低い弾道のパス。
予想もしなかった場所へのパスにコンマ数秒、日本の選手の判断が停止する。
そこへ後ろからメッシが走りこんでくる。左からのボールをダイレクトボレー。
ジャストミートのボールがゴールめがけて飛んでいく。
西川さんが必死に横っ飛び、ボールはポストの角に当たって鋭角に跳ね返る。
幸いにそのボールは水本さんのところへ。
アルゼンチンの選手が足を伸ばすが、間髪いれずに遠くへ蹴りだす。
運がよかった。しかし、なんて技術持ってやがる。
挨拶代わりの一発としては、文句なしの効果だ。
ベンチにいる誰かが安堵のため息をこぼした。
サッカー漫画のように簡単にやってくれるが、
あれだけきっちり芯を食って抑えの効いたダイレクトボレーも
そうお目にかかれるものではない。高い技術の裏づけが必要だ。
ベンチでこれだから、近くで見てた日本のディフェンス陣には
もっと強く意識に刷り込まれたことだろう。
アルゼンチンのディフェンスラインからの長いボールが、
引いてきた相手のフォワードにぴたりと入る。
増嶋さんがぴったりついているが、落ち着いて胸で勢いを殺すと、
そのボールをダイレクトで後ろへはたいた。
これでは増嶋さんも何もできない。必要以上に押せばファールをとられるだけだ。
折り返しのボールを受けたのはメッシ。
ポストしたフォワードが前に走る。メッシがすかさず前に長い玉足で出す。
増嶋さんが必死に並走。小林さんも寄って中央を厚く構える。
だが中央に入った相手の9番はメッシからのボールをヒールで右側のスペースに流す。
そしてそこに斜めに動いたメッシが走りこんでくる。
ディフェンスは枚数がそろっているのに、
二人のコンビネーションでいいように左右に振られてしまっている。
さっきの強烈なミドルが脳裏にある日本のディフェンス陣は、
メッシの切り込みに正直に正面に飛び込んでしまう。
コースを切られたと見てとったメッシは落ち着いて右へ流す。
サイドにいた選手が中央に切れ込んできている。
水本さんがメッシに釣られた今、ゴールとの間の壁は何もない。
エリアに入ると角度のないところから迷わずシュート。
地を這うボールがゴールへ飛ぶが、コースに入ってた西川さんが右手に当ててはじく。
だが、幸運は何度も続かない。詰めていた9番がバウンドしたボールを
軽くヘッドでゴールへ押し込んだ。あっさりと先制点。
痛い。俺は体に針でも刺されたかのように思わず顔をしかめた。
気をつけていて、監督にも言われて意識していたのに、
それでも開始早々に点を奪われてしまったというのはショックが大きい。
顔色を失った選手たちを励ます日本サポーターの声。
小熊監督の激がこだまする。この失点は監督の想定の範囲内なのだろうか。
ボールがセンターサークルに戻って試合再開。
アルゼンチンの出足がいい。おそらく全開モードで来ている。
2点目をとって、試合の流れを決めてしまおう、というのはみえみえだ。
わかっている。わかっているが日本の選手がその勢いに圧されてしまう。
相手の巧みなコンビネーションに、
ただただガードを固めて下がるボクサーのようだ。
相手のクロスを水本さんがヘディングでクリア。
ハーフウェーラインの手前でパスを受けた水野さんが前方へロングパス。
ダッシュを効かせた平山さんの目の前で旗が上がる。
オフサイドだ。平山さんが天を仰ぐ。
相手がすばやいリスタートからボールを前線へ送る。
こういうところがいやらしい。流れを離さない気だ。
また日本のディフェンスが緊張を強いられる。
今頃、ディフェンダーたちは心の中で水野さんを呪っていることだろう、
どうしてもっとキープして時間を稼いでくれないんだ、と。
水野さんにしてみれば、中盤だってプレッシャーが緩いわけじゃない。
囲まれてボールを失うよりも、
前線へ蹴ることで少しでも時間を使うつもりだったはずだ。
だがそれを受ける平山さんも焦りがあるから、オフサイドに引っかかってしまう。
歯車がずれている。流れがどんどん悪くなる。
打開しようという気持ちが焦りを生み、その焦りがまたミスを呼ぶ。
久しぶりのマイボール。本田さんがすばやく左右を確認してサイドへ出すが、
呼吸が合わない。家長さんがバックステップを踏んだ瞬間のパス。
タッチラインを割るボール。日本サポーターのため息。
家長さんが、なんで今出すんだよ、と手振りで訴える。
本田さんも両手を広げて抗議する。
スローインから大きくサイドを変えた展開、
少し激しくいった杉山さんのチェックにメッシが倒れる。笛がすかさず鳴る。
今のはファールじゃないだろう、と杉山さんが珍しく審判に文句を言う。
もちろん審判の判定が変わるわけはない。
嫌な位置でのフリーキック。あっさりとゴール前へほうりこんできた。
増嶋さんがヘディングでクリアするが、相手に寄せられていた分飛距離が出ない。
落ちてきたボールを8番のザバレタがすかさずミドルシュート。
ゴール前の誰かに当たって止まるが、ボールはエリアの中だ。
エリア内での混戦。ごちゃついた、と思った次の瞬間、ネットが揺れていた。
アルゼンチンの選手たちが勢いよくコーナースポットへ走って喜びを爆発させる。
思わず下を向いてしまう日本のディフェンス陣。
2点差。最悪といっていい展開だ。
この試合は一発勝負のトーナメント、あのアルゼンチンから3点とらなければ
次には進めない、という事実が日本に重くのしかかっている。
サポーターたちがエールを送るが、その声は明らかに1点目のときより弱々しい。
時計を見る。20分を過ぎたところ。
コーチングエリアに立つ監督の背中を見る。
おそらく頭の中では交代を考えているだろう。
ピッチではアルゼンチンがいいようにペースを握っている。
怒涛のように前に出てくることこそなくなったが、
カウンターに気をつけながら日本をなぶるようにパスを回す。
穴が、スペースが開けばいつでもついてやるぞ、という余裕だ。
隣で森本がいらついているのがわかる。早く俺を出せ、と思っているのだろう。
その気持ちは俺にもよくわかる。
長い笛。接触があったらしい。アルゼンチンのファール。
ピッチを見ると杉山さんが倒れこんでいる。
しばらく様子を見ていたが、少し様子がおかしい。
杉山さんのそばにいった増嶋さんがスタッフを手招きする。
スタッフが何かを話しているが、その間も杉山さんの顔は歪んでいる。
やがて担架が呼ばれる。杉山さんが乗せられて、反対側のタッチラインの外へ出された。
日本が一人少ないままプレーは再開される。
じっと見ていると、スタッフから×印のサインが出た。怪我らしい。
誰を入れる?もちろん俺も候補の一人だが、
俺のスタミナに不安を感じているらしい小熊監督が果たして俺を呼ぶか。
今日は水野さんのトップ下に、中村さん、家長さんの両サイド。
そして杉山さん、本田さんのボランチ。
普通に考えるなら兵藤さんの投入か。
ただ小熊監督は兵藤さんの調子がこの大会はいまひとつと見ているようだ。
2点差がついていることも考えれば攻撃的に行くことも含め、
サイドに誰か、たとえば左に前田さんを入れて
中村さんか家長さんをボランチに回すという手もありうる。
ふたりともボランチは本職じゃないが、こういう事態に備えて練習自体は何度かしている。
どうする、どのカードを切る?
小熊監督が振り向く。俺と目があった。
少し意外だったがどうやら俺を前半から入れることにしたらしい。
いそいで準備してアップをこなす。急げ、だが怪我しないように慎重に。
3点目だけはとられてくれるな、と俺は祈った。
3点目が入ったら、俺が出る前に試合は完全に終わってしまう。
アップを済ませて、小熊監督の指示を聞く。
「お前と本田でボールを溜めてチームを落ち着けろ。
攻撃についてはしばらく忘れろ。
無闇に放り込まず、しっかりボールをキープしろ」
俺はうなずく。
「流れが落ち着いたら徐々に相手に仕掛けていけ。
ただし前半、これ以上の失点だけはするな。
前半2−0なら後半に可能性がある。
常に本田とは前後のポジションになるように注意しろ。
相手のカウンターを常に頭に入れておけ。
相手ボールのときはお前がメッシを抑えろ、わかったな」
タッチライン際に立つ。プレーが切れるまでの間、俺はそっと腰に手をあてる。
手に伝わる感触が俺の緊張を少し和らげる。
プレーが切れた。俺はピッチへ駆け出す。3試合目のピッチ。
水野さんがピッチ中央で俺を待っている。ポジションの確認だ。
続いて本田さんのところへ。監督の指示を伝える。
そして後ろを振り返り、ディフェンスラインと確認。
最後に前線を見る。平山さんと目があった。
頼んだぞ、とその目がいっている。どこにもあきらめの色なんてみえない。
二年間この日が来るのを待ち続けた。簡単にあきらめたりできるわけがない。
目を見るだけで平山さんの気持ちが手にとるようにわかった。
相手ボールでプレーがはじまる。
俺は監督の指示どおりメッシにつく。
ちらりとメッシが俺を見た。
マークをつけてきたか、だがそんなことをしても意味ないぞ、
俺はアジアの雑魚に封じ込まれたりはしない。
言葉を交わしたわけでもないのに、プライドと自信が伝わってくる。
知るか、そんなことは。終わってみればわかる。
俺はお前に絶対に好きにさせない。
メッシが小刻みな動きで俺の視界の中で揺れる。
歩いていたかと思うと、急激にダッシュして引いてボールを受けに行く。
俺は集中を切らさず、後ろからぴったりついていく。
メッシの足元にボールが入った。
後ろに伸ばされたメッシの腕が俺の胸を突く。背中が遠い。
こいつは戻したりしない。俺の中に確信がある。
左か右か、絶対にターンしてくる。ボールだけを見ろ。
俺の体が伸びた手を交わそうと右に寄ったときを見計らって左にターン。
体を寄せるが、メッシはそのまま中央に逃げながら進む。ボールが足元から離れない。
このまま勢いで突破されたら厄介なことになる。
俺は相手の左脇に右肩を入れてボールをとりに行く。
メッシの左手が俺のユニフォームの腹の辺りを引っ張る。
そのままパスを出すか、ドリブルで流れるかと思っていたら、
これだけ体が密着した状態から急停止、そして左足アウトサイドを使って切り返してきた。
俺とメッシの体が離れる。ボールが俺のかかとのすぐ後ろを通る。
くそったれ。左足を軸に反転してスライディング。
メッシのつま先のすぐ前にあったボールを
かろうじて俺の右足のつま先がはじく、というより押し出した。
軽くジャンプしてメッシが俺の足を飛び越える。
転がったボールを悠々と小林さんが前線へ。
オフェンスモードに入っていたアルゼンチンの選手は近くにいない。
メッシのキープ力を相当信頼しているらしい。
やはりメッシからボールを奪えれば、メッシを抑えられれば、
このゲーム、流れは変わってくるかもしれない。
そのボールが本田さんへ。本田さんが監督の指示どおりゆったりとキープする。
今度はアルゼンチンがボールを追っかけまわす。
本田さんが一度家長さんにあずけ、家長さんは前をきられたのを見ると
おとなしくディフェンスラインへ戻す。
増嶋さんを経由して俺へボールが回ってくる。相手のフォワードが迫ってくる。
ここは安全に小林さんへ。小林さんもパスコースを切られるとバックパス。
エリア手前まで深く引いた増嶋さんが受ける。もう一度ビルドアップ。
バックパスばかりのひどくコンサバなボール回しだが、
それでもこれだけの時間、ボールを保持していられれば
後ろの選手は気分的に少し落ち着く。
しかしアルゼンチンは相変わらず意気盛んで、きついプレスをかけてくる。
モロッコとやったときもスピードの違いにあせらされたが、
アルゼンチンはそれよりも早い。体感で言うとコンマ3秒は詰めが早い。
モロッコもそうだがワールドユースにいる世界の相手は、日本よりもコンマ3秒早い。
そこまでなら慣れることもできる。なんとかついていける。
だが、アルゼンチンはそれよりさらにコンマ3秒早い。
身体能力だけならモロッコのほうが高いかもしれないのに、
それでもアルゼンチンがさらにコンマ3秒早く詰めてこれるというのは、
ボールの動きを、試合の流れを読む力が優れているのか。
ここまで来ると慣れるだけでは克服できない。
追いつけない人間をふるい落としていく、慈悲のない領域のスピードだ。
なんということのないボール回しでさえ、
日本の選手は限界領域での判断を強いられている。
とりあえず前半は最低このままで持ちこたえなくてはいけない。
後半になれば絶対に流れが回ってくる。
だがついに日本のパス回しが決壊した。兵藤さんが囲まれてボールを失った。
すかさず左サイドをダンプカーのようにドリブル突破してくる。
家長さんがストライプのユニフォームを掴むが、
スピードでひきちぎられてバランスを崩して倒れる。やばい。
俺はメッシを探す。いない?どこだ?すぐ消えやがる。
ファーだ。フォワードのような位置取り。ラインの中に入っている。
どうする?マークを続けるか?
だがディフェンスラインに俺も吸収されてしまう。ラインを乱すことにならないか?
一瞬迷うが、そのままメッシにくっつく。
絶対こいつがどこかで勝負してくる。確信めいた予感があった。
低い弾道のクロスは精度がなく、増嶋さんが手前で蹴り返す。
そのボールはツキがないことにもう一度アルゼンチン。
メッシは?今度はエリア手前の位置に下がっている。
俺も下がってつこう、と動いたその瞬間、メッシが猛ダッシュ。
俺は左足で踏ん張り、メッシに懸命についていく。やっぱり二列目からの飛び出しか。
ボールは見なくてもわかる。
ゴール前を大きくまたぐファーポストあたりへのロングボール。
少し前にメッシの背中。こいつにプレーさせたら終わってしまう。
もう一歩、もう一歩早く。こいつの前へ。
俺の体がぐっと前に出る。メッシがジャンプする気配。それにあわせて俺も跳ぶ。
こいつにだけは仕事させない。俺とメッシの背中が空中でこすれあう。
後頭部にボールが当たる衝撃。そのままもつれあうように地面に落ちる。
ボールを捜す。定まらない視界の中で、小林さんからボールが前に送られるのが見えた。
ふうっと息を吐く。大丈夫だ。俺は手をついて立ち上がる。
脇でメッシも体を起こす。特に痛んでもいないようだ。
顔を見るが何を考えているか表情からは読みとれない。
ああ、いま、俺はこいつと戦っている。
アルゼンチンの若き天才と、次代のバルサを担う男と一対一で戦っている。
試合の途中だというのに妙な充実感が俺を包む。
俺はいま、まちがいなく世界を相手にしている。
前半終了の笛が鳴った。
攻撃の形こそできていないが、
守備に関していえば、ある程度立て直せていた感じがある。
その意味では手応えはあった。だが。
俺はスコアボードを見る。刻まれた「2」の文字が重い。
この後、無失点に抑えただけでは何の意味もない。
先に進むには二点差を追いつかなければいけない。
まともにシュートを打ててない状況で二点差を追いつけ、と。
口から小さくため息がこぼれそうになったとき、
左側から平山さんが歩いてくるのが見えた。
はっとする。萎えてる暇はない。昨日考えたことを忘れたのか。
いまはただ点を取り返すことだけ考えればいい。
ロッカールームの雰囲気は微妙だった。
立て直せた部分もあるので、壊滅的に暗いわけではない。
だがやっぱり2−0というスコアは重荷となってのしかかる。
小熊監督が中央に立った。みんなの意識が向く。
「残り45分で最低でも2点とって
追いつかなければ、俺たちのワールドユースはここで終わる。
2点差は楽な点差ではない。だが、十分チャンスのある点差だ。
まだあきらめる必要はまったくない。
先に1点とれれば、追いつける可能性は決して低くない」
ここまでは一般論だ。じゃあ、どうしたら点が取れるのか。
「開始すぐの時間帯を狙って、相手はおそらくとどめを刺しに来る。
立ち上がりはラインは深めにしろ。じっくり守れ。
樋口はメッシのマークを絶対に外すな。
小林も本田も樋口の周囲をケアして、メッシに自由に捌かせるな。
その時間帯はボールを奪ったら、前線へ蹴りこめ。
ただし、人に合わせるな。奥のスペースへきっちり蹴りこめ。
手前で奪われると波状攻撃の餌食になる。
もう一度いうぞ、立ち上がりは相手陣内奥まで深く蹴れ。
平山とカレンはそれを追って常に裏を狙え。
ボールが取れなくても前線から相手を追い込め」
監督は自分の言葉が届いているか確かめるように選手を見渡す。
「立ち上がりをしのげれば、南米の奴らは必ず一度ペースを落とす。
後半、ずっとハイペースで飛ばしてくるなんてことはありえない。
その時間帯でチャンスを掴め。
相手のペースが落ちたな、と感じたら、攻めていけ。
この時間は打ち合い覚悟だ。とにかく点をとれ。
守備については多少のリスクはとれ。点をとらなければ次はない。
中村、家長は常に互いのポジションを見て、どちらかが高めに構えろ。
本田、樋口。どちらかが上がって水野と並んで攻撃を作れ。
攻めのときは三人が逆三角形になるように意識しろ。
最後は平山の頭を使え。平山の頭はアルゼンチン相手でも通用する。
どうしても崩しきれないときは平山で勝負しろ」
口調が熱を帯びる。その熱を伝えるように小熊は選手一人ひとりの目を見る。
「アルゼンチンは強い。だがこいつらを倒さない限り、
日本が世界を制すなんてありえない。
ぶちのめせ、ひとりひとりが対面をねじふせろ。
俺たちは世界に出て行く。世界を獲るんだ。
あと三つ勝てば世界が獲れる。俺たちが世界一になるんだ」
小熊監督の言葉はどんどん熱くなっていく。
この人、本気で世界を獲る気だよ・・。
でもそうだ、本気で獲りに行かなければ手に入るわけがない。
世界一。それはどんな気持ちなんだろう。
世界で最も普及しているスポーツで一番になるというのは。
選手同士の話し合いが始まる。
本田さん、水野さんと俺は打ち合わせる。
どのタイミングでボランチが前に上がるか。
水野さんはどんなイメージで動いて、上がってくるボランチのスペースを作るか。
俺たちは互いの持つイメージを共有しあい、深めていく。
後半開始の時間が来る。円陣を組む。
増嶋さんの掛け声で気合を入れる。俺たちの声がロッカールームに響く。
後半の立ち上がりからやはりアルゼンチンはエンジンを全開にしてきた。
さらにパス回しのスピードをあけ、
どんどん後ろの選手が前線に飛び出してくる。
メッシだけ見てればいい俺はまだしも気が楽だが、
ディフェンスの選手たちは、ひっきりなしに視線を動かして、
目から入ってくる情報を処理するのに必死だ。
メッシが引いてボールを受ける。
絶対に前だけは向かせない、と俺は後ろから足を入れる。
メッシと俺の足がぶつかりあう。
メッシの腕が俺の体を引き剥がして隙間を作ろうとする。
後ろに戻す、という発想はさらさらないらしい。素敵だ。
隙間を開けたら捌かれてしまうのは目に見えている。
テクニックでは向こうに一日の長がある。
不意にメッシの圧力が抜ける。つっかえ棒を失った俺の体がメッシと密着。
その瞬間に体全体で押されて、俺は思わずバランスを崩す。
しまったと思うのと同時にメッシはもう体の向きを変えている。
焦りがつい俺の足をボールを奪いに伸ばしてしまう。
メッシが待ってました、とばかりにステップを踏む。
伸ばした足の先でボールが逃げていく。
伸びきった俺の体は、メッシの動きに対応できない。
やられた、完璧に抜かれた。
メッシは猛然と前線に突っ込んでいく。
この絶対に失点できない時間帯、メッシをフリーにするのはやばすぎる。
メッシの背中。ゴールまではまだ距離がある。
ここならまだ許される。これ以上行かせたら危険すぎる。
俺は迷うことなく背番号を思いっきり掴んで力任せに引き倒した。
即座にホイッスル。審判が猛烈な勢いで走ってくると、
俺の頭上にイエローカードをかざした。
妥当な判定だ。文句をいう気にはなれない。
審判が何事かをしゃべっている。ラフプレイへの注意だろう。
俺は手をかざして審判に恭順の意を示すと、紳士的にメッシの手を掴んで起こした。
怒っているかと思ったが、メッシの表情にはまだ余裕がある。
一枚、イエローを切らせることに成功した。一対一の勝負に勝った。
くそっ。悔しさを消化しきれず心の中で毒づく。
まだだ、まだ我慢だ。
小熊監督が言ったように立ち上がりはひたすらこらえる時だ。
きっと監督の言うとおり、俺たちの時間帯が来る。
そのときは。俺をメッシを見る。絶対に俺の背中を追わせてやる。
自陣の一番奥から増嶋さんのロングフィード。
ボールが俺の頭の遥か上を飛んでいく。
ハーフウェーを越えたところで、ピッチの中央にいた平山さんが競る。
平山さんの頭でそらされたボールが右サイドへ流れていく。
それがちょうど後ろからスピードを上げて走ってきたカレンの前に転がる。
思わず後ろで見ていて息を呑んだ。
ちょっとした僥倖だ。カレンがそのままボールをかっさらうと
スピードの違いでディフェンスラインを突き破って、一気に体ひとつ出切った。
カレンが長い蹴りだしのドリブルでスピードを上げる。
平山さんが、水野さんが、中村さんが一斉に前線へ走っていく。
アルゼンチンのディフェンダーが追いついて、中を切りながらカレンを抑えにいく。
エリア手前、もうあまりファールはしたくない位置だ。
そのときカレンが絶妙のステップを踏んだ。
スピードを相手に意識させて、完全に縦方向の突破に相手の注意を持っていっておいて、
左足アウトサイドを使って、中へ入り込む。
エリアに侵入、前が開いてる。あれなら打てる。
チャンスに息が止まった瞬間、視界の中でカレンが鉄砲で撃たれたように倒れた。
すかさず笛。審判がペナルティスポットを差しながら走っている。
PKだ。アルゼンチンの選手たちが納得いかないとばかりに詰め寄るが、
審判は左右に首を振って相手にしない。
カレンが倒れたまま動かない。心配になったが様子を見に行った平山さんが
すぐに離れたところを見ると、回復の時間をとっているだけのようだ。
平山さんはアルゼンチンの選手を横目にスポット付近に立っている。
PKは平山さんが蹴れ、というのが小熊監督の指示だった。
だが、この試合に限っては指示がなくとも平山さんは蹴るだろう。
ほんとうにしぶしぶという感じで、
審判を取り囲んでいたアルゼンチンの選手の輪が解ける。
少し足を引きずっているが、カレンはもう立ち上がっている。
平山さんが丁寧にボールをセットする。審判が位置を確認。
俺はエリアの少し手前から念を送る。頼む、平山さん。決めてくれ。
攻撃の選手とアルゼンチンの選手たちがエリアの線ぎりぎりに詰めている。
笛が鳴り、平山さんが助走開始。
ボールを蹴る澄んだ音。右に飛んだキーパーの裏をかいて
ゴール左にボールは吸い込まれた。
平山さんがすかさずネットからボールを回収して、
センターサークルへ向かって走る。笑顔はない。
まだ1点。もう1点とらなければこのPKの意味はない。
試合再開。アルゼンチンが長いボールを蹴って攻め込んでくる。
点をとられたらすぐ取り返すのが一番サッカーでは効果がある。
もちろん日本にとってもここで一気に畳み掛けるのが理想だ。
流れを掴もうとする意思と意思のせめぎあい。中盤で激しい争いがはじまった。
ルーズボールを追った水野さんが、ラフに体ごとつぶされてピッチに倒される。
笛が鳴らない。信じられないという表情の水野さん。
ボールを持った相手の8番に、今度は本田さんが強烈なスライディングタックル。
本田さんにしては珍しいプレー。もつれあって倒れる二人。これも笛はない。
倒れたまま本田さんが足を伸ばしてボールを俺のほうへ蹴る。
そのボールをとりに行く。
ボールが足元に入った瞬間、前のめりにふっ飛ばされそうになる。
お前、いま肘使っただろう?!俺の体の中で熱がはじける。
マジだ。こいつら、マジで来てやがる。
かろうじて足に引っかけてボールキープ。
俊輔をまねたボールを軸にしてのターン。前を向いて視界を確保する。
目に入ったサイドの中村さんへ考える間もなくパス。
だが、中村さんもハーフウェー付近で前を切られる。
そのボールを中に入ってもう一度受ける。前に少しスペースがある。
左サイド、家長さんはまだ低めの位置だ。前の2枚はしっかり抑えられている。
ここで前線にパスを送ってもゴールまでは遠い。俺の周りは若干スペースがある。
俺はセンターサークルへドリブル。
相手が寄ってきたのを見計らって、ボールを蹴りだしてぎゅっとスピードアップ。
俺の体が前に出た、そう思ったときには俺は芝生に顔をしたたかに打ちつけている。
膝に激痛。ボールがないのに、腹を蹴るかのような脚の入れ方しやがった。
1点差になった途端、ファール覚悟でえぐく当たってきやがる。
笛が鳴るのが聞こえたが、痛みをこらえるのでそれどころではない。
増嶋さんが猛然と抗議している気配をぼんやりと感じるが、そっちを向く余裕もない。
じっと歯を喰いしばってひたすら痛みが引くのを待つ。
痛覚をこらえながら、心を落ち着けて足の筋肉とゆっくり対話する。
ここは大丈夫。よし、ここも大丈夫。よし、やばい怪我とかじゃない。
俺になにか言ってるのが聞こえる。おそらく審判か。
大丈夫か、と水野さんの声。小さく、ほんとに小さくうなづくのがやっと。
俺は少し体を起こし、芝に手をつき四つんばいの体勢で、筋肉が回復するのを待つ。
ようやく呼吸が少しずつ落ち着いてくる。徐々にだが体に力が入るようになってくる。
「樋口ーーっ、大丈夫かーー」小熊監督の声だ。
目だけ動かしてベンチを見ると、いまにもピッチに入ってきそうな勢いだ。
隣では滝沢コーチも心配そうな表情で見ている。
「あれ、どうしたんですか、こんなところで」
リラックスルームに行くと、そこでは滝沢コーチがひとりでビデオを見ていた。
「うん、資料用のテープの編集さ。みんなに見せるやつ」
「え、でもアルゼンチンのはもう・・」
「その次のオランダの奴さ。勝ってからじゃ間に合わないからな」
準々決勝、相手はアルゼンチン。
下馬評ではアルゼンチン圧倒的有利というのは聞くまでもなくわかっていた。
でも、この人はアルゼンチンに勝ったときのことを考えている。
「このテープってコーチが作ってるんですね」
「いや、だいたいはスタッフがポイントになるシーンは抽出しておいてくれる。
ただ、特に強調したいポイントは監督によって異なるからね。
監督とは普段から一緒にいるし、
付き合いも長いからだいたい考えがわかるんでね。
だからだいたい俺が最後の編集はしているかな」
画面の中ではオランダのクインシーが強烈なドリブル突破を見せている。
「そういえば、監督とコーチってうちの岩崎監督と一緒だったんですよね」
「そうだよ。俺と岩崎が小熊さんの一学年下だったんだ」
滝沢コーチが「監督」でなく「小熊さん」と呼ぶのをはじめて聞いた。
「当時、全国制覇したりして強かったそうですね」
「まあ、昔の話だけどな」滝沢コーチは照れたように笑った。
「小熊さんがセンターフォワードで、俺と岩崎がその後ろでパスを出す役割。
まあ、当時としては俺も岩崎もなかなかのレベルだったと思うよ。ただ・・」
ただ?と俺が聞き返すと、
「優勝できたのは、はっきりいって小熊さんのおかげだな。
俺がサッカーやってきた中で、一番すごいと思った選手は小熊さんだよ」
「そんなにすごかったんですか?」
少々意外な感じがして聞き返す。
「外から見たらわからないだろうけどな。小熊さんテクニックないし」
と滝沢コーチは笑う。俺は一緒に笑っていいのか迷って、曖昧な笑みを浮かべる。
「ただ一緒にやってると小熊さんほどすべてを任せられる選手はいなかった。
俺や岩崎がパスやクロスを出すだろう。
そうするとあの人はそれがどんなボールでも飛びついていくんだ。
多少俺たちがミスって横や上下にずれてても、必ず飛び込んでいくんだ。
どんなパスでもお前たちが出したボールは必ず俺が決めてやる、ってね。
だから怪我が多い人でね、あるときなんか鼻の骨折ってるのに、
俺がミスって敵の足元へ出しちゃったボール、
相手が蹴ろうとしてるのにダイビングヘッドで飛び込んで
顔を思いっきり蹴られたときは見てるこっちの血の気が引いたよ」
と滝沢コーチは苦笑いを浮かべた。
「だから、小熊さんにパスを出すときはこっちも真剣だった。
受け手があれだけ体張ってくれる以上、最高のパスを出したいって。
ずれたとこへ出して飛び込ませて怪我させちゃ申し訳ないからな。
小熊さんが欲しいところへ寸分の狂いもなくパスを届ける。
それが俺や岩崎にとって一番大切なことだった。
俺も岩崎もよくパスが正確だ、といわれたけど、
小熊さんが受け手じゃなかったら、あそこまでパスの精度が上がったかわからないな」
滝沢コーチは画面に目をやる。
「今はなんだかんだいってスタジアムに客が入る。
でも、昔はほんと客がいなかったからなあ。
それでもあの人は、ボールに突っ込んでいってた。
怪我したら得になることなんかないのに。
それでもあの人は体を削って戦ってたよ。
高校のときから、代表で一緒にやったときもそれはずっと変わらなかった。
あの人はほんとにサッカーのことしか考えてなかったからなあ・・」
俺は黙って話を聞いている。
「テクニックだけなら、ここにいるお前たちのほうが何倍も上だ。
小熊さんも俺も、岩崎も、お前たちの足元にも及ばないだろう。
ただ、小熊さんの持ってたあの心。
もしかしたら・・あれはまだお前たちは手に入れてないかもな」
意思の力。俺の気持ちは萎えちゃいない。
体中に気合を入れて痛みを追い払う。
こんなことでびびるかよ。これくらい削られたぐらいでひいてたまるかよ。
サポーターの声が聞こえる。俺の名を呼んでいる。
声の一つ一つが俺の背中に砂漠に降る雨のようにしみわたり、俺の体で力となる。
きっと日本でモニカが見ている。タカシだって見てるだろう。
きっと部活のみんなも。そして顔を知らないたくさんの日本のサポーターが。
俺の体に力が戻る。力が蘇る。
まだだ。こんなところじゃ終わらない。
そう、俺は平山さんに約束のパスだって出していない。
ゆっくりと立ち上がる。重心が乗った瞬間、
一瞬痛みがぶり返したがこれくらいどうということはない。
小熊監督と滝沢コーチに手を上げて心配するな、というサインを送る。
監督、あなたが経験した痛みに比べりゃ、これくらい軽いもんですよ。
その時、俺の耳に小熊監督の叫び声が聞こえる。
なんであなたが俺に礼を言うんだよ、監督。
そんな俺の気持ちも知らず、監督の叫び声がピッチに響き渡る。
「サンキュー、サンキューーーッ、樋口ぃー」
双方がペースダウンして、中盤での蹴りあいが続いている。
どちらの流れでもない時間。俺たちのプレーも悪くはない。
だがアルゼンチンに時間を使われているという見方もできる。
時計を見ると25分を過ぎたところ。
ベンチをちらりと見ると森本がもうスタンバイしている。
いつものオプションだ。フレッシュな森本を入れて、
あと1点をとりにいく。
残り時間でもう1度ゴールにボールをいれなければ、次はないのだから。
カレンと森本の交代を告げるボードが示される。
カレンがタッチラインに走っていく。
「樋口!」監督が呼んでいる。俺も急いでタッチラインまで走る。
「もう勝負の時間帯だ。常に意識は前だ。
ボールを持ったら必ず平山の位置を確認しろ。
ただし単純にほうりこむな。なるべくサイドに長いパスを一本入れるようにしろ。
どんどん前に出て行け。ただし本田との位置は必ず縦だ」
俺は監督の指示を本田さんに伝える。
平山さんを必ず見ろ、という指示はプレイ時に顔を上げさせ、
攻撃を意識させるという意味では、効果的な意識づけだ。
左サイドでアルゼンチンがダイレクトのリズムのいいパス回し。
長い球足のパスがラインの裏へ出る。
家長さんと水本さんがしっかり対応して
外へ外へ追い出すが、相手もさすがに粘る。
ゴールライン際まで持ち込まれたところで、
水本さんの足にあてて外へ出され、コーナーをとられた。
平山さんがエリアまで戻ってくる。前線には森本が残る。
相手のコーナーキック。ショートコーナーを使ってきた。
家長さんがボールをとりにいくが詰めきる前にクロスが上がる。
中央に入ったボールは平山さんが打点の高いヘディングでクリア。
そのボールがエリアを出たところ、
右サイドよりで待っていた俺のところへ飛んでくる。
ひとり詰めてきたが、胸のトラップでスペースへボールを出すと、
拍子抜けするほどあっさりと交わすことができた。
おかげでサイドに広いスペースがある。俺はスピードをあげてドリブル。
1点負けてる今、攻めなくてどうする。
ラインを右に見ながら一気に駆け上がる。その時だった。
「スケベー!」
俺はドリブルしながらはっとする。
今の声はモニカの声?モニカが来ている?そんなはずはない。
来ていれば必ず連絡はあるはずだし、
ロシア遠征は終わったとはいえ、普通に学校があるはずだ。
モニカがオランダにいるわけはない。
でも、今の声はモニカの声だった・・・・
だが、それ以上考えてる暇はない。ハーフウェー手前で敵が来る。
相手の下半身に視線を飛ばす。
腰の位置が深い。これは飛び込んでこない。遅らせる気だ。
お前に付き合ってる時間はない。
トップスピードのまま迷わず相手の足の間にボールを通す。
脇を抜けるときに掴んでくるのは想定どおりだ。
伸びてきた手を押しのけてそのまま一気に抜き去る。
相手が倒れるのが視野の隅で見える。よし、振り切った。
相手陣内に入った。前に三人、うち二人は森本についている。
森本がスルーパスを欲しがっている。
ラインの裏へ抜け出すタイミングを計って、俺を見ている。
もっと前へ、もっとゴールへ。俺はドリブルでそのまま行く。
自陣エリアから全開で走ってきたので、
体がスピードダウンを欲しているが、ここで休むわけにはいかない。
ペナルティエリアの角にかかる。ディフェンスが飛び出してきた。
スピードを落とさずに、右に、ゴールライン際へ長く出して、
ディフェンスを振り切ってから、森本へ低めのクロスをあわせるイメージが湧く。
一気に相手との距離を詰めて右足のアウトにボールを乗せようとした時、
不意に頭の中で白い光が閃く。読まれてる!?
俺はとっさの判断で右足でボールをまたいで急停止。
右足首に俺の全体重がかかる。
相手の体が大きく右に揺れる。やっぱり右にヤマ張ってやがったか。
左足で中央へ。森本が俺の足元を凝視しているのがほんの一瞬見える。
俺の意識がほんの一瞬、森本へ飛ぶ。
それがディフェンスに伝わり、森本に注意がいった瞬間、
俺はゴール前に突っ込む。ここは自分で行く。
両側から手が伸びてくる。
ゴールはすぐそこだ。キーパーが教科書どおりのポジションで立ちふさがる。
ニアかファーか。ファーだ。右足でフルショット。
しかし一瞬迷った分、コースが中途半端になった。
サイドネットを狙ったイメージより内にいったボールは、キーパーの真正面。
パンチングというよりキーパーが顔面をブロックするような格好ではじく。
そのこぼれたボールに森本が詰めるが、ディフェンダーのほうが一歩早い。
クリアボールが大きく飛んでいく。
くそ、絶好のチャンスだったのに。俺は地面をこぶしで叩く。
もう一点とらなければいけないのに。馬鹿野郎。一瞬の逡巡が悔やまれる。
そこでふと気づく。さっきの声はなんだったんだ?
俺は右サイドと接するように立つメインスタンドを見る。
ただでさえ観客が少ないが、メインはほんとうに人の姿がまばらだ。
その中にはモニカらしい人影はない。
モニカのことだ、俺が見ていることに気づけば必ず立ち上がって、手を振るだろう。
やっぱりさっきのは空耳なのか。
それとも日本で応援しているモニカの声が空間を越えて俺に聞こえたか。
ありえない。俺は首を振る。そんなオカルト話、ほんとにあるはずがない。
あるはずがない。けど・・・・
スタジアムの時計が目に入る。時計の針は5時30分を過ぎたあたりを示している。
日本では今頃、ちょうど深夜になると誰かが言っていた。
でもきっとモニカは起きて、この試合の中継を見てくれている。
そして、きっと俺のプレイのひとつひとつに声援を送っている。
テレビの前で腕を振り上げて、そう練習試合の時のように俺に檄を飛ばしている。
訪れたこともないのに、モニカの家の風景が見えるような気がした。
聞こえるはずがない。・・でも聞こえたっていいじゃないか。
スコアボードの2−1の電光掲示が俺の目に映る。
まだだ、ここで終われない。
前田さんがピッチに入ってくる。
アウトは中村さん。家長さんはそのままだ。
監督に確認にいった小林さんがそっと指を三本立てる。
森本、平山さん、前田さんの3トップ。
水野さんが右にスライドして、俺がトップ下へ一列上がる。
3−4−3、実際はワンボランチの3−1−3−3ともいっていい。
点をとるしかないという時の、超攻撃的オプションだ。
アルゼンチン相手にこれだけ守備を薄くするのは
相当なハイリスクだが、1点負けている以上他に手はない。
時計が35分。ロスタイムがあっても15分か。
ここからものにしてきたじゃないか、という自信と、
15分しかない、という弱気が心の中で交錯する。
弱気になるな、と俺は自分自身に喝を入れる。
いまはゴールのことだけ考えろ。
入ってきた前田さんが左サイドで巧みなキープ。
その後ろを追い越した家長さんにボールが渡る。
球離れよくクロス。中央で構える平山さんの頭へ。
だが、ボールは平山さんの手前ではじきかえされる。
平山さんには二人ついている。
ニアへファーへ、平山さんも動いているのだが、
なかなかマークがはがせない。
クリアボールが前田さんのところへ。
ワンタッチで俺へ。ゴール正面。ミドルが打てるコースは開いてない。
シンプルに、開いて待っている右サイドの水野さんへ。
ゴールライン際まで切れ込んだ水野さんが得意の切り返しで、相手を芝に這わせる。
大丈夫だ、みんなあせってはいない。ちゃんと自分のプレーができている。
水野さんが右足に持ち替えてクロス。
今度はニアの平山さんをおとりに使ったファーへのボール。
森本と前田さんがボールに飛びつくが、これもディフェンダーがはじき返す。
相手ボール。さらに前線へパス。中央でボールを受けたメッシが
時間を使いながら、日本の右サイドからじっくり進んでいく。
枚数の少ない日本のディフェンス陣は否応なしに深く構えさせられる。
フォワードがエリア内で流れる動き、呼応するようにメッシのパス。
増嶋さんがそのままマークについているが、お構いなしのシュート。
ボールは枠へ飛んでいくが、コースが切られている分、
西川さんが落ち着いて押さえた。
再び日本ボール。ここまで来るとひとつひとつのプレーの意味が重い。
ハーフウェーまで下がってボールを受ける。
意外とこの時間でもアルゼンチンのラインは高めだ。
なまじラインを下げてゴールに近いところで、
平山さんの頭に合わされるのを嫌っているのか、それとも余裕なのか。
ディフェンスラインでボールが回るが、
確かにこの高さでは平山さんに入れても意味がない。
一回りしたボールが俺のところへ。ゆっくり前に進んでハーフウェーをまたぐ。
水色と白がじわじわと間合いを詰めてくる。
斜め前にいた水野さんが引いてきて、ボールを要求した。
相手のサイドバックがそれについてくる。
俺は水野さんにボールを出す、
水野さんが相手を背負いながらダイレクトで後ろの本田さんへボールを戻す。
その時、俺と水野さん、本田さんのイメージが共有できたのがわかった。
俺は水野さんが引き出したサイドバックの
裏のスペースへ斜めに走って飛び出す。
ディフェンスラインと並んだところで後ろを確認すると、
本田さんがこれもダイレクトで蹴りこんだボールが飛んでくる。
完璧な意思疎通。完全に裏をとった。
ゴールラインまで見通しの言い風景が広がっている。
スムースに全身の筋肉がトップギアに切り替わった。
体の右を通してボールを受けるとそのままドリブル。
九十度左を見てゴール前を確認。平山さん、その後ろに森本か?よく見えない。
もちろん相手選手がしっかりくっついている。
ひとり俺の中を切りに来ている奴がいる。時間はない。
もう一度首をほとんど動かさずに中を確認。距離があるのに平山さんの視線を感じる。
ペナルティアークあたりのポジション。ゴールとはやや距離があるところ。
自分の前にスペースを残している。その位置ということは、ここでいいんですよね?
俺はグラウンダーの低いボールをニアへ、キーパーの前へ蹴った。
平山さんがマークを引きずりながら駆け込んでくる。
頭に合わせるボールを想定した相手の反応がほんのわずか意表を疲れて遅れた。
恵まれた体格を生かして相手を押さえながら、
平山さんがキーパーの飛びつく手の前で右足を伸ばす。
どんぴしゃのタイミングであったボールは、
キーパーに反応する時間も与えずに一直線にゴールネットに突き刺さった。
追いついた。同点だ。
平山さんが両手を広げて、そのままゴール脇を駆け抜ける。
満面の笑顔。二年の時を越えて、平山さんに笑顔が戻る。
俺はわめきながら平山さんのところへ飛んでいく。
平山さんが俺に気づいて振り向く。俺はそのまま平山さんに飛びついた。
「ナイスパスだ、ヒロ!」
平山さんの声。約束を果たした喜びが俺の背骨を貫く。
俺たちはそのまま喜びを分かち合う。
ああ、最高だ。この喜びを、この感激を、俺は何度でも味わいたい。
審判に促されて自陣に戻る。まだ同点に追いついたばかり。
まだ感動が俺の体の中で震え続けている。
この先を、平山さんと一緒にこの先を見るために、
そしてもっと大きな感動を見つけるために俺たちはもう1点とる。
周囲で一斉に湧き上がった絶叫の中に元山はいた。
スタジアムの記者席。
樋口の低いボールを平山がダイレクトで蹴りこんで追いつくと、
日本人記者たちはみんな立ち上がって、雄たけびを上げた。
この世界では大御所で知られる大隈さんは、
いつもの上品で素敵なロマンスグレーの衣を脱ぎ捨てて、
手が折れるんじゃないかと思うほど机を叩いてる。
その大隅さんと抱き合ったのは、四宮さんだ。
コンフェデから回ってきた彼は、試合前はA代表の試合振りについて
さんざんシニカルな毒を吐き続けていたのが嘘のように、
我を忘れ、夢中になって手を振り上げていた。
見渡せば、誰もメモなんかとっていない。
こんな興奮した記者席を見るのは元山にとって初めてだった。
冷静な視点が売りのはずのジャーナリストが、
みんな仕事を忘れて試合に没頭している。
あのアルゼンチン代表相手に2点を奪った。
がっぷり四つの堂々とした試合運びで、あのアルゼンチンに追いついた。
元山自身も体の震えが止まらない。
ああ、いつ以来だろう。サッカーを見て体が震えるなんて。
学生時代はサッカーなんて何の興味もなかった。
ひょんなきっかけから興味を持ち、いつしかいっぱしのライターになった。
各地の試合に懸命に足を運び、一試合でも多くこの目で見ようと頑張った。
サッカー経験のない自分は、数を見ることでしか、
プロとしての目が養えないと思ったからだ。
でも、専門家としての目を手に入れた一方、
かつて持っていた、そしてこの世界に入るきっかけとなった
純粋なファンとしての興奮は遠いものになった。
でも、それは自分だけじゃない。元山は思う。それは一般のファンやサポーターも同じだ。
オリンピックで、ワールドカップで、各種の大会で、
日本がそこそこの成績を残したことで、みんな中途半端に世界を見た気になっている。
世界を制したわけじゃないのに、なんとなく世界を知った気分になってしまった。
ピッチでは樋口が大きな手振りでパスの方向を指示する。
どこかで見たことある。そうだ、ジョホールバルでの中田英寿だ。
あのときは、日本の選手にも、メディアにも、ファンにも、
まだ見ぬ世界への興奮と、挑戦者としての凛々しさが満ち溢れていた。
日本のサッカーはこれからどこへ行くのだろう?
ピッチでは試合が再開されたが、日本の記者たちは誰も座ろうとしない。
ひたすらひたすら絶叫。みんな顔を真っ赤にして声を張り上げている。
若き代表のサッカーにみんな仕事を忘れて血をたぎらせている。
アルゼンチンのコーナーキック。
ゴール前にほうりこまれたボールを水本がヘディングでクリア。
そのボールが本田を経由して樋口に渡る。樋口が前を見た。
ディフェンスラインの枚数こそ残っているが、中盤はぽっかりと空いている。
攻撃のチャンスだ。時間がもうない。
記者席から見下ろす緑のピッチ、
その中を樋口がひとり風のようなスピードで突き進む。前へ。前へ。
「行けっ!行けっ!樋口、行けっ!」
口からつばを撒き散らすような大隅さんの叫び声。
「樋口、そのまま行けーーー」それに誰かの絶叫が覆いかぶさる。
メッシが懸命に戻って後ろから樋口を追う。メッシが手を伸ばす。
だが樋口は爆発的な加速でその手を振り払い、一気にスピードでちぎり捨てた。
メッシが転倒する。スタジアムの歓声が一段と大きくなる。
もう抑え切れなかった。こらえきれなかった。元川は勢いよく立ち上がる。
「決めちゃえーーーっ、樋口ーー、そのまま決めちゃえーーー」
元川のこぶしが記者席の机を力強く何度も叩く。
その振動に、机の上に置かれていた元川のメモ帳が飛び出して、
机から落ちると、誰かの足元へと転がって消えていった。
時間からみて、おそらくこのプレーが切れたら延長突入だろう。
これが最後のチャンスだ。
最後のスタミナを振り絞ってドリブルしながら、俺は前を見る。
日本のサポーターなのか、観客の出す声が
ひとつの大きな音となって、走る俺の背中を押す。
この音を作るひとりひとりの声。それに応えたい。
左を駆け上がる家長さんに一度出す。ダイレクトで戻ってきたボールを
これもダイレクトで引いてきた森本へ。
バイタルエリアで俺たちのワンタッチパスが美しい幾何学模様を描く。
パスを出してダッシュ、俺の意図を読んだ森本が、
走りこんだスペースへ返してくれる。ぴたりと足元に入った。
正面に平山さんがこっちを向いて立っている。
背中にディフェンダーを背負っているが、
俺に預けろ、と、その体の向きが言っている。
見れば、さっき引いた森本に
ディフェンスがついていった分、平山さんの右側が開いている。
平山さんにボールを出す、そして平山さんの右へダッシュ。
平山さんが教科書どおりのポストプレーで右へ出してくれた。
やっぱりここでしたね。ボールがぴたりと俺の足元に転がってくる。
森本が作ってくれたスペース、平山さんが出してくれたボール。
無駄にはしません。
迷いはなかった。俺はエリアに入るすれすれで、
平山さんのパスを右足で振りぬいた。
・
・
・
・
・
「日本、準決勝でオランダに敗れるも
鮮烈な印象を残した新しいJ Boys Soccer
準々決勝であの南米の強国アルゼンチン相手に2点のビハインドを追いつくと、
ロスタイム、樋口の強烈な右足シュートで逆転勝利。
日本中が湧きかえったあの感動的な試合から四日。
U-20日本代表はオランダとの準決勝に臨んだ。
観客動員の面では低調だった本大会だが、
さすがに地元オランダの、しかも準決勝とあって、
スタジアムは満員の観衆で埋まった。
日本代表にとってはまさに完全なアウェーでの試合となった。
オランダは決勝トーナメントで、チリ、ナイジェリアに
それぞれ楽勝といっていい完璧な試合運び。
大会前から優勝候補筆頭にあげられた前評判どおり、
欧州各地のリーグで活躍する若き才能がその力を遺憾なく発揮していた。
現地メディアも、日本がアルゼンチンに勝ったのは大きな驚きだが、
グループリーグでの対戦結果を見てもわかるとおり、
オランダの勝利はほぼ間違いない、という楽観ムードが蔓延していた。
だが若き日本のイレブンたちは、
そんなオランダメディアを蒼白にするような素晴らしい試合運びを見せる。
この日のスタメンは、アルゼンチン戦で負傷した杉山を樋口と入れ替え、
さらにフォワードにはカレンに代えて森本を先発起用。
小熊監督はスーパーサブとして結果を出してきた二人をスタメンで使い、
前半からオランダと正面から打ち合う姿勢を明確にする。
その監督の期待に二人が答える。
樋口は粘り強い守備でボールを奪ったかと思えば、
時にトップ下を任された水野と横並びのポジションをとり、
積極的に攻撃を作っていく。
試合は、戦前の予想とは裏腹に、日本が早いテンポで攻撃を仕掛ける。
前半20分には家長のクロスを平山が頭で落とし、森本が強烈なシュート。
これはキーパーのファインセーブに止められるが、
さらに前半30分、ドリブルで中央に持ち込んだ樋口が、
ディフェンスの一瞬の隙を突いてミドルシュートも、
惜しくもクロスバーに当たってはじかれる。
ハーフタイムをまたいで後半になっても日本の果敢な姿勢は変わらず、
日本の鋭い攻撃がたびたびオランダゴールを脅かす。
後半12分には平山のヘディングシュート、
20分過ぎにゴール前の混戦から水野が惜しいシュートを放つが、
相手キーパーのファインセーブと
オランダの必死のディフェンスにゴールが割れない。
そして、後半30分。それまで懸命のディフェンスで
オランダの攻撃を封じ込んでいた日本守備陣に、綻びが生じる。
前線へのロングボールに抜け出したバベルがキーパーと1対1になり、
しっかりとチャンスをものにしてゴールへ流し込んだ。
しかし、このプレーはリプレイで見る限りオフサイド。
試合後、オランダのテレビニュースもこの場面を何度となく流していたが、
明らかにバベルはディフェンスラインより体ひとつ出ている。
オフサイドルールの明確化が図られた今大会だけに皮肉な誤審となった。
キャプテンの増嶋をはじめ、日本の選手たちは審判に猛抗議するが、
判定がくつがえるわけもなく1点のリードを許すこととなる。
納得のいかないまさにアウェーならではの判定に泣かされる格好となった。
後のなくなった日本はオランダを自陣に釘付けにし、
サンドバッグを叩くボクサーのようにシュートの雨を降らせる。
平山が、森本が、途中投入の前田が、そして樋口が
オランダゴールを一方的に攻めたてるが、
ロスタイム、森本の、平山の決定機も相手の体を張った守備に防がれ、
そのまま無念のタイムアップとなった。
結果だけを見れば、準決勝敗退とナイジェリア越えこそ果たせなかったが、
試合内容はナイジェリア組に勝るとも劣らぬものであったと言えよう。
その証拠にオランダメディアのショックは尋常でないものがあった。
結果よりも内容を追求するといわれるオランダのサッカー。
その彼らの誇る若き精鋭たちが、文字どおり
「試合には勝ったが、サッカーでは負けた」のだ。
試合後私に話しかけてきた何人ものオランダ人たちが、
日本こそ真の勝者だといったのは、敗者への労りばかりではなかったはずだ。
大会を通じてこれだけ内容の濃いゲームを披露できたのも
前半はコンサバに運び、相手の足が止まった後半に
一気に攻撃をかける小熊采配がずばり的中したのが大きい。
だがそれもスーパーサブとして獅子奮迅の活躍をした
樋口の存在あってこそといえよう。
普通の公立高校の、大会前までは無名の高校生。
口の悪い報道陣の中には
「同じ学校のモニカちゃんと間違えたんじゃないのか」
と辛らつなことを言う者もいたが、小熊監督の目は正しかった。
アジアユース以降、関係者以外いないような小さな大会の
観客席にも小熊監督の姿があちこちで見られるようになった。
それは中盤の核となる選手を捜し求める小熊監督の姿だった。
そしてそんな小熊監督が選び出したのが、彼であった。
グループリーグ3試合目のオーストラリア戦で初起用されると、
たびたび決定機を演出し、大会を通じて2得点2アシストの活躍。
いままで消化不良のゲームが続いていたチームに、
樋口のリズムと勇気が加わり、チームに一本の太い背骨ができた。
オランダ戦、大きな身振りで攻撃のタクトを振る樋口の姿は、
かつてのジョホールバルでの中田英寿の姿を髣髴とさせ、
日本の中盤にまた新たな才能が出現したことを内外に示していた。
他の攻撃陣も平山はヘディングの強さを生かしてしっかりとポストプレーを果たし、
森本もゴール前では攻めの姿勢を見せ、積極的にシュートを放った。
アルゼンチン相手の大金星はこの攻撃にかける
果敢な姿勢あってこそのものだった。
それだけに疑問の残る判定で準決勝敗退という結果に
なってしまったのが心底惜しまれる。
きっと彼らなら決勝でブラジルを相手にしても、
日本の新しいJ BOYS SOCCERを世界へ存分にアピールしてくれたに違いない。
だが、彼らのサッカーはこれで終わったわけではない。
もうすぐ再開されるJリーグで、大学で、彼らの試合は続いていく。
世界に誇れる才能のきらめきを見せた彼らが順調に成長し、
いつかもっと大きな舞台で日本のサッカーを世界へ向けて高らかに宣言する日、
その日が来ることを夢見て、この稿を終わりたい。
text by 元山恵理子」
・
・
・
・
さっきまで窓から見えていた家々がどんどん小さくなり、
点のようになり、やがて雲の下へ消えていった。
さようなら、オランダ。
俺は顔を正面に戻し、正面の壁にすえつけられた見たくもないテレビモニターを眺める。
ヨーロッパの地図が映し出されている。どうやら飛行ルートを説明しているようだ。
隣に座っている森本は、離陸前からすっかり寝入っている。
風邪を引かないように、と体にかけた毛布が少し下がっている。
俺は手を伸ばすとその毛布を森本の体にかけなおしてやった。
ドイツと対戦した3位決定戦は結局2−2のドローになり、
PK戦の結果、俺たちは4位ということになった。
俺たちの試合の後に行われた決勝では、
オランダがブラジルを破り、地元での優勝をなしとげた。
昨日は、協会の好意でみんなで一日オランダ観光を楽しんだ後、
日本に帰るべく俺たちは機上の人になっている。
黙っているとついついこの一ヶ月のことを思い返してしまう。
すぐそこに世界があった。オランダに勝てば、
俺たちが世界一になる可能性だってあった。
おれはふと自分の手を見る。見慣れた自分の手。そこには何もない。
だが、俺は自分がこのワールドユースに挑んだ数か月の過程の中で
かけがえのない何かを掴んだという自信があった。
アルゼンチンとの準々決勝。
終了を告げる笛が鳴り、喜びに沸き立つ俺たち。
その中でやつは俺に声をかけてきた。
俺が振り向くと、やつはやおら水色と白のユニフォームを脱ぎ、俺に差し出した。
俺はちょっとまごつきながら、青のユニフォームを相手に渡す。
互いに相手のユニフォームを露わになった肩にかけて、握手を交わす。
その時、やつが何か言った。
言葉がわからない。ああ、なんて言葉ってのは不便なんだ。
俺の困った表情を見てとったやつが今度は、一音一音区切るようにしゃべった。
あ、これは英語だ。英語なら俺もモニカと話してるから少しはわかる。
「早くヨーロッパに来い。またピッチで会おう」
メッシは俺の目を見てそういった。
俺はしっかりとメッシの目を見返して、わかった、と深くうなづく。
メッシがにっこり笑って、もう一度俺の手を強く握ると去っていった。
俺の意識は機内に戻る。見つめる自分の手。
そこには何もないけど、俺の心にはメッシの手の感触がありありと残っている。
俺はあいつにもう一度会えるのだろうか。
この地球上に無数にあるピッチのどれかで再びボールを前に向き合う時が来るのか。
俺は自分自身に問う。だがその答えは見つからない。
そのまま、ぼんやりと物思いにふけっていると、やがて眠気が押し寄せてきた。
俺は考えるのをやめて、眠気に身を任せる。
モニカ、随分長くなっちまったけど、もうすぐ日本に帰るよ。
まさかデートの約束、忘れてないよな。
何がいいだろう、遊園地、映画、それともJでも見に行くか。
どこだっていい。モニカに話したいことがいっぱいあるんだ。
たくさん貴重な経験をしたよ、大事なことを勉強したよ。
メッシと交換したユニフォーム。
平山さんと二人きりで話したホテルの部屋。
見上げるようにそびえたつスタジアムのスタンド。
通路で見た森本の横顔。
小熊さんの絶叫。
懐かしそうに語る滝沢コーチの顔。
ピッチから見たサポーターたちの幸せそうな笑顔。
視界の中をゆっくり落ちていったボール。
モニカに話したい。
そしてそのことについて二人でいろいろ話したい。
いいだろ、モニカ。
忙しいだろうけど、時間作ってくれるだろ。
話したいことがたくさんたくさんあるんだ。
その時、何か俺の感覚に飛び込んでくるものがあった。
何か前のほうが騒がしい。がやがやとざわついている。
監督たちが座ってる席のあたりだろうか。
俺の意識はもう途切れる手前だ。いまはゆっくり眠らせてくれ。
飛行機の座席に身を預け、俺の意識は少しずつ眠りの中へと消えていく。
会見場に指定された都内のホテルのバンケットルームでは、
さっきから記者たちがあわただしく出入りを繰り返していた。
部屋の後方には、ずらりとテレビカメラが並んでいる。
誰もが早口で何かをしゃべっている。誰もが早足で動いている。
会見開始時刻の午後6時まであと少し。
元山はさっさと確保した自分の椅子に座って、
記者たちの慌ただしげに動く様子をぼんやりと眺めていた。
いまは他人事のように見ている元山も、
会見が終われば眉を吊り上げてパソコンのキーを叩き、
いくつかの契約先に記事を送らなければいけない。
ただテレビや雑誌記者のように、組織内での事前のあれこれとした段取りに
わずらわされずにすむのは、フリーのポジションの有り難みだった。
もちろんその分切られるのもお手軽なわけだが。
「よっ、恵理ちゃん、余裕だねーー」
振り向くと大隅さんがいた。大手新聞の記者として、
日本リーグの頃からサッカーを追い続けてきたこの世界の大御所だ。
もうそろそろ定年が近いはずだが、海外取材も疲れを見せずにこなしている。
自分に声をかけてくるなんて、この人も時間に余裕があるようだ。
さすがに大隅さんほど重鎮にもなれば、
めんどくさい打ち合わせとは無縁なのだろう。
元山と違うのは大隈の場合発表後に書く原稿も、
じっくりと腰を据えて書けるコラムか、連載の特集だということだ。
「私は発表されてからが勝負ですから」と笑ってかえすと、
ま、そりゃそうだ、と大隈も納得した様子だ。
「けど、発表もなにも、これだけメンバーが固定されてちゃあねえ・・。
どうせほとんどの連中が書いてある予定稿、そのまま送るだけだろう」
大隅さんが、皮肉っぽく笑った。
そう、この後行われるのは、ドイツワールドカップのメンバー発表会見だ。
ドイツへ行くメンバーの名前が直接ジーコの口から読み上げられることになっている。
ジーコの固定された選手選考については、
就任以降たびたびマスコミの批判の対象となった。
新しい選手を呼ばない。呼んでもほとんど試合で使わない。
だが、ジーコは自分の意思を変えることなく、
相変わらず少数精鋭主義を貫いている。
予選を突破したチームをベースにすることが当然、と言い切り、
この一年、親善試合で何人かの新しい選手が招集されたものの、
結局は一年前と骨格となるメンバーは変わっていない。
メディアのみならず、当の代表メンバーやJリーグの選手たち、
そして協会内部でも不満はくすぶり続けているものの、
予選突破、昨年のコンフェデでの善戦と、結果を残してきたジーコ体制と、
それを強力にバックアップする川内会長の後ろ盾の前に、
そういう声はひそやかに物陰でささやかれるにとどまっている。
元山は大隅の言葉にうなづきかけたが、思い直して聞いてみることにした。
「わたしもそう思ってたんですが、
昨日関係者にちょっとあたってみたら、
なにかサプライズがある、みたいなことを口にしてたんですが、
大隅さんなにか情報持ってないですか?」
もし、大隅の耳に入ってなければネタをプレゼントすることになるが
自分のようなライター風情にも漏れてきた情報だ。
大新聞の肩書きを持っている大隅の耳には
入っている確率は非常に高い、と踏んでの鎌かけだった。
大隅の表情が微妙に変化する。やっぱり知ってた。
ほんとに喰えないオヤジだ、と元山は心の中で苦笑する。
「その顔はやっぱり知ってるんですね。で、どんなサプライズなんですか?」
大隅は、恵理ちゃんにはかなわないなあ、と嘆いてみせたが無視する。
元山の厳しい視線に気づき、とぼけるのはあきらめたらしく、大隅が真顔になる。
顔を寄せろ、という身振りに耳を傾けると小声で教えてくれた。
「うちの社も、サプライズがあるって情報はつかんでる。
ただほんとに、誰なのかってのはわかんないんだ。
幹部連中も知ってるのは、意外な選出があるってことだけだ。
昨日の時点では、具体的な名前は会長とジーコだけが知ってるらしい。
いま、うちの若いのがあちこち必死に駆け回ってるよ。
他社もサッカー番はだいたいつかんでるんじゃないかな。
ただ具体的な情報が出てこない以上、どうしようもない」
たとえ予想どおりの結果だとわかっていても、
発表内容を一分一秒でも他社より早く抜きたい、知りたいと
思ってしまうのがメディアにいる人間の性だ。
ここ数日、新聞社のサッカー番は、
協会幹部を人の少ないところではつかまえては選手の名前をぶつけ、
選ばれるのかどうか、せめて感触だけでも掴もうと必死になっている。
その結果が今日のスポーツ紙の見出しだ。
「俊輔、ドイツへの誓い」「ヒデ、最後のワールドカップ」と
一見、センセーショナルなものに見えるが、
その実、あっと世間を驚かせるような新しいことは何も書いていない。
ヒデや俊輔がメンバーに落選するのならともかく、
選ばれるのは当たり前のことでそれだけでは本当の意味でニュースにならない。
結局、どこもサプライズに関する確固たる情報はつかめなかった、ということだ。
「そういう恵理ちゃんこそ、なにか持ってないの?」
「持ってたら今頃書いてますよ。大隅さんとしゃべってる時間なんかないです」
元山の切り返しに、そりゃそうだ、と大隅は楽しそうに笑った。
元山は腕の時計を見る。6時を少し回っている。
テレビ中継の視聴率の都合もあるから、
この手の会見は定刻より少し遅れて始まるのが暗黙のお約束だ。
「しかし発想を変えれば、これだけ話が流れている以上、
まちがいなくサプライズはあるんだよな。
だがジーコのが召集したことのあるメンバーを考えると
サプライズといってもあまり考えにくいんだがなあ・・」
大隅が話を続けている。
「大隅さんは誰だと思います?」
深い意図のない、純粋な興味からの質問だ。
「現実的に考えられるサプライズといったら、ゴンかカズだろうな。
トルシエの時と同じように、リーダーシップを重視して呼ぶならば、
そういう選択肢はありだとは思う。
過去の召集はないけれど、例の功労者騒ぎもあったし、
ジーコが彼らを評価しているのは間違いない。
それに正直、それ以外の選手じゃ荷が重いだろう」
おおかたの見方もそんなところだろう、妥当な意見だと思う。
だけど、私は・・・・。
彼が見てみたい。現実として可能性は低いだろうが彼が見てみたい。
「ん、誰か呼んでほしい選手でもいるのか?」
元山の微妙な表情の変化を見てとった大隈が突っ込んできた。
ええ、まあ…と元山は口を濁す。
「まさか、樋口かい?」
思わず大隈の目を見る。
さすがにこの人も伊達や酔狂で大御所といわれているわけではない。
新聞記者としての鋭さを持っているから、ここまでのしてきているのだ。
「さすがに彼はないと思うが・・
そういえば、日本に帰ってきてから
恵理ちゃんのマッチレポート読んだんだけど、ナビスコでデビューしたんだな。
デキはどうだったんだい?よくなってきてたか?」
「いいところまで戻ってきていると思います。
完全に戻ったか、といわれるとあともう少しかな、という感じでしたが。
ただ彼らしさ、は感じさせてくれました」
そうか、と大隈の顔がほころぶ。
「もう少し早く出てくればなあ・・・。
大抜擢があったかもしれないのに。でも、まあ彼はまだ先があるからなあ」
なんだかんだいって大隈もほんとうは
彼が選ばれることをひそかに期待していたのでは、と元山は思った。
あるひとつの試合の、ひとりの選手のプレーが
見るものを魅了して離さない時がサッカーにはある。
そして見る側は、その後もその選手に大きな期待を抱き続ける。
あのワールドユース。あのとき記者席で見ていた大隈も、
どこかで心のどこかで彼に期待しているのかもしれない。
それは一瞬の煌きだった、ということが往々にしてあるとわかっていても。
「しかし、恵理ちゃんが遠征こないからみんなびっくりしてたよ。
まさか国内で原稿、書いてるなんて思いもしなかったなあ。
海外大好きの恵理ちゃんがどうしちゃったの?」
A代表は一週間ほど前までワールドカップメンバーの最終選考も兼ねて、
ヨーロッパの中堅国とのテストマッチを組んだ欧州遠征に出ていた。
ワールドカップ直前の本番を占う大事なゲーム。
いままでの元山ならまちがいなく代表についていった。
今回のテストマッチの記事を書いてほしい、という依頼もいくつか来ていたし、
旅費も含めた取材費付きで何の問題もなく行くことはできた。
だが元山は考えた末にそれらの依頼をていねいに断った。
大隈も気づいたらしい。元山もそこそここの業界じゃ名の売れたライターだ。
「もしかして恵理ちゃん、わざと残ったのかい?彼のデビュー戦見るために」
元山が口を開こうとしたその時、扉が開いて人が入ってきた。
川内会長とジーコの姿。
会場の雰囲気があわただしくなり、急に場の雰囲気が引き締まる。
「じゃ、また後でね」
大隈が手を振って、確保してあるのだろう自分の席へ戻っていく。
壇上、ジーコと川内会長が並んで座った。
まもなく。ドイツ行きのメンバーが明かされる。
「そろそろ来るはずなんだけどなあ」
健二が時計を見てそわそわしている。
樋口広樹はぼんやりと遠くに見える尖塔のような携帯電話会社のビルを眺めた。
五月だとは思えないほど暑かった一日の夕暮れ。
夕焼けの空がきれいだ。
きれいな空を見るたびに、広樹の心の中を一瞬ふっと何かがよぎる。
「おかしいなあ、6時っていったのになあ。
バイト先から近いから、遅れずに着けると思うっていってたのに。
どうすっかな、携帯にかけてみるか」
広樹が気を悪くしないかと健二は少し気にしている様子だ。
「別にいいよ。仕事がちょっと延びてるんじゃない。のんびり待とうよ」
広樹の言葉に健二がほっとする様子が感じとれた。
二人の立っているターミナル駅の改札口は、
周辺のビルから吐き出された帰宅を急ぐサラリーマンで大変な混雑だ。
目の前を行き来する数え切れないほどの人。
周辺では広樹たちと同じように待ち合わせた人たちが、
相手を見つけ、楽しそうに会話を交わしながらどこかへ歩いていく。
そんな光景が目の前で延々と繰り広げられている。
今日、夕方時間あるか、と健二から
電話がかかってきたのはつい数時間前のことだった。
なんでも別の大学の女友達と、それぞれ友人を誘って
二対二の飲み会をやることにしてたのだが、
健二の連れが急に体調を崩したらしく行けなくなってしまった。
健二は急いで友だちをあたってみたが、
みんなサークルやらバイトやらの予定が入っていて、
その結果、広樹にお鉢が回ってきたらしい。
「ほんと急に悪かったなあ」
健二が目の前ですまなそうな顔をしているが、
実のところ広樹はそんなに気にしているわけではなかった。
この手のものを楽しい、と思う気分にはいまいちなれないが、
数少ない大学での貴重な友人である健二と一緒に
飯を食べながら話をする、というのは悪くない時間の過ごし方だった。
なかなか学校に顔を出せない広樹にとって、
授業も含めたいろんな学校の情報を教えてくれる健二は
ありがたい存在であり、健二の面倒見のよさに広樹はずいぶん助けられていた。
今日だってアルコールを口にできない自分を
こういう場に誘ってもらえただけありがたい、と広樹は思う。
「ごめーん、バイト抜け出すの遅くなっちゃって」
不意に間近で甲高い声。
広樹が声のしたほうを見ると女の子の二人組が目の前に立っていた。
健二の様子からすると彼女たちが待ち合わせの相手らしい。
茶髪のショートカットの娘。
この季節には少し早い気もする胸元がやや開き目の服に、
広樹は一瞬つい視線を吸い寄せられてしまう。
開放感に少しあてられながら、
こういうのが普通の若者の世界なんだろうな、と広樹はふと思う。
健二と親しそうに話をしているところを見ると、
この娘が健二の友人らしい。
もう一人は最近の娘には珍しく黒いストレートのロングヘア。
一見、大人しそうな印象を与えるタイプの女の子だ。
どっちも世間一般で言えばかなりかわいい部類に入るだろう。
健二が手早く場を仕切り、簡単に順番に自己紹介を進めていく。
広樹も名乗って頭を下げた。
二人もお返しに名前を教えてくれたが、広樹の頭には入らない。
「じゃ、店は俺が決めちゃっていいかな?」
かわいい子の登場にやる気を出したのか、健二の声のトーンが上がっている。
道に面したありきたりな雑居ビルの地下に伸びる階段を順番に降りる。
先頭の健二が階段の行き止まりにある
なんともいえない風格のある木のドアを開けて中に入った。
ここが健二のお目当ての店らしい。
広樹は女の子たちの後、一番最後に続く。
中では健二が店員に自分たちの人数を告げている。
ぱっと中を見た感じ、落ち着いてくつろげそうな、雰囲気のよさそうな店だ。
健二の店選びのセンスはなかなか悪くないらしい。
ふと脇を見た広樹は入り口の脇に、
ダンディな中年の男が若者と並んで写っている写真が
何枚も飾られているのに気づいた。
若者の顔はどれも見覚えがある。どれもJリーグの選手だ。
ヨーロッパで活躍する有名な日本代表選手のものもある。
きっと一緒に写ってる男はこの店のオーナーか店長なのだろう。
ここはサッカーと縁の深い店なのだろうか。
もしかして健二は広樹に気を回してこの店を選んだのかもしれない。
店員に連れられて席に案内される途中、
店の奥に巨大な壁掛けテレビが設置されているのが広樹の目に入った。
その画面には、ジーコと川内キャプテンが並んで映っている。
家にいるとどうしても気になってしまうから、
外で健二と食事をしていれば気も紛れると思ったのに。
広樹は皮肉なめぐり合わせに心の中でそっと苦いものを噛みしめる。
店員が広樹たちを案内したのは細長い店の真ん中辺りの席だった。
丸いテーブルに四つの椅子が囲むように置いてある。
広樹は他の三人の機先を制してさりげなく一番奥の椅子に座った。
その席からだと店の奥にあるテレビは後ろになって見えない。
広樹の右隣に健二が座り、残った席に女の子たちが座った。
まだ飲むには早い時間だというのに、店にはもう何組かの客が入っている。
そのグループのうちのいくつかはサッカーファンのようだ。
広樹の耳に会話の中身が聞こえてきたわけではないが、
同じスポーツが好きな人間というのはなんとなく気配でわかるものだ。
そして広樹が気配を感じたグループは例外なく、
会話が少なめでテレビ画面を真剣な眼差しでじっと見つめている。
「わたし、こういうとこはじめてー。ここ、スポーツバーって言うの?」
茶髪の女の子が嬉しそうにいった。
そうだよ、と健二がいって、この店を見つけるまでの説明をし始めた。
女の子たちが相槌を打ちながら健二の話を聞いている。
広樹はそれをどこか上の空で聞いている。
テレビの音声はよほど絞ってあるらしく、広樹の耳には聞こえない。
「で、実はさぁ、樋口、こいつ本物のJリーガーなんだよ」
突然、振られた話に広樹は少しまごついた。
「えぇー、じゃあプロのサッカー選手って言うこと?」
茶髪の彼女がわかりやすいリアクション。
黒髪の娘もちょっと目を見開いて驚いた表情だ。
いまの嬌声が周囲の客の耳に入らなかったか、思わず広樹は周囲を確認する。
「厳密に言うとプロではないんです。プロの試合には出たけど」
誤解を正す広樹の言葉に怪訝そうな顔をする彼女に、
簡単にJリーグの強化指定選手制度の話をする。
いまは健二と同じ大学の学生であり、厳密にはプロではないこと。
試合に出ても報酬をもらえるわけではないこと。
「ええ、でもレッズと試合したりするの?」
可能性はありますね、というと、
すごーーい、とおおげさな歓声を彼女はあげる。
サッカーにほとんど興味がない人でもレッズの名前は知っている。
野球に興味がなくても、
ジャイアンツを知らない人がほとんどいないのと同じだ。
彼女のそんな無邪気な言葉が広樹には新鮮な感じがした。
いままで広樹が所属していたグループの中では、
日本代表のスタメンは全部言えるのは常識、
Jのクラブも海外のクラブもすらすらと在籍する選手の名前が出てくる。
それが当たり前の世界だった。
でも世の中サッカーに興味がある人ばかりではない。
日本代表といっても中田英寿と俊輔と小野と川口、
そのへんの名前しか知らない人たちは決して少なくない、
いやむしろそういう人たちのほうが社会の中では圧倒的多数だ。
サッカーがすべてじゃない社会との接点があるのは、
貴重なことだ、と最近の広樹は思うようになっていた。
少なくともいまの広樹にとって、精神的に助けられることが少なくない。
「店員さーん、テレビの音大きくしてよー。
そろそろ発表みたいだからさーー」
客の誰かが店員に頼むのが広樹の耳に聞こえた。
「じゃあ日本代表とかにもなったりするんですか?」
今度は黒髪の女の子。広樹は思わず言葉に詰まる。
「ていうか、かつてヒロは日本代表だったんだよ。
20歳以下限定のU-20っていう代表があるの。
去年それの世界大会がオランダであって、大活躍したんだぜ」
健二が言葉をつなぐ。
黒髪の女の子が口を抑えて、えーーっ、ほんと、すごーーい、と叫ぶ。
広樹は耐えられない居心地の悪さに思わず眉を寄せる。
俺は。ここでいまなにをやっているんだ。
「新聞にも大きく載ったし、テレビのニュースでもやったし。
平山とか森本とかともチームメイトだったんだぜ、
平山とか森本、知らない?」
平山って知ってるーー、背の高い人でしょーー。
金髪の女の子の声。
広樹はどんどんテーブルから自分の意識が遊離していくのを感じる。
広樹を置き去りにして会話は進んでいく。
「でも、どうしてそのままプロにならなかったの?
それだったら高校出てすぐプロになったほうがお金稼げるじゃない」
茶髪の娘が、ふと気づいた、という表情で広樹に尋ねた。
隣に座っている健二の表情がほんのかすか
曇ったように見えたのは広樹の思い込みか。
それはね、と答えようとした広樹の声を
突然店のスピーカーから大音量で流れはじめた音が遮った。
がやがやと猥雑な物音。その中ではっきりとしたマイクの声。
店員が客の求めに応じてテレビのボリュームを大きくしたのだろう。
「なにあれ?」
茶髪の彼女が健二に尋ねた。
「来年やるワールドカップの日本代表のメンバー発表だよ。
サッカーファンならみんな注目してる」
「樋口さんは選ばれないの?」茶髪の女の子が笑顔でたずねる。
「いくらヒロが能力あってもまだ厳しいなあ。
確かに海外だと俺たちくらいの年齢で代表になる奴もいるけど、
ほとんどはもう少し経験をつんでからだなあ。
まあ、今回はヒデとか俊輔に任せて、
ヒロには四年後の代表になってもらおうか」
「そうだよね、日本代表に選ばれる人が発表のときに
こんなところで私たちとご飯食べてちゃいけないよねーー」
彼女が軽やかに笑った。その他意のない明るさに広樹は幾分救われる。
「よし、四年後の代表目指して、今日はいっぱい食べよっ!」
広樹の肩をぽーんと叩く。随分捌けた性格の女の子らしい。
広樹は気が楽になるのを感じていた。
短い選手生活、決して長くはないが、まだ与えられた時間がある。
ジーコの声が耳に入ってくる。
多少独特の発音が聞きづらいが、
誰の名前を呼んでいるのかはだいたい判別できる。
「ナラザキ、セイゴウ・・・」
ジーコの声を追うように「ゴールキーパー、楢崎正剛・・」と
テレビ局が用意したらしい同時通訳の女性の声がかぶる。
楢崎さん。広樹は、練習試合で一緒のチームでプレイしたことを思い出す。
店内の客はみんな会話を中断し、発表される名前に聞き入っている。
「ナカタ、ヒデトシ・・・ナカムラ、シュンスケ・・・」
日本が世界に誇るプレイヤーの名前が呼ばれる。
「オオクボ・・ヨシト・・・・・」
リーガエスパニョーラ二年目も充実のシーズンを送り、
見事代表復帰を果たした大久保の名前も呼ばれた。
いままでに呼ばれたのは22人、あと一人だ。
ジーコが最後の選手の名を告げる。広樹の体に電撃が走る。
すかさず通訳する女性の声。
「最後に樋口広樹。以上23名です」
私鉄の駅から少し離れたFC東京の小平グランド。
元々平日でも比較的見学者の多いクラブではあるが、今日の混雑は異常だった。
グラウンドの周囲にはずらりと一般の見学客。
出入口にはマスコミが幾重もの垣根を作る。
元山はちょっと離れたところからその喧騒を眺めていた。
グラウンドで小熊監督が選手に檄を飛ばす声がここまで聞こえてくる。
防球ネットに群がる人のわずかな隙間から、
樋口がボールを蹴っているのが見えた。
誰かとの会話に屈託のない笑顔を
浮かべているが、その内心までは読み取れない。
昨日のメンバー発表会見。ひととおりのやりとりが終わると、
記者の質問は樋口広樹の選出に集中した。
― 召集歴のない樋口を抜擢したのはなぜか?
「彼の実力は昨年のワールドユースでの活躍で証明されている。
一時期、調子を崩していたため、召集は見送っていたが、
最近の試合を見て、十分トップフォームに戻っていると判断した。
ベストに戻れば、アルゼンチン戦の活躍を見ればわかるとおり、
彼はメンバーに選ばれてなんら不思議のない選手だ」
― 彼の年齢を考えると、意外な選出という印象があるが?
「世界を広く見渡せば、彼の年齢でA代表のレギュラーとして
活躍している例はいくらでもある。
年齢は問題ではない」
― プロではない樋口を選ぶのは異例のことだと思うが
「確かに異例ではある。
だが樋口は既にJリーグのトップチームの試合に出ているし、
プレーを見ても、プロと伍してやっていくだけの
力を持っている優秀なプレイヤーであることは明らかだ」
― 名前を最後に呼んだということはFWでの起用を考えているのか?
「DF以外のどのポジションもありうる。
ただし、既にこのチームにはそれぞれのポジションで
実績を持った選手たちがいる。
彼もすぐに試合に出られるわけではない。
私は常に調子のいい者を起用していくだけだ」
記者たちの間に小さくないくすぶりを残しながら、会見はそこで終わった。
その後、会見の唯一のサプライズとなった
樋口広樹のメンバー選出をセンセーショナルに取り上げるために、
マスコミは樋口が特別指定を受けているFC東京を通じて、
コメントどりに殺到したがクラブ広報も樋口の所在が把握できず、
本人の選出コメントがどこからも出ない異例の事態となった。
紙面を煽り立てるネタを手に入れそこなった各社の記者は、
昨晩さんざんデスクからどやされたに違いない。
そんな事情もあって、詰めかけた記者たちは今日は一際気合が入っている。
練習前、広報から練習後にワールドカップ選出メンバーの
マスコミ対応の時間を設ける旨の通知があった。
今日こそは、我がペンで思い通りに料理してくれるぞ、
そんな記者たちのエゴイスティックな思惑が元山にはひしひしと伝わってくる。
「さっきちらっと聞いたんだけど、
樋口は昨晩、友人と飯喰ってたんだって。
テレビも全然見なかったし、携帯は充電が切れてたらしくて。
今日の朝になるまで、自分が選ばれたこと知らなかったらしいぞ」
「そうなんだ。そりゃ誰も予想してなかったもんなあ。
本人も夢にも予想してなかったびっくりの抜擢、
メンバー選出を知ったのはなんと翌日の朝。
無心のチャレンジャーがいざワールドカップに挑む…
明日のアウトラインはこんな感じかな」
元山の目の前で記者たちが会話している。
嘘だ。直感的に元山は思った。
彼がメンバー発表の結果を知らなかったはずがない。
おそらくマスコミから一晩だけでも姿をくらましたかったのだろう。
彼が知らないでいられるはずがない……
練習が終わったらしく、選手たちが順々に引き上げてきた。
グラウンドの出入口でサポーターが待つ。
FC東京ではこのスペースが選手とサポーターの交流エリアに指定されている。
練習を終えた選手は、ここでサポーターの
サインや写真撮影の求めに応じることになっている。
樋口が出入口に歩いてくる。カメラのシャッター音が立て続けになる。
そのまますたすたと歩きはじめた樋口に、サポーターから声がかかる。
樋口は足を止め、サポーターの手から受け取った色紙にサインをした。
それをきっかけに何枚もの色紙が樋口の前に差し出される。
さらに周囲では一斉に携帯電話のカメラを構える見学者の輪。
係員が、危険ですから押さないでください、と声を張り上げる。
その様子を各社のテレビカメラが狙う。
一夜にして話題の人となったシンデレラボーイ。
マスコミの得意の切り口で映像が流されるのだろう、と元山には容易に想像がついた。
「ワールドカップ、頑張ってください」
サポーターが樋口に口々に声をかけている。
軽くお愛想程度の笑みを浮かべるが、ほとんど表情を変えずに、
樋口は次から次へと目の前に差し出される色紙に黙々とペンを走らせる。
まるで修行僧みたい。
一見華やかなこの場に不似合いな連想が元山の頭に浮かぶ。
クラブハウスの中、記者たちが待つ部屋に
メンバーに選出されたFC東京の選手が順番に姿を現す形で、
即席の記者会見は進められていた。
元山は用意された席の一番後ろの列で会見の様子を眺めている。
一番最初にジーコジャパン不動の右サイドの加地。
次に出場機会にこそ恵まれないがチームの精神的支柱の土肥。
だが、記者たちのお目当ては今日に限っては彼らではない。
雰囲気を察した土肥が、
「皆さんのお目当てはこの次だと思うんで、
僕のはさっさと終わらせましょう」と
ジョークを飛ばすと、記者の間からは思わず苦笑いが漏れた。
土肥と入れ替わりに樋口が部屋に入ってくる。
椅子に腰かけた樋口めがけてカメラのフラッシュがたかれる。
― メンバーに選ばれた感想は?
「青天の霹靂だったのでいまはなにも・・・」
― 選ばれる自信というか感触みたいなものは?
「まったくありませんでした」
― 自分がなぜ選ばれたと思いますか?
「わかりません。ワールドユースでアルゼンチンに勝ったからじゃないですか」
ジーコがブラジル人ということに絡めたちょっとしたウィットに、
記者たちから小さな笑いが起こる。
― ワールドカップという舞台について
「まだ試合に出られると決まったわけではないので、
しっかり練習でアピールして、試合に出られるよう頑張りたいです」
少し固い表情を変えることなく、樋口は淡々と記者の質問に答える。
無味乾燥で優等生的な応答に、
記者たちの熱気が少しずつ萎えていくのが元山にはわかった。
似たようなやりとりが何度か続き、記者たちの質問のタネも枯れ気味だ。
その時、前のほうに座っていた男が手を上げた。
どこかで見たことがある。元山は記憶を辿る。確か某スポーツ紙の記者だ。
ちょっとしたコメントから、やたらと扇情的な、
そのくせ中身のない記事を書くので、選手ばかりか同業者からも白い目で見られている。
― メンバーに選ばれた喜びを誰に一番伝えたい?
元山はそっと息を呑んだ。ポーカーフェイスを崩そうとしなかった
樋口の表情がかすかに変化する。。
「家族に。うちの家族はあまりサッカーに興味がないんで、
伝えても淡々としたものでしたけど」
― 他には?
その言葉にこめられた何かを感じとったのか、
記者を見る樋口の目がすっと細くなった。
「直接は無理ですが、お世話になった人みんなに伝えたいです」
それだけかなあ。記者がわざとらしい大声で言った。
嫌な雰囲気。
広報が慌てたように、もう質問はよろしいでしょうか、と声をかけた。
元山は挙手する。広報が元山の顔を見るとほっとした表情をしてから、
OKのサインを出した。元山は後ろの椅子から立ち上がる。
「ワールドカップのピッチに立つことができたら、
どんなプレーがしたいですか?」
数秒の間。少し考えた後、樋口はゆっくりと答える。
「できるかどうかわからないけど・・・
サッカーの楽しさを見てる人に伝えることができるような・・・
そんなプレーができたらいい、そんなプレーがしたいと思ってます」
新聞社やテレビ局の記者たちは、慌しくクラブハウスを飛び出していく。
夜のニュースや明日の朝刊でいまの会見の模様が
ごてごてとした修飾とともに報じられるのだろう。
急ぎの原稿のない元山は、玄関に近いロビーでぼんやりと彼らを見送った。
喧騒が去ったクラブハウスはがらんとして寂しい感じがする。
しばらくすると、樋口がバッグを肩にかけて出てきた。
ロビーに座っていた元山と目があう。樋口が軽く会釈した。
この場で取材する気はなかったが、元山は声をかけてみた。
「今日はこの後は学校へ行ったりするの?」
「ほんとなら挨拶にいきたいんだけど、いろいろ準備もあるんで・・
学内でのセレモニーみたいなのも話があったんですけど、
大学の監督さんが時間がないから、
全部帰ってきてからにしてくださいって断ってくれて・・」
昨日発表されたメンバーは、今日を含めて三日間のオフの後、
福島のJヴィレッジに集合して国内合宿に入ることになっている。
その後、埼玉スタジアムで壮行試合を行った後、
一旦解散し、短いオフを取った後、ドイツへ出発するスケジュールだ。
それなりに用意ができていた他のメンバーと違って、
樋口にはいろいろとやらなければならないこともあるだろう。
元山と樋口の会話はそこで切れた。
クラブハウスの空虚な雰囲気がちょっとした沈黙を増幅する。
なにかを聞きたい気もする。もっと彼が何を考えているのか聞いてみたい。
でも元山の口からは問いかけの言葉は出てこなかった。
「ワールドカップ、がんばってね。応援してるよ」
元山の激励に樋口はにっこりと笑った。
「ありがとうございます。がんばってきます」
今日はじめて他人に見せた彼の素顔かもしれない。
樋口は小さく礼をして玄関へ歩きはじめる。
元山の目の前を通り過ぎるとき、
バッグにくくりつけられた二つのお守りが目に入った。
まったく同じデザイン。でも色が違っている。橙と紫のかった青。
バッグの取っ手に異様なほど厳重に結ばれている。
紐で幾重にもぐるぐる巻きにしてあるので、
その部分がこんもりと盛り上がっているほどだ。
「そのお守り・・・」
口にした後ではっとして、元山はその先の言葉をぐっと飲みこんだ。
そんな元山の様子には気づかなかったのか、
「これですか」とふたつのお守りを手にとって樋口は快活に笑うと、
「大事なやつからもらった大切なお守りなんですよ。
絶対になくしたくないから、ついこんなふうになっちゃって。
周りのやつにはそんなに大事なら、家にしまっておけばって
言われるんですけどね、いつも近くに置いておきたいんで」
樋口がもう一度会釈して玄関へ歩いていく。
ガラスの扉越しに見る外は、気持ちよく晴れている。
植込みの緑が日差しを浴びて光り輝くようだ。
元山のいる暗いロビーとの明るさの違いが目に眩しい。
樋口がゆっくりとその明るい世界の中へ歩いていく。
ドアを開けようとする樋口の背中が、外との光のコントラストで黒い影になる。
食事をするともう何もすることがない。
広樹は部屋のベッドに寝転がったが、まだ夜の8時だ。
こんな早い時間ではさすがに眠気が訪れるわけもない。
Jヴィレッジでの合宿初日。
昼過ぎに集合した後、ジーコの訓示も含めた簡単なミーティング。
初体験の広樹にとっては、雰囲気になれるのがやっとだったが、
それでも周りのメンバーからいざワールドカップという
凛とした空気を痛いほど感じ取っていた。
ライバルたちに勝って自分たちが選ばれたことの誇りと、
本大会へ向けた最後のポジション争いに臨む気迫。
選ばれた男たちが醸し出すオーラがミーティングの部屋に充満していた。
その後夕方にやや軽めのフィジカルトレーニングを行い、
ボールを触ることなく、初日のメニューは終了した。
宿舎に戻って飯を食べてしまうと、今日のスケジュールはおしまいだ。
広樹にしてみれば思いのほか
ついていけた、というのが初日の正直な感想だった。
おいえかれるのではという不安でいっぱいあったが、
どうやら若さというのは貴重な強みらしい。
この数ヶ月、クラブのフィジカルコーチの指示に従って、
きっちりと体を作ってきた効果があったようだ。
もう少し体を動かしたい気分だったが、
本番でベストのコンディションになるように、
試合日程から逆算した綿密な計画に従ってトレーニングメニューが組まれている以上、
あえてここで我を通して、ひとりで練習することもできない。
広樹はじっと天井を眺めてみる。
さっき食堂で食べているとき、誰かが
「お前DVD何持ってきた?」と他の選手に尋ねているのを耳にしたが、
そういうものがあれば少しは暇もつぶせたのかもしれない。
ワールドユースのときも何人かが持参していたのを思い出す。
食事の後は、中田英寿のように部屋に戻って一人で過ごす者もいれば、
小野を中心にビリヤードに興じるグループもある。
そのままレクレーションルームで雑談をしている集団もいるようだ。
ほんとうならば、そういう輪の中へ積極的に入っていかなければいけない。
広樹は天井の染みを見つめながら考える。
集合した中で唯一といっていい、新参者の自分。
早く自分のプレーを周りの選手に知ってもらい、
他の選手のプレーを早く自分も掴まなくてはいけない。
サッカーでチームメートのプレーを知るということは、
ピッチで一緒に練習すればそれで足りる、というものではない。
普段の会話の中から、その選手の性格を知り、考え方の癖を覚えていく。
どんなときに強気になり、どんな状況で弱気になるのか。
ボールだけでなく言葉もやりとりしなければ、
息のあったプレーというのは絶対にできない。
ピッチでのプレーとピッチ外の情報を付き合わせ、
互いにわかりあっていく。連携を深めるというのはそういう作業だ。
サッカーでもやはり行き着くところはコミュニケーションだ。
ここにいてはいけない。早くみんなの中に飛び込んでいかなければ。
広樹はそう思うが、心の中のもやもやが晴れない。
夕方の練習が終わった後の出来事。
それが広樹の心に、なんともえいない影を落としている。
そのとき、部屋のドアが開いた。楢崎が勢いよく入ってくる。
ベッドに寝転がっている広樹を見ると、
「どうした、なにひとりでシケた面してんだ。風呂行こうぜ」
笑って声をかけてくれた。壁に反響するような力強さ。
誰が部屋割りを決めているのか広樹が知る由もないが、
なんとなくこの組み合わせには、
楢崎の意思が働いているように広樹は感じていた。
合宿がはじまってまだ半日だったが、
一度練習試合で同じチームになっただけの広樹にあれこれと声をかけてくれ、
広樹が周囲から浮かないように気をつかってくれている。
この人のことだから面倒見役を買ってでてくれたのかもしれない。
起き上がりこそしたものの広樹から反応がないのを楢崎は見て取ると、
「夕方の記者とのやりとりのこと、まだ気にしているのか?」
いきなりずばりと言い当てられて、広樹は思わず言いよどむ。
「まあ・・そうですね」
「さっき、ツネとヒデが協会の人を通じて
マスコミに申し入れたよ。サッカーに直接関係のない質問はやめてくれって。
もしひどい質問が続くようなら、明日以降、選手は全員取材を受けないって。
広報の人も慌ててたな。さすがにそこまで
俺たちが言うとは思ってなかったらしい」
楢崎が快活に笑った。広樹は驚くばかりだ。
「そこまで・・言ってくれたんですか?」
「ヒデのマスコミ不信はすごいからな。
ヒロの気持ちがよくわかったんだろうな。
でもヒデばかりじゃない。選手みんなが同意してる。
さっきみんな集めて確認したよ。ツネが部屋回って声かけてさ。
反対するやつは誰もいなかった。みんなそれだけ怒ってるんだよ」
広樹は黙って聞いている。
感情がのどの奥から競りあがってくる。
「マスコミも、言葉は悪いが、必要悪だってのは
俺もこの商売やってて、嫌ってほど実感させられたけどな。
気にするな、といわれても無理だろうが、それ以外に方法はない。
余計なことに煩わされて調子を崩したらお前が馬鹿を見るだけだ」
楢崎さんが忠告してくれる。広樹は肯いて、
「俺もわかってるんです。向こうも商売です。
そしてマスコミがファンと選手の架け橋に
なってることも理解してるつもりです。
ただ・・でもやはりあれは俺の中に止めておきたいことなんです」
「それが自然な気持ちだと俺も思う」
楢崎の言葉にすっと広樹の肩が落ちる。
うなだれた広樹の肩に楢崎がそっと手を置いた。
ずっとずっと。この一年間、抑え続けてきた感情。
それが広樹の中であふれる寸前まで来ている。
「もうすぐ一年になるのか」
じっと体をかがめ動こうとしない広樹を楢崎が優しい眼で見る。
「はい」
「モニカちゃんかあ。俺が見たのはあの試合だけだったけど、
ほんとにかわいい娘だったな」
「俺」はゆっくりと顔を上げ、楢崎さんの目を見る。
部屋が静かだ。田舎の夜は都会と違って静寂に満ちている。
闇がすべてを包みこみ、埃の落ちる音さえ聞こえそうな錯覚にとらわれる。
楢崎さんの眼が逃げることなく、真正面から俺を見つめ返している。
「結局、俺、モニカと一試合しか、
あの代表とやった練習試合しか一緒にできなかったんです。
モニカは公式戦に出られないし、
あの試合の後はお互い代表に行くことが多くなって。
とうとう次の機会は来なかった」
そうだったんだ、と楢崎さんが相槌を打ってくれる。
「いまだにあいつが死んだなんて、心のどこかで信じられない」
モニカが交通事故にあった、という知らせは
ワールドユースから日本に帰る飛行機の中で、小熊監督の口から俺に伝えられた。
その後の機内の記憶はない。普通に起きていたはずなのだが、何も覚えていない。
成田に降り立つと分厚い灰色の雲の下、雨が降っていた。
俺は手続きを済ますと、協会の人が手配してくれた車に乗って、
すぐさま埼玉へ、モニカの家へ向かった。
モニカの家に着き、車を降りると、そこは白黒の花輪が玄関の脇に並び、
黒い服を来たたくさんの人々でごったがえしていた。
俺は事態が飲み込めないまま、門をくぐり中に入る。
玄関の脇に岩崎監督とタカシが並んで立っていた。他のサッカー部の面々もいる。
岩崎は真っ黒のスーツに、そしてサッカー部の奴らは学ランを着て、
みな表情を失ったかのように立っていた。
その横にはなでしこジャパンのメンバーの顔も見える。
俺はみんなの前で立ち止まる。
ほんとなのか?嘘だろう?
あんなに元気な奴が、あんなにサッカーうまい奴が死ぬわけないだろう?
まだ17歳なんだぜ。17歳で死ぬなんてあり得ないよ。
俺の足音に振り向くタカシ。唇をぎゅっとかんでいる。
そうきっとこれは俺をかついでるんだ。テレビでよくやるどっきりだ。
ここまで周到にやるなんてほんとに手が込んでいる。
そうだよな、タカシ。
お前、だまされたな。笑って俺にそういってくれ。
だが、俺の顔を見たタカシの表情はみるみるうちに崩れる。
目からは涙がこぼれだし、嗚咽と共にタカシは俺の両肩をつかんだ。
すべてが現実であることを悟った俺の体から力が抜ける。
膝が、腰が、もう力が入らない。
その場に膝をつく。ズボンを通して地面を濡らした雨の冷たい感触が伝わる。
なぜだ?どうしてなんだ?なぜモニカが死ななくちゃならないんだ?
体の中で何かが爆発する。俺は叫ぶ。絶叫する。
言葉にならない。俺のうめき声だけが、叫び声だけが、
静かな雨の降る日、この場所にこだましている。
学校の帰り道、歩道を自転車で走っていたモニカ。
携帯で会話しながら運転していた車が、ハンドル操作を誤り、
車線をはずれガードレールに激突。歩道に乗り上げる。そこにモニカが居合わせた。
モニカの死について語ろうとすれば、それですべてが尽きてしまう。
告別式。俺は何も考えられずにただ椅子に座っていた。
前を見ると花に包まれた制服姿の白黒の写真。あの、いつもの笑顔だ。
きっと生徒手帳の写真だ、と俺は思う。一度見せてもらったことがある。
みんな手帳の写真といえばしかめつらしい顔をして写っているのが多いのに、
モニカのははち切れんばかりの笑顔。外国人らしいや、と感じたものだ。
その笑顔が黒い額縁の中から俺を見ていた。
そう何度もグラウンドで言葉を交わしたときと同じように。
違うのは写真の笑顔は永遠にその表情を変えないことだけだ。
モニカのお父さんがいる。テレビに出てきそうな、
典型的なアメリカのやり手のビジネスマンという感じだ。
逆にお母さんは、典型的な日本の優しい母親を絵に描いたような人だ。
モニカのご両親に会うのはこれがはじめてだった。
焼香に立つときご両親に挨拶する。俺が誰だかはわかったみたいだった。
俺は歩いてモニカの写真の前に立つ。
ワールドユースはもちろん日本でもテレビ中継されていた。
きっとモニカは俺の試合を見てくれていたはずだ。
もしかしたら、その脇にはご両親も一緒にいたのかもしれない。
そして、俺のことが話題に上ったかもしれない。
この男の子、一緒の高校なんだよ。
はじめて会ったとき、公園で一人でリフティングしてたんだ。
わたしがからかってボールを奪ったら、
むきになってとりにきたけど、私とらせなかったわ。
そんなふうに俺のことが話されたりしたかもしれない。
俺はじっとモニカの写真を見る。
モニカはここにはいない。いや、ここだけでなく世界中のどこにも。
もうモニカはいないんだ。
それが夢なんかじゃない俺が生きている現実だ。
俺が生きている現実。それはモニカが生きていない現実。
その現実を心の中で処理できずに俺は写真の前で立ち尽くす。
俺はモニカの葬儀の後、三日ほど学校を休んだ。
ワールドユースの疲れ、帰りの長旅、時差ぼけ、そしてモニカのこと。
病気でもないのに、淀んだ沼の底に生える藻に
絡めとられたように俺の体は動かなかった。
一度、病院で点滴を打ってもらった後は、
ひたすら死んだように眠り続けた。
目が覚めても、俺はほとんどの時間をベッドの上で横になったまま過ごした。
力が入らず動けなかったのもあるし、動く必要もまたその気力もなかった。
暗闇の中ってこんなに落ち着くものなんだ。
俺は生まれて初めてそう感じた。
窓に厚いカーテンを引いた俺の部屋。
カーテンの隙間から夏の強い日差しは漏れるが、
それがちょうどいい按配で俺の部屋を適度な暗さに保っている。
その中でずっと横たわっていると、暗く深い谷底のような場所に
自分がどんどん引き込まれていくような気がした。
その暗闇の中で俺は最後に自分が見たモニカの姿を何度も思い出した。
西が丘サッカー場の芝の上を走るモニカの後ろ姿。
日差しを浴び、かろやかに躍動するモニカの体。
どうして俺はあのとき、もう少し待てなかったのだろう。
あのときの俺はモニカがずっといると思ってた。
少なくとも帰ってきたらモニカがいないなんて想像したこともなかった。
緑の芝生の上で俺たちに手を振るモニカの笑顔が、
俺の頭の中で何度もフラッシュバックする。
部屋のベッドの上で俺はモニカの幻影を繰り返し追う。
四日目の朝。もう体力は十分回復しているのが感じとれた。
時計を見る。いつもの起床時間だ。
俺は窓のカーテンを三日ぶりに開け放つ。
今日も快晴らしい。7月の強い日差しが俺の部屋の中に差し込む。
この時間なら、空気も朝の軽く湿った
ひんやりとした心地よさを残している。
気分がいい。俺の体がそう感じているのは伝わってきたが、
俺の心はそれに呼応しない。体と心の微妙なギャップ。
いつものようにボールを持って朝の公園へ出かける。
子どもの頃からずっとそうしてきたように、リフティングからはじめていく。
久しぶりのボールの感触。
こんなにボールを触らなかったのは記憶にない。
予定がある日でも、俺の生活では一日の中で
必ずどこかで一度はボールを触っている時間があった。
ボールが足の甲で、膝の上で弾む。俺の肌に適度な反発の感触を残す。
ああ。俺が好きなサッカーだ。
でも。
その日のボールは俺に何も語ってはくれなかった。
いつもボールを蹴っていれば、俺の心は楽しさで満たされた。
嫌なことがあったときも無心でリフティングしていれば、
いつしか俺の心はほぐれていった。
青空の下、ボールと遊んでいれば、いつも俺の心を解放してくれた。
俺はボールを足下に止めると周囲を見渡す。
朝の、誰もいない公園。
もうモニカはここには来ない。
リフティングしている俺をからかい、むきになってボールを
取り返そうとする俺をいなして、あの笑顔を見せてくれることはもうない。
試合の前に俺を激励し、勇気づけ、一緒にトラップ練習をしてくれることももうない。
この公園に俺は一人。
俺が一人でリフティングしても、誰もボールをとりに来たりはしない。
俺はぽーんとボールを蹴り上げると、
膝で勢いを殺しながら首の後ろでトラップして背中に落とす。
背中を転がり落ちたボールをヒールで蹴り上げる。
ボールが狙ったとおり俺の正面に落ちてくる。
俺は気づく。ボールを蹴っても楽しくない自分に。
その日から学校へは行くようになった。
学校に行った最初の日は、まだ沈鬱な空気が立ちこめていたが、
日が経つに従って、少しずつ会話も明るいものになり、
笑い声も聞こえてくるようになった。
もう一学期も終わる。楽しい夏休みがもう目の前だ。
あの日泣いていたクラスメイトも、
教室で屈託のない笑顔を見せるようになった。
そう、みんな、慣れていく。当たり前であり、自然なことだ。
いつまでも悲しみを胸に下を向いていてはいけない。
悲しみを乗り越え、時間と共にまた前と同じ生活に戻っていく。
正しいことだ。俺もモニカのために、笑って生活できるようにならなければいけない。
頭ではわかっていた。だが、俺の心は、精神は、
どこか配線が一本ぷつりと切れて止まってしまったかのように、
そういう元の生活への復旧作業をなかなかはじめようとはしなかった。
友人に話しかけられれば笑顔で応える。
ギャグを言えば笑う。アホなことをすれば突っ込みを入れる。
表面上は以前と変わりないやりとりをしていても、
その実、俺の心は何の反応もしていなかった。
まるで皮膚の表面だけ、俺のコピーロボットがいるみたいだ。
ロボットは過去の蓄積にしたがって
プログラミングされた俺の動きに従って、会話し、動く。
それだけだ。ロボットに心なんてない。
俺はモニター画面でロボットの挙動を確認する科学者のような存在だ。
俺は話し、動いている。でも、それは俺とつながっていない。
俺と俺自身の間には、いつのまにか気づかぬうちに壁ができていた。
いつか壁も消えるだろう。俺は思う。
壁をなくさなければいけない、とも思う。
でも、その壁はなかなか強固で簡単に崩れる気配はなかった。
久しぶりに顔を出す部活。
みんなからは体調を崩してたんだから、
あせってくる出てくる必要はないと気を遣ってもらっていた。
その言葉に甘えて顔を出すのがついつい遅くなってしまった。
モニカと一番多くの時間を一緒に過ごしたこのグラウンド。
足を踏み入れるのには、俺自身いくばくかの時間が必要だった。
脇から見る練習風景は以前と変わらない。
プレーを指示する大声が飛び、時には笑い声も出る。
誰もがひとつのボールを追って、懸命に走っている。
でも以前からずっと俺たちの練習を見てきた人が注意深く見たならば、
ほんのかすかな違和感に気づいたはずだ。
このグラウンドにいる誰も忘れてはいない。
大事なものがこの場所からなくなってしまった事を。
太陽のように光をそそいでくれた大切な存在が失われたことを。
俺はブランクのあった分慎重にウォーミングアップをこなす。
俺がワールドユースに出ている間にインターハイ予選は終わっていた。
タカシの活躍もあって決勝リーグまで駒を進めたが、
わずかな差で全国への切符をとることができなかった。
次の最大の目標は冬の選手権ということになる。
俺も当然の選択だったとはいえ、ワールドユースに出場したために
チームの大事なときに貢献できなかったことに、
多少の後ろめたさみたいなものはある。
今度は俺の力で、といえばおこがましいが、
ぜひタカシたちチームのみんなと大きな舞台に挑戦したい。
冬の選手権に出られるのは埼玉からは一校。
埼玉から二校出場できるインターハイよりハードルは高い。
もっとレベルアップしなければ選手権出場なんて絵に描いた餅で終わる。
俺はアップを終えると自分自身に気合を入れた。
今日は紅白戦をやることになっている。
ワールドユース仕込みのテクニックを見せてもらおうか、という
さっき聞いた山口の言葉も冗談ばかりではないようだ。
組み合わせはレギュラー組対控え組。
俺はゆっくりとグラウンドに入る。土のグラウンドなんて久しぶりだ。
センターサークルの後ろ、いつものポジション。
俺たちのボールでキックオフだ。前には高田とタカシが構える。
審判役の下級生が笛を吹く。
タカシがすばやくボールを俺に送る。
さあ、頼んだぜ。タカシの笑い顔が見えたような気がした。
俺は視線を左右に散らして、
すかさず走り出した両サイドの動きを確認してパスを送ろうとした。
その瞬間、何とも言いようのない違和感が俺をわしづかみにする。
パスを出そうとした俺の足が止まる。
猛然とチェックに来る下級生が目に入り、
俺は慌ててディフェンスにボールを戻した。
前線でタカシが怪訝そうな表情で俺を見ている。
俺が自分自身に聞きたかった。いまのはいったいなんだ?
いま、どうして俺の体は動かなかった?
夏の日差しが俺の焦燥を笑うかのように照りつける。
冬はこの商売にとっては辛い季節だ。
防寒対策は十分にやっているのに、それでもじわじわと寒さが忍び寄ってくる。
元山は埼玉スタジアムの記者席で肩をすくめて震えていた。
大晦日だというのに結構観客席が埋まっているのは、
やはり地元チームの試合があるのが大きいのだろう。
元山のいる記者席からは、アウェーゴール裏の方向に
低い位置で灰色の雲が立ち込めているのが見える。陰鬱な空だ。
明日は天皇杯で国立だ。この商売をやってもう何年もたつ。
すっかり慣れっこになったはずのサイクルだが、
この時期なぜか妙に気分が重くなるのは、
年越し気分に浮かれる世間と隔絶したところで
生活している自分を実感してしまうせいなのか。
ふと手前に視線を戻した元山は、見知った顔を見つけた。
軽く会釈すると向こうも元山に気づいたらしく、こっちに歩いてくる。
近くまで来た彼に元山は声をかけた。
「小熊さん、どうしたんですか?今日は」
「お久しぶり。いきなりだけど、ここいいかな?」
小熊は元山の隣を指差す。
どうぞ、と元山はうなずく。
元U-20日本代表監督の小熊が記者席にいても、
誰も面と向かってとがめだてする人もいないだろう。
「監督就任おめでとうございます」
元山の挨拶に小熊が、ありがとう、と礼を返す。
一週間ほど前、小熊のFC東京監督就任が発表されていた。
元々、ワールドユースの監督を務める前は、
FC東京の監督だったから古巣に帰った形になる。
「いろいろ忙しい時期なんじゃないんですか、チームの編成とか」
元山は話を振ってみる。
「意見を言える部分なんて限られてるからね。
大まかな希望ぐらいは言うけれど、あとは編成の仕事だから」
小熊はそういってピッチに目をやった。
「今日はこの試合を見に、わざわざ?」
元山は訊いてみたが、小熊は聞こえていないのか何も言わない。
審判が手をあげ笛が吹かれる。
ピッチで一斉に選手が走り出す。試合開始だ。
第84回全国高校サッカー選手権大会1回戦
埼玉代表・埼玉南高校対鹿児島代表・鹿児島学院高校。
さんざん手垢のついた言葉だが、一回戦屈指の好カードというのが、
専門誌の記者たちの間の評判だった。
Jリーガーを過去に数多く輩出し、昨年の選手権を制した強豪、鹿学。
今年もインターハイでは決勝進出を果たしており、
この大会でも優勝候補の筆頭に挙げられている。
対する埼玉南は初出場。
冬の選手権では長い長い低迷にあえぐ埼玉勢だが、
今年は夏のインターハイでも上位に食い込んでおり、
県全体のレベルは決して低くないという話だ。
地元浦和レッズへの入団が決まっているフォワードの
田村隆の決定力は高校レベルでは群を抜いているという話だ。
チームワークもいい。個々のタレントでは
ライバル校に見劣りするにもかかわらず、
際どいクロスゲームを制して予選を勝ち上がってきたのは、
試合を決してあきらめない粘り強さあってこそといえた。
そして。元山はピッチ上10番の白いユニフォームを探す。
樋口広樹の姿。田村−樋口のホットラインがこのチームの生命線だ。
タレント揃いの鹿学の強力な攻撃を、
抜群のチームワークを誇る埼玉南の守備が抑え込めるか。
その上で樋口、田村の二人が、
鹿学の分厚い守備に穴を開けることができるか。
隣の小熊はピッチを険しい顔つきで
睨みつけたまま一言も発しようとしない。
小熊の厳しい表情に、元山は話しかけるのを躊躇する。
そのまま元山も黙って試合を観戦することにした。
結局、前半が終わるまで小熊は一度も口を開かなかった。
試合は、高校生らしい無造作なロングボールを蹴りあう単調な展開となった。
初戦の緊張からかどちらもセーフティの意識が強く出すぎて、
見ている側がはっとするようなチャレンジするプレーが見られない。
スコアは前半20分にセットプレイから、
ヘディングのゴールを決めた鹿学が1点リード。
そのまま、審判が前半終了の笛を吹いた。
観客が一斉に席を立ち、トイレに休憩にと動き出す。
とはいっても所詮は高校サッカーの試合。
代表戦のような混雑にはなりそうもない。
「トイレ行ってきますけど、なにか暖かいもの買ってきましょうか?」
小熊に声をかけてみる。多少陽が出てきたとはいえ、
この気温でじっと座っていると、体の心から冷えてくる。
小熊ははっとしたように振り向くと、
「ああ・・。申し訳ない。コーヒーをお願いしてもいいかな」
ポケットから財布を取り出そうとする小熊を制止して、
「今日は私がごちそうします」
小熊はそれでも財布から小銭を取り出したが、
元山が受け取る気がないのを察したらしく、
「じゃあご馳走になるよ。なんか後が怖いな」といって笑った。
元山が二人分のコーヒーを買って戻ると、
小熊は腕を組んだまま、控え選手たちが練習するピッチを、
難しい数学の問題でも出された生徒のような表情で睨みつけている。
「買ってきました」
小熊が礼をいって、コーヒーを受け取るとカップのふたを開ける。
白い湯気が机の上に広がっていく。
小熊はそのまま黙って一口飲む。
元山は砂糖とミルクを入れ、マドラーでかきまぜてから軽くすすった。
苦い。相当煮詰まっている。
「元山さんは・・・樋口の試合見るのは?」
「選手権の予選も含めて何度か・・。」
そうか、と小熊はそっと呟く。
小熊はワールドユースの総括が終わった後協会を離れ、
ドイツへ数ヶ月コーチ留学へ行っていた。
戻ってきたのはつい最近、FC東京監督就任が発表される少し前だ。
おそらく樋口の試合を見る機会はなかっただろう。
「正直、耳には入ってきてたんだがな。まさか、ここまでとは・・」
「どう思いました?」
小熊は苦しそうにぼそりと言葉を押し出す。
「いまの樋口じゃこの先はない。ここまでの選手だ」
グラウンドではエンドを換えて後半がはじまっている。
「元山さん、いいサッカー選手ってどんな選手だと思う?」
「いいサッカー選手?」
元山は聞きかえす。
「いい、という言葉が適当かどうかわからんが。
サッカー選手としての能力といってもいい。
よく、こいつはいい選手だ、能力のある選手だっていうけど、
それって具体的には何があることを言ってるんだろう」
難しい質問だ。軽率に答えられない。
元山が答えを探していると、小熊が話を続けた。
「技術はサッカー選手としての大事な要素のひとつだ。
だが俺は技術がサッカーに占める割合というのは
実はそんなに高くないと思っている。
もちろんクラスに応じた最低限のラインというのはあるが」
樋口が鹿学の選手に囲まれ、倒されてボールを奪われる。
「文章が上手くてもそれだけでは小説家になれないように、
サッカーが上手いだけではプロのサッカー選手にはなれないんだ。
そこを勘違いしているやつは多い。
ユースの監督やってるときもいろんなところからよく聞かれたよ。
彼はあんなにすごい技術を持っているのに
どうして使わないんですか、とね。
この前、どなたか解説者の人が雑誌で書いてたけどね、
中田英寿よりも中村俊輔よりも上手くて高い技術を持っている選手なんて、
Jに限らず、アマチュアの中にだっているって。
俺もその意見には同感だ」
「そんな」元山は思わず異議を唱える。
小熊は元山の言葉に首を振って、
「たとえばリフティングだけならフリースタイルリフティングの
やつらには代表選手より上手いやつがいる。
ドリブルだってそうだ。
アマチュアだって練習でとんでもなくキレた
フェイント見せられてこっちがびっくりすることがしょっちゅうある。
アマチュアや下位カテゴリでもすごい技術を持ってるやつはいるよ。
でも、それとプロの、トップの世界というのは違うんだよ」
埼玉南の攻撃。左サイドの選手からクロスが上がるが、
中央で待っている田村隆の頭上を遠く越えてゆく。
「技術だけではだめ、ということですか?」
「わかりやすくいえばそうなる」
小熊はコーヒーのカップを口にして飲み干した。
空になったカップが机の上に置かれる。
「たとえば元山さんがドリブルをしている。
相手が一人チェックに来た。
ここで相手を抜いてしまえばビッグチャンスになる。
さて、ここで相手を抜くために一番必要なものはなんだ?」
元山は考える。この話の流れからするとテクニックではないらしい。
「抜こうとする・・気持ちですか?」
「正解。さすがだね、恵理ちゃん」
いつのまにか呼び方が「恵理ちゃん」に変わっている。
「抜けるだけの技術があっても、抜きに行かなきゃ抜けっこない。
すごいシュートを打てる技術があっても、シュートを打たなきゃ決まらない。
いくら優れた技術を持っていても、
それを使おうという意思がなければ何の役にも立ちゃしないんだ。
抜ければ、行けばチャンスという場面で、
勝負しない横パスやバックパス。意図の不明確なプレー。
いくら技術があってもそういう無難な、
責任逃れの選択をしてしまったら、技術は何の意味も持たない。
A代表の攻撃のゴール前を見ればわかるだろ。
ビッグチャンスというところで打たないやつがざらにいるんだ」
不意に元山はワールドユースで
樋口の決めた鮮やかなループシュートを思い出す。
そう、あのとき小熊は元山の質問にこうコメントしていた。
「彼がこの難しい場面で決める力を持っていたということです」
決める力。それは技術だけではない。技術を行使する意思・・
「まあちょっとアバウトすぎるたとえだが、こんな言い方もある。
恵理ちゃんが目の前のやつを、
だいたい3回に2回は抜けるとしよう。
チャレンジしてみた。1回目は止められてしまった。
すると抜きに行くのを次からはやめてしまう。
決して抜けない相手じゃないのに、最初の一回を失敗したために
次からトライしなくなってしまう。
結果、抜けるはずの相手が抜けない。持ってる力を発揮できないわけだ。
適度な臆病さと勇気の両方がプレーには必要なんだ。
ここで大事なのは、臆病になるのは誰でもできるが、
勇気は誰もが持っているわけじゃないってことだ」
小熊の言葉が熱くなる。
「それって山川さんの言うような人間力ってことですか?」
元山は訊いてみる。山川はアテネ五輪の代表監督である。
山川の唱えた「人間力の必要性」はサッカー界に様々な反応を巻き起こした。
「考えるスタート地点は同じなんだろうな。
試合において技術だけじゃない、メンタル的な強さが必要だ、と
いうアプローチは、俺が言ってることと同じだと思う。
ただ、人間力って言葉と俺のイメージしてるものは違う。
さっき勇気って言葉を使ったけど、
俺がイメージしてるものはそういうメンタル面も含むけど、
さらにそれ以外のものも含んだ、得体の知れない何かなんだ。
どこの世界でもそうなのかもしれないが、
サッカーで成功した人の中には、破綻してるとまでは言わないが、
お世辞にも人格円満とは呼べない人たちがごろごろしている。
マラドーナなんか見てみろ。人気はすごいがやってることは無茶苦茶だ。
彼らなんかを見てると、俺は人間力という言葉では
俺が言ってる「何か」は説明できないと思っている。
単なる強烈なエゴでもなく、単なる人間的魅力でもなく、
それらを超越した何かなんだよ」
ライン際を樋口がドリブルで仕掛けたが、
相手の伸ばした足にボールが当たってラインを割る。
「その何かは教えて身につけさせることができるものじゃない。
ある奴は最初から持っているし、ある奴は持っていない。
あるレベルだとそれを持っているように見えるのに、
一定以上の高いレベルの試合やプレッシャーのかかる試合では、
途端にそれがなくなってしまうタイプもいる。
以前持っていた奴が突然それを失ってしまうことも珍しくない」
審判の長い笛。埼玉南の選手がゴール前でうなだれている。
鹿学の選手が右手をつきあげて走っている。
鹿学の追加点。2−0と点差が開く。
樋口が腰に手をあてて空を仰ぐ。何もできずに立ち尽くす姿。
「いまの樋口のようにね」
元山は黙ってピッチを見ている。
そうオランダでもこんな風に記者席からピッチを見ていた。
あの日、ライン際を風のように樋口が駆けていった。
いま、スタジアムの芝の上で、
彼は翼を切られた鳥のように、飛べない自分にもだえ苦しんでいる。
「恵理ちゃんも・・・気づいていたんだろ?」
元山はちらりと小熊の顔を見て、
「ええ・・」
もう攻めるしかなくなった埼玉南が、前線に人数を割く。
開き直りが功を奏したのか、埼玉南がリズムを掴みはじめる。
前線から田村隆が後ろの選手たちに大声で何かを叫んでいる。
「ワールドユースのときの樋口なら、
まちがいなくJ1でもレギュラーを張れたし、
A代表にだって呼んでみる価値はあった。
恵理ちゃんがよく知ってるとおり、
あのときの樋口のプレーにはどんな奴もひきつける魅力があった。
ドイツに行ってからも正直樋口のことは気になっていた。
どこのクラブに行くんだろう。ジーコは代表には呼ばないのか。
樋口がどんなプレイヤーになるのか、
俺も一人のサッカーファンとして楽しみにしていた。
でも日本にいる奴にたまに聞いてみると、どうも話がはかばかしくない。
聞けばすっかりただの人になっちまってるって話じゃないか。
俺は自分の耳を疑ったよ。
小中高あたりまで年代別代表の常連だった選手が、
ある時からふっと選ばれなくなる。ぱたりと顔も名前も見なくなる。
俺自身そういう若い選手たちをセレクトする側でやってきた。
そんなのがあちこちに転がっているありふれた話だってのは承知している。
それでも、樋口だけは例外だとどこかで思っていたんだ」
試合前に撮影される集合写真。
元山もライターとして報道する仕事に携わっている故、
年代別の代表だけでも数え切れない枚数を見ている。
時折昔の写真を見返すと、
いまでもA代表で活躍する面々に交じって、記憶にない顔がある。
あれ、これ誰だっけ?
集合写真はサッカー選手の生存競争の記録でもある。
いつのまにか欠けて消えていく顔がある。
「やっぱりモニカちゃんのことが原因なのか?」
小熊が元山のほうを向いて尋ねた。
元山は少し迷ったが、正直に答える。
「そうだと思います」
埼玉南の攻勢が続いているが、鹿学の守りは堅い。田村にいい形でパスが入らない。
埼玉南は田村にロングボールをほうりこんでいるが、
鹿学のディフェンダーも上背があり、きっちり跳ね返す。
「でも、それにしても・・それだけであれほどまでに
変わってしまうものなんでしょうか」
元山はずっと抱いていた素朴な疑問を口にする。
「プロとしてサッカーを見てる恵理ちゃんが
そんな質問するとはちょっと意外だが・・。
選手にとってメンタルがプレーのデキに占める割合は相当高いんだよ。
監督やチームメイトとの確執、移籍絡みのごたごた、女性関係のトラブル。
怪我よりもメンタル面のトラブルで
プレーがおかしくなるやつの方が実は多いんだ。
日本の10番を背負うといわれていた磯崎や、
去年引退を発表した前野だってそうだ。
樋口の中でモニカちゃんの死をきっかけに、
何かが消えてしまったんだろう」
「彼は一所懸命やってます。必死でもがいてます」
元山は反論する。
「誰も樋口が一所懸命じゃないなんていってない」
小熊が悲しそうな顔をした。
「あいつ自身にもどうしようもないどこかで、
なにかがなくなっちまったんだ」
樋口がボールを持つ。パスの出し先を探して、
迷路にいるようにせわしなく左右を見渡すが、出し所が見つからない。
その間もじりじりと時間が過ぎていく。
「なんといってもテクニックの蓄積があるから、
県予選ならなんとかごまかしきれたかもしれん。
同じチームにいいフォワードもいるしな。
高校選手権のレベルならピッチに立つ資格は十分にあるし、
それなりに通用もするだろう。
だが、この先の世界ではもう通用しない」
スタジアムの時計の針は残り時間が少ないことを告げている。
「やつにとっては相手が鹿学でよかったかもしれんな。
今日来てる全国紙の記者はほとんど地区予選なんて見てない。
テレビ中継を見てる一般のお客さんもそうだろう。
ここで負ければ、たまたまこの試合だけ樋口の調子が悪かったで済む。
しかも相手は優勝候補の強豪鹿学だ。負けても不思議はない。
だがもし勝ち進めば勝ち進むほど、
もうかつての樋口はどこにもいないことを世間に知らしめることになる。
それは樋口本人にとって、ひどく酷なことだろう」
そんな・・・・。元山は言葉をそっと呑みこむ。
認めたくはなかった。
けれど、小熊の言葉は元山が感じていたこととまったく同じだった。
樋口を見に出かけた県予選。試合を見た元山は首をかしげた。
これがあのオランダの彼と同一人物なの?
テクニック、ボール捌きには面影を残しているものの、
見ている元山に伝わってくるものがなにもない。
元山を思わず記者席から立ち上がらせた、
あのほとばしるような情熱のかけらも見あたらない。
元山のような素人にも読めるパス。確実だが創造性のないプレー。
困惑する元山の耳に、近くにいたJクラブのスカウトの会話が耳に入る。
「あれが樋口か。実際に見てみると・・随分印象が違うもんだなあ・・」
「よくまとまってるけど、レベルの高いチームじゃないからなあ。
練習してるうちに低いレベルに合わせるようになっちまったのかな」
「ワールドユース見たときは化け物かと思ったのに・・
たまたまあの時だけ確変入ってたってことか」
自分の世界に入り込んでしまった元山を置いて、
そっと小熊が静かに立ち上がった。
「小熊さん?」
「もう失礼するよ。試合もほぼ決まったようだし、それに」
そういうとコートの襟を立ててぎゅっと首にかぶる。
「俺はあんな樋口を見たいんじゃない」
そういうと小熊は振り返りもせずにすたすたと
スタンドの出口に歩いていってしまった。すぐに姿が見えなくなる。
ひとり取り残された元山はゆっくりとピッチに視線を落とす。
ロスタイムを示す表示が出ている。スコアは2−0のままだ。
もう鹿学は敵陣内に入ったボールは追わない。全員が自陣に引いている。
埼玉南のディフェンダーは、悠々と
ボールを持たせてもらえるがもう時間がない。
早く攻めたい埼玉南。長いパスが中盤に送られる。
パスを受けたのは樋口だ。
埼玉南のイレブンは最後まで樋口を信頼してパスを出している。
あっというまに鹿学のユニフォームに取り囲まれる樋口。
後ろへターンしてキープしようとするが、そこにも相手がいる。
後ろがだめなら、と今度は強引に前を向く。
接触ではじかれた鹿学の選手がよろめき、ぽっかりと樋口の前が開いた。
すかさず樋口が小さな足の振りでパスを出す。
だが、そのボールは鹿学の選手が伸ばした足にあたり、
方向を変えて前に飛んでいく。
それが運よくゴール前で待っていた田村の足元に転がった。
虚をつかれ一瞬ボールウォッチャーになってしまった鹿学のディフェンス。
田村の前にはぽっかりと幅広いシュートコースが空いている。
田村はまだゴールに対して半身だ。ワンタッチ入れてボールを置きなおすか。
元山がそう思った瞬間、田村は強引に体を捻り、
腰をぐるりと回転させるとダイレクトでシュートを打った。
人に当たって予想外の動きで後ろからきた難しいパス。
無理に打った分シュートのスピードはなかったが、飛んだコースは完璧だった。
ゴール枠左下すれすれ。ぼてぼてのボールがゴールの中へ転がっていった。
地元チームの得点にスタンドからこの日一番の歓声が沸き起こる。
けれども田村にも、樋口にも笑顔はない。
そして続いて長い笛。埼玉南の選手がばたばたと芝に膝をつく。
あちこちで抱き合って喜ぶ鹿学の選手たち。
そんな中、田村隆は悔しさを顔に浮かべながら、
それでも毅然と前を見てセンターサークルに戻ろうと歩いている。
樋口の表情からはなにも読み取れない。
目線を落とし、ただ疲れ果てたように、重そうに足を進めている。
たぶんダイレクトで打ったのは田村君のメッセージね。
元山にはそんな気がしてならなかった。
あの状況なら一回ボールを足下で置きなおすだけの時間はあったし、
そのほうが確実にゴールできた。
彼はそれがわからない選手ではないし、シュートを打つときも落ち着いていた。
でも、田村君はあえてリスクの高いダイレクトで打つことにこだわった。
樋口君、あなたはなぜ田村君がこだわったかわかるかしら?
元山は問いかける。届くはずのない問いをピッチを力なく歩く樋口に投げかける。
がたがたと椅子を引く音がひとしきり鳴ると、
あっという間に教室からは人がいなくなっていた。
以前は、授業が終わっても居残って、
際限ないおしゃべりを延々としていた女子たちも、
いまはさっさと挨拶を交わして、学校を出て行く。
これが受験シーズン本番ってことか。俺は妙に納得する。
三学期になってから、俺たち3年生はずっと半日授業だ。
私大やら専門学校やらの試験がはじまりだしたため、
今日も教室は空席が目立っていた。
形ばかりの授業を受けても意味がないと、
学校に来ないで家で受験勉強に励んでるやつも少なくない。
一方、推薦とかで自分の行き先をもう決めているやつは、
バイトか教習所にでも通うのだろうか、
残り少ない自由時間を無駄にできないと、
学校にもう忘れ物はないような顔をして、さっさと校門を出て行く。
ああ、別れの季節なんだなあ。
俺は実感する。そんな俺もカバンの中には受験参考書が詰まっている。
今日も帰り道に図書館によるつもりだ。
親は進路についてなにも言わないが、浪人してあまり家計に負担はかけたくない。
いままで好き放題やらせてもらった以上、
俺自身少しは勉強を頑張らないといけない。
ふと窓の外から校庭を見る。2年の男子が体育の授業をやっている。
サッカーだ。岩崎が脇に立って暇そうにゲームの様子を見ている。
俺たちの高校サッカーは、大晦日で終わった。
優勝候補の鹿学に1回戦負け。
鹿学はその後も順調に勝ち進み、準優勝という成績だった。
最初から鹿学なんて運が悪かったよなあ。そういってくる友人もいた。
他のとこだったらいいとこまで進めたかもしれないのに。
だって、鹿学とも一点差だったもんなあ。
俺たちサッカー部員はそんな言葉を笑ってやり過ごした。
鹿学と俺たちの間にどれほど大きい差があったか、
それは同じフィールドで戦った俺たちが一番よくわかっている。
鹿学と俺たちの間にははっきりとしたレベルの差があった。
プレイスピード、判断力、ゲームを読む力。大人と子どもほどの違い。
試合結果は妥当なものだし、よほどの幸運がなければ変わらないだろう。
でも、もし俺がワールドユースのときの俺だったら。
あのときのプレイができる俺だったら、どんな試合になっていただろう。
俺ははっとする。くだらないことを考えてしまった。
俺は首を振って頭の中から余計な考えを追い払う。
しょうがないじゃないか。もうお前は以前のお前とは違うのだから。
サッカーをやっていると、いろんな感覚がある。
たとえば「スペースが見える」感覚。
木の生い茂った森の中に、なぜかぽっかりと広場ができることがあるように、
フィールドにも無数のスペースが泡のようにできては消える。
誰かが、もしくは自分が動くことで、スペースは生まれ、また消える。
そのスペースを見つける楽しみ。
今あるスペース。何秒後かにできるであろうスペース。
そこにイメージどおりのパスを出して通ったときの喜び。
ワールドユースのときは、人がやっと立てる程度の
小さな円のスペースまで俺には見えるような気がしていた。
だけど日本に帰ってきた俺には、そういうスペースが見えなくなっていた。
ドリブルしているときの相手の気配もそうだ。
オランダでは、言葉も通じない相手選手が俺のドリブルに対峙したとき、
何を考えているかある程度イメージすることができた。
攻撃を遅らせたがっている、すぐさま喰いついていくることはない。
狙ってるな、足を伸ばしてくる。あ、いま俺のフェイクに吊られた。
だが俺は相手が何を考えているか読めなくなっていた。
見えていたものが見えない。感じていたことが感じられない。
プレー中に感じ続ける違和感が、
俺の視界を眼帯でもはめたようにどんどん狭くしていく。
以前なら見えていたサイドのオーバーラップが見えない。
勝負どころでだすスルーパスの走る道が見えない。
自分のプレーがどんどん悪くなっていくのがはっきりとわかった。
その頃、練習試合や大会でライン際に見知らぬ大人の姿を見ることも増えた。
プレーの切れ目にふと彼らのほうを見ると目が合うこともあった。
俺を見ている。何者だろう。
すぐにその答えはわかった。Jクラブのスカウトだ。
時折声をかけられ、試合後に話をすることもあった。
ほとんどがプレーについての他愛無い世間話だ。
表面上は普通に会話を交わしていたが、
俺には彼らの心の声が聞こえてくるような気がしていた。
「樋口はどうしちゃったんだ?全然プレーにキレがないじゃないか」
そんな俺の心にささやく声を裏付けるように、
一、二度練習参加の打診はあったものの、
やがてスカウトたちはひとり、またひとりと顔を見せなくなった。
たまに来るスカウトたちの視線も、俺ではなくタカシに向くようになった。
当然だと思った。タカシはめきめき成長していた。
チームメイトとしても頼りがいのあるフォワードになっていた。
やがてタカシにはいくつかのオファーが届き、
タカシはその中から古巣ともいえるレッズを選んだ。
タカシのサッカーにかける思い、三年間の頑張りを知っているだけに、
俺にとっても嬉しいニュースだった。
そして俺はいつしか思うようになった。
俺が一瞬でも、違うサッカーの世界を見ることができたのはモニカの力だったんだと。
モニカが持っていたサッカーの特別な力を
俺に与えてくれたから、俺は本来持っている能力以上のプレーができた。
だからモニカがいなくなり、モニカの助けがなくなったいま、
俺が平凡なプレーしかできないのも当然のことだ。
俺はそんな風に自分自身に言い聞かせた。
それで俺自身のことは納得させることもできた。
だがチームメイトにはとてもそんなことはいえなかった。
タカシはもちろん、山口も内藤も、レギュラーも控えのやつも、
みんな懸命に練習に打ち込んでいた。
口にはしなかったが、モニカのことをみんな忘れていない。
選手権に出ることで、モニカにせめてものお礼をしたい。
誰も口にはしなかったが、一人一人が心の中に熱い思いを
隠し持っているのを、練習中に何度も感じることができた。
俺も何かしたい。チームに貢献したい。
俺の中でもチームのために、という思いが大きくなっていく。
みんなの俺への期待もひしひしと感じていた。
モニカと一番コンビを組んでいた俺を軸にしたい、というみんなの心。
けれどもいくら練習しても失ったものは戻ってこなかった。
県予選では厳しいマークを受けることが多かった。
俺はその裏をかくように、どんどん周囲にパスを回していった。
自分では何もできなくなった俺が考え付いた苦肉の策だった。
時には不必要なフェイントを連発したりして、相手にはったりをかましてもみた。
すべてはごまかしだった。ギミックだ。
目の肥えた人が試合をよく見れば、俺を中心にボールが回っているようで、
その実ほとんど俺が仕事をしていないことがわかっただろう。
そんな風に敵チームの目をごまかしながら、
タカシの神がかり的な決定力のおかげで、
紙一重の差で予選を突破したときは心底ほっとした。
そして高校選手権。一回戦で負けたとき、悔しくなかったわけじゃない。
でも笛が鳴ったときに俺の心に広がったのは安堵感だった。
もうこれで楽になれる。不釣合いな期待をかけられずに済む。
もういいんだ・・。
俺は窓の外を見るのをやめて教室を出た。
三年生はもう誰もいないし、他の学年は授業中だから廊下には人がいない。
俺は廊下を歩く。ぺたぺたという上履きの足音が妙に響く。
サッカーができなくなった以上、他の進路を考えなくてはいけなかった。
まだ将来具体的に何になるかなんてわからないが、
ずっとサッカー中心の生活だったから、もっといろんなことを知りたい。
そんな考えで俺は大学を受験することにした。
時間がたって、いつか気が向けば、大学の同好会とか地域のクラブで
趣味として、サッカーは続けるのも悪くない。
下駄箱から靴を出したとき、校庭のほうから笛が鳴るのがかすかに聞こえた。
点が入ったのか、試合が終わったのか。どっちだろう。
まあいい。もう俺にサッカーは関係ない。
埼スタで試合終了の笛が鳴ったときに、俺のサッカーは終わったんだ。
上履きを靴箱にしまおうとしてふと人の気配を感じる。
「タカシ・・」
タカシの一見なにも考えてそうな笑顔。
扉の付近に置かれた傘立てにタカシが腰かけている。
「随分帰りが遅いじゃねえか。
こんな遅いと思わなかったから待ちくたびれたよ。
まあ、授業のサッカー見てたから暇は潰せたけど」
俺はなぜタカシが俺を待っていたのかがわからず、困惑する。
「ところで今日、時間あるか?」
俺たちは自転車を並べてこぎながら校門を出た。
タカシは俺を先導するように、少し斜め前を走っている。
俺は黙ってタカシの後についていく。
タカシはうちのグラウンドをぐるっと回り込むように自転車を走らせる。
学校の裏手にある埼玉スタジアムの白い屋根が近づいてくる。
タカシはそのままスタジアムの周囲に作られた公園へ自転車を乗り入れる。
今日みたいな平日の昼間では客がいるわけもなく、
スタジアムは古代の遺跡のように物言わず、静かにたたずんでいる。
スタジアムの駐輪場にタカシが自転車を止める。俺も倣う。
タカシはそのままスタジアムに向かって歩き出す。
もちろんスタンドに通じる扉は閉められているが、
タカシはその扉に連なる鉄柵に沿って歩きはじめた。俺も横に並んで歩く。
「レッズのジュニアユースにいた頃さ」
タカシがしゃべりはじめた。
「俺、出た大会のほとんどの試合で先発してた。
点だって他の誰よりもとってた。
だから、自分がユースにあがれることをこれっぽっちも疑ってなかった。
でも、秋になってクラブから言われたんだ。
俺のこと、ユースにあげる予定はないって。
進路については相談に乗るけどどうするって」
タカシが自分からレッズ時代のことを話すのははじめてだ。
俺は黙って聞いている。
「俺は全然納得しなかった。
俺より下手なやつがユースに上がっているのに、
なんで俺がだめなんだ?って思った。
なんてこいつら見る目がないんだって思った。
子どもの頃からプロになるつもりでやってきた。
俺自身は十分プロでやれる手応えを感じていた。
傲慢なんじゃないぜ。ジュニアで練習してても、試合に出ても、
こいつには負けるって思うようなやつはいなかったんだ。
だから俺はきっとプロまでいける。そう信じてた。
だけどクラブは俺のことをプロにはなれない、と判断したんだ。
ふざけんじゃねえよって思った。俺の夢を勝手に潰すなよって思った。
でも、クラブの決定だ。どうしようもない。
クラブに頼めば私立とか、多少は口をきいてくれるらしいけど、
捨てられる立場でクラブに頼るのなんて勘弁だって思った。
だから、公立の南に入ることにした。
俺の馬鹿な頭じゃちょっときつかったけど、
ここならそこそこサッカー強いし、監督は岩崎だし、
入って損はないだろうって思った」
それに、とタカシは言葉を切ってスタジアムを見上げる。
「南なら埼スタが近いからな。
授業を受けてても、グラウンドで練習してても埼スタが見える。
俺は南で伸びて、絶対に俺を落とした奴を見返してやる。
いつかプロとしてあそこに立ってやるって。
埼スタを見るたびに、落とされた悔しさを
思い出せるんじゃないかって思った」
冬の弱々しい日差しがスタジアムの屋根を照らしている。
屋根の切れ目からは、屋根の影になって日のあたらない、暗い観客席が見える。
スタジアム全体がいまは静かにたたずみ、
やがて訪れる熱狂の時をじっと待っている。そんな感じだ。
「だから正直言うと、チームにはさほど期待してなかった。
武東みたいな私立には選手集めの段階で分が悪いのは承知してたし。
あくまでも自分がどれだけ成長できるかにしか、俺は興味なかった。
チームがダメでも、俺にいい評価がつけばそれでよかった」
浦和美園駅に伸びる遊歩道が右手に見えてくる。
「最初に練習に参加したとき、ぱっと全体見てみたら、
だいたい予想していたとおりのレベルだった。
これならすぐにレギュラーになれる。問題ねえってまず思った。
だがよく見てたら、次に焦ったよ。
いたんだよ、ひとり。げ、こんな上手い奴がいるのかって。
はじめてだった、そんなこと思ったの。
もちろん常に俺がナンバーワンって思ってる訳じゃないぜ、俺だって。
他の奴見てて、ある部分なら俺より上手いなって感じたことは何度でもある。
でも、トータルで・・全体で負けてるかもしれんって
感じたのはあの時が初めてだった。
ジュニアユースでやってても、いろんなやつと試合で対戦しても、
そんな気分になったのは、あの時が初めてだった」
俺はタカシの話を聞きながら、考える。
入学した頃、上級生にそんな上手い人いたっけ?
少なくともタカシにそこまで感じさせるような先輩がいた記憶はない。
「お前だよ、お前。なに、とぼけてるんだ」
タカシが俺の方を見て楽しそうに笑った。
俺?思わず自分の顔を指さして問い返してしまう。
「嘘だろ?入学してすぐの頃っていったら・・」
中学時代も部活でやってたとはいえ、全くの無名だった俺。
当然あの頃はたいしたテクニックもなく、プレーだって見栄えしなかったはずだ。
「俺は冷静に考えてみた。俺は何でそう感じたのかってね。
正直、どれをとっても俺の方が上手かった。
ドリブル・パス・シュートは言うまでもなく、
フィジカルだって、経験の蓄積だって、精神面だって、
誰がどう見ても俺の方が勝ってる。
でも、俺の勘みたいなものが言うんだ。こいつはうまくなるって。
自慢じゃないが、俺の勘は絶対に嘘をつかないんだ。
だからそのとき俺は心に決めた。
いまは俺がリードしてるが絶対にこいつは追いついてくる。
卒業までの間が勝負だって。
卒業したときどっちがいい選手になってるかの勝負だって。
こいつに負けないようなら俺はきっとプロになれるって。」
いつのまにか俺たちはスタジアムを半周している。
右手には大きな池がある。
タカシが近くの芝を指さして座ろうぜ、と言う。
俺とタカシは池の周囲の芝生の上に並んで腰を下ろした。
「やっぱり俺の勘はあっていたんだな、お前はどんどん上手くなった。
ああ見えて、やっぱり岩崎もいいコーチなんだよ。
俺も成長したけど、お前はもっと伸びた。
最初はチームに何の期待もしてなかった俺だけど、
お前の成長を見ているうちに正直色気が出てきた。
これならこのチームででかいとこ狙えるかもしれないなって。
そしてモニカちゃんが入ってきた。
いま思うとモニカちゃんは選手としてはもちろんだけど、
コーチとしても一流だったんじゃないかな。
一気にお前の素質が全部開花した、という感じだった。
だから俺はワールドユースでお前が大活躍しても、全然驚かなかった。
俺が最初に見たときに感じたものはまちがってなかったんだ。
やっぱりこれだけのことができる力を持ったやつだったんだってな」
座った俺の目の前で、池の水面が震えるかのように小刻みに揺れている。
「サッカー、続けろよ」
横を見るとタカシの優しい目。俺は思わずはっとする。
こいつ、こんな顔ができるくらい、大人だったんだ。
俺は、いつのまにかタカシと自分の間に
埋めようのない大きな差がついてしまったような気がする。
「タカシ、すまん。もう俺は前の・・・」
もう俺は以前のようなプレーができないんだ。
ワールドユースの時のような俺じゃないんだ。
あれはモニカが一時見せてくれた奇跡だったんだ。
その先は言わなくてもわかってるというように、
タカシがすっと俺の言葉を引き取る。
「わかってるよ。お前がずっとスランプに陥ってるのは。
チームのみんなだって気づいてた。
でも、結局みんなお前から実力でレギュラーを奪えなかった。
だから俺たちのチームは最後までお前を使って、お前に頼るしかなかった。
あいつらもわかってるよ。
内藤も山口も高田も、みんなお前のいないところで自分を責めてた。
自分たちの力が足りなかったがために、樋口に負担をかけちまったってね。
もっと俺たちが頼りになる存在で、樋口の気分を楽にしてやれたら、
お前のスランプだってもっと軽くなったのかもしれないって」
みんなの顔が思い浮かぶ。馬鹿なことばかりいってた仲間。
みんなそこまで・・俺のことを考えててくれたのか。
ふがいない、だらしない俺のことを。
「お前が自分のことを、モニカちゃんの助けがあったから、いいプレーができた。
モニカちゃんがいなくなったから、もうたいしたプレーはできない。
そんな風に考えてるのは見ててわかったよ。
でも、それって違うだろ。
モニカちゃんは確かに死んじまったけど、
モニカちゃんがこの世に生きてたという事実がなくなるわけじゃない。
プロになることしか考えてなかった俺に、
モニカちゃんはサッカーの楽しさってのを改めて教えてくれた。
モニカちゃんは確かに俺たちと一緒にいたし、
俺たちはいつでもモニカちゃんのことを思い出せる。
死んでしまったからすべてがきれいさっぱりなくなっちまうわけじゃない。
だから、お前自身の力、モニカちゃんが伸ばしてくれたお前の力。
それは決してなくなったりはしない。いまでもお前の中に脈々と息づいてる。
だからサッカーを続けろよ。
俺の勘が正しければお前は相当なところまでいけるはずなんだ。
俺はレッズに行く。レッズでレギュラーをとって、
代表になって、俺は絶対に一流のプロサッカー選手になる。
だが、お前はそれよりももう少し上を見られるはずなんだ。
だから・・サッカーを続けろよ」
この前まで一緒に馬鹿な、くだらないことを言い合っていたはずなのに。
なんかタカシだけ、大人になって。
「タカシ。お前、俺に腹は立たないのか」
俺の問いにタカシはにやりと笑って、
「青春ドラマみたいにパンチしちゃうのか。それもいいかもな。
もちろん、お前のだらしなさにまったく腹が立たないって言ったら嘘になる。
でもな。俺なりにわかってるつもりなんだ。
お前がどれほど悲しくて辛かったかは。俺なりに、だけどな」
タカシのはにかむ横顔。俺はすべてを悟る。
いや、いま悟ったんじゃない。ずっと前から気づいていたのに。
俺は無理矢理気づかないふりをしていた。
そう、タカシだってきっとモニカのことが好きだった・・・。
俺と同じくらい、モニカのことが。
タカシだって、悲しくて辛くてどうしようもなくて。
きっと俺と同じくらいのやりきれなさを抱えて。
それでも、タカシは歯を食いしばってその悲しみを乗り越えた。
俺は、俺は・・。タカシの気持ちがわかっていたか?
俺だけが何もわかっていない、辛いことに背中を向けて
膝を抱えて泣きじゃくる子どもだったんじゃないか?
「まあ本音言うとそんなに心配してる訳じゃないんだけどな、
お前は絶対サッカーから離れられないよ。
一応、今日の話は念のためにってとこだな。
しばらく離ればなれになるけど、そのうちそこで会おうぜ」
タカシは楽しそうに笑って後ろを指差す。
振り返ればスタジアムの巨大なスタンドが、
そっと俺たちを包み込むように見守っていた。
俺はカバンを学校の駐輪場に止めてあった自転車の前かごに放り込む。
日増しに学校に来るやつの数が少なくなっている。
校門を出ていく3年生の数も目に見えて減っている。
これからどうしようか。図書館に寄ろうか。
前だったら迷うことなんかなかったのが、
ついつい考え込んでしまう俺がいる。
タカシと話してから、俺の心の中で何かがうずきはじめている。
次の日からタカシの姿は学校から消えた。
もうすぐはじまるレッズのキャンプに備え、自主トレに励んでいるらしい。
俺は行き先も決めぬまま、とりあえず自転車をこぎだす。
俺は・・まだサッカーがやりたいのか?
自分自身に問うても答えは帰ってこない。ただ何かが俺の中でうずく。
タカシはああいってくれたけど、プロのスカウトから
使い物にならないという烙印を押された俺が、
このあとどうやってサッカーを続ける?
大学だって願書の受付は終わり、早いところは試験がはじまっている。
いまからサッカーの強い大学に変更しようにも間に合わない。
受け入れてくれるところを探して、片っ端からクラブの門を叩いてみるか。
トライアウトだって一ヶ月前に終わってしまってる今、
俺を受け入れてくれるところがあるとは思えない。
じゃあこのまま、普通に大学に行く道を選ぶのか。
わからない。答えが出ない。
結局、考えがまとまらぬまま、家に帰ってきてしまった。
家に入りいつものように部屋にあがろうとすると、おふくろが俺を呼び止めた。
ん?と声をかけておふくろのいる台所に顔を出す。
「モニカちゃんのお母さんから電話があったわよ。
何かお前に渡したいものがあるんだって。いってらっしゃい」
おふくろは正面から俺の顔を見据えていった。
俺は黙ってうなずくと家を出た。
モニカの家はそんなに遠くない。自転車で行ける。
俺は一目散に自転車をこいだ。
何も考えずに、頭の中を真っ白にして全力でこいだ。
汗が額から噴きだし、脇の下を流れ落ちていく。
モニカの家に着くと、インターホンを鳴らす。
すぐに返事があり、ちょっとするとお母さんが家のドアを開けて出てきた。
簡単に挨拶して、お母さんの後に続いて家の中に入る。
ああ。
まだ、この家には悲しみが満ちている。
それもそうだろう。モニカはお母さんにとってかけがえのない娘だ。
まだガキの俺には血を分けた肉親を失う悲しみは想像もつかないが、
きっとそれは想像もつかないつらさなのだろう。
部屋に通される。仏壇が置いてあった。
多少、この家のイメージとミスマッチな雰囲気もするが、
俺は自然とその仏壇の前に座っていた。
俺はお母さんに断ってお線香を上げさせてもらう。
葬儀の時と同じ写真が仏壇の中に飾ってある。
しばらく手を合わせた。
気がつくとお母さんがお茶とお菓子を用意してくれていた。
お礼を言って正座する。お母さんも俺の向かいに座る。
「葬儀の時はせっかくお越しいただいたのに、
ゆっくりご挨拶もできなくて申し訳ありませんでした。
あんなにお世話になっていたのに、
きちんとお話しもしないまま、こんなに時間も経ってしまって。
ほんとうにごめんなさい」
俺は、いえ・・と口の中でもごもごする。
「モニカに親切にしてくださったそうで、ほんとありがとうございました。
あの娘が日本での生活になじめるか、非常に心配だったものですから・・
でも、ほんとうにみなさんによくしていただいたようで・・。
学校から帰ってくるといつもサッカーの話でした。
サッカー部の皆さんの話、あなたの話もたくさん聞かされました。
ごぞんじのとおり、サッカー以外は何の取り柄もない娘でしたので・・
そのサッカーを通じてお友達がたくさんできたんですから、
モニカもほんとうに幸せだったと思います」
モニカのお母さんは静かな語り口で話した。
「あ、ごめんなさい、そんな話をするために、お呼びしたのではないんです。
お恥ずかしい話なんですが、ようやくちょっとずつ
モニカの品物の整理もはじめましてね。
半年もなにやってたんだ、と言われてしまいそうですが、
やっぱりなかなか手がつかなくて・・いろいろ思い出してしまうものですから。
それで今日はどうしてもあなたにお渡ししたいものがありまして・・・」
お母さんは後ろを向いて棚から何かを取り出すとそれを机の上に置いた。
「これは・・・」
そこにはモニカにもらったのと同じデザインのお守り。
ただよく見ると前にもらったのとは色が違うし、書いてある文字も違うようだ。
「話をモニカから聞きましてね・・
サッカーの大会に出かけるのに交通安全のお守りを渡してしまうなんて、
ほんと恥ずかしいったらありゃしない・・・・
でも、あの娘はとうとう最後まで漢字はほとんど読めませんでしたからね・・」
そこまで話してこみ上げるものを抑えきれなくなったのか、
モニカのお母さんがハンカチで目頭をぬぐった。
「それであなたが出かけた後、一緒に神社へ出かけましてね、
今度は間違えないようにと私も付き添って。
何がいいのかとは思ったんですが、
やはりずっと健康でサッカーができるようにということで
無病息災のを買いましてね。
モニカも喜んで、今度は間違いない、と。
オランダからあなたが帰ってきたらすぐ渡すんだ、と言っておりました」
前に置いてあるお守りを手にとってみる。お母さんの話どおり、無病息災の文字。
「部屋を整理してましたらそれが見つかりましてね。
もっと早くお渡しできれば、よかったんですが・・。
死人からの贈り物というのも、あまり気分のよいものではないとは思いますが、
モニカのそんな気持ちもありましたので、
できればあなたにもらっていただければと思って今日はお呼び立てした次第です」
手の中でお守りはほんのりと暖かい。
お母さんの優しさなのか、それともモニカの魂なのか。
ありがとうございます、ぜひ僕にください。俺は返事をした。
「私はアメリカ人と結婚しましたが、やはり根は日本人でしてね。
長いことアメリカで暮らしまして、特に不都合もなかったんですが、
やはり少し落ち着かない部分がどこかにありましてね。
主人の仕事の都合で日本に住むことになって正直、嬉しくて。
けれども、モニカはずっと子どもの頃からアメリカで育ってましたから、
日本という国にうまくなじめるかどうか不安だったんですね。
でもほんとうにみなさんのおかげで、
モニカもどんどん日本が好きになっていって・・
アメリカも好きだけど、お母さんの国も私、好きだよって言ってくれました。
ほとんどがサッカーを通じたおつきあいでしたが、
みんな、とっても優しい人ばかりだよって。優しい人のたくさんいる国だねって」
俺は何も言えずに聞いている。
違う、モニカがいつも笑ってそばにいてくれるから、みんな幸せになって。
だからみんなどんどん優しくなれたんだ。みんなモニカのおかげなんだ。
「事故の前の試合、ワールドユースというんですか?
オランダの大会、テレビで見ました。
中継も遅かったんですけど、モニカが見るって言って聞かないものですし、
お友達のあなたが出るというので、私もついつい
つきあってしまって・・寝不足になりながら拝見してました。
モニカが本当に嬉しそうに、この子は本当に天才なんだよ、
最初は私からボールもとれなかったのに、めきめきうまくなったんだって。
絶対に日本を代表する選手になるから、お母さん覚えてるんだよって。
同じことを何度も言ってました。
モニカの言うとおり、ほんとうにすごい活躍で・・
モニカも大喜びでした。私の言ったとおりでしょうって」
俺の目からは涙がこぼれおちる。一度、落ちはじめた涙はもう止まらない。
耐えることなく俺の頬を伝い続ける。
モニカ。視界がぼやける。
「私から申し上げるようなことではないんですが、
これからもサッカーのほう頑張ってくださいね。
きっとそれがモニカが一番喜ぶと思うんです。
あの娘はほんとうに日本のサッカーが好きでした。
だから、これからも頑張って活躍してくださいね、勝手なお願いですけれど・・」
モニカ。
ずっと一緒にサッカーをしたかった。
サッカーの話をしていたかった。
俺が点を決めたときは、同じピッチで、ベンチで、スタンドで、
ずっと一緒に喜んで欲しかった。
モニカ。ずっとそばにいてほしかった・・・
俺は泣き続ける。
朝靄。冬の寒さが朝の公園を包んでいる。
かすかにもやがかったような空気。
部活がなくなっても、この日課だけは変わらない。
毎朝の公園通い。寒さが随分きつくなった。
白い息。かじかむ手足。
馴染むまではボールの感触が肌にちょっと痛い。額から肩、腿へ。
体が温まり、皮膚の細胞とボールの皮が馴染んでいくのがわかる。
その時、俺の視界の端に人の姿が目にはいる。
俺は相手の顔を確認すると、指を動かして取りに来い、というサインを送る。
相手が軽く笑うと、一気に走ってきて間合いを詰めた。
右側から取りに来た。俺は左の腿にボールを乗せて左へターン。
いいダッシュでそのまま回り込んでくる。
ちょっと卑怯だが、ボールを軽く蹴り上げて反転し、背中を入れさせてもらう。
体でしっかり隠してしまえば相手は手も足も出ない。
いったん足元に落としたボールを、右足ヒールの内側で跳ね起こす。
ボールが俺の足を蛇のように這い上がってくる。
しばらく左右に追い回していた彼女があきらめたように両手を広げた。
「一年ちょっとでめちゃくちゃうまくなったわね」
「この公園に人が来たのは久しぶりだよ。
もしかしたら、と思ったけど、本当にここへ来るとは思わなかった」
アメリカの女子代表が日本遠征に来ている、というのはニュースで知っていた。
もちろんシンディもメンバーに選ばれている。
「思ったよりも元気そうね」
軽い口ぶりに真剣な目。
「ああ。もう大丈夫だよ」
俺の返事にシンディの目尻がほっとしたように下がる。
そう、いまの俺は自分のすべきことがわかっている。もう迷いはない。
「ところでちょっと連れてってほしいとこがあるんだけど時間ある?」
何の変哲もない道路。
まっすぐ伸びた見通しのいい道。
なんでこんなところで事故が起こったんだろう、と
シンディはやるせない気持ちになった。
モニカの家は葬儀の後訪問していたが、
事故の現場に来るのは今日がはじめてだった。
日が高くなるにつれ、徐々に車の通る量が増えてきた。
ガードレールの向こうをひっきりなしに車が走っていく。
持ってきた花を樋口が教えてくれた場所に置く。
二人で並んで立って、そっと手をあわせた。
亡き友の冥福を祈る。
ねえ、モニカ。さっき私、彼からボールとれなかったよ。
いやんなっちゃうよね。
一年前は私たちに手も足も出なかったのにさ。
きっとこうやって男との差が開いていくんだって納得しちゃった。
まあ、女子相手なら絶対に負けたりしないけどね。
オリンピックもワールドカップも獲ってくるから、応援するのよ。
メダルとかとったら見せに来るからね。
シンディはゆっくりと友の冥福を祈ると、目を開けた。
隣の樋口はまだ目を閉じたまま、手をあわせている。
真剣な横顔。きっと話すことがたくさんあるのだろう。
話し終わるのを静かに待とう。
横目で樋口を見る。その時シンディは樋口の背中が妙に光っているのに気づいた。
私の目が変なのかしら?樋口の背中が白い光に覆われている。
よく目を凝らすと樋口の背中から羽が生えている。白い翼。
シンディの目の前で、羽の像は急激に薄くなりあっという間に消えた。
あまりの不思議な光景にシンディは声も出ない。
やがて樋口が目を開けた。シンディの視線に気づき、
怪訝そうな顔で、どうかした?と尋ねる。
シンディは少し考えたが、やがて黙って首を横に振った。
ううん、なんでもない。
樋口は納得したように笑うと、じゃあいこうか、とシンディを促す。
シンディは樋口と並んで歩きながら、いま自分が見たものについて考える。
人の背中から羽が生えるなんてありえない。
私の目が幻覚を見たに決まっている。
けれども。シンディはそっと隣の樋口の顔を盗み見る。
彼はあの時、何かを取り戻したのかもしれない。
自分がいま見たものの正体。それはきっと誰にもわからない。
俺は新宿駅近くの喫茶店の入り口に近い席に座っている。
静かな感じの店で、周りの客を見ても会話してるグループは少なく、
ほとんどがひとりで黙って本や新聞を読んでいる。
新宿に遊びに来たことぐらいはあるが、
こういう感じの店に入ることはないので、
大人の中にいきなり放り込まれたようで微妙に居心地が悪い。
さっき無表情な店員の置いていったアイスティーのグラスが、
冬だというのに俺と一緒に汗をかいている。
岩崎のところに相談にいったのは一昨日のことだった。
俺はストレートに自分の気持ちを岩崎に話した。
サッカーを続けたい。
いまさら進路相談なんて虫のいい話だとは承知していたが、
そういう相談ができる大人は俺の周りには岩崎しかいなかった。
俺のわがままな話に怒っているのか、それとも何も感じていないのか、
岩崎は表情を変えずに黙って俺の話を聞き、最後に一言、
「明日授業が終わったら俺のとこに来い」とだけ俺に告げた。
三年近く付き合っても、岩崎が腹の中で何を考えてるかわからない。
翌日、職員室に顔を出した俺に、岩崎は一枚の紙を渡した。
手書きの地図だった。新宿駅近くの喫茶店の場所が示してある。
「今日の二時にその店で待ってろ。
お前の相談にのってくれそうな人にお願いしておいた。
その人に相談してみろ。俺ができるのはこれくらいだ」
俺は岩崎に礼を言うと地図を持って職員室を出た。
そしていま、地図に書かれた喫茶店で待っている。
しかしここへ来ることになっている誰かは俺の顔をわかっているんだろうか。
このまま待ちぼうけ、ということはないだろうな。
俺が少し不安になったとき、
「おう、待たせたな。すまなかった」
顔を上げるとそこには意外な人物の顔があった。
「小熊監督・・」
「もう別にお前の監督ではないから、普通に呼んでくれ。
あ、ホットコーヒーひとつ」
通りかかった店の人に口早に注文すると、
小熊さんはコートを脱いで脇に置くと、俺の前に座った。
「ワールドユースの時は・・お世話になりました」
「いや、こっちこそ。みんなよく頑張ってくれた。
俺からも礼を言いたい。
樋口とは最後、落ち着いて話できなかったからな」
小熊さんの複雑な表情。
そうあの時の俺は、モニカの葬儀に出るため、
チームメートに挨拶もできずにチームを離れたのだった。
小熊さんとも顔を合わせるのはあの時以来ということになる。
「で、樋口。今日、俺がここに来たのは、
岩崎から電話がかかってきて、
樋口の進路について相談に乗ってやってくれって言われたからだ」
確認しておきたいのはひとつだけだ。
お前、ほんとにサッカーやりたいのか?」
小熊さんの目が俺を射る。身がすくむほど鋭い。
目をそらさず、正面から小熊さんの目を見て俺は答える。
「やりたいです」
小熊さんは口の端をちょっとあげながら、
俺の言葉の余韻を楽しむように、二、三度満足げにうなずいた。
「わかった。これから俺が説明するから話を聞け。
お前がこの先サッカーを続けたいのなら選択肢は大きく分けて二つだ。
どこかのクラブに入るか、大学のサッカー部に入るか、だ。
お前自身もサッカーやってるんだから承知してるだろうが、
もういまの時期、どこのJクラブも編成は終わっている。
早いところではもうキャンプインして、
チーム作りに取りかかろうっていう段階だ。
クラブってのは、何年か先の姿も見据えてチームを編成している。
即戦力補強として獲得する外国人選手とかは別枠だが、
日本人選手については、メンバーの年齢構成、ポジションごとのバックアップ、
下部組織から入ってきそうなやつ、そろそろ引退しそうなやつ。
諸々のことを考慮に入れて、綿密な計画に基づいて編成されてるんだ。
ワールドユースで活躍したお前の存在は魅力だが、
プロの世界ではまだ海のものとも山のものともわからぬ新人選手だ。
毎年ユースで一番のやつや高校選手権で大活躍したのがプロ入りする。
どいつもその年代じゃ、怪物とか超高校級と評判になってたやつだ。
でもシーズンが終わったとき、リーグどころかカップ戦で
出番をもらえればルーキーとしては上出来の部類だ。
一分もトップの試合に出られないやつもごろごろしている。
いくらお前の名前をみんな知ってても、
チーム編成が固まったこの時期になって、
そんなあてにならない新人選手と契約しようと言うクラブはまずない。
体制が柔軟な小さいクラブで、補強の見込み違いとかで
予算が余ったところとかだったら、おまえを取りに来る可能性はあるが、
それはあくまでも失敗した補強の穴埋め扱いだ。
それでも新人に手を出すなんていったら、
それは相当現有の選手層が薄くて困ってるところだ。
よくてJ2の中位レベル、普通ならJFLクラスが妥当だろう」
J2、JFL。スタート地点はどこでもいい。
もう一度、自分自身の力がどこまであるのか試してみたい。
そんな気持ちが表に出てたのか、小熊さんは俺の顔をにやりと見て笑うと、
「サッカーさえやれればどこでもいいって顔をしてるな。
そういう気持ちを持っていることは大事だ。忘れるな。
だが、岩崎から頼まれた以上、俺はシビアに考えるぞ。
J2やJFLの魅力は実戦経験を積めるチャンスが大きいことだ。
その意味ではJ2で早くプロの試合を知るという選択肢はある。
だが俺は今回は薦めない。
なぜか?お前はプロを目指すのだから覚えておくといいが、
プロというのは契約に縛られるものなんだ。
プロになるために、プロだからこそ、契約しそれに拘束される。
今年慌ててJ2クラブと契約を結べば、お前は今後それに縛られる。
お前が成長し力をつけてJ1へ行きたいと思っても、
クラブがそう簡単に出すとは限らない。
昇格が見える位置にいるクラブなら一年、二年待たされるかもしれん。
俺はお前の能力を高く買っている。
いますぐJ1でやれる力があると思っている。
だからお前の成長の足枷になる可能性のある選択肢は薦められない。
決して俺はJ2を馬鹿にしている訳じゃない。
だがプロのサッカー選手とは、
レベルの高いリーグへ、一つでも上のカテゴリへ、
自分の能力をフルに発揮できるチームへ入るために全力を尽くすものなんだ。
それがプロだということはお前もよく頭に叩き込んでおけ」
小熊さんの険しい視線。プロの世界。俺の背筋はさっきから伸びっぱなしだ。
「じゃあJ1でって話になるが、さっきいったように
J1のクラブぐらい体制がしっかりしてれば編成はもう終わってしまってる。
仮に抱えてる選手数に余裕があったとしても、
プロ契約っていう以上、ただじゃないからな。
お前に直接払う年俸だけじゃなく、
選手を一人多く抱えることで付随して様々なコストがかかる。
いくつかの裕福なクラブを除けば、
どこも運営費には四苦八苦してるのが現状だし、そう簡単に話は来ないだろう」
俺自身のためにこの半年は必要な時間だったとは思う。
だが、俺が貴重な時間をロスしたことを改めて痛感させられる。
「ところで、岩崎に聞いたんだが、お前、学業優秀なんだって?」
「はぁ?」質問の意図が読めずに思わず気の抜けた声を出してしまう。
「大学受けるつもりでいたそうだが、どこ受ける気だったんだ?」
俺は、都内の大学の名前をあげる。
岩崎は軽くひゅーっと口笛を吹いた後、
「サッカー部は強いのか?」
「確かおそらく都の二部か、三部あたりだったかと」
あまり強くないのはインターネットで調べて知っていた。
「あそこの監督は・・そうか樺沢さんか。ますます具合がいい」
小熊さんの顔に楽しそうな笑顔が浮かぶ。
あまりに楽しそうなので、思わずきょとんと顔を見ていると、
「樋口、お前、俺を信じられるか?」
急に真顔に戻って身を乗り出す。
はい、とうなずく。
れっきとしたJクラブの監督が、一高校生のために
わざわざ時間を作ってくれていることの重みは理解しているつもりだった。
「じゃあ、これから俺がいいと思う方法について説明するからよく聞け」
そして、小熊さんはこれから俺がやるべきことについて話しはじめた。
結局、俺は小熊監督のアドバイスに従って、
FC東京の練習生としてサッカーを続ける道を選んだ。
大学の合格発表が終わり、無事合格した翌日から俺は、
小平にあるFC東京のグランドに通いはじめた。
練習着こそ貸してもらえたが、俺だけが背番号もユニフォームもない。
もちろん公式戦には出られない。それが俺の新しいスタートだった。
練習に参加してしばらくはプロのスピードにとまどった。
かつてワールドユースでJの選手と一緒にやっていたとはいえ、
プロのスピードに対しては、半年以上のブランクがあった。
ピンボールマシンのようにすさまじいスピードで、
ピッチを移動するパスについていくのがやっとだった。
だが練習に参加し続けるうちに、いい意味で慣れてきた。
徐々に感覚が戻ってきたといってもいい。
少しずつ去年オランダで体に刻んだプレーの記憶が甦ってくる。
あの時のメッシのスピードを俺の体は忘れてはいなかった。
大丈夫、このスピードなら俺は慣れていける。
やがて周りが見えてくる。四角いピッチが自分の世界になっていく感覚。
俺の中で少しずつ手応えがわいてきた。
久しぶりに味わう自分が成長している実感。
もちろん練習の中心は、レギュラーとベンチ入りするメンバーだ。
練習生の俺は、あくまでもその相手役。
調整のための練習試合でも、他のみんなが自分のポジションについた後、
空いているポジションを埋めるのが役割だ。
サイドハーフ、サイドバック、ボランチ、なんでもござれだ。
ピッチに立っているプレイヤーの中で一番下の存在。
それでもプロの中に混じってサッカーをすることができる喜びで、
俺は楽しくてしょうがなかった。
やがてJリーグが開幕。春が来て四月になり、俺は大学生になった。
大学のサッカー部に必ず入部して活動すること。
これは小熊監督に必ず守るように何度も言われた。
「正直、お前の大学のサッカー部のレベルはさほど高くはない。
だからそこで練習する時間は無駄だ、という考え方もある。
だが、お前は大学のサッカー部に加入して活動しなければならない。
理由はふたつある。
ひとつは、せこい話だが特別指定の関係だ。
特別指定とはそもそも学校の部に在籍しながら、
プロの試合にも出られるという制度だからな。在籍してなくちゃ話にならん。
ふたつめは、そこでお前が技術以外の何かを学べると考えるからだ。
いま、お前はサッカーへの気持ちを取り戻している。
だが俺の目から見ると、それはまだろうそくの炎のように
弱く頼りないものだ。なにかアクシデントがあったら消えてしまうような。
誤解するな、お前の気持ちを疑ってるわけではない。
だけどお前には単に高いレベルを追うだけでなく、
自分のサッカーへの気持ちと向き合うような時間も必要だということだ。
大学ではなんでお前はサッカーをやりたいのか、よく考えてこい」
俺は入学式が終わると、すぐにサッカー部への入部届を出した。
監督の樺沢さんには名前どおりかばみたいな穏和そうな人で、
小熊さんから話が通っていたらしく、
「うちのチームをよろしくお願いしますよ」と
こちらのほうがお願いをされてしまった。
だが樺沢さんがそんなお願いを俺にした理由がすぐにわかった。
うちの学校のチームがそんな強くない。それは事前に承知していた。
だがその割にうちのチームは部員数が多いのだった。
一応、体育会系ということになってるが、
樺沢監督の人格そのままに間口が広いというか来るもの拒まずというか。
監督の指示で入部した俺が初日の練習でやることになったのは、
俺と一緒に入った新入部員たちのコーチ役だった。
しかも経験者ですらない。
大学入学を機にサッカーをやってみたいという部員のグループだった。
「彼らにサッカーの楽しさを教えてあげてください」
俺を呼んだ樺沢監督は、彼らのいる場所を示しながら俺にそう言った。
「やり方は君に任せますから。
彼らがサッカーが大好きになるように、練習をしてください」
そう言われた俺は途方にくれてしまった。
高校時代も、一応後輩にアドバイスぐらいはしたことがある。
だがそれは指導といえるようなものでなく、
見て気になったことを口にした、という程度のものだ。
グループの前に立ってみると、みんな緊張した表情で俺を見ている。
サッカーだったらまあなんとか教えられるかもしれない。
でもサッカーの楽しさを教えるってのはどうすればいいんだろう?
迷ったがあげく、俺はとりあえずキックを教えることにした。
ひととおり適当に蹴らせてみると、みんな運動神経がそこそこあるらしく、
ボールを蹴ってる場所はメチャクチャだが、
脚力任せの自己流でもまあまあいい球が蹴れている。
次に順番に一人ずつ前に立ってもらって、俺のすぐ前でボールを蹴ってもらう。
ひとりひとり声をかけながら、
ボールへの足のあたり方を直接足を触って動かしながら教えていく。
すぐにボールを蹴る音が、抜けのいい澄んだ音に変わった。
「うぉー、すげえ。俺があんな速い球蹴れちゃったよー」
「全然レベル違うけど、ロベカルってこういう感じなのかなぁ」
まるで小学生のように自分の蹴ったボールに興奮して喜んでいる。
何度も何度も本人が嫌にならない程度に、足とボールの当たりを見てあげる。
かかる時間は個人差で違ったが、みんな自分の蹴る音が変わる感覚が掴めたみたいだった。
あとはしばらくほうっておけばいい。俺はしばらく自由に練習するように言った。
自分でいろいろ試してみて、
感覚をもっと確かなものにしたり、逆に感覚がなくなってしまったり。
どんな方向であれ、自分で思い思いに試すようになる。
適度なところで休憩をとる。汗をかいて初顔合わせの緊張も解けたのか、
そのまま話が弾む。俺もその輪の中に入る。元々は同じ一年生だ。
「俺、ずーっとサッカーやりたかったんだけど、
中学・高校とサッカー部なくてさあ。
子どもの時から親がやらせてくれてたらなあって思うよ」
「俺もそう。中学んときにサッカーやろうかなあって思ったけど、
みんな少年団とかでやってきてるじゃん。
なんかレギュラーなれなくてつまんなそーだなって思って、
他の部行っちゃったんだよなあ」
笑いの輪。
「でもほんと幸せだよなあ。もうサッカーなんて縁がないと思ってたもん。
張り紙に「初心者大歓迎」ってあるから、
これが最後のチャンスって思って入ってみたんだけどよかったなあ」
「しかも教えてくれるのが現役のJリーガーだもんなあ」
おやおや随分話が広まるのが早いな、と思ったが、
その言葉を聞いたみんなが俺の顔を見て驚いている。
そこで俺は簡単に自己紹介する。
聞いているうちにワールドユースを思い出した人もいたらしく、
「あの樋口?」俺は笑ってうなずく。
「プロとかだとやっぱりテクニックとかも全然違うんだろうなあ」
「そりゃそうだよ。プロになるやつなんて俺たちから見たら化け物さ」
俺は笑って立ち上がり、ボールを足下に置く。
輪になって周りに座ってる連中から拍手がわく。
ボールを転がしながら最小限のヒールの動きでリフトアップ。
すばやくヒールを差し込んでかち上げ、腿に持ちかえる。
周囲からはボールが重力に逆らって、
ひとりでに浮き上がってきたように見えるだろう。
頭、肩、肩胛骨、腿、膝、足首。
俺はテンポをあげて、ボールを動かしていく。
歓声がため息に変わり、やがてそれさえも聞こえなくなる。
みんながボールの動きに夢中になって見入っているのがわかる。
両足を交互に使ってダブルヒール。
左足で体の前に持ってきて、浮かせたボールを右足でまたぐ。
どんどんボールが柔らかくなっていく。
いや違う。柔らかくなっているのは俺の足。俺のボールタッチ。
子犬が飼い主にじゃれ付くように、ボールが俺の周りを動く。
いつしか俺は笑っている。ボールと遊ぶのって楽しいよな。
こんなに楽しいものなんだよな。だから俺はサッカーが好きなんだ。
そのまま続けていると、練習していた他の部員たちも、
いつのまにか練習をやめて俺のリフティングを見ているのが見えた。
そう。前もこんな時があった。
高校の校庭。モニカとはじめて会った日。
みんなの見る前でこんなふうにモニカもリフティングを見せてくれたっけ。
モニカ。お前からしたらきっと俺たちって下手に見えたんだろうな。
でも、全然そんな気持ち顔に出さずに、いつも親切に教えてくれたよな。
俺はお前にサッカーの楽しさを教えてもらったんだな。
だからやっぱり、今度は俺がみんなにそういう楽しさを伝えてみたいな。
心地よいボールの弾む感触。俺はボールを蹴りながらモニカと話す。
モニカ。一緒にいたときはわからなかったことが、あとでわかるってあるんだな。
練習を終えた選手たちが、
グラウンドの外で待ち構えていたファンの求めにこたえ、
サインや写真撮影に応じているのが窓から見えた。
ゴールデンウィークも終わったばかりの平日の昼間だというのに、
少なくない数のファンがいるのは、
近くの大学との練習試合が組まれていたせいもあるのだろう。
元山は練習試合が終わるとすぐにクラブハウスのほうへ引き上げていた。
小熊監督が戻ってきたのは、さっき窓越しに見えた。
もう少ししたら顔を出してくれるだろう、そう思ったとき、
「どうもお待たせしました」
体育会系のような大声とともに、小熊が部屋に入ってきた。
古巣に戻ってますますエネルギッシュになったようだ。
「いえいえ、こちらこそお疲れのところ無理をいってすいません」
「よく考えれば久しぶりだね。
でも元山さんが代表の取材に行かないなんて珍しいね」
日本代表はいま、ワールドカップのメンバーの
最終選考も兼ねた欧州遠征に出ている。
FC東京からも加地、茂庭、土肥、今野の四人が遠征に参加している。
その間リーグ戦は中断となっているが、
代わりにナビスコ杯の予選リーグが開催されている。
FC東京も週末の土曜日には埼玉スタジアムで、
浦和レッズと対戦することになっている。
今日の練習試合は週末の試合に向けて、
四人が抜けた状態でのチームのシステムを確認する意図があったはずだ。
「たまには日本に腰を落ち着けるのもいいかなって」
元山は軽いジョークを口にしたが、
「どうせ樋口が気になるんだろう?」小熊はすっかりお見通しだ。
「あはは、、、で、どうするんですか、監督。
いまの試合ではスタメン組に入ってましたけれど」
「使うよ。見てのとおりだ」
小熊はあっさりと言い切った。自信にあふれた口ぶり。
その自信もうなずけた。さっき見た練習試合。
冬、埼スタで見たのとは別人の樋口がそこにいた。
ワールドユースのときの、
極限までエッジが立っていた状態には及ばないとしても、
プレーする姿にあのオランダでの面影が戻っていた。
埼スタでの自信を喪失し、途方にくれて立ち尽くしていた状態から、
よくぞここまで、と元山は思わずにいられなかった。
日本に残った自分の判断はまちがっていなかった、と確信できた。
「いま、うちは前目のメンバーに怪我人が多いのはご存知のとおりだ。
長いシーズン考えると、今の時点であまり彼らに無理はさせたくないんでね。
もちろん、樋口に使える目途が立った、というのが一番大きいが」
「で、状態はどうなんですか?」
元山がずっと気にしているのはそこだった。
元山には十分復調しているように見えたが、
小熊のプロの目はいまの樋口をどう見ているのか。
「心配はいらない。
樋口個人の状態としては100%とはいわないが、9割以上戻ってる。
ゲームに出たとき、まだうちの戦術に馴染んでいないとか、
周囲との連携とか意思疎通の面では多少の不安はあるが。
それは時間と実戦で解決するしかないからね。
俺としては自信を持って送り出せる。心配はしていない」
小熊はしっかりと元山の目を見て答えた。
「どうですかね、やってくれますかね」
素人の浅はかな質問。だが、小熊は落ち着いた様子で答えた。
「心配はいらないよ。本来の姿に戻ったならば、
はっきりいってやつはモノが違う」
小熊の力みなぎる言葉に元山はふっと力が抜けた。
元山のほっとした表情に、小熊が嬉しそうに目尻を下げて笑い返した。
通じるものがあった。小熊が言うのだったら間違いない。
大丈夫、樋口は闘う心を取り戻した。
あの力強さと熱さにあふれた樋口が帰ってくる。
「でも監督、びっくりしました。
入学してすぐの樋口を特別指定かけるなんて。
協会のほうとの交渉、大変だったんじゃないですか?」
元山を日本に残らせることを決意させた一枚のリリース。
連休の合間の平日に出されたそれは、
FC東京が樋口を特別指定として受け入れる旨の発表だった。
規定上問題がないとはいえ、所属チームに加入してさほど間がなく、
大学での実績がまったくない樋口の指定は異例なのは事実だった。
「まあ他のクラブが一度見限った選手だからできたのは確かだな。
どこかが過去に本気で獲りに来てたら、さすがに道義上無理だった。
他のクラブもオファーを出さなかった以上、
うちが動いても、とことん突っ張ることはできなかったわけだな。
うちも練習生としてチームに三月から合流させて
実績を作っておいたのも大きかったし、
それに協会の中にもやはり樋口の復活を望む人がいたしね。
少々骨は折れたがなんとかなったわけだ」
小熊のことだ。相当周到な根回しの元に動いたのだろう。
「しかしそれにしても早かったですね。
どうしてもナビスコで試してみたかった、ということですか」
元山の質問に、小熊がにんまりと笑った。
「それもあるが、一番大きいのはこの時期じゃないと
まにあわなかった、ということだな」
まにあわない?と首をかしげる元山に
「ワールドカップに決まってるだろ」
元山の体が雷に打たれたように硬直する。
そんな元山の反応を小熊は楽しそうに眺めてから、
「ここからは冬におごってもらったコーヒーのお礼だからな。
オフレコ扱いで頼むぞ、絶対に書くなよ」
元山は何度も首を縦に振る。
「ジーコはワールドユースのときから樋口がお気に入りなんだ。
あいつのプレーを見て代表に呼びたがってたのは事実なんだ。
事実、昨年の夏の東アジア選手権への抜擢を考えてたぐらいなんだ。
知ってるとおり、あの頃の樋口は
すっかり調子を崩してたからさすがに実現せずに終わったがな。
ただ今年に入ってからも、彼はどうした、どこのクラブへ行った?と
樋口のことは何度か気にしていたらしい。
ワールドカップは登録メンバー全員の総力戦になる。
俺もユース代表の監督やってたからわかるんだが、
スタメンとオプションとしての控え、怪我人が出たときのバックアップを
考えていくと、ほとんどのメンバーは自然と決まってくる。
たいていは何度もテストを重ねてきてるわけだから当然のことだ。
だが最後の一人か二人。これはそれ以外のやつらとは選ぶ基準が違う。
監督として万が一のときに頼りたいやつ。そんなやつを選んぢまうもんなんだ。
トルシエが全然呼んでなかったゴンと秋田を土壇場で召集した他にも
そんな例はあちこちに転がっている。
指揮官にしてみれば、ベンチに樋口みたいな
自分好みのオプションを置いておきたい気持ちというのが絶対にあるんだ。
ここで樋口をトップチームの試合に出して完全復活をアピールしておけば、
可能性はほんとに少ないが、ジーコの気持ちが変わる可能性がある。
最後に誰を入れるかはほんとうにひどく迷うもんなんだ。
そのとき、かつて惚れこんだ選手が使えるとなったら
心が動く可能性は大有りだ」
元山は小熊がそこまで考えていたことに驚く。
「だがJで1試合もでてないんじゃ、さすがにジーコも呼べない。
しかし一度でも試合でそのプレーを見せておけば、
呼ぶ側にしても最低限の言い分は立つ。
正直、樋口の今後を長いスパンで考えるなら卒業した時点で、
J2かJFLの知り合いに話をしてみる、という選択肢もあった。
ほとんど編成が終わっている時期だったからチームは選べないし、
主力としては扱ってもらえないだろうが、
樋口の力なら何とかするだろうとは思った。
だが、仮に活躍できたとしても、ジーコはJ2の選手をまず呼んでくれない。
ワールドカップに召集されるためには、J1で試合に出るしかない。
J1で確実に試合に出すことを考えたら、他のとこには頼めない。
自分とこで抱えるしか手はなかった。
そのうちも樋口とのプロ契約をする予算は残ってない。
それでもトップの試合に出すとなったら、
入学後即座に特別指定を受けるしか手がなかったんだ。
もちろんほんとうに呼んでもらえる可能性は低い。
代表初召集がワールドカップだなんて常識じゃありえないからな。
だがそれでも俺は樋口のために、
ワールドカップに出るどんなかすかな可能性でも残しておきたかったんだ。
樋口もきっちりトップフォームに近い状態まで戻ってきた。
これでだめなら今回のドイツは縁がなかったとあきらめるしかないよ」
ほんとうに嬉しそうに樋口のことを話す小熊の顔を見て、元山はすべてを悟る。
小熊はあの埼スタで樋口を見限ったのではなかった。
私はどうしてわからなかったのだろう。
自分の手で見つけ出し、磨き上げ、そして自分の期待に応えてくれた才能。
小熊こそ、樋口広樹という才能に一番ほれ込んでいる人間なのだ。
そんな小熊が樋口に見切りをつけるはずがなかった。
彼に立ち直りの兆しが見えたことを知ったときから、
小熊の頭の中には練習生としての受け入れから
ナビスコで使うまでのスケジュールが綿密に描かれていたに違いない。
樋口がワールドカップメンバーに選ばれるかもしれないという
日本中で誰も想像しなかったことが起こる可能性をこの人は追い求めていたのだ。
仮に樋口の復活が遅くなったとしても、彼の心の傷が癒えるまで、
小熊はきっといつまででも待つつもりだったのだろう。
いつかその日が来ることを信じて、
自分が手を差し伸べて上げられる日が来るまで・・・。
元山は不意に目から何かが零れ落ちるのを感じる。
小熊に気づかれないように元山は目をすばやくぬぐった。
「元山さん、お願いだからこれから樋口のことばんばん書いてよ。
あいつが調子に乗らない程度にさ。
辛い時間を乗り越えてきたあいつは、
これからもっと大きくなれると俺は思う」
元山の異変に気づかず、小熊は遠くを見るような目で熱く語り続ける。
小熊は夢を見ている。自分が果たせなかった日本サッカーの
世界の強豪と伍して闘っていく新しい時代という名の夢。
その夢を小熊は樋口を通して見ようというのか。
ならばジャーナリストの立場から私も夢を見よう。
たとえ樋口がドイツ行きの切符を手にできなかったとしても、
また彼で夢が見られる。四年後に、そしてさらにその先も。
ジャーナリストとして彼を追い続けよう。
小熊が彼を待ち続ける覚悟を心に秘めていたように。
樋口広樹という才能の向かう道を。
がらんとした店内。客は俺一人しかいない。
奥の壁掛けテレビも電源は切られ何も映っていない。
どうして。俺はこんなとこ来ちゃったんだろう。
自分でもほんとによくわからない。
気がつけば電車を降り、この店に足を踏み入れていた。
注文をとりにきたおじさんにとりあえず烏龍茶を頼んだものの、
ぽつんとテーブルの上に置かれたグラスの中身を
ひとりですすってる姿は、端から見たら相当滑稽だろう。
どうしよう。帰ろうか。
決して時間が有り余ってるわけじゃない。
Jヴィレッジでの合宿を打ち上げてそのまま東京へ移動し、
国立を埋めた大観衆の前で壮行試合を行ったのが昨日のこと。
半ばお披露目のような雰囲気の中、
ジーコは交代枠をフルに使って選手を入れ替えたが、俺の出番はなかった。
交替できる人数に上限がある以上、予想していたことではあった。
そしてチームは一旦解散、今日一日がオフとなり、
明日の夜には成田からドイツへ飛ぶことになっている。
びっちり詰まったスケジュールの間の小さな隙間。
わずかなオフの一日をもっと有意義に過ごす方法があるんじゃないか。
俺はグラスを眺めながら思う。
たとえば具体的に?自問してみたが答えは浮かばなかった。
そんなことを考えていると、ふっと人の気配がした。
俺は反射的に顔を上げる。
「いいかな」
そういってさっき注文をとりにきた中年のおじさんが、
手にグラスを持って俺の隣に腰かけた。
「どうぞ」
少し驚きつつも、その自然な仕草に俺は思わずうなずいている。
「いつもこの時間はお客さんはこんなもんなんですか?」
何か話しかけたほうがいいような気がして俺は聞いてみる。
他に客の姿は見当たらない。見たところ店の人もおじさんだけのようだ。
だからおじさんも俺の相手をしようという気になったのあろう。
「いや。普段はこの時間は店開けてないからね。
いつもは午後六時開店だから」
俺はおじさんの言葉に驚く。
入口のドアには確かに営業中の札がかけられていた。
確認してからドアを開けたのだから間違いない。
札をひっくり返すのを忘れたのだろうか。
「今日はね、誰かが来るような気がしたんだよ。
こういう商売を長くやってるとね、
不思議と変な予感が働くときがあるもんなんだ。
君が来たんだから僕の予感もなかなかということかな」
俺の中で隣に座っているおじさんの顔と、入口に飾られていた写真の顔が重なる。
この人が店のオーナーさんなのか。
「樋口くんだよね」
はい、と俺は答える。
「この前、メンバー発表の日も来ていたね」
俺は黙ってうなずく。
「うちの店に今いる人間がワールドカップのメンバーに選ばれたわけだからね、
店をあげて即席のお祝いかなにかしようかと思ったが、
あの日の君はとてもそんな雰囲気じゃなかった」
オーナーさんは俺の目を見て問いかける。「なんでだい?」
この人になら素直に話してもいいような気がした。
俺はかいつまんでこれまでのことを話した。
モニカのこと、モニカがいなくなった後スランプに陥ったこと、
みんなの助けでまたサッカーができるようになったこと、そして現在のこと。
「おかげでサッカーのほうは、ほんとうに問題なくて・・。
監督のおかげで試合にも出してもらえたし、
プロのトレーニングは厳しいけど、新鮮で楽しいし。
でも自分がだらしなかったために、
時間を無駄にし、いろんな人に心配をかけ、
高校のチームメイトに迷惑をかけた過去は変わらない。
モニカのお母さんから聞いたんです、
モニカが俺のことを代表に行くような選手になるよって言ってたこと。
俺は悲しみに逃げ込むばかりで、
そういうモニカの気持ちとかみんなの期待とか全然わかってなかった。
もちろん仮に順調に行ってても選ばれてたかどうかはわからないです。
代表ってのはやっぱりみんなの憧れだし、レベルの違う世界だし。
でも俺は選ばれる立場に立つ前に自分から逃げ出して、
チャンスを自分から放棄しちゃったんです。
メンバー発表を聞くとき、そんな自分の弱さを
改めて指摘されているような気がしたんです」
俺は正直に話した。
「でも君は選ばれた」
オーナーさんがグラスの中身を軽く飲んだ。
俺は首を縦に振ってうなずく。俺自身にとっても信じられない報せ。
合宿に参加し壮行試合のベンチに座ってみても、その気持ちは変わらない。
「私はサッカーが大好きだが、技術的には素人だ。
だからジーコがなぜ君を呼んだのかは僕にはわからない。
でもただひとついえるのは、君はメンバーに選ばれた。
君にはまだドイツの舞台に立つチャンスがあるんだ。
だからいまはそれをものにすることだけを考えなさい。
まだ君には支えてくれた人たちに恩返しできるチャンスがあるのだから」
俺は黙ってうなずく。
「新聞を見たよ。マスコミは随分口さがないことを書いてるみたいだけど」
おじさんは店の隅に置かれたマガジンラックにちらりと視線をやった。
赤や青の目立つ色で縁どられたスポーツ新聞の見出しが見える。
どこも今日の一面は昨日の壮行試合の結果だろう。
俺が代表に選ばれた直後はその意外性をメインに記事にしていたが、
ある新聞が、そう確か小平でのクラブハウスでの会見で、
嫌味な笑いを浮かべながら質問してきた記者のいるところだ、
モニカと俺のことを書いたのをきっかけに状況が変わった。
それからはテレビも新聞もこぞって俺のことを
大切な友達―メディアによっては恋人扱いしてるのもあったが―を失った
悲しみを乗り越えて、いざ大舞台に挑もうとする
「悲運のストライカー」に仕立て上げようとしていた。
書いてあることは全部が全部嘘というわけじゃない。
モニカが死んだのは事実だし、そして俺の中にワールドカップで
活躍する姿をモニカに見せたいという気持ちがあるのも否定しない。
でもそれは俺だけの中にそっとしまっておきたいことだった。
Jヴィレッジの合宿中に選手一同の意思という形で申し入れが行われたので、
直接俺にモニカのことについてコメントを
求めてくるようなことはなくなったが、
いまでもワイドショーでは繰り返しそのネタが使われている。
マスコミは人が大事に隠しておきたいことこそ、
知りたがって声高に報道しようとする。
この一週間ぐらいで俺はそのことをしみじみと実感していた。
「あとさっき言ったことと矛盾するように聞こえるかもしれないけど、
君を支えてくれる人たち、彼らのためにプレーすることも大事だが、
君自身のためにプレーすることも忘れないように。
きっと君に声援を送る人たちもそれを望んでいる。
君とはほとんど接点のない僕だけど、ここに来てくれたのもなにかの縁だ。
君が活躍できるよう応援しているよ。
といってもしがないマスターの僕には
この店でサッカーが好きなやつらと一緒にテレビを見ながら
声援を送ることぐらいしかできないけど」
ありがとうございます、と俺は礼を言う。
なんで今日この場所に足が向いたのかその理由が少しわかったような気がした。
この場所には雰囲気がある。
本当にサッカーを愛する人たちの気持ちが、長い月日の間に壁にしみこんでいる。
きっとその雰囲気はこのオーナーさんの人柄が作り出しているのだろう。
「頑張ってきます」
もう店を出るときだ、と俺の心が教えていた。
準備はすべて整った。あとは出発するだけだ。
「みんなのために、そして自分のために。頑張ってきなさい」
おじさんが優しい笑顔を俺に向ける。
俺は荷物を持って席を立った。マスターが店の出口まで見送ってくれる。
俺はドアのところでふと足を止める。
この前来たときにも見た、サッカー選手たちの写真。
この前はさっと通り過ぎたが、なんとなくゆっくりと写真を端から見ていく。
合宿で一緒だったあの人がいる。
いまは引退した日本のサッカー史に名を残す名選手もいる。
日本のサッカーを作ってきた選手たちの顔が並んでいる。
マスターとの深い信頼感を裏付けるように、みんなすてきな笑顔で映っている。
ふと一枚の写真の前で視線が止まった。
どこかで見た顔。肩を組んでいる隣の人の顔も見覚えがある。
でも誰だろう?
もう一度じっくりと写真を見る。顔の輪郭、そして目。
ああ。俺は思わず声を出している。
高校時代から一緒でそのまま代表でもコンビを組んだ二人。
愚直にただひたすらにボールを追ったフォワードと、
彼に正確なパスを送り続けることを自らの使命としたミッドフィールダー。
彼らも日本の代表として世界に挑み、日本のサッカーの歴史を作ってきたのだ。
足を止めて動かない俺におじさんが、どうかしたかい?と声をかけてくる。
俺はおじさんのほうを振り返ると、
「もし僕がワールドカップで活躍できたら、ここに写真貼ってもらえますか?」
ちょっと図々しいお願い。半分冗談で言ってみたが、
そのアイディアはいたくマスターのお気に召したらしく、
「それはいいね。約束しよう。
というかこんな店でよければ、とこっちが言うべきだろうな」
俺は色あせたフレームの中で楽しそうに笑う二人の表情をもう一度目に焼き付ける。
「じゃ行ってきます」
俺は店のドアを押し開ける。
「終わったら店にも顔出してくれよ」
マスターの声に俺は笑ってうなずくと外へ出る。
初夏のさわやかな日差しが階段の上から差し込んで、俺を照らしている。
ロッカールームで俺たちは円陣を組む。
俺の左には楢崎さん。右には大黒さん。しっかりと肩を組む。
宮本さんの気合いで一斉に俺たちの熱がはじける。
ロッカールームにみんなの怒号のような叫び声がこだまする。
その熱を保ちながら俺たちは開け放たれたドアから外に出る。
待機所にはまだドイツの選手の姿は見えない。
ここに残る先発メンバーに、みんなが順繰りに声をかけていく。
土肥さんが川口さんに話しかけている。
答える川口さんがリラックスした笑顔を浮かべている。
腕にキャプテンマークを巻いた宮本さんの表情は緊張に引き締まっている。
そんな宮本さんの緊張をほぐすようにアツさんが声をかけている。
待機所から見るとピッチへつながる出口はいつも白い光で満ちあふれている。
スタンドの下の暗く低い場所にあるロッカールームと
煌々とした照明に照らされて明るいピッチのコントラストが
選手の目にそう見せるのだが、それはまるで新しい世界につながる扉のようだ。
ひととおり声をかけ終わると、俺たち控えのメンバーはピッチへ向かった。
階段を上がり、その白い光の元へたどりつく。
階段を上がりきる少し前から、うぉぉぉんと反響するような音が俺たちを包みはじめる。
そして、最後の一段を上ると同時に
俺は表現しがたい雰囲気の中に取り込まれる。全身に鳥肌が立つ。
新築されたこのアリアンツ・アリーナ。
斬新な外観が話題となっていたが、このピッチ内部の景色もなかなかの物だ。
山脈のように四方にそびえ立つ観客席。それがみな人で埋め尽くされている。
照明が作る鮮やかな光の洪水が目にまぶしい。
そしてなんともいいようのない華やかさがスタジアムに充満している。
「すげぇ・・」誰かが思わずため息を漏らす。
プロとして幾多の大舞台を、後のない真剣勝負を経験してるはずの代表選手でも、
それでも言葉が抑えきれずにこぼれてしまう。
「さすが、ワールドカップだな」土肥さんが相槌を打った。
何が違う、と聞かれれば困ってしまう。
観衆でいっぱいのスタジアムなんてオランダでも経験した。
熱狂的なサポーターの姿だってJで見ている。
それでもこれはいままでの試合とは決定的に違う。
絶対に間違えっこない。これは紛れもなくワールドカップだ。
ワールドカップという名前だけが作り出せる興奮と熱狂がある。
俺たちの姿を見て、選手の入場が近いことを知った観衆がまたボルテージを上げ、
それが赤道直下の太陽のような高揚をスタジアム中にもたらしていく。
ベンチに座っても、腰掛けてるという実感がない。
自分の体が空気で構成されているように、皮膚と物が接している感覚がない。
完璧に呑まれているな・・・俺は自分に苦笑いする。
しかし、呑まれるな、というのも無理な相談だという気もする。
この雰囲気の中でなんの変化も来さない奴がいたら、それはただの鈍感な人間だろう。
ジーコの姿が目にはいる。表情はいままでに見たこともないほど固い。
プレイヤーとして、そしてその後スタッフとしても、
ワールドカップという舞台を何度も踏んでいるジーコでも
やはり戦いを目の前にしたいまこのとき、心が高ぶるのを抑えられない。
それがワールドカップの持つ魔力だ。
場内にアナウンスが響く。地響きのような、スタジアム自体が叫んでいるような歓声。
そしてFIFAアンセムが流れ、両チームの選手がピッチに入ってくると、
すべての歓声はひとつの巨大な白い音に昇華される。
2006ドイツワールドカップ開幕戦、ドイツ−日本。
キックオフ直後の興奮がようやく少し落ちついたスタジアム。
元山はすばやくスタジアムの時計に目を走らせる。
もう開始から5分を過ぎている。時間が経つのが早く感じる。
日本のスタメンはゴールキーパーに川口。
数々の紆余曲折を経て、ジーコは最終的に4バックを
本大会のメインシステムとしてチョイスした。
右から加地、宮本、中澤、三都主の顔ぶれ。
そして守備的なミッドフィールダーに小野と福西。
攻撃的なミッドフィールダーは右に中田英寿、左に中村。
これがジーコが唱えた「黄金の中盤」の最終形となった。
2トップに柳沢と大黒。
日本中に果てのない議論を巻き起こし続けた
ジーコジャパンのドイツでの戦いはこのメンバーで行われることになった。
一方のドイツ、クリンスマン監督はこれも激しい論議のもととなった
ゴールキーパーに、オリバーカーンを指名した。
衰えも指摘されてはいるが、それでも、その卓越した技量と
四年前の横浜でのミスのリベンジに燃える熱い闘志は、
日本にとって大きな壁となって立ちふさがるだろう。
中盤にはいまのドイツをしょって立つ男、バラック。
彼もまた累積警告で出場できなかった横浜での借りを返すために、
この大会にすべてをぶつけてくるだろう。
シュナイダー、ダイスラーが脇を固め、
前線は復調なったクローゼにクラニー。
ベンチにはまだポドルスキーという切り札を残している。
ブンデスリーガ中心のメンバー構成は、
ブラジルなどに比べれればネームバリューの華やかさは欠くが
チームとしての強さは決して引けをとらない。
統一ドイツとしての初の栄冠、その舞台としてもってこいの地元開催。
比類なき高いモチベーションを持ってこの大会に臨んでいるのは疑う余地もない。
常識的に考えれば、日本が不利な顔合わせだ。
日本も強豪国相手にクロスゲームを展開できるようになったとはいえ、
まだ彼らから勝ちを計算できるほどの強さは身につけていない。
まして、ワールドカップ。フロックのない、国の地力がものをいう本物の戦いの場。
ニュートラルな発想で考えるなら、ドイツ勝利が妥当な予想だろう。
だがドイツも大事な大会の初戦、
しかも立ち上がりということもあって、静かに試合に入ってきている。
多少、動きに硬さも見えるが、試合を通じて影響するほどではなさそうだ。
対する日本も平穏な試合ペースに救われているが、はつらつとした動きとは言い難い。
今日のスタメンでワールドカップ初出場となるのが、大黒、中村俊輔、加地に中澤。
福西も日韓大会ではロシア戦の最後、わずか5分間の出場にとどまっている。
彼らにとっては未知の雰囲気での試合となっている。
日韓大会で十分な経験を積んでいるといってよいのが、
柳沢、中田英寿、小野、そして宮本。
川口は日韓大会こそ出番はなかったが、フランス大会での経験がある。
よく見てみると、彼らがチームの縦のラインとして一本、線が通っている。
様々な議論を巻き起こしたジーコのチーム作りだが、
きっちりセンターラインに安心できる人材を配置しているあたり、
スタンダードなチーム作りをしているともいえる。
日本だってそれなりの経験を積み重ねてきている。
だがこの開幕戦、しかもホスト国を相手にしての試合は、それでも難しいだろう。
スタジアムに詰めかけた圧倒的なドイツサポーターの醸し出す空気。
アウェイゴール裏の青に染まった一角。
日本のサポーターたちが声を張り上げているが、その声は儚い。
選手だけではない、サポーターもまた試されるのがワールドカップという場だ。
遠路はるばるやってきただけでは足りない、
ただ声をひたすらに張り上げるだけでも足りない。
彼らには、サポートするという言葉の真の意味を問われる時間になるだろう。
ピッチ上では静かな、プロとしての冷徹な目で
はっきりいってしまえば、ぐだぐだな試合が続いている。
驚くことではない。両チームが慎重に入る以上、想像できた展開だった。
問題は後半だ、と元山は思う。このままスコアレスドローで終わるとは考えにくい。
両チーム、それぞれどのような動きを見せるのか。
記者席からちらりと日本のベンチに視線を走らせる。
屋根に隠れて日本のサブメンバーの姿を見ることはできない。
もし、後半まで勝敗がもつれるような流れで試合が進んだ場合、
ジーコは。元山は考える。勝負のカードを切ってくるだろうか。
「日本、ドイツは前半を終わって0−0。両者無得点のまま後半に突入します!」
息の詰まるようなプレッシャーからようやく解放されたアナウンサーが
前半終了を伝えると、画面はすぐさまコマーシャルに切り替わった。
きっと高い金を払ってこの枠を買ったのだろう。
商品を宣伝するタレントの声が大きく部屋の中に響いた。
「だらだらした前半だったな」小熊は一口ビールを飲みながら滝沢に言った。
今日は女房を連れて滝沢の家に邪魔して、一緒にテレビ観戦としゃれ込んでいる。
長いつきあいだから、女房同士もすっかり仲良しだ。
男二人に遅い遅い夜食をあてがい終わった彼女たちは
キッチンのほうでさっきから楽しそうにしゃべっている。
「でもそれでも無失点でいけたのは大きい。
前半点を取られてたら、ずるずるいってもおかしくないですから。
これで後半、勝負できるでしょう」
滝沢が応じた。確かにそのとおりだ。
滝沢はワールドユース終了後、J2のクラブにコーチとして所属することになった。
しっかりした理論を持っている滝沢のことだ、
すぐに監督になり、やがてはJ1で指揮を執るようになるだろう。
いつかはJ1のピッチで対戦相手の監督として、滝沢の姿を見るようになるかもしれない。
まあそれまで俺が首にならなければの話だがな・・・。
小熊は苦笑いを浮かべる。監督の首なんていつ飛んでも不思議のない世界だ。
後半、ジーコが打ってくる手について思いを巡らせていると、
足元にじゃれつく子どもの気配。
見てみると、パジャマを着た滝沢の息子の姿があった。
確か今年小学校に入ったはずだ。深夜の中継だから寝ているものとばかり思ってた。
「おお、コウキくん元気か?」
顔が思わずほころぶ。自身に子どもができなかったこともあって、
滝沢の子どもを見ると、ついついかわいがってしまう。
小熊の問いかけに、無言でこっくりとコウキはうなずく。
利発そうな目と、口数の少なさは父親譲りだ。
「サッカーは相変わらずやらせているのかい」
小熊の問いかけに滝沢は、ええとうなずくと、
どこまでものになるかはわかりませんけどね、と控えめに言った。
「一緒にテレビ見てもいい?」
コウキの問いかけに滝沢がにっこりうなずいたのを見て、
小熊はコウキを大きなソファーの自分の横に座らせる。
「いつかワールドカップに出てみたいか?」
小熊の質問にコウキはこれまた黙ってうなずく。
「そうか、じゃあ一所懸命練習するんだよ。コウキ君はどんな選手になりたいのかな?」
いまの子はやっぱりヒデだろうか、それとも伸二か俊輔?
それとも聡明そうなこの子なら親父の滝沢の名前を挙げたりするのだろうか。
少し間があった後、コウキがきっぱりとした口調で言った。
「ひぐちせんしゅみたいになりたい」
小熊は大人に接するときのように、トウキの目を見返す。
コウキの目に強い意志の光が宿っていることを見届ける。
「俺がワールドユースから帰ってきたら、こうなんです。
普通はヒデとか俊輔とかの名前を挙げそうなもんなんですけどね。
どうやらワールドユースで見た樋口のプレイが相当気に入ったみたいで。
そのあと、テレビに出ることがなかったから、
このぐらいの年齢の子どもだと
樋口のことを忘れてもおかしくなかったはずなんですがね。
ワールドカップのメンバーに選ばれたときはにこにこしてましたよ」
小熊の胸裏を一年前の戦いの日々がよぎる。
樋口、よかったな。ここにお前のプレイに惚れた男がいるぞ。
お前のプレイを見たいと願っていた男がここにいるぞ。
俺のちょっとした努力も報われたと言うべきだろうな。
小熊は心の中で満足の笑みを浮かべる。
「そうか。それはいい目標だな。
とにかく毎日、練習を頑張ること。それがまずは大事だよ」
コウキはこっくりとうなずく。無口ではあるけど、素直な子どもだ。
そのとき、コウキが口を開いた。
「今日はひぐちせんしゅ出ないのかな?」
トウキが小熊の顔を見上げている。
小熊はその頭をなでながら、コウキにゆっくりと語りかける。
「樋口は後半出てくるよ。それが奴が得意とする時間帯だから。
きわどい展開の試合になれば必ず出てくるよ」
元山は記者席からピッチを俯瞰している。
ハーフタイムを消化して試合は後半へと突入している。
後半はややドイツが押し気味だ。
日本がボールを触れない時間が少しずつ長くなっている。
ハーフタイム中にクリンスマンの檄が飛んだのだろうか。
気合いがやや空回り気味だった前半と違って、
後半のドイツの選手たちは、この試合にかける意気込みが
素直にプレーの力強さに反映されるようになっている。
ホスト国として、そして全世界が注目するワールドカップ開幕戦。
ドイツにとっては絶対に負けるわけにはいかないゲームだ。
ドイツは中盤の中央を分厚くし、
そのブロックを思い切り日本の守備陣にぶつけてきた。
バラックが、ダイスラーが、そのフィットネスにものをいわせて、
やや強引なキープから細かいパスをつないで日本陣内に攻め込んでくる。
前半はタンポポの綿毛のように前線で浮遊するだけだったクラニーに、
レーザービームのような鋭いショートパスが入りはじめた。
ちゃんとクリンスマンは日本を研究してきている。
元山は記者席で前半とはがらりと変わったドイツの攻撃の組立を見ていた。
よく日本人がスポーツをやる上で、身体能力でのハンデを指摘されるが、
サッカーではそれが単なる体のサイズの問題に帰結するならば、
日本が追っているハンデは普通の人が考えているほどではない。
中澤のような大型ディフェンダーもいる。メンバーの体格だってそんなに差はない。
単純にフィジカルの違いに物を言わせようと、
後ろからロングボールを放り込み続けるような攻撃は、日本にとって実はありがたいのだ。
そこそこのサイズを持つ一方、綿密に訓練された組織を持つ日本にしてみれば、
単純な戦術はむしろ格好の餌食だ。しっかりとした連携で難なく対処できるだろう。
問題はむしろ、中盤やサイド、ゴール前での一対一の局面だ。
11対11なら五分の勝負ができても、1対1を11回やられたときの日本は脆い。
わざわざ日本のディフェンダーが複数待っているところにハイボールを蹴るのではなく、
ひとりずつ日本の選手を引きずり出して、個別撃破で崩していく。
それがアジアの盟主となった日本への対応手段だった。
自分たちがボールを持った状態での1対1を徹底して仕掛けていく。
それが日本を疲弊させるもっとも効率的な方法だとクリンスマンは知っている。
相手の攻勢にじわじわと小野がかなり低い位置まで押し込まれている。
よくない兆候だ。元山は無意識のうちに下唇をかむ。
小野はすばらしい選手だがその魅力が遺憾なくはっきりできるのは、
やはりハーフウェーより前、敵陣に近いポジションにいるときだ。
自陣ゴール前やバイタルエリアという場所にいて、守備で力を発揮するタイプではない。
小野を前に出せれば相手には大きな脅威となるが、
押し込んで下げてしまえばその脅威を取りのぞくことができる。
ドイツが確実にピッチに吹く風を自分の物にしていく。
少しずつドイツがボールを持つ時間が長くなる。
元山は祈るような思いで日本のベンチを見る。
イノセントな期待だとわかっていても、元山には彼の姿が見たかった。
エリア外にこぼれた玉をバラックの強烈なミドルシュート。
強烈なストレートボールが枠に飛んだが、
川口が間一髪手首を返してバーの上にはじき出した。
「ニッポン危なかった!!すごいシュートでした、川口ナイスセーブ!!」
アナウンサーが悲鳴をあげる。
小熊は思わず深い安堵のため息を漏らす。隣の滝沢も同じだ。
「今日の川口は久しぶりに当たりだな」
小熊は滝沢に話しかける。
「ですね。こういうシュートがひっきりなしに飛んでくるゲームのほうが、
川口にとってはやりやすいでしょうね。
特に彼は多くボールに触ることで、集中力が無限に高まるタイプですから」
「問題は最後のロスタイムまで防ぎきれるか、か」
小熊の表情は険しい。
画面の中ではドイツがポドルスキーを投入した。21歳の新鋭。
それを追うようにジーコも動く。柳沢に変えて久保。
久保はまだ完全なトップフォームではない、というのが
マスコミの報道だったが、ジーコは未完の大砲で勝負をかけてきた。
俺だったらどんな手を打つだろう、と考えてしまうのはプロコーチとしての悲しい性か。
日本のよくないときのパターンで、ボランチの二人が守備に引いてしまい、
フォワードとトップ下が構成する前線との間に大きな空白ができてしまっている。
こうなると攻撃と守備それぞれのブロックが分離した状態になってしまい、
ジーコの監督就任以降基本スタイルとなったショートパス主体で
ボールポゼッションをあげていくサッカーは機能しなくなってしまう。
フォワードはサポートがない以上、ボールが足元に入っても選択肢が限られてしまい、
無理な単独突破を試みるしかなくなって、
相手ディフェンスの網に自爆気味につっこんでボールを奪われてしまう。
絶対的な力を持つフォワードのいない日本は、
複数の人数でパスをつなぎながらチャンスを作っていくのが
攻撃の基本であり、得意パターンだ。いまはそれができていない。
自分たちのスタイルを取り戻すには、
やはりラインを高く保ち、前線とディフェンスラインの距離を縮め、
二つのブロックをしっかりとリンクさせることが不可欠なのだが、
これだけ押し込まれている状況で、
宮本にいまラインの押し上げを求めるのは酷な相談だろう。
一度でいいからビッグチャンスが欲しい。
そうすればそれを契機に小野のポジションを押し上げ、流れがつかめるかもしれない。
俊輔はおそらく最後まで持たない。
これだけ守備に走らされれば最後はスタミナが切れる。
さっきから俊輔のところで対面の突破を許すシーンが散見されるようになってきた。
流れを一気に覆す、フリーキックをはじめとした俊輔の決定力の高さは言うまでもない。
だがその決定力を生かすチャンスがこのゲームでこれからあるのか。
敵陣でファールがとれず、このままじりじりと押し込まれ続ける可能性も高い。
そのような状況では守備であと一歩が出なかったために
悲劇的な失点を招くこともありうる。
どこまで俊輔を引っ張るか。難しい判断だ、と小熊は思う。
裏目に出ればまちがいなくマスコミからこてんぱんに叩かれる。
画面ではジーコが2枚目のカードを切った。
後半25分を経過したところ、大黒が退き大久保嘉人がピッチの中へ駆けていく。
日本のサポーターが歓声を上げて向かい入れる。
これで2トップを入れかえた。ジーコが得意とする交代パターンだ。
スコアレスで迎える残り20分。
1点の重みがぐっと大きくなる時間帯。
もし、もしこのまま膠着した展開でいったなら、最後の一枚はどうする?
小熊はふと隣を見やる。コウキは画面から視線をみじんも動かさず、
さっきから食い入るように見続けている。
ジーコは使う。小熊の肺腑の中に確信がある。
もう少し待ってろ、坊主。ジーコは必ず君のヒーローを使ってくる。
ここで使わなければやつを呼んだ意味がない。
「樋口、出番だ」通訳の鈴木さんが俺の名を呼んだ。
もう十分にアップは済ませてある。
まさか、という状況のはずなのに俺の心は不思議なほど落ち着いていた。
出番が来ることがわかっていたような、そんな余裕が俺の中にある。
楢崎さんがすっと近寄ってきた。
「お前のことだから心配してないが、舞い上がるなよ。
お前なら絶対この流れを変えられる。必ず1点取るんだぞ」
俺はうなずく。
「あの一緒にやった練習試合を思い出せ。
あのときと同じ気持ちでやってこい」
楢崎さんと手を軽く合わせる。俺の体に楢崎さんの力が流れ込んでくる。
ビブスを脱いでベンチに置き、歩いてジーコの前に立つ。隣には鈴木通訳。
ジーコの下で試合に出るのは今日がはじめてだ。
ジーコはどんな指示の出し方をするタイプなんだろう?
普段の指導を見た限りでは、細かいポジショニングなどをいう監督には見えないが。
ジーコが俺の目を見て何かをしゃべる。
俺はその目をまっすぐ見返す。目から熱い力を感じる。
もちろん言葉はまったくわからない。ここでは気を感じるだけだ。
鈴木さんが訳してくれるのを待つが、なにもしゃべらない。
不審に思って鈴木さんのほうを見ると、当惑した表情を浮かべている。
ん?いったいジーコは何を言ったんだ?疑問が広がる。
ジーコが鈴木さんを軽く促すような素振り。
それにおされて鈴木さんがしゃべりはじめる。
「ピッチには彼女が待っている。彼女の声を聞いてこい」
ジーコの視線と俺のそれが交錯する。
このおやじ、確かにサッカーの大事な何かをわかってる。
タッチラインに立つ。審判が持っているボードを横目で見ると俊輔さんとの交代だ。
俺はユニフォームの胸のあたりをぎゅっとつかむ。
審判に見つからないよう、ちょっと工夫して首から下げたふたつのお守りの感触。
おれはプレーが切れるまでの間、ぐるりと首を回し周囲を仰ぎ見る。
タカシが教えてくれたリラックス法、いまではすっかり俺の癖になっている。
断崖のようにそびえ立つバックスタンド。斜度が35度だと聞いた。
35度というとなだらかに聞こえるが、下から見るとほとんど垂直の壁だ。
一番上を見るには相当首を後ろに傾けなければいけない。
最前列から最上段までぎっしりと詰まった観衆が一人残らず、
息を呑んでこのピッチを見つめている気配が伝わってくる。
プレーが切れず、俺はラインの外でしばらく待たされる。
ドイツがいい形でボールを奪った。その瞬間、一斉にスタンドが地鳴りを起こす。
まるで地震が起きてスタンドが崩れるんじゃないか、と思うような歓声だ。
右側を見るとアウェイのゴール裏には青の巨大な一団。
これだけの人数が多くのお金と時間を費やして、このドイツまで来てくれた。
そして俺たちが少しでもやりやすいように、
力が出るように、と懸命に声を張り上げ続けている。
視線を下に落とすと照明にその濃さが映える緑の芝生。
前日練習では下地の厚みはあるものの意外と刈り込んであって、
思いのほか滑りやすいピッチだという感じだった。
双方のゴール脇につらなるカメラマンと彼らが構える砲筒のようなカメラのレンズ。
圧倒的に数が多いのは、左側のゴールのサイド。いま、ドイツが攻めているゴールだ。
後半、日本が攻める右のゴールは、反対側と比較すると人数が格段に少ない。
カメラを構えているのも日本のメディアがほとんどなのだろう。
彼らにすばらしいシャッターチャンスをプレゼントしたい。
その後ろで待っている日本のサポーターに喜びの瞬間を届けたい。
俺は強く思う。
加地さんの蹴ったクリアボールが反対側のタッチを割った。
審判が笛を吹いて、こっちを見た。
とうとうこのときがきた。
さあ、モニカ行こう。これがワールドカップだ。
俊輔さんが走ってくる。すれ違い際に俺の肩を抱いて
「1点頼んだぞ」と気合いを入れていく。
わかりました、と答えて俺はピッチに駆け出す。
日本のサポーターの熱烈なコールと、
スタジアム全体が怒っているようなブーイングが俺の登場を祝福してくれる。
元山の視線の先で、樋口は愛おしむように芝を何歩か踏みしめると、
足を伝わる感触に満足したようにまっすぐセンターサークルの方へ駆けていった。
ゴール裏に陣取った日本サポーターが樋口の名を呼ぶ。
ああ。とうとうこの時が来た。
一年前のオランダ。冬の埼玉スタジアム。そしてこの前のナビスコ杯。
ずっと見てきた。ずっと応援してきた。
よかったね、本当に・・・。
元山は手元の取材ノートに書き記す。「後半35分 樋口in」
さあ、これからだ。
君はその思いのままにピッチを走れ。
私はそれを文章に残し、多くの人に伝えよう。
「なんとジーコ、ここでA代表初キャップの樋口です!
この大事な場面で、3枚目のカードは樋口を起用してきました。
ジーコ、まさにこれは勝負に出た!」
アナウンサーがここが盛り上げどころとばかりに声のトーンをあげた。
画面には中田英寿と身振りを交えながら会話する樋口の姿が映し出される。
小熊は、横に座っているコウキの顔を見る。
まだ幼いけれど、どこか滝沢に似た整った鼻筋の通った横顔。
一秒たりとも見逃すまいという気持ちが微動だにしない視線に表れている。
そうだ、そのきれいな目によく焼き付けとけ。君のヒーローの姿を。
小熊は心の中でそっと樋口に呼びかける。
樋口、出ただけで満足するな。自分の仕事はわかっているな。
この子に、いまテレビを見ている他の子どもたちに、
日本サッカーのもっと大きな可能性を、もっと大きな夢を見せてやってくれ。
彼女は一人でテレビ画面を見ている。
インターネットを通じて、その後の彼の情報は仕入れていた。
だから、ワールドカップのメンバーに選出されたことも知っていた。
けれども、初戦の、この難しい場面で出てくるとは思わなかった。
「IN 20 Hiroki Higuchi MF JPN」のテロップが画面の下に出る。
青いユニフォームを着た彼の姿がテレビいっぱいに映る。
公園でからかったときのムキになった表情、
冬に日本へ行き、一緒に手をあわせたときの繊細な横顔。
いま画面に映っているのは弱さなど微塵も感じさせない
彼の闘志に満ち溢れる顔つき。
でも、彼はいまでも内面にいろいろなものを隠し続けている。
彼は忘れたりしない。すべてを知ってあそこに立っている。
がんばるのよ、あの娘の分まで。
彼女は届くわけないと知りながら、テレビの中の彼に向かって発破をかけた。
しかしねえ、あなた。あの時点でわかるわけないとはいえ、
わたしたち、ワールドカップに出るような人にちょっかいを出すなんて
いま思えば随分大胆なことしたものよね。
シンディはひとり苦笑を浮かべると、いまはいない友に語りかける。
「樋口かよ!ジーコも思い切った交代するなあ」
浦和レッズの選手寮。ロビーに置かれたテレビをみんなが囲んでいる。
テレビ画面の左上に示された時計は後半35分の表示。
闘莉王が話しかけてくる。
「どうなんだ、この交代は?お前から見て」
「正解でしょう。この場面ならあいつが一番期待できる。
必ず見せ場は作ってくれますよ」
タカシは念を送るように胸の前でぐっと手を組んだ。
がんばれ、お前ならきっとドイツにだって負けない。
俺も山口も内藤も、高校のみんなも、そして岩崎も絶対テレビを見ている。
がんばれ、お前のために。そしてモニカちゃんのために・・・
「あなた!樋口君、出てきましたよ」
隣の部屋のパソコンで仕事をしていた夫が、
彼女の呼びかけにこっちの部屋に入ってくる。
画面には、緑のピッチに映える
青いユニフォームを着た若者の顔が大写しになっている。
「やや、すごいな、あの若さでワールドカップに出るなんて。
ほんとうにたいしたもんだ。いやあ、起きててよかったな」
テレビに映し出された樋口の姿にひきこまれたように、
夫はどっかりと座ると、目をこすりながらテレビを見始めた。
「いま思うとあの娘はすごい人と一緒にサッカーやってたんですね」
彼女の言葉に、夫が深く首を縦に振る。
「あの娘は不思議といつも周りの人に恵まれていたからなあ。
ほんとうに幸せだったと思うよ、たとえ短くてもいい人生だった」
夫の目が赤いのは、さっき目を激しくこすったせいなのか。
彼女はあの日のことを思い出す。メンバーの発表されたあの夜。
あの日はなにかせわしない一日で、
彼女がニュースを見ることができたのは深夜に近い時間だった。
テレビに映ったメンバーの名前を見るや否や彼女は家を飛び出した。
あの娘へ。早く伝えたい。
彼女の足はいつしかあの忌まわしい場所に向かっていた。
決してもう訪れることはないと思っていた場所。
暗い道路。両脇の歩道。ガードレールも修復され、
もうどこにもあの事故の痕跡は残っていないように見えた。
そんな暗い道端にそっと置かれた真新しい花束が、
街灯のほのかな光を浴びて、明るく輝いていた。
少し前まで誰かのいた気配。誰かの祈りが残っている。
いろいろ他に報告しなければならない人もいただろうに。
ほんとうはマスコミの取材も受けなくてはいけなかっただろうに。
彼女は花束の前でそっと手を合わせる。
直接、聞かせてもらったんだ。よかったね・・・。
彼女はそっとあの夜の記憶を、心の中の引き出しにもう一度しまい直す。
テレビの中の若者に心の中でそっと声援を送る。
がんばってください。日本のサッカーとあなた自身のために。
きっとあの娘もどこかで見てます・・・。
彼女はテーブルの上においた愛娘の写真の入ったスタンドを、
テレビ画面がよく見えるように、とそっと向きを調整した。
残り10分。延長のないグループリーグ。
セーブする必要はない。すべてをこの10分で出し尽くす。
ピッチに入るとすぐにヒデさんとゲームの運び方の確認をした。
「とてもいまのディフェンス陣は押し上げられる状況じゃない。
だがこのまま引いて守って引き分けでよし、とはいかない」
ヒデさんの言葉にこめられた意味はすぐにわかった。
わずか3試合しかないグループリーグ。
たとえ相手がドイツだろうが勝ち点3をとっておけば
決勝トーナメント進出に向けて大きなアドバンテージになる。
確かにドイツは伝統国だ。ホームの有利さもある。
しかし、どの国が本当に強いかはやってみないと
わからないのがワールドカップという舞台の恐ろしさだ。
前回大会でアルゼンチンが、フランスが、グループリーグで消えたように、
どのチームが強い、弱いなんてのは終わってからわかることだ。
どの試合でも常にひとつでも多くの勝ち点を狙っていかなければいけない。
「ということはカウンター狙いで?」
という俺の言葉にヒデさんは深くうなずいた。
「ヒロはこっちが押し込まれたときも下がりすぎるな。
あくまでも前目でのディフェンスに徹してくれ。
フォワードの二人のポジションを見ながら、
誰かが必ずサイドに流れているようにしてくれ
フォワードのどっちかが流れたらヒロは真ん中のフォロー、
フォワードが両方とも中央寄りだったら右サイドを突け」
耐えてその上でもう1点を取りにいくという考えか。
ドイツがスローインからボールを入れてゲーム再開。
周囲を確認すると左サイドに移動したヒデさんは俺より下がり目の位置にいる。
守備は俺に任せろ、だからお前は点を取ってこい、ということか。
ハーフウェー付近でボールを追っかけるが、相手のパス回しがなめらかだ。
できたら俺が間合いをがちっと詰めて、相手が持ってるボールの動きを止めたい。
動きをある程度止めてしまえば一気に複数で囲んでボールを奪えるのだが、
こうも少ないタッチで早く回されると、なかなかボール奪取の基点になれない。
前線で詰め切れてないので、後ろの選手も囲みに行ってかわされた時の
リスクを考えると、ついつい様子を見てしまって足が出ない。
それがボールの持ち手へのプレッシャーが弱くなることにつながり、
相手のパスがまたスムースにどんどん回ってしまう。
「ヒロ、追え!中を切れ!」
観客の上げる歓声の切れ目を縫うようにして、
後ろからヒデさんの怒声のような檄が飛んでくる。
「集中!集中切らすな!」
ディフェンス陣に活を入れる宮本さんの声も遠くからかすかに聞こえる。
俺がボールを追っかけてコースを切るたびに、
相手と俺とボールの動きにあわせて、
後ろの選手は微妙にポジションを調整する。
敵味方の選手のポジションがピッチに描く図形は
戦場を捕捉するレーダーのように休むことなく流動して変化し続ける。
ボールが奪えない。寄せてははたかれ、追えばボールは逃げていく。
気分的にはしんどいところだ。だが、ここであきらめるわけにはいかない。
いつか必ずこぼれるはず。そう信じてひたすらパスコースを切り続ける。
シュナイダーが鋭い縦パスを送る。
引いてきてくさびになったのはクラニーだったが、
それをヒデさんが素早い出足で潰した。
この時間帯でまだあれだけダッシュが効くなんて、
やはりこの人の持久力も含めたフィジカルの強さは化け物だ。
必死に抵抗するクラニーを抑えつけて、ヒデさんがボールを奪いとる。
ヒデさんならボールを失う確率は低い。
俺はモードを切り替えて前を見る。フォワード二人の位置を確認。
久保さんは中央にどんと構えている。やや左サイド寄りで嘉人さんが動く。
バラックがボールを奪い返しに行くが、ヒデさんが前線にパスを送る。
早い弾道。鋭い軌跡。ボールが空気を裂きながらハーフウェーを越える。
キラーパスの称号は伊達じゃない。
厳しいボールだったが、久保さんがジャンプして絶妙な胸トラップ。
ボールはぴたりと足元へ落ちる。
うまい。俺は心の中で感嘆のため息を漏らす。
一度敵として日本代表と戦ったことはあったが、
いざ自分がその中に入ってみてみると、そのテクニックとスピードはやはり一味違う。
あの試合が、多少向こうもマジになったとはいえ、
位置づけとしてはあくまでも調整試合だったことを痛感させられる。
俺はヒデさんの指示どおりに右サイドを走る。
後ろからは加地さんも懸命に上がってきているだろう。
久保さんから見ると右に俺、左に嘉人さんの構図だ。
久保さんはどっちにパスを出す?それとも自分で持っていくか?
その瞬間、久保さんから俺の前方に鋭いライナーのパス。
だがそのボールは途中でドイツの選手に当たってしまう。
はじかれたボールが背丈ほどの高さで宙を舞う。まだ勢いは死んでいない。
間に合う。俺の位置からなら取りにいける。
俺はダッシュの向きを変え、ボールに向かって走る。
視線の先でボールがワンバウンド。
俺と同じようにドイツの選手がボールめがけて走ってくるのが目に入る。
俺の方がボールに追いつくのは早い。
だが足元に落としたら、その瞬間を狙われてしまうだろう。
ならば。俺は力を振り絞ってギアをもう一段上げる。
これなら落下点に入れる。
俺のスピードアップに計算が狂った相手が、まごつく気配が空気越しに感じとれる。
ヘディングは間に合わない。だが他にも手はある。
俺は落ちてきたボールを左肩に乗っけてかっさらうと、そのまま背中づたいに落とす。
ボールがユニフォームの背中をかすりながら落ちていく。
たとえ目では見えなくても、俺にはボールの軌道がはっきりとわかる。
落ちてきたところをヒールで蹴り上げて、相手の背後へ浮き球で送り出す。
俺に向かって前進していた相手は、背後に蹴り出されたボールに逆をつかれる格好だ。
相手がきびすを返そうとする間に、
走ってきたスピードそのままに俺は裏へ抜け出す。
スタジアムから一斉に地鳴りのようなどよめきがあがるのがわかる。
トリッキーなプレーだがうまくいった。
抜けた。ラインの裏だ。俺は壁の裏へ抜け出した。
ベルリンの壁を越えたときの住民たちの気持ちもこんな感じだったのだろうか。
――― ……… ――――
中央に久保さん、ファーには嘉人さん。
すさまじい形相で手を広げ、俺によこせ!と訴えている。
だが俺の前には誰もいない。
追ってくる相手に取り返されないように、少しボールを長く出す。
ボールがエリア付近まで転がる。
俺の気配を察したディフェンダーがスライドしてコースを切りにきた。
交わしてシュート。もしくはフェイントを入れて横パスか。
だが、ボールを奪ったときドイツもさほど前がかりではなかった。
時間をかければすぐにエリア内が戻ってきた
ドイツのプレイヤーで埋めつくされるのは目に見えている。
ほんの一瞬だけ視線を飛ばしてキーパーの位置を確認。
じっくりゴールを視るのは、百戦錬磨のカーン相手じゃ
こっちのほうが経験がない分勝負としては不利だ。
相手の駆け引きに引きずり込まれる前に、こっちから打ち込んでやる。
これだけ離れてるのにゴールからオーラがびんびん伝わってくる。
威圧感。プレッシャー。閉塞感。これが超一流のキーパーの持つオーラか。
左足を踏み込む。イメージの中のゴール枠の左上。
シュートを察したディフェンスがスライディングしてくる気配。
大丈夫、それより先に打てる。
何も考えずにストレートのフルショット。
右足の甲に快感を残してボールが飛んでいく。
決まれ!俺は祈りと共にゴールマウスをみる。
カーンの巨体が、その重量感から信じられないほど軽やかに飛翔する。
伸ばされる左腕。届くな。そのままなら左上すれすれに突き刺さる。
カーンの指先がボールを押し上げる。ボールの軌道を変えられたのがわかる。
俺のシュートはバーに気持ちい音を立てて当たると大きく跳ね返った。
ドイツサポーターでいっぱいのスタジアムから悲鳴が起こる。
ボールは不運にも白いユニフォームの前に落ち、
間髪いれずに大きく蹴り出されてタッチを割った。
今度はスタジアム全体が唸り声のような安堵のため息を一斉に吐く。
まるでスタジアム自体が生き物みたいだ。
ピッチでその声を聞いていると、
自分が物語に出てくる得体の知れない怪物に飲み込まれ、
その胃の中にいるような気分になってくる。
しかし。俺は自分でも気づかないうちに頭を抱えていた。
いいシュートだった。俺の中では完璧といってもいい。
あれが入らないのか。あれを防がれてしまうのか。
遠くでは嘉人さんが、なんで俺に出さなかったと怒っているが、見えなかった振りをする。
いまの俺の判断は間違っていなかった。シュートだって会心の当たりだ。
それを完璧に止められた。
世界とは、世界とは。こんなに広いのか。
頭を抱えた俺を励ますように日本サポーターがコールを送ってくれた。
その声が少し俺の気持ちを楽にしてくれる。
「よかったぞ、ヒロ。もっと狙ってけ」
後ろから走ってきた小野さんがぽんと俺の背中を叩いた。
顔を向けると、テレビ画面でよく見ていた
あの誰もを幸せな気分にする笑顔が一瞬見えた。
そうだ、一度止められたぐらいでしょげてどうする。しかも相手はあのカーンだぞ。
一度打って入らなければ、もう一度打てばいいだけの話だ。
俺はゴールマウスを睨む。次こそあの中にボールを叩き込む。
ドイツのロングボール。さすがに時間がなくなったせいか手数をかけない。
ゴール前にほうりこんできた。パワープレーに切り替えるのか。
前線でポドルスキーと中澤さんが競り合うが、
ボールはどちらかの体に当たって、ゴールラインめがけて転がっていく。
川口さんが懸命にスライディングしながら手を伸ばすが届かない。
横を見ると線審がコーナーを旗で指している。
スタジアムの時計を確認すると43分。嫌な時間のコーナーだ。
久保さんがエリアまで戻ってくる。
この場面、久保さんの高さは守備においても貴重だ。
前線には相手を引きつけるために大久保さんが残る。
ドイツは大久保さんのそばに二人残した以外は、
全員コーナーに備えて上がってきている。
ドイツにとって引き分けは許される結果ではない。点を取りにきている。
俺もエリア内に入り、ニアで低いボールに備える。
シュナイダーがセットしたボールを蹴った。
ファーへの高いボール。俺の頭上を越えていく。
落下点を巡って肉体と肉体がぶつかる。激しい肉弾戦。
地元開催の初戦。悲願の統一ドイツとしての栄冠。
嬉しいニュースを心待ちにしている人がたくさんいる。
そのためには、このジャンプ、このヘディングで負けられない。
ドイツの選手たちの叫びが聞こえる。
だが俺たちだってそれは同じだ。
日本には俺たちの勝利を心待ちにしてくれてる人がたくさんいる。
ひとりひとりが負けられない理由を抱えてこのピッチに立っている。
絶対に譲れない。意地と意地がボールめがけてぶつかりあう。
明快な意思に基づいて蹴られたボールが激しい争いではじかれて、
その意思を失ってあてもなくふんわりと宙を舞っている。
ルーズボールを足元に収めたのは誰かわからないが青いユニフォームだ。
俺は右サイド、ライン際のスペースへダッシュする。まだまだスタミナは有り余っている。
「右!右にヒロ!」
この大声はたぶん宮本さんだ。周囲に誰もいない右サイドのスペースへ進出。
中を見るために左側に体を開くと、俺の足元にボールが送られてきた。
ていねいにトラップ。すかさず前を見る。広がるのは人工の野原。
前に待つのは大久保さんとふたりのディフェンダーだけ。
行くか?それともここはキープして時間を稼ぐか?
そんな俺の逡巡を吹き飛ばすようにヒデさんの怒声が遠くから響いた。
「ヒロ、持ってけ!持ってけよ!」
点を取れ、という意思がびんびんに伝わってくる。
そうだ、とことん打ち合う。斬りつけあう。今日はそういうサッカーだ。
大きくボールを前に出してのドリブル。
スペースさえあればこのほうがスピードは上がる。
この疲労が蓄積した時間帯、最初の数秒でぶっちぎって
相手との間にはっきりと距離を開けてしまえば、
萎えた心がきっとドイツの選手の追う足を止めてくれる。
最初だ、最初の数秒であきらめさせてしまうしかない。
懸命にスピードを上げる。だが追ってくる足音がする。もの凄い歓声。
なぜか、誰が追ってくるのか見なくても俺にはわかる。バラックだ。
このままこの位置で無理矢理ファールで引き倒されたら何の意味もない。
俺はやむなく急停止してボールを足元に止める。
間髪入れず俺の前に立ちふさがる人影。背番号13。やっぱり。
この人にあきらめてもらおう、というのは都合がよすぎる考えだった。
時間はかけられない。ドイツの選手がみんな戻ってしまう。
行くしかない。だがお前にバラックが抜けるか?
ドイツの皇帝とまで言われる選手を抜く力がお前にあるのか?
ここでボールを取られたら、もう一度日本のゴール前でチャンスを作られるぞ?
どうして時間を使わなかったんだ、引き分けでよかったのに、と叩かれるぞ。
心の中を横切る弱気。
だけど。抜きにいかなければサッカーじゃない。
―――― ス… ……
俺は決める。時間がない。速攻で仕留めるしかない。
手、肩、首、腿、足首。
体のありとあらゆる部位を使ってフェイントを繰り出す。
一気に相手の脳へ情報を送りこむ。
頼む、揺れてくれ。俺は祈るような思いで感覚をとぎすます。
バラックはつられない。俺のフェイントは通用しないのか。
もう一度左足でボールをシザース。その時、バラックが揺れる気配。
その瞬間言葉で考えるより早く、俺の足はボールを前に送り出している。
バラックは俺を止められない。抜けた。
そのまま全速で走る。白いハーフウェーラインが俺の足元を過ぎていった。
前を見る。大久保さんが鬼気迫る表情で俺を見ている。
ディフェンダーの二人はそのまま大久保さんにつきながらじりじり下がる。
真横に視線を走らせる。大丈夫、誰も追ってきていない。
2対2。絶好のカウンターのチャンスだ。
どんどんゴールが近づいてくる。スタジアムの歓声は耳をつんざくようだ。
耳が麻痺して何が聞こえているのかわからない。
大久保さんの口が大きく動いている。何かを叫んでいるのだろうが聞こえない。
あの練習試合でも、ワールドユースでのアルゼンチン戦でも、
最後俺が駆け上がるのは必ず右サイドだ。
日本代表とやったときは、左サイドからモニカがスライドしてきて、
俺は右サイドへ流れたモニカへパスを出した。
ドイツゴールめがけドリブルで突き進む俺の目に、
目の前を左から右に走るモニカの姿が見える。
―――― ス… ……ケ……ベ……
俺はそのままモニカの影を追い抜き、ゴールまで一直線に進路を取る。
エリア手前で観念したようにディフェンダーがシュートコースを切りに来る。
もう一人は左で待っている大久保さんについたままだ。
大丈夫、この一枚は交わせる。
確信がある。
人里離れた山の奥深くに沸く水のように、いま俺のすべては澄みきっている。
俺はスピードを落とさずにエリアに侵入。
そのまま俺がライン際まで突き進んで、
角度のないところから打ってくると判断したディフェンスが
セオリーどおり内を切りにくる。
俺を見るために左開きの半身になったそのタイミングを狙って、
右足にボールをひっかけて相手の裏をついてエリア中央へ切れ込む。
ディフェンダーの背中が見える。相手は踏みとどまれない。完全に交わした。
1試合の疲労が彼のスピードへの対応力を既に奪っていた。
シュートコースが開いた。ゴール正面。カーンが待っている。
既にカーンが俺を捕捉しているのを感じる。一対一の勝負だ。
相手を交わすときに右足に引っかけて中央へ持ってきた。
俺の利き足は右だから、持ちかえてから右で打ちたいところだが、
カーンはそれをするだけの余裕は与えてくれないだろう。
このまま左で行く。俺は右足をぎゅっと踏み込み、左足を振り上げる。
ゴールは見ない。カーンに視線は渡さない。
そのままイメージの中の枠めがけてフルショット。
俺の足じゃないみたいに、左足はボールの芯をとらえ、
最高の感触を残してボールは飛んでいった。
静寂。いつまでも続くかと思うような静寂。
その中をさっきまではよく聞こえなかった審判の笛の音が響く。
ネットに絡まってゴールの中に佇むボール。
一瞬の間の後、目の前のゴール裏に陣取った日本サポーターの叫び声。
生まれたての赤ん坊のような、もはや言葉の体裁をなさない叫び。
審判がゴールを認めたのを確認すると、
俺はゴールラインに向かって、サポーターの方へ向かって走り出す。
体の中から、熱い熱いマグマのような感情が突き上げてくる。
動かずにいることなんてできない。
衝動に身を任せて走る。決めた、俺が決めたんだ。
その瞬間。
俺の周りからすべての音と光が消えた。
何も聞こえない。何の音も。
雄叫びをあげていたサポーターの声も消えた。
俺の周りには光。白い光。
白い光の中を俺は歩いている。
ピッチの芝も、サポーターも、巨大なスタンドもない。
俺がいるのはただ光の中。
周囲をぐるりと見渡す。そのとき、声が聞こえる。
・・・ス ケ・ ベ・・サ・ ン・・
これは音なのか。俺は聞いてるのか。
・・・スケベサン、・・・ヨカッタ ネ・・・
モニカ。お前いま、ここにいるのか。
モニカ、どこかから俺を見てるのか。
・・・モットイッショニヤリタカッタナ・・・
そうずっと一緒に
・・・ありがとう。
その言葉と同時に何かが失われていく気配。
取り返しのつかない大切なものが消えていく。
俺はモニカの名を大声で叫ぶ。
その瞬間、すべての光と音が戻ってきた。
真昼のように明るい照明の光。空気の中に立ちこめる音、また音。
気づけば芝に膝をついて座っていた俺を、青いユニフォームの輪が取り囲んでいる。
「この野郎、本当にお前って奴は!」
俺を後ろから羽交い締めにしているこの声は中澤さんだ。
脇から太い腕で俺の頭を抱いているのは宮本さん。笑顔がはち切れそうだ。
ヒデさんもいる。小野さんの顔も見える。
みんな見たことのないようなすてきな笑顔だ。
日本の誇るサッカープレイヤーたち。
その輪の中にいま自分がいる。俺はその幸せを噛みしめた。
ようやく輪がほどけて、俺は立ち上がる。
サポーターたちの声援が一段と大きくなる。
俺は遠くベンチを見る。まさかの失点に沈むドイツベンチとメインスタンド。
一角だけ喜びがあふれているのはもちろん日本のベンチだ。
楢崎さんが俺の名を呼んでいるのがかすかに聞こえた。
俺は楢崎さんの方を向いてガッツポーズをする。
だけどあふれる喜びと一緒に俺の心はひっそりと泣いている。
モニカはもういない。モニカはもうほんとうにどこにもいない。
喧噪の中、俺の心は静かな昼間に降る雨のようにそっと涙を流し続ける。
――― ありがとう、モニカ・・・―――
世界には四年に一度、誰もがひとつのボールに心奪われる季節がやってくる。
ひとつの小さなボールをその場にいる数万の観衆が息を止めて見守る。
いや、そこにいる彼らだけではない。
そのボールは画面を通じて、何億、何十億もの人間の視線を集める。
ボールの動きに連れて、人々は理性を忘れて喜びを爆発させ、
時には背中を丸めて打ちひしがれる。
ネットを揺らすボールに両手を天高く突き上げ、声も枯れよと叫ぶ。
遠く枠を離れ飛んでいくボールに嘆き、頭を両手で抱える。
それは世界を幾ばくかの間包み込む熱い熱いフェスタの季節。
やがて一人の勝者と多くの敗者を産みだして祭りは終わり、
そして世界は何事もなかったかのように、また日常を取り戻す。
みんなあの熱狂を忘れたかのように普段の生活に帰っていく。
でもそれは見た目だけのこと。
誰もあの祭りを忘れたりなんかしない。忘れることなんてできやしない。
一人一人の心に鮮やかな原色で祭りの思い出は深く深く刻まれている。
そうだからいまは四年後の次の祭りのために。
祭りを楽しむために、一時、変わりない日々に身を浸す時。
新宿駅から程近い雑居ビルの地下にその店はある。
祭りの時はここも青い服を着た人々で埋めつくされ、
テレビを通して映し出される彼らの代表の活躍に
叫び、ため息をつき、そして喜びを
店にいるものみんなでわかちあう姿が試合のたびに見られた。
そんな光景も祭りの終わりとともに見られなくなり、
店には以前の雰囲気が戻ってきた。
マスターは顔なじみの常連に声をかけ、常連も笑顔でそれに応じる。
祭りの前と同じ光景。でも昔から来ている常連は、
ひとつだけ店が変わったところがあることに気づいている。
店内の入口近くに新しく飾られたまだ色鮮やかな一枚の大きな写真。
オーナーと直接話をした人ならば、
オーナー自身がつてを頼りにそれを撮影した写真家に頼み込んで、
手に入れて飾らせてもらってるものだという話を聞くことができたかもしれない。
新聞の一面を飾ったその写真は、その後雑誌などにも数多く転載されて
サッカーファンのみならず、多くの人の目に触れることとなった。
2006ドイツワールドカップ開幕戦 日本1−0ドイツ。
終了間際の劇的な決勝ゴールでホスト国の強豪ドイツを破り、
世界に日本サッカーの新時代を宣言した記念すべき試合。
写真は決勝ゴールを決めた直後の日本の若きエースをとらえている。
背景には笑顔の代表イレブンが、
殊勲の立役者を祝福しようと後ろから両手を広げて走ってくる姿。
中央にいる「彼」は両目をきつく閉じ、ピッチに膝をつき、
右手をすっと高く天に向けて突き上げている。
一方、左手は胸のあたりで首から下げた何かを握りしめている。
写真をよく見ると、彼が握りしめているのはふたつのお守りだとわかる。
膝を芝につけ、左手を胸におき、右手で天を指し示す。
それはまるで何かに祈りを捧げる姿のようにも見える。
そして、彼が誰に祈っていたかは、その写真を見た彼を知る誰もが知っている。
― Epilogue ―
「お母さん!お母さん!」
すごい剣幕でドアを開けて家の中に駆け込んできた息子に、
マリアは手に持っていた皿を思わず床に落としそうになる。
「マルコ、あまりお母さんを驚かせないで。
びっくりしちゃったじゃない。どうしたの?」
とりあえず皿を台の上に置いてタオルで手を拭くと、
今年12歳になったかわいい息子の前に立つ。
「いま、いつもの公園で遊んでたら、変な奴が来て・・」
マリアは思わず嫌な予感に身をすくめる。
比較的この地区は治安がいいとはいえ、犯罪がまったくないわけではない。
「どうしたの?なにかされたの?」
「違う。俺がボールで遊んでたら、いきなり変なやつがボールをとったんだ」
この子がボールといえばサッカーボールのことだ。
時には近所の子どもたちと、時には一人でボールを蹴っていつまでも遊んでいる。
我が子ながらよく飽きないものだ、と感心するぐらいだ。
「で、どうしたの?」と先を促すと、
「ボールを取り返そうとしたんだけど・・そいつ、もの凄くうまいんだよ!!
まるで紐がついてるみたいにボールが体から離れないんだ。
体のいろんなところでボールをトラップして、
まるで手で持ってるみたいに動かすんだよ!!信じられないよ!」
どうやらぶっそうな事件ではないらしい。マリアはほっとする。
よく見れば駆け込んできたドアの脇に、いつも蹴っているボールも転がっている。
どうやらどこかの誰かにちょっとからかわれただけのようだ。
「なーんだ、州選抜がだらしねーの」
テーブルに座ってテレビを見ていた兄のアントニオが調子に乗って弟をからかう。
「アントニオ、そういうことは言わないの!」
マリアが怒るとアントニオは首をすくめた。
マルコはすぐムキになる性格だ。また兄弟げんかが始まってしまう。
夕食の準備に忙しいのに、喧嘩の仲裁に時間をとられるのはごめんだった。
「アントニオもいればよかったんだ、あんなうまいやつ見たことないよ。
まるでロナウジーニョみたいだったんだ」
マルコの言葉を聞いたアントニオが、ばーか、と呆れはてた顔をする。
「こんなとこになんでロナウジーニョがいるんだよ。
お前、頭がおかしくなっちまったんじゃないのか?」
マルコはほっぺたをぷっと膨らませているが、それ以上何も言わない。
でも、アントニオの言うことももっともだ。
もちろん周囲の男どもはみんなフットボール好きだが、
そんな上手い人の顔はこの近所では思い浮かばない。
どんな人だったの?とマリアは尋ねてみる。
「ガイジン。見たこともない奴だった」
異国の人間。近所の住人に外国人がいるというのは聞いていない。旅行者だろうか?
そのとき、マルコが唐突に叫び声を上げた。
「あっ!!こいつだ、こいつだよ、お母さん!見て、こいつだよ!」
すっかり興奮状態でアントニオの見ていたテレビを指さしている。
マルコの剣幕に釣られて、家族三人で顔を並べてテレビ画面に見入る。
ちょうどニュースの時間。
画面は恰幅のいい男性と握手をしながら、ユニフォームを持って笑う若者を映している。
「今日、ヒロキ=ヒグチの入団会見が開かれました。
昨年のドイツワールドカップで3得点2アシストの大活躍で、
日本をベスト4に導いた立役者。
しかもまだ20歳という若さです。
そのプレイは、オリエンタル・マジック、最期のファンタジスタと
絶賛を浴びたことはみなさんご記憶のことかと思います・・・」
マリアには笑っているのか泣いているのか見分けのつかない
東洋人の平板な顔が画面に大写しになる。
マルコが画面に顔がくっつきそうな勢いで、テレビの中の東洋人を睨みつけている。
表情からして、どうやらテレビの中の彼が
マルコをからかった相手というのは間違いないようだ。
きっと無心にボールを蹴っているマルコの姿を見て、からかってみたくなったのだろう。
「よかったじゃない、こんなプロの選手に遊んでもらえたなんて」
サッカーに詳しくはないマリアは、とりあえずマルコの機嫌をとる。
「こいつ、待ってるぜって言ったんだ」
え?と思わずマリアは聞き返す。
「俺に、待ってるぜって。言葉はわからないけど絶対そう言ってた。
もっとサッカー頑張る。絶対にこいつに勝つんだ」
いままで見たこともない息子の真剣な顔にマリアは思わず言葉を失う。
それはマリアが初めて見た我が子の、子どもではない、男としての顔だった。
俺は、ボールを蹴っている。
スペインの熱い日差しを浴びて、ボールの白さが一層映えている。
ここはどこかあの場所を思い出させる。
新しい家の近くに見つけた小さな公園。
景色も、広さも全然違うのに、なぜかあの場所と同じ雰囲気がある。
ボールが足の上で気持ちよく弾む。
昨日、からかってやったあの男の子はどうしただろう?
家に帰ってお母さんに話したりしたのだろうか?
俺がプロの選手だってことにはもう気づいただろうか?
想像を膨らませてみるのはなかなか楽しかった。
モニカ、外国に来るって大変なんだな。
自分一人で来てみて、ようやくモニカの気持ちがわかったよ。
でもこれから少しずつ慣れていくよ。言葉ももっと勉強するよ。
俺はリフティングを続けながら、ゆっくりとモニカと会話をする。
そのとき、甲高い声が耳に入った。
振り向いた俺は思わず笑みがこぼれる。昨日のガキだ。
顔を真っ赤にして俺を指さしながら何か叫んでいる。
言葉がわからなくたって意味は通じる。
どうせ、もう一度俺と勝負だ!とでも言っているのだろう。
そうだ、それでいい。何度でもかかってこい。
わざと余裕綽々の笑みを浮かべてやった上で、
指をくいくいと動かして、かかってこいよと挑発してみる。
「カモン、ボーイ」モニカの声がふっと耳に蘇る。
ガキの顔がみるみるうちに赤くなったかと思うと、飛びかかってきた。
いいダッシュだ。見所がある。だが、まだまだだ。俺はそれをひらりと交わす。
ヒールで蹴り上げたボールがイメージどおり体の正面に落ちてくる。
モニカ。俺はサッカーがある限り、
どこにいってもひとりじゃない。最近そう思うんだ。
ほら、いまだってこのガキがいる。
きっとこいつも遠いいつか。この日のことを思い出として振り返る。
そのときは、きっと俺と同じ言葉でその話ははじまるんだ。
今日、俺が一人で近所の公園でリフティングをしてたら――
毎日のように欠かさずスレを更新してくださったまとめサイト2の管理人さん、
すてきなきっかけをくれた「1」さん、
そして樋口とモニカを応援してくれたすべてのスレの住人のみなさん、
ご愛読ありがとうございました。
作者こと21
出典:今日俺が一人で近所の公園でリフティングをしてたら・2巻
リンク:http://ex24.2ch.net/test/read.cgi/soccer/1120924421/l50

(・∀・): 324 | (・A・): 110
TOP