どこでもないドア
2008/10/29 00:56 登録: えっちな名無しさん
いつもと変わらない日だった。
目覚まし時計が騒ぎ出す少し前に目が覚めて。
顔を洗って、歯を磨いて、少しだけご飯を食べて、着替えて。
ああ、今日は少しだけ早めに家を出たんだっけ。
いつもの星占いで、『いつもと少し変化をつけると素敵なことが』って書いてあったから。
中学生でいられる最後の年齢にもなって、占いを信じてる自分をバカだなって思うけど。
なにかに縋っていないと不安定な自分も分かっていて。
半信半疑…ううん、ほとんど諦めてる不謹慎な占い信者になっていたのかもしれない。
それでも、やっぱり変化なんかなくて。
朝の空気は冷たくて。
深く息を吸うと肺が痛くなるくらい。
バスの中の顔ぶれは、2年半前とほとんど変わらない。
眠そうなサラリーマン。
元気な小学生、化粧をする高校生。
クラスメート。
変化がないっていうのはとても安心できることだけど、反発したい自分と流れに身を委ねたい自分が共存していて。
それでも、刺激を求めながらも安定を望むから、何も起こらないことを願っている。
学校に着いて靴を履き替えていると、顔見知りと、初めてみたような顔ぶれが淡々と同じ行動をとる。
校舎は古く、歴史を重ねた校舎の独特の匂いに包まれているよう。
教室に向かって、友達と僅かに会話をして。
いつものように、鞄の中身を机に移す。
しばらくすると担任の先生が入ってきて、ホームルームが始まる。
また、いつもの一日の始まり。
下校時間。
いつもの事、宿題を頭に思い浮かべて歩く。
でも、どうしてか。
この日だけは、いつものバス停を通り過ぎた。
歩きたい気分、とはまた違ったような、不思議な『非日常』
毎日バスから眺める景色を、自分のペースで歩く。
流れる景色は緩やかで、ありがちだけど、いつもとは違った景色に見えた。
ふと横を見ると、今まで気づいていなかった横道があった。
クリーニング屋と靴屋の間。
人が並んで歩くには少し狭いような隙間が。
その奥には、ピンクのドア。
灰色のドアノブが付いていて、絵で描かれているような妙な存在感のドアが佇んでいた。
ドアを開けなくては。
胸の奥が小さく疼き、思考は『ドアを開ける』ことだけに染まった。
吸い込まれるように路地に入り込み、ドアノブに手をかける。
冷たくも、暖かくもない。
硬くも柔らかくもない感触。
捻ると、何の抵抗もなく回った。
開くと、視界が白く染まった。
「やぁ」
心地よく耳に入る、どこか懐かしい声。
「どうしてここへ来れたのかな?」
私も知りたい。だが、声の主は戸惑っている風も困っている声色でもなかった。
「私は…私は、どこに来たの?」
こちらから問いかける。
「ここは、どこかって?」
声の主は答える。
「ここは、君が求めるものがあるところさ」
「私が…求めるもの?」
私が求めるものを、この人は知っているのだろうか。
「そう。ここには何でもある」
声に曇りはない。
「私の欲しいものも?」
疑うことは、考えることがなかった。
「そうだよ。世界一の宝物も、無くした物も。なんでもあるんだよ」
「私の欲しいもの…」
そこで、思い当たる。
「私の………」
私の欲しいものを、私は知らない。
多分、誰も知らない。
「そう。君が思っている通りだよ」
「え…?」
戸惑いを感じたのは、いつ以来だろう。
「君は、欲しいものなんてひとつもない」
「だから僕には不思議だ。君がどうしてここへきたのか」
「この世界には、何かを求めるヒトだけが入ってくるはずなんだ」
声の主は、次々に言葉を発する。
「私は……ドアを見つけて、開けた」
「そしたら光が見えて…」
ありのままだ。偽りなんてない。
「…君は、まだ気づいていないだけみたいだね」
再び、戸惑う。
このヒトは、私を知っている―――
「君は、何かを求めている。それは確かだ」
声の主は、続ける。
「ここには、何でもある、と言ったよね」
「勿論、君が求めるものもある」
だけど…
「いくら求めても。そこに存在しようとも」
「手にできないものも、ある」
気づけば、涙があふれていた。
頬を伝わる熱い水は、どうして流れるのだろう。
「君は、失ったものを取り戻しにきた」
「だけどそれは、決して叶わぬ事」
背中のドアが、少しずつ開いていく。
閉じたのは私だけど、それからドアには触れていない。
「手にすることのできるものは、いつかはまた触れることができるかもしれない」
声は、少し弱弱しくなっている。
「だけど、触れられないものもある事、君にはわかるはずだ」
感覚が現実味を帯びてくる。
指先が冷たい。
「私…私は…」
忘れもしない。一年前の今日。
「そう。ここと同じ場所で」
私はあの時、絶望を感じた。
「それは、私が…」
いや、君が悪いんじゃない。
「でも…っ…」
あの時、彼と私を繋ぐもの。
彼が生まれたときに買った、大好きな赤い色の。
「"僕”も、あの色は大好きだったよ」
枯れたと思っていた涙が、また溢れてきた。
「でも、あんなものがなくても僕たちは、分かり合えていたよ」
小さな小さな間違い。
「だから、もう泣かないで」
寒さに震える手を、暖めるために。
「悪いタイミングが、重なっただけ」
手にしたロープを、少しだけ緩めた。
「あっ…」
声を出したときにはもう遅く、彼は私の手の届かないところにいた。
走って追いかけると、遊んでいると思ったのか。
もっと、もっと遠くへ駆け出した。
「だめっ!戻ってきて!」
今年初めて履いたブーツ。
久し振りの感覚で、躓いた。
「痛っ…!」
顔を上げると、彼は心配そうにこっちへ戻ってきた。
私は立つのも忘れて、手を伸ばす。
「ほら!こっちだよ!」
駆け寄ってくる、いつもの姿。
それっきり、当たり前にやってきた日常は戻ってこなかった。
「車が…横から…」
思い出して、嗚咽が勝手に漏れる。
「目の前で…動かなくなって…」
目を閉じると、あの時の光景がビデオのように描写される。
「何度も…何度も叫んで…」
それでも、もう起きなかった。
声を発することも、じゃれるように手を舐めることもなく。
「それっきり…冷たくなって…」
赤いロープが、また紅く染まって…
「それが、ここと同じ場所」
いつもの散歩道。
「僕は、この道も大好きだった」
靴屋を過ぎてから、少し歩くと私の家。
「歩いてきて楽しかったことと、もうすぐ終わってしまう寂しさが混じる道だったんだ」
それは、いつもの道。
「たまに違う道を通ってくれて、嬉しかったけど」
変わらぬ景色、変わらぬ日常。
「僕はやっぱり、この道が一番好きだった」
「…私も、大好きだったよ」
ねぇ、覚えてる?
君が初めて私と会ったとき。
あれは、私の一目惚れだったのかな?
覚えてるよ。
僕の一目惚れだと思ってた。
なんだ。最初から両想いだったんだね。
「僕が、君を誘い込んだんだね」
声の主は、静かに言う。
「君に会いたくてしょうがなかったから、かもしれない」
懐かしさと、愛しさが込みあがってくる。
「君も同じだったみたいで、とても嬉しいよ」
叶うのなら、今すぐ抱きしめたい。ずっと傍にいたい。
「でも…そろそろお別れみたいだ」
後ろにあるドアは、もうすぐ開ききるみたいだ。
「来てくれてありがとう。でも、もう会いにきちゃ駄目だよ」
それは、わかっている。
あの日から私達は、同じ所には居ない。
そして、どちらも、一緒に居てはいけないんだ。
「それじゃあ、僕は行かなきゃ」
…一年に一回くらいは、帰ってきなさいよ?
涙交じりの、とびきりの笑顔を送ろう。
「…うん」
耳に届くのは、もう言葉じゃない。
懐かしい、吠え方。
手を伸ばしたら、彼の頭を撫でたようで。
最後に、満足そうに、ワン、って聞こえた。
視界が、真っ白な光に染まった―――
「ただいまー」
外はすっかり暗くなって、いつもより帰りが遅くなっていたみたいだ。
「おかえりー。理恵、遅かったわね」
お母さんに心配をかけたようで、ごめん、と言った。
「あ、おかあさん」
安心して、台所に戻ろうとする母を呼び止める。
不思議そうに振り返る母に、一言。
「コロね、元気そうだったよ」
出典:オリジナル
リンク:オリジナル

(・∀・): 156 | (・A・): 43
TOP