メリークリスマス

2008/11/30 16:07 登録: えっちな名無しさん

「メリークリスマス!」と、その手紙には書かれていた
例年より寒さの厳しい十二月二十四日のことだ
僕はその日、珍しく妻より早くに起きた
枕元にある無骨な安物の目覚まし時計は六時少し前を指していた
時計が甲高い下品な音をたてるには、まだ三十分あった
妻はまだ隣で静かに寝息を立てている
髪先が顔にかかり、ときどきくすぐったそうに鼻をひくひくと動かす
呼吸するたびに、肩は僅かに上下した

毛布に包まれた彼女の体は、袋に押し込まれた豚の肉塊を想像させた
豚は死んでいて、それ自体はぴくりともしない
ときどき豚の体内にいる悪魔が暴れるのだ
ここから俺を出せ、と

僕は急に、横で眠りを貪る女の無神経さに腹が立った
息苦しくなるほど強烈な憎しみが胸に広がった
妻にそんな感情を抱いたのは初めてだった
友人の紹介でこの女と結婚してもう六年になるが、結婚生活はまず順調と言えた
もちろんそこには、いくつかの問題と衝突があった
僕たちは時に話し合いでそれらを解決し、時に我慢することで時間が解決してくれるのを待った
他の夫婦のことは分からないが、そう変わらないはずだ
どの夫婦もそうやって距離を縮めていくはずだ
僕は当然のように妻を愛していた

ただその瞬間だけは隣にある脂肪をどうしようもなく醜いと感じた
外見的な醜さではない
醜悪なのはその心だ。精神だ。魂だ
酩酊してしまうような腐りきった臓腑の臭いが漂ってくる気がした

それから僕はふと、それが本当の豚の肉塊ならどんなに良いだろうと思った
豚なら食ってしまえばいい
焼いて、煮て、茹でて、蒸して、食ってしまえばいい
後には何も残らない
残らない


僕は彼女を起こさぬよう、ぬるりとベッドを出た
冬の早朝のフローリングはひどく冷たかった
ハンガーに掛けてあったジャケットを羽織り、履き古したサンダルを履き庭に出た
庭といっても猫の額ほどの土地に、車一台分の車庫とポストがあるだけの閑散としたものだ
そこには鑑賞すべき築山も泉地もない
ただ必要最低限の実用性と機能性を備えただけの庭だった
それは僕と妻の結婚生活に似ているのかもしれない

低くたれ込めた暗い雲が空に覆い被さっている
乾燥した空気にも確かに雨の匂いが混じっていた
しばらくしたら雨になるということは、天気に対する知識のない僕にも容易に想像がついた

とにかく僕はポストを開けたのだ
四つ折りにされた新聞を取った
新聞の間から葉書サイズの紙が落ちた
それを拾い上げ、表裏を確かめるように二度三度返した

それは葉書サイズではあったが葉書ではなかった
画用紙のような手触りだったが画用紙ではなかった
和紙のように薄かったが和紙ではなかった
要するにどんな種類の紙であると同時に、僕の知るいかなる紙とも違っていた
紙の表面には(あるいはそれは裏面だったのかもしれない。どちらにしろ確固たる証拠はないし、ここでは些末な問題にすぎない)文字が書かれていた
端正な字だ
僕はその場で流し読みしてみたが、上手く内容を把握することが出来なかった
一文字一文字が別の言語であるかのような不思議な独立性を保っていた
仕事柄、文章を速く読むのは慣れているはずなのに、その文字列はほとんど頭に入ってこなかった
まるで卵の殼のような文章だった
ひどく無機質で、中身はどっか別のところに放られてしまっていた
諦めて家に戻り、コーヒーを入れ、リビングのソファに座って今度はゆっくり手紙を読み返した

『メリークリスマス!今日はとても大切な日です。私にとっても、もちろんあなたにとっても。なにも宗教的見地から言っているわけではありません
とにかく大切な日なのです。お気をつけください。これを忘れないでいただきたい。今はこれしか言えませんし、これ以上言うことはありません』
その他には住所も番地も差出人も何も書いてなかった
僕はコーヒーを一口飲み、もう一度最初から読み直した
大切な日?気をつけろ?いったい何のことを言っているのだ

三十分ほどして妻が起きてきた
僕はとっさに手紙をズボンのポケットにしまった
なぜそんなことをしたのか自分でも分からなかった
だってそんな必要はどこにもないのだ
こんな手紙が来たと、苦笑しながら、あるいは訝りながら彼女に教えるだけでいい
きっと彼女は「いたずらかしら」と言う
それで終わりだ
僕の中から手紙は消え去る
しかし僕はそれを隠した
妻の足音が聞こえた瞬間、不可解な呪縛が僕の腕を縛り、意識を縛った

「おはよう」と僕は伏せていた顔を上げた
「おはよう、今朝は早いのね」と妻は言った
妻はそのままキッチンに行ってコーヒーを淹れている
僕はその間、手紙のことをどう話そうか考える
手紙を見せるタイミングからセリフ、口調、間、視線、表情
出来る限り自然に振る舞えるよう、まるで嘘をつく子供のように何度も何度も脳内でシミュレーションする
そうだ、何も難しいことはない

結局妻がリビングに戻ってきた後も、手紙のことは言い出せなかった
僕の手は錆び付いて完全に制止する直前のロボットのように、膝の上をぎこちなく這い回るだけだった

その夜、夢を見た
暗く深い海の底のような重たい夢だった
僕は洗面所にいた
目前では黒のミディアムドレス姿の妻が鏡を覗いて化粧をしている
彼女は僕の存在に気付いていない
おそらくここには僕の実体はなく、意識だけが波間に漂うゴミのようにぽっかりと浮いている状態なのだ
現に鏡に映るのは妻の姿だけだ
「大丈夫よ、絶対に気付かれてないわ」と妻はファンデーションを塗りながら言った
僕に言っているわけではない
鏡の中の自分、あるいはその先にいる何者かに語りかけている
「彼は石ころのように愚鈍な男だもの、私のことなんか何にも知らないんだから」
妻は口紅を馴染ませる
それから赤い小瓶に入ったオーデコロンを軽く振りかける
見たことのない小瓶だった
もっともドレスも口紅もオーデコロンの小瓶も僕は見たことはないし、彼女がそれを持っていることすら知らなかった

僕は本当に彼女のことを何も知らないのだ
六年間で僕たちが積み上げたのは、いや積み上げたと思い込もうとしていたのはただ結婚していたという空虚な事実だった

「大丈夫、絶対に気付かれていないわ」
鏡の中の彼女は深く深く笑っていた

目を覚ましたとき、外は相変わらず灰色に光っていた
銀色の矢のような細かい雨が静かに降っている
今夜はホワイトクリスマスになる可能性が高いと、テレビの気象予報士がまるで自分の手柄のように言っていた
僕はなぜか夏目漱石の『夢十夜』を思い出していた
確かあの作品の中に男が豚の大群に襲われる話があった
男はステッキで豚の鼻面を叩いて谷底に落としていくが、最後には力尽きる
僕はその男のことを思い、急に不気味な笑いが込み上げてくるのを感じた
くつくつと笑っていると、隣の妻が目を覚ました
突然重力が増し這いつくばることしか出来なくなった人間のように、気だるげに体を起こしている
もう憎しみは微塵もなかった
そうだ、僕はこの女を愛しているのだ
「メリークリスマス」と僕は喉の奥で小さく呟くように言った
大丈夫、何も気付かれてはいない
何も気付かれてはいない


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