サークルの大学生と 肆
2009/01/25 23:55 登録: えっちな名無しさん
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アヤの部屋でキスをした後は、
二人とも何となく吹っ切れたような、
さっぱりとしたような雰囲気になった。
例えてみれば、引越しや大掃除をしたような、
念頭にあった懸念が解消されたような、そんな感じだった。
二人きりで部屋の中で、となれば、
そのまま肉体的な方向に進みがちだが、
それは、どちらの心にもなかったように思う。
そうした欲求を持つほど、
俺達の間に愛情というものは育ってなかったのではないか。
二人とも捨てきれない
己の感情を振り払うのに懸命だった、と俺は結論付けている。
頼んだピザを食べ終わって一時間もしたら
雪が小降りになってきたようなので、俺は帰り仕度をした。
アヤの部屋にいたのは、三時間程度だった。
それから、
すぐに大晦日が来て何事もなく年を越し、冬休みが終わった。
アヤからは、一度だけ、
映画に行かないか?というメールが来たが、都合がつかず断った。
エリとは会っていない。
年が明けると急に時間の流れが速くなったように感じた。
授業の始まった大学は、すぐに後期試験を迎えた。
単位に関して、俺は殆ど問題なかったから、卒業を待つだけだった。
卒業式が近付くと、
周りは最後の学生生活を惜しむような盛り上がりを見せた。
必要以上に浮き足立って、
飲み会や打ち上げという名の誘いが来た。
俺は同じ学部の友人やゼミの飲み会を優先させて、
サークルの飲み会には行かなかった。
この頃は授業もなかったし、春から仕事に就く為の準備があって、
自分が学生なのか社会人なのか認識しづらい立場だった。
春になった。
いつの間にか卒業していて、いつの間にか社会人になっていた。
四月から六月の三ヶ月間の記憶は、殆どない。
あの頃は何をしていたのだろうか。
覚えていない。
思い返そうとしても思い出せない。
不思議だ。
残っているのは、ほんの断片的な記憶だけで、
それを、どう繋ぎ合わせても
当時の自分を再生出来そうには思えなかった。
職場と家を往復して、仕事に慣れる事で精一杯だったし、
もしかしたら、毎日、同じ事を繰り返していたせいで、
記憶が圧縮されているのかもしれない。
仕事を始めた事で、自分の行動範囲が変化した。
職場と大学は方向が全く違っていたから
住んでいる場所は変わらないのに、
それまで会っていた人に会わなくなったし、
行った事のない場所に行くようになった。
エリにもアヤにも会っていない。
それどころか、大学時代の知り合いとは誰とも会わなかった。
ある日の仕事帰り。
夕食を摂ろうと立ち寄った店で、
大学時代のバイト仲間と偶然再会した。
彼も社会人になっていて、
懐かしい思い出話をしながら連絡先を交換した。
近況を語り合うと、互いを励ましあうような言葉を交わした。
「また会おう」
彼は別れ際に笑顔で言った。
新しい仕事。
新しい人間関係。
自分を取り巻くものが急激に変化していく。
そんな生活環境や交友範囲の変化は寂しくもあり嬉しくもあった。
新人研修が終わり、夏を迎える頃には、
俺の中に多少の余裕が生まれるようになった。
相変わらず忙しい毎日だったけど、
おそらく、体の方が慣れてきたのだろう。
七月下旬。
エリからメールが来た。
話したい事があるので、少し時間を作ってほしい、という内容だった。
何度か連絡を取り、約束の日を決めた。
八月に入ったばかりの土曜日は半袖でも足りないくらいの暑さで、
陽が落ちても、そこら中に熱気が満ちていた。
エリとの約束の五分前に待ち合わせ場所に着くと、
彼女は既に来て、俺を待っていた。
彼女と会うのは、もう半年振りで、
メールなどの遣り取りはあったから全くの音信不通でもなかったけれど、
こうして面と向かうと半年という時間の経過を思い知らされた。
エリの短かった髪は、
肩にまで届くくらいになっていて、それを縛って纏めている。
最近になって使い出したのか、
縁の細い赤い眼鏡が彼女をとても知的に見せていた。
飾り気のないノースリーブにジーンズという格好だったのに
女らしい色気を感じる。
待ち合わせたのは彼女の大学に近い場所で、
そこから歩いてすぐのレストラン兼バーみたいな店に入った。
そこは、
昔のアメリカ西部地方みたいなのをイメージしているのだろうか。
内装や店内の小物にも、そういう雰囲気が感じられた。
席に着くと、
近況報告のような世間話のような愚痴のような会話が暫く続いた。
彼女は大学院に入ってから、昔以上に忙しくなったみたいで、
今日の予定は彼女の都合に合わせて計画されたものだった。
会話が一通り済んでしまうと、エリはアヤの話を持ち出した。
「俺くんって、最近アヤに会ってる?」
「いや、何となく忙しくて会ってないね」
「連絡は取ってるの?」
「たまにメールが来るくらいだけど……どうして?」
「んーー……」
彼女はグラスを両手で包むようにして、その中を見詰めている
何となく言い難そうな様子だ。
俺は、先を促した。
「なんか……最近、元気がないみたいなんだよね……」
彼女が言うには、アヤと連絡をとっても、今ひとつ元気がない。
最初は仕事がキツイのか、とか悩みでもあるのか、とか
色々考えていたけど、どうもはっきりした事はわからない。
良かったら俺が様子を窺うなり、
遊びに誘うなりしてあげてほしい、という事だった。
俺は、それに反対するような疑問を投げかけた。
「俺が誘っても効果ないんじゃないの?」
「そんな事ない」
「だって、仕事が上手くいかない……
とかって話なら俺にはどうする事も出来ないよ。
他にも、んー……例えばアヤちゃんに何か悩みがあったとして、さ。
俺が何かして、どうこうなる問題じゃないと思うんだけどなぁ……」
俺は考えた。
おそらく、
アヤも環境の変化に戸惑っているだけではないのだろうか。
きっと、
職場の人間関係や風習に驚いたり、当惑したり、悩んだりしながら、
懸命に自分を適応させようとしているのではないだろうか。
俺と同じように。
女性の方が、些細な事に敏感でうるさい人間が多い、と聞く。
そういう人が周りに多いのではないか。
きっと、職場に溶け込もうとする毎日に、神経をすり減らし、
エリの誘いを受け入れる余力が残っていないだけではないのか。
勝手な想像だったが、俺はアヤの状態を、そう判断した。
アヤも俺も似たような状況なのだろう、と。
俺だって大学の友達には会っていない。
今日だってエリから誘われなければ、自分からエリに声を掛けて、
食事でも行かないか、なんて誘う事はしなかっただろう。
そこまでの余裕はない。
しかし、その点、エリは違う。
彼女は自分の通う大学の院生になった。
通学場所も変わらない。
専攻内容も変わらない。
多少の変化はあるだろうが、
俺やアヤが体感しているような変化とは雲泥の差なのではないか、
と思っている。
だから、エリの話を聞いてもアヤに味方をしたい気になった。
すると、彼女は意外な話をし始めた。
「前にさ……去年の年末かな。
ほら、三人で食事に行こうって話が私の用事で
キャンセルになった時があったでしょう?」
忘れるはずがない。
あの雪の日だ。
「私の用事が終わらなくて、やっと全部片付いて、
時計を見ると十時近かったのかな。
それで、一応アヤに電話をしたのよ。
ごめん、今、終わったって。今日はホントにゴメンって。
……そうしたら、あの子、別にいいよって言ってくれて。
後になって、会った時に、もう一度、その話をしたの」
それは初耳だった。
俺は手元のグラスを握り締めて、彼女の話に耳を傾ける。
「アヤは全然気にしてなくて、
でも私、あの子が、その日を楽しみにしていたのを知っていたから、
気にしてないはずはないなって思って、
もしかしたら、俺くんと、いい感じになったのかな、とか思ったりしたの」
俺は、その発言に面食らったが、続きを促した。
「アヤは、色々考えてた事があったけど、
俺くんに話してスッキリしたって言ってた。
少し救われた、というか、慰められた、というか、
そんな意味の話をしてたよ。
俺くんが何て言ってアヤを励ましたのか知らないけどさ、
あの子にとっては俺くんの存在って大きいんじゃないかな。だから……」
彼女の瞳が揺らいだように見えた。
頬は紅潮している。
「だから……きっと、私には言えなくても、
俺くんが訊けば話してくれる事もあるって思うんだよね。
ちょっと悔しいけど……」
彼女は、そこで言葉を切って
目の前のグラスを取り上げて口をつける。
ジントニックだったか。
透明な液体が少しずつ減っていく。
俺も、それに倣って自分のグラスを口に運んだ。
(悔しい?)
最後の言葉の意味はわからないが、
昔から仲の良いエリよりも俺の方に心を開いている部分がある事に
彼女は不満があるのだろう、と解釈した。
それから彼女は、こんな話をした。
「あの子って大学入った頃から見ているけど、
ちょっと変わった子でさ……」
(ちょっと、か?)
俺は言いかけた冗談を仕舞いこむ。
「何て言うか、
悪く言うと自分勝手っていうかマイペースって言うかさ、
天然って言うか、とにかく、そんな感じなんだよね。
友達同士で食事をしようって時に、
『どこの店に入ろうか?』ってなるじゃない。
そういう時に一人だけ『あそこがいい』って
皆の希望とは全然違う店を主張したり、
グループで研究テーマを決める時でも
『これがしたい』って譲らなかったりしてね。
で、女の子って、そういうのを嫌うからさ、
一年もしない内に自然と学科で孤立しちゃってね。
外見は可愛いから男は寄って来るんだけど、
でも彼女の性格を見ちゃうと『我儘』って映っちゃうみたいでさ、
なかなか長くは続かなくて……」
彼女の話は、俺の知らないアヤの姿を浮かび上がらせてきて、
俺は自分の中の『アヤ』という存在を再考しなければならなくなった。
「でも、私は、
あの子の、そういう、はっきりした所が好きだったから
付き合いやすいって思ってたんだけど、
他に、そう思ってくれる子はいなくて。
私は私で仲の良い子がいたから、アヤに紹介したりするんだけど、
どの子も、『嫌だ』とまでは言わないんだけど、
アヤとは合わせづらいから、
友達としては、ちょっと……って言われたりして。
アヤの方にも、もう少し周りに歩み寄りなよ、とか言ったけど、
『私はこれでいい』って言われちゃうと、もうどうしようも出来なくてね」
彼女の表情に悲しげな色が宿る。
「で、そういう時に、あのサークルの話を聞いてさ、
試しに参加してみようってなったんだよね。冷やかし半分で。
でも、行ってみたら思った以上に居心地が良くて、
二人で『いい所だね』なんて言ってさ。
俺くんもわかると思うけど、
決まりとかもないから自由だし束縛もないから、
アヤも大学で感じるような窮屈さは感じなかったんじゃないかな。
あそこにいる人は初対面でも気楽に話せたからね」
それは、俺も良くわかる。
彼女の語ったサークル評は、
正に俺が、あのサークルに対して感じていたままで、
彼女が自分と同じような思いを抱いているのを知って、
更に親近感が増したように感じた。
今になって思うが、あのサークルの常連は変わった人間が多かった。
若い男女が集まっているのに、
会話の内容は研究関係や趣味的な話題が多くて
恋愛の割合は極端に少なかった。
時々、恋愛志向の強い人間が参加してくる事もあったが、
そういうものを第一に求めている人は次第に来なくなったものだ。
元々、恋愛的な出会いを求めていなかった自分は、
その雰囲気を好ましいものと思っていたので何度も参加したし、
参加者達の互いを必要以上に干渉しない姿勢も
居心地の良さを演出させるのに役立っていたように思う。
振り返ってみても、
俺は、あの会に参加して、あの場で必要以上に
自分のプライベートな部分について訊かれた事はなかったし、
不快な思いをした事もなかった。
「その内、誰かは教えてくれなかったけど、
アヤから好きな人が出来たって言われた時は、
あー……この子も、なんか変わってきたなぁって思ってたんだけど、
俺くんに送ってもらったりして、他人に迷惑かけたりするような所は
変わってないなぁなんて思ったり……」
「言うほど迷惑でもなかったよ」
俺は昔を懐かしむ。
思い返せば、腹を立てるような事ではなかった。
今では、いい思い出だ。
「そう言ってくれると私も助かる。
きっと、あの子も、俺くんが怒らないし迷惑そうじゃなかったから、
頼ったり出来たんだと思うんだ。
だから、そういう意味でも俺くんには心を許してるんじゃないかな」
「それは言い過ぎだよ」
「そうかな?」
「そうだよ」
「私は違うと思うけどな。
あの子にとっては、俺くんって一番の男友達だと思うよ」
「そうかなぁ……」
「うん、きっと、そう。だから、もし忙しくなくて俺くんが嫌じゃなければ、
話し相手とかになってあげて欲しいんだ」
「わかった」
俺は彼女の要望を受け入れて、
なるべくアヤと連絡を取っていくようにしようと決心した。
俺とアヤの家は駅で二つ離れている上に、
職場も逆方面だから帰りに待ち合わせる、というのも難しい。
その上、休みや生活時間も合わない事が多いから、
会えたとしても、きっと短い時間だろう。
ゆっくりした時間を取ろうとすれば、
連休とか夏休み、年末年始とかに限られるのではないか。
しかし、メールをする回数くらいは増やせるだろう。
とにかく、様々な問題点はあるが、
アヤとの接点を意識的に増やしていこう、と思い始めたのは、
エリと会った、その時からなのは確かだった。
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エリから話を聞いた後は、
不自然でないようにアヤへのメールの回数を増やし始めた。
最初は、「何してる?」とか「最近どう?」みたいな
軽い感じのものや自分の近況を報告するようなメールを送った。
彼女も俺に呼応するように返事をしてくるようになると、
次第に遣り取りが増えていった。
その結果、
エリと会ってから一週間後の盆休みに二人で会う事になった。
帰省で閑散とした駅ビルの中にあるレストランで昼食を共にする。
そこは、アヤの家に近い駅で、
ちょうど年末に三人で食事をしようとした場所の辺りだった。
待ち合わせたビルの前で、
暇そうな受付嬢をガラス越しに眺めながら立っていると、
向こうから見慣れた姿のアヤがやって来た。
ノースリーブにスカート、短いヒールを履いている。
夏らしい、女らしい格好だ。
それは、去年の夏も見ていた彼女の姿で、
一年経っても変わらないな、という印象を受けた。
「お待たせ」
彼女は、そう言って、軽く片手を上げた。
俺達は中に入って、エレベーターで上がっていく。
目的の階に到着すると、洋食の店を選んだ。
店内は、外と同じく空いていて、窓際の席に座る事が出来た。
良く晴れて、青い空を埋め尽くすように雲が広がっている。
表の景色を眺めながら、ぽつりぽつりと思い付いた事を話し出す。
年が明けてから、ちゃんと彼女に会うのは初めてだ。
卒業までは、
何度か機会がない訳ではなかったが、会わずに今に至る。
何となく都合が合わなくて会いそびれていた印象があった。
それでも、隔絶の感がしないのは、メールの御蔭か。
細かい事はわからなくても
大まかな事情なら理解しているような気がする。
話し始めると、益々昔に戻ったような気になった。
明るい声や、笑い方、口振り、仕草、
どれを取っても、俺の知っているアヤのままだ。
悩んでいるような素振りも見えない。
ただ、話し振りから少し仕事に疲れているようにも感じられた。
俺は、あまりに自然にアヤとの会話に入っていけたので驚いた。
もう少しぎこちなさがあるかと予想していたからだ。
そして、暫くすると、
どこかに彼女の変化した部分を探し出してやろうという
意地悪にも似た気持ちが湧いてきて、
長時間の探索の末、漸く、化粧の仕方が大人っぽくなった、
などという微小な発見をして嬉しくなった。
それは目元を強く見せるようなメイクだった。
改めて、見直してみると、
より彼女の眼差しが強調されているようで、
ただでさえ目立つ部分が一層引き立って
吸い寄せられるような気持ちになった。
彼女は、よく笑って、よく食べた。
俺も同じようにした。
それから一時間ほど過ごして、エレベーターに乗った。
下の階で、洋服や雑貨を見ながら他愛もない雑談を繰り返す。
夕方には彼女と別れた。
予想通り、何か収穫を得られた、という感覚はなかった。
エリに話した通り、これで何かが変わるような感じもなかったし、
アヤも俺との事を特別喜んでいるような様子にも見えなかった。
極普通の友達同士の食事だ。
傍から見ても、そう見えるだろう。
しかし、これでエリが満足するなら、
それでいいのかもしれない、と自分を納得させた。
俺からのメール回数が増えたせいか
盆の食事のせいかわからないが、
秋にかけてアヤとのメールの遣り取りは頻繁になった。
俺は、その中で、
何か話したい事があったら、いつでも聞くから、というような
ニュアンスを織り交ぜながら気長にアヤの様子を窺っていた。
だけど、メールを繰り返すだけで、
あれからアヤに会う機会は一度もなかった。
そうして二ヶ月が過ぎた。
秋が終わり、冬が始まろうとしている。
俺は仕事に大分慣れてきた。
付き合いづらい人がいたり、
人間関係は必ずしも良好とは言えなかったが、
仕事が落ち着いてきた事もあって
毎日を無難に過ごせるようになってきた。
アヤも俺と同じように仕事に慣れてきたのか、
吹っ切れたような様子のメールが増えた。
その頃、俺に重大な変化があった。
春先に再会した学生時代の友人がきっかけで、
ある女性と会う事になった。
それがアヤに話した人だ。
彼女から連絡が来たのは数年振りで、
最初にメールが届いた時は随分驚かされた。
それから、
何度かメールや電話の遣り取りをして直接会う約束を交わした。
連絡を取り始めた当初は、
近況報告などの遣り取りでしかなかったが、
暫くすると彼女の方から会いたい、と言ってきた。
数年振りに会うという事に、
俺の中で若干の抵抗があったものの
最終的には好奇心の方が勝った。
彼女は、どうなっているのだろう。
俺は、彼女にどう映るだろう。
そんな経緯があったので、
最初に彼女からメールが届いてから
会うまでに一ヶ月近く時間がかかってしまった。
待ち合わせ場所は、
彼女の指定に従って俺の家から少し離れた駅になった。
そこは、暫く行っていない方面だったが、
以前住んでいた場所に近く
土地勘がある事もあり問題なく辿り着けた。
俺は約束の時間より大分早く着いて彼女を待った。
待っている間、俺を支配していたのは複雑な感情で、
時折、やはり来るべきじゃなかったんじゃないか、という後悔に近い念と、
逃げ出したいような気持ちと、それから彼女がどうなっているだろう、
という期待に似た気持ちと様々だった。
待ち合わせの十分前に、彼女はやって来た。
髪は少し伸びていたが、
俺の記憶と変わりないその姿に、
何故か温かいものが込み上げてくる。
俺は咄嗟に目を擦った。
彼女の姿だけではなく、色々なものが俺の神経を刺激する。
太陽や風や街並み。
見るもの全てが、あの頃と同じだった。
夢のような、幻想のような、情景。
既に俺が待っている事に彼女は驚いていた。
最初に交わした言葉は覚えていない。
どちらからともなく話し出して、
そこから少し歩いた場所にあるファミレスに入った。
食事をしながら、御互い語り合う。
俺の話す内容の多くは謝罪に近い意味の言葉ばかりだった。
彼女は笑って、それを許してくれた。
ガラス越しに外を眺めると、
同じパンフレットを持った人達が行き交っている。
どうやら映画のパンフレットのようだ。
土曜だから何か新作が公開されたのだろう。
そう言えば、近くに映画館があったな。
その日は、
これまで送り合ったメールの内容をなぞるような話をした。
既に知っている内容ばかりだったが、
文章ではなく直接話をする事に意義があるように思われた。
途中まで彼女を送って、別れた。
帰り道は、とても晴れやかな気分で、
家を出た時のような重苦しい気持ちは微塵もなかった。
その心境の変化を、
我ながら何て勝手なんだろう、と胸の内で苦笑した。
師走に入ると、アヤに会うより彼女と会う機会の方が増えた。
アヤとは、全く連絡を取らない訳ではなかったが、
彼女と比べるとメールの量も電話の回数も比較にならなかった。
俺は時間が取れない事が多かったが、
彼女は俺よりも時間的に余裕があったので、
俺の都合に合わせてくれた。
俺達には、空白があった。
だから、一緒にいる時間と交わした言葉で、
その空白を一所懸命に埋めようとした。
毎日、連絡を取った。
電話はするし、出来なければ最低でもメールは送った。
その内容は次第に濃いものになっていく。
会えば、短い時間でも話し込んで、
街中で歩く時には手を繋ぐようになった。
二人の間の溝は、いつしか埋まってなくなっていた。
俺達は恋人同士として交際を始めた。
それから二、三週間が過ぎて冷静になってくると、
不意にアヤの事が頭に浮かんできた。
彼女との事に浮かれてアヤの事を考える余裕がなかったが、
アヤは今の俺を見て、どう思うだろう?という思いに囚われ始めた。
その度に思い出すのは、あの雪の日だった。
ちょうど一年前の今頃だったのが、余計に生々しく思い出させる。
去年の、あの雪の日にアヤと交わした約束は何だったのだろうか?
二人で、過去の亡霊を振り払ったのではなかったのか?
そうして、新しい未来の自分に思いを馳せよう、
と話したのではなかったのか?
そう思わないではいられない。
そんな風に考えると、
アヤが今の俺の状態を知っても、きっと喜ばないだろうと思うし、
エリも同じように考えても不思議はない気になった。
誰かが悪い訳ではないのかもしれないが、
何となく俺だけが抜け駆けをしたような気になって、
それからは、彼女といてもアヤやエリの顔が突然、
頭に浮かんでくるようになった。
そうして思い悩んでいる内に、年が押し迫ってきた。
俺は、いつか機会を見て、アヤとエリに
俺達の事を話さないといけないな、と漠然と考え始めた。
具体的な方法は思い付かなかったが、
年が明けたら、折を見てアヤを呼び出そうと思っていた。
それとも、それより前にエリと話をして、
アヤに、どう話したら良いか相談しようか、とも考えていた。
年が明けた。
初詣は彼女と二人で行った。
電車で三十分くらい行った所にある神社だ。
元日の昼間に出かけたが、晴天のせいか、かなりの人手だった。
開けた場所にある神社なのだが、
参道は人で溢れ、押されながら、
どうにか参拝を済ませた時には御互い疲れ切っていた。
帰り道、人の流れの少ない場所で立ち止まった。
運良く座れるような場所が見付かったので、並んで腰掛ける。
俺は、隣にいる彼女を気遣った。
「疲れたね」
「……うん」
彼女は少し疲れているように見えた。
「大丈夫?」
「平気」
「疲れたら言ってね」
「……ありがとう」
「あ、何か飲み物でも買ってこようか?」
俺は立ち上がって、
近くの自動販売機で温かい飲み物を買う。
二人並んで、それを口にした。
「あったかい」
「少し落ち着いた?」
「うん」
「人が多くて歩きにくいから疲れるんだよ」
「そうかもね」
「もっと空いてる神社に行けば良かったね。ごめん」
「確かに、ちょっと疲れたけど……楽しいからいい」
「そう?」
「うん。暫く座っていれば元気になるよ」
俺達は、そのまま十分ほど座って
ぼんやりと道行く人を眺めながら話をしていた。
俺は、彼女が無理しているんじゃないだろうかと心配したが、
彼女は、それを否定した。
「こんなに人がいるって思わなかったから、
ちょっと疲れたけど平気。
……それよりも去年の今頃は、
俺さんと、こうしてるなんて思ってなかったから、
……なんか不思議な気がする」
駅までの帰り道は、広い通りが中央で区切られていて、
参拝に向かう人と帰る人の流れを綺麗に分断していた。
俺達は帰る人の流れに乗って歩き始める。
二、三列程度に広がって駅に戻る人の流れのすぐ隣を、
神社に向かう人達が同じように広がって歩いていく。
道は広く、見通しはいい。
俺達は駅に向かっているので、
これから神社に向かう人達が良く見える。
すると、遠くの方で知った顔を発見した。
その神社は、
場所柄、地元の人間が足を運ぶ割合が高かったから、
過去に何度か知り合いに会う事も少なくなかったが、
その時ばかりは心臓が縮む思いがした。
彼女に悟られないように何度か遠目に確認してみたが、
何回見ても、それはアヤに間違いなかった。
視界に入った瞬間から、その服装や髪型に見覚えがあった上に、
隣にいるのがエリだと気付いた時には人違いではないと確信した。
俺は、その時、反射的に隠れそうになった自分を恥じた。
しかし、このまま彼女と一緒に
エリ達の前に顔を出す心構えは出来ていなかった。
彼女の手を解いて他人の振りをする訳にもいかない。
俺は、なるべく彼女達に遠い位置を歩くように左側へ寄った。
彼女を強引に押すような形になってしまったが、
彼女は俺に押されるままに流されて行く。
彼女は背が低いので、
こうして遠くに押しやって俺が壁のようになれば、
アヤ達の目に留まる可能性は低いだろう。
そうして、
俺は俯き加減に歩いて、その場を遣り過ごそうとした。
エリとアヤは談笑しながら、やってくる。
混雑している為、道の流れは、ゆっくりだったから
何かの拍子に同じ方を向けば簡単に見付かりそうだ。
周りには他にも大勢の人がいたが、
俺は二人にだけ意識がいっていたので、
まるで群衆の中から二人の会話や仕草だけは
違う周波数で俺に届いてくるような感じがする。
同じように、俺が少しでも声を立てれば、
簡単にアヤ達に聞き取られそうな気がして声を潜めていた。
心持、左を向きながら
右半身は針のようになってアヤ達を警戒する。
(どうか、この場は見付かりませんように)
そう願いながら、下を見て歩く。
その甲斐あってか、
どうにか気付かれずに擦れ違う事が出来た。
俺は安堵して小さく肩を落としたが、
彼女は、それに気付く事なく鼻唄を歌いながら
繋いだ手をブラブラと揺すっていた。
初詣の件があってから、
彼女の事を二人に話さないといけない、
という思いは俺の中で急速に大きくなっていった。
だからと言って、
どこから切り出せば穏やかに済むのか、いい考えは浮かばなかった。
どう話しても無事に済みそうにない予感がする。
俺がありのままを話せば、きっと、
アヤは雪の日の事を思い出して沈んだ感じになるのではないか。
最近のメールなどから判断すると
現在アヤには彼氏がいないようだし、
昔の男を忘れて建設的に生きようとしている所へ、
同じように話し合った友人が、
全く逆に過去の女と結ばれていたら一体何と思うだろうか、
取り残された感じがしないだろうか、などと考え始めると、
気が重くなって一向に連絡を取ろうという踏ん切りがつかなかった。
決して悪い事をしている訳ではない。
誰にも後ろ指を指される覚えもなかった。
それでも、一方で、どこか、あの日の二人に対して
申し訳ないような気持ちにならざるを得ない自分がいる事も確かだった。
帰宅途中は、大抵アヤの事を考える。
そうして、二週間が過ぎてしまった。
相変わらず、どう連絡を取ろうか、
と算段している所へ俺の携帯が鳴った。
画面を見ると、アヤからのメールで、
内容は至ってシンプルなものだった。
『会って話したい事がある』
出典:オリジナル
リンク:オリジナル

(・∀・): 65 | (・A・): 21
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