今日俺が一人で近所の公園でリフティングをしてたら2
2009/03/07 01:04 登録: えっちな名無しさん
今日、俺が一人で近所の公園でリフティングをしてたら、
高校の練習を終えた兄貴が顔を見せた。
「おー今日もやってるな、少年」兄貴は白い歯を見せて俺に笑いかけた。
「なんだよ、少年って。自分だって少年だろまだ」
俺はガキ扱いされた事が気に入らなくて文句を言った。
「まぁ、そうかな。でも俺の場合はその前に”天才”がつくけどな。ははっ」
「ちぇ、調子に乗っちゃってさ。ちょっと上手いからって」
「まぁまぁ。久しぶりにやろうぜ。俺からボールを取れたら何でも奢ってやるよ」
兄貴は余裕綽々で言う。しかし、その余裕が過信ではない事も俺は知っている。
「さぁ、来いよ、優司」そう言って足元にボールを置いた。
俺は兄貴に向かって突っ込んでいった。兄貴の右足元にボール。俺は足を出す。
兄貴は右足の裏でボールを後ろへ引き反転。速い。まるでダンサーの切れのいいターンのように。
すかさず俺はフェイクを入れて揺さぶる。
肩を動かして右に突っ込むと見せかけて釣られたら逆からボールを蹴り出そうとする。
…かかった。兄貴に隙が出来る。しかし、読まれていた。
俺のカットは空を切った。バランスを崩し、よろめく。
「まだまだ!」なおも俺は食い下がる。しかし兄貴は苦にもしない。
俺だってそんじょそこらの高校生には負けないのに。部活じゃエースなのに!
「はぁー…。もう無理だ…」俺は両手を膝に付き、肩で息をする。
この何の利益ももたらさない運動が無駄に思えてくる。
「やれやれ。根性ねーなぁ。ガッツが足りないぞ。『男はガッツと脳みそだ』と、トルシエも言っている」
兄貴は笑顔を変えずに俺に言う。
「俺はトルシエは嫌いなんだよ…。って、チャーンス!」
俺の思いつく限りの悪あがきだった。兄貴は油断している。そこへ全力で突っ込む。
足ごと刈り取る勢いのスライディングタックル。かなり手荒いがもうこれしかない。
「っと!」兄貴は虚を突かれた。よし、最悪ボールは取れなくてもこれならこぼれる。
しかし実戦だったら赤紙覚悟の俺のラフプレーも徒労に終わる。
兄貴は右足のつま先でボールをヒョイと蹴り上げると半拍遅れて左足で大地を蹴った。後方に。
兄貴とボールは平行の軌道で小さな二つの虹を描く。
そしてボールを着地と同時に右足の甲と脛でロック。
一度もボールを地面に落とすことなく、俺のタックルをかわして見せた。
「すげー。漫画みたい…」地面に這いつくばっている俺は兄貴を見上げる。
「なかなかいいマリーシアだったぞ。でもラフプレーは感心しないな優司。罰としてジュースを奢れ」
「ええ〜!?」
「さ、帰るぞ。腹減ったよ」俺が反論するよりも早く、兄貴は俺に背を向けてスタスタと歩き始めた。
小野の再来、埼玉のロナウジーニョ、若きファンタジスタ。地元では兄貴はこんな風に呼ばれてる。
いくらなんでも高校生を持ち上げすぎだと思うけれど、
こうやって兄貴とプレーをしていると大袈裟な異名をつける奴の気持ちも解かる。
俺の3つ上の兄貴、本庄総一郎は多分天才だろう。
サッカーの強豪、南浦和学院のエースにしてUー17日本代表。背番号はどちらでも当然10番。
気の早い地元のサッカーファンや地域のマスコミには、
「5年後には俊輔の次の日本の10番、2010年のエース」なんて言われてたりもする。
帰りの道すがら、夕焼けの赤が濃くなる地元の商店街を二人で歩いていると、
「おう、総くんに優くん、今帰りかい? 総くん、もうじき選手権だろ? 応援行くからね! 国立まで!」
定食屋のおじさんだ。店の前を掃除していたようだ。この辺では有名なサッカー狂。
兄貴の才能に最も早くから気付いていた、という事が自慢らしい。
去年も一昨年も国立まで応援に来ていた。
「斉藤さん、国立は全国で4強に入らないと。それにまだ予選だよ〜」兄貴は苦笑する。
「何言ってんだい、総くんなら今年こそ優勝出来るって。優勝、得点王、MVPの三冠王さ! 間違いない!」
斉藤のおじさんのボルテージはヒートアップしている。本当に兄貴とサッカーが好きみたいだ。
「そんな、嘉人さんじゃないんだから」兄貴は笑う。
「嘉人さん」という親しみを込めた呼び方に少し嫉妬する。
兄貴はあの大久保嘉人とも知り合い。
ユースの合宿の時、Jビレッジで一緒になって何度か話した事があるらしい。
「いや、総くんならもっといけるね。大久保よりも。そうそう、平山の選手権最多ゴールも破れるね!
あ、来年は優くんも南浦和に入るんだろ? 兄貴は凄いけど負けるなよ!」
斉藤さんは大きな腹をゆすりながら豪快に笑った。
「まったく、斉藤さんの期待はいっつも天井知らずだからなぁ…」
兄貴は困ったように笑うが満更でもなさそうだ。
「それだけ認めてるんだよ、兄貴の事」
「でもさ〜。もう選手権優勝して、将来絶対A代表に選ばれると信じてるよあの人は。
いや、いい人なんだけどさ」
「まぁ、斉藤さんじゃなくても兄貴見てるサッカーファンならその気持ちも解かるよ」
「まぁな。みんなの期待に応えないと」兄貴は胸を張って言った。
嫌味に聞こえないのもこの男の魅力なのだろうか。
「あの〜、すいません」唐突に3人組の女子高生が俺達の話を切って兄貴に話しかけてくる。
「ん? 何?」
「えっと、本庄さんですよね? 南浦和のサッカー部の」
女子達は恐る恐る、しかし目を輝かせながら兄貴に話しかける。
…またか。
「うん。そうですよ」
「やっぱり! 日本代表なんですよね!? すご〜い!」
「いや…別にA代表じゃないからさ」
「うわーテレビで見たことある〜! 背たか〜い! 超カッコいい〜!」
「顔小さい〜! 雑誌よりカッコいい〜! すいません、握手してもらえませんかぁ!?」
…聞いちゃいねぇ。
俺は少し離れて兄貴の即席ハーレムを観察。羨ましくないと言えば嘘になる。
「写メ撮ってもらえませんか? てゆーか彼女いるんですか?」
「あ、それ聞きたい! てか、プリクラも撮りたい!」
「サインして下さ〜い!」
女子高生達は大はしゃぎだ。正直、カッコよくて有名なら誰でも良さそうだ。
まぁそれだけでも相当凄い事なんだけど。そして兄貴の周りに人が集まりだす。
何人かが兄貴の存在に気付いたようだ。商店街に小さな人だかりが出来る。
「マジ? 本庄?」「ほらあいつだよ、あの南浦和の」「え、有名なサッカー選手なの? 凄くない?」
「あの子が埼玉のロナウジーニョだよ。いや、本庄はイケメンだけどな」
色んな声が聞こえてくる。
「いや、ごめんね、今こんな状況だからすいません」丁重に、礼儀正しく兄貴は頭を下げた。
丁寧な兄貴の物言いに、流石の彼女達も引き下がった。兄貴は俺の方に来て、
「行くぞ、優司!」そして俺の手をとって走り出した。
しかし珍しくも無いことなので俺もすぐに倣って駆け出す。
「兄貴もだいぶ断るのが上手くなったね。何か凄い落ち着いてたし礼儀正しかった」
「ふふっ、あれはキングカズのサインの断り方だ。直伝じゃないが代表のコーチに教えてもらった。流石だよな」
「普通の人には必要ない技だけどね」
「そういやそうだ」俺達は走りながら笑った。
「しかし彼女いますか?と来たもんだ。いなかったら立候補でもするつもりなのかね」
「そうなんじゃない? 身の程を知れって感じだけど」
「酷いなお前。あの子達結構可愛かったじゃん」
「そうだけど…でも」
「まぁな、唯に比べたら全然だからな」
「う、うん。そうだね…」
彼女…。兄貴の彼女。そこに俺は引っかかる。…唯さん。俺の初恋の人。そして、兄貴の彼女。
サッカーの才能と唯さん。俺が本当に欲しい物はいつも全て兄貴が独占している。
サッカーが誰よりも上手くて、優しくてカッコよくていつだって自慢の兄。
そしていつも俺の矮小で身勝手な嫉妬心に火を点ける、残酷な兄。
俺達はいつでも一緒だった。でも結果はいつも違っていた。
「優司、今度の日曜はどうすんだ?」
学校の昼休み、前の席の亮一が身体をひねって話しかけてきた。
「シンシアのセレクションに行くつもりだよ」
俺は素っ気なく答える。
秋色すっかり濃くなったこの時期、
多少自分に自信のあるサッカー小僧たちの関心は、中学を出た後の進路だ。
Jクラブのユースに行くか、高校サッカーの強豪校に進むか。
自分の希望するとおりの進路に進めるのは、ごく一部の選ばれた連中だけだ。
そうたとえばうちの兄貴のように。
兄貴は中学の頃レッズのジュニアユースにいて、
クラブからはユースへの昇格を約束されていたのに、
それを迷いも見せずに蹴って南浦和学院に進んだ。
なぜユースに行かなかったのか、と訊いた俺に兄貴はこともなげに言った。
「ユースに行ったらレッズにしか入れないじゃないか」
きょとんとした俺に、かんでふくめるように兄貴は説明してくれた。
Jリーグじゃ契約の制度上、どこのクラブに入っても年俸にはさほど差がない。
ならば、自分がクラブに入る時点で、
自分にとってもっともメリットのあるクラブ。
すなわち監督、コーチが誰か。自分との相性はどうか、指導力はどうか。
同じポジションのライバルや、その時点でのチーム力がどの程度か。
それらを比較して自分の成長に一番適したところを選んだほうが得だろう。
兄貴はそんな内容のことを、当然だろうという表情で俺に言った。
高校を出たら、必ず複数のクラブからの誘いが来る。
自分がプロになることをこれっぽっちも疑っていない。
そんな兄貴の底知れぬ自信に当時の俺はあ然としたものだ。
でも兄貴ほど才能のない俺には進路をあれこれ選ぶ権利はない。
俺も亮一も夏頃から徐々に開催されるようになった
Jクラブのユースセレクションをもう何度か受けているが
箸にも棒にもかからずに落ちている。
この先プロ選手に続くどの道も狭き門なのはわかっているが、
その中でもユースセレクションのそれは半端じゃない。
一般的なJクラブでユースに占めるジュニアからの
昇格組の割合は平均して7割から8割。
そのクラブの方針にもよるが中学卒業後、
外部からJクラブのユースに加入するのは相当至難の業だ。
多くの選手が集まってもただの一人も選ばれないのが当たり前の世界。
そして俺も亮一もこの数ヶ月にあった何度かのセレクションで落ち続けるうちに、
自分たちが選ばれない側の人間であることに薄々気づきつつある。
「シンシアかあ。シンシアなら多少人数とってくれるかなあ」
亮一が少し考えるような顔で呟く。
埼玉のサッカーといえば、実績と伝統のある高校サッカーと、
クラブ創設後見る見るうちにJきっての集客力を誇るようになった
浦和レッズが中心になって発展してきた。
そこに新たな軸として出てきたのが、J2にいるさいたまシンシアである。
全国にショッピングモールを展開して
急激に業績を伸ばしている大手企業のバックアップを受けて、
昨年はJ2で善戦し今年は順調に昇格圏内につけている。
とはいうものの、埼玉といえばやはりレッズというのがみんなの反応で、
シンシアを応援する雰囲気というのはあまり周りを見ても感じられない。
レッズは埼玉県民なら誰でも知ってても、
シンシアの名前はサッカー好きしかわからないというのが現状だった。
シンシアは今年でJ2が三年目ということもあり、
新しいクラブにしては比較的内部からの持ち上がりが多い方らしいが、
それでも亮一の言うとおり外部から加入できる枠は
他のJクラブに比べればたぶん多いだろう。
けど、俺がシンシアのセレクションを受けることにしたのは、
決して加入できる枠が広いからではなかった。
「お前、シンシアのに行くってことは、南浦和のセレクションは行かないのか?」
俺はちらっと亮一の顔を見て頷く。
「南浦和に入っちゃったらきついよ。
三年間ずっと兄貴と比較されるんだぜ。たまんないよ」
商店街の斉藤さんの顔がふと思い浮かぶ。
斉藤さんは俺が南浦和に入ると信じきっているようだったけど、
俺にしてみたらそれだけは勘弁してもらいたいというのが正直なところだ。
15のガキにだってそれなりの自尊心はある。
名前の代わりに「総一郎の弟」と呼ばれるのが嬉しいはずはない。
俺の言葉に亮一は心底そうだよなあ、という顔をして見せた。
「そうだよなあ。あの兄貴と比較されたら…つらいよなあ。
すげえ兄貴がいるっつうのは大変だよなあ。
弟ならまだ兄貴風吹かせて面倒見るとかできるけど
兄貴じゃそうはいかないもんなあ」
珍しく妙にもっともらしいことを言う。
俺が上だったら、少しは違っていたのだろうか。
全然見当違いであっても、何かプレイについてアドバイスをしたりして、
それを兄貴も素直にうなずいて聞いてくれたりしたんだろうか。
想像がつかない。兄貴にものを言う自分の姿が想像できない。
いつも兄貴は俺に何かを言う人間で、俺はそれを聞くだけだ。
南浦和学院のそれは、公式にはもちろんセレクションとはうたっていない。
建前としては中学三年生と高校生の合同練習会みたいな形になっていて、
自分の中学校を通じて参加を申し込むことになっている。
だがその場でどんなプレーをするかが、
来年度南浦和学院のサッカー部に入れるかを
大きく左右するのは改めて説明するまでもない。
聞いた話によると参加した中学生たちは、
簡単な体力テストとウォームアップ程度の簡単な基礎練習をした後、
南浦和学院の部員たちと混成で練習試合を行って、
その内容でセレクションの結果が決まるらしい。
もちろん参加する中学生がどんな選手なのか、
どんな経歴の持ち主かは向こうは事前に入念に調べてあり、
特にセールスポイントのない普通の選手は、
南浦和学院の三軍、四軍と混じって試合をし、
全国大会の経験があったり、Jクラブのジュニアユース上がりのやつは、
レギュラーやベンチメンバーと一緒に試合をすることになるので、
自分のはいるチーム分けを見ただけで、
自分が客観的にどう評価されているのかわかるという話だった。
俺がもし参加したら。兄貴の顔が思い浮かぶ。
兄貴と同じチームで、もしくはむきあって試合するんだろうか。
俺は軽くあごを振ってその妄想を振り払う。
現実的には俺がレギュラーに混ぜてもらえることはないだろう。
「亮一は南浦和行くのか?」
俺は亮一に聞いてみる。
「うん、一応な。ゴジがいい経験だから行ってこいって。
うちの学校からはお前一人だけだからって言うから
ヘンだなって思ったんだけど、優司はシンシアのほう行くんだな」
ゴジはサッカー部の顧問だ。
絵に描いたような体育会系でゴリラみたいだからゴジ。
学生時代は柔道が専門だったらしいが、
最近はサッカーの勉強もすごく頑張ってるらしい。
休日を使って、あちこち指導者としての勉強もやっているという話だ。
怒らせると怖いけど、俺たちにとってはいい顧問だと思う。
「しかし同じ日にやることはないよな。
どうせならずらしてくれればいいのになあ」
亮一がぼやく。
大人の考えはよくわからないが、日程が重なったことには
南浦和のプライドみたいなものがあるんだろうな、となんとなく俺は思っていた。
セレクションみたいな試験は、ネームバリューで
その開催される順番が決まっていく。
一番有名で人気も高いところは、
一番先に開催していい素材を全部先に持っていってしまうか、
一番最後にやって既に他の所の合格をもらっている人間を
根こそぎ奪ってしまうかのどちらかだ。
サッカーの場合、二股というのはかなり許されない行為だから、
同じ地域ではセレクションは当然J1のクラブからはじまり、
J2、JFLと進んでいくことが多い。
高校だって同じだ。強い高校のセレクションは弱い高校のそれより早い。
南浦和がシンシアと同じ日にセレクションを
ぶつけてきたというのは、単純に日程の都合もあるだろうけど、
いまや埼玉だけでなく日本の高校サッカーをリードしているという
南浦和学院の強烈な自負あってゆえの気がした。
「ま、お互い頑張ろうぜ」
亮一があまり力強いとは言えない声を出した。
ああ、と答える俺の声も力はない。
才能。それについて中学で考えなければいけないというのもなかなかつらい。
家の階段を降りてくと、ちょうど兄貴が帰ってきたところだった。
「おかえり」
俺の言葉に、おう、と兄貴は簡単に応じた後で、
ふと思い出した、というように俺を見た。
「お前、うちのセレクションには来ないんだな。
今日、監督がリスト見せてくれたけど名前なかったぞ」
「その日はシンシアのセレクションがあるからそれに行くつもり」
俺はなんでもないことのように言った。
そか、と兄貴はあっさり受け流した。
「やっぱ選手権の効果は大きいな。聞いたことある名前がごろごろいたぜ。
あれなら俺がいなくても全国くらいは出られるかな」
南浦和学院は兄貴が入学する前も全国大会の常連だったが、
冬の選手権で二年連続ベスト4入りを果たすなど、
全国でも上位の成績を残せるようになったのは兄貴が入ったここ二年のことだ。
監督は兄貴が抜けた来年のことを考えると頭が痛いだろう。
「お前も来ればよかったのに。
あのクラスの連中とプレイすればそれだけでいい経験になるぜ。
監督には俺から上位組に入れるように頼んでやれたのに」
兄貴がさらっと言う。いい経験。
そういまの俺じゃ南浦和のセレクションには通りっこない。
スピード、判断の早さ、テクニック、フィジカル。
すべての要素の違いにおののいてショックを受けるのが関の山だ。
兄貴の言うとおり、きっといい経験を積めるだろう。
これからサッカーをやる上で貴重な財産になるのかもしれない。
でも。
俺はいい経験をするためにセレクションを受ける訳じゃない。
自分の進路を切り開く。その目的のために、大人たちの目に自分を晒すのだ。
でもそんな密かな意気込みを兄貴に言う気にはなれなかった。
「ま、土曜はかるーく揉んでやるかな。
いくら遊びとはいえ本庄ってこんなもんかよ、なんて
勘違いされたらたまんないからな」
グラウンドを走る風が少し冷たい。
俺は周囲をぐるりと見回した。河川敷のグラウンド。
当初はクラブハウスのあるさいたま市内で行うという話だったが、
思いのほか応募があったので、急遽会場を変更してここでやることにしたらしい。
近くの駐車場は、親たちの車でごった返していて、ちょっとした騒ぎだが、
自転車を家から三十分かけてこいできた俺には関係がない。
グラウンドの脇に設営されたテントの前に並んで順番を待つ。
思いのほか親子連れが多いのが目を引く。ちょっとした孤独感。
やがて、順番が回ってきた。
パイプ椅子に腰かけた、いかにもサッカーのコーチといった感じのする
若い男性が長机に受講者リストを広げて待っていた。
お名前と、申込票をお願いします、という男性の言葉に、
俺は自分の名を名乗り、クラブから郵送されてきたハガキを見せる。
いま、俺の声は震えてなかったか?
ハガキに書かれた名前と机の上のリストを男性が照合する。
無事確認は終わったらしく、男性はハガキを俺に返すと、
案内の放送があるまで、テント近辺で待機するように言った。
他の学校のやつで知り合いはいないかと見回してみたけど、
見覚えのある顔は見当たらない。
なんとなく手持ち無沙汰なのに耐えられなくなって、
持ってきたボールをバッグから出すと、足の上で弾ませてみる。
ボールがかすかな空気の反発音を立てて上下する。
目の前を規則正しく上下に動くボールを見つめ、
集中して蹴っていると少し気分も落ち着いてきたようだ。
どうせ受からないだろうとは思っていても、
セレクションを前に心のどこかでやはり緊張していたらしい。
いい感じで体も温まってきたので、適当なとこで切り上げることにして、
ボールを落としてスパイクの裏で抑える。
その時、俺は誰かがこっちを見ているのに気づいた。
グラサンに髭。くねくねと曲がった髪はパーマなんだろうか?
ちょっとこわもての崩れた感じのオヤジが俺のほうを見ている。
ウィンドブレーカーを着ているところを見ると、
たぶんこのセレクションのためにいるんだろうけど、誰かの父親だろうか。
俺がオヤジの顔を見返すと、オヤジはそのまま真正面から俺の顔を見返してきた。
俺はなんとなく視線が動かせなくなって、
そのままオヤジと見つめあう格好になる。
なんだろ。いい大人が因縁つけてくるなんてことはないだろうけど。
どれくらい時間がたったのか、オヤジは満足したように軽くかぶりを振ると、
すたすたと歩いていってしまった。
なんだろ?俺のリフティングに感心してたのかな?
でも俺のリフティングに見とれるようじゃ、
きっとあのオヤジの子どももたいしたことないな。
今日は俺よかうまいやつがごまんと来てるんだし。
その時スピーカーを手に持ったさっきの受付の兄さんがしゃべりはじめた。
「それではただいまよりセレクションを開始します。
参加者の皆さんはこちらへ集合してください」
俺は地べたに置いた荷物を拾い上げると、
それっきり変なオヤジのことは忘れてしまった。
ウォーミングアップ代わりのボール回し。
みんな程度の差こそあれ緊張感を漂わせて真剣に取り組んでいる。
その様子を桜井は端から順番にささっと目を走らせていく。
既にセレクションはこの段階から、正確に言うなら受付の段階から始まっている。
受付をしている桜井の前で満足に自分の名前も言えない子も珍しくない。
信じられない話だがそれが現実だ。
それどころかジュニアのセレクションならまだしも、
ユースセレクションだというのに自分自身で受付をせずに、
親が代わりに手続きに来る子どもがいる。
年端もいかない子どもには確かにあまりにも早いが、
今日のセレクションは自分の進路を左右する立派な選抜試験だ。
その手続きを親に任せるような心構えでこれから先、
慈悲もなく冷徹で厳しいプロの競争に生き残っていけるだろうか。
自分自身の意思で自分自身の人生を掴み取ろうという気持ちは、
そんなところにも現れると桜井は考えている。
桜井の他にもスタッフが違った角度からアップの様子を眺めている。
セレクションが終わった後よく子どもたちの父兄から、
あんな短時間見ただけで違いがわかるものですか、という問い合わせを受ける。
その裏にはたいてい自分の子どものよさがわからなかったんじゃないですか、と
いう暗黙の抗議がこめられていることがほとんどだ。
もちろん子どもの素質をパーフェクトに見極めることは不可能だ。
桜井だけでなく世界中のどんな指導者であっても、
この年代の子どもが最終的にどんなプレイヤーになるかはわかりっこない。
ただ桜井の、自分自身の眼力の範囲においては、
セレクションという短時間の場で出した見極めと、
その後十二分に時間をかけて見直した後で出した結論はほとんど変わらない。
それはセレクションという場の性質ゆえだ。
たくさん集まる子どもたちの中から、ごく少数の非常に優れた才能を拾い上げる。
ある程度経験を積んだ上で、見る側に立ってみればいいと桜井は思う。
並べて外から見ると、違いというのは
残酷なほど一目でわかってしまうものなのだ。
プロサッカー選手の中からひとりの優れたプロを選ぶのとは違う。
自由応募で集められた玉石混交の顔ぶれの中から、
光りそうな石を見つけるのは、ある程度の経験があれば
さほど難しいことではないのが現実だ。
難しいのはその先、桜井がたいてい悩むのは最後の、
あと一人誰を残すかそれとも落とすかという絞込みの部分であって、
ほとんどの選手については一瞬で振るい分けが終わってしまう。
もちろんそれがただの選ぶ側の傲慢にならないよう、
一人一人に必ず視線をきちんと向けるようにはしているのだが。
見る目といえば、と桜井はふと横を見る。
少し離れたところに立っている木崎の彫りの深い横顔が目に入る。
参加者のリストも持たず腕を組んでじっと子どもたちの様子を見ている。
前任の田原が他クラブのコーチに招かれたため、
新しく就任したシンシアのユース監督。
桜井はこの木崎という新しい監督といまひとつ反りがあわない。
いや正確に言えば、この男がどういう人間なのかよくわからない。
顔をあわせるようになってしばらく経つが、
まず最初に驚かされたのは木崎のポケットに
しばしば筒型に丸められた競馬新聞がささっていることだった。
競馬新聞をポケットに突っ込んだ中年男なんて、
映画かドラマの中にしかいないものだと思っていた。
ギャンブルをやらない桜井にとってはそれだけでちょっと引いてしまう。
そして木崎が持っているうらぶれた、どこか崩れた雰囲気。
こんな男が、若い子どもたちを指導なんかしていいんだろうか?
サッカーはもちろん、それだけでなく人生の手本と
なるような人間がふさわしいんじゃないか。
桜井は内心思っていた。そう田原さんのような…
前任の田原は選手としては大成しなかったが、
自分の才能に早めに見切りをつけてスタッフに転職すると、
飽くなき情熱と研究を重ねた指導法で、
ろくに選手もいなかったシンシアユースを軌道に乗せた立役者だ。
その力が認められて他のクラブのトップチームのコーチとして声がかかった。
田原の選手ひとりひとりに向ける視線の細やかさ、
そして夜遅くまでクラブハウスで机に向かい、
個々の選手の体力や筋力の数値等のデータを確認し、
オフの日には近県の学校など様々な現場に出かけて指導法を貪欲に学ぶ姿に
新しく育成スタッフに着任した当時の桜井はいたく感動したものだった。
育成スタッフのあるべき姿がそこにあるように桜井には思えた。
田原が退職する日、桜井は礼をいいに言った。
「田原さんのおかげでなんとか少しずつコーチの仕事がわかってきました。
ありがとうございました。これからも田原さんを手本にがんばります」
田原はにっこり笑って
「こちらこそありがとう。これからもシンシアユースを頼んだぞ。
俺の代わりに来る木崎さんは腕っこきだからな。
俺なんかよりもよっぽどお前の手本になる人だ。しっかり学ぶといい」
新しい監督に関する話はほとんど桜井の耳に入ってなかった。
東北のある高校の教職を辞めて、
うちのユースの監督に就任するというのが桜井が聞いた唯一の情報だ。
「そんなにすごい人なんですか?」
田原は何の迷いも見せずにうなずいてみせた。
「まあ、変わったとこがある人だから多少戸惑うかもしれないがな。
でも、ほんとにあの人は高校生の年代の指導をさせたら、
いまの日本でもピカイチだと俺は思ってるよ」
そんなふうに田原は太鼓判を教えてくれたのだが、
いまのところ桜井はその言葉を素直に信じることができていない。
着任してからも
「しばらくはこのクラブのやり方を勉強させてくれ」
と言うと、ユースの指導は桜井たちコーチに任せ、
自分はグラウンドの脇でずっと飽きもせずに練習風景を見つめている。
打ち合わせでこのセレクションの進行を桜井が説明しているときも、
軽く体をゆすりながら黙って聞いているだけだった。
ほんとにこのおっさんできるんだろうな・・・
桜井は横目で木崎の顔を睨むが、木崎は桜井の険しい視線に気づかず、
どこか楽しそうにグラウンドでボールを操る子どもたちの姿を見ていた。
ウォーミングアップが終わると、
コーチらしき人からゲームの組み分けが伝えられた。
順番に番号が呼ばれていく。俺は二試合目の組だった。
20分ハーフのゲームだから、小一時間近く待つことになるが、
これだけの人数が受けに来てる以上しょうがない。
俺は時間とコートを頭の中でもう一度復唱して確認すると、
休憩場所を探すことにした。
あちこちで家族連れが我先にシートを広げていて、
居心地のよさそうな場所はほとんどとられてしまっている。
ま、一人だしどこだっていいや。風が当たらない場所ならどこでも・・・
いい場所がないか、周囲を見渡して探してみる。
そのとき、
「優司くん!」
澄んだ声が俺の名を呼ぶのが聞こえた。
びっくりして声のした方向を振り向いて俺はまた驚く。
「あれ、どうしたんですか!?」
そこには楽しそうに目を細くして笑う唯さんの顔。
俺は思わず唯さんのところへ駆け寄った。
「総くんが、今日優司くんがセレクション受けに行ってるって教えてくれたの」
俺は一瞬驚く。兄貴も意外と優しいところがあるんだな。
「ご両親の付き添い断って一人で行ったし、向こうで知り合いもいなくて、
きっと寂しくて膝を抱えて泣いているだろうから、
励ましてやってくれって言ってたわ」
唯さんが楽しそうに笑った。
兄貴の野郎。確かにひとりで心細かったのは事実だけど、
唯さんにわざわざ言わなくたっていいじゃないか。
唯さんが来てくれたのはとても嬉しいけど、気持ちは少々複雑だ。
そんな俺の微妙な感情を読み取ったのか、唯さんは慌てた顔をすると
「優司くんのことだからひとりでもへっちゃらだと思ったけど、
今日は時間あったから見にきちゃった。邪魔だったかな?」
俺は急いで首を横に振って、そんなことないです、と答える。
それならよかった、と唯さんはほっとしたように笑うと、
「とりあえずレジャーシート持ってきたから座ろうか。いま広げるね」
唯さんはバッグの中に手を入れてシートを捜しはじめた。
いつも兄貴といるときは南浦和学院の制服だから、
私服の唯さんを見る機会はあまりない。
今日の唯さんは白のシャツに青のデニムを着ている。
あまりにもシンプルなファッション。
だがシンプルだからこそ唯さんの清楚な魅力がぐっと引き立つ。
イケてないやつがやれば、単に服装に無頓着なだけと思われるのがオチなのに、
唯さんが着ていると、そのきれいな容姿を際立たせる最高のエッセンスになる。
うちのクラスにもいるが、中坊のうちからごてごてと化粧をする女。
目もと周りにはにはごてごてとまつげやらシャドーやらをつけているが、
そういった連中とは唯さんは格が違う。
元が十分にきれいだからことさら飾りたてる必要がない。
俺は唯さんの横顔を見ながらクラスのケバい女たちのことを思う。
あいつらもきっと唯さんくらいきれいだったら、
あんなにごてごてと飾りたてたりしないのかもな。
休み時間に、時には授業中も一心不乱に鏡を見つめるのも、
唯さんのような生まれながらの美しさを
自分たちが「持っていない」ことに気づいているからだ。
飾りたてないと勝負にならないことをもうこの年齢で気づいている。
そういう意味では。才能のない俺と一緒かもしれない。
違うのはあきらめきれずに飾りたてて勝負に参加しようとするか、
それとも既に才能がないことを認めているか、それだけの違いかもしれない。
唯さんはバッグから折り畳んだ
レジャーシートを取り出すと、勢いよくそれを広げた。
シートの鮮やかな青色が俺の目の前に広がって、唯さんの姿を一瞬隠した。
唯さんは周囲をちらっと見ると空いていたスペースにそのシートを敷いた。
近くに低木が生えている、お世辞にもいい場所ではないが
唯さんは全然気にしていないようだ。
意外と唯さんって豪快な人なのかな。
自分が知らなかった唯さんの一面を見たような気になる。
俺は唯さんに礼を言ってそのシートに座った。
唯さんは、遠慮しないで、とにっこり笑うと自分もシートに腰を下ろした。
そんな大きなシートじゃないから、必然的に俺と唯さんの距離が近くなる。
思わず口元がほころぶのがこらえきれない。
にやにや笑いを唯さんに見られないように、俺は正面を見る。
俺たちと同じように固まって座っている家族連れの姿が目に入ってくる。
さっきまで幾ばくかのうらやましさとともに見ていたその景色が、
いまはまったく別のものに見える。
どうだ、うらやましいか。
こんなすてきな人が一緒に来てくれてる奴なんてどこにもいない。
「このあとはどういうスケジュールなの?」
唯さんが聞いてきた。
「いまやってる試合が終わったら」
俺は目の前のグラウンドを指す。
「あそこで試合やってそれで終わりです。
20分ハーフって言ってたんで、一時間は待たないと思うんですけど」
「それで結果が決まるの?」唯さんは目を少し大きくして尋ねる。
俺はうなずく。やり直しのきかない一発勝負。
視線の先では、最初の試合を指定された参加者が
険しい顔でゲームをやっている。
「そういえばどうして優司くんは、うちの学校に来ないの?
兄弟で同じ学校でサッカー部のエースってかっこいいじゃない。
きっと女の子にももてるわよ」
「僕じゃ兄貴の代わりはできませんから」
さらっと言った後でなんか心の中に苦みが残る。
僕じゃ兄貴の代わりはできない・・・。
兄貴の卒業した後を埋めるようなことは俺の力じゃ無理。
それだけの意味のはずなのに、妙に言葉の響きが後に残る。
後を引くその嫌な感じを消すように俺は言葉をつなげた。
「やっぱ、兄貴は僕から見ても正直モノが違うんですよ。
うまいし、強いし、タフだし。
僕に兄貴のような選手になれっていっても無理ですよ」
「そうなの?優司くんもすごいうまいと思うんだけど」
唯さんが小首をかしげる。
「それは唯さんがサッカーやらないからですよ。
兄貴と俺の間には、天と地ほどの差があるんですって」
俺は両手を身体の前で大きく縦に広げて、大げさにその差を表現してみせる。
やっておきながらそういう自分が嫌になる。我ながら自虐的だ。
「そう?でも、私は総くんもだけど、
優司くんもきっとすごい選手になると思うけどな」
唯さんはにっこり笑っていった。
慰めか、社交辞令か、はたまた素人の唯さんはほんとにそう信じているのか。
笑顔の後ろでポニーテールに束ねた髪が揺れる。
俺はそれ以上、兄貴と自分の差を強調する気にもなれず曖昧な笑みを浮かべた。
「それできっと二人が日本代表でね、一緒に大きな試合に出るの。
それを私はスタンドで応援するんだ」
兄貴と二人で日本代表・・・
心の中で何かがけぶる。ちりちりと躯の内側が焼ける。
「そうなればいいですね」
「そうするのよ」
返ってきた強い言葉に思わず唯さんのほうを見る。
「そのために今日ここにいるんでしょう?
必ずいいとこ見せてセレクション通るのよ」
「簡単に言いますけど、これだけ人数いるんですよ。
そうほいほいと合格する者でもないですよ・・・」
大丈夫、実力を出せばきっと合格できるから。
俺の言葉に耳を貸さず、唯さんは
自分が合格者を決める人間であるかのようにきっぱりと言った。
はあ、参ったなあ。唯さんがこんな肝っ玉母さんみたいな人だったなんて。
落ちちゃったら、というかまずダメに決まってるんだけど、
唯さんと顔合わせづらくなりそうだなあ。
でも。こんなふうに無責任に期待かけられたのっていつ以来だろう。
俺に向けられる言葉はいつも決まっていた。
兄貴とは違うんだから、お前の実力が出せればいい。
兄貴のようにやろうとする必要はない。お前ができることをやれば・・
最近はそんな言葉しか聞いてなかったような気がする。
その一方で兄貴には常に最大級の期待がかけられる。
きっと総一郎君ならできるよ。本庄ならなんとかしてくれる。
本庄なら、もしかしたら実現させちまうんじゃねえ?
商店街の齋藤さんの顔が思い浮かぶ。
無責任に兄貴に活躍を期待していたあの表情。
それをさらりと受け流していた兄貴の自信溢れる態度。
それに比べ誰にも期待されず誰の期待にも応えてこなかった自分。大違いだ。
せめて神様がいるんなら、今日くらいは
唯さんにいいとこ見せるぐらいの幸運を俺にプレゼントしてほしい。
唯さんの無邪気な期待に応えるぐらいの幸運を。
バッグに着けておいた時計を確認すると、意外と時間が経っている。
この時期だと時間を置くとそれなりに身体も冷えてくる。
さっきひととおり動かしてるから怪我の可能性は低いだろうが、
軽く動かしておいた方がいい頃合いだろう。
ちょっとウォーミングアップはじめますね、と唯さんに断って俺は立ち上がる。
ストレッチみたいなのを想像したのか、何か手伝おうか?と唯さんが聞いてくる。
一人で大丈夫です、と返事をして、俺はボールをネットから出して足元に置く。
もうひととおり動いてる。あくまでも緊張をほぐすための運動だ。
ボールを足の甲に乗せ、最初は小さく、少しずつ弾ませる幅を大きくしていく。
何の変哲もないリフティング。
「うまい、うまい。その調子」と目の前で見ている唯さんが拍手してくれた。
もうすぐ勝負の場が待っている。
どんな結果が俺を待っているんだろう。
前の試合が終わりそうな頃に二試合目のメンバーに集合がかけられ、
俺たちは自分のチームを知らされた。
そのまま指示されたチームごとに集まる。
横目で素早くチームのメンバーの顔を確認したが、
やっぱり知っている顔はいないようだ。
11人の中三生の輪。
少し離れたところにはおそらく俺たちの相手なのだろう、
同じように参加者が集まって立っている。
少し経つと俺たちのグループにクラブの人が入ってきて説明をはじめた。
「この後は20分ハーフの試合をしてもらいます。
ハーフタイムの休憩は10分とします。
試合が終了した後は、各自解散して帰っていただいて結構です。
セレクションの結果については、自宅へ郵便にて直接お知らせします。
ですので、原則として電話でクラブに
問い合わせたりはしないようお願いします」
フォーマットがあるのか、クラブの人は説明を一気にしゃべった。
「チーム分けは事前にいただいたみなさんのポジションを考慮して
こちらで決めさせていただきました。
だからちゃんとキーパーが一人ずつ入ってます。
うちのチーム、キーパーいないよ、なんてことは
ありませんから安心してください」
そこでクラブの人はぎこちない笑いを浮かべた。
もしかしたら笑うべきところなのかもしれないが、笑う奴は誰一人いなかった。
「ただみんなはよく知っているとおり、サッカーには
同じポジションでもいろんなタイプの選手がいます。
それをこちらで事前に知ることは不可能ですので、
ポジションについてはこのメンバーでよく話し合った上で決めてください。
みんなで相談して決めてフォワードを何人にするか、
ディフェンダーを何人にするか、
そういったことはこちらでは指定しませんので、自分たちで決めてください。
ひとりひとりがいいプレイができるよう、
できるだけ全員が納得するように決めてください。
試合開始後はいまやってる試合が終わった後、10分後からはじめますので、
それまでに決めて、試合開始時にはポジションに着いていてください。
なにか質問はありますか?」
誰も手を挙げない。クラブの人は一度うなずくと、
「では時間までに準備を済ませておいてください」と
いうと、遠くにあるテントへ戻っていった。
俺たちはその場にとり残されたような格好になる。そのまま誰も何も言わない。
こういうのってよくあるよな。これが日本人の特性だよな。
自分を棚に上げてそんなことを考える。どうしよう、俺が口火を切るか?
そう思っていたら野太い声が響いた。
「とりあえず自己紹介しようぜ。
名前と希望ポジション、それがわからないとはじまらないもんな」
俺の左側に立ってる奴だった。随分背が高い。180近くありそうだ。
体もがっちりした感じだ。町で会ってたら中三だとは思わなかっただろう。
「じゃあ、最初に俺から。名前は坂上太。
ポジションはディフェンダー、細かく言えばストッパー。よろしく」
軽く会釈するような感じで頭を下げる。
じゃあ次、というように坂上が手を伸ばして隣にいる俺を促した。
「名前は本庄です。ポジションはミッドフィールダーなら
どこでもできるけど、下がり目のボランチをいつもやってます。よろしく」
あまりよくある名字じゃないだけに、何か言われるかと思ったが
そんな余裕がある奴はさすがにいないらしく、淡々と自己紹介が進んだ。
どれも印象に残らない平凡な内容だったが、最後に強烈なのが待っていた。
背は俺より一回り小さいから150あるかないかぐらいだろう。
小さな体にぎょろっとした目が印象的だ。
その目がまるで潜水艦の潜望鏡のように動いて俺たちを見回すと、
「名前は大木大地。ヴェルディのジュニアユース所属だ。
希望ポジションはトップ下。今日の攻撃は俺に全部任せとけ、以上!」
ヴェルディジュニアユースの名前を聞いた瞬間、
みんなの表情が微妙に変わった。たぶん俺も含めて。
トップチームがかつてのような絶対的な強さを失い、
同じ都内をホームタウンとするFC東京の躍進があっても、
俺たちくらいの年代のガキにとって、
ヴェルディのジュニアユースはいまでも
「とびっきりのうまい奴ら」が集まる場所の代名詞だ。
あそこは決して簡単に入れる場所ではない。
攻撃は任せとけ、という自信満々の言葉も、やはり力あってのものか。
やりにくそうな奴だな、というのが正直な感想だったが、
これくらいエゴが強くないとプロの世界ではやっていけないのかもしれないな、
俺は大木の利かん気の強そうな横顔を見ながらそんなことを思っていた。
大木の押しの強さに他のやつらは多少あっけにとられていたが、
坂上は気にする様子もなく淡々としている。
大木の自己紹介が終わったのを確認すると、坂上は静かにしゃべりはじめた。
「じゃあ早速だけどポジションを確認しよう。
いま、ひととおり聞かせてもらった希望を考えると、
4−4−2が適当だと思うんだがどうだい?
ディフェンダーは俺と・・・君が中に入る。サイドは・・・」
こいつ、ちゃんと一人一人が言った希望ポジションを覚えてたんだ。
坂上は手際よくポジションを割り振っていくが、
どれも本人の希望に添ったものになっている。
クラブ側でその辺は考えてチームを組んだのかもしれないが、
その意図をちゃんと汲み取って話を進めるあたり、しきりがうまい。
しきる奴は往々にして本人の気持ちとは無関係に、
周りからは嫌みに見えることがあるのだが、それも感じさせない。
キャプテンとかやってたのかな。随分デキそうな奴だ。
俺には中盤の4の真ん中が割り振られた。異存はない。
順調に決まるかと思われた時、大木が異議を唱えた。
「中盤の4はフラットにするんか?」
こいつがしゃべるとなんか小動物が、愛玩犬か何かが吠えているような感じだ。
よく名前と実物のイメージが全然違うやつがいるが、まさにそのいい例だ。
大木大地、「大」が二つもつく名前の割に大きさを感じない。
坂上は大木を見返してうなずく。「ああ、そのつもりだ」
「俺の言ったこと聞いてなかったんかよ、俺はトップ下の選手だぜ。
3−5−2にしてくれよ」
坂上の動きがちょっと止まる。考えている風だ。
俺は最初の提案どおり真ん中がフラットの4−4−2がいい、と考えていた。
それぞれ自分のチームで慣れ親しんでいるやり方がそれぞれあるだろうが、
即席の、名前も互いに覚えてないようなメンバーでチームを組む以上、
もっともオーソドックスなシステムを選ぶのが無難だ。
3−5−2は自分のチームで経験のある奴もいるだろうから、
このメンバーでこなせる可能性もなくはないが、
初顔合わせで連携が皆無というこの状況では、
4−4−2は妥当な選択だと思っていた。
だが坂上はあっさりと自分の意見を引っ込めた。。
「大木の意見はわかった。それなら4−4−2で中盤はダイアモンドにしよう。
大木が前で、本庄が後ろだ。これならいいな?」
大木はそれでいい、というように笑顔を浮かべて満足げにうなずいたが、
俺の唇は思わずへの字に曲がる。
即席のメンバー、しかも中学三年生でダイアモンド型の4−4−2?
相当互いの連携がスムースでないと機能しないシステムだ。
こんな即席のメンバーでやっても、
間延びしてスペースの空いた中盤をずたずたにされるだけじゃないか?
だが俺以外のみんなが何も言わない以上、なんとなく反対しづらい。
それに試合がはじまるまでもう時間もない。
「じゃあポジションはこれでいいね。後は各自いい結果が出るよう頑張ろう」
坂上はまとめ方も手慣れている。サッカーの力もありそうだ。
だが。坂上はサッカーがわかってる奴のような気がしたが、
あっさりと大木の意見を受け入れたあげく、
3−5−2でなくわざわざダイアモンドにしたってのは、
俺の見込み違いだったということか。
俺のワンボランチ。かなり負担は重い。
嫌な予感がする。
笛が吹かれてゲームがはじまった。
うちのフォワードが大木にボールを下げる。
さらに後ろに下げてくるかと思ったが、こっちを見る気配など微塵もない。
大木は、センターサークルをまっすぐに突っ切って、ドリブルで仕掛けていく。
猛然とつっこんできた大木に
相手のフォワードも面食らったらしく、足を伸ばすが腰が引けている。
大木は細かく左右に体を揺らしながら、伸ばされた足を難なく越えていく。
後ろから大木のドリブルを見てるだけで、俺なんかとモノが違うのがわかる。
ステップを小刻みに踏みながら、足からボールがまったく離れない。
ヴェルディジュニアユースの肩書きは伊達じゃない。
「本庄、フォローしてやれっ」
少し後ろから坂上の声が飛んでくる。
大きくてよく通るいい声だ。すっと頭の中に入ってくる。
俺は、大木との間隔を保ちながら敵陣へ少しずつ上がっていく。
フォワードもサイドも大木の突破にあわせて、前へ前へと進む。
だが、大木がパスを出す気配はない。
そのまま、エリアまで一人で突っ込んでいきそうな勢いだ。
これ以上やらせたらやばいと危険を察知したのか、
相手チームのディフェンダーがエリア手前で二人がかりで前をふさぐ。
大木みたいなドリブラーを、エリアに入れたらやっかいなことになる。
前をふさがれた大木は足の裏でボールをキープしているが、
それ以上前に行くのはきつそうだ。
大木の後ろから、一度抜かれた敵の選手が戻ってきて、
ボールをとろうと足を伸ばす。大木は三人に囲まれる格好だ。
もうここらあたりが限度だろう、そう判断した俺は
「後ろ!」と声をかけながら大木の背後から距離を詰める。
だが大木は俺の声なんか聞いちゃいなかった。
足の裏でボールを前後に動かしながら粘り強くキープしていたかと思うと、
そのまま足の裏で送り出すようにボールを前に出した。
ディフェンダーの足と足の間をゆっくりとボールが抜けていく。
エリア内へころころと転がるボールにサイドから、
うちのフォワードがダッシュを効かせて走り込む。
誰もマークがいない。ドフリーだ。
グラウンド中にびびっと電気が走る。
大木のドリブルにみんな注意がいってしまって、
サイドにいたうちのフォワードが完全にフリーになっていた。
完璧に裏を取られたディフェンダーたちはもうなすすべがない。
キーパーと一対一。絶好機。
もらった、と思った次の瞬間、
ぼてぼてのボールが力無くサイドネットに収まっていた。
一瞬の奇妙な間。フォワードの奴が引きつった顔で頭を抱えている。
力みすぎてダフったか。
俺の前で大木が「信じらんね」と心底あきれたというような表情で、
大きく両手を広げて首を左右に振った。
その素振りを見たフォワードは、大木から目をそらすように下を向く。
「集中、集中!ボール来るぞ」
また、坂上の声が後ろから飛んできた。
いいタイミングの声だ。いまのプレーで途切れかけた
俺たちのチームの集中が、俺も含めてきゅっと引き締まるのがわかる。
相手のゴールキックから再開。
相手キーパーが素直にボールをディフェンスの選手に渡す。
相手のバックラインでのボール回しを見ながら、
俺は頭の中でいまのプレーを整理する。
大木のドリブルに泡を食った相手チームは大木をケアするあまり、
両サイドもついつい中に絞りすぎていた。
ちゃんと大木はその状況を見てとって、
三人に囲まれながら、フリーのフォワードへのパスを、
狭いコースをきっちりと通して、文句なしの場所へ出して見せた。
でかい口叩くだけのことはある。
サイドでボールが子どもたちの手にはじかれる風船のように、
落ち着きなくセンターラインを挟んで行き来している、
うちも相手のチームもパスを出そうとしているが、
技術の低さと意思の疎通が出来てないこともあって、
パスというよりも、まるで敵に向けてボールを蹴りあってるようだ。
俺は攻撃の組み立てを考える。
大木をばんばん突っ込ませれば、相手ディフェンスに穴が空く確率は高そうだ。
大木を突っ込ませて、相手の守備を中央に寄せておいてから、サイドに散らそう。
だが。ボールの動きから視線を切らずに俺は前線に一瞬視線を飛ばす。
ちとフォワードが不安だ。
どんなスポーツでもそうだろうけど、一度ボールを持たせてみれば、
そいつのだいたいのレベルはわかる。
もちろんいまのシュートは失敗だろうし、
普段はもっといいボールを蹴るんだろうが、
それでもあのダフりっぷりを考えると、そこそこの中学のエースというところか。
このセレクションが自由応募である以上、集まる選手のレベルも様々だ。
人様のことを言える立場じゃないが、
パスを捌くポジションにいる以上、
誰がどの程度やれるのかはわかってないとやばい。
大木と、そして。俺はちらりと後ろに視線を走らせる。
坂上が手を使って、他のディフェンダーに指示を出している。
あの的確な声の出し方を見る限り、坂上も。
大木と坂上、この二人はある程度計算ができそうだ。
あとは残りのメンツがどの程度できるのか。早くそれをつかみたい。
それを知るにはパスを回してみるのが一番手っ取り早くて効果的だ。
俺のところにボールが来たら一度ひととおりパスを回したい。
だがサッカーの試合というのは、そう都合よく思うとおりには進んでくれない。
サイドでのもみ合いからボールを奪った相手チームが中央へパスを出す。
上がってきた敵の中盤がフリーでボールを受ける。
俺は首を振って周囲の状況を確認する、と同時に慄然とする。
俺の周りに味方がいない。
ピッチの真ん中あたりに相手が使い放題の巨大なスペースができている。
大木はどこだ?いた、あの野郎。
前線からゆっくりとぼとぼとこっち向きに歩く大木の姿が一瞬見える。
あの馬鹿野郎、3トップじゃねえんだぞ。
あんなにフォワードにくっつきやがって。
大木が前ぎみのポジションをとっている分、大木の背後が無防備だ。
おまけに両サイドも、サイドへの意識が強すぎるのか、
それとも単にまだ試合に落ち着いて入れていないのか、きっちり絞ってない。
これじゃあ、俺の前にこれだけの大穴が空くのも当然だ。
「右、絞って!本庄、プレス、プレス!」
同じように状況を察した坂上から声が飛ぶ。
状況を理解したらしく、声にさっきまでとは違う切迫感が感じられる。
さてこの状況でどうするか。
のんびり持たせてたら、好き放題やられちまう。
かといってがりがり取りにいってあっさり交わされたら最悪だ。
とりあえずプレッシャーを掛けよう、と前へ出た時、
ボールをキープしてた相手が大きく前へ蹴った。
うちの右サイド、ディフェンスラインの裏あたりへのロングボール。
一瞬ほっとした。確かに俺の前はすかすかだけど、
俺の後ろにはディフェンスが四枚揃っている。
じわじわパスで崩されたらきついが、
簡単にほうりこんでくれれば枚数で負けることはない。
だがその考えが仇だった。
頭の上を飛んでいくボールの軌道の先を追って、俺は我が目を疑った。
ライン際を走る相手の選手がフリーだ。
飛び出したフォワードの動きもよかったのだろうが、
うちの右サイドバックのマークが外れ、完璧にラインの裏をとられている。
いくらなんでもあっさりやられすぎだろう。
懸命に相手を追ううちのサイドバックを見ながら、俺は急いで戻る。
チェックされていない状態で相手フォワードがボールをトラップ。
一度置き去りにされたうちのサイドバックが必死になってボールを取りに行くが、
そこをフェイントで自分が走ってきた方向にボールを滑らされると、
走ってきた勢いを止めきれずにそのまま足を滑らせて転倒した。
最悪だ。一発でサイドが突破されちまった。
いまの攻防を見る限り、相手のあのフォワードと
うちのサイドバックでは技術が違いすぎる。右サイドも穴だったか。
チャンスとかぎつけたフォワードが、
一直線にゴールへ向かってドリブルをはじめた。
俺は、懸命にゴール前に戻る。これはまちがいなく相手のビッグチャンスになる。
相手のフォワードはもうエリア内に入ろうと言うところ。
もう自分が行くしかない坂上がゴール前から離れて、相手とゴールの間に体を入れる。
あいつにあそこは任せるしかない。
相手フォワードは坂上と勝負に行くか、中央へパスを出すか。
俺は走る。間に合うか、間に合わないか。
相手のフォワードは坂上に気づくやいなや、
迷いなくゴール前へややマイナスのパスを出した。
もう少し迷ってくれれば、間に合ったのに。
これじゃ届かない。
懸命に戻る俺の目の前、ボールがゴール前のスペースに出てくる。
赤いビブスを着けた相手チームの選手がいる。
坂上と組んでるもうひとりのセンターバックもいるが、そのマークも緩い。
中央で待っていた相手フォワードがボールを受けて、左足一閃。
ボールが勢いよくネットに突き刺さった。審判の長い笛。
コース、勢いともに申し分なし。
キーパーが悔しそうに地面をこぶしで一度叩いたが、
あの距離であのシュートを打たれたら、キーパーは責められない。
あっさりと先制されてしまった。
まさかあんなに無抵抗でサイドが破られるとは思ってなかった。
仲間の特徴がわかってない以上、俺ももう少し慎重にいくべきだった。
いつもどおりの動きをしてた分、俺の戻りもあと一歩間に合わなかった。
ミスといわれるほどのものではない、とは思う。
だが気を抜いたことを自分でわかっているだけに微妙な苦味が残る。
まいった・・・唯さんにいいところ見せるつもりだったのに。
やっぱりこういう風に終わるのが俺のキャラなのか。
兄貴はいつでも陽の当たるところにいるけど、俺はそうじゃないのか。
そのとき、坂上の声がした。
振り向くと坂上がいつのまにかネットから
回収したらしいボールを抱えて立っている。
「まだ1点だ、どたばたするな。取りかえすぞ」
こいつの声は効く。怒鳴ってるわけじゃないのに張りのある声でよく通る。
すっと耳に入るだけじゃなく、頭の中にまで届いてくる。
俺の気持ちが妙に楽になる。確かに出会い頭の1点だ、まだどうにでもなる。
点をとられるとたいてい誰かが気合を入れるものだが、
その声に力がないとかえって逆効果になってしまうことがある。
口では「まだいけるぞ」といっても、その声から弱気を感じたりすると、
ああ、やっぱりだめなのか、という気分になってしまうものだ。
その点、坂上のは完璧だ。
声を出すタイミング。落ち着きがあって堂々とした声。
そしてみんなの視線を受け止めて安心感を与える堂々とした素振り。
こいつ、すげえ奴だ。俺は思った。
どんなサッカー選手だって、たとえプロだって、
相手に点を取られれば、少しは気落ちするものだ。
それなのにこいつは、点を取られたショックをまったく感じさせない。
逆に持っているエネルギーが増えたようにさえ思える。
どういう精神構造してんだ、こいつ?
ボールがピッチ中央に戻される。
坂上について考えるのは後だ。まず、目の前のゲームに集中だ。
坂上の檄のおかげで、メンバーの動揺もほとんど見られない。
うちのチームのキックオフでゲーム再開。またフォワードが大木に下げる。
すると大木はまたドリブルで突っかけていった。
今度は相手も予想しているから囲みが早い。
さっさと潰しちまえとばかりに大木の周りに集まってくるが、
大木はたじろぐ様子も見せない。
次の瞬間、大木は敵の体の間をきれいにすり抜けていった。
いつのまにかボールは大木の足元にしっかりとキープされている。
あんなふうに抜けるものなのか。今まで見てきたやつらとはちょっと次元が違う。
敵も大木のテクニックが桁違いだということに気づいたのだろう、
止めなければやられちまう。
周囲にいた相手選手が一斉に大木に向かって走ろうとしたその瞬間、
大木がいきなり左斜め前へパスを叩いた。
さっきよりも手前だが今度もエリアの角付近で2トップの左がフリーだ。
いまあいつ、足元どころかパスを出した先見てなかった。
ロナウジーニョの真似かよ。見てもいないのに
どうしてあいつがフリーだとわかるんだ?
だが大木の判断は正解だ。
大木を止めることに気持ちが行ってしまって、
相手の意識が前に向いた瞬間を見逃さず、シンプルに前線にボールを入れた。
あれならフォワードは次を選択できる時間がある。
シュートも行ける、それともドリブルでアクションを入れるか?
だがボールを受けたフォワードはあまりのいいパスにあせったのか、
シュートを打つでもなく、ドリブルで切れ込むわけでもなく、
その場でおろおろと立ち往生するように動けない。
サッカーではそういうときがたまにある。
俺はフォワードのやつの気持ちがわかった。
不意にビッグチャンスが訪れると、一瞬戸惑ってしまうことが往々にしてある。
あまりに切れ味がいいパスをもらったりすると、
瞬間、頭の中が麻痺してしまうのだ。
だがそれはプレーしている上では致命傷になる。
そのわずかなタイムラグの間に、必死に守る相手ディフェンスが
もう彼の体に取りついている。
前をふさがれた彼は囲まれながら懸命にキープしていたが、
やがてボールが足元からこぼれる。
そのボールを相手が打ち上げ花火のように威勢よく
俺たちの陣地めがけてクリアした。
「何やってんだよ!!」
そのとき、大木の甲高い怒鳴り声が耳に突き刺さった。
見ると顔を赤くして、ボールを奪われた選手を睨みつけている。
言われたほうも言い返せない。確かに今のプレーはあまりに無為だった。
ほめられるプレーじゃなかったのは事実だ、しかし……。
俺は心配になって彼のほうを見る。
距離があるのではっきりとはわからないが、
明らかに意気消沈している雰囲気が体全体から発せられている。
やばいな、あまり落ち込まないといいけどな。
今日はプロになるためのセレクションの場だ。へこんでる時間などない。
ポジション柄、失敗がお友達といえるフォワードは特にそうだ。
ミスのたびに気落ちしてたらとてもプロのフォワードなんかできない。
相手のロングボールがうちのディフェンスラインに飛んでいく。
そのボールを坂上が前に出てヘディングで弾き返す。
そばに相手も一人いるが、坂上の高さに戦意を喪失したか競る素振りも見せない。
正確にコントロールされたボールが俺の足元にぴたりと飛んでくる。
ラインに放り込まれたロングボールをヘディングするときは、
ついつい跳ね返すことにばかり意識がいってしまいがちだが、
坂上はしっかりとコントロールしてつないできた。
やっぱりこいつは頼りになりそうだ。
俺はターンして前を向くと、右サイドのやつにパスを出した。
まずはひととおりボールをまわしてみたい。
大木が俺がボールを持つや否や前線から下がってきて、
ボールをよこせとばかりに叫んでいるがここは無視した。
守備のときにもあれくらいの速さで引いてきてほしいものだ。
ボールを持った右サイドは前を向いたが、
敵が正面にいるのをみて俺にボールを戻してきた。
セレクションなんだからがんがん仕掛ければいいのに。
俺は追ってきた相手を、軽く体の向きを変えていなすと、
今度は左サイドへ長いグラウンダーのパスを送った。
サイドにボールを回すのは、ボクシングで言えばジャブみたいなものだ、と
顧問のゴジが教えてくれたことがあった。
サイドにボールをいれることで相手がどう動くか、
敵陣のどのへんにスペースがあるかを推し量っていく。
相手の力を知るための動きという点では確かにジャブと似ている。
もちろん、ただ相手の力を調べるだけでなく攻撃の第一歩でもある。
サイドをワンツーで崩すのは、
ジャブのコンビネーションで相手をぐらつかせるのと同じだ。
また、サイドを集中して攻めた後で、
長めのパスを中央にズバッと入れて攻撃を作るのは、
ジャブでこっちのリズムに引き込んでおいて、
ストレートを叩き込んで相手にダメージを与える
ボクシングの攻め方に通じるものがある、とゴジは俺に教えてくれた。
ゴジは自分が柔道をやっていたからか、
そんな格闘技の例え方で俺たちに話をすることがあった。
大木がまた自分にパスが来ないのを見てとると、
「こっちだよ、こっち!」と叫んでいるが、俺は黙って聞こえない振りをする。
大木が使えるのはわかったが、大木一辺倒じゃいい攻撃にはならない。
左サイドが懸命に前へ突破しようとフェイントを入れているが、
脇から見てて、あまり効果があるようには思えない動きだった。
相手が全然つられていない。
これじゃフォローがいる。大木は?と思ったが、
相変わらずピッチ中央、ディフェンスラインの手前でどんと構えている。
期待できねえなあ、という表情をしてサイドの争いを傍観している。
あの様子じゃ大木は動く気がない。
じゃあ左のサイドバックが後ろから応援に、と思ったが、
サイドバックのやつの位置取りも随分と後ろだ。
ボールをとられて、攻めに移られた時のことを
考えてるのかもしれないが、もう少し前にいてほしい。
自分でフォローにいくか、と一瞬考えたが、
自分が動いた後にできるスペースの大きさを想像すると足が止まった。
坂上は確かにうまいが、あのスペースを一人で任せるのはさすがに気が引けた。
おまけにさっき破られたうちの右サイドの守備力の問題もある。
攻められたときのカバーを考えると、あまりピッチの中央から離れたくない。
考えた挙句、結局俺も大木と同じく遠くから見ているだけになってしまった。
一度、ボールは相手に奪われたが、
すぐに後ろに控えていたサイドバックが取り返した。
そのボールが、坂上へ。そしてすぐに俺の足元へ。
坂上のパス回しが早い。
最初から俺のいる位置はわかってるといいたげなスピードだ。
お前がボランチなんだから、しっかり球配って攻撃組み立てろよ。
そんな声が足元に飛び込んできたボールから聞こえたような気がした。
俺の周りには敵がいない。余裕で前を向ける。
俺にボールが来たのを見ると、大木がすかさず前線から引いてくる。
相手が一人背中に張りついているが、構わず「よこせ!」と叫んでいる。
ちらりと見たフォワードは相手のディフェンスラインの中に埋もれている。
縦に一発ほうりこんでみてもいいが、大木をあまり我慢させるのもあれだ。
根負けした形で俺は大木にくさびのパスを入れる。
強めの、足元にびしっと入るパスだったが、
大木はあっさり足元に止めてみせると、肩と腰の動きで相手をつり出す。
マークしていた相手がつられて、つい一、二歩動いてしまう。
次の瞬間、大木はすばやくターンすると、
ゴールめがけてドリブルを開始している。
相手が中央の道をふさぐと、エリア手前で横に曲がって相手を揺さぶる。
一度振り切られたマーカーが後ろから間合いを詰める。
さっきと同じように囲まれる大木。
もう一度引きつけるだけ引きつけて、どこかにパスを通すのか。
その瞬間、大木がつんのめるように倒れる。
相手がこぼれたボールを大きく蹴りだす。
余裕で味方につなげるボールだったが、大木のドリブルでややあせったか。
大木が両手を広げて、審判をしているクラブの人に
ファールをアピールしているが、
審判はだめだめ、というように大木に向かって手を振った。
大木がぷっと頬を膨らます。
クリアボールは坂上が一歩前へ出てトラップ、
相手のフォワードがトラップ際を狙ってまとわりついたが、
坂上はあっさりそれをいなすと、また俺にボールを回した。
前線を見る。フォワードにもっとサイドへ流れてもらうなりして、
俺がパスを出せる位置に出てほしいのだが、
大木のパスを受けてゴールを決めることしか頭にないのか、
エリア近辺にへばりついたままだ。
サイドも中途半端な高さでライン際に陣取っている。
どちらかは絞って俺に寄ってきてもらい、
俺のパスコースを作ってほしいのだが、
サイド突破でアピールすることしか考えてないのか、俺との距離が遠い。
なんだ、このチームは?俺は心の中で舌打ちする。
坂上もよりによってダイアモンドになんかしやがって。
出しどころが見つからないだけなのに、
これじゃあ俺がパスを出すのが下手みたいじゃないか。
相手が寄せてきたので、どうすんだよ、この状況、とばかりに
坂上にいったんボールを戻してみたが、
相手がそのまま坂上を追いにいくと、
坂上はあっさりと俺にパスを返してよこした。
はたかれた格好になった相手が追っても無駄だと足を止める。
坂上の顔をちらりと見るが、素知らぬ顔をしている。
「こっち!こっち!」
また大木が前線から引いてきて叫んでいる。なんか頭が痛くなってきた。
俺はもう何も考えたくない気分になって、黙って大木にパスを出した。
ボールを持った大木はまたドリブルで仕掛けていく。
今度は相手も単純にボールをとりに行くのではなく、
コースを粘り強くふさぎながら、大木をじわじわと追っている。
大木はサイドに流れながら、しぶとくボールをキープする。
ボールコントロールは実に見事だ。
足の甲で、裏で、ボールを動かし、抑え、思い通りに運んでいく。
エリアの角まで来たところで、今度はゴールラインへダッシュ、
スピードで振り切って狭い角度からシュートを打つが、
さすがにコースが狭すぎる。
基本どおりコースをふさいでいたキーパーが体の正面でキャッチする。
大木は地面を叩いて口惜しがるが、そんなに惜しいシュートでもない。
あいつ、パスを出す気がないんじゃないか。
全部自分で持ってく気じゃないか?
キーパーがカウンターを狙ったのか、大きくパントキック。
だがそのボールもフォワードには届かない。
サイドバックをどかすように坂上が落下点に走りこむ。
相手フォワードも少しは競ってやろうと根性を見せているが、
坂上のほうが高さもジャンプ力も数段上だ。
坂上が競り勝ったヘディングのボールがまた俺のところへ来る。
その後の試合は、とても奇妙なものになった。
俺はまわってきたボールをあちらこちらと散らしたが、
大木にパスが回ったが最後、大木はとことんドリブルで仕掛けていく。
試合はまるで大木のドリブルショーになっていた。
最初は大木からパスをもらおうと動いていた他のやつらも、
次第に大木がパスを出す気がないことに気づき、足が止まりはじめた。
相手も大木だけにマークを集中させてきたので、
大木もさすがに最後まで突破できない。
その一方相手が奪ったボールはフォワードに入るところで、
全部坂上が奪い返してしまう。
微妙な雰囲気がグラウンドに立ちこめはじめた頃、前半終了の笛が鳴った。
やっとこの居心地の悪さから解放された。そんな気分になる。
大木がライン際まで歩いてくる。そばに近寄って声をかけた。
「なんで途中からパスを出さなかったんだい?」
大木のギョロ目が俺を睨む。
「お前も見たろ。ツートップの両方に決定的なやつ、出したじゃないか。
あれであのざまじゃ、いくらパス出しても意味ねえ」
「あのときだけ、たまたまミスっただけかもしれないじゃないか。
またパスを出せば、次は決めるかもしれないよ」
俺は反論する。すると、大木はわかってないなあ、とでも
言うように首を大きく横に振ると、
「お前、今日ここに何しに来てるかわかってんのか?
セレクションだぞ、セレクション?大会じゃねえんだぞ。
この試合で勝つのが目的じゃないぜ。
自分自身をどれだけアピールできるか、そのために来てんだぜ。
せっかく回ってきたボールをどうしてあっさり手放さなきゃいけないんだよ」
俺は言葉を失った。
大木はそんな俺の様子を見て話は終わったとばかりにすたすた歩いていく。
俺はそのままその場に立ち尽くす。
自分のアピールだけ考えればいい。そう、大木の言うとおりだ。
ブラジルあたりのセレクションでは、みんな一度ボールを持ったら、
絶対に離さない、という話を俺も雑誌かなにかで読んだことがある。
大木の言ってることは正しい。でも…。
俺の心の中でうまく収まらないものがある。言葉では説明できない。
もういい、とりあえず唯さんのところへ行こう。
きっと唯さんのそばにいれば気持ちも落ち着く。
そう思って足を早めると再び俺を呼び止める声。坂上だ。
振り返ると背の高い坂上を少し見上げる格好になる。
坂上は軽く微笑むといきなり質問してきた。
「君、もしかして本庄総一郎の弟?」
嫌なことを聞くやつだ。かといって嘘もつきたくない。
俺は、ああそうだよ、となるべく素っ気無く聞こえるように言った。
「やっぱりな。兄さんも見たことあるけど、やっぱプレイが似てるな」
兄貴と俺のプレイスタイルが似ている?
いままで一度もそんなことは言われたことがない。
口から出まかせを言ってるのか?
俺は坂上を睨みつけるが、そんな俺の視線には気づかない様子で
「しかし…君、さっき自分のポジション、
ボランチっていってたけど、あれ、ほんと?」
「兄貴と同じトップ下じゃないのかでも言いたいのか?」
言い返す声がつい尖る。
それとも普段やってるとは思えないほど俺が下手という意味か。
でも、坂上は心底不思議がっている様子で、
「ふーん、じゃあ、ボランチってほんとなんだ。
いや、前半君のプレイ見てて、なんとなく
実はフォワードじゃないのかって思ったからさ」
さっきから変なことばかり言う。よくわからないやつだ。
「ま、とりあえずそれはいいや。で、この試合後半どうする?」
坂上があっけらかんと聞く。俺のむしゃくしゃが思わず弾ける。
「どうするもなにもねえだろ。
あんな自己中ドリブラーがいたらサッカーにならねえよ。
ディフェンスもあっさり点取られるしよ」
俺は自分でもみっともないとわかってたが、つい坂上に嫌味を言ってしまう。
「ああ、あれはすまなかった。
一発目だったからどれくらい周りができるか、俺もわからなくて、
ちょっと甘いところがあった。だが、これからは簡単には取らせないよ」
坂上に素直に謝られると俺はそれ以上何も言えない。
それに坂上の言葉には俺を納得させる響きがあった。
こいつがもう簡単には取らせない、というからには、
坂上の中ではある程度、後半の守備について目処が立っているのだろう。
前半に見た坂上の力を考えると、それだけの自信があっても不思議はない。
坂上は大人が子どもを見るような眼差しで、俺を見ると、
「君がサッカーにしてみせろよ」とこともなげに言った。
俺は一瞬、その言葉に意表をつかれる。
「だって、君ボランチだろ。ボランチがゲームを作るんだよ。
前半の君はただ見てるだけだったじゃん。
君がゲームを作らなければサッカーになんかならないよ。
初顔合わせのメンバーなんだしさ」
俺がゲームを作る?
「まあ確かに大木はかなりクセがあるみたいだけど、
それを使いこなすのが君の役割じゃないかい?」
俺はそこで気づく。
もしかして、こいつ、だから中盤をダイアモンドにしたのか。
俺が前の選手にボールを捌けるように。
「ま、後半頑張ろうぜ」
坂上はぽーんと俺の背中を叩くと、ラインの外へ歩いていった。
俺は先生に宿題を出されたような気分で考える。
ゲームを作る?確かに前半の俺は自分がプレーすることに必死で、
チーム全体のことまで考えていなかった。
みんな、今日が初対面だ。いきなりチームとして機能するわけがない。
じゃあ、どうする?どうすればいい?
俺は頭の中で前半のみんなのプレーをもう一度再現してみる。
なるべく詳しく、ひとつひとつのプレイを。
坂上の高さはすごい。相手のフォワードはまったく歯が立たなかった。
ロングボールの処理はまず心配ないだろう。となると守備で怖いのは、
相手に人数をかけられ、サイドを使ってボールを運ばれることだ。
ならば、できるだけ相手にロングボールを蹴らせるような形がいい。
中央に、坂上のあたりに蹴り込んでくれればこっちは楽になる。
俺は詰め将棋を解くような気持ちで考えを進めていく。
攻撃はどうだ?大木は確かに頼りになる。あのキープ力は半端じゃない。
だけど、ひとりでフィニッシュまで持っていける確率は、
相手も大木のドリブルの威力に気づいてる以上、そんなに高くない。
点を取るためには、大木にパスを出させたい。
大木に崩してもらってチャンスを作る。
だがどうやって大木にパスを出させる?フィニッシュは誰を使う?
ひとつずつロジックを組み立てていく。まるで殺人事件に挑む名探偵のように。
周りのざわつく気配にふっと我に返ると、
みんながもうピッチに戻ってきている。
どうやら休憩時間がもうすぐ終わるらしい。
考えるのに夢中になってしまい、時間のことを忘れていた。
ふと顔を上げると、遠くで唯さんが心配そうな表情で俺を見ていた。
突然ひとりで立ち止まって真剣な顔で考え込んでたら、
唯さんでなくても俺のことが心配になるだろう。
大丈夫、心配しないで。
俺は唯さんに笑いかけながら手を振った。
唯さんの顔がほっとしたようにほころぶ。
大木も坂上ももう自分のポジションに着いている。
どうせ、最初から受かると思ってなかったセレクション。
自分のやりたいようにやってみるのも悪くない。
後半は相手のキックオフでゲームがはじまった。そのボールがサイドに渡る。
「左サイド、プレッシャーかけて!詰めて、詰めて!」
俺は左サイドのやつに大声で指示を出した。
いきなり俺が声を出しはじめたものだから、味方がびっくりしている。
左サイドのやつは俺を見てきょとんとした顔をしている。
俺がもう一度指示を出そうとした時
「左サイド、プレスだ、プレス!」
坂上の気合の入った声が飛んだ。左サイドがその声にびびったように、
いそいでボールを取りに行く。
「前切れ、前切れ!サイド突破させるなよ」
パスを回されてサイドを崩されるのだけは避けたい。
ならば早めにプレッシャーをかけて、相手のサイド攻撃を止めたい。
相手が中央にボールを戻す。
「フォワード、ボール取りに行って!守備、守備!」
大木に守備は期待できない以上、
ちょっと心苦しいがフォワードに頑張ってもらうしかない。
フォワードのふたりが素直にボールを追っかけてくれる。
だんだんボールを持っているのが苦しくなった相手が、
無造作にロングボールを蹴った。
前線へのボールだったが、うちのプレスを気にしたが、ボールに精度はなく、
フォワードとかなり離れたところにいる俺のほうへ飛んできた。
やっぱりこれでいいんだ。
早め、早めにボールに行く。
向こうだって即席チームだ。そうそうスムースにパスは回らないだろう。
プレスを続けていれば、苦しくなってボールを蹴り出すはずだ。
そのボールをすかさず俺は大木に送る。
俺がボールを持った瞬間、大木はすかさずスペースに動いてフリーになっている。
味方ボールになった時の動きだしの速さは特筆ものだ。
ボールを持った大木がそのままドリブルで突っかけていく。
とりあえずこれでいい。この一回は前半と同じでいい。
大木が奮闘むなしくペナルティエリアでボールを奪われた。
そのボールが相手の左サイドへ渡る。再び俺は大声で指示を出す。
「プレス、プレス!頑張って!そうそう」
右サイドの選手がすかさず間合いを詰める。俺はその間に中央を見る。
一人いる。あいつか。
積極的にチェックに行ったうちの右サイドを交わして相手が中央にパスを出す。
よし、引っかかった。
相手がパスを出すとわかった瞬間、俺は中央の相手選手に向けてダッシュ。
ボールが彼の足元に届いた時には、俺はもう完全に体を寄せている。
足を伸ばし、すぐさま体を入れる。トラップ後すぐを狙われ、
考える時間を十分に与えてもらえなかった彼から、
ボールを奪うのはそう難しいことではなかった。
狙いどおり。早めに潰しに来られて苦しくなったら、
おそらく中央にいる彼にパスを出すだろうと読んでいた。
そのために彼とわざわざ間隔をとってフリーでいるように見せたのだから。
もちろん実際は俺が彼を完全に捕捉していたのだが。
高い位置でボールが取れた。このチャンスは形にしたい。
大木を捜す。ゴール正面、エリアの外。
ここで大木の足元に出したらさっきと同じだ。大木の位置をずらしたい。
「大木!」わざと一声叫んで、
俺は大木の右、三メートル離れたところにパスを出す。
大木が走ってくれなかったらどうしよう、という不安はあったが、
大木のドリブラーとしての血に賭けてみた。
たいていドリブラーはボールが大好きで、自分の足で届く範囲にボールが在れば、
かっさらわずにはいられない性分のやつばかりだ。
一瞬大木の顔に「糞パス、出しやがって」という感情が浮かんだが、
すぐにすばらしいダッシュでボールに追いついた。
もちろん相手も少し遅れたものの必死に大木についてくる。
大木も中央から右にダッシュした分、すぐに中央には戻れない。
そのまま、巧みな足技でボールをキープしながら右サイドに流れていく。
そのまま相手の隙を見て、ゴールライン際を突破しようとするが、
相手が懸命に伸ばした足がボールを押し出す。副審がすかさずコーナーを指す。
俺は後ろを向く。坂上にゴール前へ上がれ、と身振りで示す。
このチャンス、坂上の高さを使わない手はない。
坂上が笑いながら走ってくる。俺の脇を通る時に
「後ろは頼んだぜ」と言い捨てていく。
「お前が決めりゃカウンターの心配はいらないよ」
俺はゴール前に走っていく坂上の背中に言い返してやる。
相手ゴールに向かって右からのコーナーキック。大木が蹴る用意をしている。
おそらく大木の利き足はさっきからプレイを見ている限り右だ。
さすがに直接ゴールを狙ってくることはあるまい。
キーパーから逃げるように巻くボールだろう。
ならば誰に合わせるべきか。それがわからないほど、大木は馬鹿じゃないはずだ。
自分にアシストだって付くこの場面、大木は必ず坂上に合わせる。
俺は坂上の代わりにフォワードのマークに下がって、
ハーフウェー付近で大木がボールを蹴るのを見ていた。
大木がコーナーを蹴った。ゴール正面への素直なボール。
坂上がジャンプすると完全に頭一つ抜け出す。
他のやつらの頭が坂上の肩あたりまでしか来ていない。すごいジャンプ力だ。
ゴール正面絶好の位置で、坂上がすばやく頭を振って、
ボールをゴールへ叩きこむ。
きちんとコントロールされたボールがサイドネットに突き刺さった。同点。
自分が点を決めたのに、周りの味方の肩を叩きながら坂上が戻ってくる。
まるで他のやつが点を決めたのを祝福しているようだ。
ちらりと見ると大木は「まあ、決めて当たり前だな」とでもいうような
小憎らしい表情でこっちに向かって歩いてくる。
まあ、いい。何はともあれ同点に追いついた。
試合が再開されると、ボールを追う仲間の動きがさっきと全然違う。
俺が何か言う前に自分から積極的にボールを追い回す。
バランスを考えて誰が追うかを指示するのが俺の主な目的になった。
「そこはフォワード!そう、そう。左サイド絞って!取れるぞ!」
相変わらず大木は守備には一歩も動かないが、
前の方のメンバーの運動量はそれを補って余りある。
確かにテクニックはないかもしれないが、一生懸命にボールに食らいついている。
うちの出足のいいプレスに相手は満足にパスさえ回せない。
たまに苦し紛れに放り込んでくるロングボールは、
坂上が自在なポジション取りで全部ストップしてしまう。
相手の真ん中の選手は俺が完璧に抑えている。中盤は完全に制圧した。
となるとやはり攻撃だ。ここまで来たら点を取って勝ちたい。
俺は大木を中心に、パスを散らす。
大木以外のフォワード、両サイドにもパスを出していく。
正直、彼らじゃ点を取れる確率は低いだろう。
だがそれを承知の上で、俺はパスを回す。
大木の周囲から相手を引き剥がさなければ、大木の突破も生きない。
どんどん左右にパスを振り分けて、少しでも敵陣にスペースを作りたい。
大木に出すパスもなるべく足元へは入れない。スペースに出して大木を走らせる。
しばらく試しているうちに、俺の中に確信が湧いてくる。
大木のドリブルはサイドでこそ生きる。
中央からゴールに一直線に向かっても、待ちかまえる相手の人数が多すぎる。
しかしサイドならば相手が大木を止めるために裂ける人数も限度がある。
あまり多い人数で囲みに行ってしまえば、
今度はゴール前がすかすかになってしまうからだ。
大木自身もサイドなら一度に相手にしなければならない人数は少なくて済む。
このご時世、ドリブラーが中央で生きにくいのは
中学生のサッカーでも変わらない。
問題は、大木がサイドを崩した後、ゴール前で誰がゴールを狙うかだ。
大木がパサーとしても頼れるのは、
前半に見た二本のパスから見てもまちがいない。
しかし大木のパスを誰が受けるのか。俺の考えはそこで止まる。
前の二人が自信を取り戻していてくれればいいが。
おそらくもう時間がない。この試合は20分ハーフ、普段より短い。
ここまでいいリズムになってる以上、もう一点取りたい。
いつしか俺の頭からは、この試合がセレクションだということは消えていた。
ただ点を取りたい。この試合に勝ちたい。その気持ちしか俺にはなかった。
大木がサイドに走る。さっきから俺がスペースへ出すパスに
小気味よく走って追いつくと、サイドをがりがりと切り崩している。
大木がゴールライン際で一人捌いた。エリアまでもう少し。
この位置じゃ大木は上げてこない。
やつの性格からして、とことんゴールの近くまで進もうとするはずだ。
俺は走る。残り時間はもうない。
俺が上がってもリスクは少ないだろう。坂上も後ろに残っている。
エリア目指して懸命に走る。
ゴールライン際、大木が二人を鮮やかに抜き去ってエリアに侵入した。
ほとんど角度のない位置。
大木は自分で打ちたいだろうが、ゴールとの間にディフェンスが一人いる。
ゴール前のフォワードはがちがちに詰められている。
大木の表情に一瞬迷いが浮かぶのが俺にはわかった。
あいつも勝ちたいんだ。勝つために一番の方法を選択したいんだ。
俺は心で大木を呼ぶ。大木が俺の気配に気づいたか、
ライン際の狭いスペースを強引に突破しようとする。
ディフェンダーも、キーパーも、味方のフォワードも、
みんなの意識が大木とゴールを結ぶ一本のラインに引き寄せられたその瞬間、
大木がノールックでマイナス方向へのパス。
相手が大木の周囲と、ゴール前のフォワードの周りに集中していた分、
その間にスペースができている。
そこへ後ろから走り込んだ俺に合わせるパス。
シュートを打つ前から、俺は大木のパスの精緻さに驚いていた。
こいつ、俺がどの地点でシュートを打ちたいか完全にわかっていやがる。
走り込んでくる間、俺はまったく歩幅を調整していない。
パスのほうが俺の走りに合わせて足元に寄ってくる。
完全にイメージどおり。
ふかさないようにだけ注意して俺は右足でシュートを打った。
蹴った俺自身がびっくりするようなすごいスピードで、
ボールはゴール右上に突き刺さった。
ゴールキーパーもディフェンダーも、何一つ反応できない。
審判の笛が鳴った。
ああ、点を取ったのって久々だ。最近は後ろのほうばかりやってたから。
でも、点を取るってほんとうに気持ちいいよな。
マスターベーションの何倍も気持ちいい。不思議だ。
俺は自然にガッツポーズをしている。両手を突き上げる。
ガッツポーズなんて、昔点を取った時はしなかったのに。
でも、なんか今日は、思いっきり喜んでみたい気分がする。
誰かが後ろから抱きついてきた。顔を見て驚く。大木だ。
大木はいきなりぽかりと俺の頭を殴りつけた。いてぇ。
「いいシュートだったが、パスよかったからな。感謝しろよ」
俺は大木の頭にお返しのパンチを入れてやった。
悲鳴が上がって、俺の背中の重しがとれる。
他のメンバーとも手を合わせながら俺たちは自陣へ引き上げる。
坂上が俺を待っている。
どちらからともなく手をあげてハイタッチ。
「いい上がりだったな」「どうも」
はじめて会ったやつなのに、もう言葉がなくても通じるものがある。
サッカーって不思議だ。
相手のキックオフからしばらくボールが行き来したが、
やがて審判が試合終了の笛を吹いた。あっけない。
あっという間の二十分だった。俺はもっと試合を続けたかった。
前半が終わった時の憂鬱な気持ちを思えば信じられない。
あとはもう解散するだけだ。
そう思うと晴れやかな気持ちが徐々にしぼみ、
今日のこの試合がセレクションだったという事実がのしかかってくる。
大木も、坂上も、遙かに俺より上手かった。
ふたりとの力の違いは俺自身が嫌と言うほどわかっていた。
大木が戻ってくる。なんか言葉をかけたいが、適当な言葉が出てこない。
俺が往生してると、大木は例のギョロ目で俺を見ると、
「他のチーム行ったら許さんで」
一言言うとそのまますたすたと歩いていってしまう。
まるで、どうせまた会うのだからとでも言うように。
坂上も俺の肩を叩いていく。
「じゃあ、またな」
何か言葉を返す間もなく、坂上は悠然とタッチラインをまたいでいく。
またな、って。
たぶんもう二度と同じチームでサッカーをすることはないのに。
俺はピッチを後にして、唯さんのところへ歩く。
近くまで行くと唯さんが大喜びしていた。
「優司くん、すごいじゃない!ゴールは決めるし、
後半はたくさん声出してチーム仕切ってて。まるでリーダーみたいだったわよ」
素っ気なくうなずく。唯さんの手放しの賞賛さえもいまの俺の心には響かない。
「これなら絶対、セレクション合格できるわよ。
あんな大活躍だったんだもの」
もう唯さんは俺が合格するものだと信じ切っているようだ。
俺はスパイクの紐を解く。
あいつらとサッカーがやってみたい。
互いの能力を生かし、生かされるサッカーをやってみたい。
そんな気持ちが俺の腹の中からごぼごぼと泡を立てて湧いてくる。
兄貴だったら、坂上や大木の力をもっともっと引き出すことができただろう。
そう、いまの俺は無力だ。でも、いつかきっと…。
桜井は、手元のリストをめくった。
それに合わせるように他のスタッフも手に持った資料のページを繰る。
唯一、反応しないのが木崎だ。椅子に深く腰かけて足を組んでいる。
セレクションの合格者を決める大事な会議なのに、
さっきから一度も意見を言わない。
監督の木崎抜きでスタッフの打合せは進んでいる。
とはいえ、スタッフから提出させた各人のリストを見ると、
だいたい合格させたい子どもは一致していた。
木崎抜きでも特に問題はなさそうだ。
田原さんのおかげで、シンシアのユースも軌道にのっては来たものの、
将来のJ1昇格まで見据えると、まだ他のクラブには質の面で見劣りする。
どんどん新しい血を入れていきたいというのがスタッフの共通した考えだった。
「71番の坂上君はぜひ入れたいですね」桜井の発言にスタッフがうなずく。
「両親がバレーの選手ですから、身長もまだ伸びるかもしれません。
お父さんは全日本までいったそうですから、運動能力も期待できます」
「いまはどこの所属でしたっけ?」
「新狭山FCです」
若年層の育成に取り組んでいるのは、
Jのクラブユースや高校サッカーの強豪校だけではない。
クラブや強豪校が指導できる子どもの数なんてたかがしれている。
それを補い、時にはライバルとして、
街の大人たちが、手弁当とサッカーへの情熱で運営しているクラブも
子どもたちの育成に大きな役割を果たすようになってきている。
新狭山FCが県西部で、学校体育の枠組みを乗り越えた地域クラブとして、
小中一環で育成に取り組んでいるのは桜井も知っていた。
「ということは地元選手ですか。ますます欲しいですね」
別のスタッフが相槌を打つ。
レッズほど組織のしっかりしていないシンシアユースとしては、
今後の人材確保のためには、そういった街のクラブとは
良好な関係を築いていきたいという思いもある。
「39番の大木君は?」
「欲しいですね」あるスタッフが間髪を入れずに言った。
「悔しいですが、あれほどのテクニックを持った子は
現在うちのジュニアにはいません。
彼を入れることで周囲にもいい刺激になると思います」
桜井はうなずく。彼も同感だった。
「ヴェルディのジュニアにいたらしいけど、昇格しなかった理由は」
反応がない。はっきりと知ってるスタッフはいないようだ。
小柄だから体格か。はたまた性格か。それとも他の別の何かか。
だが、仮にどこかにキズがあるとしても、
ヴェルディとシンシアではいままで積み上げてきたものが違う。
大木がいまのシンシアユースに必要な選手なのは間違いなかった。
その後も順調に選考は進んでいく。
大きな意見の相違はなく、淡々と打合せは進んでいった。
加入するメンバーも決まり、桜井が打合せを終わらせようとした時、
突然、木崎が口を開いた。
「38番の本庄も入れておいてくれ」
「本庄…ですか?」桜井は確認する。
「ああ。その他は君たちの意見と俺の考えは同じだ。それで頼む」
木崎は言いたいことは伝えた、とそのまま席を立ちそうな雰囲気だ。
「待ってください、なぜ本庄を入れるのか、説明してください」
桜井は木崎を睨んだ。
スタッフの話し合いの結果を無視された気持ち、
前から持っている木崎への微妙な不信感。
それらが桜井の中で暴発しそうになっていた。
桜井の空気を周囲も感じ取ったのか部屋の空気が急に重くなる。
スタッフの一人が取りなすように口を挟む。
「確かこの子は本庄総一郎の弟らしいですね。
そんなに目立った実績はないみたいですが…」
あの本庄の弟が受験者にいることは桜井も事前に知っていた。
内心密かに楽しみにもしていた。
だが、いざ実際に見てみると桜井は少なからず失望を禁じえなかった。
あれだったらうちのジュニアの子たちのほうが遙かにうまい。
新しい血は入れざるを得ない。それはスタッフみんなが承知している。
だが外部組の子を入れれば、その分内部昇格の枠は狭くなる。
ジュニアのメンバーは手塩にかけて育ててきた子どもたちだ。やはり情はある。
彼らの代わりに入れる以上、明快な理由が必要だと桜井は考えていた。
「見てわからないのなら、それ以上俺に説明できることはない。
このチームの監督は俺だ。納得できなければいつでも辞めてもらってかまわない」
木崎は桜井を見て言った。桜井は木崎の眼光に思わずたじろぐ。
このおやじ、こんな目ができるのか。
監督の決定は絶対だ。
それにたてつけばサッカーチームという組織は崩壊してしまう。
納得できなければ外へ出るだけだ。
選手がそうであるように。桜井たちも「プロ」の
コーチである以上、それは変わらない。
凍りついた桜井たちの雰囲気に、木崎はふっと笑みを浮かべ、
「立ち姿だ。ボールを持った時の立ち姿。
それはセレクションを受けた中で彼が一番美しかった。
だから俺は彼を取りたい。以上だ」
今度こそ終わりだ、とばかりに木崎は席を立つ。
周囲のスタッフもぞろぞろと腰を上げた。
その中、桜井は椅子から動かない。
わからない、監督の言ってることが。立ち姿って何だ?
俺はこの監督とやっていけるのか。来年のユースはどうなるんだ?
田原さん、教えてください。本当にこれでシンシアはいいんですか?
翌日、桜井は家の近くの大型書店に足を運んでいた。
いつもチェックしているサッカー関係のコーナーを
通り過ぎたところで足を止める。
はじめて見る雑誌が所狭しと並んでいる。
桜井はその中の「競馬マガジン」と表紙に書かれた雑誌を手に取った。
ぱらぱらとページを開いてみる。
サッカー雑誌と同じように、前の方のページは
カラーグラフを中心とした構成のようだ。
何頭もの馬の写真が載っている。
競走馬を横から見た写真。首を捻って馬の顔がこちらを見ている。
そんな写真が何枚も並んでいる。
こんな、ただ馬が立ってる写真に意味があるのだろうか。桜井は疑問に思う。
いや、雑誌だって商売だ。需用のない写真を載っけるような真似はしない。
必要だからこうやって掲載されているのだ。
しかし、木崎のおやじ。桜井は心の中で呟く。馬と人は違うぞ。
昨日のことだった。高校時代の友人から久しぶりに電話がかかってきた。
サッカー部の同期が結婚するため、みんなで集まろうという連絡だった。
飲み会がらみの話が終わった後も、会話は弾んだ。
「しかし桜井はユースのコーチか。
俺みたいなリーマンと違ってやりがいのありそうな仕事だよな」
「そんなことねえよ。結局、上の言うとおりにしなきゃやっていけねえからな」
桜井は個人名は慎重に伏せつつ、今日のミーティングの話をした。
誰かに自分が置かれた理不尽な状況について愚痴をこぼしたかった。
立ち姿とかいう訳のわからないもので、
セレクションの合否を決めるおかしな監督。
友人も同じサッカー部の出身だ。桜井の怒りは理解してもらえると思った。
だが友人の反応は意外なものだった。
「うーん、それって変な話なんか?
まあ、俺はプロに行けなかった人間だから、
プロの世界のことはわからないけどさ…
それに確か代表の久保が、
山の中の学校から出てきて高校へ入学しようとした時、、
高校の指導者がボールを足元に置いた久保の姿を一目見ただけで、
入部を許可したって話があったような…」
桜井は驚く。恥ずかしながら知らなかった。
「その話、ホントか?」
「雑誌で読んだだけだから、記憶はあやふやだけどな…。
でも、俺もそのオヤジと同じで競馬やるけど、
競馬なんかじゃ、立ち姿でみんな判断してるぜ。
桜井は馬のセリって知ってるか?」
全然競馬のことはわからない桜井に友人は親切に説明してくれた。
牧場で生まれた競走馬は馬主に買ってもらうため、セリにかけられる。
馬はセリ会場を人間に引かれて、ぐるりと回る。
買い手は目の前を歩く馬の姿を見てその馬を買うかどうかを決める。
「もちろん血統も重視するが、
両親が同じでも走るのもいれば、全然走らないのもいる。
最終的には一頭一頭の馬を見て判断するしかないんだ。
その時、人によって見るところは違うけど、よく言われるのは体型と目だな」
足の形や体つき。よく走る馬はやはり美しい体をしているといわれる。
また怪我が多い馬の世界では、バランスの取れた馬体は
故障が少ないことを意味する。そして目。
「走る馬は絶対に目がきれいだ。これは素人の俺も同感だな」
桜井は友人に尋ねる。実際に走るところは見ないのか。
「最近はそういう形のセリも増えてきたよ。
実際にコースを走ってタイムを計って、それを参考にしたりもする。
でもあくまでも参考程度だ。
というのも、セリにかけられるのは、まだ子どもの馬なんだ。
セリの時点で早く走れたからといって、速い馬とは限らない。
早熟かもしれないし、晩成の馬はいまは遅くてもこれからどんどん速くなる。
若いうちから速く走るためのトレーニングをやりすぎれば、
馬自身がおかしくなってしまうことも珍しくない。
だから競馬雑誌なんか見れば、馬が立ってるだけの写真が何枚も載ってるぜ。
プロもファンも、それを見てどれくらいこの馬が走るか判断してるんだ」
桜井はその書店で競馬雑誌を一冊買って家に戻った。
人と馬は違う。競馬とサッカーは別のものだ。
桜井は家に帰る道すがら、ずっと心の中でそう繰り替えしていた。
家に着く。パソコンを開け、メールをチェックする。
桜井が求めていたメールが届いていた。
差出人には「田原」の文字。
桜井はすぐにそのメールを開く。
「桜井が木崎さんに不信感を抱いているのはよくわかった。
ここで俺が言葉でいくら木崎さんのすばらしさを説明しても、
桜井は納得できないと思う。
だから自分自身の目で見てもらうのが一番いいと思う。
俺は面識があるので、木崎さんがシンシアに来る前、
サッカー部の顧問をしていた高校の校長先生に話をしておいた。
木崎さんがいままでどんな環境でコーチをしてきたか見てくるといい」
見渡す限り山。山と山の間にわずかばかりの平地。
車の窓の外にはずっとそんな景色が広がっている。
といっても通り過ぎる風景ばかり見ていられない。
桜井は曲がりくねった細い山道を慎重に運転する。
対向車が来ないことを心底願った。自分の運転が下手だとは思ってないが、
さすがにこれだけ幅がない道だと自信がない。
出典:もうひとつの「今日俺が一人で近所の公園でリフティングをしてたら」
リンク:俺のローカルファイル(拾ったとこ忘れた)

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