今日俺が一人で近所の公園でリフティングをしてたら2

2009/03/07 01:05 登録: えっちな名無しさん

朝早く大宮駅から東北新幹線に乗った。
在来線に乗り換えて、小一時間。途中の駅でレンタカーを借りた。
そこから先は電車の本数も少なく、車で行った方が合理的だからだ。
カーナビに従って運転すると、車はすぐに山中に入った。
さっきから人の姿を見ない。走っている道が舗装されていることが、
自分のいる場所が人間界につながっている唯一の証明のような気がしてくる。

道は突然に太くなり、また細くなる。
太くなった時は集落が近づいている合図だ。
しばらくすると家の屋根が見えてくる。
信号や店の看板もちらほらと目に入る。
その集落を通り過ぎ、また山へ入ると道は細くなる。
そんなふうにたくさんの山を越えて、桜井は目的地までたどりついた。

最初、その建物を見た時、桜井は高校だとわからなかった。
ずっと東京と埼玉が生活の本拠だった桜井にとって、
その建物は大きさからして小学校にしか思えなかったのだ。
でも、看板にはしっかりと「高等学校」の文字が刻まれている。
ここが。木崎が監督をしていた学校か。

車を乗り入れる。グラウンドで子どもたちがボールを蹴っているのが見えた。
玄関の脇にある事務室に挨拶をすると、
話は通っていたらしく、すぐに校長室へ案内された。
部屋の中にいた校長は、ぱりっとしたスーツを着た、
いかにも教育者然とした風格のある人だった。

「今日はお忙しいところ、突然おじゃまして申し訳ありません」
桜井は頭を下げた。
「いえいえ、今日は木崎さんのところのスタッフの方が、
 かつての木崎さんの仕事について勉強したい、というお話しでしたから、
 当然、協力させていただくのがわたしどもの役割ですから」
微妙に事実とは違うが、ここで説明する必要もない。
事務室にいた女性がお茶を持ってきてくれる。
桜井は勧められるまま、校長室のソファーに腰かけた。

「木崎…監督は、こちらにどれくらい?」
「十年ほどいらっしゃいました」
校長は遠くを見るように窓の外に目をやる。
「その間、ずっとサッカー部を指導していただきました」
「随分強かったようですね」
インターハイや冬の選手権で五回ほど全国の舞台を踏んでいる。
その全国大会ではいずれも初戦か、二戦目で敗退している。

「中央から来たあなたのような方にとっては、
さしたる実績ではないかもしれません」
校長はちらりと俺を見た。
「けれど、今日ここまでお越しいただいておわかりいただけたと思います。
 うちは普通の県立高校です。しかもこんな山の中の。
 そんな環境であれだけの実績を残したというのは、
 そばで見ている私たちからすれば、奇跡みたいなものでした」

校長は一度言葉を切るとある高校の名前を口にした。
桜井もその高校は知っていた。サッカー以外に野球でも
甲子園に出ているし、他のスポーツも強い私立高校だ。



「あちらは、東北どころか日本全国から生徒さんが来るんです。
 元々そのスポーツの素質を持った子どもたちがね。
 あの高校がなければ、うちの学校はもっと全国大会へ行ってたでしょう。
 正直、私たちもくやしかった。でも、一番悔しいのは木崎先生じゃないかと。

 うちの高校の定員はご存じですか?一学年70人です。
 入学してくる子どもはだいたい男女同数です。
 みんな学校の周りに住んでいる子どもたちです。
 嫌な言い方をしてしまえば、生まれた時から
 この高校に入学することが決まっていたような子どもたちです。

 子どもたちもよく頑張りました。でも、大人の目で見ると、
 あちらの学校の生徒とは持って生まれた素質が違うんですね。
 私はこの高校の校長です。だから、子どもたちが
 多くのことを学ぶことができればそれでいい。

 でも木崎先生は優れた指導者でありながら、同時に勝負師でもあった。
 それはそばにいて感じました。采配とか見てますとね、わかります。
 戦力的にはどう考えてもこっちが不利ですからね、
 その中で戦力差を覆して勝つためには、
 時にギャンブルを仕掛ける勝負師的な面がないとやっていけなかった。
 ただのいい指導者だったら、
 おそらく全国には一回ぐらいしか行けなかったんじゃないでしょうか。
 ただ逆に勝負師の血があるからこそ、
 本人の中では辛いものもあったんじゃないかと、私は思います」


校長が桜井の目の前でお茶を口に運ぶ。


「もちろん木崎先生は、そんなことはおくびにも出しませんでした。
 普通の子どもたちを育ててチームを作るのが、教育の醍醐味だって。
 そのための情熱は木崎先生は惜しみませんでした。

 いま、入ってくる時に校庭でサッカー部が活動してたでしょう。
 あの中には近所の中学校の子どもたちも混じっているんですよ。
 もしかしたら小学校の高学年の子も来てるかもしれません。

 子どもの数が減って、紅白戦もできない学校も少なくないですから。
 地域の学校を回って、熱心に声をかけて。
 中学校の先生方にもご理解いただいて。
 木崎先生がみんなを巻き込んで、ああいう仕組を作ってくれたんです」


どこかで鳥の鳴く声が聞こえる。


「木崎先生は、子どもが小さい頃からどんな子かじっと見てるんです。
 体格はもちろん、性格も、子どものすべてを見ている。
 そして彼らが高校生になったとき、
 一人一人が一番力を発揮できるようなチームを組み上げる。
 その手腕は並大抵のものではありませんでした。

 木崎先生の手にかかると、各々エゴのある子どもたちが、
 ぴたっとひとつのチームにまとまるんです。
 そのチームの中で誰も死んでないんです、我慢してないんです。
 そのための手間たるや尋常じゃなかったでしょう。

 普通、高校の部活動のチームといえば三年かけて作るものです。
 木崎先生は違っていた。
 木崎先生が中学一年生を見ているとき、
 彼の頭の中には三年後、彼らが高校に入ってきたときの
 チームの姿が描かれているんです。

 ひとつの代のチームを五年、六年かけて作ってるんです。
 そこまで手間暇かけて、しかも自分ひとりの力で
 チームを作ってる人がどれだけいるんでしょうか」


校長の口調が少し熱くなっている。
桜井は校長の言葉に気圧されるような感覚さえ覚えていた。


「だから木崎先生にそちらからコーチ就任のお話があった時、
 この周りの親御さんたちはみんな大反対でした。行かないでくれってね。
 でもね、そんな親たちを説き伏せたのは、子どもたちでした。

 木崎先生の指導を受けた、サッカー部のOBたちが、
 大人たちを一人一人説得していったんです。
 木崎先生は絶対に日本でもトップクラスのコーチだ。
 素質のない俺たちを率いて、あれだけの結果を残した。
 そんな素晴らしい人をいつまでもこの場所に縛り付けておけない、と。

 木崎先生にもいろいろ難しい個人的な事情はありましたし…
 それでもコーチのお話を受けることを決めたのは、
 子どもたちの声が大きかったと思います」


桜井は窓の外を見る。子どもたちの歓声が聞こえてくる。
木崎は、木崎監督の目はこの場所で何を見ていたのだろうか。


「これからは木崎先生には自分のやりたいように腕を奮ってほしい。
 いままではあまりに制約が多すぎましたからね。
 それらから解き放たれたとき、木崎先生がどこまでできるのか、
 私も実は楽しみにしているんです。

 どうぞ木崎先生のことをよろしくお願いします。
 いい人なんですが、人に対してちょっと素っ気ない面がありますからね。
 そこがかつて上司だった者としてはちょっと心配で。
 でも優しい男です。子どもたちもそれをわかってて、よくなついていました」



校長室に沈黙が訪れた。
「校庭の練習を見学させてもらってよろしいでしょうか」
桜井は頼む。
「ええ、いいですよ。私がご案内します」
木崎がここで作っていたサッカーを知りたい。
あの男がシンシアで何を作ろうとしているのか。それを見ずには帰れない。
俺は一人で試合を見ていた。
陽は出ているけど、スタジアムの椅子の感触が尻に冷たい。
目の前では後半がはじまったばかりだ。
第83回全国高校サッカー選手権大会埼玉県予選決勝。
南浦和の大勝を予想する声も多かったが、
前半は1−1のイーブンで終わっている。

「優司くん?」
後ろにかけられた声に振り向くと通路に唯さんが立っていた。
今日は南浦和学院の制服姿だ。短いスカートがよく似合っている。
こんにちは、と挨拶する。
バックスタンドには両校の生徒が
それぞれ集まって応援を送っているブロックがある。
きっと前半は南浦和の応援席で見ていたのだろう。

「総くん、大丈夫かしら?」
唯さんは俺に助けを求めるように心配そうな表情で訊いてくる。
「心配いらないですよ。後半、必ず兄貴が点を取りますから」
ほんとに、となおも不安そうに尋ねる唯さんに力強くうなずき返す。

南浦和からゴールを奪った相手の9番は確かにやっかいな存在だ。
前半は彼にパスを送る10番とのホットラインが機能し、
たびたび南浦和のゴール前でチャンスを作っていた。
だがそれも前半までのことだろう。
ピッチに出ている11人の力を比較すれば、かなりの差がある。
これからその実力差がじわじわと効いてくる。

兄貴も相手のストロングポイントが
ふたりのホットラインだともう気づいているだろう。
後半は10番を徹底に封じて、9番へのパスを抑えてしまうはずだ。
残りのメンツじゃ、まず南浦和からは点は奪えない。
一方、兄貴なら45分あれば、
相手のDF陣から1点とるのはそんなに難しくない。
まちがいなく南浦和の勝ちゲームだ、と俺は結論を出していた。

けど、なんか雰囲気のある10番だな。
俺は対戦相手のゲームメーカーを見て思う。
選手としては兄貴のほうが上だろうが、何か魅かれるものがある。
そういえば9番はレッズのジュニアユースの後輩だと兄貴が言っていた。
二人ともまだ二年生だというから、
来年の選手権ではいいところに来るかもしれない。
でも、もう俺には高校サッカーは関係のない話だった。

「そういえば、遅くなっちゃったけど、セレクション合格したんだって?
 総くんから聞いたわ。おめでとう。私の言ったとおりだったでしょ」
驚いたことに数日前、俺の家にはさいたまシンシアから
セレクションに合格した旨の通知が届いていた。
俺は通知を何度も何度も読み返した。夢じゃないよな。
紙をなくしたら合格も取り消されてしまうような気がして、
俺はその通知を机の奥に大事にしまいこんだ。

Jクラブのユースに入れることももちろん嬉しかったが、
坂上や大木とサッカーができる喜びのほうが大きかった。
あいつらと一緒に。もう一度自分の力を試せる。
「だから私は言ってたでしょ、優司くんも絶対すごい選手になるって。
 見る人が見ればわかるのよ」
その目が確かかどうかはともかく、唯さんがずっと
俺の可能性を信じてくれてたのは事実だ。俺は素直に礼を言った。

「また優司くんの応援にも行くからね。じゃあ、席に戻るね」
俺が会釈すると、唯さんは学校の友達がいる方へと走っていった。
俺はしばらく唯さんの後姿を見送ってから、試合に目を戻す。

予想どおり、南浦和は10番と9番へのマークを強めた。
途端に相手の攻撃は手詰まりになる。パスが回らない。
逆に南浦和の攻撃はリズムアップ。
鋭いドリブル突破から、兄貴があっさりと逆転ゴールを決めた。
ヒーローの活躍に南浦和の応援席ばかりでなく、スタンド全体から歓声が上がる。
今日の兄貴の調子はいいようで、
その後もディフェンスの裏へ鋭いパスを何本も配球する。

試合は完全な南浦和のペースだ。
ダメ押しの1点が入るのも時間の問題だろう。
俺は席を立つ。もう勝負は決まった。ここで兄貴が負けるなんて考えられない。
俺は席の間の階段を上り、通路へ出る。

この前のセレクションが終わった後、俺の中には小さくない驚きがあった。
俺、あんなプレーができたんだ。
人を動かし、チーム全体のことを考え、みんなに指示を出す。
坂上のアドバイスや、大木というとんでもない選手と一緒になって、
自分がどうすればいいかを必死で考えたとき、
俺はいままで知らなかったサッカーをやっていた。

ずっと、俺はどうせ兄貴には勝てない、と思いこんでいた。
勝てないに決まってる、と何の努力もせずに、楽な方向へ逃げていた。
兄貴の影にいるのが心地よかったのは俺自身じゃなかったのか?

笛の音にピッチを見る。相手のファールだ。
エリアの少し外、絶好の位置でのフリーキック。
もう兄貴がボールの後ろに立っている。
そうだ兄貴、こんなとこで負けてもらっちゃ困る。
兄貴には全国へ、そしてもっともっと上へ行ってもらわないと。
でなければ。乗り越える楽しみがない。
もうちょっと待ってろ、兄貴。

出口目指してスタンドの通路を歩く。周囲の客は試合に夢中だ。
南浦和の応援席に目をやる。同じ制服を着た生徒たちに紛れて、
唯さんがどこにいるかはさすがにわからない。
俺は出口からスタンドの外へ出る。

俺がこれから進むのは、プロクラブのユース。プロになるための養成所。
そこで俺はどんなサッカーを見る?俺はどんな風に変わっていく?
それはいまはわからないこと。でも確かに俺を待っている世界。
スタンドを後にした俺の背中から、一段と大きな歓声が聞こえてきた。




 (第1章 終わり)
パスが来る。
その予感に俺は走りながら後ろを振り向く。
兄貴と目が合った。俺を見ている。
出てくる。切り裂くようなやつが。
兄貴がコンパクトな振りでボールを蹴る。
戦場を飛ぶ矢のように兄貴のスルーパスが、
ラインの裏にタイミングよく抜け出した俺の足元を射抜いた。

そんな小さな蹴りでよくこんなスピードが出るもんだ。
俺はそのパスを右足で引っかけるようにして、
方向を変えるとゴールへ流し込む。
蹴った瞬間、尾てい骨のあたりに突き抜けるような心地よさ。

兄貴のパスはいつもそうだ。
受け手になんともいえない快感をプレゼントしてくれる。
兄貴の足にかかると、サッカーボールが
まるでマシュマロのように柔らかくなる。

角度が変わってゴール隅に飛び込んできたボールに、
ゴールキーパーは全く反応できずにただ見送るだけだ。
彼にしてみれば兄貴の足元からパスが出て
ボールがゴールに吸い込まれるまでの時間は
人が瞬きする程度の長さにしか感じられなかっただろう。

「ユウジ、よくやったな」
兄貴が俺の頭を軽く叩く。
俺は兄貴に褒められるのが嬉しくて満面の笑顔を返す。

あれ、これは…

「ユウジはほんとうまくなったなあ」
「当たり前じゃん。いつも兄ちゃんと一緒にやってるんだもん。
 他のやつらになんか負けないぜ」

そう、確か子どもの頃、こんなことがあった…

興奮している「俺」は兄貴に向かって喋り続ける。
「俺、絶対兄貴と一緒に日本代表になるんだ!
 兄ちゃんのパスを俺がゴールに決めるんだ」
「そうだ、俺たちは一緒に日本代表になるんだもんな」
兄貴が俺の夢を馬鹿にしないで受け止めてくれたことに、
まだ幼い俺はすっかりご機嫌だ。
「そうだよ、兄ちゃん。二人で代表になるんだよ。約束だぜ」
「わかった、わかった」あやすような兄貴の口調。

これは何年前だろう、兄貴と同じチームにいた頃だから小学生?
でもなぜこんな景色を俺は見ている?
これは過去の景色、もう戻れない時代の思い出。


「ユウジ!起きろよ。お前の番だぞ」
突然よくとおる太い声が俺の頭の中に割り込んできた。
誰かの手が俺の背中を叩いている。

ん、なんだ?そもそもここはどこだ?
顔を上げると目の前に誰かが立っていた。
「疲れてるのはわかるから
 勘弁してやりたいんだが順番なんでなあ」
国語教師の東が本当に申し訳なさそうな顔で俺に言った。
後ろからは坂上が「149ページの頭から朗読だ」と小声で言っている。
どうやら順番に教科書の朗読をやっていたようだ。

すっかり寝入っていた俺は自分の番になったのも気づかなかったわけだ。
「すいませんでした」と俺は東に謝って立ち上がった。
確かに疲れはあるが、それを言い訳にしてはいけない。

うちの高校は先生もシンシアのユース活動に理解を示してくれるし、
周りの友だちも遠征中の授業内容を
教えてくれたりとバックアップしてくれる。
だからこそ周囲に甘えてはいけない、というのが、
俺も含めたこの高校に通うシンシアユース生の総意だった。

「そろそろ全日本ユースだっけ?優勝できるよう頑張るんだぞ」
苦笑しながら東が言う。

「任せといてくださいよ。俺がいれば優勝まちがいなしです」
二列隣の席に座っている大木が脇から口を突っ込んできた。
「おお、そうか。それは頼もしいな」
東が素直に相手をするものだから、大木がますます調子に乗る。

「ユウジや坂上はいなくたって別に問題ないんですけどね。
 このサイドを駆ける天才ドリブラーの俺がいないと、
 シンシアの攻撃力は半減ですから」
またはじまった、という醒めた目で坂上が見ている。
クラスのみんなはまた大木のビッグマウスがはじまったとニヤニヤしている。

「必ず決勝まで行くんで、みんな埼スタで応援よろしく!」
大木が立ち上がってアピールすると、クラス中から拍手が起こった。
その調子のよさに苛立たせられることも少なくないけど、
それでも大木には人を惹きつける明るさがある。

「よし、じゃ授業に戻るぞ」と東が声をかけると、
いい感じでみんなの雰囲気がすっと切り替わった。
俺は教科書の朗読をはじめる。
静けさを取り戻した教室に俺の声だけが響く。
ある程度読んだところで「そこまで」と東から声がかかり、
後ろに座っている坂上が立ち上がる音がして、続きを読み始めた。
俺たち三人が同じクラスにいるのには理由がある。

シンシアユースに所属するユース生は、全員この埼玉総合高校に通っている。
理由はいくつかある。一つは立地だ。
シンシアの練習場とこの埼玉総合高校は非常に近い。
ユース生の日常は自宅と高校と練習場の三箇所をぐるぐると移動することになる。
離れていると移動に要する時間も馬鹿にならない。
その意味で練習場に近接しているこの埼玉総合高校は打ってつけの場所にある。

もちろんそれだけではない。
もう一つの理由として、埼玉総合高校とさいたまシンシアの間で、
密接な協力関係が築かれていることも大きい。
ユースの担当者と学校の教員の間で、定期的な打合せが設けられていて、
学校側もユース生の活動を積極的に支援する姿勢を明確にしている。
Jクラブの公益性に対する社会の認知度が高まった証とも言えた。

また、俺たちにとって都合がいいことに埼玉総合高校にはサッカー部がない。
この学校は人口急増期に急遽建築されたため、
十分な敷地を確保できずに開校を迎えており、
そのためグラウンドが高校の平均的な大きさより狭くなっている。
野球部が開校当初から活発に活動していたため、
後で起きたサッカー部を作ろうという意見は、
練習場所の確保がネックとなり実現せぬまま現在に至っているという話だ。

学校のサッカー部に気を使わなくていいのは、
俺たちユース生にしてみれば気が楽だったし、
学校側もサッカー部がない分、
シンシアユースの活躍を自校の栄誉のように扱って、
朝礼とかでも取り上げてくれる。
ユース生の俺たちにとっては居心地のいい環境といえた。

もちろん公立である以上、入試は実力勝負だ。
推薦入学があるのでおおむね入学は認めてもらえるらしいが、
それでも許される最低限の内申点と学力のラインはある。
俺はちょうど自分の頭に適した難易度だったが、
大木は入学するために、シンシアユースへの加入決定後は必死で勉強したらしい。

逆に坂上は元から頭がいいから、ほとんど苦労していないはずだ。
入学から一年半経つがテストの結果で、
坂上が学年のベスト5から外れたのを見たことがない。

学校としてもユース生を優遇することで、
坂上のような文武両道の生徒が入学してくれば、
他の生徒のいい刺激になるというメリットもあるのだろう。
そんなわけで俺は坂上や大木と
ユースのみならず学校でも顔をつきあわせながら生活している。

大木が言ったようにもうすぐ俺たちにとって
大一番となる全日本ユース選手権が控えている。
いい結果を残して学校のみんなにも喜んでもらいたいな。
俺は並んでいるクラスメイトの頭を眺めながら思った。

ふと俺はユースに加入した最初の日のことを思い出す。
プロクラブのユースに入れる嬉しさ、
目の前に広がる整備された人工芝のグラウンド。
俺一人だけが子どものようにはしゃいでいた。
もうあれから一年半が経った。

しかし…。
なんで最近またあの夢を見るようになったんだろう。
正確に言うと夢とは少し違う。子どもの時の記憶。
兄貴と一緒にサッカーをしていた頃の風景。
その夢は俺のガキっぽさ丸出しの言葉で終わる。
「二人で一緒に日本代表になるんだ」
俺は足に伝わる人工芝の感触を何度も楽しんでいた。
今日からプロになるための練習がはじまる。
甘い世界じゃない。俺は何度も自分に言い聞かせるが、
やはり気分がそわそわと浮き立ってくるのを抑えきれない。

俺の中学校は当然土のグラウンド。
天然芝はもちろん、人工芝でさえ
プレイできる機会なんていままでそうはなかった。
足に伝わる滑らかな感触についつい頬が緩んでしまう。
「意外とシンシアも設備いいんだなあ。スポンサーの力かな」
俺の隣で大木はクールに周囲を観察している。

ヴェルディにいた大木にすれば、
特に目を見張るほどの設備ではないのかもしれない。
「J2でこれだけの施設があればたいしたもんだと思うよ。
 専用の練習場がないところも珍しくないんだしさ」

坂上は俺と同じでJの下部組織にいた経験はないはずだが、
坂上ぐらい力があれば過去に選抜チームとかで、
充実した施設を数多く見てきているので驚くこともないのだろう。
自分だけが小学生みたいにはしゃいでる気がしてくる。

俺たちの周囲には同じように今年ユースに加入する選手がいる。
全部で十人ちょっとぐらいか。
俺たちは同じユースの仲間でありながら、
同時にトップチームへの昇格を争うライバルでもある。
プロを目指す者同士ならではの微妙な距離感を感じてしまう。

「しかし、遅いなー。集合は三時だったよな」
大木がクラブハウスの壁に付いている時計を見て呟いた。
もう五分くらい過ぎているのに、コーチが来ない。
俺たちはグラウンドで待ちぼうけだ。

坂上が内部昇格組らしいやつに、遅れることって結構あるの?と聞いている。
聞かれたやつが左右に首を振った。
二年生、三年生ももちろんいるはずだが、今日は姿が見えない。
別の場所で練習しているのか、それともオフなのか。

「ユウジ、待っててもしょうがないからウォームアップやろうぜ」
坂上が俺に言った。
周囲を見ると他のメンバーは相互に自己紹介とかしているみたいだ。
みんなの輪に入った方がいいんじゃないか。
そんな気もしたけど、俺は坂上に付き合うことにした。
俺と坂上が向かい合って対面パスをはじめると、
「おい、俺も入れろよ」大木が強引に入ってきた。

互いの間隔を少しずつ広げながら、そのまま三人でボールを回す。
いつもは饒舌な大木も練習中は貝のように無言になる。
見ていると、パスを受ける間際に必ずすばやく首を振る。
体の向きを毎回変え、ボールを運ぶ先を意識して受ける。

それ自体は誰でもやってることだが、
その動きがあまりに真に迫っているので、
大木がどこに敵がいると想定してボールを受けようとしているのか
見てる俺にもわかるくらいだ。

途中から坂上の提案で、地面にボールを落とさないパス交換。
ますます持っている技術の違いがはっきりする。
くやしいけどさっきからボールを落としたり、
パスの方向が乱れているのは俺だけだ。
坂上も大木もしっかりボールをコントロールしているし、
俺の下腹部あたりにぴったりとボールを送ってくる。

やっぱりこの二人はうまい。俺は改めてそう思う。
シンシアユースに加入が決まった後、一生懸命練習したつもりだが
それでも二人と俺の間にはまだ大きな差がある。
そしておそらく、あっちにいる他のメンバーとの間にも。
早く。追いつかなくちゃ。


しばらくすると坂上がボールを足元に止めた。
クラブハウスの時計を見ているようだ。もう長針が「3」のところを差している。
他のメンバーはまださっきの場所で楽しそうに話している。
それを見ると、なんか三人だけが浮いてしまったような気がして落ち着かない。
でも坂上はそんなことにはまったく頓着しない様子で
「打合せが長引いてるのかな…とりあえず2対1でもやるか」
俺はうなずいた。何か言うかと思った大木も素直に同意する。

俺たちが何本か2対1をやり終わったところで、
「ようやくお出ましだぜ」
大木が横を向いて俺たちに教えてくれた。
俺たちは練習をやめてみんなの場所へ戻る。
クラブカラーのジャージを着た大人が四人、
クラブハウスからピッチへ歩いてくる。

「こんにちは」その中の若い男性が俺たちに声をかけた。
ユース生たちが一斉に挨拶を返す。
この人、セレクションの時に受付してた人だ。俺は思い出す。
順番にスタッフの紹介がはじまる。最初に監督。

「ユースチーム監督の木崎です。よろしく」
彫りの深い顔立ち。やや大きめの目。低いドスの効きそうな声。
そう、この人は確か。あのセレクションの時に俺を見ていたオヤジだ。
俺がリフティングしているのをじっと見ていたグラサンの男。
このオヤジが監督だったのか?
俺の当惑をよそに、スタッフの自己紹介が続く。

その後はユース生の番だ。自分の名前、ポジションを言う簡単なもの。
全員の自己紹介が終わると、木崎監督が口を開いた。
「これから練習をはじめるわけだが、
 初日でもあるので少し話をさせてもらいたい」
みんなが聞き漏らすまいと身構える。

「君たちがいるこのユースという場所は学校ではない。
 プロサッカー選手を養成するための場所だ」
木崎は言葉を切って俺たちを見渡す。
「学校ならば、なんとか一人前にして送り出すのが前提だ。
 多少、勉強がうまくいかなくても面倒を見る。
 勉強が嫌いな子なら、勉強の大切さを説明してわかってもらう。
 しかし、ここはそういう場所ではない」

木崎がまた俺たちを見渡す。まるで睨みつけるようだ。
「いま、俺たちはわざと遅れてここに来た。
 そして君たちの様子をあの窓から見ていた」
木崎は背後にあるクラブハウスを指した。
「時間が来た時点で練習をはじめたのはそこの三人だけだった」
木崎は俺と坂上、大木を差した。 

「俺たちは確かにコーチだ。
 だが、俺たちの言うことに黙ってハイハイと従っていれば、
 自動的にプロになれるというものではない。
 この中からトップに昇格できるのは、
 普通ならニ、三人。下手すりゃゼロってこともありうる。
 もし昇格できなければ基本的にはクラブとの縁はそこで切れる」

グラウンドを吹く風が急に冷たくなったような気がした。

「むしろ俺たちのできることは限られている。
 君たち一人一人が持っているどんなプレイヤーになりたいかという目標、
 それを目指して進む道が、少しでも効率のいいものになるよう
 アドバイスするというのが、コーチのできる現実的な仕事だ。
 君たちは俺たちに教わるんじゃない。
 君たちが俺たちを道具として使いこなすんだ。
自分に与えられた、限られた時間をどう使うか。何をして過ごすか。
 それが三年後の君たちの進路を大きく分ける。
 道具がないからといって遊んでいれば、おそらくプロにはなれないだろう」

話の意味を理解した周囲のユース生の顔が白くなる。
俺は冷や汗をかくと同時に微妙な居心地の悪さを感じていた。
俺は練習をはじめた三人の中に入っていた。
だがそれは、自分で時間を大切にしようと考えたからではなく、
坂上に声をかけられて深く考えずについていっただけのことだ。

「じゃあ最初の練習をはじめようか」
俺たちの反応を楽しんでいるかのように、木崎監督が言った。
その翌日。他の学年のユース生も今日はグラウンドに来ている。
木崎監督が練習の最初に一年生だけを集めた。
上級生たちはグラウンドの中央でウォームアップをこなしている。

「今日はこのシンシアユースでどんな練習をするか、
 俺の考えを話しておきたい。
 これからしゃべることは、もう他の指導者から聞いていたり、
 または自分自身で考えて理解している者もいるかもしれない。
 だが、確認する意味も込めて俺の話を聞いて欲しい」

木崎は俺たちを見渡すと
「坂上、ちょっと手伝ってくれるか」
はい、と爽やかに返事をして坂上が立ち上がる。
もう木崎監督と打合せは済んでいるのか、コーチの二人が走っていく。
センターサークルを越えたあたりで二人は足を止めて、こっちを振り返った。

「俺がボールを出すから、坂上は一度トラップして
 二人いるコーチのうち、遠くにいるほうにボールを出してくれ」
坂上は素直にはい、と答える。
木崎が手に持ったボールを坂上の足元に投げた。

坂上はボールを右足の裏で止めると、
すかさず左足を踏み込んで右でロングキック。
動作が速い。いつルックアップしたのかと思うくらい動きがスムースだ。
ボールが大砲から打ち出されたように勢いよく飛んでいく。
遠くで待っている桜井コーチの足元へぴたりと落ちた。
さすが、坂上。この距離ならフィードの正確さはピカイチだ。

桜井コーチがボールをトラップしたのを見ると、
木崎監督は次のボールを坂上の足元に投げる。
コーチたちを見ると、今度はGKコーチの長崎さんのほうが後ろにいる。
それぞれ動いて場所を入れかえているようだ。
坂上がまたボールを蹴る。
長崎さんが一歩も動くことなく、落ちてきたボールを両手でキャッチする。

「その調子で頼む、坂上」
木崎の言葉に、はい、と坂上は律儀に返事をするが、
その顔には疑問が浮かんでいる。
俺もいま目の前で行われていることの意味が掴めない。

そのまま見ていると次第に木崎がボールを出すピッチが早くなってきた。
坂上もスピードをあげてボールを蹴る。
やがて球出しのピッチは理不尽とも言えるものになってきた。
坂上の足元にボールがあるうちに、次のボールが投げられる。
さすがの坂上もボールの軌道が乱れはじめる。

最初はぴたりとコーチのいるところに飛んでいたキックも、
だんだんあらぬ方向に行くようになってきた。
コーチの位置を間違えて、近い方へ蹴ってしまうボールもでてきた。
無理もない、この間隔じゃすべてのボールが正確というのは不可能だ。

しばらくしたところで木崎が、
「坂上、どうもありがとう」
と言ってボールを投げるのをやめた。
坂上は軽く礼をして、引き下がる。

坂上が元いた位置に戻ったのを確認して木崎が話しはじめた。
コーチも走りながらこっちへ戻ってくる。
「坂上に手本になってもらったのは、昨日俺が見たところ、
 このメンバーの中でミドルレンジのキックが一番正確だからだ。
 最初からずれまくってしまうと、ちょっと説明の手本としてはあれなんでな、
 損な役回りになってしまったが、坂上は気にしないでくれ」
坂上がわかってます、というようにうなずく。

「最初、坂上のキックはみんなも見たとおり実に正確そのものだった。
 向こうで待っているコーチのところへぴたりと落ちていく。
 ところが俺がボールを出すピッチを早めると、
 次第にキックはぶれ始め、出すべき相手を間違えるキックもあった。
 なんでこうなった?」

一瞬の沈黙。それを破る甲高い声。
「時間がなかったから」
大木が当たり前のことじゃん、という表情で言った。
つっけんどんにも聞こえる話し方だったが、
木崎監督はその答えに深くうなずくと


「大木が言ったとおりだ。時間がなかった。
 それがキックが乱れた唯一にして最大の理由だ。
 たとえばいまみたいなロングキック、
 いくらでも時間をかけていいのなら、
 ここにいる君たちの技術なら彼らのいる位置に
 ピンポイントで蹴るのはたやすいことだろう。
 これより短いショートレンジのパスならもっと簡単なはずだ。

 だが試合になると、これは君たちに限らずプロでもだが、
 しばしばパスミスというのが起きる。
 なぜだ?そう、いま大木が言ったとおり時間がないからだ。
 ピッチにいる残りの21人がみんな君にあわせて動いてくれる訳じゃない。
 味方はそれぞれ自分の考えで動くし、
 敵は君の自由を奪うためにプレッシャーを掛けにくる。
 時間がないことが君たちのミスを誘発する」


監督は自分の言葉が届いているか確認するように俺たちを見渡す。


「サッカーにおけるすべての動きは、三つのプロセスを常に経る。
 watch、judge、actionだ。観て、考え、行動する。
 いまの坂上の例で言えば、まず俺が放り投げたボールを観る。
 どの辺に飛んでくるか、どんなバウンドか。
 同時に目標の位置を確認している。コーチの場所だな。
 これが「観る」の過程だ。

 次にjudgeだ。今回、俺は坂上に遠くにいるコーチのほうに
 ボールを蹴ってくれ、という指示を出した。
 当然、坂上は観た後、どっちが遠くにいるかという判断をする。
 同時にどれくらいの強さでボールを蹴ればよいか、というjudgeもしている。

 最後はaction、行動だ。この場合なら実際にボールを蹴る。
 判断した内容に基づき、適切に技術と筋肉を駆使して、
 イメージしたとおりに体を動かして、ボールを飛ばす」


俺たちは木崎監督の話を黙って聞いている。


「いまの話はどのスポーツでも共通するものだし、
 極端なことを言えば日常生活だってこの繰り返しだ。
 だが、サッカーというスポーツに着目して考えると、
 特徴的なのは相手が常にこちらの時間を奪いに来ることだ。

 これは野球や、テニス、バレーのような身体的接触が
 分離されているスポーツと比較してみるとわかりやすい。
 またラグビーやアメフトのように、
 「陣地」という概念があるスポーツと比べても興味深い点だ。

 ラグビーは、スクラムでボールを保持されていると手が出せないからな。
 サッカーにおける守備とは、
 基本的に相手の時間と選択肢を奪う作業だと俺は考えている。
 個人的には守備側がここまで能動的に、
 攻撃側の時間を奪うために行動できるスポーツは、
 他にあまりないように思う」


ふと横を見ると、いつものふざけた表情はどこへ、
大木が目を大きく開いて木崎の話を聞いている。


「じゃあミスを防ぐにはどうすればいいか。
 俺の答えはシンプルだ。プレイスピードを上げればいい。
 人より短い時間で動作を行えれば、
 プレッシャーをプレッシャーと感じないで済むし、ミスも少なくなる。
 じゃあ具体的にどうやってスピードを上げていくか?
 さっき分類した三つのシーンに沿って考えてみよう。

 まず一つ目の「観る」。これはなかなか劇的な時間の短縮は難しい。
 人間の目というのは想像しているより遙かに優秀でな。
 瞬時に多くの情報を脳に伝えてくれるんだ。
 この時間を短くするのは相当至難の業だと俺は思っている」


なにか意見はないか、と言うように木崎監督が俺たちを見る。
むろん、誰からも言葉はない。


「逆に気をつけなければ行けないのは、きちんと「観る」ことだ。
 時間がなくて、急がざるを得ない時、
 人間ってのは無意識のうちにプロセスを省略してしまう。
 プロセスを間引いて時間を調整する機能を持っているんだ。
 それは人間として必要な機能だ。俺もすべてを否定する気はない。

 だが往々にして、サッカーではプレッシャーを掛けられると、
 プロセスを必要以上に省略してしまう例が非常に多い。
 たとえばゴール前でルーズボールが転がってきた。相手も取りに来てる。
 こんな時に落ち着いて「観る」ことができて、
 十分なプレイスピードを持っていれば、
 そのボールをフリーの味方につなげるかもしれない。
 それがカウンターになりゴールを生むかもしれない。
 ところが余裕がないと「観る」のプロセスが飛んでしまって、
 タッチへ一目散に蹴り出してクリア、となってしまうわけだ」


木崎監督の言うことは俺も覚えがあった。
俺たちくらいの年代だとよくある
クリアボールを蹴り合うだけでパスのつながらないサッカー。
以前、兄貴と一緒に高校サッカーのテレビ中継を見ていたとき、兄貴が
「レベルの低いサッカーだな。誰も周り見てないよ」と
一刀両断に斬り捨てて見せたことがあったのを思い出した。


「次にjudge、判断することだ。
 いまの坂上に求められていた判断は単純な二択だった。
 だが試合中は広いピッチに転がっている
 様々な選択肢の中から、適切な回答を選ぶことが求められる。
 このjudgeに要する時間を縮めるためのアプローチとして
 オートマチズムや決まり事、約束事と言ったものがある。
 混同している人も多いようだが、
 オートマチズムと決まり事というのは、本質的にはまったく異なるものだ。
 まあ、この二つの違いの話はまた今度しよう」

一息置いて木崎監督は話し続ける。


「プロの棋士が短い時間で信じられないほど
 多くの手を読んで自分の指し手を決めるように、
 周囲のプレイヤーより多くの選択肢を検討して判断できれば、
 君たちはピッチで他の選手に差をつけることができる。
 だが、判断するスピードを上げるというのは簡単なことじゃない。
 経験も必要だし、トレーニングも必要だ。
 また、ただ行動を決めればいいというものでもない。
 どうすればよいかを考えて、決めるから判断なんだ。
 だから君たちにはピッチに立っている間、
 常に考え、常に判断していくことの必要性を理解してもらいたい」

木崎は言葉を一旦切る。


「最後にaction、動くことだ。
 いまの坂上の例を使うなら、キックの精度はそのままで
 足の振りのスピードを0.1秒でも速くすることができれば、
 それはプレイする上での余裕マージンになる。
 正しい走り方を覚えて速く走れるようになればそれだけ時間が稼げるし、
 練習して短時間で的確なトラップができるようになれば、
 その分余裕を持ってプレイすることができるだろう。
 正確にコントロールすることが技術を養う意味じゃない。
 正確に、そして速くコントロールすることに技術の価値がある。
 それを意識して技術の習得に取り組んでもらいたい。
 また、疲労してくると技術の正確性が落ちてくる。
 自分の持っている技術を常に十分発揮できるフィジカル面の強さも必要だ。
 俺はこれから常にいまのことを意識したメニューを組むつもりだ。
 いままでとは随分やり方の異なる練習もあるだろう。
 疑問があったら、遠慮なく俺たちに練習の意味を聞いてもらって構わない」


木崎監督はこれで終わりだというように、何か疑問は?と俺たちに尋ねる。
誰も言葉を発さない。
「よし、それでは練習をはじめるとしよう」
木崎が言った。
ユースでの練習がはじまって何日か経ったある日。
基礎練習が終わったところで、木崎が俺たちを集めた。
「仕上げにいつものルールで30分ハーフの紅白戦を行う。
 メンバーはビブス組が…」

一瞬、早くもレギュラーの振り分けかと身構えたが、
周囲の上級生の落ち着いた表情を見ると、普通の紅白戦らしい。
けど。なんで上級生たちあんな嫌そうな顔をしているんだろう?
俺はそれが微妙に引っかかった。

チーム分けで順番に名前が呼ばれていく。
まず俺の名前。坂上、大木も同じチームだ。
怪我をしている者や、別メニューでの練習を
指示されたメンバーが何人か抜けていく。

「いつものルールってなんだ?」
大木が坂上に聞いている。聞かれた坂上も首をかしげる。
その声が耳に入ったのか、木崎監督が大木を見ると、
「すぐにわかる。とりあえずは普通のゲームと同じだ」
なんとなくそれ以上は聞きづらい。
周囲の上級生もそのうち嫌でもわかるよ、と言うような表情だ。

すっきりしないものを腹に抱えながらピッチに入る。
俺たちのチームは4−4−2。
俺は下がり目の中盤、坂上がセンターバックに入っている。
大木は右サイドだが今日は紅白戦だからか
特に不満をいう気はないようだ。
それとも試合がはじまれば、
中央に流れてしまえばいいと思っているのか。

キックオフ。
うちのチームは一年生が多い。
逆に向こうのチームはほとんどが上級生だ。
偶然にしては偏りがありすぎる。意図があるのだろう。
次第に上級生チームのパスがつながりはじめる。
こっちはまだ顔をあわせて一週間も経っていない。
全員のポジションだってまだ覚えきれていないような状態だ。
連携では向こうに一日の長がある。そしておそらく技術でも。

時間が経つにつれ、次第に俺の顎が上がりはじめる。
ボールを取りにいっても触らせてもらえない。
相手のフェイントに軽くいなされ、俺の体は左右に振り回される。
さすがユースだ、個人個人のレベルが高い。
トラップ、パス、ボール扱い。

ゴール前での混戦、こぼれ球が俺の前に転がってくる。
俺はそれを間髪いれずにタッチへ蹴り出す。
前線から大木の怒鳴り声。
「ユウジ!いまのつなげるぞ、焦って蹴るな!」
言葉がずしっと来る。確かにいまの俺は周囲を見る余裕がない。
俺がいまグランドにいるメンバーの中で、
一番下手なんじゃないかという気がしてくる。

さらに上級生チームの猛攻は続き、
サイドを崩されて、ニアへ低いグラウンダーのボール。
それを後ろから飛び込んできた選手がゴールに押し込んだ。
あっさりと相手の先制点。
紅白戦といえど点をとられるのは気分のいいものではない。
けれどもまだまだ時間はある、勝負はこれからだ。
そう思い直したとき、うちのチームの上級生の会話が耳に入る。

「どうする?誰が出る?」
「一年坊、アウトさせるわけにはいかないから、今日は俺が抜けるよ」
「すまない」
そのまま、俺が抜ける、といった上級生がピッチを出て行こうとする。
意味がわからない。レッドも出てないのになぜピッチを出ていく?
あ然としている俺たちに気づいたらしく、
彼が、ああ説明してなかったな、という顔をしてしゃべりはじめた。

「この紅白戦は点をとられたほうがひとり退場になるんだよ。
 いま、先制されたろ?だからうちのチームから
 誰か抜けなきゃいけないんだ」
一点リードされてるのにうちのほうが一人少なくなるということか?
「このあと俺たちが一点取り返せば、今度は相手が一人抜ける。
 逆に相手に追加点をとられたら、うちはさらに一人少なくなる。
 後は頼んだぞ」

そう説明すると上級生は悔しそうな顔で外へ出て行った。
「このまま、一枚前を削る形で続けよう」
残ったもう一人の上級生が俺たちに言う。抜けた先輩はフォワードだ。

試合再開。11対11でも旗色が悪かったのに、
一人少なくなればその差がさらに開くのは当たり前だった。
ハーフウェーあたりから自在にボールを回される。
きつい。足に来る。

前線が一枚減った分、前からのプレスが緩い。
いや俺たちが気落ちしているのも大きい。動きに活力がない。
いつものことだが大木がちんたらと守備をしているのを見て、
思わず怒鳴りつけたくなった。

左サイドから中央を経由して右サイドへボールを動かされ、
最後はクロスからヘディング。
ずっとボールを持たれ、左右に揺さぶられ続けた影響か
ディフェンダーも完全にマークがずれていた。ネットが揺れる。
地震で崩れる建物みたいだ。
その前の揺さぶりで既にガタが来ていた。
「今度は俺が抜ける」
ゴールから回収したボールを俺に渡しながら坂上が言った。

「おい、お前が抜けたら…」俺は思わず引き止める。
DFの中でも坂上が一番安定していた。その坂上が抜けちまったら…
「こうなったら点をとらなければジリ貧だ。
 点が欲しい以上、後ろを削るしかないだろう」
後はお前に任せた、というように、
坂上が俺の肩を叩いてピッチを出ていく。

任せられても。この状況でどうしろってんだよ。
11対9で試合は再開されたが、勝敗は決していた。
ボールが敵陣に飛ぶことなく、上級生チームがやすやすと三点目を奪う。
ほとんどボールに触らなかった大木が、
憮然とした表情で自分からすたすたとピッチを出て行く。

俺たちの集中の糸は完全に切れていた。
その後、四点目を奪われるのに、さほど時間は要しなかった。
「よし、そこまで」
四点差がついたところで、木崎から声がかかった。

「前半で終わっちまったな。
 三十分も持ちこたえられなかった以上、ペナルティもきついぞ。
 グラウンド20周だ。走り終わったら今日は解散していいぞ」
一足先にピッチサイドで待っていた大木の表情が真っ青になる。
「20周!!」
悲鳴を上げた大木をすかさず木崎監督が睨みつける。
大木は黙って肩をすくめた。

「よし、走るぞ」
もう慣れてるとでも言うように、上級生が俺たちに声をかけて走りはじめた。
坂上も俺も、大木も渋々上級生の後についていく。
「なんだよ、この紅白戦おかしいよ!
 だいたい点をとられたほうから一人外すなんて。
 先制点が入った瞬間、ほとんど勝負決まっちまうじゃないか」
大木は納得がいかないらしく走りながらぶつぶつ言っている。

「走りながらそれだけ言えるなんて元気だな」
坂上が大木に皮肉を言った。
大木はほとんどボールが来なかった以上、体力もあり余っているだろう。
だが守備にさんざん走らされた俺は、
この後走る距離を考えただけで、気が遠くなりそうだった。

大木は坂上の嫌味も気にせず、まだぶつぶつ言っている。
「第一、罰走ってなんだよ?高校サッカーじゃないんだぜ。
 一応ここだってJクラブのユースだろ?わけわかんねえよ。
 それともこれだけ走らせるってことはジェフみたいなサッカーやる気か?
 単にオシムを真似してみましたなんてオチじゃないよな?」
大木と会話する気力もない。俺の頭の中は20周走りきれるかどうか、
そして明日の練習までにどれだけ体力が回復できているかで占められていた。
「今日はミニゲームをやる。ただし、ちょっとルールに制約がある」
基礎練習を終えた俺たちを集めた木崎監督が言った。
「まずチーム分けをいう。Aチームが、坂上、高木、本庄、大木…」
何の因果か三人とも同じチームだ。全部で六人の名前。
ついで、Bチームとして別の六人の名前が呼ばれる。
「最初なので、今日はAチームだけこの「縛り」でやってもらう。
 Bチームは今回は普通にゲームしてもらっていい」

A、B両チームのメンバーが前に並ぶ。
俺たちに桜井コーチがビブスを渡す。
だがよく見てみると、各々に渡された色が違う。
俺と坂上には赤。大木ともう一人に青、残りの二人には黄色だ。
相手チームには全員に緑のビブスが配られている。
怪訝そうな表情の俺たちに監督が説明をはじめた。

「これから六対六のミニゲームをやってもらう。
 ゴールはあそこにある、簡易型のミニゴールを使う。オフサイドはなしだ。
 ただし、Aチームのみんなにはひとつ「縛り」をかけさせてもらう。
 赤いビブスのプレイヤーは、青のプレイヤーにしかパスは出せない。
 青は黄色いビブスの選手にだけ、パスを出せる。
 同様に黄色のビブスを着た者のパスは赤の選手しか受けられない。
 赤は青へ、青は黄色へ、黄色は赤へ、だ。覚えたか?
 今回は同じビブスを着ているやつへのパスもOKとする。
 ドリブルはもちろん自由だし、シュートも誰が打ってもいい。
 ただしパスについてはいま説明した約束事を必ず守ってくれ。
 じゃあ早速だ、ゲームをはじめてみよう」

俺は必死に監督が言ったことを頭の中で繰り返す。
俺の色は赤だ。同じ赤は坂上。
パスを出せるのは青、青を着てるのは大木と内部昇格の高木というやつだ。
残りの黄色の味方、確か名前が若井と池田だったか、
この二人にはパスは出せないことになる。

いったいどんなゲームになるんだろう?
不安を抱えたまま、コーンで区切られたコートに入る。
ミニゲームにしては少し大きめのサイズだ。
全員の準備ができたところで桜井コーチが笛を吹いた。
キックオフした黄色の選手が俺にボールを下げた。
パスを出せるのは、赤と青。大木は…どこだ?

捜してる間にあっという間に相手が詰めてくる。
焦った俺は後ろにいた坂上に、逃げるようにボールを預ける。
すぐに相手がチェックに行った。
やむをえず坂上がセーフティに横へ蹴り出す。
俺は坂上に手を挙げて詫びた。

しばらくやってみるとすぐにこのルールの難しさがわかった。
出せる相手が見つからずパスがつながらない。
フリーだ、と思った味方が黄色いビブスを着ている。
大木の、高木の位置を常に頭に入れていなければならない。
大木が考えるのなんてめんどくさいとばかりに、
猛然とドリブルで突っ込むが、さすがにセレクションの時とは相手も違う。
そんなに簡単には突破させてもらえない。

相手からボールを奪っても、パスコースを
捜しているうちに囲まれて取り返されてしまう。
制約のない相手チームは自由にパスをつなぎ、ゴールを奪う。
俺たちがただ右往左往しているうちに笛が鳴った。
思わず膝に手をつく。何もできなかった。

まともにつながったパスが何本あっただろう。こんなのサッカーじゃない。
呆然とする俺たちに木崎監督が声をかける。
「やってみると難しいだろう。どうしたらいいか、みんなで話し合ってみろ。
 Aチーム以外のメンバーもこれからやってもらうことになる。
 自分がやるときにはどうすればいいか、いまのうちからイメージしておけ」

木崎の言葉に、俺たちAチームのメンバーは集まって話しはじめる。
「なんか、頭が混乱してきた」
青を着ている高木が、頭を抱えている。
「考えながら走るって、すげえ疲れるんだな」
池田がため息を漏らした。
坂上はまだ余裕があるが、やはり多少は混乱しているようだ。
「あー、うざってぇ!全員ドリブルで持ってっちゃえばいいんだよ」
大木が無茶を言い始める。

落ち着け、と坂上が大木をたしなめる。
「それじゃ、いまと同じ結果になっちまう。
 気を静めてどうしたらいいか、みんなで考えようじゃないか」
大木が口をへの字に曲げるが、坂上の言葉が正論だというのは認めたようだ。
「本庄はどう思う?」
坂上がいきなり俺に振ってきた。

俺は頭の中で考えを整理してからしゃべりはじめる。
「ただでさえパスできる味方がいつもより限定されてるんだから、
 もらえる色のやつが積極的にパスコースを作らないと
 すぐに手詰まりになっちまう。
 ミニゲームなんだからポジションとか関係なく、
 もらえるやつがどんどんもらいにいかないと」
坂上が同感だというように、うんうんとうなずく。

俺の言葉に触発されるように、黄色いビブスを着た若井も意見を言う。
「ボールもらってから捜してたらキツいよ。
 もらう前からパスの出し所ある程度イメージして受けないと。
 それに周囲もこいつがもらいそうだな、というのを予想して、
 自分がもらえる位置に先読んで動いていかないとだめじゃないか」

坂上がますます我が意を得たり、というようにうなずく。
「そのとおりだな、赤から青、黄とパスは回るはずだから、
赤が持ったら、青はもし自分に来たら誰にパスを出すか考えつつ、
 適したスペースに動いて赤からパスをもらわなくちゃいけない。
 黄色も、赤がどの青にパスを出すかを想定して、
 青にパスが渡った時その青が自分に出せるように、
 先を読んでポジション取っておかなければいけないわけだ」

坂上の言うとおりだ。常に、二手、三手先を読んでいかなければ
このルールじゃパスはつながらないし、サッカーの形にならない。
「しかし、言うは易し、行うは難しとはまさにこのことだな…」
坂上が独り言のように呟く。
「とりあえずやってみようぜ」
大木がぼそりと言う。

素直に言葉で認めたり、表に出したりはしないが、
自分ができないことにはとことん挑戦するのが大木の長所だ。
「よし、頑張ってみよう」
坂上が最後を締めると、俺たちは立ち上がった。

コートに戻るとほどなくして笛が鳴る。ゲーム再開だ。
ゲームを始めてみると、みんなの意識付けが前半と全然違うのが感じられた。
ひとりひとりが次を考えている。各々が先を読もうとしている。
しかし、パスはスムースにつながらない。
いやむしろ前半よりもひどくなっている。

考えることに神経が行ってしまって、動きが止まっている。
脳みその大半を考えることに使ってしまって、
体を動かすほうに振り分けるメモリが残ってない。
そういう俺も、脳みその中に棒を突っ込まれてかき混ぜられているような気分だ。

俺の色は赤。だから、青がボールを持った時点で、
どの黄色にパスが渡って自分に回ってくるかを
イメージしておかなければいけない。
だがその青にパスを出すのは赤。それは俺の色。

つまり場合によっては自分が青にパスを出した次の瞬間から、
パスのつながる先、言い換えれば青から黄、そして赤と
すなわち自分にパスが戻ってくるパターンを考えることになる。
要は、一瞬たりとも考えずに済む時間なんてないと言うことだ。
まるで思考の無限ループ。

ひとりひとりが意図を持って、プレーしようとしている。
だがそれ故に互いの意図が伝わらないと、プレーはぶつ切れになってしまう。
結局、前半よりもパスミスが多発する有様で、
やりたいことが全然できないまま、また笛が鳴った。

「難しいな…」
坂上がぼそりと言ったのが俺の耳に届く。
「ずっと考えながら動いてたら、なんか気分悪くなってきた」
誰かのぼやきも俺の耳にはギャグに聞こえない。

いままでサッカーをやっていて、プレーの流れが読めることはあった。
あのボールはあいつを経由して、俺にこの位置で渡ってくる。そんな感覚。
そうやって流れが読めた時は、ほとんどの場合いいプレーにつながった。
だが、今日の練習で俺はその感覚が偶然の産物だったことを痛感していた。
常に流れを読みながら、同時に正確に体を動作させることの難しさ。
おそらく一緒にやった他のメンバーもそれを実感している。

脇を見ると木崎監督が、
この練習の意味をようやく理解したかとでもいうように、
俺たちを見ながら口元だけにかすかに笑みを浮かべている。
「今日はサッカーにおけるオートマチズムと決まりごとの話をしたい」
そういうと木崎監督はみんなの反応を確認するように、
ぐるりとミーティングルームの中を見回す。

この人は、こういう視線の振り方が実にうまい。
視線を向けられているのを感じれば、人間は反射的に顔を上げる。
聞き手の注意を引っ張ってくるコツは、
やはり長い間の教員生活で身につけたものなのだろうか。

「以前話したように、判断に要する時間を短くするための方法として、
 オートマチズムと決まりごとの大きく分けて二つがある。
 だがこの二つを混同している人は非常に多い。
 前日本代表監督のトルシエが多用したため、
 日本でもサッカーを語るときに
 オートマチズムという言葉がよく用いられるようになったが、
 個人的には、その用法や捉え方に非常に疑問を持っている」

大木、と木崎監督は隅に座っていた大木に声をかけた。
「大木はオートマチズムってどんなものだと思っている?」
大木はしばらく考えている。

思ったままを言っていいぞ、それがお前のいいところだ、と
監督が声をかけると、大木は苦笑いをしながら
「機械的っていうか…決まりごとでがんじがらめのサッカー。
 創造性とかと対極的にあるもの」

自由奔放にやりたい大木が一番嫌がりそうなものばかりだ。
ありがとう、と木崎監督は大木に言って


「いま、大木が言ってくれたことが、
 だいたいみんながオートマチズムという言葉について
 持っているイメージじゃないかと思う。
 大木が「決まりごとでがんじがらめのサッカー」と表現した。
 だが、俺はオートマチズムと決まりごとというのは、
 まったく別の次元のものだと考えている。

 日本にオートマチズムという言葉を広めたのはトルシエの功績だ。
 だが、彼の発言をつぶさに調べてみるとわかるんだが、
 トルシエはマスコミや、時によっては自分のチームの選手にも、
 適当なことを言ってることが結構ある。
 トルシエが説明するのをめんどくさがって、アバウトにしゃべってたのか、
 それともトルシエ自身が正しく理解してなかったのかは
 会話したことのない俺にはわからんがな」


木崎監督はペンを持つと、そばのホワイトボードに
「automatism」と美しい筆記体で記した。

「オートマチズムとは、元々は
 芸術の世界の用語だというのは知っているか?
 シュルレアリスムという言葉を聞いたことがあるだろう。
 代表的な芸術家にダリとかマグリットとかがいるんだが、
 知ってるものはいるか?」

ユース生たちが互いを見回す。
木崎の問いかけに手を上げたのは坂上だけだった。
サッカーと関係のないことを知っておくのはいいことだ、
いつか必ず役に立つ、と監督は坂上に笑いかけると、話を続ける。

「俺も芸術は専門でないんで、
 興味があるやつは自分できちんと調べてほしいんだが、
 シュルレアリスムについて俺なりに簡単に説明すると、
 人間の精神を開放しようという運動だ。
 だがこの運動の特徴は特に無意識の世界を重視したところにある。
 人間ってやつは生きてるといろいろ余計なことを考える。
 そういった雑物をすべて取り去ったところにこそ、
 精神の本質があるという考え方だ」

ちらりと周囲を見ると、坂上は興味津々という表情で聞いている。
さすが頭のいいやつは違う。
大木は何を言っているのかちんぷんかんぷんというように、
目を白黒させているがそれでも木崎監督の顔から目を離さない。

「じゃあ無意識の世界、とはどんなものか。
 わかりやすい例をひとつ挙げるなら」
ふと顔を上げた俺と監督の目がなぜか合う。「たとえば夢だ」
お前は夢を見ないのか?木崎監督の目が
俺にそう問いかけているように見えたのは気のせいか?


「で、これは芸術の話だから、
 その無意識の世界をどう表現するかということが焦点になる。
 さっき名前をあげたマグリットは、
 現実にはありえない、夢の中にしかないような
 不可思議な絵を多く描いている。
 そういう表現方法のひとつとして生まれたのが
 オートマティスムと呼ばれる技法だ。

 意識していない状態で動作を行う状態を意味する。
 この状態を作り出すために、意味も考えずに
 ただひたすら思いつくまま文字を書き続ける、
 なんて技法も実際に行われたらしい」


サッカーのミーティングでこういう話をする監督をはじめて見た。
何か新しい知識がどんどん身についていくような気がする。


「さて本題のサッカーのオートマチズムだ。
 サッカーと芸術は関係ない、そう言う人もいるだろうが、
 そもそも言葉としては芸術のほうが先だからな。
 オートマチズムについて考える上で、
 芸術のオートマティスムを無視するのもどうかと思う。

 仮に芸術のオートマティスムの定義を
 サッカーのプレーに当てはめると、意識せずにプレーできる状態を指す。
 だが日本語というのは難しいものでな。
 この無意識の状態でプレーを選択することを、
 条件反射的、非人間的、機械的というイメージで受け止めてる人が非常に多い。
 俺の考えでは、その解釈はまちがいだ。

 たとえば柔道の一流選手は、状況に応じて即座に技が出る。
 そのとき、一本背負いか内股か、それとも大外刈りかなんて、
 頭であれこれ考えてから技をかけてたら、トップレベルじゃ技は決まらない。
 考える前に体が技を掛けにいくような状態だ。

 さて君たちはそういう状態の柔道家を、
 非人間的だと思うか?機械的だと思うか?
 違うな、機械が柔道の試合で勝てるわけがない。
 彼らは厳しい練習で培い、体に覚えこませたたくさんの経験の中から、
 その場の状況に似た場面を無意識に抽出し、ベストの選択をしているわけだ。

 俺に言わせれば非人間的とか機械的というのは
 観てる側の主観的な感想でしかない。
 いま言ったようなレベルの柔道家が
 日本人ならば無心や無我の境地と賞賛され、
 外国の、全体主義国家の選手なら、
 非人間的だ、まるでロボットだとあげつらうマスコミがいい例だ」


監督の少しシニカルな言葉。


「つまりオートマチズムとは、
 練習で培った動きが、本人が知覚するより早くできる状態を指す。
 じゃあサッカーのオートマチズムも、と言いたいところだが、
 ひとつ忘れてはいけない点がある。チーム競技だということだ。

 柔道の場合は、個を鍛えればそれで済む。個人競技だからな。
 サッカーでは必ずパスをはじめとする他人とのやりとりがある。
 だからオートマチズムもチームとして鍛えなければいけない。

 自分だけじゃなく他人の動きも無意識のレベルで
 察知できるようにならなければ、オートマチズムは生まれない。
 これは相当難しい作業だ。
 他人が考えてることなんて普通簡単にわかりっこないからな」


みんな黙って木崎の話を聞いている。

「もちろん、決まりごと、約束事もサッカーでは大事なツールだ。
 決まりごとというのは、
 たとえば4バックのとき、片方のサイドバックが上がったら、
 反対側のサイドバックは必ず下がって
 バランスをとる、というのを決めているチームがある。
 俗に言うつるべの動きだな。
 だが、片山が上がったのを見た飯村は思うかもしれない」

いきなり木崎監督はユース生の名前を呼んだ。
片山さんは右の、飯村さんは左のサイドバックだ。


「いま、片山が上がっている。
 決まりごとに従えば、飯村は上がらずにラインを作らなくちゃいけない。
 でも、飯村の前には広いスペースがある。
 さっきから対面のやつは飯村の動きについてこれていない。
 いま俺が上がれば、サイドチェンジのボールが
 俺に入れば必ずチャンスになる、とな。

 飯村の考えはもしかしたら正しいのかもしれない。
 飯村が上がったほうがいい結果が出るのかもしれない。
 だが決まりごとの世界では―例外はあるにせよ―
 それは絶対にやってはいけないことだ。
 なぜだかわかるか、飯村?」

飯村さんは素直に、わかりませんと返事をする。
木崎監督は正直でいい、と言うように優しくうなずくと、


「それは他のメンバーの思考量を増やすことになるからだ。
 センターバックはその決まりごとに従って、
 飯村が上がらないという前提でラインを考える。
 もし、飯村が上がるかもしれないのなら、
 センターバックはその場合も想定して守備を考えなければいけない。

 センターだけじゃない。ボランチは自分が
 ラインのカバーに入るパターンも考慮しなければならなくなる。
 つまり考えるパターン数が、チーム全体の思考量が爆発的に増える。
 将棋で言えば差す手の候補が増えるのと同じだ。

 可能性が増えるのはいいことのように思えるが、
 そのすべてを考えてる時間はないからな。
 ある程度パターン化して、選択肢を絞り込んだほうが効率的だ。

 言うまでもないが決まりごとが多すぎるサッカーは、
 発想の自由や創造性を奪うデメリットがある。
 だが局面局面ですべてのオプションをじっくり考えてプレイするには、
 サッカーというスポーツはあまりにも自由度が高すぎるんだ。

 おまけに相手はその時間と選択肢を奪おうと常に動き続ける。
 従って、さっき説明したオートマチズムと
 いま話した決まりごとの二つの要素を組み合わせて、
 判断時間を短縮することが現代のサッカーでは不可欠になっている。
 どちらかだけでは組織は作れない。
 この二つのいいところを組み合わせることが重要だ」


中学までのサッカーとは違う。俺は木崎監督の話を聞いて思う。
こういうのが、ユースの、プロのサッカーなんだ。
プロになろうとする以上、もう単なる球蹴りのサッカーはできない。
ひとつひとつの小さなプレーにもすべて理由がある。


「これらを身につけるための練習を行うわけだが、
 簡単にできるようになるなら苦労はない。
 さっき使った柔道の例を使うなら、
 意識せずに技が出せるようになるためには、
 まずは意識して、何百回も何千回も技を掛けないとだめだ。

 最初は考えて、頭でこうしようと思って、ようやく技が出せる。
 それを続けると短い時間で判断して技が出せるようになる。
 そしてさらにそれを続ければ、意識せずに出せるようになる。
 言い換えれば、考えてプレーすることをひたすら反復することで、
 いつかオートマチズムのレベルに達することができる。
 裏返せば、考えずにプレーしている者は、
 どれだけ時間を使っても永遠にオートマチズムを身につけることはない」


俺はこの前のミニゲームの意味がわかったような気がした。
あのミニゲームでは、考えずにプレーしていたらボールは回ってこない。
自分がどういうプレーをするかを考え、
さらに自分の前後を受け持つチームメイトが
どんなプレーをするか常にイメージしていなければならない。

自分だけでなく周囲がどんなプレーをするか考える。
考え続けることで、やがて少しずつ短い時間で考えられるようになる。
そしていつか知覚するよりも早く互いをわかりあい、
信じられないスピードでパスが、プレーがつながるようになる。
そのコンビネーションの滑らかさにスタジアムの観衆がため息を漏らす。
いつか、俺たちもそんなサッカーができるようになるのだろうか。

周囲を見ると、みんな自分の世界で物思いにふけっている。
自分のサッカーと真のオートマチズムについて考えているに違いない。
そんな俺たちの様子を嬉しそうに見ながら、監督が言う。
「じゃあ外に行こうか。今日の練習をはじめよう」
反対側のサイドから、ロングボールが飛んでくる。
蹴っているのは桜井コーチ。きれいな弾道でぴたりと俺のところへ飛んでくる。
腿でぴたりと勢いを殺す…つもりだったが、
当たり方がわずかに浅くボールは足元を離れ転がると、
俺の足元に描かれた円を越えていく。

隣では大木が坂上の蹴ったボールをぴたりと足元に落としている。
たいしたことじゃない、というような表情で、
すぐにそのボールをヒールで後ろに蹴り出す。

また次のボールが飛んできた。
ナイロンかなんかの素材でできている円形の輪。
直径1.5メートルぐらいの大きさ。
なんでもフリースタイルリフティングの選手が使うものらしい。
それが俺の立っている位置を
中心にして芝生の上に置かれている。
飛んできたボールをトラップして足元に落とす。
もちろん円からボールがこぼれないように、だ。

いざ、距離を目で見えるように示されると、
描かれた輪の小ささが信じられない。
円のラインが俺に微妙なプレッシャーをかける。
足元にトラップするのってこんなに難しいことだったか?

隣でさっきから大木がこともなげに
成功させているのを見ると、ますます焦りがつのる。
十回目のトラップが終わる。すかさず桜井コーチの声。
「ミス数、大木0、本庄3。本庄ダッシュだ!」
俺は黙って一目散に走り出す。

木崎監督の練習メニューにはいくつかの特徴がある。
まずひとつはとにかくよく走らされる。
最初はたびたびもどしそうになったが、
最近は体が慣れてきたのか、随分楽になってきた。

長距離走はもちろん、短距離のダッシュに
百メートル程度の中距離のダッシュ、
それにインターバル走を組み合わせる等レパートリーも豊富だ。
体が酸素を求める。休養を欲する。呼吸が苦しくなる。
俺は萎えそうになる心にムチを入れてまたスピードを上げる。

もうひとつの特徴はシュートを意識したものが多いことだ。
フォワードの選手だけでなく、GKを除いた全員が同じメニューをこなす。
よくある普通にボールを出してもらってシュートを打つ形はもちろん、
ドリブルで持ち込んでキーパーと一対一や、
ゴール前に人を揃えてクロスを上げるようなパターン化されたもの。

それに加え、ゲーム形式のものも多い。
フル、ハーフ、ミニといったコートサイズと、
チームの人数設定、ゴールの大きさやオフサイドの有無などの
ルール設定を多種多様に組み合わせて、ゲームが行われる。

そのすべてに共通しているのが、
たくさん点が入るようなゲームになっていることだ。
あるときは少ない人数でフルコートのゲーム。
逆に異常なまでに狭いコートに広いゴールやGKなしのルール。
基礎練習を終えると今日はフルコートでの七対七。
ゲーム時間が短いからなんとか持つが、走る量は半端じゃない。
スペースが有り余ってる以上、否応なしにカウンターの応酬になる。

だからと言って、ボールを運ぶのを前線に任せきってたら、
前の連中のスタミナがパンクしてしまう。
うまくローテーションして、そのとき前に行ける
スタミナのあるやつがどんどん上がっていくしかない。

「ユウジ、打て!」
一気にゴール前までオーバーラップした俺の足元にパスが入る。
同時に坂上と大木の声が飛んできた。
目の前にはDFが一人残っている。抜けばキーパーと一対一だ。
逆に向こうもそれをわかってるから、絶対に抜かせまいと鼻息が荒い。
俺はいったん左に進むと見せかけ、相手の体重が移動した瞬間に右へ動く。
前が空いた瞬間即座にシュート。キーパーの飛ぶ手の先を抜けて左隅に刺さる。

シュートを決めるというのは、
それがどんなゲームであれ、気持ちいいものだ。
他愛ないミニゲームだって、身内の紅白戦だって
ゴールしたときには必ず喜びがある。

中学ではずっとボランチだったからゴールに絡むことも少なかったが、
ここの練習ではポジションに関係なく攻撃もやらされるので、
シュートを決める機会も多くなっている。
テクニックでは相変わらず劣等生の俺だったが、
不思議なことにシュートはよく入るので、
最近はこのゲーム練習が俺の自尊心をささやかに保てる時間になっている。

「なんだかんだいってお前、よく決めるよなあ。今日、3点目だろ?
 ボランチよかフォワードのほうが向いてるんじゃないか?」
自陣に戻ると大木がからかうような口調で言う
うるせえ、と言い返して、前にも誰かに似たようなことを言われたのを思い出す。

そうだ、坂上だ。あのセレクションの時。
俺のことをてっきりフォワードかと思った、と。
あの言葉の意味を特に確認することもなかったが、
そういえばあのとき、坂上はなんで俺を見てそんなことを感じたのだろう。


ネットが揺れた。
ここまで必死に持ち堪えたがとうとうゴールを割られた。。
いつもの紅白戦。俺たちはこのルールに
いつしか「ババ抜き紅白」という名前を付けていた。
今日は守備がよく集中していて、後半のこの時間まで
スコアレスで進んでいたが、相手に先制を許してしまった。

「今日は俺が抜けるよ」と言って
最近抜けていなかった一年生がピッチの外へ出て行く。
「さて、どうするか?」
彼の背中を見送っていた坂上が振り返ると俺に聞いてきた。
残り時間は十分ぐらいか。守って0−1のまま終わっても意味はない。

「何とぼけたこと言ってんだよ、攻めるしかないだろ!?
 一点とられようが二点とられようが、
 罰走させられるのは同じなんだからさ、点取ろうぜ」
聞かれてもいないのに大木が口を突っ込んできた。
相変わらず出しゃばりなやつだ。

だが、俺も大木の言うことには同感だ。何点差だろうが負けは負け。
それならば一人少なくてもがんがん攻めて点を取りにいきたい。
「俺もそう思う…だから、本庄、前線へ上がれ」
坂上が驚くようなことを言った。

「え?」俺は思わず聞き返す。
「点を取るためには、抜けた田口のポジションに
 人入れなきゃしょうがないだろ?」
確かにいま出て行った田口はフォワードだ。
だとしても、俺か?大木を上げてもよさそうなものだが。

「おもしろいんじゃねえ。練習でも点取れてるし、
 ボランチやらせるよりいいかもしれないな」
てっきりけちをつけると思ってた大木も、
嫌味な言い方は癪にさわるが、坂上の提案に異議はないようだ。
「大木も自分一人で行き過ぎるなよ。本庄を使えよ」
坂上の指示に大木が妙に素直にうなずく。
俺は微妙に落ち着かない気持ちのまま、前線に上がる。

試合再開のキックオフ。
キックオフのためにセンターサークルに入るのなんて久しぶりだ。
軽くボールを蹴って大木に渡す。
フォワードなんて、やるのいつ以来だ?
小学校ではじめてもらったポジションはトップ下だった。
中学校ではボランチ。フォワードなんてやったことは…。

相手チームのセンターバックに入っている三年生の影山さんが
「なんで本庄が前に来てるんだよ?」と言う目をして笑っている。
ボールの動きを目で追いながら、記憶を辿る。
そうだ。俺はフォワードをやったことがある。
でも、その頃の俺はポジションというものを意識してなかった。
自分がフォワードだとか考えもせず、ただボールを蹴っていた。

思い出す。兄貴と一緒のチームにいた時。
兄貴が小学校にいる頃だから、俺は小学校三年より下。
公式戦では小さな俺はまだ試合に出してもらえないが、
クラブの中でやる試合では、俺はしょっちゅう上の学年に混ぜてもらってた。

もう既に兄貴は有名になっていて、クラブでも完全に周囲から一目置かれていた。
俺は兄貴と同じチームで試合がしたくてしょうがなかった。
兄貴なら必ずゴール前で待っている俺の欲しいところ、
俺が点をとれるところに飛びっきりのパスを出してくれるからだ。
ガキの俺は兄貴が完璧にお膳立てしてくれた
パスをゴールに決めて大喜びしていた。
そう、あのときはまだすべてが単純だった。

だが、それも兄貴がレッズのジュニアユースに入るとともに終わった。
兄貴が卒業すると、四年になった俺は
チームの戦力として扱われるようになった。
コーチは俺に兄貴の代わりをやらせたいと思ったのか、
俺にトップ下のポジションを割り振った。
俺も不満はなかった。

兄貴は俺が点を取れるようなパスを出してくれたけど、
兄貴がいなくなるとそんなおいしいパスは全然来なくなり、
それまでのように上級生に混じって、
がんがん点を取るということはできなくなっていて、
子どもながらに俺もフラストレーションを溜めていた。
俺は喜んでその変更を受け入れた。

いや、違う。
試合中なのに俺は思わず首を振っている。
いまならわかる。俺は兄貴がいなくなった途端、
点が取れなくなったのを認めるのが嫌だったのだ。
兄貴がいなければ、あいつはとりたててうまくもなんともない普通の選手だ。
そう思われるのが怖くて、俺はあっさりとコーチの言うことに従ったのだ。

もちろん、兄貴の代わりをやるというのが
俺にとって魅力的だったのも否定できない。
そのまま、小学生の間はトップ下をやって、
中学に入ってからはもう一列下がり、そのまま三年間過ごした。
試合でフォワードやるのはあの時以来だ。
俺の体はフォワードの動きを覚えているだろうか?

前線に走る。見える景色がいつもと違う。
後ろでは大木を中心に俺たちのチームでボールが回っている。
大木も珍しくドリブルせずに、左右にパスをバランスよく振り分けている。
突っ込んでこないなんてあいつらしくない。
うちのチームは悠々とボールを回している。

俺は大木をずっと見ている。俺に入れてくるとしたら大木だ。
プレーの合間にちらっちらっと大木が俺を見ているのがわかる。
この感覚。昔慣れ親しんだこの感じ。
そう、いつも俺は兄貴からこんなふうにボールが出てくるのを待ってた。

俺のそばに相手のセンターバックが二人。
二年生の高橋さんと三年生の影山さん。ふたりとも180センチ以上ある。
俺はラインを出入りして、センターバックがどんな動きをするかを見る。
体こそつけてこないが二人は常に俺を捕捉している。
俺のマークは影山さんのようだ。影山さんがぴったりとついてくる。
俺はそれを利用して二人の間隔を狂わせてギャップを作りたい。
縦にギャップができればラインを崩せるし、
横にできればスペースが生まれる。

もちろん向こうもそんなことは先刻ご承知だ。
俺は駆け引きを二人と繰り返す。
久々に踏むフォワードのステップ。懐かしい視界。
ずっと中央にいた大木が右サイドに流れた。
そろそろ入れるぞ。大木の声を俺は心で聞く。
きっと大木にボールが回る。
ボールを受けた大木は必ずサイドバックを自分で捌きにかかる。
ならば、ボールはどこに出てくる?

タッチラインすれすれの位置に流れた大木にパスが出た。
チェックに行った敵の左サイドバックを、
大木がフェイントで呆れるほどあっさりと交わす。
前にスペースがある。大木がすかさず縦に突破。

俺は二人のセンターバックの間に入る。
ゴール前を固めながら、彼らがちらちらと俺の位置を確認している。
俺の前に影山さんの背中。後ろには高橋さんがいる。
一度突破された左サイドバックが
クロスだけは上げさせないぞ、と必死に戻って内を切る。
大木が肩だけを右、左と動かして、相手をずらしにかかる。

その瞬間、二人の視線が大木に集中した。
大木はサイドを抜いてゴール目指して突破してくるのか?
その一瞬、二人の意識から俺の存在が消える。
セレクションのときと同じ。
大木のドリブルにディフェンスの注意が行ってしまう一瞬が必ずある。

すっとバックステップで引いてマークを外す。二人はついてこない。
大木が右足でボールを動かすと、そのまま右足でニアへの低いボール。
タタン、というリズムの速い足捌き。
右足で動かし、左足を踏み込み、右でパス。それが普通のリズムだ。
だがいまの大木は左足を動かさず、右足、右足でパスを送ってきた。
虚をつかれたサイドバックの足元を
すり抜けたボールが影山さんの前へ転がる。

だがそのボールには俺が走りこんでいる。
影山さんの狼狽する気配。思考のラグが手に取るようにわかる。
いたはずの場所に俺がいない。いないはずの場所に俺がいる。
その認識のずれを修正するのに要する時間。それを利用する。

俺のほうが一歩早い。完璧に体が入った。
体の正面にパスが飛んでくる。ただしゴールとの角度はない。
シュートを打つにはきつい。キーパーもニアは切っているだろう。
もう一度ボールを動かす、という手はある。だけど。

俺は正面に飛んできたボールを、
猫の頭をなでるように右足の裏でトラップして押し出す。
背後に影山さんがへばりついているのはわかっている。
腕と足で左側に体の壁を作りながらターン。
狭いが打ち抜くしかない。左手で影山さんを制して腰を回す。
強引に打った俺のシュートは地を這って飛ぶと、
キーパーの股間を抜いてゴールに吸い込まれた。

よし、点が取れた。俺は思いっきり右の拳を握りしめる。
まるであの頃みたいだ。迷わず打てた。快心のシュート。
まさか素人フォワードに点をとられるなんて思ってなかったのだろう。
影山さんたち相手のディフェンス陣が呆然としている。
いいパスをくれた礼を言おうと思って、
大木のところへ走っていくと、変な表情をしている。
どうしたんだろ?
てっきり「俺のパスがよかったから決めて当たり前だ」
ぐらいのことは言ってくると思ったのに。

「ナイスパス」と声をかけてみるが、
ああ、と大木の返事は俺の言葉を聞いてないように素っ気ない。
何か怒ってる?いや、もらったパスをはずしたんならともかく
俺はちゃんと決めたんだぞ?
自陣に戻ると坂上が声をかけてくる。
「ナイスゴールだったな」
「大木のパスがよかったからな」
正直な気持ちだった。完璧に前を切られた状態で、
トリッキーなテクニックを駆使してパスを送るあたり、大木はさすがだ。

だが、坂上は意外なことを言う。
「いまのはあの位置に飛び込んだお前をみんな褒めるよ」
よく見れば坂上も笑っていない。むしろ妙に険しい顔をしている。
なぜ?同点に追いついたんだぞ?
ふと周囲を見ると審判役の桜井コーチも
何か変なものでも見たような顔で俺を見ている。
俺、何か悪いことしたか?

リスクの高いプレーだったかもしれないがゴールした以上問題ないはずだ。
それとも劣等生の俺がゴールを決めたから驚いているのか?
それにしても少し変だ。
ゴールを決めた喜びはあっという間にしぼみ、
俺はなんともいえない居心地の悪さを感じる。
ふとピッチの外を見る。木崎監督が立っている。
笑っている。楽しそうに。こんな楽しいことはないと言うように。
基礎練習を終えた後、いつものように木崎監督が俺たちを集める。
やれやれ、今日もババ抜き紅白か。
だが、その日は違っていた。
「この後、紅白戦を行う。今日は通常のルールだ。
 一年生ももうユースの環境に馴染んできただろう。
 公式戦もそろそろはじまる。
 他のクラブに比べると後回しにしてきたが、
 そろそろうちも一年生を入れた新しいチームを作っていきたいと考えている」

監督からまず紅組のメンバーが発表される。
名前を聞いていくうちにその意味が俺にはわかる。
これは実質的なレギュラーの発表だ。
うちのユース生は三学年合わせて三十人強。
試合に出られるのは交代を含めても十五人程度だ。
これからの公式戦に出られる者、出られない者。俺たちは選別されていく。
坂上の名前が呼ばれる。そして大木の名前も。
俺の名前は呼ばれなかった。

みんなチーム分けの意味を察したらしい。雰囲気が固くなる。
続いて白組のメンバーが木崎監督の口から告げられる。
第二GKの三年生の名前が呼ばれる。
ついで、ディフェンダー。その次は中盤の選手のはずだ。
体をこわばらせて待っていたが、俺の名前は呼ばれない。
セカンドチームにも入れないのか。
確かにボランチのポジションを争う上級生たちはうまい。
だが、坂上も大木もファーストチームで名前が呼ばれているのに。

突きつけられた現実に俺は思わずうつむいてしまう。
いいや、下を向くな。まだだ。あと三年ある。
ここから必ず這い上がって兄貴に追いつくんだ。
淡々と名前を読み上げる木崎監督の声が俺の頭の上を通りすぎていく。
「最後に本庄。このメンバーで今日は紅白戦をやってもらう」



「やっぱり本庄をフォワードで使う気なんですね」
桜井は隣に立っている木崎に話しかけた。
目の前ではユース生たちが紅白戦を行っている。
「使うも何もここに入れた時から、俺としてはその気だからな」
木崎が楽しそうにくっ、くっと笑い声を立てる。
やはり、と桜井は思った。この人には最初からわかっていたのだ。
「どうして本庄にフォワードの適性があるとわかったんですか?」

しばらく前の紅白戦。
審判をしていた桜井は目の前で見た本庄のゴールに驚嘆した。
マークを外す鮮やかな動き。ボールを受けてからターンまでの速さ。
最初からシュートだけを考え、迷いなく打ったその意思。
偶然じゃない。まぐれでもない。
本物だ。こいつは本物のフォワードだ。桜井は体が震えた。

確かにその前から練習を見ていて、
後ろの選手の割にシュートが上手いなとは思っていた。
きっちり枠に飛ぶし、特にクロス練習で点で合わせるのが巧みだった。
空いているスペースにすっと入り込んで、
ワンタッチでゴールに流し込むシュートをよく決めていたので、
ごっつぁんゴールの多いタイプかな、と思っていた。

なぜかおいしい場所にいる、そこへボールが不思議と飛んでくる。
そんな巡り合わせに恵まれるタイプの選手は確かにいる。
てっきり本庄もそういう選手だとばかり思いこんでいた。
それは間違いだ。桜井はいまなら素直に認めることができる。
本庄はフォワードとして使うほうが生きる。

一度それに気づくと、その後は練習を見ていて、
本庄のフォワードとしての適性がこれでもかというほど目に入ってくる。
身長はさほど高くないのに、思いのほかヘディングに強い。
早く強いボールを蹴るキック力がある。
そして他人が気づかないスペースを見つける力。
どうしていままで気づかなかったんだろうと自分自身に腹が立つほど、
フォワードとしてみた本庄は光り輝いていた。

あのとき、木崎が言ったことは正しかった。
「見てわからないのなら、それ以上俺に説明できることはない」
木崎の言葉のとおりだ。こんな明らかなことに説明はいらない。
じゃあ、なぜ自分はそれに気づかなかったのか。


「俺もこれでも教員の端くれだったからな。
 見てきた子どもの数とその時間じゃ、まだ桜井君には負けないよ。
 そういう意味じゃ桜井君よりは元々俺の方が有利な勝負だ」
木崎の言うことは事実だろう。
コーチになって数年の桜井と木崎では、
子どもを見る経験では比較にならないのはわかっている。
しかしそれだけではないはずだ。
経験を積めばいいのなら、ほとんどの教師はいいコーチになってしまう。


「俺があの山の中で学んだのは、
 子どもってほんとうに様々に変化する生き物だということだ。
 なのに大人は、小さな子どもたちをひととおり見て、
 この子はキーパーに向いてるな、と感じて、
 試合で一度試してみてうまくいくと、もうそのポジションから動かさない。

 子どもなんて心も体も驚くほど変わっていくものなのにな。
 体が大きくなれば、前はできなかった
 ポジションだってやれるかもしれない。

 精神面だってそうだ。
 ドリブルが苦手だった子が影で一生懸命練習して上達する。
 そして自分のドリブルは誰にも負けないぞ、という自信を持つ。
 自信を持ったやつは強い。サイドで使えるかもしれない。

 心と身体が変化していく中で
 キーパーが、ディフェンダーがフォワードになったっていい。
 もちろんその逆だってありだ」


木崎はその先を口にしないが、桜井には木崎の言いたいことが伝わってきた。
俺は。いつのまにか固定観念に縛られていたということか。
セレクションの申込用紙に書かれた希望ポジション。
たった数文字の情報を元に、心のどこかで子どもに枠をはめていた。

ディフェンダーだから体が大きくないといけない。
ウィングバックは足が速くないといけない。
それを言えば、俺は本庄のことも先入観で見ていなかったか?
あの本庄総一郎の弟だからこれくらいやれるだろうと
自分の望む「本庄優司」のラインを勝手に設定して、
それに届いていないことにひとりで失望していたのはお前じゃなかったか?

桜井の視線の先でビブスを着た本庄が、
ディフェンダーを背負ってボールをキープする。
ポストの動きは慣れないらしく、まだおぼつかないようだ。
木崎が一人語りのように話しはじめる。

「ただな、俺も深い山の中の高校でずっと子どもたちを見てきたが、
 チームを作る上で一番大事なのは結局フォワードなんだよ。
 いいフォワードがいるチームは絶対に強い。
 だから毎年新チームを立ち上げるとき、
 俺はフォワードを誰にするかから考えはじめることにしていた。
 といっても所詮田舎の高校だから、
 そんなにたくさんの子どもから選べるわけじゃない。でもな」

桜井は木崎の話に耳を傾ける。


「そんな狭い世界でもフォワードを任せられるやつは、
 他の子どもたちとどこか違うんだよ。
 適性とか何も考えずに一番上手いやつを前においておけば
 そのチームの実力相応のところまではいける。
 でもその先、自分たちより強い相手とやる時には、
 多少下手でも、フォワードに適したやつを前に置かないときついんだよ。

 これはほんと不思議でな。
 とびきりいいディフェンダーかキーパーがいる時は、
 大会でもいいところまでいける。
 でも絶対に優勝はできないんだな。

 逆にいいフォワードがいて、他のポジションが弱い時は、
 途中で思わぬ負けで消えちゃうことも少なくないんだが、
 まさかと思うような展開で優勝できちまったりするんだ。
 極論かもしれないが俺はこう思ってる。

 「いい守備陣がいれば、必ず上位に進めるが優勝できない」

 「いいフォワードがいれば、あっさり負けることもあるが
  もしかしたら優勝できる」

 やっぱりサッカーってのは点を取ってなんぼだよ。
 それをあの山の中で何度思い知らされたことか」


出典:なし
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(・∀・): 81 | (・A・): 35

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