今日俺が一人で近所の公園でリフティングをしてたら2
2009/03/07 01:05 登録: えっちな名無しさん
ビブスチームが意外と健闘している。コーナーキック。
ゴール前で坂上と本庄が激しいポジション争いをしている。
いつもは兄弟のように―もちろん坂上が兄貴役だ―仲のいい二人だが、
どちらも甘さのかけらも見せない。
坂上はしばしば手を出して本庄の動きを縛り、
本庄はその手を邪険に振り払う。
友だちだからこそ負けたくない。時にはそういうこともある。
「ただ本物のフォワードってのは稀少種なんだよ。天然記念物並みの。
点が取れる。それもみんなが取ってほしいと思うときに
ゴールを奪えるのが本物のフォワードだ。
それは現実にはなかなかいないんだよ。
メジャーなスポーツのうち、
サッカーほど点が入らない競技は他にないらしい。
それだけひとつのゴールを奪うことにこめられる
選手の、スタッフの、観客の思いは
他のスポーツに比べればとてつもなく大きくなる。
それはもはや「願い」といっていい領域のものになる。
みんなの願いをかなえようとする者。かなえるために存在する者。
だからサッカーのフォワードは特別なやつしかできないんだよ」
桜井は思い出す。
選手だった頃、サッカーを知らない友人からよく言われたものだ。
サッカーは点が入らないからおもしろくない。
ルールを変えてもっと点が入るようにすればいいのに。
そのたびに、桜井はむきになって反論したものだ。
点がなかなか入らないからおもしろいんだよ。
だから入ったときの喜びが選手も観客も大きいんだよ。
木崎の言うとおりかもしれない。
願いがかなえられるカタルシス。
だからどんな国のどんなレベルの試合でも、
ゴールの瞬間、スタジアムは必ず沸騰したように歓声が爆発する。
「俺は十年に渡ってあの町で生まれた男の子は全員見てたけど、
こいつは生まれついてのフォワードだってやつは
とうとうお目にかかれなかったなあ。
シュートが上手な子どもはたくさんいたよ。
フォワードを任せられるって子はな。
でも、それは本物じゃあない。
いや、プロを見たって、本物の日本人フォワードというのはひどく少ない。
海外移籍したフォワードの選手がサイドや中盤で使われる例が多いだろう?
俺に言わせれば、あれは彼らにフォワードとしての能力がないからじゃない。
元々他のポジションのやつを、日本ではフォワードにしてるだけなんだ。
誤解を恐れずに言えば、
日本人で誰からも認められたフォワードというのは
日本サッカーがはじまってからこのかた、釜本さんとカズしかいないのかもな」
ビブスチームがサイドからクロスを上げる。
ニアで一人潰された後ろ、ドフリーでヘディングを本庄が合わせた。
キーパーに反応する時間を与えず、ネットに突き刺さる。
本庄の現在の身長はこの前計測した数字で175センチちょっと。
いまどきの高校生では決して高いとはいえない部類だ。
それなのにヘディングで競り負けることが少ない。
飛び方が上手いのか、ポジション取りがいいのか。それとも他の理由があるのか。
木崎が話し続ける。
「この前、本庄にちょっと聞いてみたら小学生まではフォワードだったらしいな。
よく上級生チームに混じって、練習していたそうだ。
本人は自分がフォワードだったという意識はまったくないらしいが。
フォワードをやっていたのは厳密に言うと小学校三年まで。
兄さんと同じチームにいた期間だけらしい」
桜井は木崎の言葉の意味に気づく。
「ということは当然…」
木崎がにやりと笑い返す。
「パスを出していたのは本庄優一郎だ。よだれが出るよな。
あの本庄優一郎の、しかも三つも年上のパスを毎日受けてたんだぜ。
しかも七歳から九歳といえば、成長するにもおいしい時期だ。
毎日、どんなボールを受けてたんだか、想像するだけで震えがくるぜ」
本庄優一郎は小学校の頃からその名前を知られていた。
そのプレイは既に同年代の中では飛び抜けていただろう。
様々な変幻自在のパスが本庄優司の足元に送られてきたに違いない。
それをゴールに決めてきた。その経験が本庄優司に何を与えたか。
桜井にもだんだん呑み込めてきた。
当時の優司がどんな体をしていたかわからないが、
三年生と六年生じゃ相当な体格差があっただろう。
いくらセンスとテクニックがあったとしても、
そう長いキープはできなかったに違いない。
ならばシュートできるスペースを見つけ出し、そこへすばやく移動して、
寄せきられる前にシュートを打ってしまう。そんなプレーをしてたんじゃないか?
桜井の頭の中で、小学生のまだ体の小さい本庄優司が動きはじめる。
使えるスペースを見つけると忍者のように動く。
いつのまにかマークを外して、もらったボールを少ないタッチで打ち込む。
そればかりじゃない。スピードなら体格差を克服できる。
ラインの裏に飛び出して、
ダイレクトで合わせるのも得意技だったかもしれない。
そんな幼い本庄優司のプレーがありありと頭の中に浮かぶ。
そして。本庄優司には創造力あふれるインスピレーションを共有でき、
そこへパスを届ける技術を持ったすばらしいパートナーがいた。
本庄の、幼いが故に柔軟な脳と体に
どれほど多彩なゴールパターンが刻まれたのだろう?
「今年は本庄はフォワードのサブとして使おうと思っている。
まだ技術がひどすぎる。フィジカルも全然ダメだ。
じっくり一年かけて、今年はそのあたりを作ってもらう。
だが順調にいけば来年は本庄がフォワードの軸だ。
本庄が、自分にかけられる期待から逃げ出さない、
みんなの願いや思いと向き合おうとするならば、
あいつは絶対に素晴らしいフォワードになる。
点で合わせるのが得意な本庄を使うとなると、
パスを出せるやつをどうするかだが、それは大木にやってもらう。
大木と本庄のツートップで大木を少し下げ目にするか、
それとも2トップないし、3トップで大木がサイドに張る形のどちらかだ。
これから頑張って鍛えてもらうとしても、大木の弱点はやはり体の大きさだ。
キック力は結局土台となる体の大きさで決まる部分もあるからな。
4−4−2で中盤のサイドに置いてミドルレンジのパスを出させるより、
比較的フォワードに近い位置に構えさせて、
ドリブルやショートパスを使わせた方が大木の持ち味を引き出せる」
ゴールネットが揺れた。決めたのはまた本庄だ。
沈着冷静な坂上の顔がこわばっている。
レギュラーチームはすっかりリズムを狂わされている。
「来年は三冠狙うぞ」
木崎がぼそりと呟いた。
「え…三冠ですか…」
このおやじ、とうとう頭がおかしくなったか?
田原さんのおかげでようやく基礎ができてきたシンシアユースだが、
所詮はJ2でも新興の、歴史の浅いクラブ。
J1のトップクラブのユースには、
四、五点取られて惨敗を喫することも珍しい話ではなかった。
木崎は桜井の顔を見ると、にやりと笑う。
この人はいつもそうだ。ほんとうに、楽しそうに、笑う。
「負け犬根性見せるなよ。
クラブは金があったほうが強くなる。これは事実だ。
だがいつもそうとは限らない。だからサッカーはおもしろいんじゃないか」
桜井は思わず背筋がぞくっとする。これだ。
そうあのとき、山の中で親切に応対してくれた校長先生の言葉。
「あの人はいい指導者であると同時に勝負師でしたから」
本気だ。この男は本気で三冠を狙っている。
「勘違いするなよ、俺ははったりで言ってるんじゃない。
正直J2のユースということで、素材的に少々厳しい部分もあるかと思ったが、
J1と比べてもそんなに引けをとってないじゃないか。
本庄や大木もいい素材だが、坂上のリーダーシップもたいしたものだ。
あいつには人を束ねていける力がある。
きっと坂上なら社長でも政治家でもなれる。それだけの人望がやつにはある。
あれだけメンタルが強いやつは、そうそうお目にかかれるもんじゃない。
あいつがキャプテンなら多少の技術面でのハンデは克服できる。
他のメンバーだってぐんぐん伸びてきている。
これだけ素材が揃っていれば俺は三冠狙う資格は十分あると思うぞ」
既に成算はあるといわんばかりの木崎の言葉。
もしかしたら。桜井は隣にいる木崎の横顔をじっと見つめる。
いま、俺は誰もがうらやむような
貴重な経験をさせてもらっているのかもしれない。
この男なら。奇跡のようなことを実現させてしまうかもしれない。
桜井の思いをよそに、
木崎はピッチを走る子どもたちを心底楽しそうに見ている。
「ユウジぃ、駅まで一緒に行くか?」
練習後のロッカー。大木がユニフォームを脱ぎながら俺に言った。
よく鍛えられた上半身がちらりと見える。
高校に入った頃はただのチビだったのに、
ここ一年で大木の体も随分厚みを増した。
一瞬俺が答えるのを躊躇すると、すぐに坂上が言い返す。
「バカ、見学スタンド気づかなかったのか?今日来てただろ?」
大木が、ああ、そうか、という表情になる。
悪いな、と俺は大木に片手をあげて謝る。
「あんな美人が来てたらそりゃしょうがねえよなあ」
時々俺たちの練習を見にくる唯さんのことはうちのユース生みんなが知っている。
Jのトップクラブならまだしも、
新興J2クラブのしかもユースの練習を
しょっちゅう見に来ていれば誰でも顔は覚える。
まして唯さんみたいな人目を引く美人ならなおさらだ。
「しかしスターはやっぱり彼女もいい女だよなあ。
ユウジ、兄さんの調子はどうなんだ?」
大木からの予期しなかった質問に俺は一瞬まごつく。
「寮に入っちゃってから全然顔合わせてないからわからないよ」
答えをはぐらかす。これ以上聞かれるとめんどうくさい。
俺は荷物を持って立ち上がった。
「お先に」
お疲れ、という坂上や大木、みんなの声が返ってくる。
俺はロッカーのドアを開けてグラウンドへ急いだ。
夕陽がグラウンドに敷き詰められた緑の人工芝をつややかに見せている。
グラウンドの脇に設けられた見学席。
打ちっ放しのコンクリートの階段にベンチが何個か据え付けられている。
そのひとつに腰かけて、本を読んでいる唯さんの姿が見えた。
俺は唯さんのところへ走る。
「遅くなりました」つい口調が丁寧語になる。
「練習で疲れてるんだから、別に走ってこなくていいのに」
唯さんは本を閉じて笑う。
今日は友だちと約束とかないの?と唯さんが尋ねる。俺は即座に首を横に振る。
じゃあ今日も送っていくわ、と唯さんが立ち上がった。
俺はその後についていく。
来客者用駐車場に止められた唯さんのヴィッツ。
唯さんが鍵を開けてくれ、俺はその助手席に乗り込んだ。
右側からいい匂いが漂ってくる。シャンプーの匂いだろうか。
助手席に座るたび、俺はうちのクラブに
ユース生も自由に使えるシャワー設備があることを天に感謝したくなる。
汗くさいまま唯さんの隣に乗りたくない。
唯さんは慣れたハンドル捌きで車を発進させる。
唯さんは、去年兄貴と一緒に南浦和学院を卒業すると、
東京の西部にある私立大学に進学した。
入学してすぐに車の免許を取って、週のうち何日かは車で通っている。
さいたま市のはずれにあるシンシアの練習場は、
唯さんが通学に使っている東京に伸びる
幹線道路からちょっと入った場所にある。
入学してしばらくすると、唯さんの帰宅と俺の練習終了時間が重なる時には、
唯さんは俺を帰りに拾って、家まで送っていってくれるようになった。
車は国道を市街地のほうへ走る。
唯さんの横顔を見ながら、俺は以前から聞いてみようと思ってたことを口にした。
「最近、兄貴の調子はどうなんですか?」
途端に唯さんの顔に憂いの色が差す。
「よくもなく悪くもなく…ってとこかしら。
去年よりは落ち着いてきたみたいだけど、
やっぱり試合に出てないでしょう…
本人の中では消化できないものがあるみたい」
プロになった兄貴は家を出てレッズの選手寮での生活をはじめた。
家で顔を合わせなくなると、驚くほど俺たち兄弟は疎遠になった。
普段から携帯やメールで連絡を取り合うような仲ではなかったし、
いざ別々の生活をはじめてみると、接点というものが俺たちの間にはなかった。
家を出てからの兄貴について俺が知っていることは
ほとんど唯さんから聞いたものだ。
レッズサポーターの大きな期待を背負って加入した兄貴だが、
一年半を経過して、その期待に十分応えているとは言えなかった。
ケチの付きはじめはレッズ入団後の昨年の四月、
オランダワールドユースを目指すU-20代表合宿だった。
アジアユースで大苦戦したことで、マスコミやサポーターからは
「高校選手権で大活躍した本庄を呼べ」という声が大きくなっていた。
その声に耳を貸したわけでもないだろうが、U-20日本代表の小熊監督は兄貴を召集した。
だが兄貴はその合宿中に足を痛めてしまう。
全治一ヶ月の比較的軽い怪我だったので、
少し無理をすれば六月の本番には間に合ったかもしれない。
だが合宿を途中離脱した兄貴を小熊監督は二度と呼ぶことはなかった。
このとき、兄貴のオランダワールドユース出場の道は絶たれた。
その後もしばらくは「無理してでも本庄を呼ぶべきだ」という声がくすぶっていたが、
ワールドユースでU-20代表がベスト4という好成績を残すと、
そういう意見はぱたりと聞かれなくなり、
小熊監督の手腕と選手起用を絶賛する声で埋めつくされた。
もちろん兄貴にはクラブで活躍するという道があった。
山瀬功治が移籍してトップ下のポジションが空いたレッズならば、
兄貴の出場機会は十分に与えられるだろうと俺も思っていた。
だがプロの世界はそんなに甘いものではなかった。
負傷が癒えると中断前のリーグ前半戦こそ
コンスタントにベンチ入りし、途中出場の機会も何度かもらえたが、
中断期間が明けると兄貴の名前はベンチ入りメンバーからも消えた。
トップ下の人材が不足していると考えたレッズが外国人の補強を敢行したからだ。
いくら兄貴でも、チャンピオンズリーグ出場経験のある
現役バリバリの欧米のプロプレイヤーを相手にするのは荷が重すぎた。
レッズが最終節まで優勝の可能性を残したこともあり、
怪我人や出場停止者がいる節で何度かベンチ入りすることはあったものの、
一年目はほとんどトップチームの試合に出場することなく終わった。
そして今年、もうシーズン半ばを迎えたプロ二年目。
トップ下ばかりでなく中盤全部のポジションの交代要員として
コンスタントにベンチ入りこそできるようになったが、
ギドの中での優先順位は高くないらしく、出場機会は極めて限られている。
サポーターの一部に本庄待望論こそ根強くあるものの、
外国人の厚い壁の前にその声は少しずつ小さくなりつつある。
「一時期はデートに行っても機嫌悪いことが多くて。
高校の頃はよくサッカーの話をしてくれたけど、
最近は私もしないように気をつけてる」
唯さんがフロントガラスから視線を話さずに言った。
一見、磐石に見えるレギュラーポジションも失うときはあっけない。
怪我、年齢的な衰え、試合中のミスに監督交代。
その意味では兄貴がこれからレギュラーを奪う可能性は決して低くない。
いや、他のメンバーよりもその可能性は相当高いだろう。
だけど順番待ちの列に並んでひたすら待ち続けることが兄貴にできるか。
控えだからといってモチベーションを失ってはいけない。
いつ来るかわからないチャンスを掴むために常に努力しなければならない、
と言うだけならば誰でも言える。
だがそれをなしとげられる神経の持ち主がどれだけ世の中にいるだろう?
毎日毎日練習だけで、たまにある試合は真剣勝負とは程遠いものばかり。
このまま自分がどんどんずぶずぶと腐っていくんじゃないかという焦燥。
プロサッカー選手にとっては試合に出場することだけが唯一の評価だ。
兄貴は辛いだろう。
レギュラーになれないなんて、生まれてはじめての経験に違いない。
兄貴が寮にいて顔をあわせないことは、互いのためにいいのかもしれない。
俺はそんな風に思った。
「でも、U-20代表候補になってやる気出してるんじゃないですか?」
そう俺がフォローすると唯さんの顔がぱあっと明るくなった。
自分でフォローしたくせに、唯さんの
嬉しそうな顔を見ると、微妙に苛立ってしまうのはなぜだろう。
「そうほんと選ばれてよかった…。
サッカー選手って試合に出るのが一番幸せなんだなあってよくわかったわ。
代表から戻ってきた後は、機嫌がいいの。
ほんとにこの人はサッカーしかないんだなあって…」
兄貴は一月生まれなので、来年2007年に行われる
カナダワールドユースにぎりぎり出場することができる。
そのワールドユースへの出場権を争うアジアユースがもうすぐ行われる。
去年、チームが立ち上げられた頃は声がかからなかったが、
夏場あたりから兄貴の名前が召集リストに載るようになった。
攻撃的なMFに絶対的な選手が不在ということもあってか、
合宿中の練習試合でも頻繁に起用されているらしく、
専門誌によれば兄貴が最終メンバーに選ばれる可能性はかなり高いらしい。
兄貴にしてみればアジアユースで何が何でも試合に出場し、
そこでの活躍をクラブでのレギュラー奪取につなげたいところだろう。
いいきっかけになればいい。
兄貴のことを考えていると、唯さんが話しかけてきた。
「優司君も大事な試合が近いんでしょ。なんだっけ、日本ユース選手権だっけ?」
全日本ユースサッカー選手権です、と俺は律儀に訂正する。
それって大きな大会なの?と唯さんが俺に尋ねた。
「高校サッカーだとインターハイ、国体、冬の選手権を三冠って言うんですよ。
で、僕たちJクラブのユースは、
インターハイや冬の選手権みたいな高校の大会は出られないんで、
代わりに夏にある日本クラブユースサッカーという大会と、
今度の全日本ユースサッカー選手権、
そして冬にあるJユースカップという三つの大会を三冠って呼んでるんです。
そのうち、今度の全日本ユースは高校も出てくるんで、
真の日本一を決める大会なんて言い方をする人もいます。
最近ではさっき言った高校三冠のうち、
国体とこの全日本ユースを入れ替える人もいますね」
「ふーん、じゃあすごい大会なんだ?」
唯さんは兄貴と一緒にいたから、高校サッカーにはそこそこ詳しいのだが、
クラブユースのサッカーについてはほとんど知識がない。
「そうですね。なにしろ僕たちは三冠狙ってますからね」
俺は威張って言う。今年の俺たちの目標は、ユース三冠。
もう既に一つ目はクリアした。二つ目の全日本ユース。
これを獲らなければ当然三冠に挑戦する資格は得られない。
「でもシンシアのユースって強いのね。全然知らなかった」
「できるやつがたまたま揃ったし…それに監督の手腕もあると思いますよ」
俺たちシンシアユースの日本クラブユースサッカー選手権優勝は、
大げさに言えば関係者の間では、衝撃のニュースとして受け止められたらしい。
五、六年前までは影も形もなくようやく軌道に乗った最近でも、
他のJクラブユースには軽く捻られてしまう存在だったシンシアユース。
それが昨年、いくつかの大会で上位に喰いこんだかと思うと
今年いきなりタイトルを取ってしまった。
やってる俺たちにしてみれば、昨年の時点で手応えはあったし、
優勝も想定の範囲内だったのだが、周囲はそうはとらなかったらしい。
あるサッカー雑誌は「シンシアユースに何が起きたか?」と
いうタイトルで俺たちの特集記事を組んだくらいだ。
「その全日本何とかっていつからなの?」
「来週がグループリーグ…予選リーグです。
勝ち進めばその次の週が決勝トーナメントです」
車はいつしか夕方の渋滞に巻き込まれている。
都内に通じる幹線道路の周辺で起きる渋滞は、
この地域の名物みたいなものだ。
ああ、今日も動かないな…と唯さんが口を尖らせた。
その唇が妙に色っぽくて俺はどきりとする。
高校を卒業してたった一年半しか経っていないのに、唯さんは一段ときれいになった。
女性ってこんなふうに大人になっていくんだ。
高校の友達にも妙に色っぽいオーラが出ていて、
一緒にいるとこっちがまごつくような娘もいる。
でも。「大人っぽい」ことは「大人である」と同義ではない。
この一年半で、唯さんは急激に変わっていこうとしている。
大人になるということはこういうことなんだ。
少しずつ子どもっぽさが抜けて、思慮深い大人に入れ替わっていく。
それなのに、俺はまだ子どものままだ。
俺が。唯さんより年上だったら何かが違ったのだろうか。
「あとでメールしといてね、大会の日程。
サボれる授業の日だったら必ず応援行くから」
「準決勝と決勝は休みの日だから大丈夫ですよ、
後で日時と会場、送っておきます」
隣で唯さんがふふ、と笑う。
何がおかしいんだろう。俺が横目で見ると唯さんが言った。
「優司君もなんか男らしくなったわね。
昔はなんかいつも自信なさそうで、
見てて歯がゆいことがあったけど…人は変わるものね」
言葉の意味がわからない俺が首をかしげると、
「ううん、いま、さらっと決勝のこと言ったから、
ああ、優司君の頭では決勝に出ることが当然なんだな、と思って。
そういう強気な優司君っていいと思うよ」
唯さんに指摘されて俺ははじめて気づいた。
確かにいまの俺は優勝することしか考えていない。
坂上もいる、大木もいる。他のメンバーだって充実している。
そして木崎監督がいる。決勝まで行けないわけがない。
負けることなど想像もしてない、そんな自分がいたことに俺自身驚いた。
「ああ、全然動かないな。優司君、時間ある?
このまま渋滞はまってるのもあれだから、
あそこのファミレスでお茶してかない?」
助手席から前方を見ると、チェーンレストランの看板が少し先にある。
時間なら大丈夫ですよ、と答えると唯さんは、
じゃあ決まり、と言うと左折のウィンカーを出した。
朝起きるともう日が高く上がっていた。
はっとして桜井はベッドから飛び起きたが、
次の瞬間今日が週に一度のオフだったことに気づいた。
胸をなでおろして、パジャマのままリビングへ歩いていく。
桜井に気づいた妻の直子が
「あら、起きたのね」と言う。
「起こせばよかったのに」と桜井が言うと、
「昨日、ずいぶん遅くまでやってたみたいだったから」と
直子が嬉しそうに笑いながらキッチンへ入っていく。
うん?機嫌がいいな。桜井は内心首をかしげた。
休みの日に遅くまで寝ていると、虫の居所が悪いのが常なのに。
とはいえ、遅くまで寝かせてもらえたのはありがたかった。
木崎監督から頼まれた対戦相手のビデオ編集を部屋でやっているうちに
ついつい夢中になって夜更かししてしまった。
妻の作ってくれたトーストを口に運ぶ。
「最近、仕事楽しそうね」
桜井が食べる様子をぼんやりと見ていた直子がいきなり呟く。
「そうか?」
食べる手を止めて聞き返す。
「うん。朝、家を出るときなんか、まるで小学生が学校に行くみたいよ。
ドアから元気いっぱいに飛び出していく感じ。
だからきっとコーチの仕事が楽しいんだろうなあって」
全然自分では気づかなかった。
いままでと変わりなくやっていたつもりだったのに、
直子にもはっきりわかるほど最近の俺は違うのか。
「成績も上がってきたからかなあって思ってたけど違うの?」
サッカーにさほど詳しくない直子も
シンシアユースが大きな大会で優勝した、という程度のことは知っている。
「それもあるけど…子どもたちがどんどん変わってくんだよ」
「子どもたちが変わってく?」直子が相槌を打つ。
「そう、眼で見てはっきりとわかるほど子どもたちが成長していくんだ。
先生ってきっとこういうのが楽しいんだろうなあって思ったよ」
直子が小首をかしげた。
そう言われてもサッカーをやったことのない直子には、イメージが湧かないらしい。
もう少し直子にもわかるように具体的に説明しないと、意味が通じないかな。
桜井は思った。どの話をすればいいだろう。
あの話か、それともこの前のあのことか。
あれこれ考えていると妙に楽しい気分になる。
どうやって話したら直子にも俺の驚きがわかってもらえるだろう。
もしかしたら。俺は自分がいま見ているものを
ずっと誰かに話したくてうずうずしていたのかもしれない。
「サッカーでは声って大事なんだよ。
プレイヤー自身が周囲をきちんと見て、自分で判断することが大事なんだけど、
プレーする中ではどうしても自分で気づかない、見切れない範囲が出てくる。
それを声を出して的確に教えてあげることができれば、
ボールを持っているプレイヤーは自分自身で見た情報の他に、
周囲が持っている情報も活用して判断ができるようになるんだ」
「話を聞いていると、それは当たり前のことのように思えるんだけど、
それは私か素人だからかしら?」
直子が不思議そうに尋ねる。
「いや、その通りだよ。声を出した方がいいのは
サッカーをやるやつならみんなわかってる。
ところが日本人というのはほんとに奥ゆかしい民族でね、
年齢差や自分の実力を気にして、なかなか声を出さないんだよ」
桜井はコーチになってからユース生にずっと言ってきたものだ。
もっと声を出せ、と。だが桜井がいくら説いても
ピッチから聞こえる声はぽつんぽつんとしたものだった。
だがある日、桜井は練習を見ていて突然気づいた。
ピッチから耳をふさぎたくなるほどの声が聞こえてくるではないか。
ビブスで色分けをする恒例のミニゲーム。
「来てるぞ!」「Man on!Man on!」「下げろ!」
それぞれの声が聞き取れないほど、誰もがチームメイトに声を送っている。
その様子を見て、桜井は呆然と立ち尽くした。
どうしたんだ、こいつら。
俺があれだけ言っても全然声が出なかったのに。
ミニゲームの休憩中、桜井はそっと彼らの声に耳を澄ませてみた。
「もっと声出して、ボール持ってるやつの判断助けてやらないと」
「ああ、時間を短縮するには周りの声がないとな」
「いまの俺たちのレベルじゃ、声を出すことからまずはじめよう。
いい声かどうか気にせずに、どんどん言っていこうぜ」
ああ、そうだったのか。
桜井は膝が折れるような衝撃を味わっていた。
子どもたちが声を出すようになったのは、簡単な理由だ。
声が必要だとわかったからだ。自分で考えて、自分たちで納得したからだ。
だから声を出す。それだけの簡単なことじゃないか。
ゲームが再開され、シンシアの練習場にまたユース生の声がこだまする。
桜井はいったん話を中断して、コーヒーを啜った。
目の前に座っている直子は黙って興味深そうに聞いている。
「俺たちコーチが陥りがちなのは」
桜井は独り言のように呟く。
「つい教えてしまうんだ」
どういう意味?というように直子が小首をかしげる。
「たとえばある子どもに」桜井は直子に語りかける。
「君はパスが下手だから、もっとパスを練習しなさい。
弱点を克服するには、こういう練習をするといいよ、とコーチが言う。
子どもは言われたとおり、一生懸命にパス練習に取り組み、
やがてパスが上達する。欠点が解消されたわけだ。
試合に出れば以前より活躍できるようになる。でも」
桜井は言葉を切る。心にちくっとした痛み。
「それじゃだめなんだ」
「どうして?」
直子は桜井の言ってる意味がわからないという表情だ。
「自分の欠点に自分で気づいて自分で修正しなければ、
プロとしてはやっていけないんだよ。
コーチにしてみれば教えるというのはやりがいを感じやすいんだ。
欠点を指摘する。練習のやり方を教える。
それに従った子どもはみるみる上達する。
コーチは自分の力で子どもを上達させたという満足感を得られる。
子どもにしてもそうだ。
このコーチは自分の欠点を、だめなところをズバリと指摘してくれる。
言うとおりにしていれば、自分の力をどんどん伸ばしてくれる。
すごく有能なコーチに思えるから、素直に言うことを聞くようになる。
もちろんそういう指導が必要な時もある。
けど、そのまま子どもの頃からプロになるまで育ててしまったら、
子どもたちは自分自身で欠点を発見する術を、
自分をチームの状況に合わせ修正する術をどこで身につけるんだい?」
そう。俺はずっと教えるだけのコーチだった。
「相性のいい優れたコーチとずっと一緒にいられるなら、何とかなるかもしれない。
でも、プロの世界はそういうときばかりじゃない。
だからコーチのアドバイスに、自分自身の考えをプラスして
問題を克服する力が絶対に必要になる。
だから俺みたいな若いユース生のコーチの仕事は
教えることじゃなくて、気づかせることなんだと最近は思うんだ」
難しいのね…と直子が呟く。
桜井はうなずく。言うのは簡単だ。
だけど子どもは現実にはなかなか教える側の意図に気づいてくれない。
何も役に立つことを教えてくれないコーチと非難される可能性だってある。
「でも、いま俺が世話になってる木崎さんはそれができるんだよ」
桜井は直子に話す。直子に聞かせたかった。
いま、自分が感じている新しい感覚を。
ある日の練習。開始時間直前にどうしても
応対しなければならない来客が来たことがあった。
たまたまその日は事情により監督も含めた他のスタッフが不在で、
桜井はユース生に自主練習をするよう連絡して、客の応対にあたった。
対応を終え練習場に駆け足で戻った桜井が目にしたのは、
ミニゲームに興じるユース生の姿だった。
整然と練習している。桜井の顔が思わずほころんだ。
だがよく見ていると、いつもやっているゲームとどこか違う。
「このルールだめじゃん!」
ゲームをやっていた大木が突然両手を広げて叫んだ。
コートの脇からゲームの様子を見ていた坂上が「やっぱだめか」と頭をかく。
隣から「チームの人数減らしてみたら?」と口を挟んだのは本庄だ。
「いや、逆に増やしたほうがいいんじゃない?」とまた別の声。
「それよかタッチ数に縛りかけるほうがおもしろくね?」
さらに他のやつが意見を言う。
こいつら。木崎さんの練習を自分たちでアレンジしてやがる。
最後は坂上が仕切って、ルールを変えてまたゲームが再開された。
そうだった。子どもの頃。
不意に記憶が甦る。公園でやってたゲーム。
周囲に張り巡らされたネット。
そのネットを支える端から二番目の柱と三番目の柱の間がゴールだった。
その日集まった人数によって、
集まった子どもたちの年齢に応じてルールは様々に変化した。
小さいやつがいるときは上級生はドリブル不可。
今日は人数がいないからキーパーなし。
その日のルールによって、ゲームの戦略は劇的に変化する。
そうだ、サッカーって教わるものじゃなかったよな。
サッカーは自分で考えて、遊ぶものだったよな。
桜井の姿に気づいたユース生たちがゲームを止めた。
「いや、今日はこのまま自主練習で行こう。続けてくれ」
怪訝な顔。桜井はトレーニングウェアの上着を脱いだ。
「今日だけは特別にちょっと俺も混ぜてもらうかな。
いまはどんなルールでやってるんだ?」
坂上からルールを教わり、桜井はコーンで仕切られたコートに入った。
ボールが回ってくる。誰かの足が入る。パスを出す。走る。
「大木!」パスを要求する。足元に帰ってくるボール。
インパクト。飛ぶボール。揺れるネット。
桜井は敵チームのユース生に遠慮なくガッツポーズを見せつけてやる。
「現役復帰でもするつもりですかーー」
コートの外から坂上の声。呼応するようにみんなが笑う。
俺はコーチだ。もう子どもたちと一緒にはなれない。
一線を引かなければいけない部分が厳然とある。
それでも。いま味わっているこの気持ち。これは忘れちゃいけない。
桜井はいつしか無心に子どもたちに混じってボールを追っていた。
サッカーは勉強じゃない。遊びなんだ。だから楽しいんだ。
勉強を教えるようにサッカーを教えることなんてできやしない。
「最近の親は勘違いしてることも多いけど、
サッカーは決してお稽古事じゃない…
楽しいから、やりたいからやるものなんだ。
それはプロになっても変わらない。
サッカーが嫌いになったとき、それは選手を辞めるときなんだよ。
俺たちはユース生にアドバイスし、練習の様子を見守り、経験に基づいた意見をいう。
そして本人と一緒に考えていく。
サッカーはなぜ楽しいのか、おもしろいのかということについて。
サッカーの奥深さ、魅力。それはいくらでも考え続けることができる。
考え続ける限り、まだ自分の知らない部分があると感じる限り、
彼らはずっとサッカーと離れずに生きていくだろう。
それでいいんじゃないか。俺の中であの日答えが出たような気がしたんだよ」
桜井の話を目の前にいる直子は黙って聞いている。
「なんとなくわかったわ…」
うん?桜井が聞き返すと直子は
「あなたが最近楽しそうな理由」
そう言って嬉しそうに微笑んだ。
直子が桜井が空にした皿を持って立ち上がる。
そのままキッチンへ歩いていく。洗い物でもはじめるのか。
おい、直子。桜井はその背中に声をかけた。
なあに?直子が振り返る。
「今日は天気いいから公園いかないか?」
公園?何を言い出すの、と言いたげな直子の怪訝な表情。
「俺が直子にサッカーの楽しさってやつを教えてやろうと思ってな」
桜井は笑った。直子の軽く睨むような仕草。でも目元は笑ってる。
「できるのかなー」
「直子にわかってもらえなくて、ユース生に伝えるなんて無理だよ。
まあ、とりあえず行ってみようぜ」
楽しみしてるわ、コーチさん、と直子は言うと、部屋に消えていった。
あれジャージどこにしまったかなあというひとり言が聞こえてくる。
桜井は窓越しの日光を背に浴びながら、直子の準備ができるのを待つことにした。
練習が終わると木崎監督に呼ばれた。
近くに行くと
「着替え終わったら、ちょっと顔出してくれ」
ロッカールームで着替えを済ませると、監督の部屋に行く。
このへんはスタッフのための部屋が並んでいて、
普段は俺たちユース生は用がある場合を除いて立ち入ることを許されていない
俺に気づいた木崎監督はついてこい、という風に手で示すと、
部屋を出て廊下をすたすたと歩いていく。
俺はその、二、三歩後ろをついていく。
やがて監督はあるドアの前で止まるとノックした。
厚いドアを叩く音が妙に廊下に響く。「どうぞ」という声が返ってきた。
木崎監督はノブを捻ってドアを開けると、
「失礼します」と部屋の中に向けて頭を下げた。
木崎監督の後に続いて部屋に入る。
同じように頭を下げようとして監督の背中越しに
部屋の中で椅子に座っている男性の顔が目に入った。
「どうぞ、そこに座ってください。木崎監督もこちらに」
片平さんが机の向こうから俺に椅子を指し示した。シンシアの強化部長。
組織上はトップ、ユース、ジュニアの各チームをこの人が統括しているらしい。
といっても普段はほとんど顔を合わせることはない。
たまに練習場の中ですれ違った時に挨拶するくらいだ。
そのたびに福の神みたいな笑顔で「おう、頑張っているか」と声をかけてくれる。
室内をよく見れば片平さんの隣、
少し離れたところに座っているのはトップチームの滝沢監督だ。
U-20日本代表でコーチを務めた後、
昨年の秋にコーチとしてシンシアに加入し今年からトップチームの監督に就任した。
過去二年、あと一歩のところで昇格を逃していたシンシアのトップチームも、
今年は首位を独走し、来年の昇格はほぼまちがいない状況になっている。
好成績もあって、サポーターやマスコミの滝沢監督に対する評価はかなり高いようだ。
しかし。この顔ぶれが俺に何の用だ?
俺は勧められた椅子に腰を下ろす。
正面に片平部長と滝沢監督。
俺の左側、俺と社長たちの間に
木崎監督が仲介者のようなポジションで座っている。
これからどんな話を?あれこれと想像が頭の中を駆けめぐる。
「どうですか、調子のほうは?
クラブユースの優勝の反響はすごかったんですよ。
地域の方やスポンサーのほうから
おたくの若い子達はたいしたものじゃないか、と。
またすぐ全日本ユースがありますが、ぜひいい結果を残してください」
はい、頑張ります。俺は手短に答える。本題はこれじゃないはずだ。
「ところで本庄君に関する話なんですが、
滝沢監督、木崎監督とお話しをさせていただいた結果、
これからはトップチームの練習にも参加してもらおうと考えています」
体中の毛穴から熱が吹き出すような興奮が押し寄せた。
俺がトップチームの練習に参加できる?
何と返事すればよいのだろう?わかりました、かな。それとも?
迷った俺は「ありがとうございます」といって頭を下げた。
社長はにっこりと笑うと、
「君と一緒に坂上君、大木君もトップの練習に参加してもらいます。
切磋琢磨して頑張ってください」
やっぱり。あいつらも一緒か。
負けるもんか。俺は喜びと闘志が
ごちゃまぜになった不思議な高揚感を味わっていた。
「で、今後の予定だが」滝沢監督が口を開いた。冷静な口調。
U-20代表のコーチ時代も冷静沈着な名参謀だったと雑誌に出ていた。
「全日本ユースも近いので、しばらくはユースで主に練習してもらう。
状況を見ながらトップに来てほしい日には
木崎監督を通じて事前に連絡するので、よろしく頼む。
全日本ユースが終わったら、
トップに顔を出してもらう回数も増やそうと思っている」
滝沢監督が俺を見る。木崎監督とは少し違うがこの人の目も鋭い。
トップチームはもうJ1昇格決定まですぐそこというところまで来ている。
昇格が決まれば、その後は来季を見据えての試合になるだろう。
そんなときトップチームでアピールできれば。
もしかしたら来年はJ1のピッチに立てるかもしれない。
俺は心の中で妄想が膨らむのを押さえられない。
「全日本ユースが終わった後、サテライトリーグの試合がいくつかある。
君たちにはこの試合に出てもらうかもしれない。
既にリーグ事務局への申請は出してある」
俺は喜びのあまり、話し続ける滝沢監督の声もなかなか頭の中に入ってこない。
「本庄!」という木崎監督の声ではっと我にかえった。
顔を上げると片平部長がにこやかな笑顔を浮かべている。
「まあ、急な話だからやっぱり驚くよね。
で、驚かせついでといってはなんだけど、
本庄君にはもうひとつ大事な話があるんだ」
これ以上、大事な話?そんなものがあるのだろうか?
俺はいぶかしく思いながら椅子に深く座りなおした。
とうとうこの日が来た。
全日本ユースサッカー選手権決勝戦。
埼玉スタジアムのロッカールーム。
俺は自分に割り当てられたスペースで準備をする。
すねあての位置をもう一度慎重に確かめる。
納得いく感触になるまで、スパイクの紐を結ぶ。
そういう作業を一つ一つ繰り返していくうちに闘志が高まってくる。
ここまで来た以上、絶対に勝つ。
隣のロッカーを使っている大木は、
もう準備を終えたらしく目を閉じて静かに瞑想している。
その向こうの坂上も自分の用意は済んだようだ。
ロッカールーム全体を見渡して他の選手の様子を観察している。
その余裕が坂上らしい。二年生なのに、上級生も推した今年のキャプテン。
木崎監督とスタッフがロッカールームに入ってくる。
外から隠しカメラで部屋の中を覗いているんじゃないかと思うくらい絶妙のタイミング。
みんなが仕度を終え心の準備ができ、
監督はまだかなと思いはじめるちょうどその瞬間。
計算しているのなら相当の役者だ。
すっとみんなの視線が監督に引き寄せられる。
「もうみんなもスタンドの様子は見たと思う。感想は?大木、どうだった」
最近の木崎監督のミーティングは大木への振りからはじまることが多い。
「レッズサポーターがすごかった」
大木の答えに俺も同感だった。
練習のためにピッチに出た時、その迫力に思わず体が震えた。
左側、ホームのゴール裏。
トップの試合かと見間違うばかりのたくさんのサポーターが詰めかけていた。
会場がレッズのお膝元である以上、ある程度の人数が
来るだろうとは思っていたが、まさかこれほどとは。
ゴール裏が鮮やかな赤に塗りつぶされていた。
練習のためにグラウンドに現れた俺たちには強烈なブーイングが浴びせられた。
その音量に俺が呆然と立ち尽くしていると、
そばにいた坂上が「大人気ないな」と心底嬉しそうに笑った。
逆に闘志をいっそう掻きたてられたのだろう。
しかしこの迫力。レッズというクラブの底力を見せつけられた思いだ。
全体の観客が少ない分、かえって声がよく通るのか、
俺たちが練習するピッチに彼らの声が朗々と響いていた。
「うちのサポーターはどれくらいいた、永島?」
木崎監督は、今度は左サイドハーフの永島に質問する。
「五十人ぐらい…でも、すごく応援してくれてた。
それに学校のみんなも来てくれてたし」
反対側のゴール裏を埋めたレッズに比べれば、
シンシアのサポーターはあまりにも少なかった。数千人と数十人の差。
俺たちの応援に来てくれた高校の仲間のほうが人数は多かった。
がらんとしたスタンドに寄り集まって声援を送る姿は、
まるで無人島で助けを求める遭難者のようだった。
だけど、彼らの声は小さいながらも練習をする俺たちのところまで届いてきた。
小さい分、一人一人の声が聞こえる。
高い声、低い声。男の声、女の声。
シンシアサポーターはJ2のスタジアムでも
今日はどこにいるかと捜してしまうほど、まだ少ない。
クラブも積極的に知名度向上に取り組んでいるが、
既にレッズが作り上げた強固な地盤になかなか食い込めずにいる。
サポーターもさぞかし肩身の狭い思いをしていることだろう。
シンシアのトップチームは今季は安定した成績で首位を快走し、
悲願のJ1昇格はまずまちがいないという状況になっている。
そんな来季への期待に加え、さらに俺たちユースチームの活躍。
ユース組が加入する数年後はJ1でもきっといい勝負ができるはずと、
サポーターたちは夢を大きく膨らませているらしい。
そんな彼らの気持ちを思うと、この試合だけは負けられない。
ここで負けることは彼らのシンシアの将来への期待をも奪ってしまうことになる。
しかも相手は同じ埼玉をホームタウンにするレッズユース。
シンシアにとって興廃の一戦。
大げさだとは思う。だけど、俺たちはこの試合にそんな気持ちで臨んでいる。
木崎監督は俺たちの気配を感じとったのか、
「サポーターの気持ちについてはみんなよくわかっているようだな。
ならば、そのことについて俺から説明は必要なさそうだ」
と笑うと、話を変えた。
「もう一年近く前か。一年生は知らないだろうが、俺はみんなの前で言った。
来年はユース三冠を取る、と。
そのときの君たちの表情を俺は忘れてはいない。
そんなことできるわけがない、
いつもレッズに、マリノスにぼこぼこにやられてる俺たちが、
三冠なんて取れるわけないじゃないか、君たちの目はそう言っていた」
そうあのとき、木崎監督は俺たちの前でぶち上げた。来年は三冠を取る、と。
ただのアドバルーンかと思った。
チーム力が上がっているのは毎日実感できたが、
一度もタイトルを取ったことがないどころか、
大会で上位に進出した経験もないシンシアユースが三冠なんて
荒唐無稽のほら話にしか思えなかった。
だが日本ユースクラブサッカーを勝ったいま、俺たちの目指すものはただ一つ。
俺は木崎監督を見る。木崎監督がその目で一人一人の視線を捕まえる。
俺と目が合う。まるでレーザーのようだ。熱が俺の目を焼く。
まるで結婚式で新郎新婦がキャンドルサービスで
テーブルに蝋燭の火を灯して回るように、
木崎監督の目が俺たち一人一人の心に火をつけていく。
ロッカールームに不思議な沈黙が立ちこめる。
全員の顔をじっくり見終わると、木崎監督は満足したように笑い、
「そうだ、俺たちは勝つ。それだけのサッカーを君たちはできる。
うちのサポーターにとびっきりの喜びを届けてやれ」
みんなが力強くうなずく。
それを見た監督は、声を一段大きくして戦術を確認する。
「坂上、お前は小橋をフリーにさせるな。
やばいと思ったら、マンマークでとことんついて行け。
岡部。坂上が前に出た時は必ず後ろでバランスを取れ。
レッズのアタッカー陣は駒が揃っている。どこからでも攻めが作れる。
だが高さがない。放り込んできたら坂上と岡部、君たちの敵じゃない。
クロスはある程度上げさせても構わん、
ただし突破だけは許すな。必ず早めに囲い込んで潰せ。
レッズの弱点はカウンターだ。
カウンターが得意なチームは往々にして自分たちもカウンターに弱い。
カウンターの撃ち合いを怖がるな。行けると思ったやつはがんがん攻め上がれ。
中崎、福村。人数のバランスを取るのはボランチの君たちの仕事だ。
君たちの判断力にすべてはかかっている。
最後に本庄」
俺の名前が呼ばれる。木崎監督と俺の視線が一直線に結ばれる。
「お前のゴールであの赤いサポーターたちの声を奪ってこい。
この大きなスタジアムに静けさを取り戻せ。
お前が決めろ、お前のゴールが勝利に不可欠だ」
みなぎっている。力が、エネルギーが。俺の体の中に充填されていく。
監督の話が終わると、すっと坂上が立ち上がった。
俺たちも一斉に立ち上がり、大きな輪を作って肩を組む。
坂上がみんなが集まったのを確認すると、Vサインを俺たちに示す。
いや、Vではない。それは「二つ目」の意味だ。
この前優勝した日本ユースクラブサッカー選手権の表彰式。
キャプテンとして最初に表彰を受けた坂上が俺たちに向けて人差し指を一本立てた。
木崎監督の競馬好きはユース生ならみんな知っている。
その競馬では去年、ディープインパクトという三冠馬が現れた。
手綱を取った騎手の武豊は、表彰式の度に手を天高く突き上げた。
その写真を見ると、武豊が指を立てているのがわかる。
一冠目の皐月賞では一本、二冠目のダービーでは二本、そして最後の菊花賞では三本。
以前、俺たちが生まれる前にシンボリルドルフという名馬がいて、
その騎手だった岡部も同じように、一本ずつ立てる指を増やしていった。
当時騎手学校の生徒だった武豊は、
いつかは自分もあんな名馬に乗りたい、もし乗れた時は自分も…と思ったという。
皐月賞を勝った時、武豊はこの意味がわかるか、と
観衆に問いかけるように一本の指を立てた。
事実上の三冠宣言。
その後、ダービー、菊花賞と、すさまじいプレッシャーを乗り越えて勝ち、
武豊は三冠ジョッキーの夢をついに実現した。
クラブユース選手権の決勝戦の直前、そのエピソードを聞いてきた誰かが、
もし勝ったら指一本立てろよ、と坂上をそそのかした。
競馬好きのあの監督ならきっと意味がわかって驚くぜ。
俺たちはおもしろがって坂上を煽り立てた。
けれど、坂上の反応はクールで、なんでわざわざ敵を煽るような、
自分たちにプレッシャーかけるようなことしなくちゃいけないんだよ、と
まったく相手にしなかった。
だからその話は俺たちも優勝したときにはすっかり忘れていた。
そんな坂上が待っている俺たちを振り向くと、指を一本すっくと立てたのだ。
それを見た俺たちは盛り上がった。
盛り上がったと同時に、信じられないほどの力が自分の中に湧いてきた。
俺はやるぞ、お前らも死ぬ気でついてこい。
そんな坂上の強烈な檄がその一本の指に込められているのがわかったからだ。
まるであの時を思い出させるかのように、
坂上はゆっくりと二本の指を俺たちにかざす。
「二つ目行くぞ」
次の瞬間、俺たちの気合が爆発する。
審判の笛が響いた。
ペナルティスポットを指しながらダッシュでエリアの方へ走っていく。
相手をスライディングでなぎ倒した山際の前に立つと、
ポケットから取り出した黄色いカードをかざす。そしてそのカードが赤に変わる。
前半にも一度警告を受けていたからいまのが二枚目だ。
カードを見た山際が立てない。そのまま膝をついてうなだれている。
エリア内のファールでPKか。
近くにいる大木のしょうがないなという表情を見ると、妥当なジャッジらしい。
俺は時計を確認する。後半の30分。木崎監督は既に一人選手を入れかえている。
ゴール裏の大きなビジョンに映し出されたスコアボードには0−0の文字。
まだ山際は起きあがれない。坂上が近くに寄って肩を叩いている。
俺と大木も山際の様子を見に行くことにした。
坂上が体を無理矢理引っ張って山際を立たせる。
近づくと山際の目が真っ赤に潤んでいるのがわかった。
「すまん…」山際の声が震えている。責任を感じているのだろう。
一人少なくなった上にPKを与えてしまった。
とんでもないことをしてしまった。みんなに申し訳ない。
悔恨の思いで山際の頭の中はいっぱいなのだろう。
山際の気持ちは痛いほどわかった。かける言葉が見当たらない。
だがそこで場違いに朗らかな声が響いた。
「残念だったなあ、優勝の瞬間をピッチで味わえないなんて。
まあ、ベンチから俺様の活躍をよく見ておけや」
山際が、え?という表情で大木を見る。
大木が笑いながら馴れ馴れしく山際の肩を叩く。
慰めているのかからかっているのかわからない。
坂上も「ま、そういうことだ」と笑うと、ぽーんと山際の背中を叩いた。
呆気にとられるあまり、涙も引っ込んだ山際の視線が、
大木と坂上の間をさまよった後で俺の顔で止まる。
心配するな、とうなずき返した。仮にPKを決められても1点差だ。
落ち着きを取り戻した山際が、ピッチを出て行く。
何度も振り返るその目が「後は頼むぞ」と言っている。
山際の後ろ姿を目で追っているとベンチの様子が目に入った。
動きはない。木崎監督はベンチにどっしりと座っている。交代はないようだ。
隣の桜井コーチが指示を出している。
PKから試合が再開される。止めてくれたら儲けものだな、と
淡い期待を持ちながら見ていたが、ゴール隅にきっちりと蹴り込まれた。
1対0。レッズサポーターの歓声が文字通り天に轟くようだ。
大喜びでレッズの選手たちがこっちへ戻ってくる。
センターサークルで待つ。後ろから回ってきたボールを大木が足元に置いた。
「一点とって追いついちまえば俺たちの勝ちだ」
大木が俺にだけ聞こえるように囁く。俺も同感だった。
残り時間も少ない中、一点リードした。相手は一人少なくなった。
絶対にレッズの選手の気持ちは受けに入る。
そこで一点取って同点にしてしまえば、
退場者がいようとゲームの流れは俺たちに来る。
「できるだけ取り返すのは早いほうがいい。用意しとけよ」
大木が目を相手ゴールに向けて言う。
「みんな俺に合わせようという意識が強すぎじゃないか?
相手にリズム読まれてるぜ。
大木はドリブルでもっと突っ込んでこいよ」
俺は気になっていたことを大木に伝えた。
ここまで点が取れなかったのは、
みんなの俺を使おうという意識が強すぎるせいもあると思っていた。
裏への飛び出し、サイドからのクロス。
受け手が俺しかいないとわかっていれば、レッズの守備陣も対処は楽だ。
もっとエリア近辺を掻き回してほしい。そうすれば必ずマークが外れる。
俺の言葉に大木は手を顎に当て考える素振り。
「ま、それだけ他の連中もお前を頼りにしてるってことだ。
でも、まあユウジの言うとおりかもな。
修正する必要があるな。リズムを意識して変えていこう」
大木が呟くと同時に試合再開を告げるホイッスル。
ボールを動かしてみると、すぐにレッズの選手が浮き足立っているのがわかった。
レッズユースは確かまだタイトルを手にしていない。
残り時間も少ない中、一点リードで相手は一人退場。
この状況で優勝が頭にちらつかないやつはいない。
振り返るとうちのメンバーにはほとんど動揺は見られない。
むしろ膠着した試合がこれで動くと喜んでいるようだ。
それもそうだろう、こんなシチュエーションのゲームは
ババ抜き紅白でしょっちゅうやらされているのだから。
俺たちは誰もあきらめていない。
不利なのは事実だが先制したチームが、一人多いチームが常に勝つわけじゃない。
あきらめたとき、そのときこそ勝敗が決まることを俺たちは知っている。
ゲームも終盤なのに、俺たちの運動量がアップする。
走ることだけなら俺たちは誰にも負けない。それに俺たちはこういうゲームに慣れている。
レッズの選手たちの浮き足だった雰囲気が
見る見るうちに戸惑いに変化していくのがはっきりと肌で感じられる。
なんだ、こいつら?十一人の時よりも動きがいいんじゃないか?
狼狽がピッチを伝わってレッズの選手に伝染していくのがわかる。
行ける。俺は思う。試合はまだ揺れている。
そろそろ頃合いだ。俺は前線から視線を何度も飛ばして大木を呼ぶ。
鏡が光を反射するように、大木もちらちらと俺を見ているのがわかる。
大木、そろそろ勝負どころじゃないか?
俺の心の声が聞こえたように、大木が猛然とサイドを切り裂く。
スピードを急に上げたドリブルにサイドバックが突破される。
サイドバックが倒れこみながら、
手で大木をタッチラインの外に押しだそうとするが大木がこらえた。
ゴールライン沿いをドリブルで突き進んでくる。
てっきり早めにクロスを入れてくるものだと思っていたレッズの守備陣が混乱する。
キーパーが二、三歩前に出てセオリーどおりニアのコースを切る。
センターバックが前に体を入れてシュートコースを塞ごうとする。
そのとき、大木がパスを出した。
ボールの下に足を入れてそのままボールごとすくい上げるようなキック。
山なりのふんわりとしたボールがゴール前を横断して、
ファーに移動していた俺の前に落ちてくる。
俺たちのいつものパターン。大木の華麗な突破に
ディフェンスの注意がいった瞬間を利用してマークを外す。
優勝がちらつき、そしてその後、うちの反撃に戸惑い
落ち着きがなかったレッズ守備陣のマークが外れたのは不思議ではなかった。
誰かが俺を掴もうとしているが、もう俺は飛び上がっている。
キーパーは大木のケアに行っている。ゴールはがら空きだ。
ボールをしっかりと見て、後はすぐ目の前の無人のゴールへ押し込むだけだった。
俺のヘディングシュートがゴールに吸い込まれる。審判の笛。
俺は大木の元に駆け寄る。これは90%大木のゴールみたいなものだ。
大木はスタンドにいる少ないシンシアサポーターを煽り立てるように
両手を鳥の翼のように何度も振り上げる。
俺は大木を後ろから抱きしめる。シンシアサポーターが興奮状態だ。
さっきまでスタンドの中段やや下に陣取っていたのが、
最前列まで降りてきて、我を失って俺たちに手を振り返している。
1対1。すぐに取り返した。流れはこっちのものだ。
中央にボールが戻され試合が再開されるが、レッズの選手の表情は硬い。
まだ1対1、そして自分たちの方が一人多い。
落ち着いて考えれば明らかに自分たちが有利なのだが、
さっきまで盤石に思えていた試合を、
一瞬でひっくり返されたショックが冷静な思考を奪っている。
この時間になってもシンシアの選手の足は止まらない。
ありえないほどの罰走と頻繁に行われるババ抜き紅白が
俺たちのスタミナと走ることへの気持ちを強化した。
たとえ自分たちが何人になっても、いなくなったやつの分まで走るしかない。
俺たちシンシアユースのDNAにその気持ちはしっかりと刻まれている。
完全にうちのリズムだと見てとった坂上が、ボールを奪うと果敢にオーバーラップ。
一人少ないチームのセンターバックが、
ピッチ中央をドリブルで上がってくるという
思いも寄らない状況にレッズの中盤が後手を踏む。
慌てたプレス。だが、泡を食った分、そのプレスはバランスが取れていない。
かえって不自然に周囲のスペースを広げただけになっている。
坂上が華麗なフェイントで一気に二人を交わす。
これは。俺は周囲の状況を確認する。
穴が開いた。レッズの守備のバランスが崩れた。
坂上がサイドに長い球足で出す。そのままゴール前に突っ込んでくる。
サイドの大木がそのボールを受ける。
走りながら左サイドのアウトサイドでタッチして一気に前に出す。
スピードを全く落とさないコントロール、併走したディフェンダーが遅れる。
大木が顔を上げた。来る。俺は二人のセンターバックの間。
坂上も突っ込んでくる。相手ディフェンダーが坂上に気づいた分、
マークが一瞬曖昧になった。
頼む、大木。ピンポイントでくれ。
俺は後ろに重心をかける。誰かの体の感触。
もたれかかるように体重をかける。少しでも懐を深く取りたい。
歩幅をほんの少し広げて足場を確保し、膝と腰にわずかに余裕を持たせてためを作る。
飛ぶ。後ろの選手も一緒に飛んでいる。前には入り込まれなかった。
体を寄せられているが、きっちり飛び上がった分、耐えしろがある。
まるでジェットコースターのレールに乗っているように、
大木の蹴ったボールが空中できれいな弧を描きながら
手前で潰された坂上の頭を越えて俺の元へ届けられる。
俺はきっちりとボールを見て、インパクトの瞬間、首を振る。
さっきみたいに流し込めばいい、というのとは違う。
しっかりと左のサイドネットを狙った。完璧な感触。
思いどおりのコースにボールが飛んでいった。
笛の音はレッズサポーターの声援でよく聞こえなかったが、
次の瞬間、赤いユニフォームがばたばたと崩れ落ちた。
逆にシンシアの選手たちは疲労も感じさせず勢いよく飛び上がる。
声を失った赤いサポーターから息が漏れる音。不自然に静まりかえるスタンド。
勝った。これで二つ目だ。俺は大木に、坂上に飛びつく。
挨拶を終えると、俺たちは係員にメインスタンドの方へ誘導される。
表彰式だ。スタンドに伸びる臨時の階段がピッチにかけられている。
一列に並んで坂上を先頭に俺たちは階段を上る。
階段を上がりスタンドに入ったとき、俺の名を呼ぶ女性の声が聞こえた。
「優司君、おめでとー」
声のした方向を見る。俺たちが歩いている通路のすぐ脇、
スタンドの椅子に唯さんが座っていた。
俺に小さく手を振っている。見に来ててくれたんだ。
だけど、すぐに俺の視線はその隣の席に引き寄せられる。
久しぶりに見る顔。少し頬がこけて顎の線が鋭角になり精悍さが増したようだ。
唯さんの隣にいて不思議はない。
まして自分たちの後輩の試合、一緒に見に来ない方が変だ。
俺と兄貴の視線が交錯する。
たぶん俺の顔は強張っている。そして兄貴にも笑顔はない。
じっと俺を見ている。俺もじっと兄貴を見つめ返す。
見たか、兄貴。これがいまの俺の力だ。
背中に人が当たる気配。
「おい本庄。急に止まるなよ」
わりぃ、わりぃと後ろに詫びて俺は階段を上る。
俺たちは横に一列に並ぶ。坂上が前に出て、背広を着た男性から賞状を受け取る。
坂上は一度深く男性に礼をすると、後ろを振り返って俺たちを見る。
突き出された右手の人差し指と中指。
サインを確認した俺たちは一斉に歓声を上げる。
カメラマンのフラッシュが坂上に向けて焚かれる。
口元をきりりと引き締めたまま、
坂上は俺たちに、そして木崎監督に。二本の指を立て続ける。
埼玉スタジアムのサブグラウンド。
赤いレプリカユニフォームを着たレッズのサポーターの姿がちらほらと見える。
昨日目の前のスタジアムでトップの試合があったというのにほんとに熱心だ。
俺はベンチの脇でウォーミングアップを繰り返している。
サテライトリーグ。レッズ対シンシアの試合。
全日本ユースを終えた後、俺と坂上、大木の三人は
トップの練習に参加する機会が多くなった。
そして今日は曲がりなりにもトップチームの一員として試合に臨んでいる。
試合はもう後半30分になろうとしている。
坂上はスタメンで、大木は後半の早い時間でピッチに出ていった。
俺だけがベンチに取り残されている。
まだフォワードの選手が交代していないのが俺にとって唯一の救いだ。
ピッチを向き、こちに背を向けている滝沢監督の背中に俺は祈る。
頼む、監督。今日だけは俺を使ってくれ。
どうしてもこの試合に出なければいけない理由が俺にはあった。
視線がピッチを走る赤いユニフォームに吸い寄せられる。
兄貴の姿。今日はプレーがキレているようで、
前半からいいパスを何本も通している。
昨日、トップの試合で出場機会のなかった兄貴は、
今日のこの試合スタメンで出てきた。
出番がなくて少しは腐ってるかと思ったら、
やる気満々で兄貴にしては珍しく運動量も多い。
二週間後のアジアユースを前に、
こんなところで無様なプレーは見せられないとでも言いたげだ。
俺は兄貴から目を離し、ピッチを取り囲むように立てられた金網の向こうに目をやる。
網の目を両手で掴んで、ゲームの模様を食い入るように見つめている唯さんの姿。
いや違う。唯さんはゲームなど見ていない。見ているのはただ兄貴だけだ。
兄貴の動きに合わせ、唯さんの顔が左右に動く。
何の迷いもない表情で、走る兄貴をひたすらに目で追っている。
その視界に。俺が入ることは許されるのだろうか。
「本庄!」俺の名を呼ぶ声に俺は飛び上がる。
ベンチの脇に置かれたスコアボードを確認する。0対2。負けている。
兄貴のチャンスメイクで2点を奪われた。シンシアはゴールを奪えずにいる。
滝沢監督のそばに行く。
「掛川と交代しろ」フォワード同士の交代。それ以上の細かい指示はない。
サテライトのゲームということもあるのか、
まだトップチームに馴染んでない俺に戦術を指示しても無意味ということか。
タッチラインに立つ。ピッチの中にいる兄貴がちらりと俺を見た。
兄貴と俺の視線が結ばれる。
俺は兄貴の瞳の奥まで見てやろうとその顔を凝視するが、そこには何の感情も読み取れない。
すっと兄貴が視線を逸らした。
掛川さんがラインまで走ってくる。俺は掛川さんと軽く手をあわせてピッチに入った。
ラインの近くにいた大木のそばを通る。手を伸ばして俺のケツを軽く叩いてきた。
「お前の兄貴、化け物だな。相手するのも四苦八苦だぜ」
今日の大木は中盤の右サイド。サイドに流れてくる兄貴とたびたび絡んでいる。
俺は大木には何も答えずにフォワードのポジションに入った。
一度首を捻り、後ろを振り返る。さっき見た唯さんのいる場所。
唯さんがこっちを見ている。
俺が見ているのに気づくと、はじけるように笑ってくれた。
その笑顔の中に。俺を応援する気持ちはどれだけ含まれているのか。
ボールが動く。試合が再開される。
ゲームは完全なレッズペースだ。
向こうはJを代表する有名クラブ。こっちは歴史も浅いJ2の新興クラブ。
レギュラークラスの争いならまだしも、
サテライトに出るようなメンバーになると、選手層の厚みの違いがはっきり出る。
それに加え、キレキレの兄貴の存在。
テンポがよくスピードのある兄貴のパスにレッズのアタッカー陣が生き生きと動き回る。
必死に迎え撃つシンシアの守備陣。中でも目立って奮闘しているのは坂上だ。
体格の良さを生かして空中戦を制し、
鋭い読みを武器に勇気を持って前に出て、相手の攻撃を摘み取っている。
この状況じゃ、点を取るにはシンプルなカウンターしかなさそうだ。
俺はゲームの状況から判断する。
さっきから前線で待っていても一向にボールが来ない。
これだけチーム力に違いがあっては、パスを回してレッズを自陣に押し込んで、
何度か揺さぶりをかけてからチャンスを作るなんてのは夢物語だ。
一本のパスで勝負するしかない。
俺は右サイドの大木を見る。あいつならきっとわかってる。
俺はセンターサークル付近でレッズのディフェンダー二人を引き連れながら歩く。
シンシアのゴール近くでの攻防がずっと続いている。
坂上が戦国時代の武将を思わせるような獅子奮迅の働きを見せている。
あいつなら、必ず一度はボールを奪ってくれる。
いつか鳥かごから小鳥が抜け出して羽ばたくようにボールが出てくる。それをひたすら待つしかない。
レッズがゴール正面中央で待っている選手にくさびのパスを入れる。
パスが出た瞬間、俺の頭で閃くものがある。そのパスはあまりに安易だ。
見切っていた坂上が猛然とダッシュ。
相手の足元に入る寸前で自分の足を伸ばしてボールをカットした。
このボールは来る。坂上から大木を経由して俺に必ず来る。
俺は周囲を見回してディフェンダーの位置を確認する。
パスを受け損なったレッズの選手が懸命に体を寄せて
ボールを取り返そうとするが、坂上の体は揺れない。
坂上はすばやく右サイドにボールを出す。
フリーで受けたのはもちろん大木だ。
大木が受ける前に俺は広い左サイドのスペースに逃げるように、
ほぼ真横に、ただしわずかに軽く弧を描くように走り出している。
サイドを変えてくる、と読んだディフェンダーのひとりがぴったりついてくる。
だが、もう一人の動きが連動するのが遅れた。
縄の端を両手で持って縮めた時のように、二人の位置関係がたわむ。前後にゆがむ。
その瞬間を俺は見逃さない。
緩やかに上空を旋回していた鷹が獲物を見つけた時のように、
俺は体の向きを変え、斜めにピッチ中央へ、ラインの裏へと走り出す。
わがままな動きだ。だが大木ならきっとわかっている。
俺は右後方を振り返りながらラインの裏へ。大木の足元からボールが飛び出す。
ラインのたわみを利用したタイミングで蹴っているはずだ。
大丈夫だ、旗は上がらない。
俺は体の右側で受けるためにコースを右寄りにとる。
俺にコースを塞がれたディフェンダーが、
左側をくっつくように併走している。互いの肘が軽く当たる。
大木からのボールが来た。
左側から押される。俺はそのプレッシャーを押し返す。
今日、この場所だけは誰にも譲れない。
走りながら飛んできたボールを右のアウトサイドで落とす。
思ったとおりの位置に置けた。ずれたら相手にとられてしまう。
そのままスピードを落とさずに全開のドリブルで持っていく。
俺は必死にボールをコントロールして走りながら、自分の成長を実感している。
プロのプレッシャーの中で俺はやれている。
力をかけられても俺の体の幹は揺るがなかった。トラップもぶれなかった。
もう昔の俺じゃない。
そのままスピードで引きちぎる。俺の体がわずかに前に出る。俺の方が足が速い。
懸命に体を引っかけてきているがもう外せそうだ。
もう少しでエリアに入る。
キーパーが蟹のような歩き方で前に出てきてコースを切る。
最後まで行けるか?一瞬理由のない弱気が頭を掠める。
すぐにその弱気を頭から叩き出す。
行くしかない。たぶん味方の誰も追いついてない。
それにここで勝負に行かないで、お前はいつ勝負するんだ?
打つ。俺は決める。これ以上ゴールに近づくとほんとにコースがなくなる。
ふんわりと上を抜くか。いや、このスピードのまま行った方がいい。
左足の踏み込みでキーパーのタイミングをずらす。
キーパーが俺の踏み込んだ足を見たのがわかった。時間がずれた。
小さいモーション、右足のつま先でぱちんとボールを弾くようなシュート。
思いのほかスピードの乗ったボールがキーパーの右脇の下を抜いた。
後はそのままゴールラインまで走り抜けながら、
ボールがゴールめがけて転がっていくのを見送るだけでよかった。
会心のカウンター一発。
俺はゴールの快感をひとしきり味わってから、
回れ右をしてゆっくりと自陣へ戻る。
ふと正面を見ると兄貴がこちら側へ歩いてきている。
兄貴。この試合、もうお前のワンマンショーにはさせない。
俺はじっと見つめるが、兄貴は俺と目を合わさない。
俺たちは互いに無言のまま数十センチの距離ですれ違った。中央に戻って試合が再開される。
センターサークルの後ろにいた兄貴にボールが下げられる。
一番前にいた俺は走ってプレスをかけにいく。
兄貴がちらりと俺を見たが、すぐにボールをサイドに渡す。
突っかける先を失った俺はそのまま兄貴と一緒に歩くような格好になる。
点を取った分、シンシアに活気が出てきた。
相変わらずボールこそ回されているが、押し込まれているという感じはない。
むしろ、ボールを相手に回させている、そんな余裕すらある。
出足のいいプレスがレッズの選手を襲う。
泡を食ったサイドの選手が逃げるように中央の兄貴にパスを出す。
焦った分ぶれている。この間合いなら取れる。
俺はボールめがけてダッシュ。
取れると思ったが、俺の動きを読んでいたように
兄貴は先にすばやく二、三歩移動すると先にボールを足元に収めてしまった。
いま強引に行ったらファールになる。
俺はぴったりと兄貴に体をくっつけてプレッシャーをかける。
兄貴が後ろに逃げるように下がる。
バックパスするかと思ったがボールは離さない。
俺はそこからは追わない。ハーフウェーで兄貴が入ってくるのを待つ。
そのまま下がり目の位置で兄貴がボールを保持しながら、出しどころを捜している。
何メートルか離れたところにボールを持つ兄貴の姿。
俺の誇りであり、ヒーローだった兄貴。
でも同時に疎ましい存在だった兄貴。
周囲が兄貴の才能を褒めれば、
身内を誇りに思う気持ちと隠し味のような妬ましさが俺の心には同居した。
「総一郎の弟」と言われる度に、
俺はあの天才の弟なんだぞと胸を張りたくなるような気持ちと同時に、
俺の自尊心は密やかに傷つけられた。
なぜ俺がすっきり兄貴のすばらしさを賞賛できなかったかいまならわかる。
俺はまだ自分の可能性をどこかで信じてたから。
いつも兄貴にぐうの音も出ないほどこてんぱんにやられても、
いつか絶対に兄貴に勝ってやる、と思い続けてたから。
自分に才能がないのだとしても、それでも俺はサッカーをあきらめられなかった。
だから、だから。同じ一人のプレイヤーとして、
素直に兄貴を全面的に賛美することなんてできやしなかった。
俺の目は兄貴の動きを注意深く追い続ける。
でも、それも今日で終わりだ。兄貴、とどめを刺すのなら刺してくれ。
俺に才能がないと教えてくれ。
持って生まれたものの違いというやつを。はっきりとそれを俺に教えてくれ。
何本か相手のラインでパスが回り、また兄貴のところへ戻ってきた。
来る。兄貴の考えが自分のものになる感覚。
このままだらだらボールを回してても、リズムは上向かない。
ならば流れを引き寄せるために突破してくる。自分で勝負に来る。それが兄貴だ。
俺は素早く兄貴の前をふさぐ。
兄貴に迷いはない。抜きに来る。
肩とわずかに顔の向きを動かしてのフェイント。
顔を向けたのと逆方向にいきなりスピードアップして
俺の脇を一気に駆け抜けようとする。
あまりに自然な動き。以前ならまちがいなく体重が片足に乗っていただろう。
だけど。いまは違う。
もう卑屈だった頃の俺じゃない。
最高の仲間を得て、すばらしい監督に教わり、大会で優勝した。
俺だって伊達に毎日、大木のトリッキーなプレーに付き合ってきた訳じゃない。
置いていくなよ。俺は兄貴の前を切る。
兄貴が驚いているのが空気を伝わってくる。昔だったら完全に捌かれていた。
兄貴がさらにスピードを上げて俺を強引に振り切ろうとする。
行かせたりしない。俺は体を寄せる。
不意に俺の脳裏に公園の風景が広がる。
いつも兄貴と二人で遊んでた家の近くの小さな公園。
一つのボールを二人で無心に追っていた。取りあっていた。
なあ、兄貴。いまの俺でもまだ勝てないのかな。
兄貴に勝ってあの人の目に俺を映そうなんて無謀な考えなのかな。
兄貴、俺たちはいまあの公園に還ってきたのかな?
俺と兄貴の体が接触する。
その瞬間、音もなく静かに兄貴の姿が消えた。
時の狭間にでも落ちたような不自然な静けさ。
みんなが動きを止めている。
俺の視線の先で、芝に倒れた兄貴が膝を押さえている。
その顔が苦痛にゆがんでいる。
これはファールをもらうための演技なんかじゃない。
何かが。起きてしまった。
ぎこちない沈黙はレッズの選手の
「おい!本庄、大丈夫か!」という悲痛な声で破られた。
呆然としている俺の肩を誰かが掴む。
「お前、何やったんだ!!」怒りに満ちた声が俺を刺す。
すぐに「落ち着け!」とそれを制止する声。
「削ったんじゃない、たぶん芝に躓いたんだ。
第一、こいつ実の弟だぞ。そんなことするわけねえだろっ!」
俺は怒号の中、その場に立ち尽くしている。
審判がゲームを中断させたらしく、
レッズのスタッフが入ってくると兄貴の怪我の様子を確認する。
だけどその頃にはもうピッチにいる誰もが大きな怪我だとわかっている。
みんなずっとサッカーというスポーツと付き合ってきたのだ。
こういう場面を過去にもう何度となく見ている。
不意に俺の体が太い腕で抱きかかえられた。
そのまま無理矢理回れ右をさせられて引きずられる。
抵抗しようにも体に力が入らない。
顔を上げると坂上の厳しい顔が見えた。その脇には大木もいる。
二人が両側から俺の脇の下に手を入れて支えている。
「お前のせいじゃない」坂上が言った。
「気休めじゃない。俺は見てたからな。
おそらく芝に躓いたか足を引っ掛けたかで
自分から転んだんだ。お前のせいじゃない」
坂上は子どもに言い含めるようにその言葉を繰り返した。
隣の大木も顔が真っ青だ。それがまた起きた事態の深刻さを伝えている。
たぶん坂上の言うとおりなのだろう。
そんなにきつく体を入れたわけじゃないし、ぶつけに行ったりしていない。
いつもの兄貴だったら、何の問題もなく対応していただろう。
でもそこに小さな不運が口を開けて待っていた。
でも、俺がピッチにいなければ
この怪我は起こらなかったんじゃないのか。
両脇を抑えられながら、俺はこらえきれずに後ろを向く。
兄貴が白い担架に乗せられて俺の前を運ばれていく。
仰向けに寝ている兄貴の左手が、
涙をこらえるかのように目の辺りに当てられている。
そのまま俺は担架の行く先を目で追う。
その拍子に俺の目は見てしまう。
金網の向こう。涙目の唯さんの顔。
自分の体が砂山になったみたいに、俺という存在は崩れていく。
練習の終わったクラブハウスのロッカールーム。
もう着替え終わった。後は帰るだけ。
なのに俺はずっと座っている。
「行ってこい」
俺の背中に厚い手が置かれた。
俺はゆっくりと顔を上げる。
坂上の引き締まった顔が俺を見下ろしている。
どうしてこいつは、こんなにいつもしっかりしていて、
他人のことまであれこれと心配できて。
どうして同い年なのにこいつはこんなに器が大きくて、
俺は心の小さい人間なのだろう。
「せっかく来てくれたんだ。行ってこい」
坂上が俺の背を促すように叩く。
その手に引き起こされるように俺は立ち上がる。
クラブハウスを出て練習グラウンドへ。
見学者用のベンチに座っている人影が見える。
唯さんだ。
今日は本を読むでもなく、じっと身を縮めて、
忍び寄る冬の寒さをこらえるように座っている。
もちろん唯さんが来ているのは
練習中に気づいていた。気づかないわけがない。
でも、いまの俺の足取りは重い。
前だったら唯さんのところへ一目散に走っていったのに。
一秒でも早く唯さんの元へ行きたかったのに。
少しずつ唯さんの姿が近づいてくる。
坂上の言うとおり。俺は逃げるわけにはいかない。
俺の気配に気づいた唯さんが顔を上げる。
少し顔つきが変わったような、やつれた感じがするのは気のせいか。
「今日は友達と予定とかないの?」
いつもと同じ唯さんの問いかけが妙に痛々しく感じるのはなぜだ。
俺と唯さんはほとんど会話もせずに車に乗り込んだ。
シートに腰を下ろしてドアを閉めると、
外の音がぱたりと遮断されて車内が静かになった。
その静けさも不自然に、重苦しく感じてしまう。
こんなこといままでなかったのにどうして?
いままで唯さんといるときは世界中に
桜の花びらが舞っているような、明るく浮き立つ気分になったのに。
車が走り出す。俺も唯さんも何もしゃべらない。
以前なら、どちらからと意識することもなく話しがはじまり、
会話がどんどんつながっていったのに、
いまはぎこちない空気の中、カーラジオの音だけが車内に流れている。
「兄貴、どうなんですか?」
意を決して俺は話しかけた。どうせ避けては通ることのできない話題だ。
「ん……」
唯さんから言葉が返ってこない。
話したくないのではなく、言葉が見つからないという雰囲気だ。
俺はそのまま唯さんが話しはじめるのを待った。
車は国道を東へ走り続ける。
どれくらい時間がたっただろう、五分?十分?
ようやく唯さんがしゃべりはじめた。
「かなりショックだったみたいで、すごく落ち込んでて…
ちょっと普通に会話ができる状態じゃないの…」
あの後すぐに病院で検査した結果、靭帯の損傷が判明した。
全治約六ヶ月。冷酷な診断だった。
アジアユースはもちろん、今季の残り試合の出場も不可能。
それどころか来年のシーズン開幕に間に合わない可能性もある。
兄貴のアジアユースにかける思いは相当なものだったはずだ。
試合に出て活躍すれば評価も上がる。
もしかしたらクラブでのレギュラーどりのきっかけになるかもしれない。
ワールドユースの出場権を確保でき、
本大会にも出ることができれば可能性はさらに大きく広がる。
クラブでくすぶっている兄貴にとって、
その状況から脱出するまたとないチャンスだったはずだ。
だがその道は閉ざされた。それどころか逆に靭帯負傷という
今後のプレーにも影響のある怪我を負ってしまった。
「見舞い、行ったほうがいいんですかね…」
俺は言ってみる。もうあれから二週間ほどたつ。
肉親である以上、見舞いに行くのが普通なのだろうと思う。
両親はしょっちゅう病院へ行ってるようだったけど、
俺はまだ一度も兄貴の病室を訪ねてはいなかった。
行きにくい。そういう気持ちももちろんある。
でも俺には、兄貴が俺が見舞いに来ることを望んでいない気がしていた。
俺にサッカーのできない自分の姿を見せることは、
兄貴にとって何より悔しいことだろう、そんなふうに思えてならなかった。
案の定、唯さんが首を振る。
「いまはやめておいたほうがいいと思う…」
また沈黙。
続かない会話。それでも俺と唯さんは、
何かを話さなければならない、何かを話さなければやっていられない。
言葉を押し出すように唯さんが話しはじめる。
「もう俺は終わりだ、なんていうのよ」
俺は耳を疑った。あの自信満々の兄貴がまさか。
「治れば、半年もすればまた前みたいにプレーできるわって言ったわ。
総君なら大丈夫よって何度も励ました。
でもね、私の励ましなんて総君には何の役にも立たないの。
そうよね、私はサッカー選手じゃない。
サッカーなんてやったこともない。いつも見てるだけ。
そんな私の言葉なんて何の説得力もない……」
運転席を見ると、唯さんの目に涙がたまっている。
はじめてみる唯さんの泣き顔。
「そんなことないですよ。
ほら、俺のセレクションのとき、
唯さんがびしっと励ましてくれたじゃないですか。
必ずセレクション通るのよって。
あのときの唯さん、なんか肝っ玉母さんみたいでしたよ。
俺が受かったのもあのおかげだし。
兄貴にもびしっと言ってやればいいんですよ、
何うじうじしてるのよって」
俺はおどけて見せる。でも唯さんは力なく首を振る。
「言えないのよ。
私がそういう強い人だったら、総君にとってもよかったのにね。
でも総君は私なんかより、はるかに才能もあって、立派だから。
ずっとそうだったから、総君に何か言うってことが私はできないのよ。
優司君なら言えるわ。
優司君見てると弟みたいだから、お姉さん顔して、
あれこれと世話をやいてあげられる。
でも、総君が相手だとそういうことはできないのよ。
ずっと私は総君の後をついていって、
離れたところで黙って見守ってあげるだけでよかったから」
もう後は会話が続かなかった。無言のまま、車は俺を運ぶ。
最後のメニューのミニゲームを終えた俺たちは、
みんなで手分けして道具を片付けはじめる。
「本庄!」と木崎監督が俺を呼ぶ声が聞こえた。
俺は手に持っていたボールを近くのやつに預け、走って監督のところへ行く。
俺の顔をちらりと見ると、監督は淡々とした口調で言った。
「例の件、部長から聞いたけどほんとうにそれでいいのか」
思わず体が縮こまる。監督の顔が見られない。
「はい…」
「もったいないな」
監督が意外なことを言う。俺は思わず監督の顔を見る。
今日はトレードマークのサングラスをかけていない。
サングラスをかけているときは、その筋の人にしか見えない監督だが、
それを外すと、鋭いけれどどこか優しい目が露わになる。
不思議な人だと思う。
厳しい人なのは間違いない。練習では体の限界まで容赦なく走らされるし、
怠慢プレーがあれば叱責こそないものの、
即座にゲームから出るように言われることも珍しくはない。
はじめての練習の日に言われたように、
やるべきことをやってないときや、できることをサボったりしたときは、
必ず見ていて後でお灸を据える。
フレンドリーに声をかけてくるようなこともないので、
どこか怖い、とっつきにくい印象もある。
それでも。俺はこの監督がとても優しい人なんだろうと思っていた。
チームのみんなもそうだ。
普通、これだけの人間がいれば一人くらい
不満をいうやつがいてもおかしくないのに、
ロッカールームのおしゃべりでもそういう声は聞こえてこない。
試合で結果が出ているというのは大きいかもしれない。
自分の力が伸びているという実感があるのも不満のでない理由だろう。
でもそれだけではないような気が俺はしていた。
この人はきっと俺たちを丁寧に見ている。それにみんな気づいている。
「彼女のせいか?それとも兄貴のことか?」
木崎監督が口の端を少しだけ曲げながら、見学スタンドのほうに視線を送る。
見なくてもわかる。唯さんが今日も来ているのは練習中に気づいていた。
でもなんで木崎監督が唯さんのことを知っている?
選手と雑談をしない人だ、チームメイトの誰かが
監督に俺のプライベートのことまでしゃべったというのも考えにくい。
俺の普段の素振りから気づいたと言うことか。
そこまで考えて俺はどきりとする。もしそうだとしたらこの人は。
もしかして俺が唯さんに持っている気持ちまで気づいているのか。
「まだ時間はある。よく考えろよ」
そう言い残すと、監督はクラブハウスに引き揚げていった。
俺は無言でクラブハウスに戻る。
手早く着替えると、俺は周囲に声をかけて部屋を出る。
何人かのおつかれ、という言葉を背に聞きながら、外へ。
唯さんが秋の陽を体に受けながら見学スタンドで待っている。
その景色がとても美しかった。
光る緑の芝。伸びる屋根の影。きらきらと輝く光。
まるで額縁に収められた風景画のような世界が俺の前に広がっていた。
でもそこには誰の笑顔もない。
俺が近づくと、唯さんはゆっくりと重そうに顔を上げた。
一目見ただけで状況が何も変わっていないのがわかった。
唯さんは何も言わずに立ち上がった。俺も黙ってその後についていく。
唯さんが車の鍵を開け、俺は無言で助手席に乗り込む。
走り出した車はやがて渋滞につかまる。いつもより一際ひどい混雑。
全然動かない。前後左右を他の車にふさがれた幹線道路。
どこにもいけやしない。
スピーカーからは透明感のある男性の歌声が流れている。
「だめね…今日も動かないわ。時間は大丈夫?」
俺は黙ってうなずく。
唯さんは手近なファミレスを見つけると、車を駐車場に入れた。
店員に案内され、席に座る。それぞれ飲み物を頼む。
道路に面した窓際の席。
日の入りが早くなったのか、外はもう随分暗くなりはじめていた。
席についたものの、会話は弾まない。
そもそも唯さんが一言も喋ろうとしない。そのまま無言の時間が続く。
周囲の客は俺たちの様子を見て、
カップルが喧嘩していると思っているかもしれない。
それともこれから別れ話がはじまるか。
そう思うのが普通だろうな、と俺は思う。
こんなに会話がないんだからそう見られてもしょうがない。
車の中。寄り道するファミレス。
俺と唯さんの間はいつもたくさんの言葉で満ち溢れていたはずなのに。
いまはたったひとつの言葉さえも存在しない。
いつからこんなに言葉がなくなってしまったんだろう。
さらに無言の時間は続き、俺は意を決して話しかけることにした。
唯さんの中にあるたくさんの言葉を
引っ張り出すのが自分の役割のような気がしたからだ。
「兄貴の具合はどうなんですか?」
唯さんのまつげがぴくりと震える。
「そうね…手術がうまく行った話は聞いてるかしら」
「ええ、おふくろから」
兄貴の手術は一週間前に無事成功に終わった、と聞いていた。
「でもまだ…」
「うん…。優司君はよく知ってるんだろうけど、
靱帯の怪我って、直れば完全に元に戻るとは言い切れないんですってね。
もちろん元通りにするためにリハビリをするんでしょうけど、
それでも100%以前の状態に戻せるかと言ったら…」
サッカーをやっていれば怪我はつきものだ。
そして怪我が時にその後のプレーに大きな影響を与えることも事実だ。
プロでもそういう例は少なくないし、
友人でもレベルこそ違えど、
怪我が理由で本来のプレーができなくなったやつを何人も知っている。
ほとんどの場合は以前に「近い」状態までは戻すことができる。
だが100%ではない。何パーセントかの僅かなずれ。
その違和感がプレーする本人をどれだけ苦しめるか、
それは同じサッカーをやるものとして容易に想像がついた。
「兄貴は俺を恨んでますかね」
つい本音が口をついた。
唯さんがはっきりと首を横に振る。
「それだけはないわ。断言できる。
総くんは決して優司君を恨んだりしていない。
一度もそんなことを口にしたりはしない」
たぶん、そうだろうと思った。
兄貴は、自分の心が弟を憎むなんてことを許さないだろう。
兄としてのプライド。誇り。
弟に対して兄としてこう振る舞わなければ、という兄貴の考え。
だから、絶対に兄貴は俺への恨み辛みを口に出さないだろう。
でも。俺は思う。
同じ土俵に降りてきてくれてもいいんだぜ、兄貴。
そして。俺は唯さんの顔を見る。
たぶんこの人も同じ理由で苦しんでいる。
「レッズのチームメイトとか友だちが見舞いに来てる時は元気なのよ。
信じられないくらい陽気で、元気で、明るくて。
だから、みんな安心して帰っていくのよ。
この前、たまたま病院の廊下で総くんを見舞った帰りの人とすれ違ったの。
元気そうでほっとしたよ、とか、あれなら心配いらないな、とか
話しているのが聞こえてきたわ。
でもね、そのまま私が病室に戻ると、
部屋の中で思い詰めたような顔で、じっと自分の足を見ているの。
私が戻ってきたのも気づかずに。背筋がぞくっとしたわ」
唯さんはため息とともに首を振った。
「あのときの顔を見たら、元気だなんてとても言えるはずがない」
兄貴に心を許せる友だちがいないわけじゃない。
いや、いつも目立つ存在だった兄貴は俺よりも友人の数は多いだろう。
でも兄貴はきっと彼らに相談したりしない。俺には容易に想像がついた。
いままでの付き合いの中で、
兄貴は多かれ少なかれ、人の相談を聞く方に回ってきたはずだ。
周囲からは恵まれた才能の持ち主、なんでも実現できる男と思われている兄貴。
そんな兄貴が相談や愚痴をこぼしたら、
周囲の人間からはただのわがままとしか受け取られないだろう。
本当は悩みや愚痴の有無は才能のあるなしで変わるものじゃない。
人ならば自分の置かれた環境に応じて、必ず相談したい悩みを持っているはずだ。
だけども周囲はなかなかそうはとってくれない。
知らず知らずのうちに、兄貴は自分で物事を解決するようになり、
それがまた兄貴の力を際だたせて一目置かれるようになる。
周囲は兄貴をできる男として祭り上げ、兄貴もまたその御輿に乗るしかなかった。
そんな兄貴に、急に他人に何でも相談しろ、弱みを見せろ、と言っても
急に切り替えられるものでもないだろう。
「昨日もお見舞いに行ってきたの。
でももう荒れちゃってて…俺のつらさがわかるかって。
私が何か言葉をかければかけるほど、
総くんが傷ついていくのがわかるのよ」
兄貴は人から慰めの言葉をかけられたことなんてなかっただろう。
兄貴は成功者であり、ヒーローだった。特に唯さんの前では。
唯さんが優しい言葉をかけても、
それに対してどう振舞えばいいのか
兄貴本人もわからないんじゃないかと俺は思った。
「リハビリの様子も見たわ。
はじめて実際に見たけど、あんな大変なものだと知らなかった。
何時間も何時間も単調な動作を延々と繰り返すの。
ほんとうにずっとずっと、同じことを何度も何度も、時間をかけてゆっくりと」
唯さんの声が震えはじめる。
「私はいままで総くんになにもしてあげなかった。
総くんにふさわしい女の顔をして、そばで応援しているだけ。
それで総くんも私もよかった。でもいまは違う。
私は総くんになにかしてあげたい。総くんの役に立ちたい。
でも、総くんは私を必要としていないの」
目が赤い。頬を雫が伝う。
美人の涙ってのは。どうしてこう世の中のどんなものより強いのだろう。
「そんなことないですよ。
兄貴だってきっと唯さんの力を必要としています。
ああいう兄貴だからこそ、唯さんの助けを」
唯さんが子どもが嫌々をするように首を振る。
「しばらくリハビリに集中したいから、
見舞いには来ないでくれって昨日言われたの。
言ったわ、私がリハビリを手伝う、お医者さんに教わって何でもやるわって。
そうしたら総くんが言ったの。
専門家がちゃんと見てくれる方が安心だから大丈夫、心配するなって。
唯は普段どおり学校に通っていればいい。
そのうち、俺の足も先生が元どおりにしてくれるから。そう言ったのよ。
でもね、でもね、そんなの違う。
元気になったら総くんのそばでかわいい彼女の振りをする。
そんなことはどうでもいいのよ、いま一緒にいたいのよ。
困ってるときこそ一緒にいてあげたいの、
それができるのはご家族を除けば私しかいないと思ってた…でも違うのよ」
ほとばしった言葉が勢いを失った。
テーブルの上に唯さんの目から水滴がぽつりぽつりと落ちる。
視線を感じて首を向けると近くのテーブルに座っていた
サラリーマン風の客と目があった。
ばつが悪そうな顔をしてその男がすっと目を逸らした。
きっと俺が唯さんを泣かせてる、と思ったんだろうな。
ダメ男がかわいい彼女を泣かせている。
まちがってはいないかもしれない。俺は確かに無力だ。
「私、もうどうしたらいいかわからない…」
唯さんはぼそりと呟くとそれきり黙り込んでしまった。
テーブルに肘を突き、両手で頭を抱える唯さんの姿。
唯さんの混乱をはっきりと俺は感じとることができた。
俺のとる方法は本来なら一つしかなかった。
持ってる限りの言葉を費やして、唯さんを慰め励まし勇気づける。
それが知人としてできる唯一のことだ。
でもそれが役に立たないことも俺は同時に知っていた。
いくら俺が言葉を紡いでも、唯さんの気持ちを楽にしてあげることはできない。
俺の言葉は、埃ほどの重みも持たずに宙に消えるだけだろう。
俺がもし唯さんの単なる友人だったら。
無駄とわかっていても言葉を並べただろう。
たとえ効果がなくても友人である以上それしかできないのだから。だけど。
出典:なし
リンク:なし

(・∀・): 68 | (・A・): 22
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