今日俺が一人で近所の公園でリフティングをしてたら2
2009/03/07 01:05 登録: えっちな名無しさん
俺は外を見る。
外はすっかり暗くなっている。
道路を走る車のライトが右から左へ流れ去っていく。
やばいな。俺は心のどこかで感じている。
もうこの後、どこへも行くところがない。
一度店を出て場所を変えて話し続ければ、気分が変わるという状態じゃない。
話し続けても先がない。かといってこのまま家には帰れない。
俺はぼんやりと考える。もうどこへも行くところがない。
唯さんがボタンを押すと、下の方にある口にルームキーが吐き出されてきた。
こういう仕組みになってるんだ。
はじめて見る機械。俺がしみじみと見ているのに気づいた唯さんが、
恥じらうような複雑そうな表情を浮かべた。
ルームキーに記された部屋番号を見る限り、部屋は三階のようだ。
廊下を歩き、エレベーターを見つけて乗り込む。
知り合いと会ったらどうしよう、という不安が頭をよぎる。
普段まったく来たことのない場所だから、まずありえれないけれど、もし。
でもそんな不安は杞憂のまま、エレベーターでも廊下でも、
誰ともすれ違うことなく俺たちは部屋の前まで辿り着いた。
唯さんがキーを差し込み、ドアを開けて中に入る。
入ってみると、清潔な感じの部屋だった。
真ん中に大きなベッド。部屋の片方の壁には大きなテレビが置いてある。
想像していたのと一致している部分もあったし、違っているところもあった。
唯さんがそばにあったテーブルに、バッグを置いた。
俺はどう振る舞えばよいかわからず、その場に立ち尽くす。
唯さんが俺を見て笑いかける。その笑みがぎこちない。
微笑もうとしてみた。唯さんを安心させるために。
でも俺の頬は痙攣でも起こしたように、ぎこちなく動くのが精一杯だ。
そのまま言葉を失った俺たちの間で、視線が不自然に固定される。
唯さんの顔を俺は見続ける。危険すぎる長さ。
堰が外された。
電気を消した室内。
はじめてのことなのになんとなくやり方がわかっているというのは、
遺伝子に刷り込まれた本能だからなのだろうか。
俺は唯さんの体をそっと抱きしめる。
硬い。ガラスのように硬い。どうしてこんなに硬いんだろう。
ほんの一瞬だけ疑問に思ったが、すぐになんとなく想像が付いた。
最近ずっと辛いことばかりだったから。心が硬くなって。
いつしか体まで硬くなってしまったんだろう。
すっとその事実を俺の心は受け入れた。
肌の感触。熱を伝え合っているうちに、少しだけ硬さはとれてきたような気がした。
でもなかなか火の通らない料理の素材のように、
芯は相変わらず硬いままなのを、俺は肌を通じてはっきりと感じる。
このまま続けたとして。俺は自問自答する。
この芯まで柔らかくすることができるんだろうか。
手の中の膨らみ。弾力に富んで俺の手を押し返してくる。
鼻をこする。唇をつける。
こういうやり方でいいんだろうか。変なやり方をしてないだろうか。
経験のない俺は頭の片隅でそんなことを考える。
暗闇の中、声が聞こえる。唯さんの声。
唯さんの声が俺の脳みその何かを刺激する。
何か突き動かすような衝動に駆られ、
理性のコントロールを外れた俺の手は、体はいっそう激しく動く。
やがてそのときがきた、と俺はわかる。
そっと俺は自分を唯さんの中に収める。唯さんの指が俺の腕を掴む。
慎重に少しずつゆっくりと。しばらくすると俺の腕を掴んでいた力が緩む。
かすかな吐息。その響きに会わせるように俺は動く。
俺の動きがその吐息を増幅し、増幅された吐息が俺の神経を刺激する。
俺は動き続ける。どんどん俺の中で高まっていく。
開放。
天井を見ている。
何をすることもなく天井を見ている。
隣の唯さんはさっきからまったく動かない。
寝ているのか、それとも物思いにふけっているのか俺にはわからない。
そんな静かな時間がずっと続いている。
そう、それだけで言葉が急に溢れるわけではない。
ことを終えたいま、俺はあることに気づいていた。
俺にとってははじめての経験だったが、唯さんにとってはそうではなかった。
ただそれだけのことだ。
よく考えればそんなことはこの建物に入った時の唯さんの様子から、
いやそれ以前からわかっているべきことだ。
別に唯さんが兄貴と寝てたからといって驚くべきことでもないし、
周囲が責めるようなことでもない。
でも薄々そうじゃないかと推測しているのと、
自分の肌を持ってそれを事実と理解したことの重みは全然違っていた。
俺が知らない兄貴と唯さんの時間があったこと。
それを改めて突きつけられる痛み。
それを胸に抱えたまま、じっと俺は天井を見上げていた。
俺の耳に布を裂くような音が聞こえてきた。
何かを引きずるような、紙をめくるようなかすかな物音。
思わず首を振って周囲を見回す。
音がどこから聞こえてくるのかはすぐにわかった。俺の隣だ。
唯さんの口から小さな音が漏れている。
泣き声。
その声は俺を激しく揺さぶった。
わかっている。唯さんは俺と寝たことを後悔して泣いているのではない。
自分が兄貴を裏切った格好になったことを悔やんで泣いているのでもない。
単に、自分がなぜ兄貴に受け入れてもらえないのか。
いまでもその答えが出ずに泣いている。
あれはテレビドラマのセリフだったか、昔読んだ小説のフレーズだったか。
寝てみてはじめてわかることがある。
いや、寝なければわからないことがある、だったか。
そのフレーズが完璧に正しかったことを俺は思い知らされていた。
寝てみてはじめてわかった。
唯さんの心の中に俺の場所がないことを。こうしてしまうのは早すぎたのだと。
仮に今日こうならなければ。遠いいつか。
もし兄貴と唯さんが別れたなら、俺が受け止めてあげることもできたかもしれない。
そのときなら、もしかしたら唯さんが俺のほうを向いてくれる
ほんのわずかな可能性もあったかもしれない。
でも気づいてしまったいま、それは蜃気楼のように消えたひとつのイフ。
「ごめん。気にしないで」
唯さんの声がした。
「誤解しないで。後悔してるとかじゃないから。ただ…」
俺はその先の言葉を押しとめるように、唯さんの頭をなでた。
手に伝わる柔らかな髪の感触。
こんなに他人のことを愛おしいと思ったのは生まれてはじめてだった。
もう何もしゃべらなくていいんです。俺は手で唯さんに語りかける。
心の中、いろんな感情が渦巻いている。自分でわかる。
哀しみ、やりきれなさ、辛さ、寂しさ。
家に帰ってひとりになったらそれが俺を苦しめるのだろう。
でもいまは。そっと唯さんを眠らせてあげたい。
ある日の練習後、木崎監督がみんなを集めた。
クラブハウスから出てきたのか、監督の隣に片平さんがいつのまにか立っている。
監督は今日みんなに話す気なんだな。それを見て俺は思った。
「今日はみんなに伝えたいことがある」
ユース生が全員集まったのを確認すると、木崎監督が話しはじめた。
「本庄が一年間、スペインへ行くことになった。
シンシアがスペイン一部のセゴビアというクラブと、
この夏提携したのはみんなも知っているだろう。
今回の話はその一環だ。向こうでうちのユース生を
一年受け入れてもらえることになった。
誰を行かせるか迷ったが俺の判断で本庄に行ってもらうことにした。
話をしたところ本庄本人も、ご家族も了解してくれた。
しばらく本庄とは会えなくなるが、みんな拍手で送り出してやってほしい。
本庄、みんなに挨拶を」
監督に指名された俺は、輪の中から抜け出して前に立つ。
「いろいろ迷ったんですけど、スペインに行くことに決めました。
一年半短い間ですけど、お世話になりました。
みんなと一緒に二つの大きな大会に勝てたことが一番の思い出です。
ほんとうにありがとうございました」
そう言って深々と頭を下げる。
みんなに、そしてみんなの後ろに広がる一年半走ったグランドに。
ユース生のみんなの拍手が頭の上に振ってきた。
顔を上げる。ちらりと前にいるみんなの顔を見た。
驚き。羨望。それにほんの少しの嫉妬。次は俺が、という闘志。
いろいろな感情が仲間の表情に浮かんでいる。
そう俺たちは仲間であると同時にプロを目指すライバルだ。
無条件に諸手をあげて喜ぶやつなんていない。そうでなくちゃいけない。
でも。俺は思う。みんなは気づいているだろうか。
俺が「大きくなって帰ってきます」といった類の言葉を口にしなかったことを。
たった一年スペインへ行くだけなのに、完全な別れの挨拶だったことを。
視線を感じる。俺の目が思わずその方向に引き寄せられる。
坂上が見えた。じっと俺を見ている。
その目が言っている。そういう意味なんだな?
俺は坂上にだけわかるようにほんの少し頬を緩める。ああ、そうだ。
全日本ユースの前、クラブハウスに呼び出されたあの日。
片平部長からトップチームの練習参加の話に続いて、
セゴビアへ一年留学してみる気はないか、と聞かれたときは
言われている意味がすぐに飲み込めなかった。
「お前のサッカーはまだまだ伸びる余地がある。
一度、日本の外へ出てみるのはいい経験だと思う」
呆然としている俺に、木崎監督が言った。
「もちろん、すぐに決められる話ではないでしょうから、
今日は家に帰ってお父さん、お母さんとよく話し合ってみてください」
片平部長が優しく俺に語りかける。
行きたい。俺はすぐに思った。こんなチャンスめったにない。
どれだけやれるか自信はない。
でも一年スペインの厳しい環境で揉まれれば、
きっと兄貴との距離も縮められるんじゃないか。
無邪気かもしれないが俺は単純にそう考えた。
その日家に帰ると両親に部長の話を伝えた。そして同時に言った。
行くつもりで考えている、と。親はそれ以上何も言わなかった。
けど、うちの親が好きにしろと思っていたんじゃないことはわかっている。
兄貴が寮に入り家を出て、俺も家を出る。しかも外国へ、17歳で。
そんなに焦らなくていいのでは、という思いは両親にしてみればあっただろう。
でも、俺の考えを尊重してくれた。そんな両親に俺は心から感謝した。
俺の意思を伝えるとすぐに準備が始まった。
パスポートの取得からはじまって長期滞在用のビザの申請。
日本でできることは日本で済ませておいたほうが楽だ、という
木崎監督のアドバイスに従って、俺はこつこつと準備をはじめた。
スペイン語の本や教材を買ってきて自宅で勉強した。
木崎監督と相談して、まだ留学の話は他のユース生には話さないことにした。
出発まではまだ時間があったし、それに全日本ユースも控えていた。
チームにこの時期余計な動揺を与えないに越したことはなかった。
出発が近づいてから、時機を見て伝えればいい。そう思っていた。
だけどあの事故。全日本ユースの後のサテライトリーグでの兄貴の怪我。
俺は片平部長にあの話は他の人に代わってもらえないか、と話しに行った。
片平部長は、事情は聞いているから、と前置きして、
まだ期限までは少し余裕があるからよく考えなさい、と俺をあやすようにさとした。
兄貴が怪我した上に俺までいなくなったら、
さすがに両親も不安だろうという気持ちもあった。
でもそれ以上に俺の心を占めていたのは唯さんの存在だった。
兄貴が怪我をしてから、不安定になっていた唯さんの精神状態。
兄貴が自分のことで精一杯な以上、唯さんを支えるのは自分の仕事のように思えた。
唯さんを一人にしておけない。
その思いが俺にスペイン行きを一度は思いとどまらせた。
いやそれだけじゃない。認めなくちゃいけない。
俺は唯さんの眼に自分の存在を映したかった。
兄貴が怪我をしているいまなら、唯さんが俺のほうを向いてくれそうな気がしていた。
でもそれは幻想だった。俺はあの夜、それをはっきり悟った。
いまの唯さんの心に俺の居場所はない。
もう兄貴とも顔を合わせられない。唯さんとももう会うことはないだろう。
ふと気づけば、もう自分がいまいる場所に未練はまったくなかった。
いや、未練どころじゃない。俺はいまの環境を棄てたかった。
すべてをゼロにして一から出直したかった。
幸いにも片平部長に言われていた期限はまだ数日先だった。
俺は片平部長に頭を下げ、やっぱりスペインへ行かせてくださいと頼んだ。
何も知らない片平部長は、目尻を下げて大喜びしていた。
その頃にはビザも下り、向こうの受け入れ準備も整っていた。
それを聞いた俺は一日でも早く出発したいと希望を伝え、最後の準備が慌しく進んだ。
すべての用意が整い、飛行機も決まったのは昨日のことだった。
「この留学制度は短期のものも含めて今後も随時行っていくつもりです。
みなさんも本庄君の後に続くよう頑張ってください」
片平部長が笑顔でまとめる。
それを聞いたみんなの顔色がすっと変わったのがわかる。
今度は俺が。みんなそう思っているに違いない。
これがプロを目指す者の雰囲気だ。仲間でありチームメイトであり、ライバル。
すばらしい環境で一年半サッカーがやれたことに俺は感謝した。
部長の話も終わり、それでは解散、と木崎監督がこの場を切り上げようとしたとき、
「監督、すいません!」大木が手を上げた。
なんだ、と木崎監督が促す。
「ユウジは、Jユースカップはどうするんですか?」
木崎監督の表情がかすかに動いた。
既に俺たちシンシアユースは予選リーグを突破し、
来月行われる決勝トーナメント進出を決めている。
「本庄は一週間後に出発する。練習に出られるのもあとニ、三日だ。
当然、来月の決勝トーナメントには出られない。
Jユースカップは本庄抜きのチームで戦う」
前に立っている俺には、みんなに動揺が走ったのがはっきりとわかった。
二つの優勝を積み上げ、ようやく手に入れた三冠への挑戦機会。
その大会を前にチーム得点王のフォワードが抜ける。
よりによっていまでなくても、と思っているのかもしれない。
「本庄のことを考えれば一日でも早く行ったほうがいい。
それに試合の前に怪我などでメンバーが急に入れ替わることはある」
みんなの考えを読んたように木崎監督が言った。
「一人が欠けただけで機能しなくなるような、
そんなリスク管理の甘いチームを作ってきたつもりはない。
ひとりひとりがきちんと自分の力を出しきれば、
今度のJユースカップも必ず納得できる結果が出せるはずだ」
場の雰囲気がぎゅっと引き締まった。
ありがとうございます、監督。俺は心の中で礼を言った。
たぶんいつもの監督なら、ニ、三日このままほうっておいて選手たちの中から、
自分たちでやってやろうというムードが盛り上がってくるのを待っただろう。
だけど今回に限って、監督はあえて自分の口からすぐに説明して、
ユース生の動揺をすぐに抑えてしまった。
俺が心置きなく出て行けるように、という心遣いに違いなかった。
みんなに気持ちよく送り出されて出発できるように、と。
監督がもう一度解散、と口にしてユース生の輪が解けた。
「頑張れよ」「元気でやれよ」
仲間から口々に声がかかる。俺は笑顔で言葉を返す。
一年半も同じグラウンドにいた仲間だ。感傷がないわけがない。
でもそれを大仰に表現したりはしない。
ふと大木の顔が目に入る。見たこともないほど表情が暗い。
どうしたんだろう?俺は気になった。
大木のことだ、先を越された悔しさもあるだろう。
なぜ俺が選ばれなかった、という気持ちもあるかもしれない。
でもあいつはそれを引きずるようなやつじゃない。
悔しさをエネルギーに変え、シンシアでの練習にぶつける。
そんな前向きな力をあいつはちゃんと持っている。
すぐに憎まれ口を叩いてくると思ったのに。変だ。
「よかったな」背中をぽんと叩かれる。坂上だ。
「ああ」こいつにはいろんなことを教えてもらった。「ありがとう」
俺たちはそのまま連れ立ってロッカールームに戻る。
「親御さんからは何か言われなかったのか」
「好きなようにやれって」
ロッカールームに戻って着替える。
着替えを済ませたやつから順繰りに部屋を出て行く。
いつまで練習来るんだ、と声をかけてくるやつもいる。
じゃあ最後の日はみんなでぱーっと何かやろうぜ。
坂上、キャプテンとして何か企画しろよ。
わかった、というように坂上が少し離れたところで笑いながらうなずく。
言葉、しゃべれるのか?スペインってかわいい娘いるのか?
別れの会話。他愛ないやりとりをしながら、
俺はプロのサッカー選手ってこういうものかもしれない、と思っていた。
チームを変え、住む場所を変え、時に国さえも変えていく。
まるで現代のジプシーみたいなもんだ。移り歩いていく。
別れは当たり前。見送るほうも当然のこととしてさらりと受け止める。
そう。そういう世界に俺は一歩早く足を踏み入れた。それだけのことだ。
どんどんロッカールームから人がいなくなっていく。
みんなと会話しているうちに俺の着替えはついつい遅くなってしまった。
部屋にはもう三人しか残っていない。俺と坂上と、大木だ。
他のやつとしゃべってる間も、大木の様子が気になっていた。
いつものように会話に絡んでくるでもなく憮然として一人でいた。
いったいどうした?仮に俺が選ばれたのが悔しいのだとしても、
それを表にいつまでも出しているのは、やつのプライドが許さないはずだ。
絶対に様子が変だ。
だが俺から声をかけるのも理由がわからないだけに気が引けた。
そのとき坂上が口を開いた。
「大木、どうした。本庄におめでとうぐらい言ってやれよ」
だけど背を丸めた大木は反応しない。
体もずいぶん大きくなったけど、そういう姿を見ていると、
まるで昔の小さかった頃の大木を思い出した。
「なんで、スペイン行くんだよ」
ぼそり、と大木が呟いた。
え、と思わず俺の口から声が漏れる。
「どうしてスペイン行くんだよ、三冠とるんじゃなかったのかよ。
俺がパス出して、お前が点決めて。
みんなで指三本立てるんじゃなかったのかよ!」
大木の声が凛と部屋の空気を揺らした。
窓にはまったガラスがびりびりと震えたような錯覚。
大木、と坂上が諌めるように静かに声をかけた。いつもこいつは沈着冷静だ。
いやいやをするように大木が首を振る。
「わかってるよ、三冠よりスペイン行くほうが大事だって。
俺がユウジの立場だったら俺もそうした。
でもな、ユウジがいなくなったら俺のパスを誰が受けるんだよ…」
大木の声が震えているのに俺は気づいた。
もしかして。大木は泣いているのか。
坂上もそれ以上は声をかけるでもなく黙って見守っている。
そのまま、俺たち三人は凍りついたように動かずにいた。
しばらくすると感情の高ぶりもおさまったのか、
大木は一度大きく深呼吸をすると、だいぶ落ち着いた口調で話しはじめた。
「ユウジ、セレクションではじめて一緒にゲームしたとき、
俺が左のフォワードのやつに出したパスを覚えているか?」
ああ。俺はうなずく。ノールックでどんぴしゃりで出したやつ。
受け手が戸惑ってしまって点は入らなかったけど、すさまじい切れ味のパス。
あのパスを見て、俺はもっとうまいやつらと
一緒にやってみたいと切実に思った。いまでもあのときの気持ちは覚えている。
俺の言葉に大木は、はは、と乾いた笑い声を上げ、
「あのときは俺もフォワード怒鳴っちまったけどな。
でもあれは結局、俺のパスが悪いんだ」
え?俺は思わず聞き返す。あのパスがだめだって?
「いや、パス自体は完璧だ。ディフェンスも外した。シュートも打てる。
そういう意味じゃあれはいいパスだ。
ただひとつ、受け手が感じてなかったことを除けばな」
俺は大木の言葉の真意がわからない。
「どんないいパスでもフォワードが感じてなければ
ただのミスパスと変わらないのさ。
事実、やつはシュートを打てなかった。
受け手が待ってないところに出しても、点にはならない」
大木が笑う。その笑いに俺は自嘲めいたものを感じた。
「ヴェルディのジュニアにいたときさ、俺、白い目で見られてたんだよ。
とんでもないところにパス出すやつだって。
俺は自分でここ、と思ったところに出してるんだけど、
周りと全然呼吸が合わないんだよ。持ってるイメージが全然違うって言うか。
最初はそれでも構わずに出したいとこパスしてたんだけど、
で、なにしろ受けるやつらが有名どころばっかりじゃん。
アンダーの代表行ってます、なんてやつもいたしさ。
そのうち俺のパスがおかしいんじゃないか、みたいな雰囲気になって」
話す大木の目が遠くを見ている。おそらく過去を。
「で、俺も少し気をつけるようにしてさ。
受け手と確実に意思が通じてるパスを出すようにした。でも」
大木は天井を仰ぎ見る。
「自分が持ってるイメージがどんどんなくなっていっちまうようで怖かったなあ。
人に合わせるのは大事だよ。でもそればっかりやってると、
自分の味っていうのかなあ、それが俺の中から消えていってしまいそうで。
だから合わせることも意識しながら、やっぱり自分ならではのパスも出してた。
あとはドリブルを毎日練習した。
ドリブルで抜いて決めちまえば、パスなんかいらない。
他のやつのタイミングにあわせる必要もない。自分ですべて決められる。
ジュニアの後半はドリブルばかりやってたなあ」
坂上も興味深そうに大木の話を聞いている。
三人しかいない部屋で大木は語り続ける。
「でも案の定、上には行けなかった。
しょうがない、ゲームをやると俺だけいつもチームから浮いてたんだもん。
個性が大事だって言ったってさすがに限度はあるよな。
でもまだプロをあきらめるつもりはなかったから、
片っ端から俺はセレクションを受けた」
大木が両手を合わせ口元に持っていく。顔はかすかに笑っている。
まるで昔の楽しい思い出話をはじめようとでも言うように。
「シンシアのセレクションでユウジが入れた決勝点。
完璧にどフリーで打てるスペースが空いてるのはわかってた。
でもここにいるやつはどうせボンクラばかりだ、
あのスペースに気づいてるやつなんかいない。そう思ってた。
そうしたらユウジ、お前がそのスペースを狙っているのが見えた。
俺はスペースにパスを出し、ユウジがゴールを決めた」
ゆっくりと俺の顔を見る。
「こいつもあのスペースがわかっていた。俺と似たイメージを持っているみたいだ。
とは言ってもたまたまってこともあるからな。
あの時点ではそんなに深く考えたりしなかった。
こいつとのプレーの相性は良さそうだぐらいの程度。
けど、一緒に練習するようになって驚いた。
ユウジは俺のパスを何の違和感も感じずに受けるんだよ。
俺が出したいとこに蹴ったパスを、普通に受けて決めてくれる。
俺の持ってるこうすればチャンスになるというイメージを理解してくれる。
動きが微妙に合わなくてずれたときも、
ユウジはお前の意図はわかってると、手を上げてくれる。
それがどれだけ俺が嬉しかったか、ユウジわかるか?」
隣で坂上が何度も深くうなずいている。坂上は大木の話の意味がわかるのか。
俺はそんなことを考えもしなかった。
大木はいつもいいパスをくれる。
だから、大木が何をしたいかを感じ、俺が何をしたいかを伝えればよかった。
ただそれだけのことしかしてこなかったのに。
大木が俺の顔を見て笑う。
「俺の言ってる意味がわからないんだろう?
だからお前は天才なんだよ。兄貴みたいにな。
ユウジが持ってるゴール前でのイメージの数は
他のやつと比べて桁違いに多いんだよ。
だから俺のイメージもすぐに読み取って対応できる。
他のやつじゃ持ってるイメージが少ないからそうはいかない。
呼吸が合わずにプレーがぎくしゃくしちまう。
でもユウジとならそんな心配はいらなかった。本当に最高の受け手だった。
ユウジと一緒にやるようになってほんとサッカーが楽しかった。
元々ユウジみたいなワンタッチゴーラーは俺みたいなタイプと相性がいい。
俺がユウジを動かすパスを出し、ユウジが俺から欲しいパスを引き出す。
Jユースだって、全日本ユースだって、俺のアシストでユウジが点をとった。
そうやって実績を残せば、俺の評価も上がる。
事実、シンシアのトップチームにだって呼んでもらえるようになった。
プロへのチャンスがはっきり見えてきたんだ。
ここでアピールすれば昇格できて、プロになれる。そこまで来たんだ。
なのに…どうしていなくなるんだよ…」
また大木の声がどんどん細くなっていき、最後は聞き取れなくなった。
大木は顔に手をあてて、座り込んで動かない。
大木の言ってることはわがままじゃない。
環境、指導者、チーム力。サッカー選手は節目節目の選択で、
自分の成長のためにエゴイスティックにチームを選んでいく。
時にチームメイトやサポーターの声を振り切ってでも、
自分に何がしかのメリットがある環境を求め、それを手に入れたいと願う。
それがプロのスポーツ選手という生き方の本質だから。
大木の気持ちが俺にはよくわかった。
だってユースに入ったときは、俺が大木や坂上に刺激されていたのだから。
やつらがいたからいまの俺はここにいる。
自分のサッカーを伸ばすためにスペインへ行くんだったらよかったのにな。
苦い思いとともに考える。
それならば、俺も一人のプレイヤーとして、胸を張ってシンシアを出て行ける。
でも実際は違う。俺は日本から逃げる。日本を捨てる。
あの人たちの前から俺と言う存在を永遠に抹殺するために。
その事実が俺の心を重くする。俺はそのことを大木には告げられない。
考え込んでいると、坂上がすっと俺の肩を押した。
「今日は帰れ」坂上の落ち着いた表情。「俺はこの後大木と話していこうと思う」
二人だけにしろ、ということか。坂上ならきっとうまくやるのだろう。
ここは素直に坂上に任せるのがいいのかもしれない。
俺はわかった、と坂上にうなずいて見せると、バッグを持って部屋を出た。
外はもうずいぶん寒い。冷え冷えとした光景。
一瞬、俺の目がスタンドに引き寄せられる。誰もいないベンチ。
もうあのベンチで練習が終わるまで俺を待つ人はいない。
そう、俺がシンシアを去るべき時期なのだ。
たくさんの人が行き来している。はじめてきた空港のロビー。
いままで海外へ行ったことはなかった。
いつか行くこともあるだろうとは思ってたけど、
それがこういう形になるとは想像もしなかった。
俺はベンチに座ったまま、
コートのポケットに入れたパスポートの感触を何度も確かめる。
家族の見送りは断った。仕事のある両親に休みをとらせるのは気が引けた。
両親は、休暇をとるぐらいたいしたことではない、
成田まで見送りに行く、と主張したが俺は押し切った。
シンプルにひとりで日本を出て行きたい。そう思っていた。
不安がないといったら嘘になる。いや、不安しかないといったほうが正しい。
言葉。サッカー。ひとりでの生活。
ちゃんとやっていけるのか。その自信はいまでもない。
でも。自信があろうとなかろうと俺はやるしかない。
もう日本には帰らない。サッカーだけを武器に世界を渡り歩く。
そう誓った俺に、後戻りする道は残されていない。
時計を確認する。もう少ししたら搭乗手続きがはじまるだろう。
手持ち無沙汰な俺は、
意味もなくポケットの携帯を取り出しフリップを開け閉めする。
スペインに行くために海外でも使えるものに買い換えた。
現地に行けばもっと安い物が手に入るだろうが、
とりあえずの連絡手段を確保しておく必要があった。
まだ新しい機種だから操作に慣れていない。
暇つぶしついでにボタンをあれこれいじっていると、
いきなりアドレス帳が開いた。まちがってボタンを押してしまったらしい。
一番上に表示されている名前。
急いでいたから何も考えずに前に使ってた携帯からデータを写していた。
もちろんあの夜の後、一度も連絡はとっていない。
しばらくその名前をじっと見ていたが、
俺はボタンを押してそのアドレスを削除した。
本当に削除してよいか、確認のメッセージが出る。迷わずに「はい」を押した。
錯覚なのだろうが、ほんの少しだけ何かが整理できた気分になった。
フリップをたたむと俺は携帯をズボンのポケットに突っ込んだ。
その瞬間、ポケットの中で携帯が振動し始めた。
慌てて取り出す。ディスプレイの名前を確認して俺は受話ボタンを押す。
「なんだよ」
「ひとりで心細そうな顔してるじゃないか」
俺は周囲を見渡す。すぐに見つかった。
視線の先に耳に当てていた受話器を離してポケットにしまった坂上の姿。
笑いながらこっちに歩いてくる。
「わざわざ電話かけてくるなんて相変わらず嫌味なやつだな」
「いや、あまりに暗い表情だったから声かけるのも憚られてな」
いつものなんでもお見通しと言う笑い。
「お前のことだからどうせ見栄張って
見送りは全部断ったんだろうな、と思ってきてみたら案の定だ」
当たってるだけに何も言い返せない。
「そういう意地っ張りなところは直したほうがいいぞ」
大きなお世話だ。
俺たちは滑走路に面した大きな窓ガラスを背に、並んで腰かける。
坂上が後ろを向いて飛行機が飛び立っていくのを目で追っている。
「ほんとに行くんだなあ」
「当たり前だろ」
俺の返事に坂上がふっと笑って
「悪いけど二年前のお前はほんと子どもだったもんなあ。
一人でスペインに行くなんてなんか信じられないよ」
どうせお前ほど落ち着いてないよ、と俺は憎まれ口で返す。
セレクションのときのことを思い出しているのか、
坂上が遠くを見るような表情になった。
あのときこいつらに会っていなければ。俺のサッカーはどうなっていただろう。
坂上、そして大木。結局、あの後大木と話すことはなかった。
大木は納得してくれただろうか。
「大木のことなら心配するな。あいつだってわかってる。ただ少し時間が要るだけだ」
坂上の言葉。ほんとうに。
どうしてこいつは人が考えてることがすぐにわかるんだろう。
「一度ミニゲームのときにさ、大木のパスをお前が決めたことがあってさ。
俺、そのとき後ろから見てて、こいつらすごいな、と思ったんだ。
いや、正確に言うと、本庄はなんでいまのパスに合わせられるんだろうって。
俺から見たら大木のパスは確かに相手の裏をかいていたけど、
あまりに自分勝手でわがままなタイミングに見えた。
受け手の動きを縛るようなきついプレーにしか思えなかった。
でもお前は完璧なタイミングでそのパスに飛び込んできた。苦もなくな」
坂上が手の中で携帯をもてあそびながら話す。
「今年になってからのお前らのコンビは凄かったよ。
まるで兄弟のように持ってるイメージが一緒なんだな。
事前にサインでも決めてるんじゃないかと思ったぐらい呼吸がぴったりで。
大木にしてみれば、はじめて見つけた自分の完全な理解者だったんだろうな。
ずっと捜し続けた理想の恋人のようなパートナー。
それがいなくなるんだ、やはりショックだろう」
あの後も考えてみたけど、俺には大木や坂上の話が実を言うとぴんと来ない。
だって。最高のパスを大木はいつも出してくれる。
高い技術をフルに使って、こんなところを、と驚くような場所を通してくる。
俺の特徴を完全に把握したボールを送ってきてくれる。
たとえば歩行状態からの加速スピード、十メートル走ったときの速さ。
得意なシュート角度。俺が飛び出すタイミング。
俺のジャンプの高さ。左足が実はあまりうまくないこと。
みんな大木は自分の体のように知っていて、それを計算した上でパスをくれた。
だから俺は何も考えずにゴールすることだけを考えられた。昔のように。
「見送りに行こうぜって言ったんだけどあいつも意地っ張りでさ。
俺は練習場で見送るぜなんてカッコつけやがったんだぜ。
飛行機の時間は知ってるはずだから、あいつのことだ、
律儀にいまごろ練習場で一人でボールを蹴ってるよ。お前のことを考えながらな」
坂上が笑う。でも俺は一緒には笑えなかった。
練習場で一人ボールを蹴る大木の姿が瞼の裏に浮かんできた。
さみしそうな後ろ姿。俺は。もう少しあいつと話をするべきだったのかもしれない。
俺が何を考えているか、あいつに伝えるべきだったのかもしれない。
それが何の意味もない行為だとしても、
俺がなぜシンシアを離れようと決めたのか話しておくべきだったのかもしれない。
「結局、振られたのか?」
ボールをぽんと放ってよこすような突然の坂上の言葉。
驚いたのは一瞬だけだった。
いつも周囲を注意深く観察しているこいつが気づかないわけがなかった。
俺は無言でうなずいて認める。
「最近、姿見ないからそうじゃないかと思ってた。いろいろあったんか?」
ああ。いろいろあったんだ。
俺の言葉に坂上は軽く何度かうなずく。
しばらくの沈黙。
「日本には帰ってこないのか?」
「そうできたらいいな、と思ってる」
俺は自分の思っていることを話す。
「スペインに行って、なんとか向こうのクラブに認めてもらって。
そのままずっと向こうでサッカーができるぐらい。
サッカーをしながら国から国へと渡り歩くような生き方をしたい。
それがサッカー選手なのかなって思うし、
それに…もう日本に未練はないから」
兄貴ともう顔を合わせたくない。合わせる顔がない。もちろんあの人とも。
だから俺は自分を遠い世界へ運んでしまうことに決めた。
彼らのいる世界から自分自身を取り除くことにした。
そうすれば…彼らはきっと平穏に暮らしていける。
一時の気の迷い。それはすぐに風化し、記憶の果てに消えてしまう。
それでいい。そうあってほしい。俺は願っていた。
俺のことなど二度と思い出さないでほしい。
「お前っていいやつだよな」
坂上が突然変なことを言い出す。
「何だよ、急に」
いや、と坂上はなぜか眩しそうに俺のほうを見て
「バカみたいに意固地で、生木のように頑なで。
お前のそういう要領の悪いとこっていいよな」
褒めてんだか、けなしてんだかわからねえな、と感じたままを言うと
「うらやましいんだよ」
坂上がまるで自嘲するようにふっと笑った。
時計を見る。時間が近づいていた。
俺の仕草に気づいた坂上が「時間か?」と尋ねてきた。
うなずいて立ち上がる。坂上もすっと腰を上げた。
ゲートまで歩く。その先には下りのエスカレーター。
ゲートを抜け、あのエスカレーターに乗ってしまえば、
いままでの自分はリセットされるのだろうか。
俺は後ろを振り返る。
「見送り、ありがとうな」坂上に礼を言った。
「最後は素直だな」ちょっと意外そうな坂上の顔。
感謝してるよ、と俺が言うと坂上がいつもの優しい目になった。
友人でありながら兄のような。坂上は俺にとってそんな存在だった。
すっと俺の腰の辺りに坂上の手が差し出される。俺はその手を握り返した。
「いつか戻って来い。お前の気持ちはわかるが、それでも帰ってこい」
俺は坂上を見る。正面から坂上が俺を見ている。
うなずけない。わかった、と口にすることは俺には許されない。
坂上も俺の返事を期待して言ったのではないだろう。
じゃあ、といって俺は手を離した。
ああ、と坂上の声。
最後に軽く手を上げて俺はゲートへ歩く。
もう後ろは振り返らない。
ゲートを通り、下りのエスカレーターに乗る。
下るにつれ、明るいロビーの光が徐々に遠ざかっていく。
いままでいた世界と自分を結んでいた線が切り離されていくような錯覚。
自分の皮膚から何かが剥がれ落ちていくような気持ち。
もうここへは帰ってこない。さようなら、日本。さようなら、
一瞬あの人の名が浮かんだが、俺はその名前をすぐに頭から追い出した。
(第2章 終わり)
念入りなクールダウンを終えて、練習を上がる。
クラブハウスへ戻ろうとすると、
マネージャーのディレリオが俺に声をかけてきた。
「ディレクターが顔出せって行ってたぜ」
俺は大きくうなずいて、わかったという意思表示をしてみせる。
グラウンドを仕切る金網に設けられた出入口。
そこから、クラブハウスにつながる道へ出ると、
誰かがそばににじり寄ってきた。
耳元でずいぶん熱心に何かをささやいている。
日本にいた頃、繁華街で高校生の俺に声をかけてきた客引きみたいだ。
あのときの客引きは俺が大人に見えたのか、
それとも誰でもよかったのか、おそらく後者だろう。
自分の客になりうるなら、相手が子どもだろうと
構わないというところは、いま耳元でささやいてるやつと共通している。
金網の周囲にはこんなふうに普通の見学客に混じって、
自称代理人と名乗る連中が輪を作っている。
練習を終えた俺たちを片っ端から捕まえて、
俺に契約を任せないか、と持ちかけてくる。
どこから手に入れるのか彼らは選手の情報にも精通している。
俺が一年の期間でこのクラブに来ていて、
それがもうすぐ終わることは彼らも先刻ご承知だ。
最近声をかけてくるやつが増えたのもそれと無関係ではあるまい。
俺は手を振ってつきまとう男を追い払うとクラブハウスに戻る。
手早く着替えると、ディレクターの部屋をノックする。
中から男の声。「本庄です」と俺は日本語で名乗る。
「どうぞ」と流暢な日本語が返ってきて、俺はドアを開けた。
立派な机に、頭の少し薄くなった大柄な男性が座っている。
「疲れてるところ悪かったね」
ルチアーノが俺の顔を見て微笑んだ。俺は無言で首を横に振る。
スペイン語であれこれと書かれた肩書きはよくわからないが、
ルチアーノはこのクラブの実質的な強化責任者だ。
Jリーグで五年ほどプレイしていたから、日本語がぺらぺらだ。
シンシアとの提携もこのルチアーノがいなければ、
きっと実現していなかったに違いない。
いきなり言葉もわからないスペインサッカーに放り込まれた俺にとって、
日本語が話せ、自らのキャリアに基づいて適切なアドバイスをしてくれる
ルチアーノの存在は、この一年を無事に過ごす上で大きな助けだった。
一年間の留学ということでスペインに来た俺。
この間、決して楽しいことばかりじゃなかった。
言葉の問題、チームメイトとのコミュニケーション、新しい生活。
まるでトラブルの玉手箱をひっくり返したように、
毎日何か煩わしい出来事が起きる。
でも、いま振り返ってみると、それも楽しかったように思えてくるから不思議だ。
そう、それに俺にはもう帰る場所、帰る国はないのだから。
「契約の件では時間がかかっていてすまないね。
もう少しで結論が出せると思うんだが」
その件についてはシンシアに任せていますから、と俺は答える。
この一年間必死にアピールした甲斐があってか、
トップリーグの試合こそさすがに外国人枠の関係もあって出ることはできなかったが、
俺は今後が期待できる存在としてクラブに認知されるようになった。
留学期間がもうすぐ切れようとする中、
クラブは俺とプロ契約を結びたい旨の話を申し入れてきた。
もちろん俺の一存ではどうにもならない。
俺はシンシアの金で留学させてもらっている選手だ。シンシアの意向もある。
ただ、俺の気持ちは決まっていた。
両クラブの間でどのような結論になろうが、契約がどんな内容になろうが構わない。
ただ、日本に戻ってプレーする気はない。
俺は国際電話をかけてきた片平さんにきっぱりと告げた。
最初は翻意させようとした片平さんも俺の決意が固いことをわかってくれたらしく、
何度も「君には帰ってきてほしかった」と言いながら、
セゴビアとの話し合いをはじめてくれた。
細かいことはわからないが、
俺の保有権をシンシアとセゴビアが半分ずつ保有する形を基本に、
契約に関する話し合いはおおむねまとまりつつあるという話だった。
どんな内容でも構わなかった。
育ててくれたシンシアにきちんと金が落ちてさえくれれば。
ただ、無事契約できても来年もセゴビアにいられる
確率はそんなに高くないだろう、と俺は思っていた。
うまく外国人枠が空かない限り、俺の出番は回ってこない。
俺はおそらく二部で外国人枠に余裕のあるチームへレンタルされる。
それともスペイン国外へ、ポルトガルか、フランスか、さらに違う国か。
それでも構わない。俺は腹を括っていた。
日本に帰れない以上、俺にはもうサッカーしかない。
サッカーを武器に国から国へ放浪するように渡り歩く。
運がよければ、俺に合う国とクラブが見つかって
腰を落ち着け、家庭を構えるようなこともできるかもしれない。
それでいい、と俺は思っていた。
「ところで今日呼んだのは契約の話じゃなくてこれのことなんだ」
ルチアーノは机上にあった一枚の紙を俺の目の前で振る。
俺は右手を伸ばしてその紙を受け取った。
文字のかすれ具合で、ファクスだとすぐにわかる。
俺は内容を一瞥するとすぐにその紙をルチアーノに返した。
「断っておいてください」「いいのか」
間髪入れずルチアーノが問い返してくる。
大きく見開いた目が、俺をあやすようにいたずらっぽい光をたたえている。
「どうせ行ってもサブですよ。こっちで練習してた方がましです」
「国際試合の雰囲気を経験しておくのは悪いことじゃなかろう」
ルチアーノの日本語が完璧なのが、こういうときは妙に癪にさわる。
「国際試合といってもオリンピック。それもアジア予選じゃないですか」
U-23日本代表への招集の打診。それがルチアーノが持っていた紙の内容だった。
U-23代表は、来年の北京五輪の出場権をかけて、
夏から冬にかけてアジア最終予選を戦っている。
前回アテネの時はダブルセントラル方式で短期集中日程で開催されたが、
今回は4チームのリーグ戦をホーム&アウェーで戦うため、
予選の期間も随分長くなっている。
打診が来たのは今回がはじめてじゃない。これで確か三回目。
だが俺はその招集を断り続けていた。
「国際Aマッチデーでもないですよね。クラブの方で断ってください」
「試合に出ないユウジには関係ないだろう」
俺は言葉に詰まる。外国人枠の関係でベンチ入りもできない俺が
抜けたとしてもクラブとしては困ることもないだろう。
「まあユウジがそういうんなら一応断っておくが…」
ルチアーノが真顔に戻って、紙に視線を落とす。
「なぜ、そこまで嫌がる?たとえばこの国に」
ルチアーノはそう言うと座ったまま手を大きく横に広げた。
「民族対立があって代表にいろいろな問題があるのは、
一年近くいて君ももう理解しているだろう。
その点、日本は違う。あの国は代表を応援しようという気持ちで国がまとまる。
国民が文字どおり自分たちの代表として誇りに思っている。
君が代表に参加する上で障害は何もないはずだ」
ルシアーノは立っている俺を見る。
「個人的なことで日本には帰らないと決めたんです」
我ながら言葉が固い。俺が他人だったら
「なにそんなに力んでんだよ」と声をかけるに違いない。
それでも、そう決心し自分の心をかちかちに固めていくことが
この一年、俺が生きていく上での拠り所だった。
ルシアーノはわざとらしくふうっと大きくため息をついた。
「しょうがないな。日本の協会には俺の方から断っておく」
すいません、と俺は謝った。
部屋を出ようとする俺をルシアーノがもう一度呼び止めた。
「ユウジ。それでも、私は日本がいつか君の力を
必要とする日が来ると思っているよ」
俺は答えずに扉を静かに閉める。ルシアーノの顔がドアの向こうに消えた。
クラブの用意してくれたアパートメント。
ここが俺のスペインでの住処だ。
練習場のそばで、街中にあるからスーパーも近いし日常生活には困らない。
夕飯を済ませると、俺は机の上のノートパソコンのふたを開ける。
まずメールソフトを起動する。
ソフトが自動的に到着しているメールを読み込んでくる。
新着メールが一通。俺はマウスのボタンをクリックしてそのメールを開く。
『元気か。
まずJリーグの話から。
松本さんの怪我もあって、ここ四試合はずっとスタメンで起用してもらってる。
ようやく滝沢監督に信頼してもらえるようになったみたいだ。
失点も4試合で2失点と俺の活躍?で減ったから一安心。
このまま、レギュラー奪取に向けてがんばるぜ。
大木もコンスタントに交代出場で試合に出ている。
大木はスタメンで出たいみたいだけど、
それにはまだもうしばらく時間がかかりそうだ。
でもこの前メールしたJ初ゴールに続いて、昨日の試合では2点目。
アシストも二つ記録しているから、
しばらくは滝沢監督も大木をスーパーサブで使うんじゃないかな。
それで驚くなよ、この前「サッカー通信」が俺たちの取材に来たんだぜ。
あの雑誌「Jリーガー本音トーク」っていう
チームメイト同士の対談コーナーがあるだろ。
そのコーナーに大木と俺が出るというわけ。
「シンシアを引っ張る高校生コンビ」というタイトルらしい。
調子に乗った大木が取材中ぶっ飛ばしまくるから、
取材に来た記者さん顔がひくひくしてたぜ。
一応俺もまともな記事になるように話を誘導したんだが、
大木の勢いはもうどうにも止まらなかった(笑)
あれ、ちゃんとした記事になるのかなあ。
ま、雑誌が出たら優司にも送るから読んで笑ってやってくれ。
でも取材の最後、ライバルはいますか?という質問に
大木がいきなり真剣になって
「僕のライバルはいまスペインに行っている本庄君です。
絶対に彼には負けたくありません」だってさ。
優司が成長してスペインから戻ってきた時、
差をつけられて無様なパスしか出せなかったら、
きっとあいつは自分が許せないんだよ。
だからこの一年必死に頑張ってたし、事実成長したよ。
見たらきっと驚くよ。まあ、俺も成長したつもりだけどな。
片平部長から契約の話は聞いたよ。
おそらく来年優司がシンシアに戻ってくることはないって
俺と大木にだけ教えてくれた。
お前の決断だから俺はそれでいいと思う。
だけどシンシアのことを忘れるなよ。じゃあまたな。
追伸
ユースは高円宮杯優勝したぞ。これで二年連続三冠に王手だ。
自分で言うのも何だが、俺と大木が抜けて選手層もさほど厚くないのに、
この結果が出せるというのはほんとすごい監督だよ。
坂上』
俺はメールソフトを閉じ、ブラウザを立ち上げる。
お気に入り登録したサイトを開き、手早くリンクを辿っていく。
お目当ての記事はすぐに見つかった。
「決定力不足に泣いた若き日本代表 ホームで最終決戦へ」
俺はその記事を開く。
先週行われた北京五輪出場権を争うアジア最終予選決勝リーグの五試合目。
サウジアラビアとアウェーで戦った日本は、
0−0のスコアレスドローに終わり、バーレーンにつぐリーグ2位に転落していた。
最終戦はホームでバーレーンとの直接対決だから、
まだ望みは十分あるが、崖っぷちに追い込まれたのもまた確かだった。
俺は試合について書かれた記事をいくつか開いて読んでみる。
どの記事も終始圧倒的にゲームを支配しながら、
チャンスに決められなかったのがドローの原因と断じていた。
気の向くままクリックしているうちに、
ライターが書いたらしいレポート記事が見つかった。俺はそれを読む。
そのレポートは、ゲーム内容を簡潔かつ的確に描写した後で、記者会見の模様に触れていた。
『試合後、記者会見場に現れた小熊監督の表情は蒼白だった。
終始ゲームを支配し、チャンスを作り続けた試合内容。
一方的に浴びせたシュートのうち、どれかひとつが入っていれば、
実力差どおり日本の勝利で何の問題もない試合だったはずだ。
まるで敗戦の将のような小熊監督にドローの原因を尋ねる質問が飛ぶ。
「決定力不足。ただそれだけです」
小熊監督の声は悲鳴のように聞こえた。
確かにこのドローの責任は彼にあるのかもしれない。
だが、それでも私は彼を責める気にはなれなかった。
かつてのような若年層での絶対的な強さは影を潜め、
アジア予選でもしばしば苦戦するようになった日本のサッカー。
アジアの国々も着実に力をつけ、一時期のように
容易に予選突破できるような状況ではなくなっている。
今回の五輪監督も候補者が続々と辞退し、なかなか決定できなかったと聞く。
オリンピックとなれば社会的な注目度はいやが上にも増す。
すぐお隣の中国で行われる北京五輪の出場権を万が一逃すようなことになれば、
日本サッカーに与える影響は計り知れない。
そんな中、オランダワールドユースでの実績を買われ、
協会サイドの猛烈なプッシュに応じる形で就任した小熊監督。
その胸中はまさに火中の栗を拾う思いであったろうことは想像に難くない。
決定力不足解消のために、新たなメンバーを招集する考えは?と
質問された小熊監督は、沈痛な面持ちで語った。
「平山、樋口については、所属クラブと話し合いをしているが、
Aマッチでもないオリンピックアジア予選には出せないと断られている。
彼らのクラブでの立場を考えると決して無理強いはできない。
また彼ら抜きでアジアを突破できないようでは、
オリンピック本番に行けたとしても先が見えている」
オーバーエイジ枠がなくなり、北京五輪が純然たるU-23になる
可能性が高い現在、小熊監督の言葉はまったく正論である。
だがそれ故にこの問題は深刻である。
残された素材で日本の決定力不足をどうやって解消するのか。
その答えは見えない。
唯一の救いは試合直後のミックスルーム、
「バーレーンの結果は?」と報道陣に逆取材をし、結果を聞くと、
「じゃあ次勝てばいいわけですね」と
顔を上げて毅然と語った本庄総一郎の姿である。
昨年秋の負傷で、ワールドユースを棒に振った本庄だが、
怪我が癒えると今シーズンは移籍で空いたトップ下のレギュラーを奪い取り、
レッズ躍進の原動力となっていることは皆さんご存じのとおりである。
この試合でも本庄のアイディア溢れるプレーが
何度となくビッグチャンスを作った。
後は決定力不足を解消するだけなのだが…
その答えを最終戦までに小熊監督が見つけることができるのか。
すべてはそれにかかっている。
最終戦は11月××日、埼玉スタジアム午後7時キックオフである。
元山恵理子』
俺は画面のボタンをクリックしてブラウザを閉じる。
もう俺は日本に帰らない。日本に帰ることなどできない。
俺は二人の前から永遠に姿を消す、と決めたんだ。
「おーい、ディレクターが呼んでるぞ」
ディレリオが俺の肩を叩く。
「最近よく呼ばれるな。契約の話か?」
俺は何も言わずに肩をすくめてやり過ごす。
部屋を訪ねるとこの前来た時と同じようにルチアーノが椅子に座っていた。
俺の顔を見ると、やれやれというようにルチアーノが話しはじめた。
「U-23招集の話だ。一応、断る旨の連絡はしたんだが、
どうやら今回ばかりはそれじゃ済まないらしくてな。
なんでも直接話をしたいそうだ」
思わず耳を疑う。スペインまで誰か来るということですか?と問い返すと、
「オグマという人物が日本からスペインまで来るそうだ」
オグマ。まさか、小熊監督自らスペインまで来るのか?
「といっても時間の都合で、うちまでは来られないらしい。
大変申し訳ないが、少しばかり出向いて欲しいということだ」
ルチアーノが俺に時間と場所を告げる。
俺はそれを聞いて小熊監督の訪問の意図を察する。
メインの目的はおそらく俺じゃないのだろう。彼だ。
ついでに俺にも会って話をしておきたいということか。
「どうする?断るという手もなくはないが」
ルチアーノが俺の目をのぞき込む。
俺は答える。「会ってみます」
この街はセゴビアとは比べ物にならないほど大きい。
俺は電車を降りて駅を出ると、目の前に広がる街の景色を仰ぎ見る。
スペインに来て一年。少しはこの国になじめたつもりだけど、
こうやって普段いる場所を離れると、
俺がこの国では変わらず異邦人のままだということを痛感させられる。
約束の時間よりずいぶん早く着いてしまった。
せっかく来たのだから。少しこの街を散歩していこうか。
俺は知らない町並みの中を歩く。
普段は気にも留めない、店のショーウィンドーが妙に目を引いたりする。
ちょっとした一人旅気分。そう思ってから、大げさだなと苦笑いする。
しばらく歩いていると、急に建物が途切れた。
目の前に見通しのいい空間が広がっている。
ちょっとした広場のようだ。
スペインでは、街中にこういう感じの場所があることは珍しくない。
ただ木も芝生もあるところをみると、広場というよりも公園に近いかもしれない。
そのまま公園の脇を通り過ぎようとして、ふと足が止まった。
メトロノームのように、規則正しく上下に行き来するボール。
かなり使い込んで黒ずんでいる。でも状態はよさそうだ。
公園の中で、おそらく十二、三歳の男の子がひとりでリフティングをしている。
うまいな。俺は思った。知らない人が見れば、
普通にボールを蹴っているだけの、何の変哲もないリフティングに見えるだろう。
だけど、さっきからボールをミートする位置が寸分の狂いもない。
ボールの上がる高さも恐ろしいくらい水平だ。
ボールがぶれる気配がない。完璧に安定している。
この子は相当集中してこのリフティングをやっている。
俺は公園の中に足を踏み入れる。
近づく俺の気配には気づかないのか、彼は黙々とリフティングを続けている。
その時だった。
彼が不意にボールを足元に止めた。
いつのまに俺の存在に気づいていたのか首を捻って俺のいる方を見る。
俺も自然とその子の顔を見つめ返す格好になった。
警戒してる様子はない。単純に君は誰?と目が問いかけている。
俺は黙って手を動かして、そのボールを俺にくれ、と身振りで示した。
子どもが足首から下だけ動かして、ボールを俺の方に送り出す。
転がってきたボールを足の爪先で拾い上げる。
彼と同じようにシンプルな片足だけのリフティング。
だが、この子なら俺のリフティングを見れば、すべてがわかるはずだ。
十回も弾ませた頃だろうか、いきなり子どもが飛びかかってきた。
一瞬身構える。彼の足が空中にあるボールをかっさらおうとする。
俺は足を高く振り上げてボールを引っかける。
そのまま足の間に持ってきて、次の動きに対応できる準備。
足を入れてくる。それを右足の裏でボールを引いて交わし、体を入れ替える。
だがそこにはまた彼の足が伸びている。さっきの足は俺を釣るためか。
こんな子どもに、俺の動きが読まれてる?
体に熱が充填される。子どもだからといって、手を抜いていい相手じゃなさそうだ。
追っかけてくる。体を入れてくる。素早く回り込むスピードもある。
捕らせてなるものか。意地とか見栄じゃなく、俺はこの子に負けたくない。
そのまま一つのボールを巡って、俺と彼は追いかけっこを続ける。
どれくらいやっただろう。彼の動きが止まった。
肩で大きく息をしている。でも顔は笑っている。
いい顔で笑う子だな。俺は思った。
子どもが早口で俺に向かって何か言う。
日常会話ぐらいはできるようになったつもりだが、
これだけ興奮していると、発音が聞き取れない。
俺の困った顔を見た子どもは、あ、そっかという表情をすると
「ニホンジン?」と聞いてきた。
腰が抜けるほど驚く。聞き間違いじゃない。
この子は俺に「日本人なのか?」と質問している。
でもなぜ?この子が日本語を知っている?
「こんにちは」いきなり背後から声をかけられた。
ずっと聞いていなかった日本人の喋る日本語。
後ろを振り返る。黒い髪の、俺と同じくらいの年齢の男が立っている。
男に気づくと子どもが足元に駆け寄っていた。
まるで弟を慈しむ兄のように、男はぽんぽんと子どもの頭を二度叩いた。
子どもが笑顔で俺の方をちらちら見ながら、
早口のスペイン語で男に話しかけている。
この人もサッカー上手いんだよ、というような
感じのことを言ってるのだと察しがついた。
「本庄君ですよね」笑顔で男が手をさしのべてきた。
俺はその手をしっかりと握り返す。
「どうして僕の名前を?」
「スペインの1部クラブに来てる日本人の話なんてすぐに伝わりますよ」
男は屈託なく笑った。
「あ、すいません。自己紹介がまだでしたね。僕は…」
知ってます、と俺は遮る。
日本のサッカー好きで彼の顔を知らないやつがいたらもぐりだ。
昔、一度だけ彼のプレーを生で見たことがある。
兄貴が高校三年の時の地区大会決勝。まだ彼がブレイクする前のことだ。
そのことを彼に話すと
「あのとき、お兄さんにはこてんぱんにやられましたよ。
あれからまだ三年しか経ってないんですか」と照れたように笑った。
彼の方がたった二つ年上なだけなのに、この余裕の違いはなんだ?
「来季もセゴビア?」という彼の質問に、
俺はまだわからないです、と首を左右に振る。
両方のクラブの間で話し合ってもらってるけど、まだはっきりとは。
できたらスペインでやりたいけど、もしかしたら他の国に行くかもしれない。
そう答えると、彼はよくわかると言うように深くうなずく。
そんな会話をしているうち、俺は彼に連帯感のような物を感じていた。
レベルは違うけど、俺も彼もまったくの異国で、
自分のサッカーだけを武器に生活している。
同じバックグラウンドを持った同士だから、言葉にしなくてもわかるものがある。
「U-23の招集、断ってるそうですね。小熊さんから聞きました」
快活に彼が話しかけてくる。
「個人的に事情があって、日本に帰りたくないし、
日本で僕のことが報道されるのも嬉しくないんです」
俺に関するどんな情報も、二度とあの人の目の前にさらしたくない。
素直に答えると、彼はそれ以上何も聞いてこなかった。
そっちは?と逆に聞いてみる。
「クラブの方がやはり難色を示してて…
こっちだとオリンピックのサッカーって
アマチュアの大会に毛が生えた程度にしか思われてないじゃないですか。
ワールドユースならまだしも、
なんでそんな大会にいかなければいけないんだって。
それでも来年の本大会は出してもらえるように話はしてるんですが、
さすがに予選じゃあ取りつくしまもなくて…」
こっちならその感覚が普通だろうと思う。
まして彼のいるクラブはセゴビアと違い、スペインを代表するビッグクラブだ。
ジャッジもつたない、アジアレベルの
サッカーか格闘技かわからないような試合に出して、
外国人枠を使っている大事な主力選手に怪我でもされたら、と
クラブが心配するのは当然だ。
「それでも僕としては出たいんだけどね。
でもクラブやサポーターのことも考えるとね…」
彼の顔がかすかに歪む。代表のサポーターもクラブのサポーターも大事だ。
「ずいぶん、代表を大切に思ってるんですね」
俺の言葉に彼は穏やかに微笑み、
「監督が小熊さんですからね。
小熊さんにはとてもお世話になってるから、
恩返しがしたいというのもありますし、それに…」
彼は顔を上げ、空を見る。
「日本のサッカーのために頑張るって、約束してるんで」
会話が途切れた。
誰と、とは聞かなくても察しがついた。新聞で読んだ記憶がある。悲しい話。
話をつなぐ言葉を俺は持っていなかった。
大切な人を失った悲しい記憶は、
この人の心のどこにしまわれているのだろう。
いつかこの人も新たな恋をすることもあるだろう。
それでも彼の中であの思い出は、きっと大事にしまわれているに違いない。
俺は。ずっと記憶の底に封じ込めていた名前が湧き上がってくる。
不自然な沈黙。それを振り払うように
彼が足元のボールをぽーんと軽く蹴り上げた。
そのボールが俺の胸元に飛んでくる。俺はボールを両手で抱えるように受け止める。
「今度はこの子の代わりに僕が相手しますよ。
こっちに来てから時々こいつとこの公園で遊んでるんですよ。
なかなか見どころのあるガキでしょ」
目をやると、男の子がかわいい笑顔で俺を見ている。
彼と談笑している様子を見て、俺を彼の友だちだと思っているようだ。
見どころがあるどころじゃない。俺は思った。
このガキは将来、まちがいなく化け物になる。
「弟子がやられたんじゃ、やっぱり僕が。どうですか?」
彼が誘ってくる。
「今日は…やめときます」
俺は断った。やりたくないわけじゃない。その逆だ。
手合わせしてみたくてしょうがなかった。
この男のボール捌きを、テクニックを、
至近距離で直接見てみたかった、肌で直接感じてみたかった。
だが、いまはまだその時ではない。何かが俺の心の中でささやいている。
もっと俺自身が成長してから。何かを手に入れてから。
否応なしにもう一度交わる時が来る。
それ以上言わなくても俺の気持ちは彼に伝わったようだった。
わかった、というように彼は笑顔でうなずくと、
「さっき、本庄君がこいつと追いかけっこしてた時に、
小熊さんの携帯に電話しておいたんですよ。
もう少しすればここに来ると思いますから
もうちょっと待っててもらえますか?」
俺はきっぱりと首を左右に振る。「いえ、もう行きます」
怪訝そうな顔の彼に伝言を頼む。
「小熊さんのお話ししたかったことはもう聞けましたから。
お話、承知しました、とだけ伝えてください」
彼の顔に笑いが浮かぶ。意味を理解したらしい。
「じゃあまた」「ええ」
俺は彼に軽く会釈すると、子どもの頭を軽く撫でる。
「またやろうね!」
俺にも聞き取れた。無邪気な言葉。かがみこんで顔を近づける。
「ああ、またそのうち必ずな」
スペインとはやはり空気が違う。
俺はバッグを担いで空港の長い廊下を歩く。
帰ってきた。自分の生まれた国に。
いなかったのはたった一年だけ。大げさかもしれない。
でもその一年は、俺は二度と日本には帰らないと誓い続けた日々だった。
それでも帰ってきた。
ここに来るまで入国手続などいくつものゲートを通過してきた。
最後に目の前にあるロビーに通じる自動ドア。
これが開けば俺は日本に帰ってきたことになる。
前に立った俺の目の前でドアは何の抵抗もなくすっと開いた。
ロビーに出る。一年ぶりの日本。短いけど長かった不在。
さてどうやって移動しようか。俺が周囲を見回した時、
「優司!」聞き覚えのある声が俺の体を打った。
振り返る。坂上が、大木が。少し離れたところから駆けてくる。
俺はあっという間に二人に叩かれる。
「どうして!?よくこの便だってわかったな」
「クラブの方で協会に聞いてくれて、それを教えてもらったんだよ」
大木が説明してくれる。俺は大木を見て内心驚いていた。
こいつ、一年で雰囲気が変わった。
体は厚く大きくなり、もうセレクションで
はじめて会ったあの時のようなチビの面影はどこにもない。
それどころかなんとなく大人の落ち着きまで感じさせる。
「お前を待ってたのは俺たちだけじゃないぜ」
坂上が顎をしゃくる。誰がいるのだろう。
まさか木崎さんはここに来たりしないだろうし。
その方向を見た俺は目を疑った。カメラを手に持った人々の群れが押し寄せてくる。
あっという間に俺たちは彼らに取り囲まれる。
そばにいた坂上の、大木の姿がもう見えない。
「本庄君ですよね、スペインはどうでしたか!」
「今度の試合は日本にとってオリンピック出場をかけた
大事な試合ですが、自信のほどを聞かせてください」
「小熊監督とはどんなことを?今回の大抜擢から
『樋口二世』と呼ぶ人もいますが感想はありますか?」
矢継ぎ早に浴びせられる質問。俺はすっかりパニックになってしまった。
「え、え。あ…その…」
そのとき俺の手を誰かの厚い手が掴んだ。
その手が俺を力強く引っ張る。
取り囲む記者たちに体をぶつけながら、俺は輪の外に引きずり出された。
「とっとと行くぞ」坂上だ。笑っている。そばに大木もいる。
俺たちは一団となって空港のロビーを走る。
行きかう客の間を縫うように。先頭に大木。
その後を荷物を半分持ってくれた坂上。そして俺。
先頭を走る大木が、いきなり気でも触れたように大声で笑いはじめた。
すれ違う人々が何事かと俺たちを振り返る。
俺も焦る。大木のやつ、どうしちゃったんだ?
だが大木に釣られるように、坂上も楽しそうに天を仰ぎながら笑いはじめた。
坂上まで。おいおい、どうしたんだよ。二人とも。
だけど、次の瞬間、俺も笑いはじめていた。
喉が、胸が、腹が。何度も大きく波打つ。腹のそこから笑う。
人でいっぱいの中を俺たち三人は嬌声をあげながら走り抜ける。
振り返る人の視線も俺にはもう気にならなかった。
俺は帰ってきたんだ。仲間のところへ。
俺の帰りを喜んでくれる仲間の元へ。こんな楽しいことがあるだろうか。
そのまま俺たちはタクシープールまで走り、
待っていたタクシーに手を挙げて合図をする。
トランクを開けてもらって俺の荷物を押し込むと、
助手席に大木、後部座席に俺と坂上が飛び込んだ。
坂上が行き先を告げ車が発進しても、まださっき走った余韻が体に残っている。
「坂上見たか?ユウジのやつ、
記者に囲まれてすっかり目を白黒させちゃってんの。
あんなマスコミ対応じゃスターにはなれないな」
大木は腹を抱えて笑っている。
「うるせえな!まさか記者が来てるなんて思いもしなかったんだよ。
それよかタクシーなんて乗っちゃって、金、大丈夫なのか?」
隣の坂上が紙を一枚手元でひらひらさせる。
「ちゃんと片平さんから、タクシーチケット一枚もらってきたさ。
俺はおかげさまでプロ契約できたから、
これくらい払ってもよかったんだけど大木はまだだからな」
坂上のやつ、大木をからかってやがる。案の定、大木がぷっと膨れる。
「うるせえ!俺だってあともう少しでA契約だよ!」
そうか。坂上はコンスタントに出てたみたいだから、
もう規定時間をクリアしてA契約に移行したんだ。たいした出世だ。
「しかしほんとにあの記者たちなんだったんだ?」
俺が首をかしげると、隣の坂上がカバンをごそごそとやりはじめた。
ほら、と俺にスポーツ新聞を渡す。広げてみて俺は目を疑った。
「五輪出場へ日本の秘密兵器は『樋口二世』!」
見出しの付いた記事を俺は急いで読みはじめた。
「北京五輪出場のためには、
来るバーレーン戦での勝利が不可欠となったU-23日本代表に、
究極の秘密兵器が加わることになった。
若干十八歳、さいたまシンシア所属の本庄優司だ。
昨年、ユース三冠を達成したシンシアユースの主力として活躍していたが、
より一層の飛躍を求めて、スペイン1部リーグの
セゴビアに今年末まで一年間の留学に出ている若手のホープ。
そのセゴビアでは外国人枠の問題もありリーグ出場こそかなわなかったが、
セゴビア幹部は彼の才能を高く評価しており、
両クラブが保有権を保有し、来年は欧州のリーグでプロデビューさせる方向で、
現在両クラブ間で交渉が進められている。
その本庄の五輪代表召集は、小熊五輪代表監督が
兼ねてから要望してきたところだったが、
本人のクラブでの活動に専念したいという希望により見送られてきた。
だが、五輪出場に崖っぷちに追い込まれた先月、
小熊監督自ら現地に渡り、本庄を説得したという。
シンシアの滝沢監督は、小熊監督とワールドユースでコンビを組んだ
小熊監督の懐刀とも言われる人物。
このラインが送り出す新戦力といえば、あの樋口広樹を思い出さずにはいられない。
昨年のシンシアユースといえば、ユース三冠の実績はもちろん、
本庄と同学年の坂上、大木がJリーグで活躍するなど、
近年稀に見る才能の宝庫と言われたチーム。
そのチームのエースフォワードだった本庄が、
スペインに渡りさらに大きく成長を遂げた現在、
必ずや日本の決定力不足を解消してくれるに違いない。
また、本庄優司はその苗字からわかるとおり、
五輪代表でトップ下を務める本庄総一郎の実の弟でもある。
弟の五輪代表選出の感想を求められた兄の総一郎は、
「子どものときはいつも一緒にやってましたからね。
意識しなくてもコンビは自然と合うと思いますよ」
と嬉しそうに笑った。
本庄兄弟のホットラインが必ず日本を五輪出場へ導くゴールを
産みだしてくれるだろう」
俺は記事をむさぼるように読んだ。
自分のことがこれだけ大きく取り上げられていたのも驚きだったが、
なにより俺の目を引いたのは
記事の最後に出ていた兄貴のコメントだった。
兄貴…。どんな気持ちで記者の言葉を聞いたのか。
「ん?君たちはサッカー選手なのかい」
突然、タクシーの運転手が聞いてきた。
そうなんですよ、と大木が聞かれてもいないのに、
ぺらぺらと喋りはじめる。自分のこと、俺のこと。
「そうか、いま話が聞こえてきたからもしやと思ったら…
じゃあ後ろにいるのは失礼だけど本庄さん?」
さんづけにちょっとした違和感を感じながら、そうです、と俺は返事する。
「そっかー、いやあ光栄だなあ。私もサッカー大好きなんですよ。
たまにスタジアムまで代表の試合は見に行ってるんですけど、
今度のオリンピック大丈夫かなあってほんと心配してたんですよ。
そうしたらスペインから秘密兵器が帰ってくるっていうから、
いったいどんな人なんだろうって思ってたんだけど、
まさか自分が乗せることになるとはねえ」
はあ…と俺は間の抜けた声を返してしまう。
スペインから帰ってきた秘密兵器とはまたすごい言われようだ。
「今度のバーレーン戦、チケット持ってないからスタジアムにはいけないけど、
絶対にテレビで応援しますよ。オリンピック出場、頼みましたよ」
任せといてください、こいつなら必ずやりますよ、と
自分は関係ないのに大木が安請け合いする。
俺も。こうやって人から期待される立場になったんだ。
人の期待を背負わなければいけない立場に。
重かったんだろうな。兄貴の気持ちが少しわかる。
期待に応え称賛を浴びる快感。
それは期待を裏切り、失望とともに罵られる可能性と背中合わせだ。
それでも。この期待を受け止めるために。
俺はここへ帰ってきた。
桜井は練習場の様子を見渡す。
隣に立つ木崎はいつものポーカーフェイスだ。
かすかに歪む口元は笑っているようにもみえるがはっきりしない。
既にグランドで待っているユース生たちがそわそわと落ち着かない。
いま、彼らの心にあるのは、憧れの人と会える興奮か、
それとも一発喰ってやろうという闘志か。
どちらでもいい。桜井は思った。
ユース生はきっと彼から多くのことを学ぶことができる。
クラブハウスから人が出てくる気配。
後ろを振り返ると一年ぶりに見る彼の姿があった。
まっすぐこっちに駆けてくる。
「ご無沙汰してます」
本庄が二人の前に来ると勢いよく頭を下げた。
「よく帰ってきたな」
木崎が言った。その言葉にこめられた暖かさ。
木崎の優しさを、桜井ははっきりと感じることができた。
頭を上げた本庄がにっこりと木崎に笑い返す。
そしてその笑顔のまま桜井を見る。
桜井は手を伸ばす。差し出した手を本庄が握り返してくる。
その力強さ。それだけで桜井は彼の一年の成長を感じとれた。
挨拶を済ませた本庄がグラウンドへ歩いていく。
グラウンドの中では、ユース生と離れた位置で、
大木と坂上が入念にストレッチを繰り返している。
本庄と一緒にウォームアップをするつもりのようだ。
歩いていった本庄が二人と一緒に体を伸ばしはじめる。
代表に合流するまでシンシアの練習に参加させてほしい。
本庄から国際電話で頼まれたとき、桜井は言った。
「なに遠慮してる?ここはお前のクラブだ。
好きな時に来て好きな時に練習すればいい」
大木も坂上も今日はトップの練習の代わりに
ユースの練習に参加している。本庄に付き合うつもりらしい。
入念な準備運動。そのあとボールを扱った基礎練習。
本庄がボールを蹴る様子を桜井はじっと見ていた。
変わったな、と思う。どこが、というのは難しい。
技術は確かに向上している。でもそれではない。
身にまとっている雰囲気が微妙に変化している。
何か覚悟を決めた。心の中で整理がついた。
それが彼の周囲にちょっとしたオーラのようなものをかもしだしている。
「紅白戦やるぞ。本庄、いいか?」
桜井の声に、アップを終えていったんピッチを出ていた本庄がうなずき返す。
「普通のルールですか?」と大木が混ぜっ返す。その言葉に本庄の顔がほころんだ。
メンバーは決めてあった。
レギュラーチームと、本庄、坂上、大木の三人を入れた控えチーム。
ユース生たちは既にピッチでスタンバイしている。
本庄を待つ彼らの顔が期待と緊張で微妙に彩られている。
そんな雰囲気の中、周囲の視線を集め本庄がゆっくりとピッチへ歩く。
タッチラインの手前で一瞬足を止め、心を決めるようにラインをまたぐ。
その瞬間、そこにいる誰もが本庄の姿にすっと視線を引き寄せられた。
美しい。桜井は唐突に思った。
ただ歩いているだけなのに、なぜここまで俺の心を揺さぶる?
ああ。木崎監督、これだったんですね。あなたがセレクションで彼に見たものは。
僕にも見えました。本庄の持つ美しさが。
本庄という素材が磨かれてはじめてわかりました。
でもあなたには最初から、本庄を一目見たときからこれが見えてたんですね。
周囲の視線を独り占めして、本庄が悠然とピッチに入る。
決して本庄は威圧しているわけじゃない。
むしろ彼が身にまとう空気はどこか優しさを含んでいる。
それでも、ユース生たちは既に本庄の作り出す世界に呑み込まれている。
勝負は決まった。木崎は悟る。
ゲームがはじまった。
ユース生たちの目の色が違う。
本庄、大木、坂上。既にプロの世界に足を踏み入れたユース出身の仲間たち。
憧憬はあるだろう。しかし、同時に自分もプロになろうとする以上、
倒さなければならないライバルでもある。
だが、三人もそんなことは百も承知だろう。
たぶんあいつらのことだから手を抜かない。
完全にユース生を痛めつける気でやるに違いない。
そしてその予測は現実のものとなる。
トップの試合でたくましさを身につけた坂上に、
ユースチームのフォワードは歯が立たない。
やつも三年生。三人とは同期だ。意地があるだろう。
だがその意地を受け止め跳ね返す。坂上は完全に本気モードだ。
坂上の正確なフィードが右サイド、タッチライン際に開いた大木へ。
ひとりマークがついていたが、大木がフェイント一発で捌いた。
そのまま一気にスピードをあげて攻め込む。
さらにひとりチェックに行くが、それもスピードにのったままあっさりと交わす。
誰も大木のドリブルを止められない。
そのままゴールまで一直線に突き進むかと思ったら、少しサイドに開いていく。
そこで狙い澄ましたマイナスのボール。グラウンダーのボールがゴール前。
数歩引いて動き直した本庄の足元へ。
フリーだ。ただ前には本庄についてたディフェンダーが二枚残っている。
委細構わず本庄が右足を振り抜いた。ディフェンダーの間を抜くシュート。
ディフェンダーの足元をかすめるように飛んできたボールに、
キーパーは一瞬反応が遅れた。ゴールにボールが吸い込まれる。
たいしたもんだ。桜井は大きくうなずく。
相変わらず思い切りがいい。見切りがいい。
打ち抜けば足に当たって入ることもある。
明快にゴールだけを狙うプレーは一年前とまったく変わってない。
そのとき、桜井の視線の先で本庄の動きが止まった。
ゴールの喜びを露わにするでもなく、ゴール前に立ち尽くしている。
左手を目の辺りにあてて動かない。
怪我か。桜井は血の気が引いた。
本庄にとっていまが一番大事なときだ。
五輪予選、来年のプロデビュー。いま怪我をしたらそのすべてがパアになる。
思わず本庄の元へ駆け寄ろうとした桜井の目の前に、木崎の手がすっと伸びてきた。
「ほっといてやれ」
本庄のそばに寄った大木がぽんぽんと本庄の頭を叩いている。
あの様子だと怪我ではないらしい。だとすれば。
いま、たぶん本庄は泣いている。
自分が還るべき場所に還ってきた安堵。
この一年、戦い続けたもの。
すべてが彼の心の中を駆けめぐっている。
そうだ。よく頑張ったな。桜井は本庄に心の中で語りかける。
ここを出ればすぐに大きな戦いが待っている。
だからいまだけそっと羽を休めていけ。
もうお前がここにいる必要はない。あとはここから巣立っていけ。
「コーチって商売も悪くないだろ」
桜井の気持ちを読み取ったように、木崎が話しかけてくる。
木崎の顔を見返す。
その瞳に自分と同じ思いが宿っているのを桜井は見つけることができた。
「ええ。いい商売ですね」
試合前のロッカールーム。
部屋の奥、角に近いロッカーが俺の場所だ。
俺たちは腰を下ろして自らの装いをもう一度整える。
スパイクの紐を丁寧に結び直す人がいる。
もう一度脛あての位置を念入りに調整する人もいる。
選手たちはひとりひとり、思い思いに集中を高めている。
みんなが足を踏み換えるたびに、スパイクがちゃかちゃかと床を鳴らす。
三つ左隣のロッカー。おれはちらりと一瞬だけ視線を飛ばした。
兄貴の横顔。目は開けているが、おそらくその目はなにも見ていない。
決戦を前にしても高ぶりも見せずに、落ち着いた柔らかい表情をしている。
耳からはヘッドフォンのコードが伸びている。
「何、聞聞いてんの?」
誰かが兄貴に声をかけた。
「オフコース」
離れたところで会話に耳をそばだてていた俺は、兄貴の答えに興味を引かれた。
兄貴の趣味はどちらかというと、ロック系だったはずだが。
一年会わない間に好みも変わったのだろうか。
「ずいぶん古い曲聞いてんな」
「この前聞いてみたら、いい曲あったからそればっか聞いてる」
なんて曲?という問いかけに
「NEXTのテーマって曲」
問いかけた方もその曲は知らなかったらしい。
ふうん、という曖昧な相槌で会話が終わった。
オフコースといえば「さよなら」ぐらいしか俺は知らない。
俺が生まれた頃にはもう解散していたバンドだ。
どこが兄貴の気に入ったんだろう。今度、俺も聞いてみようか。
監督はまだ来ない。俺はそのまま自分だけの時間に身を委ねる。
スタメンは宿舎で発表されている。
小熊監督は俺をいきなりスタメンで使ってきた。
この監督、俺と心中する気だ。発表を聞いた俺は思った。
マスコミはスペイン帰りの秘密兵器とやんやと煽り立てるが、
所詮はまだプロにもなってない身分。
直前合宿で一度だけ練習試合をやったが、
まだまだチームのみんなとの連携の熟成は不十分だ。
俺が不発に終われば、そしてその結果
日本が五輪出場権を失うようなことになれば、
小熊監督の指導者生命には大きなダメージとなるだろう。
おそらくあの人はそこまでわかって腹を括っている。
万が一、自分が石もて追われようとも後に残るものがあればいい、と。
そんな簡単に辞めてもらっては困るんです、小熊さん。俺はひとりごちる。
なんてったってスペインまで足を運んでもらったんですから。
そうそれに。
俺はオリンピック本戦の出場切符を
あの公園まで届けにいかなければいけないんですよ。
予選に出られなかった彼が心待ちにしてるから。
そして切符を渡すのと一緒に、勝負の続きをはじめるんですよ。
切符を手に入れたら俺にだって彼と勝負する資格、ありますよね。
そのとき、ドアが開いて監督が入ってきた。
待機所。はじめて見るバーレーンの選手。
当たり前だが知ってる顔もいない。それは向こうも同じようで、
互いに相手の存在を無視するような、不思議なぎこちなさが漂った。
入場を待つ列に並ぶ。
目は開いてるけど、その視線は自分の内部に向けられている。
自分との対話。それを経て俺は集中とエネルギーを高めていく。
顔を上げた俺は目の前を見てはっとする。
青い背に大きく書かれた「10」の数字。兄貴が俺の前に立っていた。
俺を導くように、俺の前に立ちふさがるように、
兄貴の背中が俺の目の前にあった。
既に俺が代表に合流してから、一週間弱経っている。
毎日、練習はしていたし、クラブユースとの練習試合も一度こなしている。
その中で兄貴からのパスを何度も受けているし、
俺も普通にごく自然に兄貴と一緒にプレーしている。
だが、俺たちはまだただの一言も会話をしていなかった。
自分の世界を守るように、それぞれの仲間と会話をし、行動する。
そんな俺たちの姿を見て、怪訝そうに聞いてきた人もいた。
「もしかしてお前たち兄弟って仲悪いの?」
俺は笑って首を振る。
仲がいいとか、悪いとかの問題ではない。
それぞれが一人の独立したプレイヤー。それだけのことだ。
もう俺たちは兄弟じゃない。一人の独立した個と個。
でも。同時に俺たちは兄弟でもある。
兄貴の後について、俺はピッチへと続く階段を上がる。
観衆でぎっしり埋まったバックスタンド、その上に濃い紺色の夜空が少しだけ見えた。
詰めかけた観衆が作る圧迫感で、
スタンドが自分の上にのしかかってくるような錯覚を覚えた。
途中でバーレーンの選手と別れて、横一列に並ぶ。
兄貴と並んでメインスタンドに向き合うように立つ。
代表の試合で協会がいつも配る青のカラーパネルが、
観衆の手で掲げられてきらきらと瞬く。
一面の青。空か海か。こんなに美しいとは。
むかしテレビで代表の試合を見てた時もきれいだなとは思ったが、
ピッチから見るとこれほどまでに美しいものだったなんて。
入場の音楽が止み、スタジアムに一瞬静寂が訪れる。
観客が一斉にパネルをしまう。スタンドが瞬時に地味な黒っぽい色に変わった。
メインスタンドではユニフォームを着てる人もさほど多くはないようだ。
この中に坂上も、大木もいる。
俺はスタンド正面の席をひととおり眺めてみたが、二人の姿は見つからなかった。
見当違いな場所を見てるのか、俺が二人を見つけられないだけなのか。
協会からもらった二枚のチケットは二人に渡した。
あの人に送るべきかとも思ったが、
おそらく送ってもそのチケットは使われないだろうという気がしていた。
左に立つ兄貴。兄貴も協会からチケットはもらったはずだ。
そのチケットを兄貴は誰に渡したのだろう。
兄貴の周囲にもうあの人がいないことは、
チームに合流して兄貴の姿を久しぶりに見た瞬間にわかった。
なぜわかった?と聞かれても答えようがない。
でも兄貴の周囲にあの人の気配はまったく感じられなかった。
兄貴と唯さんは離れたんだ。その事実を俺はすっと受け止めた。
兄貴は、いまなにを思っているのだろう。
俺と同じようにあの人のことを思いだしているのだろうか。
場内にはバーレーン国歌。それが終わると
人気歌手の名前が場内アナウンスで呼ばれる。
観衆がおおっとお約束のどよめきを上げた。
着飾った女性がピッチに出てきて用意されたマイクの前に立つ。
一度大きく体を膨らませると、張りのある声で君が代を歌い始める。
歌手の声に合わせ場内が唱和する。
目の前でテレビのスタッフが俺たちにカメラを向ける。
俺たちの前でかなり長く止まっている。兄弟が並んで枠に入るように映しているようだ。
静まったスタジアムに君が代が流れ続ける。
久しぶりに聴くメロディ。俺はそっと耳を傾ける。
あの人はもう兄貴のそばにいないけど、きっとこの大きなスタンドのどこかにいる。
いま俺が聞いてる君が代を、あの人のきれいな耳も聞いている。そんな気がした。
「それでいつか、総くんと一緒に日本代表に選ばれるの。
そうしたら私はスタンドでその試合を応援するんだ」
セレクションの日、芝生の上。あの言葉をきっと唯さんは覚えている。
君が代が終わった。場内から万雷の拍手。
俺たちは思いのほか冷えた今日の気候を考慮して着ていた
保温用のベンチコートを脱ぎ捨てる。
続いて囲み写真の撮影。
どこからともなく湧き出たカメラマンが一斉に俺たちの前に集まってくる。
俺と兄貴は後列の右端に並んで立つ。フラッシュが猛烈な勢いで俺の目を焼いた。
フラッシュが収まるとみんながきびすを返してピッチへ駆け出す。
一段と大きくなったサポーターの歓声が俺たちを迎える。
ライトに照らされた芝の上を滑るようにボールが俺の足元に転がってきた。
兄貴の蹴ったボール。兄貴に軽いタッチで戻す。
さらにそのボールを兄貴がもう一度俺に向けて蹴り返す。
大観衆に見守られた緑のピッチで、
俺は兄貴と体を冷やさないためのボール回しを続ける。
転がってくるボールを右足のインサイドで止める。
俺はそのボールから兄貴の声なき声を聞く。
― 元気だったか?
俺は兄貴にボールを蹴り返す。
― 兄貴こそ。リハビリ大変だったろ。
視線の先で兄貴がボールを丁寧に止める。その姿、昔と変わっていない。
― まあな。でもお前に倒されたまま
俺のサッカー終わるわけにはいかないからな。
― どうなの、調子は?
― ぼちぼちだな。お前も少しは上手くなったか?
― これから一緒にやればわかるさ
― そうだな
主審が笛を吹いた。試合開始の用意だ。選手が一斉にボールを外に蹴りだす。
兄貴は何事もなかったかのように俺に背を向け、他の選手と何か話している。
一度、道は分かれた。けれど再びその道が交わる日がきた。
キックオフに備え、センターサークルに入る。
おそらくテレビ中継の都合だろう、試合開始のサインが出ない。少し待たされそうだ。
ピッチの中央。俺の足元、センターマークに置かれたボール。
ちょうどこの大きなスタジアムの中心に、俺は立っている格好になる。
ぐるりと360度体を回して自分の周囲を確認してみた。
前にはバーレーンの選手。後ろには青を身にまとった味方の姿。
よく手入れされた芝は、この季節でも艶やかな緑色だ。照明の光に美しく映えている。
スタンド。両サイドのゴール裏が青い。
メインとバックの両スタンドにかかる屋根が頭上まで迫り出してくるようだ。
スタンドを隅々まで見ていくが空席が見あたらない。観客でいっぱいだ。
五輪代表の試合だというのによく入っている。
やっぱりオリンピック出場権がかかっているということで関心も高いのだろう。
おそらく六万近い観衆。もう一度彼らをゆっくりと見つめながら俺は思う。
このスタンドのどこかにあの人がいる。
そのとき笛が吹かれた。俺の足元にボールが転がってくる。
一斉にスタンドからフラッシュがたかれる。
光を直視しないように目線を下げて、後ろにいる兄貴にボールを渡した。
兄貴がゆっくりとサイド深くにボールを蹴り込む。
俺は前線に走る。相手のフォーメーションを確認。4バックのようだ。
すぐに相手の4番と視線が合った。俺を見るのはどうやらこいつか。
長身のセンターバック。ヘディングの強さには定評があるらしい。
けれど足元はうまくない、スピードもさほどではないと
ミーティングで小熊監督が言っていた。
ならば。俺は兄貴を見る。兄貴の頭の中にもその情報は入っているはずだ。
兄貴のことだ、ハイボールを放り込んで強い方から確かめるようなことはしない。
すぐに、シンプルに弱点を突いてくる。
まず早い段階で一発、挨拶代わりのスルーパスを狙ってくるはずだ。
ボールが何度か大きく行き来するが、
バーレーンは日本陣内にボールが行った時もそれほどラインを上げてこない。
勝負のかかったアウェーの試合、慎重に入っているのか。
ラインが低い分、裏のスペースは広くない。どうする、兄貴?
聞かなくても答えはわかってる。それを通したくなるのが兄貴の性分だ。
ラインの後ろ、キーパーとの間に2メートル、
いや1メートルの間隔があれば、それで十分だ、と兄貴は考えてるに違いない。
その狭いスペースをきっちり使い切るには、
受け手と出し手がコンマ一秒のレベルでしっかりと呼吸を合わせる必要がある。
いつ来る?どこで来る?
俺はピッチ全体を把握しつつ、その意識の中心は兄貴に置いている。
日本がしっかりと中盤でボールを回している。
バーレーンはカウンター狙いなのか、
フォワードがコースを切る程度で前線からは強いプレスを掛けにいかない。
俺はペナルティエリアの前あたりでひたすらボールが送られてくるのを待つ。
兄貴は俺のやや後ろ、バイタルエリアにかかるかどうかというところにいる。
センターバック、サイド、またセンターバックとパスが回り、ボールがボランチに渡る。
その瞬間、兄貴がサイドからすーっと中央に寄ってきた。ボールを要求する動き。
俺の頭の中でスイッチがかちりと入る音がする。来る、一発目のパスが来る。
ボランチが兄貴にパスを入れた。兄貴が半身に開いてボールを受けようとする。
その姿を見た瞬間、俺の脳の中でイメージが形作られる。
兄貴の大好きなパターン。自分のところでいきなりリズムを変えるのを好む癖。
あの体の開け方はたぶんダイレクトでグラウンダーのボールを入れてくる。
いきなり来るか、という意表を突くスルーパス。兄貴の大好きなプレーだ。
タイミングを計る。
まだ試合がはじまってまもないこの時間帯。
ここはきっちり裏をとってあわやという場面を作り出し、
その映像を確実に4番の頭に刷り込むことが大切だ。
そうすれば相手はそのイメージの残像でプレーがおとなしくなる。
オフサイド覚悟で、限界ぎりぎりのタイミングで飛び出してやる。
兄貴の足元にボールが入るそのタイミングを見極めてダッシュ。
このタイミングで動くのか、と4番が慌てたように俺の体に手を掛けるが、
俺はきっちり体ひとつ分だけラインの裏へ出きっている。
これ以上前へ走ればキーパーとの間合いが詰まってしまう。
ディフェンダーのすぐ裏、わずかなスペースをぎりぎりまで使い切る。
目で確認する必要はない。兄貴は必ず俺の足元にぴたりと入るボールを蹴っている。
出したところを、パスの道筋を見るまでもない。
俺が走ればそこへ兄貴が必ずボールを届けてくれる。
そう、俺たちは子どもの頃からずっとそうやってきた。
「ユウジはほんとうまくなったなあ」
「当たり前じゃん。いつも兄ちゃんと一緒にやってるんだもん。
他のやつらになんか負けないぜ」
ずっと待っていたパスがいま俺の足元に届く。
キーパーを確認。即座にコースを決めた。左。
右側へ流し込むようなモーションを見せてから、
引っかけるようにゴール左を狙って打つ。
フェイクに引っかかったキーパーが、対応できずにがくりと膝を折るのが見えた。
彼の脇を俺が蹴ったボールは誰にも遮られることなくゴールへ転がっていく。
ボールがゴールに収まるのを見届ける前に、俺は走り出している。
ゴールラインを走り抜け、スタンドの手前まで。
そっと両手を耳の後ろにあてる。目を閉じる。
やがて歓声が押し寄せてきた。
鼓膜に流れ込む音の激流の中、
その中に混じっているに違いないあの人の声を俺は探す。
(終わり)
出典:なし
リンク:なし

(・∀・): 335 | (・A・): 91
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