三沢光晴選手のご冥福をお祈りします
2009/06/13 23:46 登録: えっちな名無しさん
三沢 光晴(みさわ みつはる、男性、1962年6月18日 - 2009年6月13日)は、日本のプロレスラー。本名は三澤 光晴。北海道夕張市生まれ、埼玉県越谷市育ち。プロレスリング・ノア(以下ノア)代表取締役社長。あわせて2006年9月にグローバル・レスリング連盟初代会長に就任。2009年6月13日 - 広島県立総合体育館(グリーンアリーナ)での試合中に、相手選手の技を受けた際に立ち上がることが出来ず、関係者や他選手らによる手当てを受けた後に心肺停止状態に陥り、病院へ救急搬送された[1]が、その後死亡が確認された。バックドロップにより頭部を強打して死亡に至ったとされる。
エピソード
中学卒業後の進路を担任教師(女性)にプロレスラーと言うと「ふざけるな」と激怒されたと言う。しかし三沢が真面目に考えてる事が解るとレスリングの名門である足利工業大学附属高等学校を勧められた。その他、単身で全日本プロレスに入門希望に訪れると偶々居合わせたジャンボ鶴田に「責めて高校を卒業してからにしなさい」と追い返されたエピソードもあり、かなり早い段階からプロレスラー志望だったと言う。レスリング部在籍時も「何でプロレスラーに成りたいのにこんな事(アマレス)しなけれな行けないんだ」と競技としてのレスリングは詰まらなかったと言う。本人談では「(アマレスを)続けてればオリンピック選手ぐらいには成った自身があるが詰まらないから早く止めたかった」と語っている。
中学時代は体操部でそれがタイガーマスクのベースに成ってる事は断言している。
体力的にはプロレス転向前から完成されており「プロってなんて(トレーニングが)楽なんだ。高校時代の方がもっときつかった」と語っている。元々体格にも恵まれていたが高校レスリング部時代は任されてる階級の為、減量が厳しくプロレスデビュー当時はJr.ヘビー級だった。逆に好きに食べれるプロレスは幸せだと語っている。
個人的な欲では動かず、地道な活動を身上としている。自団体だけでなく、常にプロレス界全体のことを考えて行動している為、筋を通して交渉してきた団体、選手には理解を示し、他団体の大きな興行がある時には、時として自ら出向き夢のビッグマッチを実現させている。また義理人情に熱く、困っている選手や団体に恩讐を越えて手を貸したりする場面も見られる。
ノアを立ち上げて全日本から分裂する際、既に契約のあった興行をキャンセルせずに出場した。曰く「要請がなくても出るつもりだった。全日本さんより、興行主の方に申し訳ないですから」
「理不尽大王」として活躍していた冬木弘道が突如三沢を標的にし、対戦を避ける三沢に対し、三沢を乗せたバスを走って追いかける、事務所までマラソンをする等のドラマを展開。三沢も、プライベートでは全日本時代から親友で、ノア旗揚げ時にも(社長レスラーの先輩として)助言を仰いだ冬木の熱意に応じて2002年4月7日にシングルマッチを行った。その翌日、病院の検査で冬木が大腸癌に侵されていた事が発覚。FMWが崩壊し、新団体WEWの旗揚げにも至っておらず基盤を持たない冬木の為に三沢はディファ有明の空いていた4月14日をすぐに確保し、ノア主導で冬木の引退記念興行を打った。そして、その収益の全てを冬木に贈ったそうである。後に三沢はこの事について「別に深い意味はないですよ。冬木さんは大切な友達だからですよ」と述べている。
2001年2月、当時ノア所属選手だった高山善廣が総合格闘技(PRIDE)に進出する際、高山が準備期間が欲しいため退団を申し入れた。この時三沢は「別に準備期間が欲しいならうちの所属でも構わない。その期間は欠場してもいい」「プロレスをまだ続けたいなら、いつでも帰ってきていいよ」と語り(高山が自書にて告白)相手を思いやる社長ぶりを見せた。その為高山も他団体に比べるとメインでの活躍が少ないにもかかわらず義理を重んじノアのリングに上がり続けたり、休養中もゲスト解説としてノアとの関係を良好に継続している。復帰戦をノアで行ったのも三沢の人柄によるところが大きかったと思われる。
全日本時代の日本武道館5大シングルマッチで川田の代役として2連戦を戦った時の試合後のコメントに責任感の強さを見てとれる。
「相手を舐めた覚えはないしプロレスに対してだってそう。それを知った上で、あえて自分で2試合やったんだよ」
「あの時点で誰かに『お前やれ』とは言えない。格闘技は精神的なものが左右するから。それだったら、自分が企画したわけだし、2試合とも勝つのはちょっと無理かもしれないけど、自分の限界がどれくらいか知りたい部分もあったしね」
思慮深く礼儀正しい蝶野正洋とはお互い団体所属の一選手でしかない時代に、週刊プレイボーイの対談で会って以来、意気投合。まだ全日本と新日本のライバル関係が色濃く残っていた時にもかかわらず、「もう、猪木さんや馬場さんの時代じゃない。オレらの世代が自分で動いてプロレス界をなんとかしなきゃいけない」という蝶野の言葉に、「今は難しいかもしれないけど、いつかお互いが責任を取れる立場になったら蝶野選手とだったら協力できる」と返している。その約束を果たす意味で実現させたのが、後の新日本との交流戦である。そこでは一騎討ちを行ったが、後のドリームタッグ結成の時はベビーフェイス(三沢)とヒール(蝶野)の立場を超えて初タッグとは思えない巧みな連携を見せた。またノア初のドーム大会において個人的に三沢を訪れ対戦要求の挨拶を行った小島聡の誠実さを気に入り一騎打ちを実現させるすべく、分裂以降絶縁状態でもう上がる事は無いだろうと言われていた全日本リングに、7月18日の両国国技館で再び足を踏み入れた。
徹底的に相手の技を受けて、相手を光らせた上で自分が勝つという、俗に言われる王道プロレスで育ったため、相手を光らせることなく一方的に試合を終わらせるファイトスタイル、ハイスパートレスリングを行う選手はあまり評価していない。特に長州力にはジャパンプロレスの一員として全日本プロレスに参戦した頃、一方的に試合を終わらされたことがきっかけであまり良く思っていない。また橋本真也との遭遇が短期間に終了したのも同じ原因との説もあるが、同じく攻撃型のハンセンやウィリアムスとは何度も試合をしている事や、ゼロワンマックスとは現在も交流が続き、攻撃型の高岩をGHCジュニア王者にしているなどの事実から、団体間の利害関係などの問題で話がまとまらなくなった可能性も考えられる。
『1億人の大質問!?笑ってコラえて!』で、「幼稚園児に民話『おおきなかぶ』のエピソードを実体験してもらおう」という企画が行われた際、幼稚園児と綱引きする「かぶ」の役として三沢が登場。いつもの緑のリングコスチュームに加えて「かぶ」のかぶりものを頭に装着し、満更でもないような笑顔を見せ、最後はよってたかって綱を引く幼稚園児たちの力に負けて、地面にひきずられてしまう三沢の姿がゴールデンタイムに放映された。全日本所属選手がバラエティ番組に登場するようになった最初期だったということもあり、この企画はファンの間でしばらく語り草となり、三沢を「かぶ」と呼称する事も流行した。なお、この被り物は本来、小橋建太が行うはずだったが、当日高熱を出してしまったため三沢が代役で出演した。
真面目な印象が強いが、一方でプロレス界一の下ネタ使いとしても知られ、プロレス雑誌の読者投稿欄では三沢の下ネタ・エロネタが定番となっていたほどである。積極的にテレビ出演を始めた当初は寡黙なキャラを守っていたが、次第にテレビ慣れしてきたのか「(小橋と組んで負けた試合の感想を問われ)小橋には、先にイッチャッテごめんね、という気持ちです」「俺おっぱい星人じゃないから」「ぴこぴこぴーん(男性のシンボルが元気になった時の三沢独特の擬音表現)」「(他団体の)プロレスのビデオ見るくらいならアダルトビデオ見たほうがいいよ」などの下ネタ関係の発言を連発。全日本所属時代に大学の学園祭に何度も招聘されていたが、そこで行われたトークショーでも下ネタを頻発している。DJとしてオールナイトニッポンに登場した際には内容の殆どが下ネタトークだった他(別のラジオ番組で、小橋がリスナー名で電話かけてきたのを「お前小橋だろ!」と看破し、そこから下ネタで弄り倒した事も)、「踊る!さんま御殿」は下ネタ御法度であったはずが結局大ウケし、「今週の踊るヒット賞」を獲得。同番組で「エロ社長」の異名をとり、飯島愛からは「爽やかな下ネタ」と評された。三沢の下ネタは受けが良く、それを楽しみにするファンも多かったが、一方で「(寡黙で真面目な)イメージが崩れる」等の批判が上がっていたのも事実であり、その件で渉外部長の仲田龍から「バラエティ番組出演禁止令」が出され、現在は出演を自粛している(しかし、後述のように日本テレビ系列の年末のスポーツ特番などには出演している)。
年末のスポーツ特番で牛乳を口に含み、芸人のネタを見て吐き出すかというゲームがあった。他の出演者が次々と吐き出すなか、三沢だけ吐き出さないという快挙?を達成。なお、三沢はそのとき尋常ではない汗をかいており、実際には相当に苦しかったようである。
三沢はその激戦振りから日本国外でも高い人気を誇っている。日本国外のファンの多くは「寡黙な三沢」というイメージしか持っていなかったため、三沢が出演した回の『行列のできる法律相談所』の動画がYouTubeに投稿された際は、そのギャップに驚愕したらしく「あの三沢が笑っている!」という英字コメントが多数寄せられていた。また、2003年に放送された番組「3年N組 三八先生」で、「金八先生」ならぬ「三八(さんはち)先生」と言う先生役で出演していた。ちなみに、このとき出ていたのは「NOAH」の所属選手であり、竹刀を持った体育の先生役として小橋建太が、美術の先生役(二日酔いで寝ていたという設定で保健室で寝ていただけだが)が田上明、生徒役に秋山準、小川良成、池田大輔などが出演している。この番組もYouTubeで放送されている。
大変な悪声で音痴である。冬木弘道は漫画雑誌「漫画サンデー」に寄稿していたエッセイ「奸善超悪」にて「三沢はいいヤツなんだが、ひとつだけ困った面がある。それは歌だ。あまりの音痴な上に、マイクを握ったら離さない」と嘆いていた。三沢の歌声はザ・リーヴのCM「ムード歌謡編」で聞く事が出来る(ザ・リーヴのホームページで試聴可能)。
2005年12月22日に発売されたXbox360用ソフト「レッスルキングダム」のイベントで、ゲーム好きである事を公表している。本人曰く「ゲーム、好きですね。Xbox 360、予約しましたよ。最初に買わないと手に入らなくなるかもしれないから、そのとき買わないと」と、かなりのゲーム好きな一面をのぞかせた。「レッスルキングダム」をプレイした感想については「やってておもしろいですね。やっているうちに手に汗をかいてきて、そのうち全身に汗をかいてきたのでやめましたが」とコメント。「ゲームは現実逃避でやるのがイイから」ということで、普段はシューティングとプロレスゲームはしない。他にファミ通2007年11月2日号では「あの人のセレクトはコレ!未来に伝えたいゲーム」にて三沢のお気に入りのゲームにファミリーコンピュータ版『ファイアーエムブレム 暗黒竜と光の剣』を上げていた。
オタク関係に相当造詣が深い。ホビー専門誌で特撮ヒーローの人形収集の趣味がある事を明かしている。また、カラオケに行くと子供時代大好きだったマイナー特撮ヒーローの主題歌を歌い、誰も知らない為、周りの人間は少々困るらしい。また、何人かの若手は「遠征中、ドライブインに寄るたびに三沢社長にガシャポンをやりにいかされる」と暴露している。全日社長時、日テレの素顔がイイねっ!に出演し自宅を公開、子供の大きなポケモンの人形の他、かなり希少なファイナルファンタジーVIIグッズやその他のコレクションが乱雑に並べられていた。その他にもメディアワークス刊「電撃スパロボ」にてスーパーロボット大戦シリーズのファンであることが明かされている。また、相当な漫画好きでも知られている。単行本はあまり買わず、雑誌連載で追いかけるという。元付け人の丸藤は「三沢社長の付け人として最初に覚えることは、雑誌の発売日を覚えること」と語っている。もっとも、本人自身は「オタク」であることを頑なに否定している。
タイガーマスク時代はプレッシャーで相当苦悩していたようで、左膝の怪我で長期入院していた時は「もう、タイガーマスクじゃなくてもいいんじゃないかって本当に思ったよ」と後に語っている。ただ覆面を脱いだ直後のインタビューでは「応援してくれた子供達には本当に申し訳ないと思ってる」とも語っている。
同じくタイガーマスク時代、その跳躍力を買われていた三沢は、先輩レスラーに「お前なら走ってくる車を飛び越えられるだろう」と言われ、おもむろに車道へ出て、向かってくるタクシーを飛び越えたというエピソードがある。
タクシー飛び越えは、様々な逸話があり、日本国外遠征中に試合会場から帰る際に先輩に「タクシーをドロップキックで停めろ」と命令されて先輩の命令で仕方なく走るタクシーに向かいドロップキックを放ったところタクシーを飛び越えてしまい、それを知った馬場が三沢を帰国させて2代目タイガーマスクに任命したという逸話もある。
タイガーマスク説で一番有力なのは、日本国外遠征中馬場からの国際電話で「三沢、お前トップロープに立てるか?」と言われ「はい」と返事をしたところ「じゃ、すぐに帰国しろ」と言われ帰国後すぐにタイガーマスクになったというのが一番有力と言われている。三沢の談では当初一緒にメキシコ遠征に行ってた越中詩郎がタイガーマスクに成る予定だったとも語っている。
鶴田越えを果たした後、上の世代とのタイトル戦においてなかなか勝てなかった三沢は1992年ハンセンの三冠タイトルに挑戦する際に「これでもし負けたら俺はもう三冠に挑戦する顔じゃない。最低でも1年は挑戦しない」と宣言。自分を追い込んだ上で勝利を飾り、これ以降2005年に力皇に挑戦して敗れるまで、実に13年もの間、シングルのタイトルマッチで自分が挑戦者として挑む時は勝率100%を誇っていた。
1995年のチャンピオン・カーニバルにおいて川田のキックを受け左眼窩骨折。一般人なら即手術で全3か月という診断にもかかわらず、所属団体だった全日本では休業補償がつかないからという事情から試合に出続け、ついにその年のチャンピオン・カーニバルを制して初優勝してしまった。いくら常人では考えられないタフさを持つプロレスラーといえど、これは異例である。また2年後のチャンピオン・カーニバルでも試合中、右手薬指靭帯断裂、左膝蓋骨骨折の負傷を負いながらも優勝している。怪我があるときほど尋常でない集中力を発揮するタイプである。
師である馬場が亡くなった事に端を発する全日本の混乱の際、苦悩のあまり「もう、プロレスを辞めようと考えていた。なんだか面倒くさいなぁ、と思って」とらしからぬ弱音をもらしたことがある。
1993年の日本武道館大会での三沢対川田戦において、そのあまりに激しい攻防にテレビ解説していた馬場が「試合展開が高度すぎて、もう私にはわからない」と思わず漏らした。
どの時期からは不明であるが川田を一方的に嫌うようになっており、様々なインタビューでも川田のことだけは「嫌い」と明言している(少なくとも超世代軍から川田が離脱した後は折に触れてそういう趣旨の発言をしている)。一方、川田は三沢を一貫して崇拝し続けている。足利工業大学附属高等学校レスリング部時代から「あいつ(川田)が負けたから俺が階級を落とさなくては行けなくなった。何が辛いって減量苦だよ」、他にも川田が一言多い性格から厄病神的見方をしてると言う。
非常にオープン過ぎる性格で自著などで自分の性経験から風俗歴まで語ってしまっている。現夫人が出来ちゃった結婚である事も明かしていたり、膝の負傷時にも担当医に「正上位が出来ないじゃないですか」と冗談であるかは不明であるが語っていたと言う。
1998年の三沢対小橋の三冠戦では、史上最高の激闘を見せて、解説の馬場が何も喋ることなく涙を流したという逸話がある
1997年1月20日に大阪府立体育会館で行われた小橋との三冠戦後、日本テレビ系列で放送されていたスポーツMAXに出演した際、放送開始時にはプロレスごっこまがいの行為でおどけていたキャスターの中畑清が、三冠戦の映像を実際に見て態度が変わり三沢に対し「相手の命を奪いかねない恐れを感じる」と語り、また放送終了後には前述の自らの行為を三沢本人に詫びた。
触れられることが少ないのだが、三沢はかつて全日本のNo.1,2,3であった、ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、天龍源一郎の三人からピンフォールを奪った唯一人の日本人レスラーである。ただ馬場の時は「親子喧嘩に勝っただけって気がして、切なかった」と語っている。馬場は三沢を養子にしたかったと言う逸話もある。
「三沢光晴」の参考文献情報
* ページ名: 三沢光晴
* 著者: Wikipedia の執筆者たち
* 発行者: 『Wikipedia』
* 更新日時: 2009年6月15日 06:52 (UTC)
* 取得日時: 2009年6月15日 09:31 (UTC)
* 恒久的なURI: http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E4%B8%89%E6%B2%A2%E5%85%89%E6%99%B4&oldid=26423076
* ページの版番号: 26423076
出典:ご冥福をお祈りします
リンク:三沢光晴は永久に不滅です

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