【プール】 【すまきの話】 【指さし】
2009/06/21 17:16 登録: えっちな名無しさん
21 :プール ◆oJUBn2VTGE :2009/06/19(金) 22:43:16 ID:fg91v0gN0
太陽の中に水しぶきが跳ねた。
それが一瞬キラキラと輝き、眩しさに目を細める。空には雲が一つだけ浮かんでいる。目に見えない大気の層の向こうにまっさらな青い色が伸びていて、プールサイドのベンチに仰向けになっている僕にも、突き刺すような日差しとともに生ぬるい風が頬を撫でてくる。
「ひと、いませんねえ」
「……なにか、言ったか」
水音を涼しげに響かせながら師匠が腕を止める。
大学一回生の夏だった。午前中、ダラダラと師匠の部屋で無駄話をしていたが、あまりに暑いので昼下がりに二人連れ立って市内のプールへやってきたのである。
ところが今日あたりさぞ込んでいるだろうと思っていたそのプールが、ガラガラだったのだ。受付のおばちゃんがうちわで顔を扇ぎながら「今日はすいてるよ」とだるそうに言っていたときは「まさか」と冗談を言っていると思っていたのに、
更衣室を出て階段を登りプールサイドに立つと、僕は自分の目を疑った。
陽炎が立つ焼けたコンクリートの向こう、太陽の光が照り返す一面の水の中には誰一人泳いでいなかった。
これほどのプール日和だというのに、敷地の中には僕らのほか動くものの影ひとつない、奇妙な空間がそこにあった。
師匠は全く気にしない様子で準備運動もそこそこに泳ぎ始め、僕はプールサイドにあったベンチに寝転がり身体を焼くことにした。泳ぐのは得意でなかったのと、師匠があんまり「なまっ白い」といって馬鹿にするからだ。
「今日、土曜日ですよね。どうしてこんな日の真っ昼間にガラガラなんでしょう」
「暑くて外出たくないんじゃねえか、みんな」
そんなことはないだろう。暑い日にこそ繁盛するのがプールのはずだ。
「なんか、街なかでデカいイベントやってましたっけ」
「いや、特にないな」
「じゃあコンサートとか、サッカーの試合とかもなかったですかね」
さあ、あったかも知れないが、と師匠は言ったあと水に沈み込んでターンをした。
「あったとしても、何万人だかの周辺住民すべてに影響するとも思えないな」
その通りだった。集客においてプールと競合するようなものがあっても、分母のデカすぎるゼロサムゲームだ。あるいはサッカーの日本代表の試合や甲子園の地元チームの出る試合ならテレビの前にかなりの市民を縛り付けるかも知れない。
しかしそれでも総和の半数もいかないだろう。残りの半数は依然自由意志で猛暑日のすごし方を選択するはずだ。そしてなにより、そんな番組は今日の朝刊には載っていなかった。
もやもやした頭のままタオルで目に入りそうな汗を拭う。
もう三十分以上経ったが、誰も入り口に姿を現さない。僕と師匠だけの無人の世界だ。
「なんか、このプールで感染症発生の噂があったとかでしょうか」
僕が言うと、師匠が泳ぎながら返す。
「ないな。だったらとっくに閉鎖してるだろ。一人二人の噂ならともかく、街中にガボガボゴベ広がってるなら事実がどうあれ取り合えず閉鎖だ」
なるほど。それにそんな話まったく聞かない。
他になにか、人々の足をプールから遠ざける要因がないか頭を巡らせた。
プールに入るという目的に対する阻害要因のうち、分母である不特定多数の住民の中の、少数の分子である入場客に影響を与えるものはなにか。
考えてもさっぱりわからない。少しは発想の転換をしようと、思いつくまま口にしてみた。
「周辺道路の通行止め!」
「そんな様子があったか?」
確かに人通りはいつもと変わらなかった気がする。
「料金値上げ」
「ずっと据え置きだ」
「今日から近所に最新プールがオープン」
「それはあるかも知れないな。でもそんな情報、二人とも今日までまったく目にしていない。同じようにそれを知らなかった人がガボガボガボ他にいないというもガボガボゴホゴホゴホ……ゴホッ、ゴホッ……変だろうが」
確かに二人とも新聞はとっているし、ローカル情報番組もわりと見ている方だと思う。折り込みチラシでも見た覚えがないので、最新プールの新規オープンはあまり現実的ではないように思えてきた。
なによりプールの窓口のおばちゃんが小首を傾げていたではないか。
「泳ぎながら喋るからですよ」と声を張り上げてやると、師匠は軽く咳き込みながらクロールのままクルリとターンをする。
見上げると、遥か上空を鳥が泳いでいる。その空の下に師匠が立てる水音だけが響く。
誰もいないプールはどこか現実感が希薄で、ジリジリと焼け付く太陽の光も身体の表面を舐めるばかりで魂の奥底までは届かない感じがする。
そろそろ泳ごうかな、と身体を起こそうとしたときだ。
視界の端に、水の中からプールサイドへ、ざばりと上る人影が目に入った。
なんだ、一人いたじゃん。
やけに青白い背中を見ながらそう思った瞬間だ。そんなことはありえないことに気づく。
僕は敷地のすべてが見通せる場所にいて、誰もいないことはずっと見ていたはずなのだ。
僕らがプールサイドに足を踏み入れてからずっと水の中に潜っててでもいない限り。
ゾクゾクと身体の中から急激に冷え始めた。
そんなはずはない。生身で三十分以上潜っていられる人間なんているはずがない。
学校指定のような水泳パンツをはいて、頭には青いキャップ。後ろ姿だけ見ていると小柄な男の子のようだ。
その背中が、振り返りもせず入り口の方へ遠ざかっていく。
ゆらゆらと揺れながら。
僕は身体を起こそうとしたその姿勢のまま硬直して、喉だけがひくひくと動いていた。
「……あ、あれ」
ようやく言葉を発すると、水しぶきを派手に上げていた師匠がピタリと止まって僕の視線の先を見た。
揺れる背中が階段へ消えていく所だった。
スーッと師匠が僕の方へ寄ってくる。
「やっと諦めたか」
なにを言っているのかわからず、「はあ」と聞き返した。
「さっきから、ずっと水の中で足を引っ張ってきてたんだ」
プールサイドに肘を乗せて師匠はそう言った。
もう男の子の姿は見えない。
「ちょっと水飲んじまったけど、完璧無視してやったらついに諦めたらしいな」
ニヤニヤと底意地の悪そうな顔をする。
この人は、ずっとあの子の存在に気づいていて、なおかつこの僕とプールに人がいないことについて無駄口を叩いていたのか。
唖然として二の句が継げなかった。
「ここで死んだ子どもの霊かなにかだろう。で、今日は命日ってとこじゃないか。そうとうヤバイやつらしいな。周辺住民の深層意識の中に、今日はプールに行きたくないっていう心理を刷り込むほどに」
プールがガラガラだったのは、みんなの無意識の自己防衛本能だというのか。
だったら今日来ている僕らはなんだ。
男の子の去っていった方向に、水が滴った跡が伸びている。そこから陽炎が揺らめき立っているように見えた。
「そんなこともわからないのか」
と師匠は笑いながら言った。
そのとき、なんだかこの夏は、僕の知っている夏ではないという、確信にも似た予感が胸のうちにわいてきたのだった。
「とっくに踏み出してんだよ」
師匠はそう言うと、背面で水の中に飛び込んでいった。
バシャン、という音が耳を打ち、ついで「楽しいぞぉ」という声が空に弾けた。
25 名前: また ◆oJUBn2VTGE [ウニ] 投稿日: 2009/06/19(金) 22:51:31 ID:fg91v0gN0
明日
922 :すまきの話 ◆oJUBn2VTGE :2009/06/20(土) 22:45:31 ID:sgJKT7Op0
学生時代の秋だった。
朝や夕方のひとときにかすかな肌寒さを覚え始めたころ。俺はある女性とともにオカルト道の師匠の家を襲撃した。
周囲の住宅も寝静まった夜半である。アパートの一室から光が消えているのを確認した上で、足音を殺しながらドアの前に立つ。ノブを捻るとあっさりと手前に開いていく。鍵が掛かっていないのは分かっていた。
そろそろと暗い部屋の中に入り込み、布団にくるまっている師匠を見下ろす。二人で目配せをした後、持参したロープを上手に布団の下に這わせ、慎重に準備を整える。
そして一気にロープを引っ張り、布団ごと括り上げる。
「な、なん」
急な衝撃にそんな短い発語をした師匠は、けれどたいした抵抗もなく俺たちの前に見事な簀巻きとなって一丁上げられた。
「なんですか」
眠気もふっとんだのか、師匠は冷静な口調でようやくそれだけを言った。簀巻きとして横たわったまま。
「なんですか」って、それは俺も知りたい。
ただ、この師匠の彼女であるところの歩くさんからイタズラをしようと持ちかけられ、うまうまとそれに乗っかってしまったというのが正直なところだ。
だから理由なんて多分ないし、面白ければそれでいいのだった。
電気を点け、俺たちは持ってきたお菓子類や飲み物を広げる。
簀巻きを肴にホームパーティといこう、という趣向だ。
「なんだなんだ」と喚きながら師匠がもがく。敷き布団と掛け布団の中から顔だけを出して、まるでイモムシのようだ。ロープで数カ所を括られて、円筒形になった布団はむしろラーメン屋の仕込みで見るチャーシューというべきか。
もがけばもがくほど、コーラが進む。
俺と歩くさんは簀巻きを前にして楽しく談笑した。
やがて疲れてきたのか大人しくなった師匠がポツリと言う。
「おかしくれよ」
俺たちは貴重なポテチを要求する簀巻きを無視することにした。
「……」
「無視すんなよ」
「……」
「おかしくれよ」
「……」
「面白い小話をするから助けてくれ」
俺と歩くさんは部屋の隅にあった将棋盤ではさみ将棋をはじめた。
「ローマ法王がアメリカを訪問した時にね、実はかなりのスピード狂だった法王が運転手にハンドルを握らせてくれって頼ん……」
「ローマ法王が運転者をするくらいの大物を捕まえちゃったって言うんでしょう」
「……うん」
「……」
「もう一つ聞いてくれよ」
「……」
「イエス・キリストが水面を歩いて渡る奇蹟を起こしたっていう湖に旅行者がやってきたんだ。向こう岸に渡る船があるっていうんで行ってみたら、大人一人50ドルと書いてある。
『なってこった! たったこれだけの距離で50ドルもとるのか。イエス様も歩いて渡るはずだ』」
「…………ふ」
「あ、笑った」
「……」
「ダメ? 今のダメ?」
「よし!」
これではさみ将棋、二連勝だ。歩くさん相手のゲームは何故か緊張する。
「もう一つ。もう一つ聞いてくれよ。千年前から建ってるドイツの古城の遺跡に盗賊団が侵入したんだ。手分けして探索してると、戻ってきた子分が言う。『あやしげな扉があったんですが、カギが掛かってやした』
『バカ野郎。昔っから、カギを掛ける場所には大事なものがあるって相場が決まってんだ。死ぬ気でこじ開けてこい!』 飛び上がってもう一度探索に向かった子分が、しばらくしてまた手ぶらで戻ってくる。『トイレでした』」
「…………うふ」
「あ、笑った。笑ったよ。ねえ。これほどいてよ」
「……」
「無視すんなよ」
よおし、これで三連勝だ。歩くさんも案外たいしたことないな。
「実はさっきの小話の中に、一つ奇妙な部分がある」
簀巻きの声色がわずかに変わった。そちらを見もしないが、歩を持つ手がぴくりと止まる。
「カギを開けたら扉の向こうはトイレだったってオチだが、良く考えると千年前の城の廃墟にあったトイレなのに、どうしてカギが掛かったままだったんだろうね」
ささやくような声に、ゾクっとした。
最後に入った人は千年経ってもまだ出てきていないのだろうか。内からカギを掛けたままで。
埃くさくジメジメした石造りの城が、今にも目の前に現れそうな悪寒が目眩を伴ってやってくる。狭いアパートの室内の景色がゆらゆらと攪拌されていくようだ。
しまった。術中にはまる。
そう思って緊張した。
しかし次の瞬間、パリパリという乾いた音が聞こえ、現実感が蘇ってくる。
歩くさんが師匠の口元にポテチを差し出して、まるでエサのように食べさせていた。
ご褒美か。でもほどかないんだ。
その後も「ほどけほどけ」「おかしくれ」とうるさい師匠をほぼ無視したままで俺たちは夜更かしをした。
あんまりうるさいので、そろそろ勘弁してあげましょうかと提案すると、歩くさんは「ほどくと死ぬ」とだけボソっと言った。
死ぬのか。だったらほどけないな。主語が分からないのが恐すぎるけど。
歩くさんは、そう言っていいのか分からないが、予知能力のようなものを持っている。最初はカンが鋭い人だと思っていただけだったが、やがてそれがありえない精度を持っていることが分かって恐くなった。
彼女は予知夢のようなものを見る。そして起きた時にはそれを忘れている。ある時、ふいにそれを思い出す。これから起こることを思い出すのだ。それが警句となって、周囲にいる俺たちも危機を脱するということが何度かあった。
その彼女の言葉は時に、非常に重くなる。「ほどくと死ぬ」と言われたら、なんとしてもほどくわけにはいかない。それが冗談なのか、警告なのか全く分からなかったとしてもだ。
モジモジと蠕動運動を繰り返す師匠を見ながら、普段小馬鹿にされている恨みをこめて存分にコーラをあおった。旨すぎる!
二本目のコーラに手を掛けた時、急に部屋の中に目覚まし時計の音が響き渡った。
ドキッとしたが、すぐに歩くさんがスイッチを切り、時計は沈黙する。
針を見ると丑三つ時。どうしてこんな時間に目覚ましを掛けてるんだこの人は。最近よく深夜徘徊をしているらしいというのは知っていたが、目覚ましで起きてまですることなのか。
「ようじがあるんです」
と師匠が哀れを誘う口調で訴えたが、歩くさんに「どんなご用事?」と問われて上手く答えられずに「とにかくほどいてください」と懇願したが、あえなく却下された。
そうこうしていると、歩くさんが部屋のどこからかアルバムを見つけてきた。大学の入学アルバムだ。パラパラと捲っていると、知ったような顔が所々にあった。師匠の入学ははるか昔のはずなので、なんだか変だと思っていたら、どうやら今の四回生の入学時のものらしい。
後輩の入学アルバムを持ってるって、なんだかいやらしい。
変態を見る目で簀巻きを睨んでから知人の写真を探す。とりあえず教育学部の頁に、みかっちさんというオカルト仲間の在りし日の姿を発見。意外にも、これはダメだろという地味な格好で写っている。ここだけ切り取って本人をいじめたい気持ちに駆られる。
続いて歩くさんも発見。今の姿とあまり変わらない。写真の下にある名前に頼らずとも余裕だった。ただ、その頁の端に折り目がついていることが気になった。
そう言えばこの二人は、師匠の方が一方的に熱を上げたとか上げてないとか聞いたことがある気がする。
これは楽しいものを掘り起こしたかも知れないと思い、隣りの歩くさんを覗き見ると、彼女は無表情のままじっとその折り目を見つめている。
その時、彼女を包む異様な緊張感に気づいた。なにか冷やかすようなことを言おうとして、思いとどまる。
押し黙っているとやがて彼女が口を開き、「初めて会った時、このアルバムを持ってた」と呟いた。
新入生のアルバムを見ていて一目惚れし、それを頼りに彼女を捜し当てたという訳か。
それだけを聞くと、他人の馴れ初めなど犬も食わぬわ、という不快な気分になってきそうだが、ちょっと様子が変だ。
このやりとりを聞いていたはずの師匠を振り返ると、寝たふりをしている。わざとらしく寝息を立てているが、まつげがピクピク痙攣中だ。
よく分からないが、なにかよほどの爆弾を掘り当てたらしい。後にこの出来事の真相を知った時には、簀巻きにしたのみならず、もっと酷い目に遭わせるべきだったと思ったものだったが、それはまた別の話だ。
その時の俺は不穏な空気を察知してなんとか話題を変え、簀巻きを囲む宴を続行した。
記憶が定かでないが、やがていつの間にか眠ってしまっていた俺は、畳の上で目を覚ました。身体の節々が痛い。隣では歩くさんがどこから引っ張り出してきたのか、毛布にくるまって寝ている。
ハッとして師匠を見ると、簀巻きから肩の先が少し出た状態で横たわって寝ている。俺たちが寝てしまってから、自力で抜け出そうとして力尽き、脱皮途中で眠ってしまったようだ。
俺は起こさないようにロープの結び目をほどき、師匠と歩くさんを放置したまま部屋を出る。
朝日が目を焼いて、俺はうつむき加減で住宅街を歩き出した。
次の日の夜だ。
パソコンの電源を切り、首をボキボキと鳴らし、歯磨きをしてから寝ようかと立ち上がった時だった。
机の上のPHSに着信があった。時計を見ると深夜0時を回っている。こんな時間に誰だろうと思いながら通話ボタンを押すと、掠れた声が耳元で囁くように聞こえてきた。
よく聞き取れなかったが、それはこう言っているようだった。
……家から近い本屋、本屋の前の公園……
いったい誰なんだろう、という疑問は湧かなかったと思う。俺は師匠だと直感的に分かった。
「どうしたんですか」
と大きな声で呼びかけた瞬間、ガサガサという、紙袋かビニール袋が揺れるような音がした。
その後は電話口の向こうから声がしなくなった。時どき、ガサ、という小さな音がするだけだ。
何度か向こうに呼びかけてから、もう通じないのだと判断して電話を切った。
すぐに外出用の服に着替える。
師匠になにかあった。
それだけは分かる。
家から飛び出し、自転車にまたがって、師匠の家の方に向かう。空は曇っているのか月が見えず、街灯がないあたりは真っ暗だ。
師匠の家に入り浸っているうちにすっかりそのあたりの土地勘を身につけてしまった俺は、「家から近い本屋、本屋の前の公園」というヒントから、指示された場所に最短距離で到達した。
そこは緑の多い一角で、遊具の類はほとんどないけれど、住民たちの散歩コースになっている広場だった。入り口に自転車を止め、恐る恐る足を踏み入れる。
人の気配はない。少なくとも動くものの影は。
薮になっている所を回り込み、街灯の明かりが作る陰影をじっと観察しながらそろそろと進む。
妙に静かだ。
堅い土の地面に小さな石が転がっていて、俺の足がそれを蹴飛ばす乾いた音が響く。
藪の手前に木製のベンチが二つ並んでいる場所があり、そこに誰かいそうな気がして首を伸ばしたが、遠目にも人の姿は見あたらなかった。
公園が違ったのかと思って、頭の中で住宅地図を再生しようとしていると、その誰もいないベンチから人の気配が漂ってきた気がした。
緊張してもう一度視線を向ける。
二つのベンチには、やはり誰もいない。その向こうは見通しがいいので、誰も隠れてはいないはずだ。後ろの藪の中ならば分からないが、見るからに硬そうな枝木だ。あの中に潜むなら相当の引っ掻き傷を覚悟しないといけないだろう。
あとは、ベンチの横のゴミ入れか。
そう考えた瞬間、なにか嫌なものが身体を駆け抜けた。
そのゴミ入れは、よくある金属製の網状になった円筒で、上の方に向けて少し径が大きくなっているやつだ。その内側には黒いビニール袋がはめ込まれている。ただ、普通に公園などで見るタイプよりかなり小さい。大人の腰までも届かないくらいだ。
そのゴミ入れから、異様な気配がしている。
いや、意識を集中すると分かる。気配などというあいまいなものではなく、はっきりと血の匂いだと分かった。
息を止めながらゆっくりと足を進める。血の匂いが強くなってくる。明らかにゴミ入れの中からだ。
少し近づいてよく見ると、ゴミ入れの下の影になっている所になにかの染みが出来ている。
黒い。血だ。見えにくいが、ゴミ入れの下部のすべてに広がっているとしたら、かなりの量だ。
足の長い蚊が横を通り過ぎ、かすかな羽音を残してゴミ入れの中に消えた。
つばを飲む。
ガサリと、ゴミ入れからなにかが動く気配。
反射的に身構える。
声がした。
掠れた声。
……きたか、
どこからともなく聞こえてきたのなら、まだ良かった。声は明らかにゴミ入れの中から聞こえてくる。
……よく、聞け 時間が、ない、
その声は、容易に近寄らせない響きを持っていた。いや、それは俺の自己防衛本能が反映されていただけなのかも知れない。
そのゴミ入れは、とても小さいのだ。横から見ているだけでは口の部分より下は見えないが、大人が中に入り込むには小さすぎる。身体のパーツがすべて揃っている状態で入り込むには、あまりに。
……綾を、さがせ、携帯が、つながらない、たぶん、家、にいる、会って、こう、言え、
ゴミ入れの中から聞こえる、この世のものとも知れない声に混乱しながらも、俺は耳だけに意識を集める。
……これは、夢ですね
それきり、声は途絶えた。足の長い蚊がゴミ入れの中から飛び立ち、どこかへ消えた。
あたりは静まり返っている。
俺は息をのむ。全身に得体の知れない寒気がぞわぞわと立ち上ってくる。なにが起こっているのか分からない。
分かろうとすれば分かるだろう。足を踏み出し、ゴミ入れを覗き込みさえすれば。けれどその足が踏み出せない。思考が、脳が、大脳だか間脳だかの蒼古的な部分が、行くことを拒んでいるみたいだ。
ただごとでないことだけは分かっていた。俺の個人的でささやかな世界が致命的な傷を負い、もう元の形に戻らないだろうことも。ただ、血を見ても反射的に救急車という発想は浮かばなかった。
今自分のするべき最善のことは、ただ指示されたことを全うすることだと直感したのかもしれない。
頭に電流が走ったような軽い痛みの後、俺は目覚めたように走り出した。ゴミ入れから立ち上る生臭い匂いを鼻腔から振り払うように。
公園を出て、入り口の外にとめてあった自転車に飛び乗る。
大変なことになった。
大変なことになった。
力一杯ペダルをこぎ出しても、頭は混乱したままだった。
これは夢ですね?
夢なわけはない。恐ろしいくらい、リアルだ。匂いも、音も、足に、太股に乳酸が溜まっていく感じも。なにもかも。
今日一日の記憶を呼び覚ましてみる。けれど一分の隙もなく繋がっているのが分かる。さっきまでネットで検索していたサイトのことも、その前に食べたカップ麺のことも、それを食べながら高校時代の友人と電話で話したことも、鮮やかに思い出せる。
ということは、じゃあ……
そこで思考が断ち切られる。いや、押しとどめているのか。
師匠に「綾」と本名で呼ばれた歩くさんのマンションへ真っ直ぐに向かう。
途中軽い下り坂があり、スピードを維持したまま強引にGに逆らってカーブを曲がろうとした時、前から来る通行人とぶつかりそうになった。
驚いた表情のその人をなんとかハンドル操作で避けたが、バランスを崩して自転車から投げ出される。
一回転して尻を打ち、思わず右手をアスファルトについてしまって皮が擦りむけた。鋭い痛みに襲われる。
痛い。すっごい痛い。くっそう、と誰にとも知れない悪態が口をつく。
「危ねえな、こら」
茶髪の若い兄ちゃんが髪の毛を乱れさせたまま近寄ってくる。俺は飛び跳ねるように立ち上がると、彼にすがりつく。
「今日のこと覚えてますか。昨日のこと覚えてますか。自分で自分のことがわかりますか」
彼はすがりついてきた俺に一瞬身構えたが、すぐに動揺してその手を振りほどこうとする。
「バカじゃねーの。なんなのお前」
ドシンと俺の肩を両手で突き、踵を返すと早足で去っていった。途中、何度か気持ち悪そうに振り返りながら。
残された俺は擦りむいた右手と擦りむいていない左手を並べて観察する。
掌の傷の中に、小さな石が埋まっているのをなんとかほじくり出す。
痛い。
なんでこんなに痛いんだ。
泣きたくなるような、寒気がするような、耐えられない感じ。とにかく動きだし、倒れている自転車を引き起こして跨る。
夜の道を走る。ひたすら走る。信号に引っ掛かり、トラックが通り過ぎて次のヘッドライトが近づくまでのわずかな隙間を突っ切る。
遅れて鳴らされた意味のないクラクションを背中に聞きながら前へ前へとこぐ。
息が上がり、スピードが落ち始めたころにようやく歩くさんのマンションが見えてきた。
明々とした街灯の下を通り、いつもとめている駐輪場に行く時間も惜しくて道端にそのままスタンドを立てる。立てる時、サドルを押さえる右手に痛みが走った。
顔をしかめながら玄関へ向かう。入り口のセキュリティーはない。中に入ってから、部屋の明かりがついているか外から確認した方が良かったことに気づいたが、戻る時間も勿体ないのでそのまま階段を駆け上がる。
部屋番号を頭の中で繰り返しながら誰もいない通路を走る。足音だけがやけに寒々しく響いている。
向かう先をじっと見つめると、目的の部屋から細い光の筋が伸びている。ちょうど天井の蛍光灯が消えていて薄暗い一角だったから、そのわずかに漏れ出る光を視認することが出来た。
いる。中にいる。
関門を一つ越えた感じ。
でもたどりつくべき場所も、道の全貌もまったく見えない。自分の世界が負った致命的な傷を、復元するための道が。暗夜の中の行路が。見えない。
叫びそうになる。
口を押さえる。
ドアを叩く。
ガンガンガン。
ドアを叩く。
ガンガンガン。
「いませんか」
焦っていると、チャイムなどというものはおもちゃにしか見えない。早く出てくれ。慌ただしく叩かれるドアの音というのは誰だって嫌なものだから。
ガチャリ……、というカギが回る音に続いて、キィ……と微かに軋む音と共にドアがゆっくりとこちらに開かれていく。中からは、怯えたような表情の女性。
「助けて下さい」
顔を見るなり、そう言おうとして、息が止まる。違うからだ。言うべき言葉は、確か、
「これは夢ですね」
うっすらと冷え、張りつめたような空気が室内から外へ流れ出てくる。
普段着のままの歩くさんは首をかしげながら一歩下がる。つられて俺も玄関口に入り込む。
歩くさんが手を離したドアが、支えを失って俺の背後でバタンと閉じた。
歩くさんはもう一歩下がる。靴を脱がなければ上がれないので、俺はその場で止まったままだ。二人の間にある程度の距離が生まれる。
どうやらこれが、歩くさんのパーソナルスペースらしい。
「ケガ」
と歩くさんがこちらを指さす。見ると右足のズボンの膝が破れていてる。掌の痛みばかりに気をとられて気が付いていなかった。
「待ってて」
薬箱でも持ってこようとしたのか、そう言ってくるりと踵を返そうとした彼女を、呼び止めるように口を開いた。
「これは夢ですね」
ぴたりと動きを止めて、彼女はもう一度こちらに向き直る。
「どういうこと」
いつも表情に乏しい彼女が、眉を寄せる。
あの、公園で見た光景を説明しようとして息を吸い込んだ。けれど俺はそれきり言葉につまる。それを言葉にしてしまうと、まるで取り返しの付かない恐ろしい幻を、現実にしてしまうような気がして。
俺はとっさに本を探した。雑誌、いや新聞でもいい。なにか、膨大な情報の詰まった紙が欲しい。昔自然に身につけた、夢の中でそれが夢であると気づくための技術だ。
ほっぺたをつねるとか、なにか特定のキーワードを叫ぶとか、みんなそれぞれ夢を認識するための、あるいは夢から目覚めるためのコツのようなものを持っている。
俺の場合はそれが本を読むことだった。そこに書いてあるべき情報量を、とっさに夢を再生している脳が提供できないから、まるでボロが出た狐狸の類のように夢の世界が壊れるのだ。
しかし、歩くさんの部屋は小綺麗に片づけられていて、玄関とそこに続く台所周辺には本や雑誌類はまったく転がっていない。ドアに付属している郵便受けからこぼれ出た新聞がそのまま玄関に放置されている俺の家とは大違いだ。
説明の代わりに、俺は師匠から託された言葉を繰り返した。
「これは夢ですね」
歩くさんは、どうやら大変なことが起こったらしいと判断したのか、口調を強めて「だから、なにがあったの」と言う。
けれど今の自分の中にはその言葉しか存在していない。だからもう一度繰り返す。
泣いているらしい。声が震えている。誰が? 自分が? どうして?
「落ち着いて。夢って、あなたの夢ということ? だったら違う。だって……」
歩くさんはそこで言葉を切って口の中で続きをゆっくりと吟味した。
「まず、私には自我がある。自分の意思で今喋っている。これがあなたの夢ならば、ずっと続いている私の意識が、あなたの頭が生み出したつくりものだということにならない? そんな怖いことは考えたくないけど。自分のほっぺ抓ってみた?」
俺はかぶりを振る。
「というか、抓るより痛い目にあったみたいね」
血が床に滴っているのを見つめる。
「これは夢ですね」
「だから、違う。夢じゃない」
「これは夢ですね」
「なんのことなの。なにがあったの」
「これは夢ですね」
「違うっていってるでしょ。夢かどうかくらいわかるでしょう。夢の中でこれが夢だと気づいたことはあっても、夢の中でこれは現実だと気づいたことはあった? ないでしょう。今、ここにいることが現実だと知っている私にとって、これが夢じゃないことくらいわかりきってる」
「これは夢ですね」
「いったいなにがあったの。そう言えって誰かに言われたの?」
「これは夢ですね」
「答えなさい」
「これは夢ですね」
「ちょっと待って。……ホラ、電卓。適当に数字を打つよ。24587×98564=2456395168。夢なら、こんな計算一瞬で出来る? でたらめな数字じゃないってことを検算して確かめましょうか?」
「これは夢ですね」
「夢じゃない」
「これは夢ですね」
「……どういえばわかるのかな。なにか急いでしなくちゃいけないことがあるんじゃないの」
「これは夢ですね」
「怒るよ」
「これは夢ですね」
「いいかげんにして」
「これは夢ですね」
歩くさんはなにか言おうとして、それを止め、深いため息をついた。
「どうしてわかってくれないの。これが夢だってことはどういうことかわかる? 現実だと思っている今の自分が、贋物だってことよ」
疲れたように、壁にもたれかかる。
「あなたにとって現実ってなに?」
黒い瞳が真っ直ぐ向けられる。
「よく考えて答えなさい。するべきことは、その怪我の手当をして、問題を一緒に解決することではないの?」
俺は一歩、土足で彼女の空間に近づいて、言った。
「これは夢ですね」
その瞬間、彼女は表情を歪め、蒼白になった顔を突き出した。
そしてたった一言、
「よくわかったわね」
と言った。
静かな声だった。
世界は暗くなった。
目は開いている。
薄闇の中、天井が見える。
瞬きをする。
背中に、畳の感触。
身体を起こす。
師匠の部屋だ。明かりの消えた室内に、毛布にくるまった歩くさんと簀巻きになった師匠がいる。
胸がドキドキしている。静かな夜の空気に漏れ出るくらい。
簀巻きの師匠から、乱れた呼吸の気配がした。
呼びかけてみる。
反応はないが、あきらかに寝たふりだ。
抜け出ようとしてもがいている時に、俺がいきなり起き上ったから驚いたというところか。
簀巻きをバシバシと叩く。
「わかった起きてる。起きてる」
師匠に、今あったことを伝えた。
最後まで身じろぎせずに聞いていた師匠は、ひとこと「巻き込まれたな」と言った。
脳裏に、以前あったことが蘇る。
冬に夢を見た。恐ろしい夢だった。現実の続きのような。
けれど目が覚めたとき、時間が巻き戻っていた。俺は恐ろしい夢が現実にならないように、別の選択をした。あのときも歩くさんと同じ部屋で寝ていた。
歩くさんの見る予知夢に巻き込まれたのだと師匠は言う。
あの、公園のベンチのそばのゴミ箱がフラッシュバックする。
あの匂いの生々しさも、夢だったのか。
怪我をした痛みも。今が現実だと思ったあの判断も。
では、今の自分はどうだ。
手のひらを広げてじっと見つめる。あれが夢ならなにも信じられないじゃないかと思う。
油汗が流れる。
俺は歩くさんの不思議な力について、ずっと重大な勘違いをしていたのではないかという予感がした。
「とにかく、これ、ほどいて」
師匠がモジモジする。
「だめです。ほどくと死ぬらしいですから」
そう言ってから気づく。
「心当たりは?」
「え?」
「命の危険があるような目に遭う、心当たりです」
師匠は考えるそぶりを見せていたが、やがて首を振った。
「今夜は夜遊びをするつもりだったけど、行く先は決めてない」
今夜こうして簀巻きにされて行けなかった場所に、明日行くのだろうか。そして恐ろしい目に遭う?
「僕が行くとしたら、あそこかな。いや、あの心霊スポットも行ってみたかった」
師匠はぶつぶつと呟いている。
「いずれにしても、洒落にならないなにかが夜の街にいるらしいな」
あっけらかんとそう言う。
そうして毛布に包まって寝ている歩くさんに視線を向けた。
ぼそりと言葉が漏れる。
「いいか。もう絶対にこいつにあの言葉は言うんじゃない」
「あの言葉?」
「しつこく繰り返したっていうあれだ」
「はあ」
「わかるだろ。こいつが今夜ここへ来た理由が」
なんとなく、わかる。
うまい言葉が出てこない。
結節点。いや、違う。楔か。
巻き戻りを止める、楔。
そのタイミングをなんらかの予感で彼女は知り、こうして俺たち三人をこの部屋に揃えたのだ。
「師匠は、その夢を本当に見てないんですか」
「……こんな状態で寝てられないだろう」
表情を窺ったが、嘘とも真ともつかなかった。
「しばらく、夜遊びは控えることにする」
師匠はそう呟いて目を閉じた。
歩くさんも眠ったままだ。
再び静かになった部屋の中で、俺はじっと考えていた。
あの師匠をあんな風にした、恐ろしいなにかのことについて。
そんな致命的な傷を負った世界が復元するという暗い奇蹟について。
まったく想像もしていなかった、もしかして、ひょっとすると、本人さえそう思っていないかもしれない、眩暈のするような、口に出すのも憚られる、現実から目覚めるという、おぞましい、不思議な力のことについて。
953 :今夜は ◆oJUBn2VTGE :2009/06/21(日) 00:02:31 ID:m2hpAMu/0
あと一話。
洒落怖にて。
指を、
用意して、
ごらんください……
83 名前: 指さし ◆oJUBn2VTGE [ウニ] 投稿日: 2009/06/21(日) 00:06:05 ID:m2hpAMu/0
小学校のころ、海沿いの青少年の家でクラス合宿があった。
近くの神社までの道を往復するという肝試しをしたあと、あとは寝るだけという時間帯がやってきた。
怖い思いをした直後の妙なテンションのせいか、僕らは男女合わせて八人のグループで建物の一階の奥にある談話室に集まった。
消灯はついさっきのことだったので、まだ先生が見回りにくる可能性があったが、見つかったらそのときだ、と開き直っていた。
なぜならその中に一人、怪談話の得意なやつがいたのだ。普段は目立たないのに意外な才能というのか、とにかく彼の話す怖い話は訥々とした語り口と相まって異様な雰囲気を作り出していた。
僕らは夢中になって彼の言葉に耳を傾けた。いや、その場から離れられなかったというべきか。
畳敷きの談話室は背の低い本棚が壁際にならんでいるだけで、その本棚に車座になった僕らの影がゆらゆらと揺れていた。円陣の真ん中に、彼がろうそくを立てているのだ。
いつもは体育の授業も休みがちで、青白い顔をして教室の隅でじっとしているイメージの彼が、そのときは僕らを支配していた。誰ももう寝ようなんて言い出さなかった。
一人で部屋まで戻れと言われるのが怖かったのだ。
淡々と話は進み、女の子たちの顔が次第に強張っていくのが分かった。男の子の方も半ば強がりで次の話を早くとせがんでいたが、それも恐怖心を好奇心にすり替えようと自分を騙しているのに違いなかった。
ふっ、と話が途切れ、部屋の中に静寂がやってきた。
彼はちょっと休憩というように手を挙げ、持ち込んでいた水筒に口をつけて喉を動かしている。
スン、と誰かが鼻を鳴らし、連鎖するようにスン、スン、という音が静まり返った談話室の中に流れた。
そんな空気にたまりかねたのか、男の子の一人が無理に明るい口調で言った。
「こんなゲームしようぜ」
みんな目をつぶって、いま幽霊がいそうなところを同時に指さすんだ……
そんなことを言い出したその子に、男の子も女の子も戸惑ったが「おもしろそう」という彼の一声でやらざるを得ない雰囲気になってしまった。
「じゃあつぶれよ」
言いだしっぺの子がそう言って、僕も嫌々目を閉じた。
急に自分の心臓の音が大きくなる。
「もう指さした?」
そんな声が聞こえ、慌てて適当に指をさす。
いそうなところを感じたわけじゃない。なんだかそれを感じようとするなんてことは、「しないほうがいい」と思ったのだ。
目を開けろ、という声が聞こえて恐る恐る瞼を開く。
キャッという短い悲鳴がした。
ほとんどみんなバラバラの場所を指さしていたが、その中で女の子が二人、ほとんど同じ方向に指を向けていた。
やだあ、なんてふざけてみせているが、声が震えているのが分かった。
「次の話」
と彼がぼそりと言って肩を少し突き出す。
僕らは蝋燭の火に顔を近づけた。車座が小さくなる。
また彼の寒気のするような話が始まり、なぜか不思議な余韻の中で終わる。息を吐く音がそれぞれの長さで微かに聞こえる。
「また幽霊がいそうなところを指さそう」
同じ男の子が言った。ああいいよと強がって別の子が目をつぶる。他のみんなもつられて目を閉じた。少なくともこの僕は、一人だけ目を開けているのが怖かった。
「じゃあ目、開けて」
そう言われて目を開けると、今度は男女のペアが同じ方向を指さしていた。僕は思わずその白い壁から視線を逸らせる。なにか見えてしまう気がして。
その後も彼が一つ話をするたびに、この霊感実験のようなゲームは行われた。
ゲームを言い出した本人も血の気の引いたような顔をしている。けれど誰もやめようとは言わない。全員が抜け出せない繰り返しの輪の中に囚われてしまっているようだった。
そしてやがて気づき始める。
指をさす方向がだんだんと揃い始めていることを。
目を開くたびに息を飲む音がして、みんなの視線がそちらに向く。今度は四人がほぼ同じ方向の窓を指さしていた。厚手のカーテンがしてあって、外の様子は覗けない。きっと外からも蝋燭の小さな明かりは見えないだろう。
へへへ、と誰かが照れたような笑い声を漏らした。誰も窓の外、カーテンの向こうを確認しようとはしなかった。
みんなそちらからぎこちなく視線を逸らすだけだった。
「次の話」
と彼がまたひっそりと言った。
その彼が喋り始めてすぐに、今までの怪談とは違うことに気付いた。
真夜中に子どもたちが集い、霊のいる場所をあてる指さしゲームをする話だった。
まるで僕らのことのようだ。
一話二話と話が進むにつれ、だんだんと指は揃い始める。二人、三人、四人、五人……
そして最後の話が終わったとき、全員の指が同じ場所を向いた……
そこで彼の話は終わった。
はずなのに、みんな息を吐かない。
これからその続きが始まるのだ。
「目をつぶって」
と彼は言った。
誰も逆らえなかった。
僕の前には蝋燭のゆらめきだけが闇の中、陽炎のように残っている。
僕らが沈み込むように丸く座っている談話室の、あらゆる方位がぐにゃぐにゃと動いているような気配がある。
どこを指さしても、とても嫌な場所を指さしてしまいそうな予感がした。震えながら、手が動く。
「目を開けて」
と闇の中から声が聞こえた。
そして僕たちは全員が同じ方向を指さしているのを見た。
大学一回生の春だった。
僕は大学に入って早々に仲良くなった先輩と二人きりで心霊スポットを訪れていた。
その人は怪談話の好きだった僕がまったく敵わないほどの妖しい知識を持っている怪人物で、僕は彼を師匠と呼び、行く先々について回っていた。
「この世には、説明のつかないことがあるものだな」
山鳩の声が彼方から聞こえる暗闇の中で、小さなランプが僕らの顔を照らしていた。
僕のとっておきの体験談を聞き終えて、師匠は一言呟いて頷いたきり反応しなくなった。
なにも言ってくれないと怖さが増してくる。
今いるここは人里を離れ山道をくねくねと登ってようやくたどりつく、打ち捨てられたようなプレハブ小屋だった。
色々な資材らしきものが散乱し荒れ放題に荒れていたが、中は広い。ブルーシートの埃を払ってその上に座っていたが、なにもない空間が身体の外側に張り付いて、無性に冷える。
心霊スポットに居座って怪談話に興じるという無茶を、よくやれたものだと思う。話している最中から変な気分だった。ここには二人しかいないはずなのに、もっと多くの気配が聞き耳を立てているような気がしていた。
「その……指さしゲームは始めてだったんだな」
ようやく師匠が口を開いた。
「そうです。たぶん、みんなも。それがどうかしましたか」
師匠は目を細めながら口元を緩めた。
「最後、みんながどこを指さしたか、あててやろうか」
驚いた。そして同時に、その談話室の中の詳しい様子を説明してないんだから、分かるはずはないと思った。
「お前の話だけでわかる」
師匠はさも当然のように言い切った。
僕は少し緊張する。分かるはずはない。けれど、不気味な雰囲気の漂う夜のプレハブ小屋の中では、その確信が揺らぐ。
ランプの周りを飛ぶ小さな羽虫の音を聞きながら、暗闇に浮かび上がる顔を見つめる。
「全員、その怪談話をした『彼』を指さした」
そう言いながら師匠は僕の眉間のあたりに指を向け、ついでその指を隠すように握る込む。
「と、言いたいところだが、違う」
なぜなら、と続ける。
「お前は一度もそのゲームを真剣にやろうとしていない。霊の気配を探すなんてことは恐ろしくて出来ないからだ。むしろ、自分の指がそんな場所をさすことを恐れている。他の人と同じ方向を指さしてしまえば、本当にそこに霊がいるような恐怖心を抱いてしまう。
そう思っている。だから逆に、何もない場所を指さなくてはならない、という強迫観念にとらわれてしまうことは想像に難くない。そしてそれはゲームが進むにつれて、その場のみんなの共通意識になっていった……」
師匠の言葉は揺らぎのない不思議な自信に満ちていた。
「最初に女の子ふたりの指が揃ったあと、たぶんみんなこう思った。『もう一度、あの方向に揃うのは怖すぎる』と。だから意識的に、あるいは無意識にその方向を避けた。
そしておそらくその方向から全く離れた場所、例えば反対方向に偶々別の男の子と女の子が指を揃えてしまう。そしてみんなは思う。『あそこも駄目だ』と。また、指をさせる方位が減る。自然、次に指が揃う確率が上がる。繰り返せば繰り返すほど」
スッ、スッ、と文字を書くにように指を虚空に走らせながら師匠はプレハブ小屋の中を見回す。
「そして、『彼』が今の自分たちの置かれた状況とそっくりな怪談を始める。これは反則だ。どんなに怖くてもお話の中、というフィルターが外され、怪談が現実を侵食し始める。子どもたちの心が恐怖で満たされていったことは間違いない。
そうして、たった一つの強迫観念に支配される。『次は絶対に他の人と同じ方向を指さしてはいけない』と。まして彼の語った怪談の結末である、全員が同じ場所をさすなんてことは、絶対にあってはならない」
師匠は指を下ろし、そのまま頭を垂れた。
「だから、みんな目を閉じたまま考えた。絶対に他のみんなが指ささない場所。そんな方向に霊がいるはずがない場所。いそうだなんて、思いつかない場所……」
ふいに寒気がした。まさか、師匠には分かってしまうのか?
「そこは、その談話室は、一階にあった。だから……」
師匠は顔を上げて右手を突き出し、そのひとさし指をゆっくりと真下に向ける。
「みんな、下を指さした」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中に鮮明な記憶が蘇った。
女の子の悲鳴。男の子の悲鳴。バタバタとどこへともなく逃げ惑う足音。
全員の指が下を向いたとき、僕は得体の知れない金切り声を耳元で聞いた気がした。背中に重くて冷たい液体が流し込まれたような気がした。とにかくその場を離れようとして誰かにぶつかった。転んだ僕の目に、蝋燭の前で驚愕の表情を浮かべて硬直する彼の姿があった。
やがて談話室から喚きながら数人が飛び出して行き、その騒ぎを聞きつけて先生が寝巻き姿で走ってきた。
僕らは散々に怒られ、一発ずつビンタを頂戴した。
特に蝋燭を持ち込んだ彼は、先生の部屋に担がれるようにつれていかれてしまった。怪談話をしていたときの落ち着き払った態度は消え失せ、ごめんなさいごめんなさいと泣き喚いていた。
「よく、分かりましたね」
そう言うしかなかった。改めて、この人は凄い人だと思った。
「おそらく全員の指は厳密にはバラバラだったはずだ。自分の真下や、畳の上のどこか。いずれにせよそれまでに二人以上が同じ方向を指さしてしまったようには揃っていなかったと思う。
でも目を開けて、他の子の指が向いている方向を見たとき、みんなの意識は『下』というその記号だけを認知していた」
そう指摘されて始めて気付いた。確かに、指は揃っていなかった。なのに『揃った』と錯覚していた。
「思い込みの強い子どもに、そのゲームは酷だったな」
師匠は口元だけで笑った。
僕は左腕をさすりながら肩を縮める。あの恐怖体験に、そんな心理トリックが隠れていたなんて……
ふと頭の中に微かな引っ掛かりを覚えた。
あれ? だとすると変だ。
「この世には、説明のつかないことがあるものだなって、言いませんでしたか」
僕の話を聞き終えたあと、確かに師匠はそう言った。しかしその直後、見事に心理的な説明がついてしまった。
あのときにはすべて飲み込んだ言葉のように聞こえたのに。なんだかあっけない。
「誰が、その話のオチのことだって言った?」
師匠がゆっくりと言葉を吐く。その瞬間、ゾクリと肌が粟立った。
ランプのほの明かりの中で首を巡らせて、蜘蛛の巣が煙のように覆っている小屋の四隅に視線をやりながら、師匠は語り始めた。
「ここは、倒産した土建会社の資材置き場だったらしい。それがどうして心霊スポットになったのか、まだ話してなかったな。まあ、あっさり言うと、社長がここで首を括ったんだ。そこの柱にネクタイを巻きつけてな」
ランプをそちらに向ける。
なにかおぞましいものでも見たように、僕は思わず身を引いた。
「で、そのあと夜中に小屋の前を通ると窓の内側に誰か立ってるのが見えるって噂が立った。その窓の向こうの人影は、異様に首が長いんだと。死んだ社長が浮かばれない地縛霊になって今もこのプレハブ小屋の中を彷徨ってるっていう話だ」
ところが。
と師匠は一拍置いた。
「社長が首を括った理由を辿っていくと、面白い別の噂に突き当たる」
カタン、とランプを置いて立ち上がった。
ブルーシートから出て地面の上を円を描くように歩き始める。
「土建会社が倒産したのは、資金繰りが悪化して不渡りを出したからだが、その資金繰り悪化に止めを刺したのが、杜撰な設計で始まった地元の自治体の公共工事を最低制限価格ギリギリで落札してしまったことだ。設計の通り行おうとする限り工期は遅れに遅れ、
自治体の担当と侃々諤々のやりとりを繰り返しながらキャッシュフローが目に見えて澱んでくる。なんとか工事は終え、自治体からの支払いも完了したが、そのころには土建会社としての足腰はボロボロになっていた。そしてその一年後に倒産、という流れになるんだが……
実はその公共工事の最中にある事件が起こっていた」
ピタリと師匠は足を止める。
「基礎工事をするために地面を掘り返していたときのことだ。現場監督と数人の作業員が、土の下からなにかの遺物らしきものを見つけてしまった。通常、貝塚やら古代人の遺構なんかの遺物を見つけた者には教育委員会に報告する義務が生じる。
しかしこれが工事をする会社にはやっかいな代物で、一通りの調査が終わるまでは工事を中断せざるをえないし、場合によっては工事そのものが中止されることもある。体力のない中小の土建会社にとっては死活問題だ。
だから、その報告を現場監督から受けた社長は、遺物発見の事実を隠すことを指示した。
そしてその掘り起こされた遺物は密かに別の場所に運び込まれ、埋め直された。もちろんその土建会社の私有地だ。すぐあとで、その土地の上にまるで覆いをするようにプレハブ小屋が立てられる。資材置き場として使われていたが、やがて土建会社が倒産の憂き目に会い、
社長はそこで首を括って死ぬ…… つまり、ここだ」
師匠は静かに言った。
空気の流れがほんの少し変わったのか、小屋の隅につまれた藁の束から饐えた匂いが漂ってくる。
ゾクゾクとなんだか分からない寒気が足元から這い上がってきたような気がした。
「一体、掘り出してしまったものは何だったのか、それは伝わっていない。この噂自体、工機を動かしていた作業員からの又聞きで土建会社の元従業員たちの間に密かに囁かれていたものらしい。
ただ、会社の倒産も社長の死も、その遺物の呪いによるものではないかと噂されている。見つけてはいけないものを見つけてしまい、それをもう一度埋めてしまうなんていう、とんでもないことをしたからだと。
社長が首を括ったのが本社や他の施設ではなく、この山奥の資材置き場だったなんて、それだけで因縁めいているじゃないか」
師匠は柱のそばに立って、それを撫でた。社長がネクタイを巻きつけたという柱だ。
「そしてその社長の霊が未だにここに囚われているというのも、底知れない、暗い重力のようなものを感じさせる」
さっきから、遠くなったり近くなったりしながら、耳鳴りのようなものがしている。
僕は耳を塞ぎ、叫びたくなるのを必死で堪え、それでも師匠の口元から目が逸らせない。
何かが立ちのぼってくる。
目に見えない何かが。
「お前は、このプレハブ小屋にまつわる話をまったく聞いてない段階で、特にお題もなく怪談話をするのに、わざわざその小学校のころの体験談をした。まるで選んだように。だから、言ったんだ。この世には、説明のつかないことがあるって」
師匠は足音も立てず僕の前にもう一度座った。
さあ、目を閉じて、指をさそうか
102 :今夜は ◆oJUBn2VTGE :2009/06/21(日) 00:39:42 ID:m2hpAMu/0
終わり
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