待人鬼女

2009/08/14 03:52 登録: えっちな名無しさん

 アパートから、ひと駅くらい離れたカフェでバイトをするようになった俺は、近道があることに気付いた。
 それはいつも通っていた商店街を、少し外れた道だった。舗装されていない細い小道で木々が生い茂り、ちょっとした森のようになっている。
 途中で少し開けた場所があり、昔は神社でもあったのか、鳥居の土台のような石があり、側に大きな木が立っていた。
 俺が彼女を見かけたのはその木の袂だ。ほんの一瞬。顔もほとんど見えないはずの一瞬だったのに、恐ろしいくらい綺麗な人だとわかった。髪を結い上げ、艶やかな着物姿だった。時代劇で見る、お姫様といった感じだ。
 はっとして彼女の方を見たが、姿はなかった。ただ木が佇んでいるだけだ。気のせいだったか……?
 その時、草葉を揺らして風が流れ、それに乗って微かにあるふたつの匂いを感じた。
 ひとつはお香の匂いだ。線香とかそういうものではなく、香道とか、今流行のアロマとかそんな感じの。
 もうひとつはなんの匂いだったろう? 昔、子どもの頃によくこの匂いを嗅いでいたような……

「じゃ、古木下の幽霊を見たことありますかあ?」
 その店でバイトをしている高校二年生のR子ちゃんが言った。髪の長い、小柄で目の大きな可愛い子だ。
 休憩時間に雑談していて、最近通るようになった近道があるんだ、と話したところ、彼女がそう言い始めたのだ。
「古木下の幽霊?」
 俺は鸚鵡返しに聞き返した。
「はい、あそこに道の途中に立ってる木はですね、樹齢何百年って言われていて、今まで何度か切ろうとしたんだけど、その度に変な事故とか起こって、結局今まで残されてるんですよ」
「へえ……」
 昔からある古木や岩を撤去しようとしたら、工事関係者達が怪我をしたり事故に遭う。よくある話だ。
「その木の下にはね、二百年も前から女性の幽霊がいるんだって言われてるんですよね」
 幽霊ねえ……え? 俺がこの間見たのはまさか……?
「その女の人はそこで二百年も何してるわけ?」
「恋人を待ってるんだって」
「恋人……」
 R子ちゃんは頷いて続けた。
「はい、その男の人とその木の下で会う約束をしてたんですけどね、男の人は来なくて。でも女の人は、来る日も来る日もずっと待ち続けてたんですけど、ある日、その木の下で殺されちゃったそうです」
「殺された? なんで?」
「よく判らないけど、その時代だったから辻斬り強盗とか、そんなのだったんじゃないですかね」
「それ以来、ずっとその場所で待ってるってことか」
 R子ちゃんは大きな目をちょっと動かして、興味深げに訊いてきた。
「もしかして見たんですか?」
「いや、そういう訳じゃないけど」
 R子ちゃんは、なあんだ、と言うように首をすくめた。
「でもね、もうひとつ裏の噂っていうのがあって……」
「裏の噂……って?」
「女性限定の話なんですけど、男性に捨てられたり、騙されたりした女性がその木の下へ自分の髪を埋めて、その女の人に願うと相手に呪いがかけられるそうです」
「ちょ……怖いよ、それ」
「噂ですよ、そういう」
 R子ちゃんはそう言うと、にこりと笑った。
「でも、呪いって普通、相手の持ち物とかを使うんじゃ?」
「いえ、自分の髪の毛を使うんですよ、髪って女の命とか言うじゃないですか。それを切ってまで相手を懲らしめたいって願いを同じように恋人に裏切られたその女の人が叶えてくれるって」
「なるほどね」
 女子高生が好きそうな話だな。呪いの話はともかくとして、俺が見たあれは、ほんとにその幽霊だったんだろうか?

 昨日はいなかったな……いや、見ることができなかったと言うべきか。今日はどうだろうか?
 俺は、ぼんやりと考えながら、大学内の広場でベンチに座って缶コーヒーを飲んでいた。
 あの近道を使ってバイトに通うようになってから二ヶ月が経っていたが、彼女を見たのは最初も含めて三度だけだ。
 正面から彼女を見ることはない。木の前を通り過ぎる時、視界の隅に一瞬、木の袂にその姿を捉えるだけだ。
 なぜか表情まではっきりと見て取れる。哀しげで儚げな、それでいて確固とした意志を感じる美しい顔立ち。
 なんでこんなに気になるんだろう? 綺麗な人だから? 綺麗と言っても相手は幽霊だぞ。いや、ただの勘違いかも知れない。R子ちゃんにあんな話を聞いたものだから見えているような気になっているだけとも思える。
 しかし、彼女が見えなくても時々、あのふたつの匂いは感じることがあった。お香と、もうひとつ。あの匂いは確かに知っている。懐かしいような、切ないような……いったい何の匂いだったか。

「おい、また何かくだらんことに首突っ込んでんじゃあるまいな?」
「うわ!」
 突然背後から声をかけられ、飛び上がりそうになってしまった。振り返ると、先輩のTさんが立っていた。
「先輩ですか……驚かさないでくださいよ」
「別に驚かすつもりはなかったがな。そんなビビりのくせに余計なことに関わるんだよな、お前は」
 Tさんは寺生まれで霊感が強く、不思議な力で悪霊を滅ぼすことができるのだ。今まで二度ほど彼に助けられたことがあった。
「余計なことって……」
「あっち方面だよ。霊気の滓がこびりついてるぞ」
 どきりとした。霊気……Tさんならそんなものが見えて当たり前なんだろう。じゃ、彼女はやっぱり?
「見えるんですか?」
「身に覚えがあるみたいだな。お前は本当に懲りない奴だな、いい加減にしとけよ」
 Tさんは呆れたように首を振りながら、じゃあな、と行こうとする。
「ちょ、ちょっと待ってください、それだけ言って放置しないでくださいよ」
 俺が追いすがると、Tさんは俺の持っている缶コーヒーを見て、
「なんか喉が渇いたな」
 と、ぽつりと言った。

 俺はTさんに彼女のことと、R子ちゃんに聞いたことを話した。呪いの話はしなかった。どうせ女子高生が面白可笑しく誇張した噂話だろうし、Tさんに笑われるのが目に見えていたからだ。
「で、毎日その道を通ってるわけか」
 Tさんは俺が奢ったジュースを啜りながら呆れたように言った。
「はい……でもはっきりと見たわけじゃなくて自信なかったんですけど。Tさんに霊気が見えるってことは本当なんですね」
「まあな。でも、ただ毎日前を通ってるだけじゃ、そんなもんは身体につかないぞ。お前がその霊になにかしら意識を寄せてるからだ」
 こういう話でこの人に嘘はつけないようだ。
「なんか気になるんですよね。哀しげっていうか寂しげっていうか……」
「美人なんだろ」
 Tさんが見透かしたような口調で言う。
「あ、いや、はっきり見たことはないんですけど」
 Tさんは苦笑しながら、
「お前な、美人なら幽霊でもいいのかよ」
 と、からかうように言う。
 なんとも答えることができずに黙っていると、Tさんは飲み干した空き缶を放り投げた。乾いた音を立てて三メートルほど離れたゴミ箱に見事入った。
「彼女は悪い霊だと思えないんですよね」
 俺がそう言うと、Tさんは少し意地悪そうな笑顔になる。
「ほほう? お前にそんなことがわかるのか?」
 今まで二回悪霊に遭遇した。一度目はビルの屋上から飛び降り自殺して、他の人間を道連れにしようとする悪霊。
 あのときの空気の感触は忘れられない。バリバリと髪が逆立つような、肌に針を突き立てられるような感じ。とんでもなく禍々しい、ひどく質の悪いものに、触れてはいけないものに触れたとはっきり感じた。
 二度目は、面白半分で肝試しに行き、哀れな少女の霊を俺達の邪念に同調させてしまって、悪霊に変えかけたときだ。
 少女の魂が悪霊に堕ちかけたときにも、それを感じた。だが、彼女の場合はそれがない。
 そう話すとTさんは面白そうに笑った。
「そのテが見える人間は割といるけどな、いや、たいしたもんだよ全く」
 なんだか馬鹿にされてるようで面白くなかったので、むすっと黙り込んだ。、
「どうやらお前も見込みのある体質みたいだな。まあそれで十分だ、君子危うきに近寄らず、ってな」
「悪い霊じゃないんでしょ?」
「らしいがな。だが悪霊でなくっても、生きてる人間と死んだ人間が関わり合うのは、あまりよくない結果を招くんだよ」
 Tさんはそう言うと立ち上がった。
「とにかくもうその道を通るのはやめとけ。また面倒なことになるぞ」
「はあ……」
 Tさんはその場を離れかけて、ふと思い出したように振り返った。
「しかしなんだってそんな道を通るんだ? 通学するにも関係なさそうじゃないか」
「あ、今、カフェでバイトしてて……」
「へえ、お前、バイトしてるのか」
 Tさんがにやりと笑った。

「お早うございまーす」
 俺はいつものようにバイト先のカフェのドアを開けた。
「お早う」
「おはよーございまーす」
 店長や同僚が口々に挨拶を返してくる。
 着替えて店に出た。客の入りはまずまずだ。今風のお洒落な店というわけでもないが、本格的なコーヒーを出す店として常連客はかなり多い。
 注文された品をテーブルに運んで戻ろうとした時、ある人物が目に入った。
「せ、先輩?」
 Tさんがすました顔でコーヒーを飲んでいた。
「おう、真面目にやってるか?」
「な、なんでここに?」
 Tさんはカップを置くと、ビーフサンドを一口囓った。ステーキにした方がいいだろうと思うような良い肉を使っている。値段は張るが、毎日必ず注文が入る人気メニューだ。
「ちょっと気になってな、見てきたんだよ。例の幽霊ってのを」
「やっぱりいるんですか?」
 俺は思わず身を乗り出した。
「ああ、いたな」
「で、どういう霊だったんですか?」
「美味いな、これ」
 Tさんははぐらかすようにサンドイッチを頬張った。
「先輩!」
「お前、バイト中なんだろ。まあ、明日話してやるよ」
 話す気がないのなら、ここに来る必要ないじゃないか、全く……
「お知り合いなんですかー?」
 客が帰った後のカップなどをトレーに載せて、通りかかったR子ちゃんが声をかけてきた。
「あ、この人俺の大学の先輩で……」
「どうもこいつがお世話になってます」
 Tさんは普段ついぞ見せない愛想のいい笑顔を向けてR子ちゃんに話しかける。
「うふふ、別に私は何も……Nさん、さぼってると店長に怒られちゃいますよ」
 R子ちゃんはTさんにごゆっくり、と笑顔で言うと厨房に入っていった。
「あんな可愛い子が近くにいるってのに、幽霊に気を取られてるってお前、かなり変じゃないのか?」
「あの子はただの同僚ですよ、それに幽霊に気を取られてる訳じゃありませんよ!」
「あー、わかったわかった、ほら、もう行け。せっかくティータイムを楽しんでいるところなんだからよ」
 Tさんは手を振って追い払うような仕草をして言った。全く、何しに来たんだろう……
 その後、厨房に入って洗い物をし、フロアに出るとTさんの姿はなかった。
「あれ、さっきの人は?」
 Tさんがいたテーブルを拭いているR子ちゃんに聞くと、
「もう帰られましたよー」
 と、言う。嫌な予感がした。
「あの人、お金払っていった?」
 R子ちゃんは首を傾げて無邪気な顔で言う。
「え? Nさんが奢ってくれるからって言われてましたけど」
 ビーフサンドにブルーマウンテン。やられた……俺は思わず天を仰いだ。

 次の日、午後から講義はなかったが、Tさんを探して学校内をあちこち歩き回った。
 昼食時を過ぎて人がまばらになった学食の隅で、文庫本を読みながらジュースを飲んでいるTさんを見つけた。
「先輩!」
「なんだお前か。会わない時は会わないのに、会う時は毎日会うなあ」
 Tさんはとぼけた様子で言う。
「ひどいじゃないですか、支払いを俺に押し付けて帰るなんて」
「あー、昨日持ち合わせがなくってな、今度返す」
「ほんとですか? そんなのが、もうずいぶん前からかなりたまってますけど」
「そうだっけか?」
「ビアガーデンでバイトしてた時とか、それから……」
 俺は、ここぞとばかりに今までの借金を並べ立てた。
「つまらんこといつまでも覚えてると頭が腐るぞ」
 Tさんは相手にしないという様子で本に目を戻す。
「先輩!」
「ああ、そうだ。木の下の霊のことだけどな」
 俺の言葉を遮るようにTさんが言う。
「確かに悪い霊じゃないが……どうもな」
「え、なにか問題でも?」
 借金の追求も忘れて、俺はTさんの向かいの席に着いた。
「二百年も男を待ってるのは本当だよ。そういう情念の深い魂は悪霊でなくても関わるとまずい」
 Tさんは本を閉じると、俺の目を見て言った。
「それは何となくわかりますけど……」
「何がそんなに気になる? 生身の女の方がいいだろうに、昨日のあの子とか」
「そういう意味じゃなくてですね、自分でもわからないんですけど……そうだ、なにか香りを感じませんでしたか?」
「香り?」
 Tさんはちょっと眉を上げる。
「ええ、ひとつはお香の匂いだと思うんですが、もうひとつ……昔嗅いだことがあるんですよ、その匂いを。でもなんの匂いだったか思い出せなくて」
「ああ、ありゃ白粉だ」
 Tさんはあっさりと言った。
「白粉?」
 思い出した。そうだ、子どもの頃、親に連れられて、夏休みには必ず田舎のお婆ちゃんの家へ遊びに行っていた。
 いつも俺達が寝泊まりする部屋に、お婆ちゃんが若い頃使っていたという、古い化粧台が置いてあり、引き出しを開けるとあの匂いがしていた。
 そうか、白粉の匂いだったのか……それで懐かしい匂いだと思ったんだ。
「なんだ、白粉も知らんのか。昔からの化粧品で今も舞子さんとかが使ってるだろ、今で言うファンデにあたるもんだ」
 俺が黙り込んでいるので、白粉の意味がわからないと思ったらしいTさんが言う。
「知ってますよ、白粉くらい。ファンデなんて似合わない略し方しないでくださいよ」
 俺は少しからかってやろうとそう言ってみたが、Tさんは事も無げに、
「ああ、いつも彼女がファンデーションのことをそう言うもんでな、つい出ちまった」 
 と、言い放った。
 俺は仰け反りそうになった。か、彼女? 彼女がいるのか、この人に! この変人と付き合う女性ってどんな人なんだ?
「あの女は花魁だったのさ」
 呆然としている俺に、Tさんはそう言った。
「え……?」
「遊女だよ。お香に白粉、まあ商売道具みたいなもんだな」
 花魁か。そうか、だったらあの艶やかな着物姿も納得できる。
「客の男といい仲になったらしくてな、一緒に逃げる約束をした。だが、御法度だった足抜けまでしたのに、男は約束の場所へ現れなかった」
「足抜け……」
 Tさんはジュースを一口飲むと続けた。
「遊女が吉原から逃げることさ。それは重罪で、執拗に追われ、捕まると酷い折檻が待っていた。それで命を落とした遊女も少なくなかったんだ」
「じゃ、彼女は捕まって……」
 Tさんは一度頷いた。R子ちゃんの言うように木の下で殺されたんじゃなかったんだな……
 Tさんは、ふっと息を吐き出した。
「だがな、あの女も人を殺してる。それもふたり」
「え?」
 どきりとした。R子ちゃんに聞いた呪いの噂を思い出す。まさか……?
「呪いですか?」
 Tさんは眉根を寄せた。
「なんだ呪いって。追っ手を殺したんだよ、返り討ちってやつだ。なかなかの玉だぜ、あの女は」
 そうか、呪いじゃなかったんだな、あれはただの噂だったんだ。少なくとも彼女は悪霊じゃない。
「二百年もあの場に留まっているのは、ただ男を待っているだけじゃない、ふたりも殺めた罰でもあるんだ。人殺しの業ってのは深いもんだぜ」
 今度は俺が息を深く吐き出し、背もたれに身体を預けた。人殺し……あの人が。
「さあ、あの女と匂いの正体がわかってスッキリしたんだろう、もうあの道は通るな、いいな」
 Tさんは少し険しい顔で言った。
「……はい」

「お疲れさまです」
 バイトを終えて俺は店を出た。あたりはもう暗くなっている。空を見上げ、ふう、と息をつく。
 あの場所を通らなくなってから一ヶ月経つ。いつも通り、商店街を抜けて行こうとしてふと足を止めた。
 彼女は今も、あの木の下で恋人を待ち続けているんだろうか?
 もう一度だけ、彼女に会ってみよう。いや、会えないかも知れないが。
 俺はあの場所へと足を向けた。
 相変わらず人通りはない。夜だと、木々がいっそう深く見え、実際より深い大きな森に感じる。
 古木の前に立ってみた。彼女の姿は見えない。でも彼女は待ち続けているんだな、来ない男を待って。人を殺した罪を背負って。これからも……

 髪の生え際が、ざわ、と逆立つ感覚が走った。
 ――え?
 この感じ。鳥肌が立つ。まさか? 明らかに以前は彼女と無縁だったはずの空気。
 木の袂に視線を移した。木の根元やそのまわりに土を掘り返した跡があった。
 俺は息を呑んだ。呪い。かなり以前から行われていたに違いない。なぜ今まで気付かなかったのか。確認できるものでかなりの数があった。
 女達が、憎い男を思いながら切った髪の毛。それが木のまわり一帯に埋められている。背筋に氷を押し当てられたような気になった。
 ――生者の念に死者の念はたやすく同調する。
 以前、Tさんに聞いた言葉が脳裏をかすめた。悲鳴が出そうになるのを堪え、俺は走ってその場を後にした。

 部屋に戻って、水を立て続けに二杯飲んでやっとひと息つく。
 ひょっとしたら男に騙されたかも知れないのに、いつ悪霊になってもおかしくなかったのに、そうはならず二百年もの間、一途に恋人を待ち続けた。
 その彼女が悪霊に堕ちかけている。憎い相手を呪うという浅ましい生者の邪念のせいで。
 さきほどの感覚を思い返す。それほど強いものじゃなかった。過去に悪霊に会った時の感覚を煮えたぎった湯だとすると、まだまだ沸点には程遠いぬるま湯という感じだ。
 生者の邪念の元を、埋められた髪を取り除けば、大丈夫かも知れない。
 ベッドに座ったまま、しばらく逡巡していたが、意を決して立ち上がった。まだ間に合うはずだ。彼女を悪霊にしてしまってはならない。

 終電はとっくに終わっている時間だった。自転車に乗って彼女の元へと向かった。人通りがなくなり薄暗くなった商店街をちょっと走って、横道へと逸れる。
 しばらくするとあの古木が見えてきた。近づくと空気は相変わらず不穏な色をたたえていたが、まだまだ危険なものとは思えない。
 地面を掘り返すのに丁度いい木切れを見つけ、古木の袂に立つ。ふっと、ふたつの香りが鼻についた。確かに彼女はいる。
 改めてまわりの地面を見ると、掘り返した跡が二十以上ある。新しいものもあれば、古いものもあった。すでに掘り返した跡がわからなくなっているものもあるだろう。これほど多くの悪意にさらされながら、彼女は恋人を待ち続けたのか。
 木切れを地面に突き刺そうとして、手を止めた。誰かが近づいてきている気配がする。とっさに自転車を古木の裏へ隠し、近くの茂みへ身を潜ませた。
 人影が近づいてくる。小柄な影だ。人影は古木の袂に蹲ると持参したらしいスコップで地面を掘り始めた。
 ざく、ざくと掘り返す音が聞こえてくる。
 まさに憎い男を呪って欲しいと願っている場面に居合わせたんだ……俺は背筋に冷たいものを感じながら見つめた。
 その時、雲の隙間から月が顔を出し、地面を掘り返す人物を照らし出した。俺は息を呑んだ。
「R子ちゃん……?」
 思わず声に出していた。
「Nさん……」
 気付いたR子ちゃんは弾かれたように立ち上がり、驚愕の表情で俺を見つめた。長かった髪は短く切られていた。
 右手にはスコップ、そして左手には髪の束が握られている。
「まさか……それは」
「あいつが悪いのよ!」
 R子ちゃんは俺の言葉を遮るように怒鳴った。
「私のこと好きだって言ってたくせに……なのに」
 彼女は休憩時間によくメールをしていた。彼氏なんです、と嬉しそうに話していたのを思い出す。
「なのに……なんで?」
 R子ちゃんは一週間前から何となく元気がなかった。そして今日、体調がすぐれないと電話をしてきて店を休んでいた。
 そうか……彼氏が浮気かなにか……?
「私だけだって……私だけだって言ってたくせにー!」
 R子ちゃんの声は段々と狂気の色を帯びてくる。
「わかった、わかったから落ち着くんだ」
 俺は、なんとか宥めようと努めて声を抑えながら近づいた。
「あんな奴、あんな奴……死んじゃえばいいのよおぉぉぉ!」
 R子ちゃんが絶叫に近い声で叫んだ。
「駄目だ! やめろ!」
 ぐん、と空気が歪んだ。一瞬で全身に鳥肌が立った。R子ちゃんが、目を反転させてその場に崩れ落ちた。
「R子ちゃん!」
 彼女に駆け寄り、抱きあげた。手首の静脈に指を当て、R子ちゃんの口元に耳を寄せる。脈はある。呼吸もしている。どうやら気を失っただけみたいだ。
 ざわあ……と風が吹く。禍々しい悪意の塊が押しよせる。バリバリと音を立てて髪が逆立ち、針を突き立てられたような不快感が走る。
 気配を感じて振り返ると、木の下に彼女が立っていた。その顔は無表情だったが哀しげで、そして凄絶なまでに美しかった。
「君は……」
 言いかけたが、それ以上続けることができなかった。彼女の表情が変わったのだ。
 哀しげな目がきっとつり上がった。目の端からすう、と赤い血のような涙を流し始める。閉じていた唇の間から、歯を剥き出しにした。憤怒の表情だ、と思った。
 湿った音を立て、まわりの地面が爆ぜたように弾けた。飛び出したいくつもの土の塊が空中に漂っていた。
 かあっ、と彼女が叫び声を上げるように口を開くと、ひとつの土の塊が俺をめがけて飛んでくる。R子ちゃんを抱きかかえたまま、姿勢を低くしてそれを避けた。顔をかすめて黒い塊が通り過ぎた時、俺は間違いに気付いた。
 それは土の塊ではなかった。腐葉土と腐ったような臭気を放っているのは、泥にまみれた女性のものと思われる髪の塊だった。
 空中に漂う髪の塊は大小合わせて三十以上あった。これらが全て憎い男への呪いを切望した女性の髪の毛なのか。
 彼女が艶やかな着物の袖を翻して片手を振った。今度はひとつではなく複数の髪の塊が飛んでくる。このままでは避けきれない。
 R子ちゃんを離して地面を転がった。避けたと思った時、後ろから、べちゃり、と冷たいものがうなじに張り付く。ざわざわと生き物のように蠢いて首に巻き付いてきた。おぞましい感触に、思わず悲鳴を上げた。その声に引き寄せられるように、ふたつ、みっつといくつもの髪の塊が首元に張り付き、巻き付いてきた。
 頸動脈を締め上げられ、頭の血管が膨れあがる。気道が押し潰されて、息ができない。首と髪の隙間に、指をねじ込んで引きはがそうとしたが、細い髪が首筋にくい込み、それもできなかった。
 やめろ、と言おうとしたが声が出せなかった。目がかすみ、彼女の姿がぼうっとぼやける。ああ、死ぬんだな……薄れる意識の中でそう思った。

「破あぁーッ!」
 切り裂くような裂帛の気合いが響いた。巻き付いていた髪の塊が青い閃光に包まれ、じゅっと蒸発するように消し飛んだ。
 気道が締め付けから解き放たれ、俺は空気を貪るように吸い込み、咳き込みながら振り返る。月明かりを背にして彼が立っていた。寺生まれで霊感の強いTさんが。
「先……輩?」
「やれやれ、お前は学習能力ってもんがないのか? 死にたがっているようにしか見えんぞ」
 明かりを背にしているのでその表情は見えなかったが、呆れたような苦笑いを浮かべているのだろう。
「な、なんでここに……」
「なあに、この間来た時、やばい感じがしてたんでな」
「知って……たんですか」
「あのな、お前が気付くくらいなのに俺が気付かないとでも思ったか? その女以外の、悪意と邪念もはっきりとな」
 Tさんにはすでに彼女が悪霊に堕ちかけていることだけじゃなく、女性達の呪いの事も知っていたのか。
 Tさんは、彼女の方へ視線を移した。
「このまま大人しくしているなら見逃してやろうと思っていたが……やはり無理だったか」
 彼女がぎろりとTさんを睨みつけた。
「いい面構えになったじゃないか」
 嘲るようなTさんの言葉に彼女が、かっと目を見開くと、一斉に髪がTさんをめがけて飛んでいく。
「破ッ!」
 Tさんが張り手のように片手を突き出すと、ソフトボールぐらいの大きさの青い光弾が手の平から撃ち出され、さらに細い光線となって幾筋にも分かれた。
 光線に撃ち抜かれた毛髪の塊が、白い煙を上げて消滅した。
 次の瞬間、彼女は直立した姿勢のまま、なんの予備動作もなしに空中高く飛び上がる。
 彼女の両手の爪が刃物のように尖っているのが見えた。しゅん、と風を切ってTさんに襲いかかる。
「ふん!」
 Tさんが片手を振ると、青白い光弾が彼女の脇腹をかすめた。
 クァアアアア! 彼女は怪鳥のような声を上げると、地面に着地し、膝を付いた。
 しゅうう……と脇腹から白い煙が上がり、彼女は苦痛の表情を浮かべ、手で押さえた。
「浅かったか……楽にしてやる」
 Tさんは憐憫の表情を浮かべ、両手を前に突き出す。
 彼女は、ぎり、と音を立てて歯を食いしばり、憎悪を込めた目でTさんを睨みつける。
 確かに彼女は悪鬼に堕ちた。でも、望んで悪鬼になったんじゃない。彼女は二百年も待ち続けていたんだ、この木の下で、たった独りで。
「やめてください!」
 俺は叫んで、Tさんと彼女の間に割って入った。
「お願いです! 彼女は二百年以上も信じて待ち続けていたんです! その年月を否定しないであげてください!」
「……何だと?」
 俺の言葉に、Tさんはちょっと眉を上げた。
 背後から突風が吹き付けた。思わず前のめりになる。黒く長い蛇のようなものがTさんに襲いかかり、首に巻き付く。
「ちっ!」
 黒いものは彼女自身の髪の毛だった。結い上げた髪が解け、信じられない量と長さでTさんの首に巻き付いたのだ。
 ぎち、と音を立てて締め上げるのがわかった。Tさんが、ぐッ、と喉の奥で呻き声を漏らす。
「やめろ! 君はこんなこと望んでなかっただろう!」
 俺は真っ直ぐTさんの首に伸びる髪の束を引きはがそうとして掴んだ。激しい憎悪の塊が髪を伝って流れ込んでくる。
「くッ!」
 気を失いそうになるのを堪えながら手に力を込めた。髪はびくともしなかった。
「どけ!」
 腹の底まで響くTさんの怒号に俺は、弾き飛ばされるように尻餅を付いた。Tさんは右手を目の高さに掲げた。ぼう、と手首から先がセントエルモの火のような青白い光りを帯び始める。
「調子に乗るんじゃねえ!」
 青白い光りを帯びた手刀を髪に叩きつけた。ざくっと切断され、首に巻き付いていた髪が蒸発した。
 彼女が体勢を崩してよろける。Tさんが返す手で、撃ち出した光弾が彼女の肩を貫いた。
「あああああああ!」
 彼女は悲鳴を上げて蹲る。
「悪あがきはそこまでだ」
 Tさんは両手を突きだして彼女に狙いを定める。手の平が青白い光りに包まれ始めた。
 それを見た時、なにかに突き動かされるように、Tさんの前に立ちはだかっていた。
「やめろ! やめてくれ!」
 全身の血が入れ替わったような気がした。
「頼む、これ以上朝霧を傷つけないでやってくれ!」
 ――え……朝霧って……? 彼女の名前? なぜ俺は彼女の名前を?
「罰するなら私を、朝霧をこんなにも待たせて悪鬼にしてしまった私を罰してくれ!」
 叫んでいた。禍々しい空気は一瞬にして消えた。

「あ……」
 気配を感じて振り返るとすぐ後ろに彼女が立っていた。彼女の顔からは邪気が消え、美しく儚げな笑顔を浮かべていた。
 ふわり、と彼女の腕が私を包み込んだ。手がそっと確かめるように私の頬に触れた。白粉の匂い、お香の香り。憶えている。確かに私は憶えている。
「やっと来てくんなましんしたぇ……」
 鈴の音のような声が彼女の唇から出た。

 祖父の代から、父の代で江戸一番の大店になった廻船問屋の私は三代目だった。
 幼い頃から商いのいろはを叩き込まれ、普通の子ども時代を送ることができなかった。成長してからもそれは変わることはなかった。
 それを不憫に思ったのか、父が大店の跡取りとして、遊びも知ってないといけない、と吉原へと連れて行ってくれたのだ。
 そこで会ったのが花魁の朝霧だった。本来なら初めての客と花魁が顔を合わせて口を利く事はありえない。
 緊張している私に朝霧がすっ、と微笑んで、
「こういうところは苦手でありんすか?」
 と訊いてきた。こんな美しい女性は見たことがない、と思った。
 私は朝霧の虜になり、その後も暇を見ては吉原へと彼女に会いに行った。
「お前は菩薩様だよ……」
 初めて知る女性の柔らかさに私は泣いた。朝霧もそんな私を抱きしめて泣いた。愛し合うのに時間はかからなかった。
 身請けをしたいと親に申し出たが許されなかった。由緒ある店に遊女の血を入れるなんてとんでもない、お前は遊女の手練手管に騙されているのだと激しく叱責され、吉原に行くことを禁じられたが、親や奉公人の目を盗んでは彼女に会い続けた。
 私は一緒に逃げようと朝霧に話した。朝霧は、店を捨てるといわすことがどういうことかわかっていんすか、もう忘れんなんし、きっと後悔しんすよと首を縦に振らない。
 だが、諦めずに通い続ける私に、朝霧はこう言った。
「わっちと死ぬ覚悟がございんすか」
 吉原抜けは大罪である。捕まったら無事ではすまないだろう。私はその言葉に迷いなく頷いた。
「だが死なせはしない、なんとしても死なせるものか」
 そうして私たちは逃げる約束をしたのだった。町外れにある神社の大木の下で会おうと。
 その夜、私は家の者が寝静まってから、二十両ばかりの金を懐に押し込んで、そっと店を抜け出た。
 彼女の元へ急ごうと、はやる気持ちを抑えきれず、不用意に走った時、懐の金の音を聞きつけられたのだろう。人気のない道で三人の男に襲われた。
「頼む、これをやるから見逃してくれ!」
 三両を差し出したが、もっと持っているだろうと詰め寄られた。全て渡してしまっては、逃げるものも逃げられない。抵抗して揉み合っているうちに白い光りが私の腹にくい込んだ。短刀で刺され、激痛に薄れゆく意識の中で最後に思ったのは朝霧の顔だった。
 ――すまない、約束を守れなかった……
 
「きっと来てくださると信じておりんしたよ、若旦那……」
 あんなにも愛し、愛され、愛し合った朝霧が目の前にいる。
 涙が頬を伝っていくのを感じた。私は泣いていた。
 ああ、そうだ。だから私は懐かしかったんだ……私もずっと彼女を探し続けていたんだ。
「泣いてくださるのでありんすか。わっちのために泣いてくださるのでありんすか、若旦那」
 朝霧の目からはらはらと涙が零れ落ちる。
「でも、わっちは追ってきた若い衆をふたり殺めんした……わっちは若旦那の思ってくださるような女ではありんせん」
 いや、違う。私が朝霧に人を殺めさせたのだ。そして今度も……
「お前は菩薩様だよ……」
「ああ……わっちはそれで十分でありんすよ……」
 彼女の輪郭がぼうっとぼやけ、私の頬に触れていた手の感触はみるみるうちに失われていく。
「朝霧!」
 しっかりと抱きとめようとしたが、その腕は空を掴んだだけだった。
 ――わっちは幸せでありんすよ……
 消え入るような声が耳の奥に、お香と白粉の匂いが僅かに鼻腔の奥に残った。
「驚いたな……」
 Tさんはぽつりと呟いた。
「一度、悪鬼に墜ちた魂が自分を取り戻すなんて」

 意識を失っているR子ちゃんは、救急外来のある、近くの総合病院へ送り届けた。
 急病らしいです、道で倒れているのを見つけました。受付の事務員にそう告げて、慌ただしく看護師や医師が動き回っている隙に病院を離れた。
「R子ちゃん、大丈夫でしょうか?」
「気にあてられただけだ、命に別状はないだろうよ」
 それを聞いてほっとする。
「しかし最近のうら若き娘さんは怖いねえ。憎いかなんだか知らんが、簡単に人の不幸を願うなんてね」
 病院から足早に遠ざかり、ひと息ついて並んで歩きながらTさんは肩をすくめながら言った。
 R子ちゃんは店をやめてしまうだろうか? 人を呪っている現場なんか見られちゃ、もう顔を合わせたくないだろうしな。
「遊び感覚、なんですかね」
 自転車を押しながら俺は言った。
「わからんね。ただ、そんな遊びが開けちゃいけない扉を開けちまうこともあるってことだ」
 Tさんはちょっと俺の方を見てすぐに視線を前方へ戻した。
「好奇心もほどほどにしないと命取り、ってな」
 分が悪くなりそうな感じがしたので、俺は話題を変えようとした。
「今日は少し苦戦してませんでしたか?」
 俺が言うと、Tさんは首に手を当てながら少し顔をしかめる。
「ありゃお前のせいだ」
「え……」
「あの女の二百年を云々って言っただろ。あれを聞いてな、思わず手が止まっちまった」
 Tさんは自分の手の平を眺める仕草をした。
「今まで数も忘れちまったくらい悪霊を滅してきたけどな、そんなこと考えたことあったかなあ」
 遠い何かを見つめるような表情のTさんに俺はどう言っていいのかわからなかった。
「それよりだ、お前はいいのか? 前世の記憶を持ったままなんて」
 Tさんは表情を変えて訊いてきた。
「消してやろうか? その記憶を」
「そんなことまでできるんですか?」
「ああ、しくじって必要な記憶まで消しちまうこともあるかもしれんが」
「じょ、冗談じゃないっすよ」
「冗談だ」
 Tさんはあっさりと言う。
「どうする?」
 Tさんは真っ直ぐ俺の目を見ていた。
 彼女を忘れる……? 確かにこの先の人生、背負っていくにはあまりにも重い。だけど……
「いえ、大丈夫です」
「――いいのか?」
 Tさんは少し間をおいて訊き返す。
「俺が忘れたら……忘れてしまったら彼女の想いは誰が受け止めてやるんですか」
 俺はきっぱりと言った。
「背負います、彼女の二百年を」
 彼女のことは忘れない。忘れたくない。
「そこまで惚れたか、いや、二百年前から惚れてたんだっけか」
 Tさんはやれやれ、というふうに首を振った。
「しかし、よく間に割って入れたな、怖くなかったのか?」
 Tさんは思い出したように言った。
 Tさんが彼女を浄化しようとした時、俺が間に入ったことか。今にもTさんの手からはあの青い閃光が放たれようとしていた。あれは引き金に指をかけられた銃口の前に身を投げ出すようなものだった。
「いえ、怖いとかそういうのはわからなかったです。ただ、夢中で……」
 彼女を守りたかった、それだけだ。
「男は惚れた女のためなら強くなれる、か」
 からかうような口調でTさんが言う。
「いや、そういう訳じゃ……」
 すこし赤くなりながら口ごもる俺を見て、Tさんはニヤニヤしながら言った。
「だがな、女は惚れた男のためなら菩薩にも鬼女にもなれるんだぜ」

 俺はふと思いついて訊いた。
「あ、そうだ。さっきの記憶を消すって話」
「なんだ、気が変わったか?」
「いえ、まさか今までの借金の記憶もチャラにしようと思ってたんじゃないでしょうね?」
 Tさんは可笑しそうに、
「阿呆かお前、そんなわけないだろ」
 そう言って笑った。だが俺は確かに聞いた。
「その手があったか……」
 と呟く悪魔の言葉を。
「頼みますよ、きっちり返してもらいますからね!」
 恐ろしい人だ、この人は。俺が慄然としていると、ばん、と思いっきり背中を叩かれた。
「何するんですか、痛いじゃないですか!」
 思わず、むせて咳き込みながら俺は抗議の声を上げた。
「みみっちいこと言うなよ、大店の若旦那なんだろ、お前」
 そう言うとTさんは豪快に笑った。

 寺生まれってやっぱりスゴイ。改めてそう思った。

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