憧れの1人暮らし隣人に恋(を)した(1/6)

2009/09/27 14:38 登録: 痛(。・_・。)風

プロローグ

去年の正月1通の年賀状が来た。
その年賀状には可愛い文字でこう書かれていた。

「明けましておめでとうございます。来年悟くんと結婚します。」

この年賀状の差出人は俺の元カノまりあだ。
まりあとの出会いは俺が憧れの1人暮らしを始めたころに遡る。
まりあは俺が住むマンションの隣人だった。

このスレは、俺が人生で初めて付き合ったまりあとのお話です。

チラ裏だが少しの間付き合って下さい。


-----------------------------------------------------------
第1章 おふくろとの別れ

3年前の春。超が付くほどの4流大学を卒業した俺は就職のために1人暮らしを始めた。
ずっと憧れていた1人暮らし。
物件選びのため不動産屋に行くのすらワクワクする。

何件かの不動産屋を廻り
やっと家賃と自分の希望に見合った部屋を見つけた。
間取りは1DKで居住空間は10帖。
まずまずの広さだ。
外観も内装も手入れを入れたばかりとかで小奇麗にできている。

部屋が決まったその週末には引越しで実家を出た。

苦労を掛けたおふくろとの別れ・・・。

中・高とグレた俺はおふくろにいつも心配を掛けていた。

中学で親父が他界。
それからはおふくろが女手一つで俺を育ててくれた。
そんなおふくろの苦労も知らずに、家の貧しさから俺はグレた。
学校や警察から呼び出しをくらうのは日常茶飯事。

その度におふくろは昼夜を問わず俺を迎えに来てくれた。
そして涙を浮かべながら、必死に頭を下げてくれた。

帰り道、おふくろと並んで歩く・・・。

そしておふくろはいつもこの台詞を言う。

「貧乏でごめんね・・・」

親父亡くしたのは中1

半年後には既にタバコ吸って

そこから高校までは結構悪質なグレ方をした

引越し業者が俺の荷物を積み込んでくれた。
俺も車に同乗させてもらうことにした。
玄関を出る時俺はおふくろに言った。

「じゃ行ってくるね!体に気をつけてね・・・」

おふくろは昔の様に目に涙をためて俺の手を握った。
そして「これを持って行きなさい」と言って茶封筒を握らせた。

おふくろに見送られて俺は車に乗り込んだ。

「今度この家に帰ってくるのはいつだろう?」自分の育った家を眺めてそう思った。

茶封筒の中身を見た。

そこには1枚のメモと10万円が入っていた。
貧しい母に苦しい捻出だったに違いない。
申し訳ない気持ちと有り難い気持ちが交錯する。

メモ書きを見た。そこには・・・。

「元気でいてくださいね。お野菜はちゃんと食べてくださいね。あなたはいつまでも
母さんの子供です。」と書いてあった。

引越し業者にバレずに、声を押し殺して泣くのは大変だった。


-----------------------------------------------------------------

第2章 まりあとの出会い

「二宮光輝」
俺は郵便受けと部屋のネームプレートに出来るだけ丁寧な字でそう書いた。

こういうことはキチンとしたい。
新しい暮らしを始めるにあたって、俺はそれを1番にすることに決めていた。

マンションの玄関に行って郵便受けにプレートを入れる。
そして部屋に戻ってプレートをはめる。

これでよし。新た人生の始まりだ!


引越し業者が運んでくれた荷物を丁寧に分ける。
これは今日1日で終わらないかもしれない・・・。

そう思いながらも地道に部屋作りに取り組む。
気が付くと夕方になっていた。
そうそう大事なことを忘れていた。

ご近所に挨拶をしなければ。

家を出る数日前。俺が引越しの荷造りをしているとおふくろが
「これをご近所さんにお渡ししてね」
と言って丁寧に包装された箱を2つ持ってきた。

中身はバスタオルと石鹸のセットだった。
俺は今どきご近所廻りなんてするかな?そう思いつつもそれを受け取った。

別にして損することでもないし、こういうことは「年の功」があるおふくろの
言う通りにしておこう。

荷物整理の手を止め両隣の部屋へ挨拶に向かう。
このフロアは4部屋。
俺の部屋は303号室。まずは301号室に行った。
2度ほどインターホンを押したが反応無し。

留守なのか・・・。

今度は隣の302号室へ。
インターホンを押してみる。しばらく待つ・・・ここも反応無し。
もう1度押して出て来なかったら日を改めよう

そう思った矢先。

インターホンのマイクから「ガチャ」っという音がした。
続けて「はい」という声。
若い女だなと分かる。

「今日隣に越してきた二宮です。引越しのご挨拶に伺いました」
女性は慌てた様子で
「すみません。すぐに出ます」と答える。
別に慌てなくていいのにな・・・。
そんなことを思いながらドアの前で待っていた。

1分程度待つとドアがガチャリと開いた。
なぜか半開き・・・。チェーンから覗いているのに気づく。
女性はこちらの顔を伺いながら「はい」と言った。

そうか。女性はこれくらい用心しなきゃいけないよな。
物騒な世の中だもん。
「向かいに越してきた二宮です。引越しのご挨拶です。これどうぞ」
俺は母親が用意してくれた箱を出した。

女性は一旦ドアを閉めチェーンを解除してドアを開いた。
「わざわざありがとうございます」
この時女性の全身が初めて見えた。
ドキッとした。可愛かった・・・。正直言って好みのタイプだった。

小さくて少し丸い顔。大きな目。髪は黒くてショート。
身長は小柄だがトレーナーでも分かるほどの巨乳。年齢は20歳前後だと思う。
俺は少し緊張した。

「これつまらない物ですが・・・・」改めて箱を彼女に差し出した。
「どうもすみません」女性は箱を受け取ってニコッと笑った。

やっぱり可愛い。
女性は

「私は引越しのご挨拶しなかったな。でもちゃんとするべきですよね」
意外にも話掛けてきた。

不意を突かれた会話に少し戸惑いながら
「僕も母親が持たせたものだから・・・」
そういって「これからも宜しくお願いします」で締めくくった。

女性と話すことは出来るが、好みのタイプと話すのは少し緊張する。
彼女は「なにか分からないことがあったら、気軽に聞いて下さいね」
そんな優しい言葉を掛けてくれた。

俺は失礼しますと言って302号室のドアを閉めた。
名前を聞くのを忘れていた。

改めて302号の表札を見た。
しかし名前は無かった。女の1人暮らしがバレないための用心なのか?

304号は空室のはずだ。物件案内の時に不動産屋がそう言っていた。
挨拶の必要はない。
部屋に戻ってって少しウキウキした。
あんな可愛い子がお隣さんだなんて。
でもあんまり慣れ慣れしくするのはよしておこう。

変態と思われても住みにくくなる。
廊下で会った時に挨拶する程度がいいな。

俺は挨拶廻りのあと少し部屋を片付け近所のスーパーへ買い物に行った。
初めての1人暮らしだ。
これからは自分で食事も作らなければいけない。
夕飯のメニューはカレーにした。
今はこんなものしか作れない。

でも料理初心者の俺は妙にワクワクしていた。

「美味いカレーを作ってやる!!」
子供の頃から料理番組を見るのは好きだった。
料理の知識も多少なりともあると思っていた。

人参・玉ねぎ・じゃがいも・牛肉・牛脂(無料)・牛乳・マッシュルーム・二段熟カレー(辛口)
を買って帰る。

部屋にキーを差し込むのがなんとも良い。
自分の部屋なんだぁ。ここは。
俺も大人の男になったもんだ・・・。

しみじみとそう感じた。


初めての料理は散々だった。
まず玉ねぎの切り方が分からなかった。
真ん中で半分に切ったまでは良かった。
その半分を繊維に沿って切るのか?はたまた逆か?
適当に切ってみた。目が痛く涙が出た。

それでもカレーなんて適当にやれば出来るだろ!?
甘かった。水の分量を間違えたのか
妙にバシャバシャの水カレーになってしまった。

ご飯も水が多すぎた。
カレーと合わさるとなんとも締まらない味の食い物になった。
それを1人で背中を丸めて食った。
TVはまだ付いていない。

1人の静かな食事・・・。
お袋の笑顔を思い出した。
少し寂しい気分が襲ってきた。

その時インターホンが鳴った。

妙に大きな音なのでビクッとする。
「お客さんだ!でも誰だ??」
なぜか焦ってドアまで行った。

ちゃんとドアホンも付いているのに・・・。

無防備にドアを開けた。
そこに立っていたのはオタクの男だった。

こいつも20歳くらいか?
ちょいピザで髪は妙にベタとしている。
肌も油ぎっていた。
でかいメガネを掛けているのだが、それが少し曇っている。
背も低い160cmあるかないか??

「誰だ?コイツは?」心の中でそう思った瞬間。

「301号の油田ですが・・・」
そいつはボソリとそう言った。

「ああ・・・」

そういえば買い物に出かける時に留守だった
301号のドアポストにメモ書きを入れたっけ。


「303号室に引っ越してきた二宮です。
改めてご挨拶に伺います」

大体こんな内容だった。

俺は「ちょっと待ってて下さい」と言って一旦部屋に入り
おふくろが用意してくれた
バスタオルと石鹸のセットを取ってきた。
それを油田に渡し「よろしくお願いします」と言った。

油田は「はぁ・・・どうも」と言ってそれを受け取り
301号へと戻っていった。

若い奴が多いな。このフロアは。
そんなことを考えながらまた不味いカレーを頬張っていた。

しばらくすると
ピンポーンとまたインターホンが鳴った。

「誰だよ!また油田か?」
面倒くさいなぁと思いつつ今度はドアホンで応答した。

受話器から若い女の声がした。
「新田です。」
新田?誰だ?
「隣の新田です」

隣のあの可愛い子だ!心臓がバクバクする。
あの子は新田という名前なんだ!
俺は慌てた様子を悟られないように「少し待って下さい」と言って
受話器を置いた。

あの子が一体なんの用なんだ?

色々考えつつドアを開けた。
新田さんはニコリと笑いながら
「これカレーです。引越し初日で大変でしょ?温めて食べて下さい」
そう言ってカレーが入ったビニールケースを手渡してきた。

俺は驚いた。
こんなご近所付き合いが本当にあるんだ・・・。
田舎の方ではありそうな話だが
人間関係が希薄になったといわれる現代社会において
ましてやこんな若い子がそんな文化を継承しているとは。

新田さんは「あの・・・。ご飯ありますか?」と聞いてきた。

俺はこれ以上迷惑を掛けてはいけないと思い。
「あります。大丈夫です」と答えた。

新田さんは「容器はドアの前に置いておいて下さい」と言うと
部屋へ戻っていった。
俺は早速そのカレーを食べた。
新田さんのカレーは美味しかった。
俺のカレーとは比べ物にならなかった。
適度にトロみもあった。

食後、俺は近所のコンビニで飲み物の買出しに出た。
そこで運命の再会をした。
この再会が俺の1人暮らしライフを一変させる。


--------------------------------------------------------
第3章 油田という男

コンビニに入る。
チラッと雑誌コーナーの前を通るとなにやら見覚えのある姿が。
立ち読みしているその男は・・・。

油田だった。

マイナーなエロマンガ雑誌を立ち読みしている様子だ。
俺はためらった。挨拶すべきか?
気づかぬフリでやり過ごすか?

でも後で油田に気づかれ
無視したと思われのもウザったい。

俺は油田に近づくと「こんばんわ」と声を掛けた。
油田はこっちを向くとメガネの奥に
キョトンとした瞳を泳がせ。
「ああ・・・どうも。こんばんわ」とボソリ・・・。

俺は「それじゃ」と言ってその場を離れた。
数本の飲み物を購入しレジに向かう。
すると俺の後ろに油田が並んだ。

こうなると無視できなくなる。
空気読んでもう少ししてから並べよ!心の中でそう呟く。

俺は仕方なく話しかけた
「油田君はあそこのマンションいつから?」
確実に年下だろう。タメ語でOKだ。

「大学入った時からだから・・・。1年くらいです」
ということは今が2回生。
20歳前後はまんざらハズレでもなさそうだ。

「あそこに住むのになにか注意する点あるかな?」
話すことが無いので無理やり話題を作る。
「う〜ん。そうですねぇ」
油田が答えようとした瞬間。

「次の方どうぞ!」レジのお姉さんに促された。
会話途中の中断。

これは会計が終わった後も油田を待つ流れなのか?
タイミングが悪いよ。

そう思いつつ会計をする。
油田はさっさと答えを言えばいいのに
律儀に俺の会計を待っている。

結局俺は油田を待つ事にした。

油田が会計を済ませると
どちらからともなく一緒に店を出て並んで歩いた。
マンションまで10分程度。
俺の頭は話題を探すのにグルグルと回転していた。

2人で歩きながら油田はボソッと
「あそこで注意する点は・・・ないですね」と言った。
ああ。そうなのね。もっと早く答えて欲しかったよ。

川沿いを歩く。
土手には桜が植えられていて、この時期は夜桜が綺麗だった。
俺は今後、幾度となく通るこの川沿いを歩きながら
この街に決めて良かったなぁ等と考えていた。

俺は隣を歩くオタクに話掛けた。
「ウチさぁ。まだテレビ付けて無いから暇なんだよねぇ」
俺はほんの世間話程度のフリだった。

しかしその瞬間油田のメガネの奥が一瞬キラリと光った。

「それじゃ・・・ウチに遊びに来ます?」

マジかよ!?そんな社交性あるの?このオタク。
「え・・・ああ。そうだね・・・」
ダメだ。不意を突かれすぎて上手い断り文句が出て来ない。

「マンガも結構ありますし、気に入ったのがあれば貸しますよ」
なおも油田はガンガン押してくる。

冷静な時なら「片付けが済んでないから」等の言い訳も思いついただろう。
しかしこの時の俺は
「じゃ・・・少しだけお邪魔しようかな?」と答えていた。

言った瞬間激しい後悔が押し寄せてきた。

「ゆっくりしていって下さいよぉ」

粘っこい口調でそういった油田は不気味な笑顔を浮かべていた。

俺と油田はマンションの入り口に到着した。
気が重い・・・。
2人でエレベーターを待ちながら考える。

なんでこんなことになったんだ?

どこにミスがあったんだ?

すると到着したエレベーターから女の子が降りてきた。

新田さんだ!

今は髪をゴムで束ねている。やっぱり可愛い。
両手にゴミ袋を持っていた。
そうか今日はゴミの日だ。

俺はカレーのお礼を言わねばと「さっきはどうも・・・」と言いかけた瞬間
意外な言葉を聞いた。

「やぁ!ゴミ出し?」
爽やかに新田さんに話掛けた人物。

油田だった。

俺はお礼の言葉を飲み込んだ。
このオタク・・・新田さんとやけに慣れ慣れしくないか?

「こんばんわー。ゴミ回収明日だよ。油田くんも今晩中に出したほうがいいよ」
新田さんも笑顔で返す。

えええーーーーーーっ!!!???

この2人はどうやら相当親しい様子だ。

普通ならお互い「こんばんわ」で終わりじゃないか?
しかも「油田くん」と読んでいる。
これは2人の新密度を如実に物語っていた。

俺と油田はエレベーターに乗り込んだ。
俺は新田さんに頭をペコリと下げる程度しか出来なかった。
隣のオタクは「ばいばーい」等とほざいていた。
新田さんも俺に頭を下げた後
油田に手を振って「またね」と言っている。

俺はエレベーターの壁にもたれ掛かり
オタクの後ろ姿を眺めながら
フリーズしていた。

エレベーターが3階に到着する。
すぐ前が油田の部屋だ。
油田がガチャガチャとカギを開ける。
この後この中でこの男と数分を共にするのか。

考えただけで気が滅入った。

油田の「どうぞ」という言葉に促され室内に入る。
俺は目を疑った。
こんな部屋が現実にあるのだ。

壁一面に張られたアニメポスター。
なにやらピンクの髪をした女が
短いセーラー服のスカートから太ももを出している。

またあるポスターは黄色い髪をツインテールに束ねた
女の子がピースをしている。

そんなポスターが壁一面に張られていた。

そうだ。油田は外見だけでなく
正真正銘のオタクだったのだ。

アニメといえばサザエさんくらいしか観ない俺には
1人として名前の分かるキャラクターはいない。

棚に目をやる。

例外になく美少女?のフィギアが所狭しと並んでいる。
本棚には同人誌?と思われる雑誌が丁寧に並んでいる。

借りたい本などこの中にあるワケが無い。

「その辺適当に座って下さい」
油田に促されてとりあえず腰を下ろした。
俺は小刻みに震えていたかもしれない。

中・高と散々ケンカをしてきた俺だが
この恐怖心はそれらとまた違ったものがあった。

なにをされるのだろう?
単純に湧いてくる恐怖心を拭い去ることが出来ない。

当の油田は、こんな部屋に住んでいるのに
俺に見られても恥ずかしい様子は全くないようだ。

その心理がまた新たな恐怖を生み出す。

「コーヒーでも入れてきますね」台所に消えていく油田。
コーヒーなど入れられた日には帰るに帰れない。

「あ・・・。どうぞお構いなく!」つい敬語になってしまう。

しかしそんな俺の言葉はお構いなしに
油田はカップを2つ持って出てきた。

「どうぞ」と言ってその1つを俺の前に置いた。
飲む気になれない。

何を盛られていても不思議はない。
話題が見つからない。
しかし油田はそんなこともお構いなしにコーヒーを啜っている。

そうだ!新田さんについて聞いてみよう。
なぜこのオタクが新田さんと親しげな関係なのか?
それはおおいに気になるところであった。

「そ・・・そうだ。油田くん。さっきすれ違った新田さん。
隣の部屋の。親しいの?」

油田は上目遣いに俺を見るとニヤリと不気味に笑い。

「ああ・・・。まりあちゃんですね。同じ学校なんですよ」

ま・・・まりあちゃん!!??

この小デブ。言うに事欠いて「まりあちゃん」だと!!

油田は続けて「そんなことより・・・」

そ・・・そんなことより・・・なんだ??

「こっち系は興味あります?」
そういって右手に持っていたのは
なにやら美少女?のアニメのDVDだった。

「いや。ごめん。全く無い」
俺は即座に答えた。
なにそれ?とでも言おうもんなら
どんな説明を受けるか容易に想像できる。

「二宮さんは・・・。そうでしょうね。フヒヒ」
フヒヒの意味がよく分からない。

そういうと油田は収納の奥をゴソゴソと探り
1つのダンボール箱を出してきた。

「これ貸しますよ。」そういってダンボール一杯に入った
「はじめの1歩」を俺に渡した。
「50巻くらいまでありますよ」
そんなことより新田さんの話は??

「返すのはいつでもいいんで」
そういって油田はニヤリと笑った。

これ以上ここにいても新田さんの話は聞けそうにない。
それならばサッサと本を借りて退散したほうが得策だ。

「ありがとう。それじゃ。お邪魔しました。」
俺はダンボールを抱えてそそくさと油田の部屋を後にした。

この日を境に俺と油田の距離が急速に接近していく。
しかし、この時の俺にそんなことを知る由も無かった。


--------------------------------------------------------------
第4章 社会という厳しさ

その日から2〜3日は新田さんにも油田にも会うことは無かった。
マンションにおいて隣近所の付き合いといえば
案外そんなものかもしれない。

生活パターンが違えば数ヶ月顔を合わせなくても不思議はない。
それだけに引越し初日。
油田の部屋まで行ったことが
非現実的なこととすら思えてきた。

その油田に本を返すのは憂鬱の種であった。

しかし油田のお陰でヒマ潰しが出来たのも事実であった。
借りた「はじめの一歩」は意外に楽しかった。
実は俺もボクシング経験者なのだ。

そうこうしているうちに入社の日を迎えた。
俺はこのために実家におふくろを残し
1人暮らしを始めたのだ。

その朝、俺はスーツを着てネクタイを締めた。
玄関を出るとき「おふくろ頑張ってくるね!」心の中でそう呟いた。

会社へは3駅。俺は少し早めに家を出た。
電車に揺られる。
俺はこれから毎日毎日通勤電車に乗って
年をとっていくのか・・・。
そう思うと無性に不安な気持ちになった。
おふくろの顔が浮かんでは消えた。

俺が就職したのは中堅の映像制作会社だった。
同期は7人いた。皆新卒入社だ。
最初の1時間は先輩による会社案内だった。

専門用語がバンバン出てくる。
同期の皆も全く理解出来ていない様子だ。
先輩は「そのうち分かる言葉だから今は考えなくていい」と言った。

簡単な会社案内が終わると新入社員はそれぞれの部署に配属された。
俺は制作1部という部署に配属された。
7人のうち俺と同じ制作系は4人いた。
あとの3人は技術系の部署だった。

俺は自分に割り当てられたデスクに腰を下ろした。
5分ほどデスクの引き出しなどを開けて時間を潰す。
しかし誰も何も声を掛けてこない。
なにをすればいいのだ?

妙に落ち着かない。不安な気持ちが襲ってくる。
みんなが俺の一挙手一投足を監視している気がする。
これが会社という場所なのか。

ふと同期に目をやる。
他の同期は先輩と話をしながら早くも仕事を始めている様子。
焦りが出てきた。

その時。

陰気臭いオッサンが「二宮くん・・・」と声を掛けてきた。
50過ぎの背の低い男。
スーツがクタクタで貧乏臭い印象だ。
しかし眼光は鋭い。
仕事が出来るといった感じの眼光ではない。
なんというか「人の気持ちを全て見透かしたような眼光」とでもいえばいいのか。
その男は赤松と名乗った。

俺の直属の上司になるという。
このオッサンの下で働かないといけないのか。
さらに気持ちは沈んだ。

赤松は俺を会議室に呼ぶと一冊のパンフレットを差し出してきた。
「このVPを創る。ロケは2週間後。ディレクターはフリーの志村という男だ。」
VPって何??
「詳しい話は志村から聞いてくれ。志村の指示通り動くように」
そういうと赤松は会議室から消えていった。

混乱した。
VPってなんだ?
フリーのディレクターってことはこの会社にいないのか?
志村という人物はどんな人間なのだ?
赤松に付いていけるか?
不安が波のように押し寄せる。

俺は自分の席に戻って赤松に貰ったパンフレットを見た。
そこには怪しげな機械を
太ももにあてがっている女性の写真があった。

ドライヤーの先端部分に丸い金属が付いているような機械だ。
美容器具らしい。
その金属を当てた部分はなんとスリムになるというのだ。
かなり怪しいぞ。

昼休憩の時間がきたので赤松の許可を貰い昼食に出た。
妙に開放された気分だ。
会社の1階で同期の女の子に出会った。
渡辺とかいう子だったと思う。

渡辺はなにやらオロオロしていた。
「どうしたの?」
俺が話掛けると渡辺はこっちを振り向いた。
目には涙を溜めている。
「昼ごはんを食べるところを・・・」
俺は昼食に渡辺を誘った。
彼女は短大を出た20歳だった。

彼女は女の子でありながら技術系の部署に配属された。
カメラや三脚。その他の荷物を担いで動くのは
男でも大変な部署だ。

俺は昼食を食べながら渡辺に聞いた。
「さっき泣きそうな顔をしてたよな?」

渡辺は不安気な表情を浮かべてこう話した。
「配属のあと先輩に機材の説明を受けたんだけど
全くなにがなんだか理解できなかった。
技術部は電気系統のことも理解しなきゃいけないし・・・。
やっていけるか不安で・・・」

みんな不安は同じなんだな。
俺の制作部も理解出来ない言葉は飛び交うが
技術部よりマシだろう。

ラーペ
フォーペ
NP1
トライ
プロミスト
ハツハツ

こんな意味不明な言葉を平気で使うのが技術部だ。
またこれらの言葉を理解しなければ技術部の資格はない。
初日に・・・矢継ぎ早にこんな専門用語を聞かされた
渡辺の不安は計り知れない。

しかしこの渡辺は数年後立派なカメラマンになる。
まだまだ男性社会が色濃くのこるこの業界で
男性には絶対的に劣る体力面をカバーし
渡辺はカメラマンになったのだ。
素晴らしい努力家といえる。

俺と渡辺は昼食をしまし会社に戻った。
渡辺の部署は1階だ。
エレベーターに乗り込む俺に不安げな表情を見せた渡辺。
俺も不安なんだよ。
心の中でそう呟いた。

昼食後、赤松に連れられ例の会議室へ。
そこには30歳前後の小太りの男がいた。
「志村です。君が二宮くん?」
気さくに話しかけてくる志村に好感を持った。

「僕も2年前はこの会社にいたんだ。
今回は僕のADについてくれるんだね。よろしく」
俺はホッとした。この人となら・・・この人なら
付いていけそうだ。

しかし世の中はそんな甘いものでは無かった。

赤松が「志村あとはヨロシク!」と言って会議室を出て行った。
さて、なにをお手伝いすればいいのだろう?
俺は志村に
「すみませんVPってなんでしょうか?」と尋ねた。

その瞬間、志村の顔色が変わった。

「VPぃぃぃ??そんなことも分からんのか君は?」

さっきまでの気さくな志村はどこにもいなかった。
何か汚いものでも見るような目つきで俺を見下ろし。
「ビデオパッケージ」とだけ言った。

そのビデオパッケージも意味不明だ。

俺は正直ビビった。

世の新入社員は皆こんな感じなのか?
だって新入社員だ。
全ての言葉が理解できるわけがない。
それとも俺が勉強不足なのか?

俺は急に志村に話掛けにくくなった。


それでも勇気を振り絞って声を掛ける。
「あの・・・志村さん。僕は何をすれば・・・」
完全にビビっていた。
どんな言葉が飛んでくるのか?
それが恐怖になっていた。

学生時代なら一瞬でボコボコにしていたような
小デブが社会で怖いのだ。

「これ。今回の台本。読んで」
ドサッと置かれたのはA4のコピー用紙をクリップで束ねたものだった。
これが台本というものか。

俺はそれに目を通した。
日本語なので理解は出来るが
本当の意味での、業界的な意味での理解はモチロン出来ない。

俺は一通り目を通してから
「読みました」と志村に声を掛けた。

「そう。それじゃ明日までに香盤表よろしく」と志村は言った。

香盤表・・・なにそれ??

志村は席を立つと
「んじゃ俺帰るから。お疲れ〜」と言葉を残し
部屋を出ようとした。

「ちょ・・・待って下さい」
俺は志村を引き止めた。
ここは曖昧に出来ない。
言葉の意味すら分からないものなんて
引き受けられるわけがない。

志村はまたあの視線を投げかけてきた。
そう。汚いものを見るようなあの目。
「香盤表ってなんですか?」

やれやれといった様子で志村は答えた。
「撮影の順番だよ。それをスタッフが見て
次はこれを撮影すのか。って確認する表だよ」
それだけ言い残して志村は部屋を出た。
フリーなのでいつ帰っても誰も文句を言わない。

志村の声が聞こえる。
「赤松さん。それじゃ〜また〜」
おいおい。マジかよ。
マジで帰ったのかよ?

俺は途方に暮れた。

実はいま考えても志村のこの行動は暴挙であった
香盤表というものは1つの撮影において
かなり重要なものである。

40人程度の全てのスタッフがそれを元に動く。
この香盤表が適当に作られたものだと
撮影終了時間が大幅にズレ込んでくる。

すると外部スタッフの費用や
スタジオ費用が大幅にUPしてしまうのだ。

かといってタイトにスケジュールを組んでも
あまりに無茶な香盤表だとスタッフに反感を買う。
ひどい場合には技術スタッフに殴られかねない。

香盤表を作成する作業は撮影を熟知し
なおかつ技術的に必要な時間まで理解しないと
到底作れるものではないのだ。

「志村を殴って会社を辞めてやろうか」
入社5時間程度で本気でそう考えた。
志村が帰っていなければ実行していたかもしれない。
あまりにも無茶苦茶だ。

それでも分からないなりに取り組んでみる。
しかしヒントの1つも無い状態では全く何もできない。
仕方無い。赤松に聞こう。
しかし赤松がいるべきデスクにその姿は無かった。

俺は焦った。あんな陰気臭いオッサンでも最後の拠り所なのだ。
ホワイトボードで確認する。

「赤松 A代理店打ち合わせ→直帰」

終わった・・・。
入社初日で完全な絶望感に襲われた。

俺はフラフラと社内を彷徨った。
どうすればいいのか全く分からない。
その時1人の男が声を掛けてきた。
「お前新入社員だろ?どうした?顔色が悪いぞ」

田畑さんである。
志村の1つ後輩にあたるこの人は
社内でも有名な変わり者だ。

タバコとコーヒーを愛しひたすら仕事をしている。
1度会社が停電になった時も
皆パニック状態の中で彼だけは
我関せずといった感じで台本を書き続けていた。
とにかく会社の人間と距離を置き
理想の演出のみを探求する人であった。

この当時、釣り番組をメインに担当していた彼は
のちに天才演出家として社内のエースディレクターとなる。

いま考えてみても、この時田畑さんが
俺に声を掛けてきたのは全くの気まぐれだったのだろう。

俺は目に涙を溜めていたかもしれない。
数時間前の渡辺の状態だ。

俺はとにかく嬉しかった。

荒野にポツンと1人置き去りにされた様な
状態でどうすることも出来ない俺。

そんな俺に声を掛けてくれた人物がいる。
例えそれが誰であれ救われた気持ちになった。

「お願いします。香盤表の書き方を教えて下さい。お願いします」
この時田畑さんがどんな人物ななんて知らない。

いまにして思えば天才演出家に香盤表の書き方を聞くなんて
恐れ多い行為であった。

しかし・・・しかし。俺はこの人を逃すとどんな状況になって
しまうのか想像すら出来なかった。

田畑さんは「香盤表?」と言って目を丸くした。

田畑さんは「ちょっと待ってろ」と言って自分のデスクに向かった。
そして一冊の台本を手に戻ってきた。
「その1番後ろのページが香盤表だ。参考にすればいい」

神様に見えた。
一筋の光明が見えた瞬間であった。

俺は「ありがとうございます。ありがとうございます。」と何度も
頭を下げた。

田畑さんは「じゃ」と言って自分のデスクに戻りかけた
そして「P(プロデューサー)は誰?」と聞いてきた。
俺は「赤松さんです」と答えた。
「D(ディレクター)は?」
「志村さんです。」

田畑さんは少し考える様な表情をして「・・・そうか」と言い残し去っていった。

それから俺は必死になって香盤表を作った。

この撮影時間はどれくらい掛かるのだ?
分からない。

休憩時間は入れたほうがいいのか?
分からない。

食事はやっぱり60分確保するべきなのか?
分からない。

全て分からないが田畑さんに貰った香盤表のお陰で
書き方は分かる。いまはそれでいい。

無茶苦茶な段取りでも知るかっ!
任せたほうが悪いのだ。
そう思いながら作業に没頭した。

しかし1日で全ての撮影を終える香盤表はなかなか出来ない。

時間はみるみる流れていった。
19時。20時。21時。まだまだ終わらない。

入社初日になにやってんだ?俺は。
時々そんな思いが去来してくる。
その度におふくろの顔が浮かんでくる。

おふくろは俺がこんな思いをしてるなんて
きっと知らないんだろうな。
知ったら悲しむかな?

切なさと戦いながらもやっと香盤表は完成した。
今にすればなかり滅茶苦茶な時間の割り振りだったと思う。

しかしその時の俺は空中を見上げながら「やっと帰れる・・・」
そう思うのが精一杯であった。


---------------------------------------------------------
第5章 まりあのカレー屋さん

入社初日はなんとか切り抜け自宅に帰った。
1人暮らしをしていて良かった。

もし実家通いで初日からこんな時間に帰ってきたら
おふくろが心配してしまう。

俺は飯も食わず風呂にだけ入って寝た。
布団の中で思った。テレビ・映像業界の厳しさは
噂どおりだったと。

2日目の出社。この日からは私服だ。
これはこの業界で数少ない良い部分であろう。

来社した志村にさっそく香盤表を見せた。
「この撮影がこんな短時間でできると思ってんの?
こんな無茶苦茶な香盤で撮影できるわけないじゃん。
やり直し」

あっさりと俺の作った香盤表は付き返された。
「志村いつか殺す!」
そう思いながらまた香盤表を作る。
志村を殺してやりたい!それしか仕事の原動力は無かった。

実際志村をボコる姿を想像してニヤニヤ笑うという
不気味な行動もあったと思う。

とにかく2日目は丸1日香盤表を作った。
志村の許可が下りない事には終わらないこの作業。

勉強ならば自分がやらなければ
テストの点数が悪いだけだ。
いつかは終わる。

しかし社会は上司がOKを出すまで終われない。
いや終わらない。

その日の18時とうとう香盤表は完成した。
10回以上作り直してやっと志村を納得させたのである。

もちろん「俺の最初の試練に良く耐えたな!これから二宮は
俺の立派なパートナーだ!」なんて言葉はない。

志村は「次これパソコンで清書してくれ」と言って台本を渡してきた。
この小ブタはワードを使えない。
台本は全て手書きなのだ。いい加減にしろや!

しかし俺はそれをやるしかないのだ。
嫌なら辞めるか、自らがディレクターになるしかない。

そんな毎日が続く中、ある日ポツンと暇な日が出来た。
赤松も志村もいない。
今日は早く帰れるチャンスだ。

俺は定時になるとササッと会社を飛び出した。
18時に会社の外にいる自分。
こんな早い時間に自由を手に入れた自分。

俺は酔いしれた。
そして電車に飛び乗った。

地元の駅に着くと空腹感に見舞われた。
そういえば入社以来まともに晩飯を食べていない。

俺は帰り道にある某有名カレーチェーンに入った。

メニューを見る。納豆フライドチキンカレーに決めた。
少しグロだと思うかもしれないが
俺はこれが大好きだ。

お決まりですか?女性定員が声を掛けてきた。
俺はメニューから顔を上げた瞬間「あっ・・・」と声を漏らした。

まりあだった。

まりあも驚いた表情で「あ・・・。二宮さん」と言った。

まりあはニコッと笑うと「お仕事帰りですか?」と聞いてきた。
俺は焦りながらも「はい・・・そうです」と答えるのがやっとであった。
それにしても。

カレー屋の制服も見事に似合う。

やっぱり可愛い。

俺は注文を済ますと油田のことを思い出した。
そういえばアイツにマンガ返してなかったな。

まりあが納豆・フライドチキンカレーを持って来た。
「ごゆっくりどうぞ」と微笑み掛けてくれた。
それで胸が一杯になった。

500gは多すぎた。

俺がカレーを食べていると「お疲れ様でしたー」という声が
カウンターから聞こえてきた。

なに?まりあの上がり時間なのか?
厨房の奥に消えていくまりあ。

俺は少しがっかりしつつもカレーを食べた。

すると突然前の席に人が座る気配を感じた。
カレーから顔を上げるとそこにはまりあがいた。

目をパチパチさせる俺を見てまりあは言った。
「いまバイト上がったんです。食事終わるまで待ってるんで
一緒に帰りませんか?」

俺は最初言葉の意味が理解出来なかった。

誰と誰が一緒に帰るって??

俺とまりあか!!??

「うん。すぐ終わるから」そう言って俺は必死にカレーをかっ込んだ。

まりあは笑いながら「ゆっくりでいいですよ。本当に」と言ってくれた。
笑顔が本当に可愛い。
しかし会話が必要だ。
俺は油田から仕入れた情報を元に話掛けた。

「大学生なんだよね。ここはバイト?」
当たり前のことを聞く。
「そうなんですよ。週3日か4日入ってるんです。カレーが好きなんです」

バカみたいな理由だ。しかしバイト選びなんてそんなもんか。

「そういえば俺の引越し初日はカレーありがとう。美味しかったです」

容器はまりあの玄関に置いておいたがお礼はちゃんと言えていなかった。

「油田くんとは友達?」これも気になる。
もしかして彼氏ってことは無いよな?

「そうなんですよ。
彼とは授業が一緒で
そのうち同じマンションって気づいたんですよ。
それからは学校で会っても話する仲になりました。」

なるほど。特別親しい間柄ではなさそうだ。
まりあちゃんと呼ぶ程の仲でもない気がした。

後に分かったことだが油田は
少し知り合いになった
女の子に慣れ慣れしくすることで
自分を大きく見せる癖があった。

俺はカレーを食べ終えるとまりあと一緒に店をでた。
並んで歩く。
マンションまで10分程度の距離。

ついこの前、油田と並んで歩いた時とは大違いだ。

幸せだった。

しかしあっという間にマンションに到着してしまった。

「それじゃまた!」と言って各々自分の部屋へ入る。

俺は幸せの余韻に浸っていた。
これからもっと仲良くなれるかも・・・。

しかし俺の幸せは長く続かなかった。
鞄の中でマナーモードに設定していた携帯。

その携帯に24回もの着信があったこと。
その着信の主が志村であったこと。

この時の俺は自分の置かれた状況に
まだ気づいていなかった。



-------------------------------------------------
第6章 地獄

俺は部屋に帰った後ご機嫌でシャワーを浴びた。
シャワーから出ると冷蔵庫から缶ビールを出して
一気に飲み干した。

うまい!

TVのスイッチを入れた2本目の缶ビールを開ける。

俺は先ほどのまりあとの出来事を回想していた。
表情が勝手にほころんでくる。
頭の中はまりあの笑顔で一杯だった。

何気なく鞄の中の携帯を取り出す。充電しなければ。

携帯がピカピカ光っていた。着信か?
携帯を開いた俺は目を疑った。

「着信24件」

誰だ?24件もの着信なんて。
履歴を見る。一気に背筋が凍りついた。

志村 志村 志村 志村 志村・・・・・

全てが志村からの着信だった。

ドクン・・・。心臓の高鳴りが分かった。

酔いは一気に吹っ飛んでいた。
まりあの笑顔も消えていた。
まさか・・・仕事でなにかあったのか?

俺は震える手で志村に電話した。
怖かった。
これから聞かされる事実は一体どの様なものなのだ?

想像すらつかない。

着信音がなる。1回・・・2回・・・。

ガチャ。

ドキッ・・・。繋がった・・・。

いきなり志村の怒鳴り声が飛び込んできた。
「貴様!いまどこだ!?」

俺は驚いた。志村がまさかこんな声を出すとは。
今まで散々なことを言われたが、それは嫌味を含んだ
ねちっこい言い方だった。

その志村が怒鳴っている。
余程の事体ということは容易に想像できる。

「すみません。自宅ですが・・・」
もう既に謝っている俺がいた。

「お前台本はどうしたっ!!俺がお前に清書を頼んだ台本だ!」

「それでしたら清書の後に志村さんにFAXしていますが・・・」

「バカヤロー!そんな事じゃねーよ。今日代理店に持って行く日だろが!
清書したデータをよ!」

俺は目の前が真っ暗になった。
そうだ・・・。今日は清書した台本をROMに焼いて代理店に提出する日だった。
完全に忘れていた。

「テメーのお陰でフリーの俺に電話がジャンジャン入ってんだよ。
いくらお前に電話しても繋がんねーし。
代理店誤魔化しきれないんだよ!」

もはや志村の怒鳴り声よりも、数段上の恐怖が俺に襲いかかっていた。
時計を見る。22時・・・30分・・・。血の気が引いた。

俺はとにかく志村に言った「すみません。今すぐ代理店に行きます。切ります」

俺は部屋を飛び出した。
手が震えていてキーがドアに入らない。

カギはもういい。とにかく急がなくては!


俺は駅まで全力で走った。汗がダラダラ流れる。
しかし関係ない。

駅に着く。
この時既に23時前。電車はまだ十分にある。
しかし・・・しかし・・・。

ここで俺の失態がどんなものか説明しておこう。
通常1本のVP(企業の説明や、商品の紹介ビデオと思ってもらってよい)は

スポンサー→広告代理店→制作会社の流れで発注される。

我々制作会社の人間はスポンサーに会うことは滅多にない。
せいぜい撮影日か完成試写で顔を会わす程度だ。

スポンサーフォローは全て広告代理店の業務だ。
そしてスポンサーの意向を俺たち制作会社に伝えるのが
広告代理店の仕事だ。

つまり。俺たち制作会社は代理店から仕事を貰っている。
それは今までの実績や信用で仕事が貰えるのだ。

そして今日・・・。

俺は18時に代理店へ台本を持って行く約束をしていた。
代理店は19時にスポンサーへ台本を持っていく。

・・・と言っていた気がする。

それを思い出した俺は更なる恐怖に襲われた。

ドクン・・・。また心臓が高鳴った。

それは正に言葉で表現仕切れるものではない。
今までに味わったことの無い恐怖としか言いようがない。

今日の19時に一体どんなことが起きていたのであろう。
スポンサーはもちろん怒り狂っただろう。
中小クラスの企業にとって新製品のVPは正に社運を掛けている。

社長クラスが打ち合わせに来ていたかも知れない。
少なくとも幹部クラスは確実に全員集合だ。

そこに代理店の人間が行って
「すみません。台本が入手できていません」と言うのか・・・。
代理店の苦痛を想像すると死にたくなる。

そして・・・。
やがてその代理店の苦痛は怒りに変わり
制作会社に向けられる。

この仕事が飛ぶことすらあるかもしれない。
万一それを免れたとしても、その代理店からウチに仕事が来ることは
二度とないだろう。

もはや俺のような新人が想像できる範囲の事態ではない。
いま乗っている電車から飛び降りて死にたい。

早く着いてくれよ!頼むから!

電車のスピードが異常にもどかしい。
たった3つの駅がこれほど遠いと感じたことは無い。

駅に到着した俺は改札へダッシュした。
自動改札へ定期を入れる時間ももったいない。

俺は駅員の窓口を駆け抜けた。
仮に駅員が何か言ってきても止まる気は無い。

俺は会社に飛び込んだ。
もう誰もいなかった。

俺は壁の電気を乱暴に付けると自分のデスクへ走っていった。
引き出しを引っかき回して目的のCD−DOMを持って
会社を飛び出した。

時計を見る23時30分前。
常識的に考えてもう無理だ。
絶対確実に無理だ。

万一代理店の人間がいたら、怒り狂っているはずだ。
どうやって謝ればいいのだ?

肺が痛い。
電車を降りてからずっと走りっぱなしだ。

ウチの会社から代理店までは走って5分の場所だ。

代理店の入っているビルに到着した。

上を見上げる。
代理店の入っているはずのフロアの電気は消えている。
玄関のドアを開けようとしたが開かない。
ビル全体がロックされていた。

俺は財布をあさった。
確か代理店の人間に貰った名刺があるはず。

見つけた。俺は急いで代理店に電話を掛けた。

真っ暗なフロアを見上げながら・・・。

何度も何度も掛け直したが、とうとう電話は繋がらなかった。

筆舌にし難い感情が全身を襲う。
俺はその場に跪いた。
目には涙が浮かんだ。

明日が見えなかった。

------------------------------------------------------
第7章 運命の歯車

俺は真っ暗なオフィスで自分の席に座っていた。
全て終わったな・・・。

恐らくクビであろう。

俺は今回の失敗の損害を考えた。
万一この仕事が飛でしまった場合

会社の損害は甚大なものである。
今までの人件費に加え
もしかすると代理店に損害賠償を支払わなければならないかも。

志村の台本もゴミになり
赤松も会社の信用を失うだろう。

技術スタッフにしてもそうだ。
撮影をする上での
今までの準備や打ち合わせは全て無駄なる。

ライティングに関しては外注スタッフだ。
スケジュールを押さえてしまった以上
ギャラは発生する。

後はスタジオのキャンセル費。衣装代。
そうそうメイクさんもギャラは発生するな。

あの代理店は二度とあの美容器具の会社から仕事を取れないかも。
代理店の人だって自社で激しい吊るし上げを食らうに違いない。

絶望だ。

「死んでしまおうかな?」自然とそんな言葉が出てしまう。

俺は呆然と空中を見ながら思った。

「おふくろの声が・・・聞きたいな」

気が付くと俺は携帯で実家に電話をしていた。
こんな時間だもんな。
おふくろ寝ているよね?

しかし意外にも電話は2コールほどですぐに繋がった。

「はい。二宮です」

2週間ぶりに聞くおふくろの声は妙に優しく
そして懐かしくさえ思えた。

「俺・・・だけど・・・」
震える声を絞り出してやっとそう切り出した。

「光輝かい?どうしたんだい?こんな夜中に」
おふくろは明らかに動揺していた。

そりゃそうであろう。こんな時間に暗い声をした
息子から電話があれば誰だって動揺する。

「もしもし?もしもし?」
おふくろの声を聞いて泣きそうになる。
鼻の付け根の辺りがツンとして痛い。

「おふくろ・・・ごめんね・・・」
やっと出た言葉がそれだった。

バカでアホな息子でごめんね。

一生懸命育ててくれたのに
単純作業も出来ない息子になっちゃってごめんね。

人様に迷惑を掛ける息子になってごめんね。

自慢の息子になれなくてごめんね。

俺はとうとう泣き声になってしまった。

おふくろは言った
「どうしたんだい?話してくれなきゃわからないよ」

俺は泣きながら母親に伝えた。
入社たった2週間程度で
会社に多大な損害を与えてしまったことを。

俺の話を全て聞き終えたおふくろは
ゆっくりと言った。

「そんなことかい?だったら会社を辞めて
また母さんと2人で暮らせばいいじゃないか。
母さんの家に戻ってくればいいじゃないか」

俺は小学校の時以来、口にしていなかった言葉を言った。

「おかあちゃん・・・・」

俺はふと中学生の時の出来事を思い出していた。
親父が亡くなったばかりで
家計が急に切迫された状態になった。

必死でパートに出ていたおふくろの苦労も知らず
俺は夜遊びを覚えた。

そして迎えた俺の誕生日。
ケーキを買う余裕なんてなかったのかもしれない。
深夜帰宅するといかにも不味そうなケーキがテーブルに置いてあった。

おふくろの手作りだった。

おふくろはケーキなど作ったことは無かったのであろう。
クリームはグチャグチャで
上に乗っていた苺は不揃いに並んでいた。

それでもおふくろは言った。
優しそうな笑顔で

「光輝お誕生日おめでとう。ケーキ食べな」

当時の俺は想像を絶するバカだった。
「こんな不味そうなケーキ食えるか!」
そう言ってケーキを壁に投げつけた。

俺も当時ガキだった。
親父がいた時はちゃんとしたケーキが食えたのに。
なんでこんなケーキになったんだよ!

理解はしようとするものの
家庭の経済的変化は感情が受け付けなかったのである。

おふくろは床に散らかったケーキを片付けながら
涙声で言った。

「貧乏でごめんね・・・」

電話口でおふくろの声が聞こえる。

「光輝はなにがあっても母さんの息子だよ」

俺は涙を必死で堪えた。
そして言った。

「ごめん。ごめん。本当はそんなに大したミスじゃないんだ
ちょっと弱気になっただけ。だから心配いらないよ」

そして電話を切った。
これ以上おふくろの声を聞いていたら
また泣いてしまうよ。

それから俺は朝まで自分のデスクでボーッと過ごした。
朝8時。
次々と社員が出社してくる。
この業界で8時に出社してくる人間は大概がロケだ。
事態を知らない人は気軽に俺に声を掛けてくる。

「おお。二宮!早いじゃん。おはよう!」
そして準備を終えると次々にロケへ出動して行った。

誰の顔もロケに対する意気込みが伺え
俺は置いてけぼりをくらったような
惨めさを感じた。

そんな時、女の声が聞こえた。
「二宮くん。早いね〜。」
渡辺だった。

通常は制作部のフロアに上がってくることは無い
彼女だったが何かしら用事でもあったのだろう。

「二宮くんもロケ?」事情を知らない渡辺の声は明るい。
「いや・・・」正直答えるのも面倒だった。

「ちょっとミスってさ。泊まり明け」
渡辺が不安気な表情で俺の顔を見る。

「ミスって・・・。どんなミス」
「取り返しのつかないミス」

更に深く追求してこようとする渡辺から
「もう行かないと怒られるよ」と言って俺はトイレへと逃げた。

9時にもなるとそろそろ社内に活気が出てくる。
皆はまだ俺のミスを知らない様子だ。

いや。知っていてあえて無視していているのか?
余計な事まで考えてしまう。

そんな時、フロアの入り口から赤松が見えた。
眉間にシワを寄せ妙に早足で自分のデスクに向かう。

俺は席を立って赤松の元へ駆け寄った。
「赤松さんすみません。俺・・・俺・・・・」
赤松はそんな俺の言葉を遮るように
「志村に聞いた」とだけ言って電話の受話器を上げた。

電話の相手は例の代理店だった。
「この度は誠に・・・。はいはい。すぐに伺います」
俺は赤松の横に立ち胸が締め付けられる思いだった。

しかし俺には何も出来ない。
無力な新入社員なのだ。
電話を切った赤松は俺に
「ROM。原稿の入ったROM」と言った。

俺は自分の席に走っていきCD−ROMを取ってきた。
それを赤松に渡した。
「お前は会社で待っていろ」そういうと赤松はまた早足に
会社を出て行く。

俺と赤松のやり取りに気づいた社員が
事態に気づき始めた様子だ。

「何かあったのか?」

耳を澄ませばそんな声が聞こえてきそうだった。

俺はまた自分のデスクに戻って赤松の帰りを待った。
針のむしろとはこういう状態なのだろう。
事態に気づき始めた社員の視線が痛い。

1時間ほどして赤松が帰ってきた。
どうなったんだ?代理店はどんな反応を見せたのだ?

「赤松さん・・・」近づく俺を無視して
赤松は数人のプロデューサーを集め、会議室に入っていった。
当然俺が入って行ける空気ではなかった。

30分ほどでプロデューサー連中が
会議室から出てきた。

俺は赤松の元に駆け寄った。
「どうだったんですか?代理店は怒っていますか?」

赤松はあからさまに不機嫌な表情で
「まだ分からん」とだけ言った。

そして「二宮。お前は自宅に帰れ。連絡が来るまで出社せんでいい」
俺は腰が崩れるような感覚に襲われた。

撮影まであと3日。今から他のADを立てるのか?
俺は完全にこの仕事から外されたのだ。

入社して初仕事での大失態。
呆然とするしかなかった。

赤松に必要書類を渡して俺はトボトボと会社を出た。
その瞬間だった。
ちょうど来社した志村に出くわした。

いま1番会いたくない人物だった。
しかし謝らないわけにはいかない。

「すいませんでした。志村さん」

精一杯の言葉がそれだった。
しかし志村は例の目線。

そうあの汚いものを見るような目で
俺を一瞥して社内へと消えていった。

呆れてものも言えないのか?
それとも話する価値すらないと思われたのだろうか?

どっちにしろ俺はショックだった。

自宅のある駅まで電車に揺られる。
なぜこんな時間に家に帰るってるんだろ?俺。

消えてしまいたいな・・・。

志村のあの目を思い出す度にそう思った。

マンションの近くで油田に会った。
「あれ?どうしたんですか?こんな時間に」
油田は午前中に帰ってきた俺を不思議に思ったのであろう。

「いや。ちょっとね」
コイツに事情を説明したところで何にもならない。
「そうそう。マンガありがとうね。今度返しにいくよ」

油田は少し心配気な表情で
「それはいつでもいいですけど。顔色悪いですよ」

エレベーターで3階のフロアへ到着した。
その時ちょうど302号のドアが開いて
まりあが出てきた。

会いたく無い時に限ってやたらと人に会うもんだ。
そうか。2人共大学へいくのか。

「おはようございます。あれ顔色悪いですよ?」
まりあも俺の顔を覗き込んできた。

余程血の気の失せた表情をしていたのだろう。

「うん。ちょっとね。風邪気味みたいだから早退」
そういって無理に笑顔を作った。

さすがにまりあに対してだけは
情けない姿を見せれなかった。

「え・・・。大変じゃないですか?」
心配してくれるまりあ。

しかし今は1人なって寝たいんだ。
「大丈夫だから。マジで」

そういって俺は自分の部屋へと消えた。
とにかく眠ろう。
眠ってなにもかも忘れたいんだ・・・。

俺はその日夕方まで眠った。
しかし熟睡は出来なかった。

今現在、会社で起こっているであろう騒ぎを想像すると
夢にまで出てくる。

携帯を見てホッとする。
どこからも着信は無かった。

風呂に入ることも食事をすることも全てが面倒だった。
ただ布団の中で目を瞑っていた。

夜の8時ごろだった。
ピンポーンとやたらと大音量のインターホンが鳴った。

俺は布団のビクッとなった。
頭の中には「もしや会社の人間!?」それが真っ先に浮かんだ。
もはや鬱病状態だった。

恐る恐るインターホンの受話器を取った。
「はい・・・」
すると意外な人物の声だった。

「どうも油田です」
なぜ油田が?

しかし会社関係ではないことに安堵した。
ドアを開けると油田はダンボール箱を抱えていた。

中には「YAWARA」がびっしりと詰まっている。

「今日学校でまりあちゃんに聞いたんですけど
二宮さん風邪だって。
だから暇持て余しているかなって。
これ良かったら読んで下さい。」

俺は油田の心遣いが嬉しかった。

ご近所付き合いっていいな。
心底そう思った。

「ありがとうね。油田くん。助かるわ」
笑顔でそう言って俺は「YAWARA」を受け取った。

ついでに読破した「はじめの一歩」を油田に返した。
「もし具合が悪くなったらいつでも言って下さい」
そういって油田は自室へと帰っていった。

俺は思った。

油田はオタクの趣味が合わないけどいい奴だな。

俺はまた布団に潜り込んで「YAWARA」を読み始めた。
昔に読んだマンガであった。妙に懐かしい。

普段は乱暴だが、心の奥底で柔を愛するおじいちゃんは
俺の心を和ませてくれた。

そしてマンガに夢中になることで俺は仕事のことを
忘れようとしていた。

次の日俺は昼過ぎに目を覚ました。

すぐさま携帯を確認してホッとする。
どこからも着信は無かった。

携帯はマナーモードにしておいた。
今の俺の状況では着信音でも心臓が止まりかねない。

俺はふと親友の顔を思い出した。

俺には親友と呼べる友達が1人だけいる。
小学生の時からの幼馴染だ。

こいつだけはいつも俺のことを親身になって
考えてくれた。

俺がグレた時も色メガネで見ることは無く
普通に接してくれた。

俺は親友に電話をした。
久しぶりに声が聞きたくなったのだ。

「やほー!元気?」
受話器越しから聞こえてくる声。
相変わらずだな。
俺が電話したっていうのに。

「おー。元気だよー。そっちは相変わらず?」

「相変わらずさ。フリーターしながら全国を旅してます。」

こいつは高校卒業後フリーターとなり
暇を見つけては日本全国を旅している。

人生気ままが1番。これが奴の口癖だ。

「どうだい?リーマン生活は?」
俺はその辺りを適当に濁した。

「平日の昼に電話してくるなんて映像業界も案外ヒマですね〜」
「バーカ。代休だよ。代休」
「代休ならおふくろさんの所帰ってやれっての!」
「まぁその内ね」

俺達は他愛の無い話で盛り上がった。
嬉しかった。心が和んだ。

こんな親友を持てて幸せだと感じた。

「あ・・・俺そろそろバイト行くわ。」

「そか。また電話するよ。バイト頑張れよ!悟」

俺達は再会を約束して電話を切った。


俺はカップラーメンの簡単な食事を済ませて
また布団に潜り込んだ。

油田に借りたYAWARAの続きを読む。

夕方5時。ピンポーンとインターホンが鳴った。
またもやビクッとする。
少し音量を下げれないものか?
今度調べてみよう。

「こんばんわ。具合どうですか?」
声の主は油田だった。

「ちょっと待ってね。玄関開けるよ」
油田は心配そうに俺の顔を見る。

「少し顔色良くなりましたね」
「おかげさまで」

「それでですね・・・。もし良かったら今夜
まりあちゃんの部屋ですき焼きパーティーしませんか?」

えええええ!!!マジかよ!!??デブ!!!???

「え・・・。なんで?」
俺はドキドキしながら聞いてみた。

「今日も学校でまりあちゃんと会ったんですけど
二宮さん風邪だし、すき焼きでも食べて元気になってもらおうって」

「ありがとう。行くわ。マジでありがとう」
俺は油田に握手しそうな勢いだった。

「それじゃ6時30分。まりあちゃんの部屋で」
そういって油田は部屋のドアを閉めかけた。

そして・・・。ニヤリと笑ってこう言った。
「僕も初めてなんですよ。彼女の部屋は」

万一部屋で変態行為に及んだら
殴ってやろうと思った。

鏡を見てみる。ヒゲも伸び放題。
髪もボサボサだ。
これではダメだ。

俺は急いで風呂に入った。


小綺麗に身支度を整えていざ302号室へ。
6時30分丁度だった。

まりあの部屋のインターホンを押す。
なぜかドキドキする。

すぐに「はーい」というまりあの声が聞こえた。
「えと。二宮です」
「ちょっと待って下さいね〜」

すぐにガチャリとドアが開いた。
髪の毛を束ね
なんと・・・なんとエプロン姿のまりあが登場した。
可愛すぎるとはこのことであろう。

「ようこそ!中へご案内します」
少しふざけた態度もまた可愛い。

玄関を入るといかにも女の子といった感じの
小物が並べられている。
俺の部屋とは大違いだ。

それになんかいい香りがする。
女の子の部屋の香りだ。

俺はその幸せの香りを肺一杯に吸い込んでいた。

リビングに入った瞬間。
急に部屋の臭いが変わった。

鼻とツンと刺激する酸っぱい臭いとでもいおうか・・・。

「やぁ。どうもどうも」
油田が右手を上げていた。

貴様・・・。約束は6時30分だろうが!

しかしこの刺激臭は以前どこかで・・・・。

そうだ!油田の部屋だ。
油田は異常に足が臭かったことを
思い出した!

「油田くんに横にどうぞ!」
まりあが促してくれる。
とりあえず腰を下ろす。

しかし・・・。なぜか妙に腹立たしいシチュエーションだ。
これだと俺が「油田・まりあカップル」の部屋に
お呼ばれされた状況ではないか。

このオタクめ!もうビールまで飲んでやがる。

まりあは俺にも缶ビールを持ってきてくれた。
「材料もう少しで切り終わるんで、それでも飲んでいて下さいね」
そして笑顔。

いちいち可愛い。

隣に目をやる。油田が「まぁまぁ。おひとつ」と言いながら
俺のグラスにビールを注いでいる。

そして「かんぱ〜い」と言ってグラスを高々と掲げた。

待て。まりあがまだいないだろ!バカ!
勝手に始めてんじゃねーよ。

はぁ。コイツさえいなければ・・・。

まりあがすき焼きの材料をテーブルに並べて宴は開始した。

俺はまりあにビールを注いであげた。
「私はまだ19なので。少しで」
意外とマジメなんですね。

俺なんて13歳から飲んでいた。
乾杯の後はまりあがすき焼きを始めた。
油田は鍋奉行なのか

「まりあちゃん。野菜はまだだよ」等と
どうでもいいことをほざいている。

俺は久しぶりのすき焼きに少しワクワクしていた。
ウチは貧しかったので、たまのすき焼きも豚肉だったのである。

牛肉のすき焼きは美味かった。
お酒も進む。なんだかんだといいつつ
まりあも結構酒は強そうだった。

酔いが進むにつれてまりあが饒舌になってきた。
「私初めて油田くん見たとき、オタクかな?って思ったー。あはは」
まりあも言いにくいことを平気で言う。

しかし外れてはいない。油田は正真正銘のオタクである。

「それは酷いですよ。まりあちゃん」
酷くねーだろ!
あの部屋がオタクの部屋でなくて一体なんなんだよ?

俺はまりあに「新田さんは誕生日いつなの?」と聞いた。

まりあは酒で頬を赤くしながら
「まりあでいいですよ。二宮さん年上なんだし」
確かにそう言った。

オタクのメガネがキラリと光ったのを見逃さなかった。
あの光は嫉妬の光だ。

チャンス!既成事実を作ってしまえ。
「そうなの。まりあは誕生日いつなの?」
「8月です。15日。終戦記念日です」

悔しそうなオタク。奥歯を噛み締めているのが分かる。
ザマーミロってんだ。

「二宮さんの部屋って私の所と間取り同じなんですか?」
まりあが聞いてきた。

「俺も光輝でいいよ!」すかざすアピール。
「それじゃ。光輝くんの部屋は間取り同じなの?」

よし!タメ語にまで変形したぞ。

光輝くん>油田くん

立場は逆転したぜ。どうだ油田!?
ビールを飲み干す油田。
逆転のチャンスを伺っている様子だ。

俺は畳み込みに入った。
「今度部屋見にくる?」
まりあは
「えー。いいんですか?明日バイト休みなんで、明日でいいですか?」

よし!9割方勝利したぜ。
しかし油田もこのまま引き下がる相手ではなかった。

「僕も伺いましょう。二宮さんの所」

ナニ!!意外としぶといではないか。
「桃鉄持っていきますよ。3人で遊びましょう」

そういって油田は不適な笑みを
俺に投げかけてきたのだ。

時計を見る。もう23時か。
女の子の部屋だしそろそろ退散しなければ。
俺は油田に言った。
「そろそろ帰ろうか?」
「そうですね・・・。今日のところは」
油田もこのままでは戦況不利と読んだのだろう。
仕切り直しをする構えである。

俺と油田はまりあにお礼を言って部屋を出ようとした。
「ところで光輝くん。風邪の具合どう?」
まりあが聞いてきた。

ドキッっとした。
なぜなら仮病だからだ。
「うん。なんか大丈夫そう」

「それならいいけど・・・。明日仕事だよね?お邪魔していいの?」
2回目のドキッ。
「うん。この際ゆっくりしろって。上司が言ってくれたんだ」
「そうか。それじゃ安心だね。」

油田が口を挟む
「いいんですよ。いいんですよ。二宮さんはお偉いさんなんでぇ」
黙れ!オタク!つまらん親父ギャグを言うな。

まりあは玄関まで見送ってくれた。
「それじゃ光輝くん。明日7時にお邪魔するね」
もう朝の7時でもいいですよ。

「それじゃ二宮さん。僕は6時にお邪魔しますね」
え・・・?なんで・・・?

そんな感じで各々が自室へと戻って行った。
本当に楽しい夜だった。

だが俺は自分の立場を決して忘れてはいない。
俺はケアレスミスで会社に多大な迷惑をかけた。
それはどうやっても逃げられない社会的責任であった。

次の日も俺は昼過ぎに目覚めた。
やっぱり熟睡は出来ていない。
目を瞑ると赤松の顔や、志村の冷めた目線がどうやっても浮かんでくる。

俺はコンビニ出掛けた。
今夜はまりあと油田が遊びに来る。
飲み物を購入する。
食事は色々考えた結果ピザを注文することにした。

とてもじゃないが俺の料理はご馳走できない。

6時15分油田が来た。
コイツ。俺の招待(してないけど)は遅れやがって。
油田は
「やぁ。どうも。どうも。」といいながら
大事そうにPS2と桃鉄を抱え上がり込んできた。

俺のTVにPS2をセットしたところでビールを出してやった。
しばし油田と雑談。

7時丁度にまりあがやってきた。
今日もやっぱり可愛い。
「おじゃましまーす」

やっぱり女の子はちゃんと挨拶が出来るね。うんうん。
「こんばんわ油田くん」
「やぁ。どうも。どうも。」
油田の挨拶はいつも同じだ。

「へぇー。ウチとは左右対称の作りなんだ。なるほどー」
そういってまりあは室内を見物する。

「ウチとは全く同じ作りなので、自分の部屋にいるような感じがしますなぁ」
と油田。
作りは一緒でも中身は全然違うだろが!

「綺麗に片付いているね」まりあにそう言われた。
片付いているというより、物が少ないだけであるが。

早速ピザを注文して皆で食べた。
実はすごく楽しかった。
俺はおふくろと2人の食事だったので

学生と3人との食事はなんだか新鮮な感じがした。
食事の後は皆で油田の桃鉄をやった。

ジャンケンの結果、油田とまりあが同じコントローラーになった。
俺は油田の手汗が心配であった。
そんな俺の思いもお構いなしに
まりあはゲームに熱中していた。

そんな横顔を見ていると
まりあはまだまだ子供なのだなと感じてしまう。

この時、俺の気持ちは既に固まっていた。

俺はまりあを好きになってしまったんだ。

俺はまりあとずっと一緒にいたい。
ずっと大切にしたいんだ。胸が熱くなってくる。

「まりあちゃんの握ったコントローラー。少し生温かいですね」
油田だった。


------------------------------------------
第8章 会社復帰

結局その日の桃鉄は明け方までとなった。
徹桃というやつだ。

それ以降油田はヒマがあれば俺の部屋へ遊びに来る仲となった。
しかし俺が油田の部屋へ行くことはあまり無かった。
理由は臭いからである。

しかしなんだかんだ言っても油田もイイ奴には変わりない。
マンガも沢山貸してくれた。

それとは裏腹に俺には大きな不安があった。

そうだ。あれから1週間。会社からの連絡が一切来ていないのだ。
あれ程恐れていた会社からの電話なのに
来ないなら来ないで不安になる。

もしや俺の知らないところでクビになっているのかも?
本気でそんなことを考えていた。

しかしあの事件から10日後。
とうとう会社から連絡が来たのである。

赤松からでは無く総務部からの電話であった。

事件が会社レベルにまで発展していることを認識させる。

総務部からの電話を切った俺は複雑な心境だった。
会社へ行ける安堵感。
そして会社で向けられるであろう厳しい視線。

それが丁度半分の割合で心を支配した。

おふくろに電話しなきゃ。

そう思い携帯を持った瞬間、着信が鳴った。
知らない番号。

誰だ・・・?

実はこの着信の人物が
のちに空室である304号室の住人となる。

その人物は同期入社で技術部所属の渡辺だった。
「もしもし?」
「あ!もしもし二宮くん?渡辺です」
渡辺か。会社で俺の番号を調べたのだろう。

「どうしたの?渡辺」
「うん。明日から出社するんだよね」
「さっき総務から電話があったよ」
「良かったね。またがんばろうね」

俺は嬉しかった。
そんなことのためにわざわざ電話をくれたんだ。
同期って本当にいいよな。

俺はどうしても聞きたいことがあった。
「例のVP・・・。どうなったか渡辺知ってる?」
「噂だけど無事進行してるみたいだよ。私は技術だからよく分からないけど」

なにより嬉しい情報であった。
少なくとも会社に金銭的損害を与えた可能性は低いと思われる。

俺は渡辺にお礼を言って電話を切った。
そしておふくろにも電話をしておいた。

10日間の謹慎は伝えず
とりあえずは元気で仕事も順調だよ。
それだけ伝えた。

おふくろは少し不安そうだったが
それでも喜んでくれた。

明日からまた仕事だ。
今度はミスは許されない。

もし今度・・・こんなミスをしたら。
潔く会社を辞めよう!
俺に映像業界は向いていなかったというわけだ。

その日はシャワーを浴びて早く寝た。
まりあや油田と過ごした日々が
非日常であったような気がした。

俺は社会に戻っていくんだ!

次の日電車に揺られながらもやっぱり怖かった。
どんな顔をして出社すればいいのか?

いま思い出しても新入社員の日々は
業務以外のことに心が支配されていたように思う。

会社に着く。深呼吸をしてから入った。
早めの出勤なのでまだ人はまばらだ。

それでも数人の社員がいたので挨拶をする。
みんなは何事も無かったように
挨拶を返してくれた。

制作に配属された同期は
「良かったね。戻ってこれて」
と俺の復帰を喜んでくれた。

俺のいない10日間
彼らも必死に生き抜いてきたに違いない。

そんな俺に1人の男が声を掛けてきた。

「おう。二宮。今日からか?」

意外な人物だった。
孤高の天才であり、社内のはぐれ者である田畑さんだった。

「すみませんでした。今回はご迷惑を・・・」
なぜか必死に田畑さんに謝罪をしている。

「俺は別に迷惑なんか掛けられてねぇ」
独特の低い声で言う田畑さん。

さらに
「二宮。お前がこの会社にずっといたいのなら・・・」

ゴクリ・・・。いたいのなら??

「会社のためとか考えるな。俺らは技術を身につければ
フリーにもなれる。会社に身を捧げて自分を潰すんじゃねーぞ」

それだけ言って田畑さんは自分のデスクに帰っていった。
そして孤高の天才は台本制作に取り掛かった。

9時30分会社が活気づいてきた。
そんな時、赤松が出社してきた。

俺は赤松に駆け寄った。
この瞬間が昨日から1番恐れていた時間だ。

「すみませんでした。赤松さん。僕のせいで・・・」
赤松は俺のほうに顔を向けずに
「ああ・・・・」とだけ言い残し
自分のデスクに座った。

赤松には完全に見捨てられた様子だ。
トボトボと自分の席に戻る。

仕事がない。何一つとしてやることがない。
苦痛だった。

そこにスーツ姿の男が現れた。
総務部の男であった。
「赤松さん。二宮さん。総務部へ来て下さい」

な・・・なんだ。

総務部に到着するとスーツ姿の役員連中が座っていた。

「二宮くん。よく来たね」
役員の1人が優しい声を掛けてくれた。

俺と赤松は役員連中の前に並んで立った。
「さてと・・・」
役員が切り出す。

「今回の件で代理店側から大幅に制作費を削られたのはご存知の通り」
ご・・・ご存知ありません。

「そこで会社としては一応の処分を赤松さんと二宮くんに下します」
処分・・・!!

「赤松さんは6ヶ月の減給。二宮くんは2ヶ月の減給」
意外だった。
俺より赤松の方が処分が重い。
これがサラリーマン社会なのか。

赤松が口を開く
「ちょっと待って下さいよ。上司だからと言って
お使い程度のことまで管理しきれませんよ」

確かにそうだ。
俺は下を向いて唇を噛むしかない。

しかし赤松の意見が通ることは無かった。
総務部を出た俺と赤松。

やはりもう一度謝るべきだろう。
「すみませんでした。赤松さん」
しかし無視された。

制作部のフロアに戻るとご丁寧に
俺と赤松の処分を記した紙が貼られていた。

気が滅入る。働いて給料を貰うのはこんなにも
苦痛の連続なのか。

それから俺は自分のデスクでただ座っているしかなかった。
仕事が無い。

電話はジャンジャン鳴り。みんな忙しそうに働く。
取り残された気分だった。

昼前のことだった。
プロデューサーの1人である南さんが声を掛けてきた。

この南という人物。
社内でも有名なアホだった。
50歳前で独身。

空気が読めない上に
今だに簡単な書類も書けない人間である。

入社2日目には「南さんはバカだから相手しないほうがいいよ」と
先輩に教えられたほどだ。

しかし・・・しかし。
根はいいオッサンなのだ。
空気が読めない分いつも明るい。

それが反感を買ってしまうのだろうが・・・。
どの会社にも1人はいそうな人物だ。

「二宮は俺が預かることになったよ。よろしくね」
その日の午後に俺のデスクは
南の横になっていた。


しかし俺は救われた気分だった。
南は俺の問いになんでも教えてくれる。
間違いも多く含んでいるのでその辺りは注意が必要だが。

「まぁ。前の件は忘れてがんばれ」
南は俺を励ましてくれた。
まさに性格は赤松と対極であろう。

さて南の持っている仕事が
今後俺の担当する仕事になる。

それはパブリシティという仕事だ。
俺たちは通常略して「パブ」と呼ぶ。
簡単に説明すると簡易CMのようなものだ。

普段TVで見ているCMは、通常フィルムで撮影されているものが
ほとんどである。

制作費も1千万円〜1億円なんてザラだ。
有名タレントを起用し、たった15秒に制作期間は1ヶ月程度要する。

しかしパブリシティCMは1本15万程度の制作費で
8本〜15本程度を1日で撮影し編集する。

つまりはTV局がスポンサー確保のため
粗品程度に流してやる1回こっきりのサービスCMと思えば良い。

「担当はフリーの川田だから。もうすぐ来るよ。顔合わせしよう」
フリーという言葉にドキッとした。
どうしても志村の顔が思い浮かぶ。

なぜ俺は社内ディレクターに縁がないのだ。
今度のディレクターは果たしてどんな人物なのだろうか?

15時制作フロアにドデカイ声が響いた。
「どーーーも!!おーーー南さん!来たよ!」
川田さんだった。
その姿を見てビックリした。

40台前半と思われるが
髪は金髪でサングラス。
スーツはビシッと来ているが中はTシャツである。
一瞬で凶器に変化しそうな
ジュラルミンのアタッシュケースを持っていた。

しかしこの出会いが
師匠との最初の出会いになったのだ。

川田さんはいかにも業界人という感じだ。

俺と川田さんは早速2人で次の撮影の打ち合わせをした。
俺は最初この人が怖かった。
何を考えているか分からない。

ヘタなことを聞くと志村の二の舞にならないとも限らない。
「川田さん。この撮影の段取りどうしましょうか・・・?」
恐る恐る聞く俺。

川田さんは眉間にシワを寄せ「う〜ん」と唸っている。
そして・・・。

「適当でいいんじゃね?」

へ・・・?

「あの適当だと香盤表が・・・その適当になってしまうかと・・・」

「香盤なんて適当でいいんじゃね?」


川田さんは言った。
「二宮は将来何者になりたいんだ?」

出会った直後の他社の人間を
すぐに呼び捨てにしているところが川田さんらしい。

俺は気合を見せるために大きな声で
「はい!将来はディレクターになりたいです」と答えた。

「うるさいから普通の声でいいよ。
あのな二宮。俺らはクリエイターだ。
香盤みたいなもん
いくら上手く作ってもディレクターになれんぞ」

衝撃だった。
この人はなんて破天荒なんだ。
志村には何度もやり直しをくらった香盤表を・・・・。

「それよりなぁ。二宮」
サングラスの奥の目が怖い。
この人も昔、絶対ヤンキーだったはずだ。

「お前仕事何時まで?」


「僕は6時が一応の定時ですが」
「ふーん。」
川田さんが席を立つ。

川田さんは南さんに近づいてこう言った
「南さん。いまから二宮と撮影のスタジオ確認してきます」

南さんは適当に「はいよ!」と答える。

「行くぞ二宮」
スタスタと会社を出る川田さん。
俺は慌てて後を追った。

そうか!演出家はスタジオの確認をするのだな。
そうだよな。
そこにある照明機材や
スタジオの広さを確認することで
可能な演出を考えるんだな。

勉強になったぜ!

しかし30分後。
俺達はなぜか焼き鳥やにいた。

生ビールが前に置かれる。

「まぁ飲めよ。かんぱーい」
川田さんがグラスを傾けてくる。

俺は驚きながらも川田さんに聞いた。
「ちょ。川田さん。スタジオは見なくていいんですか?」

川田さんはビールをグイグイ飲むと
泡まみれの口で
「なんで見るの?見てもなんも変わらないじゃん」と答えた。

既に2杯目のお代わりを店員に注文している。
「いや。でも香盤表も出来てないし・・・。」

「あのよ。二宮」
2杯目のビールに口をつけた川田さんが言った。
「お前なんのために香盤書くの?」

「それは当然撮影を円滑にするため・・・というか。」

それを聞いた川田さんは「あははは」と大きな声で笑う。
「お前みたいなペーペーの書いた香盤で撮影が円滑に進まねーよ」

俺は少しムッとした。
俺だって志村の嫌味に耐え
なんとか様になる香盤表を書いたのだ。

「まぁ気を悪くするな」
川田さんは言う。
そして「ビール飲めよ。ぬるくなるぜ」

俺はグイグイとビールを飲んだ。
うまい。酒好きの俺だ。
ビールは確かにうまい。

しかし・・・だ。

志村みたいなタイプも困るが
川田さんみたいなタイプも困ったものだ。

この人に付いて行ったら
俺の将来はどうなるのだ?

「あのな。二宮よ」
川田さんは少し真剣な口調になった。

「お前がどんなに素晴らしい香盤を書いても
俺は自分が納得しなきゃ終わらない」

俺は川田さんの横顔を見た。

「そのためにお前の会社がスタジオ代を多く支払っても
俺の知ったことじゃない」

そ・・・そうなのか?

「ただ。逆の言い方をすれば・・・」

「香盤をオーバーして撮影が長引けば
それは俺の責任だ。お前の責任じゃない」


この瞬間俺の気持ちは決まった。

この人に付いて行こうと。
それで俺が一人前のディレクターに成れなかった場合は
俺の責任だ。

才能が無かったのかもしれない。
だたそれだけだ。

そんなことはどうでもいい。

入社して今まで出会った人物で
「俺の責任だ」と言ってくれた人はいたか?

赤松、志村、会社の役員連中。
口には出さないが、俺に全ての責任を負わせた。

しかし。この人は・・・川田さんは。
フリーの身でありながら全く関係のない人間である
俺の責任まで負ってくれるというのだ。

「それによ・・・」川田さんは言った。
「パブみたいなクソみたいな仕事、お前サッサとディレクターになって
俺から奪っていけよ」

泣きそうになった。
この人物が俺に初めて「ディレクターになれ」と言った人だ。

「ところで二宮ちゃん」

ん?二宮・・・ちゃん?

「この後キャバ行かね?」

これが俺の会社復帰第1日目であった。




出典:憧れの1人暮らし隣人に恋した
リンク:http://www2.2ch.net/2ch.html

(・∀・): 119 | (・A・): 33

TOP