「どうして人を殺してはいけないのか?」
2010/01/10 04:00 登録: えっちな名無しさん
●「どうして人を殺してはいけないのですか?」
という問いかけへの「もっとも有効な答え」
答えることのできない問いには答えなくてよいのです。
以前テレビ番組の中で、
「どうして人を殺してはいけないのですか?」
という問いかけをした中学生がいて、
その場にいた評論家たちが絶句したという事件がありました。
でも、これは「絶句する」というのが正しい対応だったと僕は思います。
「そのような問いがありうるとは思ってもいませんでした」
と答えるのが「正解」という問いだって世の中にはあるんです。
もし、絶句するだけでは当の中学生が納得しないようでしたら、
その場でその中学生の首を絞め上げて、
「はい、この状況でもう一度今の問いを私と唱和してください」
とお願いするという手もあります。
世界には戦争や災害で
学ぶ機会そのものを奪われている子どもたちが無数にいます。
他のどんなことよりも教育を受ける機会を切望している
数億の子どもたちが世界中に存在することを知らない子どもたちだけが
「学ぶことに何の意味があるんですか?」
というような問いを口にすることができる。
そして、自分たちがそのような問いを
口にすることができるということそのものが
歴史的に見て例外的な事態なのだということを、彼らは知りません。
先ほどの「人を殺してどうしていけないのか?」と問う中学生は
「自分が殺される側におかれる可能性」を勘定に入れていません。
同じように、「どうして教育を受けなければいけないのか?」
と問う小学生は
「自分が学びの機会を構造的に奪われた人間になる可能性」
を勘定に入れていません。
自分が享受している特権に気づいていない人間だけが、
そのような「想定外」の問いを口にするのです。
しかし、このような問いかけに対して、
今の大人たちは、断固として絶句して、
そのような問いは「ありえない」と斥けることができない。
絶句しておろおろするか、子どもたちにもわかるような
功利的な動機づけで子どもを勉強させようとする。
子どもたちは、自分たちの差し出した問いが大人を絶句させるか、
あるいは幼い知性でも理解できるような無内容な答えを引き出すか、
そのどちらかであることを人生の早い時期に学んでしまいます。
これはまことに不幸なことです。
というのは、それがある種の達成感を彼らにもたらしてしまうからです。
そして、この最初の成功の記憶によって、
子どもたちは以後あらゆることについて、
「それが何の役に立つんですか?
それが私にどんな『いいこと』をもたらすんですか?」
と訊ねるようになります。
その答えが気に入れば「やる」し、気に入らなければ「やらない」。
そういう採否の基準を人生の早い時期に身体化してしまう。
こうやって、「等価交換する子どもたち」が誕生します。
出典:「どうして人を殺してはいけないのですか?」という問いかけへの「もっとも有効な答え」 『下流志向』(内田樹著・講談社文庫)
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