ゆきおんな
2010/04/18 08:19 登録: 不明
「三ヵ月だって…」
彼女が唐突に妊娠を明かした。
勤め先の後輩で、なんとなしに交際を始めて2年と少しが経つ。20代も終盤に差し掛かり、収入も安定し、将来もそこそこに見えてきた。別に授かった命を払う理由などなかった。
「籍、入れようか」
そう言うと、彼女は強張っていた表情を緩め、えくぼをつくってみせた。その後すぐに流した涙を見て、その笑顔の理由が喜びではなく安堵なのだなと、勝手に悟った。
(いよいよ俺も大人になるんだな)
決断の出来る人間を“大人”だと解釈している。
レールの敷かれる人生を、躊躇せずに選択する畏怖。終点まで見える道を、まっすぐに見つめる恐怖。
そういう精神的重圧に立ち向かおうとする意思を持つことが、大人になることなのだと。
だが、頭で考えはしたが、実感などなかった。
小さく嗚咽を漏らす彼女を抱き寄せながら、虚空を見つめ、またなんとなしに人生を選択したのだと思った。
小窓からは、しんしんと静かに雪が降るのが見える。夜には一面に薄く雪の膜がはるに違いない。
この時期に、この地方での積雪は稀有なことで、明日の朝には蜃気楼のごとく消えてしまっているのだろう。
子供を宿ったという事実もまさか幻か、と思ってみたが、その考えも儚く消えた。こんな夜は自分の理解を超越したことが起こるものだ。
と、ふと昔、同じような雪の夜があったことを思い出した。
**********
大学時代にまでさかのぼる。
突然に、付き合っていた女に別れを切り出された。
遅まきながら自分にとってはじめての女で、自分の与えられる愛情を熱く熱く費やしてきたのに、彼女は最後まで理由を言わずに去った。
今振り返ると、程度の低い感情表現だったのかと思う。それでもその時は真剣だった。
自分を全て曝け出し、全てをささげてきたという自負があったためか、自分という人間の全てを否定されたようで、自暴自棄にならざるを得なかった。
夢を捨て、希望を捨ててしまいたかった。全てを捨ててよりを戻せるなら戻したかった。
就職活動など人生の過渡期を迎えていたにもかかわらず、夕刻から慣れない酒を浴び、それでも終電に間に合うよう駅へひた走る自分を、滑稽で薄っぺらい人間だと卑下した。
終電に飛び乗った。急に冷え込んだ夜だったためか、それとも酒が回ってか、車内の暖かさにまどろむまで時間はかからなかった。
気がついたときには、駅員に体を揺さぶられていた。
知りもしない駅。
暗がりに薄ぼんやりと民家が立ち並ぶのは見えるが、その他に目立った建物もない。自宅の最寄駅からどのくらい離れているのかの見当もつかなかった。
ひとつ体を震わせる。電車に乗る前は降っていなかった雪が、足に、肩に薄くかかる。
駅はシャッターが閉められ、街路灯だけがたよりになる。閑散とした景色の中、その風景がまるで自分の心情を表しているようで、一層孤独に蝕まれていく。
不意に後ろから、やわらかい煙が漂ってくる。
振り向くと、女が立っていた。煙は、女の吐いたタバコのものだった。
「…あなたも乗り過ごしたんですか?」
私の問いに答えるでもなく、女はゆっくりと駅の脇にあるベンチへ歩いた。
「キミもこっち来なよ」
小さく手招きをする女の表情は笑っているように見えたが、そうでないようにも見えた。
隣に座して、ただ黙って女がタバコを吸うのを見ていた。沈黙が嫌ではなかった。
特別な美人ではなかったように思うが、驚くほど魅力的な女だった。年齢は自分の2、3上にも、下にも見えた。
雪のように白い肌が、女の存在を誇示するように、暗がりでもくっきりと見えた。
別れた彼女のことを、遠い昔のことのように感じていた。
「…何か、不思議ですね」
自分から女に口火を切った。
どんな話から始めたのか覚えてないが、
別れた彼女のこと、それが原因で自暴自棄になっていること、よりを戻したいこと、思っていることを訥々と話したと覚えている。
女は頷くでも、相槌を打つでもなく黙っていたが、何か自分の言葉を受け入れていると思わせた。
どこからか、こちらも話に力がこもってくる。タバコを吸う薄紅色の唇を見て、睫毛の長い瞼を見て、次第に自分の体が女の方へ吸い寄せられていく。
気がつけば女と唇を合わせていた。物凄く冷たい唇。
力いっぱいに、女を抱き寄せる。紅茶色の髪を乱暴に掻き乱す。
女は抵抗する様子がない。舌も受け入れた。だが自分から能動的にはこなかった。
唇を離す。ゆるく唾液が糸を引く。
女はあの表情のまま、はっきりとした口調で言った。
「本当に、これでいいの?」
突然我に返り、自分がしている行為の唐突さ、醜さが恥ずかしくなり、女から離れた。
「す、すみません…急に…本当に…」
元の位置に座り、逃げ出すことも出来ず下を向いてただ小さく弁解を続けていると、女が立ち上がった。
2、3歩前に歩み、こちらを振り返った女の顔を恐る恐る見た。確かに笑った表情をしていた。
「あたしは、キミのこと知ってるよ。」
「…」
「キミはあたしのこと、知らないよね。」
「…」
「そんなこと、関係ないけど。」
「…」
「でも…」
「本当に、これでいいの?」
あの時程の恐怖を体感したことがない。再び下を向いたまま肩を震わせてるうちに、女は消えていた。
薄く敷かれた雪の絨毯についた足跡を追う勇気など無く、いつしか雪も解けてなくなっていた。
************
あの女との出会いが幻だったのか、
それともあの時の自分が幻だったのか。
不思議な経験ほど強く印象に残っていて、現実ほど儚く見えていく。夢と現の境界線ほど曖昧なものはないのだ。
このまま普通に時が流れ、子は育ち、自分は老いていく。そんな自然の条理、歴史の中で、自分の存在など今日の雪のように小さく儚いものなのではないか。
昔の自分なら立ち止まるのかもしれない。しかし自分は大人になった。今は覚えることのない実感も、なんとなしに選んだ人生も、歩むことで幸せのように思うことも出来る。
肩にもたれる今の彼女の小さい背を少し強く抱き寄せる。タバコのにおいがする。彼女は胸の中に蹲らせた顔を上げ、はっきりと答えた。
「本当に、これでいいの?」
彼女の表情は、確かに笑っていた。
出典:
リンク:

(・∀・): 177 | (・A・): 50
TOP