葛根廓事件

2010/05/28 19:48 登録: ロボ

1945年(昭和20年)8月9日未明、ソ連は日ソ中立条約を破棄し日本に宣戦を布告。満洲国、朝鮮半島、樺太などに侵攻を開始。

8月10日と11日の両日、興安(別称、興安街ないし王爺廟。現在の内モンゴル自治区ヒンガン盟のウランホト)が爆撃を受け、興安の都市機能はほぼ破壊された。11日午後4時、興安街在住の日本人約千数百人が近郊のウラハタに集結、興安総省参事官浅野良三の指揮の下、行動隊が組織された。

行動隊の当初の目的地は100キロ離れたジャライトキだったが、12日からの降雨や興安国軍による馬車の略奪などにより計画を変更。興安街の南東約40キロに位置する葛根廟を経由し列車(白阿線)で白城子(現在の吉林省の白城)へ避難、同地で関東軍の保護を受けつつ列車で更に南下するという計画を立て、徒歩で移動を開始した。

8月14日午前11時40分頃、行動隊が葛根廟丘陵付近まで到達したところで、ソ連軍戦車14両とトラック20台に搭乗した歩兵部隊に遭遇したため、浅野参事官は白旗を掲げたが、機関銃で射殺された。ソ連軍は丘の上から行動隊に対し攻撃を開始し、戦車が機関銃で攻撃を加えながら、避難民を轢き殺していった。戦車の後方からは、ひき殺された人々がキャタピラに巻き込まれ宙に舞いだしたという。ソ連軍戦車は攻撃をある程度続けると、丘に引き返し、何度も避難民めがけて突入しながら攻撃を繰り返した。戦車による襲撃が止むとトラックから降りたソ連兵が生存者を見つけ次第次々と射殺していった。2時間余りの間に非武装の女性、子供を主体とした1000人以上が殺害され、生存者は百数十名にすぎないとされている。殺害を免れたものも戦車に轢かれたり、被弾して負傷したものや、家族が殺害されたものがほとんどであり、大勢が自決した。

その後も、生存者は暴民に身につけている下着にいたるまで身ぐるみ全てを剥がされるなどした。一方、中国人、モンゴル人、朝鮮人のなかには生存者に食事を提供するものなどもあった。行動隊の多数の子供が中国人に保護され、中国残留孤児となっていたことが後の調査で判明している。また、多くの女性が中国残留婦人となることを余儀なくされた。

この事件は戦後、第二次世界大戦におけるソ連の戦争犯罪として取り上げられている。

出典:取り上げられてるだけで
リンク:裁かれていない!!

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