つうか

2010/05/28 20:09 登録: ロボ

通化事件(つうかじけん)とは1946年2月3日に中国共産党に占領されたかつての満州国通化省通化市で中華民国政府の要請に呼応した日本人の蜂起とその鎮圧後に行われた中国共産党軍と朝鮮人民義勇軍南満支隊(李紅光支隊)による日本人及び中国人に対する虐殺事件。中国では二・三事件とも呼ばれる。

当時は、先に進駐していた朝鮮人民義勇軍と延安からの正規の中国共産党軍を中国共産党軍または八路軍と包括的に呼称したり、朝鮮人民義勇軍は新八路軍や朝鮮八路とも呼称された。ただし、中ソ友好同盟条約によって満州で中国共産党が活動することは許されていなかったため、東北民主連軍などと称していた。正規の中国共産党軍は軍規が厳しかったが、元朝鮮人日本兵や現地の朝鮮人などで構成されていた朝鮮人民義勇軍は、略奪・強姦などをおこなった。

・背景

通化は終戦時に中華民国政府の統治下に置かれ、満洲国通化省王道院院長を務めた孫耕暁が国民党通化支部書記長に就任し、満州国軍や満州国警察が転籍した中華民国政府軍によって治安が維持されていた。

1945年8月20日、通化高等女学校に短機関銃を持ったソビエト兵2名がジープで乗り付けると校内に乱入し、女生徒の腕を掴んで引きずり出そうとした。古荘康光校長と村田研次教師が止めに入ると銃を乱射し始めたため、20代の女性教師が自ら身代わりとなって連行された。連絡を受けた通化守備隊の中村一夫大尉は直ちに兵士40名を乗せたトラック2台とともに駆けつけ、男性教師たちと共同でソビエト兵のジープを捜索したが発見できなかった。女性教師は深夜に解放されたが、その晩自殺した。翌日、ソビエト兵は再び女学校に乱入すると女生徒か昨日の女性と金品を出すよう要求した。村田教師が「女性は自殺した」と述べると、他の女性を出すよう要求されたため、隠し持っていた拳銃で2人を射殺した。教師たちはソビエト兵を埋葬すると寄宿生を連れて通化を脱出した。

1945年8月24日[1]に将校20人、兵士200人からなるソビエト軍が通化に進駐、市内の竜泉ホテルに司令部を設置した。また、ソビエト軍によって武装解除された関東軍の兵器を譲渡された中国共産党軍も同市に進駐した。当時の通化には、多くの在留邦人や引き上げのために集まった17000名の日本人が滞在していたが、ほとんどが女性や老人で、略奪や強姦に遭い麻袋に穴を空けたものをわずかに身に着けただけの姿もあった。通化の在留邦人が衣服や住居を提供するなどしていたが、多くの日本人家屋は強制的に接取されるなどして、在留邦人・難民ともに困窮していた。

占領下の日本人はソビエト軍による強姦・暴行・略奪事件などにも脅かされていた。この段階では日本軍憲兵隊はシベリアに連行されずに治安活動を行っており、ソビエト軍の蛮行を傍観していたわけではなかった。原憲兵准尉はソビエト兵が女性を襲っているとの通報を受け、現場に駆け付けると、白昼の路上でソビエト兵が日本女性を裸にして強姦していたため女性を救おうと制止したが、ソビエト兵が行為を止めないため、やむなく軍刀で処断した。原准尉は直後に別のソビエト兵に射殺され、この事件以降は日本刀も没収の対象となった。守る術を持たない日本人遺留民はソビエト軍司令部の命令に従って日本人女性たちを慰安婦として供出するなどして、耐え忍ぶしかなかった。さらに、日本人はソビエト軍進駐時にラジオを全て没収されたため、外部の情勢を知ることは不可能となった。また、中国共産党軍は日本軍の脱走兵狩りを行い600人を検挙した後吉林へ連行した。

ソビエト軍の撤退後、通化の支配を委譲された中国共産党軍は、楊万字通化省長、超通化市長、菅原達郎通化省次長、川内亮通化県副県長、川瀬警務庁長、林通化市副市長などの通化省行政の幹部を連行し、拷問や人民裁判の後、中国人幹部を全員処刑した(日本人幹部の処刑は後日行われることになる)。また、中国共産党軍は「清算運動」と称して民族を問わず通化市民から金品を掠奪した。9月22日には、中国共産党軍が中華民国政府軍を攻撃し、通化から駆逐した。10月23日、正規の中国共産党軍の一個師団が新たに通化に進駐した。11月2日[2]、中国共産党軍劉東元司令が着任する。11月2日、中国共産党軍は17000名を超える遺留民に対して、収容能力5000名以下の旧関東軍司令部への移動命令を出した。遺留民1人につき毛布1枚と500円の携行以外は認めないとした。通化は氷点下30度になる極寒の地であり、無理な要求であった。11月初旬[3]、中国共産党軍は、遼東日本人民解放連盟通化支部(日解連)を設立する。日本人民解放連盟は日本人に対して中国共産党軍の命令下達や、中国共産党で活動している野坂参三の著作などを使用した共産主義教育をさせられた。日本人民解放連盟は中国共産党軍の指令に従い、日本人遺留民に対し財産を全て供出し再配分するよう命令した。日本人遺留民たちが嘆願を続けると、中国共産党軍は先に命じていた移動を見合わせる条件として、日本人全員が共産主義者になることへの誓約、全財産の供出と中国共産党および日本人民解放連盟への再分配を要求した。

11月17日、中国共産党軍は大村卓一を満鉄総裁であったことを罪状として逮捕した。また、中国共産党軍は武器捜索を名目に日本人家屋に押し入り、(後の蜂起当日まで)連日略奪をおこなったほか、男女を問わず日本人を強制的に従軍・徴用(無償の強制労働)した。

・日の丸飛行隊飛来


隼(一式戦闘機)
12月10日、通化に日章旗を付けた飛行隊が飛来し、日本人遺留民は歓喜した。飛行隊は林弥一郎少佐率いる関東軍第二航空団第四練精飛行部隊であり、隼、九九式高等練習機を擁していた。隊員は300名以上が健在であり、全員が帝国陸軍の軍服階級章を付け軍刀を下げたままであった。また、木村大尉率いる関東軍戦車隊30名も通化に入ったが、航空隊と戦車隊の隊員は全員が中国共産党軍に編入されていた(林航空隊は東北民主連軍航空学校として中国人民解放軍空軍創立に尽力することになる)。

中国共産党の根拠地延安からは、日本人民解放連盟で野坂参三(後の日本共産党議長)に次ぐ地位にあり、当時「杉本一夫」の名で活動していた前田光繁が政治委員として派遣された。

・日本人遺留民大会

12月23日[4]、「中国共産党万歳。日本天皇制打倒。民族解放戦線統一」などのスローガンのもとで日本人民解放連盟と日僑管理委員会の主催で通化日本人遺留民大会が通化劇場で開かれた。大会には劉東元司令を始めとする中国共産党幹部、日本人民解放連盟役員らが貴賓として出席し、日本人遺留民3000人が出席した。大会に先立って、日本人遺留民たちは、「髭の参謀」として愛され、その後消息不明とされていた藤田実彦大佐が大会に参加すると伝え聞いており、大会の日を待ちかねていた。

大会では、元満州国官吏井手俊太郎が議長を務めた。冒頭、議長から「自由に思うことを話して、日本人同士のわだかまりを解いてもらいたい」との発言がなされると、日解連通化支部の幹部たちからは、自分たちのこれまでのやり方を謝罪するとともに、「我々が生きていられるのは中国共産党軍のお陰である」などの発言がなされた。日本人遺留民たちは発言を求められると、日解連への非難や明治天皇の御製を読み上げ「日本は元来民主主義である」などの発言が続き、山口嘉一郎老人が「宮城遥拝し、天皇陛下万歳三唱をさせていただきたい」と提案すると満座の拍手が沸き起こった。議長が賛意を示す者に起立をお願いすると、ほぼ全員が起立し、宮城遙拝と天皇陛下万歳三唱が行われた。次に山口老人は、「我々は天皇陛下を中心とした国体で教育され来たので、いきなり180度変えた生き方にはなれませんので、徐々に教育をお願いしたい」旨を述べた。最後に藤田大佐が演説を行ったが、中国共産党への謝意と協力を述べるにとどまった。後日、大会で発言した者は連行され、処刑された。

・蜂起直前の状況

1月1日、中国共産党軍(東北民主連軍)後方司令の朱瑞(zh)を隊長、林弥一郎を副隊長とした東北民主連軍航空総隊が設立される。

1月5日、藤田大佐は中国共産党の軍人に伴われて竜泉ホテルにある中国共産党軍司令部に出頭する。劉東元司令は藤田に関東軍が隠している武器を出すよう要求したが、参謀職である藤田は「大隊長や中隊長ではないので知らない」と返答したため、そのまま監禁されることになった。以降、有志からの情報は薬を渡しに来る看護婦柴田朝江によって秘密裏に届けられることとなった。柴田は日本軍の特務出身の看護婦で、当時は赤十字病院(旧関東軍臨時第一野戦病院)に勤務していた。劉司令夫人が中共軍軍医の誤診に悩んでいたところ、柴田が適切な診断を行ったため、劉夫妻から専属看護婦の地位を得えられ、「婦長」と呼ばれていた。信頼された柴田朝江は藤田への薬を届ける任を与えられていた。

1月15日[5]午前4時、竜泉ホテルに監禁されていた藤田大佐が3階の窓から脱出し、有志の隠れ家となっていた栗林家へ隠れた。脱出が発覚すると、事前に知らされていなかった柴田は身の危険を感じてホテルの裏口から赤十字病院へ向かい、病院に着くと頭をバリカンで刈り上げて男になりすました。まもなく中共軍が病院の捜索を始めたため、柴田久軍医大尉の手引きを得て栗林家へ隠れることとなった。

1月某日、林少佐は日本人遺留民を束ねていた桐越一二三のもとを訪れ、自らが桐越の名を彫り込んだ軍刀を桐越の妻に渡している。

・一月十日事件

1946年1月1日、中国共産軍側工作員の内海薫が何者かに殺害される。1月10日、日本人民解放連盟通化支部幹部、高級官吏、日本人遺留民会の指導者ら140名が内海を殺害した容疑で連行され、専員公署の建物に抑留される。日本人民解放連盟通化支部は解散させられる。

1月21日、菅原達郎[6]通化省次長、川内亮通化県副県長、川瀬警務庁長、林通化市副市長は中国共産党軍によって市中引き回しの上で、渾江の河原で公開処刑された。処刑された遺体は何度も撃たれ銃剣で突き刺されハチの巣にされた。やがて、日本人遺留民たちの反共産党の感情が強まっていった。

後日、日本人遺留民は通化劇場に集められ、前田光繁から「川内亮通化県副県長たちは満州国の幹部であったから処刑は仕方のないことであった」旨の説明がなされた。

・蜂起

・前日

2月2日、正午過ぎに林少佐は蜂起の情報を前田に電話で伝えた。前田は中国人政治委員の黄乃一を通じて航空総隊隊長の朱瑞(zh)に報告した。同じ頃、藤田大佐の作戦司令書を持った中華民国政府の工作員が2名逮捕されており、劉東元中国共産党軍司令立会いの下で尋問が行われた。工作員は拷問を加えられても口を割らなかったが、日本語の司令書は前田によって直ちに翻訳され、夕刻には中国共産党軍は緊急配備に着手した。

通化市内は午後8時に外出禁止のサイレンが鳴ることになっていたが、この日はサイレンが鳴らなかった。日本人は時計を持っていないため外出中の人々は次々に拘束された。午後8時には、蜂起に向けて会合を開いていた孫耕暁通化国民党部書記長を始めとする中華民国政府関係者数十人が朝鮮人民義勇軍によって拘束され、拷問を伴う尋問が行われた後、蜂起前に虐殺された。また、一月十日事件で連行された日本人は牢の外から機関銃を向けられた(即時殺害を可能にするための準備)。

・蜂起

2月3日、中国共産党は便衣兵や日本人協力者などからすでに情報を集めており、重火器を装備して日本人の襲撃に備えた。

柴田軍医大尉らは深夜に病院を抜け出すと変電所を占拠した。午前4時に電灯を3度点滅させたのを合図に、在留日本人は中華民国政府軍・林航空隊・戦車隊の支援を期待して元関東軍将校などの指揮下で蜂起した。蜂起した日本人にはわずかな小銃と刀があるのみで、大部分はこん棒やスコップなどで武装しており、蜂起成功後に敵から武器を奪うことになっていた。一方、瀋陽の遼寧政府(中華民国政府)からは「中華民国政府軍の増援の連絡がつかないから計画を延期せよ」との無線連絡がなされたが、無線機の故障で日本人には伝わらなかった。

日本人は中隊ごとに分かれて市内の中国共産党軍の拠点を襲撃した。佐藤少尉率いる第一中隊150名が専員公署めがけて突撃すると、待ち構えていた中国共産軍の機関銃や手榴弾によって次々となぎ倒された。佐藤少尉以下10名が建物に侵入し、一月十日事件で連行された日本人が監禁されている牢に到達したが、待ち構えていた機関銃によって射殺された。牢内の日本人も一斉射撃により全員が射殺され、これにより第一中隊は壊滅した。

阿部大尉率いる第二中隊100名は中共軍司令部の竜泉ホテルを襲撃したが、待ち構えていた中国共産党軍の攻撃により建物に近づく前に壊滅した。寺田少尉率いる第三中隊は元通化市公署に駐屯している県大隊を襲撃した。ここでは400名が内応するはずであったが、斬り込み隊は銃撃を受け、犠牲者を出して引き上げざるを得なかった。

中山菊松率いる遊撃隊は、公安局に監禁されている婉容皇后、浩皇弟妃を始めとする満州国皇族の救出に向かい、一時は公安局を占拠したが、まもなく中国共産軍に包囲され、公安局目がけて機関銃や大砲による砲撃が行われた。遊撃隊は次々と倒れ、皇帝溥儀の乳母も砲撃で腕を吹き飛ばされ死亡した。中山隊長らはやむなく公安局から退いた。その他の襲撃地点でも日本人は撃退された。

林航空隊では、鈴木中尉、小林中尉を筆頭に両中尉率いる下士官たちが蜂起に参加しようとしたが、蜂起合図前に中国共産党軍に拘束された。木村戦車隊も出発直前に包囲されて中国共産党軍に拘束された。事件後に蜂起の負傷者に手当を施した者は女性・子供であっても容赦なく銃殺されるなど徹底的な弾圧が行われた。

・死の行進

午前8時になると、16歳以上の日本人男性は事件との関係を問わず全員拘束され、連行された。また、事件に関与したとみなされた女性も連行された。中国共産軍は連行する際、日本人同士を針金でつなぎ合わせた。多くの日本人は着の身着のままで家から連れ出されたため、零下数十度になる戸外を行進するのは地獄であった。通化市郊外の二道江から連行された人々には途中で落後するものもあり、落後者はその場で射殺された。

・虐殺

3000人以上に上る拘束者は小銃で殴りつけられるなどして8畳ほどの部屋に120人ずつ強引に押し込められた。拘束された日本人は、あまりの狭さに身動きが一切とれず、大小便垂れ流しのまま5日間立ったままの状態にされた。抑留中は精神に異常をきたし声を出すものなどが続出したが、そのたびに窓から銃撃され、窓際の人間が殺害された。殺害された者は立ったままの姿勢で放置されるか、他の抑留者の足元で踏み板とされた。また、数百人が凍傷に罹り不具者となった。拘束から5日後に部屋から引き出されると、朝鮮人民義勇軍の兵士たちにこん棒で殴りつけられ、多くが撲殺された。撲殺を免れたものの多くは手足をぶらぶらとさせていた。その後、中国共産党軍による拷問と尋問が行われ、凍結した川の上に引き出されて虐殺が行われた。女性にも処刑されるものがあった。川の上には服をはぎ取られた裸の遺体が転がっていた。男たちが拘束されている間、中国共産党軍の兵士には日本人住居に押し入り、家族の前で女性を強姦する者もあり、凌辱された女性からは自殺者も出ている。

林少佐には銃殺命令が3度出されたが、そのたびに政治委員黄乃一の嘆願によって助命された。


3月10日になると市内の百貨店で中国共産党軍主催の2・3事件展示会が開かれ、戦利品の中央に蜂起直前の2月2日に拘束された孫耕暁通化国民党部書記長[7]と2月5日に拘束された藤田大佐が見せしめとして3日間に渡り立たせられた。3月15日に藤田が獄死すると、遺体は市内の広場で3週間さらされた。渾江(鴨緑江の支流)では、夏になっても中州のよどみに日本人の虐殺死体が何体も浮かんでいた。

生存者は中国共産党軍への徴兵、シベリア抑留などさまざまな運命を辿った。一部の日本人は9月に引き揚げの命令がなされ日本に帰還することができた。

1946年末に中華民国政府軍が通化を奪還すると事件犠牲者の慰霊祭が行われた。1947年には中国共産党軍が通化を再び占領した。

1952年に生存者の1人だった中山菊松が通化遺族会を設立。1954年には川内通化県副県長夫人とともに、大野伴睦らの仲介で川崎秀二厚生大臣に対し、遺族援護法を通化事件犠牲者にも適用することを嘆願し、認められた。通化遺族会は1955年以降、毎年2月3日に靖国神社で慰霊祭を行っている。

出典:南京!南京!
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