ボスニア内戦での3件の事件

2010/05/30 06:52 登録: ロボ

以下、(負の感情が)萌えるコピペ且つ内容が過激なため、明るい萌えコピをお求めの方と未成年者は閲覧を控える事を推奨します。

一部省略したので、大まかな用語の説明。

・セルビア人
キリスト教>ギリシャ正教教徒

・クロアチア人
キリスト教>カトリック教徒

・ボシュニャク人
ムスリム=イスラム教徒
(よく原理主義とテロがセットで報道されてるアレ)


・ユーゴスラビア紛争→ボスニア内戦での3件の事件

ーー概略

ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年までユーゴスラビアの連邦構成国であり、宗教の異なるボシュニャク人、セルビア人、クロアチア人の3民族が人口比率の上で拮抗していた。1990年にユーゴスラビアが民主化され、複数政党制が導入されると、その構成国であったボスニア・ヘルツェゴビナではそれまで禁じられていた民族主義勢力が選挙で勝利を収め、ボシュニャク人のアリヤ・イゼトベゴヴィッチが大統領に選出された。当時のセルビアはユーゴスラビアの一部であった一方、クロアチアは既に独立を果たしており、ボスニア・ヘルツェゴビナでもボシュニャク人とクロアチア人は独立を望んでいた。1992年には独立の可否を問う住民投票の結果を受けてボスニア・ヘルツェゴビナは独立を宣言した。これに対して、数の上で最大となるボシュニャク人による支配を嫌い、クロアチア人とセルビア人の民族主義者はボスニア・ヘルツェゴビナの中央政府を去り、ボスニア・ヘルツェゴビナ国内にそれぞれ民族独自の共同体ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国およびスルプスカ共和国を設立し、両者とボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府の3者によるボスニア・ヘルツェゴビナ紛争へと発展した。


ーーースレブレニツァの虐殺


事件に至るまで(中略)

1993年4月、国際連合はスレブレニツァを「安全地帯」に指定し、攻撃を禁じた。国際連合保護軍がスレブレニツァに送られたものの、その数は少数に留まった。その後も、スレブレニツァへの物資の搬入はセルビア人勢力の妨害により困難となり、武器、水、食料、その他あらゆるものが不足する状況となった。1995年7月までには、包囲されたスレブレニツァでは市民も国連軍も困窮し、市民のなかには餓死者も出るようになっていた。

虐殺事件

1995年7月11日ごろから、セルビア人勢力はスレブレニツァに侵入をはじめ、ついに制圧した。ジェノサイドに先立って、国際連合はスレブレニツァを国連が保護する「安全地帯」に指定し、200人の武装したオランダ軍の国際連合平和維持活動隊がいたが、物資の不足したわずか400人の国連軍は全く無力であり、セルビア人勢力による即決処刑や強姦、破壊が繰り返された。その後に残された市民は男性と女性に分けられ、女性はボスニア政府側に引き渡された。男性は数箇所に分けられて拘留され、そのほとんどが、セルビア人勢力によって、7月13日から7月22日ごろにかけて、組織的、計画的に、順次殺害されていった。

殺害されたものの大半は成人あるいは十代の男性であったが、それに満たない子どもや女性、老人もまた殺害されている。ボスニア・ヘルツェゴビナの連邦行方不明者委員会による、スレブレニツァで殺害されるか行方の分からない人々の一覧には、8,373人の名前が掲載されている。


ーーー国連、オランダ、ギリシャ

7月11日-13日: ポトチャリ人道危機
1995年7月11日の夕方までに、2万から2万5千のスレブレニツァからのボシュニャク人難民がポトチャリに集まり、国連施設での保護を求めた。施設内には数千人がすし詰めとなり、その他の人々は周辺の工場や畑にあふれ出した。その大半は女性や子ども、老人、障害者であったが、63人の証言者による推測では男性もまた、国連施設の防衛線内に少なくとも300人、周囲の群集中に600人から900人は集まっていた。オランダ部隊によれば彼らの基地も満員であった。

ポトチャリの状況は悲惨であった。食料や水はごくわずかであり、それに加えて7月の気温によって息苦しい状態にあった。

1995年7月12日、日があけて時間がたつにつれ、スルプスカ共和国軍が家屋や干草に放火している姿が、難民の集まっている国連施設からも確認できた。午後の間、セルビア人兵士は群集の中に入り込み、男性に対する即決処刑を繰り返した[38]。ある証人は、7月12日の午前遅くに、ポトチャリの運送施設の裏のトラクターのような機械の隣に、20体から30体ほどの遺体が積み上げられていたのを目撃したことを証言している。別の証人は、ポトチャリに集まった避難民の中でセルビア人兵士が子供をナイフで殺害する姿を目撃したとしている。この証人はさらに、セルビア人兵士が亜鉛工場の裏で100人以上のボシュニャク人男性を処刑し、その遺体をトラックに載せていたとしている。しかし、別の証拠によると、ポトチャリでの殺害は散発的なものであった可能性が示唆されている。セルビア人兵士らは難民の群集のなかから人を連れ出してはどこかへ連れ去っていた。ある証人は、夜間に幼い子供と10代の兄2人がセルビア人に連れて行かれた様子を証言している。少年らの母親が彼らを探しに行ったところ、咽喉を切られた姿で見つけたという。

その夜、オランダ部隊の衛生兵は、2人のセルビア人が少女を強姦していたと証言している。

ある生存者によると、平和維持活動中でありながらこの状況に対して何もすることができずにいるオランダ人国連軍兵士のすぐそばで、子どもの断首、女性の強姦が行われていたと述べている。この人物によると、あるセルビア人兵士が子供の母親に対して、子供を泣き止ませるよう命じた。子供がその後も泣き続けると、セルビア人兵士は子供を取り上げて咽喉を切り、笑ったという。強姦や殺人の話は群集の間に広まり、彼らの恐怖を一層激化させた。難民の中には、恐怖のあまりに首をつって自殺を図る者もいた。

ポトチャリでのボシュニャク人男性の分離と殺害

7月12日の朝より、セルビア人兵士は、避難民の中から男性を集めて複数個所に分散拘留し始めた。避難民が北のボスニア政府支配地域へ向かうバスへ乗車を始めると、乗り込もうとしていた従軍可能年齢の男性をむりやり引き離した。時には年少者や高齢者も引き離しの対象となった。この男性らは「ホワイト・ハウス」と呼ばれていた建物に連れて行かれた。早くも1995年7月12日夕方には、オランダ軍のフランケン(Franken)少佐は、ボスニア側への難民引渡しの場所であったクラダニ(Kladanj)に到着した人の中に、男性が一人もいないことを聞かされた。

1995年7月13日、オランダ軍部隊は、隔離された男性をセルビア人兵士が殺害している明らかな形跡を目撃した。たとえばファーセン(Vaasen)伍長によると、2人のセルビア人兵士が1人の男性を「ホワイト・ハウス」の裏へと連れて行く姿を目撃した。その後銃声が聞こえ、2人のセルビア人兵士だけが戻ってきた。別のオランダ軍士官もセルビア人兵士が非武装の男性の頭を一撃で打ち抜くのを目撃したほか、午後中、1時間あたり20から40回の銃声を耳にした。複数の男性が「ホワイト・ハウス」の裏へ連行され戻って来ていないという兵士からの報告を受けてスレブレニツァ地域の国連軍事監視団(United Nations Military Observer; UNMO)のヨーセフ・キンゴリ(Joseph Kingori)大佐は調査に向かった。現場に近付いた大佐は銃声を聞いたが、セルビア人兵士によって止められ、何が起きているかは確認できなかった。

処刑の一部は夜間にアーク灯の明かりの下で行われ、工事用のブルドーザーによって遺体はまとめて遺棄された。フランスの警察官ジャン=ルネ・リュ(Jean-René Ruez)がボシュニャク人から集めた証拠によると、被害者の一部は生きたまま埋められた。また、セルビア人兵士たちは難民を好きなように虐待・殺害し、道路には遺体が散乱していた。難民たちの一部は、鼻や唇、耳をそぎ落とされるのを逃れるために自殺を図り、また大人たちは彼らの子どもが殺害されるのをなすすべなく見守るしかなかった。

女性の強制移送

国連側とセルビア人勢力との間での交渉の結果、2万5千人前後のスレブレニツァの女性がボスニア政府支配地域へと強制移送された。

バスの一部は安全な地にたどりつかなかったようである。ポトチャリからクラダニへの先発のバスの1台に身を潜めていた男性カディル・ハビボヴィッチ(Kadir Habibović)の証言によると、少なくとも1台のバスがボシュニャク人女性を満載してボスニア・ヘルツェゴビナ政府統制地域から離れていったのを目撃している。

虐殺に参加した非セルビア人

フランス通信社(Agence France Presse; AFP)によると、ギリシャ人の義勇軍がスレブレニツァの虐殺に関与していると報じられた。これらの人員はギリシャ人義勇軍(ΕΕΦ)に属しており、ドリナ軍団の一部となっていた。彼らは 「黄金の夜明け」(Χρυσή Αυγή / Chrysi Avyi)というギリシャのネオナチ組織の構成員か、あるいは傭兵であった。ギリシャのジャーナリスト、タキス・ミハス(Takis Michas)の著書によると、ラドヴァン・カラジッチはこの義勇軍の栄誉をたたえ、スレブレニツァ陥落後に、町にギリシャの国旗が掲げられたとされる。ギリシャ人がこの虐殺に参加した理由は、戦闘において彼らの「正教会の兄弟」を助ける目的があったと考えられる。

ギリシャの代議士アンドレアス・アンドリアノプロス(Ανδρέας Ανδριανόπουλος / Andreas Andrianopoulos)が取り上げ、法務大臣アナスタシオス・パパリグーラス(Αναστάσιος Παπαληγούρας / Anastasios Papaligouras)によって調査が行われるまで、この問題については完全に忘れ去られていた。2005年時点で、調査はなお継続中である。



ーーーフォチャの虐殺

フォチャの虐殺(フォチャのぎゃくさつ、セルビア語・ボスニア語・クロアチア語:Zločini u Foči)は、セルビア人の軍事組織、警察、準軍事組織によって、ボスニア・ヘルツェゴビナのフォチャ地域(ガツコ Gackoやカリノヴィク Kalinovikを含む)で、ボシュニャク人の市民に対して1992年4月7日から1994年1月にかけて行われた一連の大量殺害である。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争に関する戦争犯罪を裁く旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)の検察局が発行した数多くの起訴状の中で、この大量殺害は「人道に対する罪」であるとされた。1997年、ノヴィスラヴ・ジャイッチ(Novislav Đajić)に対するICTYの裁判の判決の中で、1992年6月の大量殺害がジェノサイドであると認定された[1]。大量殺害に加えて、この地域では、非セルビア人市民に対する民族浄化、大量強姦、ボシュニャク人が所有する財産や文化的遺産の意図的な破壊などが行われた。

フォチャ地域からは、すべてのボシュニャク人が殺害されるか追放されるなどによって一掃された。紛争前の住民のうち、2704人が紛争の間に死亡したか行方不明となっている[2]。これに加えて、セルビア人勢力の当局は、後に「強姦収容所」と称される拘留施設を設け、数百人の女性が組織的に強姦された[3][4]。

フォチャの虐殺に加担した多くのセルビア人の当局者、兵士、その他の加担者らが、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷に訴追され、有罪を認定されている。

民族浄化

セルビア人勢力によるボスニア東部での民族浄化に関して、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷の判決では以下のように言及されている:

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のさなか、ボスニア・ヘルツェゴビナの東部ではスルプスカ共和国を中心とするセルビア人勢力が、非セルビア人の市民を攻撃していた。町や村はひとたびセルビア人の手に落ちると、セルビア人勢力 - 軍や警察、準軍事組織、そして時にはセルビア人の村人までもが - おなじパターンに従って行動した。ボシュニャク人の家や住宅は組織的に破壊されるか放火され、ボシュニャク人の市民は追い込まれるか捕らえられ、時に殴打され、殺害された。男性と女性は分離され、男性らの多くは強制収容所に送られた。女性らは各地の拘留地にとどめ置かれ、極めて劣悪な環境の中での生活を強いられ、繰り返し強姦されるなどの虐待を受けた。セルビア人の兵士や警官はこれらの拘留地を訪れ、一人あるいは複数の女性を選んで連れ出し、強姦した
この事件によって、ボシュニャク人市民が地域から一掃されるとともに、ボシュニャク人の文化など、ボシュニャク人が地域に存在した痕跡はほぼ完全に払拭された。市内のすべてのモスクが破壊された。1992年4月22日、セルビア人勢力はアラジャ・モスク(Aladža džamija)を爆破した。アラジャ・モスクは、バルカン半島地域では有名な歴史あるモスクであった。また、このほかに、16世紀から17世紀にかけて建造された8つのモスクが破壊されている。1994年1月、セルビア人当局はフォチャを「スルビニェ」(Србиње / Srbinje)と改称した。「スルビニェ」とは、「セルビア人の地」を意味する語であり、「セルビア人」を意味する「Srbi」と、スラヴ語で土地を表す接尾語「-nje」から成っている。

大量強姦

ボシュニャク人の女性らは複数の拘留施設に拘留され、極めて劣悪で非衛生的な環境の元におかれた。女性らは繰り返し強姦される等の虐待を受けた。セルビア人の軍人や警察官はこの拘留施設を訪れ、1人または複数の女性を選び出し、強姦した。これらの行為はすべて、当局の知るところであり、スルプスカ共和国の当局はこれらの行為が行われていることを認識し、各地の警察をはじめとして時にこれらの行為に直接関与した。フォチャの警察軍の局長ドラガン・ガゴヴィッチ(Dragan Gagović)は、これらの拘留施設を訪れ、女性を強姦した者の一人として人物特定されている。フォチャには複数の強姦収容所があり、その中のひとつは「カラマン(Karaman)の家」と呼ばれていた。女性らはここに拘留されている間、繰り返し強姦されていた。「カラマンの家」に拘留されていた女性らの中には、15歳に満たない少女もいた。

ボシュニャク人女性に対する強姦は、セルビア人にとって、ボシュニャク人に対する勝利と優越性を体現するものとなるため、ボシュニャク人女性は特に強姦の標的となった。たとえば、女性や少女らは、ドラゴリュブ・クナラツ(Dragoljub Kunarac)やその配下の人間によって組織的に、兵士の基地となっているオスマナ・ジキッチ(Osmana Đikić)通り16番地の家に連行される。クナラツは女性や少女らが一般市民であることを知っているが、ここでは女性や少女らはクナラツ自身やその配下の者たちによって強姦される。強姦された少女の中には、14歳の者も複数いた。セルビア人兵士らは、通常、ボシュニャク人に対してまったく気に留めることはなく、特にボシュニャク人女性に対して配慮がなされることはなかった。セルビア人兵士らは多くのボシュニャク人(ムスリム)の少女を拘留施設から連れ出し、自身やその配下の兵士らが強姦するために、一定期間留めおかれた。

また別の例では、ICTYに訴追されたラドミル・コヴァチュ(Radomir Kovač)という人物がいる。コヴァチュの住居に拘束されていた4人の少女は、コヴァチュが少女らのうち3人を繰り返し強姦したと訴え、もってボシュニャク人の市民に対する虐待を継続的に行い続けていたとした。コヴァチュはまた友人を住居に招き、少女らを強姦させることもあった。コヴァチュはまた、この少女らの3人を売った。少女が売られるに先立って、コヴァチュは少女のうち2人を、あるセルビア人兵士に貸し与えた。この兵士は少女らを3週間以上にわたって虐待し、その後少女らはふたたびコヴァチュの元へと送り返された。少女らはその後、別のコヴァチュの知人らにそれぞれ売られた




ーーープリイェドルの虐殺

プリイェドルの虐殺(プリイェドルのぎゃくさつ)、プリイェドルの民族浄化、あるいはプリイェドル・ジェノサイド[1] [2] [3](セルビア語・ボスニア語・クロアチア語:Genocid u Prijedoru)は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中の1992年、セルビア人の政治的および軍事的指導のもとで、主にボシュニャク人の民間人を対象に、ボスニア・ヘルツェゴビナのプリイェドル地域で行われた一連の戦争犯罪である。スレブレニツァの虐殺に次いで、その規模はボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で行われた虐殺の中で2番目に大きなものである。サラエヴォに拠点を置く「サラエヴォ研究・文献情報活動センター」によると、プリイェドル出身の5,200人のボシュニャク人およびクロアチア人がこの間に死亡するか行方不明となり、その周辺地域も合わせればその数はおよそ14,000人に達する。


乗っ取り

セルビア民主党に属するセルビア人政治家らによって、地域の乗っ取りの宣言が準備された。宣言は、乗っ取りが完了した翌日にプリイェドル・ラジオを通じて読み上げられ、一日中繰り返して放送された。乗っ取りを計画している段階では、乗っ取りに加担するのに十分な量のセルビア人の警官の人数は400人であるとされた。乗っ取りの対象は、自治体の市長、副市長、郵便局長、警察署長などの地位と定められた。

4月29日から4月30日にかけての夜、権力の乗っ取りは実行に移された。公共の治安機関と予備警察隊はプリイェドル市内のチルキン・ポリェ(Čirkin Polje)に集まった。集まったのはすべてセルビア人であり、その中には軍服を着ている者もいた。彼らは、大きく5つの集団に分けられ、それぞれ自治体乗っ取り計画のタスクを割り当てられた。それぞれの集団は約20人から構成され、それぞれにリーダーがいる。それぞれの集団は、特定の建物の支配権を奪うよう命じられている。あるグループは議会庁舎を乗っ取る計画を任されていた。別のグループは自治体でメインの警察署の建物の乗っ取りを任され、また別のグループは裁判所を、銀行を、そして郵便局を乗っ取るタスクを担っていた。

旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)は、セルビア人政治家による自治体の乗っ取りは、違法なクーデターであり、純粋にセルビア人のみによる自治体を作るという究極の目的のために、長期にわたって計画・立案されてきたものであると結論付けている。この計画は秘密のものではなく、セルビア人の警察や軍隊、政治家らによって立案された計画に基づいてクーデターは実施されたものとしている。その中で主導的な役割を果たした者の一人がミロミル・スタキッチ(Milomir Stakić)であり、スタキッチは乗っ取り後の自治体の政治において支配的な立場となった。

 市民への武力攻撃

乗っ取りの後、自治体の市民生活は一転した。プリイェドル自治体の非セルビア人市民の間では、緊張と恐怖が一挙に増大した。プリイェドルの町でのセルビア人の兵力の存在感は大きく増していた。武装した兵士らは、プリイェドルの町のすべての高い建物の上に配置されており、セルビア人の警察は自治体の各所に検問所を設けた。

ICTYによるミロミル・スタキッチの裁判で法廷は、1992年に自治体の領域内において、多くの人々が、セルビア人勢力によるボシュニャク人主体の町や村への攻撃によって殺害され、ボスニア・ムスリム人に対する複数の虐殺が起こり、またボスニア・ムスリム人に対する複数の大規模な蛮行があったことは、合理的な疑いなく証明されたと認定した。

プロパガンダ

乗っ取り後、プリイェドル・ラジオは、セルビア人民族主義的な思想を流布した。その中では、非セルビア人を犯罪者扱いし、また罰せられるべき極論主義者であるとした。その一例として、侮辱的な用語を用い、非セルビア人らを「ウスタシャ」、「ムジャーヒディーン」、「ゼレネ・ベラクテ」等と呼んだ。印刷・放送の双方のマスメディアがプロパガンダを流布しており、ICTYではそれらを「まったくの虚構である」と結論付けている。流布されたプロパガンダの中には、次のようなものが含まれる。

ボシュニャク人の政治家、ミルサド・ムヤジッチ(Mirsad Mujadžić)は、セルビア人女性に男児を産めないようにする薬を注入していると糾弾された。クロアチア人のジェリコ・シコラ(Željko Sikora)は、「怪物医師」と呼ばれ、セルビア人女性が男児を妊娠したら中絶させ、またセルビア人の男児を去勢しているとされた。さらに、1992年6月10日のKozarski Vjesnikの記事では、オスマン・マフムリン(Osman Mahmuljin)が、心臓病を持っていたセルビア人の同僚ジヴコ・ドゥキッチ(Živko Dukić)に対して故意に誤った薬物投与を行ったとしている。そして、ラドイカ・エレンコヴ(Radojka Elenkov)がマフムリンによってはじめられた治療を中断したことによって一命を取り留めたとしている。
これらの主張は、セルビア人らに対して非セルビア人を集団攻撃するようけしかける目的で広く流布され、特に社会的地位の高い非セルビア人を対象としてでっち上げられたものである。その対象とされた中には、ムハメド・チェハイッチ(Muhamed Ćehajić)、ツルナリッチ(Crnalić)、エソ・サディコヴィッチ(Eso Sadiković)、オスマン・マフムリン(Osman Mahmuljin)などがいた。スタキッチに対するICTYの裁判の中で、Kozarski Vjesnikの監修者ミレ・ムティッチ(Mile Mutić)やジャーナリストのラデ・ムティッチ(Rade Mutić)らが、地元のセルビア人政治家と頻繁に会合し、次に流布するべきプロパガンダについて知らされていたと結論づけている。

セルビア人兵力の強化

乗っ取りから数週間の間、プリイェドルのセルビア人当局は、彼らの上層部の決定を履行するため、彼らの地位を軍事的に強化することに努めた。1992年5月12日、独自に設置された「セルビア人議会」は、ボスニア・ヘルツェゴビナから撤退することになっていたユーゴスラビア人民軍(JNA)の部隊を集め、ラトコ・ムラディッチを司令官としてセルビア人による軍(スルプスカ共和国軍; VRS)を設立した 。

スルプスカ共和国軍の少佐ラドミロ・ジェリャヤ(Radmilo Željaja)は最後通牒を発し、自治体に住むボシュニャク人市民らに対して、武器をセルビア人の軍に引き渡し、スルプスカ共和国への忠誠を誓い、動員命令に応じるよう求めた。最後通牒ではまた、いかなる抵抗も罰せられると脅迫した。ほとんどの箇所で、対象となった市民はこれらの要求を受け入れ、武器を引き渡せば安全は保障されると信じ、彼らの所持する小銃や拳銃を許可証とともに引き渡した。兵士らによる非セルビア人の家屋に対する家宅捜索が行われ、見つかった武器はすべて押収された。

非セルビア人の家屋のマーキング

多くの非セルビア人は乗っ取り以降に雇用を解かれた。一般的な傾向は、地域のセルビア人当局の決定を反映してものもであった。たとえば、ボスニア・クライナ自治州危機スタッフは、すべての公有企業、共同出資企業、国有機関、公共施設、内務省、スルプスカ共和国軍を保有しており、この危機スタッフを掌握できるのはセルビア国籍を持つ者のみであった。

ラジオから流される発表はまた、非セルビア人らに対して、セルビア人当局への忠誠を示すため、彼らの家屋の外に白い布を吊るすよう命じた。欧州連合監視団(ECMM)とともに1992年8月末にプリイェドルを訪れたチャールズ・マクレオド(Charles McLeod)は、セルビア人とボスニア・ムスリム人が混在する村を訪れた際、ボシュニャク人(ボスニア・ムスリム人)の家屋は屋根に白い旗をつけて識別できるようになっていたと証言した。この証言は、ECMMのバーナバス・メイヒュー(Barnabas Mayhew)の証言によって再確認された。メイヒューの証言では、ボスニア・ムスリム人の家屋は、セルビア人の家屋と識別できるように、白い旗が掲げられていたとしている。

ハンバリネへの攻撃

ハンバリネ(Hambarine)は、プリイェドル自治体にあるボシュニャク人主体の村であった。1992年5月22日、セルビア人の支配するユーゴスラビア人民軍(JNA)は、ハンバリネの住民に対して最後通牒を発した。村の住民らは、ユーゴスラビア人民軍への攻撃に関与したとされた人物を引き渡すよう求められた。最後通牒は受け入れられず、正午ごろ、村に対する砲撃が始まった。砲撃は北西のカラネ(Karane)、ウリイェ(Urije)、およびトピチ丘(Topić)の3方向から行われた。2台ないし3台のセルビア人の戦車と、およそ1000人程度の兵士が攻撃に加わった。ハンバリネに対する砲撃は15時ごろまで続けられた。ボシュニャク人の住民たちは村を守ろうとしたものの、村人たちはハンバリネを離れて他の村へ避難を余儀なくされ、避難のさなかにセルビア人兵士に見つかった者は殺害されたり強姦されたりした。家々は略奪を受けた。その後、軍事活動はクレヴォ(Kurevo)の森へと集中していった。

コザラツへの攻撃

コザラツの町を取り囲むコザラツ地域には、カミチャニ(Kamičani)、コザルシャ(Kozaruša)、スシツィ(Susici)、ブルジャニ(Brđani)、バビチ(Babići)などの村々があった。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争前には、コザラツの住民の98%から99%はボシュニャク人であり、その他はロマ、ウクライナ人、クロアチア人、セルビア人などであった。

セルビア人勢力がプリイェドルを乗っ取った後、コザラツの人々は周囲の村々の支配権を守るために、パトロールを組織した。ハンバリネへの攻撃の後、コザラツの町に対しても最後通牒が行われた。ラドミロ・ジェリャヤ(Radmilo Željaja)は、ラジオ・プリイェドルを通じて最後通牒を伝え、コザラツの人々が要求を受け入れなければ、町は破壊されると脅した。最後通牒の後、コザラツのボシュニャク人とセルビア人勢力の間で交渉が持たれたものの、交渉は決裂に終わった。ストヤン・ジュプリャニン(Stojan Župljanin)は、交渉のセルビア人側の代表であり、ジュプリャニンの要求が満たされない場合、武力を持ってコザラツを奪取するとした。ジュプリャニンは後に、ICTYによって戦争犯罪の容疑で訴追され、逃走を続けたラドヴァン・カラジッチや、2008年時点で依然逃走を続けているラトコ・ムラディッチなどに次いで重要な人物として追われている。1992年5月21日、コザラツのセルビア人住民は町を去った。コザラツはその直後に包囲され、電話回線は切断された。5月22日から23日にかけての夜、プリイェドルの町の方角で轟音が鳴り響き、火はハンバリネからも見られた[16]。

攻撃は1992年5月25日に始まり、5月27日の13時まで続いた。軍の一団が2つの隊に分かれてコザラツに接近し、家屋や監視所に向けて発砲し、同時に、丘からは砲弾が打ち込まれた。射撃は、この地域を脱出しようとする人々に対して向けられた。包囲は厳しく、容赦なく行われた。5000人を超えるセルビア人の兵士や戦闘員らが攻撃に参加した。セルビア人勢力には、2つの105mm榴弾砲砲兵中隊と1つのM-84戦車戦隊の支援を受けた第343自動化旅団も含まれていた。包囲攻撃の後、セルビア人勢力は、町の各戸にいる人々を射撃し、降伏した者をコザラツのサッカー競技場へと連行し、そこで無差別に射撃した。家にいたすべての人々が殺害されるか脱出した後、兵士らは家々に放火した。攻撃によって、コザラツの財物は大規模に破壊された。攻撃によって壊されなかった家々は、重機によって破壊された。コザラツの医療センターもこのときに損害を受けた。攻撃は1992年5月26日まで続けられた。この日、大部分の人々はセルビア人勢力に投降した。セルビア人当局は、降伏を望んだものは全て、隊列を組んで域外に退去し、その間停戦は守られると説明した。後に、この退去者の隊列がバニャ・ルカ=プリイェドル道路に達したとき、男性と女性に分離された。女性らはトルノポリェ強制収容所(Trnopolje)に送られ、男性らはオマルスカ強制収容所(Omarska)やカラテルム強制収容所(Keraterm)に送られた。後に英国放送協会(BBC)の記者が彼らを見つけたとき、それは大きな衝撃を受けるものであった。多くの女性や子供は攻撃の日にプリイェドルに到着した。プリイェドル出兵小隊は、ダド・ムルジャ(Dado Mrđa)、ゾラン・バビッチ(Zoran Babić)らに率いられており、小隊はここで女性や子供らに対して虐待を始めた。この日のうちの、より後になってから、バスが到着し、女性や子供たちはバスに乗るよう命じられ、トルノポリェ強制収容所へ送られた。

負傷者らはコザラツを去ることを許されなかった。たとえば、ICTYでのメルジャニッチ(Merdžanić)の証言によれば、彼は負傷した2人の子供を連れ出すことを認められなかった。2人のうち1人は完全に両足を損壊していた。代わりに、全ての汚れたムスリム(セルビア語: balija)はこの場で死ぬものと告げられた。攻撃の最中に、少なくとも100人が殺害され、1,500人が強制収容所に連行された。スルプスカ共和国軍の参謀総長であった大佐のドラガン・マルチェティッチ(Dragan Marčetić)により1992年5月27日に送られた報告書では、コザルシャ(Kozaruša)、トルノポリェ(Trnopolje)、ドニ・ヤクポヴィチ(Donji Jakupovići)、ゴルニ・ヤクポヴィチ(Gornji Jakupovići)、ベンコヴァツ(Benkovac)、ラコヴィチ(Rakovic)を含むコザラツ周辺地域では、全てのボシュニャク人が一掃された(80-100人は殺害、1,500人は捕獲、100人から200人はコザラ山(Kozara)で逃走中)とした。

国際司法裁判所でのボスニアとセルビアによるジェノサイド裁判(Bosnia v. Serbia Genocide Case)での専門家委員会報告書では、コザラツへの攻撃は3日間続き、兵士らが「あらゆる動くもの」を射撃する中、森へと逃げ込んだと述べた。生存者によると、少なくとも2000人の村人がこの間に殺害された。村人たちによる防戦は5月26日に終わりを迎えた。村人らは10分以内にコザラツのサッカー競技場に集まるよう呼びかけられた。しかし、多くの人々は家を去る機会を与えられる前に、彼らの家で殺害された。ある証言によると、数千人の人々が白旗を掲げて投降を試みたが、3台のセルビア人勢力の戦車は彼らに対して攻撃を加え、多くの人々を殺害したとしている。


強制収容所

コザラツとハンバリネで虐殺が行われている間、セルビア人当局は強制収容所を設立し、その運営の責任者を決定していた。

ケラテルム強制収容所

ケラテルム強制収容所は、工場を改装して1992年5月23日から24日ごろにかけて作られた強制収容所である。収容所には4つの部屋があり、2号室がもっとも広く、3号室は最も狭かった。1992年6月の下旬の時点で、ここには1,200人が収容されていた。毎日、人々が連れ込まれ、また連れ出されていった。7月下旬になると、目に見えて収容者の数が増大した。拘留されている者はほとんどがボスニア・ムスリム人で、その他にクロアチア人もいた。収容者たちは、大きな倉庫の中で、物を運ぶために使われていた木製の台や、むき出しのコンクリートの上にそのまま寝た。状況は狭苦しく、人々は時に重なり合って寝た。1992年6月、1号室には320人が収容され、その数は増大していった。捕虜たちは1日に1食、2切れの小さなパンと、シチューを与えられた。捕虜たちに与えられる食糧は十分ではなかった。

オマルスカ強制収容所

オマルスカの鉱山施設は、プリイェドルから20キロメートル離れたところにあった。最初の捕虜たちは1992年5月の下旬、26日から30日の間にこの地に連行された。オマルスカ強制収容所はすぐに満員となり、捕虜たちのなかには2つの建物の間に留め置かれる者もいた。この区域は特別に取り付けられたスポットライトで照射された。女性の収容者は隔離され、管理棟に収容された。プリイェドルのセルビア人当局の文書によれば、1992年の5月27日から8月16日の間に、3,334人が収容されていた。うち3,197人はボシュニャク人(ボスニア・ムスリム人)であり、125人はクロアチア人であった。

最初の捕虜たちが到着したとき、収容所周辺を常時監視する守衛の職務が創設された。収容所周辺には対人地雷が設置された。収容所の環境はきわめて劣悪であった。「ホワイト・ハウス」と呼ばれた建物には、20平方メートルに満たない小部屋に45人が押し込められていた。収容された捕虜たちの顔はゆがみ、血痕が付いており、また壁にも血痕が付いていた。初期のころから、捕虜たちは拳や銃身、木や金属の棒で恒常的に殴られていた。守衛らは捕虜を殺害しようと思ったときには、心臓や腎臓の付近を殴った。「車庫」には、150人-160人ほどの人々が「イワシのように」詰め込まれており、室温は耐え難いほどになっていた。最初の数日の間、捕虜たちは外出を許されず、ガソリン缶に入った水と、少量のパンしか与えられなかった。捕虜たちは夜の間に窒息することもあり、朝になると遺体が外に運び出された。食堂の裏の部屋は「ムヨ(Mujo)の部屋」と呼ばれていた。この部屋の大きさは12メートル×15メートルほどであったが、収容者の人数は平均で500人に達しており、そのほとんどはボシュニャク人であった。収容所に送られた女性らは尋問室に収容され、血液や皮膚、毛などのために毎日部屋を掃除しなければならない状況であった。収容所で捕虜たちは、人々が殴られてうめき、泣き叫ぶ声を耳にしている。

オマルスカ強制収容所の収容者たちは、1日に1回の食事しか与えられなかった。与えられる食事は質の悪いものであり、通常、食べ物を与えられ、食べ、そして皿を返却するまで、3分程度となっていた。食事に際しても、頻繁に暴力を受けた。トイレは閉鎖され、人間の排泄物がいたるところにあった。イギリスのジャーナリスト、エドワード・ヴァリャミー(Edward Vulliamy)は、彼が収容所を訪れたとき、収容者たちは肉体的にきわめて貧弱な状態にあったと証言した。ヴャリャミーは、捕虜たちが器に1杯のスープとパンを食べる様子を見て、彼らが長い間飢えにさらされているとの印象を受けた。彼らはとてもおびえている様子だった。捕虜たちは、工業排水によって汚染された川の水を飲み、下痢や赤痢を患っていた。捕虜たちに対していかなる犯罪歴も記録されておらず、また捕虜たちも自身が収容されている嫌疑の内容を知らされることはなかった。明らかに、彼らの拘留を正当化する理由は存在しなかった。

オマルスカ収容所は、外国人ジャーナリストの訪問後まもなく、1992年8月6日あるいは7日に閉鎖された。オマルスカ収容所の捕虜たちは、グループ別に分けられ、ぞれぞれ別の方面に送られた。1,500人程度が20台のバスで移送された。

トルノポリェ強制収容所

トルノポリェ強制収容所は、トルノポリェ(Trnoplje)の村に1992年5月24日に設置された。強制収容所は全方位からセルビア人勢力の兵士が監視していた。収容所周辺には、機関銃の陣地や、武装した監視地点があり、その銃口を収容所へと向けていた。収容所には数千人が拘留されており、その大多数はボスニア・ムスリム人、また一部はクロアチア人であった。推計によれば、1992年8月7日の時点で、およそ5,000人の捕虜がここに収容されていた。女性や子供たちも、軍務可能年齢にある男性らとともにトルノポリェ収容所に収容されていた。強制収容所の捕虜たちは入れ替わりが激しく、多くの人々はトルノポリェに送り込まれてから別の収容所などに移送されるまで1週間未満にとどまった。平均的に、与えられる食事の質は悪く、収容者たちは飢餓状態に陥った。さらに、水の供給も十分ではなく、トイレ設備も不十分であった。収容者の多くは屋外で寝た。セルビア人兵士らは野球のバットや鉄の棒、ライフルの銃身、あるいは彼らの腕や脚など、可能なあらゆるものを用いて捕虜たちに暴行を加えた。捕虜たちは質問を受けるために個別に収容所外に連れ出され、彼らの多くは打ち傷や切り傷を伴って戻ってきた。トルノポリェに拘留された女性らは夜間にセルビア人兵士らに連行され、強姦やその他の性的暴行を受けた

スロボダン・クルゾヴィッチ(Slobodan Kuruzović)はトルノポリェ強制収容所の司令官であり、1992年のその在任中に延べ6,000人ないし7,000人がトルノポリェに収容されていた。収容された人々はいかなる犯罪行為で有罪となったこともなかった。国際赤十字が1992年8月中旬に収容所を訪れた。その数日後、捕虜たちは登録を受け、登録証を交付された。収容所は9月30日に公式に閉鎖されたものの、3,500人程度がその期日を過ぎてもなおトルノポリェに留め置かれたことが証拠により明らかとなっている。その後、彼らは中央ボスニアのトラヴニクに移送された

その他の収容施設

このほかにもプリイェドル自治体には複数の収容施設があり、ボシュニャク人やその他の非セルビア人を収容していた。これらの収容施設には、ユーゴスラビア人民軍の兵舎や、ミシュカ・グラヴァ・コミュニティ・センター(Miška Glava)、SUPビルディングとして知られる警察の建物などがあった。

プリイェドルのユーゴスラビア人民軍の兵舎は、ジャルコ・ズゴニャニン(Žarko Zgonjanin)の兵舎と呼ばれていた。ここは、捕虜たちの移送の拠点として使用されていた。ビシュチャニ(Bišćani)の民族浄化から逃れていた人々の中には、セルビア人兵士にだまされ、ミシュカ・グラヴァに連行された。翌朝に彼らは呼び出され、尋問を受け、殴打された。このパターンが数日間にわたって続いた。リズツァノヴィチ(Rizvanovići)の村の出身の複数の人々は、兵士によって連れ出され、以降目撃されていない。およそ100人の男性らはユーゴスラビア人民軍の兵士や予備警察によってカライェヴォ(Kalajevo)近くの森の中で捕獲され、ミシュカ・グラヴァに連行された。拘留部屋はSUPのメインの棟の裏側にあった。また、このほかにも夜間に連行され、殴打される野原もあった。SUPに拘留された捕虜たちは、日常的に脅迫されたり侮辱されたりした。守衛らは、捕虜たちを「バーリヤ」と呼んだ。「バーリヤ」とは賎民を意味し、ムスリム農民に対する侮辱に用いられる。


収容所での殺害

プリイェドルの民族浄化の間、収容所の内外では多くの殺害が行われていた。

スタキッチ裁判において提示された証拠の要旨では、法廷は100人を超える人々が1992年7月にオマルスカ強制収容所で殺害されたと認定した。およそ200人がハンバリネからオマルスカ強制収容所に1992年7月に到着した。彼らはその直後に「ホワイト・ハウス」と呼ばれる建物に収容された。7月17日の午前1時から2時ごろから、夜明けごろにかけて、連続的に銃声が響く音が聞かれた。多くの遺体が「ホワイト・ハウス」の前に見られた。収容所の守衛の中の一人、ジヴコ・マルマト(Zivko Marmat)は、遺体にむけてさらに射撃を加えている姿が目撃されている。全ての犠牲者は、頭にもう一発ずつ打ち込まれた。遺体はその後トラックに載せられ、持ち去られた。このとき、合計で、180程度の遺体があった。

1992年7月24日、ケラテルム収容所で虐殺が発生し、「3号室虐殺事件」と呼ばれている。虐殺事件は、この収容所では初めての収容所内での大規模殺戮であった。以前に行われたブルド(Brdo)の民族浄化によって捕虜となった新しいボシュニャク人の収容者たちは、3号室に監禁された。最初の数日間、彼らは食事を取ることを禁じられ、殴打や虐待の対象となった。虐殺の当日、大人数のセルビア人兵士らが軍服と赤いベレー帽を身に着けて収容所に到着した。3号室の前には機関銃が設置された。この夜、射撃の音とうめき声が3号室から聞こえた。機関銃が射撃を始めた。翌日の朝、3号室の壁は血にまみれていた。そこには、遺体と負傷者が山積みとなっていた。守衛らはドアを開け、このように言った:「この腐った汚いムスリム共を見ろよ。こいつら自分たちで殺しあっているぞ」。3号室の外の床も血で覆われていた。トラックが到着し、1号室の捕虜1人が遺体をトラックに積む作業を手伝った。その後、遺体を満載したトラックは、それを持ち去っていった。作業を行った1号室の捕虜は、トラックには全部で128の遺体があったことを報告した。トラックが去った後、トラックから流れ落ちた血の跡を確認することができた。その後この日のうちに、3号室を掃除するために消防車が到着した。

出典:これは
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