ルワンダ紛争と国連

2010/05/31 00:35 登録: ロボ

以下、(負の感情が)萌えるコピペのため、明るい萌えコピをお求めの方と未成年者は閲覧を控える事を推奨します。

一部省略したので、大まかな用語の説明。

ダレール=国連のルワンダ支援団の司令官

ーーフツとツチ

フツとツチは元々は同じ言語を使い、農耕民族であるか遊牧民族であるかという違いでしかなく、貧富の差がそれぞれの民族を形成するなど両者の境界は曖昧であった。

しかし、ベルギー人をはじめとする白人による植民地支配がはじまると、鼻の大きさや肌の色などを基準に境界が作られた。

ーールワンダ紛争

概要

ルワンダ紛争は、フツ系政権および支援するフランス語系アフリカ、フランス本国と、
主にツチ難民から構成されるルワンダ愛国戦線および支援するウガンダ政府との争いという歴史的経緯をもつ。

ルワンダ紛争により、「国内外のツチはかつてのようにフツを奴隷とするつもりだ。我々はこれに対し手段を問わず抵抗しなければならない」という主張(フツ・パワー)が過激派フツ側からなされた。



虐殺

1994年4月7日に開始されたジェノサイドでは、ルワンダ軍やフツ民兵グループが、組織的行動として捕らえたツチを年齢や性別に関わらず全て殺害した。

また、穏健派フツは裏切り者として真っ先に殺害された。

フツの市民は虐殺に協力することを強いられ、ツチの隣人を殺害するよう命令された。

この命令を拒んだものはフツの裏切り者として殺害された。

大半の国が首都から自国民を避難させ、虐殺初期の時点で同国内の大使館を放棄した。

状況の悪化を受けて、国営ラジオのラジオ・ルワンダは人々に外出しないよう呼びかける一方で、フツ至上主義者の所有するラジオ・テレビはツチと穏健派フツに対する辛辣(しんらつ)なプロパガンダ放送を繰り返した。

国内各地の道路数百箇所では、民兵による検問所が作られた。

大々的にジェノサイドが勃発した4月7日に首都にいたダレールと国際連合ルワンダ支援団メンバーは保護を求めて逃げ込んでくるツチを保護したが、徐々にエスカレートするフツの攻撃を止めることができなかった。

この時、過激派フツはラジオ・テレビの報道を受けて、ダレールと国際連合ルワンダ支援団メンバーも標的の1つとしていた。



4月8日、ダレールは電報をニューヨークへ送っている。
同電報には、複数の閣僚を含む政治家や平和維持軍のペルギー兵が殺害されたことも詳述されていた。

ダレールはまた、この現在進行中の虐殺行為が極めて組織立ったもので、主に大統領警備隊によって指揮されていると国連に報告している。

4月9日、国連監視団はギコンドのポーランド人教会にて多数の児童が虐殺されるのを目撃した。

同日に、高度に武装化した練度の高い欧州軍の兵士1000人が、ヨーロッパ市民の国外避難を護衛するためにルワンダ入りしたが、部隊は国際連合ルワンダ支援団を援護するための滞在は一切行わなかった。

9日になると、ワシントン・ポスト紙が同国駐在員を恐怖させた事件として、国際連合ルワンダ支援団の職員が殺害された事実を報道した。

また、4月9日から10日にかけて、アメリカのローソン駐ルワンダ大使と250人のアメリカ人が国外へ避難した。

ジェノサイドは速やかにルワンダ全土へ広がった。

ーー

ある場所では、フツ出身の市長の勧めを受けて多数のツチが市内にあったカトリック教会へ逃れたが、その後市長は地元の民兵と協力し、ブルドーザーを用いて教会の建物を破壊し、教会内に隠れていたツチは老若男女を問わずにマチェーテで叩き切り、ライフルで撃たれて大半が虐殺された。

その他では、約2000人が避難していたキガリの公立技術学校を警護していた国際連合ルワンダ支援団のベルギー兵が避難民を放置して4月11日に撤退した結果、ルワンダ軍と民兵によって避難民全員が虐殺された事件が発生している。

この事件は2005年に『ルワンダの涙』として映画化された。

犠牲者の大半は自身の住んでいた村や町で殺害され、直接手を下したのは多くの場合隣人や同じ村の住人であった。

なお、民兵組織の一部メンバーにはライフルを殺害に利用した者もあったが、民兵は大半の場合マチェーテ(ナタ)で犠牲者を叩き切ることで殺害を行なった。

犠牲者はしばしば町の教会や学校へ隠れているところを発見され、フツの武装集団がこれを虐殺した。

一般の市民もツチや穏健派フツの隣人を殺すよう地元当局や政府後援ラジオから呼びかけを受け、これを拒んだ者がフツの裏切り者として頻繁に殺害された。

『虐殺へ参加するか、自身を虐殺されるかのいずれか』の状況であったという。

また、ラジオやヤギ、強姦の対象となる若い娘といったツチの"資産"は、虐殺参加者のために事前にリストアップされており、殺害する前後に略奪もしばしば行われた。

各地に構築された民兵組織による検問では、ツチやツチのような外見を持つものが片っ端から捕らえられて虐殺された。

多くの場合で、犠牲者は殺害される前に略奪され、性的攻撃を受け、強姦され、拷問を受けた。

川や湖は虐殺された死体で溢れ、または道端に積み上げたり、殺害現場に放置された。



夫や家族を殺害され寡婦となった女性の多くが強姦の被害を受けており、その多くは現在HIVに感染していることが明らかとなっている。

さらに、数多くの孤児や寡婦が一家の稼ぎ手を失ったために極貧の生活を送っており、売春で生計を立てざるを得ない女性も存在している。

ーー

また、ルワンダ虐殺では莫大な数の犠牲者の存在とともに、虐殺や拷問の残虐さでも特筆すべきものがあったことが知られている。

ツチに対して虐殺者がしばしば行った拷問には手や足を切断するものがあり、これは犠牲者の逃走を防ぐ目的のほか、比較的背の高いツチに対して「適切な身長に縮める」目的で用いられた。

この際、手足を切断された犠牲者が悶え苦しみながら徐々に死に至る周囲で、多数の虐殺者が犠牲者を囃し立てることがしばしば行われたという。

時には犠牲者は自身の配偶者や子供を殺すことを強いられ、子供は親の目の前で殺害され、血縁関係者同士の近親相姦を強要され、他の犠牲者の血肉を食らうことを強制された。

また、多くの人々が建物に押し込まれ、手榴弾で爆殺されたり、放火により生きたまま焼き殺された。

さらに、犠牲者を卑しめる目的と殺害後に衣服を奪い取る目的で、犠牲者はしばしば服を脱がされ裸にされた上で殺害された。

加えて多くの場合、殺害されたツチの遺体埋葬が妨害されてそのまま放置された結果、多くの遺体が犬や鳥といった獣に貪られた。

アフリカン・ライツが虐殺生存者の証言をまとめ、1995年に刊行した。

ナタでずたずたに切られて殺されるので金を渡して銃で一思いに殺すように頼んだ,女性は強姦された後に殺された,幼児は岩にたたきつけられたり汚物槽に生きたまま落とされた,乳房や男性器を切り落とし部位ごとに整理して積み上げた,母親は助かりたかったら代わりに自分の子どもを殺すよう命じられた,妊娠後期の妻が夫の眼前で腹を割かれ,夫は「ほら,こいつを食え」と胎児を顔に押し付けられた。

といった報告が数多く詳細に収録されている。

このほか、被害者の多くがマチェーテや猟銃、鍬などの身近な道具で殺害されたことから、生存者のその後の日常生活においてPTSDを容易に惹起する可能性を指摘する声もある。



ーールワンダ虐殺下の強姦

1998年、ルワンダ国際戦犯法廷はルワンダにおける戦時下の強姦をジェノサイドの構成要素の1つであるとする画期的な判断を下した。

過激派フツ政党と関連のあるフツ系民兵組織が主体となったことが知られている

また、2008年にはルワンダ法務省により、「フランス兵はツチ女性に対する強姦を複数行なった」とする声明が出されているが、これについては現在のところ実証されていない。



ーージェノシデール

ジェノシデールとは、ルワンダ虐殺に参加した者を指す言葉である。

ジェノシデールの大半は普通のルワンダ男性であり、教育、職業、年齢、子供の数など、何ら特異性のない一般的な社会集団から構成されていた。

この一般的なジェノシデールは比較的教育水準が低い若者が多かったのに対し、煽動や指揮を行っていた者たちは比較的教育水準が高く、社会的地位の高い者が多かったことが報告されている。



ー国際社会の対応

ーー国際連合ルワンダ支援団の動向

国際連合ルワンダ支援団 (UNAMIR) の活動は、アルーシャ協定の時点から後のジェノサイドに至るまで、資源も乏しいこのアフリカの小国の揉め事に巻き込まれることに消極的であった大多数の国連安全保障理事会メンバーにより妨げられ続けられた。

そんな中でベルギーのみが国際連合ルワンダ支援団に対し確固としたマンデートを与えることを要求していたが、四月初旬に大統領の警護を行っていた自国の平和維持軍兵士10人が殺害されると、同国はルワンダでの平和維持任務から撤退した。

なお、ベルギー部隊は練度も高く、装備も優れていたため、同国の撤退は大きな痛手となった。

国際連合ルワンダ支援団側は、せめて同部隊の装備をルワンダへ残していくよう依頼したが、この要求も拒絶された。

その後、国連とその加盟国は現実から著しく外れた方針を採り始めた。

国際連合ルワンダ支援団のダレールは以前から人員増強を強く要求しており、ジェノサイドがルワンダ各地で開始された4月半ばの時点にも事態収拾のための人員要求を行なったが、これらは全て拒否された。

さらに、虐殺が進行している最中に、ダレールは国連本部から"国際連合ルワンダ支援団はルワンダにいる外国人の避難のみに焦点を当てた活動を行なうよう"指示を受けた。

この命令変更により、2000人のツチが避難していたキガリの公立技術学校を警護していたベルギーの平和維持部隊は、学校の周囲がビールを飲みながらフツ・パワーのプロパガンダを繰り返し叫ぶ過激派フツに取り囲まれている状況であったにも関わらず、同施設の警護任務を放棄して撤収した。

その後、学校を取り囲んでいた武装勢力が学校内へ突入し、数百人の児童を含むおよそ2000人が虐殺された。

さらに、この事件から4日後には、安全保障理事会は国際連合ルワンダ支援団を280人にまで減らすことを決定した。

なお、その一方で国連安保理は同時期に起こったボスニア紛争に対して積極的な活動を行なっていた。

ルワンダの平和維持軍削減を決めた国連安保理決議第912号を可決したのと同じ日に、ボスニア内における安全地帯防衛の堅持を確認した国連安保理決議第913号を通過させたことから、差別的観点からヨーロッパをアフリカよりも優先させたとの指摘がなされている。

なお、ダレールは国連から与えられた停戦監視のみを目的とするマンデートを無視して住民保護を行ない、4月9日には国連平和維持活動局本部から「マンデートに従うよう」指示を受けたが、その後もマンデートを無視して駐屯地に逃れてきた避難民を保護した。

しかしながら、平和維持軍人員の完全な不足とマンデートから積極的な介入行動を行なえず、目の前で殺害されようとする避難民を助けられず、平和維持軍の増員と強いマンデートを望むダレールの要求は拒絶された。

その後の1994年5月17日になって、国連は「ジェノサイド行為が行われたかもしれない」ことを認めた。

この5月半ばには、兵員増強の可否に関して5月13日に投票で決定する予定であったが、アメリカのマデレーン・オルブライト大使の活動により4日間引き伸ばされ、17日まで投票が延期された。

さらに国連はアメリカに50台の装甲兵員輸送車の提供を求めたが、アメリカは国連に対して輸送費用の650万ドルを含む計1500万ドルをリース費用として要求した。

結果として、国連部隊の展開はコスト面や装備の不足などを原因として遅延し、5月17日に国連でアメリカが主張した通りに非常にゆっくりと展開した。

司令官であったダレールは、虐殺の発生を事前に知りながら防止できなかったこと、虐殺期間中も積極的な活動を行なえなかったことに対する自責の念から任務続行が不可能となり、虐殺終結後の1994年8月に司令官を離任した。

その後、カナダに帰国後もうつ病やPTSDに悩まされ続けていたという。

また、帰国後に出演したカナダのテレビ番組では以下のように述べた。

私にとって、ルワンダ人の苦境に対する国際社会、とりわけ西側諸国の無関心と冷淡さを悼む行為はまだ始まってもいない。なぜなら、基本的には、非常に兵士らしい言葉遣いで言わせてもらえば、誰もルワンダのことなんか知っちゃいないからだ。正直になろうじゃないか。ルワンダのジェノサイドのことをいまだに覚えている人は何人いる? 第二次世界大戦でのジェノサイドをみなが覚えているのは、全員がそこに関係していたからだ。では、ルワンダのジェノサイドには、実のところ誰が関与していた? 正しく理解している人がいるかどうか分からないが、ルワンダではわずか三ヵ月半の間にユーゴスラヴィア紛争をすべてを合わせたよりも多くの人が殺され、怪我を負い、追放されたんだ。そのユーゴスラヴィアには我々は6万人もの兵士を送り込み、それだけでなく西側世界はすべて集まり、そこに何十億ドルも注ぎ込んで解決策を見出そうと取り組みを続けている。ルワンダの問題を解決するために、正直なところ何が行なわれただろうか? 誰がルワンダのために嘆き、本当にそこに生き、その結果を生き続けているだろうか? だから、私が個人的に知っていたルワンダ人が何百人も、家族ともども殺されてしまった−見飽きるほどの死体が−村がまるごと消し去られて…我々は毎日そういう情報を送り続け、国際社会はただ見守っていた…。

この発言を行なった後の1997年9月、ダレールはベルギーの平和維持軍兵士10人が殺害された件についてベルギー議会で証言を要求されたが、国連事務総長により証言は禁じられた。

それから3年後の2000年、ダレールは公園でアルコールと睡眠薬を大量服用して自殺を図るが、昏睡状態のところを発見され死を免れた。

ーーーフランスの動向

イギリス人作家のリンダ・メルバーンは、フランスの政策はルワンダ愛国戦線の軍事的勝利を避けるためのものであり、この政策は、軍人、政治家、外交官、実業家、上級諜報員などの秘密ネットワークにより作られたという。

なお、ルワンダ虐殺時に行なわれたフランスの政策は、議会にも報道機関にも不可解なものであったことを論じている。



6月22日、国連部隊の展開が進む兆しが一向になかったことから、国連安全保障理事会は国連安保理議決第929号を議決し、駐留するフランス軍に対して、"人道上の任務としてルワンダへ介入すること"と、"同任務の遂行に必要であれば、あらゆる手段を使用して良いこと"を承認した。

フランスは、自国とフランス語圏のアフリカ諸国を中心とした多国籍軍を編成し、ルワンダの南西部全域へ部隊を展開した。

このフランス語圏からなる多国籍軍は、ジェノサイドの鎮圧と戦闘行為の停止を目的として人道確保地帯と呼ばれるエリアを確立した。

しかし、虐殺で中心的な役割を果たしたジェノシデールや虐殺に関与した過激派フツが、この地域を介して近隣諸国へ逃亡するのを手助けする結果となった。

さらに同作戦によって1万人のツチが救われた一方で、数万人が殺害されたという。

フツ過激派はしばしばフランス国旗を用いてツチをおびきよせて殺害したり、フランス軍が救助を行うためにその場で待機させていたツチを殺害したことが知られている。

トルコ石作戦は、過激派フツを援護するものであったと、駐フランス大使でルワンダ愛国戦線出身のジャック・ビホザガラは批難している。

ビホザガラは後に「トルコ石作戦はジェノサイド加害者の保護のみを目的としていた。なぜならば、ジェノサイドは"人道確保地帯"の中ですら行なわれていたのだ。」と証言している。

2006年11月22日、フランスの裁判官は、現大統領を含むルワンダ愛国戦線の指導者9人に逮捕状を発出した。

カガメ大統領は嫌疑を否定し、この嫌疑は政治的な動機で主張されたものであるとフランスを批難し、同月中にフランスとの外交関係を断絶した。



ーーアメリカの動向

1993年まで、世界の平和維持活動を積極的に行なっていたアメリカであったが、ソマリア内戦へ平和維持軍として軍事介入を試みた結果、アメリカ兵18人が殺害され、その遺体が市内を引き回された映像が流されたため、アメリカの世論は撤退へと大きく傾き、その後のアメリカの平和維持活動へ大きな影響を与えた。

アメリカはルワンダ虐殺が行われていた期間にルワンダで軍を展開しなかった。

アメリカ国家安全保障アーカイブの報告書は「アメリカ政府は後述する5種類の手段を用いたことで、ジェノサイドに対するアメリカと世界各国の反応を遅らせることに貢献した。」と指摘する。

国連に対し1994年4月に、国連部隊(国際連合ルワンダ支援団)の全面撤退を働きかけた。
国務長官であったウォーレン・クリストファーは5月21日まで"ジェノサイド"の語を公式に使用することを認めず、その後もアメリカ政府当局者が公然と"ジェノサイド"の語を使うようになるまでにはさらに3週間待たねばならなかった。
官僚政治的な内部抗争により、ジェノサイドに対するアメリカの全般的な対応が遅くなった。
コスト面と国際法上の都合から殺害を煽る過激派によるラジオ放送のジャミングを拒否した。
アメリカ政府は誰がジェノサイドを指揮しているか正確に知っており、実際に指導者らとジェノサイド行為の終了を促す話し合いを行なったが、具体的な行動を追求しなかった。
なお、アメリカが"ジェノサイド"の語の使用を頑なに拒んでいたのは、もしルワンダで進行中の事態が"ジェノサイド"であればジェノサイド条約の批准国として行動する必要が生じるためであった。



ーーWikipedia「ジェノサイド」より

ルワンダ紛争



進行している虐殺がジェノサイドであると判断される場合は条約調印国全部に介入義務が生じるため、



介入を避けようとした調印国の抵抗により国連でその認定が遅れた、



その際にジェノサイド的行為が行われていると見解を発表するにとどまった。



虐殺終了後に事後的にジェノサイドであると認定される。

出典:ルワンダ紛争と
リンク:国連の対応

(・∀・): 60 | (・A・): 30

TOP