ハナパイ

2010/08/15 02:20 登録: ヤンキース



ハナ『あのさ、シンジ君』
シン『なんだいハナパイ』
ハナ『シンジ君は誰かを好きになったことある?』
シン『ええっと、あるような、ないような…一応あるつもりでいるけどね』
ハナ『そうなんだ、難しいんだね』
シン『難しいね。人を好きになるって』
ハナ『今日学校へ行く時ね、一目惚れしたんだ』
シン『へぇ、どんな子なんだい?』
ハナ『おんなじ学校の子なんだけど、スラッとして、色白の子なの』
シン『名前は?』
ハナ『わからない』
シン『そうなんだ』
ハナ『やっぱり一目惚れってアテにならないのかな』
シン『そうとは限らないよ』
ハナ『でもどんな子なのか全然わからないんだ』
シン『その子は美人な子なの?ハナパイは容姿に惚れたのかい?』
ハナ『美人な方ではないかもしれないけど、なんだかとても綺麗に見えたんだよ』
シン『人の容姿と中身は必ずしも別物とは言えないよ、内と外はお互いを映し合っているんだからね。ハナパイにはその子の心が見えたのかもしれないよ』
ハナ『そうなのかな。わからないや』
シン『本当は僕にもわからないんだけどね。良い子だといいね』
ハナ『良い子だったらいいな。本当に綺麗な人だったんだ』



シン『ハナパイ、この間のあの子とはどうなったんだい』
ハナ『特に何もないよ。進展といえば名前がわかった事ぐらいかな』
シン『良かったじゃないか。なんて名前だったの?』
ハナ『彼女はマリ-っていうんだ』
シン『いい名前だね。どうして名前がわかったの?』
ハナ『上履きに書いてあったんだ』
シン『そうなんだ』
ハナ『シンジ君、名前って不思議だね』
シン『どうしてそう思うんだい』
ハナ『ハナパイは彼女の名前しか知らない。だけど名前がわかっただけで、彼女をすごく身近に感じられるんだ』
シン『それは不思議だね』
ハナ『どうしてなのかな』
シン『ううんと、多分彼女がその名前と一緒にいままで育って来たからじゃないかな』
ハナ『名前は人生の一部なんだね』
シン『そして彼女の一部なんだ』
ハナ『そうなんだ。だからこんなに愛しい響きに感じるんだね』
シン『そうかもしれないね』



ハナ『シンジ君、学校は楽しかった?』
シン『楽しかったよ』
ハナ『ハナパイも楽しかった』
シン『良かったね』
ハナ『マリーは学校楽しいかな』
シン『どうしてだい?』
ハナ『今日、お弁当を食べたあとの昼休みに、マリーのクラスの前を通ったんだ』
シン『マリーはいたかい?』
ハナ『いたよ。マリーは一番後ろの自分の席で独りでお弁当を食べてたんだ。寂しくないのかな』
シン『寂しそうに見えたの?』
ハナ『どうだろう。わからない』
シン『彼女は独りが好きなのかも』
ハナ『そうかもしれないし、違うかもしれない。ハナパイにはわからない』
シン『わからないのは、悪い事ではないよ』
ハナ『そうだね。でももっとマリーの事をよく知りたいな』
シン『そうなんだ』
ハナ『そしてもし彼女が寂しいと思っているなら、ハナパイが傍にいてあげたい』
シン『優しいね、ハナパイは』
ハナ『いや違うよ』
シン『うん。わかってるさ』
ハナ『ハナパイは本当はすごく汚いんだよ』
シン『そんな事はないさ。ただ人間はいつも中途半端なのさ。完璧な善人になる事も、完璧な悪人になる事もできない。いつも半々なんだと思うよ』
ハナ『でもハナパイは自分が汚く感じるよ』
シン『感じない人の方が間違ってるんだよ。たぶんね』



シン『もうこんな時間か』
ハナ『最近夜になると落ち着かなくなるんだ』
シン『どうしたの?』
ハナ『わからない。夜独りになると自分が世間から除外されているような気分になるんだ』
シン『わかる気がするよ』
ハナ『それで今マリーは何してるんだろうとか、晩ご飯は何を食べたんだろうとかいうことばかり考えてしまうんだ』
シン『重症みたいだね』
ハナ『毎晩なんだよ』
シン『彼女ともっと近づけたら少しはよくなるんじゃないかな。メル友ぐらいに』
ハナ『無理だよそんなの』
シン『わからないじゃないか』
ハナ『彼女はハナパイなんかに興味ないよ』
シン『そうかな。なんでそう思うんだい?』
ハナ『わからないよ。彼女のことなんか何ひとつわからない』
シン『これから知り合っていけばいいじゃないか。最初はみんな他人なんだから』
ハナ『ハナパイはいくじなしなんだ。勇気がないんだ。自信がないんだ。嫌われるのが怖いんだ』
シン『ハナパイ、今日はもう遅いよ。ゆっくり眠ろう』



ハナ『今日駅から学校まで歩く間、彼女を見つけたんだ』
シン『良かったね』
ハナ『彼女の後ろ姿を目で追いながら歩いたんだ』
シン『そう』
ハナ『彼女は途中でコンビニに寄ったんだ。だからハナパイも入ったんだ』
シン『そうかい』
ハナ『彼女の髪はふわふわ揺れるんだ。そして彼女はなんだか憂鬱な目をしてるんだよ』
シン『それで?』
ハナ『彼女はミルクティを買ったんだ。彼女の瞳は黒くて小さめで、指がほっそりとしてて、鼻筋が通っていて唇はツンと上向きなんだ。』
シン『そうかい』
ハナ『頬にはうっすらそばかすがあって、歩く時はほんのり足が外側を向くんだ』
シン『そうなんだ』
ハナ『シンジ君、ハナパイは変態なんじゃないかな』
シン『…そうかもしれないね』
ハナ『ハナパイは彼女の一つ一つの特徴がとても新鮮に感じたんだ。彼女の動きの全てはとても官能的だった』
シン『うん、そうかい』
ハナ『ハナパイはおかしいのかな』
シン『おかしくなんかないさ。人間はみんな変態なんだよ』
ハナ『みんな?』
シン『みんなさ…』



ハナ『今日学校で友達と、うちの学校で可愛い子は誰かって話してたんだ』
シン『うん』
ハナ『ハナパイはマリーが可愛いって言ってみたんだ』
シン『友達はなんだって?』
ハナ『彼女のことを知らないみたいだった』
シン『クラスも違うしね』
ハナ『でもそのあとその友達と連れションに行った時、廊下で彼女とすれ違ったんだ。だから、今の子がマリーだよって友達に教えてあげたんだ』
シン『友達の反応は?』
ハナ『…全然可愛くないって』
シン『気にする事ないさ。自分が可愛いと思うならいいじゃないか』
ハナ『別にショックではなかったけど驚いたんだ。彼女は誰が見てもそれなりに可愛いと思っていたから』
シン『競争率が下がったじゃないか』
ハナ『喜んでもいいのかな…』
シン『どうしてだい?』
ハナ『競争率とかそういうものなのかな。彼女と付き合えるかどうかは大した問題じゃないと思うんだよ…。大切なのはハナパイと付き合ったとして彼女が幸せなのかどうかだと思うんだ…』



ハナ『ハナパイはマリーのことなんて何も知らないけれど、もしも彼女と付き合えたら、そのまま一生一緒に連れ添っていけるなら、ハナパイは世界一の幸せ者だと思うんだ』
シン『そうだね。一番好きな人と結ばれるのは意外と難しいことかもしれないね』
ハナ『うん。ハナパイは彼女にも幸せになってもらいたい。世界一幸せになってもらいたいんだ』
シン『だから彼女に妥協してほしくないという訳だね』
ハナ『うん。彼女には彼女の本当に一番好きな人と、一片の疑いも妥協もなく愛せる人と一緒になってもらいたいんだよ。そしてハナパイは彼女にとってのそういう人になりたいんだ』
シン『相思相愛ということだね』
ハナ『ハナパイは彼女の一番好きな人になりたい。彼女にふさわしい人間になって、彼女を幸せにしてあげたい。でもこれは、やっぱりエゴなのかな…彼女はハナパイの名前すら知らないのに…』
シン『エゴなのかもしれないね。でもきっとそれは優しいエゴだと僕は思うよ』
ハナ『ありがとう。シンジ君は優しいんだね』
シン『…そんなことないさ』



無意味に携帯をいじりながら考えた。
なぜ学校の椅子というのはこんなにも座り心地が悪いのだろうか。
ヘッドレストとリクライニング機能をつけるだけでずっと快適になるだろうに。
『どうした機嫌悪いのか?』
『いや、背中が痛いだけ』
『そうか。今日夜バイトあるか?』
『今日はない』
『じゃあよかった。飯でも食いに行こう』
『飯?野郎が二人でか?』
『いや実は食事会という名のプチ合コンだ。となりの女子高の子と』
『ふうん、可愛いの?』
『まぁまぁぐらいだろうとは思う。しかしまぁ俺らだってそんなに人のこと言える面じゃないだろ』
『ご名答』
世の中には自然なバランスというものがある。
当たり前の話だろう。



ハナ『今日学校帰りにマリーと同じ電車になったんだ。彼女は友達と二人で帰っていた』
シン『そうかい』
ハナ『でもその友達は彼女と同じクラスではないんだ。たぶん一年か二年のクラスの時の友達だと思う』
シン『うん』
ハナ『たまに廊下とかで見かける時も一人か、すごく暗い感じの友達と一緒なんだ。それもそんなに仲が良さそうな雰囲気じゃないし。彼女は学校楽しいのかな』
シン『前にも言ったけれど彼女は独りが好きなのかもしれないし、うるさい友達とハシャぐのも好きじゃないのかもしれないよ』
ハナ『そうだね。でも友達の輪に入りたいのに入れないのかもしれない』
シン『もちろんその可能性もあるよね』
ハナ『ハナパイは何もしてあげられないんだね』
シン『どうだろうね』
ハナ『でも今日は初めて彼女の声が聞けたよ。特に特徴がある声ではなかったけれど、ハナパイにとっては特別な声に聞こえたんだ』
シン『そういうものなんだろうね、きっと』



ハナ『もうすぐ修学旅行だね』
シン『あぁそうだね』
ハナ『マリーと同じクラスならよかったな』
シン『しょうがないさ』
ハナ『そうだね。沖縄の海は綺麗なんだろうな』
シン『そうだね。でもまだ海開きしていないから泳げないんだよ。残念だけど』
ハナ『そうなんだ。ちょっと残念だな。でも少し安心だな。誰かが彼女の水着姿を見たら、彼女のことを好きになってしまうかもしれないし』
シン『気にしすぎさ』
ハナ『落ち着いてるんだね。まるで他人ごとだよ』
シン『そんなわけないじゃないか』
ハナ『彼女に声を掛けてみたいな』
シン『彼女にふさわしい人になるんじゃなかったのかい?』
ハナ『そうだね。ハナパイなんかが話し掛けたら迷惑かもしれないしね』
シン『そうは言わないけど、焦ることはないさ』
ハナ『うん。そうかな』



ハナ『ハナパイはなんのために学校に行っているんだろう』
シン『勉強して大学へ行くためさ』
ハナ『そういう目標じゃなくて、なんのために毎日早起きして満員電車に揺られているんだろう。今までは何も考えずにぼんやり毎日過ごしていた気がするんだ』
シン『わからないけど、人間なんてそんなものじゃないのかな』
ハナ『ハナパイもそう思ってた。でもマリーを見つけてハナパイの生活が変わったような気がするんだ。毎日、彼女に会いたい、一目見たいという気持ちで学校へ行ってるんだ。むしろ、それだけなんだよ』
シン『学校には他にも楽しいことぐらいあるだろう』
ハナ『どこにだってあるようなありふれた上辺の楽しさじゃないか。今ハナパイを突き動かしている原動力は間違いなく彼女なんだ』
シン『ハナパイ、落ち着いてよ。もっと周りの事に目を向けるんだ』
ハナ『今まで散々見てきたよ。ずっと』
シン『ハナパイ…』



ハナ『修学旅行楽しかったね』
シン『そうだね』
ハナ『でもなんだか悲しい気もしたな』
シン『もうすぐ卒業だしね』
ハナ『違うよ。そうじゃなくて』
シン『何が悲しかったの?』
ハナ『なんかさ、彼氏や彼女のいる人はさ、夜になる空いてる部屋を探して、当たり前みたいにセックスするじゃないか。付き合ってる人がいない人も一緒に酒を飲んでるうちに流れでそういう関係を持ったりすることもあるしさ。別に僻んでる訳じゃなくてさ、ただ、男と女ってセックスしないと楽しめないのかなぁと思ったら悲しかったんだ』
シン『別にみんながみんなじゃないさ』
ハナ『そうだけどさ。マリーはどうなんだろうって思ったんだ』
シン『興味はあるかもしれないけど、僕にはわからないな』
ハナ『彼女も男の部屋に遊びに行ったりしていたのかな』
シン『気にしすぎだよ』
ハナ『だよね…』



ハナ『ハナパイは彼女のことをもっとよくしりたい』
シン『そうか頑張れ』
ハナ『そしてもっと彼女と近づきたい』
シン『うん』
ハナ『もし、彼女に話しかけられたら、そして友達になれたら両方とも解決できるよね』
シン『え?まぁそうかもしれないね』
ハナ『彼女に話しかけてみようかな』
シン『ハナパイは彼女にふさわしい人間になるんじゃなかったのかい?』
ハナ『でも友達なら、大丈夫じゃないかな』
シン『彼女を幸せにしたいんだろう?』
ハナ『そうだよ。でもまずは友達からでもいいじゃないか』
シン『ハナパイ、女の子は男と友達になった時点で、そいつと友達以上の関係になってもいいか判断するんじゃないかな』
ハナ『そうなのかい?』
シン『もちろん完璧な友達状態から付き合うカップルもいるだろうけど、だいたいは友達になった時点でお互いに付き合ってもいいという意識があるはずなんだ』
ハナ『じゃあ今のハナパイが話しかけたら』
シン『友達以上になるのは難しいかもしれないね』
ハナ『そうか。彼女としゃべりたかったな』
シン『焦ることはないさ。ゆっくりでいいよ』



名前を呼ばれて目を覚ますと、場内は既に明るくなっていた。
『あれ、寝ちゃったのか』
『つまんなかった?』
『あぁ、やっぱりラブストーリーはわざわざ映画館で観るもんじゃないね』
彼女はふふっと笑った。
『よく寝てたから起こすのためらっちゃったよ』
『すまん』
『じゃあご飯おごってね』
彼女はまた小さく笑った。
もちろん彼女にも名前はあるけど、あまり覚えていなかった。いや、覚えてはいるけど、それは俺に取ってあまり意味のないもののような気がしていたのだ。
『ご飯どこで食べよっか』
映画館を出るとちょうど夕飯時でどこの店も混雑しているようだった。
彼女とは以前悪友に誘われて参加した2対2のプチ合コンで知り合った。
なぜか彼女に気に入られ、合コンのあと何度か二人でデートへ出かけた。
何度か目のデートの時、さすがに空気を読んで俺から彼女に告白した。
以降週に数回はご飯を食べに行ったり遊びに行ったり、比較的まめに付き合っていると思う。


結局混雑している繁華街での食事を諦め、地元から近いこじんまりした焼鳥屋に入ることにした。
『ここだよ』
『いい感じのお店ね』
『ここの親父さんがいい人でね。俺が未成年って知ってても酒出してくれるんだ。だからよく地元の連中と飲むときに使うんだよ』
『隠れ家的なのね。あたしに教えちゃっていいの?』
『親父さんに君のことを紹介しなくちゃいけないんだ。彼女ができたって言ったら連れて来いってうるさくてさ』
『えーなんか恥ずかしいなぁ』
はにかみながら彼女は俺の腕を取った。
『外は寒いよ。早く入ろ』
『うん』
俺達は赤い暖簾をくぐった。
俺は彼女のことを嫌いじゃない。
一緒にいても気張らずに楽しめるし、彼女が俺を好きでいてくれるのもよくわかった。
彼女が『いい感じのお店』と表現したこの焼鳥屋だって、はっきり言って店構えは『潰れかけ』と言うほうが正しいぐらいだ。そういう店にも気を使わずに連れて行けて、彼女もそんな店で楽しんでくれる。そんな彼女との関係は心地いいものだった。


焼鳥屋を出た俺は彼女を家まで送るため電車に乗った。と言ってもそんなに長旅ではない。俺の家と彼女の家は二駅しか離れていない。自転車で行ける距離だ。
短い電車の旅はすぐに終わり、駅から彼女の家までをゆっくりと歩いた。
『今日は楽しかったね。ありがとう』
『いや、なんもしてないよ』
『親父さん本当にいい人だったね。また行こうね』
俺が彼女を連れて行くと親父さんは大喜びで、注文もしていない裏メニューをたくさんサービスしてくれたのだ。
彼女の家の前についた。
『送ってくれてありがとう』
『おう』
『また連絡するね』
『おう、おやすみ』
『おやすみ』
俺達は軽くキスをして別れた。
あと30分で日付が変わる。
俺はもと来た道をのんびりと駅へ向かって歩いた。
駅の方からはポツポツと人が流れてくる。ほとんどは仕事帰りのサラリーマンだ。
駅前の道にさしかかった時、自転車に乗った同い年ぐらいの女とすれ違った。
俺は思わず振り向いた。
暗くてよくわからなかったが一瞬あの子に似ているような気がしたのだ。
たぶん錯覚なのだろう。
最近よくあるのだ。
無意識のうちに、あの子の影を探してしまうことが。



シン『ハナパイ、今日はなんだか楽しそうだね』
ハナ『うん。昨日はマリーの家がどこにあるのかわかったんだ』
シン『え?どうして?』
ハナ『学校帰りにまた電車が同じになって、思い切ってあとを付けてみたんだ』
シン『あきれた』
ハナ『なんでさ』
シン『ハナパイのやってることはただのストーカーじゃないか』
ハナ『ちょっと尾行しただけでストーカーになるのかな』
シン『なるんじゃないか』
ハナ『でも前にテレビで相手に不快感を与えなければストーカーにはならないって言っていたよ』
シン『それは法律上の話だろう。実際にハナパイのしていることはストーカーと変わらないじゃないか』
ハナ『ハナパイは彼女を怖がらせるつもりはないよ。尾行だって絶対気付かれないように慎重にやったんだ。ハナパイはただ彼女を見守っていたいだけなんだ』
シン『それはただの自己満だよ』
ハナ『そうかもしれないけど…』



ハナ『マリーの家のすぐそばに比較的大きな公園があるんだ』
シン『ふうん』
ハナ『公園は広場がメインになっていて、遊具はアスレチックと石でできた大きな滑り台があるぐらいなんだ』
シン『そうかい』
ハナ『今日夕方ぐらいにその公園へ行ったんだ』
シン『なんのためにだい?』
ハナ『意味はないかもしれないけど。ただその滑り台の上に座って缶コーヒーを飲んでたんだ』
シン『遊具を占領してたのかい』
ハナ『いや、あの辺りは治安が良いみたいで夕方になると公園には人気がなくみたいなるんだ』
シン『真面目な家庭が多いんだね』
ハナ『そうみたい。それで滑り台の上に座って考えてたんだ。彼女も小さい時はこの公園で遊んでたんだろうなぁって。その場所に今自分がいることが嬉しくて、気がついたら4時間もそうしていたんだ』
シン『あきれた。寒かったろ』
ハナ『そうでもないさ。ただそうしながら思ったんだ。やっぱりハナパイはストーカーなんじゃないかってね』
シン『うん』
ハナ『彼女が気づいていないにしろ、自分の身辺をコソコソ嗅ぎまわっている奴がいると知ったら、やっぱりストーカーだと思うだろうと思った』
シン『そうだね』



ハナ『ハナパイはこんなところで何しているんだろうと思った。陰に隠れてコソコソしている自分が情けなくなった。でも滑り台の上から動けなかったんだ。彼女の育った町の空気にもっと触れていたかったんだ』
シン『弱さだね』
ハナ『というより、どちらも本当の自分だったんだ』
シン『自分の中で矛盾しているのかい?』
ハナ『そうかもしれない。でも人間ってきっとそういうものだよね』
シン『そういう考えもあるだろうけど、意志が弱いことに変わりはないと思うよ』
ハナ『もうよくわかんないや』
シン『…僕もだ』



ハナ『ハナパイは怖れているのかもしれない』
シン『何をだい?』
ハナ『マリーに嫌われるのを』
シン『そうかもしれないね』
ハナ『彼女にふさわしいような人間になってとか、色々理由をつけて、本当は彼女に嫌われるのが怖くて、勇気が出なかっただけなのかもしれない』
シン『うん』
ハナ『そう気づいた今でも怖いよ。本当に怖いんだ。世界で一番好きな人に嫌われてしまうのは』
シン『怖いね』
ハナ『好きになって欲しいと思う人に嫌われたら、世の中がつまらなくなりそうな気がするよ』
シン『そうだね。だったら今のままでいいじゃないか。見ているだけでも幸せなんだろう?』
ハナ『そうだね。白黒はっきりさせるのは自信がないや』
シン『いつか、懐かしい思い出の人になるだけさ』
ハナ『そうだね。ハナパイは早く彼女のことを忘れてしまいたいのかもしれない』
シン『そう思ってる時が一番楽しいのかもしれないね』



ハナ『もうすぐ卒業だね』
シン『あぁ』
ハナ『大学生になったり、社会人になったり、10年後のみんなはどうなっているのかな』
シン『変わっている人も変わらない人もいるだろうね』
ハナ『マリーは大学に行くらしい』
シン『ふぅん』
ハナ『経済学部だってさ』
シン『就職しやすいだろうからね』
ハナ『彼女はなにか夢ってないのかな』
シン『夢?』
ハナ『うん。保育士とか看護士とか、なんでもいいんだどさ。普通に大学行って、普通に就職するのが夢なのかな』
シン『そんなことはないかもしれないけど、誰でも夢ぐらい持ってるんじゃないかな。ただ夢に向かって進むのは難しいんだよ』
ハナ『なぜ?』
シン『成功しなかった時のリスクが伴うからさ』
ハナ『普通に企業に就職する道の方がリスクが低いってこと?』
シン『というか大半の人間はそうだからね。人と違うことをするのは勇気がいるんだ』
ハナ『そうなのか』
シン『ハナパイの夢はなにかないの?』
ハナ『夢は…ハナパイの夢は…』



ハナ『マリーの身長はハナパイと同じくらいあるんだ』
シン『女の子にしてはとても高いね』
ハナ『でも彼女の靴はハナパイよりもかなり小さそうだ』
シン『女の子だからね』
ハナ『彼女は正直胸はあまり大きくはない』
シン『うん』
ハナ『でもお尻は女性らしく綺麗に盛り上がっている』
シン『よく観察してるんだね』
ハナ『彼女の目は力強く光を持っている。でも唇はアヒルみたいで柔らかそうだ』
シン『何が言いたいんだい?』
ハナ『いや、どちらが本当の彼女なのかな?』
シン『どちらということもないだろう。どっちも彼女さ』
ハナ『そうさ。強い面も弱い面も人間は持ってる。でも人間は弱い面を表には出したがらないね』
シン『弱いよりは強くありたいと思うからじゃないかい』
ハナ『シンジ君も強くありたいの?』
シン『そうかもね』
ハナ『でもそれは自分が弱いからそう思うのじゃないかな』
シン『弱い?』
ハナ『ああ、シンジ君は弱いよ…』



シン『僕は弱いかい?』
ハナ『うん弱いよ』
シン『それは僕が強くありたいと思っているからかい?』
ハナ『シンジ君は本当は強いのに、それを信じようとしない。逃げていると思う。それが弱いと思う』
シン『ハナパイ、悪いけど言っている意味がわからないよ』
ハナ『理解しなくてもいいよ。ハナパイは彼女に話掛けてみたい。そう思ったんだ』
シン『でもそれはまだ…』
ハナ『いいんだ。彼女にふさわしい人間になるとか、あれは独りよがりだと思った』
シン『ハナパイ…』
ハナ『そんな小難しいことじゃなかった。ハナパイは彼女に話掛けてみたかった。ずっと。自分の気持ちを伝えたかった。怖い気持ちもある。振られて嫌われるかもしれない。付き合ってもらえるかもしれない。ただの友達止まりかもしれない。それでもハナパイは精一杯彼女の笑顔を作りたい。彼女が悲しいときそばにいてあげたい。彼女を守ってあげたい。彼女を心底愛している人間がここにいると、全力で伝えたいんだ』
シン『ハナパイ焦ることはないよ』
ハナ『焦ってはいないさ。早いからダメとか、寝かせたから良いとかそういう問題じゃないと思う。それに、先でも後でもハナパイの気持ちは変わらないよ』
シン『ハナパイは今のままで彼女の前に立てるのかい…?』
ハナ『立てるよ。立てる勇気が出たんだ。ありのまま今の自分を見せる勇気が。彼女の理想かどうかはわからない。受け入れてくれるかすらわからないけど、彼女と関わらないと彼女の理想すらわからない』
シン『でもさ…』
ハナ『もういいよシンジ君。シンジ君はハナパイのことをわかっていると思っていたけど、本当はわかっていなかった。ハナパイの意見を理解しているような振りをしながら、本当は優しくなだめて抑えつけていたんだろ』
シン『ハナパイ。君は暴走してるんだ。少し冷静になって』
ハナ『ハナパイは暴走していない。シンジ君から見たら暴走と思われるかもしれないけれど、ハナパイは本気だ。シンジ君が一番よくわかってるんじゃないかい』
シン『なんで…なんでだよハナパイ。頼むから落ち着いてくれよ…』



真っ赤に熟れたイチゴが、白い生クリームにチョンと腰掛けている。
彼女はショートケーキの鋭角の部分をくずし、口へ運んだ。
いかにも、にんまりという感じで満足そうに微笑む。
『おいしいっ』
彼女は苺を最後に残すタイプだった。
再びケーキをすくったフォークが今度は俺へと向けられる。
『食べる?』
『いや、いい』
俺は甘いものが苦手なのだ。特に生クリーム。見るだけで乳脂肪の臭みが口に広がる気がして、目の前に置かれたコーヒーをひと口すすった。
駅前のコーヒーショップでは3時のティータイムを楽しむ奥様方の姿が目立った。時折甲高い笑い声が響く。
彼女の前にはケーキと共にロイヤルミルクティーが置かれていた。砂糖がたっぷり入ったやつだ。なぜ甘い物を食いながら甘い物を飲めるのか不思議だった。
想像するとまた気持ち悪くなったのでコーヒーを胃に流し込んだ。
きりりとした苦味が、深い香りと共に体を抜けていく。
しかし、一瞬軽くなった胸に、すぐにまたつっかかりがやってきた。最近は酒を飲んでも美味しいコーヒーを飲んでも、このつっかかりが消える事はない。
吐き出したくても吐き出せない。そんな何かが詰まっていた。


目の前の彼女を見た。
もはや見慣れてしまったので、新鮮さやときめきのようなものを感じることは少なくなったが、だからと言って嫌いでも疎ましいとも思わない。
控えめに言って『ブサイクではない』ぐらいか、はっきり言って俺にはもったいないぐらい可愛いと思う。
つまり俺は恵まれているのだ。
それなのに俺の胸は依然重苦しい。原因はわかっていた。最近見かけていない、あの子に会いたかった。
こんな胸の苦しみを俺は今までの短い人生の中でも何度か経験したことがある。この痛みの意味はわかっているのだ。
誰かを好きになった時、その子に会いたくなる時にはこんな風に胸が詰まるように痛くなる。しかし、この痛みはやがて消えるのだ。
どんなに愛しいと思った人でも、気持ちを抑え付けて遠ざけていれば徐々にその愛しさは消えて行く。同時に胸の詰まりもなくなるのだ。
つまり、胸が詰まって苦しくなるのは、好きな人への想いが消えていく前兆だ。これを乗り越えれば、あの人の影は俺の心から消えて、今目の前にいる彼女をきちんと愛する事ができるはずだ。
人間は自分の恋愛感情ぐらい、自分でコントロールできるのだから。


俺たちの座っている2階の窓際の席からは駅前の様子がよく見えた。
駅といっても急行が停まらないような小さな駅なのだが、その分地価が安いらしく、ベッドタウンとして最近人気が高まりつつあるようだった。そのせいか、駅の規模に比べ人の乗り降りは激しい。
俺は彼女の話しに耳を傾けながら、ぼんやりと人波を眺めていた。


1人のシルエットが目に留まった。
その影はジグソーパズルのピースのように俺の心の隙間にピッタリとはまった。
心臓が大きく一度バウンドして、周りの音が聞こえなくなった。


1秒か2秒か俺はその子に目を奪われた。
俺が見間違えるはずはない。それはマリーだった。


俺は一体どんな顔をしていたのだろうか。
『ねぇ聞いてる?』
彼女の声で我に返った。
『あ、ごめん、ぼーっとしてたわ』
笑ってそうごまかすと冷めたコーヒーを一気に飲み干した。
彼女は一瞬不審そうな表情を見せたが、すぐにまた自分のクラスの友達が彼氏に振られるまでの一部始終を愉しげに語りだした。
人の不幸は蜜の味だ。
もう一度窓の外へ目をやる。マリーの姿は見当たらなかったが、代わりにコーヒー色の雨雲が空を覆い始めていた。
マリーは傘を持っているのだろうか。


いつも通りに彼女を家に送り届けると、点々と灯る街灯の中を駅へと向かった。
曇っていることもあってか、今日はいつもより暗く静かな夜だ。
結局雨は降らずに中途半端な雲だけが残った空を見上げると、まるで自分の心がそこに映っているかのようだと思った。


晴れる訳でも、雨が降る訳でもない。曇り空。


マリーの顔が浮かんだ。
それだけで心にうっすらと光が射す気がした。


俺は今日気づいてしまった。


マリーが好きだ。

俺は卑怯だった。
保守的であることが正解だとひたすら自分に言い聞かせていた。
それは間違いだった。
弱い自分を隠すため、守るための虚勢だった。


もう虚勢は要らない。
マリーへの気持ちは、本当は僕の強さだった。


駅の手前で足が止まった。
そんなこと前からわかっていたじゃないか。
少なくともハナパイはずっとわかっていたんだ。
でも僕は、臆病だった。
ハナパイの言葉を受け止めるのが恐かった。
ハナパイは僕の良い友達であり、一番の理解者であり、僕自身だったのに。

僕は彼を裏切っていたんだ。

謝らなくちゃ、彼女に。
引き返すか、今から。
いや、こんな突発的な判断でいいのだろうか。
いったいなんて言えばいいんだろう。
彼女はなんて言うんだろう。
怒る?泣く?

わからない。
今日は家に帰ってゆっくり考えようか。
いや、やるならやっぱり今だろうか。


駅の手前で、身動きが取れなくなった。
自分が情けないと思った。

ため息が出た。
せっかく自分の気持ちが確認できたのに。
前に進もうと決心したのに。
早速つまづいた。
前にも後ろにも動けない。
僕はいったいいつからこんな風になってしまったのか。


道端で立ち止っている僕を不審そうな顔で見ながらおばさんが通り過ぎて行った。
しょうがなく道路の端に移動し、ブロック塀に背中を預けるように座り込む。
少し風が出てきたようだ。
見上げると、黒く濁った雲が流れているのがわかった。


不意に名前を呼ばれた。
しかし、振り向いたりはしなかった。どこから聞こえたのかはわかっていたからだ。
僕はゆっくり目を瞑って、彼に返事をした。


『やぁハナパイ。久しぶりだね…』



ハナ『久しぶりだね。元気だった?』
シン『元気だったような、元気じゃなかったような感じかな』
ハナ『シンジ君はいつも曖昧な返事ばかりするね』
シン『そうかもしれない。たぶん本当は元気じゃなかったんだと思う。でも元気な振りをしていたんだ。みんなそうしてる。それが普通だと思っていた』
ハナ『違ったの?』
シン『あぁ違った。ハナパイ、君が正しかったんだ。僕はそれを気づいていたはずなのに。それを軽視していた。裏切っていた。最後には押し込めていた。すまなかった』
ハナ『ハナパイに謝ってもしょうがないさ』
シン『そうだね。ハナパイ、僕はどうしたらいいのかな』
ハナ『もうハナパイが言わなくても大丈夫だよ』
シン『…わかった、ありがとう』


目を開けた。
流れて行った雲の隙間に、小さな星が光っていた。


彼女の家の前で彼女に電話を掛けた。
『ちょっと待って』
と言うと彼女はすぐに出てきた。
『どうしたの?』
彼女はちょっと驚いた風で言った。
部屋着に着替えたのだろう、スウェットのパンツにパステルピンクのパーカーを羽織っていた。
『ちょっと話があるんだ』
素直に言った。
彼女の表情がすっと陰った。
ここで誤魔化すようなことを言っても、一時しのぎにしかならないとわかっていた。それでは僕が今までやってきたことと何も変わらない。
すぐ近くの公園に移動することにして、いつものように並んで歩きだした。
いつもと違うのはお互いが無言なことだけ。
彼女の表情が見れなかった。


彼女が嫌いな訳ではなかった。むしろ好きだと思う。喧嘩をした訳でもない。僕と彼女の関係上には何のトラブルもなかった。
僕の身勝手。
僕の個人的な都合で別れを切り出さなければならない。
彼女にわかってもらえるはずもなかった。
何と言えばいいのか、僕はまだ決められていなかった。


公園のベンチに彼女を座らせて、僕は公園の横にある自販機で缶コーヒーを2本買った。
1本を彼女に渡して隣に座る。
『ありがと』
『うん』
言葉が続かなかった。
行き場を失った視線が自然と公園の街灯に惹きつけられる。
『はい!』
不意にこちらに向き直り彼女が言った。
僕は彼女を見た。
その表情には先ほどのような暗い陰はもうなかった。
公園までの沈黙の道のりは彼女にゆっくり考えさせる時間を与えたようだ。
『話ってなんですか?』
声のトーンもいつも通りだった。
僕は息を吸い込んで頭を下げた。
『ごめん』
彼女は無言だった。
頭を上げると、彼女の真っすぐな視線が突き刺さった。先を催促しているようだった。
『ごめん。好きな人ができました』
なぜか敬語になった。
『僕の一方的な身勝手で、君の時間を無駄にしてしまいました。
ごめんとしか言いようがないけど、許してもらえるなんて思ってない。君の気の済むようにして欲しい』
言葉は自然に出た。
そこにはなんの偽りもなかった。
彼女の右手が閃いて強烈なビンタが僕の頬を打った。とても痛かった。
彼女を見た。彼女は少し笑っているみたいだった。


『こうしないとあたしよりシンジ君の気が済まないでしょ?』
『ごめん。ありがとう』
本当に有り難かった。
『僕はずっと君に甘えていた。今のビンタもそうだね。情けないや』
ははっと力ない笑いが出た。
『その好きな子とは上手くいきそうなの?』
答えづらかった。
『わからない。まだその子のこと、あまりよく知らないんだ』
彼女はちょっと驚いた顔をした。
『へぇ、そうなんだ』
『自分でも驚いてるよ。でも決して中途半端な気持ちじゃないんだ。それはわかって欲しい』
『わかるよ。なんかシンジ君大人になったんだね。』
なんとも言えなかった。
『そういえばいつから自分のこと<僕>って呼ぶようになったの?今日はずっと<俺>だったのに』
『え?』
自分でも気づかなかった。
でも理由はなんとなく解った気がした。
『大人になったのかもしれないな』
言ってから不謹慎な冗談だったかもしれないと思ったが、彼女は笑ってくれた。


『じゃあもう行くね。ここでいいから』
すくっと立ち上がった彼女は言った。
『あ、うん』
送らなくていいと言われて立ち上がれなかった。
『じゃあね』
『うん、ごめん。じゃあ』
少し笑顔を作って彼女は公園の出口へ歩いて行った。
出口の手前で立ち止まると振り返って最後に言った。
『シンジ君と過ごした時間、少しも無駄じゃなかったよ』
呆気にとられているうちに彼女は早足で出て行ってしまった。
最後の表情は暗くてよくわからなかった。


彼女が去ったあとの公園は余計に静かに感じた。
体の力が抜けてベンチの背もたれに寄りかかった。

自分が望んだ結果なのに、それでもある種の喪失感や孤独感を感じた。
僕はタバコを吸ったことはなかったけれど、なんとなくタバコが吸いたい気分になった。
代わりに手をつけていなかった缶コーヒーの栓を開け、ゆっくりと流し込んだ。
変に甘い味のあとに、軽い苦味と香りが鼻腔を抜けていく。

なぜだかわからないが、僕は自分の心に押し寄せるこの感傷が嫌ではなかった。
感傷に浸るというのだろうか。
それはただの自己満に過ぎないように感じたけれど、今までの僕には自己満すらなかったのかもしれない。


時間を掛けて缶コーヒーを飲み干すと、ようやく僕は立ち上がった。
家に帰った僕はすぐにベッドに潜り込んだ。
すごく疲れている気がしたが、なかなか寝付けずに、天井を見上げながら自分の今後について考えていた。

マリーに想いを伝えなければ。
でも、たった今彼女と別れたばかりなのにいいのだろうか。
とりあえずは、もっとマリーのことを知りたかった。
彼女とお近づきになりたかった。
しかし、チャンスを待っているほど、僕には時間はないはずだった。
あと半年もしない内に僕らは高校を卒業してしまう。
それまでに、せめてアドレスぐらいは知っておきたかった。

そうなると、もう結論は出ているじゃないか。
小細工せずに、直接聞くしかない。

なんの接点もなく、名前も知らない人からいきなりアドレスを聞かれるというのはどんな気分なんだろうか。
今まであまりモテた経験のない僕にはわからなかった。



数日後のある平日の午後。
僕は最後の6限目をサボって、体育館の前のちょっとした階段に座り込んでいた。
階段は渡り廊下に面していて、渡り廊下は校舎から下駄箱へと続いている。
6限が終わったら、マリーはここを通って帰るはずだった。


制服の内ポケットには簡単な手紙が入っている。
急な手紙を詫びる文句と、僕のアドレス、よければ友達になって欲しいという旨がそこには書かれている。

笑えるぐらいストレートな手段だった。
要するにラブレターじゃないか。
こんな手を使う人間がまだいるなんて、しかもそれが自分だなんて。
なんだか笑えてきた。

マリーは一人で来るだろうか。
友達と一緒に帰るのだろうか。
たとえ一人だったとしても、周りに誰もいないということはなさそうだった。
なにしろ、生徒の大半はここを通って帰るのだから。
だけど不思議なことにそんなことはたいして気にならないような気がした。
それより、胸を張ってマリーの前に立てることが嬉しかった。

マリーと付き合えても、振られても、ましてやメールすら来なかったとしても、それでも良いと思った。
僕はまだマリーのことをよく知らない。
でもマリーのことなら、なんでも受け入れられるという予感がしていた。
もちろん根拠なんてない。
たとえ付き合えたとしても、すぐに別れてしまうかもしれなかった。
それでも僕は後悔しないと思う。
マリーと付き合ったことも、そのために彼女と別れたことも、自分で決めた道だ。決して無駄なことではないはずだった。

僕はまだ若い。人生に見切りをつけるにはあまりに早すぎる。
大切なのは、とにかくがむしゃらに精一杯に<今>を生きてみることだろう。


『そうだよね?ハナパイ』
心の中でつぶやいた。

返事はもうなかった。
でもハナパイが頷いているのが僕にはなんとなくわかった。
きっとハナパイは今でも僕の中にいるだろう。
僕がハナパイを素直に受け入れられるようになった今、もはやハナパイの声は僕の声になってしまったようだ。

だけどもし、この先僕が道に迷うことがあったとしたら、またハナパイが僕を呼んでくれるのかもしれない。
ハナパイは僕にとって今でも心強い友達だ。


チャイムが鳴った。
授業が終わると校舎全体がガヤガヤと騒がしくなる。

そろそろだ。
生徒たちの話声が徐々に近づいてくる。
僕はポケットから手紙を取り出し立ち上がった。
期待と不安と緊張で死にそうだったが、なぜか笑ってしまいそうになった。
今生きていることが楽しかった。


いつもと変わらないある日の放課後。一通のラブレターを握りしめた僕の目は、押し寄せる人混みの中にマリーという光を探していた。

<END>

出典:オリ
リンク:ジナル

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