東京怖い
2010/09/06 06:52 登録: えっちな名無しさん
私の知人で、千葉に住む役者さんがいる。30代後半の男性だ。仕事で毎日のように東京に通っているというのに、かたくなに東京に越そうとはしない。車を飛ばして千葉から東京に通うのだ。ご結婚されてお子さんもいらっしゃるという事情もあるのだろうとは思っていたのだが、聞けば、どうもそれだけじゃないらしい。彼は、東京がきらいなのだ。というか、東京に恨みを持っているのだ。「東京に恨みを」って、漠然としたくくりだとは思うし、考えが飛躍しているとも思うけれど、「東京は嫌いだ」と、彼はきっぱり言う。
なんでも若い頃に東京でひどい目にあった、というのだ。実はずっと千葉に住んでいる彼も、20代前半の頃に一度、東京に出て一人暮らしをした経験があるのである。ある時彼は、新宿にある1Kのアパートの一階に引っ越して、一人暮らしを始めた。初めての東京での暮らしを、彼はそれなりに楽しんでいた。若かったその頃の彼の胸は、夢と希望で膨らんでいたに違いない。
初めての東京。初めての一人暮らし。バイトをしながらつつましやかに、だけど「いつか東京でビッグになってやる」という闘志に燃えて!彼は慣れない東京での生活に、四苦八苦しながらも順応していったに違いない。これから友達も作って、料理だって少しずつ覚えて、彼女だって作ってやる。未来はバラ色だ! 天気もいい! 敷きっぱなしの布団だって、たまには干そう!
ところがある日、庭先に干してあったその彼の布団が盗まれた。彼は動揺した。バイト先から戻ると、干してあったはずの布団がどこを探してもない。一枚しかない大事な大事な彼の布団が、どこぞの誰かに持ち去られてしまったのである。千葉では布団を盗まれたことなど一度もない。千葉には布団を盗む人はいないのだ。だからまさか布団が盗まれるなんて、彼は想像だにしていなかったのである。
彼は思った。「東京は……怖いところだ……」
しかし、彼はそんなことでくじけるような人間ではなかった。翌日、まだ傷のいえない心を引きずって彼は、布団を買いに行った。東京は怖いところだ。だけど負けてたまるか!俺には夢がある。希望がある。明るい未来がある! 布団を盗まれたくらい、大したことじゃないさ!新しい布団を敷いて、心機一転、どろぼうに気をつけながら東京生活をエンジョイするぞ!たまにゴキブリが出るけど気にしない! 天気もいい! バルサン焚くぞ! キッチンにバルサン焚いて、散歩にでもでかけよう!ところが彼が散歩から戻ると、一畳ほどのキッチンの床が真っ黒になっているではないか! 彼が眼を凝らすと、それは床を一面覆い尽くすゴキブリの死体…………。
彼は玄関に立ちつくした。そして思った。「東京は……怖いところだ……」
大量のゴキブリの死体を前にして、彼の心は再び折れかけた。千葉では、こんな大量のゴキブリを見たことなんてない。千葉にはこんなに大量のゴキブリはいないからだ。「俺は……東京に拒絶されているのだろうか……」若い彼は、それでもくじけることはなかった。これだけ一度に退治できたのだから、バルサン焚いたかいがあるってもんじゃないか。これで1匹や2匹しか退治できてなかったら、バルサンだって肩なしだ。落ち込んでる暇はない。さっさと片付けてすっきりしよう!バイトの時間が迫ってる。そうさ! これで、今後当分はゴキブリに悩まされることもないんだから!一度折れかけた心を立て直して、強靭な精神力で彼は、ゴキブリの死体の山を一掃し、心機一転、バイトに出かけた。ゴキブリがなんだ。布団がなんだ。このくらいの苦難を乗り越えて、人は大人になっていくのさ。ゴキブリはこれで当分出ないし、布団は敷きっぱなしで干さないんだから、もうこんな目に遭うこともないはずさ!
東京に出てきたばかりで、一度ならずも二度までも、折れかけた彼の心。しかし、二度の苦難も、彼の夢や希望までもを奪うことはなかった。手荒い歓迎だったけど、彼の東京生活は、まだ始まったばかりだ。
ところが…… バイトを終えて帰宅した彼に、またまた悲劇が起こった。帰宅し、玄関を開けると、どうも部屋の様子がおかしい。おそるおそる部屋に踏み入ると、なんと、部屋の中がめちゃくちゃに荒らされているではないか……!どうしたことだ! 鍵はかけていったはずなのに……!見ると、部屋の窓ガラスが一枚割られているではないか。
彼は立ちつくした。そして思った。「東京は……怖いところだ……」
まさか、また泥棒にやられるとは! 千葉では泥棒に入られるなんて考えたこともなかった。千葉には、1Kのアパートを狙う泥棒はいないからだ。二度ならず三度目の苦難!しかし! しかしそれでも彼は、なんとか持ちこたえた。計り知れないショックを受けながらも、なんとか気持ちを静めて、彼は立ちあがった。くそーー! 泥棒がなんだ! ガラスを割られたのは痛いけれど、どうせ金目のものは置いていなかったし、大して盗まれたものもない! 泥棒のやつも押し入り損だぜ! ざまーみろ!
またしても強靭な精神力で、彼は気持ちを立て直し、部屋を掃除するための道具を買いに、ドラッグストアへ向かった。一から部屋を掃除して、心機一転出直すのだ! こうなったらちょっと奮発して掃除用具を買いこんでしまえ!
買い物袋を提げて、部屋に戻った彼の視界を、猫が横切った。割れた窓から、猫が去って行くところだった。買い物に出たほんの15分くらいの間に、猫が部屋に入って来ていたらしい。
彼は、買い物袋を提げたまま立ちつくした。敷きっぱなしの布団の中央に、猫の置き土産を見つけたからである。そう、ほかほかのウンチを。とうとう彼の心はボッキリと音を立てて折れ、それ以来彼は、東京を憎んでいる。
出典:水野 美紀 連載エッセイ「二度見して思うこと」
リンク:http://www.ocn.ne.jp/toku/tj/nidomi/#/story3/

(・∀・): 144 | (・A・): 40
TOP