<福島第1原発>最前線の復旧作業員 多くは「被災者」

2011/06/06 13:14 登録: えっちな名無しさん

 福島第1原発事故の復旧作業にあたる作業員の多くは地元・
福島県浜通り地方の出身だ。大半は住み慣れた家を追われ、
津波で肉親が行方不明のままの人もいる。
「被災者」が過酷な「最前線」に立たされるという矛盾の中、
作業員たちの抱える思いは複雑だ。

 40代の作業員男性は自宅も勤務先の下請け会社も警戒
区域内。避難所から仕事に出る時は子供たちに「悪いやつらを
片付けてくっから」と声をかける。4歳の長男は「頑張って」と
無邪気に答える。

 15年近く原発で働いてきたが、今回は想像以上に過酷
だった。防護服の中を汗がとめどなく流れ、マスクはすぐ曇り、
ゴムで締め付けられた頭がぎりぎり痛む。原子炉の隣、暗く
湿ったタービン建屋内で余震に襲われ、恐怖で鼓動が
高まった。

 妻や両親は猛反対した。「将来どんな症状が出るか分から
ない」。
 4月下旬、「辞めよう」と決意して上司に打ち明けた。上司は
止めなかったが、話しているうちに、これまで自分についてきた
若い部下の顔や、地元出身の東京電力社員が「何をやっていい
のか分からない」と漏らしたことを思い出した。
「仲間が死にものぐるいでやっている。誰かがやらないと」

 浪江町の作業員男性(34)は複雑な胸中を吐露する。
「仕事がある分、救われていますよ。農家や商店の人は仕事
まで失ってしまった」。警戒区域内の自宅に戻るあてはない。

 2次下請けの会社に勤め、避難指示が出た後、母や妻子と
九州の親類宅に身を寄せた。新潟県の東電柏崎刈羽原発に
仕事を得て4月上旬、柏崎市のアパートに妻(34)、長男(1)と
移り、3週間ほど働いたところで福島第1に呼び戻された。

 高濃度汚染水の浄化設備を設置する作業。「事故を起こして
おいて、自分たちは復旧作業で食っていける。皮肉ですよね」。
とはいえ、いつまで続くのか、不安を感じる。

 同じ浪江町の作業員男性(40)は自宅を津波で流された。
5カ所目の避難先となる東京都営アパートで南相馬市出身の
妻(29)、長男(2)と3人で暮らしながら、第1原発との間を
往復する。

 3月下旬の夕食後、妻が「せめて南相馬には戻りたい」と
つぶやくのを聞き、迷っていた第1原発入りを決めた。
「原発が収束しないと帰れない。廃炉まで付き合う覚悟は
できています」

 原発から5キロほどの所に住んでいた大熊町の作業員男性
(64)は4カ所目の避難先で電気ケーブル敷設作業に呼ばれた。
40年ほど原発で働いてきたベテラン。妻(63)を避難所に残し、
いわき市の旅館から現場に通う。
「東電あっての大熊町。ずっと原発で飯を食ってきたから、肝心な
時に何の役にも立たないわけにはいかない」

 3号機から時折上がる水蒸気を、間近で見る。
「ぶわーっと、ものすごい量。あまり気持ちのいいもんじゃねえな」。
人生で初めてヨウ素剤を服用した。妻は心配するが、
「最初は怖かったけど、だんだん慣れてきた。ずっと緊張していたら
体が持たないよ」と、あきらめ顔で笑う。ただし、
「現場に不慣れな東電社員の面倒を見られるのは、自分たちだ」
と自負している。

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政府や東電の対応がどうこうろか、地元の権益がどうこうとか
私的なコメントは差し控えたい。
どんなイデオロギーを持とうが、どういう見解や立場であろうが、
「現実を知る」ことは必要である。
世の中で、事実を隠蔽されることほど怖いことはない。

出典:毎日新聞
リンク:http://mainichi.jp/select/today/news/20110606k0000m040110000c.html

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