ニートVS殺人鬼

2011/10/14 23:22 登録: 痛(。・_・。)風


ガチャ。

 住み始めて半年のマンション。その303号室のドアを開け、男は散らかった部屋へ足を踏み入れる。食事のほとんどがカップ麺の男には不要の台所。アンモニアと害虫の密集する洋式トイレ。一週間に一度使うか使わないかのバスルーム。
 それぞれへ繋がるドアを通り過ぎ、男は最も散らかっている居間へと着いた。
 中央にあるつくえは新聞やらカップ麺の容器やらで埋め尽くされ、つくえのつの字も見えない。そのつくえを挟む形で、右にソファ、左にテレビが向かい合っている。この二つは、男の部屋において使われる回数一,二位を争う。
 そして、前を見れば、洗濯物を干したことのないベランダ。窓は汚い。
 今までコンビニへ、今日発売の週刊誌を立ち読みしにいっていた男は、高校を卒業したばかりだった。高校卒業前に無理を言って住み始めたこのマンション。ここに住み、親の視線から逃げた浪人生の男はなまけていた。勉強もせず、働きもせず、ただ親からの仕送りだけで生活をしていた。
「ちゃんと働かないと仕送りなんてしません!」
 そんなことをいいながら、いまだに仕送りをしてくれている。親とは都合のいいものだ。
 だぼだぼのTシャツにサイズの小さいジーパン。髪はぼさぼさで、目はうつろ。高校時代からは見る影もない。大学に落ちたことで、男は生きる気力を失っていた。特別レベルの高い大学だったわけではない。ただ、受かっていれば、それこそ倉田の人生は順風満帆だったろう。ショックは大きかった。
 ソファに腰掛けて(散らかっているが、なぜか人一人座れるほどのきれいなスペースがある),リモコンを机から発見し、テレビを付ける。今は昼時なのでニュースが流れていた。どこに変えても大して面白い番組はやってなかったので、仕方なくもとのニュース番組に戻した。
 あまりみたことのない女子アナウンサーがニュースを読み上げている。
「……つづいて、**県**市の連続殺人事件のニュースの続報です……」
 **市とは、男の住んでいる〇〇市のすぐ隣にある。最近世間をにぎわせているのがこれだ。なんでも日本刀だかなんだかが凶器で、たった一日で10数人が犠牲になった。ターゲットが全員、互いに知り合いだったことでも、余計にメディアの注目が集まっている。男はこの出来事が身近に起こっていることに恐怖したが、同時に好奇心を掻きたてられもした。
 ニュースに目を戻すと、それらしい専門家が意見を述べていた。
「いえね、こういうのって大体犯人が異常をきたしてるって思いがちでしょうがね、違うんですよ。ターゲットが全員知り合いでしょ?だからね、その近辺の人たちを洗えば……」
 そんなこと、今までの警察の調査で十分にわかっている。専門家の言う犠牲者の"近辺の人たち"を調べた結果、容疑者になり得る人は誰一人としていなかったのだ。
 同じことをベテランの男性アナウンサーが指摘すると、専門家はもごもご言った後、黙った。これはカットすべきところであったと思うが、生放送であるため仕方ない。
 女子アナが「CMの後は……」と言った後、テレビを消した。テレビを見る事以外にやることがないのに、消してしまった。特別な理由があるわけでもない。ふと、外へと目をやる。雲がまばらにあるが、青空が目立つ。小鳥が数羽、ベランダの前を通過した。
 やりがいのない人生。
 自分の置かれている状況を思うと、心から空しくなった。



 プルル……プルル……。



 ポケットにしまったままだった携帯が鳴り出した。取り出して、誰からの着信か見てみる。
 非通知だ。
 不審に思ったが、とりあえずでてみることにした。
「……はい」
「もしもし?きみ、倉田遼君かい?」
「そうですけど」
 そうですけど、と言った後、すぐにまずい気になった。自分の携帯番号を知っている、顔も名前もわからない相手。声からすると若い男のようだが、聞いたこともない声だった。よくわからないが、本名を認めてしまったことで、犯罪かなにかに巻き込まれるのではないかと思ったのだ。
「いや、ちが、違います。あなただれですか?」
 こんな否定の仕方では、むしろ自分が倉田遼であることを強めている。
「はは、別に否定はしなくてもいいんだよ。僕はもうきみが倉田遼だってことはわかってる。今のはカラかっただけさ」
 妙に馴れ馴れしいところが癇に障ったが、それでもまだ不審に思う気持ちのほうが強い。
「あ、それと僕が誰か、ってことね。僕の名前はミキ。よろしく」
 知らない名前。いや、もしかしたら高校、中学、小学のいずれかで出会っていたのかもしれない。遡れば幼稚園だってありえるが、当時の名前で覚えているのが「みなこちゃん」という女の子だけなので、幼稚園の線は薄いだろう。
「……僕の知り合い、ですか?」
「ううん、違う。君とは初対面だ。それはそうと、テレビ付けてくれないかな?」
 幼稚園からの知り合いではなかったらしい。遼は無意識にいわれるがままにしようとした。が、ここで一つの疑問があがる。
「なんでテレビが付いていないことを知ってる?」
 この男に敬語は必要ない。遼は警戒心を渦巻かせた。
「ん、いやぁ、細かいことはまた後で、ってことじゃダメかい?」
「切るぞ」
「ちょっ、まっ……」
 プツッ。どうしようか。警察に連絡。これしかない。



 プルル……プルル……。



 そう思った途端、また電話がかかってきた。やはり非通知だ。
「……はい」
「おい、いきなり切るなよ、倉田遼」
「切るぞ」
「わかった!!わかった!!本題へ行く。今から僕とゲームしないか!」
 電話を耳から離そうとした。しかし、次にミキが言った一言で再び電話を耳に戻す。
「僕がキミの知り合いを殺す。それをきみが助ける。これがルールだ。」
 しばらくの沈黙。少しの迷い。困惑。この男はなにを言っているのだろう。そんな突拍子のない事を言って、誰が信じるというのだろう。
「……信じてないな?」
 見透かしたようにミキがいった。
「わかった。前もそうだったからな。とりあえず証拠を見せよう。テレビを付けてくれ。」
 前もそうだった、という言葉になにかがひっかかるような気がしたが、今度は言われるがままにテレビを付けた。
「ははぁ、驚くぞぉ・・・」
 ミキの言っているのが聞こえた。遼はまた先程のニュースがやっていると思った。しかし、テレビに現れたのは見慣れない女子アナウンサーではなく、部屋だった。天井の一角から、ちょうど全体を見通している。倉田ほどではないものの、部屋は散らかっていた。広さを見るに、そこはマンションなどではなく、一軒家の一室のようだった。散らかった物の中には、ゲーム機や漫画などが目立つ。そして、部屋の中央に陣取り、さっき遼が立ち読みしていた週刊誌を読んでいるのは……。
「タクちゃん」
「タクちゃん。きみはそう呼んでいる。本名は井川卓志だ。知っていることと思うが。キミの一番の親友、だね?」
 ふつふつとした熱い感情が心をよぎる。同時に先程ミキがいった、友達を殺す、という言葉が、この映像を通してより確かなものへと姿を変えていくのがわかった。
「まあ、この映像は生中継だ。彼が今読んでいる雑誌、きみさっき読んでたろう?」
 そうだ。それに、壁にかけてある時計も遼の部屋の時計とぴったりだ。
「……おれのことも、その周りのことも、なんでもわかるのか」
「うん、まぁね。正確には、今回必要なことすべて、だけど。例えば、きみの生まれた病院なんかはしらないよ」
 恐らく、遼の部屋にも井川卓志と同じようにカメラが設置されているのだろう。しかし、天井のどこを見渡してもカメラは見えない。
「ははっ、カメラは見つけられないよ。肉眼じゃ見えない、最新鋭のカメラさ」
「殺すのか」
 カメラを見つけるのをあきらめ、それでも周りを見回しながら聞いた。
「その通り。でも、あくまでもきみ次第だ。彼等が死ぬか生きるかは、すべてきみにゆだねられる。どれだけ自分の身をけずれるか、にね」
「……身を、けずる?」
 ミキは、遼が大人しく話を聞く気になったことで、安堵していたようだった。
「そう。きみには今から、彼等との絆の強さを身をもって示してもらいたい。ぼくの命令を忠実に実行するんだ。僕の命令を一回実行すれば、一人助かる。2回なら、二人だ。何人の犠牲者候補がいるかはまだ秘密だよ。
 あ、あと、きみが逃げるかどうかは自由だからね。勝手にこの電話を切るのも自由だ。逃げた君を僕は殺さないし、電話を切った君も殺さない。ただし、君が逃げたり、次にそっちから電話を切った場合は犠牲者候補全員を殺す。いいね?」
 遼は黙っていた。
「それ以外の自由は皆無だ。この携帯以外の電話に触ることは許さない。僕の許可なくトイレに行くこともタブーだ。その居間から移動するな。わかったら、証拠をみせるから、携帯をスピーカーにしてくれ。耳から離しても、声が聞こえるように。
 ……そうだ。よくできた。それを机に置くんだ。」
 遼は携帯を机に置いた。というより、新聞と広告が重なる上に置いた。携帯からミキの声が聞こえてくる。遼は立っていた。
「……よしよし、では、最初の命令だ。」
 遼はテレビに映る井川を見ていた。ミキという男が井川を殺すというので、やつの命令どおりにしないといけないらしい。が、それでもまだ遼には信じきれていない部分があった。まさか死ぬわけがない、と。下らないテレビの企画かなにかだろう。


「最初の命令だ。倉田遼、自殺してくれ。
 君が自殺すれば、彼、井川卓志は助かる。
 時間は5分。さぁ、楽しいゲームの始まり始まり」



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井川卓志。通称たくちゃん。
僕とたくちゃんの付き合いの始まりは、高校一年生までさかのぼる。新しい生活にしどろもどろしていた僕に、最初に話し掛けてくれたのがたくちゃんだった。
「弁当って、米派?パン派?」
まじめなのか、ふざけているのかよくわからない質問だった。それで、そのままお互いに米派ってことで話がまとまって、一緒に弁当食って、中学の頃の事や、クラスの可愛い女子の話して、友達になった。
僕が中学生の頃、いじめられていたことを話すと、たくちゃんはとても共感してくれた。こんなことは普通、軽々しく人に言う事ではない。でも、たくちゃんにはそういうことを言ってもいいような独特な雰囲気があった。
2年生になると、僕らの仲もまた深くなっていった。それを証明するものが、文化祭での漫才だ。先にやろうと言ったのは、なんと僕。なんで漫才なんかやろうと思ったのか、その経緯は覚えていないが、たくちゃんを誘う時にすこぶる勇気を出したのは言うまでもない。自分から何かをしようと言うのが初めてだったのだから。たくちゃんは、そんな僕を見て、驚き、それでも嬉しそうだった。
漫才はというと、受けたのと滑ったので4:6ぐらい。なかなかさ。それに、楽しかった。
ある日、たくちゃんが言った。何気なく、言ったんだと思う。
「俺たちって、親友だよな?」
その時僕は、親友がなんなのかを知った。毎日他愛もない話をし、ふざけあい、笑いあい、お互いの存在をかみしめる。
それがどんなに普通で、どんなに大切なことなのか、その一言でわかったんだ。

僕らは、親友。



すでに3分が過ぎた。ミキは1分立つごとに時間を知らせてくる。遼はというと、ソファから立ち上がり、不規則に体を震わせていた。ミキの言っていることがよくわからない。
「だ、だって、身をけずるったって、それ、それじゃ終わりじゃないか?バカバカしい!」
何回この質問とバカバカしいを机に置かれた携帯に向かって繰り返したか、覚えていない。ミキの返答は決まってこうだ。
「はっはっは♪」
怒りと焦りと恐怖で、遼はなにも考えられなくなっていた。テレビに映る井川卓志は、遼を馬鹿にするかのごとく、呑気に週刊誌のページをめくっている。
「4分経過したことを、お知らせします。あとたったの1分で井川君が僕に殺されます。急いであなたが死にましょう♪」
「なんで、なんでこんな・・・意味がわからない。なんで僕が?そうだ、なんで僕がこんな下らないことに付き合ってなくちゃいけない!たくちゃんが死ぬわけがない!だってそうだろう?犯罪だよこれは!」
「そう、犯罪だ。それもおぞましいくらいのね。」
「犯罪は、しちゃいけないことだ!」
遼自身、もう自分がなにを言っているのかもわからない。それほど追い詰めれているのだ。
「はっはっは♪」
「ふざけるな!笑うな!なにがおかしい!こんなバカな冗談をして、ただで済むと思うなよ!必ず見つけ出して、警察に・・・」
「冗談なんかじゃない。君が死ななければ、僕は井川卓志を殺すよ。本当さ。ほら、バカなこと言ってる間に、あと30秒しか―――」
「黙れ!!!お前なんか・・・」
この時、なにかが遼の沸点を通り過ぎた。妙に気持ちが落ち着いていき、しまいにはソファに腰掛けてしまった。顔が微笑に満たされていった。徐々に笑顔になっていく。額に汗がべっとり付き、それでも顔がニヤついている遼の顔は不気味だった。
「・・・そうだ、部屋にカメラがあることだって、たくちゃん本当はわかってんだろ?下らないテレビの企画さ。僕は騙されないぞ。テレビ局を訴えてやる」
「前もそんな感じだったな。ま、あの時は1分くらいでそうなったけど。」
「前?前ってなんだよ?まさか、あの連続殺人事件のことかい?」
「その通りだ。僕があの犯人。」
遼は少し黙ったが、それでもニヤついた顔は直らなかった。
「ははっ、はは。悪い冗談だ。」
「冗談・・・ねぇ。あ、あと10秒だ」
「知るか!!誰も死なないんだ。誰も。」
「ふふっ♪さて、そろそろいくかな」
電話の奥から、ガララ、という音が聞こえてきた。思うに、車の横にスライドするタイプのドアを開ける音だ。遼の、不思議に晴れた心の空に曇りが見え始めた。
まさか、たくちゃんの家の前に・・・?
「・・・そんなはず、ないか・・・」
「残り0秒。タイムオーバー。残念。井川卓志は死ぬ。というより殺される。」
電話の奥からまた音が聞こえた。ガチャ、という今度は普通のドアを開ける音。
「・・・鍵、かけてないのか。」
死ぬことを信じていない遼がぼそりと言った。証拠がなにもあるわけじゃないのに、なぜかミキのいる場所が井川の家だと悟った。
「たくちゃんの家は・・・必ず鍵がかけてある。家に誰かいる時でもかけておくんだ。」
「彼の家に何回も遊びに行った君が言うんだ。間違いないんだろうな。」
「・・・じゃあなぜ開いてる?」
心の空が、完璧に曇りに覆われ、太陽が消えた。お次は雨が降るようだ。
「それは、僕と神のみぞ知るところだよ♪補足までに言っておくとね、なぜかご両親もいないんだ。お出かけかな?すると、今家に残っているのは・・・」
「たくちゃん、だけ」
「正解♪」
その正解、という声にあわせ、ミキが家の中へ入ったらしいのがわかった。携帯が風を受けているので、ミキがずんずん進んでいるのがわかる。

そこからの出来事は矢継ぎ早だった。まず、電話の奥からコンコン、という音が聞こえ、それに合わせるようにテレビに映る井川卓志が週刊誌を読むのをやめて、画面右側に目をやった。おそらく、そこに"ドア"があるのだろう。なんだろうという顔をした井川卓志が立ち上がり、ドアを開けた。するりと、蛍光灯の光に反射した長いものが井川卓志の首元に突きつけられた。その瞬間に、動けなくなる井川卓志と倉田遼。いや、表情のほうは、井川卓志のほうはわからないが、倉田遼の場合は、目が驚くほどに飛び出ていた。
井川卓志の首元に長いものを突きつけたまま"ヤツ"が入ってきた。黒ずくめのローブのようなものを着ていて、顔はのっぺらボウのように何も書かれていない仮面を被っている。左手に、長いもの、もとい日本刀、そして右手には携帯電話が握られていた。仮面は、動けない井川卓志ではなく、カメラとその先にいる倉田遼のほうに向いていた。
「それでは、これからまさに殺されるという、井川卓志君に一言もらいたいと思います。えぇ、井川くん、今の心境はどんな感じなのかな?この電話の先にいる親友の倉田遼くんに言ってもらえるかい♪」
のっぺらボウが、右手に持つ携帯を井川の口元に近づけた。嫌なことに、井川卓志ハッ、ハッ、という絶望に満ちた息遣いが聞こえてくる。
「ハッ、ハッ、ハッ・・・りょ、りょう?」
慌ててソファから滑り落ちた遼が自分の携帯にしがみ付くようにその問いに答えた。
「そ、そうだよ。た、たくちゃん・・・」
それ以上は言葉が続かなかった。というより、なにも言えることがない。
「なに、なんで・・・ってか、こいつ誰――――」
「はい、井川卓志君でした♪」
井川卓志の生首が飛んだ。
テレビのなかで舞い散る鮮血と、倉田遼の叫び声とが、見事に空を切った瞬間だった。


「あああああ、ああ・・・!!」
今は砂嵐が流れたままのテレビを前に、床にくるまった遼はまだ叫んでいた。顔は涙と汗でぐっしょりだ。映像は、のっぺらボウがカメラに近づいてきたところで終わっていた。
「うるさいなぁ。黙れ。」
ミキのかすかに怒りを含んだ声が聞こえてきた。それでも遼は叫びつづける。隣の部屋にも、そのまた隣の部屋にも余裕しゃくしゃくで届く声だ。もしかしたら、誰かが何事かと思って来るかもしれない。苦情だってなんだっていい。誰でもいいからこの状況から助けて欲しかった。
「そんなに叫んでも誰も来ない。・・・全員殺すよ。言う事聞かないと。」
遼の意思というよりも、本能が叫ぶことを止めさせた。荒い息遣いが、303号室に響く。
「きっと、まだ信じきれていない部分もあると思うから、今から"持っていくね"」
「・・何を・・・?」
答えなんてわかってる。でも無意識にそう呟いていた。
「な・ま・く・び♪これで君もわけのわからないこといわないでしょ」
もう十分お前がいかれてることはわかった。親友の無残な姿なぞ見たくもない。
「最初から・・・たくちゃんは死ぬことが決まってた・・・?」
「いんや。最初に君が言っても聞かないから死んだんだ。あの時いったじゃないか。"証拠を見せる"って。今の君が自殺なんてできるわけがない。井川卓志の死、これは君を信用させるためにやった、ほんの一例だ。次からはちゃんとした命令をだすから、ご心配なく。」
果ての見えない、すさまじい憎しみと悲しみが同時に湧きあがってきた。
「よし、着いた。じゃ、今からそっちにいくね。」
またもや電話の奥から車のドアの開く音が聞こえてきた。
殺そう。差し違えてもいい。遼の心にはそれしかなかった。

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「なかなかいい顔してるね、井川くんは。死顔が」
直立不動の遼は、携帯から聞こえてくるミキの声が聞こえてはいるが、わかってはいなかった。

やつは今、このマンションにいる…
おれを監視しているモニターは…車のなかだろう、やつはいま外だ、こっちがなにしてるかなんてわからない!

遼はおもむろに、携帯に目をやりながら、ゆっくりとキッチンへ足を向けた。そこに、母親が送ってくれた一度も使ってない包丁がある。やつはいま、遼が井川の生首を見た時、どんな反応をするか予想している。遼自身はそれを見たとき、どんな反応をするかなんて皆目見当がつかない。
一歩づつ、一歩づつ…
「どこにいく?」
途端に、遼の動きが止まる。世の中、そんなにうまくはいかないらしい。
「…なにが?」
あえて開きなおってみた。
「居間からどこにいくと言っている。僕がいま外にいるからって、わからないとでも?残りを殺すぞ」
最後のセリフはもう、遼にとって絶対的なものとなっていた。どうあがこうと、こればっかりには抵抗できない。
「別に、どこにも…」
「そうか。まあ、こっちとしてもこれでゲームが終わりじゃつまんないしな。今回は見逃してあげるよ。」
安堵と諦めが、遼の心の中で混ざりあった。


コンコン。


ドアをノックする音が聞こえた時、遼はソファに座りぐったりしていた。正直、親友の生首なんて想像できない。できるわけがないのだ。僕は普通の日常に暮らしてる、普通の人間で、戦争経験者ではない。人を殺すとか、殺されるとか、そんなこととはかけ離れたところで生活していたはずなのに。
この急な環境の変化には、とてもじゃないが、ついていけない。
心の準備をしようと思ってもできないまま、遼は玄関へと重い足取りで進んだ。
「あ、そうだ。念のために言っておくけど、大声はださないでね。不安なら、口になにか詰めとくといい」
その声に反応しないまま、遼はドアを開けた。


一瞬、誰もいないと思った。いや、少なくともミキはいなかった。下に目をやると、ああ、やっぱりだ。
内側から赤く染まったビニル袋が、サッカーボールほどのふくらみをもって、置いてあった。
居間からミキの声が聞こえる。
「とりあえず、それ持って中に戻れ」
思考がついていけない。悲しみとか、驚きとか、恐怖とか、感情がまるでわきあがらない。ただ、口を半開きにしたまま、ビニル袋の端を親指と人差し指で持ち、脱力状態のまま居間へ戻っていった。
「さて、今からきみのなかにある、このゲームに対する疑問をすべて取り除きたいと思う。やり方は簡単だ。その中身をあければいい。現実を自分の手で知り、受け止めるんだ。」
机の上に、新聞、広告、カップ麺、赤色のビニル袋。
口を半開きにしたまま、ゆっくりと、ゆっくりと、ビニル袋に手をかける。これをあければ、普通の日常とはもう会えない。いや、もうずいぶん前に別れてたのかも。ただ気付かなかっただけ。 

どちらにせよ、だ。これが僕の運命。

親友は、なにが起こっているのかわからない、という顔をしたまま死んでいた。血で顔が半分ほど浸かっている。遼は、無表情のまま涙を流してる。ようやく、感情が追いついてきた。
ミキは言う。

「さ、次の命令だ」


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中学生。新しく始まった生活。小学校のころからの友達と一緒になれなくて、一人心細かった。周りは楽しそうに群れて話しているが、おれは人見知りだ。顔は全員知っているやつらばかりだけど、話したことなんてない。すでに思春期に入っていたおれは、無邪気だった自分が小学校から積み上げてきた人間関係、それがないクラスになじめなかった。そんな、クラスの隅っこにいるようなおれを放っておくいじめっ子はいない。
武藤翔。おれをいじめた方々のリーダー格。
正確にいえば、具体的ないじめをしたのはこいつと、こいつの仲間。それ以外は、それを心底楽しそうに見ていたり、哀れな表情を浮かべるだけだ。"ただ一人を除いては"。
やつはおれが登校し、クラスのドアを開けると、決まって窓際の男子の群れから抜け出してきて、おれを蹴る。それが毎日の日課。おれは身を守る、なんてことはしなかった。そうすればもっとひどい目にあうから。腹を蹴られた時は腹を抱え、スネを蹴られた時はスネを押さえてうずくまる。そしてあいつは、そんなおれを指差し、みんなのほうに向きながらこう言うんだ。
「なぁ、こいつ誰?」
クラスに沸く、ドッという笑い声。大人――教師――からすれば、それは暖かな、クラスの団結を示す一つの形なのだろうか。いや、やつらもわかっているはずだ。わかっているのに、なにもいわない。
毎日が同じように過ぎてゆく。授業中は、あいつから指令を出された仲間がおれに様々なことを仕掛けてくる。紙くずを投げるとか、そんなベタで生半可な物じゃない。鉛筆の尖っていない方で背中を思い切り突き刺されたりするのだ。あまりの痛みに思わず声がでる。そんなおれの声と周りのくすりという笑い声に、教師の持つチョークの動きが止まる。


そして、何事もなかったかのようにまた動き始める。


休み時間は、武藤からありとあらゆるプロレス技を一方的にかけられる。ほとんど容赦のないそれは、骨が折れる一歩手前の威力だった。抵抗をすればヤツの仲間がそれをねじふせ、かつ武藤から殴られるというオマケ付き。女子はそんなおれを見て、「きもい」と聞こえるように呟き、武藤を応援していた。給食の時間は武藤の言いつけで、当番全員が、おれにだけ本来もらえるはずの量の半分以下しかいれない。固体で別れているものに関しては、無理矢理その一部をちぎる。そして、いただきますの合図の後、おれの給食は一番大きな容器にひとつにつめこまれるのだ。
その時の教師は、おれの方は見ないようにしていた。


面倒くさいことからは目をそらす。


社会にでてからも役に立ちそうなことを学校の教師達は教えてくれた。いや、教師になれば役に立つのかな。校長だって無駄さ。親が取り合ってくれたけど、対応します、対応します、いうだけいって、結局。
中学一年から三年まで、悪魔のいたずら(いや、神様だろうか。おれは神すら信じていなかったから)か、武藤翔とはずっと一緒だった。下っ端は変われど、リーダーが変わることはなかったのだ。
毎日が暴力。毎日が罵倒。闇を生きるおれは、自殺をしてもおかしくない状況に立たされていた。でも、それを行わなかったその理由。


それはきっと、いや、間違いなく、あの人への想い。これに尽きるだろう。


「次のターゲットは武藤翔だ。君とは中学一年生からの仲だよね?」
テレビに映し出された映像は、薄暗闇に浮かぶ散らかった部屋。一見して人がいないようにも見えるが、ベッドが異様に膨らんでいるのがきっとそれだろう。なにやらもぞもぞと動いている。
遼の頬には涙の通った筋がくっきりと残っている。親友は、もう一度ビニル袋を結んでそのままにしてある。目の届かないところには置きたくないという気持ちと、それと真逆の気持ちは、前者が勝っていた。この悲しみの冷めるころ、新しく湧き上がる憎しみは、間違いなくこの殺人鬼に向けられる。
「仲、なんてないさ・・・」
遼は携帯に向かって話し掛ける。
「仲は仲さ。君達はいじめる、いじめられる、という仲だった」
「・・・」
「携帯に充電コードを繋げ。バッテリーが途中で切れても困るしね」
遼は言われたとおりにした。テーブルまでコードが届かなかったので、床に携帯を置く。
「よし、よくできた!・・・それでだな、いま、武藤君がなにしてるかわかる?」
遼は映像に目をやる。いまだにもぞもぞしているベッドの上、よく見れば布団から手やら足やらが飛び出している。薄暗くてよくわからないが、これは・・・。
「そろそろフィニッシュじゃないのかな」
四本の手、四本の足。細い腕と、太い腕。細い足と、太い足。女の手足と、男の手足。つまりは、そういうことなのだ。
次にベッドの上の二人は規則的に上下に揺れだした。布団がずれ落ち、男の背中半分が露出する。女の腕が、その背中へ回された。女の喘ぎ声が聞こえてくるかと思うほど、男を求めるその腕が妙にリアルだった。そして、ミキの言うとおり、"フィニッシュ"をした。
「ふ〜む・・・立ってるか?倉田遼?」
この状況にふさわしからず、遼のは立派に立っていた。親友を包む紅いビニル袋へ視線をそらし、自己嫌悪に陥る。
「そんなわけないだろ。さぁ、さっさと命令しろよ。」
命令、という言葉をいったとき、違和感があった。
おれが、こいつを助ける?
ベッドの上の動きが止まった。いや、完全に止まったわけではない。呼吸のリズムで布団が少しだけ浮き沈みしている。そして、少しずつ男と女は折り重なっていった。
「あ、背中見えてるのが武藤君ね。女のほうは、君に言ってもわからないな。武藤君の中学とか高校からの知り合いじゃないから。ナンパってやつ。名前言おうか?彼女の」
「別に・・・」
「いいか。わかった」
どこまでもマイペースなミキ。
「彼が憎いか?倉田遼?」
憎いさ。今でも殺してやりたいほどに。少しずつ、少しずつ、おれの味わった苦しみを与えながら殺してやりたい。
「・・・おれがこいつを助ける、とでも?」
「さぁ。助けたくなけりゃ、見殺しにすればいい。その辺の自由は、きみにある。」
誰が助けるか。こいつの殺されるところなら、100回でも200回でもみてやりたいところさ。
「ま、とりあえずは、命令だな。」
今回は、例え命令の内容が髪の毛を一本抜く、でもそれに従うことはないだろう。
「今回は軽めにしておこう。右足親指の爪を剥げ。」
薄暗い部屋のなか、男の方がベッドから抜け出てきた。全裸だろうが、電気がついていないのですべては見えない。女のほうは、顔だけ布団からでているのが確認できる。
「時間は、10分くらいかな、うん。はい、スタート」
とても軽いスタートを切った。"例題"に比べれば、こんなもの。遼はソファに座ったまま、ミキのいうことを冷静に聞いていた。
「ふ〜む。倉田遼。先程までとは打って変わって冷静だね。もっと慌てたりはしないの?お前がなにもしないと、人が死ぬんだぞ。」
「殺人鬼にそんなこといわれたくはない。」
良心が痛まない。楽しそうに語るミキ。映像は、男がキッチンへ移動したのに合わせて切り替わった。台所の電気をつけ、その光を浴びた男の裸体があらわになる。たくましい肉体に、金色の混じった黒髪。鼻と唇と耳に穴が開けられ、そのさまはまさしく不良そのものだ。冷蔵庫から2リットルの水が入ったペットボトルを取り出し、ラッパ飲みしている。4年後の武藤翔が、そこにいた。


ゲームの第一回戦。ひぶたは切って落とされたのだ
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「倉田遼、なにもしないの?」
二分が立った。遼は黙ったまま、ぼんやりと映像を見つめている。
「こいつは、殺されて当然だ。」
映像は再び居間へと移り、ベッドに腰掛けた武藤がたばこをふかしている。
「だってそうだろ?こいつは人を人として見てないんだから。あの頃からずっとだ。どうせ、今だってあんなことしてんだろ?見た目から想像できる」
「まあな。だが、してることは変わってる。はるか悪いほうにね。暴力団とも繋がってるよ。」
暴力団。それを聞いて遼は、いま武藤が吸っているのは本当にたばこだろうか、という疑問と、さらにもうひとつの疑問が思い浮かんだ。それは疑問でもあり、わずかな希望のかけらでもあった。
「そんなやつを殺して大丈夫なのか?暴力団絡みのやつなんか殺して、お前だってただなんかじゃすまないんじゃないのか」
「おや、他人の心配かな?しかも憎んでいる人間の。僕のことを心配、武藤翔のことを心配。面白いな、倉田遼は。」
あぁ、下らない駆け引きさ。こいつがこんな脅しかどうかもわからないおれの言動に、動揺するわけがない。どうやら、心の奥底にまだ潜んでいるもしかしたらの感情を、完璧に取り除かなくてはならないらしい。
「・・・そうだな。」
ミキは、あれはハッパだ、ともののついでのように言うと、黙った。




そのままの状態でさらに3分が過ぎた。遼は冷や汗を流すわけでもなく、しかし目線だけがテレビから天井へ移っていた。ソファにぐったりと背中を預け、いじめられていた当時の思い出を浮かべては、武藤への憎しみをさらに募らせていた。
「さて、武藤君宅の前に僕が到着したところで、新アイテムの導入を発表します!!」
唐突にハイテンションなミキの声が発せられる。新アイテム、という言葉に反応した遼は、目線を携帯へ移し、背中をソファの背もたれから離して前かがみになる姿勢をとった。
「なに?」
「新アイテムだ、倉田遼。これがあれば、きみはテレビに映る人物と自由に話すことができる。」
ちらっと武藤へ目をやり、再び携帯へ目を戻す。
「なんだ、それは?」
「まぁ、ソファを漁ってみろ」
遼はきょろきょろと両脇に広がるゴミの山を見回し、手当たり次第にそれらをどかし始めた。
「・・・ちゃ・・・ちゃらららったた〜♪携帯電話〜♪」
国民的アニメのおなじみのBGM。歌うタイミングを遼が見つける時に無理矢理合わせたミキは、携帯を見つめる遼に言った。
「1を押して発信ボタン。1以外は押してもまだ意味はないからね」
これといって特徴のない携帯。
「・・・タクちゃんの時はなぜ教えなかった。」
「例題は例題でしかない。このアイテムは不要だ。それともなにか?これがあれば、あの時死ねてたとでも?」
武藤翔の命が、あと3分で終わろうとしている。いや、遼が右足親指の爪をはげなければ、の話だが。
「・・・どうしても掛けなきゃダメなのか?」
「本来は本人の自由なんだけど・・・いいや、今回は掛けろ。」
鼻で深呼吸をした後、遼は1を押してから発信ボタンを押した。

プルルル・・・プルルル・・・

武藤の顔が、床に散らばる衣服の一つに向けられた。ハッパを持ったまま自分のズボンを拾い上げ、ポケットに入っていた携帯を取り出す。女がなにかを武藤に話し掛け、武藤もそれに答える。
"誰から?"
"わかんね。非通知だ。"
遼の携帯を握る手に力がこもる。今更ながら緊張してきた。武藤が電話にでた。
「はい?」
「あっ・・・あの」
「誰だよお前」
最悪のスタート。こう話してみてやっとわかる。おれはこいつの前じゃなに一つ変わってやいないことを。ミキのほうの携帯からクスクスという笑い声が聞こえてくる。
「お、おれだ。倉田だ。」
「はぁ?倉田?知らねぇな。」
「倉田遼だ。覚えてるだろう?中学の時の・・・」
「知らない。覚えてない。なにお前?知的障害者?」
そういって、笑った。忘れられていた。あれだけのことをした人間のことを、こいつは忘れている。
「中学の時、お前がいじめた人間を覚えているか」
「あ?ってかお前誰だよ、マジで。わけわかんねぇこと言いやがってよ。オレが人をいじめたことなんかあるわけないだろ。なぁ、マナミ?」
女はいまいち話がつかめていないようだったが、それでも笑った。
「・・・いじめたことが、ない?」
「あぁ、ない。お前の言う中学のころも、オレはいじめなんかしてないぜ?・・・あ、そういえば、お前!」
やっと遼のことを思い出した武藤。
「あの頃は楽しかったな!倉田!だろ?」
心のそこからそう言っている。遼にはわかる。いじめたことがない、という言葉も、あの頃は楽しかった、という言葉も。遼は呆然と立ち尽くしていた。
「彼には自覚というものがないね。悔しいか、倉田遼。自分にあれほどのことをした人間が、よもやそれをしている自覚すらなかったのだから」
ミキにやどる感情は読み取れない。言葉のなかにあるのは、わずかな哀れみでも、冷酷な喜びでもない。遼はなにも感じ取れなかった。
「おい、倉田!聞いてんのか?ってか、それでなんで今日急に掛けてきたんだよ。きもいぞお前。ってか、本当にお前倉田―――」
「お前は殺される」
プツッ。ツー、ツー。
映像には、怪訝そうに耳から携帯を離した武藤と、電話の相手が誰だったのか気になっている様子の女の姿。
「なぁ、倉田遼。」
一生懸命、なるべく冷静に深呼吸を繰り返す。頭がおかしくなりそうだ。
「君はもう、武藤君が本当に死んでもいいと思っているだろうな。」
自覚。自覚。自覚。
それがない。だから反省のしようもない。オレがこいつに謝られることはない。一生。
「一つ聞きたいことがある。」
罪の意識。世を生きる人間が、持っているようで持ち合わせてはいないもの。人は無意識のうちに罪を犯す。そしてそれに気付かず、自分は正しいことばかりをしている、そう思いながら生きていく。
「君はあれほどに彼を憎み、別に死んでもいい、とあっさり彼が僕に殺される事を望んだ。」
そして、ある日誰かに気付かされる。自分は間違っていた、と。そこで初めて人は成長する。
「そう思った君は果たして正しいのかな」
だが、もしだれも気付かせてくれる人がいなかったらどうすればいいだろう。もし、誰かの気付かせようとする意思が、その人には届かなかったらどうだろう。そんな人間は、どうなってしまうんだろう。
「倉田遼。命は、平等だと思うかい?」
武藤を憎む遼の心にどすりと、その言葉が深く突き刺さった。

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「あ、あ、あ……」
遼は追い詰められたようにあえぎだした。両手で頭を抱えこみ、後退りしながら、混乱にその身を沈めていく。
「毎日、人は殺し、殺される。外国の紛争地域のニュースを見て、君はなにか感じたか?飢えに溺れる人々を見て、君はなにを思った?それは恐らくこれだ。“人の命は平等なのに、なんで殺し合わなければならないんだろう。はぁ、可哀想に。“」
自分の考えに収拾のつかない遼の背中が、壁にあたる。もう逃げ道はない。
「そしていま、君はその紛争地域にいる人々と同じ状況に立たされている。ただ違うのは、君自身が人を助けられるということ。自分を犠牲にしてね。これは大きな違いだよな、倉田遼。想像してごらん、逃げ場のない戦場で、君は爪を一枚剥ぐだけで人を一人確実に救うことができる。こんなことが約束されようものなら、紛争地域はたちまち自分の身を削る人々で埋めつくされるだろう。なに、命は平等だ。人は、例え救う相手が見知らぬ人でも、いつかは治る傷など気にもせずに差し出すだろう。しかし君は、死などとはほど遠いその傷すら、負おうとはしない!」
ミキの声が初めて荒みを帯びてきた。遼はずるずると、力なく床へ落ちていった。自分が、とても矛盾した考えを持っているということに気付いた。
「命は……平ど――」
「そして。僕自身は、命は平等なんかではないと考えている。」
遼の目が携帯へ向けられる。
「人が、人のために、命を、差し出す?馬鹿馬鹿しい。自分がすべて、そんな人間どもに、そんなことができるわけがない。」
ハァ、ハァ、ハァ。遼の息遣いだけが、しばらく流れた。テレビには、服を着始めている二人の姿がある。
「命の優劣なんてな、個人の判断なんだよ。気に入らないヤツはただ見殺しにして、大切な相手なら、悲しみの目をして、これまた見殺しだ。それが人間だ。漫画の世界とは程遠い、人間の本性。いざとなったらなにもできない、臆病者の、腐った――」
「違う!!」
遼は頭を抱えたまま、叫んだ。体がわなわな震えている。
「ほう?なにが違うんだい、倉田遼。現に君は、親友を見殺しにしているじゃないか。」
冷酷なミキの声。机のワキに置かれたビニル袋。
「違う!!・・・タクちゃんを、タクちゃんを救えなかったのは、覚悟が足りなかったんだ!!」
「覚悟!?あぁ、覚悟ねぇ!格好のつく言い訳だ!周りの同情はしっかり買えるぞ!」
「黙れ!!」
遼はよろめきながら立ち上がった。携帯から目を離し、テレビに映る武藤を見る。荒々しく鼻で息をしながら、憎むべき男を凝視すると、遼は机のものをどかし始めた。いや、どかすというよりは、なぎ払う、といったほうが正しい。
「なにをしている、倉田遼。」
「お前は、間違ってる。人の、人の命は・・・」
「平等じゃない。そしてそれ以上に、人以外の命はもっと平等じゃない。なぁ、親にいつか言われたことないか?肉だの魚だのを食ってる時にさ。食べ物を粗末にしちゃいけない。私たちは、彼らの命をもらって生きているんだよ、って。」
遼はもう、黙って机のうえのものをどかしていた。ようやくお目当ての、大学受験前まで使っていた筆箱を見つけた。
「僕はこれを聞いて、虫酸が走ったね。さすが人間、言い訳だけは一丁前だ。僕たちは決して、命をもらってるんじゃない、奪ってるんだろ?ってさ。なにをそこまで、自分達を正当化しようとするのか、僕には理解できないんだよ。」
「でも、お前も肉を食うだろ。」
遼は筆箱から、シャープペンを取り出した。その鋭利な先を見て、一瞬顔をしかめたが、それでも遼の心は揺るがなかった。
「人間は、毎日命を生産し、それを奪って生きている。家畜がいい例だ。それを自覚しているか、いないかの違いだけさ、僕とおまえらは。自分を正当化して、命は平等ですだの言ってるやつは、死ねばいい。」
遼は右手にシャーペンを握り締めた。目は、右足親指の爪へ。
「・・・人間は、勝手かもしれない。」
遼はゆっくりと座っていき、あぐらをかいた。ミキは黙っていた。
「おれも自覚しよう。命を奪って生きている、と。命は平等なんかじゃない、と。」
ペン先で、親指の肉と爪の接する場所をなぞる。
「で、それがなんなんだ?」

グチュ。

ペン先が爪と肉の間に差し込まれ、爪の裏側が血で染まる。徐々にシャープペンにも、血がなぞるように伝ってきた。遼は苦痛に顔を歪ませた。
「弱肉、強食の、世界に、生まれ、落ちた、ことを、おまえが、いくら、嘆こうが、な、おい?」
シャーペンがずんずん爪の内奥まで差し込まれていき、ビリビリ、と爪が剥がれる音も聞こえ始めた。
「ぐっ・・・命が、平等、だとか、そうじゃ、ないとか、そんな、下らない、ことを、いくら、おれ達が、思っても!!」
遼は目をいっぱいに開き、これでもかという痛みに耐えつづけた。
「それでも、おれ達は生きていくしかないんだよ!!」
遼はシャーペンを持つ手を、一気に引いた。バリッ、という音とともに、血が舞い、爪がはがれ、肉の露出した親指があらわになった。
「アアァァアッッ!!」
激痛に苦悶の表情浮かべ、遼は床を転げまわった。それでも遼は、ミキに向かって叫びかけた。
「オレは!!オレが守りたいと思うものを守る!!人間すべてを、命というたったひとつの極論に括りつけたりはしない!!オレはオレ!!オレ自身でなければならない!!」
転げまわった余波で、新聞やカップ麺の容器に、血が点々と降り注いだ。やがて、激痛がほんの少し収まりだし、遼は床の上で、汗びっしょりになりながら、ぐったりとした。まだ、少しでも動けば激痛が来るという、そんな状態だ。
「・・・時間は、ギリギリセーフだ。武藤は死なない。」
ミキがそう一言呟くと、テレビに映る武藤翔と、マナミという女と、二人のいる部屋が、砂嵐となって消えた。
「・・・ミキ。」
携帯の先にいるミキからは、なにも聞こえてこなかった。携帯は、遼の顔のすぐ横にあった。よく見ると、携帯と充電コードにも、血がついている。
「オレは、武藤翔を助けたくなかった。別に守りたいとも思わない。今でも憎み、そして助けたことを後悔してる。それなのに、なんで助けたか、わかるか?」
303号室に響くのは、ザー、という砂嵐の音だけ。ミキは答えなかった。
「お前に負けたくないからだよ、ミキ。」
苦悶する遼の顔だが、目だけは強い輝きを放ち、携帯をにらみ付けていた。
迷いのないその目は、いかなる試練が遼を待ち受けていようと、もう絶対に屈しないという意思の表れだった。
「・・・次のターゲットだ。」


一回戦、終了。


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 窓を見ると、雲に覆われた空は薄暗くなり始めていた。時計は三時を回っている。
 じっとりとした汗は全身ににじみ、シャツとズボンがぴったりと遼の肌に張り付いていた。二日も湯船に沈めていない体と、飛び散った血液がそれと連鎖した、不快な匂いが遼の鼻をつく。加えて、はがれた爪の痛みがそれと組み合わせられ、遼の最悪のコンディションがばっちりキープできていた。傷口にはティッシュを何枚も押し付けて、応急処置ともいえぬような処置を施していた。口臭もひどい。
 人は、ここまで汚らしい自分のことを、なんと言うだろうか。におう体、薄汚れた服、ぼさぼさでふけだらけの髪。今の自分は、まともな人間にさえそれにさえなりそこねている。
 つまり、ニートだ。大学に落ちたニートが、殺人鬼と戦っている。
「そろそろ、電気をつけたらどうだい?」
 画面は砂嵐。一回戦終了からさほど時間が経っていない中、ミキが遼に話し掛けた。
「命令じゃないんだな」
 ソファにぐったりとしていた遼が、机の側の床に転がる携帯に向かって答えた。右足を投げ出し、極力そこへ刺激を与えないようにしている。時折、血のむんとする鉄臭さと、自分自身から発せられる悪臭に、顔をしかめたりしていた。息は荒い。
「?どうして」
「ここのところは、ずっと命令ばっかりだったから」
「あぁ。よかったら、どうぞ、って感じかな」
 遼はぼんやりと、窓に映る外の景色を見つめた。そういえば、この先にはなにが待っているのだろう。
「そうか。じゃあ、ひまができたら、そうさせてもらう」
「……」
 それを考えると、恐怖で一瞬胃が引っくり返りそうになったので、遼は頭を無にした。




 それから15分ほどたち、ザーという砂嵐の音が、薄暗いままの部屋から消えた。それに大きく目を見開いて反応した遼は、うなだれていた首を持ち上げ、一目散にテレビを見た。その瞬間、遼は口をあんぐりと開け、眉にしわを寄せた。
「これは、一体……」
「倉田遼。僕が見えるかい?」
 画面に映る人間達を、映像は正面から見据えていた。
 まず目に入ったのは、黒いローブにのっぺらぼうのマスクを被った、ミキ。こう正面からみると、意外と背が高いのがわかった。180はあるだろうか。左手に鞘におさまった日本刀らしきものを持ち、携帯の握られた右手は、ミキののっぺらぼうマスクの、耳の辺りにあった。
 次に目に入ったのは、椅子のうえで拘束されている、見覚えのある3つの顔。猿ぐつわなどをかまされていないため、全員がミキに向かって叫んだり、ひたすら暴れたりしていた。携帯から、彼らの叫ぶ声が折り重なって聞こえてくる。「なんのつもりだ!」「犯罪だぞこれは!」「うわぁぁああ!!誰かぁぁぁあああ!!」とかなんとかいっているのがかろうじてわかった。
 そして、部屋。これが、今回で特筆すべきものだ。いままでならば、自宅の自室であったり、マンションの一室であったり、なるべくプライベートな場所をミキは舞台にしていた。しかし、今回は違う。遼は生唾を飲みこんだ。


 学校の教室だった。


「さてさて……あぁもう、うるさいなぁ」
 ミキが、鞘に納まったままの刀を一振りし、画面から向かって右手に位置する男の顔を殴った。さっきから、とりわけ暴れたり、叫んだりしていた男だ。男は椅子ごと教室の床に投げ出された。ミキは他の三人よりも一歩でたところに立っていたので、振り向きざまの回転を利用してのこの一撃は、かなり痛そうだ。
「よし。みんな、黙ってね」
 沈黙ができたことに満足を覚えるミキを尻目に、遼の目は殴られた男の椅子に注目していた。生徒用の、どこにでもありそうな椅子だ。いまだ記憶の新しい、高校で使っていた椅子ではない。これはしっかりとわかる。ともすれば、中学か小学か、ということになるが、彼らの身長に椅子のサイズがなんとか合っている為、恐らく中学であることの予測がついた。
「倉田遼。いまから君には、この三人を僕から救ってもらう」
 ミキが三人の周りをゆっくりと歩きながら話し出した。ミキは三人には目をくれず、天井を見つめながら(そう見える)歩いている。三人のすぐ裏に、懐かしの教壇と、綺麗に手入れのされた黒板。遼はぼんやりと、ここがどこだかわかり始めた気がした。……いや、この教室が映った時には、もうすでにわかっていたのかもしれない。見覚えのある中学校など、思いつくに一つしかないのだ。
「〇〇市立××中学校。きみの、懐かしの母校だ、ここは」
「……あぁ。いい思い出がたくさん詰まってる。学校にも、そいつらにも」
 遼が皮肉ると、ミキがフッと笑った。投げ出されたままの男の横を通り過ぎるとき、ミキは気付かないかのように右足で男の頭を小突いた。
「しかし、今回はまるで前回までとちがうじゃないか。ターゲットが一人じゃないし、場所も目立つ。それになにより、おまえが最初から映ってる」
 ハァハァいいながら遼がそういい終えると、ミキが画面の中央、三人の真後ろで足を止めた。真中の男が、振り向いていた方が安全か、それとも見ないほうが安全か、首をねずみのように細かく動かしながら恐怖に苛(さいな)まれている。遼が目を細めた。
「ルールはひとつ。僕が君の知り合いを殺す。それを君が助ける。……なにか、矛盾したことがあるか?」
 遼は軽く息を吸い、吐いた。それで傷の痛みが引くというわけではなかった。ぼさぼさの、目の上に降りかかる髪の毛を、右手で後ろにかきあげる。
「でさぁ、ミキ……。おまえら、一体どういう組織なの?」
 画面ののっぺらぼうの首がなんとなくかしげられたような気がした。
「なにがだ?」
「こんなこと……無理だろ?一人の力じゃ。いまは平日、学校は放課後だ。人なんざそこらへんにうろついてるはずだし、そいつらがそんなに叫んだりしてんだから、そこに人が来ない方がおかしい。部活してる生徒は?見回りの教師は?一体そいつ等はどこにいる。どうやったら、彼らをおまえらが消せるんだよ」
 遼は一気にこれだけを言い終えた。この問いにミキがどうでるかという不安に、心臓がドクドクいい始めるのがわかる。ミキは突っ立っていた。のっぺらぼうの奥にある視線が、画面を通り越して遼に突き刺さってくるのがわかる。遼はそれから逃げるように、画面の左側の、無人の校庭に目をやったりした。
 思えば、最初からそう気付くべきだった。都合よく声の届かぬ、遼の住むマンションの住人。都合よく開いている、井川家の玄関のドア。都合よくいない、井川家の両親。武藤に関しても、遼が親指をはがさなければ、同じような都合のいい展開が起こっていただろう。
 

 都合、都合、都合。こいつはそればっかりだ。


「……僕達がどのぐらいの組織で、どんな力を持っているかなんて、今は関係ない。
 そら、ターゲットの問題に移るぞ。おまえの中学時代の教師三人、救ってみろ」

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 寺山光義。画面向かって左側、遼の母校の校長。上等なスーツを着込んでいるが、いまもこの中学で校長やっているのかどうかは不明。絵に描いたような偽善者で、口癖は「ルールを守る」「努力すれば夢は叶う」「生徒達は私の子供」などなど。朝の挨拶はもはや独壇場と化し、寺山のオナニー演説をまるまる20分以上も聞かされる生徒達はうんざりしていた。その綺麗事の裏に、どれほどの醜さが隠れているのかは、逆の意味で想像し難かった。
 椅子にしばりつけられた寺山は、脂汗を顔中ににじませていた。口をぎゅっと結び、目をかっと開いている。巨大なイボガエルそのものだ。
「校長先生。いいですか。このカメラの向こうに、あなたの学校の生徒だった、倉田遼くんがいます。あ、あなたにとって生徒は子供でしたね。失礼失礼。あなたの子供、倉田遼くんですよ」
 いつの間にか寺山の後ろに移動していたミキが、腰を軽く曲げ、のっぺらぼうを寺山の耳に近づけていた。ビクンと電気を流されたように反応した寺山は、あの頃あった偉そうなそぶりを一切見せず、背筋をピンと立てて硬直した。目だけがぎょろぎょろと魚のように泳いでいる。
「ほら、声を聞かせてあげてくださいよ、校長先生。親子の四年ぶりの再会ですよ。遼君、喜ぶだろうなぁ」
 ミキはわざとらしく言うと、左手に持っていた刀を床に置いて、携帯を持ち替えた。三人が一瞬―――遼の名前が出たとき―――なにか、落ち着きがなくなったように思えたのは、気のせいだろうか。ミキはそのまま優しく、寺山の耳に自身の携帯を当てた。彼は不潔なものが当たったかのようにぞわりと肩を上げたが、恐怖からか、顔を遠ざけるということはしなかった。遼の携帯から、汚らしいガマガエルの息遣いが聞こえ始める。
「あれ?なにもお話しないんですか?」
 これがなにかのテストだとでも思ったのだろう。寺山は口をぱくぱくさせ、よくわからないことをぶつぶつ言っていたが、それがやがて意味を持っていった。
「そ、そんなやつ、し、知らんぞ!そ、そいつがげ、原因で、わたしが、こんな目に、目にあっているのだとしたら、飛んだめ、迷惑だ!」
 携帯越しでも、こいつの加齢臭を含んだ口臭が伝わってきそうだった。遼は寺山に嫌悪感を持った後、なぜか自分に対しても嫌悪感を持った。……あぁ、俺も臭いか。
 寺山と同じなことに遼がやりきれない思いでいると、ミキはなにもなかったかのように寺山から携帯を離した。寺山は助かった、というように、息を大きく吐いていた。ミキは人差し指と親指だけで携帯をもち、付いた唾をローブでふき取ったあと、言った。
「で、次が君の学年主任だった……」
 ミキはそこから2,3歩ほど歩き、今度は中央の男の後ろで止まった。ミキの歩く姿は、幽霊のようだ。体が上下せず、足元がスーッと地面を滑っているかのよう。
「安西守先生だ。人望が厚く、生徒からの人気はピカイチだったね。いくら教師が大嫌いなきみといえど、安西先生は嫌いになりきれないところがあっただろ?」
 安西はせわしなく後ろを気にしていたが、ミキがなにも言わずに携帯を彼の耳に押し付けた。
「どうぞ、安西先生。倉田遼君ですよ」
 安西は寺山のようにビクつくことはなかったが、荒い息遣いだけは同じだった。
 少し迷ったように顔を動かしたあと、やがて安西が喋りはじめた。
「りょ、遼か?」
 ドクンと脈打つ心臓の音。急に遼のなかに、なにかよく分からない熱いものがこみ上げてきた。カメラを見つめるかミキを気にするかを迷っている安西を見ていると、いま、自分のことを名前で呼んでくれた安西を見ていると、遼のなかで先程確立されたばかりのものが、さらにその強度を上げていく。
「……そうです、先生。俺です、倉田です」
 言っていると、なぜかわからないが、あの日の安西の一言がフラッシュバックされていく。
 

"遼。お前、なにか先生に隠してることないか?"


 助けたい。
 安西がカメラを見つめたまま、ミキに対して、「彼と話しても?」と聞いた。遼からすれば、安西の未知数の敵に対して話し掛けたという行動は、驚くべきことだった。声は震えているので、やはり恐怖があるしかったが、それでも遼の安西に対する尊敬の念は高まった。
「えぇ、どうぞ。あなたは、本当に生徒のことを心から思ってましたよね。今でもそれは変わらずだ。それは、倉田遼くんをきちんと覚えていることで証明されている」
 電話の遠くから伝わってくる(恐らく遼にも届くように大きな声で喋っている)ミキの言動には怪しげな雰囲気がないでもなかったが、彼の情報力に関してはこれまで幾度も証明されてきた。それに、ミキの言っていることを嘘だ、と言う気も起きない。
 安西が喋り始めた。
「遼……。一体、我々はいまなにが起こっているのかよくわからない。とりあえず、よければ状況を説明してくれないか?」
 遼は困ったようにミキを見た。勝手に喋れば彼らがなにをされるかわからないし、下手をすれば殺されるかもしれない。遼にとっても、ミキという存在は未知以外の何者でもない。
「そんな困った顔をするな、倉田遼。それは僕が話すよ。これは"必要なこと"だからね」
 今までにないケース。
 ターゲットは複数。ミキは最初から画面に映り、ターゲットの前にその姿をさらしている。
 ミキが今言った、必要なことというのがなにか関係しているのだろうか。
 それからミキは、このゲームの説明を始めた。遼が自身の身を傷つけられればターゲットは助かるということ。傷つけられなければターゲットはミキに殺されるということ(向こうの空気が一瞬にして深海と化した)。もし遼がゲームを放棄すれば、これまたターゲットになる予定の人物が全員殺されるということ。
 遼の自由に関してのルールが述べられた後、ミキは「聞こえましたか?」と三人に向かって聞いた。安西は少し黙った後、かすかに頷いた。寺山は自分の置かれている状況がとてつもないことに気付いて、ネズミのように細かく動き、馬のような鳴き声を上げ、そして目に涙を浮かべていた。寺山を見たときは、さすがに遼もこの男が哀れに思えた。
 そして。
「あなたは、聞こえましたか?」
 画面向かって右側。投げ出された椅子に縛り付けられた男は、微動だにしなかった。顔を床に押し付け、じっとしている。かすかだが、その床のあたりに鼻血と思われるものが広がっているのがわかった。
「聞こえ、ましたか?」
 若干の苛立ちをふくめたミキの声だけが教室に響き、ミキは男の髪の毛を掴み上げた。大した力だ。遼は思わず関心してしまった。中年太りの情けない巨体が、ミキの片手一本で持ち上がってしまっている。
「いたっ!いたい!やめろっ!聞いてた、聞いてたって!」
 薄い毛髪。河童のように頭頂部だけ髪がないので、残った髪の毛は守ろうと男は必死になっていた。
「そうですか。黙っていれば助かるとでも思いました?馬鹿な生徒じゃあるまいし」
 目はいつでも、怒っているかのように両端がつりあがっている。もちろんこいつは、見た目だけではなく、中身にしても点でだめ。理不尽とも思える言動、行動。人間のできそこない。鼻血を頬からあごにかけてべったりと付けているこいつ。みている遼の中に、ふつふつとした憎しみが湧きあがる。それは、武藤に対して湧き上がったものと似ていた。
「森口浩。中学一年から三年までの、きみの担任だ」
 結局、髪の毛だけで椅子もろとも立ち上がらせられた森口は、不機嫌な態度のままむっすりしていた。他の二人と違うところはただ一つ。恐怖を感じていない。
「倉田遼。なにか話したいこと、あるかい?」
 遼は黙って首を横に振った。もちろん、これでミキに対しては十分伝わる。
「そうか。では、ここで今回君に傷つけてもらう個所と、時間を発表しよう」
 来た。遼は不安に駆られる。しかし、ミキはそんな遼の心の内を知るわけもなく、残酷なその内容をペロリと口にした。


「眼球を一つ刺せ。耳を一つ取れ。指を一本切れ。どちらの目、耳、どの指を、それは全部君が決めていい。時間は三十分。一つ傷つければ、この中の誰か一人が助かる。全員助けたければ、三ヶ所すべてを傷つければいい。
 携帯は僕のほうもスピーカーにしておくから、まぁ、好きなだけ彼らと話してから心を決めろ。」
 ミキは携帯を三人の前の床に置いた。足をのばしてもちょうど届かないような、そんな距離に。
「あれほどの決意を誓ったばかりだ。もちろん、全員助けるんだろ?」
 ミキは携帯から離れる間際、そういった。次にミキは立ち上がり、刀を拾って教壇の椅子に座った。これから起きる”何か”を、のんびり観察でもしようじゃないか、とでもいうように。机に肘をつき、のっぺらぼうをその手で支える様は、さながら授業に退屈している生徒のようだ。
 遼は悲鳴を上げる親指をものともせずに立ち上がった。あの時誓った決意が、遼を奮い立たせた。


「当たり前だ。全員助ける。お前の思い通りには、もうさせない」


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「そ、それじゃあ、そいつが自分の体を傷付ければ、私は助かるんだな?」
先ほどから同じ質問を何回も繰り返す寺山以外、喋る者はなかった。ミキの返答は決まって、「そうですよ」の一点張りで、面倒くさそうにするわけでもなく、むしろ楽しげな響きさえあった。
安西は押し黙り、森口は鼻血を止めようと、躍起になっていた。
ぼんやりとした不安が、画面を見つめていた遼を襲う。
目を。
耳を。
指を。
自分の手で、破壊しなければならない。あって当たり前だったものを、他人のために壊さなければならない。いいようのない怒りが、遼の頭を駆け巡る。
なんで俺が、他人のために!理不尽だ!不公平だ!
それは、強い決意の裏表。ミキに負けたくない思いと、遼のなかに残る“人間らしい部分”が、絡み合う大蛇のようにぶつかりあっていた。
寺山の目障りな質問責めを聞いているうち、遼は、あることを思った。
「どこを傷付けると、誰が助かるんだ?」
そして、遼は、聞いてしまった後に後悔した。
助ける優先順位でも決めようってか?こいつを助けたら、次はこいつ。こいつは最後でいいだろう。そんなことがしたかったか?
 遼に、命に順位なんてつける気はない。なぜなら、それもまた、自分のことしか考えられない人の醜さと、似通った部分があると思ったからだった。それなのに、それを聞いてしまっては、無意識のうちに自分は優先順位をつけてしまうかもしれない。自信はなかった。
いまの質問を止めにしようとした矢先、ミキは無情にも答えをくれた。
「いい質問だ。答えよう。こいつが――」
 ミキは、肘をついているほうとは逆の手で、寺山を指した。
「指だ。しっかり切らないと、殺しちゃうからね。そして、次が――」安西を指して、「眼球だ。しっかり貫けよ」
 ミキは、まるで魔法の杖でも振っているように、それぞれの人物を指していった。
「最後が、耳だ。頑張って助けてね」
 森口を指して言うと、ミキは魔法の杖を机の上に戻した。静けさが、二つの部屋を満たしていた。



 10分後。
 遼はいろいろな思いにふけっていたが、動き出した。
 自分を壊す道具の調達。これが、いますべきことだった。
 時折あふれ出そうになる涙をこらえながら、遼は机の下に転がっていた、血のついたシャープペンを拾う。目はこれでいいだろう。
 次に、指と耳。こちらは、どちらも切ればいいので、ミキにこう聞いた。
「台所、行ってもいいか?」
 うなだれていた三人の顔が上がった。その目に、疑問と期待が浮かんでいる。
 そうだよ。あんたたちを助けるんだよ。
「あぁ。許可しよう」
 遼は歩いていき、台所の棚を覗いた。そこに、親がだいぶ前に送ってきた、調理器具一式がつまっている。使われた形跡のないそれを見て、遼は胸が熱くなった。やめろ。親のことなんか、考えるな。いまとなっては、障害にしかならないのだから。私情を捨てろ。捨てろ。捨てろ。遼は、包丁を取り出して、居間へ戻った。
 武藤との一件で、机の上にはほとんど物が乗っていない。しかし、遼は、それでも、ぴったりと机に張り付いているわずかな広告まで、すべて落としてしまった。そこに、握っていたペンと包丁を置く。遼は目を閉じ、軽く深呼吸した。再び目を開けると、教壇に座るのっぺらぼうが、なぜか笑っているように見えた。
 先に……目。目は、安西。いや、違う。誰でもいい。順番なんか糞食らえ。全部やるんだ。全員救う。こいつの思い通りなんかには、ならない。
 遼は唾を飲み、床に腰を降ろした。とりあえず、邪魔な物をどかして、スペースを作ろう。怠けた思い出しかないソファを後ろの壁まで押し、机もテレビのスタンドに着くまで押した。その他、ゴミも適当にどかしてみると、遼を中心に、空気を入れるだけで完成する家庭用のビニールプールほどの面積ができた。そして、とうとう作業に取り掛かろうとした矢先、遼は携帯が床に転がっていることに気付いて、充電コードにからみ付くゴミを払いのけながら、いまは殺風景となった机の片隅にコトリと置いた。
 再びスペースの真中であぐらをかくと、遼はもう一度深呼吸をした。右手をのばし、シャープペンを掴む。武藤の時とは打って変わって、ペンを掴む手がガクガクと震えていた。遼はゆっくりとペン先を天井に向けて、テレビと自分との間にそれを挟んだ。
 血のこびりついたシャーペン。血の向こうには、なにも見えない。
 あの年の春。夏。秋。冬。自分を大学合格へと導いてくれるはずだったそれが、いまや凶器でしかなくなっていることに、遼は悲しみを感じずにはいられなかった。
 お前は……おれを救えなかったけど……あの人は、救えるんだよ。
 そのペンの向こうには、安西がいた。
 ペンの矛先を、天井から自身の目へと変える。そういえば、どっちを刺そうか、なんて考えてみる。視力が、左眼がCで、右がBだから……左眼か。そんなことを思ったりもしてみせる。しかし、どんな余裕を自分に見せたところで、重すぎるプレッシャーにかなうはずもなかった。
 矛先を、左眼へ。掴む右手の震えが止まらない。なにか、妙な殺気を感じる。このペンからだろうか。どちらにせよ、気のせいと言うほかない。シャープペンとにらみ合っているうちに、震えが一層増してきたので、遼は左手もそこに付け加えた。中途半端が一番いけない。一気に、ぐさりだ。息が、毎度のように上がってきた。
 ついに遼は意を決し、10cm先に見えるペンを、一気に自分に向かって引いた。
 しかし。
「遼っ!!」
 ビタッ。わずか数ミリというところで、ペン先が遼の目に触れることはなかった。肩が激しく上下し始め、遼はペンを取り落とす。
 良かった――。この言葉だけが、いまの遼の気持ちを表すのにふさわしかった。
「遼……。遼……。聞いてくれ」
 ペンを握っていた震える両手を見ながら、遼は無意識にその声が安西のものとわかっていた。そして、声が安西のものとわかると同時に、遼は感謝を目の中に込めてテレビに映る安西を見た。
 ありがとう、安西先生。
 その一方で、遼はきちんと、この逃げ場のないレールの上に、自分が立ってしまったことを覚えていた。
 ありがとう、安西先生。でも、やらなくちゃ――
 そう、携帯に向かって言おうとした時だった。
「遼……。気持ちはわかる。でもな、頼むよ。はやく、目を刺して、先生を助けてくれ」
 遼は安西の顔を見た。焦りと怒りで満ちているように見える。
「はやくしてくれ。目の一つや二つ、大したことないだろう?もしかしたら、直るかもしれない。よく考えてみれば、軽い傷かもしれないぞ。現代の医学はすごいらしいからな。詳しくはわからんが……。
 なぁ、遼、先生にも家族がいるんだ。先生が死んだら家族はどうなる?お前の目が無事で、先生が死んで。こんなのおかしいだろう?不公平だろう?遼の命より、先生の命のほうが大切だろう?……だから、さっさと、目を刺せっ!!」
 先程の遼の質問が、なにかの歯車を動かしてしまった。
 やめて。先生、やめて。壊さないで。俺の中の先生を、壊さないで。先生はそんなひとじゃない。そんなこといっていいはずない。先生を信じてる――





 ……ミキが、立ち上がった。

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おれは職員室に呼び出されていた。理由は、まあ、知っての通り。でも、目的は違った。おれを呼び出した安西は、
「いじめなんかないんだろう?」と、諭すようなことはしなかった。
そう。おれがいじめられていることを認める、数少ない教師の一人だったのだ。
他の教師の痛い視線を浴びながら、おれは、椅子に座る安西の前に立っていた。安西の机は適度に散らばっていた。そのなかに
「いじめ」についての本が数冊あることに気付いたおれは、無意識のうちにそれから目を離し、床に目をやった。
「さて、と」
安西が改まったように、遼のほうをむいた。机に乗った片腕が、ボールペンをいじくっている。
「遼。お前、なにか先生に隠してることないか?」


「はやく!!刺せッ!突きさせっ!」
 すべてを支えていたはずの柱が折れてしまったようだった。安西は、遼がどれだけの覚悟を持っていたかに気付いていない。壮絶な拒否反応を起こす体に、無理矢理傷をつけようとしたときの遼の目は、間違いなく本物だったのだ。
 遼は呆然として目の前の安西を見つめていた。
「……まだか?おい!まだかっ!」
 安西は血走った目で、ミキの方を振り返った。振り返るときの衝撃が強すぎて、椅子が動いてしまうほどだった。ミキに遼の状態を聞こうというのだろう。
 立ち上がったミキがなにか言ったが、携帯には届かなかった。安西は、ミキが立ち上がっていたことに驚いていた。
「ま、待てっ!じじじ時間は、ま、ままだあるはずだ!アレが早く刺せば――」
 アレ。
「頼むっ!殺さないでくれ!やるならこいつらを……」
 ミキが歩き出すと、寺山がひんひん喚き出した。森口も、この安西の状況を見て少し不安になってきたのか、「てめぇこの野郎!俺を売るな!」と言っていた。鼻血は止まっていなかった。
 しかし、ミキは三人の横を通り過ぎ、まっすぐ携帯のほうへ近づいていった。
 ……まだなにかあるのだろうか?ミキは喋り始めた。

 安西の質問に、しどろもどろになるおれ。もし言ってしまえば、武藤からのいじめはエスカレートする一方だろう。しかし、思い切り、洗いざらい話してしまっても、心が楽になるかもしれない。
「あの……せんぜっ」
 舌をかんだ。じんわりとした血の味が、口の中を広がっていく。後ろにある休憩室から、馬鹿うるさい森口の笑い声が聞こえた。別におれのことを笑っているわけではないのだろうが、それでも恥ずかしかった。安西は笑うだろうか?人と話す時間が長いことなかったため、おれは話す能力というのが下がっていた。
「ゆっくり、話せ。焦らなくていい」
 涙が出るのをこらえようとしたが、勝手に目が潤んでしまっていた。鼻を思い切りすすり、手で涙と鼻水をぬぐう。
「つらかったんだな……話してみろ。誰にも、喋ったりなんかしないから。先生は、おまえのたった一人の味方だ」
 安西の言ってくれることはすべて嬉しかったが、ひとつだけ、訂正しておいた。
「先生……ぼくの味方は、たぶん、もう一人います……」
「なに?そうか……じゃあ、これからはその人と先生が、遼の味方だな。そのうち、そいつも先生に紹介してくれよ」
 おれは泣きながら笑っていた。笑うなんてどのくらい久しぶりだろう。頭をくしゃくしゃに撫でられながら、おれはそんなことを思っていた。

「特別ルールを発表します。<正直に白状した者は、助かります>。以上っ♪」
 奇妙なことを言う。遼はどういうことだと思った。瞬間、ミキがしゃがみこんで、携帯を覆った。映像を見ると、まるで縛り付けられた三人にミキが屈しているようにも見えたが、あくまで立場はその逆だ。そして、遼にしか聞こえないほどの声で、ミキは言った。
「これ、嘘だから♪彼らに言っちゃだめだよ?」
 ミキは早々と立ち上がると、優雅な足取りで教壇に戻り、先程の姿勢をとった。
「正直に……」
「助かる……?」
 向こうの三人の様子が変わった。安西は黙り、三人は気まずそうに下を向いた。遼にはどういうことかわからなかったが、不吉な感じは受けた。
「し、しかし……ばれてしまうのは……」
 寺山だ。
 ミキは、大げさに、大声で寺山に言った。
「なにをいまさら、です。それに、ばれたところで、知るのはごく少数です。さぁ皆さん、助かりたければ、彼にすべてを」
 寺山はミキの言葉をいいように受け取ったようだった。ゆっくりと顔を上げると、画面越しに遼と寺山の目が合った。
 その目に映っていたもの。遼はすぐに目を逸らした。寺山が口を開いた。
「わ、わたしは――」

 おれは安西に、じぶんがいじめられていることを話した。泣きながら、何度もつっかえながら、それでも話しつづけた。最初は気になっていた周りの視線も、気にならなくなっていた。
 すべてを話し終えた時、安西は立ち上がって、おれのかたに優しく腕を回してきた。
「よく話してくれた……。でも、いじめをなくすとなると、やはり一筋縄じゃいかなくなるんだ。それはわかるな?」
 おれは安西を見上げる。
「先生と、遼がさっき話してくれた子。二人がおまえの味方だ。つらい時は、先生とその子を思い出してくれ。そうすれば、いじめなんかへっちゃらだ。耐えられる。そうだろう?」
 おれはその時、無意識のうちに頷いてしまったが、どうなのだろう。安西の下した結論は、本当に正しかったのだろうか。俺自身に武藤と戦う勇気がなかったので、そういう結論になるのはやむを得なかった、とすれば簡単だが。しかし、これでは結局、なんの解決にもなっていないんじゃないか。
 そして次の日。
 そうだ。思い出した。


 いじめがエスカレートしたのだ。武藤の「おまえ、ちくったろ?」の一言を皮切りに。


「わ、わたしは、武藤らの、アレに対するいじめに、加担していた!」
 叫んだのは、寺山ではなく安西だった。とても早口で、言い終わった時には、安堵の微笑さえ漏れていた。
「そう。そう。おれは、こいつの味方をするふりをしながら、実は武藤と組んでいた。毎日がつまらなくて、刺激が欲しかった。最高だった。朝から昼までいじめられてきたこいつが、放課後になると街灯にむらがる虫けらのようにわたしに駆け寄ってくる。一所懸命に同情する芝居をしたが、内心腹がよじれるほど笑っていたよ。このことを森口に話していた時に、偶然校長に聞かれて――」
 寺山が自分の番だ、とでもいうように、安西をにらみつけながら言った。
「わたしは、それを聞いて、面白そうだと思ったよ。わたしも、その仲間に入れてもらった。だ、だから、武藤と倉田を三年間一緒のクラスにするという計画にも、大賛成だった――」
 驚愕の事実。
 ありきたりな表現だが、遼の気持ちを表すには、これが一番適当だった。心臓と体のあちこちとを繋ぐ太い血管がブチブチとちぎれていくように、遼は心もおかしくなり始めていく気がした。
 二人は競うようにして、隠されていた真実を吐き出していった。中には、遼ですら覚えていないこともあった。自分が助かるために、脳みそをフル稼働させているのだろう。目を開き、汗だくの顔に不気味な笑みを携えて、どのくらい喋れば助かるのかという焦りと、もう結構なこと喋ったんじゃないかという満足感の間で揺らぐ二匹の怪物は、それでもなおカメラとミキを交互に見ながら、口を休めることはしなかった。
 つばをまきちらす二匹の傍らに、影の薄くなった人物がいた。森口である。カッパ頭の頭頂部には、塩辛い水がたまっていた。表情はあおざめている。じょじょに、このゲームの信憑性が、この男にも分かってきたのだ。証明したのは折れた鼻だった。テレビの企画なら、普通ここまではしないし、やってしまったらやってしまったで、すぐにでも番組の責任者が教室のドアを開けて入ってくることだろう。しかし、それがないというのだから、これは犯罪かな、というのが、冷静になって導き出した森口の結論だった。さらに、このミキという男の存在感たるや、形容するにも恐ろしいものがある。しかし、あえて形容するならば、それは絶対的存在、というほかならないだろう。この男にはしっかりとした考えがあって、それはだれにも害することは出来ないし、また、屈折させることもできない。自分のしていることに、まったく後ろめたさを感じていない点から、森口は、ミキのしようとしていることを信じ、そして恐怖するのだった。絶対的な存在感を見せる人間など、後にも先にも見たことがない。
 森口はいまにも吐きそうな顔をしていたが、それが徐々に、フッフといった笑い顔へと変わっていった。人をなめきったような、癇に障る顔でカメラを見つめるが、隣の二人の叫びが、自分の言いたいことをすべて飲み込んでしまう。森口は声を、二人よりも勝る、どでかい音量にして叫んだ。
「黙ってろ!」
 二人は黙った。正確にいうと、黙らせたのは、森口から飛んできた血液だった。血が、二人の勢いを、一瞬だけ油断させた。その隙に、森口は言う。
「おい、倉田。武藤におまえをいじめるようにけしかけたのはな、俺だよ」
 遼の呼吸が無意識に止まる。他の二匹が、それぐらいの告白でいい気になるなとでもいうように、再び叫びだした。
 二人の朗読する「いじめ加担日誌」に真新しいこともなかったので(これもまた悲しいことだが)遼は森口の言うことへ耳を傾けた。まだ先程の話の続きだった。
「倉田遼っていう、マゾのドM野郎がいるから、ちょっと相手してやってくれないか、っていったらよ、次の日にゃあ、てめぇのこと殴り飛ばしてくれてたぜ。ありゃ、気分よかった」
「おれがおまえをひと目見たときにむかついてなけりゃ、おまえはいじめられることもなかったんだぜ。ま、あくまで仮定の話だけどな。どっちにしても、てめぇみたいに見てるだけでむかつくやつは、おれがいなくてもいじめられてた。そう思うだろ?」
「おれも暇だった。刺激がほしかった。安西とおれで盗聴器を隠し持って、おまえがクラス中から罵倒されるのを録音しては、爆笑してたもんさ。あ、もちろん、おまえが安西に慰められてる時もだ。おまえ泣くんだもん。気持ち悪いったらありゃしねぇ。ま、笑ったけどな」
「自殺させなかっただけ、よかったと思えよ。いじめられる側にも、いくらでも問題はあるんだ」
 聞いていくうちに、安西の本性を知り、悲しみに暮れていた遼の心が、怒りへと変換されていった。どちらもよくない感情だとわかってはいるが、歯止めが利かない。怒りが過ぎて、耳が遠くなってしまったように思えた。やつらの声が聞こえない。叫びつづける三人を見て、ブルブルと体が震え、殺してやりたいという衝動が沸く。
 憤怒に満ちた目つきで、画面の三人を見る。
 そして、ふと思った。
 こいつらは、いったいなんなのだろう。
 その答えは、両腕を翼のように開ききったミキから聞けた。三人にも負けない、凄まじい声だった。だが、必死な三匹はそんなことに気付いていないようだ。音の聞こえなくなった遼の鼓膜に、ミキの声だけが不自然に響く。
「どうだい、倉田遼!!これが人間だよ!自身の生への異常なまでの執着は、人を見るも無残な醜い化け物へ化してしまう!どんな人間だって、掘り進めればこんなもの!他人を思いやる気持ちなどあるわけがない!
 わかったか?君の助けようとする人間など、所詮はこんなものなんだ。助けたってなにもでやしない。出るのは自分の血と、安上がりな感謝の言葉。なぁ、おい。そろそろ逃げたらどうだい?君の固めた決意なんて、少し突付けばボロボロと崩れ落ちてしまう程度のものだ。人間らしく、面倒くさいことからは、逃げてしまえ」
 遼自身そうしたかったが、まだ体のどこかで、逃げようとする自分を止めるなにかがあるのに気付き、心を揺らすのだった。
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助ける意味?知らないよ、そんなの。だって、助けたくないんだもの。
あぁ……本当に気持ち悪いや、こいつら。今までさんざんなことしてきた人間に、命ごいなんてするか、普通?……あいつはそれが人間だ、なんて言ってるけど、おれはそう思わない。怪物だよ。外見ばかりを強く見せて、本当は弱いのに、それを体のうちに押し込んで隠そうとするずる賢い怪物。
でも、今はその弱い部分が剥き出しになってるんだよね。いい響きを持たせれば、正直になったってこと。正直に生きるって、もっと素晴らしいことだと思ってたのに。全然素晴らしく見えない。醜い。
うわっ唾飛ばすなよ、気持ち悪いな。
……でも、やっぱり人間かも。人が生きてるのは、死にたくないからだよな。
だって、もし、「なんで生きてるの?」なんて聞かれたら、「死にたくないから」って答えるだろ。ひねくれた答えなんか、強がるための道具でしかないし。大切な人を守るためとか、本当に漫画の世界でしか通用しない。
 そう考えると、こいつらだって全然、普通の人間なんだよ。俺だって同じような状況になったら、ああいう行動を取るかもしれない。人をどん底に突き落とすような真実はあいにく持ち合わせていないけど、生きるためにできることなら、なんでもしようとするだろう。
 で、おれは実際そんな状況にいるわけじゃなくて。逆って言っていいかわかんないけど、とにかくそいつらを助ける立場にいる。助ける、なんて、本当に自惚れた表現。おれには無理だ。さっきまでのおれは、ただ虚勢を張っていただけなのかな。悔しいよ。今のおれのしていることは、こいつらと同じタイプの人間がすることと、同じなのだから。

 他人のために命をはれるって、素晴らしい。だからおれは、素晴らしくない。

 妙に哲学的な思考を巡らす遼の部屋の時計は、確実に時を刻み続けている。無気力状態の遼はあぐらをかいて、見殺しというビジョンを少し先の未来に見ていた。
「うん、うん、安西先生はあと少しかな。頑張ってね。校長先生は、量で言えばちょっとだけ安西先生に劣ってるぞ。あと少しだから、頑張って。森口先生は、スタートが遅かった分、やっぱり出遅れちゃってるね。でも、今からでも十分巻き返しは効くぞ。さぁ、みんなで生き残るんだ!」
 ミキの言っている声が聞こえる。三人はそれに触発されるように、告白の勢いを増した。小学生の授業を見れば、これと似たようなものもあるかもしれない。ミキは、リズムよく頭を小刻みに動かしている。
 ミキの言っていることは嘘だ。彼は今回で初めて、遼を騙した。この三人の姿を遼に見せるために、ミキは嘘をついたというのだろうか。すっかりだまされてしまった三人は、残酷な事実を次々さらけ出し、遼の心を傷つけた。遼の決心を鈍らせ、いまや消滅させる直前まで追い詰めた。三人の死ぬのも、時間の問題。
 ミキはきっと、いまの遼をみてほくそ笑んでいるだろう。遼は今一度、自分を奮い立たせた理由を思い返してみた。
「……あいつに、負けたくないから?だから、おれは、自分の身を傷つけたの?」
 汚物にまみれたような三人を見つめ、言う。
「武藤は助けられて、なんでこいつらは助けることができない?同じようなものじゃないか。同じ、おれの嫌いな人間。なのに、なぜ?」
 理由を考え、そしてそれは、自然に遼の口からこぼれ出ていく。
「答えは……そう。勢いかな。あの時は勢いがあった。触発されてすぐ後だったから……勢いに任せて、やれたんだ」
 当時に残った、あてつけの疑惑。一つの亀裂を元に、遼は自分にあった強さを否定していった。
「勢いもあったし、それに……親指の爪。それだけだ。たった、それだけ。傷つけたのがそれだけの部分なのに、よくもまぁ、あんな得意げに……」
 自分は弱いのか。
「今回はどうだ。目、指、耳……どれも無理だ。自分で自分を傷つけるなんて、普通じゃできない。そのくせ、用意だけはしっかり怠らない。なんだ、この包丁とシャーペンは。これでおれは、なにをする気だった」
 今が普通じゃない状況というのは遼にもわかっているのに、遼はそこだけ否定しなかった。
「助けないし、助けなくていい。だって、それが人間だから。おれは普通だよ。普通の人間。だから、助けなくてもいいんだ」
 無理に納得しようとするが、心のどこかで、一生懸命に遼を食い止めようとするなにかがあった。
「……いじめを受けるような人間は、全員、弱いんだ。おれは弱い」
 心臓に冷水を流し込まれるような感覚に陥った遼は、その冷水を流し込んだのが自分であるということをわかっていた。正義を。勇気を。自ら冷水に溺れさせていく。
「君はね。本当に、誰からも愛されてないんだよ」
 嘘だ。叫んでみても、自信のないことは声の響きでわかる。ミキの言うことを信じる必要などないのに、遼の心はむしろそれを欲しているようだった。
 遼は、自分の崩壊していくのがわかっていた。
 他人という存在を信じられなくなった。ならばと、遼は考える。あの子はどうだろうか。彼女も安西と同じように、武藤と手を組んでいたのだろうか。一緒になって、おれのことを笑っていたのだろうか。そうでないと信じたい。言ってしまえば、遼にとっての最後の砦はあの子なのだ。
 しかし、それも無駄に終わった。いいことを思い浮かべようとして、いい気分になった試しがない。悪あがきだ。どうせあの子も武藤とグルだったということで、遼はそのことを勝手に片付けてしまった。



 そんな調子で、彼らの命があと十分と迫った時だった。三人はもうすべてのネタが出尽くしたのか、あ〜だのう〜だの、まだまだひねれば出せるものと頑張っていた。
 思考を停止した遼の傍ら、ミキの叫ぶのが聞こえた。
「よ〜し、よし。もういいよ。はい、みんな合格。よくぞ遼君を追い詰めてくれました」
 途端に口をつぐみ、にやつく顔を見合わせて、ミキのほうを振り返る三人。
「じゃ、じゃあ……」
 だれがそう言ったのか遼にはわからないが、ミキはそれを、ちょっと黙ってねと言って制した。
 遼はとりわけ反応するわけでもなく、ただ黙って画面の下のほうを見つめていた。むしろ、見ているようで、実はなにも見ていなかったとしたほうが正しい。
「倉田遼。薄っぺらい善意の持ち主。君の強さなんて、所詮はこんなものだったね。君は最低の人間だよ。死んでしまったほうがいいんじゃないか。ほら、そこの包丁で。できないこともないだろう。君はもう、自分が一番ぐずだってわかってるはずだ」
 そうかもしれない。なんだか、ミキに言われるとたちまちそんな気がしてくる。目線が包丁へいった。
「しかし、待て。君が死んでしまっては、この人たちが助からないよ。どうせ死ぬなら――うるさいなぁ、嘘だよ、嘘――どうせ死ぬなら、この三人を助けてから逝ったらどうだい。君など比べ物にもならない、救うに値する素晴らしい方たちさ。そうだろ?ぐず」
 なるほど。ぐずにはぐずらしい、世のため人のためにできることがあるじゃないか。これまでは死への恐怖で自分を傷つけることなどできなかったが、いまは違う。死を恐れる必要がないのだ。おれは死ぬべき人間なんだ。死にいく途中で、人を三人助けてなにが悪い。
「まぁ、君もよくやったよ。よく強がってた。君みたいな人間の行き着く先は、いつでも、ここなんだ」

 ――あとのことは、目覚めるまでほとんど覚えていない。覚えているとすれば、気付けば包丁へ手が伸びていたことと、グニュだのバリバリだのシュッシュッだの、およそ体の内にしか聞こえない背中のむず痒くなるような効果音ばかり。
 痛みのあまり、気絶してしまったらしい。彼らは、助かったのかな。
--------------------------------
 意識の戻った時、第一に遼が感じたものは痛みだった。ビクンビクンと体を縮ませて、無意識にそれから逃げようとする。無駄だった。灼熱の痛み。痛みの波が溶岩となって、繰り返し押し寄せた。
 遼は目を開けた。ふりしぼるように、半ば根性一心で。痛みにゆり起こされた体は混乱し、頭を麻痺させる。なぜこんな痛みを感じているのか、それがわからなかったのだ。目を開けたはずなのに、その先が見えない。かすんでいる。どこか範囲のせまい感じもする。かすんでいることで、遼は自分が涙しているとわかった。
 赤ん坊のように身を縮ませた遼は、痛みの根源を手で探りだそうとした。しかし、どちらともなく動かしてみた左手の先が、瞬間、針金をずぶりと奥まで刺されるような痛みを伴った。
「アァッ!!」
 遼は情けない声を上げた。声が裏返り、馬のようだった。いくつかの奇声をあげながら、遼は右手を床に恐る恐る当ててみた。……こっちは無事だ。遼は、体を左腕だけで押し上げた。
 遼はうつぶせに倒れていたらしかった。半身を起こして、格好が乙女座りになっても、それを直す気は起きない。
「はっ、はっ……」
 右手で目を拭う。身を起こした辺りで、遼は自分になにが起こったか、いや、自分がなにをしたかの大部分の記憶が戻ってきていた。なので、右目には手を近づけなかった。
 拭ってからしばらくすると、視界に映っていたおぼろげな世界が実体をともない、鮮明になった。周りは明るかった。
 血の点々とする壁。そこに押し付けられた愛用のソファ。ゴミ。
 吐き気を覚え始める頃には、自分が本当に見たいほうを向いていないというのがわかっていた。

 ――ゆっくり振り向くと、そこには電源の落とされたテレビが不気味に佇んでいた。

 ポタ、ポタと、なにかが顔の右側面を伝って、床へしたたり落ちている。それを意識すると、痛みが増幅する気がしたので、遼は考えることをやめた。
 しばらくして冷静になってくると、徐々に痛みに慣れてきた(といっても気絶の一歩手前で、下手に体を動かせば再び夢のなかだ)。すると、テーブルの下のあたりに、いやにハエのたかっているのがわかった。明かりの届かないそのわずかな暗闇に、遼は目を凝らした。
 ――井川卓志の生首。血が乾き固まることで、顔の穴という穴のほとんどを塞いでしまっている。ビニール袋の中で揺られたせいもあってか、血が頭全体にまんべんなく付着していて、毛髪は整髪剤をめちゃくちゃにつけられたようだった。ただひとつ、床と接している首のビラビラした部分だけは、まだ黒々とした血液が鈍くうなりを上げていた。
「……ひぃっ、ひぃっ!」
 逃げるように、腰を抜かした体を足だけで運んだ。やがて腰がソファについたが、それでも足を動かすことはやめなかった。直後、遼は腹からこみ上げてくるものを感じ、前かがみになって、吐いた。朝からなにも食べていなかったため、嘔吐物のほとんどは胃液だけだった。テーブル付近の井川の首からアメーバ状に広がる血と、開けられたスペースのほとんどに広がった遼のゲロが交じり合うのを見て、遼はさらに気分が悪くなった。包丁とシャーペンもそのなかにあった。二つの異臭が絡み合う303号室は、常人が入れば匂いだけで気を失うところだ。
 口に広がる胃液の酸っぱさを唾と一緒に吐き捨てながら、遼は考えた。絶対に、この部屋に自分以外の誰かが入った。そして、思いつく限り、そんなことをするのはただ一人しかいない。
「やぁ、目がさめたかい?」
 テーブルの片すみに置かれていた携帯が声を発した。
「……前より気分はいいよ。少なくとも、死ぬ気は起きない」
 一度気絶し、一時的とはいえ時間を置いたのだ。追い詰められた際に生じたストレスは、多少緩和していた。
「そうかい。くず」
 心のえぐられる感じがしたが、遼は笑ってごまかした。
「黙れ」
 言葉ではなんとでも繕えるが、心理状態はほとんど変わらず、ただ死ななければいけないという馬鹿げた信念がなくなっただけで、絶望が遼を支配していた。
 遼の心に無理矢理植え付けられた、決定的な、真理とも呼べるもの。人が、信じられない。
「はっは。気絶なんかしなけりゃ、あの後にすぐ死んでいたのに。惜しいことをしたね」
 遼は黙った。いちいち反応するのも面倒くさかった。ミキは勝手に喋りつづける。
「あの三人がどうなったか、知りたいかい?」
 正直、知りたくない。顔も見たくないというのが正直なところだ。痛みの波が急に押し寄せてきたので、遼は身を震わせた。
 どうせ、助かったんだろ――
「あの三人ね、殺しておいたから」
 遼は片目を細めた。驚きはあったが、自分の望んでいた結果になったので、飛び上がるほどでもなかったのだ。しかし、その後すぐに軽い憤りが募ってきた。
「おれは、ちゃんと指定されたところを傷つけたろう。なぜ殺した。意味ないじゃないか」
「ん〜?よくよく、自分の体を見てみることだね。なにもかもが中途半端だよ」
 疑問を浮かべたまま、遼は敬遠していた傷口を見てみることにした。ミキの言っているのは、これらのことだろう。遼はいやいや左手を持ち上げてみた。
 左手には普段の血とはおよそ遠い、どす黒い血がまざっていた。そして、鈍く光るそれは、人差し指の根元からわずかにあふれ続けていた。そしてなぜか、切り落としたはずの人差し指の残りが、皮一枚で繋がっている。
「まさか……」
「そのまさかだ。切れてないよね。助けるには不十分だ。他の部分にしてみてもそうだ。耳も指と同じような状況で、下の方が切れてない。切った気でいたんだろうが……」
 遼は愚かにも、微妙に顔を振ってみることにした。ぶらんぶらんと、顔の横になにかがぶら下がっているのがわかる。そして、直後にくる分かりきっていた耳の悲鳴を、受け止めきれないが、受け止めるしかなかった。
「じゃ、じゃあ、目は……」
「僕はね、眼球を刺せ、と言ったんだよ。直接行って確認したけど、あれは眼球を刺したとはいえない。眼球と骨の間に、シャープペンを挿しこんだだけさ」
 テレビの電源が落ちているのも、暗かったはずの部屋に明かりがともっているのも、親友の頭部がビニール袋からだされてテーブルの下にあるのも、すべてはミキがここへ来た直後に起きたらしい。
「条件がちゃんと満たされているか、カメラからじゃ分かりにくくてね。いたずらもしておいたよ。どうだい?」
 だそうだ。
 遼はよちよち歩きになって、できるだけ傷に負担をかけさせないようにしながらテレビの前まで行った。ゲロも血も、もはやこの時点では気にならなかった。途中、苦痛に顔を般若のように歪めることもあった。ミキはその度に笑った。リモコンがどこにあるのかわからず、また、それを気にすることもなく、遼は電源ボタンを左手で押した。バシリと電気の流れる音と共に、画面に明るさが宿っていく。遼はテーブルに胸をつっかえながらも、テレビを顔を近づけて見ていた。
「あ、映像、そのままだから」
 霧のようにぼやけた色の装飾が、やがて鮮明に、現在の三人を映し出した。
 教室は、カメラに赤いビニルでも貼り付けてあるかのように、ただただ血一色だった。
 一人は、頭の上半分を持ってかれていた。男の足の側には、毛髪と、残りの頭の部分と、なにやら脳みそのようなゼリー状のものが散乱している。寺山だった。
 廊下側にいる男は、外傷はそれほど見受けられなかった。しかし、黒い血の特に集中している個所と、廊下側の窓ガラスに異常に付着している血とで、首、恐らくは、大動脈を切られたものとみていい。頭が廊下とは逆の方向に向かって反ったままだ。森口。
 中央の男は、見るに悲惨な状態だった。この男は、他のとは違い、特に生き地獄を感じたものと見てよかった。まず、両足首が綺麗に切断されていた。いまは赤色が多すぎてなんとも言えないが、彼の足を切った直後はおそらく、そこから水道の蛇口を全開にしたように血液があふれ出たのだろう。
 革靴の片方が脱げ、片方は履いたままになっている。履いたままの方の足首は、その一部分だけでぽつりと男の側に立っていた。先端を失った男の足は力なくぶらさがり、床に着くことはなかった。そして、特にひどい傷を見た。腹。縛っていた縄とともに切り裂かれ、中に詰まっていた大腸が飛び出し、股の間を伝って、床にくるりくるりと重ねられていた。小学生の書く、まきぐそうんちというやつを、遼は思い浮かべた。表情はそれはそれは凄まじく、恐怖、憎しみ、悲しみ、など、とにかく負の感情を全部押し詰めてやったという顔をしている。アゴが叫びすぎの挙句か、外れている。格好は、背もたれにぐったりと体を預けていた。他の二人と比べると、一瞬の殺され方ではない。さぞ苦しかったろう。安西。
 遼は目を背けたいような、背けたくないような、不思議な気持ちだった。助けられなかったということに対し、罪悪感は感じなかった。せいぜい、あぁ、死んでしまったか、という、とても無頓着なものだった。他人を信じないというのは、他人に対する興味が湧かないというのに直結する。それに、これ以上彼らを自分のなかで大きくすれば、忘れるのに苦労するだろう。
「安西先生だけ、特別にしておいたよ。君が特に嫌っていると思ったからね。すっきりしたろう?」
 遼は無反応。時計が気になって、そこに目をやると、8時を過ぎていた。3,4時間も寝ていたのか。少し目を動かすと、夜の町並みが映る。家の一つ一つから漏れる豆電球程度の優しい明かりが、遼を一番につらくさせた。平和が目の前に広がっているのに、平和が自分を取り巻いているのに、この303号室だけが、なぜ、伝染病患者のようにそれらから切り離されなければならない。
 何度も頭の中で繰返した議論は、結局、「わからずじまい」で幕を閉じる。
「ふむ。……そうだ、ひとつ、話しておこうか。だいぶ遡るが、僕の、前回のターゲットのことだ」
 遼はぼんやりと携帯に目を落とす。
「メディアはどれだけの人間が同じ凶器で殺されたかを伝えていたが、なぁ、おかしいとは思わないか?」
 このとき、あとはもう、逃げるしかないかぁ、と遼はぼんやり考えていた。
「君の立場の人間は、どこにいる?」
 知らない答えを考えるのも面倒くさい。
「ニュースに放送されたのは、すべて被害者だ。もちろん、殺したのは僕。ただ殺したわけじゃないよね。今みたいに、君という助ける立場の者がいるはずなんだ。それがないというのは、どういうことだと思う」
「逃げたんだろ。おれみたいに」
 遼はあしらうように言うと、右手と両足をうまく使って立ち上がろうとした。力を入れると、なにかと傷口が痛み出しやがる。遼はイライラしながら思い切り立ち上がったが、反動が強すぎたのと、床にゲロと血が散乱していたのとで、つるりと後ろに傾いた。これとは別に、立ち眩みのするのがわかる。体をささえようと後退ったのが、右足だったのがいけなかった。他の痛みに今まで隠れていた親指の痛みが、遼のほぼすべての体重にのしかかられることで復活を遂げたのだ。もはや支えることは出来ない。
「アァアッ」
 遼は吸い込まれるように、再びゲロの海へと飛び込んでいった。まともな受身をとれるはずもなく、遼は後頭部と背中を強打。バチャというゲロのしぶきを上げる音と、遼の脳みそと内臓とちぎれかけの傷口たちが織り成す強烈な演奏会の始まるタイミングはほぼ同時だった。
「残念だが、それは違う」
 なにもなかったかのようにミキは続けた。
「ま……いまはいいだろう。答えは、そのうちわかるかもしれないし、わからないかもしれない」
 ミキは曖昧だった。


「さて……そろそろ、次のターゲットのお披露目の時間だが……」
 どうでもいい。どうでもいいんだ。痛い。痛いよ。逃げたい。誰か、助けて。
 寝そべったままのばした手の先には、天井以外なにもない。それは事実としてもそうなのだし、遼の心の情景としても正解だ。
「実は、これで最後なんだ」
 無音が途切れ、砂嵐の音に変わり、また無音へ戻った。遼は、この一連の音の移り変わりだけで、すでにテレビには最後のターゲットとなる者の姿が映っていることを確信した。
 痛みが除夜の鐘のように延々と続いている。大の字になって、いまだ目の上にちいさな星が浮んでいたが、遼は頭だけ持ち上げた。テーブルのせいで画面が半分隠れていたが、それでも映像中の人物の顔は捉えることが出来た。
「きみの、初恋の相手だ」
 大谷愛。
 おれの最後の……きぼう?







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 彼女はあまり学校に来なかった。来なかったのか、来れなかったのか、その理由は今でも明らかになっていない。しかし、遼は恐らく前者だろうなと思っていた。いじめられていたわけではない。だが、嫌われていた。遼のことをよく助けたからだ。
 たまに学校にひょいと顔をだす。クラスのドアを開ける彼女の眼前には、ぐったりと壁に背中を預ける遼と、武藤たちの笑い声。状況は聞かなくても分かる。大谷愛は、武藤にむかって殴りかかった。怒声と、体のもみ合う激しい音。混乱が朝の教室に響く。遼はそれを、狐につままれたような顔をして見ていた。
 喧嘩は互角。武藤も最初のうちは彼女のルックスを気に入っていたため、悪い悪いと笑いながら抑えつけようとしていただけだった。が、次第にそれが積み重なっていくうち、とうとう武藤も切れ、「女のくせに」と叫びながら手加減なしに殴りかかっていった。そして、両雄が鼻血を垂らしながら周りに抑えつけられ、そのうち安西が教室に駆けつける。周りが事情を話し、大谷愛は職員室に呼び出され、教師も大谷愛もいなくなった頃、遼は武藤の鬱憤はらしに殴られるのだった。
「なんで」
 放課後。遼がはじめて彼女に話し掛けたのは、いじめを数回彼女に助けられた後の夏休み前だった。その日も助けられた後で、職員室に一日中縛り付けられていた彼女を、昇降口前で呼び止めたのだ。
 彼女が振り向く。ルックスはとうに知れている。男顔負けの格好よさも備えた、整った顔立ち。流れるような二重と、すっきりした鼻筋が目立つ。髪は肩までしかなく、特に整えられている様子もなかった。
「なんで、助けてくれたの?」
 喋りなれてないのと極度の緊張とで、遼は質問を簡潔にまとめるしかなかった。
 彼女は怪訝な顔をして遼を見た後、思い出したように小声であぁ、と呟いた。そして、一言だけ遼に言うのだった。
「いじめは、よくないよ」
 前置きも、雑談めいたものもなし。彼女はこれで決まり、とでも言うようにくるりと背を向け、夕陽に照らされた校舎を後にした。


「電話をかけるなら、例の携帯を使ってくれ。2を押した後、発信ボタン」
 逃げよう。もう、他人はどうでもいいのだ。
 映像は、大谷愛の自宅(マンション)と思われる部屋を、前例と同じく天井の角から写していた。向かいの壁に、廊下を挟んで玄関がある。部屋全体は、遼の部屋と雲泥の差で、小奇麗にまとまっていた。液晶の薄型TVが手前にあり、他にベッドと小物の散らばる小机、大きめのスピーカーが二つと、それに見合ったコンポが壁際に置かれている。目立った家具はそれぐらいで、あとは壁一面に、洋楽だか洋画だかのポスターや写真が、大小関係なしに隅々まで貼り付けられていた。彼女はというと、ベッドに横になり、なんだかリラックスしたように目を閉じている。
 立ち上がる力が、積み重なる疲労と痛みで無くなっていた。遼は汚物の広がる床の上を、いもむしのようにあがいていた。自身の汚物が顔一面にへばりついても、それを気にする力すらない。遼は泣いていた。
「無様だな」
 しばらく様子をみていたらしいミキが言った。
「あれだけの虚勢を張っていた数時間前の君がなつかしい。これから、制限時間と、どこをどうするのかを言おうとしていたのに。やる気はあるのかい」
 ない。頭の中で宣言した。すると、なんだか急に悲しくなって、さらにぼろぼろと涙をこぼす。言葉どおり、ヒックヒックと泣いた。
「いい刺激をくれてやる。頭だけでもひねって、その汚い顔を画面へ向けろ」
 考えることすべてが、自分で自分を貶める言葉になってしまう。頭はそれでいっぱいになり、それ以外は考えられなかった。遼は促されるまま、頭をひねった。視界が涙でぼやけるので、下を向いて溜まったしずくを落とす。
 ラフなジャージ姿の大谷愛に、服装以外の変わった点は見受けられなかった。あの頃と変わらない。ぼんやりと、自然な彼女を眺める。あの頃のおれに、制服以外の彼女の姿があるなんて、想像できたろうか?おれにとって、制服を着た彼女がすべてであり、それ以上はありえなかった……。
 荒れ狂う自分への暴言の波が収まった。しかし、それは一瞬のことで、次には、女性のプライベートを自分という存在が盗撮しているのだという思惑が、静まりかけの海面に怪物、ヒドラを出現させた。海は荒れ、遼は彼女に対して自分が屈辱を与えていると思い、再び罵倒の嵐へ突っ込んだ。
 大谷愛が目を開けた。体を起こし、玄関へ顔を向ける。立ち上がった。
 あぁ、ミキが来たんだな。遼はそれしか思わなかった。
 玄関のドアが開いた。しかし、誰もいない。大谷愛が奇妙に思ったのか、確かめるように外の廊下を見た。
 遼の思った通り、画面の奥では、きらりと光る細い刀が大谷愛の首筋に当てられていた。彼女が硬直する。そのまま彼女は後退り、ミキとともに今の今まで平穏無事だった自室に引き戻った。携帯から、よく分からないが、英語で何か歌っているのが聞こえてくる。動脈があるであろう部分に、ミキの刀が当てられている。大谷愛は画面に背を向け、ミキはのっぺらぼうをカメラに向けていた。右手に携帯、左に刀。
 そのままの状態で、しばらくたった。先に動いたのは、遼。破裂寸前の頭だったが、ようやく、逃げなければ、と思い出したように画面から目を逸らした。まず、病院に行こう。隣は――誰もいなかったか、すると、自分で下まで降りるしかない。下に下りたら、叫ぼう。誰か来てくれるはず。よし――
「なにも感じないのか。君にとっての、大切な人ではないのか」
 ミキが言った。ミキの声は相変わらず冷ややかだったが、それにしては珍しい発言だ。だが、どうでもいい。遼は、ずるりずるりと、気持ちの悪い音を出して再び体を引きずり始めた。
「君が逃げれば、彼女は死ぬ。それでいいんだな」
 いい。自分さえ生きれば、それでいい。初恋だから、なんなんだ。彼女がおれのことを、覚えているとでも言うのか。彼女にとってのおれの存在価値は、いじめを助けようが助けまいが、どうでもいいものなんだ。おれは、おれは――
「おれは誰にも、覚えられてなんかいない!」
 遼が動きを止め、携帯に向かって叫んだ。いろいろと細かい物が飛び散る、汚い咆哮だった。ミキが少し携帯を耳から離したのが見えた。恐らく、今の声は彼女に届いたろう。そう考えると、なぜか一瞬胸が高鳴った。そして、すぐにしぼんだ。
「倉田遼だ。覚えてるか?」
 ミキが言い、持っていた携帯を、彼女の耳へ。大谷愛の表情は分からない。また胸が高鳴った。遼は思わず、画面に釘付けになった。
 浅い息遣い。緊張はしているようだ。しかし、その口から出るものは、遼にしばらくの混乱と、奇妙な安心感をもたらすものだった。
「倉田くん。電話の向こうにいるのが本当に倉田くんなのかよくわからないけど、わたしは君を覚えてる。別に君が倉田遼じゃなくてもいい。どういうことか説明して。こいつ、誰よ」
 決然としていた。遼はなんとなく、なぜミキが彼女を最後に持ってきたのか、分かるような気がした。

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遼はぽかんとして、彼女に視線を注いだ。なぜかこうするしかできない。いずれはこの呪縛から解き放たれる時が来ようと思ってみたものの、今までと明らかに違うなにかに、遼はなんともいえなくなった。
 遼がなにも言えないので、向こうではミキが勝手に大谷愛に事情を説明していた。
「う〜んとね、ぼくが君を殺そうとするんだけど、そこに倉田遼くんっていうニートが割って入るわけ。それでね、ぼくが倉田君に、じゃあおまえ、そんなに大谷さんを助けたかったら、自分で自分を傷つけろよ〜っていうのね。それで、倉田君が傷つけられれば、君は助かる。彼が傷つけなければ、君は助からない。つまり、すべては彼次第ってわけさ」
 ミキが刀身を少し上に上げたので、大谷愛はそれに触れないように後退り、あごを上げた。これを見て遼は、滑らかな曲線を描くワイングラスと、いまにもそれに触れそうというゴツゴツした男の手を思いうかべた。男の手はグラスから僅か一ミリほどのところで、グラスの線をいやらしくなぞっている。妖艶な赤ワインの注がれたそれが、汚らしい指輪だらけの手の力によって軽く握りつぶされる様が、二人の無言のやり取りを見ていると勝手に映し出されていくのがわかる。
「わかったかい?」
 ミキの問いに、彼女は答えない。そして間もなく、刀の白銀の残像が、彼女の頭を通過した。
 突然飛来した衝撃に、驚きを隠しおおせるほどの実力を遼は持ち合わせていなかった。思わず体を前に傾け、なにが起こったのか探ろうとする。まさか、そんな――
「わかったかと聞いているんだ」
 左手に来た激痛に遼がかたつむりになって応戦していると、ミキの声がした。汗が目に入るのも気にせず、遼は見上げるようにテレビを見る。向かって右側にある壁に叩き付けられたらしい大谷愛は、こめかみの辺りを手で押さえていた。ベッドに投げ出された彼女の両足が、小刻みに震えている。だがそれもやがて治まり、次には彼女の激怒した横顔がミキを直視するのが見て取れた。どうやら、いまのはみね打ちだったらしい。切られはしなかったものの、ふっとばされるほどの勢いで殴られたとあってか、傷口を押さえる彼女の手の隙間からじわりと血が滲んできていた。
 いまだに答えない彼女に、ミキがもう一度刀を振りかざした瞬間、遼は叫んでいた。
「やめろ!」
 だが、思い空しく。彼女の頭めがけて振り下ろされた刀の棟(むね)は、彼女の、頭を防いだ左手首に命中した。ミキの右手にぶら下がっている携帯を通して、彼女の苦悶の叫びが聞こえた。

 いま、悟った。彼は、殺さないと言っただけで、傷つけないとは言っていない。この、絶対に信じられて、そして一番に安心出来た部分が、実はとても残酷な意味合いだったことに、遼はようやく気付いたのだ。
「わかったかと聞いているんだ」
 ミキはもう一度同じことを繰り返した。しかし、彼女は反抗的な態度をとり続ける。この状況で、この相手を前にしてそんなことをやってのける彼女に、遼は感服するしかない。
 そして遼は、大谷愛を心配した。
「ミキ、止めろ!止めてくれ!」
 ミキは聞く耳を持たず、ベッドの上に乗り込んで、右から左へ刀をなぎ払った。彼女が枕の方に吹っ飛ぶ。二人の距離が近くなったせいか、ついに遼の携帯から彼女の体に刀が打ち付けられる音が聞こえ始めた。まるで自分が痛みを感じているような錯覚に陥る。
 おれのせいで彼女が傷つけられている。なんとかして、ミキを止めるんだ。守りたい――
 ミキがベッドの上に携帯を投げた。しかし音は聞こえつづけるし、こちらからの声も届くだろう。
「ミキ、条件を言え!何をすれば彼女は助かる!」
 遼が叫びかけると、予想外の返答が帰ってきた。ミキは切っ先を彼女の首の辺りに差し向けたまま、首だけをぐるりとカメラに向けた。遼はぞくりとして、後ろに飛び退きたくなった。しかし、いろいろな痛みがあって、それはできなかった。
「ハァ?」
 それは、不良生徒が教師に向かってする、馬鹿にするような返事に似ていた。遼が目を丸くする時には、すでにミキの首は大谷愛のほうに向いていた。乱された髪と傷つけられた手首の隙間から、彼女の鋭い眼光がミキに向けられているであろうことは容易に推測できる。だが、それだけではどうにもならないのがつらいところだ。
 今度は蹴りだった。といっても、遼は天井の一角から見ているに過ぎないので、足はローブに隠れて見えないままだった。刀から足への突然の切り替えに、大谷愛は反応できなかった。鋭い一撃が彼女の腹部に入る。あえぐような咳。ミキが蹴りを入れたままどかそうとしないので、頭を守っていた両手がミキの足を掴んだ。
 そして、頭部へ振り下ろされる一撃。直後、彼女はぐったりとして、気絶まではいかなくとも、動けなくなったようだった。4人組バンドの描かれた大きなポスターに、軽く血が散っている。髪が顔に降り注いでいるため、表情は確認できない。
「さて、さて、さて……」
 ミキがベッドから緩やかに降りた。
「やる気は、あるのかい」
 先程の問い。そして、少しの間もなく遼は答えていた。
「おまえを許さない」
 ミキが刀をコンポに振りかざした。女性シンガーの明るい歌声が不吉な機械音に変わり、そして止んだ。
「勝手にどうぞ♪許さないだけで、なにもできないくせに」
 ミキが再びベッドを向いた。また彼女がやられる、と身構えたが、ミキは携帯を拾っただけだった。そしてまた、安西たちの時のような、遼にしか聞こえない程度の声量で、ぼそりと遼に呟いた。そして、短く言い終えると、ミキは声を元の大きさに戻した。
「……以上だ。時間は、10分やろう」
 遼は生唾を飲み込む。ミキは小机の上にある小物をどかして、彼女の方を向いて座った。
 あまりにひどすぎる現実。突きつけられた事実を撤回するのは、ブタに羽が生えることほど無理なことだ。
 すると、彼女が動いた。ミキがなにかする、と遼は落ち着かない顔になったが、ミキは何もしない。彼女が手探りで落ちていた携帯を手にとるのを黙って見ていた。
 そして、彼女は言った。

――――

「倉田君ってさぁ、好きな子いるの?」
 彼女と同じクラスになったのは、中学最後の年だった。一、二年の時、なぜ自殺しなかったのかといえば、それは皮肉ながら安西のおかげにある。偽りの上に成り立った彼の親切に、おれは見事にはめられていたのだ。
「えっ……いや、あの……」
 やつらの最大の誤算をいうなら、彼女を武藤とおれのいるクラスに入れてしまったことだろう。それほど、彼女がおれと武藤らに与えた影響はすごかった。
「やっぱりいるでしょ。中学生だしさ。思春期だよ、思春期?」
 彼らの楽しみは、あの年だけ半減していただろう。
「い、いないよ。……お、大谷さんは?」
「いるわけないでしょ。下らない」
 おれという存在と堂々話すことは、小学中学高校、はたまた社会において、村八分に繋がることは確実だ。それができるというのだから、ぼくは彼女に感服するしかない。それは昼休みの廊下での会話だった。窓を全開にしてかぜを受けていた。そばでは似合わない化粧をした同じクラスの女生徒二人が、話すふりをして聞き耳を立てているのが分かる。
「でも、さっき思春期だって……」
「わたしは関係ない。たまには、思春期からはみ出すような例外もいるよ。でしょ?」
 おれは黙ってうなずく。すでに彼女のことしか考えられなくなっていたおれには、きつい一報だった。しかし、自分の気持ちを表に出すなんてこと出来ないから、それ以上傷つくこともなかった。
「ね、倉田君って、よく耐えられるよね」
 話が急に切り替わったのはわかったが、それがなんについてなのかは、追求すべきところだ。
「な、なにが?」
「いじめだよ、い・じ・め」
 彼女はなんでも単刀直入に言う。しかし、言われた方はそれほど傷つかない。それはきっと、非難めいたものも、同情めいたものもないからだろうとおれは思っていた。
「あぁ……うん。安西先生とかいるし。あと……」
 おれがちらりと大谷愛をみる。彼女はおれのことなど見ずに、風に目を細めながら景色を眺めていた。顔を赤らめて、おれは視線を元に戻す。
「安西……?あぁ、あれね。わたし、どうも好きになれない。な〜んか、作ってる感じがすんだよね」
「そんなことない。あの人はいい人だ」
 少しむっとしたおれが、今度は怒った表情で彼女を見た。すると彼女もおれのことを見ていた。目を丸くして、なんだか驚いているようだ。目が合ったことで怒りが勝手に退散し、顔を赤らめたおれは視線を元に戻す。
 少し沈黙が続いた後、どぎまぎするおれの心境とは裏腹な声がした。
「そういうとこ、いいと思う。信じてるんだね。すごいよ」
 今度はおれが目を丸くして彼女を見た。笑っている。今度は顔を赤らめても、視線を元に戻せなかった。
「安西に憧れてるの?」
 その問いに、おれは答える。
「ううん……そういうんじゃなくて。それに……」
 口篭もるおれを、彼女は急かす。
「なに?他に憧れてる人がいるとか?だれ誰?」
 図星。そして、自分でもよくわからないまま、彼女を一心に見つめた。言葉にせずとも、思いは伝わった。
「え……わたし?」
 おれは、なぜか申し訳なさそうに、そして体の赴くままに、こっくりと首を縦に振った。彼女は顔を赤らめた。
 そしてまた沈黙。隣にいた二人が、きもいよね〜とかいいながら遠ざかっていった。彼女はそれを一向に気にすることもなく、駐輪場の広がる下のほうを見つめていた。おれはそれを見て、彼女に対する尊敬をさらに増す。
 やがて、五時限目の始まりのチャイムがなった。生徒達の動きがあわただしくなり、両端に見える階段の角からちらほらと教師の姿が見えてくる。
 武藤たちの笑いあう声が聞こえ、夢のような現実から引き戻されるのを覚悟したおれは、そっとそこから離れた。
「倉田君」
 おれがふりかえる。そこには、風にゆれる髪をさせるがままにした、大谷愛という絶対的な存在があった。日光に照らされた彼女は、おれの目にだけは、輝いて見えた。
 そして、彼女は言った。


「わたしが、あなたの上で輝きつづける」



―――――


「わたしが、あなたの上で輝きつづける」
 あの日に言われた言葉を、遼はもう一度聞かされた。そして、それでようやく決心がついた。
「わたしが死んでも、わたしは死なない。あなたの上で、ずっと輝き続けるよ。だから、絶対に自分を傷つけないで。どこをどうするのか、まだわかんないけどさ。それがどういうものでも、絶対に傷つけちゃだめ」
 遼は笑みを浮かべる。ゲロまみれの戦場に浮ぶ、それは綺麗な花だった。
「遼は強いよ。昔からそう。わたし、思うの。他人の助力なんかでどうにかなるほど、いじめは甘くないんだって。最後に必要なのは、自分の力なんだって。だからわたし、あなたが凄いと思った。わたし、こんな大層なこと言ってるけど、遼に憧れてたんだ。絶望だらけの二年間をあなたが耐え抜いたというだけで、わたしはあなたを尊敬する。そしていま、あなたはこんな恐ろしいことと逃げずに戦っている。これがどういうことかわかる?あなたが強いってこと!」

「だからわたし……あなたが好き。あの時から……」

 突然の告白に、遼はうろたえなかった。
「おれも好きだ。だから、大谷さんを守る。あのさ、条件だけど、もう聞かされてるんだ」
「え……?」
 画面に映る彼女は微動だにしなかったが、しっかり感情は伝わってきた。不安でいて、焦りも含まれている。

「おれが、死ぬことだ」
--------------------------------
「ダメ……だめだ、遼。やめてよ」
 女性シンガーの歌声のなくなった部屋に、愛の悲痛な願いが響く。
 頭が重い。頭蓋骨の内側を伝う痛み。吐き気もある。――遼。
 正直に言えば、恥ずかしかった。自分のなかに芽生えた感情が、事実であること。それを認めるのが、わたしには耐えられなかったのだ。
 彼の強さに気付いていながら、気付かないふりをしていた。だから、学校も毎日でも行きたかったのに、わざと適当にさぼったりして、いつもと変わらない自分を演じていた。

 度を越えたいじめには、被害者の崩壊はつきものだ。被害者はなにかに捕まっていないと、すぐにいじめの闇に引き込まれる。そしてそのなにかは、学校で見つけるのは特に難しい。集団というのは、単純思考の一匹の獣に過ぎない。
 遼は、目の奥にはやつらのぶちまけた闇が広がっているくせに、いつだって学校にはちゃっかり来ている(わたしが学校に来ていた日だけを数えただけなので、他の日は知らない)。
 強いなぁとわたしは思った。でも喋ってみると、普通の気弱な男だった。……それでわたしが落胆したかって?違う違う。
 自分の強さに気付いてないだけだって、そう思ったよ。
 いままで普通だと思ってきたことが、他人から言わせてみるとすごく妙だったってこと、案外あるよね。遼がどこでその強さを手に入れたのかはわからない。もしかしたら、やつらとのかかわりの最中で得たのかもしれない。ひとりぼっちでいるって思っている以上に怖いことなのに、遼はそれを二年以上もやってのけた。わたしは、遼を尊敬する。
「あっはっはっは。君が自殺?無理無理できるわけないじゃ〜ん。過ぎた青春取り戻したついでに大口叩いてなにするつもりだい?」
 いつの間にかのっぺらぼうがしゃがみこんで、ベッドに横たわるわたし(もとい、携帯)を覗き込んでいた。影に染まったマスクが、不気味さを盛り上げている。そういえば遼は、こいつをなんて呼んでいたっけ。一度か二度、名前らしきものを叫んでいたような……。
「自殺じゃない。助けるんだ」
 遼の声が聞こえた。なんだか決意に満ち溢れているが、それはわたしにとっては困ることだ。死なれたりしたら、わたしは罪悪感で体の全機能を維持したまま死ぬようなもの。止めなくてはならない。
「だったらさっさと死ね。くず人間」
 のっぺらぼうが立ち上がって、わたしに刀を振りかざした。動く気力を持てないわたしはそれをもろに受け止め、痛みに感覚を無くした。耳が遠くなり、勝手にまぶたが閉じていく。携帯とベッドのシーツに、血が筆で飛ばしたように点々と付着した。


 ああ、意識が飛ん――



「あらら、気絶しちゃったよ」
 遼は包丁の切っ先を、自分の胸に当てている。ゆっくりと、吟味するように包丁を這わせる。ドクンドクンと耳まで響く心臓の音は果たして、刺してくれと望んでいるのか、刺さないでくれと懇願しているのか。ゲロの上に不器用に腰を据える遼にはわからなかった。
 大谷さんが好き。これだけの感情で動いていることが、遼には信じられなかった。人を守りたいと願うことが、自分をこんなにも強くするなんてありえないと思っていた。
 だけど、いまはそれが出来る。自分の胸にこれを刺せる。
 胸のやや左に寄った部分で包丁の動きを止めた。軽く力を入れると血は出たが、骨が邪魔でほとんど進まなかった。この際に生じる痛みはもはや気にならない。血がゲロのしみたシャツに混じる。
「理屈でいまの君を説明するなら、なんていうつもりだい?」
 しゃがみこんだままのミキが問う。
「今の君を突き動かしているもの。それがなんなのか、ぼくにはわかるが、理解は出来ない。説明してくれよ」
 包丁から目を離し、遼はテレビに映るミキを見つめた。背を向けるミキに、遼は答える。
「理屈じゃない」
 間髪を入れずに、ミキが鼻で笑った。まるでそう来るのを予想してたかのように。遼は包丁のほうに注意を戻した。
 血の跡をつけた胸の辺りに、包丁の焦点が定められる。遼は包丁を持った腕を伸ばした。
「じゃあな、倉田遼。いろいろ、楽しかった」


 
 腕が思い切り引かれると、その手に握られていた包丁が、リラックスに保たれた男の体を容易に通過した。男の息遣いが荒くなり始めるころ、血はシャツの前面を赤色に染めあげた。咳き込む反動で、男の顔が上へ向く。咳の代わりに出てきたものは血だった。男の顔はアゴを中心に赤にまみれた。
 やがて男は、薄れ行く意識、仰向けに倒れる狭間、呟くのだった。

 ……勝った。


 三回戦、終了。




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 303と書かれたドアの前に立つ。ミキはドアを吟味するように見つめると、ドアノブをひねる。金属の軽く触れ合う、カチャリという心地のいい音とともに、ミキの鼻を異臭が刺激した。居間からこぼれる明かりは、決して廊下まで、ましてやミキの足元まで届くはずも無く、ぼんやりとした廊下の輪郭だけを浮ばせるだけだった。ミキは303号室に入る。
 静寂。ギシ、ギシと、ミキの土足で踏み入る音だけが響く。居間と廊下の境目までたどり着くと、ミキはのっぺらぼうのマスクを下へ向けた。
「興味」
 仰向けになって沈黙するそれを見ながら、ミキは呟いた。そして、次には少し大きい、そしてはっきりと通る声で喋り始めた。
「きみという人間に、興味が湧いた」
 また少し歩を進めると、ミキの靴が吐瀉物を踏みつける。ミキはソファのところまで行き、ゴミや汚物のかかっているのも気にせず腰をおろした。
「君と同じ立場にいた人間はね。ぼくが殺した。そいつがターゲットを全員、見殺しにしてからね」
 ミキはもう刀と携帯を持っておらず、空になった両手を顔の前で組んでいた。
「頭おかしくなっちゃったんだろうね。奇怪な状況に、彼は耐えられなかったんだ」
 彼には友達がいて、親友がいて、彼女がいて、ずっと一緒だなんていっていた。
 ミキの言葉は、部屋のなにもかもに溶け込む。
 でも、見殺しにした。電話越しに聞こえる彼の友達だったモノの命乞いは、彼を追い詰めるだけだった。結局彼は誰一人救わず、最後には発狂した。黙れといっても聞かなかった。だから殺した。結局彼も被害者の一人だということになった。
 実は、最後のターゲットはね、これからも通じて、親なんだ。つまり彼は、親をも殺したことになる。彼は自身の親よりも、自身の片腕の皮を優先した。

 ……君は救うだろうね。だが、だからこそ、ぼくは君の親の姿をこの部屋に映像として送り込まなかった。いわば、一種の宣伝さ。親が生きていれば、そこからぼくのしていることの詳細が、世間の明るみに出る。親は、君たちがぼくの電話を受ける前から、全てを知っているのさ。簡単なことだ。ぼくは君たちを常に監視している。カメラがあるだろう?ぼくはこの姿で彼らの家に出向き、使用する凶器を見せ、そして、君達のプライベートを、あますことなく彼らに伝える。これだけで十分さ。彼らは、ぼくのやろうとしていることを信じるしかなかった。
 これで、資金の調達は完了になる。なにが起きてるかも知らない君を人質にとり、金を絞り上げたわけだ。なかなか、頭のいいことをするだろう?
 ……あれだけの金を取られて、それでもきみには毎月の仕送りを欠かさなかった。ぼくにはどうも、この辺が理解できないが。

 ミキはマスクを外に向けた。窓越しに見える無数にきらめくいくつもの明かりは、手を伸ばせばすくい取れるようだった。ミキは一息つくと、話を続けた。
 
 金があればなんでも可能だ。例えば、教室そっくりのダミーを作ることも。
 きみはどんな組織だと言っていたね。僕の他に何人いるのか、と。それは、ゼロでもあるし、百でもある。わかるかな。信用は金で買い、そして切り捨てる。言葉そのままに、僕はどんな証拠も残さないのさ。例えそれが、カメラの監視をしていた人間の存在でも、きみの情報を詮索しきった人物でも。
 そしていまは、ゼロ。僕以外にこのゲームに加担していた人間は、殺した。また一からやり直しさ。そんなに面倒なことでもない。病んだ人間を探せばいいだけのことだ。


 ミキは立ち上がった。また来た道を戻り始めるが、その足取りは重かった。部屋に充満する、ミキに対して向けられた憎しみの黒煙を、少しでも多く浴びるかのようだった。ズチャリと嘔吐された物を踏みつける音がした。

「マテヨ」

 ミキの足音が止んだ。なにかが、この空間を横切った。それを皮切りに、静寂がピンと張りつめた。
「……」
 ミキは耳をすました。そして、いまのが気のせいだったことを祈っている自分に気づく。
 ズチャリ。ズチャリと、ミキの後ろでゲロを泳がす音がした。
「……」
 気のせいでは、ない。ミキは背後によからぬものを感じている。いまそれは、ひざで立って、不器用に歩いている。
「……」
 背後で血がぼたぼたと落ちているのがわかる。第六感の研ぎ澄まされているのが、ミキにはいやというほど感ぜられていた。
 振り向くのか?ミキは未知の感覚に包まれていた。しかし、それはミキにとっては不明瞭なだけで、一般の人間には少しもわからない感覚ではなかった。いったいこの体全体を伝う冷たい感覚は――。
 肩をぐいっと掴まれた。ミキは背筋がこわばり、抵抗する力をいれるのにワンテンポ遅れた。背後に血にまみれた息遣いを感じる。子供が大人の力に屈するように、あえなくミキは、黒いローブをはためかせながら振り向かされた。

 倉田遼が、30cm先からこちらを見つめていた。

 胸に包丁が刺さったまま立っていて、口から二酸化炭素と一緒に血をあふれさせている。なぜだ。死亡は確認――していない。が、確認の余地がどこにあっただろう。心臓の根深いところまで達していたのは見れば瞭然だ。加えて倉田が自殺してからぼくがここに来るまでの時間。例え刺した後すぐには死ななかったとしても、数十分をあの状態で生き続けることは可能だろうか?……こいつは一体。
 ミキの右肩を握る左手の握力が、虫の息の人間のものとは思えなかった。がっちりと掴んでいる手のひらを中心に、あの見慣れない感覚がミキを襲う。遼の皮一枚の人差し指がミキのローブと遼の手に巻き込まれていて、それは力を加えられていくうちにぶちりとちぎれた。遼は死にかけとは思えないほどの穏やかな微笑を、汚物に彩られた顔に浮かべる。
「トレチャッタ」
 遼が喋った。最後の「た」のアクセントの時に、彼の口内をよどんでいた血の一部が飛び出して、ミキのマスクに赤い紋様をつくった。
 ミキは焦って何もできない。尻もちをつこうにも、彼の左手がそうさせてくれない。この異常な事態はなんだ。死んだはずなのに。それに、この感覚――。
「コワイノカ?」
 ずばりと、言葉で体中を貫かれたようだった。
「ミタクナカッタナ、ソンナトコロ」
 ごぼごぼと血でうがいをしながら話す遼の言葉は、ミキのなにもかもに響き渡っていた。
「おまえは、死んでいるはずだ!」
 歯と歯の間から、ミキはすきま風に似た声を出す。
「アア、シンデイル」
 遼が片方の手で、自身に刺さっている包丁をコーヒーに入れた砂糖を溶かすようにぐりぐりと回し始めた。
「では、なぜ……?」
 胸の傷口から、残っていた血液が追い出されるように噴き出した。ミキはそれをもろに腹から下に受け止める。
「サテ、ドウシテテデショウ。コタエハ、ダイブマエニ、イッテアル」
 遼が包丁の柄を握った。そして、抜き、引きよせ、突き出す――これらを一秒もしないうちにやり遂げた。突き出された包丁の刃の部分は、ミキのみぞおちの部分に埋まっていた。
「かっ……!」
 ぐりぐりとガチャポンのように包丁を回す。遼の血に塗られていたローブに新たにミキのが上書きされる。
「シンジツナンテ、ドウデモイイ。オレガ、オマエヲ、コロシタイトイウダケサ」
 包丁が抜かれた。新鮮な血が、303号室に滝のように降り注ぐ。そしてまた、新たなところに刃が突き刺さる。
 五秒間隔で、肉体に刃物が刺さる音がする。
 ドシュ。ドシュ。ドシュ。ミキは痙攣を起こし始めたが、止まる気配はない。臓器が空いた穴からぬめりと、エイリアンの卵のように落ちた。大腸だか小腸だかが飛び出して、下でへたくそな渦を巻く。それはミキに、安西のフラッシュバックを起こさせた。やめてくれと懇願していたあいつの気持ちが、今ではわからんでもない。
 ミキの閉じかけた瞼に最後に映ったのは、もちろん倉田遼だった。前のめりに攻撃を受けるだけだったミキの首を持ち上げ、遼は自分のほうにマスクを向かせた。そして一言、
「オレノカチダ」
 ミキは重くなりすぎた瞼に押しつぶされた。遠くのほうでドアの開く音がして、女の取り乱した声が聞こえてくる――。

――end











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