私が初恋をつらぬいた話

2012/06/07 21:23 登録: えっちじゃない名無しさん

少しずつ、過去を振り返りながら書き溜めたものをお話していこうと思います。

拙い文章の上、少し長くなりますが、お付き合いして頂ければ幸いです。
途中、書き込み規制で更新が滞ってしまうかもしれませんが、どうかご了承ください。


スペック
  
渚(偽名)…145cm。体重は伏せておきます。
      偽名の由来は、なんとなく本名と響きと意味が似ているから。

堺先生(偽名)…175cmくらい。少し痩せ型。
        偽名の由来は、いつもニコニコしていて、俳優の堺雅人さんに似ているから。
        初めて出会った時、24歳。
        小学校の音楽教師。

私の故郷は一応東京都内なのだが、寂れた田舎町。

クラスも一学年に2クラスあればいい方な、小さな小学校の、当時私は6年生。
チビでデブでその上クリックリの天パ。典型的な虐められっ子だった。

それでも負けず嫌いな性格のお陰か不登校にはならず、だからといって何の楽しみもない憂鬱な学校生活を送っていた。

そんな中、年度の教員入れ替えで新しい音楽科教師として赴任してきたのが、堺先生。

スラリと背が高く、その上若い堺先生が人気者になるのは、あっという間だった。
とても親切で優しい先生だったから、とくに女子達からの人気は高く、モテモテ。

私はと言うと、誰に対してもニコニコ淡々と敬語で話す先生に少し興味を覚えつつも、取り巻きの女子たちに牽制されてまるで接点が持てない状態だった。

堺先生が赴任してきて早数ヶ月の夏休み明け。

秋の校内合唱コンクールに向けて、音楽は歌唱の授業が多くなっていた。

根暗な私には毎年苦痛の行事なのだが、この年の授業内容はさらにその苦痛を上回る内容だった。

まず一人ひとりの歌唱力をみて、ソプラノやアルト等の振り分けを行うことになったのだが、問題はその仕分け方。
ピアノの伴奏に合わせて、クラスの皆が見守る中、一人ずつピアノの脇に立ってサビのワンコーラスを歌うという地獄の様なものだった。
その上声が小さければもう一度歌い直すというオマケ付き。

虐められている自分が恰好の笑いものにされるのは、目に見えていた。

めげずに学校に通い続けていた私でも、この時ばかりは休めばよかったと本気で後悔した。

緊張で冷や汗ダラダラ、後悔の言葉を心の中でグチャグチャしゃべってる内に、嫌でも自分の番はすぐに回ってきた。
名前を呼ばれてピアノの脇に立つと、もうその瞬間からクスクスと笑い声が聞こえてくる。
途端に息が苦しくなった。


きっとコイツらは私が歌い直しになるのを想像してるんだろうな・・・
キモイ歌声で自分たちを笑わせてくれることを期待してるんだろうな・・・


そう思ったら無性に悔しくなって、怒りをバネになのか、羞恥心は軽く吹き飛んだ。
たぶん、あまりの緊張に、キレた状態だったんだと思う。
絶対に歌い直しなんてするもんか!と、声は大きく、歌詞はハキハキと全力で歌い上げた。

コイツ何本気で歌っちゃってんの?wwwwwwwというクラス中の大爆笑の中、一人だけ驚いた顔で拍手してくれる人がいた。
堺先生だ。

「凄い上手でビックリしました!素晴らしかった!」

先生がそう言うと爆笑はピタっと止み、クラスの女子たちはあっけにとられた感じでえ?え?と、私と先生の顔を交互に見比べていた。
一方の私は、やっぱり爆笑されたという気持ちで顔から火が出るほど恥ずかしくて、しばらく下を向いていた。

丁度その時チャイムが鳴り、音楽の授業終了。
混乱でどうしていいのかわからないまま、急いで音楽室から出ようとすると、私は堺先生に呼び止められた。

「本当に上手でした。恥ずかしがらないで、自信をもって。」

その時の事は、今でもハッキリと頭に残っている。
褒められて凄く嬉しかったのと、初めて間近でみる堺先生の顔と、なんだかよく解らない感情で、しばらくの間心臓のドキドキは収まらなかった。

合唱コンクールも無事?に終わり、月日が流れるのも早いもので、季節はもう卒業シーズン。

音楽室でのソロデビュー(笑)以来、私は堺先生と話す機会が少しだけ増えていた。
本当に一言・二言交わすだけの会話だったが、私を見かけると話しかけてくれる先生がとても嬉しかった。

まぁそのお陰で、女子達の風当たりが更に強くなっていたのは言うまでも無いが・・・


卒業式の予行練習が本格的に始まると、私の心はずーっとザワザワしていた。

この学校を卒業したら、堺先生ともお話できなくなるな・・・とか
中学校に入っても同学年のメンバーは殆ど変わらないし、また学校生活がつまらなくなるな・・・とか

ただただ毎日そんな思いが頭中を駆け巡って、常に上の空。パンクしそうだった。
でもその思いの発散の仕方も、なぜ自分の心がそんなグチャグチャになっているのかも解らず、私の小学校生活はあっという間に終わっていった。

中学校入学。

予想通り虐められはしたが、それは最初のうちだけだった。
きっと当事者達は虐め以外の楽しみと興味を見つけて、私の事を構わなくなったんだと思う。

それだけでも十分中学生活が過しやすくなったのだが、一つだけ心にずっと引っかかってる事があった。
話すのが楽しみだった堺先生が居ない事。
その楽しみが唯一ないだけで、虐められていた小学生時代よりも学生生活が今一楽しめないでいた。


人生初めての期末テストが終わった頃、まだまだ友達が出来ずに暇だった私は、ふと小学校を覗きに行ってみようと思いたった。
小さな田舎町だから、中学校と小学校は自転車で5分くらいの距離。

久々の小学校に懐かしさを覚えて嬉しくなったが、何となく思いたって来ただけなので、目的は特に無い。
駐車場脇に自転車を停め、非常階段に座って仕方なく校庭をぼーっと眺めていると、頭上から自分の名前を呼ぶ声がした。

見上げると、校舎の3階にある音楽室の窓から、堺先生が手を振っていた。

ドキっとしたと同時に嬉しく、でもなんだか小っ恥ずかしくて、私は小さく手を振り返した。
先生はそれを確認すると、スッと窓の中に消えていった。

思いがけず先生の顔を見れた事と、自分の事を覚えてくれていた嬉しさにほんのり幸福感を覚えながら、私はまた校庭を眺め始める。

わざわざ3階から声をかけてくれるなんて、やっぱり先生は優しいな
なんとなく来ただけだと思っていたが、もしかしたら自分は先生に会いたかったのかな?

そんな事を色々考えていると、今度はもっと近くから名前を呼ばれて私は振り向く。
正面玄関の方から、堺先生が歩いてきていた。

「こんな所に一人で、何やってるんですか?」

先生は私の横にチョコンと座ると、ニコニコしながら質問をしてくる。
特に何もしてません、ボーっとしてました。っと思いつつも言葉には出さず、一瞬間をおいて私は逆に質問を返した。

「先生こそ、何してるんですか?」
「姿が見えたので、お話しに来てみました。」

わざわざ自分と話すために降りてきたんだ…そう理解したとたん、私の心臓は、ギュッとなった。

「中学校はどうですか?楽しい?」
「…思ってたよりは、楽しく無いです」
「部活は?」
「…帰宅部です」

理由のわからない心臓の締め付けにクラクラして、ただでさえ少ない口数がもっと少なくなる。
せっかく来てくれたのだし、先生ともっと沢山話がしたいのに、言葉がスラスラ出てこない。
先生は気を使ってか、色々と話しかけてくれる。

それでも二人の間に沈黙が流れ始めるには、そう時間はかからなかった。


完全に会話の流れが止まってしまうと、更に何を話せばいいのか解らなくなる。

何か話さなきゃ…このままじゃかなり気まずい…

頭の中で軽いパニックを起こしながらふと先生を見ると、先生はやっぱりニコニコしながら校庭を眺めている。
その顔を見てたら、何だかこのまま沈黙でも構わないんじゃないかと思えてきて、私もまた校庭を眺め始めた。


いつの間にか、胸の締め付けも消えていた。

階段の日陰を通り抜けていく風が心地よくて、日差しは暑いけど爽やかな晴れ…
なんとなく眺めていた校庭の景色がまったく別のモノに変わった様な、不思議な感じがする。

先生といると心地がいい。幸せな気分になるな…

そこでようやく私は、今までの先生への気持ちは恋心だったんだと自覚をした。


自覚をするとこの状況がとっても恥ずかしく感じる。
けれどそれ以上に先生が横に居るのがとても嬉しい。
このままこんな時間がずっと続くといいな…そんな事を考えていると、授業終了のチャイムが鳴った。

「さて、そろそろ戻らないと」

先生はそう言うと立ち上がり、小さく背伸びをした。
その瞬間、先ほどまでの心地よさはサっと消えうせて、私は一気に現実に引き戻された。
ここでさようならをしたら、次はいつ先生に会えるのかな…?そう考えるとまた胸が締め付けられる。

「じゃあ、また…」

ニコっと笑って先生は小さく手を振った。
校舎に戻って行く先生を見ていたら物凄いもどかしさに襲われて、私は気がついたら先生を呼び止めていた。
???っとした顔で振り返る先生に、急いで駆け寄る。

「あの……」
「どうしました??」

ドキドキしながら話しかけ、頭の中で一生懸命先生との接点を探す。
先生との時間を作るには、今の私にはコレしかない。

「……歌を私に教えてください。」

先生は驚いた顔をした。

「歌?中学校に音楽部ってありませんでしたっけ?」
「あります。けど…」
「だったら僕に教わるより、中学校で教わった方がいいn…」

言いかける先生の言葉を遮る様に、私は話を続けた。

「…私、自分の歌を初めて褒めてくれた先生に教わりたいんです。もっともっと上手になって、自分に自信を持ちたい。」

先生は上を向いてしばらく考え込むと、何かを思いついたようにまたニコっとこちらを見た。

「わかりました、校長先生に事情を話して、音楽室を使っても良いか聞いてみましょうか。ちょっと待ってて下さい。」

そう言うと先生は、小走りに校舎に戻って行った。


先生が校舎に入るのを見届けると、精一杯張っていた緊張が解けて、その場にどっとしゃがみこんだ。
今更になって後悔が押し寄せてきて、心臓のドキドキが激しくなる。

自分は凄く迷惑な事をお願いしてしまったんじゃないか…
迷惑だったけど優しい人だから、断る口実を探してるんじゃないか…

そんな考えが沸いては消え、沸いては消えして、心臓のドキドキはいつしかギュッとした締め付けに変わっていた。


何回か深呼吸をして少し落ち着くと、私はまた非常階段に戻り、腰をかけた。

断られた時に少しでも大丈夫なように、今のうちに心の準備をしておこう…
そんなネガティブな考えで悶々としていると、先生は思ったより早く戻ってきた。

「校長先生に許可貰えましたよ、二つ返事でOKでした。さて、これからどういう予定を立てましょう?」

先生はニコっと笑う。
私はと言うと思いがけない返事にビックリして、ほんの少しの間だけ固まってしまっていた。

「渚さん?」
「あ、え、はい、あ、ありがとうございます!」

そんな私の様子を見てプッと噴きだした先生は、まだ半分笑った顔のまま話を続けた。

「下校時間以降、職員会議の日や行事の時以外なら、音楽室を使っても構わないそうです。」
「は、はい。」
「さすがに毎日と言う訳にはいかないので、週に1.2回でどうでしょう?」
「は、はい。」
「じゃあ毎週火曜日って事にして、その週に都合が付けば金曜日もって事でいいですか?」
「は、はい。」

先生は堪え切れなくなったように、今度はアハハと声を出して笑った。

「さっきから はい しか言ってないけれど、コレで本当に大丈夫ですか?」
「は、はい!大丈夫です!…あの…先生は大丈夫ですか?いいんですか?」
「大丈夫じゃなかったら断ってます。担当してるクラスも無いし、暇だから平気です。」

先生がニコっとして頷く。

そこでやっとホっとした私は、さっきとは一変、とたんに夢心地になった。

「じゃあ来週…はもう夏休みか。火曜日はちょっと忙しいから、来週だけは金曜日、時間は15時からでいいかな?」
「はい、わかりました。」
「一応、学生服で来てくださいね。正装でくると言うことで。」
「わかりました。」
「じゃあもう戻らないと。また来週、渚さん。」

それからの毎日は、本当に楽しいものだった。

毎週先生と会える日が待ち遠しくて、一週間があっという間に過ぎていく。

複式呼吸の練習、高い声・低い声の出し方、細い声・太い声の出し方…
まぁ本当にただのボイストレーニングなんだけど、それでも徐々に自分の歌声が良くなって行くのが実感できて、更に楽しかった。

最初の動機こそ不純なものだったが、私は歌を歌うという事がどんどん好きになって行き、
また、先生への思いもどんどん大きくなっていった。


恋をして少しは身なりを気にするようになり、クネクネだった髪にはストレートパーマをかけた。
眉毛も整えるようになり、身長が少しだけ伸びたおかげか、体重も徐々に減っていった。


中一の冬休みが終わる頃には、自然と良く笑うようになり、友達もできた。
小学生時代には想像も出来ないくらい、私は明るい普通の女の子になっていた。

このままずーっとこの日常が続いて欲しいな…

私は生まれて初めて、心穏やかな充実した学生生活を送っていた。


当たり前だけど、先生とは何も進展がなく過ぎていき、中学2年が終わる春休みの少し前。

いつものように発声練習をして一息休憩を入れていた時、先生が少し残念そうに、でもニコニコしながら呟いた。

「多分、今年は移動になると思います。」

穏やかに流れていた日常が、ピタっと止まる音がした。

「移動って…違う学校に行くって事ですよね?」
「そうですね、そういう事です。本当は公表があるまで言っちゃいけない決まりなんですが…」
「…どこに移動になるんですか?近くの学校?」
「いや、京都です。」

京都…学生の私には、あまりにも遠い距離だった。

「渚さんとはこう…少し特殊な形で関わってましたし、今後の予定もあるでしょうから、先にお話しておいた方がいいと思いまして…」
「そう…ですか…」
「急な事でごめんなさい。でも折角練習を続けてきたし、これからは中学校の音楽の先生n…」

その後、先生は何か色々話していたけれど、私の耳にはまったく入ってこなかった。
先生が生活の一部になっていた私にとっては、まさに沈んで行く船に乗っている気分。

先生が遠くに行ってしまう…

その事で頭が一杯になり、その日の残りのレッスンはずっと上の空だった。


最後になるレッスンの日。

今まで待ち遠しかった火曜日が、今までで一番来て欲しくない日になっていた。

いつものように音楽室に入る。
先生は珍しく、まだ音楽室には来ていなかった。

ふと、ピアノの後ろにあるカラーボックスに違和感を感じて目をやる。
今まで先生の私物がぎっしりと詰まっていたカラーボックスは、綺麗に片付けられていた。

あぁ、本当に居なくなっちゃうんだ…

そう実感した瞬間、涙が勝手に溢れて来た。
嗚咽するでもなく、ただただ涙だけがポロポロと溢れ出てくる。

泣いてる顔なんて見られたくない…早く泣き止まないと…

そう思えば思うほど、意志とは裏腹に涙が止まらなくなっていく。
なんとか泣き止む為に深呼吸を繰り返していると、音楽室のドアが開く音がした。

「待たせてすみません、ちょっと忙しくて…」

泣いて真っ赤になった目が、先生の目と合う。
先生のビックリした顔を見て、私は何故か恥ずかしくなり下を向いた。

先生はそっと扉を閉めると、いつものようにピアノの椅子に座る。




例え様の無い不思議な沈黙が、ただただ重苦しかった。


「…泣かないで。どうしたの?何があったの?」

先に喋ったのは先生だった。
どうしたの?とは酷い事を聞くものだ…先生は何も気がついていないのだろうか?
それとも気がついてないフリをしているのか…?

「……寂しいです…」

私は勇気を振り絞ってそう言った。
先生はまたまたビックリした顔をしたが、すぐにまたニコっと笑って

「そうですね、僕も寂しいです。」

と、優しく言った。

「私は…」
「…?」
「私は、先生のお陰で変われました。先生のあの時の一言が、私が大きく変われるきっかけになりました。先生に会えて良かった。…だから…とても寂しいです…。」

昔の自分では考えられないくらい、自然にスラスラと言葉が出た。
そう言うと何だか心がふっと軽くなって、不思議と涙は止まった。


沈黙がしばらく続いた後、急に不安になって先生の顔をそっと見てみる。
また少し驚いた顔をしていた先生は、私と目が合うと、今まで見たことの無い穏やかな表情でにっこりと微笑んだ。

「ありがとう。そんな事を言ってもらえるなんて…教師になって良かった。僕もそう思わせてもらいました。」

ドキッとした。
先生はいつもニコニコしていたけれど、こんな柔らかい笑顔を見たのは初めてだった。
なんだか本当の先生に突然会ったような気分になって、耳がカーっと熱くなった。

「それだけ泣いちゃったら、もう練習は出来ないですね。今日はお話をして過ごしましょうか。」

少しの間を置いてそう言った先生の顔は、またいつものニコニコ顔に戻っていた。

最後のレッスンから数日後、先生が京都に出発する日。

私は先生の見送りをする為に、数人の友人達と一緒に空港へと来ていた。
相変わらず先生はニコニコしてて、友人達も久々に会う堺先生と話を弾ませている。
私もなんとなく会話に混ざりつつも、若干上の空。
先生の顔から目が放せず、とにかくボーっと先生だけを眺めていた。

「さて、そろそろ待合室に入らないと。今日はわざわざありがとう。」

先生が皆にお別れの挨拶をし始める。
私は勇気を振り絞って、先生に一枚の紙を渡した。

「…?」
「私の住所です…。あの…よかったら…お手紙下さい。」

先生はニコっと笑って渡した紙をポケットにしまい、私の頭をポンポンっと撫でると、そのまま待合室に消えていった。




あっという間に新年度が始まる。

私は相変わらずのうわの空で、何に対してもやる気が起きないでいた。

でももう中学3年。
高校受験も控え、いつまでもボーっと過ごすわけにはいかない。
それでもやっぱり先生が居なくなった喪失感は大きく、気がつくと先生の事ばかりを考えていた。

初めての恋をした私には、その感情の押し込め方なんてまったく解らなかった

先生が居なくなっても、時間だけは淡々と過ぎてゆく。

夏休みになり、私はやっと失恋という言葉を噛み締めていた。
一生懸命考えた結果、あまりにも幼い恋に気がついたのだ。

先生はもう大人。
ましてや教師。
14.5の小娘が自分に恋愛感情を持っている事なんて、薄々感じてはいただろう。
そして、解った上で私が傷つかないように、ずっと変わりなく接していてくれたのだろう。
小さな脳みそで考えた結果出てきた、それが私の答え。

忘れなきゃいけないな…先生がずっと元気で幸せなら、私はそれでいい。

今思い出すと完全に自己満足でまだまだ幼い考えだが、私にはそれが精一杯だった。



夏休みも半分を過ぎた頃。
いつもの様に遅く起きた朝、猛暑にノックアウトされながら郵便受けを見に行くと、新聞の間に一枚の葉書が入っていた。

宛名を見ると私の名前。
差出人は…堺先生だった。


ー 残暑見舞い申し上げます。
  元気にしていますか?
  歌う事はまだちゃんと続けているでしょうか?
  こちらの暑さは厳しく、そちらで過ごした爽やかな夏の日々が思い出されます。
  
  8月の花火大会の辺りに、そちらに観光で伺う予定です。
  
  それでは、夏に負けずに過ごしますように。 ー


心がまた先生で一杯になるには、あっという間だった。



手紙を読み終え地域の予定表を確認すると、花火大会はもう目前だった。
だからといって、電話番号も知らない先生とは、会う約束も出来ない。
それに今年は、同級生男女数名で見に行くことに決まっていた。

これじゃ、何だか生殺しだなぁ…

久々に感じた胸の痛みを懐かしく思いつつ、私はもう、少しは大人になったのだと、そう自分に言い聞かせた。


花火大会当日。
初めて友達と見に行く花火大会。
一緒に行く予定の友人から浴衣を借りて着付けしてもらった私は、どうせなら…と勧められるまま、お化粧道具も拝借した。

中高生向けの雑誌と睨めっこしながら初めて施した化粧姿は、今思うと少しでも大人に近づきたかった気持ちの表れだったのかもしれない。
もしかしたら…というほんの少しの下心を含みつつ、私は会場に向かった。

が、結局ばったり先生に会える…なんてドラマチックな展開は無く、友人達と楽しく過ごして花火大会は幕を下ろした。


夏休みがもう終わる頃、私はやっと先生に返事を書いた。

夏休みは楽しかったこと。
先生から手紙が来て嬉しかったこと。
歌は習いはしてないけれど、発声練習だけは欠かさずしていること。
花火大会で会えなくて、残念だったこと。

便箋3枚たっぷりに色々書いて、季節ごと以外での返事が来るようにと、祈るように投函した。
私の踏ん切りをつけたはずの心は、やっぱりまた先生に戻ってしまったのだった。


祈りが通じたのか、それからは二月に1回程度の頻度で文通が始まった。
他愛のない世間話ばかりだったが、たったそれだけでも繋がりが持てている喜びで、私の心は十分満たされていた。

また幸せな日々が、少しだけ戻ってきていた。


心が平常を取り戻すと、成績は面白いほどグイグイと上っていった。

このまま頑張って先生のそばに…とは思ったものの、当時母子家庭だった我が家の家計的には苦しく、仕方なく奨学金を使って地元の高校を受験した。
結果は余裕の合格。

私は晴れて高校生になった。



高校1年。16歳になった私は、すぐにバイトを始めた。
理由は、携帯電話を持つため。
同級生の間でも持ってない人は少数になっていたし、何より先生との手紙以外の連絡ツールが欲しかったのだ。

近所に昔からある、そこそこ大きな喫茶店のウェイトレス。
自給こそ低めだったが、マスターがとても優しく大事にしてくれたので、バイト自体は楽しいものだった。


そして、みっちり働く事2ヶ月。

念願の携帯電話を手に入れた私は、先生への手紙にはメールアドレスだけを添えた。
番号まで書いてしまったら何か厚かましいと思われるような気がして、子供心に遠慮をした結果だった。
住所を書いたメモを渡す時より緊張しながら、私はまた祈るように手紙を出した。


数日後、緊張や不安とは裏腹に、先生からのメールがあっさりと届いた。
本文は先生の名前だけという恐ろしくシンプルな内容だったが、それだけでも私は十分すぎるほど嬉しかった。


それからは手紙のやり取りはなくなり、かわりに数日に一度程度のメール交換になっていた。
本当は毎日でもメールをしたかったが、迷惑になる事を考えて、極力控えるようにしていたのだ。

細く長くやり取りを続けてもうすぐ高校2年になる春休み前日、先生から思いがけない知らせが届く。

「移動が決まりました。また〇〇小に戻ります。」

高校2年が始まる。

先生はこちらに戻って来たが、すぐに会う事は無かった。
会って話がしたい、声が聞きたいとは思ったものの、なんとなく会いに行く口実が出来ずにいたのだった。


それでもメールだけは続いていた。



そんな感じで日々は過ぎ、その年の9月。

私がずっと歌を習っていた事を聞きつけた高校の先生から、文化祭の催しで歌ってみないか?とのお誘いがあった。
校内でも歌が好きな生徒を集め、楽器の得意な先生達の伴奏に合わせて、生徒が好きな歌を歌うという企画。

最初こそ断ったものの、友達からの何で引き受けなかった?の声や、打診してきた先生の猛プッシュもあり、結局私は1曲限定という約束で引き受けた。

引き受けたは良いものの、何を歌って良いのかが解らない。

面倒な事に巻き込まれたな…と思いつつ、私は友人達に歌って欲しい曲は無いかを聞いてみた。
様々な歌が提案されたが、その中でも特に仲の良かった友人のリクエスト、Fayrayのtearsという曲を歌うことになった。
女子高生の大好きな、切ないラブソング。

初めて聞いた曲だったが、何より歌詞が甘酸っぱくてなんだか恥ずかしく、歌う約束をした事をちょっとだけ後悔した。




文化祭も間近になった時、私はそういう経緯で初めて人前で歌を歌うことになったと、堺先生にメールをした。

先生からは、絶対に見に行くと返事があった。

私は先生にラブソングを聞かれることが物凄く恥ずかしくて、やっぱりちょっと後悔をしたのだった。



文化祭当日。私達の公演は14時から。

一曲限定と条件を提示してしまったが為にトリを持たされるという事を、私はその日の朝に初めて知らされた。
友人達は恋人とデート状態だったので、ただ一人何もする事が無い私は適当にその辺を見回ると、喧騒から逃げるように屋上に向かった。

やっぱり引き受けるんじゃなかった…

激しく後悔しつつ屋上のベンチに座り2時間くらいボーっとしていると、堺先生からのメールが鳴った。

「高校に着きました。今、どこにいますか?」

単純に歌を見に来るだけだと思っていた私はあまりに早い到着に驚いて、呆けていた頭も一瞬で吹っ飛んだ。

「何もする事が無くて、B棟の屋上に居ます。」

久しぶりに会えるドキドキと恥ずかしさで一人ソワソワしていると、返事を返してから15分くらいで、先生は屋上に現れた。
私に気がついた先生は、ニコニコしながら懐かしそうにこちらに歩いてくる。
昔と何も変わらないその姿を見て、心臓がドクンとなった。


「お久しぶりです、元気でしたか?」
「先生こそ、元気でしたか?」

自然と笑みがこぼれる。

「色々あったけど元気ですよ。…渚さんは変わりましたね、見違えましたよ。」
「先生はあまり変わりませんね。」


見違えたという言葉に不思議な心地良さを感じながら、数年ぶりの先生の柔らかい声に身も心もトロけていた。


久しぶりに会えた嬉しさに胸が一杯になって、何を話せばいいのか解らなくなった私は、さっきまで座っていたベンチにまた腰を下ろした。
先生も同じように、私の隣にチョコンと座る。


昔とは何かが違う心地良い沈黙の後で、今度は私から話しかけた。

「…先生って大変ですね。数年であっちに行ったりこっちに行ったり。」

私がしんみりそう言うと、先生はフフっと笑いながら小さくフルフルと首を振った。

「そうでもないですよ。元々引越し好きなんで、丁度いいです。」
「引越しが好きとか、変わってますね。」

私が笑うと、先生はちょっと照れた様に頭をかいた。

「よく言われます。でもどんなに快適な部屋に住んでいても、またすぐ引っ越したくなっちゃうんですよ。」
「ずっと同じところに居るのが苦手なんですか?」
「いや、そういう訳じゃ無いんですけど、部屋が変わると気分が変わるというかなんというか…」
「模様替えのようなもの?」
「そうですね、多分そういう感覚なんだと思います。」

引越しが好き…という事は、またすぐ違う所に行ってしまうのだろうか…

「じゃあまたすぐ、他の学校に移動したりするんですか?」
「いや、僕が好きなのはあくまで部屋を変えるって事ですから。」
「そうなんですか。」
「です。自分の好きな地域の中で、部屋だけを変えるんです。今回戻ってきたのも、自分から希望出したんですよ。ここが好きだから。」

先生はニコっと笑った。

ここが好き、自分から希望を出した…
別に私に会いたくてなんて言われてもいないのに、何故だかその様な事を言われた感じがして、また心臓がドキッとした。

それから他愛の無い話を途切れ途切れにしていると、突然私を呼び出す校内アナウンスが流れた。
ハッと気がついて時計をみると、もう13時半。

先生に会えて浮かれていた私は、本番前の最後の音合わせをすっかり忘れていたのだ。

「今の、渚さん呼び出してましたよね?」

先生は驚いて私を見た。

「……最後のリハーサル忘れてました。」

先生は珍しく大きな声で笑うと、早く行きなさいと私の肩をポンと叩いた。

「ごめんなさい、行ってきます。」
「はい、ではまた後で。」

呼び出された恥ずかしさと、先生に触れられたドキドキで耳が熱くなっているのを感じながら、私は急いで職員室へと向かった。


遅れたものの、リハーサルも無事に終了。
スタンバイの為に会場に向かう。

会場となっているのは来賓玄関前のだだっ広い玄関ホール。
その場所は3階まで大きな吹き抜けになっていて、そこでストリートライブ形式で行われる予定だった。


14時になり公演スタート。
最初こそまばらだった観客達は、一年生の数名が歌い終える頃には相当な数になっていた。
ここまで観客が増える事を予想していなかった私は、やっぱりまた激しく後悔していたのであった。

あと一人で自分の番となった時、私は初めて知り合いを探して観客達の顔を見渡した。

一番前に友人達数名。その少し後ろに友人達の家族がチラホラ。が、先生の姿はない。
あれ?っと思って上に目をやると、先生は2階からこちらを眺めていた。

ちょうど歌うときに立つ場所の真正面。

なんでよりによってソコなんだ…しっかり見えちゃうじゃないか…と心の中でツッコミを入れていると、すぐに自分の番は回ってきた。

促されるまま、皆の前に立つ。

私は観客達の顔を見ないようにしながら、緊張を抑える為に2.3回深呼吸をすると、準備OKの合図をした。
声の無いせーので、歌い始める。

歌いながら少し上に目線をやると、先生と目が合った。
いつもより少し真剣な顔で、でもやっぱりニコニコしながら先生は私をじっと見ていた。

途端に頭が真っ白になって目が離せなくなる。
甘酸っぱくて恥ずかしかった歌詞は、いつのまにか私の気持ちと同調して、気がつくとただ淡々と先生にだけ聞かせているかのように歌っていた。



歌い終わりホッと一息深呼吸して一礼すると、シーンとしていた会場は割れんばかりの拍手に包まれた。
途端に我に返って恥ずかしくなり、私は逃げるように早足でその場から立ち去った。


真っ赤な顔で一目散に屋上を目指す。
無意識に先生だけ見て歌っていた事が凄く恥ずかしく、なんであんな事になっちゃったんだろうと後悔で自分を責めた。


屋上について携帯を開くと、友人達からメールが来ていた。
良かったよ〜凄かったよ〜周りの人も褒めてたよ〜というお褒めの言葉に少しだけ嬉しくなってニヤニヤしていると、渚さんっと堺先生の声がした。

「やっぱりここにいた。」

ニコニコしている先生と目が合うと、また私の顔はカーっと熱くなった。



「凄かった。他の子達には悪いけれど、ずば抜けて一番上手でしたよ。」

先生はニコニコしながら言う。
私はブンブンと首を振った。

「そんな事無いです、私はそんなに上手じゃないです。」

恥ずかしさに下を向く。
何だか気持ちが高揚しすぎて、なぜか自然に目が潤んでしまう。

耳まで真っ赤にした私の様子にハハっと笑うと、先生は私の頭をポンポンと撫でた。

「恥ずかしがらないで、自信を持って。」

聞き覚えのある懐かしい言葉に一瞬だけ間を置いて、私は思わずクスっと吹き出した。

「先生、前もそういってくれましたね。」
「そうでしたっけ?」

目が合うと、なぜか私達はアハハと笑い合った。
いつもと変わらない先生の様子に、いつの間にか私の心は落ち着きを取り戻していた。

「さて、それじゃそろそろ僕は帰りますね。」
「はい、今日はどうもありがとうございました。」
「じゃあまた。」

先生が小さく手を振って背を向ける。

中学2年の頃に止まってしまった時間が、また動き出す音がした。

文化祭で久々の再会をしてから、私と先生のメールの回数は徐々に増えていった。

今日はこんな事があったよ。とかありきたりな内容だったけれども、一日の終わりに毎日メールするのが当たり前になっていた。
私は人生で2度目の、充実した穏やかな毎日を過ごしていた。


が、しかしその平和が脅かされる日は、突然にやってくる。


冬休みが始まった日。
終業式を終えて家に帰ると、普段から滅多に帰って来る事のなかった母が、台所で鼻歌まじりにご飯の用意をしていた。
ビックリしてどうしたの?と聞くと、母は満面の笑みで私を抱きしめるとこう言った。

「なぎ〜、私ね〜再婚する事にしたの〜♪〇〇さんっていってね〜凄く優しいのよ〜♪今日から一緒にココで暮らすからよろしくね〜♪」

あんまり突然の告白で面食らっていると、母はまた鼻歌を歌いながら調理に戻った。

「ちょ、どういうこと!?なんでそんな事になったの!?」

呆けている場合じゃないと、焦って聞き返す。

「どうこうもないわよ〜♪赤ちゃんが出来たからね、一緒に暮らすのよ〜♪もうすぐ弟か妹が生まれるの〜♪なぎも嬉しいでしょ?♪」
「赤ちゃん!?」
「そうよ〜♪おめでたいのよ〜♪〇〇さんももうすぐ帰ってくるからね〜、仲良くしてね〜♪」

まるで宇宙人と話しているみたいだった。
突然相談もなく勝手に決められても困ると話しても、なんで〜?どうして〜?としか母は言わない。

話にならない…

そう諦めて自室に戻ると、言いようの無い疲れがどっと押し寄せて、私はしばらく何も考えられずにベッドに突っ伏しているしかなかった。

夕飯の時。
母から呼ばれてリビングに行くと、母の言っていた〇〇さんという人は、もう食卓についていた。
いつの間にか眠っていたらしい私は、その男が家に来たこともまったく気がついていなかったのだ。

「なぎ〜、この人が〇〇さん♪かっこいいパパが出来てよかったね〜♪」

母は目の中にハートマークを浮かべながら、一度も私を見ることなくそう言った。
お世辞にもかっこいいとは言えない23.4位の、やたらとガタイのいい…今風にいうと明らかにDQNな男は、私を上から下までギロリとした目つきでゆっ

くり眺めると、

「…………よろしく。」

と、無愛想に挨拶をした。


「………」

私は無言で頷いた。


地獄のような日々が始まった瞬間だった。


母は18歳で未婚のまま私を産み、今まで水商売で家計を支えてきた。
支えてきた…とはいいつつも、
家は母の父母から相続した古いながらも一軒家だったので、実質かかっているお金は大したことは無かったらしい。

私が中学生になった頃には、週に1.2回帰ってきて、当面の生活費を無造作にテーブルに置いてはまた出て行く…という生活を送っていた。
どうせ男のところにでも行っているのだろう…薄々はそう感じていたが、まさか急に再婚などと言われるとは思ってもいなかった。




男を紹介された次の日。

男が日中仕事に出かけたのを見計らうと、私は籍を入れるつもりなら構わないが、男と養子縁組をすることだけは絶対に嫌だと母に抗議をした。
名字が変わるのが嫌だった訳じゃなく、ただ単純にあの薄気味悪い男の名字を名乗る事も、戸籍に入る事も嫌だったからだ。

私が一気にまくし立てると、母はニヤニヤしながらあっそう?じゃあそうするわ♪とだけ言った。




家庭環境は変わったが、それからも先生とは何も変わらずに、普通にメールをしていた。
もっと早く相談していれば良かったのだが、その当時の私は自分の汚い家庭環境を見られるのが何よりも嫌で、何も変わりない素振りをしていたのだった。


男が一緒に暮らすようになって数ヵ月後。
早いものでもう春休みに入っていた。


母はどこかに出かけ、私はバイトが休み。男も休みだったみたいで、朝からずーっと家に居た。

いつもは朝起きるとリビングに行き、軽く朝食を摂りながらテレビを見たりして過ごすのだが、その日は朝から男が家に居た為、私はずっと部屋に閉じこ

もっていた。

その日に限って友達がつかまらず、部屋で何もする事もなくボーっとしていると、不思議と睡魔が襲ってくる。
ベットにつっぷしていると、私はいつの間にか寝入ってしまっていた。



眠ってからどれ位か経った時、私は体に感じる違和感で薄っすらと目を覚ました。

「…?」

…誰かが私の体を撫で回している。
恐怖と混乱が、私を襲った。

「ハァ…ハァハァ…」

気味の悪い息遣いだけが、かすかに聞こえてくる。
瞬間、あの男が私の背面を触れるか触れないか位の手付きで弄っているのだ、と気がついた。



恐怖と気持ち悪さで、すぐにでもその場を飛び出したかった。
しかし、当時の私は何故か、寝たふりをしなきゃいけない!と咄嗟に思い込んだ。
ただ漠然と、起きてるとわかったら大変な事になる…そういう考えしか浮かんでこなかったのだ。

嫌悪感を必死に堪え、ひたすら寝たフリをしてやり過ごす。
あまりの吐き気に限界を迎えた頃、玄関から母が帰ってきた声がした。


すると、男の手は一瞬ビクっとし、物音を立てないように静かに部屋から出て行った。


私は例え様のない感情を抑えることができず、必死に声を押し殺して泣いた。


高校3年が始まる。

私はあの事件があって以来、夜家で眠ることが無くなっていた。
正確には、家で一夜を過ごすという事が出来なくなっていた。


学校やバイト、友達との約束が終わると、お風呂と必要最低限の荷物だけを取りに帰って、夜間は体を休められそうな場所を見つけてはジッと座って朝

まで過ごした。
友人達の家にも泊めてもらった事もあったが、やはり迷惑になる事を考えると、次もまた甘えるということは出来なかった。

余りにも田舎だったため、夜9時を過ぎた頃には外に人出は無くなり、おまわりさんが見回りをするということも無かった。
私は噂にならないように必死に身を潜めて、毎日ジッと耐え続けた。


先生との毎日続けていたメールも、いつのまにか2.3日に一回返事を返す位になってしまっていた。
心がボロボロになっていくウチに、何故か先生に迷惑がかかるような気がして、不本意に返事を減らしていたのだった。

表向きには何事もなく過ごし、一歩裏に帰るとそんな生活を送っているという心労は、並大抵のものじゃなかった。




そんな生活をひと月ほど送ったある日、それでも体力には限界がやってくる。

その日のバイトを終えた午後8時頃。
いつものようにネグラを探していると、クラクラと立ちくらみがする。
気合を入れて歩こうとはするのだが、体にまったく力が入らない。

私は限界を感じ、半ば無意識に家に帰ると、即自室のベッドに潜り込んだ。


寝付いてどれくらいたったかわからない。
ただ、多分そんなに時間がたたないうちに、あの男は部屋にやってきた。

体を這い回る手の動きで目が覚める。
私はまた、猛烈な嫌悪感に襲われた。


そうか、今日もやっぱり母は居なかったんだな…
半ば考えるのを拒否し始めた頭で、ボーっとそんな事を考える。
母はお腹が大きいのにもかかわらず、相変わらず週に何日かはスナックにバイトに行っていた。


このまま私が我慢をすれば、とりあえず休めるのかな…

覚悟を決めかけたその時、男の手は私の服の中に滑り込んできた。





その瞬間、一瞬だけ先生の顔が頭をよぎる。

「いやあああああああああああああああああああああ!!!!!!!」

実際にはこんな女らしい叫び声じゃなく、もっと獣に近いものだったかもしれない。
私は男を蹴るように突き飛ばした。

一瞬だけ男の体が離れる。
怒りと興奮で頭はクラクラする。

息を荒げたまま起き上がろうとすると、男はニヤっと笑ってまた私に襲い掛かった。

どのように体をジタバタさせたか解らない。
ただ、私の服を剥ぎ取ろうとする男の手を、必死で引き剥がそうとしていたのだけは覚えている。
ひたすら男の体を蹴り上げていた私の足が何発目かでようやくクリーンヒットし、男は小さく呻きながらかがみこんだ。

今しかない…!
私は机においてあったカバンを手にすると、一目散に家から飛び出した。
とにかく必死で走って、近所にあった当時はもう使われていない病院跡地に、身を隠した。


建物の影に隠れて息を整えると、とたんに虚しさが襲ってくる。

どうして私がこんな目に…
どうして私の親はあんななんだ…
どうして…どうして…

もう頭の中は、どうして?しか浮かんでこなかった。



一通りどうして問答をした後、ぼーっとした頭でカバンをまさぐり携帯電話を取る。

「せんせいたすけて」

私はほぼ無心で、堺先生にメールを送った。
メールを送った瞬間、涙が溢れてくる。
携帯を握り締めながら泣いていると、先生からの返事はすぐに返ってきた。

「どうしました?」

文字なのに話しかけられているような気がして、私はまた息が詰まった。

「もうやだ」

呼吸にならない呼吸のせいで、私はその一文しか送れなかった。
深呼吸を繰り返していると、またすぐ携帯が鳴る。

「090-・・・・・・」

本文には携帯番号らしき数字だけが綴られていた。

私は止め方のわからない深呼吸を繰り返しながら、その番号を押した。


ワンコールも鳴らないうちに、先生は電話に出た。


「もしもし!?」

受話器の向こうから、先生の声がする。

「せんせい…」
「どうしたの?なにがあったの?」
「せんせい…………」

涙が溢れて、上手く言葉がつなげない。

「わかった、落ち着いて……今家にいるの?」
「…家にいない…そとにいる」
「外ってどこ?一人で居るの?」
「〇〇病院の…所で……うん、ひとり」
「〇〇病院にいるのね?」
「…うん…」
「わかった、今から行くから絶対にそこで待ってて。いい?わかった?絶対に動かないでそこで待ってて!」

先生はそういうと電話を切った。

切れた電話を握りながら、深呼吸を繰り返す。
呼吸こそ乱れていたものの、涙は止まり、私はその場に座り込んだままぼーっとしていた。

風や草の音に耳を傾け、何も考えられずに座っていると、車の音が徐々に近づいてくる。
近くで停まったな…と思っていると、また携帯が鳴った。

「もしもし?今〇〇病院に着いたんだけど、どこにいるの?」

先生の声だ。

「…病院の影にいます」
「影…?……今、僕が見える?」

身を乗り出して病院の正面入り口辺りを見ると、堺先生がキョロキョロしながら立っていた。

「…見えます」
「よかった。じゃあこっちに出てこれるかな?」

私は携帯を耳に当てながら一生懸命立ち上がると、フラフラしながら先生の方に歩いていった。


私に気が付いた先生が、凄く驚いているのがわかった。


家から一目散に逃げた私の恰好は、引っ張られてヨレヨレになり所々破れたTシャツに、砂だらけになった短パン。
その上裸足で頭はボサボサ。
薄明かりの下の私は、幽霊の様だったことだろう。

先生はヨロヨロ歩く私に駆け寄ると、さっと肩を支えた。
そして次の瞬間、フワッとした感覚があったと思うと、私は先生に俗にいうお姫様抱っこをされていた。

先生は、完全に脱力した状態の私を器用に車の後部座席に乗せると、

「狭いけど、ちょっとだけ我慢してね」

と、車を走らせた。
泣き疲れたからか、それとも先生に会えた安心感からか、私は横になりながらウトウトしていた。

「渚さん、起きてる?」

声をかけられて、小さくハイと返事をする。
気がついたら車は停まっていた。

「ちょっと待っててね。」

そう言って先生は車から降りた。
ここはどこなんだろう…横になったままボーっと考えていると、先生が後部座席のドアを開けた。

「起き上がれる?」

小さく頷いて起き上がった私の体を少しだけ引っ張ると、先生はヨイショっと言い、また私を抱っこした。
乱暴に体でドアを閉める音がする。

見慣れない場所に目を凝らすと、目の前に小さなマンションが見えた。
どうやらココは、このマンションの駐車場だったらしい。
先生は一階の一室の扉を空け、私を玄関に座らせると、玄関の鍵をそーっと閉めた。



「…鍵…」

先生がボソッと呟いたのが聞こえて、私は首をかしげた。

「…家の鍵閉めないで、出てっちゃってたみたい…」

先生が恥ずかしそうに頭をポリポリかいたのを見て、私はようやく少しだけ笑った。


「あ…ちょ、ちょっと待ってね。」

先生は一瞬だけ私をじっと見ると、何か焦ったようにそう言って、奥の部屋にバタバタと入っていった。
しばらくガタガタと物音がしていたかと思うと、手に何枚かの服を持って戻ってきた。
玄関横の引き戸を開ける。

「サイズ合わないと思うけど…とりあえず着替えておいで。」

そう言われて初めて、私は自分の恰好が凄い事になっているのに気がついた。
ボロボロになったTシャツから、お腹やブラジャーが覗いている。
私は恥ずかしくなって、慌てて腕で上半身を隠した。

「あぁ!ごめんなさい!俺、あっちにいますから!」

先生はまた慌てて奥の部屋に引っ込んで行った。


あれ?先生今、俺って言った?

少し驚きつつ、ヨロヨロしながら立ち上がると、私は開けられた引き戸の中に移動した。
物が異常に少ない、綺麗に整頓された洗面脱衣所だった。

先生に渡された服に着替える。
少し大きな長袖のTシャツに、少し長めのハーフパンツ。
何か少し不思議な気分になりながら、今まで来ていた洋服を畳むと、私は先生に声をかけた。

「あの…先生。」

廊下の奥、部屋を仕切る扉の向こうから、先生はハイと返事をした。

「足と…できれば、顔を洗いたいです…。」
「あぁ!そうですよね!…そっちに行っても大丈夫ですか?」

私がハイと返事を返すと、先生はそーっと扉を開けて入って来た。
何だかちょっと気まずそうに私の横をすり抜けると、タオルタオル…と小さく呟きながら洗面所の棚をあさる。

「一枚で足りますか?」
「はい?」
「タオル…」
「あぁ、はい大丈夫です、足ります。」

私が慌ててうなずくと、先生はニコッと笑って今度は浴室の扉をあける。
蛇口を捻ってしばらく手を流水にさらし、ウンっと小さくうなずくと、

「どうぞ」

と言って、廊下に戻った。

「僕、またあっちにいますから。汚れ物はハジッコにでも置いといて下さい。」

私が頷くと、先生はまたニコっとして奥の部屋に戻っていった。

浴室で足と顔を洗うと、頭がシャッキリしていく。
冷静になってくると、ここがどこだか実感が沸いて来る。

ここ、先生の家だ…

私は色々と恥ずかしくなり、何故か慌ててお湯を止めると、急いで足と顔を拭いた。


使ったタオルをさっき畳んだ服の上に置き、洗面所の端に移す。
スイッチを探して電気を消すと、何故かそーっと奥の部屋の扉の前に移動した。
どうしていいかわからず、ノックをする。
すぐに扉が開いて、先生がどうぞ…と部屋に招きいれた。

「お邪魔します…」

小さく言って部屋に入る。
広いリビングダイニング。
小さな座卓、少しだけ大きなテレビ、二人がけの黒くて背の低いソファと、部屋の端に電子ピアノ。
広さの割りに物が少なく、綺麗というよりはガラガラと言った方がわかり易い部屋だった。


「あ、そこに座って。」

促されるまま、ソファに座る。
先生も私を向くように床に座ると、そこからしばらくの沈黙が流れた。



「…それで…一体何があったんですか?」

先生がゆっくりと口を開いた。
私は黙ってうつむいた。

「…話せる範囲で構いませんから…」

そう言って先生はまっすぐ私を見た。

私は少しずつ、話し始めた。

去年の冬、母が再婚すると言って25歳位のガラの悪い男を連れてきたこと。

春休みが始まってすぐ位の時、寝ていたところを男に体を弄られたこと。

それからは家で眠るのが怖くて、夜中は外で過ごしていたこと。

でも体調が悪くなり、仕方なく家に戻って眠っていると、男に襲われ、慌てて家を飛び出して来たこと。

気がついたら先生にメールを送っていたこと。



私はただ淡々と、どこか他人事の様に話をした。

話している間、先生は真剣な顔をして下を向き、眉間にシワを寄せながらうんうんと頷いていた。
私が話すのをやめると、ふたたび沈黙が訪れた。

空気が重苦しく、心臓が締め付けられるように痛くなっていく。

チラッと先生を見ると、今まで見たことのない無表情な顔で、ただ目だけは何かを睨みつける様にじーっと床を見つめていた。
いつもニコニコと穏やかな表情をしていた先生の顔とのギャップに、私の背筋は少しだけゾクっとした。

何だか怖くなって、私も下を向いた。


しばらくの間、私達は黙って下を向いていた。

だんだんと、何故か自分が怒られているような、不思議な気分になってゆく。
色々な事が頭を駆け巡りまた涙目になっていると、先生が大きくフー…っと溜め息をついた。

ビクッと驚いて先生を見る。

ゆっくりとこちらを向いた先生は、私と目が合うと、いつものようにニコっと笑った。

「目…腫れちゃってますね。」

先生はそう言って立ち上がるとキッチンに行き、冷凍庫から氷を取り出して袋に入れ、小さなハンドタオルと一緒に持ってきた。
そして私の横に腰掛けると、不思議そうに見ている私の顔を優しく押さえ、目にそっと氷袋を当てた。

「…今から冷やして、効果あるかな?」

先生がちょっと困ったように笑いながら言う。

その途端、胸につかえていたドロドロとした感情が溢れだし、私は堪えきれずに声を押し殺して泣いた。
先生は私の背中をずっとさすりながら、もう大丈夫だから…と何度も何度も繰り返した。


目を覚ますと私はソファの上で、妙に大きな毛布を掛けられていた。

ぼーっとした頭で、ここが何処だか思い出す。
ハッとして部屋を見渡すが、先生の姿はなかった。
どこに行ったんだろう…そう思いながらテーブルに目をやると、何やら色々と置かれていることに気がついた。

缶コーヒーとペットボトルのお茶、フェイスタオルに小さなメモ用紙。


ー 今日は土曜日ですが、少し仕事があるので学校に行ってきます。
  
  午前中だけなのでお昼頃には帰ると思います。
  
  目が覚めたら顔を洗って、お茶でも飲んで待っていてください。 ー


メモには癖のある綺麗な文字で、そう書かれていた。


ふと壁に掛けてある時計をみると、大体11時半。

私は書かれた通りに顔を洗うと、ソファに戻ってお茶を一口だけ飲む。
ホッと一息つくと、昨日の出来事が思い出され、何とも言えない複雑な気分になった。

振り払うように大きく首を振り、ギュッと体育座りをする。
顔を埋めたシャツの袖から、洗濯物のいい香りがした。

少しだけ気持ちが軽くなったような気がして、私はその体制のまま先生の帰りを待った。




じっと座って暫くウトウトしていると、玄関の方からガチャっと音がした。
ビクッとして顔を上げる。
部屋の扉がそーっと開いて、先生が入って来た。

目が合うと先生はニッコリ笑う。

「あぁ、起きてましたか。よく眠れました?」

私が小さく頷くと、先生は「よかった。」とだけ言い、リビングの隣にある部屋に入っていく。
チラリと見えた部屋の中はカーテンが閉めっぱなしなのか薄暗く、ど真ん中に置かれているであろうベッドの陰が何となく見えた。

少しだけ開いた扉の向こうから、先生の着替える音が聞こえる。
私は急に恥ずかしくなって下を向いた。


Tシャツとジーパンに着替えた先生は欠伸をしながらテーブルの脇に座ると、ハハっと笑った。

「昨日あんまり寝てないから。失礼しました。」

慌てて私は首を振る。

「ごめんなさい、私のせいです。先生に迷惑かけちゃいました…本当にごめんなさい。」
「いえいえ、お気になさらず。元はといえば勝手に連れて来た僕が悪いんですよ。………さて…」

先生はちょっとだけ真剣な顔をして、話し始めた。

「とりあえず、この状況を誰かに見られたらとってもマズイです。やましい事は何もありませんが、きっと誤解を招くでしょう。」
「はい…」
「なので、暗くなるまではちょっとだけココに居てもらいますね。大丈夫そうになったら、ちゃんと送りますから。」
「はい…」
「でも……失礼ですが、あの家に帰すのだけは僕も不安です。どこか代わりに帰れる所ってありませんか?」
「…………無いです」

私がそういうと、先生は困った様に笑いながら「ですよねー。」っと言った。

「困ったなぁ…どうしましょうか。」

先生が頭をポリポリとかいた。
返事ができずに俯いていると、先生はまた真剣な声になって話しを続けた。

「あの…非常に言い辛いのですが……」

私は黙って頷く。

「…児童相談所に連絡してみるのはどうでしょうか?

児童相談所…その言葉を聞くと、頭がグラグラした。

「ハッキリ言います。貴女がされたことはレ○プ未遂です。どう考えても貴女の新しいお父さんは異常です。」

ずっと頭の中で否定し続けていた言葉を言われ、私は堪らずうつむいた。

「明らかに虐待…いや、それ以上の酷い事です。渚さんはもうすぐ18歳ですがまだ高校生なので、きっと助けてくれるはずです。」
「……」
「他に身内も、頼る所も無いとなると、そうするのが一番最良だと思うのですが…」

私はブンブンと首を振った。

「…嫌です。」
「でも、このままじゃ貴女が…」

私は遮るように話し続けた。

「嫌です、絶対に嫌です!あの男に何をされたか話さなきゃいけなくなりますよね?私が保護されたら、地元の人たちにも何をされたかバレますよね?」
「でも…」
「嫌です、そんな事私には耐えられません!やっと友達も出来て、やっと普通に過ごせているんです!それを壊してしまうような事、私には出来ません!」

堪えきれず涙が溢れてくる。

あの家は確かに怖かった。
けれどもそれ以上に、小さな田舎の噂話の方が怖ろしい事を、私は知っていた。
この件が表沙汰になれば、実際は未遂で終わった事でも、私は義父にヤラレチャッタ女として周りから見られてしまう。
そうなるともうこの町には居られなくなる。友達にも一生会えなくなる。

私にはそれが耐えられなかった。


先生は悲しそうな顔をして、小さく溜め息をついた。

「……ですよね。」

ぽつっと呟く。

「………ごめんなさい。」

滅茶苦茶な事を言っているのは、十分すぎるほど理解していた。


それからまた、長い長い沈黙。
私は居た堪れなくなって、もう一度小さく「ごめんなさい。」と呟いた。



「自分の…」

ずっと黙っていた先生が、下を向きながら話し始めた。

「…自分の身は自分で守れますか?」

私は「え?」と聞き返した。

「あと一年……自分の身は自分でしっかり守れると、そう約束できますか?」

先生は私を真っ直ぐ見つめると、搾り出すようにそう言った。
私は少しだけ考えた後、大きく頷いた。

「……わかりました。でもこの次に何かあった場合、僕は躊躇なく通報します。それでもいいですね?」
「はい。…構いません。」


先生はまたフーッと大きく溜め息をつく。

「…僕が女性だったら良かったんですけどね……」

私はまた、下を向いた。

「……僕、ずっと心配だったんです。」
「え?」

予期せぬ言葉に、驚いて先生を見る。

「…僕が赴任してきた頃……渚さん、虐められてたでしょう?」

先生は私を見ずに話を続けた。

「虐められてるのが解って…何とかしてあげたいのに、僕には何も出来なくて……
せめてもの償いのつもりで、歌のレッスン引き受けたんです。」

「………」

「…少しでも支えになれば…そう思って始めたんです。そしたら渚さんはどんどん明るくなっていって、友達も出来て…あぁコレで良かったんだって。
京都行きの話が来た時…正直少し迷ったんですけど、今の渚さんなら大丈夫だろうと思って決心したんです。」

私は黙って頷いた。

「そしたら泣いてる渚さん、見ちゃったじゃないですか。…良かれと思ってやった事で、僕はこの子を余計に傷つけてしまったんじゃないかと後悔して…。
手紙も出そうかどうか、本当は迷ったんです。でも、渚さんの先生に会えて良かったって言葉がどうしても頭から離れなくて…」

先生は恥ずかしそうに頭をかいた。

「教師としての自信を無くしかけていた時に言われた言葉だったし…自分が誰かに必要とされた事ってあまり無かったから、余計に嬉しかったんです。」


「…必要とされた事…ないんですか?」

私が質問すると、先生は苦笑いしながらハイと頷いた。

「お恥ずかしい話ですけど、僕にもちょっと色々ありまして……まぁこの話はやめましょうか。」

先生はアハハっと笑った。

「本当はいけない事なんですけど、僕は渚さんの事が、大事な歳の離れた妹というか…そんな風に思えてしまうんです。」

胸がギュッと痛んだ。

「大事だから、貴女がまた傷ついたり、傷つけられたりするのが怖いし嫌なんです。だから…絶対に絶対に自分を守ってください。」

私はまた、大きく頷いた。


「元教え子をそんな風に思うなんて、僕もダメな大人の一人ですね。」

先生は私の目を見ると、何だか哀しそうにニコッと笑った。







夜も更けてゆき、私は先生に家の近くまで送ってもらうと、絶対に約束は守りますと改めて宣言した。
先生はいつものようにニコっと笑うと、「絶対ですよ。」とだけ言った。

意を決して家に入る。
テレビを見ているであろう男と、あいかわらず鼻歌交じりで台所に居る母を無視するように通りぬけ、部屋に戻ってガチャガチャと小物入れを漁る。

「あった…」

随分と昔に買った南京錠。
役に立ちそうな物を部屋中を漁ってかき集め、何とかドアに鍵をつけると、私はやっとホッとしてベッドに座った。

これでひとまず大丈夫…あとは日中どうやって身を守るかだ。
小さな頭で必死に考えた。

まず就寝時や家に居る間は常に部屋に鍵をかけて閉じこもる。

お風呂は母が居る時のみ。

男が休みであろう時は、どこかに出かける。

なるべく二人と顔を合わさずに生活をする。



やれるべき事を一通り考え終わった頃、ふと先生の言葉が頭をよぎる。

「大事な歳の離れた妹…」

私は、いつもとは違う胸の痛みを感じていた。


それからは学校が終わるとバイトに明け暮れ、気がつくと家には寝に帰っているだけの生活になっていた。
寝に帰っても二人には一切会わず、家では極力空気のように過ごした。

先生とも会う事はなく、ただ、メールでだけは毎日連絡を取り合っていた。
おやすみとおはようの挨拶だけの、ある意味安否確認のようなメールだった。
それだけでも何だか先生に守られているような気がして、とても心強かった。



季節は梅雨に入る。

いつものようにバイトを終えて家に帰ると、電気こそ点いてはいたが二人は居なかった。

珍しい事もあるもんだ…と部屋に戻ってゴロゴロしていると、ガタガタと誰かが帰ってくる音がした。
もう帰ってきちゃったか…と溜め息をついていると、足音はまっすぐこちらにやってくる。
ビクッとして身構えていると、扉の向こうから「オイ!」と男の声がした。

「……何ですか?」

緊張しながら返事を返す。

「ガキ、産まれたから。男。」
「…そうですか。」

それだけ言うと、男は部屋の前から去っていった。


数日後、学校から戻ると母は家に帰ってきていた。

「なぎ〜〜〜〜♪」

帰ってきた私に気がつくと、母は赤ん坊をだっこしながら嬉しそうに近寄ってきた。

「みて〜〜〜〜弟よ〜〜〜〜♪かわいいでしょお♪」

母は抱っこしろと言わんばかりに、赤ん坊を私に差し出した。
私は弟をチラっとみると、

「ふーん…」

とだけ言ってそそくさと部屋に戻った。
急いで扉を閉め鍵をかけると、リビングから母の喚いている声がした。



なんだか疲れてベッドにつっぷす。
血の繋がった弟が可愛くない訳じゃない。
ただ、そこで抱いてしまったら、二人との関わりが一瞬で出来上がってしまうようなして怖かったのだ。

母はわざわざ私の部屋の前まで来て何か叫んでいたが、私はイヤホンをつけるとただひたすらに無視をした。



高校最後の夏休みが始まる。

母とはあれから一切話すことも顔を会わせる事も無く、たまに赤ん坊の泣き声こそ聞こえてきたが、三人がどんな生活をしているのかさえ知らずに過ごしていた。


そんなある日。

私はドスン!!!!という物凄い衝撃で目が覚めた。
ビックリして飛び起きると、一階のリビングから叫び声と赤ん坊の泣き声、男の怒号が聞こえてきた。

時計を見るとまだ夜中の3時頃。


急いで下に降りると、荒れ果てたリビングでは、血だらけの二人が取っ組み合っていた。

「ちょっと!なにやってんの!!!!!」

驚いて二人を引き剥がそうとする。
瞬間、物凄い力で吹っ飛ばされ、私は強かに背中を打った。
痛みで息が出来ない。

苦しくて悶絶していると、母はギロリとこちらを見た。
般若のような恐ろしい顔に、背筋がゾッとする。
母は何か絶叫しながら喚いたと思うと、物凄い速さで私に殴りかかった。

ガツン!と目の辺りを殴られる。
反射的に私は母を突き飛ばした。

勢いよくキッチンまで吹っ飛ばされた母は、今度はその場にあった包丁を握ってこちらに向かってくる。


「おい!!!!!!!!!」

流石に男が母を止めに入る。
男に強く腕を握られた母は、包丁を床に落とした。

私は苦しさと恐怖と混乱で固まっていた。

「このアバズレ!!!!!!糞女!!!!!」

母は男に押さえつけられながら、私にそう叫んだ。
訳がわからず更に混乱する。

「ガキの分際で人の男に手ぇだすなんてなに考えてんだ!!!!!!!!!!」

血走った母の目が合う。

「なに…言ってんの…?」

私がそういうと、母はまた言葉になっていない言葉を絶叫しながら喚いた。


意味が解らない。
人の男?誰の事?堺先生?まさかそんな訳がない。

「部屋に鍵なんかつけやがって!!!ヤッてる最中見られないように鍵つけたんだろ!!!」

そう言われた瞬間、私は母がなにを言っているのかを少しだけ理解した。
母は、私と男が出来てると思い込んでいるのだ。
驚いて言い返す。

「何訳わかんないこと言ってんのよ!」
「嘘つくな!!!!!!全部知ってんだからな!!!!!!」

話にならない。

「大体何がどうなったらそういう風に見えるんだよ!!!」

私がそう怒鳴ると母は一瞬だけ黙り、今度は泣き叫びながら話し始めた。


要約すると、

母と男が事に及んでいる最中、男は間違って私の名前を言った。

驚いた母が問い詰めると、焦った男は体を少し触っただけで何もなかったと言い訳をした。

体を触ったという事はお前らデキてたのか!と母が男に殴りかかると、男はアイツが誘って来たんだと嘘をついた。

逆切れした男は、大体子供ができさえしなかったらお前みたいなババアと結婚なんてするかと、
お情けで一緒に居てやってるんだから、娘の私の体は報酬みたいなもんだと、母に言ったらしい。



頭がクラクラした。



「…ふざけんな……」

そう言った私を、母は睨んだ。

「…オマエなんて産まなきゃよかった…オマエのせいで…オマエのせいで…」

母は恨み言のように、私を睨みながらそう言った。

瞬間、私の頭の中で、何かが弾ける音がした。


さっと立ち上がって2階に駆け上がる。
逃げるのか!!!!っと母の声がした。
部屋に入り、床に放り投げてあったカバンを引っ手繰るように取ると、私はまた階段を駆け降り玄関へ向かう。

「ふざけんな離せぇぇええ!お前もあいつも殺してやる!!!!殺してやる!!!!」

リビングを抜ける時、まだ男に取り押さえられていた母は、そう叫んだ。

私は突っ掛けるように靴を履くと、急いで玄関から飛び出した。


家の中はあれだけ騒がしかったのに、外は静かなものだった。
ほんの少しだけ明るくなって来ていた空では、カラスだけが鳴いていた。

頭が働かず、しばらくぼーっと歩いていると急に体が痛み出して、私は近くにあったバス停のベンチに腰をかけた。


携帯を取り出す。
家に居た時間はとても長く感じたが、実際には起きてからまだ30分くらいしか経っていなかった。

ふと、先生の顔が頭をよぎる。
妙に冷静になり、さすがにこの時間に電話をするのは迷惑だと思って、私は先生にメールを送った。

「家出しちゃいました。」



メールを送ってすぐ、先生から電話が掛かってきた。
ちょっとだけビックリしながら、電話をとる。

「もしもし?どうしたの?何があったの?」

先生との電話は、毎回この言葉から始まってるな…なんとなくそう思いながら、私は事の経緯を簡単に話した。


電話の先で、先生が暫く黙り込んだ。
繋がっているのか不安になって、私は「先生?」と話しかけた。


「…………今、どこにいるんですか?」

先生は静かな声で聞いた。
バス停の表札を見る。

「…〇〇前のバス停のベンチに座っています。」
「すぐに行きます。そこで待ってて。」

先生は電話を切った。

さっきの先生の少しひんやりした声を思い出し、私はやっぱり迷惑だったんだな…とメールをした事を後悔した。


電話をしてから10分位で、先生の車はバス停にやってきた。
私のまん前に停まると、先生は中から助手席をガチャっと開けて「乗って。」とだけ言った。
何だか少し怖くて、私は慌てて車に乗った。

ベルトを締めて、下を向く。
先生はそれを確認すると、車を発進させた。



嫌な沈黙が続いた。



結局一言も喋ることなく駐車場に着くと、先生は車を降りた。
それを見て、私も慌てて車を降りる。
先生は少し早足に玄関に向かい扉を開けると、「入って。」とだけ言った。
私はやっぱり何だか怖くて、急いで中に入った。


玄関で二人、突っ立っていた。

重苦しい沈黙が続く。

そーっと先生を見ると、無表情でどこか一点をじーっと見つめていた。
私は堪らなくなって、先生に謝った。

「ごめんなさい、迷惑だってわかっていたのにメールなんかし…」

言い終わらないうちに、私の体はグイっと引っ張られた。

ビックリして息が詰まる。

一瞬頭が真っ白になった後、私は先生に抱きしめられていることに気がついた。



突然の事に暫く固まっていると、先生はそーっと少しだけ体を離した。
キョトンとしている私の顔をジッと見つめる。
そして私の左のコメカミ辺りを見ると少し苦しそうな顔になって、また私をぎゅうっと抱きしめた。

「…先生……?」

私がやっとで呟く。

「ごめん…ごめんなさい…やっぱりあの時、帰すんじゃなかった…帰すんじゃ……」

先生は苦しそうに言った。

その途端、私は堪えきれなくなって先生をぎゅっと抱きしめ返すと、声をあげてわんわん泣いた。


静かな部屋で、先生はコーヒーを入れている。

あれから暫く泣き続けた私は、疲れてぼーっとした頭でソファにだらりと座っていた。
クーラーの効いた部屋が、ひんやりして心地いい。

「…はいどうぞ。」

先生が少しおしゃれなコーヒーカップを目の前のテーブルに置くと、私は小さな声で「ありがとうございます」と言って床に降りた。
先生もこの間と同じように、私の方を向いて床に座った。

コーヒーのいい香りと苦味で、頭がだんだんシャキっとしていく。
ちらりと先生を見る。
こちらを見ていたらしい先生と、パッと目が合った。

なんだか恥ずかしくなって、私は視線をそらして下を向いた。



「あの…さっきはその…すみませんでした。」

先生が恥ずかしそうにそう言った。
私はブンブンと首を振る。

「自分でも何であんな事したのか、よく解らないんです……ごめんなさい。」
「いえ…」

先生はまた、いつもの顔に戻っていた。

「顔…大丈夫ですか?それ以上、腫れないといいんだけど…」

私は自分のコメカミを触った。
母に殴られた所が少しだけ熱をもってはいたが、不思議と痛みは引いていた。

「大丈夫だと思います…今のところ痛くは無いです。打ち所がよかったのかな?」

私が苦笑いしながらそう答えると、先生はクスっと笑って「そうですか」と言った。


そのまま黙って二人でコーヒーを飲み終えた頃、先生は「渚さん」と私を呼んだ。
なんですか?っという視線で先生を見る。

「……………しばらくの間、このままココに居座っちゃいなさい。」

驚いて聞き返す。

「え!?」
「居座っちゃいなさい。」

先生は相変わらずニコニコしていた。

「でもそんな事バレたら先生が…ダメです、絶対にダメです!」
「大丈夫大丈夫。」
「大丈夫じゃありません!ダメです!私、先生の人生まで壊したくありません!」
「壊れる?僕の人生が?どうして??」

先生はわざとらしくキョトンとした顔をした。
私は一呼吸ついて、話を続けた。

「もしバレたら、先生は学校を辞めさせられるかもしれません。もしかしたら逮捕とかされちゃうかも知れないし…」
「逮捕?大丈夫大丈夫。仮にされたとしても、容疑がかかるだけです。すぐに釈放されますよ、現に何もやましい事はして無いんだから。」

先生はアハハと笑うと、そのまま続けた。


「それに………学校をクビになっても、別に人生終わりませんよ。それだけが僕の全てじゃ無いです。」
「でも…」
「稼ぐ方法なんていくらだってありますしね。僕、こう見えてもピアノが得意なんですよ。」

先生は自慢気にそう言うと、私を見つめてニコっと笑う。
私は思わずプッと吹き出した。


「……でも私…やっかいになれる位のお金、持ってません。」
「お金?ハハハッ、気にしないで。部屋はこんなだけど僕、実はかなーーーりお金持ちですから。」
「でもそんな訳には…。」
「子供はそんな事、気にしなくていいの。」

先生はそう言って笑うと立ち上がり、寝室に入っていった。

本当にいいのだろうか…大丈夫なんだろうか…そんな事を考えていると、先生はすぐに戻ってきた。
テーブルの上に、何も付いていない鍵を置く。

「はいこれ、渚さんの分。」

驚いて先生の顔を見る。

「しばらく居るんだから、無いと不便でしょう?」
「でもっ」
「いいからいいから。無くさない様に、大事に持ってて下さいね。」

先生はそう言って時計を見ると、大きく背伸びをした。

「あーもう朝だ。仕事に行く準備しなきゃ。」

時計は6時を回っていた。




先生との短い同居生活が始まった。

その日の朝。
先生が出掛けて少し経ってから、私は周囲に人の気配が無い事を確認すると、そーっと先生の家を出た。

夏休みで学校は休みといえど、高校3年になった私は就職活動をしなければならない。
その為に必要な物と、あとは生活に必要な物を少しだけ取りに、私は一旦家に戻った。


家に着き、緊張しながらドアノブを回す。
鍵は掛かっていなかった。

「………」

注意深く家の様子を探る。

テレビの音だけが、かすかに聞こえた。

私はそっと足を踏み入れると、なるべく足音を立てないようにリビングに入った。

荒れ果てたリビングではボロボロになった母が、ぼーっとテレビを見つめていた。
母に動く気配は無い。
男と弟の姿も、どこにも無かった。



そんな母を無視するように二階に上ると、私は急いで荷物を詰め、またそーっと一階に降りた。
母は変わらず、テレビを眺めていた。

「………暫く戻らないから。」

私は何となく母に言った。

母はテレビを見つめたまま小さくコクっと頷いた。



なんともいえない胸の痛みが、気持ち悪かった。


それからしばらくの間、私は本当に先生の家で過ごした。

バイトは休みを入れ、就職活動に必要な時のみ外に出た。

私は先生のベッドを宛がわれ、先生はソファで寝た。

洗濯物は3日に一回、先生と別々にして回した。
私が水道代の心配をすると、先生は「僕はお金持ちですから。」と言って笑った。

夕飯は先生が買ってきたものを食べた。
一応、朝昼分も用意しておいてくれたのだが、なんだか申し訳なくて食べられなかった。

お風呂は先生の居ない間に入る決まりになった。
理由は、先生が恥ずかしいからだそうだ。

少しずつ、ルールが出来ていった。



普段、先生と私は同じ空間に居ても、特にお話をしたりテレビを見たり遊んだり…という事は無かった。
先生は先生、私は私で好きに過ごし、夜中の一時位になると「寝ましょうか。」といって布団に入る。

先生は本を読んでいる事が多く、私は邪魔にならないようにイヤホンで音楽を聴いていた。
そんな不思議な生活を、送っていた。


先生の家に来て2週間ほど経ったある日。

夏休みはもうすぐ終わり。

いつものように先生が買ってきた夕飯を二人で食べると、私はイヤホンを耳に付けた。
先生は本を…と思ったが、その日は珍しくピアノの前に座ると、なにやら黒い点が一杯書いてある楽譜を広げた。

そのまま小一時間くらい何か弾いている後姿を眺めていると、先生はふいにこちらに振り返った。
首をかしげながら、イヤホンを外す。

「いつも、何聴いてるんですか?」
「え?」

私はMDプレーヤーを見た。

私には当時好きな映画があって、その劇中の曲をよく聴いていた。
その映画のサウンドトラックにはピアノ曲が数曲入っていて、私は特に好んでそれを聴いていた。

「〇〇って映画の〇〇って曲です。」
「ふーん……ちょっと聞かせて貰ってもいいかな?」

私は立ち上がって先生に近寄ると、イヤホンを渡した。
先生が耳に付けたのを見て、当時よく聴いていた曲に巻き戻すと、再生ボタンを押した。


先生はじーっと、丸々一曲分の時間くらい聴き入っていた。
曲が終わった頃にイヤホンを外すと、鍵盤の上に手を乗せる。

不思議に思っていると先生はその曲のサビのフレーズを、まったく同じように弾き始めた。


「…聴いたこと、あるんですか?」

ビックリして質問すると、先生は指を止める事無くニコニコしながら言った。

「いいえ、初めて聴きました。素敵な曲ですね。」
「…初めて聴いたのに、弾けちゃうんですか………。」

私がそう言うと、先生は手を止めて少し恥ずかしそうに笑った。

「言ったでしょう?僕、ピアノは得意なんです。」

私はプッと吹き出した。

「……ピアノの曲、好きなんですか?」
「はい。」
「…じゃあ一緒に弾いてみます?」

先生はニコっと笑う。
私は慌てて首を振った。

「出来ません!私、ピアニカ以外の鍵盤には触った事ないです!」
「大丈夫。簡単ですよ。」

先生は立ち上がり、私をなかば無理やりピアノの椅子に座らせた。
そして隣に立つと、私のちょうどまん前辺りにある鍵盤を指差した。

「渚さんはここから右半分、好きな音を指一本で鳴らしてくれればいいです。そうですね……大体同じテンポで弾いてください。」
「は…ハイ。」
「あ、白い鍵盤だけでお願いしますね。」

私が頷くと、先生は「じゃあどうぞ。」と言った。


恐る恐る鍵盤を押す。
先生はそれに合わせて、左手で伴奏をつけた。

適当に押しているだけの筈なのに、ただの音が音楽になっていく。
私は何とも言えぬ感動で、背中がゾクゾクとした。


ある程度弾いた所で、私は鍵盤から指を下ろした。
感動にほころんだ顔で、先生を見る。

「ね??ほーら簡単。」

先生はニッコリと笑った。

「凄い、どうやったんですか?」

嬉々とした声で、先生に尋ねる。

「アハハ、内緒です。ただ、凄い事をしてるように見えても、ある程度弾ける人には簡単に出来るんですよ。」

私が「そうなんですか?」と聞くと、先生はニコニコしながら頷いた。

「だから将来同じ事をされて、悪い人に引っかからないように!」

先生は笑いながら言ったが、私はその言葉に少しだけ胸が痛んだ。


「さてと、コーヒーでも入れましょうかね。飲みますか?」

私が頷くと、先生はキッチンに移動する。
私はそれを見て、ソファに戻った。

少しの間、なんともいえない心地良い空気が流れる。

先生が持ってきたコーヒーカップに口をつけると、私は質問をした。

「先生は何歳からピアノを始めたんですか?」
「うーん…3歳位かなぁ?気がついたらもう始めていたので、結構あいまいです。」

先生はカップを置くと、小さく笑った。

「母が厳しい人で、毎日何時間も弾かされていたんですよ。あの頃は凄く嫌だったけど、今となってはやっといて良かった!って思ってます。」
「先生のお母さんは、厳しい人だったんですか…」

私がそう言うと、先生はフッと悲しそうに、それでもニコニコしながら視線を落とした。

「……前に、少しだけ言った事がありましたよね。僕にも色々あったって。」

私は小さく頷いた。

先生は自分の半生を、ポツリポツリと語り始めた。


先生の実家は京都。
地元ではちょっと有名な名家で、先生はそこの二人兄弟の次男だった。

仕事と称してあまり帰って来ない父。
長男を溺愛して、自分には厳しく当たる母。

長男は何でも思い通りに生活し、先生は母に言われるがまま習い事漬け。
かといって愛情を感じる事は、何一つされなかった。
それどころか、逆に罵られている事の方が多かったらしい。
それでも自分もいつかは愛されると信じていた先生は、文句一つ言わず母に従い続けた。

そんな中、たまに帰ってきては自分をめいっぱい可愛がってくれる父親の事が、先生は大好きだったそうだ。


だが高校生になったある日、先生の父は交通事故で亡くなった。

父の遺言書を見ると、財産の半分は先生に、あとの半分は長男と母で折半をしろと書いてあった。
半分と言っても、家やその他のものを入れると、軽く億には届いていた。

それをみた兄と母は、当然怒り狂った。
財産は長男である兄に継がせるべき、と。

その頃にはこの家はおかしいと目を覚ましていた先生は、ある程度のお金さえ貰えれば自分は満足だからと遺産を放棄し、
手切れ金の様な形で元の半分の金額だけを受け取り、もう自分には一切関わって来ないようにと、念書を書かせた。

兄と母は喜んでそれを書くと、先生を家から追い出した。
元々出て行く気だった先生は、逆にこれ以上揉めなくて良かったと、ホッとしたそうだ。


それ以来、本当に何の接触もしてこず、先生は今、平和に暮らしているらしい。


「だから僕、無駄にすごーくお金持ちなんですよ。」

先生は笑った。

私は何も言えなかった。


二人の間に不思議な空気が流れた。

「なんだかちょっと重い話に聞こえるかもしれないけれど、今となっては多分いい思い出です。だからそんなに難しい顔をしないで。」
「えっ?」
「眉間。すっごいシワ寄ってましたよ。」

先生はクスクス笑いながら、私のオデコを指差した。
ハッとして自分の眉間を触る。
先生はその様子を見て、今度は大きな声でアハハと笑った。

私は少し不貞腐れながら言い返す。

「先生こそ…そんな大変そうな話なのに、ニコニコしすぎです。」
「仕方ないです。この顔は産まれ付きなんですから。」

先生はわざとらしくニッコリして見せる。
その顔を見て、私も思わず笑ってしまった。

もう冷めてしまったコーヒーを一口飲むと、私はふと気になって先生に質問をした。

「……先生は、女性とお付き合いした事はあるんですか?」
「え!?」

突然の素っ頓狂な質問に、先生が大きく驚く。

「いや、その……先生は優しいし…背が高いし…ピアノ弾けるし…モテたのかなぁ?って…」

言葉尻がだんだんと萎んで行く。
そんな私を見て、先生は少し困ったような顔をしながら答えた。

「………そう、見えますか?」

私はゆっくり頷いた。

「モテた…という記憶はありませんが……そういう風になった女性なら、何人かは居ましたよ。」

胸がぎゅっと痛くなった。
でも「そういう風になった」という言葉が何かを濁しているような気がして、私は更に質問した。

「そういう風になったって言うのは…お付き合い自体はしていないという事ですか?」
「…そういう事になりますね。」

先生は苦笑いをした。

「…さぁ恋人になりましょう、という事は無かったです。物凄く曖昧な関係しか、経験した事がありません。」
「そうなんですか…」

何となくで聞いた事を、ちょっと後悔し始める。

先生は下を向いて少しだけ考え込むと、ハハっと小さく笑って話を続けた。


「まぁ……人って、いつかは離れていくじゃないですか。どんなに好きになっても、結局はどこか遠くへ行ってしまう。」

私は黙って聞いている。

「どこかに行ってしまうのは解っているから、何だか一線を引いてしまうんです。僕は弱虫なんで、自分が傷つくのは嫌なんですよ、怖いんです。きっ
とそんな気持ちが相手に伝わってしまうんでしょうね。気がついたらもう手が届かない場所に行っていた…っていう事ばかりでした。恋愛だけじゃなく
、他の事でも…。」

先生は気まずそうにアハハと笑った。

「…先生は…その人達の事が、好きだったんですか?」
「わかりません。」

私が小さく聞くと、先生は爽やかな声で即答した。
思わず先生をじっと見る。

「こんな人間が、優しい訳が無いです。」

先生はそう言うと、いつものようにニコっと微笑んだ。



その顔を見ていたら妙に心がざわついてきて、色々な思いが物凄い早さで頭の中を駆け巡っては、消えていった。
いつも穏やかに笑っている先生の顔がだんだんと、少し冷たい、哀しそうな笑顔に見えてくる。

笑顔の裏に隠れているであろう先生の本当の顔が、私には何も見えない。


ふと、先生の言葉を思い出す。

「誰からも必要とされた事があまり無かったので…」

その言葉の裏には、先生の様々な思いが込められていたのかもしれない…そう思った。


どうしようも無いもどかしさで、胸が一杯になっていた。

「…先生。」
「なんですか…?」
「……私は先生から離れません。」

何故だが気持ちが昂ぶって、私は思わず口に出していた。

「………私は先生が好きです。だから離れていったりなんてしません。」

先生は一瞬…本当に一瞬だけハッとした顔をした。
でもすぐにいつものニコニコ顔に戻って、大きくゆっくり、何かをかみ締めるように目を閉じる。


途端に後悔が襲ってきて、私は下を向いた。

自分でも、何でそんな事をこの場で言ってしまったのかが解らなかった。

いやに早い心臓の鼓動のせいで、体が自然と震えだす。
時間を戻せるなら、自分を引っぱたいて止めてやりたかった。


微妙な空気が流れる。
私の目にはいつの間にか、涙が溢れ出てきていた。

「……………僕は…ダメですよ。」

先生の穏やかな優しい声に、息が詰まった。
そう言った先生の、顔が見れない。

「……どうしてですか…?」

破れてしまいそうな喉の痛みを堪えながら、私はやっとで呟いた。

「……どうしても。」
「…答えに…なってません。」
「……僕の事を好きになったら、ダメです。」

泣き顔を見られないように、下を向いたまま聞き返した。

「…だからどうしてですか?」

先生の柔らかい溜め息が聞こえる。

「…どうしても、です。」



喉の痛みが激しくなる。
言いたい事、聞きたい事、山ほどあるはずなのに、私はそれを言葉に出来なくて黙り込んだ。
近くにいる先生が、とても遠くに感じる。

思い切って顔を上げて、私は先生を見つめた。
何故だか、目をそらしてはいけない気がした。

「……嫌です。」
「……ダメです。絶対にダメです。」
「嫌です。…無理です。」
「ダメです。」
「どうしてですか…」
「…ダメだからです……」
「答えになってません…!」

先生の顔が、だんだん苦しそうになっていく。

「…やめてください…」
「どうしてですか…!」
「やめて…」
「嫌です!」
「やめてお願いだから…」


押し問答を繰り返していると、もう笑顔は消えていた。
それどころか少し怯えた様な瞳で、苦しそうに私を見ている。

その事に気がついて、よく解らない痛みが胸をはしる。
それでも私は、何かを振り払うように首を振り続けた。

「嫌です私は先生が好きです!先生だって知ってた筈です!私はずっと…っ」


その瞬間、体がグイっと引っ張られる。


ふわっと先生の匂いがする。

私は先生の腕の中に居た。


ドキっとして、一瞬だけ世界が静かになる。

「…お願いだから……」

グイグイと、それでも優しく締め付けてくる腕に応える様に、私は先生の背中に手を回した。
抱きしめられた温もりと、拒否されている切なさで、心と体が混乱する。

「…どうしてですか…ダメって言ったりこんなことしたり…」

何故だろう…涙が止まらない。

「……わからない……」

耳元で先生の、苦しそうに震えた声がした。
胸が切りつけられているように痛んだ。

「……………だって俺は昔から知っていて……小さい頃から知っていて……………」

初めて聞くその声に、胸が張り裂けそうになる。

「せんせい…?」

先生は私の声なんて聞こえていないかのように、苦しそうに何かを呟いていた。

「ねぇせんせぇ…」

私は泣きながら先生をギュッと抱きしめた。

「ダメなんだよこんなの絶対……ダメなんだよ…なのにどうして…」

そう言いながらも先生の腕は、ギュウギュウと私を締め付けてくる。

私はもう何も言えなくなり、ただひたすら先生に抱きついていた。

抱き合ったまま、長い長い時間が流れた。



私は少し冷静になってきていて、先生はもう何も呟いていなかった。
時折、溜め息の様な深呼吸をする声だけが聞こえてくる。
少しでも体が離れてしまったら先生が消えてしまうような気がして、私は胸に顔を埋めた。

「…渚さん。」
「…はい。」

いつものように穏やかな、先生の声がする。

「……もう一緒には居られません。」

胸がギュッと痛くなる。
でも、なんとなく予想通りだったその言葉に、私は黙って頷いた。

「…明日…家に帰ります。」
「…そうしなさい。」

今まで固く締め付けていた先生の腕が、私から離れた。

「…もう遅いです。寝ましょうか…。」
「…はい。」

先生の顔を見ない様に下を向いたまま、私は小さく頷いて、スーッと静かに寝室へと入っていった。



翌朝。

私は携帯で6時になったのを確認すると、やっとの事で体を起こし、自分の荷物をまとめ始めた。
結局、一睡も出来ていなかった。

少ない荷物をまとめ終え、服を着替える。
大きく一回深呼吸をしてから、私は扉をそーっと開けた。

ソファから少しだけはみ出している先生の頭が見えた。

物音を立てないように慎重に部屋から出ると、先生の方をチラッと見る。
うずくまる様に毛布を体に巻きつけて横になっている先生は、どうやら眠っているみたいだった。

何故だか少しホッとしつつ、静かに玄関に向かう。

靴を履いた私は小さな声で「お邪魔しました」と言うと、玄関の外にでた。
早朝の生温い風が、気持ち悪かった。


久々の実家。
玄関の扉を開けると、ツンとお酒の臭いが鼻に付いた。

何だか嫌な予感がしながら、リビングに入る。

出て行った時のまま荒れ果てているその部屋で、母が横になってテレビを眺めていた。
酒瓶やビールの缶が、母の周りを取り囲んでいた。

「…お母さん。」

私が声をかけると、母はだるそうにこちらを見た。
そして声をかけたのが私だという事に気がつくと、ラリった様にニヤ〜っと笑ってフラフラしながら立ち上がる。

「なぎぃ〜〜♪」

母は倒れこむように私に抱きついた。

「なぎぃ〜おかえりぃ〜♪」

息がむせ返るように酒臭い。

「…なにしてるの?」
「なぎが帰ってこないからぁ〜テレビ見てたのお〜」

母はテレビの方を指差し、突然ギャハハと笑い始めた。
何がおかしいのか、まったくわからない。



「あいつ等はドコに行ったの…?」

私がそう聞くと、母はぐしゃっと顔を歪ませて今度は大声で泣き始めた。

「なぎぃい〜あんたはドコにも行かないよねぇ?行けないよねぇ?」

私にすがり付いて、泣きじゃくる。
母は壊れている……どこか他人事のように、私は思った。

「行かせないからねぇ…逃げようとしたら殺してやる…あんたを殺して私も死んでやるんだぁ」

何故かふと、昨日の先生の苦しそうな顔が頭をよぎる。

私の中で、何かがガラガラと崩れていく感じがした。


「…行かないよ……」

思っても無い事を口に出した。
私がそう言うと母はにっこりと微笑んで、私の体を今度は優しく抱きしめた。


私はもう、何も考えるのが嫌になってしまっていた。

夏休みが終わり、また学校が始まる。

先生とはあの日以来、連絡をしていない。


これから就職活動が本格的に忙しくなるからと、私はずっと続けてきたバイトを辞めた。
学校が終わると友達と出かけることも無く、ただ家で飲んだくれている母の世話だけをして過ごした。

毎日コロコロと機嫌が変わる母に翻弄されながら、それでも特に苦痛は感じずに、毎日が淡々と過ぎていった。
私の心は、あの日から何も感じなくなっていた。



高校最後の文化祭が終わった頃。

夏休み中に訪問した5社のうち2社から、その気があるなら席は空けて置くという、内定通知の様な連絡が届いた。

大手デパート内の飲食店と、中規模の一般企業。

私は内心、稼げればどちらでもいいや…という気持ちでその報告を聞いていた。

「まだまだ時間はあるから、ゆっくり考えて」という担任の言葉に従って、私はすぐに返事を返さなかった。


時間だけが気だるく過ぎていった。
ただそんな中でも漠然と、私の人生は元に戻ったんだな……なんて考えたりしていた。


2学期の終業式の後、私は担任に呼び出された。

いつもの様に職員室ではなく、会議室に呼ばれた事を疑問に感じながら扉をノックする。
会議室に入ると、なにやら担任が険しい顔で座っていた。

「あの…何ですか?」

何か悪い事したっけな?…そう思いながら質問をする。
先生は私を椅子に座るよう促すと、より一層険しい顔で話し始めた。

「…内定が取り消しになった。2社ともだ。」
「え!?」

頭が真っ白になる。

愕然としてる私をチラリと見た先生は、大きく溜め息をついた。

内定取り消し…正確にはまだ正式に内定通知書が来ていた訳ではないが、本来ならもうすぐ2社から届くはずだった。

ところが先日、2社から内定通知書は送付できないと相次いで電話が掛かってきたそうだ。

1社だけならまだしも、立て続けにこんな連絡が入るのはおかしい。
そう思った担任は、担当者に掛け合ってみた。
すると2社とも、私の素行がかなり悪いという密告の様な電話が掛かってきたのだと、そう言った。

具体的にどういう事を言われたかまでは教えてもらえなかったが、とにかくそんな人物を採用する事は出来ない…そう言われたそうだ。


話し終えると担任は「すまない…」と悔しそうに言った。
私は呆けつつも、黙って頷いた。




帰り道で色々考える。

一体誰がそんな電話をしたんだろう?
友人?私を嫌いな誰か?…まったくわからない。

これから先…どう生きていけばいいんだろう…

ただ漠然とした不安を抱えながら、私は家の玄関を開けた。

リビングに入ると、母はいつものように酒を飲みながらテレビを見ていた。

「お母さん。」

母がかったるそうに「ん」と返事をする。

「…就職、ダメになった。」

母の後姿が一瞬固まる。
でもその次の瞬間には物凄く嬉しそうな笑顔で、バッとこちらに振り向いた。

「あ〜そお〜?残念だったねぇ〜困っちゃったね〜アハハハハ」

妙に上機嫌だ…何かがおかしい。

私はハッとして自室に駆け上がり、机の引き出しを開けた。

「………」

入れていた筈の、2社から渡された封筒と担当者の名刺は、綺麗に無くなっていた。



様々な点が繋がる様に、私の疑問が結ばっていく。

私は脱力していく体を引きずる様に、階段を降りた。


「…お母さん。」

母は鼻歌を歌いながら、「なぁに?」と笑顔で返事をする。

「…何したの?私の部屋に勝手に入って、何をしたの?」

母が笑顔のまま固まる。

「机の引き出し開けたよね?中に入ってる物、どうしたの?何をしたの!!!」

私は思わず怒鳴りつけていた。
長いこと忘れていた怒りの感情が、ジワジワと沸いて来る。

母はしばらく目を右往左往させていたが、急に顔を歪ませ、何やら泣き叫びながら私にしがみついてきた。

「だってぇ!だってあの紙なんて書いてあったと思う!?」
「紙?」
「そうだよ!あの紙!!!!!!寮って書いてあったんだよぉ?寮って寮でしょぉおお!?」

意味が解らない。

「だったら何なのよ!!!」
「許さない!!!!ここを出て行くなんて許さない!!!!許さないんだからああああ!!!!!!」

血走った母の目が、私を睨みつけている。
スーッと怒りが抜けていく感じがした。

この人から逃れるなんて、私には出来ない事だったんだな……

悔しさと絶望で、私の思考はまた止まって行った。


絶望に打ちひしがれていても、時間だけはあっという間に過ぎていった。

3学期が始まり2月に入ると、3年生は徐々に登校日は少なくなっていく。

そんな中で周りの生徒達は、確実にある未来に目を輝かせ、キラキラしている。
私にはそれが眩し過ぎて、その数少ない登校日にも学校に行くことが少なくなっていった。


何も考えられず、何もやる気が起きず、私はいつの間にか笑うことも話すことも殆ど無くなっていた。

友人達は心配してくれていたが、でもそんな状態の私にどう接していいのか解らなかったらしい。
少しずつ少しずつ、私から離れていくのが解った。

私の人生はこれでいい。これでようやく元に戻ったんだ……

毎日毎日、ただひたすらそんな事を考えて暮らしていた。


卒業式を間近に控えたある日。

久しぶりの学校から戻ると、玄関には男物の綺麗な革靴が置かれていた。
中から母の嬉しそうな話し声と、男の人の声がする。

いつの間に男引っ掛けたんだ…?

そう思いながらリビングに入る。
母はもの凄い笑顔で私を見た。

「なぎお帰り〜あ、この人ね、なぎを迎えに来たんだよ〜」

はぁ?っと思いながら男を見る。
私と歳がそう変わらなく見えるチャラい感じの男が、これまた物凄い笑顔で私に頭を下げた。
つられて私も小さく頭を下げる。

「あー娘さん!お母さんに似て美人ですねー!これならもう余裕でオッケーっすよ。」

母と男が楽しそうに笑った。

「…迎えって何?」

かったるく母に聞く。

「なぎのね、面接してくれるんだって〜だから今から一緒に行ってきて〜♪」

はぁ?っと声に出すと、すかさず男が会話に入ってくる。

「いや〜お母さんとは昔っからの知り合いでね、渚さん…でしたっけ?就職に失敗して困ってるって電話が来たもんだから。」
「そうそう〜電話したの〜♪」
「それならウチで働くのはどうかなぁ?って思って、ウチの店長に話してみたんっすよ。」
「そうそう〜♪そしたらね〜、じゃあ今日面接に来いって言ってくれたみたいで〜」

母と男は楽しそうに話を続ける。

「そうなんすよ。だから今から一緒に来て、面接受けてください。店長待ってますから。」

何だか碌な予感がしない。

「…嫌です。」

私はキッパリ断った。
私がそう言うと、男はさっきまでの笑顔から一変、今度は物凄く険しい顔をした。

「…困るんすよねぇ来てくれないと。わざわざ店長まで待たせてますからねぇ。」

男がギロリとした目で、私と母を交互に見る。
母は焦った様に私に叫んだ。

「さっさと行って来ればいいの!早く用意して!」

行かなきゃ何だかエライ事になりそうだ…
私は諦めて頷いた。

直ぐに部屋に戻って制服から着替える。
下に戻るともうすでに男は消えていた。

「早く行って〜外の車で待ってるって〜」

私は母を無視して外に出ると、男が待っている車に乗った。

20分くらい走った車は、小さな雑居ビルの前で停まった。

「オレ、車置いてくるんでちょっとここで待っててください。」

私は言われるがままに降りると、辺りを見渡した。
場所は地元で有名な風俗街。
何となく予想通りの光景に、私は特に驚く事も無く男を待った。

「いや〜お待たせしました。じゃ、入りましょっか。」

直ぐに戻ってきた男に促され、私はビルに入った。
ビルのタバコ臭い空気が気持ち悪い。
階段を降りてすぐの扉を開けると、男は「てんちょ〜〜〜!」と大声で叫んだ。


男の後に続きながら、部屋全体を見回す。
部屋の真ん中に小さいステージがあって、その周りにはフカフカの少し汚いソファが並べられている。

ステージ脇の小さな扉から、ガラの悪そうなヒョロリとした男が顔を出した。

「あ、店長!連れて来ましたよ〜。」

男がヘラヘラと笑いながら言うと、店長らしき男はじろりと私を見た。
そしてヘラ男を手招きで呼び寄せ、なにやら小声で話をしはじめた。
へラ男は何度か頷くと、走って私の元に戻ってきた。


「今からそこのステージに立って、少しだけ歌ってもらいますね〜」

私はビックリしてヘラ男に聞き返す。

「歌ですか?」
「そうっすよ〜なんでもいいんで、テキトーに歌ってください。」

私は促されるまま、ステージの上に立った。
適当に、当時流行っていた曲を歌う。

歌い始めて早々に店長は私を止めた。

「わかった。歌はもういいから、脱いで」

言われて思わず体が固まった。

「ほら、早く脱いで。下着もね!」

ヘラ男の焦った様な声がする。

あぁ…やっぱりこうゆう事か……私はなかば半笑いで服を脱いだ。

店長とヘラ男は、じーっと私を見ている。
不思議と、恥ずかしいとも嫌だとも思わなかった。

「OK、それならいけるね。もう帰っていいよ。」

店長はそういうと、またさっき出てきた部屋に戻っていった。
ヘラ男が嬉しそうに近づいてくる。

「いや〜よかったね!あ、もう服は着ていいよ。家まで送るね。」

私はまた、そそくさと服を着た。


「渚さん、来週卒業式っすよね?終わったら連絡ください。待ってますから。」

私を家の前で降ろすと、ヘラ男はそう言った。
私は返事をせずに車のドアを閉めて、さっさと家に入った。



「おかえりなぎぃ〜♪どうだった〜〜〜??」

上機嫌で話しかけてくる母を無視して、足早に部屋に戻る。
久しぶりに部屋に鍵を掛けると、私はベッドに突っ伏した。


母がまた、わざわざ私の部屋の前まで来てギャーギャー叫んでいる。

私は鬱陶しくなって、MDのイヤホンを耳に付けた。


もうこのまま消えてなくなっちゃいたいな…


ひたすらそんな事を考えながら、目を閉じた。

卒業式が終わる。

当たり前のように、母は出席しなかった。
友人達は皆、泣いていた。


式が終わってすぐに少しだけ懇親会のようなものが予定されていたのだが、私はそれに出る事無く高校をあとにした。


家に戻るのがなんとなく嫌で、あてもなく街中をブラブラ歩く。

街の賑やかな喧騒が耐えられなくて、私は人気の少ない小さな公園に向かった。
その公園は地元では有名な心霊スポットで、街を一望出来る綺麗な場所なのに、普段から誰も近寄ることが無かった。


どっかりとベンチに腰を下ろす。
私は携帯の電源を落とすと、ただボーっと空を眺めた。



思えば最初は天国、最後は地獄の高校生活だった。

先生と再会出来た事、大事な友達が沢山出来た事……色々な思い出が、頭を駆け巡る。


何だか疲れちゃったな……

そう思いながらボーっとしていると、空はあっという間に暗くなっていった。

辺りが完全に暗くなった所で、私は時間を見るために携帯の電源を入れた。

時間はもう6時過ぎ。

着信履歴は母からのもので埋まっていた。
ボーっとしながら履歴のページをめくっていく。
不思議な事に5時を過ぎた辺りで、母からの電話はピタッと止まっていた。

あーあ…やっちゃったー…なんか色々と大変な事になってるんだろうな…

そう思いつつも、まったく家に戻る気が起きない。

なんとなくそのまま無心で履歴をめくり続けていると、最後の方で堺先生の名前が出てきた。

それを見て、指が止まる。



先生とはあの日以来、連絡を取っていない。
メールが来ることも、こちらから送ることも無かった。

ふと、先生の言葉を思い出す。

ー 人って結局、いつかは自分から離れていくじゃないですか… ー

離れないと決めたはずなのに、私は簡単に先生から離れていった。
その時は本気で離れないと思ったはずなのに、結局は先生の言うとおりになっている。
先生の悲しそうな顔が、思い浮かんだ。

瞬間、離れるのが正しかった事なのだと、私は自分に言い聞かせた。

こんな自分の泥沼のような人生に、もう先生を巻き込んじゃいけない。
そう思いながらも心のどこかでは、先生に会いたくて、このまま離れたくなくて、ダダを捏ねてる自分が居る。

ダメ…でも…いや絶対にダメだ……私は久々に味わう心の痛みに、葛藤していた。

長い長い葛藤のあと、私は思いついた。

最後に一度だけ、先生に電話をしよう……それで心の踏ん切りをつけよう…と。

よくわからない緊張が、私を支配する。
コレが最後。と何度も自分に言い聞かせながら、私は思い切って携帯のボタンを押した。


「…………」

暫らく鳴らしても、先生は電話に出ない。

やっぱりそうだよな…出るわけ無いよな。でもかえってこれで踏ん切りがついた…。

そう思いながら電話を切ろうとしたその時、呼び出し音がブツっと急に止まる。

「……もしもし…」

先生の声がした。

「……もしもし…渚さん?」

久しぶりの柔らかい声に、胸が一杯になる。

「…お久しぶりです…先生。」

何とも言えない懐かしさで、私の心は一瞬で穏やかになっていった。

「お久しぶりです。元気にしてましたか?」
「はい。…先生こそ、元気でしたか?」

昔のように笑いあう。

「元気でしたよ。…渚さんは今日卒業式でしたよね?おめでとうございます。」
「…ありがとうございます。」

卒業という言葉に少しだけ現実を思い出して、胸が痛む。

「どうしたんですか?急に。」

先生はいつもと変わらぬ明るい声で、私にそう尋ねた。
先生の言葉に大きく一回深呼吸をして、私は勇気を出して話し始めた。

「…これが最後のつもりで、先生に電話をかけました。」
「……最後?」
「はい。…先生に電話を掛けるのも…今日で最後にします。」

電話の先で先生が黙り込む。

「…先生には沢山助けてもらいました。だから…今までありがとうございました。もう迷惑はかけません。」


先生からの返事は無い。
言い終えた私は、胸の痛みを必死で堪えていた。
自然と涙が溢れてくる。

「…今、どこにいますか?」

長い沈黙のあと、先生は私にそう尋ねた。

「…どうしてですか?」

私は泣いているのを悟られないように、明るく聞き返した。


またほんの少しの沈黙の後、先生は小さく「だって…」と言った。

「……これで最後にしますって言われて、しかもその連絡が電話だけ…っていうのは、なんか嫌じゃないですか。」

私は何も言えなかった。

「…これでもうサヨナラするのなら、最後に会って話をしましょう。僕はそうしたい。」

私は少しだけ考えて、「〇〇公園に居ます。」と応えた。
先生は場所にちょっと驚いたようだったが、「わかりました。すぐに行きますから。」といって電話を切った。



あの時のように、泣いてる顔なんて絶対に見せない。

私はそう決心をして、ひたすら何も考えないようにじっと夜景を眺めた。


案外すぐに涙も止まり、不思議と穏やかな気分になっていた。

これでもう大丈夫…あとは何があっても普通に接していればいい…

心の中でひたすらそんな事を繰り返していると、先生は本当にすぐにやってきた。

「おまたせしました。…やっぱりココ、なんだか怖いですね。」

そう言いながら、私の横にちょこんと腰をかけた。
ラフなスーツ姿の、小学校の時と何も変わらない先生を見ていたら、懐かしい気持ちがこみ上げてくる。
私は少し笑って、「そうですね。」と返事をした。



「…仕事、あれからどうなりました?結構色々と見て回ってましたよね?」

胸がズキッと痛んだ。

「全部、落ちちゃいました。」

私は努めて明るく答える。
先生は凄く驚いた顔をした。

「なんで?あんなに頑張ってたのに…」
「ちょっと色々ありまして…残念でしたけど。あ、でももう仕事他に決まったんですよ。」
「そうなんですか?…ならよかった。どんなお仕事?」

胸がどんどん痛くなっていく。

「母から紹介されて…脱いで歌うお仕事だそうです。」

私が笑いながら言うと、先生は私を見ながら固まった。

「脱ぐ…って…」
「はい、歌いながら裸になるそうです。まいっちゃいますね。」
「…ストリップって事ですか?」
「多分、そうだと思います。結局私にはそういう仕事しかなかったみたいです。」

私は先生の顔を見ないように前を向いて、アハハと笑った。

もう2度と会う事はない。
このまま嫌われてしまっても構わない。
いや、むしろ嫌われて軽蔑されてしまった方が、気が楽だ。

私は話しながら、そんな事を考えていた。

「そんな仕事を始めるし、私はどんどん先生達の世界から離れていきます。」
「……。」
「だからこれ以上、先生を巻き込みたくないし、迷惑かけたくないんです。私は先生に、幸せになって欲しいから。」

言い終わってホッと溜め息をつく。
先生が隣で固まっているのがわかった。

これでいいんだ…

昔のように痛くなる胸の締め付けを我慢しながら、私はただじっと夜景だけを眺めた。


そのまま暫らく、静かな時間が流れる。
先生は相変わらず固まっていて、私はじっと前だけを向いていた。

このままこうしていたら、私はきっとまた泣いてしまう…

そう思って、私はバッと立ち上がった。
固まっている先生に振り返る。

「もう行かないと。今日、卒業式が終わったらお店の人に電話する筈だったんですよ。…無視して今サボっちゃってますけど。」

私はニコニコしながらそう言った。
先生はニコリともする事無く、少しだけ下に俯いた。

「…最後に会えて嬉しかったです。…実はずっと会いたかったから。」

そういい鞄に手をかける。

「それじゃ、先生、お元気で…」

先生の顔を見ないようにしながら、私は先生に背を向ける。
ここから離れるのを拒否する気持ちを懸命に振り払いながら、私は歩き出そうとした。

その時、急にぐっと腕を引っ張られる。

驚いて振り返ると、先生は下を向いたまま、私の腕をしっかりと掴んでいた。


また暫らくの沈黙。
暗い中、下を向いている先生の表情は見えない。

「あの…」

言いかけた私を遮るように、先生は静かな声で呟いた。

「……理由はそれだけ?」
「え?」
「…僕から離れる理由はそれだけ?」

何を言われているのかが解らず、混乱して体が固まる。

「…僕の事が嫌だからとかじゃなくて、迷惑をかけたくないからとか……理由はそれだけ?」

下を向いたままの、先生の冷たい声が怖い。
私は小さく「はい」とだけ返事をした。

「…………………あれから…色々考えたんですよ。」

先生が溜め息まじりにそう言った。
あれから?何の事?さらに混乱する。

「何を…ですか?」
「貴女と僕の事。」

何を話しているのかがようやく解って、私の胸はドキッとした。

「…貴女に好きだと言われて、正直あの時は凄く困りました。でも、何となく気がついてはいたんです…昔から。」

私は黙って頷いた。

「僕は教師で、貴女は教え子だ。どうにかなったらいけない。そう思いながらも、貴女に頼られると心配でついつい手を出してしまう。」
「……。」
「気がかりで、可愛くて…放っておくとすぐボロボロになって戻ってくる。」

先生はすっと、腕の力を緩めた。

「僕はずっと昔から、貴女の事が好きだったんですよ。気がつかない振りをして、妹のようだって言ったりして、ずっと誤魔化してたんです。」

先生は私の腕をそっと放すと、顔を上げてそのまま前を眺めた。

「でも僕は貴女よりずっと年上だ。自分の気持ちに気がついても、何もすることは出来ない。貴女がだんだん離れて行って、あぁこれでいいんだと…ず
ーっと言い聞かせました。本心はすっごく嫌でしたけどね。」

先生が遠くを見つめながら小さくハハッと笑う。
胸が苦しくなった。

「今日だって最後って言われて…僕も諦めるつもりで来たんですよ。貴女にはこれから未来がある。ずっと僕の傍に居させてしまったら、僕は貴女の未
来を摘み取ってしまうかもしれない。貴女が僕から離れたいって言うならそれが一番なんだと…そう…覚悟してきたのに…」

先生はそういうと、また黙って下を向いた。

塞き止めて仕舞い込んでいた思いが、ガンガンと溢れ出てくる。

「私だって…」

息が詰まる。

「私だって…覚悟してきたのに…どうしてそんな事言うんですか……一生懸命我慢してきたのに…どうして…」

泣かないと決めた思いは、ぽっきりと根元から折れた。
私は立ったまま、涙を堪えきれなくなって下を向いた。

先生はスッと立ち上がると「あーあ…」と溜め息をつきながら、私を抱きしめた。


気持ちが抑えきれなくなって、先生にしがみつく。
先生はそれに応えるように、更に強く私を抱きしめた。

「……僕が好き?」

声が出せずに、大きく頷く。

「…本当はこのままずっと一緒に居たい?」

大きく何度も何度も頷く。

「じゃあもうずっと一緒に居ればいい……僕も渚と一緒に居たい。」


やっと言って貰えたその言葉に、私は嬉しくて切なくて、声をあげてわんわん泣いた。


先生と出会ってから、もう7年が経っていた。



私はそのまま暫らく泣き続け、先生は子供をあやすように私をずっと抱きしてめていた。
先生の腕の中が優しくて暖かくて、涙は次第に止まっていく。

ようやく私が泣き止んだ時、先生は「帰りましょうか…」と優しく言った。

「…帰るって…どこにですか?」

呆けた頭で聞き返す。

「帰る場所はもうひとつしかないでしょう?」
「…ひとつ?」
「アハハ、まぁいいや。…さ、帰りましょ。」

先生は体をゆっくり離すと、私の手を握った。
そして地面に放り出されていた私の鞄を拾うと、そのまま手を引き歩き始めた。


車に戻ると、先生は珍しくメガネを掛けた。

普段はメガネが汚れた時すぐに拭けないのが嫌だからと、先生はコンタクトをしている。

コンタクトにメガネ…?

私が不思議そうに先生を見ていると、それに気がついた先生は恥ずかしそうに頭をかいた。

「…さっきの公園で、コンタクト落としちゃったみたいで…」
「え?じゃあすぐに探しに行かないと…どの辺に落としたんですか?」

先生はダダを捏ねてる子供みたいに、ブンブンと首を振った。

「嫌です。それにあんな小さい物、見つけられる訳ないですよ。」
「でも…」
「……怖いから嫌です。あそこ、何か出るって有名じゃないですか…」

ちょっとだけ泣きそうな顔をしている先生と目が合う。
私は思わず笑ってしまった。

そんな私の様子を見てなんだか少しホッとした顔をすると、先生は車を走らせた。


予想通り…というか、当たり前のように先生の家に着く。

去年の夏出て行った時となんら変わらない部屋の様子に、私は何故だか少しホッとした。

先生はバタバタと寝室に入っていくと、綺麗に畳まれた服を持ってすぐに出てきた。

「まだやることがあるので、学校に戻ります。お風呂でも入ってサッパリしときなさい。」

ハイと頷くと、先生はニコっと笑って私に服を手渡した。

「じゃあ行ってきます。」
「いってらっしゃい。」

先生は慌しく家から出て行った。

手渡された服を見てみる。

初めてココに来た時に渡された、少し大きなTシャツとハーフパンツ。
私はなんだか少し恥ずかしくなって、一人でケラケラと笑ってしまった。

その日から私は、また先生と一緒に暮らし始めた。
相変わらず先生はソファで、私はベッドで、前と変わりなく別々に眠る。

以前と同じように先生の家で過ごしていると、荒んでいた心が平常を取り戻してくる。
実家の事を考えると憂鬱になったりもしたが、私はもうあそこには戻らないんだと自分に言い聞かせた。

先生は小学校の年度末で、忙しそうに過ごしていた。
卒業生の副担任になっていたようで、帰宅も夏休みの時より大幅に遅くなっていた。


そんなあんまり顔を合わさない生活をして5日後。
卒業式も無事に終わり、小学校は今日から春休み。

久々に少し早く帰ってきた先生と夕食を食べ終えて後片付けをしていると、先生はちょっと真剣な声で私を呼んだ。
返事をして、先生の前に座る。

「明日、渚さんのお母さんに会いに行きますよ。」
「え!?」


私は驚いて聞き返した。

「…母に…ですか?」
「はい。やっぱりこのまま、何も言わずにいるのはちょっと気が引けますし。」

体の奥底が、嫌悪感でゾワゾワする。

「でも…あの人には何も言わなくて、このままでもいいと思うんですけど…」
「やっぱりそういう訳にも行きませんよ。きっと渚さんの事を探してるでしょうし…」

私は首を振ると、それだけは絶対に無いと先生に言った。

「探してる訳がありません。多分家で飲んだくれてます。」
「まぁそうでしょうけど…ただ、違う意味では探してるかもしれませんし…」

違う意味で探している…私はその言葉にハッとした。
あそこまで執念深く自分を傍に置こうとした母だ。
確かに心配とは別の意味で、私を探しているかもしれない。

「……わかりました。」

私は暫らく黙りこんだ後、小さく頷いた。

「大丈夫、何があっても貴女には指一本触れさせませんよ。だから安心して。」

先生は私の手を両手で包むと、ニコッと笑ってそう言った。

翌朝。

前日に不安と緊張でなかなか寝付けなかったせいで、私はいつもより遅く目を覚ました。
時間は10時過ぎ。

慌てて飛び起きリビングを見ると、先生の姿はどこにもなかった。

あれ?っと不思議に思いつつ、顔を洗って出かける準備をしていると、先生はなにやら大きな紙袋を持って帰ってきた。

「あぁ、おはようございます。しっかり寝れたみたいですね。」

ちょっと恥ずかしくて「すみません…」と返事をすると、私は紙袋に目をやった。
視線に気がついて、先生がガサゴソと紙袋を漁る。

「渚さん制服しか持って無かったでしょう?とりあえず買ってきてみました。」

そういいながら、何枚かの女物の洋服を出す。
パーカーに何枚かのシャツにスカートとジーパン…
いずれも黒系統の服でお世辞にも可愛いとは言えなかったが、その選択が先生らしくって私はフフっと笑った。

「サイズがよく解らなかったから店員さんに身長とか大体で説明したんですけど…大丈夫かな?」

先生は恥ずかしそうに笑う。
私はその中からジーパンとパーカーを手に取って広げると、先生に向かって頷いた。

「あぁよかった。流石にその恰好で行かせる訳にはいきませんから。」
「じゃあ私、着替えてきます。」

立ち上がった時、まだ紙袋の中にもうひとつだけ小さな紙袋が入っているのに気がついて「それは?」と先生に質問する。

「あぁこれ?手土産です。会いに行くのに手ぶらって訳にもいかないでしょう?」

私は「そんなに気を使わなくても…」と言って苦笑いをした。

実家に向かう車の中で、私は不安と緊張で押しつぶされそうになっていた。

先生はラジオから聞こえる曲に合わせて、のん気に鼻歌を歌っている。
このまま家に誰も居ないとか…ないかなぁ…
そんな事を考えていると、車はあっという間に実家に到着した。

「さ、行きましょうか。」

そう言われてドキドキしながら車を降りる。
実家のドアに手を掛けると、私は暫らく固まってしまった。

先生がノブを握っている私の手の上に、後ろからスッと自分の手を乗せる。

「大丈夫だから。ね?」

私は頷くと、そっと静かに扉を開けた。


相変わらず、テレビの音だけが聞こえる。

私はゆっくり靴を脱ぐと、先生が入って来た事を確かめてからリビングに進んだ。


「…お母さん…」

私がそう声をかけると、相変わらず酒瓶に囲まれて横になっていた母は、かったるそうにこちらを見た。

そして私だと解ると、なにやらギャーギャー叫びながら物凄い速さで立ち上がり私に向かってくる。

ビクッとして身構えると、私は凄い力で後ろに引っ張られた。

驚いて硬直したまま、恐る恐る前を見る。

後ろにいたはずの先生が、母の振り上げた両手をがっしりと掴んでいた。
先生の体越しに、先生を見つめている母のひどく驚いた顔が見えた。

「…お邪魔します。」

いつものようにニコニコしてるであろう先生の声がした。
腕を掴んだまま先生はジリジリと前に進み、ダイニングテーブルの椅子に母をドスッと座らせる。

母はよっぽど驚いたのか、抵抗する事無く大人しく椅子に座っていた。

先生は座っている母から2.3歩後ずさると、ゆっくりと板の間に正座をした。

「さて……渚さん、そこの紙袋持ってきて。」

そう言いながら私に振り返り、自分の隣の床をポンポンと叩く。
私は慌てて紙袋を取ると、先生の横におひざまを付いた。

何やらずっしり重たい紙袋を渡しながら、先生の顔をそっと見る。

相変わらずニコニコしている先生は、「ありがとう」と言うと真っ直ぐ母に向きなおした。

「初めまして、堺といいます。お嬢さんを戴きに参りました。」

母と私はビックリして先生を見る。
先生は動じる事無くニコニコしながら母を見つめている。

一瞬の間を置いて、母は「はぁぁぁあ!?」と大きな声を出した。

「ですから、お嬢さんを戴きに参りました。」
「あんた、なにいってんの?」

母が不機嫌そうに先生を睨みつける。

「お嬢さんはもう大人です。いい加減、開放して頂きたいと思いまして。」
「はああああああああ!?!?」

先ほどより大きく母が言い返した。

「大人だからどうしたって!?私はソイツのせいで人生台無しになったんだ!勝手に出て行かれたら困るんだよ!!」

青筋をビキビキと立てながら、母が絶叫する。
それでも先生はニコニコしながら話を続けた。

「困る?どうしてですか?お嬢さんが居ても居なくても、お母様の人生は変わらないでしょう。」
「私はソイツのせいで山ほど借金したんだよ!!!!それなのにノコノコ出て行くだぁ!!??」
「借金?借金があるからお嬢様が出て行かれると困るんですか???」

母の声が大きくなる度、私は今にも飛び掛られそうでビクビクしていた。

「お嬢さんはアナタの奴隷じゃありませんよ。それに…お嬢さんが自分で働いて生活していたのを、僕は知っています。」

母は何も言い返せないのか、ワナワナと唇を震わせながら先生を睨みつけている。

「母子家庭ですから、小中と学費は免除だったでしょう。それ以降の高校は、奨学金だったと伺っていますが。」

先生はわざとらしく首をかしげた。

「借金があったとすると、お嬢さんに関わっているのはその時の奨学金だけですよね?返していくのはお嬢さん本人です。お母様には関係ないですから安

心なさってください。」

「それ以外でもかかってんだよ!!!!!!私は18年間ソイツ育ててきたんだ!!!!!」
「…生活費……という事ですか?」
「そうだよ!!!!!」

母は勝ち誇ったようにニヤリと笑う。

「それに今まで苦労してきたんだ。ソイツには私の面倒見る義務があるんだよ。」
「義務……ですか。…要するに、お嬢さんが家にお金を入れなければ生活が成り立たない…そういう事ですか?」

母はニヤニヤしながら頷き、先生の顔をじーっと見ている。
が、次の瞬間急に訝しげな顔をしたかと思うと、驚いたように先生を指差した。

「あんた…確か渚が小学校の時の……」
「え?あ、はいそうですよ。」

先生はニコニコしながら頷いた。

「ただのロリコン野郎じゃねーか!!!!!」

母は爆笑した。
何故か先生も一緒になって笑っている。
状況がカオス過ぎて、意味が解らない。

「ノコノコ出てきて首突っ込んでんなよ。さっさと出てけロリコン野郎。」

母はニヤニヤしながらそういった。

「嫌です。」

先生はニコニコしながらキッパリとそう答える。
母の顔はまた一瞬で般若のようになった。

「テメェには関係ねーだろ!さっさと帰れ!!!」
「ありますよ。さっき言ったでしょう?お嬢さんを戴きに来ましたって。」

先生はわざとらしく、ヤレヤレ…といった感じで笑いながら返事を返す。
そんな様子に、母の怒りはますます上っていくみたいだった。

「渚をもらうだぁ?」
「はい。ですからお嬢さんをお手元から離して頂きたいんです。」

先生はニコニコしている。
母は睨むように私と先生を交互に見ている。
私は母と目を合わすのが怖くて、視線をそらした。

「人の男寝取るような、こんな糞女が欲しい…ねぇ?」

母が馬鹿にしたように、嫌味ったらしく言った。

「あんたさ、私が今なんでこんなになってるか解ってんの???」

先生が首をかしげる。

「コイツが私の旦那を寝取ったんだよ。自分の父親になった奴を…汚らしいこの糞女が。」
「…それで?」

先生がキョトンとした感じに聞き返すので、母がまた段々とイライラしていくのがわかる。
私は居なくなった男の事を思い出し、吐き気と嫌悪感でたまらずに下を向いた。

違う!寝取ってなんかいない!私はあんたの男に襲われたんだ!

そう思っても、何故だか口に出せない。
私はただ下を向いて、じっと堪えている事しか出来なかった。

母がいやらしい声でマッタリと話し続ける。

「やっと人生やり直せると思ったらコイツに全部ぶち壊されたんだよ。コイツのせいで…」

下を向いていても、母が私を睨みつけているのがわかる。
好き放題言われて悔しいのに、訳のわからない喉の痛みが邪魔をして声が出せない。

「私は全部失ったんだ。コイツのせいなんだから、これから償っていくのは当然だろ?」
「償い…ですか。」
「そうだよ。たんまり稼いで楽させてもらわなきゃ、ねぇ?渚。」

甘ったるい声で名前を呼ばれて、私はビクっとした。

「大事な大事なお母さんだもんねぇ?自分のせいでお母さんこんなになっちゃったんだもんねぇ?」

語尾が段々と、いつもの母に戻っていく。
頭にガンガンと響いてくるその声に、私はまた考えるのが嫌になって来る。
頷かなきゃいけない……だんだんとそう思えてくる。

「なぎはお母さんが可哀相だねぇ?お母さんを幸せにしてあげなきゃいけないよねぇ?」

母の声が本格的に猫撫で声になった時、先生はハァっと大きく溜め息をついた。

「…話は以上ですか?」

先ほどまでとは別人の様な、先生の冷たい声がした。

その声が凄く怖くて、私はそっと先生を見た。
先生はゾッとするような薄ら笑いで、母を見つめている。

「はぁ?」
「話は以上ですか?このまま不幸自慢をされ続けても困りますので。」

先生が鼻で笑う。
母はまた、般若のような顔に戻っていった。

「不幸自慢…?」
「ええ、そうですよ。聞いていたら全部自業自得じゃないですか。お嬢さんはアナタのせいで、もっと辛い思いをしていますよ。」
「はあああああああ!?」
「結局のところ、アナタは金づるが欲しいんですね。何だかんだ色々言っていますが、僕にはそうとしか聞こえません。」
「…わかった風なこと言ってんじゃねーぞ?」

母が今にも飛び掛りそうな勢いで、拳を握り締めている。

「わかりますよ。僕はアナタの様な人を、よく知っていますから。」

母の歯軋りが聞こえる。

「いくら欲しいですか?1億でも2億でも、好きなだけ差し上げますよ。アナタが彼女を解放してくれるなら。」

先生の冷たい声に、その場が凍りつく。

そんな大金をいとも簡単に口から出す先生に、私は少し恐怖を覚えた。


母は予想もしなかった言葉に、戸惑って固まっているようだった。

「借金もある…そうおっしゃっていましたよね?もしかして〇〇さんのお店にですか?」

固まっていた母はその名前を聞くと、一瞬だけビクッとした。

「彼女から仕事の話をされてまさかとは思いましたが…〇〇さんのお店ですよね?この辺りでストリップやってるのはそこくらいですから。」
「それは…」

母はさっきまでの威勢が嘘のように、急に大人しくなった。

「大方、前払いで幾らか貰ったんでしょう。彼女が居なくなって困るのは、そのせいじゃないんですか?」

〇〇さんって誰?あのお店のガラの悪い店長?
二人の間では淡々と話が進んでいく。
私は一人だけついていけなくて、混乱していた。

「〇〇さん、怖いですからね。このまま彼女が居なくなってしまったら、何をされるかわからない。」

母は怯えた顔をして床を眺めている。

「…幾ら、頂いたんですか?それさえ返せば、もうアナタが困る理由は何処にも無くなります。」

だが、母は黙ったまま答えない。
先生はまた大きく溜め息をつくと、持ってきた紙袋を母の前に差し出した。

「2千万入っています。お嬢さんを戴きに来た手前、結納金だと思って持って来ました。」

2千万!?

私と母は驚いて先生を見た。
先生は相変わらず冷ややかに微笑みながら、母だけをじっと見つめていた。

「いくらなんでも、それだけあれば借金返せますよね?」

母は呆然としながら、小さくコクリと頷いた。

「日取りの取り決めも無く、勝手に持ってきてしまい恐縮ですが、どうぞお納めください。」

先生が頭を下げる。
私は慌てて止めに入った。

「先生ダメです!そんな大金…」
「ダメじゃありません。これは結納金なんですから、普通の事ですよ。」

私を遮るように強く言うと、先生はニコッと微笑んだ。
でもすぐ冷ややかな笑顔になって、また母をじっと見つめる。

「それにこれだけあれば、当面は生活していけますね?アナタは僕とさほど歳も変わらない。まだいくらだってやり直しがきくでしょう。」

母は何も答えない。

「正直、僕はアナタが許せません。でも渚さんにとっては大事な母親のようです。このまま捨てるように逃げても、彼女はずっと後悔し続けるでしょう。
だから僕はアナタが憎くても憎みきれないし、捨てたくても見捨てられないんですよ。」

自分でも気がつかない振りをしていた本心を見透かされて、私の胸は何故だかグッと痛んだ。
黙り込んでいる母に目をやると、母も複雑な表情で私を見つめていた。

「…それで身の回りを整理して…やっていけますね?」

先生が言い聞かせるように言うと、母は微かにコクリと頷いた。

母が頷くと、先生はやっといつもの顔に戻った。

「じゃあ、これでもう大丈夫ですね。……渚さん。」

急に名前を呼ばれて、私は慌てて返事をした。

「自分の荷物をまとめなさい。それから…」

先生は正座のまま、辺りをぐるりと見渡す。

「少しだけ、ココを片付けてあげなさい。このままじゃ、いくらなんでも酷い有様ですから。」

え?っと思って先生を見る。
相変わらず穏やかにニコニコ笑っている先生の顔を見ていたら、私の心も不思議と穏やかになっていく。

私は呆けている母をチラリと見ると、ハイと微笑み返した。

「それじゃあ僕はちょっとだけ出掛けて来ます。すぐに戻りますから、その間にやっておいてくださいね。」

そういうと先生は、床に置いてある紙袋から見た事の無い大きい札束を取り出し、そそくさと玄関の方に歩いてく。

「ちょ!ちょっと先生!」

私は慌てて先生を追いかけた。

「どこにいくんですか?」
「借金、返してきます。お母さんはもう何もしてこないでしょうし、一人でも大丈夫でしょう。」
「返しに行くって…先生がですか?」

私は驚いて聞き返した。

「はい。だってさっさと返しちゃったほうがいいじゃないですか。」
「でも…」
「大丈夫、〇〇さんとは知り合いですから。心配しないで。」
「知り合い!?」

あのガラの悪い店長と、人の良さそうな先生が知り合い…!?
私はさっきよりもっと驚いて聞き返した。

「そうですよ。僕、こう見えて顔が広いんですよ。まぁ詳しいことは後で話しますから。あとは宜しく頼みます。」

先生は驚きの余り固まっている私の頭を撫でると、そそくさと外に出て行った。

玄関の閉まる音で我に返り、そーっとリビングに戻ると、母はまだ椅子にじっと座っていた。
どうしていいのかわからず、私は部屋を片付け始めた。

酒瓶を拾うたびに、むせ返るような臭いで吐き気がする。

私は我慢できなくなって、台所の窓を開けた。
ふとシンクの中を見る。
私が出て行ってから何も食べていなかったのか、シンクの中は意外と綺麗だった。

あらかた片付け終わったところで、私は床に雑巾をかけ始めた。

「……なぎ…」

一心不乱に雑巾をかけていると、母が私を小さく呼んだ。

手を止めて、ゆっくりと母を見る。
母は泣きそうな顔でぼーっと私を見ていた。

「…なに?」

私が聞き返しても、母は「…なぎ…」としか答えない。

私は立ち上がって手を軽く叩くと、そっと母の前にしゃがみこんだ。

「…なぁに?」

母を見上げながら、優しく聞く。
途端、母の顔がクシャッと歪んで、涙をポロポロと流し始めた。

私は何故か急に切なくなって、母の手をそっと握った。

「なぎ…なぎ…」

母はそう言いながら、泣き続けている。

いつの間にか、母に対する怒りも嫌悪感も消えていた。

私は泣いている母をそっと抱きしめた。

母は私にしがみついて、泣き続けている。

「なぎ……なぎ…」

泣きながら、ひたすら私の名前を繰り返している。

「…いいんだよ。もういいから…」

私は宥める様に、母の背中をさすり続けた。


暫らくそうしていると、母の鳴き声はだんだんと小さくなっていき、私はそっと母を放した。

泣いて目を真っ赤にしている母の表情は、心なしか穏やかに見えた。
今までの母とは別人の様に、優しい目で私を見ている。

私はそんな母にニッコリと微笑み返すと、「掃除…しよ?」と言った。
母も少しだけ微笑んで、小さく頷いた。

母と無言で掃除を終え、私は荷物をまとめに2階に上った。

たった5日帰ってきてなかっただけなのに、随分と懐かしく感じる。
あらかた身の回りの物をカバンに詰め終わると、私はどっとベッドに横になった。

大きく深呼吸をすると、吐いた息の分だけ毒気が抜けていくようで、心地よくなっていく。

私は、様々な事を思い出していた。


小さい頃、母がまだ優しかった時の事。

いつからかイジメられるようになり、暗くなるにつれて母との会話が無くなっていった事。

疎遠になっていきつつも、何故か小学校の卒業式に母は出席していた事。


ふと、母は寂しかったんじゃないかと、そう思った。

18で私を産み、世間からは好き放題言われ、実の両親からも死ぬまで会っては貰えなかった。
そんな中で母は、私と同じように荒んで行ったのではないか…
先生のように、優しく包み込んでくれる人が居たら、母の人生も別のものになっていたのかも知れない…

なんとなく、そう思った。

今まで漠然と母親としか見えていなかった母が、寂しい一人の女性に思えてきて、少しだけ切なくなる。

でももう大丈夫…母はさっき穏やかな顔をしていたじゃないか……きっとこれからはもう大丈夫…


私はそう確信してガバっと起き上がると、鞄を手に取り再びリビングに戻った。

リビングで母と二人静かに座っていると、玄関が開く音がした。
急いで玄関に向かう。

「お待たせしました。用意、出来ましたか?」

先生は私を見ると、ニコッと笑ってそう言った。

「はい、掃除もちゃんとしました。…先生は大丈夫でしたか…?」
「はいこの通り。無事に帰ってきましたよ。…お母さん、どうですか?」

私はリビングの方を振り返った。

「もう…大丈夫だと思います。」
「そうですか、それならよかった。……じゃあ行きましょうか。」
「あ、荷物取ってきます。」
「あ、渚さんちょっと待って」

リビングに戻ろうとした私を呼び止めると、先生は一枚の封筒を差し出した。
これは?という目で先生を見る。

「領収書です。念の為、書いてもらいました。お母さんに渡してあげてください。」

あぁなるほど…そう思いながら封筒を受け取ろうとして、私はドキッとして固まった。
差し出した先生の手のひらが、傷だらけで真っ赤になっている。
ビックリして先生を見た。

先生は相変わらずニッコリ微笑んで、「早く」とだけ言った。

「先生…手…」
「いいから、早く。僕は車に行ってますから。」

先生が後ろ手に、玄関を開ける。
私は封筒を受け取ると、慌ててリビングに戻った。

荷物をまとめた鞄を肩にかけ、母に封筒を渡す。

「…領収書だって。先生が返しに行ってくれたから…」

母はまた泣きそうな顔になって、封筒を受け取った。

「じゃあ…私、行くから…」

そういって母に背を向ける。
玄関でワタワタと靴を履いていると、母は慌てたように「なぎ!」と私を呼び止めた。

振り返ると、母が何やら言いたそうに口をアワアワとさせている。

「…なぁに?」

優しく聞くと、母は少し泣きそうな顔で「またね…」と小さく言った。

私は少しだけ微笑んで「うん。…またね」と返事を返して家の外に出た。



家の前では、先生が車に乗って待っていた。

私は後部座席を開けて荷物を放り込むと、そのまま後ろに座って扉を閉めた。
何故だか、助手席に座るのは気が引けた。

先生は私がしっかり座ったのを確認すると、「さーて、帰りましょうか。」と言って車を出した。



来た時と同じように、二人とも何も話さなかった。

家に帰りリビングに入ると、先生はフワーッと大きく背伸びをした。

「何だか大変な一日でしたね〜。あー疲れた。」

そう言いながら、ニコリと私を見る。

私はずっと気になっていた事を質問した。

「…手…どうしたんですか…?」
「ん?手?」

先生は自分の両手を広げて、不思議そうに眺めた。

「怪我しただけですよ。傷も深くないし、ほっときゃ直るでしょう。」

そう言うと、ハハっと恥ずかしそうに笑った。

「違います!そうじゃなくって…どうして怪我をしたのか聞いてるんです。」

私が少し強く言うと、先生は困ったように苦笑いしながら、ドカっとソファに腰を下ろした。

「いやぁ…お金を返した後領収書くれって言ったら、じゃあコレを握れって小さいナイフの束みたいのを差し出されたんですよ。」

先生は楽しい思い出を語るように、ニコニコしながら話している。

「だからそれをこう…ギュッと。そしたらいきなり引っこ抜くもんですから……まぁこんなもので済んで良かったですよ。」

先生が笑う。

私はニコニコしながら握ったであろうその時の先生を想像して、思わず顔をしかめた。

「大丈夫、大した事無いですから。心配しないで。」

明るく言う先生の声に、私の目から涙が溢れた。


先生は音楽教師。手は商売道具のような物だ。
一歩間違ったら、先生は一生ピアノが弾けなくなっていたかもしれない。

それなのに先生は相変わらずニコニコして、気にも留めてる気配が無い。

「ごめんなさい…先生ごめんなさい…大事な手なのに…」

私は複雑な思いで胸が一杯になって、謝ることしか出来なかった。
立ったまま、泣きながら先生に謝り続ける。

「大丈夫ですって。……それに僕の方こそ、貴女に謝らないといけません。」
「…どうして…ですか?」

私がシャックリをしながら聞くと、先生は凄く神妙な面持ちで下を向いた。

「…貴女をお金で買うような事をしてしまいました。……もう二度としませんから…許してください。」

私は泣きながら、ブンブンと首を振った。

「…先生の…大事な…お金を……先生のお父さんが…遺してくれた…大事な……」

息が詰まって言葉にならない。

「いいんです。それは僕が勝手にやってしまったんですから。…お願いだから、泣き止んで、謝りますから…」

先生が段々と困った顔をしていく。

それでも益々涙は止まらなくなっていき、私は幼い子供のようにわんわんと泣き続けた。

「あぁもう…泣き虫なんだから……」

先生は優しくそう言って立ち上がり、私をぎゅうっと抱きしめた。

「ごめんなさいぃ…」

抱きしめられると、もっと申し訳なくなってくる。

「だから大丈夫だってば。ほら、泣かないで。お願いだから。」

先生は困ったように笑う。
それでも私の涙は止まらなかった。

「大切な人を守るためなら、手の1本や2本、どうって事ないじゃないですか。渚さんだって、そう思うでしょ?」

先生はちょっと照れくさそうにそう言った。

私はその言葉で更に胸が苦しくなって、立っていられなくなった。

先生は「おっと…」と言いながら、私を支えるように一緒に座り込んだ。


あぁ先生が困ってる…泣き止まなきゃ……もう何で涙が止まってくれないの…

泣きながらもどこか冷静な頭の片隅で、私はずっとそんな事を考えていた。

「……ほら…こっち向いて。」

優しくそう言われて、嗚咽を堪えながら先生を見つめる。
先生は優しく微笑むと、フッと顔を近づけた。

先生の唇が、私の唇に軽く触れる。

私の頭は、途端に真っ白になった。

息をする事も忘れて、私は自然に目を閉じた。

先生の顔が、スーっと離れる。

私は思い出したように、そっと息を吐いた。
薄っすらと目を開けて、先生を見る。

「…泣き止んだ。」

先生は私と目が合うと、ニコッと微笑んだ。



「…せんせい…」

私がやっとで呟くと、先生は恥ずかしそうにクスっと笑った。

「その…先生って呼ぶの、そろそろやめにしませんか?」

私は少し困った顔をした。
少しだけ考えて、先生に小さな声で聞き返す。

「……じゃあ何て呼べばいいですか?」

先生もちょっと困った顔をしながら笑った。
暫らくぼーっと何処かを見て黙り込んでいたが、またフッと笑うとまっすぐ私を見つめた。

「んー………わからない…」

そう言いながら、ゆっくりと顔を近づけてくる。

私はまた、目を閉じた。

その日、私は初めて先生と一緒にベッドに横になった。

先生はやらしい事は一切せず、ただ向き合った私を抱きしめているだけだった。
安心感と暖かさで心はすごく安らいでいたのに、私はなかなか眠ることが出来ず「先生…」と小さく声をかけた。

「…なんですか?」

先生も起きていたようで、すぐに返事が返ってきた。

「先生と〇〇さんは…どういう知り合いなんですか?」
「このタイミングでそれを聞きますか。」

先生はプッ吹き出した。

「……あれは嘘です。」

驚いて先生を見上げる。

「まぁ…名前と何をしてる人か位は知っていましたけど。」
「何で嘘ついたんですか。」

私が少し怒った様に言うと、先生は苦笑いした。

「…まぁ、もういいじゃないですか。」

先生は困ったように笑いながらそう言うと、私をグッと抱き寄せた。

「でも…」
「いいからもう寝ましょ。これ以上このままで起きてたら僕、貴女に何するか解りませんよ?」

私は急に恥ずかしくなって、布団の中に顔を埋めた。

「…もうこれからは、貴女に怖い思いも、辛い思いも、絶対にさせませんから。」

先生は私の頭を、私が寝付くまでずーっとずーっと優しく撫で続けていた。



それから……。








地元では予想通り噂になったけれど、私は先生と一緒に暮らし続け、先生の転勤にも付いて行った。


最初こそ仕事を探したものの、先生の職業柄移動が多く、すぐに辞めてしまう事を考えて先生と話し合った結果、私は職探しを止めた。


先生の傍で、穏やかな日々を過ごす。


私が20歳になると、先生は「結婚…してみませんか?」と私に言った。
私は喜んで「ハイ」と返事をした。


結婚式はせず入籍だけ済ませ、二人だけで記念写真を撮った後、私達は新婚旅行がてら短い旅行をした。

そこでやっと先生は、初めて私を女性として抱いた。



籍を入れて一年後。
33歳になった先生は教師を辞めて私の故郷に程近い場所に家を買い、そこでピアノ教室を開いた。


丁度その頃、あの日以来会っていなかった母から連絡が届いた。

全てを一度リセットした母は、今は知り合いの伝で小さな事務所の事務員をしているらしい。
久しぶりの電話越しの母の声は、昔とは違って随分と落ち着き、そして凄く幸せそうだった。
私も先生と結婚したことを告げると、母は電話越しに泣いていた。

それからはちょくちょく、母とは今も電話で連絡を取り合っている。


私は未だに先生の事を「先生」と呼んでいる。

先生は相変わらずニコニコしていて、私達の会話は昔から変わらず敬語のまま。

夫婦で敬語なんて変…と友人達は笑うけれど、これは多分、もう一生直らないだろう。

先生と出会ってから、気がつけばもう十数年。

長い長い時間をかけて、本当に大事な人と結ばれ日々を過ごしている今、私はふと自分の人生を振り返り、幸せを噛み締めている。


書き溜めていたのは以上です。

急に尻つぼみに終わってしまって、申し訳ありません。

最近の事を書こうとすると、何故か指が止まってしまい、文章にはとても出来ませんでした。

長い時間、私の拙い思い出話にお付き合いいただき、ありがとうございました。

皆さん、読んでいただきありがとうございました。

私は今、幸せに過ごしています。

どうして書く気になったのか…そう言われると上手く説明が付きませんが、
ある日ふと、小学生にピアノを教えている主人を見ていて、何故だか自分の昔の事を思い出したのです。

あんなこともあった…こんなこともあった…
そう色々考えているうちに、自然と昔を振り返りながら、少しずつ書き始めていました。

投稿してみようと思い立ったのは、きっと誰かに聞いて欲しかったんだと思います。

誰にも言えなかった過去の事、私は今すごく幸せだぞ!という思いを、吐き出したかったんだと。

皆さんが聞いてくれたお陰で、胸がスーッとした気持ちでいます。

本当にありがとうございました。

皆さん、本当にありがとうございました。

私も皆さんの幸せを、僅かながらですが祈らせていただきたいと思います。

それでは、皆さんさようなら。

長い時間、ありがとうございました。

出典:私が初恋をつらぬいた話
リンク:http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news4viptasu/1339046418/

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