AKIRA

2012/06/26 09:57 登録: <`∀´r >◇nidanida

549 名前:例えばこんな日本びいき 38[sage] 投稿日:2012/06/23(土) 19:53:51.68 ID:ZJzAGl0k [1/3]

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【ペルーが泣いている】

ペルーで一番有名な「日本人」といえば、アルベルト・フジモリ元大統領で
間違いないでしょう。(彼は日本人ではないのかもしれませんが)
では、フジモリ大統領が、ペルーの政治の表舞台に登場する以前、
最も有名だった日本人をご存知でしょうか?

その人の名は加藤明。
ペルーの女子バレーボールを世界トップレベルにまで引き上げた人物です。

加藤氏は1933年(昭和7年)神奈川県生まれ。
八歳の頃、ローラースケートで遊んでいる最中に腕を骨折。
リハビリではじめたバレーボールにのめりこみ、中学・高校と
バレーの練習に明け暮れます。慶応大学での活躍で、全国区に名を知らしめ、
1955年八幡製鉄に入社。1960年から八幡製鉄チームの主将。
その年、世界選手権に出場。
選手を引退し後、61年、母校の慶応大学の監督に就任。
八幡製鉄での仕事をしながら、2部リーグで低迷していた同校を短期間で強化、
64年の全日本大学選手権での優勝にまで導きます。

そして、1965年、加藤氏に転機が訪れます。
ペルーからの女子バレーボールチームの監督就任の要請があったのです。
当時は「東洋の魔女」の時代。欧州遠征で22連勝。東京五輪での金メダルの
獲得など日本女子バレーボールの黄金時代でした。
自国の女子バレーを強くしたいというペルー政府からの真摯な要請。
心意気を買った加藤氏は、監督を務めることを引き受け、自らの仕事を2年間の
休職扱いとしたうえで、ペルーに向かったのでした。


ペルーの女子バレーボールは、64年の南米選手権に優勝しているものの、
世界規模での大会では泣かず飛ばず、オリンピックには出場すらできていませんでした。
世界を舞台に戦うため、厳しい練習を課す加藤氏でしたが、ペルーの女子選手たちは、
それに全くついていけません。練習に音をあげ、逃げ出す選手が続出。
それを連れ戻す日々が続きます。新聞には、「非人道的な練習」
「野蛮な国から来た野蛮な監督」との批判記事が掲載される始末。

それでも加藤氏は諦めませんでした。
ペルー全土を歩き回り、才能のある少女を発掘してまわります。
指導はバレーだけではなく、精神面や生活に関しても行われました。
一体感を醸成するためか、練習後は、たびたびスキヤキを作って
選手たちに振舞いました。そうした食事の席で、ギターを弾きながら加藤氏が
歌ったのが「スキヤキ」こと「上を向いて歩こう」だったといいます。

加藤氏の熱意は、やがて選手たちに伝わっていきます。
実力は、格段に向上。ペルーチームは第五回世界選手権の出場を勝ち取ります。

しかしながら、2年間の休職期間に終わりが近づいていました。
加藤氏は期間の延長を求めましたが、会社はそれを却下します。
1967年(昭和42年)東京で行われた世界女子バレー選手権が、
加藤氏にとって、ペルーの代表監督としての最後の仕事となるはずでした。

選手権では、出場国中最下位。
「せめてもう少し指導ができたなら……」
空港で、苦い思いを噛みしめる加藤氏。彼との別れを惜しむペルー選手団の姿が
新聞の紙面を飾りました。
これが幸運が呼び込みます。記事を見て、会社側が加藤氏に理解を示したのです。
さらに一年間、休職を延長することを認められました。

翌68年、ペルーチームは飛躍します。
初出場となるメキシコオリンピックで、主催国メキシコ、韓国、さらにアメリカを
次々に撃破。四位に入賞。メダルまでもう一息の実力をつけたのです。
当時、ペルーでは子供にAKIRAと名づける親も多かったといいます。
彼は3年で「野蛮な監督」から一転、「ペルーの英雄」となったのでした。

その後、加藤氏は、監督業に専念することを決意。
会社をやめ、代表監督としての指導を続け、ペルーに永住するつもりだったようです。
本人の固い決意と周囲の期待。加藤監督の元、ペルーの女子バレーボールに更なる
躍進があるかに思われました

しかし、加藤氏は突然倒れます。
ウィルス性急性肝炎。多くのペルー国民の回復への祈りもむなしく、
1982年、加藤明氏は、49歳の生涯を終えたのでした。

死の翌日、新聞各紙は「ペルーは泣いている」などの見出しで、その
悲しいニュースを伝えました。その日、首都のリマでは、協会の鐘が打ち鳴らされ、
弔意を表す車のクラクションが、一晩中鳴り止まなかったといいます。

加藤氏の葬儀には5万人のリマ市民が参加。
ベラウンデ大統領が弔辞をよせ、参列した加藤氏の教え子たちは、
かつて監督とともに歌った、「上を向いて歩こう」を、
涙ながらに合唱したのでした。

半年後の秋、地元ペルーで初めて開催された世界選手権。
選手たちは一丸となって戦いました。予選、第一ラウンドをグループ一位で通過。
そして、予選第二ラウンド。
これまで一度も勝てず、選手たちの長年の目標であった日本チームを撃破。
勝利の瞬間、会場には紙吹雪が舞い、観客席から「アキラ・カトー」の
名前が終わることなく連呼されました。
その後、ペルーチームは、準決勝でアメリカを破り決勝戦進出。
惜しくも、決勝で中国に敗れたものの堂々の銀メダル。それまでの国際大会で
最高の成績を収めたのです。

80年代、ペルー女子バレーボールチームは全盛期を迎えます。
南米選手権では、83年から四大会連続で優勝。84年ロス五輪、4位。
86年世界選手権、銅メダル。そして、88年ソウル五輪では、銀メダル。
多くのペルーの国民が、これを加藤氏の業績と考えています。

加藤氏の偉業を伝える記念碑が、ペルーの日本大使館の敷地内にあるとのこと。
現在でも、献花に訪れる方がいるそうです。

ペルーを訪れる日本人観光客が、時折、現地の方から
「カトーを知っているか」と尋ねられることがあるとか。
この文章を読んだ方が、ペルーを訪問する機会があり、同様の質問を
されたなら、「勿論知っている」と答えてください。

相手は、きっと大喜びしてくれると思います。







出典:日本びいきの外人を見るとなんか和むpart194
リンク:http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/kankon/1338745765/

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