嗚咽

2005/12/07 23:12 登録: もえたろう

1 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/01(水) 22:54
30歳すぎて人前で泣いてしまいました。
それも車の中で10歳年下の女の子の前で。
ちょっと前に悲しいことがあって突然それを思い出したからです。
涙もろい訳じゃないけれど、嗚咽を止めることができなかった。
泣いてる理由が分からなかった彼女は一生懸命慰めてくれたけれど
ちょっと恥ずかしかったです。


13 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/02(木) 23:22
仕事で、訳のわからない上司に仕事の失敗おしつけられてりして、
西麻布の空き地で人知れず嗚咽をもらした。ちょっとやばかった
と我ながら思う。


14 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/11/02(木) 23:32
うちの夫、学生時代に急逝した自分の父親の話し
していて、涙がはらはら出てきちゃって
拳でさっとぬぐってた。
惚れなおしました。
男性の嗚咽は・・・・・見たことないけど、
理由によっては愛しいと思うかも。


18 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/03(金) 01:10
泣かないけど数年前の東京砂漠のBGMでおっさん達がビル
の上でバスケやっていたCMの後ふと田舎思い出して、そういや
学生時代の友人思い出してあの頃は、、とおもって胸にきた
ことがあるなぁ、


21 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/03(金) 02:11
何となく、若い頃よりも歳くってからの方が涙腺弱くなったような
気がする。
可愛がってた子猫が交通事故で・・・
生まれて初めて往来で泣いてしまった。


22 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/03(金) 02:24
RCサクセションの「多摩蘭坂」
特別な思い出があるわけでもないんだけど
一人で聴いてるとヤバイ。
夕方だったら、さらに倍。
「BLUE」は封印か。


23 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/03(金) 02:27
父親が2ヶ月前に死んだ。
今でも夜独りになったり、
ちょっとしたことで思い出すと
涙が出てくる。

でも翌日瞼が腫れるので、泣かないように
と思うが難しい・・・


25 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/03(金) 03:51
>>23
私の母親が、ガンでそう長くはないということを聞いたとき、
なんとも言いがたい気持ちになった。
だから、泣いた。
さんざん泣いてみて、人は必ず死ぬものなのだと
受け入れることができた。
もっと泣こうよ。


26 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/03(金) 16:26
『異人たちとの夏』見て泣いてしまったよ。

 「ありがとう」
 「どうもありがとう」
 「ありがとうございました」

仕事や友人達には、なにげに言える言葉だが、この世で一番感謝しなければならない
両親には素直に言えないんだよな・・・
幸いウチの両親とも健在なのだが、最後に言えるかなぁ


28 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/03(金) 18:26
うちの旦那、最近よくテレビとか見てなく。
仕事大変そうだし、ストレスたまってるのかなー。
俺は単身赴任できないよ、というのがよく出る言葉。
泣かせてあげるから、ノイローゼにならないで!


33 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/04(土) 18:42
俺は嫁さんに先立たれ
「キャスパー」で大泣きした
幽霊でも、会いたい。


35 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/04(土) 19:50
数年前に仕事のことで悩んでたとき,知り合いに電話で相談してたんだけど
だんだん感情が高ぶってきて嗚咽しながら泣いてしまった。
泣きながら,自分でもビックリしてしまった。


38 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/05(日) 15:22
不倫が終わった後、「マディソン郡の橋」を観て大泣きした。
自業自得とはわかっていながら、涙がとまらなかった。


40 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/05(日) 21:29
新婚2ヶ月で私の母が突然自殺した時
夫が泣いてくれた。
SHOCKでぼー然としていて、その前後の記憶は定かじゃないんだけど
夫が一生懸命手を合わせて私がかわいそうだと言って泣いている姿は覚えている。
一緒に暮らしていると腹立つこととか色々あるけど
彼のことを信じられるのはあの時の涙があるからのような気がする。


44 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/06(月) 11:11
5年ほど前のこと、精神的にかなりきている時期があったけれど、一人の時でも泣く事はなかった。
「大丈夫、きっと克服できる」っていつも自分に言い聞かせていた。
ある晩、夢の中で見知らぬ人が「みんながんばっているんだ、おまえも大丈夫だよ」って励ましてくれた。
自分の涙が耳にかかって目が覚めた。ほとんど嗚咽状態。夢の中で涙したのは初めての体験。
それからはだいぶ気が楽になったよ。


50 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/07(火) 18:08
友達の子供が生後2週間で死んだ、と聞かされたとき。
妊娠期間に友達夫婦がどれくらいの愛情をお腹の子に注いで
いたか知ってたし、生まれてきた子の顔も一度見てたし、
その顔見て「将来別嬪さんになるぞ〜」なんて笑ったことも
あるってのを一気に思い出して号泣。最初に喉の奥から
「おえっ」と来たんで吐くかと思ったら涙が出てきて、
歯を食いしばっても声が出る。息が止まりそうだった。
これが「嗚咽」なんだって初めて知った。不思議とその後は
涙はでなかったなぁ。全部流れてしまったんだろうか?


52 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/07(火) 23:09
高校を卒業してから1度もあってない奴の名前を先日新聞で見かけた。
交通事故死だった。
特別仲が良かった訳じゃなかったがそれでも2つ3つは楽しい想い出があった。
夜、そんなことを感思い出していたら自分の身を引き裂かれたようで突然涙が出てきた。
1週間前の夜の話。


54 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/08(水) 00:18
逸見さんが亡くなったとき、CX18時からの「スパータイム」で安藤優子女史
が泣いてたっけ。嗚咽、号泣、泣き崩れる、全てが当てはまるような泣き方だった。
告別式の時、殿(ビートたけし)はずっと遺族と一緒だった。出棺の時、山城新吾
は数珠を持って合掌していたが、殿は手を合わせるでもなく、ただ黙って逸見さん
の棺、見てたっけ。最後はあのテレ屋の人が、遺族と一緒に会葬者に頭を下げてた。
涙は見なかったけど、なにかもの凄い悲しさを感じてしまった。
ちょっとスレ違い。ゴメン。


55 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/08(水) 00:48
W不倫だったので、社会的には許される事じゃなかったと思うので
何を言われても文句は言えないのだが・・・。

「このままでは(流されちゃ)いけない」って事でお互い同意で
別れた。
一月位経った頃、「あぁ、終わったんだな」と本当に実感した夜、
流れる涙に気が付いて真夜中目が覚めた。

本当に愛していた。
布団を頭から被って、嗚咽を漏らした。


57 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/08(水) 00:52
半年前に女房が乳がんで片側切除した。
あの時は泣いた。泣いた。泣いた。

もう、どうしようもない気持ちになったとき、友達に電話した。
その時、嗚咽というものを初めて経験したよ。

娘が3人(1、6、9歳)いるんだけど、退院のとき
女房が言った言葉が印象に残っている。

「まだ、死ねないからね」

また、泣いたよ。


60 名前: 名無しさん@お腹いっぱい 投稿日: 2000/11/08(水) 01:24
少し軽めの話題なのだが…

わたしと妻は、かなり年齢差があるので(もちろん
妻の方が若い)、たとえば映画(ビデオ)を見よう
とするときも、「あまり自分の趣味を押し付けても
なあ」と思って、わたしの好きな古い映画を一緒に
見ることは、あえてしてこなかった。
 が、この間、わたしが木下恵介監督の『二十四の
瞳』のビデオを借りてきて何気に一緒に見ることに。
わたしの方は、木下監督のあまりに古典的な演出に
少しテレながら見ていたのだが、妻のほうは、まる
で魅入られたかのように画面に食い入って、クライ
マックスの場面では嗚咽と言うより、号泣していた。
妻は、映画を見てもあまり泣いたりする方ではない
ので、あまりの予想外のことに、わたしはしばし呆然
とするのみだった。


62 名前: いい関係@名無しさん 投稿日: 2000/11/08(水) 01:51
四年前に初産の娘を3歳で交通事故で無くしたんだけど。
一番の友達が交通事故の前日に、帰郷でひょこり家族連れで遊びに来たんだけど。
その時自分は、娘の生まれてからの写真を整理してて、三日前の有る神社での、
娘の不思議な出来事を友達に話したりして、「気を付け様ーね」て、別れたんだけど。
次の日、娘が交通事故に遭って逝っちゃたんで、友達とも4年間気まずくて、
遭わずじまいでいたけれど、
今年のお盆に、しばらくぶりに合って話すことが出来て、
自分の家で、2時間ほど家族が居るから当り障りの無いことを話したんだけど、
友達の家までの距離は500mしか離れていないけど、5時間道路上で男同士が、
始めて2人で、人目も憚らず嗚咽しなから話し歩いたんだ。
本当の友達って、最高のセラピストだよね。

娘の葬式では、泣く事も出来なかったのに・・・


69 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/09(木) 01:06
元彼と別れる時、私はふられる側だったのに
元彼の方が何故か泣いた
それを見ていたら、自分は泣けなくなって
なんか他人事のほうな気になり、
スッパリ諦めがついたのだ
ひょっとして計算ずくだったのか?


70 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/09(木) 11:43
夫が他界してから今日までまだ信じられない。
気付くとひょっこり現れる気で居る。

時々色んな事を思い出すけど、その後「もういないんだ」と思うと涙が溢れる。
泣くと「夫が心配する。私の笑顔が大好きだったもの。」と奮起すると守られている様な暖かさを感じる。
きっとこうやって夫が守ってくれているんだと思ってる。
おめでたいかな?(笑)


87 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/10(金) 15:46
今は平穏で幸せ、だと思う。
昼間、ふとした瞬間に亡くなった祖母の思い出で胸が熱くなり、
涙が出てくる。育ててもらったのに、何もお返しできなかった・・・。
そして、いつまでも許せない人に対して自分の心の狭さに
また泣いてしまう。

本当に大変な時期は、意識して泣くことなんて無かった。
枕に訳の分からない大きいシミが幾重にも重なってついていて、
自分はよっぽどの汗かきかと思っていた・・・・。


88 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/10(金) 17:47
このスレは、なんか僕を大人にしてくれる気がする。


89 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/10(金) 18:57
ここ十数年泣いたことなんか無かった。
つい先日とあるゲームをやって、本気で泣いてしまった。
周りには誰もいなかったせいもあったかもしれないけど、しゃくりあげるくらい泣いてしまった。

ああ、まだ泣けるんだなあと本気で思った。


90 名前: ↑ 投稿日: 2000/11/10(金) 20:04
何のゲームですか?
ちなみに私はFF4で号泣でした。


91 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/10(金) 20:14
>90
人様には言えないようなゲームです・・・(笑)


92 名前: 90 投稿日: 2000/11/10(金) 20:31
合点しました・・・


93 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/10(金) 22:57
「お前がいなくても世の中なんにもかわらないんだよ」
この言葉に傷ついて嗚咽した、若かった一時もある。
けれど、最近同じこの言葉にどれだけ救われたことか。
どの言葉にも表と裏の意味がある。


97 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/11(土) 20:26
6年ほど前に愛犬が亡くなった頃からものすごく涙もろくなった。
その時も人生においてこんなに泣いたことがあるんだろうかと
思うほど泣き叫んだんだけど。
それからというもの、テレビとかでちょっと感動モノ見ると
すぐウルウルきてしまう。
もちろん”忠犬ハチ公”はオープニングからもうダメです・・・


98 名前: 名無しさん@あの頃にもいちど・・・ 投稿日: 2000/11/11(土) 20:45
1週間前、職場の先輩がなくなった。
パソコン初めて買うときに、いろいろ教えてもらった、初メールもその人だった。
仕事はあまり一緒にはしなかったけど、可愛がってもらっていた。
もうだめだと聞いて、亡くなってお通夜ですこしお手伝いをして・・・その晩が一番泣きました。
翌日、相当目が腫れていたらしい。
ようやく仕事の帰りや寝る前に顔を拭う事は減ったけど、さっきうたた寝したら
夢の中でその人、幽霊で職場に帰ってきてました。。。私の願望でしょうか?


103 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/13(月) 18:30
弟のお葬式。
母親がぼろぼろだったんで
自分がしっかりしないと、と
がんばっていました。

お葬式当日は、彼の中学校の入学式の日でした。
担任になるはずだった教師が
生徒手帳を持って来てくれたのですが
それを見て、涙が止まりませんでした。


106 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/14(火) 11:15
友達が癌になった。口の中やら骨やらに転移してしまい、もう余命いくばくもない
と言う。大陸の反対側までお見舞いに行ったら、しっかりした口調で「私が死んだら
○○(主人)のことをよろしくね。二人(私と主人)で慰めてあげてね。××(娘)も、
しっかりやっているかどうか、たまには様子を見に来てやってね。」と言われた。
泣いてはいけない、と思いつつ、涙がとまらなかった。今も、電話で話しては受話器を
置いた後号泣してしまう。
彼女に、何もしてあげられない無力感に苛まれる。


108 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/14(火) 17:56
父がガンで亡くなってから10年経ちました。
年に数回、夢の中で父に会えるのですが、
夢の中の父も余命数ヶ月のガンなんですよ。
だから、なんと言ったらいいのでしょう、夢を見ている自分は
醒めているんですよね。
せめて夢の中では、元気な父と会いたいです。


112 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/15(水) 17:12
大学進学で親元離れるときにも、結婚式でもついぞ涙を流した
ことがなかったが・・・
結婚してまもなく、夫の転勤で山奥の土地に行った時、
親が遠路はるばる逢いに来てくれたということがあった。
親が帰る日、観光スポットを車で案内してあげたんだけど
帰る時間が近づくにつれ、いろんなことが思い出され、
子供みたいにひっくと唐突に泣いてしまった。
夫の実家で心細かったとか、夫との距離がうまくつかめないとか、
夫の実家の墓参りして、なんとも言えない気分
(あたしもここに入るのかな)になったり、が原因。若気の至り。
夫は今やかけがえのないパートナーだけど・・・
私が死んだら、”半分は”父母の眠るところに入れて欲しい、
と考えることがある。
死後の世界とかまるで信じていないんだけど、なんか心情的に。


116 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/15(水) 20:24
三男の弟は父が35歳の時の子供だが母によると父は
男三兄弟の中で末っ子を一番かわいがっていたそうだ。
早産で産まれたこともあり、余計にその感が強かったのだろう。

そお末っ子の弟は三兄弟で最初に結婚した。
式の最後、両家の挨拶を代表して父がスピーチした時に思わず涙声に…。
嗚咽ほどではないけれどね。父の涙は初めてみたような気がする。


117 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/15(水) 22:42
僕の父は僕が3歳になる前に事故で一酸化中毒になって、4年ほど植物人間
の状態が続いた後死にました。臨終の瞬間、病室から母の号泣が聞こえました。
今は大酒のみになった僕は一度でいいからお父さんとお酒を飲んでみたかった
と思って時々部屋で一人で泣いてしまいます。今も一人で飲みながら涙が溢れ
てきました。


118 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/16(木) 13:18
事故に巻き込まれ重度の障害者になった。
自殺は考えなかったが何度も死にたいとは思った。
まぁなんだかんだで10年もたつといろいろな想いも落ち着いてくる。
実際は今でも何かと辛い事は多いのだが、みんなの書き込みを見ると
自分は恵まれていると感じることもある。


122 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/16(木) 22:08
今日、新聞の片隅のコラムを見て、号泣してしまいました。
先日のケーブル火災の被害者、出口氏についてです。
彼の先輩だった、伊藤龍治氏の書いたものでした。
ほんの少しだけ紹介させてください。

出口沖彦は、わたしが早大スキー部コーチ時代の教え子だった。
(以下彼の思いで、業績、などが書かれている)
遠く札幌にいても、私にはわかっている事がひとつだけある。
出口沖彦は、自分を慕ってついてきたスキーヤーを
逃がすために必死になっただろう。
コーチとして選手を助けるために全力を挙げただろう。
そして、最後は、沖彦、
君は13歳の自分の娘を、抱いてやれたか。

泣きながら書いただろうコラムをはじめて読みました。
合掌


123 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/17(金) 03:23
>>122 これは哀しい。自分も泣いてしまった。いい大人の男なのに、こういう
事件はやりきれない。
同様に涙がとまらなかったのが、日航機事故の犠牲者の一人(河口さんだったか)
が書いた遺書。妻と子供に宛てたものだ。
「どうか仲良くがんばってママを助けてください。パパは本当に残念だ。
…さようなら、子供達のことをよろしく頼む。…本当に今までは幸せな人生
だったと感謝している。」
大学生だった俺はこれを読み、家族の前で泣いた。今も書き込みながら泣けて
くる。俺が死ぬ時は、出口氏やこの河口氏の様に、堂々と男らしく死ねるのかと
考えてね。
合掌。


124 名前: >123 投稿日: 2000/11/17(金) 03:55
覚えています。日航機の遺書。
降下していく機内での走り書き、というより殴り書きのような
ものだったと思います。彼の残された時間を誇示するようで
当時大学生であった自分も思わず涙ぐんでしまいました。
そして自分の父親も家族の前で、臆面もなくそのニュースを見て
泣いていました。同じ父親として耐え切れないものがあったのでしょう。
そんな父を見てまた悲しくなり泣いてしまいました。
事故でお亡くなりになられた方のご冥福をお祈りします。


125 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/17(金) 06:22
じいさん・ばあさん・従兄弟が亡くなった時も泣けなかったが、家族で旅行中、
季節外れの大雪により高速が閉鎖され、下道(もちろん大渋滞)での帰路を強いられ、
雪道走行の準備も無いまま夜通し車内に缶詰。(道中スピンすること二回。)
高々150kmの道程を15時間以上掛けて自宅に辿り着いた時、風呂の中で
何故か涙が溢れてきた。
母親と姉貴の命を預かり、無事生還させたことに対する満足感だったのか...
家族の大切さを再確認した出来事だった。


126 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/17(金) 09:03
>125 私も同じ思いをしたことがあります。
その昔、ゴールデンウィーク前に納車された新車で彼女と旅行の
帰りのことです。家まであと少しという所のバイパスで、落下物に
よって起きた5台がからむ玉突き事故にあってしまいました。
私のはその中の3台目。前2台がトラック、後ろは家族連れの乗用車。
80キロ近くで走っていたのですが、幸い私は前のトラックとの隙間
1メートル位で止めることが出来ました。
しかし後ろ2台は自走不可の衝突、その反動で押し出され私の車に
ぶつかりましたが、後ろバンパーがへこむ程度で済みました。
またこの事故で死者重傷者が出なかったのもよかった所でした。
事故処理も終わりやっと家路に着きました。家に着いたとたん、
緊張の糸が切れたのか、彼女の前で泣いてしまいました。
新車をぶつけられた悔しさなんかではなく、恐怖感がよみがえり、
彼女はもちろん、他の車の家族も大事にならなくてよかったという
安堵感で、勝手に涙が流れて止まりませんでした。


129 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/17(金) 17:03
父が肝臓癌で死亡して10年になります。
年に一度くらいの割合で同じ夢を見ます。
私は病院の中庭に立っていて、父の病室を屋外から窓越しにのぞき込んでいます。
窓にはまっているのは半透明のすりガラス。
ベッドから上体を起こす父のシルエットに、私はつとめて冷静を装いながら
話しかけます。夢の中の私はもちろん、父が死んだことを知ってます。
「お父さん、お見舞いに来たよ」
「うん」
「どう?」
「ちょっと寒いけど心配すんな」
「そう・・・」
ここまで来ると、涙が滝のようにあふれて会話が成立しません。
朝起きると枕がぐしょぐしょになってます。


133 名前: 23=96 投稿日: 2000/11/18(土) 02:23
亀レスごめん。
私も死んだ父親の夢を見た。
図書館みたいなところで嬉しそうに調べものをしていた。
「あんまり無理しちゃだめだよ。」と言ったら
「大丈夫だよ。」と答えてくれた。
なんだか少し救われた気がした。
(本当に自分のことばかり書いてごめん。)


142 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/22(水) 12:24
人生で一番辛く苦しかった頃、感情が麻痺しまっていた時期があった。
涙すらでなかった。ある日、突然、抑えきれない感情が
わーっと高まり、大声で泣きながら、こんな感情が
残ってたんだ、もう大丈夫だと思った。


143 名前: 神戸人 投稿日: 2000/11/22(水) 14:17
突然のことでした。ものすごい地鳴りととともに、家がグラグラと揺れ、私はとっさに
妻と共に、間に寝ていた当時5ヶ月の娘をかばうように娘に覆い被さりました。長い揺れ
でした。この世の終わりかと思いました。幸い私の家は六甲山の裏側なのでつぶれずに
済んだので、つづく余震に震えながら、夜明けを待っていました。ラジオでは長田の方で
火災が多発している状況をアナウンサーが息を切らせながら伝えていました。午前10時
ごろ電気が回復しました。テレビをつけた瞬間、唖然としました。阪神高速がおもちゃ
のように倒れています。信じられない光景でした。1週間後実家のある三宮へ出かけました。
ビルは倒壊し、道は波打ち、何もかも壊れていました。私は街を見て涙が溢れました。
生まれ育った街が、思い出だらけの場所が、ボロボロになっていました。
何十年かかってもおれはこの街の復興のためにできることをやらねばとも思いました。
阪神大震災にまつわる数々の話しは、何を聞いても今でも当時を思い出し、泣きそうになります。
今年も神戸ルミナリエをやるそうです。あの美しい光を見てまた涙しそうです。
全国、全世界のみなさん、あの時はありがとうございました。神戸は元気ですよ。
(長レスですみません。)


145 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/22(水) 22:52
前にもちょこっと書きましたが・・・

3年前に親父を亡くしました。
入院先の病院の8階から飛び降りて逝ってしまいました。
夜中に病院から父の姿が見えないと連絡があり、
母や弟たちと病院の中を探し回りました。
3時間程探しても見つからず、
家に帰ろうとして病院を抜け出したんじゃないかと
皆で話しながら途方に暮れていると
うっすらと夜が明け始めた頃、
一緒に探してくれていたお巡りさんが
あの人じゃないかとあわてて知らせに来ました。
教えてくれた方に走っていくと
駐車場近くに何かがあるのが遠目に見えました。
駆け寄ってみると、父でした。
ずっと冬の冷たい雨が降っていて
ずっと見つけてあげられなくて
ずっと父に寒い思いをさせてしまったと
その場で泣き崩れてしまいました。


151 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/23(木) 21:45
うちの子は、言葉が出るのが遅く、私は検査の為に
保健所、大学病院、小児科、カウンセリング、センター
耳鼻科を息子と二人で通いました。
2歳半の時、耳の検査の為に耳鼻科に行ったとき、
「うちでは手に負えない、この子は生まれつき耳が聞こえてません
 先天性難聴です。大学病院にすぐ行ってください。紹介状を渡します」
その場では、顔色一つかえないで会話をした記憶があります。
耳鼻科を出て子どもを自転車に乗せ、坂道を登ろうと加速したら
止めどなく涙が出てきました。子どもに気が付かれないように
涙を止めようとすると嗚咽が止まらなかった。

次の日、違う病院に行くと、中耳炎だった。
ホッとしたら、その場で泣き崩れてしまいました。


154 名前: 名無しさん@寂寥 投稿日: 2000/11/24(金) 01:00
叔父が死にました。
祖父の妾家の出身で、裸一貫で大きくした会社を息子に譲って
たった一人で隠居して、あり余るお金と追憶と酒びたりの孤独な晩年でした。
死後、日記めいた走り書きが多く見つけられ、その中に

「寂しい、寂しい、また○○のところにくだらない電話をしてしまったらしい。
 酔っ払っていたとはいえ、猛省しなくてはいけない。
 こんな酔っ払ってばかりの一人暮らしの老人を近所ではどう思っているだろう?
 日本男児として恥ずべき行為である。
 だがそれでも寂しいのだ、この酔っ払いの老いぼれに、この家はなんと大きい
 ことだろう。寂しい、だから酒を飲んでしまう、そして後悔する、
 悪循環である、なんとかせねば。」

この○○とはうちのことで、私はよく深夜にその電話を受けました。
そのときは、「お金持ちでのんきなご隠居さんのいたずら」程度にしか
考えていなかったのですが、叔父の死後、その走り書きを見たら
泣き出してしまいました。

とてもその息子である従兄弟にそれは話せませんでした。 


161 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2000/11/24(金) 22:16
自分の兄は軽度の障害があって、子どものころからハズレものだった。
人はいいんだけど病的意志薄弱というタイプで、家の金を盗んでは嘘をつく。
そのたびに父親が兄を折檻した。父親はわたしたちが子どものときに
死んだけど、兄の障害はひどくなって、今はまったく働けない。
わたしの仕送りと、障害者年金で暮らしている。
母は、この兄のことを最後まで心配しながら死んだ。瀕死の床で、口が
きけなくなっても、わたしに兄を頼むと話そうとしてるのがわかった。
今も仕送りを続けてるけど、兄のことを考えると、辛くてたまらんとき
がある。
自分は普通の人の幸せを一通り体験して家庭を持てたけど、同じ家族な
のに、兄は親以外のだれにも愛されずに、ひとりぽっちの人生を送るの
かと思うと、辛くてやり切れなくて号泣してしまう。母がどんな気持ち
で死んでいったか思い出すたび、涙がとまらなくなる。
ツレアイはいい人だから、一緒に暮らそうよといってくれるが、それは
兄を知らないからで、同じ家で生活してると、どんな生活になるか眼に
みえているから、絶対いやだといっている。去年も兄が人に迷惑をかけて、
後始末に一千万近い金がかかった。もう生まれた家も残ってない。
両親が命を削るようにして溜めた金を兄は全部使ってしまった。
でも、それで兄の気が紛れるならと割り切っている。自分が末期の癌とかなっ
たら、身体が動くうちに、この兄を殺そうと思っている。
わたしの他に気にかけてくれる人間はいないし、子どもや夫には迷惑をかけた
くないから・・・。けど、こういうのが人生っスね。兄が悪いじゃないんだもん。
愚痴を吐き出すスレがあってよかったっス。みんなありがと。


167 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2000/11/25(土) 22:04
自分は事故に巻き込まれて重度の障害者になった。
今のところ60になる母の全面介助に頼っている。
将来のことを考えると不安だ。
兄は面倒を見てやると言ってくれるが結局義姉の負担がかかるだけで
彼女に申し訳なくとてもそんな気になれない。
きっと施設に入ることになるだろう。
>>161とは逆の立場だがどっちもいろいろつらいのよ。
愚痴でごめんな。


168 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/25(土) 23:09
小5の時、友だちと3人で、駅ビルに行ったとき、
店内で商品を見ていると、後ろから女性が声を掛けてきた。
何が起きたか判らない私は、腕を捕まれて駅ビルの事務所に
連れて行かれた、友だち2人は事情が判っているらしくて
堂々としていた、私はひとり怖くて怯えていた。
事務所で、女性と、警備員、事務員たちに囲まれて
私たちは怒られた。「万引き」なんのことだか判らない。。
私の知らない間に、彼女たちは万引きをしていた。
警察官が、迎えにきた。派出所に連れて行かれた。
お巡りさんが「親と言う字の意味を知っているか?」
「木の上で立って見ているんだぞ」、私は目から涙がポロポロ出て
きた、「私は知りません」と言ったけど、、そのまま
迎えきたパトカーで、警察署に連れて行かれた。
三人座らされ、怒られた。親を呼んでいると言われた
みんなが泣き出した。泣きながら私は署名捺印させられた。
「私はしてません、知りません」と泣きながら言い続けました。

真っ赤な顔をして父が、私を迎えにきた。
どの親よりも真っ先に、父がきてくれた。
父と警察が話をしていた、私はその場で帰された。
私が万引きに関与していなことが判ったから釈放された。
帰り道、父と私は無言で歩きながら自宅に向かった。
30分の距離が、途方もなく感じた。
自宅で母の顔を見たら、ホッとして泣き崩れた。

あの二人が、後日私を呼びだした、いままで万引きした商品を
始末したいから、ついてきて!とね。仲間5人で出かけた。
タンス一杯の服は全部、万引きした服だった。
机の中の、小物はすべて万引きした物。
処分した帰り道、私はこの人たちと離れようと思った。
残りの学校生活の一年半、私はひとりになった。
でも、あの日の両親の姿を思うと、耐えられた。

いまだに、あの日のことは鮮明に思い浮かぶ
声にならない思いが、涙と一緒に出てくる。
怖い、、怖かった。


170 名前: copy 投稿日: 2000/11/26(日) 14:15
小学生の頃、自営業を営んでいた父を、ませたクラスメイトが
ミナちゃんのお父さんは低学歴だからお豆腐屋さんなんだね!と
馬鹿にした。私は深い意味も考えずに少しづつ父に対して、低学歴
だから…と見下すようになっていった。
 せめて自分は、高学歴の男と一緒になろうと思った。子を持った
とき、自分の父を尊敬してもらいたかったからだ。それが愛情だと
信じた。
 結婚した相手はミナの望み通り、高学歴の男だった。結婚前の漠
とした不安はあったものの自分では上出来だと思っていた。
 数年経ち、男は仕事のストレスを全て家に持ち帰ってはミナに当り
散らした。厭味をいうのは日常茶飯事だった。「ただの飯炊き女」
「俺がいなければ生きていけないのだから、せいぜい奉仕しろ」など
外面の良さとは裏腹なだけにミナには耐え難いものになっていった。
 結婚前の不安は的中した。
 ミナは母にも愚痴をこぼす日が多くなった。離婚さえ頭をよぎっ
た。
 ある日。普段は酒を飲まない父が珍しく泥酔し、ミナの家を訪れ
た。そしていきなり夫の前に土下座すると「この子は、本当に大切に
育てた可愛い娘なんです。頼む、幸せにしてやってください」と頭
を垂れた。夫は激怒した。
 足元の覚束ない父を担ぐように夜の町をミナは実家への道のりを
歩いた。「ミナは、本当にいい子なんだ、大切な娘なんだ…」父の
つぶやきがミナの耳を何度も打つ。
 お父さん、ごめんなさい、ごめんなさい。
 ミナは人目もはばからずに涙を落とした。 ミナは、離婚に踏み切った。心配顔の父に、久しぶりに屈託のない
笑顔を向けながらミナは言った。
「心配しないで。私、今幸せだから。今度はお父さんみたいな、家族
想いの優しい人と結婚しようかな」


176 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2000/11/28(火) 02:18
2年前に母がガンで亡くなりました。
病名は伏せていたのですが、亡くなる数日前、かすれる声で私に葬儀の手配や今後の
ことなどを伝えはじめました。
声がつらくなるとペンをもってメモするのですが、糸のような字で読めませんでした。
うん、うん、わかった。そうする。
さっきまで「早く良くなって退院してね」って言ってた私も、もう何も言えなくなりました。
その数時間後に危篤になりました。
意識のない母の手をさすりながら「早くお迎えがきますように。早く楽になれますように」
とつぶやき続けていました。
それを聞いていた親戚は怒りましたが、心底早く苦しみから開放してあげたいと思ったのです。
死の苦しみの中でも子供の心配をしてくれる親。
あの時安心させたくて「心配いらないよ。私は大丈夫だよ」って言ったけど、ほんとうはそうじゃない。
母が生きていたら、きっと今も心配かけて叱られてばかり。
私はいくつになっても子供です。
もう一度怒られたい。もっともっと、いろんな事をきいてあげて。
そして心底安心してから逝かせてあげたかった。


177 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/28(火) 02:51
父が亡くなった後、結婚して家を出た私に、
母は対等に、時には友達に話するようにいろんなことを報告してきてくれます。
子供のときはよくけんかしたというのに。
同じ市内に居て、遠くないはずなのに、長い間会っていません。
私の方は生活に余裕が無く、仕事も忙しく、あわただしく過ごしています。
しょっちゅう実家へ帰っている人のことがうらやましいです。
>176の書き込みを読んで、亡くなった父のこと、元気でいるだろう母のこと、
 いろいろ頭の中に浮かんできました。


180 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/29(水) 21:01
ずーっと昔、NHKで夕方やってたニュース640(ロクヨンマル)って覚えてますか?
曽我さんという男の人がアナウンスしてたんですけど。
どこかの家が放火魔にやられて、お母さんと子供が逃げられずに
焼け死んでしまったニュースがありました。現場からの中継が終わって、
画面がスタジオに戻ると、曽我さんは何とボロボロ涙を流していて、
次のニュースも涙声でした。
「すみません。すみません。」と何度も繰り返してました。
当時小学生だった私は何て人間的な人なんだろうと思いました。
ちょっとスレの方向が違いました?ごめんなさい


187 名前: 名無しさん@寂寥 投稿日: 2000/11/30(木) 02:52
>>154の叔父の話です、なんてことない話なんですが。

叔父は入院していたとき、同じ病棟に先天性の呼吸器不全で
病院からほとんど出たことのない、8歳の男の子と「友達」になりました。
男の子はTVの「ゾイド」が大好きで、特別室にいた叔父の大きなTVで
毎週楽しみにしていたそうです。

男の子はゾイドのおもちゃを一つだけ持っていました。
ご両親が立派な方で、「病気でも、決して甘やかさない」考えで
そうそう買い与えなかったのです。
そのため、彼のかっこいいゾイドはいつも枕と戦っていました。

「デパート行って、なんだか知らねえけどマンガのゾイドのおもちゃで
 一番強い、一番悪い奴買って来い、高くてもたかが知れてる。」

叔父は息子にそう言いました。
なんで悪い奴なんだ?と息子が訊くと

「正義の味方には、強くて悪い奴が必要だ。
 しつけも大事だけど、男の子にヒーローを枕と戦わせちゃなんねえ」

数日後、言いつけ通りジェノなんとかという悪いゾイドを
息子が買ってきたときには、もう叔父は昏睡に入っていたそうです。
孤独な晩年の締めくくりに、小さな子供の喜ぶ顔を見たかったろうに

「俺が子供のときそんなもんねだったら、ぶん殴られたけどね。」

と息子は葬式のとき話していました。


191 名前: 名無しさん@お腹いっぱい 投稿日: 2000/12/03(日) 14:14
小学校のとき小田急線で、故藤子不二雄F先生に会ったことがあります。
興奮のあまり、「ほんとうにドラえもんをかいたひとですか?」と
失礼にも言ってしまった私を、先生は笑ってくださいました。

しかし、「ぼくはドラえもんにてがみをだしたのに
どうしておへんじをくれなかったの?」と言ったときに
先生はとても悲しそうな表情になり、「ごめんね」と
私に謝り、鞄の中からテレビ朝日の名前が印刷された
ドラえもんの絵コンテを出して、目の前でサインして下さいました。

本当に悔やまれてなりません。
子供だったとはいえ、最愛のドラえもんの生みの親に
なんであんなに無礼なことを言ったのか。
忙しいことくらい子供心にわかっていたのに。

自分が大人になってから、藤子F先生の晩年の酒に関するトラブルが
漏れ聞こえて来ましたが、それでもあの日もらった絵コンテは
家宝として今でも保管してあります。


193 名前: 名無しさん@お腹いっぱい 投稿日: 2000/12/04(月) 00:44
子供に「ないた赤鬼」を読んで聞かせていたら

ぽかん、ぽかん、ぽかん、
「ほら、もっと強く僕を殴りたまえ」
「どうした、なぜやめるのだ」
「もういい、君は逃げたまえ」

のところで声が詰まってしまった


195 名前: 名無しさん@お腹いっぱい 投稿日: 2000/12/06(水) 02:42
私たちは、元々親がおらず養護施設で育ちました。
3つ上の兄は中学を出るとすぐに鳶の住み込みで見習いになって
その給料はすべて貯金してました。
そのお金で私は私立の高校、そしてさほど一流でもありませんが
大学へも行けました。

小さな会社ですが就職も決まり、兄への感謝を込めて
温泉へ連れて行きました。
ビールで上機嫌の兄に、「あんちゃんありがとう、
あんちゃんも遊びたかっただろう?」と言うと

「お前憶えてねえんか?『あんちゃん、俺、しあわせになりてえ』って
小6のとき言ったろ?それで決めたんだ、なーんも辛くなかったど
お前を『しあわせ』にしてやるのが俺の夢だったかんな」

自分ではそんなこと言ったなんて憶えてません。
思春期には、金髪で人相も悪く、クチャクチャと
音をたてて食事する兄を恥ずかしく思い、
そんな兄に学校へ行かせてもらうことへの
憤りすら感じてました。
その晩は23歳と26歳の兄弟が布団で抱き合って眠りました。
8年前のことですが、ネタじゃないんですよ
本当の話です。


198 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2000/12/06(水) 23:16
離婚してシングルマザーになった友達。
普段は明るく楽しい彼女だったが一緒に飲んでいたとき突然泣いた。
5分ほど声を出さずに泣いた後また陽気に飲む。
泣くという行為、泣くのを見守る行為、泣くのを見守られる行為、
すべて大切だと気がついた夜の話。


200 名前: 名無しさん@お腹いっぱい 投稿日: 2000/12/07(木) 01:19
Y実ちゃんと言う小学四年生の女の子がいました。
お父さんが不景気で会社を追い出されてしまい、一家は失業保険と
お母さんのパートで生計を立ててしました。
ある冬の日、Y実ちゃんは学校の友達と、冬休みの予定を話していて
豊かな家のその友達の優雅な冬休みについ、
「ハワイに行く」とウソをついてしまいました。

Y実ちゃんは、悩んで悩んで、お父さんに相談しました。
確かにウソは絶対にいけない、しかし、どんな想いでついたウソだったろう、
それを思うとお父さんも辛くてならなかったそうです。

お父さんは意を決します、失業保険の大半をジャパンカップに突っ込みました。

「神様が許してくれたらY実はハワイに行けるかもしれない。
しかし許してくれなかったら、あきらめなさい、
だってウソは絶対にいけないんだから。」

レースがスタートしました、Y実ちゃんは必死でお祈りします。
外国から集まったすごい馬を迎え撃つ、日本で一番凄い馬を。
「もうウソはつきません、もうウソはつきません」
ウソつき!と学校でいじめられる自分が頭をよぎるのか
次第に泣きべそをかきながら両手を合わせてお祈りします。

最後の直線にその馬がどんどん追い上げて来ました。
Y実ちゃんは泣きながらTVに向かって叫んだそうです。

「お願い!スペシャルウィーク!!」


201 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2000/12/08(金) 21:46
素直になれる時間って大切だ。
酔いながらこのスレを見ているとグッとくる。
朝がくればまたギスギスした社会が待っているが。


202 名前: トヨ嗚咽 投稿日: 2000/12/12(火) 18:05
同級生の子供が亡くなりました。
言葉がありません。

飲んだくれの俺だけど今日は早く帰ってうちの子供の相手をしてやろうと思いきや、
日ごろ構ってやらないもんだから警戒されて泣かれてしまった。


212 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/12/13(水) 23:28
子どもに熱湯をかけて逮捕された母親。虐待は絶対に許されることじゃない。
画面から流れてくる彼女の生活。コメンテーターのコメントに、
私は涙が溢れてきた。四世代同居のお嫁さん、ご主人とは十以上離れてる。
二十歳そこそこの彼女は、年子の世話と、舅姑、祖父母、旦那の世話を
一人でこなしていたらしい。インタビューを受ける旦那方の親戚。
「いい嫁さん」「いい家庭」「家族もいい人ばかり」
絵に描いたように褒め称える・・・
だけどね、絶対にお嫁さんは追いつめられていたと思う。
誰一人助けてくれない、唯一の救いの夫は・・
同居していた人たちも彼女を追いつめた「無意識の共犯」だと思う。
私も同居して十数年、今でこそ舅姑小姑親戚の攻撃に反撃できるように
なったけど、若い当時は、あの人たちの言葉が一つ一つナイフのように
私の身も心も傷つけたんだ。半ノイローゼ状態。旦那は仕事が忙しくて
あてにならない。「乳が出ない」「何で泣かせる」「もっと着せろ」
一日中監視され、ナーバスになった私は、自室に閉じこもり
雨戸を閉め、大声を叫びながら泣いていました。
あぁ、一歩間違えれば私も・・・
せまい密室の中で閉じこめられ、なじられ続けた私がいました。
あたる場所は子どもだけだった。
ゴメンね子ども達・・・そしてあの時の私に、偉かったね乗り越えて
と伝えたいです。

二人のコメンテーターの言葉に当時、傷ついた私の心は
癒された。


217 名前: 名無しさん@お腹いっぱい 投稿日: 2000/12/14(木) 02:59
今年の夏、6歳の娘が夏風邪をこじらせて、一週間ほど入院した。
病状は回復へ向かい、退院間近の娘のいる小児病棟へ行くと
七夕の飾りがしてあった。

多くの短冊の願い事は、「たいいんしたいです」とか
いじらしいお願いがいくつもあった。
その中に一枚「ジャイアンツのまつ井せん手にあえますように:しゅうじ」と
書いた短冊があり、ああ野球が好きな子なんだろうと思っていたら
その隣の短冊に「松井せん手が、しゅう君に会いにきてくれますように:りおん」
と書いてあって、なんだか涙腺がゆるんできた。

どの子だかわからないけど、しゅうじ君とりおんちゃんの病気が早く治るよう
おじさんは心から願った。


218 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2000/12/14(木) 03:19
父が癌で入院していた時(3年前に亡くなりました)
病院にお見舞いに行くと、男性の病棟ではエプロンをした奥さんや
娘さんに、一日中付き添ってもらっている方が多いのに、
女性の病棟では、ほとんどの患者さんがたった一人でベッドに横たわっていた。
仕事を終えた旦那さんが毎日お見舞いに来てくれてるのかもしれないけど、
女の人生って・・・って、ちょっと考えちゃった。


222 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2000/12/15(金) 01:18
初七日の晩、パパが夢に出てきて、私の部屋の戸の前に正座して、
にこにこしながら、(お世話になりました)というように、お辞儀をした。
それから部屋に入ってきて、風呂敷包みのようなものを私に渡し、促すように
「食え」とひとこと言った。
包みの中身は目には見えなかったけど、手にとって口にほおばった。
それは氷砂糖のような感触で、口の中でしゃりしゃりと音をたてた。
その隙にパパは部屋を通り抜けてベランダに出て、手すりを乗り越えようとした。
私はあわてて、「行かないで」と言って思いっきりパパの足にしがみついた。

ここで目が醒めました。世の中で一番好きな人でした。

もう5年になろうとしていますが、今でもよく夢を見ます。
家でいつもの定位置にパパが座っていて、私は、「でも本当にうそみたいだよね、
一時はもうだめかと思ったのに・・・奇跡的だよね」と言ったあとで、
「・・・え?」と不安に思って振り返るともうそこに父がいない、という
夢が多いです。

叫んで目覚めたりします。やはり目覚めたときは嗚咽、です。


231 名前: 2度目 投稿日: 2000/12/21(木) 17:48
私も弟も所帯を持って家を出て、
田舎に両親を二人きりでしてしまっていた。
小さな会社を経営していた親父は何よりも仕事優先で
遊びも仕事関係の仲間とばっかりだった。
そんな親父が二人きりになってからは母とあちこち出かけていたらしい。
でも1年前、親父が心臓発作であっけなく逝ってしまってから
母は大きな家にずっとひとりだった。
おそらく母の60数年の人生で初めてのひとり暮らしだろう。

今年の節分の翌日、用があって実家を訪ねたとき
窓の外に節分の豆が落ちていた。
母が夜、たったひとりで豆まきをしていたんだと思った途端
突然涙が出てしまった。
数粒の豆を見下ろしながら、涙が止まらず
なかなか家に入れなくて困った。


234 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2000/12/24(日) 22:30
>>54
逸見さんが亡くなったのはクリスマスだったね。
世間が浮かれていく中で家族を失うのもつらいことだろう。
自分は小学生の時1/4に祖母を亡くしたが元旦を迎えた朝、
祖母が介護していた家族に蚊の鳴くような声で「ありがとう、ありがとう」と
話していたことを聞いていたたまれなくなったよ。

葬儀の日にそれまで恐い恐いと思っていた叔父の涙も初めてみた。


249 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/01/08(月) 12:14
妻が27歳で死んだ。

妻が20歳のとき、上の子を孕ませてできちゃった結婚だった。
遊びのつもりで付き合ってたので、下品な言葉遣いと低い知性に
辟易した俺は、結婚してすぐに愛情がとっくに冷めてしまい、
もしも人生をやり直せるなら、とそんな空想ばかりしてこの7年過ごしてきた。

夜中に突然苦しみ始め、病院へ運ばれた次の日妻は死んだ。
子供には可哀想だったが、妙に自分は冷静だった。
葬儀の後、妻の身の回りの整理をしていたら、妻の財布の中から
俺の写真が出てきた。

そこで初めて号泣した俺は最低の人間だと思う
俺が最低の女と結婚してしまったのではなく
妻が最低の男を愛してしまったのだ。


254 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/01/08(月) 13:52
男の見栄や女のプライドや大人の事情や社会のしがらみやらで
泣いちゃいけないとか泣いてる場合じゃないって時多いよね…私も今だってそう言う事ある。
でも前に、ある小説の一文を読んでハッとした。

「泣いていいんだよ、涙は泣く為にあるんだから」

皆は覚えてた?私は忘れてたよ…そんな簡単な事すら、そしてとても大切な事なのに。
泣く事は恥ずかしいなんて誰が言ったんだろうね、だからってすぐに状況は変わらない
かもしれないけど、ここって言う泣ける場所があるといいね。
そうそう、このスレもその一つだよ。


258 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/01/09(火) 02:12
家の飼い猫が交通事故で死んで一週間後夢に出てきた
そして膝の上にちょこんと乗ってしばらくして部屋から
出て行った。不思議にぬくもりを感じて起き上がった後
自分でも驚くくらい嗚咽した。結構ペットごときと思うが
恥ずかしいけど


259 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/01/09(火) 03:50
23の時,父が急逝した(母は既に他界していた)。
両親を失ったショックでその後精神的に辛い日々が続いた。
父のことを思い出して泣いていたら,
彼(今のダンナ)が激怒。
彼は私を「嫌い!!」と言って殴った。

ダンナは弱音や愚痴を絶対吐かないサムライみたいな人。
だから他者の弱いところも許せないらしい。
その時は「私が悪いんだ・・・」と思って謝った。

そして今・・・結婚したこと後悔してる。
あの時の自分にもう少しプライドや自尊心があれば・・・。


266 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/01/11(木) 00:10
子のいない知人夫婦は意を決して3人の子を持つ彼らの弟夫婦へ
3人のうちの1人を養子に迎えたいと涙ながらに伝えた。
弟夫婦も涙ながらに断ったそうだ。
望みながらも子を持つことができないのはつくづくつらいことだ。


279 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/01/12(金) 23:02
泣くことは滅多に無い年になったけど、
時折、夢の中で泣いている。
それはいつも同じ夢で、20年くらい前に海で死んだ友が生きている。
「なんだ、おまえ、生きてたのかよう。」
そう言いながら、そいつの肩を叩きながら、号泣している。ずっと泣いている。


280 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/01/13(土) 00:40
夫の先妻はガンで亡くなっています。
先日、夫のパスポートケースの中に先妻からの手紙が入っているのを見てしまいました。
夫の誕生日に病床で書いたとみられ

 誕生日おめでとう。来年もお祝いしたいです。
 プレゼントは・・・ナシ

と、ありました。その半年後に30で亡くなったようです。
まだまだ生きたかっただろうな。闘病生活はつらかっただろうな。
夫は、彼女の事ホントに愛していたんだろうな・・
いろんな感情が錯綜して・・・

彼はきっとあなたのことずっと忘れないと思う。


285 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/01/15(月) 20:09
結婚式の司会の仕事してた時。

新婦の父親が急逝した様で、遺影を持ち込んでおられました。
花束贈呈の時、新婦の手紙を読んだのですが
晴れ姿を見せられなくてとても残念だった事、小さい頃の
思い出話し・・・

音響さんのあまりにはまってるBGMで(曲名は忘れたけど)
司会の私が泣き出してしまい
手紙、読めなくなってしまいました
なんとか最後までがんばったけど会場中、涙、涙でした。

結婚式って人生の縮図でもあるから色んな人生、
見させてもらいました。
自分の晴れ姿を両親に見せられるって幸せなんだなって
その時思いました。


286 名前: >両親に見せられるって幸せなんだな 投稿日: 2001/01/15(月) 20:34
親に嫁見せたかったとは思わないが孫は見せてやりたかったな。
子供ができたときにはじめてそう思った。
「今度は俺が子供に迷惑かけられる番だ。宜しくな。」
と思ったら急に親のありがたみが分かった。
子を持って知る親のありがたみとかいうけど、本当だった。


287 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/01/15(月) 20:35
会社に結構派手目の若い女の子がいて
飲み会の時に飲んでない理由を聞いたら
耳まで真っ赤になって
「いま入院中のおばあちゃんが妹の結婚式に出席できるよう
酒断ちしてるんです・・・恥ずかしいから内緒にしといて下さい」
同性ながらすごい可愛いと思った。
ごめん、話がずれた。


288 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/01/15(月) 21:33
流産した。
稽留流産といって、お腹の中で死んでるのにそのまま
留まってる流産。

定期検診で発見、次の日には手術という段取りに。
ラミナリアって言うんだっけ、子宮口広げるやつ・・
痛くて痛くて・・でも泣かないでベッドで我慢してた。
看護婦さんが「取り乱す人多いんですよ。」って言ってた。

手術室に運ばれて担当の先生の顔見たら(すごい、良い先生)
ずっと我慢して来たのに、涙がどんどんあふれでてきた。
看護婦さんが手を握ってくれた。
その後は麻酔で覚えていない。

夜中に出張先から夫が駆けつけてくれたが麻酔で朦朧としてた。
朝、看護婦さんが、綺麗な花でかざって小さな子供の棺を作ってくれた。
そして、病室で子供の魂を慰めるため賛美歌を唄ってくれた。
クリスチャンじゃないけど、唄いながら涙が一杯棺に落ちた。

札幌の天使病院でのこと。
ここの皆さんはほんとに優しくて救われた。
ちょうど、今頃のこと。雪が降ってた。
小さい棺をバスタオルにくるんで帰った。
子供には、雪って名付けた。

雪ちゃん・・そっちに行ったら沢山沢山遊ぼうね!


295 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/01/17(水) 23:40
今日は40代になる脳性麻痺の知人の葬儀だった。
こんなことをほかの板で書けば荒れるのは分かっているが分別のあるここであえて書きたい。
先天性の障害者だった彼は特に社会的に何かをしたわけじゃない。
彼の責任という訳ではないが両親にも苦労をかけてきた。
普通の人が体験できるほとんどのことを彼は体験できなかった。
でも彼がいなくなってただ単に寂しいです。本当に寂しい。合掌。


296 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/01/18(木) 00:50
俺自身の嗚咽じゃなくてスマソ

小学校の四年のころ、家の近くに飯場兼資材置き場があった。
ある日Kという転校生が来た、そこの子だった。
Kは転校が多かったからなのか、あまり友達のできないタイプだったからなのか
いつも一人だったが、俺の家と彼の住む飯場が目と鼻の先だったので
俺とKは友達になり、俺は入ったことがない飯場の中に何度も入れてもらって
意味もなく有頂天だったし、Kも俺の家に来て一緒に遊んだ。
Kはほんの数ヶ月で転校していって、俺もKのことを忘れ
飯場はなくなり、歳月は流れバブルがやってきてそこはマンションになっていった

最近、家の近所にヤクザそのまんまのベンツが止まっていて
その前を通ると中からやはりヤクザそのまんまの男が降りてきた。
こっちを凝視するその男に俺は警戒し、子供の手を握った。
その男は礼儀正しく俺に話し掛けてきた
「あそこに二十五年前あった飯場をご存知ですか?」
俺はその男を土地の権利関係のブローカーだと思ったが、関係ないから
「憶えてますよ」と答えた。
「○○(俺の名前)さんですか?」
「そうです。」
「あそこに二十五年前住んでて一時期○○小学校にいた子を憶えてますか?」
「Kか?」
「そうです!!」

名前を憶えていたことがよっぽど嬉しかったらしくKはその場で嗚咽した。
この四半世紀どんな人生を送ってきたのかは推して知るべし
家に誘うとKは固辞した。
「あんたのお母さんは、やさしくて上品で、映画の中にいるような人でした。
 俺はあんたに遊んでもらったことよりも、あのお母さんが忘れられないんです
 だから・・・・会えないです。」

同級生だった俺との会話にKは、ちょっと変ではあるが敬語で通した。
また必ず会いに来るから、と名刺を渡してKは去って行った

今年、Kから年賀状が来た
「お母さんに今度ご挨拶にうかがいたいと思っております」
とあったから俺も返事を書いた。
「うちの母もKのことはよく憶えてるそうです」と

ちなみにうちのオフクロはせがれの俺に言わせれば
おっそろしいババァなんだが。


301 名前: 名無しさん@品詞 投稿日: 2001/01/22(月) 00:46
うちの弟は、売れっ子と言うほどではないのだが、
そこそこ子供たちには有名な雑誌で漫画を描いてる。

こないだの雨の日、うちの前に小学生が座り込んでいた。
うちの隣に住んでる子と同じくらいだったから、友達なんだろう程度に思っていた。
夜、タバコを買いに外に出ると、その子はまだそこにいた。
雨の吹き込むうちのガレージでうずくまっていたその子に話しかけたら
その子は弟の漫画のファンで静岡からサインをもらいに来たのだったが
いざ家の前にきて、緊張で玄関のベルを押せなかったのだ
ビニール袋の中には自分の家の茶畑から、たぶん勝手に持ってきたであろう
静岡名産のお茶が、すっかりしけっていた。

家の中へ入れて濡れた服を脱がすと、その子はシャツの腹の中に
弟の描いた単行本が入れていた。自分がどんなに濡れても
これだけは濡れないようにと彼が大切に抱えていたそれはほのかに暖かかった。
俺はその子に「先生は別のところに住んでるんだけど、おじさんは先生の
兄貴だから、必ずサインをもらって送ってあげる。」と約束して
その子の親に電話して、東名のインターでおち合うことにして車で送った。
何度も頭を下げるその子の親と、その子と別れ帰ってきたとき
もう深夜になっていたが、弟の住むマンションへ行って事情を話した

弟は食っていくためにその雑誌で描いてるだけで
子供なんかよりも、コミケに出す本の方が大事な奴で
子供からのファンレター(しかもそう多くないのに)もろくに読んでない。
わが弟ながら嘆かわしい奴なのは知っていたので嫌な予感はしたのだが
案の定、奴は「わざわざ送ったの?警察に保護させればいいのに」とほざきやがった
女の子が歌ってるアニメの主題歌らしき曲の流れる弟の仕事部屋で
そんなセリフは大御所になってからほざきやがれ!と俺は弟をぶん殴った。

てめえの単行本なんか本屋の隅っこにたまーに見かける程度のくせに
そんな漫画をわざわざ買って、胸躍らせた坊主が大冒険の果てに
たどり着いた目的地で、どんな想いで雨に打たれてたと思ってるんだ
俺は泣きながら弟をぶん殴った。

単行本でなく、新品のスケッチブックにカットとサインを書かせ
まるごとその子に送った。
クズでヲタな弟だが、せめてその子にとって尊敬する先生のスケッチブックを。


303 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/01/22(月) 14:50
私が23歳の頃、就職1年目の冬、私の誕生日の日のこと。
職場の人たちが「誕生パーティーをしてあげる!」というので、家に、「今日は遅くなるよ。
ゴハンいらないから。」と電話を入れたら、父が「今日はみなさんに断って、早く帰ってきなさい。」
と言う。「だってもう会場とってもらったみたいだし、悪いから行く。」と私が言うと、いつもは
温厚な父が、「とにかく今日は帰ってきなさい、誕生日の用意もしてあるから。」とねばる。
「???」と思いながら、職場のみんなに詫びを入れて帰宅した。
家にはその春から肋膜炎で療養中の母と、電話に出た父。食卓にはスーパーで売ってるような
鶏肉のもも肉のローストしたみたいなやつとショートケーキ3つ。
「なんでわざわざ帰らせたの!私だってみんなの手前、申し訳なかったよ!」と言ってしまった。
父は何か言ったと思うが、覚えていない。母が、「ごめんね。明日でもよかったね。」と涙ぐんだ。
私は言い過ぎたな、と思った。でもあやまれず、もくもくと冷えた鶏肉とケーキを食べて部屋に戻った。
その2ヶ月後、母の容態が急変し入院した。仕事帰りに病院に行くと、父がいた。廊下の隅で、「実は
お母さんは春からガンの末期だとわかっていたんだよ。隠していてごめんね。」とつぶやいた。
呆然として家に帰ったあと、母の部屋の引き出しの日記を読んだ。あの誕生日の日のページに
「○子に迷惑をかけてしまった。」とあった。
ワーッと声を出して泣いた。何時間も「ごめんね。」といいながら泣いた。夜が明ける頃には
涙が出なくなった。すごい耳鳴りがした。
4,5日して母は死んだ。仕事をやめて、看病していた父も数年前に死んだ。
父が準備したささやかな誕生日パーティーをどうして感謝できなかったのか。
母にとっては最後だったのに、、、。
こんな情けない自分でも、がんばって生きている。


312 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/02/01(木) 01:35
私の父は三年前、私がカラオケ屋で朝まで歌い騒いでいる日に亡くなったそうです。
退職してからはお酒ばっかり飲んで、淋しくなるとしょっちゅう電話掛けてきました。
母と離婚し、マンションに一人暮らし。
ある朝、私が掃除機をかけている時に
「今度はいつ帰ってくる?」
「そんなの、春休みになってからじゃないと分からないよ!
今、すんごく忙しいから後でこっちから電話する!」
父の声を聞いたのはそれが最後です。
妹から電話が入って 「じいじ・・・死んだよ・・・・」
一人暮らしの為、亡くなってから10日以上経ってからの発見でした。
新聞がポストから溢れるほどたまっているのを訝しいと・・・・。
とるものもとりあえず駈けつけても、顔は見られませんでした。
見せられる状態ではなかったそうです。
ベランダには、自分で始末したらしい血まみれの下着がゴミ袋にありました。
トイレの便器は血で真っ赤に汚れていました。
口から吐いたのか、下血だったのか・・・・。
しんどかったら、どうしてしんどいって言ってくれなかったのか。
また下手に電話して、怒鳴られるのがイヤだったのか。
どうしてあの日、「春休みには帰るよ。だから飲み過ぎるなよ」
そう一言でも言ってやれなかったのか。
自分の親だけはいつまでも死なない・・・そう勝手に思っていたような気がします。
ごめんねお父さん。ごめんね、ものをもらう時だけ可愛くって。
すぐにきついことばっかり言ってごめんね。
ごめんね、春休み、お彼岸には帰るから、ね。


316 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/02/03(土) 18:55
私の妹、生後3ヶ月で突然死した。
もう30年も前の事。

先日父親がそのときの事をはじめて口にした。
病院に駆けつけた時、すでに息は無く医者もマッサージ、
あきらめたんだって。
でも父は信じられなくて自分で人口呼吸やり続けて・・。

だんだん、つまんだ鼻が紫色に変わって行って、先生も
泣きながら もう止めましょうって。
私に出来た子供(初孫)、生まれ変わりって思ってるみたい。
たまに名前間違えて呼んでる。

その話、聞いたとき自分の部屋に戻って嗚咽した。
子供に先立たれるほどつらいことないよね。


325 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/02/06(火) 01:48
十数年くらい前に渋谷でレイプされた
一晩監禁され
首を絞められて(痣が残ったくらい)その時は本気で死んでしまうのだと思った
幸いなことに逃げおおせたけど
以来、感情や感覚がおかしくなってしまった
自分の中でその事件を「なかったこと」にしてしまったつもりだったけど
(思い出すとフラッシュバックが起こるので)
ずっと心身の不調が続いていた
自分には「レイプされるような価値しかない」って思い込んだ
やっと最近その事件について泣けるようになり、怒れるようになった
ものすごく悔しくてものすごく哀しい・・恐かった・・

この春から放送大学に入って、被害者心理学やカウンセリングを学んで
レイプ被害者の力になれる専門知識を身につけたいと思ってる

犯罪の被害に遭った人は泣かなくちゃダメなんだって思う
泣けるようになるまで時間がかかるんだけど
いつか、私と同じ目に遭ったひとたちのために
「泣ける手助け」が出来ればって思ってる
それが私自身をも救うことになる気がする


328 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/02/06(火) 19:59
10年ぐらい前、ある病気で入院した。
結構苦しくて、もしかしたら、このまま逝ってしまうんじゃないかと思った。
ある日、夢にうなされた。子供のころ、可愛がってくれた祖父がいた。
祖父は何年も前に亡くなっていたが、なぜか夢のような気がしなかった。
祖父は何も話さず、優しくほほえむだけだった。でも、次の日を境に、
病状は回復に向かった。偶然なのかもしれない。だけど、祖父が苦しむ
孫を助けるために、黄泉の国から来てくれたのだと信じている。


331 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/02/13(火) 15:47
2年前の、ちょうど今頃の話です。
その日ちょっと熱っぽかった(といっても37度くらい)のですが、
翌日はどうしても休めない仕事があったので、少々きつい解熱剤を
飲んで寝ました。
翌朝、ちゃんと熱もなく体のだるさもなく起きることができたの
ですが、いつものように朝ご飯を口にして「???」
みそ汁を飲んでみて「?????」
梅干しをかじってみて「・・・・・・・・・・・・・・・」
味覚がゼロになっていました。匂いすらしません。梅干しのしょっぱさも
全くなしです。でも、気のせいだと思うことにしました。
昼食も、晩飯も、同じでした。砂をかじるというのは正にこういうことなんですね。
その翌日、会社を休んで某大学病院に行ってみました。
数々のテストをした結果、医師は突き放すように
「もう直りませんね。薬だしときますけど、厳しいので諦めておいた方が
いいですね。」
病院を出て、公園のベンチから携帯で妻に詳細を話しました。
その時は比較的大丈夫だったのですが、
「もう、ご飯を作ってくれても美味しいって言えないかもね。」と
言った瞬間、正に嗚咽してしまいました。電話先の妻も同様でした。

2年たって、違う病院に通ってほぼ元に戻りつつあります。原因は未だに
わかりません。薬は関係ないとの話なんですが。友人のお医者さんは、
「当時は言えなかったけど、正直、直るのは不可能だと思ってた」と言って
ます。
生死に関わるような話ではないのですが、自分が白昼堂々と涙したのは
あれが最初で最後なので書かせて頂きました。


351 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/02/26(月) 00:05
あんたは俺と実際あった事は無いよね?
何度も言いたくないけど、俺はクールって言われる事が多々あるの。
とにかく絶対冷静なんです。
冷静さでは、誰にも負けない自信があるのさ。
周りの奴がどれだけ騒いでいても、ビビっていても、俺は常に冷静だった。
でもね、頭の中では色々考えてるんだよ。

冷静≠何も考えない
だよ。

冷静な奴ほど、色々考えを持ってるのさ。
ここでは冷静に見えなくても、普段の俺は冷静なんですよ。


366 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/03/07(水) 21:01
あるメールニュースのコラムにあった話です。
本人はフィクションとコメントしていますが、
30代後半の私には時代背景とともにあいまってホロリとしましたので紹介いたします。

70年代の初め、私の家族は、関西のとある新興住宅地に引っ越してきた。山
を切り開いて造られた町は、自然に溢れ、太陽の光がさんさんと降り注ぎ、経
済成長期の中、これほど幸せな環境はなかった。私は、その町の新しい中学校
に入学し、新しい友達が毎日増えていく、楽しい日々を過ごしていた。

 2年生の1学期のことである。お昼休みに、私は女の子3人に呼び出された。
真中の少女がノートを差し出して、これに日記を書けと言う。そして、横の2
人が「ちゃんと書くのよ」と念を押すのである。私は、これが何を意味するの
かがよく分からなかった。

 家に帰ってからノートを開けてみると、彼女からのメッセージと前日の日記
が書かれていた。それまで、日記は正月三箇日しか続かず、昼食と夕食のメニ
ューしか書いていなかった私は、困り果てながらも、その日のページを埋めて、
翌日、彼女に渡したのである。70年代、このような交換日記が流行っていた。

 今となっては、自分が何を書いていたのか全く覚えていない。テレビとか、
友達のこととか、他愛も無い事を書きつづけていたのだと思う。オバQがムー
ミンに「変身」する漫画とか、駄洒落とか。それぐらいしか書けなかったと思
う。

 それでも、1日置きに日記を書いては彼女に渡していた。彼女が何を書いて
いたのかも覚えていない。そして、そんな日々が1ヶ月ほど続いた。

 確か、あれは夏休みの1週間前の土曜日だったと思う。学校が終って、同じ
組の仲間6人で自転車に乗り、まだ開発中だった隣の住宅地まで遠出すること
になっていた。みんな新しい自転車を持っていた。でも、暑い中、我々は隣町
までは行き着かず、近くの小川で遊んでいた。

 帰り道、友人たちと別れて坂道を汗だくで上っていると、「サトウ君」と呼
ぶ声がする。振り向くと彼女が、家の前でホースで水をまいていた。彼女は、
いたって機嫌が良かった。チョコレートの懸賞でコダックのカメラが当たった
のである。1時間ぐらい話したと思う。帰る前、彼女が「写して」と言うので
写真を1枚撮った。そして、次ぎの日に会うことにしたのである。「約束よ」
と彼女は言った。

 次ぎの日も暑かった。大汗をかいて公園に自転車で行った。そして彼女が現
れるのを待った。しかし、待てども彼女は来なかった。約束したのにと呟きな
がら、私はひどくがっかりして夕方、家路についた。

 月曜日、彼女は学校を休んだ。組の友達に話すと、「デートでふられたんか」
と笑われた。デートのつもりは無かった。いけないことをしてしまったのだろ
うか?裏切られたのだろうか?私は良く分からないまま、腹を立てた。彼女は、
期末まで、とうとう学校を休んだままだった。


367 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/03/07(水) 21:02

 夏休みに入ると、私は、田舎の親戚の家に預けられることになった。父が急
に転勤することになり、準備のために家はどたばたしていた。関西に戻って来
たのは、2学期が始まる約1週間前だった。

 帰ると、母が「彼女」が大変な病気で入院していてると言う。私は驚いた。
彼女のことは、家では内緒にしていたのである。その事がバレたことに驚いた
のだ。

 そして、日曜日に市民病院にお見舞いに行くことになった。私は、事の重大
さを全く理解していなかった。母と病院に行くと、彼女の母親が待っていた。
そして、私に「来てくれてありがとう」と何度も頭を下げるのだ。

 彼女は個室にいた。部屋に入ると、ベットに横たわる彼女がいた。彼女は、
病の為に疲れ果て、もうぼろぼろだった。まだ子供だった私は、驚き、恐怖の
あまり、走って逃げたのである。大きな病院の中を走り抜け、玄関の外で震え
ていた。

 すると、彼女の母親がやってきて私の手を取り、「待って、お願いだから。
ちょっとでいいから、そばにいてやって」と言う。そこへ私の母が来て、いや
がる私を無理矢理、彼女の病室まで引っ張って行ったのある。「ちゃんと優し
い言葉をかけてあげるのよ」と言われ、私は、彼女のベットの横の椅子に座ら
された。

 一体、どのぐらい病室にいたのかは覚えていない。

 それから数週間後、2学期の2週間目に、私の家族はイギリスに引っ越すこ
とになった。イギリスでは、現地の中学、高校に通い、何年か経過し大学を卒
業した。日本を忘れ、日本語も忘れ、ロンドンでイギリス人と共に働いていた。
そうして、12年という歳月が過ぎていった。


368 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/03/07(水) 21:03
 イギリスに行ったのは父の都合だったが、今度は私が、日本に転勤すること
になった。そして、また関西に戻って来たのである。帰国して1年ぐらいして、
小学校2年2組の友達と、再会することになった。

 しかし、12年もイギリスで過ごした為か、昔の友達と会うと、もう話題が全
く合わなかった。でも、彼女のことを聞くのは、忘れなかった。

 「なんや、サトウ君、知らなかったんや。」

 その時、彼女が、私が転校した約1ヶ月後に亡くなったことを始めて知った
のである。2年2組は、私が引っ越した直後に彼女が死に、その後はクラスか
ら笑顔がぱったりと見られなくなってしまったそうだ。3年に上がると、受験
戦争で毎日が苦しく、自転車でみんなで遊びに行ったあの日が一番楽しい思い
出だったと、彼等は語った。

 友人たちと会って数ヶ月後、私は、私がかつて住んでいた町に戻っていた。
そして、彼女の家の前で立ち止まっていた。ベルを押すと、「はーい」という
声が聞こえ、まもなく彼女の母親が出てきた。

 私は、何かを言おうとした。でも、何を言っていいのか分からなかった。そ
して、「すいませんでした」と一言だけ言うと、逃げ出してしまったのである。

 「サトウ君でしょ。待って、お願いだから。」

 13年も過ぎているのに、彼女の家に始めて入ると、70年代当時の面影があっ
た。彼女の母親は、冷たいジュースを勧め、本棚にあった10冊のアルバムを出
してきた。そして、彼女が亡くなるまでの、ことの経緯を話しくれた。

 約束の日、彼女は朝から微熱があり、気分が優れなかった。昼食もあまり食
べないので、どうしたものかと思っていたら、彼女が思い出したように自分の
部屋に入って着替え、これから出かけると言い出した。病気になる前に寝てな
さいと言う母親と娘は大喧嘩となり、彼女は、飛び出していったのである。

 ところが、10分もしない内に近所の人が駆けつけてきて、彼女が路上で倒れ
ていると伝えた。暑さの中、失神している彼女を背負って家に連れ帰り、救急
車を呼んだのである。最初は原因がわからず、病状はどんどん悪くなっていっ
た。

 入院中、彼女はひどくふさぎこんでいたのだが、時々、「勉強用に」と持っ
てきたノートを見ながら、くすくすと笑う彼女に、母親も最初は気がつかなか
ったらしい。病状が悪化して、始終眠る彼女の枕もとのノートを手にとって始
めて、それが彼女と私が書き綴った交換日記だったことを発見したのだ。彼女
の母親は私の母親に会いに行き、娘の病状を説明した。それが、私が秋田から
戻ってくる数日前だったのである。

 「あの時、サトウ君が『がんばってね』と言ってくれたので、その後、ちょ
っとは回復して、後数日しかないと言われていたのに1ヶ月半も持ったのよ。」

 アルバムを開けると、みんなから愛され、大切にされて育った彼女の写真が、
ページを捲るごとに見られた。そして、最後のページには、あの土曜日に私が
写した彼女の笑顔が飾られていた。

 「あの交換日記はね、娘が天国に持って行ったわ。」

 大粒の涙が止まらなかった。

 あれからさらに13年。私は、骨髄バンクへのドナー登録のために秋葉原の献
血センターに行った。ひどく寒い日だった。採血を済ますと、10ccの私の血が
トレイに置かれているのをじっと見つめながら、ようやく、生きている意味が
分かったような気がした。


376 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/03/16(金) 00:56
病院で知り合った車いすの彼に偶然10年ぶりにあった。
元々寡黙な性格だったが事故で障害者になって以来ほとんど外出もせず、
会話らしい会話はほとんどできなかった。
私のことも憶えていなく入院中のこともほとんど記憶に残ってないそうだ。
うつろな目で無気力さだけが漂ってきた。

彼に同情して涙が出た訳じゃないけれど、ただ悲しかった。
もっと周りがいろいろなサポートができたんじゃないのかと。
でも退院後の10年は彼が選んだ人生なんだろうな。
とりあえずインターネットを薦めて別れた。


388 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/03/22(木) 16:50
ぼくは、シロ。
みきちゃんのイヌ。
ぼくは、いつも 楽しくて、
うれしくて、
しあわせ だった。
みきちゃんが、だいすきだった。
ずっと いっしょに いられると思った。
どうして かな。
なんで かな。
みきちゃんが、いなくなった。
ぼくは、いつも さみしくて、
かなしくて、
ふこう だった。
みきちゃんに 会いたかった。
とっても会いたかった。
どこ?どこ?どこ?どこ?どこに いるの?
シロ、ってよんで。あたまを なでて。


389 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/03/22(木) 16:50
「シロ、シロ。もう、いっしょにあそべなくなったね。
いっしょにごはんも食べれなくなったし、
あたまもなでてあげられない。
でもね、そばにいるよ。いつでも会える。
今も これからも、ずっとかわらない。」
それは、僕をよぶ とてもなつかしい声。
ぼくは、シロ。みきちゃんに 会えた。
目をつむるとね、みきちゃんのこと 考えるとね、
いつでも 会えるんだ。
とおくて、ちかいとこにいたんだね。
まぶたの裏で ぼくらは、かわらない。
ぼくらは、あの時のまま。
ぼくは、シロ。
みきちゃんに、
いつでも会える。


391 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/03/30(金) 09:15
 友達と旦那様の乗った飛行機が墜落した。彼女とはとても仲良し
だった。同じ日に寿退社して、偶然にも結婚式は一週間違い。結婚
してからもずっと仲良くしようね、って言ってたじゃん。まだお互い
新婚だよ!なんで先に逝っちゃうのよ…。

 お葬式が終わっても、ずーっと悲しいままだった。何をしても楽しい
気分になれない。気がつくと彼女のことを考え、街を歩いていても涙が
勝手にポロっとこぼれてくるのに、思い切り泣くことができない。
なんだか頭の中に霧がかかったような、最悪の精神状態が続いた。

 数ヵ月後、彼女の誕生日に、納骨の済んだばかりの新しいお墓に
お参りに行った。可愛いバースデーケーキと素敵な花束を買って
いってお供えした。

 その日の夜、彼女の死後、初めて彼女の夢をみた。私も彼女も、
これは夢の中のできごとだということを知っていた。そして、目
が覚めるたら、もう私たちは2度と会えないということも。
 そして私たちは抱き合って、思い切り泣いた。ずーっとずーっと
泣いていた。

 目が覚めた時、私はやっぱり泣いていた。横でびっくりしてる
旦那の腕の中にもぐりこみ、彼女の死後初めて、声をあげて大泣き
した。「○○ちゃんがかわいそうだあ!」と何度も叫びながら。
旦那は黙って聞いていてくれた。

 その夢以来。不思議なことに彼女との楽しい思い出しか思い
出せなくなった。思い出の中で彼女はいつも微笑んでいて、
私も思わず微笑んでしまう。もちろん街中でふいに泣くことも
なくなり、私に笑顔が戻った。
 あの夢は、いつまでも悲しんでいる私に、彼女が最後のお別れ
に来てくれたのだと思う。

 あれから10年近くたつ。私もそれなりに辛い経験をして
いるけど、その度に彼女が見守っていてくれる気がする。
 あの世での再会を楽しみに、とりあえず私はこっちで頑張って
生きている。

 %%%%ネタじゃないです。%%%%


396 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/04/01(日) 09:51
転勤になって、一人暮らしを始めた。慣れないことばかりで、かなり
へばっていた。ある日、出張先のホテルで夢を見た。
なぜか、実家の居間でソファーに寝転がってTVを見ている。もう深夜
で部屋の電気も消して暗い中で、TVが青い光をちらちら放っている。
もう疲れて一歩も動けない、早く自分の部屋で寝なきゃと思いなが
ら、TVを眺めていると、父が2階の自室から降りてきて、ちょっと
こっちを見た後、冷蔵庫の中を覗いて、背を向けながら、
「おまえ、いつまでそんなことしているんじゃ。仕事ばかりしてん
と、自分の身体大切にせーよ。」
と言った。
そこで、目が覚めた。胸の中の何かが外れて、暖かいものがこみあげ
て来ていた。枕を抱いて嗚咽していた。転勤前には、いろいろなこと
があって、父と冷戦中であった。うちの父は、口下手でほとんど話を
しないが、たまに何かこちらに話すときは叱責の言葉ばかりであっ
た。転勤前に、いつも深夜まで続く残業に
「おまえ、よっぽど仕事がでけへんのやなぁ。きちんと定時までに仕
事、よう終わらさんのか。」
などと言うので、大喧嘩したばかりであった。
「あほやなぁ、父さんは。もっと別の言い方したら、きちんと通じる
のに。」
と言いながら泣いていた。宿泊のホテルから、客先に向かう地下鉄の
中でも涙が止まらずに、周囲の怪訝な視線を浴びながら泣いていた。
その日の仕事を終えて、実家に電話した。母が出て、互いの近況につ
いて話した後、
「父さんいる?」
って聞いたら、しばらく電話先で話した後、
「元気にしてたら、それでええって。何も話すことあらへんって言っ
ているよ。」
「父さんらしいな。元気にしているってだけ言っておいて。」
と言って切った。夢の話をするつもりだったが、そういうのがなくて
もつながっているという安心感があった。
それから一週間後、過労から、はやり目と風邪を併発して、高熱と一
時的な失明のため、一ヶ月休職して、実家で両親に面倒見てもらうこ
とになるとは、予想もしていなかった。


398 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/04/09(月) 16:52
某所からのコピペ。
嗚咽と言うよりちょっといい話。
---
事情があって生活保護を受けている母子家庭の知人の子供が。
夏休みに法事で東京へ来た。
「おじさんがディズニーランドへ連れてってあげるよ」と言うと
頑なに固辞するので、子供のくせに遠慮するなあと思って理由を訊いたら
「だって高いから」とだけ言うと、その子は下を向いてしまった。
「じゃあおじさんと、明日どこかドライブへ行こう」と次の早朝連れ出した。

首都高から湾岸線、浦安で降りるとTDLの看板があり、その子は
まだきょとんとしていたが、駐車場へ入るあの角を曲がったときの
その子の驚きと感動の歓声が忘れられない

持ちきれないくらいのおみやげを買ってやり、
5万くらい使ったが、馬にぶち込むよりはいい使い方だと思った。


408 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/04/28(土) 01:26
3年前に父が他界した。重度のアルコール中毒により肝臓を壊し肝硬変に
なった事が直接の原因だった。倒れた後、昏睡状態に陥り一度も意識を回復
することなく息を引き取った。家族を省みる事もなく、働く意欲も失せ、総ての
責任から逃れる様に酒に溺れた父は人生の落伍者だった。
親は選べないからな・・諦めにも似た感情の中で激しく父を憎悪していた俺は
父の死もまったく哀しくはなかった。むしろほっとしたというのが偽らざる本心
だったのだろう。葬儀の日、母と妹は父の為に涙を流した。俺は喪主として葬儀を
片付ける事しか考えていなかった。その後、一周忌、三回忌と流れる日々の中で
まったく父の事を思い出す事も無く、俺の記憶から父は完全に消え去っていた。
俺は冷徹な人間なんだろうな・・自嘲気味にそんな風に考えていた。

先日、よく晴れた日に仕事で海岸線を走っていた時、不意にまだ小学生だった頃
の夏、父と海にいった日の思い出が蘇った。俺と友人を連れて海に来た父はまだ
若く、俺達と一緒に実に楽しそうに泳いでいた。スポーツ万能で結構男前だった
父は当時の俺にとって自慢の父親だったな・・そんな事をぼんやり考えていたら
不思議と涙が溢れてきた。父の死後初めて流した涙だった。

コンビニで酒を買って帰り父に供えた。酒を憎んでいた俺がそんな事をしたので
母は少し驚いた様子だったが「珍しい事もあるねえ、おまえが父さんに供え物を
するなんて。」と言い心底嬉しそうに微笑んだ。


410 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/04/29(日) 03:43
母親が急逝しました。何の虫の知らせも無く連絡を受けた時は
もう逝った後でした。妙に冷静になっている自分とどうしたらいいのか
わからない自分とが交錯してます。灰になる前にそっと母の髪の毛を少し
切りました。ヘアークリームの匂いがして白髪まじりの髪を見つめていたら
ふいにいろんな事が思い出されて・・・あとからあとから涙が出てきて何も見えない。
風呂場でタオルに顔を埋めて泣きました。今はただ喪失感でいっぱいです。
もっと生きてて欲しかった。何もしてやれなかった。


411 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/04/29(日) 10:10
2歳になる娘がいます。私はこの子を抱き上げたりおぶったり
してあげたことがありません。
高校のときの事故で、右肘から下がほとんど動かないからです。
でも子を思う親としての気持ちは、決して人に劣っていないつもりです。

先日離婚が決まりました。
主人が有責なのに、他に女の人を作ったからなのに
腕のせいで親権をとれませんでした。
娘とはあと2ヶ月しか一緒にいられません。

買物の帰り、娘と手を繋いで歩きます。
だらりと下がった右手を、娘が精一杯の力で握ってくれて
でも、私はその手を握り返してやれない…
一杯抱っこしたり、おんぶしたりしてあげたかった。
ずっと、ずっと傍にいて成長を見守りたかった。


421 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/05/01(火) 23:51
2ヶ月前会社の同僚が39才の若さで肺ガンのために死んだ。
手術の経過がよくないのでうすうす予感はしていたが知らせを聞いて
すぐ実家まで枕焼香(っていうのだっけ?)に行った。
実家では奥様も、もうさんざん泣いた後だったのでしょうが気丈に
対応していて私も涙をこらえて座っていました。
その時です、3才の次男坊が私にちっちゃな手で座布団をもってきたのです。
お父さんが死んでしまった状況も理解してないのでしょう。
「どうぞ」そう言われた瞬間、私はまさに嗚咽してしまいました。


432 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/05/02(水) 22:41
同居していた父が急逝した。私の幼い娘の面倒をみることに全てをかけてくれていた
優しい父だった。だけど、一緒に生活している時は教育方針の違いで言い合いもしたし
夫婦間のトラブルにも巻き込んでしまって本当に迷惑かけていたと思う。

先日2歳の娘が「じーちゃん、書くの。絵、書くの」と言って
画用紙を引っ張り出してきた。
そこには娘と一緒に書いたのであろう、実に様々なイラストというか落書きが本当に
沢山あって、私がいない昼の時間に父と娘が過ごしたなごやかな時が感じられた。
父の書いた絵を見ていたら、自分も幼い頃こうやって父と過ごしたんだなって。
なんだか自分もすごく幼い頃に逆戻りしたようになってしまって号泣した。


438 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/05/04(金) 17:21
嗚咽ではないのだが・・
昨日うちの小3の次男と自転車の練習をした。
小3で?と笑われるかもしれないが、もんのすごくどんくさいのです。おまけにビビリ。
1つ下の妹はとっくの昔に乗れているので本人、今年こそはとヤル気です。
しかし運動会でもビリ以外とった事がないほどの運動神経で3時間経過しても全然進歩せず。
長男の時も妹のときも1時間ほどで乗れたので私もちょっとあせってきた。
やさしくやさしく、ときには怒り、なだめ、ゲンコはり、ほめて、おだてる・・・
しかし案の定泣き出してしまいました。もうだめかとあきらめかけ「帰るのか?」
と聞くとあの根性なしが「もう少し・・・がんばる」との答えでした。
これでもちょっとグッときたのですが心を鬼にして(大げさか)特訓再開です。
そしてもう日も暮れかかったころ、支えてた手をそーっと離しても乗れるように
なったのです。不思議なもので一回コツをつかむと何で乗れなかったの?っていう
くらいみるみる上達しました。
帰り際、ほこりだらけのジャージをほろってやりながら「やったな、おい」というと
真っ黒な顔で「せっかくの休みつぶれちゃったね、ごめんね」とませた事を言いやがり
やがって不覚にも涙がこぼれてしまった。
たいして金もないので泊まりがけでどこかに行くなんてできないがいい休日だった。
風呂上がりのビールがなまらおまかった。


453 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/05/08(火) 00:23
先日結婚6周年を迎えました。
その日の夜遅くまで、旦那と二人で話をしてたんですが
ふと、会話が途切れました。
そろそろ寝ようかな・・と思っていたら、旦那が「あのね・・・聞いてくれる?」と
話しを始めました。
旦那の両親は、彼が5歳の時に離婚してるんですが、今までその話題は
あまり触れないようにしていました。ところが、この日に限って旦那の方から
両親が離婚した時の事を話はじめました。
経済的な理由等々によって、旦那は父方に引き取られる事になったんですが
「行きたくない」と泣き喚く自分を見ていた母親の、何とも辛そうで悲しそうな顔が
今でも忘れられない・・・話ながら旦那は既にボロボロ涙を落としていたんですが
こらえ切れなくなったらしく、枕に顔を埋めて嗚咽していました。
その後、気を落ち着けた旦那は「両親が離婚したのは結婚6年目だったから
自分達はそれを乗り越えられて、本当によかった」と言って
またちょっと泣きました。

私はこの人の妻になって本当に良かったと思ってます。


461 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/05/10(木) 08:33
 8年前の母の臨終の時、妹は泣き叫んでいた。だが俺と父は取り乱すことは
なかった。そんな二人を妹はなじったが、ほんとうは大声で泣きたかった。でも
そこで感情を爆発させると自分が壊れてしまうように感じた。父も多分そうだっ
たんだろう。

 でも俺は母がもう余命幾ばくもないと知った時、人気のない病院の待合室で
涙を流していた。父も、実家に電話したとき、ひどく声がかすれていたことがあ
った。母がもう長くないことを一番早く知っていた父は人知れず大声で泣いて
いたんだろう。

 今思えば変な意地張らずに大泣きしておけばよかったと思う。おかげで悲し
みが心の内に山積みになって、しばらく辛かったから。


464 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/05/12(土) 03:45
母の余命がもうわずかしかない。
去年手術したときに覚悟していたのだけれど,
様子を見ているとその日が徐々に近づいてきているのがわかる。
本人の目の前では明るくふるまおうと思うのだけれど,
ふくよかだった身体に肉はなくなり,
症状が急速に悪化して,もう歩けなくなってしまった。
毎日見舞いに行っている父は
いつも話をしながら背中をごしごしこすってやっている。
母は「ああ,気持ちがいいよ」と,おとなしく座っている。
俺は見舞いに行っても何も言えず,ぼんやりとしている。

もうすぐ母の日だと気づいた。
来年はカーネーションの色が変わってしまうんだと
今日,気づいた。
泣いてしまった。


471 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/05/14(月) 01:35
とにかく子供の頃から、両親に迷惑をかけていた。親のいやがることをわざと
やっていたかも知れない。
「こいつら全然わかってねえ」と大きくなっても思っていた。

20代になっても、親に迷惑かけどおしだった。借金の肩代わりさせたり。
30過ぎてやっと自分のやってたことに気がついたら、今度は恥ずかしくて実家に顔を
出せなくなってしまった。
それでもある日久しぶりに帰ったとき、父親が「生活は大丈夫か?少ないけど
足しにしろ」って自分の持っていたお金を小銭まで私に渡してくれた。
家だって自営業で、今はスーパーに押されて閑古鳥ないてるのに、それに私は
両親の老後の蓄えまで食いつぶしたってのに…手のひらに載せられた、鈍く光る
小銭を見ていたら、涙が止まらなくなってしまった。

昔は言えなかったけど、今は声を大にして言える。
「うちのオヤジは世界一いい男だ」って。

結局まだ恥ずかしくてろくに実家には帰ってないんだが、これを書いてちょっと
すっきりした。近いうちに実家に帰ろうと思う。
やっとほんの少し生活にも余裕がでてきたから、新しい服でも買ってあげよう。


472 名前: 当方十代 投稿日: 2001/05/14(月) 08:43
昨日このスレ読んだ後さ、
街でカーネーションもった子供みたのよ。
そしたら、知り合いのおばちゃんが近寄って来てさ、
なんか声かけてくるのよ。
なんだろ?って思ったら、
俺、泣いてた。
ここを読んだことも、一因だけど、
そういえば、高校卒業して一年以上、全然連絡してなかった。
おふくろも、親父と離婚して一人暮し・・・
頼りの叔父も入院したとかで、
大変だろうなぁ、寂しいだろうになぁ、と。
涙がとまらなくなってた。人前で情けないと思いつつも、とまらなかった。
実家に電話しようと思いました。


474 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/05/14(月) 15:13
バツ付けて、乳飲み子を抱えて実家に帰ったのが8年前。
ちょうどその時、父親が事業に失敗して借金を山ほど抱えていた。
親戚中にも借金。サラ金数社からも督促の電話が月末には休むまもなく来ていた。
父には、何がなんでも借金を返すんだという意志はなかった。
平然と嘘を繰り返し、のらりくらいとその場限りの言い訳で逃げ回っていた。
母も精神的につらかったのか酒量が多くなり
夜、酒を飲むと人が変わったように暴言を繰り返しては暴れる。
結局、耐えかねた私が父に借金の任意整理の手続きをさせ、
乏しい給料の中から弁済をして5年経った。
その間も両親の諍いは止まず、私も収入を当てにされ独立もままならなかった。
そして最後の支払いが今月終わる。
今まで、何度も何度も何度も布団の中で声を殺して泣いた。
だけど子供の顔を見て、歯を食いしばって頑張ってきた。子供は4年生。

きのう母の日にマグカップとグラスをくれた時、初めて子供の前で泣いた。
「おかあさんありがとう」の一言で、全て報われた気がした。
もう少ししたら、二人だけの生活が始められる。布団の中でもう一度泣けてきた。


478 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/05/19(土) 11:45
高校生のとき親友と殴り合いのけんかをして負けなんかくやしくて泣いてしまいました。
泣いた自分が惨めで情けなくそれ以来、人前でも1人でも涙を流して泣かないと誓いました。
それ以来20年近く涙を流して泣いたことはありません。あのときの涙が逆にくやしくて
泣けてきそうなことがあってもぐっとこらえてしまいます。
今結婚して5年目ですが妻が不妊のため子供がなかなかできません。
子供ができたら泣けるだろうな。いや泣いてみたい。


480 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/05/19(土) 14:29
家出同然に親元から離れて5年になった。
居所も教えてなかったので、どんなにか心配かけたことだろう。
何処からか、母が住所を知ったのでだろう。
中学しか出ておらず、字も下手で漢字もろくに書けない
母からの手紙が来た。
折りたたまれた1万円札と「これでなにかを買いなさい。」と。
おかあさん。ごめんなさい。


487 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/05/25(金) 03:14
仕事をやめて、専業主婦ってのになった。
体はボロボロで、生理はめちゃくちゃ。セックスなんかする気にもなれない。
その最中に家族で唯一愛してくれて、愛してた祖母がなくなって、
もう、私なんか生きててもしょうがない、ムダな人生と思うようになった・・・。
恥ずかしいけど、ろくに買い物もしない、引きこもりで何年も過ごした。
それでも夫は、出かける前と、帰った時に、必ずキスしてくれる。
週末に、一緒に買出しに引っ張り出してくれる。
私が元気そうにすると、とってもうれしそうにしてる。
好きで一緒になったけど、これほどの男とは知らなかったよ。
この人だけは、悲しませたくない。幸せにさせたい。
結婚してよかった。今度は、私があなたを守ってあげる。


491 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/05/25(金) 17:18
数年前に祖父が亡くなった
その晩は、悲しくて悲しくて一晩中布団の中で泣いていた
そんなとき、RCサクセションというバンドの
”空がまた暗くなる”という歌をふと、思い出した

 大人だろう? 勇気を出せよ
 大人だろう? 知ってるはずさ
 悲しいときも 涙なんかもう二度とは流せない
  (中略)
 悲しいときも 涙だけじゃ
 空がまた暗くなる
 空がまた暗くなる
 この空がまた暗くなる

あれ以来、”悲しいときに泣くのは止めよう”
って心の中で誓った。

みんな、泣くなよ。大人だろう?
でも、どうしようもないときは大声で泣こうね
誰もが許してくれるよ


499 名前: 名無しさん@お腹いっぱい 投稿日: 2001/05/27(日) 13:35
18年働いたテレビが今日壊れた。
親父がボーナスで買ったテレビで、今度は自分が買おうと軽トラに古いテレビ乗せ
て新しいのを買いに行く途中、泣けてきた。じーちゃん 両親 子供三人
茶の間でこのテレビで泣いたり笑ったりした。家族が一番いい時だったのかも知れ
ない。18年の間にじーちゃんが亡くなり、妹が結婚 弟が就職で三人に。
今年 自分が結婚でアパートに入るので両親二人になる。
店に着いた頃目が真っ赤になっていた。古いテレビにありがとうを言い
年老いた両親が見やすい大きなテレビを買った。
でも、ちっともうれしくない自分がいる。むなしい。


502 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/05/27(日) 22:12
子供が2歳になってすぐ、風邪をひいた。なかなか治らないので変だと思い、
いつもと違う病院に。しかし、そこでも風邪薬が出ただけだった。そのうち、
走り回ってた子供がトコトコ歩くようになり、次に立ち上がるのも嫌がるように
なり、しまいにはハイハイでしか移動しなくなった。
足が悪いのか?怪我してるのか?痛くないのか?何を聞いてもはっきりしない。
赤ちゃん帰りかとも思ったが、バランス感覚がなくなったのでは・・と心配に
なり耳鼻科、整形、小児外科、内科、とにかくいろいろ訪ねた。整形でレントゲン
をとり、関節に少し影があるので詳しく調べましょうといわれMRIで断層の写真
を撮って、さらに「万が一もあるので、血液も調べましょうね」ということに。

その日は足にギプスをしてもらい、次週の予約をいれて帰ってからわずか30分後。
「明日、内科の先生のところへ行ってください」との電話。何で???

翌日内科に行くと別の病院にすぐ行くように紹介状を手渡された。何だよ???

紹介された病院では予約の人を飛ばして案内された。子供とすぐに引き離され
奥からは泣き声しか聞こえない。何なんだ?どうなってんの?訳がわからないまま
次に見た我が子は点滴が入り担架に乗せられて行ってしまった。
入院の手続きをするように言われ病名も知らされないままばたばた時間が過ぎた。
昼過ぎに行った病院で、ようやくはっきりとした病名を知らされたのは、日も暮れた
6時半ごろ。


506 名前: 502 投稿日: 2001/05/28(月) 02:20
ごめんなさい。続きです。

で、女医の先生が、手に持っているファイルに娘の名前が書いてあった。
分厚いファイルで、なんかだんだん怖くなって、「何からお話しましょうか?」
って言われた時、とりあえず、正式な病名を教えてくださいとお願いした。
「急性リンパ性白血病です・・」
僕らの世代は山口百恵がドラマで演じてた怖い病気というくらいのイメージが
強くて、正直めまいがしたよ。
先生は言葉を選びながら、「ご自身を責めないでください、因果関係も何も
はっきりしていない病気です。不幸中の幸いというか、お嬢さんの場合は助かる
確立が最も高いところに分類されます。化学療法で6〜7割は治癒するまでに
なっています。」
不思議と、その日は冷静に聞けた。でも、翌日仕事の休憩中に車で休んでたら
突然恐ろしく不安になって、「なんで、うちの子なんや!何も悪いこと
してないやろ!なんであんなちっちゃい手に針刺されてるんや!」言葉に出して
泣いてたよ。

おかげさまで今のところ順調に治療は進んでます。状況の厳しい子供たちが病院に
まだまだ沢山いて、素直には喜べない部分もあるんだけど。
でも、生きるってことを真剣に考えたよ。今の時代に感謝した。希望のある時代に
この子が生まれてよかったと。


510 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/05/28(月) 11:13
子どもの入院はつらい。
面会時間が終わって、音楽が流れ始める頃、1歳半の我が子がベッドの柵から
手を伸ばして「いや〜!!ママ行かないで〜!!」と大泣きする。
看護婦さんがさっと寄って来てくれて子どもを抱き上げてくれる。
我が子の泣き叫ぶ声を聞きながら、「明日も1番に来るから、、、。」と言うのが
精一杯。涙でぐしゃぐしゃの顔で病室を出ると、私と同じ様なぐしゃぐしゃな顔の
パパ、ママが何人も、、、。
ああ、つらいよ。替わってあげたいよ。でも治るためにはしかたないんだ。
家に帰って脱力のまま、コンビニ弁当を食べて今日が終わる。
502も頑張れ!負けるな!


517 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/05/29(火) 17:38
一週間ほど個室で入院してきた。
自分がいた部屋の前には公衆電話があって話声が聞こえてくる。

ある晩、電話をかける音で目が覚めた。
「あー俺、さっき午前1時12分に亡くなった。
うん、みんなにはこっちから連絡するから、じゃぁ。」
と淡々とした口調で話していた。

電話していた人はたぶん40歳代で父親が亡くなったんだと思う。
一通り電話した後に数分してから今度はすすり泣く音…。
きっと他の家族には見せないで一人で泣いていたんだろうな。


522 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/05/30(水) 00:14
4年前、9人の子供を育て上げた祖母が亡くなった。
出棺の際、葬儀場の人が「故人は果物はお好きでしたか?」
と尋ねるので母が「はい」と答えると。
「どうぞ、お棺に入れてあげてください。」との答え、
そしたら、ウチの親族たち泣きながら入れる入れる・・・
バナナやオレンジなどトロピカルなフルーツに
囲まれたバアちゃんの死に顔が可笑しいやら、悲しいやら
でも、涙あり笑いありのいい葬儀だったと思う。


526 名前: 523 投稿日: 2001/05/30(水) 23:39
うわ〜い誉められちゃった!
そういう私は昨年母を亡くしました。ちなみに「年をとって死ぬのはハッピー」ってのは
亡くなった母が生前よく口にしていた言葉です。
残念ながら60を少し過ぎた年齢で他界しました。つまりハッピーではなかったんですけど...。

どういう訳か亡くなったときから今まで一度も泣いていません。
ただひたすら母の作ったものが食べたいです。


542 名前: 名無しさん@共和国軍 投稿日: 2001/06/07(木) 03:37
もう二十年くらい昔だが、高校生だった俺は病院の売店でバイトしていた。
水曜発売のため、火曜日の夕方配送されてくる少年サンデーを一冊だけ別の所によけておくのが俺の日課だった。
水曜日の朝、院長の回診を済ませて車椅子で買いに来る9歳のガキのためにだ。
10冊くらい入ってくるから、別によけなくてもいいのだが、そのガキのために
必ず「特別予約のサンデー」を確保するのがその店の暗黙のルールだった。
車椅子の肘掛の部分に、マジックで描いた赤い稲妻。
そのガキが毎週楽しみにしていたのは「赤いペガサス」だった。

ガキが死んだ。あっけなく、病名だって知らない。
ただ死んだということだけを看護婦さんから聞いた。

物語のクライマックス日本GP、
満身創痍の主人公ケン・アカバが決死の猛追の果てに、
ラスト数週で先頭を走るマリオ・アンドレッティに遂に追いつく。

そこで物語よりも早く、そのガキの命は力尽きた。
どんなに読みたかったろうに。
20年以上経った今でも、あの車椅子の肘掛にマジックで描かれた赤い稲妻を思い出す


582 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/06/16(土) 06:02
泣き虫なのですが、頬伝うって感じで『嗚咽』するほど泣くこと
なかったんですけど、流産したときは看護婦さんに「麻酔できないよー」
と怒られるほどでした。
手術が終わった後もずっと泣き続けてたので、同室の方が
「私もなかなかお腹に落ち着いてくれなくて、やっとできたんだけど
ここでずっと安静にしてなくちゃいけない。初めての妊娠だったから
悲しみはなおさらだろうけど、あなたはまだ若いからだいじょうぶ。」
と励ましてくださいました。深夜だったのにもかかわらず・・・。
嬉しかったです。(余計に泣いちゃいましたが)

たった5週間の命だったけど、あなたのおかげでたくさんの優しさに
出逢うことができました。ママは幸せ者です。
ありがとう。

分かりにくい文章ですみません・・・。


584 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/06/16(土) 18:50
一週間程前、弟が死んだ。
葬儀の時、俺は泣けなかった。
一週間たったが、未だ死んだなど思えない。
ただ、家にある位牌を見ると、あぁ、死んだのか、と思う。
矛盾している。

弟よ、今お前は天国にいるのか? そっちは楽しいか?
お前は辛かったんだから、せめてそっちでは楽に生きてくれ。
だから、もう泣くな。
お前の分までお兄ちゃんが泣いてやる。
一晩でも二晩でも泣いてやる。涙が枯れるまで泣いてやる。
だから、だから、ずっと笑っていてくれ。

それでも未だ涙が出ない自分がいる。
本当に代わってやりたい。
でも自分が可愛いばかりに死にたくない自分がいる。
ムジュンしている。
そんな自分が憎い、憎い、憎い。

暗い話でスマソ。


585 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/06/16(土) 19:14
結婚式以来あっていない東京に住んでいた両親が8月のお盆と初孫の出産が重なっていたので、自分
たちの住んでいる大阪にやってくることになりました。
空港からの電話があってから、2時間ぐらい経過していたので、こっちに着くころかなと思っていた
ところ、航空会社から両親の乗った飛行機が行方不明になったらしいという電話があり、それが例の
御巣鷹山に落ちた123便でした……。
当然助かるわけもなく、葬儀も含めてすべてが終わったその翌日、自分の家に荷物が届きました。
その荷物は、見ることのできなかった初孫へ両親が送ってくれたベビーベッドでした。
一緒に同封された両親の手紙を読んだ時に、葬式の時に流した涙とは別の、声が口から漏れてきました……。

今では子供もおおきくなってベビーベッドも使うことはなくなったのですが、それでもいまだに捨て
られずに大切にしまってあります。
たぶん、このままずっと持っていることになるんだろうな……


591 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/06/16(土) 22:36
日航機墜落、留学中のシアトルで聞いた。
同級生のアメリカ人が、「JALがクラッシュしたみたいだ。」と教えてくれて
ラウンジのテレビを見に行ったら学生が集まっていた。
日本人は私だけだったので「JAL has a good reputation.Why?」とか
いろいろ聞かれた。最初の報道は「横田基地付近に落ちた。」だった。
そしてなんとその学生たちのなかの1人で、日本に交換留学したことがある
女の子のホストペアレントがその飛行機に乗っていたことが翌日わかった。
彼女は、記念にもらった博多人形を抱きしめて1日中泣いていた。
いろいろな人のそれぞれの人生を1瞬にして断ち切った事故だった。


602 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/06/17(日) 17:40
近所の同級生が、突然、交通事故で亡くなった時、
泣きました。
それまで、よく手紙をくれていたのに、亡くなる少し
前から、「もう手紙はかかないよ。」と言っていた
理由が少しわかったような気がします。
亡くなった後に、遺族の人から彼のPCに私宛の
手紙が残ってるから見てみる?って言われて見に
行ってきました。
前に、彼は、「手紙書いたけど、もう出さないって決めた
から、書いただけ。あげないよ」って言っていた事がある
ので、その手紙の事だろうとすぐにわかり、どうしても
読みたかったのです。
その手紙には、海外旅行に行った時の、話なんかが書いて
あって、文の最後に、「せっかく現地でさようならって
言葉を覚えたのに、使えなかったが、ようやく使い道を
発見したよ、・・・・・・」って最後にその国の言葉で
さようならって書いてありました。それを見たときに、
そこの家の人も一緒だったのに、思わず泣き出して
しまいました。
今でも、その同級生から来た手紙を読むと、涙が出てしま
うので、今は本棚の隅っこの目に付かないところへしまって
あります。。。


604 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/06/17(日) 21:39
人生で一番泣いた二つの出来事の一つ

「オジイちゃんが入院した。」という電話が母親からあった。
90歳も越していたので心臓の手術などで何回かは入院した事があったのだが、
今回はある程度の娘である母にはある程度予感があったのだろう。
「今回は見舞いに来て欲しい。」と頼まれた。

 就職後すぐに大阪に勤務していたので土日を利用して横浜の病院へ。
病室に入り、三年ぶりに再会したオジイちゃんは前に会ったときより
驚くほど痩せていて、そして小さかった。
 でも、呼吸器をつけていていようが矍鑠(かくしゃく)としているところは
相変わらずで、オバアちゃんが「身体が冷えるわよ」といって布団をかけると
その布団を勢いよくどけてはオバアちゃんの手を叩いて叱ったりしていた。
 その様子は昔と変わらずでなんだか微笑ましかった。
呼吸器をつけているので口はきけないのだが、手を振って「お前ら早く帰れ」
というジェスチャーを何度も繰り返す。
 ベッドに横になってるところを見られたくもなかったんだろう。

あまり疲れさせてもなんだし、その様子に少し安心したので、
『オジイちゃん元気そうだな。この様子ならもうしばらくは大丈夫かもしれないな』
と思いつつ
「じゃあまた来るね。」と声をかけて病室を出ようとしたときに
それまでは皆を追い出そうとしていたオジイちゃんが急に手を伸ばして
俺の手を握ろうとした。
 それに気づいて手を握り返すとギュッと力強く俺の手を握り締めて離そうとしない。
オジイちゃんは泣いていた。


大阪に戻って二週間後、オジイちゃんは死んだ。


613 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/06/19(火) 23:56
2年間付き合っていた人がいました。
ある日、買い物に行ったときショーウインドウに、ウエディングドレスが飾ってありました。
「こうゆうのS子(私)に似合うよな」って、言ってくれました。
お店の人がパンフレットをくれたので、私の部屋に帰ってからマターリしつつ、パンフを見ていました。
そしたら、突然彼が「ごめん。俺、実は結婚してるんだ」って・・・
私は、よくわからなくて呆然としてしまいました。
「S子を手放したくなくて今までウソついてたんだ。ごめん」と、泣きながら言っていました。
私はその時は泣きませんでした。
4日後に、なんだか急に感情が戻ってきて、泣きました。
子供にみたいに、泣いてしまいました。
それまで、普通にケンカもしたし、いっぱいデートもしたし、
私の友達ともWデートしたし、お泊り旅行もしてきたのに・・・
結婚をほのめかす言葉もありました。
それが全部ウソだった。なにもかも失った気分。

今でも、思い出すと胸が締め付けられる思いです。
自覚なくても不倫してた訳だし、はずかしいからsage


615 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/06/20(水) 01:11
3年前の春、妻が妊娠した。
妊娠&出産なんて、今まで何億も症例があるんだし、病気じゃないって
言ってる人も多いぐらいだから、タカをくくっていた。
そんなある日の夏、妻が突然出血した。
入院、そして出産。
妊娠6ヶ月で、560グラムの女の子が産まれた。
その女の子は、半年間生死の境をさまよった。
退院は出来たが、その子の眼は、早産の後遺症によって光を失った。
でも、退院できたこと、生きて我が家に帰ってきたことが嬉しくて、
寝静まっている子供の横で夫婦で泣いた。
もうすぐその女の子も3歳になる。
未熟児のために体は小さいけど、元気いっぱい遊び回っている。
眼は相変わらず見えていないようだ。
そんなある日、一緒に風呂に入っているとき、
「パパ」って、目が見えないはずの女の子は、
こっちを向いて笑顔で話しかけてきた。初めてのことばだった。

俺がおまえの眼の替わりになってやるから、ずっと元気でいて欲しい。


618 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/06/20(水) 04:19
土曜日、友人が自殺するためにどこかに消えた。
携帯にかけても出ない。メールアドレスも変えていやがる。
最後に会ったとき、おやすみの挨拶も出来なかった。

身近にこういう事が起きると、すぐには泣けないんだって初めて知りました。


621 名前: maru 投稿日: 2001/06/20(水) 13:19
お父さんと呼んでいた伯父さんが亡くなった。
病院では実感出来ずに、ぼんやりしてたけど、1ヶ月ぐらいたって
皆で食事に行こうという時、「じゃ、お父さん(伯父さん)に電話するね」と
受話器をとってしまった。
お母さんに、「伯父さんはもういないよ」と言われ、ようやく実感した。
もーれつに哀しくなった。


622 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/06/20(水) 14:14
好きな人とずっと一緒にいたくて、初めて家を出た。
母は反対したけど、強引に。
でも突然彼に別れを切り出されて、認めたくなくて無為な日々を過ごして、
なんとなく実家に寄った昨日。
愛犬が傍に寄って寝転んで、母がさっき作ったハンバーグを包んでくれた。
涙が出てきたけど、心配されたくなかったので声を殺してテーブルの下に隠れた。

早まった。馬鹿な事した。


631 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/06/21(木) 20:17
490 名前:22世紀を目指す名無しさん 投稿日:2001/06/21(木) 18:13 ID:???

たとえ下を向いて歩いていても落ちてる100円見つけるかもしれない。
もしも上を向いて歩いていてら空の美しさに出会えるかもしれない。
でも、後ろを向いていたら目に映るのは過ぎ去った事ばかり。
美しい思い出を眺めながら、前を向いて歩こう。

きっと今日より楽しい明日に出会える。
そう信じよう。


某スレよりコピー。良い言葉だと思います。
頑張ろうって気になりました。


634 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/06/21(木) 21:44
私には、私が生まれる前に亡くなった姉がいます。
写真と位牌でしか会ったことのない姉。
両親の姉の墓参りのついでに母の実家に寄った。伯母が
「あなたのお母さん、あなたのお姉ちゃんが亡くなってから
 あなたが生まれるまで一度も里帰りしなかったんだよ。
 同じ年に生まれた私の子を見るのが辛いって電話で言ってた」
と言った。はじめてきいた話だった。
帰り道、高速を走っている最中とつぜん泣けてきた。
路肩に止めてわぁわぁ泣いた。
お母さん、お姉ちゃんと30年ぶりに親子水入らずで
楽しく過ごしてますか?
お父さん、お母さんとお姉ちゃん、よろしくね。
私と弟はこっちでがんばってます。


646 名前: 645 投稿日: 2001/06/26(火) 04:54
俺が、働きもしないでダラダラと過ごしていた10年ほど前、ばあちゃんが入院した。
ばあちゃんとは、別居だったが、歩いて数分のところにじいちゃんと住んでいた。
でも、なんとなく、顔を出すのも照れくさく5年、いや10年以上も顔を見せていなかった。
病気の容体があまり良くない事は母から聞いていたのだが、お見舞いに行っても、ずっとご無沙汰
だったので、何を話していいのかも解らないし、お見舞いに行くのをズルズルと引き伸ばしていた。

それを母親に怒られ、強引に連れられ、母親と一緒に病室に見舞いに行った。確か10年ぶりぐらいに会った
んだと思う。
「ああ、○○(俺の名前)大きくなったなあ」と、ばあちゃん。
俺は、何と言っていいのかもわからないし、近くに住んでいるのに、大きくなったなあって言われるのも
なんだか違和感を感じていたし、何より20歳を越えた人間にそんな事を言うばあちゃんに当惑した。
見舞いに何を言って良いのか、長いブランクで何を話していいのかも解らなかった。たいした事も言えずに、
その場の空気を苦痛に感じて、俺は、色々と世話を焼く母親を残して、5分ぐらいで病室を出てしまった。
帰ろうとする俺をばあちゃんが呼びとめて、
「○○、よく来てくれたなあ。こづかいやるから待ってろ」と言い、ガマ口を出した。
俺は、「いいってばあちゃん」と断ったが、半ば無理やりに俺にこづかいをくれた。

ばあちゃんは500円玉を俺に手渡した。ばあちゃんの体温でやたらと生暖かくなっていた。
俺は「昔、よくばあちゃんに、こんな生暖かい100円玉を貰ってアイスとか買いに行ったな」と思った。

一人、その500円玉を握り、暗くなった病院から出た。
「ばあちゃん、20歳過ぎた孫に500円のこずかいは無いよなあ…ばあちゃん、俺が何歳だか解ってたの
かな?まぁ、だいぶ会ってなかったから、解らないのも無理無いか…でも500円…子供じゃないんだから…」
と思い、なんとなく、自分のサイフにその500円玉を入れられずに、ずっと握りながら帰った。
そんな事をずっと考えながら、暗い道を家まで帰った。知らない間に、ボロボロ泣いていた。

ばあちゃんは、退院すること無く亡くなった。
今でも無駄使いしそうになると。あの500円の生暖かさを思い出す。


651 名前: 音無しの名無しさん 投稿日: 2001/06/27(水) 01:06
おやじが死んだのは大学2年の夏。お盆に帰省した後、バイトの為に大学に戻った
1週間後だった。
オヤジは鳶をやっていて俺なんかよりもタフで、その夏オヤジの仕事手伝ったり
したけど俺の方がバテるぐらいだった。だから兄貴からの電話で「父ちゃんが
死んだ」て言われた時は、悪い冗談としか思えなかった。
原因は疲れが溜まった挙句に、その疲れが心臓に回り心筋梗塞を起こしたのだろう
との事だった。もしもは無いけれど、あと1週間田舎に残っていたら・・・
結果は変わっていないかも知れないが、未だに後悔してる。
葬式が進められる中、父の死が現実として受け止められず、逆に回りの目を気に
して悲しいフリをしていたが、火葬場で灰の中から骨を拾う時になって初めて
子供の頃の思い出がよみがえり、声をだして泣いた。

結婚して最初の子供に先天的な障害があり、3度の手術を繰り返した挙句に、
一度も集中治療室を出る事もなく23日の生涯を閉じた。
子供を抱いたのもその時が最初だった。
死の知らせを受けた時は、悲しみよりも、この重荷から開放されたという思いの
方が強かった。背骨に歪みがあり、歩く事もままならず、脳内出血も起こしている
との事で、重度の障害が残るのは避けられなかったようだ。
通夜の時、伯母に「この子はお前の苦しみを和らげる為に死んだんだよ。親孝行
だよね」と言う言葉を聞いた時に、自分の身勝手さに泣けてきた。

身の回りの悲しい出来事では、なかなか泣けないくせに、最近はニュースや映画を
見てても泣けてしまう。ダンサー・イン・ザ・ダークで涙、ハンセン病の報道で涙、
池田小学校事件で涙・・・
次に本当に泣きたい時の為に取っておきたいのだけれど・・だめですね年取ると


659 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/06/28(木) 21:13
雑誌の編集屋をやってます。

コソボ紛争のさなか、俺たちは一枚の写真を表紙にした。
多分俺と同じぐらいの歳の、垢と埃にまみれぼさぼさ頭で不精ヒゲ一面の難民の男が、
幼い兄弟の写真を手に、目を真っ赤に泣き腫らしながら口を歪め、カメラマンに向かって
何か話し掛けている。
戦乱の中で生き別れたらしい。

表紙のDTPデザインを画面で見てたら、なんだか泣けてきた。涙を必死にこらえて、
黙々と作業した。

6ヶ月後、別の一枚の写真が届いた。
同じカメラマンの撮った写真だ。
同じ男が、今度はヒゲをきれいにそり髪も整えて、写真の中の子供たちといっしょ
に笑顔をカメラに向けていた。子供たちは男がかつて持っていた写真より、もっと
もっと可愛かった。

1人で便所の個室にいって、今度はほんとに泣いた。


662 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/06/30(土) 00:35
5年前、部下の女性が交通事故で亡くなった。
私のグループに来て、5ヶ月だった。
会社に入って、3年間、ずっと低い評価を受けつづけていた、休みがちで、仕事をまかせられないと。
彼女を引き受けて欲しいと以前の上司に頼まれたとき、彼女の評価を向上させることが出来るなら、自分の評価が上がるだろうと計算しなかったとは言

い切れない。
彼女は、昔の上司からの心無い対応で拒食症になっていたようだった。
でも、彼女はやっと信頼できる上司が出来て、これから頑張るのだと家族に告げていたことを、事故の後に知った。
私の言うことは、必ず、どんなに遅くなっても、時には休日にも出社して、仕上げていた。
私は、彼女のやる気が見ていて楽しく、笑顔も戻ってきていたので、充実した気持ちになっていた。
その日の夜11時、会社の警備室から自宅に電話がかかってきた、「**さんの」、私は彼女の仕掛けた仕事がトラブルを起こしたのだと思った、以前に数

回、そういったことがあったから。
電話の声はこわばっていた「ご自宅から連絡があり、交通事故で、お亡くなりになられたそうです、病院は。。。」
それから数日は怒涛のように過ぎていった、病院でのご遺族への挨拶、彼女が付き合っていると聞いていた大学の同級生への連絡は、大学名と勤務先の

大手の会社の名前しかわからなかったのにどうやって付けることが出来たのか、今でも判らない。 部長の許可を得て、机の上に飾っていた手向けの花を代

えようとした 7日目の朝、上司が言った。
「もう、いいだろう」、私は、大声で言い返していた「部長から49日まで、花を飾る許可は得ています」、背中に大部屋の社員の視線を感じた。
上司は、彼女の昔の上司が、社員の士気に影響するから花を飾ることを止めるように伝えてきたことを私に説明した。
上司の目も悲しみに満ちていた、彼女の昔の上司は実力者だった。
そのとき、会社に入って初めて、会社で涙を流した、上を向いても、ズボンの太ももに滴が落ちた。 声は不思議と出なかった。
会社を変わって3年経った。 彼女の命日は年休を取って、墓に向かうことにしている。 あと2ヶ月で命日だ。

長文スマソ


666 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/07/01(日) 03:03
子供の頃からずっと一緒にいた従姉妹が死んだ。
お正月に、一緒に遊びに行ってその二日後に。
心臓の病気だったらしい。家族以外誰にも伝えずに、必死に笑ってくれたんだろう。
叔母は死んだ事を認めたくなかったらしく、親戚にも伝えずに葬式を行った。
俺や、父さんがそれを知ったのは三月の事だった。
位牌を見て、お墓を見ても死んだとはとても思えなかった。
きっとどこかに入院しているんだと信じたかった。
彼女が好きだったピアノで彼女が好きだった月光を必死に練習した。
弾き終わった後、いつも彼女が座っていた椅子を見ると、
そこには彼女の笑顔の写真が置いてあった。
涙が零れた。
その時、俺は始めて自分が大好きだった従姉妹を失った事を理解した。


668 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/07/01(日) 12:44
十年前、学生生活を送ったボロ下宿を引き払った日のこと。
その下宿は当時でも稀なほどボロくて、貧乏学生が10人ほど住んでた。
俺の卒業時に残ってたのは6人。俺、同学年のOとM、イッコ上のKさんと
Tさん(ともに一回ダブり)、ニコ上のYさん(二回ダブり)。
最後の年は、なにかといえばこの6人でつるんじゃバカな遊びばかりしてた。
殆ど「馬鹿兄弟」の如き仲の良さで。
皆がそれぞれの行き先へ散っていった日のことはとても鮮明に覚えている。
まず「んじゃあ、行くわー」
と言って就職先の名古屋方面に車を走らせて行くO。
次に「嫌やなー…まだ居りたいわここ」
ブツクサ未練たらしく実家の京都に向かうM。
3番手「コケそうで怖ええよ」
バイクのアクセルふかしてYさん。…県の南端までその「布団袋」積んでく気
なんすか。バイクに。
4番手「家に着くまでに一泊しなきゃいけないの、俺だけ?」
…Tさん。東北まで、廃車寸前のマーク?で下道つかうのなら当然です。
5番目は俺「Kさんまだ帰んないスか?」
Kさん「まだ荷物まとめてねえからさ、出発は夕方」
俺「あー、んじゃ、俺行きますね。…そんじゃ、また」
Kさん「うーい、気ぃつけてなー」
車走らせながらバックミラーでちらっと後ろ見た。Kさんは下宿をバックに
ずっと立ってこっちを見てた。カーブ一つ曲がって、Kさんも下宿も見えなく
なった。少し走ってから、パチンコ屋の駐車場に入って、車を止めた。
馬鹿みてえ、と思いながら我慢しきれずに泣いた。いろんなことが思い出されて、
お祭りが終わったのを知って、ハンドルにデコ押しつけてしばらく泣いてた。

…なんかスレの流れにそぐわない気もするけど、堪えきれない嗚咽がもれたのは
あのときが初めてだった。長文スマン。


673 名前: 30前だけど 投稿日: 2001/07/02(月) 12:07
俺が大学生の時、10年近く飼っていたウサギのミミが死んだ。
ミミは俺が中学の時にデパートの特売で980円で買ってきたメスのウサギだった。
全身真っ白の生まれたばかりで愛らしかったこのウサギをどうしても飼いたくて、
「自分で面倒を見るから」と弟と一緒に親に頼みこんで買ってもらった。
最初の数ヶ月は約束通りまめに面倒を見てウサギ小屋の掃除をしたり、餌を
あげたりしていたが、大きくなるにつれて純白だった毛色は耳と足の部分が
黒くなり、体も太ってきてあまり可愛くなくなってきた。
猫や犬と違って鳴いたりなついたりしないせいもあって、じきに飽きてしまい、
いつの間にか世話もしなくなった。
結果的にミミの世話は専業主婦のおふくろがする事になった。
それからは気が向いた時だけウサギ小屋に行って、餌を与える程度の付き合い
しかしなくなっていった。
そんな状態で気がつけば10年近くの歳月が流れていた。
ある日、大学から帰った俺を泣き顔のおふくろが出迎えた。
「ミミが死んじゃいそう」おふくろの言葉に、最近元気が無かったミミの様子を
思い出した。
玄関に入ると、ウサギ小屋から出されてダンボール箱の中でタオルに包まれて
ぶるぶる震えているミミが目に入った。
見るからに長くは持ちそうに無かった。
「前から排便の調子がおかしいと思っていたらこんなになっていたの、見て」
おふくろに言われてミミの体を持ち上げてみると、肛門付近は乾いたフンが
固まって塊になっていた。
これではほとんど排便できなかっただろう、狭いウサギ小屋でじっとしていたので
誰も気がつかなかったのだ。
あまりにもかわいそうなので、はさみを持ち出してフンの塊を切ってやった。
そうするとミミが苦しそうに「キュー」と鳴き声を出した。
ウサギの鳴き声を聞いたのはそれが初めてだった。
見てみるとフンからはウジがわいていて、腹の肉にまで食い込んでいた。
これがミミの苦痛の原因だったのだ。
見るに忍びなくてピンセットを持ってきてできるだけウジをとってあげて、
アルコールを持ってきて消毒してあげた。
その作業の間にもミミは苦痛で体を硬直させてキューキューと何度も
鳴き声をあげた。
なぜこんな状態になるまで気がつかなかったのか、なぜ自分で世話を
すると言っておきながらおふくろに全部の世話を押し付けていたのか、
ミミの苦しむ様子を直に見、苦痛の鳴き声を聞きながら俺は激しい後悔の
念に苛まれた。
思えば彼女(ミミ)がうちに買われてきてから外に出たのは一度きり、近くの
野原で30分ほど散歩させてあげた時だけだった。
その30分以外はずっと60cm四方の狭く暗いウサギ小屋に閉じ込められていた。
彼女が生まれてから知っている世界は、最初のデパートのペット売り場と、
近所の野原、そしてほぼ100%の時間を過ごしてきたウサギ小屋だけだった。
ウサギ小屋の鉄格子越しの風景を、彼女はどんな気持ちで毎日眺めていたの
だろうか。
当然彼女は今まで1回の性交渉(交尾)もなく処女だった。
本来なら野原を駆け巡るはずの脚も無残に衰え、身動きも満足に出来ない為に、
体は運動不足でぶくぶく太っていた。
そして今はフンが固まって排便も満足に出来ず、沸いたウジに肉を食い破られる
苦痛に苦しんでいる。
これが、これだけが俺が今まで彼女に与えてきた全てだった。
あまりにも飼い主として無責任だった。
こんな状態になる前に出来る事はもっといっぱいあったはずだったのに。
彼女の末期の苦しみを見ながら、俺の頭の中で「飼い殺し」という言葉が
ぐるぐると駆け巡った。
彼女の心中を、その無念を察するとやりきれなかった。
ミミの体を清め、苦しむ体を撫でながら俺はこらえきれずに嗚咽した。


674 名前: 30前だけど 投稿日: 2001/07/02(月) 12:08
今、ここでいくら献身しても今までの仕打ちを考えたらとてもつりあわない
事は自分が一番良く知っていた。
でも、今ここで出来る限りの事をしなければ一生後悔すると思った。
おふくろも嗚咽していた。
二人でひたすらミミの体を撫で、清め、力づけた。
そして俺はひたすらミミに謝り、許しを求めていた。
「ごめん、本当にごめん、俺はおまえに何もしてやれなかった」
声にならない声で涙をこぼしながら謝り続けた。
こんなに泣いたのは数年ぶりだった。
泣いても泣いても自分の罪は償えない事はわかっていたが、涙を流して
世話を続ける事しか、たったそれだけの事しか俺にはできなかった。
2時間ほどそうしていただろうか、ミミの体はだんだん動きが少なくなり、
体は冷たくなっていった。
ミミがひときわ大きくキューンと、2度鳴いた。
切なく苦しい、末期の鳴き声だった。
体が2、3回痙攣した。
それっきりだった。
彼女の目は虚空を見つめて見開かれたままだった。
目を閉じさせてやって、俺とおふくろはその場で号泣した。
あまりにもかわいそうだった、俺はなんて罪深い事をしたのだろう、
この罪は一生背負っていかなければならないと思った。
一晩、家で寝かせてあげてから、翌朝家の庭の隅に墓を作った。
墓に手を合わせながら、俺は二度と無責任にペットを飼う事はするまい
と誓った。
俺はミミに何もしてやれなかった。
彼女に何か楽しい、飼われて良かったという思い出を何もつくってやれなかった。
彼女の人生に何の意味付けも与えてやれなかった。
それでも、彼女の死で俺は 『相手が死んでからコミュニケーションを取れなかった
事を悔やんでも遅い』 、という事だけは嫌というほどわかった。
彼女は自分のそのささやかな一生でその事を身を持って教えてくれたのだと
思いたい。
そうとでも考えなければ、彼女の一生はあまりにも惨めで無残過ぎる。
俺は一生ミミの事は忘れない、彼女にした俺の無慈悲な行為も忘れない、
そして唯一学んだ事も。
それがせめてもの俺の贖罪だと思っている。


684 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/07/05(木) 13:52
義父が亡くなったのは10年前ですが、くも膜下出血で倒れ2年の闘病生活、
義母も主人もみんなどこかに心の準備が出来ていました。
葬儀も慌てることなく速やかに終わり、とてもあっけなかったです。
主人は次男ですが集まった親戚や弔問の人たちには気丈に振舞って
どんな時も涙を見せませんでした。それどころか、葬儀の終わった
その日の夜にパチンコに出掛けて行ったのです。
あまりにも非情な人だと私は腹を立てました。
しかし、その話を実家の母に愚痴ると
「親が死んで悲しくないはずはない。家にいると悲しいから
 わざと出かけたんでしょ、そういう気持ちをわかってあげなさい。」

何年かして、島田伸助が「あのひとにあいたい」みたいなTV番組の司会を
していて、「合いたい人がいたら番組が捜します、奮ってご応募ください」
とブラウン管から視聴者に呼びかけた時それを見ていた主人は沈んだ顔で
「オヤジにあいたい・・・」とボソっとつぶやいた。わたしは嗚咽しました。


685 名前: 684 投稿日: 2001/07/05(木) 14:10
義父が亡くなって2年後に義母が亡くなりました。

主人は義母の時も1滴も涙を見せませんでした。
とにかくわたしは主人の泣いたところを見たことがないのです。
子供(オトコ)が泣くと「男は泣くな!」と怒鳴りつける人です。
ある日、子供がわたしの作った卵焼きを「おふくろのあじだね」
と言いました。「おとうさんも食べな」と主人に勧めます。
そんなやりとりと会話なのに、わたしは嗚咽してしまいました。
主人の「おふくろの味」はもう二度と食べられない「味」

強すぎる主人に代わってわたしは泣いてあげました。


689 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/07/06(金) 02:11
今このスレを2時間位掛けて読みました。
最初の方から涙零しまくりなんだけど、
数年前に自分の祖母が他界した時の事を思い出しました。
亡くなる数週間前は病院から家に帰っていました。
私は彼女が亡くなった日も出勤。
午前11時に父が祖母に手を貸してトイレに行こうと廊下を歩いていた時、
突然倒れてそのまま亡くなってしまったそうです。
本当に「操り人形の糸が切れた」とか「電池が切れた」という表現がぴったりな倒れ方に
ビックリした父は家事をしていた母と眠っていた弟の名前を怒鳴って呼び、
慌てて掛けつけた二人を伴い、病院、親戚等に電話をしてそのまま葬式準備等へなだれ込み。
今でもその時の話を「あの時は驚いたよねー」と話し合う3人を見て、
祖母を看取れなかった自分が悔しく、なんとも言えない思いになります。

関係無い話なのでsageます。


690 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/07/06(金) 20:23
親父の告別式の時、親父の行き付けの寿司屋が仕事着のままで駆けつけて来た。
「○○さん、ウチの散らし寿司の折詰め、好物でしたンで。霊前に供えさせて下さい」
と言いながら、作りたての折詰めを差し出して頂いた時、病院や通夜の席では
なんとか堪えていた涙が止まらなくなった。
通夜に見えられた方の誰かが帰りに寿司屋に寄って親父が死んだ話をしたのだろう。
翌朝、市場で魚を仕入れて店に戻って急いで折詰めを作って、朝早くから片道一時間は
かかる道のりを車で来てくれたと思うと、寿司屋の店主の情の深さに感極まってしまった。


694 名前: 名無しさん@小市民 投稿日: 2001/07/07(土) 01:10
>>680のレスで思い出した。

大学のとき、高校の同級生の女の子がALSを発症した。
そう親しくもない子だったし、ALSってどんな病気かも知らなくて
軽い気持ちで大学の近くにあったその病院に、ひまつぶしで見舞いに行っていた。
ある日彼女が、病室で言った。
「あたし処女のまま死ぬのってイヤだなあ、ねえ今度夜這いにこない?」
その晩実際に夜這いに行った俺を迎えた彼女は、病院の寝巻姿ではあったが
髪はちゃんと整えてあり、うっすら化粧をして、下着も当時流行り始めたTバックだった。
行為そのものは少々やっかいで、彼女は自分で脚を開くこともできなかった。
彼女はわざとらしい喘ぎ声をあげて、なんとか無事終ることができた。
そのあと俺に寝巻きを着せてもらいながら、彼女は嗚咽していた。


695 名前: 名無しさん@小市民 投稿日: 2001/07/07(土) 01:18
>>694の続き
翌日俺の実家に彼女の母親から、「息子さんの優しいお見舞いに感謝します。」と
電話があったという。俺はまさかと思ったが、しばらくして戦慄した。
彼女はもう、起き上がることすらできない。トイレだって行けないから
たぶんおむつの世話になっているはずだ。
では誰が?
彼女の髪をとかし整えてやったのか
彼女に薄化粧を施してやったのか
彼女のおむつを脱がし、流行りの下着をはかせてやったのか
それがわかったとき、嗚咽とはいかないが不覚にも涙が出てきた。

あれから8年、彼女はもはや目も動かせない状態で今も闘病を続けているという。


702 名前: 名無し 投稿日: 2001/07/07(土) 10:00
昨日、仕事から帰ると家族の夕飯はとっくに終わっていてテーブルに自分のおかず
だけが並べられていました。その中に小皿にちょっとだけ盛られている見慣れない
ものがあって妻に聞くと「卵味噌」だという。
皆さん知ってますか「卵味噌」。それが正式な名前かどうかはわからないし、味噌
を卵で溶いてフライパンで煎る(のかな?)料理とも言えないものなんだけど。
それは昔、子供の頃婆ちゃんがよく作ってくれたものでした。
ド田舎に住んでいて親は共稼ぎ、ご飯のしたくは婆ちゃんでした。
子供のころはウィンナーとか卵焼きとかあれば大満足なんだけど、家は晩ご飯の
メインのおかずが異常にしょっぱい糠ニシン(わかるかなー)とかがほとんどでした。
たまーに「こんなおかずじゃご飯たべれない」とゴネてみても「じゃ食うな」と
いわれてお終い。そんな時そっと婆ちゃんが台所に行ってよく作ってくれたのが
卵味噌でした。名前そのまんまの味だけどそれをご飯にふりかけるだけで二杯は
食べられたような気がします。
婆ちゃんが死んでから食べたことがなかったので昨日は20何年以来のご対面でした。
「なっつかしーなー」と腰掛ける前に一口ほうばった瞬間、トーン と昔に帰り
曲がった腰で台所に歩いていく婆ちゃんの背中を思い出して涙があふれました。
本当にとまらなくて子供が心配して集まったくらいです。
妻はなんとなくわかったみたいですけど。
今、会社でこれ書いててまた目がウルウルしてます。長かったかな、スマソ。


707 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/07/08(日) 01:27
10年前、親父がガンで死んだ。その瞬間は突然で、母や弟は泣いていたけど、
長男のオレは「みんなに連絡しなくちゃ」とか考え、涙は出なかった。
葬儀後も墓の問題やら相続税の問題やらで忙しく、親父の事を思い出して
泣く事はなかった。
先日、友人に息子が生まれ「いつかこいつと飲む日が楽しみ」という
当たり前の話しを聞かされた時、ふと親父を思い出し、はじめて号泣。
親父と飲む機会が無かった事を後悔。
いまだ独身で遊び続けている自分を自戒。


717 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/07/08(日) 13:33
いい歳こして、家族を許せないまま喧嘩中。
けど相手の弱り具合が心臓直撃する事態があって連絡をとるようにした。
歓び勇んでなにかと連絡をとろうとしてくる家族。
その電話を切るたび、鉛のように心の真中に居座りつづける怒りと、その自分を
狭量だと思う心とで、泣く。情けない。
(いい話しでも無し、スレずれの気配もあり、さげ)


722 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/07/08(日) 23:32
とっくに亡くなった祖母のこと。

夏に実家に帰った時、祖母が私に「どなたさんでしたか」と聞いた。
痴呆症が進行中で、たまにしか帰省しない私を認識できないよう
だった。名前を言っても「ほう、遠いところからそれはそれは」と
お客さんに対するような口ぶり。

2〜3日の滞在中、とうとう思い出してもらえなかった。
寂しい気持ちで「じゃ、行ってくるから」と声をかけると、祖母は
ちょっと待って、と合図して立ち上がり、自分の部屋へ手招きした。
箪笥の引き出しから取り出したのはくしゃくしゃのチラシに包まれた
薄い物。とめてあるゴムが劣化してくっついている。「あけていい?」
チラシを開くと、旧札で3000円入っていた。
かなり前に包んだ物のようだった。

「おばあちゃん、私はいいからなんか好きなもの買いなよ」
「いいから。○○くんと△△にでも行って来なさい」

○○くんは高校時代に私がつきあっていた男の子、△△はとっくに
潰れた喫茶店の名前。
当時両方の家からつきあうのを反対されてたけど、おばあちゃんだけは
○○くんとの話をにこにこしながら聞いてくれてた。

帰りの飛行機の中で、チラシをにぎりしめて泣いた。


727 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/07/09(月) 13:30
東京ディズニーランドのエレクトニカルパレードは嗚咽です。
あんなきれいなもの始めて見た!と同時に、思い出がたくさんあります。
息子を2歳ではじめて連れて行ったとき、最前列でパレードを口をあけて
見せる事ができたのですが、ふっと息子の顔を覗き込んでびっくりしました。
まさに嗚咽で2歳のくせにポロポロポロと涙を流して見上げているのです。
「泣いてるの?」と聞いたら「ないてない、あめがふってきた・・・」
と、照れくさそうに言い訳するのです。今、息子反抗期の14歳。

友達の当時3歳の娘・・・6年前再婚相手の男に虐待で殺されました。
大好きだった「最後のエレクトニカル・・・」のビデオを
くりかしくりかえし観ていた・・・。
「またつれてってね」なんてかわいい笑顔でおねだりされてたっけ。
Mちゃん、天国は楽しいですか?Mちゃんの大好きな大好きな
エレクトニカルパレード始まったよ。キラキラたくさんの光が
お空にとどいているかな?今度生まれてきたら、おばちゃんに
あいにきてね。いっしょにディズニーランドいこうね。


734 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/07/10(火) 00:32
花屋の知人から聞いた話。

その花屋に、夕方になると毎日花を1輪ずつ買いに来る青年がいた。
店の人は青年の照れた様子が微笑ましく、彼女にでもあげるのかな、
うまくいくといいね、等と噂していた。
しばらくして、その青年は店に来なくなった。
うまくいったのかな、別れたのかな。引っ越したのかな。

ある日店の奥さんが葬儀花の配達に出かけると、玄関からその青年が出てきた。
「あら、この家の方だったの。」
「はい。もう、花がいらなくなっちゃいました。
母が、ずっと入院してたんですけど。花の好きな人でした。」
最後の一ヶ月ほどは、遠くの病院に転院していたそうだ。


735 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/07/10(火) 01:06
近所で交通事故があり小学6年生の小さな命が神に召されました。
両親の離婚、腹違いの兄弟、継母のいじめ・・・。
お通夜の晩に次から次へと噂が立ちました。
冬なのにTシャツ、夏なのにセーターちょっと変わった子だなと
思っていた私・・・知らなかったの・・・面倒みてもらえてなかったのね。
「どうしたの?」って声を掛けてあげなくてごめんね。

見かねたご近所の方が実の母親に連絡、話し合い、何日か後には
別れた実の母親のところへ行くことが決まっていたそうです。
北海道行きの飛行機のチケットが送られてきていたそうです。
事故の日は継母に言い付けられて買い物に出たそうです。
道路を渡ろうとして車にはねられたそうです。
継母はやっかいがって相当な仕打ちをしていたそうです。
ごはんもろくに食べさせてもらってなかったそうです。
亡くなった子は、何のために生まれてきたのでしょうか?
神も仏もこの世にはいなっかった・・・。


738 名前: 名無し 投稿日: 2001/07/10(火) 16:48
友達の彼女が死んでしまった。
その子が死んだ時友達は浮気をしていた。
浮気の理由は彼女が夜会ってくれなくなったかららしい。
実は彼女は深夜のビデオ屋で男に内緒でバイトをしていた。
突然の交通事故。
彼女は友達がずっと欲しがっていたギターを抱えていた。
私は友達を軽蔑した。
86キロも体重があった友達が50キロを切りそうになっている。
思い出と現実の区別が付かなくなっている。
私には救ってあげられない。
彼女も彼も時間が止まってしまった。
嘘みたいな現実をどうやって彼に理解させようか思案するが、
彼女のスカートを身につける彼を見る度に絶望してしまう。

今日街で赤いミニスカートを見た。
きゅうに悲しくなって泣いてしまった。


739 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/07/10(火) 17:15
セルビアだかクロアチアだか。

街への攻撃がひどくなって、住民が疎開する。
破壊された我が家に一家が戻ってきて
子どもは瓦礫の中にかわいがっていたぬいぐるみをみつける。
”おきざりにしてごめんね。ひとりぽっちで怖かったよね
 待っててくれてありがとう”
不安と緊張の日々の中の、一瞬の緩和。
ぬいぐるみを抱き上げる。

仕掛けられた爆弾によって
子どもはもっとも親しいトモダチに
殺された。

人間というのはなんという生き物なのだろう。
涙が、嗚咽が、止まりませんでした。


741 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/07/10(火) 17:31
ネコが押し入れで子猫を産んでいました。
しかし、子猫は数日で息絶えました。
父が庭に亡骸を埋めました。
母ネコはその光景を遠くから見届けていました。
「死んじゃったんだよ」と父が母ネコに言いました。
「にゃ」と短く鳴きました。
「わかってる・・・」と私には聞こえて嗚咽しました。


744 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/07/11(水) 03:49
五年前に祖父が亡くなった。
亡くなる三ヶ月程前から入院していたが、母から「容態は安定して
おり、快方に向かっているから大丈夫」と聞かされていた最中の出
来事だった。徹夜仕事の最中に実家から連絡があり、翌日帰省した。
フリーとして独立した直後で、納期を守れないと自分の信用に関わ
る仕事があった為、PCを抱えて帰省し、通夜の日も翌日の葬式の日
も、別室で親類縁者の小言を聞きながら仕事をした。

祖父にとって俺は初孫で、そのため子供の頃から可愛がられてきた。
母にとっては厳しい父親であったらしいが、俺には甘かった。
おかげで俺はガキの頃、厳しい両親から逃れるように、頻繁に祖父
の家に入り浸っていた。なのに、二十歳をすぎた頃から俺は実家に
帰省するどころか祖父の家にも近寄らなくなっていた。
そうして七年近く経った頃、祖父は亡くなった。

通夜の日も葬儀の日も涙は出なかった。火葬のあと骨を拾うときに
なっても涙が出ない。周囲の人間が泣くのを見る中で、自分の心は
冷徹に「じいちゃん、さよならだな。小さくなっちゃったな」と考
えるばかりだった。そればかりか、クライアントからの仕事をどう
やって二日後の納期までに間に合わせるか?ということだけを考え
ていた。葬儀のあと、そんな自分に対して「俺は冷たい人間なんだ
な。最低だな」と、自嘲気味に思った。

翌日、東京に戻るために空港に向かうバスに朝一番で乗りこんだ。
バスの中から何気なく外を見ていたら、海が見えた。その瞬間、子
供の頃に祖父に連れられて近所の海岸へ行ったこと、続けて子供時
代の様々な祖父との想い出が去来した。
次の瞬間、涙が溢れた。バスの中で外を見つめたまま、声を殺して
嗚咽した。
いまでも祖父のことを考えると涙が出そうになる。
今年は久しぶりに帰省して墓参りをしようかと思う。

長文でスマソ。


745 名前: 702ですけど 投稿日: 2001/07/11(水) 11:40
>>744
すごくよくわかる。
自分はばあちゃんっこだったんですが、亡くなる3年ぐらい前からボケて寝たきり
になってました。その間おふくろが当然オムツの代えまでつきっきりで世話をして
本当に大変そうでした。
当時高校生だった私は「早く死んだ方がいい。」本気でそう思ってました。
かわいがってくれたばあちゃんに対してそう思う事でバチがあたろうとかまわない。
これ以上看病してたらオフクロまで倒れる。口には出さないが考えはまちがってい
ない。早く死んだ方がいいんだ、ばあちゃんを前にしても心の中で言ってました。
それから半年後、眠るように逝ったんですが「あんな事考えてごめんな、でも
これで良かったんだよ」と葬儀が終わっても涙は出なかった。
一通り親戚も帰った頃おふくろに「だいじょうぶか」と聞くと「おまえがいてくれ
て助かった」という。何もしてないのに?
朝一番必ず○○は?と聞いたという、日曜で家にいるというと不思議とわがままを
言わない、私が口を水で湿らせてあげるとすごく喜んだ、そうだ。
全然気付かなかった。聞いてて涙が溢れたのを覚えてます。
今でもいい年こいて何かピンチになった時「ばあちゃん、頼む助けてくれ」と
心のなかで拝みます。
何かレスになってないな、スマソ。


747 名前: TiC 投稿日: 2001/07/12(木) 01:18
このスレ読んでたら、可愛がってくれたお婆ちゃんの事で泣けてきた。またお婆ちゃんのご飯を食べたいよ。。。
お婆ちゃんは、俺が3ヶ月の時に祖父が火事で他界してからは、俺のことを祖父の生まれ変わりと思ってたのか、
ずっと可愛がってくれてた。
小学生の頃、親に怒られたときはお婆ちゃんの所に逃げて泊めてもらったこともあった。
でも、中学の頃になってからはぜんぜん有り難いと思わずむしろ世話を焼いてくるのをうざいとさえ思っていた。
俺が社会人になってからは、お互いほとんど顔をあわせることもなく過ごすようになった。
その婆ちゃんも、数年前カゼをこじらせて入院してから寝たきりになっている。

このスレッド読んでいたら、お婆ちゃんの懐かしい思い出がよみがえってきて、これを書いている
間も涙が止まらないです。明日久々にお婆ちゃんに会いに行こうと思ってます。何も出来ないけど
せめて顔を見せるだけでも・・・と。


748 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/07/12(木) 01:51
私のお婆ちゃん
自分が産んで育てた5人の子供の家をたらい回しにされて、
最後にうちにきました。
無口で大人しくって、ちょこんと座って雑誌を読む毎日でした。
耳が遠くなってたから会話があまりできなかったけど、
おじさんやおばさんの家を転々として辛かっただろうな。
ちっちゃいちっちゃいお婆ちゃんのどこがそんなに邪魔だったのだろう。
「お婆ちゃんもっと早くうちに呼んであげればよかった・・・」
と孫の私は思ってたのに、お婆ちゃんが来て両親が喧嘩するようになった。
話がこじれて離婚話に発展し、お婆ちゃんが老人ホームに入ることになった。
最後はそこで亡くなったけどお婆ちゃんが可哀想で悲報の知らせに嗚咽した。
両親を憎めないけど、本当にこれでよかったのかなと思うと涙が溢れた。


761 名前: ごめんな・・ 投稿日: 2001/07/16(月) 04:06
高校で転校した。転校生の俺のことに興味を持ってくれた奴がいた。絵が上手くて
暑中見舞にバイクのイラストが書いてあった。
転校前の地元では、田舎だったせいもあって免許が無い俺でも割と自由に友達の
バイクで走ってた。「汚れた英雄」という映画に魅せられて、いつか免許をとって
堂々と走りたいと思ってた。
毎日毎日、転校生の俺に近づいてきて、興味の無かったバイクの話を
熱心に聞いてくれた。そしていつか免許を取って二人でツーリングしようと・・・

卒業まで二人とも免許は取れなかった。俺は関西の、彼は東京の大学にそれぞれ
進んだ。俺は19歳で車の免許を取り、二輪の免許はもうそんなに欲しいとは思って
おらず、約束など忘れかけてた。

正月に帰省する予定があって、ちょうどいい、同級生に会えるかな、なんてワクワク
気分でクラスメートに電話した。「みんな元気?会いたいねー。○○は?××は?」
何人目かにそいつの名前を出してみた。「東京に行ったあいつは帰ってくるの?」
「え?知らなかったの?」「ん?何の話?」「△△君、亡くなっちゃったのよ」
「は?嘘でしょ・・いつよ!何でよ??」
「去年の冬休みに、事故で」「えー・・交通事故なん?」
「うん、大学に入ってからどうしてもバイクに乗りたいって免許取って、夜中に
街路樹に当たっちゃったんだって。ご両親がすごく悲しんでて・・・」

興味を持たすようなことを言って、焚付けておいて、未だに俺はこうして生きてる。
バイクの免許すら取らず。
俺に出会わなければ、彼は今でも好きな絵を描いていたのだろうか。
無責任な俺を彼は許してくれるだろうか。
15年間、いつも自分に問うている。人と交わること、影響を与えること、
悲しみを与えてしまうこと、残された人のこと・・・
今でも忘れてはいない。イスをバイク代わりに、またがってエンジンをかけるしぐさ。
彼の楽しそうな表情。一枚の葉書を見て、昨日のことのように思い出した。


762 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/07/16(月) 23:34
私の父は生前
「孫なんてなぁ、所詮は他人の子供なんだ。だからお前がもしも結婚して、子供を
 生んでも連れて来るなよ?俺は絶対可愛がらないぞ」
と口癖のように云っているヒトだった。
そんな父が亡くなって半年後、供養の意味で訪れた旅先のショーウィンドウに
飾られた可愛い子供服を見た母がポツリとこぼした。
「お父さんと最後の旅行の時ね、『アイツも馬鹿だなぁ。さっさと結婚して
 孫を連れてくればイイのに。そしたらこんな服、一杯買ってやるのになぁ』
 って、云ってたのよ」
その時には「お父さんてば、云ってるコトと主張が違うじゃない」と笑ったのだが、
余命を気力だけで延ばしていた父がどんな思いで云ったのかと、一人になった時に
涙がこぼれた。
長い闘病生活の間についに『花嫁の父』にも、『おじいちゃん』にもさせてあげる事
なく逝かせてしまった自分がものすごい親不孝な気がして、父の写真を見ては時折
たまらない思いにかられています。


763 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/07/17(火) 23:08
数年前、義父が死んだ。
葬式が終わり、東京へ戻ってきてから、女房が初めて聞く話をした。

小学校三年生ぐらいのある日、彼女は亡くなった祖母の部屋でぼんやり膝を抱えていた。
何か寂しいことがあると、彼女はそうしていたらしい。
そこへ、思いがけず義父が入ってきた。

女房の話によれば、当時の義父は決してよき家庭人とはいえなかった。
内にとても激しいものを秘めた孤独な人で、お嬢様タイプの義母とは必ずしも折り合
いがよくなかった。子供時代の女房にとっては、突然ブチ切れたり、子供相手に手加
減せず自立を要求したり本気でケンカをふっかけたりする、不条理で怖い人だった。
メディア屋としてそれなりの野望を抱きながら、労働争議に巻き込まれて数年間干さ
れていた影響もあったのかもしれない。

だがその時、怖い義父はなぜか彼女のそばにそっと座り、彼女を膝の上に載せて黙っ
て頭をなでてくれた。彼自身をひどく嫌っていた、母方の祖母が暮らしていた部屋で。

とてもうれしくて癒された。
なぜあの時、あんなことをしてくれたのかわからないけど。
女房はそう言って、そのままうつむいた。

俺は女房の横に座って、俺と同じ年頃の義父がしたのと同じことをした。
なんだか二人とも泣いた。


767 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/07/19(木) 02:06
この前8年前に亡くなった、ばぁちゃんの夢を見た。
最近辛いことばかりで落ち込んでいたから、
頑張れって言ってくれたのかな?
会話らしいものはほとんどなかったけど
ばぁちゃんはずっと前を歩いていた。
とても早足だった。
何故か目が覚めたら泣けてきた。
物凄く涙が出てビックリするくらい。
そしたら、少しスッキリした。
ばぁちゃんありがとう。


769 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/07/20(金) 11:26
仕事の関係で、東京から兵庫へ家族で引っ越した。
小学校三年の娘は、おとなしい性格なので学校で馴染めるかどうか
心配していたが、その心配の通り娘は「言葉が気持ち悪い」と少しいじめられている。

それでも仲間に入れて欲しい娘は、TVで久本雅美が出ると
大急ぎでノートを持って来て懸命に久本のギャグをメモに取っている。
おとなしくて家で絵を描いたり本を読んだりすることが大好きな娘が
たとえ真似でも久本みたいなことができるだろうか
たとえ出来たとしても、そんなことで仲間に入れてもらえるだろうか

大人から見ると不毛な発想、不毛な手法なのだが
親としてはそれを指摘することはできない。

嗚咽ってほどじゃないな
ごめんな


770 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/07/20(金) 12:39
泣けない私の分まで、皆さんで泣いて涙を流してください。
私は涙を流せないのです。悲しい事、嬉しい事、慟哭するほどの出来事を前に
平静を装う、これが私の習慣。この長い習慣のせいで涙を流せなくなってしま
い本当に辛い。私が泣く時、それは「夫の身勝手」や「暴言」。冷たくて嫌な
涙です。泣きたくないのに溜まっていた長年の涙がここぞとばかりに意思とは
裏腹に流れてくる。夫は「泣く私」が小気味良いらしい。。どうか皆様、私の
分まで純粋な涙を流してください。私は時々こうして上げて行きたいと思いま
す。


771 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/07/20(金) 14:58
なんか、このスレの題名はいいね。東野圭吾の小説風で。

さて。

数年前、高校時代の後輩が病気で亡くなった。
しかし、どうしても俺は、告別式に参加することが出来なかった。
彼は最期まで、懸命に生き続けていた。妻子のことを常に思いやっていた。
なんであんないいやつが死ななくてはならないのか?そう思うと、泣けてきた。
俺は葬式の日、喪服まで着て、出かけようとしたが、玄関を出ることが出来なかった。
俺は間違っていたのだろうか。
それ以来、墓参りすら出来ないでいる...ごめんよ。


772 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/07/20(金) 15:09
息子へ

君もこんなにでかくなって、決して良いとは言えない通知表を
はにかみながらテーブルに放る。
君には色々苦労をかけたが、君の屈託の無い笑顔に何度も私は
救われたのだよ、ごめんそしてありがとう。


773 名前: 軽すぎるとは思いつつ 投稿日: 2001/07/20(金) 17:31
旅行帰りの機中で、なんとなく読んでた新潮だか朝日だか忘れたけど
ライスシャワーが転倒→骨折→安楽死という記事が載ってて
『馬はもっとも苦しい最後の直線をただ自分が乗せている人のためだけに走る』
みたいなキャプションを読んで泣いた。
競馬はやらないけど、昔コンビニでかわいいと思って買ったライターが
ライスシャワーだったんで名前だけは知ってた。


774 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/07/20(金) 17:59
交差点で、右折しようと待っていたところ、
対向車線で私と同じように右折待ちの車を運転するおじさんが、
半年前に死んだ父とそっくりでした。

迷惑かけてばかりで、親孝行らしいことを全然してあげられなかった、
自分の腑甲斐無さから泣けてきました。

生きてる内に、一緒に酒を飲みたかったよ。


775 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/07/20(金) 18:05
初めて甥っ子が生まれたとき、新生児室で元気に泣いてる姿を見て
涙があふれてしかたなかった。私の血が流れる新しい世代なんだっていうのと
幼い頃から可愛がってくれた姉が母になったことに、素直に感動した。


778 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/07/20(金) 21:10
先週末に妻と話し合い、離婚を決めました。
2人の娘には3日前にそれを告げました。
小3の下の娘はただ大声で「いやだ」と言って
泣きじゃくっていましたが、
小6の上の娘はただうつむいて、
声を殺して泣いていました。
小さい頃から自由奔放な妹に比べて
姉の方は何かとつらいことをぐっと飲み込んでしまう娘でした。
いっそ、泣いて私をなじってくれれば良かったのに。
妻とはお互いに浮気とかじゃなく
小さな食い違いが積み重なって
最悪の結果になってしまいました。
2人の娘には何の罪もないのに
唯々、彼女たちにすまないという気持ちで胸がつまります。
最後に妻と娘が家を出ていくとき
どんな顔で3人を見送ればいいのか分かりません。


782 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/07/21(土) 10:37
天真爛漫で、当時十八の俺より純粋だった父が出張先で車にハネられ重体になった。
病院の関係者は勿論、他の入院患者の家族まですぐ親しくなってしまう父の病室は、
いつも賑やかでした。
いつの間にか仲良くなった、小さな子供達に描いてもらった絵も貼ってあったりして、
ちょっとした人気者だった。
やがて帰らぬ人となり、霊安室で寝かされ動かなくなった父に、
絵や手紙を描いてくれた子供達が来てくれて、「どうして、おじちゃんはずっと寝てるの?」とか
理解出来ない子供に対して、自分なりに「死」ということを教えてあげた。
誰かに聞いたのか「星になったのかなぁ」という子供の真剣な顔に、必死で涙をこらえた。
葬儀で自分と同世代くらいの父の仕事仲間がみんな涙流しているのを見て、
世間体やカッコなんか、どうでも良くなった。嗚咽した。
赤の他人の人達に、こんなにも慕われてた父が誇らしかった。
生き様と死に際で、人生について最後に教えてくれた事だと思っています。


793 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/07/23(月) 15:46
『おばあちゃん子』だったのに、祖母が死んだとき、うちに連絡があったのは亡くなった後だった。
祖母が危険な状態であるとは知らされていなかった。
なぜ亡くなる前に連絡をしてくれなかったのか、父親に聞いた。
「ずっと布団の中で言っていたんだ。『○○(私)には知らせるな。○○が心配するから』」。
祖母が死の床で残した遺言は二つだけ。
「式は自宅。この家から送って欲しい」「○○が6歳のとき、一緒に撮った写真を遺影にして欲しい」。
ちょっとピントがぼけている写真だが、遺影の祖母は最高の顔で笑っている。


794 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/07/23(月) 23:44
今年はおばあちゃんの7回忌です。
あれから7年もたったのか、、、と、正直驚いてます。
7年もたつのに、もう会えなくなってしまったのに、それでも
おばあちゃんのことを毎日のように思い出すのです。
亡くなった当時、私は大学をでたものの、わけあって就職できずにいました。
就職して一人前になったら、おばあちゃんと旅行にいったり、おいしいものを食べ歩いたり、
私の知らないことをもっともっといっぱいおしゃべりしようといろいろ考えていたのに、
その夢はとうとう叶えられませんでした。
おばあちゃんを喜ばせるようなことは、なにひとつできませんでした。

あれから、もう何十回となくおばあちゃんの夢をみています。
夢の中には、おばあちゃんと今も健在のおじいちゃんがでてきます。
今は実家をはなれ地方に住んでいるのですが、
ある日、その土地のおいしいものをごちそうする夢をみました。
お店の椅子に皆でこしかけ、さあこれから食べるぞ!という段になると、
どういうわけか夢から醒めてしまいます。
いつも、こんな感じです。
楽しい寸前になると、夢が終わってしまうのです。
夢のなかでさえ”夢”を叶えられないのが、悔しさ、寂しさをつのらせます。

でも、私が生きている限りおばあちゃんの夢はみつづけるにちがいありません。
いつもおばあちゃんのことを想っています。
ご恩返しはできなかったけど、それだけでもいいですか? おばあちゃん


795 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/07/24(火) 00:25
大阪の小学校襲撃事件の時。
夜中に2chやニュースサイトやらを見て激しい憤りを感じていた。

もう寝ようと思い、妻と娘(小2)の寝ている部屋に行って、娘の
あどけない寝顔を見た時、急に感極まり嗚咽を漏らした。
妻は、その異様な雰囲気に目を覚ました。
知り合ってから14年、初めて妻に見せた私の涙だったと思う。

明石の事故、また娘と同世代の子供達が犠牲になってしまった。
妻には見せない涙を流しつつ、黙祷。


796 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/07/24(火) 01:06
恋愛話でもいいですか?つきあって5年、お互いの親にも会い、誰もが結婚するものと想っていた。
4年目から仕事の関係で、遠距離。それでも週2回は電話をして、2ヶ月に1回は会っていた。
久しぶりに会ったとき、少しだけ彼女の雰囲気が違った。気のせいだろうと想った。
しかし決定的な事が起こった。彼女がキスを拒否した。
「好きな人がいるの?」「・・・・うん」彼女は号泣した。とりあえずその日は泊まらず別れた。
「お互いよく考えよう」と言って。でも彼女の心が新しい彼のもとにあるのは明らかだった。
翌日の昼休み、誰もいない会議室で、1時間声をあげて泣いた。本当に彼女が好きだと気がついた。
ごめん、真夜中に嫌がらせの電話をしちゃったね。ごめん、友だちにお前の悪口言っちゃった。
あれから3年たった。「元気かい?今幸せかい?旦那を大切にしろよ。
俺も35になってやっと一生を共にできそうな人が見つかったよ」。


797 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/07/24(火) 13:46
三年前に親父が死んだんだけど、ほとんど遺産を整理し終えた後に
親父が大事にしていた金庫があったんだよ、うちは三人兄弟なんだけど
おふくろも死んじゃってて誰もその金庫の中身を知らなくてさ
とりあえず兄弟家族みんな呼んで、その金庫をあけることにしたんだけど
これがまた頑丈でなかなか開かないんだよ。仕方ないから鍵屋を呼んで
開けてもらうことにしたんだけど、なかなか開かなくてさ
なんとなく俺たちは子供の頃の話を始めたんだよ、親父は昔からすごい厳格で
子供の前で笑ったことも一度もなくて旅行なんてほんとにいかなかった
子育てもお袋に任せっきりで餓鬼の頃はマジで親父に殺意を覚えたよ


798 名前: 797 投稿日: 2001/07/24(火) 14:01
んで、一番下の弟が、そういうわけだからしこたま溜め込んでるんじゃねえか?
みたいなことを言い出して、その後に真中の弟も親父が夜中に金庫の前で
ニヤニヤしながらガサガサやってんのを見た とかいったから
俺もかなり金庫の中身に期待を抱いちゃったんだ
んで、そのときに鍵屋がちょうど「カギ、開きましたよ」といったから
ワクワクしながら金庫の前に行き、長男の俺が金庫のドアを開けたんだ
そしたら、まず中からでてきたのは、古びた100点満点のテストなんだ
それをみた一番下の弟が「これ、俺のだ!」といって俺から取り上げたんだよ
次に出てきたのは、なんかの表彰状、すると次は次男が”俺のだ”といいだして
その後にネクタイが出てきたんだ、見覚えがあるなあと思って
気がついて叫んじゃった「あ、これ俺が初めての給料で親父に買ってやったネクタイだ」
その後に次々と昔の品物が出てきて、最後に黒い小箱が出てきたんだよ
その中には子供の頃に家の前で家族全員で撮った古い写真が一枚出てきたんだ


799 名前: 797 投稿日: 2001/07/24(火) 14:17
それを見た俺の嫁さんが泣き出しちゃってさ、その後にみんなもなんだか
泣き出しちゃって、俺も最初は、なんでこんなものが金庫のなかにあるのかが分からなくて
なんだよ、金目のものがねーじゃんとか思ってちょっと鬱になってたんだけど
少したって中に入っていたものの意味が理解できたとき、その写真を持ちながら
肩震わして泣いちゃったんだ。人前で初めて本気で号泣しちまったよ
そこで鍵屋が、きまずそうに「あの、私そろそろ戻ります」とかいったんで
みんなが、はっとして涙をにじませながら「ありがとうございました」

このとき、俺は親父がどんなに俺たちのこと想っていてくれたかと
さっきまでの自分が金目当てで金庫を開けようとしたこと
子供の頃に親父に反感を抱き、喧嘩ばっかりしたことが恥ずかしくて仕方がなかった
親父は金よりもほんとうに大事なものを俺たちに遺していってくれたと思っている
長くなって申し訳ない sage


804 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/07/24(火) 17:39
アルツハイマーになり、7年間の闘病生活の後祖父がなくなりました。
祖父と祖母はあまり仲が良くなくて、子供達に面倒をかけ続けた祖父に
対し、非難をいつも浴びせていました。「早く死んで欲しい」と。

祖父の葬式の晩、私と祖母はコタツでお茶を飲んでいました。祖母が
落ち込んでいたように見えたので、「これから自由に遊べるね」って
言うと、「もういいよ」と答えました。子供だった私は祖母に向かって
「だっておじいちゃんが死んだら自由になれるっていつも言ってたじゃ
ない。やっぱショックなの?」と聞くと、祖母は「そりゃ連れ合いだ
ったから・・・」と答えました。

それから一週間後、祖母は脳溢血でいきなり倒れ、亡くなりました。
子供だった私は、まだそのとき良くわかっていなかったけれど、今なら
わかります。祖母のあの時の気持ちが・・・

おじいちゃん、ぼけた姿を見たくなくて特養ホームに7年間一回も
お見舞いに行かなくてごめんね。そして、おじいちゃんに冷たい
おばあちゃんのこと、誤解してて、本当にごめんなさい。


810 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/07/26(木) 21:04
離婚して2年たった
今も娘たちのことが頭から離れず きつい毎日
それから逃れるように仕事に没頭しているが、
ちょっと気を抜くともうだめ

二人目の娘の出産のために
家内が実家に帰っているときに
離婚の話が煮詰まりまった
妻の実家の畳敷きの小さな部屋で話し合いをしていたのだが
(ののしりあいもなく 本当に静かな話し合いだった)
娘は 横でトランプの一人遊びをしていた
当時三歳だった娘は
黙って無心でゲームをしていたように見えたのだが
私が少しでも体を動かすと
びくっとして「帰っちゃうの?」と聞いてくる
それを何度も何度もくりかえし
いよいよ本当に帰るとき
家内のマンションの出口まで2人で見送りに降りてきて
俺が10mばかり歩いていったところで
娘が後を走って追ってきた
ふりむくと娘が必死の顔で何かを言おうとしている
でもどうしても言葉が出てこない様子で
ただ必死の表情をしていた
「どうした?」と声をかけた途端
ばっと泣き顔になって
そのまま マンションに走って帰っていった
それが最後になってしまった
二人目の娘が生まれた時に
もう一度家内とは会ったのだが
姉となった娘とは会えなかった

もし新しいお父さんができたときに
なじめないといけないと思い
会いたい気持ちを必死でかみ殺している

ついつい長くなってしまった 申し訳ない


817 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/07/27(金) 06:45
阪神大震災で神戸の祖母の家がぺしゃんこになった。
東京から車飛ばして、途中からは5時間歩いて親父と救出に行ったけど・・・

たどりついた家はただの瓦礫の山で、祖母の姿もどこにもなかった。
救援所や体育館などを走り回って祖母を探したけど見つからず、隣のおばさんを
ようやく見つけたら「おばあちゃん、まだ中にいるんとちがう?見てないで」
って言われて、急いで引き返した。

親父と二人で瓦礫を掻き分けながら、何度も大声で呼んだけど反応がなく
日も暮れてきて、警察にも連絡したのにいっこうに来てくれない。
声も枯れ果て疲れきった俺はその場に座り込んで動けなくなった。
でも親父はあきらめずに、ずっとずっと瓦礫の上や下を一生懸命探してた。

2日後、祖母はショベルカーによって遺体で発見された。親父が遺体に駆け寄って
「お母ちゃん!お母ちゃん!ごめんな、ごめんな、見つけてやれんかったんや」
泣きながら小さく折れ曲がった体を抱きしめていつまでも揺すってた。

俺もその姿を見て声にならないほど涙が流れた。「ワシが見つけてやりたかった・・・」
親父はいまでも自分を責めてる。


818 名前: ちち 投稿日: 2001/07/27(金) 11:07
5歳の長男が自閉症です。満足に言葉もしゃべれない・・・。俺はこの子は諦めていた。
口で言っても解らないんだよ。躾以前の問題だ。療育センター、TEACHいろいろやったけど
あまり変化がなくて・・・。なんか育てるのが辛くなってきて。
叩いて躾けるしかないって。愛情もあるのかないのか・・。
反動か、2歳になる愛想のいい次男を可愛がってばかりいた。話し掛けるとニコニコ可愛い。
いっつも俺の後についてきて・・・。散歩もこの子とばかり・・・。
ちょっと前のこと・・・。
長男を風呂にいれた日のこと。いつもの様に長男は石鹸で遊んでた。体を洗おうとしても
まるで反応なし。口笛(?)を吹きながらシャカシャカ石鹸を泡立ててる。俺は内心
うんざりしながら子供の体を洗ってやった。洗いおわって、子供を湯船にいれた。
一息ついて自分の髪を洗っていると・・・。
子供が背中をさすっているんだよ!手を石鹸で泡立たせて。手だけで。初めてだよ。
なんで?自分の体も洗えないのになんで?
驚いたけど・・・。なんでか涙がでたよ。この子にしか見られてなかったけど、シャワーで
涙をかくしたよ・・・。その日、次男のほうは妻に風呂にいれてもらった。
なんで俺の背中を流してくれたんだろう?ほんの気まぐれなのか?解らないけど・・・。
ほんのちょっぴり、この子の親になって良かった。


839 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/07/28(土) 18:18
女房と別れ話をしている。
一緒に暮らし始めてから12年。その前の付き合いも含めると19年。
人生の半分を彼女と一緒に過ごしてきた。

結婚前から感じていたズレを、結局克服できなかった。
小さな傷、小さな沈黙の積み重ねが、互いを石にしてしまった。

それぞれの出てきた家庭とは違う形の、幸福な家庭を作りたかったのに。
結局は2人ともが、自分が逃げてきた場所の雛型のようになってしまった。
子供でもいれば違ったんだろうか?
こうなることを内心恐れて、作らなかったのだけど。

嫌いになったの? と彼女は言う。
今でも好きだ、でも君に触れようとすると体が固まる、と俺は言う。

>>810さんより俺は身勝手だと思うけど、そのつらさは俺にもわかるような気がする。
自分がかけがえがないと思い、人生を捧げようと思ったものを、自分の手でとりかえ
しのつかないところに持って来てしまったこと。いっそはっきりと嫌いになれれば、
邪魔だと思えれば、憎んだりできれば、こんなに苦しまないのに。

どうしてこんなことになってしまったんだろう。
それを女房と毎晩話し合いながら、二人で泣いている。


842 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/07/29(日) 09:23
私が20歳の時姉が自殺しました。ものすごく私のことかわいがってくれていた人。
死ぬ前日なんか机に向かって遅くまで書き物していました。途中手を休め、耳掃除
してくれて、ふつうに時間がすぎていました。しょーもない話をえんえんとして。
警察から連絡があって、実感がないまま葬式の準備が進められ、妹の私に親戚が、
お棺に真新しい下着着せて入れてやりたいから買っておいでと言われ出かけた。
自転車にのっているときも何か麻酔打たれたようにぼーとしているだけ。以前から
店の前を通って知っていた小さいしゃれた下着屋があってここにしようと入った。
お店の人が寄ってきたときに急にこみ上げてきて、しゃくり上げながら白い下着を
というのがやっとで、店の人がびっくりして、何かされたの、貴女大丈夫、どうし
たのと、性犯罪に巻き込まれたと勘違いされてしまった。その店で一番清潔感のあ
る綺麗な下着を泣きながら選び、包んでもらいながら甘えるばかりで一緒にでかけ
ることはもうないんだと考えまた涙。帰りの自転車の道すがら滝のように涙を流し
続けた。遺体と対面したときあまりに眠っているのと変わらない様子だったので、
かえって悲しみがその時麻痺して、枕元でお通夜の間小さい声で話しかけ続けた。


843 名前: 842 投稿日: 2001/07/29(日) 09:41
葬式の間も混乱した私を気遣いひたすらぼーとしていた。他の家族の
悲しみも目に入らない状態。その後前日にしていた書き物である遺書
が発見された。私宛のものはいろいろ言葉につまったらしく、書き損
じがたくさんあったらしい。自分がいなくなっても強く生きろ、でも
支えてくれる良い旦那さんと巡り会い、早く家庭を持つようにとあった。
何年もかかったけど、喪失感と戦いながら生きてきて、結婚して、子供
を授かった自分を思うと、あの大きな悲しみから立ち直れたとしみじみ
思う。でもね、今でもたまにねえちゃん・・・とつぶやいてしまうとき
がある。来月命日きたらまた墓参りします。


853 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/08/01(水) 10:35
大好きな人と別れて半年。
昨夜、好きでもない人と酔っぱらって関係してしまった。
なぜか終わった後、涙が出て涙が出て

心の中で別れた人の名前を叫びつづけてそのまま寝てしまった。
いったいこの苦しみはいつまで続くのか


863 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/08/01(水) 19:38
不妊治療の末ようやく授かった赤ちゃんが稽留流産と診断された
その事実を告げられたときはどうしてもこらえ切れずに
待合室に人がたくさんいるのに号泣した
手術もすでに終わったけど考えると未だに涙がとまらない

妊娠発覚から流産と診断されるまでの間は
ようやく親となれる喜びで一杯で本当に幸せだった
生まれてくることはできなかった小さい命は
とても短かったけどそんな幸せな時間を私たちに与えてくれるために
私の中に宿ってくれたんだとなーと今は考えるようにしている
そのことに感謝してまた頑張ろうと思う
・・・それでも、これ書きながらまた泣いてしまったケド


873 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/08/04(土) 20:29
別になんでもない話なのかもしれないが。
4年前に、すぐ近所に住む私の同級生の奥さんが
34才の若さで突然亡くなった。
二人の小学生の男の子を残して。
(今はそれほど同級生である父親と親しくしているわけではないのだが)
子どもたちがかわいそうでならなかったが
かける言葉も見つからず、
子どもたちに会うと「おはよう」とか「おかえり」と言う以外には何もできなかった。
先日、引っ越し屋のトラックが彼の家の前に横付けされていて
家の中からタンスなどを運び出しているのが見えた。
亡くなった奥さんの嫁入り道具じゃないかと思った。
そして、「再婚するのかな」と思った。
幸せになって欲しいと心から願っている。


874 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/08/04(土) 21:12
私の以前の職場の上司の奥さんは、同じマンションの女性の飛び降り自殺の
現場に居合わせてしまった。
まさに落ちていくトコロを目撃してしまったらしく、ひどいショックを受けていた。
今の上司の娘さんは、急死した同僚(しかも真夏に死後5日経過)の第一発見者に
なってしまい、いまもそのフラッシュバックに苦しんでいる。
そんな話を聞きながら。
「タイヘンだよな」と思う気持ちはもちろんあるのだが。
『所詮他人事』な自分に、いつからこんなに乾いた自分になってしまったのだろうと
妙な寂しさに泣いていた。


876 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/08/06(月) 08:52
昔、在米中に一人山の中へドライブに行った。大分煮詰まっていたんだと思う。
夜空を見上げると、飛行機がトンでした。
『夜間飛行か、アレに乗ったら日本に帰れるのかなぁ』
何気なく思った。
…しばらくしたら両頬が涙でぐしゃぐしゃだった。自分で気付かぬ内に嗚咽を漏らしていた。
後になって、アレがホームシックという物だと初めて気が付いた。


880 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/08/07(火) 14:05
今は冷めきった夫婦です。
だけど旦那を「大事にしなくちゃ…。」と思い起こさせるお薬があります。
それは旦那がやっとおすわりをしている赤ちゃんの時の白黒の写真。
可愛い笑顔で右手にバナナを持っています。
その写真をみると何故か泣いちゃいます・・・「かわいいなぁ」
今はむさ苦しい大木のような旦那が急に愛しくなって
色んな事があっても写真を見ると忘れられます。
喧嘩したり言い争ったりして「もういやだ!」と思った時
その写真は効き目があります。

将来、息子がお嫁さんをもらったら お嫁さんに息子のかわいかった
赤ちゃんの時の写真を渡したいです。


907 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/08/09(木) 15:59
助産院での自由な出産を夢見てずっと助産院に通っていた妻が妊娠25週目で切迫
早産になり、県立子供病院で入院・出産をすることになった時,先生が「説得でき
るのはあなたしかいない」といって私から妻に話した。涙が出てきて「元気な赤
ちゃんを見たいよ」としか言えなかったっけ。でも、妻も泣きながら「ウン」とい
って,それからは72日間陣痛に苦しんで予定日の1週間前に元気な赤ちゃんを産
みました。この話を書いてると今でも涙が出てきます。


920 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 2001/08/20(月) 06:03
お盆に母の母に(お祖母さん)に久しぶりに会いました、
100歳ちょっと手前の祖母が、私の顔を見るなり、目に涙を浮かべて
「よく来たな、昨日XX(私の母)の夢をみて、今日あたり来ると思っていたらホントに来た!
 XXがお前(私)に、ありがとう、もう気持ちを押さえ込むのはやめれって言ってた。」
と途切れ途切れに小さい声で私に話した。
挨拶もそこそこに祖母の小さい皺だらけの手を握りしめ、泣きました。
家族や親戚は、私が泣くのを初めてみたそうです。
その後、お墓参りに行く時は、皆目が真っ赤でした。
母が亡くなって18年、思わぬ形で心のしこりが取れました。
誰かに聞いて欲しくて、書き込みました。


931 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 01/09/03 09:21 ID:Kjg8EjS2
ガキの頃、毎日のように母親にぶたれて育った。
父親が忙しくてあまり家にいない人だったので、父親の分まで引き受けようとしたのだと
今になってみれば思う。でも当時は、このひとはたぶん自分のことを愛してるんだろうな
という思いと、それなのになんでこんなに恐ろしいことをするんだろうという思いの間で
分裂していた。いつまで続くのか分からない平手打ち、そして洗面器いっぱいの水。

いまだに女の人に手を挙げられると目を閉じて身構えてしまう。男相手なら平気でカウン
ターの蹴りを狙いに行くのに。藁)

成長するに従い体罰は減っていったが、俺の中での彼女の位置付けは「怖いけど愛してる
人」から「支配欲の過剰な暴君」へと変わっていた。俺は自分の世界を見つけ、家に寄り
付かなくなり、家にいるときは部屋に閉じこもって暴力的な音楽を聴きながら呪われたテ
キストを読む、立派な厨房になっていた。

そのうち彼女は精神のバランスを崩し、入退院を繰り返すようになった。
俺はそのまま、家を飛び出した。そうしないと生きていけなかったから。

結婚することになって、今の女房を連れて実家に帰った。女房には事情は話してあっ
たが、母親は薬のおかげで小康状態で、まあまあなごやかなムードでその日は推移した。
それでもときどき女房に見せる露骨な嫉妬心に、俺は時々血が逆流するのを必死でこ
らえていた。

帰り際、両親が包みを持たせてくれた。小さな包みのほうは弁当だから電車の中で食
べてくれということだった。俺の実家の沿線は駅弁がうまいので(藁)正直迷惑だっ
たが、ありがとうと言って駅へのタクシーに乗った。物凄い疲労と安堵。すまんね、
と女房に言って、沈黙。

帰りの電車の中で、女房が手洗いに立っているすきにこっそり包みを空けた。卵焼き
がぎっしり、少しおひたし、残りはごはんというシュールな弁当だった。
ヘタクソな卵焼き。俺のガキのころの好物だ。
指でつまんで口に入れて、涙が止まらなくなった。

憎みながら愛する、ということがあるんだとそのとき初めて知った。
今だにどうしていいのか分からず、女房の実家にばかり顔を出している。


938 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 01/09/13 10:04 ID:1KSY/joc
私が幼稚園の頃から不治の病で苦しんできた父。
それでも家族の為に働いていた。
私が二十歳を迎えた翌年に雪で足を滑らせてから
気が抜けたのか瞬く間に病状が悪化して入院した。
3ヶ月余り、、食事制限の厳しい病気なのに
「何を食べてもよいと言われた」と父は言う。
じわじわと体力は落ち、足も細くなって行ったけど
「頑張る、良くなるから旨い物を持ってきてくれ、力のつくものを」
弱った体には無理だろうと思い
コンビニで茶碗蒸しを買い、家からはおにぎりを作って持っていった。
美味しそうに食べてくれたが半分も食べられなかった。
先生から言いにくそうに「もう長くはないので本人の好きなようにしてあげて」と
いう話があった。
「甘い物が食べたい」というのでクッキーを持っていくと
長い時間をかけて美味しいといいながら一枚をやっと食べていた。
それから何日かして治療中に意識を失い一週間経ち父は逝った。
あのとき父が美味しいといったクッキーをコンビニで見つけた。
もう10年以上経つのに包装もおなじままで、、
買って帰り食べてみた。涙がでてきた。


941 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 01/09/22 20:59 ID:WBKXyUfs
夫がストレスから来る病気で服薬するようになった。
言動・行動が以前の彼とは違い、家の中がとげとげしくなった。
事情を知っている友人がこの連休に旅行に連れだしたので、
家の中には私と4歳の息子。気抜けして、なぜかメソメソ泣いてしまった。
横でおやつを食べていた息子が「お母さん 好き」と言いながら自分の
食べているクッキーを、一枚くれた。またまた泣いてしまった。
さっき夫から電話があり、元気な声で、「寒いけど楽しいよ」といったので、
わんわん鳴いてしまった。電話の向こうで急に具合が悪くなったのかと心配
していたけど、うれしくて・・・と伝えるのに苦労した。


943 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 01/09/25 00:58 ID:CkXuNEJc
俺は涙もろい方だと思うがいつも泣く時は1人の時だった。
祖父が死ぬって解かった時も1人で、走る車の中で嗚咽していた。
どういう訳か人前では泣けない。
祖父の葬儀の時、葬儀場から火葬場までの送迎バスに乗り込んだ時は
堪え切れずに涙が溢れ出てしまったが、ハンカチで顏を押さえて誤魔化した。
こういうのって男だけかな?


944 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 01/09/26 23:24 ID:5ONi8aCc
私の夢は自分の子供をだっこすることだった。
しかし色々な事情があり、自分は子供が作れない。
だから弟に子供ができた時は想いは複雑だった。
しかし生まれてきた姪っ子の姿を見た時にはそんな想いはどこへやら。
彼女に対する両親の愛には勝てないかもしれないが
それでも自分は姪っ子を愛している。
生まれて3年たった今、姪っ子に知的障害があることがわかった。
それでも彼女を愛している。
色々つらいこともあるだろうがすくすく育っておくれ。
切に願う。


946 名前: 大人の名無しさん 投稿日: 01/09/29 18:57 ID:B0xq1P0Y
お父さんとお母さんにあいたいです。
私の頭を撫でてもらいたいです。
私の子供を見てもらいたいです。
せめて天国から見ていてください。

出典:嗚咽
http://yasai.2ch.net/middle/kako/973/973086841.html

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