「冗談じゃないわよ。借金を返し終わったとたん、お千代(島倉千代子)は出て行っちゃった」
2014/01/06 18:16 登録: えっちな名無しさん
56 :陽気な名無しさん:2013/11/15(金) 18:50:48.56 ID:iVDn8SY70
そもそも島倉の最初の借金の原因は、1961年にファンが投げたテープが目に当たり、失明か?と騒がれ、五反田の眼科医Mが治療し、完治させた。この時、島倉は元阪神タイガースの藤本克己内野手と結婚していたのだが、島倉はMに愛情を持ち、不倫関係になってしまった。
その後、藤本と離婚した島倉はM医師と夫婦同然の関係になり、Mの新事業ための資金作りに利用され、2億400万円もの手形の裏書までしてしまった。事業に失敗したMは逃亡。
この手形を手に入れた暴力団は「裏書人の島倉千代子が払うのが当然!」(これは法的には正しい)と連日、島倉の公演先にまで押しかけ、攻めに攻めた。
57 :陽気な名無しさん:2013/11/15(金) 18:53:34.66 ID:iVDn8SY70
連日、暴力団に追い回され疲れ果てている島倉の前に、救世主のような顔で登場したのが、暴力団組長の情婦だった細木数子である。私が大物政治家の秘書だった関係でその筋から調べると、借金取りに押しかけていた暴力団と細木の“情夫”だった暴力団組長はグルだったのだ。
島倉に暴力団情婦を隠して近づいた細木は、白々しくも「暴力団に追い回されているお千代を救いたい。二人で借金を返していく」などと、二人で「ミュージック・オフイス」なる芸能事務所を設立。細木は島倉千代子の後見人と名乗り、二人で会見までしている。
当時、絶望の淵に追い込まれていた島倉には、その時の島倉には恩人か救世主にも見えてしまったのだ(当時、細木と暴力団組長の二人は島倉の高級マンションに住んでいたことが後日判明している)。
会見を偶然テレビで観た私は、島倉の隣に細木がいるのを見、「これは島倉が食いものされるぞ!コロンビアレコードがなぜ救わないのか」と思ったが、余計なことを言う立場でもなく、黙っていた。
それ以降、島倉はその当時まで電車に乗ったこともなく、切符の買い方さえ知らなかったが、「借金を返すんだから」と細木に高飛車に言われるままに、電車で仕事場に行くほど続け働きに働いた。が、借金は減るどころか12億円にまで膨れ上がっていた。
58 :陽気な名無しさん:2013/11/15(金) 18:57:13.86 ID:iVDn8SY70
世間時らずの島倉もさすがに騙されていると気付き、と、当時のコロンビアレコードの会長に泣きつき、12億円の借金を肩代わりしてもらい、細木と暴力団組長と袂を分かったのだ。
そして、これから述べることはその後のことで、某スポーツ紙芸能記者からの情報だが、細木と縁が切れた島倉千代子はコロンビアに返済するために、元気を取り戻し、全国を飛び回る日が続いた。
そして数年後、デタラメ占い師になっていた細木数子と札幌空港で偶然顔を合せた。細木はあのヤクザ丸出し(昔でいうズベ公)態度で島倉につかつかと近づくと、いいきなり島倉の頬にビンタをくれ、「余計なこと喋ると承知しないよ!」と脅したという。
読者に申しあげるが、ヤクザと言う人種は、金になる相手なら男でも女でも、品の無い言葉だが”尻の毛まで抜く“んです。要するに相手が使えなくなる、金を毟り取れなくなるまでしゃぶり尽くし、食い潰すのです。
島倉千代子さん死去!同サロ芸能廚女子は総力結集よ!
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/gaysaloon/1383893276/
島倉千代子、ピンハネ事件
2006/01/11 21:56
島倉千代子は70年頃、ステージ上でファンの投げたテープが眼に当たり、大けがをするという事故に見舞われている。一時は失明の危機にまで陥ったが、担当医の治療により無事回復。これが縁で島倉と担当医は深い仲になる。彼はその後、さまざま事業で失敗して島倉に莫大な借金が残った。島倉のもとには、暴力団が取り立てにやってきて、劇場の楽屋で騒がれたり、車のボンネットの上に乗られたりと、嫌がらせを受ける毎日。
1977年そんな借金まみれの島倉の前に現れたのが、赤坂などで水商売を立ち上げていた細木だった。
細木によれば、77年に債権者に追われて島倉が泣きついたのが、暴力団「二率会」の4代目会長(当時相談役)で小金井一家の幹部だった堀尾昌志という人物の知人であったという。この知人から相談を受けた堀尾は、自ら1億5000万を作って島倉の債権者に返済したと言う。(かつての細木の証言によれば、赤坂で自身がサパークラブを経営していたときに、偶然に島倉と出会ったという事になっている)
「その筋にも顔が利く」ということで、島倉はマネージメントのすべてを任せ、島倉の興行権を手に入れた堀尾は、芸能プロダクション「ミュージック・オフィス」を設立。細木数子が「光星龍」という名前で社長に就任する。島倉は、毎月数百万円ずつ返済することになった。
後に細木は堀尾との関係を、「夫婦以上、親子以上」だと語っている。
細木は当時「光星龍」の名で作詞も手がけている。
昭和54年5月 「噂」、「女の私が得たものは」
昭和55年1月 「春秋の舞唄」、「千歳扇の舞」
昭和55年5月 「女がひとり」
昭和55年7月 「綱わたり」
ヒットはない。
島倉クラスのタレントなら、月に400〜500万円は稼げた時代。本来なら、これで懸命に働けば借金は完済できるはずだった。しかしそうはならなかったのである。いつまで働いても、借金は完済できなかったのだ。島倉は「もしや細木とその筋が示し合わせて、金を吸い取られているのではないか?」と疑念を抱き、島倉は所属レコード会社の「コロムビア」に借金を肩代わりしてもらうことで、細木と別れ1981年に別の事務所に移籍してしまう。
2005年3月5日号の『週刊現代』で、細木は次のように答えている。
「冗談じゃないわよ。(中略)借金を返し終わったとたん、お千代(島倉千代子)は出て行っちゃった。それっきり音沙汰もなし。助けてくれた堀尾のお墓には線香の一本もなし」
細木の当初の話では、「島倉が抱えていた負債は4億3000万円(当初は2億4000万といわれたが、実際は4億3000万円てせあった)で、それを債権者側に三分の一の1億5000万で納得させた」、という話であった。
だがこの後、借金の額がコロコロ変わっていくのである。
まず1980年5月8日号の『週刊平凡』で細木は「16億円あった借金を、6億円にしてやった」と語っている。
それが1982年の『六星占術による運命の読み方』(ごま書房)では、「4億数千万の負債」となり、1988年に出版された『女の履歴書』(廣済堂)では「後に判明した金額は13億円で、それを三分の一の4億3000万円で債権者に納得させた」となっている。
前出の『週刊現代』2005年3月5日号の取材に対しては「12億円だった負債を2億4000万で債権者に納得させた」と答えている。
ことあるごとに島倉千代子を再生させた手腕を喧伝する細木に対して、島倉が憤っていると言う話もある。
島倉千代子、ピンハネ事件
http://blog.livedoor.jp/tenchu13/archives/50009453.html
出典:同性愛サロン板
リンク:のコピペ

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