帰ってきた蛍と宮川三郎少尉 ねずさんの ひとりごと

2015/06/19 02:25 登録: えっちな名無しさん


カートプロモーション・プロデュース『帰ってきた蛍』を一昨日、観劇させていただきました。

数年前にも観劇させていただいているのですが、今回行ってみたところ、劇全体がものすごくパワーアップしていました。
もう最初の出だしから泣けて泣けて。
物語は、ご存じの方も多いと思いますが、特攻で散華されたあと、富屋食堂にホタルになって帰ってきた宮川三郎少尉の実話です。

知覧で、宮川少尉が、同級生と再会します。
その同級生は、あとから知覧にやってきますが、先に出撃命令が出ます。
出撃するということは、死ぬということです。
「俺もすぐ行く。靖国神社で会おう」そう言う宮川少尉に、その友は静かに言うんです。
「俺は先に故郷の小千谷に行くよ。そこでお前が来るのを待ってる。靖国には一緒に行こう」
「わかった。すぐ行くからな」
「すぐに来なくていい。貴様はゆっくり来い。何年でも俺は待っているから」
これは泣かされました。




舞台はもちろん役者さんたちが演じているのですが、その役者さんたちが若い子も大人たちも、みんな日本人の顔をしていました。
男の子は日本男子でした。女の子はまさに大和撫子でした。
「そうそう。こういう奴、昔いたよな。」そう思いました。

女の子たちは、ろくに化粧もしていません。
服装も地味なモンペ姿です。けれどとっても可愛らしいのです。
ハキハキしていて、明るくて、まっすぐで、のびのびとしていて、明朗快活でくったくがない。
男の子たちも、みんな地味な軍服姿だし、すぐに衝突したり喧嘩したりするけれど、どこまでもまっすぐで凛々しくてかっこいい。

どこぞの国のように整形してもダメです。
人の美しさというのは、内面からの輝きだからです。
どんなに苦しい時代にあっても、心が輝く。
やっぱり日本人は、太陽の子です。

帰ってきた蛍2


舞台は、連日満員御礼となりました。
昨日が最終日で、次回の講演はおそらく二年後です。
次回も絶対に観に行きます。
みなさんも一緒に行きましょう。

というのは、この劇の素晴らしさもさりながら、この劇の趣旨そのものが、「私達が忘れてはならないたいせつなものを後世に伝える」ことを目的としているからです。
日本人の心を学び語り伝える。
わたしたちは、ひとりひとりが後世に真実を伝えていく義務があると思います。

劇中で、何度も何度も「戦争はよくない。戦争は何もかも奪う」という言葉がありました。
二度と戦争をしないためにも、二度とこのような悲劇を繰り返さないためにも、これからの日本は、世界中のどこの国より強い国、絶対に攻められない国になっていかなければならないと思います。
そのためには、安全保障法案の実現のみならず、外交交渉において、絶対に戦火を避ける、それこそが心に愛を持った生き方なのだろうと思います。
口先だけの戦争反対、9条を守れなど、論外です。

ホタルになって帰ってきた宮川三郎少尉のことは、このブログでも何度か書かせていただいています。
以下に引用してみます。

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「ねずさんのひとりごと」より
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2287.html

6月6日は、宮川三郎少尉のご命日です。
宮川少尉といえば、知覧航空基地から特攻隊として飛び立ち、ホタルになって還ってきたというお話で有名です。
以下は、そのホタルが還ってきた富屋食堂の鳥濱トメさんのお孫さんから直接伺ったお話です。

トメさんは、お孫さんたちにも、当時のことをよく語って聞かせていたそうです。

特攻作戦は、知覧を始め、宮崎の都城など九州各地や、台湾の航空基地からも出撃していますが、なかでも知覧が本土最南端であったことから、陸軍の全特攻戦死者1,036名のうち、半数近い439名が、ここから出撃されました。

富屋食堂は出撃前の特攻隊員たちの憩いの場でした。
トメさんは、隊員たちから母のように慕われていました。
ですからトメさんは、出撃されたおひとりおひとりのことを、全員分、まるで昨日のことのようによく覚えておいでした。
なかでも宮川少尉のことは、とても印象に残っていて、何度も何度も聞かされました。

宮川さんが知覧に来られたのは昭和20(1945)年5月の終わりごろです。
宮川さんは新潟の人で、雪国の人らしく色白でハンサムな方でした。

宮川三郎少尉

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宮川さんは、知覧に来る前、万世飛行場から一度特攻に出撃しています。
しかしこのときは機体が故障して、引き返しています。
「自分ひとりだけが生き残った」
そのことを宮川さんは大変気にしておられました。

ようやく代わりの飛行機がもらえた宮川さんは、出撃する前夜の6月5日に、一緒に出撃する仲よしの滝本恵之助曹長と二人で、富屋食堂にやってきました。
二人は、「明日出撃です」と、ごきげんでした。
そしてその日は、ちょうど宮川さんの20歳の誕生日でした。

トメさんは、宮川さんのために、お赤飯を炊いてあげていました。
二人はお赤飯を、おいしいおいしいと召し上がっていました。
その帰りがけ、宮川さんが、突然、気がついたように言ったのです。

「おばさん、俺、明日も帰ってくるよ。ホタルになってね。滝本と二匹で。だからおばさん、追っ払ったらだめだよ」
まるで、冗談のような口ぶりでした。
トメさんは、食堂にくるときどこかでホタルでも見かけたのだろうと、そのときは気にもとめませんでした。

翌6日は、どんより曇った日でした。
この日は総攻撃の日で、朝から特攻機がどんどん飛び立ちました。
トメさんも見送りに行きました。

その日の夜のことです。
出撃したはずの滝本さんが一人でひょっこり食堂にやってきました。

二人は編隊を組んで飛び立ったのですが、どうにも視界が悪い。
そのため、何度も滝本さんは宮川機の横に並んで、
「視界が悪い。引き返そう」
と合図を送ったそうです。

特攻作戦の経路

http://blog-imgs-53.fc2.com/n/e/z/nezu621/201210281542316a9.gif


けれど、宮川さんはその都度、手信号で、
「俺は行く。お前は帰れ」と合図しました。
何度か目の合図のあと、滝本さんは引き返しました。
宮川さんは、そのまま雲の彼方に消えていかれました。

滝本さんは、その話をされながら、
「宮川は開聞岳の向こうに飛んで行ったよ」と言って、涙をぽろぽろとこぼしました。

夜の9時ごろです。
食堂には、トメさんの娘さんが二人と、滝本さん、奥の広間には、明日出撃予定の隊員たちが7〜8名いて、遺書を書いていました。

トメさんは、なんとなく不思議な気持ちになって、食堂の入り口の戸を、すこしばかり開けました。
すると、それを待っていたかのように、一匹のホタルが、ふら〜と食堂にはいってきて、天井のはりところに、とまりました。

それは、とても大きなホタルでした。
大人の親指くらいの大きさがありました。
ホタルの季節には、まだ少し早いです。
そんなに大きなホタルがいること自体が、不思議です。

そのとき、娘の礼子さんが、
「あっ、宮川さんよ。宮川さん。ホタルになって帰ってきた!」と叫びました。

滝本さんもびっくりされた様子でした。
トメさんは、みんなに言いました。
「みなさん。宮川さんが帰っていらっしゃいましたよ」

その場にいた全員で、何度も何度も「同期の桜」を歌いました。
涙がとめどなくあふれました。
ホタルは長い間、天井のはりに止まっていました。
歌が終わったとき、ホタルは、すっといなくなりました。

宮川少尉は、新潟県小千谷市出身で、旧制新潟県立長岡工業高等学校を首席で卒業し、昭和18年10月に明治神宮で行われた第一陣学徒出陣壮行会にも参加された方です。
トメさんは、戦争が終わったあとも、こうして出陣され知覧を飛び立たち散華された特攻隊員達のために、もとの知覧基地に、一本の墓碑を立て、そこに来る日も来る日も、毎日お参りされました。

毎日です。自宅からその墓碑まで歩くのに、足の悪いトメさんは、片道に30分もかかりました。
その道のりを、暑い日も寒い日も、毎日お参りされました。

雨降りなどは、たいへんです。片手に杖をつき、片手にお線香を大事そうに抱えてお参りに行っていたのです。
両手がふさがっているため、傘を持つことができません。
なのでトメさんは、雨が降ると、ずぶぬれになってお参りしていました。

そのトメさんが、お孫さん達に、繰り返し語ったことがあります。
それは、
〜〜〜〜〜〜
特攻隊のみなさんは、みんなとっても「思いやり」のある子たちだったんだ。
あの子たちが行ったのは、軍の命令だから逝ったとか、そういうことじゃなかったんだ。
あの子たちはね、故郷にいる親御さんや、兄弟の方々や、妹や大好きな人たちを守ろうとして、旅だって行ったんだ。

誰だって、死ぬのはこわいよ。
そのことは、昔の人もいまの人も、なんにも変わらない。
あの子達だって、こわかったんだ。

でもね、あの子達は、みんなを守るため、自分の命を犠牲にしてでもみんなを守りたいっていう「思いやり」の心があったんだ。
私はね、出撃した全部の隊員さんたちを知ってるよ。
ぜんぶ、私の子供たちだったよ。

あの子たちはね、人を、故郷を、大好きな人を「思いやる」心があったから、自分の命を犠牲にしてでも、まわりの人たちを守ろうとして出撃して行ったんだ。
〜〜〜〜〜〜

知覧基地で、特攻に行く隊員さんたちは、全員、三角兵舎と呼ばれる建物の中で寝起きしてました。
その三角兵舎は、松林の中にありました。

戦争が終わると、その三角兵舎は、全部取り壊されました。
何年も経ってから、トメさんの娘さんの礼子さん姉妹と、まだ幼かった(このお話を聞かせてくださったお孫さん)たちみんなで、その松林に行かれたそうです。

ふと眼にしたのは、その松の木の一本一本に刻まれた文字でした。
そこには、亡くなられた特攻隊員さんたちが、ご自分で掘ったのでしょう。
筆跡の異なるお名前が、いっぱい刻まれていたのです。

それを見たとき、わかったそうです。
彼らだって、死にたくなかった。そして、俺たちが、生きて、呼吸してて、ここで寝起きして、生きていたことを、決して忘れないでくれ!
その木に刻まれたお名前のひとつひとつに、そういうメッセージが込められているのだと。

そのことに気付いたとき、その場に居合わせた全員が、声を絞り出すようにして泣きました。

礼子さんにまつわるエピソードもあります。
草思社文庫、赤羽礼子著『ホタル帰る 特攻隊員と母トメと娘礼子』からの抜粋です。

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無事にトメが退院し、富屋食堂は数ヶ月ぶりに元に戻った。
年が明けて昭和19年。
少年兵は第十期生が巣立ちを終え、それぞれに南方の空に飛び立っていき、代わって第十一期生になっていたが、池田、川畑らの5人組の指導教官は残っていた。

その日曜日、二女の礼子は初潮を見てお腹が痛いため、奥の自分の部屋で寝ていた。
トメは娘の成人を祝って朝から大量に赤飯を炊いて、いそいそと立ち回っていた。昼頃になると少年兵たちが三々五々集まってきて、富屋は賑やかになった。
いつものように若い教官の五人組も集まっていた。

「小母ちゃん、きょうは礼ちゃんはいないの」

「礼子はね、きょうはおめでたい日なの。だから奥で寝てるけど」
話し声は寝ている礼子にも聞こえた。
「さ、皆さん、きょうはおめでたい日なので、お赤飯を炊いたのよ。お祝いだからどんどん食べてね」
「お赤飯? すげえな」と池田たちは半ば感動し、半ば驚喜していた。「でも、小母ちゃん、なんのお祝い?」
「なんのお祝いって、皆さん喜んでください。礼子が女になったのよ」
それが聞こえて来ると礼子はふとんの中で赤くなった。
「礼ちゃんが女になった? 小母ちゃん、変なこというなあ。おれ、初めっから礼ちゃんて女の子だと思っていたけど、礼ちゃんて女じゃなかったの」
トメはくすくす笑った。
「それにしても変じゃない。礼ちゃんが男だったとしても、どうしていまごろ女になるのさ」

体は大きくて、お国のために戦うと立派な覚悟を持っていても、まだこの子たちは数えで19歳、「女になる」という言葉を知らないほどに純粋無垢なのだ。
「さあ、皆さん、どんどんおかわりしてよ」
その言葉の意味がどうであろうと、ここのところは色気より食い気。少年たちはそろってパクウパクと赤飯にかぶりついた。
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ちなみに、この礼子ちゃんが戦後に開いたお店が、新宿にある「薩摩おごじょ」です。
いまはその息子さんが後を継いでおいでです。
料理もお酒も、とってもおいしいです。

日本人は、
10年で、日本の国体を抜本的に改革し
20年で、清国を破り
40年で、大国ロシアを破り、
80年で、世界を相手に戦って欧米の植民地時代を終焉させました。

10、20、40、80という数列からしたら、次にくるのは160年目です。
160年目というと、平成37(2025)年です。

おそらくそのときに日本が、日本人が世界に示すもの。
それは、おそらく国と国、そして個人と個人がそれぞれに、互いに対する思いやりの心をもつことを、世界の普遍的な標準にすること、なのかもしれません。


出典:帰ってきた蛍と宮川三郎少尉 ねずさんの ひとりごと
リンク:http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2674.html#more

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