ケンタウルスの遺伝子

2015/09/25 20:41 登録: あでゅー

1999-7『ケンタウルスの遺伝子』byあでゅー



《0.序章》

 西暦26世紀、人類は遺伝子を完全に自由に操作出来るようになっ
ていた。像程の大きさの豚、養殖できる程まで小さくした鯨、雪の
中でも育つ稲、その応用は多岐に渡った。

 取り分け進化したのは、人の遺伝子の操作だった。20世紀には、
人類は生命力の弱さ故に、あと100年も持たないだろうと言う学説
もあったが、見事人類はそれを乗り越えた。

 先ず、21世紀の初頭、人類が長年苦しんできた病気"ガン"は遺伝
子操作によって克服され、22世紀までには、その他の遺伝子が原因
と思われるあらゆる病気も消滅した。

 だか、良いことばかりではない。それから、人類の寿命は著しく
伸びて200才の大台に乗った。幾ら少子の時代とは言え、子供の2人
位は皆育てるから、当然の様に人口過密になって行く。慢性的な就
職難、高齢化が人類の新たな課題となってしまった。

 その問題に対して、人類は能力の突起化で挑んだ。或る者は脳の
遺伝子操作を、また或る者は筋肉の遺伝子操作を行った。そして、
全く異なる二つの人類が別々に進化していった。

 それが、Brain-typeとMuscle-typeだ。21世紀末期の事だった。



《1.タブー》

 自宅の地下室で、γ型走査型顕微鏡を覗く遺伝子学者がいた。彼
の身長は1.5mほど、身体は頭だけが異様に大きく、それに申し訳程
度に鼻と口が付いて、眼は魚眼レンズの様に飛び出ていた。と言っ
ても、その時代彼のようなBrain-typeは皆同じ様相なのだが・・・。

 その遺伝子学者はちょっと奇妙な試みをしていた。その試みとは
、他の動物の遺伝子を人の遺伝子に組み込む事だった。だが、それ
は21世紀初頭に行われた遺伝子操作倫理委員会によって堅く禁じら
れて、長い間誰も手を付けていなかった。

 考えてみても分かるだろう。"馬の身体を持った人"等とはギリシ
ャ神話の中の"ケンタウルス"だけで沢山だ。だが、博士はたった一
人で、何処にも発表する事も無しに、その試みを黙々と続けていた。

 部屋の中には数十個のガラスケースがギッシリと並べられている。
ガラスケースには培養液が満たされており、中には尾ひれの付いた
豚、角の生えたコウモリなどが居り、静かに呼吸していて、時々彼
を伺っていた。


 その彼の家に、ある日一人の男が訪ねてきた。

「突然お邪魔してすみません。実は、私は博士にお願いがあって伺
ったのです」

と甲高い声で言った。

 その男は身長が2.2m程で、身体全体の骨格と筋肉が発達しており、
腕周りは1m程もあった。頭は、申し訳程度に付いている。博士は一
目で、彼がMuscle-typeである事を理解した。この侭、玄関先で話
していては人目に付くと思い、彼を応接室に通した。

「まあ、座り給え」
「有難うございます」

 彼は、大きい身体を小さく畳んで、ソファーに腰掛けた。如何に
も窮屈そうだ。だが、それも仕方が無いことだ。普段、Brain-type
とMuscle-typeは交友を持たない。それ故、家やその家具、乗り物
に至るまで、別々のコースに分けて作られているのだ。

「君、それ程の身体をしていて、更に何を欲しいと言うんだ?」

 彼はあの甲高い声でポツリポツリと話し始めた。

「私は見ての通り、代々Muscle-typeの家系です。今は、短距離走
の選手をして生活していますが、最近タイムが伸びなくて苦しんで
います。この侭では、何時スポンサーから手を退かれるか分かりま
せん」

 そこまで話して、彼は30秒の息の長い溜息を付いた。

「私には、養わなければならない家族が12人います。上は200歳の
高祖父の父母を筆頭に、高祖父母、曽祖父母、祖父母、父母、妻、
息子です。働けるのは私一人なんです。それなのに今クビなりにで
もしたら・・・」

「今の時代、運動選手以外の職業なんて、どうせ見つかるわけ無い
んです。博士、お願いです。私をもっと速く走れる様にしてくださ
い。お願いです」

 そう言って大男は小さい頭をテーブルに擦り付けた。

 博士は其処まで話を聞いて、全てを了解した。普通の遺伝子操作
には限界が来たのだろう。どうせ、Muscle-typeは皆している事だ
から。要するに、彼はタブーの遺伝子操作を希望しているのだ。
多分、サラブレッドか、もしくはチーターと言った所だろうか。

 博士は、少し考え込んで、脅すように低い声で言った。

「私の研究は、人に他の動物の遺伝子を組み込む事だ。その研究も
、最終段階に来て、後は人に試すのみに成っている。だが、君。も
しも他の動物の遺伝子が君の細胞を凌駕して、君の意識自体が失わ
れたどうするのだ?

 それだけは、チンパンジー等の実験からでは、分からないんだ。
そして、一番重要な事なんだ」

 博士は、ポケットからノンタールのタバコを取り出し、震える手
で火を付けた。・・・私の研究が試せる願っても無いチャンスだ。ど
うするべきか・・・。紫の煙をフーと吐き出し、大きな顔を彼の小さ
な顔に近づけ、睨み付けた。

「本当に後悔しないんだね?一度操作すると二度と元には戻らない
のだよ」

「構いません。一族の生活が掛かっているのです」

 彼は小さい目をかっと見開いて言った。



《2.ヒーロー》

 一体どれ程の時間が経ったのだろう。彼は朦朧としながら夢から
覚めた。
 窓は開け放たれている。薄手の白いカーテンが風を受けて裾がな
びいている。ベッドの縁に手を掛けると、ヒンヤリとした感覚が掌
から伝わって、彼の意識を覚醒させた。

 ここは何処なのかは直ぐに思い出すことが出来た。そう、彼はあ
の遺伝子学者の手術を受けたのだ。その痛みが、微かに彼の足にあ
る。その感覚を確かめながら、ゆっくりと膝を持ち上げる。その動
きはスムーズだ。

 どんな術式なのかを、予め説明を受けたが、彼の知識ではそれを
半分も理解する事が出来なかった。只、解っている事は、彼の足の
たった一つの遺伝子に細工をして、それが時間と共に足全体の遺伝
子を書き換えて行くと言うだけだった。


 彼が感触を確かめている時、あの学者が扉を開けて部屋を覗き込
んだ。

「やあ、どんな具合ですか?」

 彼の言葉には不安など感じられなかった。むしろ、自分の術式を
誇っているように見える。精神状態を確認する様に、彼の表情を読
み取りながら、学者はゆっくりと彼に近づいて来た。

「普通の遺伝子操作と違うのは、少々痛みを伴う位なものだ。でも
、違和感はないだろう?」

 彼は上半身を起こし、ベッドに腰掛けた。

「ええ、今動かしてみましたが、スムーズです」

 誇らしげな学者は、彼のガッチリした大腿部を両手で包み込むよ
うにして診察した。

「後は、遺伝子の増殖を待つだけです。いつも通りに運動してくだ
さい」

 それが、学者と彼の最後の直接の会話だった。



 それから一ヶ月後だった。彼は何時もの様にホームグランドに向
かった。そこまでは約5km程あるが、その日は自動移動歩道は使わ
なかった。ゆっくりと風景を楽しみながら、感覚が鋭くなった両足
を確かめる様に踏みしめる。シューズに履き替えグランドに立つ。
十分な準備体操の後、栄養剤を一口口に含み、スタート位置に付い
た。

”ピ・・ピ・・ピ・・ピー”

 自動スターターの合図と共に、彼は駆け始めた。足が地面を力強
く蹴る。風が激しく頬を撫でる。そして、あっという間にゴールし
た。その時のタイムは・・・、"人類史上初の100m4秒台を示した"。
勿論、それは過去のドーピングオリンピックでも出た事の無い記録
だった。

 ボンヤリと掲示板を見ていた彼の所属チームのスタッフが慌てて
駆け寄ってきた。

「おい、どうしたんだ!何でこんなタイムが出せるんだ!?」

 スタッフは、彼の過去の運動能力データから、そんな記録が出る
はずが無いと思ったのだ。直ぐ様、ドーピング検査が行われたが、
勿論それは一切問題は無かった。

「凄いじゃないか!この分だと、オリンピック出場は確実だぞ。いや
、金メダル確実だ!」

 グランドは騒然となり、チームの監督ばかりか、オーナーまで直
ぐ様駆け付けて来た。そうして、彼を"進化した人"と称えた。

 そうEvolutinal manと・・・。


 練習を終えて自宅に帰った彼は、直ぐに自分の部屋に閉じこもっ
た。手術をして、一ヶ月経ち、半分不安になっていた時にこんなタ
イムが出せるとは・・・。しかし、余りにも現実離れしたタイムだ。
彼は、喜びよりもバレやしないかと、それが気がかりだった。

 一般のMuscle-typeの遺伝子操作と、自分のやった遺伝子操作は
明らかに違うし、禁じられている事なのだ。それに、あの学者は自
信たっぷりにこう言った。

「400年前から誰も手を付けなかった。今じゃ、それを確かめる検
査は行われていない。安心したまえ」

 それでも、彼は"ばれやしないか"と不安になった。そして、日毎
に速くなるタイムの喜びとは裏腹に、毎晩夢にうなされる様に成っ
ていった。


〜あいつの足を見てみろ!まるで馬だ!〜

違う!俺は人間だ!そんな眼で俺を見るな!

〜アイツ何を言っているだ?人の言葉を話していないぞ!〜

先生!俺を助けてくれ!元に戻してくれ!

〜何を言っているんだ。君が望んだ事じゃないか・・・〜


 汗びっしょりで眼を覚まし、夢だと解りホッとする。時計を見る
と午前1時を少し過ぎた所だ。もう幾日こんな日が続いただろう・・・。

 彼は仕方なく、α睡眠装置を買いに行く事にした。普通は精神的
に不安定なBrain-typeが良く使用するものだが、今の彼にはそれが
必要だった。

 店員が不思議そうに彼を見る。顔を隠すようにIDカードを差し出
し、支払いを済ませた。お陰で、翌日から彼は十分な睡眠を取れる
ようになり、精神的にも安定的してきた。

 遺伝子操作から二ヶ月目の事だった・・・。



《3.怒り》

 朝6時、セットしたタイマーが、緩やかに彼を揺り動かす。ベッ
ドのヘルスチェック・モニターは正常値を示している。目覚めと共
に、カーテンが開き、窓が開く。朝霧を貫き太陽光が彼の眼を刺激
した。心地よい朝だ。顔を洗いながらセントラルの末端に話し掛け
た。

「何かあったのか?」
「ピッ、メールが56通届いてます」

 まだ、今日もファンメッセージの山だろう。そう思うと顔が少し
緩んだ。

「差出人は?」
「奥様より1件、ピッ、オーナーより1件、ピッ、
トロントの12才の男性から1件、ピッ、
トウキョウの5才の女の子より1件、ピッ、・・・・・・、
差出人不明1件。以上」

 今日のファンメッセージが53件かな。彼は髭を剃りながら1件々
々内容を聞いて返事をして行った。

「あなた〜。とっても素敵なコートを見つけたの。あなたも気に入
ると思うわ。ねえ、買って良いでしょう?愛しているわ」

 全く、アイツにも困ったもんだな。でも、今まで散々苦労を掛け
てきたからなー。そう思うと邪険に出来なかった。

「仕方が無いなー。その代わりに、今度オフの時はゆっくり君の手
料理を食べさせてくれよ。楽しみにしているよ。チュッ」

 その次はあの気難しいオーナーだった。

「やあ、調子はどうだい?来月のオリンピックの選考会は期待して
いるよ。最も、君の事だから、トップ通過は当たり前だろうけどね。
君のお陰で我が社の売り上げは業界トップに踊り出たよ。選考会が
終わったら、祝勝会の用意をして置くから、頑張ってくれ給え、そ
れじゃ」

「恐縮です、任せて下さい。きっと驚くようなタイムでトップ通過
します。有難うございます」

 姿勢を正し、そう言ってから彼は礼をした。口の中の歯磨き粉が
床にまき散らかってしまった。

「あっ!しまった」

 床を雑巾で拭きながら次のメッセージを聞いた。

「初めまして。僕はトロントに住む小学校6年生です。いつもあな
たの事をTVで見ています。えーと、あなたの走りを見ているとす
んごく勇気が沸いて来るんです。今度の選考会頑張ってください。
それから・・・サイン下さい」

「応援ありがとう。頑張るよ。それから、サインは必ず送るからね。
君も勉強ガンバレよ!」

 こんなメッセージが毎日来るのである。嬉しくって仕方が無い。
半年前にはこんな事なんて絶対に無かったのに、遠くの国のこんな
小さな子供までもが、彼に熱烈なファンメッセージを送ってくるの
だ。

"ほんと、人生なんて分からないよなー"

 そうして、彼は53通の全てのファンメッセージに返事を出した。
普通のスポーツ選手は面倒くさがるかもしれないが、実直な彼はフ
ァンを大切にした。それが彼の生きる勇気であり、Muscle-typeの
使命だと考えているからだ。


 そして、最後に差出人不明のメールのメッセージに耳を傾けた。

「やあ、久しぶりだね。術後の経過はどうだい?」

 その声は、あの遺伝子学者のものだった。なるべく接触を避けよ
うと話し合ったのに・・・。一体何の用だろう?

「君の活躍は聞いているよ。順調そうで私も安心したよ。私の方も
、君のお陰で良いデータが取れたよ」

 その学者が上機嫌である事は、少しばかりトーンが高い事から察
する事が出来た。男にしてみれば、学者は命の恩人、言わば新しい
"生みの親"の様な物である。そこまで聞いて、男は少々涙ぐんだ。

「それで、研究の目処は付いたのだが、如何せん資金不足で困って
いるのだ。こんな事を頼むのは約束違反なのだが、・・・金を少しば
かり工面してくれないか?」

 命の恩人の頼みだ。出来る限りの事はしようと思った。返って何
も要求されない事の方が、男には心苦しかったのだ。男は喜んで、
直ぐに自分の口座から、ストックの半分を振り込んだ。


 しかし、男の感謝の気持ちも、その後一月毎に届く学者のメール
で、徐々に疎ましく思う気持ちに変わって行った。学者の金の無心
は終わる事がなかった。しかも、その金額も小さくは無い。その都
度、オーナーやスポンサーに頭を下げて前借して来たが、もう限界
だ。

「もう、勘弁してくれませんか。この侭では、生活出来なくなりま
す」

 男がやっとの思いで書いたメールに対して、送られてきた返事は
こうだった。

「たかが、一介のMuscle-typeの癖に!一体誰のお陰でここまで来
たと思っているんだ!」

 その一言で、男の心からの感謝の気持ちは消えうせた。
"人を馬鹿にしやがって!初めから俺の事をそんな風に見下してい
たんだろう"
憎悪は彼の中で次第に膨らみ、遂に学者の家に乗り込む事を決意し
た。


 男はセンターのモニターから身を隠す様に道を選び、半年前来た
学者の家へ着いた。塀の外から中を伺うと、電気は消えていた。
入り口は珍しくセンサーは無い。多分、随分と古い建物なのだろう。
男は、身を屈めて敷地に入れ、裏手に廻りこんだ。

 其処は男が見たことも無い程広い庭があって、色取り取りの花が
整然と植えられていた。その間を通って行くと、男は眩暈を感じた。
鼻と口を両手で押さえ、やっとの思いで花畑を通り過ぎた。

 ふら付いて何かにつまずいて、ひざまずいた。ヒンヤリとした感
触が掌に伝わってくる。それは錆付いた鉄の扉であった。多分地下
室の入り口だろう。

朦朧とした頭で男は中へと入っていった。薄明かりの中、鉄の階段
を下りて行くと、白い樹脂製の扉が見えてきた。表の古めかしい鉄
の扉には不釣合いな現代的な扉だ。扉の前に立つと、それは静かに
上に開いた。

"・・・!!?"

 言葉が出ない。何物かが一斉に自分に気付き振り返った。見たこ
とも無い生き物が・・・。自分の目に入ってくる光景を一瞬理解でき
ない。電気が身体を走り、恐怖にガタガタ震える。

「ぎゃーーーー!」

甲高い悲鳴が地下室に響き渡った。

"猿に羽が・・・!豚に尾ひれが・・・!コウモリに角が・・・!"

 その他の見たことも無い動物が、透明な円筒状の容器に入ってい
る。身体には無数の管が繋がれており、容器は液体で満たされてい
た。その中の動物達が一斉に彼を見たのである。驚くのも無理は無
い。

 漸く我に返った男は、ゆっくりとその異形の生き物達に近づいて
行った。

"これは何だ!?もしや俺の足もこうなるのか?"

 その驚きは、やがて怒りに変わって行った。

"俺はこいつらと同じモルモットだったのか!畜生!殺してやる!"



 男はその部屋の片隅に身を隠し、学者が帰ってくるのをずっと待
った。夕方の6時過ぎ、階段を降りてくる足音が聞こえた。学者は
椅子に座り煙草に火を付けた。そして、一体々々眺めて話しかけて
いる。

「どうだ気分は?もうモニターに飽きちまったか?」

 脳の成長を促す為の外的刺激、それがこのモニターの役目だった。
学者は慣れた手つきでモニター情報を切り替えていった。その背後
から男はゆっくりと近づいて行った。

"ドカッ"

 男の拳が学者の側頭に炸裂した。身体が横に弾き飛ばされ、その
勢いで実験台の上のサンプル瓶が床に落ちて割れた。学者はその侭
動かなくなった。

「ざまあ見ろ!」

 男は学者の顔に唾を吐きかけて部屋を出て行った。



 それから何時間経ったのだろう。学者は漸く意識を取り戻し、床
に落ちた眼鏡を探した。そして何かで手を切った。

「痛!?」

 眼鏡を探し当てラベルを見た。

「うあーーーーーー!!」

 そのラベルにはこう書いてあった。

"細胞分裂促進剤"



《4.遺伝子学者の死〜安堵》

 彼は低い声で静かに笑い始めた。

「あははははは。これで、やっと楽になれるよ。なあ、オヤジ」

 そう言って、倒れた椅子を元に戻して、ロッカーの雑巾を取り出
し、床を拭き始めた。一通り綺麗にすると、あの割れたサンプル瓶
を机の上に置き、椅子に腰掛けた。ふと、書棚のワインの事を思い
立ち、グラスを用意する。トクトクと注がれる赤ワインの液面を眺
め、人差し指を浸し舐めてみた。

「うん、やっぱり昔のワインは最高だ。ふふ、これでチーズがあれ
ば言う事無しなんだがなー」

 そのワインは、遥か500年前の物だった。今では、みんな遺伝子
情報を操作したノンアルコールのワインに切り替わっているので、
何処に行っても手に入れる事は出来ない品なのだ。もっとも、その
ノンアルコールワインでも十分酔う事は可能なのだが。

「こうしてオヤジと、このワインを呑んだのは、もう随分前だった
なー。ああっ、もう指にシワが寄ってきた」

 指だけではない。ほんの数分後には、眉毛は次第に白身を帯び、
頭にも白いものが混じってきた。

「このスピードで老化するのは、人類で俺が初めてだろうな。記念
すべき第一号だ」

 ワイングラスにを持つ手が、小刻みに震え出した。それでも、更
にワインを注ぎ足した。呑まずには居られないのだ。

 彼は、遥か昔の父親との会話を思い出していた。そう、初めてで
最後の父親との大喧嘩の事を・・・。


「父さん!一体何をしたんだ!!」

「・・・」

 青年は、父親の胸ぐらを掴み、身体をワナワナと震わせていた。
人を憎いと思ったのは、今まで何度かある。しかし、殺したいと思
ったのは、これが初めてだった。

「なんで、俺だけ年を取らないんだ。何で俺だけ・・・」

 そう言って、彼は崩れ落ちた。

「済まない。本当に済まなかった・・・」

 父の顔が大きく崩れ、シワの寄った目尻が濡れた。


「お前は、私の希望だった。40過ぎて出来た子供だ。本当に嬉しか
ったんだ。しかし、お前が大きくなる頃には、私はもう年老いてい
る。お前に何もして上げられない。だから、私に出来る最大の贈り
物をしたかった。

 あれは、お母さんが妊娠したばかりの頃だった・・・。当時、私は
国の研究機関で遺伝子の研究をしていた。そこで、偶然に老化を止
める方法を見つけてしまったのだ。しかし、その発見を発表する事
は出来なかった。

 何故だか分かるか?

 あの遺伝子操作は、細胞分裂の初期段階にしか出来ない事なんだ。
しかも、莫大な資金が要る。だから、一部の金持ちの子供にしか・・・
、選ばれた人間にしか出来ない事なんだ。そうなったら、大変な事
になるのは、頭の良いお前には分かるだろう。

 金持ちは永遠に生き続け、そして学んで行く。そうなったら最早
人ではない。

 そうだ、神だ!

 そうなると、神が人を支配していまう。そんな事は、私には出来
なかった。だから、私はそのレポートを消去した。永久に人の目に
触れない様に。

 しかし・・・、いざ自分に子供が出来たら、私は自分を抑える事が
出来なかった。

 ああっ、この子に永遠の命を与えたい!
 この子を神にしたい!
 ・・・そう思った。

 私が言うのも可笑しな話だが、"生き物は遺伝子の運び屋"とある
学者が説を唱えた。そいつの言う通り、私も結局は単なる動物だっ
たのだろう。自分の子孫を特別に愛してしまった。

 いや、自分の遺伝子が可愛かったんだ」


 そこまで話して、彼は息子の身体を抱きしめた。子供が可愛くな
い親が何処に居るだろう。例え、それが遺伝子の仕業だったしても。
それを超えた所には、確かに"愛"が存在する。

「オヤジ・・・」

 息子は、父の愛をしっかりと感じ取った。自分の身体をこんなに
したのは、確かに父だ。しかし、自分はどんな国のどんな人よりも
、望まれて生を受け、愛されて来たのだ。

 もう、それで十分だった。


 眼を開き、もう一度自分の指を眺めた。大分、老化が進んでいる。
最早グラスを持っている事さえ出来なくなった。

「歳を取る事を今まで夢見てきたが、こんなに苦しい事だと思わな
かった」

 次第に、ぼやけて行く眼を必死に凝らした。最後まで意識を確り
持っていたかった。しかし、もう座って居る事さえ辛くなり、足を
引きずって歩き、ベッドに横たわった。

 もう、意識が遠のいてきた。


 やあ君、随分暫くぶりだね
 君は相変わらず綺麗だね
 一人で寂しい想いをさせてしまったね
 これからは、ずっと一緒だよ
 愛しているよ


 彼は最後に夢を見た。遠い昔に亡くなってしまった妻の事を・・・。
500年もの間に、愛する者の死を経験し、何時しか一人きりになっ
てしまった。

 やっと、寂しさから解き放たれる時が来たのだった。



《5.疑心暗鬼》

 光の中から誰かが呼んでいる。こっちへお出でと。私は必死に手
を伸ばすのだが届かない。もどかしさが全身に広がり、呼び声を上
げるのだが、しかし、声は喉から発せられない。
光に近づこうとするが、まるで海の中でもがく様に少しも進まない。
私は無性に悲しくなりしょんぼりと俯く。その時、私の背中から懐
かしい様な声が微かに聞こえてきた。

"・・・アナタ・・・"

 私は光に背を向け、声の方へ一歩一歩ゆっくりと歩き始めた。声
は次第に大きくなって行った。

"・・・・・・"
"ダイジョブヨ"
"・・・・・・"
"ワタシハ、ココニイルワ"
"ズットあなたの側に居るのよ"

 暖かい意識が私の全身を優しく包み込んだ。

 私ははっと眼を覚ますと、妻が眉間にシワを寄せて心配そうに見
つめていた。私の両目をよろよろと交互に見つめながら、「よかっ
た」と何度も囁き、私の額の汗を掌で拭いた。私は震えながら力い
っぱい彼女の豊かな胸に顔を埋めてオイオイと泣いていた。

「貴方?」

 妻が、まだ意識を何処かへ置いて来た様な私に向かって

「今日はお休みしたら?」

と言いながら、食卓テーブルの上に両手を乗せ、涙を浮かべながら
見つめた。

「いや、・・・休むわけにはいかない」

 私は震える声でそう言うのがやっとだった。

 
 あの遺伝子学者の自宅に乗り込んだ夜から、私は眠れなくなって
いた。α睡眠装置のパワーを最大にしても、私の意識は眠る事を拒
絶していた。

 それは、これから私の身体がどうなるのかと言う不安である事は
自分でも分かったいる。センターのメディカル・エンジンに相談す
るのだが、答えはいつも決まっていて、「不安因子の除去を勧めま
す」と言うばかりだった。

 もし、自分の身体の事をセンターに相談したらどうなるだろうか。
多分、直ちに私の不安は解消されるだろうが、それと同時に、私自
身の破滅である事は、幾らMusle-typeの私でも用意に想像が出来た。
きっと、こう告げられるに違いない。

「あなたの違法行為に対して、センターはあなたの市民としての全
ての権利を剥奪します」

 "権利の剥奪"、ちょっと聞いただけでは、何の事か分かりづらい
が、要するに肉体の消滅(死)の事なのだ。


 毎日、私は眠さと必死に戦いながら、ホームグランドまで出かけ
た。本当は大事を取って休息すれば良いのだが、オリンピック選考
会があと一週間まで迫っているので、それが出来ない。

 しかし、私の心配とは関係なく、記録は徐々に伸びていった。そ
してとうとう100mを4秒台で走れるようになってしまった。その情
報を聞きつけて報道陣も徐々に数を増やしていった。


「今日は、皆さん。私は今○○グランドに居ります。ご覧ください。
ここでは毎日の様に驚異的な勢いで世界記録が塗り替えられ続けて
いるのです。そのランナーとはMuscle-type界の超人ケンタウルス
さんです。どうぞ!」

 カメラはターンして私を映した。

「ケンタウルスさん、何時も映像で拝見していましたが、こうして
近くで見ると大きいですね。しかも、その身体が風の様な速さで駆
け抜ける光景を見れただなんて、私達はついてます」

「ありがとう。私もこんな大勢の記者さんに囲まれる事があるなん
て、今まで考えた事もなかったんで嬉しいですよ」

「あなたの記録更新の原動力は何ですか?」

「それは、愛する家族と優秀なスタッフののお陰です」

そこでいきなり私の恐れていた質問が出た。

「貴方は・・・。最近凄まじい速さで記録を更新してますが、それは
一部では薬を使っているからだと言う噂も流れていますが、その事
についてお聞かせ願いませんでしょうか?」

「白状します・・・。それは毎日○○ドリンクを飲んでいるからです
よ。ははは」

 会場は笑いに包まれた。その反応を見て私はほっとした。今まで
こんな質問をされた場合にどうやって上手く切り抜けるか、何十回
何百回も練習したのだ。それが役に立った。ついでにスポンサーの
良い宣伝にもなっただろう。

 会場はそのまま和やかな雰囲気で終りを迎えた。

「最後に今後の抱負をお願いします」

「皆さん。私は次のオリンピックで、必ず世界記録を大きく塗り替
えて優勝します」

 そしてある記者が最後に私の一番弱い言葉を言った。

「ケンタウルスさん。実は私の娘が貴方の大ファンで・・・。済みま
せんがこれにサインを頂けませんか?」

 どっと笑いが起こった。その私は一ファンに変わった記者達のサ
イン攻めにあった。


 オリンピック選考会出場の記者会見を終えて、私は一人ロッカー
に戻りほっと一息を付いた。鏡を覗くと、酷い脂汗を額にかき、目
の下に隈を作った、疲れきった顔があった。年齢より20歳は老いて
見える。しかし周囲に人は、私の記録更新に目が行って、そんなこ
とは一向に気付かない様だった。

 自分の不安は他人には知られたくない。しかし私の苦しみを誰か
に共有して貰いたいと言う、もう一人の弱い私が時々顔を出した。
そんな時、私は誰もいない部屋に閉じこもり、一人声を出して泣く
のだった。


 選考会は私の圧勝だった。全国から集まった競技者達を10m以上
も離してゴールした。しかし、ゴールと共に疲れが全身を襲い、
私はふらふらと控え室に戻り、ベンチに仰向けになった。そして、
いつの間にか眠ってしまった。

 気が付くと、私の周りを大勢のスタッフや記者が取り囲んでいた。
何事だろうと上半身を起こすと、誰かが言った。

「4秒5台でゴールした気分はどうだい?」

 えっ!しまった・・・。余りにも速過ぎるタイムだ。私は全力で走
った事を後悔した。こんな記録は、最早人間業では無い。誰だって
疑いを持つ筈だ。

「今からドーピング検査を行いますが、立てますか?」

 協議委員らしい年配の男が心配そうに、私の顔を覗き込んだ。

「行けますよ。今日は予選から本選まで4回も全力で走って疲れて
休んでいただけですから、もう大丈夫です」

 私はよろよろと立ち上がり、検査室に向かった。


 検査室の中に入ると、様々な薬品の臭いがした。私は入って直ぐ
に採尿して、採血の順番をまった。私の前には、利き腕の右をダラ
リと床に着けて、左腕の方で採血している男が座っている。私は彼
が槍投げの選手である事が直ぐに分かった。別に私は彼の事を知っ
ている分けではないが、彼の腕の長さを見れば大体の予想は付いた。

 検査の結果は大丈夫だった。あの遺伝子学者の言った通り、私は
今までドーピング検査で引っ掛かった事は無かった。足の遺伝子さ
え検査されなければ、私は一生この検査から逃れる事が出来るのだ。
そう思いほっとして私は競技場をあとにした。

 オリンピックまで後二ヶ月。それまでの辛抱だ。
 その夜、私は久しぶりに夢を見ずに眠る事ができた・・・。



《6.異変》

 その日は朝から身体が重かった。今までの心労からきた疲労とは
、何かが違うと感じた。私はベッドから上半身を起こし、まず腕を
動かしてみた。指の先まで正常に動く事を確認した。次は、恐るお
そる膝を曲げてみた。動きはスムーズだった。疲労の欠片も見当た
らず、私はほっとした。

 しかし、私の肢体とは別に肩や腰、胸が鉛の様に重い。私は心配
になりメディカルチェックを受けようと思った。

「おい、お前」
「何、貴方」

 眠たそうな声がスピーカーから聞こえてきた。

「今日は練習を休みにして病院へ行ってくるよ」

 私の答えに慌てて妻は夜着のままで部屋に入ってきた。

「どうしたの?何処か調子が悪いの?」
「いや、オリンピックが始まる前に、健康チェックをしてこようと
思ったのさ。何処も悪くは無いよ」

 それでも、妻の心配な顔は元には戻らなかった。そんな妻を置い
て、私は着替えを手早く済ませて、家を出た。



 病院の控え室で私はじっとしたまま、死刑台に上る覚悟で呼び出
しを待った。本当は、病院へは来たくは無かった。余計な検査をさ
れたら今までの苦労が、いや私の人生が終わってしまう。それでも、
このままではいけないと思った。私の身体が私を病院へ来させるこ
とを強いたのだ。

 一通り検査を終えて、私は医者の説明を聞くために診察室に入っ
た。先ほど私を検査した30半ばの医者が検査結果表を持ちながら上
ずった声で言った。

「信じられない!」

 しまった!ばれたかも知れない。私の心臓はドクドクと全身を振
るわせた。

「あなたの身体は・・・、老いている」
「えっ!?」
「検査結果ではあなたの内臓や血管が80歳の値を示しました」

 意外な答えに私は声もだせずに椅子の上で硬直した。医者は私の
真っ青な顔を見て慌てて付け加えた。

「いや、あなたの様なMuscle-typeの優秀な運動選手には良くある
事なんですよ。過激な運動に血管や内臓が付いて行かなくて急激に
老化することは・・・。しかし・・・、あなたの場合はそれがちょっと激
しかっただけです」

 医者は心配そうに、俯いて下を見てしまった私を気遣いながら言
った。

「どうします?他にも問題が無いか検査してみましょうか?」

 その言葉に驚いて我に返った私は、それには及ばないと言って早
々に診察室を出た。


 焼けるような太陽が、私の疲れた身体に照りつけた。私は慌てて
上着を羽織った。身体が温度変化についていかないから、適度な環
境を保つように医者に注意を受けたのだ。私は、医者に書いて貰っ
たメモを見ながら特殊衣料の店を探した。

 その店は劣悪な環境で生活する者や、身体の弱いBrain-typeや老
人の為の特殊衣料を扱っていた。私の探していた物は恒温ジャケッ
トだった。それは急激な気温の変化や運動による体温上昇時に体温
を一定に保つものだ。

 だが、身体の大きな自分に合うサイズが見つからず、仕方なく店
員に特注品を頼んで店を後にした。身体が重い。私は足を引きずる
ようにして、漸く自動歩道機に辿り着いた。


 家に着くと妻が心配そうに出迎えた。

「あなた、大丈夫?」
「ああ、何でも無かったよ。ちょっと疲れが溜まっていただけだよ」

 そう言って、私は直ぐに自分の部屋に閉じこもった。疲労した顔
をみられたくなかったのだ。鏡に向かって改めて自分の顔を見てみ
た。醜い顔だ。更に私は上着を脱いで上半身を恐るおそる眺めた。

「なんだこりゃ!?」

 そこには、30歳前半の身体は無かった。何処から見ても80歳の老
人のそれだ。

「ああっ」

 私はその場で足が砕け膝を着いた。そして両手で顔を覆った。


 それからの私は自分との戦いだった。老いが早いか、それともオ
リンピックで優勝して富を手にするのが早いか。私が出した結論は
唯一つ、老化を抑えるために練習量を極力減らす事だった。

 2564年夏。オリンピックまで後一ヶ月の事だった。



《7.神になった男―最終章》

 その日は晴れだった。暑い日ざしが容赦なく私に照りつけた。し
かし、私のは幸運だったのは、この年のオリンピックが自国で行わ
れる事だった。私はこの日に備え十分に身体を休める事が出来た。
今日と明日、二日間の予選計四回を通過すれば、憧れの決勝レース
に出場する事が出来る。

 私は、フィールドに出て自分を落ち着かせるように、大きく深呼
吸した。肋骨が痛い・・・。多分肋間神経痛だろう。私の今を年齢は
最早百歳を越えているかもしれない。だが、そんな事は気にしてい
られない。たった二日間のレースを乗り切れば、名声と富が手に入
る。一族が三百年は暮せるだろう。

 私はこのオリンピックに命を賭けるつもりで挑んだのだ。


 予選から私は余力を残して走った。それでも、必死に走る他の
選手を優に10mは離してゴールする事が出来た。

 そして、とうとう本選まで辿り着く事が出来た。もう、体力は僅
かしか残っていない。私は、スタート地点に立つと、気持ちを落ち
着かせる様に言った。

「神よ。私に最後の力を!」

 今は、もう誰も信じない神を、密かに信じていた私は、無意識に
腕の前で十字を切った。

「ピッ、ピッ、ピッ、ピー」

 スターターと共に私は全力で飛び出した。周りの景色が線を引く
ように流れていった。足は人工芝を力強く蹴り、身体を前に前に押
し出した。

 突然、50mほど走った時、胸に強烈な痛みが走った。

「うっ!」

 背中がキシみ、腹筋が悲鳴を挙げた。
 しかし、ここで止まる事は出来ない。
 強烈な痛みと戦いながら、私は必死でゴールに突進した。

 後20m・・・。
 後10m・・・。

 とてつもなく遠く感じた。
 
 そして後5m。

 私は倒れこむように、胸でテープを切ってゴールした・・・


 遠のく意識の中で、歓声が聞こえる。アナウスが聞こえた。

「男子100m決勝。勝者・・・ケンタウルス選手!」

「記録3秒98」


そのまま私は目覚める事は無かった。
私はゴールと同時に心筋梗塞で倒れたのだった。
だが、私の記録と名声は永久に残るだろう。
そして一族には巨万の富が残った。

私の亡骸は形式的なドーピング検査を請けただけで済んだ。
しかし、私の身体を見て誰もが顔を背けた。
浮き上がった肋骨、皺の寄った皮膚、老人班、曲がった腰。
唯一健康に見えたのは両足だけだった。
そう、あの遺伝子学者に与えられた足だ。


彼は完璧だった。
私は彼を殴り倒した事を後悔した。
彼は私を決してモルモットにした分けではなかった。
彼は私に神の足を与えてくれたのだ。

私は、絶命の瞬間、最後の力を振り絞って声を出した。


「私は・・・、神になった」



(終わり)

出典:オリジナル
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