生きている内に出会えば
2006/04/12 12:10 登録: お熊さま
昔、アパートに住んだことがある。
その部屋は本当にボロいアパートの二階にあった。
全く人気がなく不動産も怪しげな所だったので、四室あったが俺以外に住民はいなかった。
大家さんもあまりパッとしない人で、一度挨拶に来たきり見ることはなかった。
俺は金がなくやっと見つけた住む家だったので、しょうがなくそこに住むことになった。
荷物を運び終えて、飼っていた金魚を部屋に持ち込むと、突然金魚が暴れだした。
俺は何か、嫌な予感がした。
しばらくすると金魚は収まったが、まるで観念したかのようにピタリと動く事をやめた。
暫くはそこのアパートと大学との往復だった。
アパートには本当に何もなかったので、暇な時はいつも友達と外でフラフラしていた。
アパートはとても薄暗く、疲れて戻ってきた俺を癒してくれはしなかった。
「そのこと」に気付いたのはちょうど一ヶ月経ってからだった。
俺は物を忘れやすく、色々と何かを失くしやすい性格だったが、
それはアパートに着てから余計激しくなった。
いくつもの大事なレポートをなくし、早くも単位取得が危うくなったくらいだ。
ところが、その日はなくしたわけじゃなかった。
お粗末な手作りの机の上に置いたレポートが、一晩経つとばらばらに破かれていたのだ。
ペットは買えないし、玄関は鍵が閉まっている。俺が寝ぼけて破いたのだろうか。
次の夜、どこからかうなり声が聞こえてきた。
かなり眠かったので、俺は夢と混同しているんだろうと思って放っておいた。
朝気付いたら、金魚が水槽の中で変死していた。水は金魚の血で真っ赤に染まっていた。
俺は何かがおかしい、と思い出した。
そして次の日、俺が布団に入ろうとすると突然ガシャーン!という音が鳴り響いた。
俺は跳ね起きて電気をつけた。すると金魚の居たガラスの水槽が落ちて粉々に割れていた。
窓は一つしかないし、きちんと閉めている。落ちる要素は何一つない。
不気味すぎて俺は寝るに寝ることができず、その日はほとんど寝ずに夜をすごした。
週末の夜、俺はクスクスという女の笑い声で目が覚めた。
ふと何か不穏な空気を感じて布団から起き上がると、ズシーン!という音が背後から聞こえた。
見ると俺が寝ていた場所にタンスが倒れていた。タンスは相当重く、人が動かさない限り倒れたりはしない。
クスクスという笑い声は消えなかった。
「誰だ!」
俺は息を呑んだ。目の前にスゥッと、女の人が出てきたのだ。
恐ろしいほど真っ白で、現実の物ではない。強烈な美人だった。この世のものではなかった。幽霊だ。
「出て行け」
その声は女が発するようなものではなかった。地面の底から這い上がるようなヘビに似た声だった。
「俺の部屋だぞ」
俺の声は恐怖でうわずっていた。思わず立ち上がった脚がガクガクと震え、ひざをついてしまった。
「出て行け」
今度は女の声で、彼女は繰り返した。
俺は思った。ここで恐怖していたら幽霊の思う壺だ。
「嫌だ」
「何故だ」
何故って、俺の部屋だ。だが、彼女の部屋だったのかもしれない。そうしたら言い訳ができない。
俺は勝手に金を払って住んでいるつもりだったのだ。
「お、お前がくら、きれいだから」
口が震えて舌を噛んだ。
自分が一体何を言ってるのかわからなかった。そうすれば一体どうやって救われるというのだろうか?
「何を言っている」
しかし、このまま調子に乗せてしまえばなんとかなるかもしれない。
インターネットで何度かそういったジョークも見たことがあった。
「お前が美人だから出て行きたくない」
かろうじて正確に言えた。しかし、世の中はそんなに甘いものではない。
「ふざけるな!」
女の顔は怒りに震え、照れている様子など微塵もなかった。
窓が閉まっているのにブワッと風が起こり、部屋の中の色んなものを吹き飛ばした。
「出て行け」
「い、嫌だ」
嫌な沈黙が流れた。女はじっと俺を睨み、俺もその女の視線から目をそらしたくてもそらせなかった。
いつの間に俺は寝ていた。
タンスは元の位置に戻っていたし、部屋も荒れていなかった。
あれは夢だったのだろうか。俺はいつもどおり大学にいった。
友達には話さなかった。どうせ鼻で笑われる。
しかしやはりその夜、もう一度彼女は出てきてしまったのだ。
「出て行けといっただろう」
その声は相も変わらず怨念に満ちていて、いっぺんの優しさも感じられない非情な声だった。
「俺の家なんだってば」
「私の部屋だ」
「俺、何もしないからさ、卒業するまで住まわせてくれよ。お願いだから」
俺は昨日と違って下手に出る事にした。しかし彼女の態度は変わらない。
「御託を並べるな。さっさと出て行け」
「頼むよ」
「黙れ」
また風が吹いて物を吹っ飛ばした。
それから何時間も、彼女と俺は押し問答を繰り広げた。
彼女はたった一瞬も情を見せず、冷酷に俺を追い出そうと圧迫してきた。
俺は平謝りしながら、自分の身の上話や、実家の話などをしたが、
それでも彼女はただ「出て行け」と繰り返すだけだった。
そのうち、朝になってしまった。太陽の光が閉じた窓の隙間から差し込んでくる。
「今度こそは追い出す」
そういって彼女はスッと消えていった。俺は一睡もできていない。
そのまま大学へ行くと講義中に爆睡し、追い出されてしまった。
それから、俺と彼女の闘いという名の共同生活が始まった。
風呂に入ればいつの間に栓が抜けてお湯が消え、
食事をしていれば食べ終わった食器から床に落とされた。
そのため食器はプラスチック製のものにした。中身があるものは触らない所、部屋を汚すのはやめたいようだ。
夜は俺の睡眠をとにかく妨害しようとした。
いちいち付き合うと睡眠が全く取れなくなることに気付いた俺は、だんだんと相手をせずに眠ることに専念し、
0時間だった睡眠時間も少しづつ伸びていった。
けれども結局、彼女の攻勢は変わらなかった。俺と一つの感情も分かり合えていない。
ある日、俺は花と線香を買ってきて、テーブルに添えて手を合わせた。
昼間にも関わらず、次の瞬間テーブルはひっくり返された。
声だけで「余計な事をするな」というのが聞こえた。
「俺はお前に幸せに成仏してもらいたいだけだ!」
なんてくさい事を言ってみたが返事は返ってこなかった。聞いていないのかもしれない。
悪い事ばかりでもなかった。彼女はその部屋にだけは愛着はあるみたいで、汚くされるのがとにかく嫌だった。
俺がその辺に放っておいたゴミは全て綺麗に片付けられ、
ゴミ袋なんて置いておこうものならふと見ると消滅していた。部屋の外にさえなかった。
ただしゴミと一緒にレポートなどを置いておくと容赦なく消えてしまった。
なので管理能力が少し俺にもついた。
俺はそういったことへのちょっとした恩返しか、食事を少し多めに作り手作りの仏壇に添えた。
最初のうちは仏壇も粉々に壊されたりしていたが、根気よく作り直していたら放置された。飽きたんだろう。
俺は毎日手を合わせ、早く彼女がきちんと成仏できるよう努力した。
そしてまた、彼女の部屋を汚くしないよう自ら進んで掃除したりもした。
相変わらず夜は姿を現したり風で妨害したり布団を滅茶苦茶にしたりした。
しかし、俺はそんな中でも眠れる体質になってしまった。
彼女はどうやら、人体に直接影響を与えるようなことは出来ない。脅かすだけだ。
俺は皮肉にもそれに気付いてしまった。でも彼女は諦めず、毎晩やり続けた。
彼女に語りかけると、時々返事が返ってきた。
「そろそろもうやめないか。俺は本当に、お前の事を思って成仏してほしいんだ」
と俺が言うと、
「ふざけるな。お前達はそうやっていつも互いを騙すじゃないか」
という返事が返ってきた。
大抵ここまで長く繰り返していると「強敵と書いて友と読む」のように少しの情もあってもよいのに、
相変わらず彼女の声は冷たかった。
そうこうしているうちに、一年が経ってしまった。
ある日俺は友達と遊んで疲れきって、そのまま玄関に倒れて寝てしまった。
目を覚ますとまだ夜中だった。だが、俺は布団の中にきちんと入っていて寝ていた。
「お前がやってくれたのか?」
俺は問いかけた。返事は返ってこない。
「いつもありがとう」
特に彼女は俺のために何かやってくれているわけではないけれど、俺は何となくそういった。
彼女はいつものような冷酷な返事を返さなかった。
「貴様は何故私に恐怖を抱かない」
そう、彼女は言った。
「お前、悪い奴じゃなさそうだし。美人だしさ」
俺は疲れていてかつ眠かったのもあり、本心をそのまま言っていた。まだ酔いがさめてなかったのかもしれない。
「貴様、そうやって私を懐柔しようとするのか」
「そういうんじゃないんだよ」
俺はもう一度寝ることにした。彼女の声は相変わらずだったが、
いつものような怨念のこもったものではない、ただの会話のように聞こえた。
「今年もよろしくな」
そういって布団を被り、横たわった。返ってきたのは
「黙れ。今すぐ出て行け」という返事だった。
大学の成績もあがり、バイトも始め、だんだんと俺は好調になっていった。
アパートのことは未だ誰にも話していなかった。
しかし、俺にも彼女が出来てしまった。全くモテない俺に、奇跡のような出来事だった。
そこから一ヶ月、彼女にふとアパートの事を話してしまった。
「それ、きちんとお祓いしたほうがいいよ」
そう彼女は言った。彼女曰くそういう霊は成仏したくてもその場所に根付いてしまって、
出るに出れない場合があるらしい。
「私が紹介してあげるから、きちんとお坊さんを呼んでね」
俺はうん、とだけ答えた。そして三日後、高い金を払って神社にお願いした。彼女も手伝ってくれた。
坊さんが色々な器具を持って家に来た。彼女は出ず、坊さんはなれた手つきで準備を進めた。
暫くお茶を出して少し坊さんと雑談した後、「さて始めますか」ということでお祓いをはじめた。
お経を少し唱えたあと、ハタキをもって坊さんは部屋中をはき始めた。
そのハタキが部屋の隅にあった穴の近くに触れたとき、それは起こった。
ゴゴウ、という音がなって突風が吹き荒れ、部屋中のものがばらばらに飛びかった。
坊さんが持ってきた器具が、狭い窓を突き破って全て飛んでいってしまった。
玄関が開き、俺と坊さんの体は持ち上げられて無理矢理追い出された。
坊さんは何が起こったのか理解できない、という顔をしていた。
「やっぱり裏切ったではないか」
地を這う呪いの声が部屋の中から聞こえてきた。彼女にとってはやはり余計な事だったらしい。
とりあえずひとまずは退散、ということで坊さんは帰ることになった。
坊さんは「移住しなさい」とだけ言った。更に準備してお祓いすることも出来るが、かなりのお金がかかるという。
「あの幽霊とは相容れない。移住したほうが良い」
そういって、坊さんは帰っていった。
ベテランになると、やはり勝てない幽霊もあるのか。そう俺は思った。
その夜、俺は彼女に語りかけてみた。
「なあ、俺がいなくなっても寂しくないか」
返事はなかった。よくあることだ。それが彼女に都合が悪いことだからなのか、何となくな彼女の気まぐれかはわからない。
俺は思い切って言った。
「俺、やっぱり出て行く。色々悪かったな」
返事はなかった。俺は続けた。
「でも、俺頑張って働いてこの部屋は持ち続ける。他の人がお前のところにもう住まないように」
シーンとした夜の静寂が響く。鈴虫の声が聞こえる。
「今まで住まわせてくれてありがとう。何か恩返しがしたいんだ」
フッ、と軽い風が吹いた。
「一週間後の今日」
彼女の声が聞こえた。俺は相槌を打つ。
「・・私の誕生日だ」
「そっか」
再び静寂が戻った。辺りを見回したが、彼女の姿はどこにもいなかった。
「祝ってやろうか?」
返事は返ってこなかった。俺は寝た。
一週間後、俺はたくさんの食材とケーキを買い、部屋に帰った。
彼女は何の反応も見せず、部屋は静まり返ったままだった。
こう見えても自炊は得意な俺はご馳走を見事に作り、ケーキを中心にテーブルに並べた。
「ハッピバースデー・トゥーユー」
俺は一人で歌った。他の人から見たらおかしな光景だ。
「ハッピバースデー・ディア・・そういえば名前聞いてなかったな」
返事は返ってこない。教えたくないんだろう。
適当にごまかして、続きを歌った。
ロウソクに火をつけて、彼女が吹き消すのを待った。
しかし一向に火は消えなかったので。俺はご馳走を食べ始めた。彼女の分も取ってやった。
食事もひと段落ついてふとテーブルの向こうに視線を向けると、向かいに彼女が座っていた。
その目はやはり冷酷で、じっと俺を睨んでいた。一年前と何ら変わりはない。
「お前、いつ死んだんだ?」
俺はチキンをほおばりながら話しかけた。彼女の綺麗な口が少しだけ開かれた。
「十二年前の昨日」
それだけ言った。昨日・・つまり、彼女は誕生日を迎える前に死んだのだ。
だからそれが無念で成仏できなかった。大切にしていた部屋にも未練があった。
そういうわけで、地縛霊となってここに残っていたのだ。
なんて推理したがどうやら違うようだ。「違う」と無表情で返されてしまった。
「成仏出来るか?」と俺が尋ねると
「関係ない」と返された。
暫くして、俺はテレビを付けつまらないトーク番組を見始めた。
一つのテーマが終わると俺は包丁を持ってきて、ケーキの前に置いた。
「切るぞ。さっさと消してくれ」
彼女は相変わらず俺を睨んでいた。テレビに少しの視線も向けなかった。
「貴様・・・」
すっかり彼女には慣れた俺だったが、その一言にはびくりとしてしまった。
まるで背筋を切り裂かれたかのような、鋭く冷たい声だった。
「ありがとう」
うってかわった口調でそう言って彼女はフッと消えた。炎もフッと消えた。
全く感情のこもっていない声だったが、
怨念がこもっていないということは彼女は少しだけ感情をこめたのかもしれない。
数日後、引越しセンターの車が来てダンボールにつめた俺の荷物を作業員の人が持っていった。
荷造りしている間、彼女は一度も声と姿を現さなかった。
一通り住んだところで、作業員はトラックに乗り俺はがらんとした部屋に居た。
「今までありがとうな」
何も返事はなかった。今頃彼女は嬉々として早く俺が出て行くのを心待ちにしているのだろうか。
それとも・・
俺は踵を返して玄関に向かった。ドアノブに手をかけ、この部屋最後の離脱を果たす。
しかし。開かない。強く引いたり押したり、それを何度も繰り返しても一向に開く様子はない。
きっと彼女が何かしているんだろう。
「何するんだよ!」
返事はない。俺は力任せに突進してみたが、ドアはびくともしなかった。
まるでそこが元々壁だったかのように。
荷物は全て外だ。何も道具はない。俺は彼女と話すことに専念をした。
様々な言葉を投げかけたが、何もかえってこない。
俺はふとコートのポケットの携帯電話を思い出し、それを取り出した。
「お前がいつまでもそうしているなら、警察を呼ぶ」
返事は返ってこない。俺は少し躊躇しながらも110にかけ、現住所と出られない旨を伝えた。
「そんなことしても無駄だ」
ぼそっと呟く声が聞こえた。
電話を終えると俺はコートに携帯を突っ込み、玄関のドアにもたれた。
「じきに警察が来るぞ」
「生きて帰れると思ったか」
「出てけといったのはお前だろう」
「黙れ」
彼女が部屋の中心に出てきた。いつもより様々な感情のこもってそうな鋭い顔は、
俺の心をぞっとさせ、そして同時にとても美しかった。
「裏切るのか」
静寂を破ったのは彼女だった。
「裏切る?何をだ?」
俺はふいを疲れた質問に戸惑った。
「もういい」
「何をだよ。俺はお前が一人でひっそりと暮らした方がいいと思って」
「もういい」
「聞けよ」
「部屋を売れ」
「売らない。お前はもう誰にも邪魔されないんだ」
遠くからパトカーのサイレンが聞こえてくる。警察が来た。
「ほら、警察が来た」
その時、彼女の顔がゆがんだ。
かつて一度も見せたことのない、人間らしい、弱弱しい、悲しげな笑みを浮かべた。
「お前に迷惑をかけたくない」
ガチャン!とドアがひとりでに開き、俺の体は外へと投げ出された。
二階のフェンスを飛び越え、運良く草むらに着地。いや、彼女がそうなるようにしてくれたのだろう。
俺は立ち上がってアパートを見た。
突然、ズドンという音とともにアパートが燃え始めた。
いくつもの小さい爆発とともに炎は大きくなってゆく。近所の人達もその音に驚いて道路に飛び出してきた。
俺は呆然としてそのアパートをただ見つめていた。
炎は次第にアパート全体を包み、ゆらゆらと夏の空を揺らした。
やがて炎は縮小し始め、煙とともに消えた。
アパートはただの燃えかすとなり、崩れた。
アパートを取り巻いていた暗い空気が消え去っていた。
空はいつよりも明るく光り輝き、あたりを照らしていた。
そよ風が、まるで俺を別の方向へ行かせようとしているかのように吹いた。
「生きている内にお前に出会えばよかった」
風と共に彼女の声が、どこからか聞こえてきた。
いつもと変わらない無愛想な声が。

(・∀・): 697 | (・A・): 187
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