内臓泥棒
2007/07/22 13:21 登録: えっちな名無しさん
白い壁の四角い部屋。天井には無影灯。ステンレス製の台には一頭の犬が仰向けに寝
かされている。犬の横にはメスや鉗子やガーゼが並ぶ。それを取り囲んで薄いモスグ
リーンの術衣とマスクをつけた獣医が数名。しかしここではけたたましい心電計音や
血圧計の音は聞こえなければ麻酔ガスの独特な臭気も感じない。むやみに部屋を冷や
す空調機がうなりを上げているだけである。ここは手術室ではなく病理解剖室なので
あり、病理専門の獣医が支配する場なのである。
数十秒の黙祷。おもむろに下顎先端から下腹部まで皮膚にメスが入る。グルカナイフ
のような剥皮刀でさらに皮膚を左右に剥がしてゆく。白い淡雪のような皮下脂肪が現
れる。腹壁をピンセットで持ち上げメスで切り込みを入れる。切り込みにハサミの刃
を入れ腹筋と腹膜を上下方向に切り開くと腸間膜と脂肪に包まれた腹部臓器が露出す
る。最初に見えてくるのは脾臓である。脾臓を脂肪から切り離して体外に取り出す。
次に直腸を引っぱり出し、鉗子で挟んでから肛門と切り離す。直腸、大腸、小腸、十
二指腸、胃と上流に向かって腸間膜にハサミを入れつつ腸管を体外に出す。胃まで届
くと噴門を鉗子で挟んでから食道と切り離す。これで胃から直腸までの消化管が取り
出されたことになる。消化管は外側の漿膜面から念入りに観察された後、さらに内側
の粘膜を見るために縦にハサミで切り開かれる。肝臓は大動脈と後大静脈から切断さ
れて取り出される。腎臓は周囲の脂肪組織から切り離され、尿管と膀胱も次いで取り
出される。肋骨と肋軟骨の境目には鋸が入れられ、胸腔が開かれる。下頸から気管と
舌が切り離される。舌を伴う気管、肺、心臓は一体となって体から切り離され、その
後に各パーツに分離される。頭蓋骨と第一頸椎を切り離すと頭蓋骨はクルッと反転し
て皮膚と分離する。頭蓋骨の頭頂部側と側頭部側に鋸で縦横の切れ目を入れ、骨切り
鋏で割ると乾いた音とともに脳が露出する。下垂体や脳神経を傷つけないように脳を
取り出す。大腿骨の中途数センチほどが鋸で切り出されて木槌で割られる。大腿骨の
中の骨髄を取り出す。これで犬の体は骨と筋肉と皮膚だけの状態になる。取り出され
た臓器の重量を秤り、メスで縦横に切れ目を入れ丹念に観察し写真を撮り、ホルマリ
ンの入ったビンに入れる。ホルマリンに入れられた臓器は半永久的に保存され、それ
らの臓器の一部は数日の後にさらに細断されて顕微鏡的な観察の材料となる。1時間
程の病理解剖の間に犬はモノとなる。
その日の夕方に病理解剖したのは年老いたテリア犬であった。当日の朝に呼吸困難の
状態で運び込まれたテリア犬の脾臓と肝臓と腎臓には明らかに大きな腫瘍があった。
血小板は僅か、肺は胸水で圧迫されており、腫瘍に随伴する播種性血管内凝固症候群
の様相を呈していた。酸素テントに入れて成分輸血をし、短い時間に色々な処置を行
ったが昼過ぎに喀血してあえなく死んだ。完全に手遅れである。職場には次から次へ
と難病の動物がやって来ては逝ってしまう。逝ってしまった動物の飼い主には病理解
剖させて頂くようほぼ必ずお願いする。我々の診断と治療の正誤は遺体を調べること
で明確になる。将来同じ病気で苦しむ動物を救うためという大義名分もある。例外的
に、初診日にいきなり逝った動物の病理解剖は避けている。逝った動物をさらに傷つ
けるほどの信頼関係が出来ていないと思うからである。今回のテリア犬は例外の例外
であった。犬を連れてきた妙齢の女性は犬の死因がどうしても知りたかったらしい。
犬が亡くなって泣いていたかと思うと、いきなり向こうから病理解剖を依頼してき
た。こちらが依頼して断られれば仕方ないのだが、依頼されたものは断るわけにもい
かない。もっとも依頼されることは滅多にないので色々な事を勘ぐってしまう。解剖
の結果、やはり脾臓と肝臓と腎臓は大きな腫瘍に冒されており、赤い胸水と小さな腫
瘍塊で肺は潰されていた。大小様々の血管には血栓が詰まっており、生前診断と違う
ところは一つも無かった。末期の血管肉腫らしかった。
解剖後、骨と筋肉と皮膚だけのモノは生前の犬に近づくよう整復される。脳を取り出
すために窓を開けられた頭蓋骨は絹糸と瞬間接着剤で復元され糸で第一頸椎と結ばれ
る。骨髄採取のために切り出された大腿骨は木片と接着剤を使って元通りの長さに戻
される。取り出された内臓の変わりに胸腔と腹腔に脱脂綿が詰められ、皮膚は埋没縫
合で丹念に縫い合わされる。漏れだした体液をオキシフルで拭い皮膚を乾燥させると
モノは犬に戻る。1時間前に解剖したことなど判らない遺体は箱に入れられ花をあし
らわれる。飼い主の女性に犬の遺体と対面させ病理解剖の結果を伝える。飼い主は犬
の遺体の美しさを見て安心したらしい。それは当たり前である。動物病院随一の縫い
ぐるみ職人の私が腕を振るったのである。犬が生前診断通り腫瘍であったことや腫瘍
の影響で血液の循環不全を起こしたことが命取りになったという説明も一応飼い主を
満足させたらしい。犬の入った箱を抱えて礼を言いつつ帰っていった。結果は不幸だ
としても何はともあれ一件落着である。
ところがその夜電話がかかってきた。先ほど帰ったテリア犬の飼い主からなのだが、
泣いている。様子が変である。
「先生。解剖で取り出した内臓を返して頂けますか?」
「えっ? どういった御事情ですか?」
「うちの両親が....あの....あの....」
いきなり電話口に年輩の男性の声が出た。父親が娘から受話器を引ったくりまくした
てる。酔っているのか?
「あんたねえ、うちの犬の内臓を盗んでどういうつもりだっ!」
「いや、盗んだと言われましても....」
「この内臓泥棒めっ!」
「こちらは娘さんから依頼されて病理解剖したわけですし....」
「娘さんなどと気安く呼ぶなっ!」
「内臓を取り出すことも御了解頂いてますし....」
「俺がいつ了解したんだっ! 答えてみろ内臓泥棒めっ!」
とりつくしまが無いとはこのことである。これまで病理解剖の後に内臓を返せと言わ
れたことはないので、どうしたものか。電話口の向こうで娘がヒステリックに叫ぶ。
「お父さん。そんな言い方やめてよ!ヒドいよ!うぇーん....」
「うるさいっ! だって内臓がなきゃ天国に行けないんだぞ! 本読んでんのか!」
おお。最初からそう言って下さいよ、お父さん。やっと理解できました。宗教かぶれ
につける薬はバカにつける薬より高価だということも充分承知しているのですよ。
「わかりました。内臓はお返しします。全部揃っていることを確認して欲しいので....」
「言われなくても俺が今から行ってやる。少しでも隠しやがったら承知しねーぞ!」
「ええ、よーく確認して下さい。それから遺体の中に内臓を戻したいので....」
「当たり前だろうっ! いちいちそんなこと指図するなっ!!」
電話が切れてから急いでホルマリンに漬かった内臓を水道水で洗いタオルで水気を拭
った。半日程度しか漬けていないので変色も最低限だし、かなりレアな状態である。
新しいタオルに内臓をパーツごとに並べて父親を待った。それにしてもあちこちに腫
瘍が顔をのぞかせていてエグい。今から行ってやると啖呵を切った父親は2時間もし
てから現れた。禿げた小男。競艇場に映えそうなネーム入りのカーキ色のジャンパ
ー。酒でもさましていたのだろう。肌の色が変だ。続いて下町系のきつい顔をした母
親。犬の遺体の入った箱を抱えた娘もうつむき加減でついて来た。彼らを診察室に案
内して並べた内臓を見せる。一瞬たじろいだ表情を見せたがすぐに父親が内臓を凝視
し始めた。さすが宗教者は違う。
「これから内臓をお返しします。足りない部分が無いようによく確認して下さい。」
内臓をひとつひとつ指し示しながら続ける。
「これが脳です。これが気管です。気管の中は出血してますね。これが結果的に命取
りになったわけですね。それでこれが食道です。食道は悪いところはありません。こ
れが心臓です。心臓は3つに切られてますけど、重ねるとこういう風に心臓になりま
す。いいですね。次が肺です。肺には腫瘍がありました。平たく言うと癌ですね。こ
こと、ここと、ここと、ここと、ここと、ここが腫瘍です。正常な肺の部分はあまり
ないですね。あと、これが腫瘍を調べるために切り取った肺の一部です。これはこう
着けときましょう。肺はこれで全部です。いいですね。よく見て下さいよ。」
父親の呼吸が荒くなって来た。さらに続ける。
「これが肝臓です。肝臓には大きな腫瘍の固まりが沢山あったので少し細かく分かれ
てます。このゴルフボールくらいの大きさの固まりは周りの色と違いますよね。これ
が腫瘍です。ここにもここにもここにも大きいのがあります。わかりますね。これを
こう組み立てると、ほら肝臓になりました。全部ありますね。いいですね。それでこ
れが脾臓です。このでっかいのが腫瘍です。これとこれが腎臓です。中を調べるのに
縦割りになってます。これも腫瘍です。大きいですね。これとこれを貼り合わせると
右の腎臓。こっちをこうすると左の腎臓。いいですね。よーく見て下さいよ。」
父親が震えている。室内は寒いのだが額に汗がにじんでいる。
「えーと、ちょっと外の空気を吸ってきてもいいかな?」
「いやいや。もう少しで全部なんでそれからにして下さい。それでえーと、ここが胃
ですね。こっちの食道とこうつながってた訳ですね。胃の粘膜から出血してますね。
あとここに潰瘍があります。それでこれが十二指腸。ここにも小さい腫瘍。転移しち
ゃった訳ですね。それでここからここまでが小腸。ここいらへんにも出血してます
ね。こっちに行くと盲腸でこっちが大腸。これで胃と腸全部ありますね。いいですか。」
「先生。ちょっと休んでもらいたいんだ。」
「いやいや。あとこれとこれだけです。私は内臓泥棒なんて言われたくありませんか
らね、誠意をお見せしようと思って精一杯なんですよ。途中で止めちゃうと訳がわか
らなくなっちゃいますからね。ほら、貴方も隠したら承知しないなんておっしゃって
たし。私は全部を確認して頂きたいんですよ。あと少しだからとにかく付き合って下
さいよ。」
「先生。非道いことを言ったのは謝りますから。」
「いいえ。あなたが謝る必要はないんですよ。あなたの承諾を得なかった私の手落ち
ですから。それでこれが大動脈と大静脈。こことかここの膨れてる部分も腫瘍です
ね。これが膀胱で、こことここから伸びているのが尿管です。さっきの腎臓とこうい
う感じで組み合わせると泌尿器は全部ですね。いいですね。」
「先生。本当に申し訳ないです。どうか勘弁して下さい。」
「これで最後ですよ。ほら。これが腸間膜というやつ。ここと、ここと、ここと、こ
こに腫瘍の塊。ここにも。血管沿いに転移しちゃったんですね。ほら、わかります?」
「....」
「あと、これが細い血管。お腹の中にあったやつです。ここにも腫瘍の塊。はい。こ
れで全部です。今一度よく確認して下さい。今の説明がわかりにくかったらもう一度
繰り返しますから、とにかく足らないところがないか、疑問がないかよく考えて下さ
い。いいですね。それではしばらく席を外しますから納得できたら呼んで下さい。そ
の後で遺体に内臓を戻します。」
5分もしないうちに父親と娘が呼びに来た。母親は参ってしまったらしく待合室のベ
ンチで横になっている。父親が言う。
「先生。やっぱり内臓を引き取らずに帰りたいんですが。」
「そんな訳にはいきません。それでは私が内臓泥棒のままになってしまいます。」
「先生、それは謝りますから。」
「いえいえ、謝って頂きたくはないんです。内臓をお返しするのが私の責任ですから。」
「家族とよくよく相談した結果なんです。」
「家族がよくてもあなたの神様がお許しにならないでしょう。」
「でも内臓は癌ばっかりだし....」
「癌があっても内臓は内臓ですよね。天国に行かせたいのならちゃんと引き取って下さい。」
「こんなにひどい癌だとは思わなくて。」
「でも癌も体の一部ですよね。違いますか?」
「私にはわからないんです。」
「こういうことはね、はっきりしとかないと駄目なんです。とにかく全部お返ししますから。」
「じゃあ癌のところを切ってから返してもらうというのは....?」
「天国に行けなくなったら困りますよね。そんなこと私には出来ません。」
「じゃあ、せめて内臓を体に戻すのだけはやめて下さい。持って帰りますから。」
「内臓を別に持って帰ってどうするんですか?」
「家に帰って考えます。」
「ああ、そうですか。ところで内臓は全部揃っていましたか?」
「はい。充分です。」
「これで私は内臓泥棒じゃないですね。」
「ええ、ええ、本当に、ええ。」
というやりとりの後、一家は内臓と氷の入ったクーラーボックスと犬の遺体を別々に
持って帰っていった。あの内臓はどうしただろうか。考えたところで結局は遺体と一
緒に焼くしかなかろうと思うのだが。テリア犬が天国に昇ったとしても、あの腫瘍は
神様にも治せないであろう。明らかに手遅れである。あの一家からは二度と連絡もな
かったし別に感慨もない。ただザマ見ろと思うだけである。
出典:今は亡き雑文サイト
リンク:今は亡き雑文サイト

(・∀・): 77 | (・A・): 22
TOP