吉岡氏愛猫
2007/07/22 13:22 登録: えっちな名無しさん
午後の急患は珍しく緊急を要していた。生まれて半年ほどの成長不良の猫が診察台の
上に横たえられた。意識消失しており前後の脚は遊泳するように空を掻いている。瞳
孔はピンホール状に固定され、体に触れると即座にビクビクと強直性痙攣を始める。
トランキライザーを静脈内投与すると痙攣は消えたが遊泳運動は続いた。猫の頸静脈
から血液を採って若い獣医に検査を急がせるが、脳自体に重大な障害があることは明
らかだった。
猫を連れてきたのは若い二人連れ。顔色の悪い肥満体の女と顔色の悪い長身痩躯の
男。相変わらず空を掻く猫の腕に点滴針を入れつつ幾つかの質問をする。女が答え
る。空気が漏れるような奇妙な口調。上目遣いの視線が女の口に固定される。歯が一
本しかない。寂しく残された上の前歯のエナメル質が溶けている。溶けた歯肉と褐色
の舌苔。視線を下ろして猫に心電計の電極を付ける。男も日本人らしい。チューブと
電極だらけになりゆく猫を他人事の様に眺めている。いや、猫ではなく診察室の壁を
眺めている。口は頑に結ばれ決して言葉を発しない。呼吸していないのではないか。
二人の左手薬指には揃って新しい銀色の指輪。トルエン中毒の夫婦と脳の壊れた猫の
生活は想像の域を超えているが、ここは動物病院であり猫を助けるしかないのだ。
血液検査の結果に内臓の異常を示唆する所見はない。問題は脳である。トランキライ
ザーが効いている今こそが断層撮影の好機である。女のむくんだ顔に向かい、事態は
急を要すること、治療の為に断層撮影をして診断する必要があることを説明する。女
は黄色い目を潤ませ猫を助けてくれと懇願する。契約は結ばれた。二階の診察室から
猫を抱えて一階のMRI室に向かう。二十分程の撮影で猫は滑脳症(かつのうしょ
う)であると診断された。猫では非常に珍しい脳の奇形である。残念ながら治療する
術は無い。あの夫婦に何と説明しようか。撮影した以上ありのまま話すしかないのだ
が。
診察室に戻ると夫婦の姿が無い。一時間程待ったが姿は見えない。夜八時まで待って
からカルテに記された番号に電話した。
「もしもし、夜分恐れ入ります。わたくし獣医の....」
「ああ?」
「いや、獣医なんですが、そちらに吉岡さんいらっしゃいますか?」
「ああ?」
「吉岡さんの猫をお預かりしてまして」
「ああ?なに?」
電話口の要領を得ない若い男は怒っている。しばし無言。電話口の向こうに数人の気
配。そして再び若い男の声が遠く響く。
「若頭、お電話です。獣医からです。」
若頭の吉岡氏は紳士であった。吉岡某と名乗る男女から猫を預かったこと、引き取り
に現れないことを説明した私に彼は言った。
「獣医の先生よ、それは間違いなく俺の名前だ。俺の名を騙った奴等は許せねえが、
猫に罪はねえ訳だ。猫だけは俺の名前に免じて許してやってくれよな。それとな、こ
こは先生のような人が電話してくる場所じゃねえ。あばよ。頑張れよ。」
侠である。泣けてきた。
こういう話を聞いたことがある。獣医に動物を預けて行方不明になる。仕方なく獣医
はその動物を飼うのだが、数ヶ月も経てばやむを得ず他人に預けたり、あるいはその
動物が病気で死んでしまうこともある。その後で行方不明の飼い主が現れ、動物が他
人に飼われていることや死んだことをネタに慰謝料を要求するのである。滑脳症の猫
を手許に残された私はその飼い主になることを決意した。トルエン中毒の夫婦に強請
られるのを恐れた訳ではない。本物の吉岡氏の侠気に打たれたのである。
猫に高栄養の補液と脳圧降下剤を与えるようになってから一週間程の後、動物病院に
は場違いな酒樽が届けられた。送り主は吉岡氏であった。磨いたグラスに酒を注いで
猫の枕元に置いたりしてみた。侠気に打たれた訳ではないだろうが、猫はその後四ヶ
月間元気に泳ぎ続けた。東京湾に浮かべていればグアム辺りまで達したかもしれな
い。ある雨の朝、猫が自発的に泳ぐのを止めたときには何故か再び泣けてきた。遺体
を綺麗に洗い、体毛を整えて写真を撮り、病理解剖に立ち会い、亡骸を箱に入れて練
馬の動物霊園に運んだ。ツルツルの脳を取り外された猫は胡散臭い読経の間に煙にな
って天に昇り、後にはプラスチック製の赤くて小さな位牌が残った。位牌には「吉岡
氏愛猫」と書き込まれている。トルエン中毒の夫婦はその後三年間現れず、生死すら
定かではない。そして位牌は今も私の机の上にある。
出典:今は亡き雑文サイト
リンク:今は亡き雑文サイト

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