女体改造産婦人科病院

2007/08/06 13:47 登録: えっちな名無しさん

女体改造産婦人科病院 番外編

(一)

 社長室で、英二と由香里を加えて二人の結婚式の日取りについて話し合っていると、
「社長、出来ましたよ!」
 と叫びながら社長室に飛び込んで来た女性がいる。
 一見医者のような白いユニフォームを着込んでいる。
 手には液体の入った瓶を持っている。
「何だどうした? 何ができたんだ?」
「性転換薬ですよ。社長がご命令なされた薬が完成しました」
「それは、本当か?」
「はい。動物実験でチンパンジーのレベルまで、効果が実証されています。次は、人
体への臨床実験に移行します。それでご報告に参った次第です」
「そうか……とうとう臨験までこぎつけたのか。よくやった」
「しかし、困っているんです」
「困る?」
「臨験を実施する相手がいないんです」
「そうだろうなあ……。癌の特効薬とかいうのなら、いくらでも臨験を願い出る末期
患者がいるのだが……。性転換となると……」
 ちらりと、先程から興味津々の表情で、聞き入っていた二人を見やった。
 それに気づいて由香里が即座に答えた
「あ、あたしはだめですよ。臨床実験なんていやです。生殖器は完全な女性で卵巣も
あって、子供も産めると先生もおっしゃってましたけど、生殖器以外は男性の遺伝子
を持っているんですからね。どんな効果が現れるか判らないじゃないですか。それに
英二さんと結婚するんですからだめ!」
「ああ、俺もだめだよ」
 研究員の方を見やると、彼女も、とんでもない! という表情で首を横に振ってい
る。
 だろうなあ、彼女も由香里と同じで、性別再判定手術を受けている。私が施術した
記念すべき第一号患者なのだから。
 当時、社内健康診断を実施した時、もちろん医者である私自らが検診したのだが、
男なのに胸が膨らんだ女っぽい研究員がいた。一目で性同一性障害者とわかる、
「女性ホルモンを飲んでいるね」
 問診で聞いてみると、
「はい」
 素直に答えた。
「いつから?」
「三年前からです」
「ふーん。まあ、そんな感じだな。サイズはどれくらいかな、85くらいみたいだが」
「70のCカップです。87です」
「血中ホルモン濃度や血液凝固とかの検査はちゃんと受けているのか?」
「いいえ」
「じゃあ、ホルモン剤も、自分勝手な判断で飲んでいるんだな。インターネットで個
人輸入して手に入れているな」
「そうです」
「いかんなあ……。ホルモン剤は処方箋薬だ。素人判断で勝手に扱えるようなものじ
ゃないんだぞ」
「すみません」
「血栓症になる確率は高いし、乳癌にだってなる。女性ホルモンは乳癌を促進するん
だ。それくらいは、知っているだろう?」
「知っています」
「とにかくこれは命令だ。病院を紹介するから、毎月検診を受けろ。いいな」
「はい。わかりました」
 会社の健康診断は半年に一度だ。身体を改造してしまうホルモン剤を投与している
なら、期間が長すぎる。
「健康保健を持って行くのを忘れるなよ」
「健康保健がきくのですか?」
「あたりまえだ。社員の健康を守るのは会社の義務だ。そのための健康保健なのだか
らな」
 実際にも、性同一性障害というものが認知されて、女性ホルモンを処方してくれる
病院は結構増えてきている。しかし健康保健が適用されるかどうかは、医者の判断に
委ねられている。保健がきくところもあれば、だめなところもある。
 私の父親が経営している産婦人科は、内科を併設してある関係から、女性ホルモン
を求める患者がひっきりなしに訪れる。父親も理解があるので、問診などで性同一性
障害者と診断されれば、保険治療として女性ホルモンを処方してやっている。もちろ
ん私が担当した時もだ。ただし、ただの興味本意ならお断りする。

 そして翌日だった。
 その研究員がスカートを履き、化粧して出社してきたのだ。産婦人科医であり社長
の私が、性同一性障害者に理解があると判断しての決断だろう。
 いわゆるカムアウト宣言だ。
 当然上司の課長は当惑して、上役の部長へ意見具申する。自分じゃ判断できないか
らと、さらに上の常務に、そして専務の英二の所へと届く。
「ああ、こんな用件なら社長に廻してくれ。親父の方が専門分野だからな」
 と結局、私の所まで上がってきたのである。
「社長、いかがいたしましょう」
 意見具申の相談を持ってきた、常務が尋ねる。
「常務。我が社の給与体系は知っているな」
「もちろんです」
「男女格差はあったかね」
「いいえ、ありません。当社は、新入社員から定年近いものまで、すべて能力主義を
通して給与を決定しています。男子と女子と一切区別をつけていません」
「そうだろう。ならば、性別不適合な人物がいても、それを理由にして彼を排除する
わけにはいかないだろう。どんな格好をしていても、優秀で会社の利益になる結果を
出す人間なら大いに結構じゃないか。こんなことぐらいで社長の私の所へ意見具申す
るなんて、君の判断能力を疑わなければならないな。優柔不断、決断力の欠如、経営
者側にいる重役としての資質に劣るかも知れない。君は世間体を気にしているようだ
が、断固として信念を突き通す彼の方が、よっぽどいいぞ」
 資質に劣ると言われて、常務の身体が緊張して震えているのが判った。能力主義と
いう会社の方針は、重役だろうが容赦はしないからだ。
 能力主義による給与体系から外れているのは、会社の株式を過半数押さえて経営権
を握っている、代表取締役にある私と副社長、そして専務の英二の三人だけだ。

 性同一性障害者とはいえ、研究所内でも類を見ないほど優秀な人材だ。何せ、里美
に投与したあの「ハイパーエストロゲン」と「スーパー成長ホルモン」を開発成功し
たんだからな。もっともあれ一人分を作るには天然ホルモン千人分が必要なのだ。だ
からそう簡単には作れない、未だ実験段階のまま、里美が最初で最後の成功例という
わけだ。引き続き、化学合成やバイオ技術で大量生産できるように、研究するように
指示している。彼女も、自分達と同じ悩みに苦しんでいる人々の為に、日夜鋭意努力
研究を続けている。もちろん研究に没頭できるように、社長直属の特別研究員として
研究室をあてがってやった。これなら誰も文句を言えないだろう。
 そして裏の組織での臓器摘出している時に、彼女と免疫型が一致する検体があった。
社内検診には血液を採取するから、ついでにHLAも調べ上げていたのだ。
 翌日、早速彼女を呼び寄せて言った。
「もし君が望むなら、性別再判定手術をしてあげよう。しかも脳死した女性の生殖器
を移植するという、正真正銘の性転換術だ。成功すれば、性行為はもちろんのこと、
妊娠し子供を産む事も可能だ。だが失敗の可能性もある。移植した性器がちゃんと機
能せずに、退縮してしまうかも知れない。その時は、再手術して通常の性転換術を施
す。どうだ、やる気はあるか? 今、この場で結論を出してくれ。臓器は保存できな
いからだ」
 すると即座に答えたのだ。よほど真剣に女性になりたかったのだろう。
「手術してください」
 というわけで、研究員は女性に生まれ変わり、戸籍も手配して女性にしてあげた。
 その後の彼女は、結婚して二児の母親となっている。当然勤務時間も、きっかり九
時から五時までで、一切残業はしない。次女の雪菜はまだ四ヶ月なので、社内託児所
に預けて、母乳を与える為に時折研究室を抜け出してくる。
 私は社長であると同時に、産婦人科医でもあるから、そんな子供を持つ女性達には
理解があるつもりだ。安心して研究に打ち込める環境を作ってあげている。

(二)

「社長、どうしますか?」
 研究員の声で我に返った。
 いかん、いかん。いつの間にか過去の思い出に浸っていたようだ。
 さて、誰も臨床実験はだめだとなると……。
 この部屋の中にいる者の中で唯一、女になってもそれほど困らない人物といえば一
人しかいない。
「そうだな……仕方がないか。実験台には私がなろう」
「ええ!?」
 一斉に驚く他の三人。
「ちょっと待ってくれよ、親父。親父の道楽にはもう驚かないけどさ、自分自身が女
性に変わっちゃったら、社長業はどうするんだよ」
「社長が、女性ならまずいのか?」
「別に女性が悪いというのじゃないよ。性転換したということが問題なんだよ。その
親父が社長というのも……」
「逆に宣伝になっていいんじゃないか? 『性転換薬ができました。その効能は社長
自ら証明します』ってのはどうだい?」
「まずいよ。性転換は日本社会ではご法度なんだよ。奇異な目で見られて営業に支障
がでるよ」
「私は、そう思わないぞ。日本だけを見て考えるからいけないんだ。性転換薬は世界
中の性同一性障害者には、夢の薬となる朗報なんだから。ゲイや性転換が認められて
いるのは、世界的な兆候となっているんだ。狭い日本にばかり気を取られていないで、
世界に目を向けろ」
 英二は徹底的に反対するつもりだ。まあ、それもそうだろうな。社長といっても、
現在の私は産婦人科医や闇の臓器移植担当医としての仕事の方が多い。実際に会社を
動かしているのは、代表取締役専務の英二なのだから。だから会社の信用に関わる事
には神経を尖らせている。
「とにかくもっとよく考えてからにしろよ」
 その言葉を聞いて、研究員が間を割ってきた。
「あの……すみません。この薬、日持ちしないんです。調合したら六時間以内に使用
しないとすぐだめになるんです」
 研究員が申し訳なさそうに切り出した。
「なに? それじゃあ……」
「だから、急を要しているんです」
「また作ればいいじゃないか」
「駄目なんです。調合素材の中には五年掛りで集めた天然素材もありまして、作り直
すとなると、また五年ほど掛かることになります。一応化学合成やバイオ技術による
生産ができないかと暗中模索でやってはいるのですが……」
「五年も待つのか……下手すりゃ、他企業に先を越されるかもしれないな。どこで企
業秘密が漏洩しないとも限らないからな。あ、いや、君が漏らすとは言ってないよ。
自分の娘のように思っている者を疑うわけが無いだろう」
「しかし、臨験の相手もいないのに、なぜ調合してしまったんだ? 見つかってから
でもよかっただろう」
 英二が詰問した。
「すみません。チンパンジーへの投与量から推測して、人間に投与する適量が判明し
たもので、嬉しくなってつい……」
「調合してしまったというわけか」
「はい」
「しようがないなあ……」
「申し訳ありません」
 彼女は優秀なのだが、少々そそっかしいところがある。まあ、お茶目で可愛いから、
つい許してしまう。
 そう言えば、彼女を結婚させるにあたり、相当苦労させられたものだ。
 彼女の給与(結構高給なのだ)に見合うだけの能力のある社員を探して見合いさせ
た。当初彼の両親は勘当された娘などとの結婚に反対していたのであるが、社長であ
る私の肩書きに押されて、しぶしぶ結婚を承諾する事になった。素直に従っていれば、
息子の昇進に繋がると判断したようである。
 それから今度は、嫌がる彼女を引き連れて両親の所へ赴いて、結婚の受諾を受ける。
 母親は、彼女の姿を一目見るなり、
「あたしは、こんな子に育てた覚えはないよ」
 といって一晩中泣き明かされた。
 彼女は生まれついての性同一性障害者だったらしい。子供の頃から女装していたと
いうから年期はそうとうのものである。父親も諦めの心境にあったようで、結婚は許
すが式には出席しないと言った。手応えを感じた私は、この父親に重点的に説得を繰
り返して、何とか結婚式への出席の同意を取り付けたのである。

「社長、どうなさったのですか?」
 彼女が心配そうにしている。
 いかんいかん。また悪い癖が起きようだ。
「ともかく、六時間以内という限られた中では、探している暇はない。ここにいる者
から選ぶしかないだろうし、適任者は一人しかいない。この私というわけだ」
「わかったよ。そこまで意思が固いなら止めはしないが、責任は自分で取れよ。僕や
由香里には、世話かけるなよ」
「無論だ」

「社長、いいですか?」
「おう、やってくれ」
「では、袖を捲くってください」
 言われた通りに背広を脱いで、Yシャツの袖を捲くる。
 彼女は、薬瓶から注射器に性転換薬を移していた。
「では、いきますよ」
「お父さん、本当にいんですか?」
 由香里が心配そうに覗きこむ。
「いいんだよ、由香里。これは私の役目なんだよ。社長として最後の仕事だ」
「お父さん……」
 由香里は本当にやさしい娘だ。英二はああ言ったが、私がどんなになろうとも、世
話をしてくれに違いないだろう。
 研究員が腕をアルコールで消毒をはじめた。いよいよだ。
 彼女は薬剤師の国家資格しか持っていないから、注射のような人への医療的行為は
許されていないが、まあいいじゃないか。医師のわたしが許す。
「では、いきます」
「おお……」
 いざ注射される段になって、さすがに緊張して腕が震えた。
 ちくりと鋭い痛みがあって、性転換薬が腕の筋肉に注入されていく。
「もう二度と元に戻れないか……」
 言い知れぬ感覚が全身を駆け抜けていく。
 性転換手術を受ける寸前の患者も気持ちはこんな感じなのだろうな。
 もっとも手術によるものではなくて、薬による無傷性転換というのが違うところだ
が。
「明日の朝には、立派な乳房が見られる事でしょうね」
「そ、そうか」
「社長なら、ウォルフ管とミュラー管のことはご存じですよね」
「ああ、産婦人科医なら誰でも知っている。どちらも生殖原基細胞から分化したもの
で、男女の内性器を発現する元となる器官だ。胎児の発生の過程において、ウォルフ
管は前立腺や尿道管の一部などの男性性器に分化し、ミュラー管は子宮や膣といった
女性性器に分化する。受精においてXY染色体を持った者は、Y遺伝子からの指令を
受けて原始生殖細胞が睾丸となって男性ホルモンを分泌するようになり、ウォルフ管
を前立腺などの男性器へと誘導して、対するミュラー管は退化してしまう。一方のX
X染色体を持った者は、自動的に卵巣に発達して、ミュラー管が子宮や膣などの女性
器へと誘導されて、ウォルフ管が退化してしまう。ミュラー管は女性ホルモンで発達
し、ウォルフ管は男性ホルモンで発達する。その逆では抑制の方向に働くようになっ
ている。
 生殖原基細胞は女性型が基本となっていて、何の刺激も受けなければ自動的に女性
に分化してしまう。つまり発生の過程で、男性ホルモンがあるかないかによって性が
決定してしまうんだ。
 半陰陽というものがある。男女分化が中途半端に起こる現象だ。
 睾丸も卵巣も、微量だが反対の性ホルモンも分泌する。また副腎皮質からも両性の
ホルモンを分泌する。元が同じ所から発生したから当然だな。これらが時として多量
の性ホルモンを分泌することがある。そうなると正常な性分化が阻害されて、半陰陽
を産み出してしまうんだ」
「さすがですね」
「馬鹿にしちゃいけないよ」
 研究員は補足説明をはじめた。
「男性の場合のミュラー管は、退化はしたものの完全に消滅したわけではありません。
性転換薬は、その退化したミュラー管に直接働き掛けて、活性化を促して子宮と膣な
どを発生させます。そして反対にウォルフ管から分化した前立腺などを、強制退縮さ
せます。やがて男性内性器から女性内性器に一新されてしまうわけです」
 なるほど、ミュラー管に目をつけるとはさすがだな。女性に生まれ変わりたいと願
って、日頃から勉強と研究を重ねていたのだろう。
「もちろん内性器の再分化だけでは、それこそ半陰陽でしかありません。外性器も同
時に進行しなければいけません。内性器さえ出来上がっていれば、形成外科的に構築
する方法もありますし、生殖には何ら問題はないですけれどもね。しかしこの薬は、
それさえもやってのける万能薬です。まあ、その過程は実際に経験してご自分の目で
確認してください」
「なんだ、教えてくれないのか?」
「ええ。一切合財知ってしまったら、感動が薄れてしまうじゃないですか。本当に素
晴らしいというか、劇的な身体の変化を観察してください」
「観察ねえ……」
 内性器は、いくら変化しても外見からでは判断できない。だから研究員は説明して
くれたのだろう。それに比べて外性器は、一目瞭然としてその変化を逐一見る事がで
きるから、自分の目で直接観察してくれというのだろう。
 論より証拠というわけだ。
「チンパンジーの話しに戻りますね。観察では、三日目には外陰部が女性器に変わっ
てしまい、七日目には完全に性転換が完了しました」
「うーむ。チンパンジーで一週間なら、人間なら一ヶ月くらいはかかるかな……」
「性転換薬だけでも十分女性化しますが、念のために女性ホルモンを投与してくださ
い。効果がさらに発揮されるはずです」
「わかった。産婦人科医だから、それは問題ない」
「それと成長ホルモンが十分に分泌されるためにも、睡眠はたっぷり取ってください。
脳下垂体は、眠っている間に成長ホルモンを産生分泌しますから」
「そうだな。寝る子は育つというわけか」
「ここにその後に注意していただきたい事柄を、詳しく説明してあります。良く読ん
で、治療が必要な時は迷わず実行してください」
 と、厚めの冊子を手渡してくれた。
 ぺらぺらとめくって拾い読みしてみる。
 三食しっかり食べる事、喫煙・飲酒を絶つ事、十分な睡眠。日頃の生活上での注意
事項が綴られている。
 さらには、血中ホルモン濃度、血液凝固反応、骨密度、体脂肪率などなどの計測の
実施。産婦人科で日常的に行われることが記されている。
 その中でも特に注意を引いたのは骨盤計測の項目である。
 骨盤外計測(棘間経、大転子間経、外結合線……)
 骨盤腔(産科真結合線、骨盤峡……)
 その他項目。
 妊娠・出産が正常に行われるかどうかを確認する為に、産婦人科医は必ず妊婦の骨
盤の諸経を計測しなければならないが、そのなかでも胎児が通過する産道にある、骨
盤腔産科真結合線の計測は絶対必要な項目である。この計測結果によって自然分娩に
するか帝王切開にするかを判断する。なお骨盤腔は、開腹してみなければ実測は出せ
ないので、X線撮影法か、触診及び外経から推測するしかない。
「しかし、産婦人科医しか知らないこんな専門的なところまでも調べ上げているとは。
驚異としか言えないな」
 薬剤師にはほとんど必要のない事柄までを詳細に勉強している。
 まあ性転換薬を作り上げるには、女性の骨格から生理、外面・内面すべてのプロセ
スに渡って詳細に知り尽くしていなければ、完成させることはできないというわけか。
「他に何か注意事項はあるかね」
「いえ、以上です」
「そうか、ご苦労だった」
「それでは、失礼します」
 一礼して退室する研究員。
 彼女の役目はここまでだ。
 研究員の任務は薬を開発する事。完成された薬を、実際の患者に使用するのは医者
の役目であり、その後の患者の容体を見届けるのも医者だ。薬剤の使用によって患者
に何か起こった場合、責任を取らなければならないのは医者であり、研究員は免罪さ
れるのが常だ。薬剤を開発したことが問われるのではなくて、その薬剤の効能を十二
分に理解して投与した医者にこそ責任がある。
 つまり今回の性転換薬投与は、すべて私自身の責任であり、研究員には何の咎めも
受けない。
「お父さん、気分はどうですか?」
 由香里が心配そうに私の表情を伺っている。
「ああ、今のところ大丈夫だ。まあ、おそらく今夜辺りから何らかの症状が現われる
と思うがたいしたことはないだろう」
 そう答えた背景には、スーパー薬を投薬された里美の実体験のことが頭にあった。
「あたし、心配ですから。毎朝様子を見に行きます」
「そうか……。じゃあ、よろしく頼むよ」
 果たして今後どうなるものかと尋ねられても、誰も答えられる者はいない。何せ世
界初というべき人体実験なんだから。誰かがそばにいてくれれば心が安らぐ。由香里
は毎日来訪して夕食を作ってくれているので、都合朝夕の二回顔を会わせる事になる。


 それから私の身に起きた劇的な変化は、言葉だけではとても言い尽くせないもので
あった。自分では確認できない兆候もあるので、由香里の証言を含めて記述していこ
うと思う。

(三)

 一週目。

 初日。
 その夜は、寝苦しかった。
 睾丸がじくじくと痛み、乳首のあたりに圧迫感が広がっている。
 どうやら薬が効いているようだ。
 そして翌朝になった。
 ひどい寝汗だ。風邪の症状でもこれほどの汗はでないだろうというくらい。
 額を拭おうとして腕を動かしたら、異様な感覚を覚えた。
「そう言えば、朝には立派な乳房を見れると、言っていたな……」
 起き上がって確認してみる。
 それは感動的な眺めであった。乳房など飽きるほど見つめてきたはずなのに、それ
が自分の胸にあるとなると、思いははるかに格別だ。
「里美もこんな風に感じていたのだろうか……」
 もっとも彼女の場合は、自分の意志じゃなく強制的だったから、突然豊かな乳房に
なってさぞや驚いただろうな。そして追い撃ちをかけるように、性別再判定手術を施
されて、女性にされてしまった。だから。本当なら刑事告訴されても仕方がないとこ
ろを、元々から女性的な一面を持っていたから、何とか許してくれて私の会社で受付
嬢として働いてもらっている。実は、本人には知らせていないが、とある取引先の重
役から長男の嫁に欲しいとの話しもあるんだが……。由香里のことが済んだら話して
みようと思っていたが、こんな状況では英二に引き継いでもらうしかない。
「うん。乳腺はしっかり発達しているな。形状も弾力も申分ない。これならお乳も十
分に出るだろう」
 自分で自分の乳房を触診している。産婦人科医として数多くの乳房を触診してきた
から、張りがあってつんと上向き加減のこの乳房には満足している。
「サイズ的には85のCカップというところじゃないだろうか……。ブラジャーが必
要だな」
 歩く度に乳房がぷるんぷるんと揺れて具合が悪い。
 早速、由香里に頼んで買ってきてもらおう。

「まず、ストラップの間に腕を通して、身体を少し前屈みにしてから、バストを下か
らすくうようにしてカップに収めます……」
 というわけで、今ブラジャーの着け方を、由香里に教えてもらっている。
 検診に際して女性の乳房や、ブラジャーを付けたりはずしたりするのを見てはいた
が、自分で自分にブラジャーを着用するのははじめてのことだら、勝手が判らないの
だ。
「そうしたら後ろ手で、ホックを止めてください」
 おいおい。そんな後ろに手が回らないよ。歳のせいで身体が固くなっていているん
だ……。
 あれ? 楽に腕が後ろに回るじゃないか。
 薬のせいで身体が柔らかくなっているようだ。
 しかし、見えない後ろ手でホックを止めるのが、なかなか難しい。女性は毎日こん
なものを着けているのか。中高年になって身体が固くなったら着用できないのじゃな
いのか?
「カップに手を差し入れて、脇に流れた肉を寄せ集めてカップに収めます。次に身体
を起こしてストラップの調整をします。後側が肩甲骨の下あたりに来るようにして下
さい。ここでの注意点は、前中心が浮いていないかです。確認してくださいね。あ、
大丈夫です。これでOKです」
「なあ、フロントホックとかいうのがあるよな」
「ありますよ。でも品数が少ないし、デザインもいまいちなんですね。それにお父さ
んくらいのCカップだと探すのに苦労します。通販しかありませんね」
「そうか……」
「大丈夫ですよ。これは慣れの問題ですから、すぐにちゃんと楽に着れるようになり
ます」

 由香里から聞いたのか、響子に里美そして真菜美までが押し掛けていた。
 ためつすがめつ、わたしの乳房を眺めては、
「わたしもこんな薬を打ってほしかったですよ。ねえ、由香里」
 響子がため息をついた。
「そうですね。里美は薬打ってもらったんだよね」
 由香里も同意している。ゲイバーでは最初ブラパッドをブラジャーにいれていたの
だから。しかし、あの薬は大量生産ができないので、里美に打ったのが最後だったの
だ。
「ごめんね。わたしだけ……」
「いいのよ。気にしなくても。終わり良ければすべて良しよ」
 真菜美がじっと私の胸を見つめている。
「やだあ、真菜美より大きいじゃない。ずるいよお」
「大丈夫よ。真菜美ちゃんは、まだ若いからもっと大きくなるわよ」
「ほんと?」
「もちろんよ。恋でもすればね」
 娘三人集まればかしましい。というがそれが四人なのだ。
「うん。やっぱり先生のが一番大きいですね。サイズはいくつですか?」
「C85よ」
「85!」
「すごいアンダーですね」
「しかたないわよ。男性ならそれくらいよ」
「性転換薬注射しているとおっしゃいましたよね」
 里美が考え込んでいる風な感じで尋ねた。
「ああ……」
「一日でこんなになったくらいですから、身体もやがて、ほっそりと痩せてくるんじ
ゃないでしょうか。わたしはそう思いますけど」
 例のスーパー薬を注射されて、性転換の片鱗を体験しているからの発言だろう。に
しても、元々から華奢で美人だった三人娘と違って、私は男そのものの体形をしてい
るから、果たして里美の言う通りになるか心配だ。
「そうだといいんだがな」
「大丈夫ですよ。きっとそうなります。性転換薬というくらいですから、乳房だけ大
きくなるなんてことないです」
「でも大きいわあ、ねえ、触ってもいい?」
「真菜美ちゃん、だめよ。失礼よ」
「だってえ。お姉さんたち、みんなBカップ以上で、あたしだけAカップだもん」
「そんなに触りたいか?」
「うん。いいの?」
「かまわん」
「あはは、じゃあ……」
 と言って、恐る恐る触りはじめた。女の子というものは、とかく積極的で遠慮とい
うものがなかった。何せ、思春期真っ盛りの十六歳だ。おい、その何にでも首を突っ
込む性格をどうにかしないと、また男にだまされるぞ。まったく少しも懲りていない
雰囲気だな……。
 しかし、何だろう……この感じ……。くすぐったいけど……。ああ、たぶん母親が
乳児に授乳させている感じか……。
 乳児は母乳を飲んでいる時、無意識にその乳房を揉みしだいている。母親はそのち
っちゃな手の動きを感じながら微笑んでいる。そんな感じだ。
「わあ! 柔らかくてぷるぷるしてる。あたしもこんな風になるといいなあ」
 他の三人は呆れた表情で微笑んでいる。

「先生。記録映像は撮っておられますか?」
 響子が突然話題を変えて、尋ねてきた。
「記録映像?」
「はい。学術的な観点から記録を撮った方が良いとおもいます。薬の効果、経日的身
体変化の様子などです。それに女性になってしまったら、先生が黒沢英一郎であると
いう証拠を示すことができなくなります」
「それもそうだな。よし記録写真を撮ろう」
「あたし、デジカメ持ってるよ」
「デジカメはだめよ。記録写真として撮る以上は、ネガやポジのフィルムを使う通常
のカメラでないとね」
「どうして?」
「デジタルだと画像編集して、どんな風にでも加工できるからよ。警察の現場検証で
の証拠写真は、通常のカメラで行われるのよ」
「ふうん……そうなんだ」
「由香里。書斎からカメラ持ってきてくれないか」
「はい」
 由香里は婚約以来、我が家に来て部屋の掃除などをしてくれているので、どこに何
があるかを、ある程度知っている。
「じゃあ、撮りますよ」
「ああ、やってくれ」
 身体的全体像から、乳房や局部の詳細な写真を撮っていく。
 三女までの娘達は、元々は男性だったので、その股間の物を見ても恥ずかしがらな
い。懐かしいなという境地かも知れない。
 だが、正真正銘の女の子である真菜美だけは、
「へえ。男の人のってこんな風になってたんだ……。可愛いな」
 と真剣な眼差しで、食い入るように見つめている。
 真菜美の脳は、柿崎直人という男性のものを移植したものだったが、脳神経細胞活
性剤の投与により、男性脳から女性脳に切り替わってしまい、そこへ死んだはずの真
菜美の魂が乗り移ったのだ。

 二日目。
 乳房の発達は昨日のような急変はしていない。
 このままどんどん大きくなって、超巨乳になるのかと思ったが、余計な心配だった
ようだ。わたしは巨乳好みではない。アメリカ人などは巨乳好きらしいが、米国のT
Vなどで肩に担ぐほどの乳房を誇っている女性を見掛けると、大きな胸のせいで相当
な肩凝りに悩まされているんだろうなと可哀想に思った。
 たった二日なのに、筋肉は削げ落ちて脂肪に置き換えられてふっくらとして女性ら
しい丸みを帯びた体系にすっかり変わっていた。
 乳房は、性転換薬でなくても、普通の女性ホルモンを投与していれば、自然に膨ら
んでくる。脂肪沈着もそうだ。
 どうやら特殊な薬を使用しないでも、女性ホルモンだけで十分変化を見せる乳房や
体脂肪などは驚異的なスピードで進行していくようだ。ただし適当なところまで育つ
と停止する。一方、性転換薬の力を借りて、より複雑な行程を必要とする内性器は、
じっくりと改造が進められていると思われる。
「お父さん、若返っているんじゃありませんか?」
 由香里の言葉に驚いて鏡に姿を映してみると、確かに以前より若くなっていた。
 あ、そうそう。婚約以来由香里は、わたしをお父さんと呼んでいる。
「一体何が起こったのかな。もしかしたら副作用かな。まあ本当に若返っているとい
うのなら好都合だが」
「あの研究員にお尋ねになられたら?」
「そうだな。今度聞いてみよう」

 一週目の終わり。
 ペニスは、ほとんど赤ん坊くらいの大きさに縮小していた。これじゃあ、立つにも
立たない。もはや小水をするだけの機能しかない。
 睾丸はごく小さなしこり状の固まりとなっていた。精子生産能力・男性ホルモン分
泌能力共に消失しているものと思われる。
 男性としての生殖能力を完全に失ってしまったわけだ。

(四)

 二週目。

「お父さん、声変わりしてる」
 由香里は、わたしの体調の変化に逸早く気づく。それだけわたしのことを心配し、
気にかけている証拠である。
「そうか?」
「何か喋ってみてください」
「えーと……。あいうえお。たけやぶやけた。この竹垣に竹立て掛けたのは、竹立て
掛けたかったから、竹立て掛けたのです」
 ぱちぱち、と拍手する由香里。
「やっぱりです。女性の声になってます」
「ほんとうか?」
「はい。正確には、男性3・女性7という感じですね」
「そうか……」
「良かったですね。これで人前でも自由に声が出せますよ」
「そういえば、由香里はどうしたんだ。女性の声出せるようにするのに、相当苦労し
たんだろ?」
「ええ。最初のうちは全然だめでしたね。声がかすんだり、喉が痛んだりして、なか
なか巧く発生できませんでした。でも、ある日。ほとんど偶然に声が出せるようにな
りました。ちょっとしたコツがあったんです。それが判るまで悪銭苦闘でした」
「そうだろうなあ。その点、わたしは何の苦労もしないで声が出せるようになった。
声だけじゃなくすべての面においてもな」
「うらやましいですね」
 鏡を覗いてみると、喉仏が消失していた。
 首筋もかなり細くなっている。
「アダムのリンゴ、という逸話をご存じですか?」
「アダムのリンゴ?」
「昔々、楽園にアダムとイブという男女がいました。その楽園には、大きなリンゴの
樹があり、おいしそうな実がたわわに実っていました。しかし、それは神しか食べて
はいけない禁断の実でした。ある日の事、悪魔の化身の蛇が現れて、イブを誘惑して
そのリンゴの実を食べさせてしまいました。そのあまりのおいしさにイブは、アダム
にも食べさせてあげようとさらにリンゴを二つ取りました。『さあ、アダムもお食べ、
おいしいですよ』とリンゴを一個手渡して、自分も二つ目を頬張りました。イブがお
いしそうに食べるのを見て、禁断の実とは知りつつもリンゴを口にするアダム。
 その時でした。神が突然現れたのです。驚いたアダムはリンゴが喉につかえてしま
います。『おまえ達、禁断の実を食べたな』と、神は詰問しましたが、イブは食べて
いませんと嘘をつきます。『嘘をついてもわかるぞ』と神が言うと、イブの胸がぷっ
くりと膨らんでいきます。リンゴが喉につかえていたアダムの喉にも小さな突起がで
きました。
 リンゴを二つ丸々食べたイブと、喉につかえてしまったアダム。
 これが、女性には乳房が二つ、男性には喉仏ができたわけでした」
「あはは、なかなか面白いじゃないか。どこから仕入たんだ」
「お父さんの病院の待合室にある本棚に置いてあった本です」
「待合室か、あそこの本のことは、看護婦に任せているからな。確か、妊産婦向けの
婦人雑誌と、幼児向けの童話とかが置いてあるはずだが」
「実は、真菜美ちゃんが、入院していた時にたまたま見つけたんですよね。真菜美ち
ゃんは本好きだから、暇さえあれば読み漁っていたから」
「そうだな」

 声変わりと喉仏の以外にも、身体の変化は全体に及んでいた。
 筋骨隆々の男性的な体格から、なだらかで丸みのある、そしてほっそりとした女性
的な体格になっている。
 特に骨盤の発達が著しい。
 妊娠・出産を支える大切な器官だ。
 産婦人科医の意見として、もう少し発達してくれないと困る。これまでの発達スピ
ードからして、理想的な大きさになるには一週間はかかるだろう。
 反対に極端に小さくなっているのは、肩と肋骨あたりの骨。その部分の骨の成分が
吸収されて、骨盤の成長に回されているようだ。
 念のために骨密度を計ったら正常値にあった。まずは一安心。
 続いて、胎児の診断に使う、超音波診断器を使って、身体の中を透視してみる。
 通常の半分くらいにまで成長した子宮が映っていた。
 どうやら順調に改造が進んでいるようで一安心といったところか。
 それにしても……。子宮の中に胎児の姿をついつい探してしまうのは、産婦人科医
の哀しい性だ。胎児が映っていたら驚くだろうな。心霊現象かと、水子供養しなけれ
ばならないだろう。妻は処女だったからそれはないだろうが。それとも処女懐胎よろ
しくマリア様気分にでもなるか。

 若返りのスピードが、この頃最大になっている。女性化のスピードとほぼ同調して
いるようだ。一日に二歳くらいの割合で若くなっている。
 現在のところ、見掛けじょうの年齢は四十歳くらいだ。都合十五歳は若くなった計
算になる。

 万が一を考えて、父親の病院に入院する事にした。
 あまりの急変貌に、体調もすぐれない日々があるからだ。それに、自分一人では治
療のできないこともある。父親なら、実情を知られても何ら問題はない。
 ただ、入院当初はわたしが息子の英一郎だということを信じて貰えなかった。親子
の間だけでしか知り得ない事柄や、幼い頃に負った火傷痕(消え掛けていたが)や、
例の記録写真を見せて、やっと信じてくれた。
「おまえが、性同一性障害者とは知らなかったな」
 誤解していると思ったが、説明するのが面倒なのでそういうことにしておく。性転
換など性同一性障害者しかしないからな。

 すでに睾丸は見当たらない。
 発生の過程で陰嚢に降りてきた逆のルートをたどって、体内に戻っていってしまっ
たものと思われる。やがて所定の位置に納まり、卵巣へと変化していくのであろう。
性転換であるから身体に吸収されて消滅したのではなさそうだ。ただ、たとえ卵巣に
なったとしても、染色体はXYのまま、つまり睾丸卵巣のはずであるから、果たして
生殖能力があるかどうかが問題だ。特殊な事例としてXY染色体の真正半陰陽の女性
が、妊娠したという報告もあるが、性転換薬がどこまで効果を発揮してくれかを観察
しよう。
 陰嚢はぺたりと肌に張り付いている感じで、脂肪が沈着して厚みを増していた。お
そらく今後は、女性の大陰唇として発達していくものと思われる。

 基礎体温表をつけることにする。
 卵巣や子宮の機能状態を調べるには絶対に必要なことだ。もっと早くからやってお
くべきだったが、うっかり忘れていたのだ。診察の判断材料にするために、病院の外
来患者に口が酸っぱくなるほど、体温表をつけてくださいと言い続けている医者が、
これじゃあ失格だな。医者の不養生というやつだ、反省しなければ。
 血中ホルモン濃度の測定。正常値よりかなり高いが、女性化の最中なので当然だろ
う。
 婦人科で行われる診察や治療が日常的になった。
 ちょっとふざけて妊娠検査をやってみたら陽性とでた。
 毎日女性ホルモンを投与しているし、内分泌器官から多量の女性ホルモンが出てい
る。早い話し性転換には、ホルモンバランスが妊娠状態にあったほうが都合が良いと
いうわけであろう。丁度妊娠三ヶ月くらいの妊婦に近い血中濃度がある。
「おめでとうございます。三ヶ月ですよ」

 由香里が、女物のパジャマを持ってきてくれた。
 家から持ってきていたパジャマは男物で、今の体形ではだぶだぶになってしまって
いたからである。
 しかし……。こんな可愛い柄着れないよ。
「似合ってますよ。おとうさん」
 とは言ってくれるのだが。
 まあ、一応個室なので病室にいる間は問題ないのだが、トイレに立つ時が恥ずかし
い。
 通路で行きかう患者はすべて女性だ。しかもほとんどが大きなお腹を抱えている。
 一般的には産婦人科と呼び慣わされているが、実際には産科と婦人科とに分かれて
いる。だから妊婦や産辱婦だけでなく、重度の月経困難症や子宮筋腫などで入院して
いる患者もいるが数は少ない。みんな総合病院などの大きなところへ行ってしまうか
らだ。
 それは当然のこととして、このわたしを見てどう感じているのだろう。性転換はか
なり進行しているとはいえ、まだまだ進化の途上にある。はたして女性としてどこま
で認知されるかどうか。
「大丈夫ですよ。ちゃんと女性に見えてますよ」
 と由香里は言ってくれているのだが……。
 それはさておいても……。
 立ちションができない!
 産婦人科だから男子トイレがあるはずもなく、便器は妊婦の利用を考えてすべて腰
掛式になっている。腰掛けて用を足すことになる。
 ペニスは小指の第一関節くらいの大きさにまで退縮して、まともに摘まむ事さえで
きなくなっていた。皮があつく被っており、そのままではとんでもない方向に小水が
飛んでしまう。何度便器や床をトイレットペーパーで拭った事か。
 しようがないので、その皮を剥いて尿道口を露出させて何とか無事に用足しができ
る。あまり良い感覚ではない。
 さらに、一度小水を出しはじめると、膀胱内のもの全部が排出されるまで、止める
事ができなくなっていた。どうやら、精管と尿道の合流点にあって、逆流を防ぐ弁の
働きをする前立腺が退縮して、その機能を失ってしまったようだ。

 若返りは、ついに三十五歳くらいにまでにたどり着いたが、そのスピードが鈍化し
てきた。女性化が進んで、完成に近づきつつあるせいだろう。それでも娘達より若く
なってしまいそうである。

(五)

 三週目。

 朝起きると、股間が痛い。
 調べて見ると、陰嚢縫線と陰茎縫線がぱっくりと裂けて口が開いていた。
 陰嚢縫線(陰嚢陰唇癒合線)は、女性なら大陰唇となるべきものが癒合して陰嚢と
なった痕跡であり、陰茎縫線(尿道溝)は、小陰唇が癒合して尿道を形成した痕跡で
ある。
 その両方の綴じ目が開いて、膣口が姿を現したのである。
 陰嚢は以前から脂肪が沈着して厚くなっていたので、立派な大陰唇が完成した。
 ついに内性器と外性器が繋がったのである。
 これまでにおける女性化の中でも、もっとも劇的な変化と言えるであろう。
 今日ここに、男性である形態が完全に失われた。もうどこから見ても女性としか判
断ができなくなった。
「開通式でもやるか?」
 しかし、膣口が開いたのはいいが、そこから多量のおりものが出てくる。新陳代謝
の活発な子宮からはげ落ちた粘膜や、古くなった細胞の残骸が次々と排出されている
ようだ。
 しかたないので、ナプキンを当てて生理ショーツを履く事にした。
 通常のナプキンは経血を吸収するようにできてはいるが、おりものは成分が違うの
で吸収率が悪い。そこで産婦人科ご用達のおりもの専用のナプキンを使用する事にし
た。これは少しばかり大きめなので、ちょっと具合が悪いのだが我慢するしかない。

 若返りの速度はゆるやかになっていた。
 年の頃三十歳くらいである。

 ペニスは、ほとんど退縮してしまって、大陰唇の上部付根あたりにちょこんと顔を
だしている程度になっている。もはやクリトリスと言った方がいいだろう。尿道口は、
膣口とクリトリスの間の本来あるべき位置に納まっていた。
 正真正銘の外性器が完成したと言ってもいいだろう。
 ここに至っては、外科的な形成は済んで、あとは内科的・機能的な成熟が待たれる
のみである。

 四週目。

 こんな不思議なことがあってもいいのだろうか?

 それは卵巣の機能を調査するために、体外授精用の卵子採取器を使って、お腹に穴
を開けて卵巣の組織の一部を取り出してみた時のことだった。
 その染色体を調べてみると、XYのはずのものがXXになっていたのである。

 これまでの女性化のプロセスは、退化したミュラー管から子宮や膣を発生させ、逆
にウォルフ管からの前立腺を退化させるものであるが、理論的には決して不可能とは
言い切れないものだし、実際わたしの身体に起こっている事がそれを証明している。
それは女性ホルモン投与で乳房が発達したり、睾丸が縮小するという紛れもない事実
が、その現実性を物語っている通りである。半陰陽が存在したり、回遊魚の一種には
身体が小さい時は雄で、成長すると雌になってしまうのがいる。性別というものは、
決して固定したものではないのだ。
 細胞分裂の際において、通常ならXY染色体それぞれが分裂して、XX・YYにな
り、それが二つに分かれてXY・XYになるのだが、性転換薬が何らかの影響を与え
て、XX・YYという異常な分裂を引き起こしたのではなかろうか。YYの細胞はや
がて死滅するしかない。結果として、XXの染色体のみが生き残っていったと考える
べきだろう。
 これは産婦人科の領域ではないので、わたしにはその信憑性を判断する事ができな
い。あくまで推測に過ぎない。
 とにもかくにも、XXの卵巣に変貌したのであれば、妊娠の可能性が高まったとい
えるだろう。
 今の年齢は、二十五歳前後かな。

 女性化はほぼ完成に近づいているようであった。
 これ以上の身体的変調も起きないだろうし、体調もすこぶる良いので退院する事に
した。
 由香里が女性衣料品を持ってきてくれた。
 すっかり女性化してしまったので、男性衣料を着る方が変に思われる。
 この頃には女性の姿にも自信がついてきていたので、女性衣料を着ても恥ずかしい
という感情は起きなかった。
 荷物をまとめていると英二がやってきた。荷物の運搬のために由香里に言われて来
たようだ。
 とうとう今日まで一度も見舞いにこなかったな。
 ここは産婦人科だ。英二が来院するには相当の勇気がいるし、わたしが変貌してい
く姿を見ていたくなかったのかも知れない。
 しかし、由香里が妊娠して入院していたらどうするかな?
 おそらく毎日のように見舞いにくるに違いない。

 久しぶりの我が家はいいものだ。
 多種雑多な薬剤の匂いにまみれた病室と違って、由香里が持ってきて置いている花
々の芳しい香りに包まれた部屋。掃除が行き届いており、毎日開け閉めして換気して
いるのだろう、空気の淀みもなく清涼感に満ちていた。


 四週目の終わり。
 朝から身体がだるい。
 パジャマを脱いでみると、ショーツが赤く滲んでいた。
 それはまさしく経血の何物でもなかった。
 女性には毎月訪れる生理がはじまったのだ。わたしにとってははじめてのことなの
で、いわゆる初潮というやつだ。
「おめでとうございます。これで一人前の女性のお仲間入りですね」
 由香里が祝福してくれる。
「ありがとう。無排卵月経でなければいいんだけどね」
「大丈夫ですよ」
 どうやら睾丸は、無事に卵巣へと変化したようだ。
 卵巣と子宮が正常に機能して、妊娠可能である事実を突きつけられたわけだ。
「もう、夜の一人歩きは止めた方がいいな」
 ふとつぶやいてしまったのを、由香里に聞かれて笑われてしまった。
 いつの間にか女性らしい考え方をしている自分に驚いていた。
 女性化のプロセスは、ただ単に身体特徴を変えるだけでなく、大脳組織までをも女
性化してしまうようだ。わたしの脳は、男性脳から女性脳に完全に生まれ変わってい
た。
 男性の脳を移植された真菜美が、脳神経細胞活性剤の投与によって、脳細胞の再分
化が起こって、男性脳から女性脳に生まれ変わった現象と同じだ。
「お赤飯でも炊きましょうか?」
 由香里が尋ねるので、
「ああ、そうしようか」
 と、冗談で言ったつもりなのだが、しっかりと夕食に赤飯が出された。しかも鯛の
尾頭付きだ。
「おい。何かいい事でもあったのか?」
 夕食の席に並んだ英二が、メニューをみて尋ねた。
「ええ、とてもいい事よ」
「いい事って、何だよ」
「英二さんが、気にすることじゃないのよ。ねえ」
 由香里が目配せを送ってくる。
「なんだよ。教えてくれたっていいじゃないか」
 とはいっても、教えられるものではない。
 まあ、どうしてもと言うなら教えてもいいけど。食事時の話題ではないのは確かだ
ぞ。それでも聞きたいか?
「ふん。最近の二人は、何かというと秘め事が多いな。まあ、女同士で、好きにやっ
てくれ」
「あら、英二さん。やっとお父さんを女性だと認めてくださったのね。今までは、わ
たしとお父さんが一緒に何かすると、『親父は、男だったんだぞ』って、すぐ口にさ
れてたのに」
「しようがないじゃないか、今じゃどこからどうみても、女性にしか見えないんだか
ら。姿だけでなく、仕草なんかもだいぶ女性らしくなってきているしさ……」
 ここまで言って、急に恥ずかしくなったのか、飯をがつがつと食べはじめ、
「おお、この鯛。巧く焼けてるな。由香里が焼いたのか。店屋物じゃないよな?」
 と、話題を変えてきた。
「もちろんです」
「いい奥さんになれるよ」
「うふふ。ありがとう」
 以前の英二は、仕事を終えても家には帰らずに夜の街を徘徊し、いつも午前様だっ
た。しかし婚約以降、由香里がわたし達親子のために、夕食を作って待っているので、
まっすぐ帰ってくるようになっていた。由香里を心配させないようにと、自分の健康
にも気を使って、酒の量も大幅に減らしているようだった。
 実にいいことじゃないか。

 うーん。ついに二十歳前後になった。
 もうこれ以上は目立った女性化も若返りも進まないみたいだ。
 真奈美よりお姉さんで、他の三人よりは妹というところだ。
 身体の方の改造はほとんど終了したようだ。
 以上で報告は終わりにしよう。

(六)

 体形もこれ以上変わらないだろうと、わたしの衣装を買い揃えることになった。
 もちろん相談役として由香里が一緒だ。ついでに英二も荷物持ちとして同行した。
「おい、まだ買うのかよ」
 両手に買物袋を一杯抱えた英二が悲鳴を上げている。
「そうよ。お父さんは、何にも持っていないのよ。下着類は一週間分はないと、どう
しようもないし、まだまだ足りないものがあるのよ」
「なあ、親父も、持ってくれよ」
「だめよ。お父さんは女の子なのよ」
「そうは言ってもなあ……。
 英二は由香里には頭が上がらないようだ。しっかり由香里の尻に敷かれている。
 おいおい、結婚前からそんなんでいいのかい?
 男としてもっとしっかりしろよ。
 といいつつも女の子をしっかり演じているわたしは、荷物持ちを手伝ったりしない。
 ランジェリーショップに立ち寄る。
「お父さん、これ可愛いよ」
 とブラジャーを手に取って見せている。
「うーん……。ちょっと若向きすぎない?」
「大丈夫よ」
 わたしたちが、ランジェリーを選んでいる間中、英二はそばで立ち尽くしていた。
ランジェリーに囲まれた中、周りは若い女性ばかりなので、さすがに照れてしまって
いるようだ。明らかに付き添いの夫か恋人と判るので、奇異な眼差しを向けられる事
はなさそうだが。
 実は問題なのは、お父さんだの親父だのと、わたしに向かって二人が喋っているの
で、店員やお客が変な顔をしていることの方が重大だ。
「それで、お父さんね……」
「なあ、そのお父さんというのは、もう止めてくれないかなあ。この姿でお父さんは
ないだろう」
「でも、お父さんには違いないですもの……。では、どうお呼びすればいいですか?」
「そうだな……。お姉さんはどうかな」
「お姉さん?」
「うん。今日から英二の妹だ。そうだ、英子にしよう」
「僕の妹だって? 戸籍はどうするんだよ。親父の戸籍はもう使えないからな」
「そうだな、適当な戸籍を見つけて、英一郎の養女にしよう」
「適当な戸籍って、まさか裏の組織から手に入れるんじゃないだろうな」
「他に方法はないしなあ……」


「お父さん……」
「だからあ、お父さんじゃなくて、お姉さんか、英子だってば」
「は、はい。では……どうみてもあたしの方が年上みたいだから、お姉さんはおかし
いですね……。英子さん。英子さんでいいですか?」
「ああ、そうしてくれ」
「わかりました。英二さんもいいですね」
「え?」
「え? じゃありませんわ。英二さんも、英子さんと呼んであげてくださいね」
「英子ねえ……その名前は確か……」
「わかりましたか?」
「わ、わかったよ」
 しぶしぶ承諾する英二。
 口喧嘩しながらも仲の良い似合いの夫婦になるよ二人は。うん、間違いない。
 そういえば由香里は、妻の若い頃にそっくりだった。幼くして母を亡くして、写真
でしかその面影を知らない英二が、由香里に一目惚れしたのも道理であろう。英二は
マザーコンプレックスなのだ。そうでなければ、ゲイバーで働く由香里に惚れたりは
しないだろう。
 あれ?
 そうなるとこのわたし自身も、由香里に若い頃の妻の面影を見出していたのかもし
れないな。だから、由香里にどことなく心惹かれて、女性化してしまうという暴挙に
踏み切ってしまったに違いない。血は争えないというところか……。
 本人達は気づいていないようだが、結婚間近な二人の間に、わざわざ波風を立てる
こともないだろう。この件はわたしの胸の内にしまっておこう。
「英子さん」
「うん、何かな」
「英子さんは、これから一生を女性として生きていくんですから、その言葉遣いを直
さないといけませんね」
「そ、そうだな……。じゃなくて、そうねか」
「うふふ」
「あたしが女性としての言葉遣いやたしなみを教えてさしあげます。いいですね」
「わ、わかりました」
 かつて里美が響子に女らしさを教わったように、今度はわたしが由香里に教わる番
だ。何せ由香里は、四人姉妹の中で女らしさでは、その仕草も感情もだんとつだ。そ
れは英二という男性を愛してしまうほどにね。

 買い物を終えて、一階に降りて来た時、
「そうだ、せっかくだから……。英子さん、こっちに来て」
 というとわたしの手を引いていく。向かっている先は、化粧品売り場。
「あら! いらっしゃいませ、由香里さま」
 由香里に気がついた売り場の店員が声をかけてくる。
「こんにちは」
 馴染みらしい店員と、一言二言挨拶を交わしてから、わたしを引き出して、
「今日は、この娘にお化粧の仕方を教えて欲しいんだけど、お願いできるかしら」
「お安いご用ですよ。さあ、こちらへどうぞ」
 と店員は鏡の前に誘う。
「お名前を伺ってよろしいでしょうか?」
「英子です。黒沢英子」
「黒沢さまですね。といいますと……」
「そうよ。あたしが結婚する相手の妹なの。年頃なのに、ちっともお化粧に興味ない
から、何とかしようと思ってね。はじめてのことだから、簡単で手っ取り早くできる
方法をお願い」
「かしこまりました」
 というわけで化粧するはめになった。
 まずは、その前にお肌のチェック。
 器械のセンサーを肌に当てられて、水分量や脂肪率とかが計られる。
 続いて顔写真を取られてパソコンに取り込まれ、すぐさまディスプレイに表示され
る。
 今時便利なもので、実際に化粧を施す前に、パソコン上でシュミレートする事がで
きるのだ。
 実はこのパソコンのシステム。英二がこのデパートの上層部に営業を掛けて売り込
んだものだった。そしてデパート外商部の方から各化粧品のテナントにリースしてい
るのである。英二だってだてに専務をやっているわけじゃない。営業売上では断トツ
の成績なのだ。
 しかし……会社では、二十六歳の若さながらも、革新的な事業を起こして順調に利
益を伸ばして、重役達からも一目置かれている英二だが、こと由香里には、まるで頭
があがらず、尻尾を振ってまわる飼い犬のようだ。天は二物を与えずというところか?
 その英二は、荷物を車に置きに駐車場に戻り、そのまま待機している。

「いかがなものでしょうか?」
 すっかり化粧が施されて、見違えるようになった顔が鏡に映っている。さすがにプ
ロの美容師だ。下地クリームからはじまって、ひとつひとつ丁寧に順を追って、注意
点や塗り方のコツとかをレクチャーしてくれた。
 しかしなんも覚えていない!
 そりゃそうだろう、化粧などしたことがないのだから。少しでも化粧の経験があっ
て、それなりの予備知識があれば、まあ何とか手順くらいは覚えられたかもしれない
のだが。まあ、これから少しずつ覚えるさ。
 駐車場の英二のところへ戻る。
 英二は、わたしの化粧した顔を見て、顔を赤らめ咳払いして、
「じゃあ、次はどこ行くんだ?」
 と無視するように車を発進させた。

 おいこら! 何か感想ぐらい言えよ。
 せっかく女の子がおめかししているのに無視することはないだろ。
 うーん、この気分……。
 やはり女性的な感情の何物でもないな……。

(七)

 それから数日後。
 例の戸籍が手に入った。
 橋本香織、二十歳。女性。
 両親は交通事故死していて、他にこれといった親戚もいないし、二十歳だから縁組
みには家庭裁判所の許可もいらない。
 実に好都合だった。
 わたしの見掛けの年齢にも合っているし、親戚がいないから養女にするにはもって
こいだった。
 早速、英二に委任状を持たせて英一郎の代理人として、更に保証人には響子と里美
を引き連れて役所へ来庁して、養子縁組の手続きをする。
「はい、結構です。手続き完了しました」
 こうして橋本香織は、晴れて英一郎の養女として、黒沢香織となった。
 次ぎなる行動は、黒沢英一郎を戸籍から抹消することである。
 英一郎と、姿形を変えて若き女性に生まれ変わった香織。
 共存はできなかった。
 香織が生きていくためには、英一郎を合法的に殺すしかないのだ。現在、英一郎は
この世に存在しておらず宙に浮いた状態だ。
 失踪というのが一番無難だろうが……。
 英一郎は大企業の社長だ。そう巧くいくか?
 香織が養女になった直後に失踪というのも問題だな。香織と英一郎との間に何かあ
ったものと勘繰られる。実際そうなのだが、表立ってはいけないのだ。
 失踪となれば、英一郎の資産が家庭裁判所によって一時凍結され、しかるべき期日
を経てから失踪宣告(認定死亡)、そして法廷相続人への遺産分割の手続きとなる。
円滑な財産分与が行われる為にも、問題があってはならない。

「ここは、誘拐組織団の力を借りるしかないか……」
 手筈はこうだ。
 まず組織に英一郎の身代金目的誘拐の擬装工作をやってもらう。いないはずの英一
郎をさも誘拐したように装うのだ。
 マスコミが聞きつけて、派手な誘拐報道をはじめるだろうが、適当な時期を見計ら
って、英二には失踪届けを出してもらう。
 だめだ!
 こんな派手な方法では、香織の存在がクローズアップされて、素性調査されるかも
知れない。そうなれば戸籍を改竄した公文書偽造・行使の罪かなんかに問われる。
 英二の事なんかどうでもいいよ。
 結婚する由香里には迷惑をかけたくないのだ。

 やはりここはおとなしく、英一郎が家に帰って来ないことにして、捜索願いを警察
に届けるのが一番無難だな。そして適当な時期を見計らって裁判所での失踪の手続き
だ。
 時間がかかるが、問題を引き起こさずに解決させるにはそれしかない。
 しかし英一郎よ。なぜ大企業の社長になったんだ。ごく平凡な社員なら簡単に事が
済むのに……。などと阿呆なこといってもしょうがないか……。


 由香里は毎日やってきて、夕食を作ってくれていた。
 わたしも女の子ということで手伝わされる。女性のたしなみとしての教育の一貫で
ある。女性化教育に関しては、由香里は甘えさせてはくれず、きびしく指導している。
何せ結婚式は、すぐそこまでに迫っているのだ。英一郎の養女として、多くの出席者
の前で恥じをかく事のないように、スパルタ教育の日々。とにかくあまりにも時間が
ない。
 一緒に台所に入っての夕食の支度。
「香織ちゃん、お皿を並べて頂戴」
 由香里よりも年齢が下なので、すっかり妹扱いされていた。養子縁組みを受けて、
英子さんが香織ちゃんに変わっているし、以前は敬語を使っていたのにな。
「はーい」
 かくいうわたしも素直に明るく返事をして、食器棚から取り出した皿を食卓に並べ
ていく。すっかり女の子としての感情と仕草が身についてしまっている。
 女の子は変わり身が早いのだ。
「志望学科は決まった?」
 出来上がった料理を皿に盛りながら、由香里が尋ねた。
「医学部に決めたよ」
「そうなの。お父さんの意志を継ぐのね」
「そういうこと」
 意志を継ぐというのはおかしな言い方だが、間違いでもない。香織は英一郎の養女
なのだから。
 香織の素性を調べてみると、都内有名女子校を優秀な成績をおさめて、同じく有名
女子大へ入学していた。結構学力優秀だったようだな。がしかし、その後休学届けが
出されて今日に至っている。両親が事故で亡くなって学費を工面できなくなったから
のようだ。そして生活苦からか、自殺して組織の手に渡り処理された。その戸籍を頂
戴して、英一郎の養女としたのだ。
 復学届けを出せば、その女子大に労せずして戻れるのだが……。家政科ではわたし
の性格には合わない。そこで経験を活かせる医学部に転学することにしたのである。
「入学金や授業料は心配しないでね。英二さんに払ってもらうから」
「いいよ。貯え、あるから」
 貯えとは、英一郎の養女とするにあたり、支度金として財産の一部を分与していた。
そのことを言っているのである。すでに英一郎の財産は、失踪届けが受理されて凍結
されており、手が出せなくなっていた。
「だめだめ。貯えは、結婚資金や老後のためにしっかり残しておくのよ。いずれお父
さんの財産分与もはじまるだろうけど……。会社だって将来はどうなるかも判らない
し、倒産して英二さんの財産が差し押さえになっても、香織ちゃんの分は除外される
んだからね」
 英一郎の失踪を受けて所定の期日が過ぎれば、失踪宣告(認定死亡)の手続きとな
る。法律に照らし合わせて財産分与が行われるはずだ。息子の英二と、養女のわたし
とで半分ずつに分けられることになる。もちろんわたしの分は完全な個人資産だから、
万が一会社が倒産しても、債権者や管財人からの財産差し押さえの対象には入らない。
 由香里はそのことを言っているのである。


 会社社長行方不明、誘拐か?
 捜索願いを出してすぐに、聞きつけた新聞・雑誌社の記事となり、それが大会社の
社長ということで、しばらくはその話題で盛り上がっていたが、新たな大事件の発生
とともにやがて沈静化していく。

 捜索願いを出して一ヶ月、さらに家庭裁判所に失踪の正式な手続きを完了させた。
 そして製薬会社社長には、専務の英二が順当に就任した。
 なに?
 副社長がいただろう? ってか。
 ああ、いるよ。
 会社の株式のほぼ五十パーセントをがっちりと握っている堅物がね。
 英二が社長になったのも、彼女が決定したことだ。
 彼女、そう彼女だ。
 英一郎の祖母の黒沢英子、その人だよ。九十歳を越えているが、今なお元気だ。
 製薬会社の代表取締役副社長にして、黒沢家当主。総資産数百億の資産家だ。
 わたしの父親は、彼女の娘婿だ。だから会社とは離れて産婦人科医などをやってい
られる。
 知らなかっただろう。
 黒沢家は代々女子が当主を務める事になっている。本来なら彼女の娘でわたしの母
親が、後を継いで当主になっていたはずだが、若くして死んでしまったので、引き続
き当主を勤めている。
 会社と黒沢家の実権を掌握しているのは英子だが、直接の会社運営は英二に任せて
いる。もっぱら経理報告書に目を通している程度のことしかしていない。九十歳だか
ら当然だし、株式を過半数握っていれば好きなことができるさ。世間一般からは親族
会社と揶揄されてはいるのはしかたがない。
 由香里が英一郎の妻に似ていると説明したが、二人の結婚がすんなり認められたの
も、そういういきさつもあったのさ。自分が選んだ嫁にそっくりなら、まあいいだろ
うということになったのだ。

 さて今度はわたしの番だ。
 養女になった報告をするために、わたしこと黒沢香織は英二に連れられて(ほんと
はわたしが連れていったのだが)、英子の元に挨拶に伺った。
 どうなったと思う?
 男の子は母親に似るとよく言われる。
 その男の子が、女性に生まれ変わったら?
 そう、わたしの母親、つまり英子の娘に生き写しだったのだ。
 自分が腹を傷めて産んだ娘が戻ってきた。
 もうすっかり感激して、娘の二十歳代の写真まで持ち出してきて、
「ほら、こんなにそっくり。この子は、娘の生まれ変わりだよ」
 とかいって、全財産をこのわたしに譲るとまで言い出したのだ。
 あはは、英一郎が全財産を引き継ぐはずだったから、元に戻って結果オーライだ。
 その後に開かれた親族会議で、英二の口から性転換薬のことが発表された。この黒
沢香織は、性転換薬で女性化し若返った英一郎だということが。例の記録映像も公開
された。
 出席者は、証拠となる記録写真を見せられても、一様に信じなかったが、英子だけ
は信じて疑わなかった。娘にうりふたつなのだから当然だ。英子は独断で、このわた
しを次期当主として指名した。
 さて黒沢家は女系で、当主は必ず英子を名乗る事になっている。
 黒沢香織から黒沢英子への戸籍名変更がなされた。
 これで名実ともに、わたしは黒沢家の次期当主となったのである。

 それから三日後のことだった。
 当主の黒沢英子が突然、容体が悪化して緊急入院した。
 跡継ぎが見つかって安心したのであろう。まるで張り詰めていた糸が切れたような、
急速転回で衰弱していく。
 わたしを枕許に呼び寄せて、親族の立ち並ぶ前で、
「後は、おまえにまかせるよ」
 と一言。
 それが臨終の言葉だった。
 九十歳。安らかな表情を浮かべた大往生だった。


 こうして黒沢家に新しい当主が誕生した。
 第二十七代当主、黒沢英子ことこのわたし。
 二十歳のうら若き当主ということで、新聞雑誌の取材が殺到した。
「美しき若き当主の誕生!」
 という見出しが、各紙面を飾った。

 人生はまだはじまったばかり。
 これからどんな波乱万丈が繰り広げられるのだろうか?
 楽しみだ。


出典:谷口
リンク:国木田

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