女体改造産婦人科病院 「響子そして」

2007/08/06 18:41 登録: えっちな名無しさん

(作者からのコメント  「女体改造産婦人科病院」よりも時間軸が前の話みたいです)
響子そして(前編)

(一)崩壊

 わたしは、裕福な家庭に生まれ、やさしい両親に育てられた。

 ミュージカル劇団に所属していた。
 ある創作劇をやることになったのだが、娼婦役がなかなか決まらなかった。かなり
きわどいシーンがあるので、女性達が尻込みしてしまったのだ。役をもらえるのはう
れしいが、娼婦役では困る。ミュージカルで独唱部分があるので、男性が女装して演
じるわけにもいかない。そうこうするうちに、変声前でボーイソプラノのわたしに白
羽の矢がたった。思春期に入ったばかりで、女性的な身体つきをしていたし、顔も中
性的なマスクが女性の間でも人気があったからだ。
 主なストーリーは、没落貴族の娘が生きるために街娼として街にたって客引きをし
ている。ここでは暗い娼婦の歌が歌われていく。徹底的にどん底の生活を表現する事
で、後の大団円をよりいっそう盛り上げる演出だった。そこへ国王の第三王子が、お
忍びで通りかかり一目ぼれする。ここでは娼婦と王子の掛け合いの歌。やがて二人の
間に愛が目覚め、幾多の困難を乗り越えて、国王を説き伏せて、婚約にこぎつける。
契りの歌。しかし幸せは長く続かなかった。戦争がはじまり二人は引き裂かれる。別
離の歌。やがて戦争が決着するが王子の戦死の知らせ。悲嘆し再び街娼に立つ娘。や
がて、死んだはずの王子が返ってくる。王子は生き別れた娘の捜索をはじめ、ついに
娘を発見する。再会の歌。そして大団円に向かって、新国王となった王子と娘は結婚
式を挙げる。結婚式では幸せ一杯の二人と共に、全員で婚礼の歌を高らかに大合唱す
るというものだった。
 稽古と共に衣装作りもはじまった。娼婦が着る衣装は、中世のフランス貴族風のス
カートが大きく膨らんだきらびやかなドレス。娼婦用と婚礼衣装の二着が用意される。
 娼婦とはいえ、役がもらえて有頂天のわたし。本舞台に出られるなら本望だった。
雰囲気作りの為に、レッスン中には女装され化粧も施された。女装に慣れていないと
本舞台でも、恥ずかしがったりして実力を出せずに舞台をだいなしにする可能性があ
るからだ。
 毎日、楽しく劇団通いしていた。

 そんな幸せな生活が、ある日を境に崩壊した。
 日曜日、舞台稽古のために、劇場へ向かう途中で交通事故にあってしまったのであ
る。
 救急病院へ搬送され緊急手術が行われる事になった。
 気がついた時、ベッドの上にいた。
 周囲を見回すと、輸液の投滴を受ける医療器具などに囲まれていた。
 ドアの外から怒鳴っている父親の声が聞こえてくる。
「どういうことだ! 弘子、説明しろ!」
「そ、それは……」
 弱々しい母親の声も微かに届いた。
「どうして血液型が合わないんだ!」
(血液型が合わない? なんのこと……)
「私はA型、おまえはO型。B型の子供が生まれるはずがないじゃないか!」
「本当です。わたし、お父さん以外の男性とは関係した事ありません。間違いなくあ
なたの子供なんです」
 必死で力説するような母親の声。

 わたしが退院した時、両親の間には離婚問題が持ち上がる程の険悪関係にあった。
 離婚を切り出したのは父親の方で、すでに家を出て愛人の女と暮らしていた。
 以前から愛人関係にあったという噂が流れていた。
 母親は離婚調停の法廷の場でも身の潔白を訴え続け、ついに親子の血液鑑定に計ら
れることになった。
 その結果、父親の血液遺伝子に異常が発見された。表現型はA型でも遺伝子がAb
因子ということが判明したのだ。遺伝子の一方が血液発現力の弱い特殊な劣性B(b
因子)だったのだ。そのため本来なら表現型ABの血液型となるところが、優生遺伝
子のA因子に負けて表現型Aの血液型となって現われた。
 そしてその子供には、父親から劣性な(b因子)と母親の(o型)を引き継いで生
まれた。遺伝子型(bo)となって、劣勢ながらもB型を発現させる(b因子)によ
って発現B型の血液型となった。
 ここに正真正銘の父親の息子であることが確定し、母親の貞操は証明された。
 しかし一度こじれた関係は、二度と戻らなかった。

 離婚調停が成立し、わたしは資産家の祖父を持つ母親に引き取られる事になった。
 自宅は、祖父が建ててくれたものである。当然、母親はそのまま自宅に住み、父親
は愛人の元に去って行った。
 母子家庭になったとはいえ、祖父の資産で裕福な生活を続けられた。父親がいない
のを可哀想に思い、以前にも増してやさしくなった母親の下で、それなりに幸せな家
庭を築いていた。
 その後、母親にはいろんな男が言い寄ってきた。祖父の資産が目的なことは明らか
であったので、母親は突っぱねていた。息子である俺に対してもやさしく近づいて来
る者も多かったが、当然わたしだって御免こうむる。

 しかし、ついに母親はある男の手中に落ちた。
 母親は、その男に夢中になった。
 男を家に迎え入れ、毎夜を共にするようになった。
 わたしは、財産目当てのその男を毛嫌いし、母親に早く別れた方がいいと言った。
懇願した。
 しかしいくら懇願しても、母親は言う事を聞かなかった。
 やがて男は、水を得たように散財をはじめた。祖父から譲り受けた資産を食い潰し
ていった。それでも母親は、別れたがらなかった。

 貞操だった母親がこうも変わるはずがない。
 不審に思ったわたしは、小遣いをはたいて興信所を使って、男の素性を調べはじめ
た。
 男は暴力団に所属している覚醒剤の売人だった。
 母親が離婚訴訟で四苦八苦している時に接近し、
「この薬を飲めば疲れが取れますよ」
 と騙して覚醒剤を渡し、言葉巧みに母親を術中に陥れたのである。
 覚醒剤の虜となった母親は、その男のいいなりになった。

 ある夜。母親の寝室に忍び込んだ。
「さあ、今夜も射ってあげようね」
 覚醒剤を母親の白い腕に注射する男。まるでそれを待っていたかのように母親の表
情が明るくなった。
「ああ……」
 覚醒剤を打たれた母親は、やがて虚ろな眼差しになり、
「あなた……愛しているわ。抱いて」
 と、男にすがりつくように抱きついた。
 貞操を守り続けてきたはずの母親の変貌ぶりが信じられなかった。
 その身体に男が重なっていく。
 その柔肌を男の手が蛇のように撫で回していく。
 ふくよかな乳房を弄ばれ、女の一番感じる部分に触られる度に、歓喜の声を上げる
母親。

「お願い、入れて。せつないの、早く」
「なにをしてほしいんだ」
「あなたのアレをわたしに入れて」
「アレとはなにかな」
「お・ち・ん・ち・んよ。お願いじらさないで……」
「もう一度言ってみな」
「あなたのおちんちんをわたしのあそこに入れて」
「そうか……入れて欲しいか」
「お願い、早く入れて」

 わたしは、淫売婦のように男の言いなりになっている母親の姿をこれ以上黙って見
ていられなかった。たまらなかった。
 気がついたら、わたしは近くにあった電気スタンドを手に握り締め、ベッドの上の
男を襲っていた。
 ベッドの白いシーツが、男の鮮血で染まった。
 裸の母親の身体にも血が飛び散る。
 それでも構わず、男の頭を何度も何度も電気スタンドで殴りつける。
 男はベッドから、どうっと落ちて床に倒れ動かなくなった。

 はあ、はあと肩で息をし、母親の方を見る。
 自分の愛する男が、目の前で殺戮されたのに、少しも動揺していなかった。
 やがて母親は擦り寄ってきて、あまい声で囁くようにねだった。
「抱いて……入れて、はやく。もう我慢できないの」
 両腕をわたしの背中に廻すように抱きついてくる母親。
 完全な覚醒剤中毒症状だ。
 意識が弾き跳んでしまって、愛人と自分の息子との区別すらできなくなっていた。
男に抱かれて、ただ愛欲をむさぼるだけのメス馬に成り下がっていた。
 こんな惨めな母親の姿は見ていられなかった。
 わたしは、その白くて細い首に手を掛け、力を入れた。
「く、くるしい……。ひ、ひろし」
 首を絞められて息が詰まり、正気を取り戻してわたしの名を呼ぶ母親。
 しかし、わたしは力を緩めなかった。
 母親のか細い腕にあざとなった数々の注射痕が痛々しい。
 涙で目が霞む。
「ご・め・ん・ね……」
 かすれながらも最後の力を振り絞って声を出していた。
 それが母親の最後の言葉だった。
 死ぬ寸前になって、自分のこれまでの行為を息子のわたしに詫びたのだった。
 母親は、息絶えベッドに倒れた。
 目に涙が溢れて止まらなかった。

(二)少年刑務所

 事件が露見し、わたしは少年刑務所に収容された。
 一年近くを独居房で暮らし、更生指導が行われた。
 やがて、多種多様の犯罪を犯した少年達と一緒の宿房に入れられた。
 雑居房の生活は悲惨なものとなった。
 新参者に対する陰湿ないじめが横行した。
 食事を横取りされたり、暴力を受けたり、看守に気づかれないようにそれは行われ
た。
 ある夜のことだった。
 消灯の時間になって、横になっているとまわりがざわついている。
 忍び寄る気配。
「な、なに?」
 いきなり大勢の人間に組み敷かれた。
 口の中にタオルを強引に詰め込まれた。声が出せないようにして、看守に気づかれ
ないようにである。
「おい、しっかり押さえておけよ」
 尻を持ち上げられ、硬いものが当たった。
 次の瞬間、肛門に激痛が走った。
「ううっ……」
 相手が前後運動を繰り返す度に、ぎりぎりと挽千切られるような痛みが走る。
 やがて相手の動きが激しくなりうめき声をあげたかと思うと、わたしの中に熱いも
のがどうっと勢いよく流れ込んできた。
 すべてのものを放出して満足した相手は、ゆっくりとそれを引き抜いていく。わた
しの太股を、ねっとりしたもが伝わり落ちた。暗くて判らないが、相手の精液とわた
しの血液とが混じっているに違いない。
 すぐさま次の相手が馬乗りになって同様の行為をはじめた。
 その日以来、毎晩のように犯された。相手は毎回入れ代わった。しかも一晩に数人
の相手をさせられた。
 わたしは、男しかいない宿房で、少年達の慰みものにされてしまったのである。

 どうせ抵抗できないのだ。わたしは自ら進んで身体を提供するようになった。
 フェラチオもしてあげた。数をこなす内に上手になり、不潔なバックよりフェラチ
オを望む少年が多くなった。
 やがて少年達の態度が変わった。
 やさしくなったのだ。いじめられる事がなくなり、食事もちゃんと取れるようにな
った。それまでは一晩で数人の相手をさせられていたのが、わたしの健康を気遣って
一晩に一人という約束ごとが決められ、順番待ちをするようになっていた。
 少年達もそうであるが、実はわたし自身にも変化が起きていた。
 感じるようになっていたのである。自分でも信じられなかったが、バックで突つか
れるたびに、あえぎの声を上げるようになっていた。
 わたしのあえぎの声を聞いて、少年達はさらに興奮していく。そしてありったけの
ものを、わたしの中に放出して果てていく。
 時々チョコレートなどの嗜好品が、外部から差し入れされることがあるが、おすそ
分けに預かれるようになった。それにはもちろん代償行為として、夜の相手をするこ
とを意味した。

 外部から遮断され行き場のない少年達のほとんどが、性欲をもてあそんでいた。溜
まったものは出さねばならない。たまりにたまって限界に達っし、夢精してしまうこ
ともある。そんな恥ずかしいところを見られる前に、各自隠れた場所で処理している。
 わたしのいる宿房では、おとなしく待っていれば順番が回ってくる。自分の手で慰
めるよりはるかに気持ちが良いので、ちゃんとその日を指折りながら待っている。
 それでも順番を待ちきれなくなる少年達。
「なあ、頼むよ。もう限界なんだ」
「いいわよ。やってあげるわ」
 いつしかわたしは女言葉を使うようになっていた。少年達もそれを受け止めて、わ
たしを女としてやさしく扱うようになっていた。
 いそいそとズボンのファスナーを降ろす少年。ぎんぎんにそそり立って暴発しそう
なそれを咥えて、やさしく愛撫してあげる。その根元や袋・タマにもやさしく刺激を
与えてやると、感極まってどうっとわたしの口の中に放出する。
「ありがとう。借りはちゃんと返すから」
 ファスナーを上げながら、ウィンクをする少年。

 少年刑務所だから、当然所内作業がある。
 わたしが重いものを持っていると、
「重いだろ、持ってやるよ。君はこっちの軽いやつにしなよ」
 といって代わってくれる。先程フェラチオしてあげた少年だ。全然仕事しないわけ
にはいかないから、より軽作業になるようにしてくれる。
「ありがとう」
 わたしが精一杯の微笑みを浮かべてお礼を言うと、
「いやあ、当然だよ。きつかったら、いつでも代わってあげるから」
 顔を赤く染めて照れていた。
 同室の宿房の少年だけでなく、所内の全員がやさしく対応してくれていた。
 わたしが女として相手していることは、所内のほとんどの少年に知れ渡っていたか
らだ。そういった行為の背後には下心がある。
 チョコレートを手渡しながら、わたしに囁く。
「なあ、いいだろ?」
「ええ、いいわよ。でも、どこでするの?」
 するとほんとうに嬉しそうな表情になって、その秘密の場所に連れて行ってくれる。
「ここでいいの?」
 相手は溜りに溜まっているので、その股間は弾きれんばかりに膨らんでいる。待ち
きれないようにズホンを降ろすと襲いかかってくる。わたしのズボンを剥ぎとりパン
ツを脱がすと背後からいきなり入ってくる。
 たいがいの少年はものの二三分で果ててしまう。わたしとしてはもっと楽しませて
ほしいと思ったりするが、少年刑務所の中であり、いつ見つかるかもしれない。時間
との勝負なのだ。
 男の感覚というものは単純だ。射精すれば誰でも快感があるが、それをわたしの中
に放出すればしびれるような感覚がたまらないといった表情になる。相手は、オナニ
ーでは得られない感覚に酔いしれて満足するのだ。
 一度関係すると、わたしの虜となった。

(三)愛する明人

 遠藤明人。
 わたしのいる宿房の長だった。
 暴力団の組長の息子だった。その身分と、毎日のように届けられる差し入れによっ
て宿房はおろか、少年刑務所全体の顔となった。その経歴は、五歳の時に、寝ていた
母親を撲殺したのを皮切りに、数えきれない人々を殺傷し続けた根っからの悪玉だっ
た。
 看守でさえ一目おいている。
 いつのまにかわたしは明人のお気に入りとなっていた。明人はわたしをいつでも抱
ける優先権を獲得し、わたしを情婦のように扱った。わたしを独占したがったのだが、
少年達の相手ができるのは、わたし一人しかいない。もてあます性欲のはけ口として、
わたしは必要不可欠な存在になっている。それを取り上げてしまったら、反逆・暴動
に発展するのは確実。所内での顔を維持するにも寛容も必要だった。しかたなく、他
の少年達の相手をするのを黙認した。

 それまでのわたしの役目は、新しく入所した新参者に移った。
 毎晩のようにその新参者が襲われるのを黙って見ているだけのわたし。
 それが彼の運命なのだ。だれも止めることはできない。
 新参者は屈辱に必死に耐えている。
「馬鹿ねえ。あきらめて、女になっちゃえば楽になるのに」
 わたしは心で思ったが、最初の頃は自分も抵抗していたものだ。
 しかし当の本人にしてみればそう簡単に心を切り替えることなどできないのだ。

 そのうちに興奮してきた明人が、わたしの肩に手を回し唇を奪う。そしてそのまま
押し倒されてしまう。
「咥えてくれ」
「ええ、わかったわ。明人」
 言われるままに、その張り裂けんばかりになっているものを咥えて、舌で愛撫する。
やがてわたしの口の中に、その熱いものを勢いよくぶちまける。わたしは、ごくりと
それを飲み込む。
「尻を出せ」
「はい」
 わたしの心はすっかり女になりきっていた。なんのてらいもなく、四つんばいにな
って明人を迎え入れている。
 次第に明人に心惹かれていく自分がいた。

 ある日のこと、明人がシートパックされた錠剤を手渡して言った。
「これを飲むんだ。毎食後にな」
「なに、これ?」
「女性ホルモンだよ。いつも差し入れをする奴に、持ってこさせた」
「女性ホルモン?」
「そうだ。毎日飲んでいれば、胸が膨らんでくるし、身体にも脂肪がついて丸くなっ
てくる」
「わたしに女になれというの?」
「完全な女にはなれないが、より近づく事はできる。頼む、飲んでくれないか」
「明人がどうしてもって言うなら飲んでもいいけど……」
「どうしてもだ」
「わかったわ。明人のためなら、何でも言う事聞いてあげるわ」

 わたしは思春期真っ最中の十代だ。
 女性ホルモンの効果は絶大だった。
 飲みはじめて一週間で乳首が痛く固くなってきた。
 胸がみるみるうちに膨らんできた。
 二ヶ月でAカップになり、半年でCカップの豊かな乳房が出来上がった。

 その乳房を明人に弄ばれる。
 全身がしびれるような感覚におそわれ、ついあえぎ声を出してしまう。
「あ、あん。あん」
 乳房やまめ粒のような乳首に、性感体が集中していた。
 脂肪が沈着し、白くきれいな柔肌になっている全身にも性感体が広がっている。
 成長途上にあった男性器は小さいままで、睾丸はどんどん萎縮しており、もはやそ
の機能は失っていた。髭や脛毛なども生えてはこなかった。
 声帯の発達も、ボーイソプラノから、きれいなソプラノを出せる女性の声帯に変わ
りつつあった。もちろん喉仏はない。

 看守は、わたしの身体の変化に気がついていたが、だれも注意すらしなかった。
 明人の父親の組織の力が働いているようだった。女性ホルモン剤の差し入れがすん
なり通っているのもそのせいだろう。

(四)ロミオとジュリエット

 芸術の秋。
 少年刑務所内において、毎年春と秋に行われる恒例の慰問会が開催されることにな
った。各種イベントや出店などが目白押しだ。
 実行委員長は、所内の顔である明人だ。
 わたしは明人に頼んで、その演目に舞台劇「ロミオとジュリエット」を入れてもら
った。演劇が好きだったのでどうしてもやりたかったのである。
 もちろん、ジュリエットはわたしが演じる。劇団に所属し娼婦役を演じていたので、
容易いことであった。問題は監督をはじめとする他の役者や道具係りを集めることだ
が、演劇好きな少年達を探し出して、わたしがお願いすれば、みんな快く参加してく
れた。にわか劇団の誕生だ。
 舞台衣装は、作業所の縫製科で職業訓練をしている少年達に依頼して製作してもら
った。もちろんわたしもそれに入って裁断やミシン掛けして手伝った。演じる舞台や
小道具は、木工作業所の少年達。舞台背景は美術科、
 慰問会に際しては、看守側も通常の作業時間を減らして、劇団の練習や必要備品製
作のための時間を作ってくれた。

 慰問会の日が迫り、所内では調達できない、照明器具や音響機器、特殊美術に必要
な器材を、明人が特別許可を得て外部から搬入された。
 やがて所内の一角に舞台作りがはじまる。大工や鳶の職業を受けている少年が、組
み上げていく。人手が足りないので、劇団員以外の少年達も声を掛けて手伝ってもら
う。断る少年はいない。怪我したら大変と、ねじ釘一本持たせてもらえない。わたし
は傍で、組み上がっていくのを眺めているだけで済んでいた。
 舞台稽古は一日しかない。当日の所内作業を休ませてもらって、朝から舞台衣装を
着込んでの稽古。
 やがて本番の日が来た。
 わたしは貴婦人の着るドレスで着飾り、ジュリエットを完璧に演じた。
 ステージの真ん中でスポットライトを浴び、先に死んでしまったロミオの後を追っ
て、毒薬を飲んで自殺する演技を披露する。
「おお! ロミオ、ロミオ。わたしを残してどうして先に死んでしまわれたの? い
っそわたしも……。ここに、まだ毒薬が残っているわ。これを飲んで、あなたの元へ
まいります……」
 クライマックス、精一杯の声量を会場に響かせて、死への道を高らかに演じて死ん
でいく。そしてエンド。
 割れんばかりの拍手喝采だった。
 アンコールのステージに立ち、スポットライトを浴びるわたし。
 わたしはまさしくヒロインだった。演劇を続けてきた甲斐があった。
 こうして悲劇「ロミオとジュリエット」は、大成功した。

(五)仮出所

 少年刑務所に来て五年余の月日が過ぎ去っていた。
 丁度二十歳の誕生日。わたしの仮釈放が決定したと知らされた。
 二人の人間を殺したのだ。そんなに早く出られるはずがなかった。
 しかし、事実だった。
 女性ホルモンで限りなく女性に近づき、少年達との逢瀬を繰り返している。
 そんな少年をいつまでも所内に留めていたら、健康状良くない。
 女になったのならば、悪事行為を繰り返す事もないだろう。
 そういった判断から、追い出されるように仮釈放が速められたというべきだろう。

 出所祝いに、白いワンピースドレス・ローヒールのパンプスなど、女性として外を
歩くのに必要な一揃いのものが、少年達がカンパして集められたお金で購入され、わ
たしにプレゼントされた。
 舞台以外では、女性の衣料を着た事がないわたしだったが、ほとんど女性的な容姿
になってしまった現在、それを着るのが一番自然に思えた。
 今、それを着て、明人と面会している。
「俺が退所したら、必ず迎えにいく。それまでどんなことがあっても我慢して、ずっ
と待っていてくれ」
「わかったわ、。待ってる。きっとよ、迎えに来てね」
「もちろんだ。その服きれいだよ。俺達からのせめてもの志だ」
「ありがとう。みんなにも感謝していると言っておいてね」
「ああ……」

 仮釈放されたといっても、自由になったわけではない。
 常に保護司の監察下にあり、定職につき住居も定められているなど、一定の束縛が
あった。
 その保護司が迎えに来ていた。
「保護司の行田定次だ。今日から君の面倒をみることになる」
 というわけで、彼が手配したアパートに入居した。
 そして就職先なのだが……。

 その保護司が紹介してくれたのは、いかがわしいスナックバーだった。
「おまえのような奴を、雇ってくれるのはこんな処しかないんだ。黙って働くんだ」
 といって無理矢理、男相手の職場に放りこまれた。
 しかも給与は全額保護司が受け取り、アパート代といくらかの生活費を渡すだけで、
残りのほとんどを巻き上げられる格好となった。
 保護監察の身であり、保護司の言う事を聞かなければ、少年刑務所に突き返すと脅
された。泣く泣く言いなりになるしかなかった。しかも毎晩のように陵辱される日々
が続いていた。
 わたしの働いているところにやってきては、まるで見せ付けるように店子達や客に
大判振舞いした。それらの金はすべてわたしが汗水たらして稼いだものだ。
 保護司は女性ホルモンの入手先を知らず、わたしの身体はホルモン欠如で、更年期
障害に似た症状に蝕まれていった。
 この保護司のそばにいる限り、いつまで経っても泥沼状態から抜け出せない。甘い
汁を吸い尽くされてずたぼろにされると思った。
 何度も自殺を考えたが、
「俺が退所したら、必ず迎えにいく。それまでどんなことがあっても我慢して、ずっ
と待っていてくれ」
 という明人の言葉を信じて思い留まった。

(六)再会

 ある日。わたしは、以前住んでいた屋敷の前に立っていた。
 すでに屋敷は他人の手に渡っていた。
 精神が崩壊していた母親を操って実印を奪いとり、祖父から譲り受けて所有してい
た不動産などの資産すべてを奪い取られていた。
 今では、見知らぬ人が住んでいた。庭先で高校生かと思われる女の子と、やさしそ
うな両親が、野外バーベキューを楽しんでいた。
 わたしは涙を流していた。
 もしあの時、交通事故に合わなければ、あの家族のような暮らしをしていたに違い
ない。

 背後で車が停まる音がした。
「ひろしじゃないか!」
「え?」
 自分の名前を呼ぶ声がして振り返ると、黒塗りのベンツから懐かしい青年が降り立
っていた。
「明人!」
 わたしは、夢中でその腕の中に飛び込んでいった。
「やっぱり、ひろしだった。探したぞ」
 明人は満面の笑顔で、力強く抱きかえしてくれた。
「いつ、出てきたの?」
 わたしは、もう涙ぽろぽろ流してその腕の中で泣いた。
「おとといだ。保護司の野郎、おまえの住所を偽っていやがったんだ。そこに、おま
えはいなかった。そして、今の今までずっと、おまえを探していたんだ。この屋敷に
必ず現われると網を張っていたんだ。そしたら君がいた」
「迎えにきてくれたのね」
「そうさ。約束しただろ。必ず迎えに行くって」
「うれしい……。わたし、何度も自殺しようかと考えた。でも、明人が必ず迎えにき
てくれると信じて、ずっと耐えて待ってたの」
「そんなに苦労してたのか」
「ええ……」
「わかった。もう何も心配ない。俺のところに来い」
「はい」

 こうして、わたしは愛する明人の下に引き取られることになった。
 明人は出所と同時に、抗争事件で死んだ親に代わって、暴力団の新しい組長になっ
ていた。わたしを縛り付けていた悪徳保護司を合法的に処分し、自分の息の掛かった
新たなる保護司を代わりに据えた。

 わたしは自由になったのだ。
 その日から、組長の明人の情婦としての生活がはじまった。
 再び女性ホルモンを投与できるようになり、崩れ掛けていた乳房は、再び張りのあ
る豊かさを取り戻していた。
 外を出歩く時は、常にボディーガードの中堅やくざに囲まれているのは、いささか
閉口するが、対抗組織から狙われている危険から守るため仕方がないことだった。
 高級ブランドのドレスやバック、そして高額の宝石が散りばめられたネックレスや
イヤリングで身を飾ることができた。自分としてはそんなブランドとか宝石には興味
がなかったのであるが、組長の情婦として威厳のあるところを組員に見せ付けるため
に、明人から言われてそうしているのだった。
 ひろしという名前では不具合があるので、響子という名前を、明人がつけてくれた。
それは明人が手にかけた母親の名前だった。今でも母親を愛しており、母親の分まで
愛させてくれと言った。
 明人は憎くて母親を殺したのではない。浮気をしていた男が上になっているところ
を、母親をいじめているのだと思い込んだ明人が、金属バットで殴りかかろうとして、
それを男にかわされ、勢いあまって母親の頭部を強打してしまったのだ。脳挫傷で母
親は死んでしまった。
 殺人事件として発覚したが、五歳の子供ゆえに訴追される事はなかった。
 実は母親は、その男に覚醒剤を打たれていたことが後から判明した。
 母親は貞操な女性だったのだが、か弱い力では男にはかなわない。深夜に侵入した
その男に押さえつけられ、無理矢理覚醒剤を打たれて貞操を奪われたのだった。
 その男は、組長の妻を手込めにしていた事が発覚し、下半身をコンクリート詰めに
され生きたまま海に放りこまれた。当然の報いだ。指詰めくらいでは納まるはずがな
い。私刑としては最高刑の処分となった。
 愛する母親を自らの手で殺したという精神的なジレンマが、明人を凶悪な性格に変
貌させ、幾多の人間を殺害した。その度に、組の中堅どころの幹部候補性達が身代わ
りで自首していったから、明人自身が捕われることはなかった。
 しかしついに明人自らが現行犯逮捕され、少年刑務所に収監された。
 そしてわたしに出会ったのである。
 明人は言った。凶悪的だった性格は、わたしとの出会いで次第に癒されていったと。
 やさしい明人。
 わたしはそれに応えるためにも精一杯尽くした。

 身代わり自首した者達は、刑期を終えて出所と同時に幹部となり、明人を支えてい
る。

(七)女へ

「なあ、頼みがあるんだが……」
 ある日、明人が切り出した。
「なあに、わたしにできることならなんでもするわよ」
「実は、性転換してほしいんだ」
「え?」
「ほんとの女になってくれないか」
「でも手術したら二度と元に戻れなくなっちゃうわ」
「大丈夫だ。一生、俺が養ってやるから、心配するな」
「ほんとう?」
「ああ、籍は入れられないけど、俺の女房になってくれ。もちろん祝言も挙げるぞ」
「わかったわ。あなたのために性転換してあげる」
 わたは嬉しかった。だから女になって尽くしてあげようと思った。

 こうして、わたしは性転換して女に生まれ変わった。
 今までは、女子トイレや化粧室に入るにも、遠慮しながら入っていたものだった。
しかし、これからは堂々と女子トイレを使えるし、水着になってプールで泳ぐ事もで
きるし、温泉にだって自由に入れる。
 といっても手術してしばらくは膣は使えない。
 ダイレーターによる膣拡張を行わなければいけなかったからだ。
 しばらくは以前通りバックで我慢してもらった。
 毎日数回、膣拡張具を使って膣を広げていく。
 一番大きなそれがすんなり出し入れできるようになった時、明人を迎え入れた。
 それは実に感動的だった。
 女としてのバージンを明人に捧げるという気持ちだけでも興奮したが、明人のもの
が入ってきた瞬間に気分は最高潮に達した。
 バックの時は心のどこかに男の影が付きまとっていたが、今は身も心も本物の女な
んだという自覚が一切の垣根を取り除いた。
 明人が動く度に快感が突き上げてくる。
 明人は、わたしを女として抱いてくれているんだ。
 そう思うと、バックでは得られない至上の幸福感がさらに絶頂へと導く。
 明人の動きが激しく息遣いも荒くなってきた。それに合わせるようにわたしも昇り
詰めていく。
「う、うお……」
 低いうめき声を挙げた途端、わたしの膣に熱いものが勢いよく流れ込んできた。
「あ、ああ……」
 あたしも絶頂に達した。

 これからは前からも後ろからもOK。
 でも膣があるんだから前からにして欲しい。
 性転換してくれと言い出したのは明人だ。もちろんちゃんと前からしてくれる。そ
うでなきゃ、性転換した意味がない。
 性転換を言い出され毎晩のように抱いてくれることで、明人のわたしへの愛を確信
した。
 ただのセックスが目的なら、いくらでも本物の女を囲う事ができる。あまつさえ祝
言をあげてくれて、組長の妻の座においてくれている。
 わたし以外に愛人を囲っていたとしても、許してあげるつもりだ。組を継いでくれ
る子供が欲しいと思う事もあるだろうが、わたしには子供を産む能力はないから。

(八)抗争そして

 ある日。屋敷の玄関先で明人が襲われた。
 警察に知られないように、闇病院へ運ばれたが、大量の出血で輸血が必要になった。
ここでは、赤十字からの血液の供給が受けられない。
 明人はO型だった。同行していた組織員にはO型がいなかった。
「わたしの血を採って頂戴! B型だけど、きっと大丈夫だから」
 わたしの血液型は、bo因子という特殊な血液だ。B型を発現してはいるが、抗原
抗体反応は、ほとんどO型に近いデータを示す事が証明されていた。血液が再生産さ
れるまでの補完の輸血くらいなら血液型不適合のショックは起きないと確信していた。
「響子の言う通りにしてくれ」
 明人が決断し、わたしの血液が採取されて、輸血された。
 思惑通りに輸血は成功し、明人は回復していった。
 母親を捨てた非情な父親の血液因子が明人の命を救った。複雑な心境だ。
 わたしの手厚い看護と愛情で、明人はみるまに回復していった。

 病院の玄関を出てくるわたし達。
 三角斤を肩から下げているので、上着を羽織るように着ている。

 その時だった。
 突然、四輪駆動のパジェロが急襲してきたのだ。
 パン・パン・パン
 何発かの銃声が轟いた。

「危ない!」
 明人が、わたしに覆い被さった。
 さらに銃声は鳴り響く。
「響子……大丈夫か」
「だ、大丈夫よ」
「そうか……よかった」
 その時、わたしの手にねっとりとした生暖かい感触があった。
 それが血であることはすぐに判った。
「明人……怪我してる」
 あわてて起き上がってみる。
 覆い被さっていた明人の身体が膝の上に。
 背中に銃弾が当たって大量の血が吹き出していた。
 ゆっくりと明人は仰向けに、向き直り弱々しい声で言った。
「響子。俺は、もうだめだ」
「そんな事言わないで。もう一度輸血すれば……」
「無駄だよ。自分でもわかる。痛みが全然ないんだ。神経がずたずたになっているん
だ。いずれ心臓の鼓動も止まる」
「そんなことはないわ。そんなこと……」
「いいんだ。響子」
「あきと……」
「これまで、こんな俺のために尽くしてくれてありがとう。殺伐とした世界で、おま
えと巡り会えて、俺は心安らぐことができた。母に対する償いと親孝行もできたと思
う。おまえと一緒に過ごした時間は何事にも変えられない。幸せだった」
 身体から次第に血の気が引いていき冷たくなっていく。
 やがてゆっくりと目を閉じていく明人。
「冗談はよしてよ。うそ! うそでしょう? 目を開けてよ」
 明人は二度と目を開かなかった。
「あきとお!」
 声の限りに叫んだ。
 わたしは狂おしく明人を抱きしめた。

 パジェロの中から、男達の会話が聞こてくる。
「おい。死んだかどうか、見てこい」
「見なくたって、死んでますぜ」
「いいから、確認してこい。今度しくじったら、俺達の命がないんだ。確実に死んで
いるのを確認するんだ。それにあの女をかっさらってこい」
「女ですかい?」
「そうだ。見れば、なかなかの上玉じゃないか。放っておくにはもったいない」
「わかりやした」

 わたしの明人を、男が触ろうとした。
「いや! 汚い手で触らないで」
 男の平手うちが頬を直撃し、もんどりうって地面に飛ばされた。頭を打ったのだろ
うそのまま意識を失った。


(九)覚醒剤

 気がつくと両腕を頭側にしてベッドの縁に縛られていた。
 縛っている紐を歯で噛みきろうとしましたがだめだった。
 がちゃり。
 扉が開いて、男が入ってきた。
「目が覚めたようだな」
「わたしをどうしようと言うの」
 わたしは相手がなにをするか判っていた。
「眠っている間に犯っても良かったんだが、それじゃ調教にならないんでね」
 やはりわたしを犯すつもりなのだ。しかし……。
「調教って?」
 男は、それには答えずに缶ペンケースのようなものを持ち出した。
 そこから取り出したのは注射器だった。
 そしてアンプルから注射器に液を吸い上げていく。
 それが覚醒剤だというのは、すぐに判った。
 かつてわたしが母親を殺した場面が思い起こされていた。
 同じ事をしようとしている。
「これが何か判るか?」
「覚醒剤……」
「ほう……。さすがは、奴の情婦だけあるな」

「こいつは、そこいらで売買されているような混じり物じゃない、高純度の医療用の
ものだ。だからこうしてアンプルに入っている。おまえのような上玉はそうそうざら
にはいない。だから混じり物使って短期間で廃人になるような真似はしたくないんで
ね。だが確実に覚醒剤の虜になるのは同じだ」
 そういうとわたしの腕に注射器を突き刺そうとした。
「い、いや。やめて」
 その時になってはじめて事の重大さに気づいて蒼くなった。
 しかし縛られている上に、男の力にはかなわなかった。
 注射針が腕に刺され、覚醒剤が注入されていく。
 動悸が激しくなる。
 どくん、どくん、と心臓が脈動している。
 やがてそれが次第に治まって、気分が良くなってくる。
 ほわーん。と雲の上を歩いているような感じ。
 意識が朦朧としている。
「どうやら、いいようだな」
 男がシャツを脱ぎはじめた。
 ベッドに上がってくる。
「い、いやだよ……。た・す・け・て・あ・き・と」
 意識が朦朧としている中、明人に助けを求めるわたし。しかし、明人はこの世には
いない。それでも呼び続ける。
「あきとお」
 だがそれは陵辱しようとする男をさらにかきたてるだけだった。
「叫べ、わめくがいい。おまえの明人は死んだ。今日から、おまえは俺のものだ。が
ははは」
 遠退く意識の中、わたしの自我が崩壊していく。

 しばらくして意識が戻ってきた。
 と、同時に明人でない男に、貞操を奪われたのを思い出して泣いた。
 この身体は生涯明人一人のものだったのだ。
 ドアの外から男達の声が聞こえる。
「あの女が、性転換してたなんて……。外見からじゃ判断できませんね」
「まあな……俺もすっかり騙された。事が終わって、あらためて女の性器を見てやっ
と気がついた。性転換しているとはいえ、外見はまるっきりの女だよ。へたな女より
美人だし、プロポーションも抜群だ。手術は完璧に近いし、明るい所でじっくり観察
しても、そう簡単には気づかれないさ。数えきれないいろんな女を抱いた俺だから気
がつけたのさ。これほどの上玉はそうざらにはいない。薬漬けにして調教して、売春
させればがっぽりかせげる。なんせ妊娠する心配はないからな、本生OKで若い美人
が相手となりゃあ、いくらでも金を出すだろう」

 薬漬け……売春婦……。
 わたしは恐怖におののいて、凍り付いた。
 覚醒剤に身も心もぼろぼろになってしまった母親の姿が思い浮かんだからだ。
 虚ろな瞳を向け、自分の息子と愛人の区別もできなくなって、迫ってきた母親。
 ああはなりたくない。
 あの男は、母親を売春婦として調教していたのだ。いずれ資産を食い潰したあげく
には、売春婦として働かせるつもりだったに違いない。吸血鬼のように血の一滴も残
さずに吸い上げ死に至らしめる。
 わたしも、このままでは薬漬けにされ、売春婦として生涯を閉じることになるだろ
う。
 がちゃりと扉が開いて男が入ってくる。手には注射器を持っている。
 覚醒剤だ!
 逃げようとした。しかし、身体に力が入らない。
「さあ、また射ってあげよう。気持ちが良くなるようにね」
 い、いやだ。やめて!
 声にならない。
 わたしの腕に注射針を突刺される。
 しだいに意識が朦朧としてくる。
 男が上に重なってきた。
 意識が遠くなっていく。

 あれから何時間。いや何日たったのだろう。
 意識が少しずつ回復するにつれて、鼻につく異臭が漂っているのに気がついた。し
かもどこかで嗅いだことのある……。そうだ、これは精液の匂いだ。
 ふとわたしの腕に幾つもの注射痕があるのに気づいた。ついさっき注射したばかり
のようなものもあれば、かなり日数がたってあざになっているものもあった。
 どうやら覚醒剤を注射され続けているようだった。覚醒剤が切れかける度に次々と。
 そしてこの精液の匂い。
 頭を動かしてベッドサイドを眺めると、ティッシュが山のようになったごみ箱があ
り、そこからこの異臭が漂っている。精液の匂いに不感症にさせるか、或は逆の反応
をするようにしむけているのか、わざとそのまま放置しているのであろう。
 覚醒剤を注射され、陶酔状態にある時に、犯されているのだ。間違いない。
 かつて、わたしの母親がされたような行為が、今まさに自分自身に対して行われて
いると確信した。
 何の因果か、母娘で同じ覚醒剤にはまってしまうなんて。そういえば明人の母親も
そうだった。
 わたしの身の回りでは覚醒剤を核とする輪廻転生が巡っているのかも知れない。巡
り巡って、今わたしがその渦の中にいる。
 まだ意識が正常なうちに逃げ出さなくては……。
 しかし、生きて逃げる事は不可能だろう。どうせまた連れ戻されるに決まっている。
 この輪廻から確実に解脱するには、命を投げ出すしかない。
 明人は死んでしまった。今のわたしに生きていく希望は何もない。覚醒剤の虜とな
り溺れていくだけの人生があるだけだ。
 隣の部屋からは何の音もしない。誰もいないようだ。
 それまでは逃げ出さないように縛られていたが、今は縛られていない。
 すっかり覚醒剤に冒されていて、たとえ逃げ出しても、禁断症状の苦しみからまた
舞い戻ってくる。そういう判断なのだ。
 わたしは、覚醒剤の影響でふらふらになった身体を引きずるように、窓辺に擦り寄
った。今気がついたが、わたしは全裸だった。犯す度に、いちいち脱がしたり着せた
りするのが面倒だから、脱がしたままにしてシーツを掛けるだけにしていたのだ。
 この際どうでもいい。どうせ死ぬんだから。
 そして窓を開けて身を乗り出した。

 明人待っててね。今いくから……。

 ふわりと身体が浮く感じがしてやがて意識がなくなった。
響子そして(中編)

(十)解脱

 意識の遠くでサイレンの音が鳴っている。
 冷たい感触はコンクリートか。
 どうやら成功したみたい……。
 どれほどの時間が経ったのだろうか……。
 微かに聞こえる器械が触れ合う音。
 声も聞こえるが、目は見えない。真っ暗闇の世界。

「どうですか? 先生」
「大丈夫だ。まだ生きているぞ」
「え? ほんとうですか」
「見ろ、わずかだが脳波が出ているぞ」

 誰かが何か、喋っている。
 まさか、逃亡失敗?
 連れ戻されて、また覚醒剤を注射されたのか。

「ほんとうだ。波が出てる。良かったあ……。死なれたら、磯部さんに申し訳がたち
ません」
「まだ、安心するのは早い。波が出ているというだけじゃ。どうしようもならん」
「先生なら、きっと助けて頂けると思って、運んできたんですから。この、あたしだ
って生き返らせてくれたじゃないですか」
「真樹の場合は、たまたま運が良かっただけだよ」

 だめ。言葉が判らない。覚醒剤のせいで、言語中枢がいかれちゃったのかな。
 どうやら機能しているのは、聴覚神経に繋がる部分だけみたい。

「お願いしますよ。何でもしますから」
「じゃあ、今夜どうだ?」
「こんな時に、冗談はよしてください」
「判っているよ。そんなことしたら、真樹の旦那の敬に、風穴を開けられるよ。しか
し……素っ裸で、飛び降りるとは……、おや?」
「どうなさったんですか?」
「この娘……。性転換手術してるじゃないか」
「あ、ああ。言い忘れていました。その通りです。さすが先生、良く判りましたね」
「わたしは、その道のプロだよ。人造形成術による膣と外陰部だな」
「わたしと、どっちが出来がいいですか?」
「もちろん真樹の方に決まっているだろう。第一、移植と人工形成じゃ、比べ物にな
らん」
「そうですよね。どうせなら、その娘も本物を移植してあげたらどうですか?」
「免疫の合う献体がでなきゃどうにもならんだろ」
「でも、何とかしてあげたいです。あたしと敬がもっと早くに『あいつ』を検挙して
いれば、母親がああならなかったし、この娘がこうなることもなかったんです」
「それは麻薬取締官としての自責の念かね」
「この娘には幸せになってもらいたいです」
「そうだな……。それはわたしも同感だ」
「せめて……」
「いかん! 心臓の鼓動が弱ってきた。少し喋り過ぎた。治療に専念するよ」
「あたしも手伝います」
「薬剤師の免許じゃ、本当は手伝わせるわけにはいかないんだが、ここは正規の病院
じゃない。いいだろう、手伝ってくれ。麻酔係りなら何とかできるだろう」

 一体、何の話しをしているのだろうか。
 せめて目が見えれば状況がわかるのに。
 どうして何も見えないのかしら。真っ暗闇。

「脈拍低下、血圧も低下しています」
「強心剤だ! G−ストロファンチン。酒石酸水素ノルエピネフリン注射」
「だめです。覚醒剤が体内に残っています。強心剤が効きません! 昇圧剤も効果な
し」
「なんてことだ!」
「心臓停止寸前です。持ちません」
「胸部切開して、直接心臓マッサージするしかないが……」
「覚醒剤で麻酔は利かないですよ。ショック死します。とにかく、覚醒剤が効いてい
る間は、一切の薬剤はだめなんですから」
「わかっている!」

 緊迫した空気が流れているようだった。
 ビリビリとした震動が鼓膜を伝わってくる。

「人工心肺装置に血液交換器を繋いで、血液交換する。とにかく体内から覚醒剤を早
く抜くんだ」
「血液交換って……。彼女、bo因子の特殊な血液なんですよ。全血の交換となると、
B型でもO型でも、そのどちらを使っても、抗原抗体反応が起きる可能性があります
よ」
「O型でいい。一か八かに掛ける!」
「先生。ほんとうに大丈夫ですか?」
「やるしかないだろう! ちきしょう。生き返ってくれ!」

 ああ……。だめだ、また意識が遠退いていく。
 やっぱり、死んじゃうみたいだ。

(十一)回復

 意識が戻った。
 どうやらまだ生きている。
「気がついたようだね」
 ベッドサイドに、聴診器を首に下げている医者らしき男性がいた。
「ここは、どこですか?」
「私の父親が経営している産婦人科病院だよ」
「産婦人科病院?」
「そうだ。どうだい、気分は?」
 といいながら、脈を計っている。
「わたし、どうしたんですか? わたし自殺したはずですけど」
「奇跡的に助かったんだ。覚醒剤が体内に残っていて苦労したよ」
 覚醒剤……。
 そうだ!
 それから逃げ出すために自殺したんだ。
「どうして助けたのですか?」
「それが医者の役目だからだよ」
「生き返ったって、またやつらの元に連れ戻されるだけなんです」
「君を捕らえた組織のことは心配しなくてもいいよ。二度と君の前には現われないさ」
「どういうことですか?」
「これでも組織には顔が通っていてね。わたしの下で君を保護するといえば、誰も手
が出せなくなるんだ」
「ほんとうですか?」
「ああ、何も心配することはないんだ。だからもう自殺することもしなくていい」
「ありがとうございます」
 あ、そういえば。この先生。わたしのこと性転換者ってこと気づいてるわよね。こ
こ産婦人科だと言ったから、産婦人科の先生よね。
「あの……。先生は、わたしのこと……」
「ん……? ああ、性転換していることかい?」
 やっぱり、気づいてた。
 女性の身体を知り尽くしているから、性転換者を見抜く事は雑作ないよね。
「まあ、その道のプロだからね」
「ですよね……」
「ついでに言えば、君が少年刑務所を仮釈放で保護観察の身だったことも知ってる」
「どうして、それを?」
「あはは、君のことなら何でもお見通しさ。覚醒剤に溺れた母親と、その愛人で売人
の男を殺害したこともね」
「そんなことまでも……」
 その時、明人が凶弾に倒れたまま、引き裂かれていたのを思い出した。この先生な
ら知っているはずだ。
「先生。明人がどうなったか、ご存じないですか?」
「明人か……。君の旦那だったね。残念だが、彼は亡くなったよ。失血死だった」
「ああ……。わたしの明人……」
 わたしはどん底に突き落とされる感覚に陥り泣いた。
「安心しなさい。私の所にいる限り、すべてが丸くおさまる。何の心配もしなくとも
ごく普通の女性として生き、何不自由なく暮らしていけるよ。保証してあげよう」
「いったい……。先生は何者ですか? ただの産婦人科医じゃありませんね」
「私は、この産婦人科病院の当直医だよ。それ以上のことは知らない方が良い。もし
詮索してそれ以上のことを知れば、君はまた覚醒剤にまみれた裏の世界に引き戻され
ることになる。私を信じて黙ってついてくればいいんだ。いいね」
「わかりました。先生を信じます」
「よし、よし。いい娘だ。これから注射するけどいいね」
「注射?」
「覚醒剤だよ。君の身体は、覚醒剤に蝕まれている。短期間に多量を射たれたために、
脳神経組織内に、覚醒剤に感受する特殊な受容体ができてしまったんだ」
「受容体?」
「その受容体は、常に覚醒剤を必要としていて、胃が空になったらお腹が空くように、
覚醒剤に対する欲求反応を示す。判りやすくいえば、すでに覚醒剤中毒になっていて、
急に薬を絶つとひどい禁断症状が起きて、精神的障害を起こすというわけだ。だから
毎日、必要最低限の注射をして、その量を少しずつ減らしていく。すると受容体もそ
れにつれて退化していくんだ。受容体が消失すれば治療完了だ。わかるよね」
「理解できます」
「よし。じゃあ、射つよ」
「はい……」
 止血バンドを巻かれ、腕を消毒薬した後に、ゆっくりと静かに注射される。
 あ……。やっぱり違うなと思った。
 奴等は消毒などしないで、いきなりところ構わずに注射する。注射された箇所があ
ざになるのは、そのせいかなと思った。バイキンが入り込んだり、適切でない箇所だ
ったりするから。薬さえ効けばそれでいいのだろうけど。

 先生はベッドサイドに座ったまま、時計をみたり脈拍を調べたりしている。
「そろそろ、効いていると思うが、気分はどうかな?」
「気分はいいです。でも奴等のところで射たれた時は、意識朦朧になりました」
「それは、一時期に多量を射たれたからだよ。手っ取り早く覚醒剤漬けにするために
ね。意識朦朧となっているのを利用して、催眠術のように言いなりにすることができ
る。奴等は、そうやって自分の言いなりになる性奴隷や売春婦に調教していくんだ」
「ええ。奴等が、そんなこと言うのを耳にしました。母もそうでした。常套手段なん
ですね」
「ま、とにかくだ。治療として処方する分には今の量で十分だ。ほんの少し気分が良
くなる程度。禁断症状が起きないぎりぎりの線だよ」
「ぎりぎりということは起きる事もあるわけですね」
「ああ、その時は我慢してくれ。禁断症状といっても程度は軽い。君ならできるはず
だ。他の薬、精神安定剤なんかとの重複服用も厳禁になっている」
「わかりました」
「何も心配ない。とにかく今日はもう休みたまえ」
「はい」

(十二)女として

 それから数週間が過ぎ去った。
 毎日定期的に覚醒剤が注射されたが、徐々に分量は減らされているという。
 時々禁断症状に苦しめられたが、それもしだいに治まっていった。
 中毒患者の治療には、隔離され薬を絶たれ、拘束具で縛られる荒療治的な方法もあ
るそうだ。特に薬物使用期間が長期に渡って、完全に自制心を消失している時には、
もうそうするよりない。が、度重なる発作で精神が犯され、中毒は治っても精神病院
に生涯入院という場合もあるという。
 わたしの場合は、自らの意思で薬物からの脱却をはかる自制心が残っていた。だか
ら、あえて覚醒剤を遮断しないで、徐々に摂取量を減らしていく方式になった。
 それにしても、なぜ産婦人科病院にいるのだろう。普通なら精神病院が妥当だと思
う。先生も産婦人科医だと言った。覚醒剤とはまるで分野が違う。
 そういえば組織には顔が聞くといった。元の闇の世界に戻りたくなかったら、詮索
しない方が良いとも言った。一体何者なんだろうか……。
 疑問を抱いたまま月日が過ぎ去った。

 ある朝のことだった。
 ショーツが赤く染まっていた。
「なに、これ……?」
 それは膣から流れ出ていた。
 看護婦を呼ぶと、
「あら、はじまったのね。今、先生を呼んできてあげるわ」
 と、驚く様子もなく、それが当然のような顔をしていた。
 やがて先生がやってくる。
「やあ、はじまったんだってな」
「これは、どういうことですか?」
「月経だよ。女性なら、月に一度は巡ってくる生理だよ」
「生理?」
「まだ、気づかないかね。君の身体の中には、卵巣と子宮があるんだ。それが正常に
機能しはじめたというわけさ」
「訳がわかりません。いったいわたしの身体はどうなっているんですか」
「一つずつ説明してあげよう。ほぼ脳死状態で君が私の元へ運ばれて来た時、まだ脳
波があって生きていると判った。あらゆる処置を施して、蘇生に全力を注いだ。甲斐
あって生命を取り留めることができた。そして回復に向かっていった。そんな時、別
の脳死状態の女性の患者が現われた。君が性転換していることは知っていたから、ど
うせなら真の女性にしてあげようと思って移植をしたんだ」
「移植って?」
「脳死の患者から臓器を摘出して別の患者に移植できることは、君も知っているだろ
う?」
「ええ……」
「肝臓や腎臓などは、それを必要とする患者に移植された。そして女性器は、通常な
ら移植されることなくそのまま残されるのだが、たまたま偶然にも、君と免疫型が一
致した。その女性器を移植する事にした。妊娠し出産することのできる真の女性にね。
まず、人造的に作られた膣や外陰部をすべて一旦取り去った。そのままでは正常分娩
ができないからだ。人造膣や外陰部は胎児を通す産道にはならないのだ。柔軟性がな
く完全に破断してしまう。そして、別の女性から、卵巣や子宮、膣と外陰部などのす
べての女性器をそっくり移植した」
「それが、わたしなんですね」
「そうだ。女性器は正常に機能をはじめて月経が到来したというわけだよ。君は、も
う完全な女性に生まれ変わったのさ」
「完全な女性に……」

 涙が出てきた。
 嬉しくてではない、哀しくて泣いたのだ。
 今更、子供が産める身体になったとして、それがどうしたというの?
 もし明人が生きていれば、彼の子供を産めると心底喜んだろうが、もはやこの世に
はいない。
 そもそもわたしが性転換手術を受けたのは、わたしを本物の女性として抱きたいと
願った明人の希望を叶えてあげるためにしたことである。頼まれて女性ホルモンを飲
みはじめたのもそのためだ。子供を産むというような真の女性になることは頭になか
った。ただ明人を満足させる事ができればそれで十分だったのだ。女性の心を持って
いることと、男性の身体でいることを疎ましく感じていたのは確かだったから、性転
換を決断したのである。
「さあ、それじゃあ。生理の手当の仕方を教えますからね。まず汚れたショーツを脱
いで」
 看護婦から生理ショーツやナプキンの使用方法の説明を受けた。
 男性がそばにいると思うとやはり恥ずかしい。しかし相手は産婦人科医だからこん
なことは日常茶飯事、気にもとめていないといった表情で、窓辺に寄り掛かって外を
眺めている。時々腕時計を見ては気にしている風であった。わたしに、まだ何か用事
があるみたいだ。

(十三)分娩

「先生。そろそろ、分娩室にお越しください」
 看護婦が病室に呼びに来た。
「どこまで進んでいる」
「80%です」
「そうか、もうすぐだな……」
 と言いながら視線をわたしに移した。
「丁度良い機会だ。響子君。分娩に立ち会いたまえ」
「分娩ですか……遠慮します」
「いいから、きなさい!」
 先生に無理矢理病室を連れ出されて分娩室へ。
 腕力では男の先生にはとうてい適わない。ぐいぐいと引っ張られていく。
「痛い、痛い! 先生、痛いです。判りましたから、引っ張らないでください」
 手を離してくれた。
「もう……。あざができちゃう」
「ああ、悪かったな」
 手術見学用の白衣を着て、分娩室に入る。
 分娩台の上に足を大きく開いた状態で、女性が寝かされている。そのまわりを医者
や助産婦らしい人々が忙しなく動いている。
「この娘はね。君と同じ性転換手術を受けた女性だよ」
「う、うそでしょ」
「嘘を言ってどうなる。ほんとの事だよ。この娘は生まれついての性同一性障害者で
ね。とある会社の健康診断で、女性ホルモンを飲んで胸が膨らんでいた彼女に出会っ
た。免疫型の一致する脳死患者が出た際に、手術を受けるかどうか尋ねると、即答で
お願いしますと言った。早速手術してあげ、戸籍変更の手続きもして、本当の女性に
生まれ変わった。そして見合いをさせて結婚させ、妊娠した。そして出産のためにこ
こにいる」
 信じられなかった。妊娠し出産することのできる完璧な性転換手術。それを目の当
たりにしている。先生の話しが本当なら、まったく同じ手術が施されたのなら、わた
しは今の彼女と同じように子供を産むことができるのか?

「陣痛がはじまってどれくらいになる?」
「約十四時間です」
 わたしが入室してかれこれ四時間、分娩は一向に進んでいないように見えた。
「やっぱり性転換手術してちゃ、無理なんじゃないですか?」
 あまりにも長いので心配になって尋ねてみた。
「なあにこれくらい、初産ならどんな女性でも経験することだよ。赤ちゃんの頭は大
きいからね、骨盤腔のあたりで引っ掛かっていて、狭い産道の中どうやって抜け出そ
うかと、一所懸命に体位を変えながら、出られる場所を探しているんだ。赤ちゃんの
頭骨は隙間だらけで柔らかい、そのままなら狭い骨盤腔を通れなくても、頭を変形さ
せてまでして、そこを通り抜けようとする。しかし初産の人達は緊張しているから、
産道も緊迫していて中々降りてこられないんだ。だからああしていきんで押し出して
やろうとしているんだ」
「先生は手出ししないんですか? 産婦人科医なんでしょ?」
「出産そのものは助産婦があたって赤ちゃんを取り上げるし、産まれた後の赤ちゃん
は、小児科医の担当だ。わたしの役目は、妊娠から分娩台に上がるまでの、胎児と母
体の健康管理が本来の仕事でね。分娩中は母体と胎児に異常がないかを見ているだけ
だよ」
「出産って、ほんとうに苦しい作業なんですね」
「そうだよ。しかし人類創世以来すべての女性が体験してきたことだよ。確かに分娩
中は苦しいが、胎児が産まれ出た瞬間には、至極の絶頂感があるそうだよ。だから二
人目・三人目を産みたくなる」
「でしょうね。人類が存続発展するためには、途中死亡を考慮にいれて女性達が、そ
れぞれ三人の子供を産まなければだめなんですよね」
「道を歩いてて急に大がしたくなって、我慢に我慢を重ね、失禁寸前にトイレに駆け
込んで無事排便できて空になった時、実に気持ちが良い。あれに似ているんじゃない
かな」
「もう……汚い話ししないでください」
「汚くはないよ。排便も出産も動物の自然な生理の一つだと言いたかったんだ。人間
として動物として、生きるための生理現象には、生命が地球上に発生して以来、何十
億年もかけて自然淘汰されてきたんだ、何一つ無意味な事はない」
「分娩の苦しみが、親子関係をスムースにさせると聞いたことがあります」
「その通り、こんなにも苦労して産み出したんだ。どんなことがあっても、その子を
ぞんざいにはできるはずがない。そしてそんな女性の一人が君なんだ」
「……」
「おお! そろそろ出てくるぞ」
 女性の膣から、胎児の頭部が出てきていた。
「うーん……どうかな……」
 先生は妊婦の足元に歩み寄り、その頭部の出かけているのをじっと監察している。
そしてやおら、頭部が押し広げている、外陰部のあたりを触診しはじめた。
「よし、大丈夫だ。会陰切開しないでも済みそうだ」
 そう言うとわたしの所に戻ってきた。
「えいんせっかい、ってなんですか」
「ああ、膣と肛門の間のところを会陰というのだが、分娩の際に赤ちゃんの頭部が大
きすぎたり、外陰部の柔軟性が足りなかったりすると断裂することがあるんだ。そう
ならないように、わざとメスを入れて切開してやると、すんなりと赤ちゃんが出やす
くなる。後で糸で縫わなければならないが、断裂した場合より治りが早いんだ。医者
によっては、全員を会陰切開してしまうのもいるな」
「先生はなさらないのですか?」
「ああ、産後の肥立ちにかかわるからね。切らないで済めばそれだけ治りも速くなる
し、二度目以降の出産にはすんなり胎児が出てこれるようになる。一度切開しちゃう
と今後も切開しなくてはならなくなる。縫合痕は大概肉が盛り上がって、組織が固く
なってしまうからね、次回の分娩の妨げになるんだ」
 先生は妊婦から目を離さないようにしながら喋っている。急激な容体変化を見落と
さないようにしているのであろう。
「君だって、最初の性転換術を受けた時には、拡張具を使って膣拡張をやっただろ
う?」
「ええ……」
「あれと同じだよ。はじめて拡張具を使う時は、どんなに細いやつでもかなり痛い。
慣らして慣らして、痛みを堪えながら少しずつ太くしていく。やがて一番大きなので
も自由に出し入れできるようになる。それと似たようなものさ。一度大きなものが通
れば、二度目以降にはすんなりいく。初産はそれこそ、陣痛開始から丸二日もかかる
時があるが、経産婦ならたった六時間くらいで出てくる」

「さあ、もうすぐよ。大きくいきんで、力一杯に。最後の力を振り絞って」
 助産婦の声も大きくなっていた。意識朦朧とする妊婦に声掛けして、頑張らせてい
るのだ。
「う、うーん」
 妊婦が、力一杯いきむと、
「おぎゃあ! おぎゃあ!」
 部屋中に響き渡る元気な産声と共に、赤ちゃんが生まれ落ちた。
 脱力感でぐったりとしている女性。
 呼吸が楽に出来るように鼻腔に残った羊水の吸引、へその緒の処置がなされて、赤
ちゃんは付着した血液などを落とすために沐浴に連れて行かれる。
 先生が再び、妊婦のところに行って、後処理をはじめていた。
「もう少し我慢するんだよ」
 やさしく声を掛けている。
 膣からずるずると何かが出てきた。
 たぶん胎盤だと思った。妊娠から今日まで、胎児に栄養補給と呼吸を助けてきた胎
盤も、赤ちゃんが出たことで用がなくなり、排出されたのだ。
「よしよし。もう大丈夫だ。すべてが終わったよ。お疲れさま」
「先生。ありがとうございます」
 しかし不思議なものだ。しっかり子宮に張り付いていたはずの胎盤が、分娩を境に、
大出血を起こす事もなく、跡形もなくきれいに剥がれ落ちてくるのだから。じつに巧
妙な仕組みで、一体どこから指令がでているのだろうか?
 やがてきれいになった赤ちゃんが妊婦に手渡される。
「はい。女の子ですよ」
「可愛い……。あたしの赤ちゃん……」
 幸せ満面の表情の彼女。あれだけ苦しんだのに、赤ちゃんを抱いたことで、すべて
が水に流された感じだ。
 こっちまで、なんか温かものが込み上げてくる。
 しばらくすると赤ちゃんは、引き離されて保育室へと運ばれていった。
 彼女もおむつと丁子帯をあてられ、分娩台から降ろされて病室に戻った。

「どうだ。分娩に立ち会った感想は? 同じ女性として、何か感じ取れるものはなか
ったかい?」
「正直に感動しました。生命の誕生がこんなにも真剣勝負で、自分もこうやって生ま
れてきたんだと思うと、改めて母の愛情の深さを感じました」
「その通りだよ。母の愛情を一心に受けて人は生まれてくる。その一端を君も担うこ
とができるんだよ」
 わたしの心のどこかに、将来もう一度恋をするような事があったら、産んでもいい
なという思いが生まれていた。
「わたし、本当に子供を産む事ができるのでしょうか?」
「それは保証するよ。何も心配しないでもいい。君は、正真正銘の女性に生まれ変わ
ったんだから」
「わかりました。もう一度考えなおしてみます。将来の事」
「それがいい。君はまだ若いんだ。先は長い。じっくり考えて答えを出すんだね」
「はい……」
「さあ、病室に戻ろうか」

(十四)赤ちゃんのこと

 それから数日後。
 わたしは、かの女性の病室を尋ねることにした。
 彼女が退院する前に、一度会っておきたかった。
 彼女は、丁度赤ちゃんを抱いて授乳させているところだった。
「こんにちわ。お邪魔します」
「聞いているわ。わたしと同じ性転換手術した女性が入院しているって。あなたね」
「はい。そうです」
 赤ちゃんは、一心不乱にお乳を飲んでいる。時々、その乳房を軽く揉むような仕草
をみせるのは、お乳が出やすくするため本能的にやっていることなのか。
「ちゃんとお乳が出るんですね」
「当たり前よ。この娘を産んだ母親なんだから」
 十分飲み終えたのか、乳首から口を離した赤ちゃん。それを見計らったように、彼
女は抱き方を変えた。
「赤ちゃんは、お乳と一緒に空気も飲み込んじゃうの。その空気を胃から追い出さな
ければならないけど、自分でげっぷを出せないから、こうやって縦だっこして背中を
たたいて、出してあげないといけないの」
「へえ、そうなんだ」

「あの……。わたしに、抱かせていただきませんか?」
「どうぞ、構いませんよ」
 快く引き受けてくれた。そっと大切に受け取って抱き上げる。
 一瞬、とまどったような表情をした赤ちゃんだったが、やさしく声をかけてあやす
と、安心したような顔に戻った。
 じっとわたしを見つめている。
「可愛いでしょう?」
「ええ、とっても。さっきからじっと見つめてるわ」
「それはね。赤ちゃんは本能的に、黒くて丸いものに反応する習性があるのよ。実際
にそれは母親の瞳になるんだけどね。だからじっと見つめ合う格好になるわけよ」
 そういえば、鳥の雛が親鳥の口先の色に反応してそれを突つく習性があって、それ
が餌をねだる行為になっていうと聞いたことがある。
 指を頬に軽くあてると、それを吸おうとして顔をそちらに向ける。反対を触るとま
たそっちに向こうとする。お乳を飲んで満足しているはずだが、頬に何か触ると反射
的にそれを吸おうとするのだ。
 足の裏を触ると、足指を曲げる動作をする。くすぐったいからではなく、そのもの
を握ろうとする反射だそうだ。
 やがて、小さな口を精一杯開けてあくびをすると、そのまますやすやとわたしの腕
の中で寝入ってしまった。
「あは……眠っちゃった。可愛い寝顔」
「それは、あなたを母親だと思って安心しきっているからですよ」
「母親?」
「赤ちゃんが眠りにつくには、心身ともにリラックスできる状態じゃないと、なかな
か寝付けないのよ。母親に抱かれているという接触的安堵感、そしてやさしいその表
情と声掛けがあって、自分は見守られているんだと本能的に感じ取って、はじめて安
心して眠る事ができるわけね」
 そっと静かに、傍らのベビーベッドに寝かせて布団を掛けてあげる。
「あなたには、しっかりとした母性本能が身についているわ。これなら子供を産んで
も大丈夫よ」
「そうかしら……」
「たった今、この娘が証明してくれたじゃない」
「それは、そうみたいだけど……」
「自信を持ちなさいよ。大丈夫、あなたならちゃんと母親になれわよ」

 彼女は、わたしが子供も産める女性になるために、本当の性転換を受けたけど、母
親になる自信を持てないと思っているようであった。

「実はわたし、手術は二度めなんです」
「二度め?」
「最初は、人工的な造膣術を施しただけの手術で自分の意思で行いました。二回目の
今度は、実は自殺して意識不明の間に先生が、本当の女性にする手術をしてくれまし
た。そういうわけだから、わたし最初から、子供を産む事なんか考えもしなかったん
です」
「へえ、自殺したんだ……。何か、いろいろと深い事情がありそうね。よかったら話
してくださらないかしら? わたしでも相談にのってあげられることもあるかも知れ
ないから」
 彼女は、わたしと同じ性転換者であり、悩みについても共通のものがあると思った。
 わたしは正直に話した。

「そうか……。大変だったわね。覚醒剤は、人生を狂わせる悪魔の薬。一度その毒牙
にかかったら二度と抜け出せない。わたしの研究所でも、こっそり持ち出したり、使
用量を偽ったりして、試しに使用してみる人が結構いるのよね。で、抜け出せなくな
って、さらに持ち出して発覚してくびになってる。結局抜け出せなくなって廃人にな
ってしまったのを何人も知っているわ」
「あなた、覚醒剤に関わっているの?」
「だって、製薬会社の研究所員ですもの。覚醒剤どころか、大麻・麻薬、今はやりの
合成麻薬MDMAだって扱っているわよ。でも、わたしが担当しているのは、女性ホ
ルモンとか性転換薬とかいった分野よ。つまり、あなたとわたしに直接関わるホルモ
ン剤の研究してる」
「性転換薬なんてできるの?」
「できるわよ。原理は判ってるし、調合方法も完成しているの。ただ、原料がなかな
か手に入らなくてね。苦労しているわ。もう一つの研究テーマである、ハイパーエス
トロゲンとスーパー成長ホルモンは完成してる。先生に臨床実験をお願いしているわ」
「なにそれ?」
「答える前にこちらから質問するわ。あなた最初の性転換手術する時、当然女性ホル
モン飲んで胸膨らんでいたでしょう?」
「ええ、もちろん」
「それなりになるのに、何ヶ月かかった?」
「わたし、思春期にはじめたからAカップになるのに二ヶ月、半年でCカップだった
わ」
「へえ、早いのね。わたしなんかAカップには半年かかったし、Bカップ以上にはな
らなかった。もっとも今は授乳のために臨時的にDカップくらいにはなってるけど。
で、本題……。さっきのホルモン剤は、たった一晩で立派な乳房や女性的な身体を作
り上げちゃうという夢の薬なの」
「ほんとうなの?」
「ほんとうよ」
「信じられないわ」

「話しは戻るけど、女性ホルモンだって、男性が飲みはじめて半年以上も経てば、睾
丸が萎縮して、二度と元に戻れなくなる。一生飲み続けなければならないという点で
は、覚醒剤みたいなものね」
「それはそうだけど……。でも、わたし達は飲まなくてもいいんでしょ?」
「当たり前よ。卵巣があるんだもの。子宮もね」
「でも反面、毎月生理になるわ」
「それだからこそ、女性の喜びもあるわ。子供を産めるんだもの」
 と言って、ベビーベッドの赤ちゃんに目を移す彼女。
 実際に現実を目の当たりにしていると、彼女の言い分が正しいように感じる。

(十五)新しい門出

 それからしばらくして、彼女は赤ちゃんを抱いて退院していった。
 わたしの方も覚醒剤からの脱却のプログラムが終わりを告げようとしていた。
「よおし、良く頑張ったね。もう覚醒剤はいらないよ」
「でも、量を減らしてきたとはいえ、完全にやめても大丈夫でしょうか?」
「その心配はいらない。ここ一週間、覚醒剤は射っていないからね」
「え? でも昨日まで注射してたじゃないですか」
「注射したのは、ぶどう糖だよ。いわゆる精神治療の一貫だよ。とっくに身体的覚醒
剤からは脱却できていても、精神的にはなかなかその不安を取り除くことができない。
特に覚醒剤はそうなんだ。だから覚醒剤と偽ってぶどう糖を打ち続ける。その後で事
実を話してあげると、納得して安心できるというわけさ」
「そうでしたか……」
「ところで、退院ということになるのだが、住むところも働くところもないんだろ?」
「はい。祖父がいるんですが、裁判以降連絡がありません。たぶん勘当されていると
思います。そうでなくてもこの身体ですから戻るに戻れません」
「だろうな……。そこでだ。君にいい就職先を紹介してあげようと思う。社員寮もあ
るから住む場所も心配しなくていい」
「ほんとうですか?」
「袖触れ合うも多少の縁というからな。あ、いかがわしい会社じゃないからな。安心
したまえ」
「ありがとうございます」
「これが紹介状だ。期日は今日なんだが行ってくれないか。相手も忙しい身でね。他
に時間が取れないんだ」
「でも、着ていく服がありません……」
「うん。身一つで入院したからな。服もこちらで用意してあるよ。後で看護婦が持っ
て来てくれることになっている」
「何もかも……すみません」


 こうして看護婦が用意してくれた、リクルートスーツ一式で身を固めて、その会社
へと足を運んだ。
 駅近くの一等地に自社ビルを抱える一流の製薬会社だった。
 それだけでも驚きなのに、まさか……、二次面接で社長室を訪れた時、そこに先生
が座っているなんて、本当に驚いた。
 わたしは受付嬢としての辞令を頂き、早速その日から家具付きの社員寮に入る事が
できた。入社祝いという事で、先生がポケットマネーを出してくれた。そのお金で衣
料品や日用雑貨品を買い揃える事ができた。
 夢のような日々が過ぎていく。
 さらには先生の尽力で、戸籍の性別変更が認められて、磯部響子という正真正銘の
女性になった。男性との結婚もできるようになった。
 会社の顔である受付嬢の仕事は大変だったが、やりがいもあった。
 十六歳の時から、飲みはじめた女性ホルモンのおかげで、完全な女性のプロポーシ
ョンを獲得して、社内一の美人ともてはやされた。


 そしてある日、倉本里美というわたしより美しい女性が入社してきた。
 なんと! わたしと同じく先生から性別再判定手術を受けていたのだ。
 しかし、ほとんど強制的に知らないうちに手術を施されという。
 聞けば、あの研究所員が発明したという、ハイパーエストロゲンとスーパー成長ホ
ルモンを注射されて、たった一日で豊かな乳房になってしまったというじゃない。あ
の話しは、ほんとだったんだと再認識した。
 そういうわけで、女性に成り立てて、まったく何も知らなかった。普通の性転換者
は、女装や化粧を身に付けて、しっかりと女性の姿でいることに自信を持てるように
なってから、手術を受けるものだ。
 化粧の仕方も、生理の手当てすらも知らない初な女性。それが里美だ。
 わたし達は、一緒に暮らすようになって、女性としての教育を里美に教え込んでい
った。もともと素質があったのか、彼女はまたたくまに女性的な言葉や仕草を修得し
ていった。
 わたしより二つ下で、共に生活しているうちに妹のように感じるようになっていた。
里美の方も、わたしを姉のように慕っているようだった。里美は本当に可愛い。

 さらに渡部由香里が妹に加わった。
 この娘は心身共に完璧な女性だ。その証拠に先生の息子で会社の専務である、英二
さんと大恋愛し婚約するまでになった。潔白の精神の下に清い交際を続けたあげくの
ゴールだ。わたしも明人という旦那がいたにはいたが、それはセックスという行為で
結ばれたものだった。わたしと明人との愛をはるかに超越した、男女の真の愛の姿と
いうものを感じさせてくれる。
 他人も羨むほどの仲睦まじい関係なのだが、由香里の尻に敷かれている英二さんが
情けない。会社では営業成績断トツの営業マンで、威風堂々の専務なのであるが、由
香里の前では尻尾を振る飼犬に成り下がってしまう。
 しかもこの二人、お酒にめっぽう強いのだ。うわばみと呼んでもいい。
 英二さんがプロポーズした食事会のあの日。食事の後、二次会・三次会と称して飲
み歩いたのだが、わたしと里美がダウンし、わたしのアパートに戻っても、自宅にキ
ープしていたボトル五本を空にするまで、飲み明かした。しかも翌朝、二日酔いでふ
らふらのわたしと里美を尻目に、まったく平気な顔で出社していた。
「さあ、今夜は五次会だよお」
 とか言って、酒と肴をごっそりと買い込んできたのには、さすがに参った。
 婚約したのがよっぽど嬉しかったのだろうが、いい加減にしてほしいわよね。
 なお念のために言っておくと、先生の手による性転換の実施日はわたしの方が早い
が、女装歴については彼女の方が長い。つまりわたしが仮出所した日より以前に、睾
丸摘出の手術をされたらしい。

 そして桜井真菜美……。
 この娘は十六歳の高校生。
 わたしたち三人とは違って、正真正銘の女の子。
 自殺して脳死状態に陥ったが、さる男の脳を移植されて生き返った。
 思えば、この男の捕物帳における囮役は、男性経験豊富なわたし以外には考えられ
なかった。先生もそれを考慮して決定してくれたようね。
 あまりにも悲惨なわたしの過去は、妹達には一切秘密にしている。
 脳神経細胞活性化剤と女性ホルモンによって、脳の再分化が起こり女性脳に生まれ
変わったのだが、真菜美ちゃんは記憶喪失状態。しばらくは元の男性の意識体がバッ
クアップしてくれていたようだが、今は深層意識の奥底に潜り込んで表には出てこな
いそう。
 これから体験し記憶する事が新たなる人格形成となる。
 わたし達は、この娘の成長を温かく見守る事にしている。

 これまでのわたしは、波乱万丈というめまぐるしい人生模様が繰り広げられていた。
 わたしの人生は、常に性行為という男女の絡みが付きまとっていた。
 覚醒剤に翻弄された人生。わたしと明人の母親。わたし自身も危うくその毒牙に犯
される寸前にあった。
 血液型では、両親を仲違いさせる原因となったが、明人の命を救った。

(十六)一同に会す

「お姉さん、英子さんがお呼びよ」
 その日の仕事を終えて、私服に着替えていると、わたしの事をお姉さんと慕う里美
が、知らせに来た。
「英子さんが?」
 英子と言えば、会社の副社長であり、わたしを覚醒剤から解き放し性転換手術によ
って真の女性にしてくれた産婦人科医にして、前任の製薬会社社長黒沢英一郎氏のこ
とだ。真菜美ちゃん事件の後に、性転換薬を飲んで女性として生まれ変わった黒沢英
子、その人だ。
「英二さんのとこにいた由香里も呼ばれたらしいわ」
「姿が見えないと思ったら、英二さんと一緒だったのか。お熱いわね」
「わたしも呼ばれてるから、三人娘揃いぶみね。何かあるのかなあ」
「以前英二さんに三人揃って食事に呼ばれた時は、由香里へのプロポーズだったわよ
ね」
「もしかしたら、わたしかお姉さんのどちらかにお見合いの話しだったりしてね」
「お馬鹿言わないでよ。そんなことないわよ」
「うーん……。だとしたら、順番からしてお姉さんが先ね」
 聞いてない……。

 副社長室に入ると、先に由香里と英二さんがいた。そして見知らぬ青年が一人。
「全員揃ったようね……」
「親父……じゃなかった。英子、一体何のようだよ。俺達を呼び出して」
「響子さんに、お見合いの話しを持ってきたの」
「ええ? わたしがお見合い?」
 わたしは驚いた。
「ね、やっぱりでしょ」
 と、里美がわたしの小脇をつつく。
「申し訳ありません。以前にもお話ししました通り、わたしは結婚する意思がありま
せん。お断り致します」
「ええ? どうしてよ。いい話しじゃない」
 わたしは、英子さんの行為が納得できなかった。わたしの過去をすべて知っていて、
その気持ちは理解してくれていると思っていた。明人以外の男性とはもう二度と交際
するつもりはない。
「英子さんと、その男性の方とは、どういう関係なんですか?」
 相手は副社長なのに、わたし達は個人的な時間には英子さんと呼んでいる。今は就
業時間外だから構わない。
「実はこのひと、あたしの長男といったところね」
「長男って……。まさか実は元は女で、性転換したってわけじゃないだろうな」
「まさか。あたしは、女にする手術はやるけど、男にする手術はやらないの」
「だったら何だよ」
「このひとは、脳移植されて生き返ったの」
「脳移植?」
「そうよ。身体は無傷だけど脳死状態に陥った患者Aと、身体は死んでしまったけど
まだ脳は生きていた患者B。患者Aの身体に患者Bの脳を移植して蘇生させたのよ。
戸籍的に患者Aが生き返って、患者Bは死んだことになってる。身体は患者Aだけど、
心は患者Bなの」
「真菜美ちゃんと同じ事をなさったのですね」
 そういえば真菜美ちゃんは、呼んでいないようだ。結婚とかいう話しにはまだ早す
ぎる。もうじき十七歳のまだ子供だ。
「そうなの、そのまま放っておけば二人とも死んでいたけど、脳移植で片方だけを生
き返らせたの。念のために二人とも男性よ」
「それで、生き返ったその人とわたしを一緒にさせようというのですね」
「その通りです。一応我が社の営業部で働いてもらっているわ。年齢的に響子さんに
ぴったりだから、お見合い相手にどうかとお呼びしたの。いきなりの直接面談でびっ
くりしたかもしれないけど。響子さんにはとってもいいお話しよ」
 とんでもないわ。
 いきなり見ず知らずの相手となんか……。
「何度も申しますが、わたし結婚する意思がありませんから」
 すると今まで黙っていた、その青年が口を開いた。
「響子、意外に冷たいんだな」
「あなたに響子なんて呼びつけにされる筋合いはありません」
「そう言うなよ。響子というのは、俺がつけてやった名前じゃないか」
「ええ?」
「俺の母親の名前だ。忘れたか? ひろし」
「ひろしって……。そ、その名前をどうして? ま、まさか……」
 その名前を知っている限りには、わたしの過去の事情を知っているということ。響
子とひろしとが同一人物だと知っているのは……。そして母親の名が響子ということ
は。
「なあ、生涯一緒に暮らすから、性転換して俺の妻になってくれと言ったよな」
「う、うそ……。まさか……明人?」
「ああ、そうだ。俺の名は、遠藤明人。祝言をあげたおまえの夫だ。もっとも今は柳
原秀治って名乗っているけどな」
「で、でも。英子さん、明人は死んだって……」
「あれからすぐに臓器密売組織に運ばれてきてね。あたしが執刀医になったのよ。で
も脳が生き残っていたのよ。明人のボディーガードの一人が、頭部を射ち抜かれて脳
死になったのが同時に運ばれて来ていたから、二人から一人を生き返らせたわけ」
「じゃ、じゃあ。明人の脳を?」
「その通りよ」
「ほ、ほんとに明人なの? 担いでいるんじゃないでしょう?」
「何なら俺だけが知っているおまえの秘密を、ここで明かしてもいいんだぞ」
「それ、困るわ……」
「なら、俺を信じろ。嘘は言わん。俺は正真正銘のおまえの夫の明人だ」
 ああ……。その喋り方。
「明人……」
 わたしは、明人の胸の中で泣いた。
 明人はやさしく抱きしめてくれた。
 身体こそ違うが、わたしをやさしく見つめる目、その抱き方。間違いなく明人だ。
 明人がわたしのところに帰って来てくれた。
 ひとしきり泣いて、落ち着いてきた。
「でもどうして今まで黙ってたの?」
「それはね。脳移植自体は成功したけど、身体と精神の融合がなかなか進まなかった
のよ。身体も脳も生きているけど、分断したままという状態が長く続いたの」
 英子さんが説明してくれた。
「俺は、生きていた。身体と融合していないから、真っ暗の闇の中でな。そしてずっ
とおまえのことを考えていた。おまえを残しては行けない。もう一度おまえに会いた
い。その一心だった。その一途な願いがかなってやがて俺の耳が聞こえるようになっ
て、さらに目の前が開けて来た。身体との融合が進んで耳が聞こえ目が見えるように
なったんだ。俺は生きているんだと実感した。だとしたらおまえを迎えにいかなきゃ
と思った。その思いからか、急速に回復していった。そして今ここにいる」
「明人、そんなにまで、わたしのことを思っていてくれたのね」
「あたりまえだろ。おまえを生涯養ってやると誓ったんだからな。それとも姿形が違
うとだめか?」
「ううん。そんなことない。明人は明人だよ。ありがとう。明人」
「ああ、言っておくけど……。俺は、今は柳原秀治なんだ。柳の下にドジョウはいな
いの柳に、そうげんの原、豊臣秀吉の秀、そして政治経済の治と書いて柳原秀治。覚
えていてくれ」
「柳原秀治ね」
「ああ。そうだ。秀治と呼んでくれていい」
「判ったわ。秀治」

「あのお……。お取り込み中、申し訳ありませんけど、わたし達は何で呼ばれたんで
しょうか?」
 里美が口を開いた。
「ああ、あなた達の事すっかり忘れていたわ。あはは」
「もう……。ひどいです。でも恋人同士感動の再会の場面に居合わせて良かったです」
「あなた達を呼んだのは、この二人の結婚式を由香里と一緒に挙げようと思ってね」
「え?」
 わたしは驚いた。
 明人……じゃなくて、秀治と結婚式?
 すると秀治がわたしの肩に手を乗せて言った。
「昔の俺、つまり明人と響子は祝言を挙げたけど、婚姻届は出していない。おまえの
戸籍は男だったからな。しかし今のおまえは女になってるし、俺は柳原だ。だから改
めて結婚式を挙げて正式に結婚しようと思う。もちろん婚姻届を出してな。いいだろ?
響子」
「ええ、秀治がそういうなら」
 嬉しかった。
 もちろん反対するわけがない。
 秀治の本当の妻になれるのだ。願ってもないことだ。
 また涙が溢れて来た。
「というわけで、お願いします。響子との結婚式を、英二さんと由香里さんと一緒に
挙げさせてください」
 秀治が頭を下げた。
 他人に頭を下げるなんて、明人だったら絶対にしなかった。組織の力でねじ伏せて
従わせていた。しかし、今は柳原秀治という一介の人間でしかない。
「もちろんですよ。ねえ、英二、構わないでしょ」
「あ、ああ。おまえが良ければな」
「一緒に幸せになりましょう。響子さん」
 由香里がわたしの手を握って微笑んでいる。
「ありがとう、由香里。一緒に」

「あの……。わたしには? お見合いの話しはないんですか?」
 里美が遠慮がちに質問している。自分だけのけ者にされたくないみたいだ。
「ああ、ごめんなさい。今、英二と検討しているからもう少し待ってくれる?」
「じゃあ、いるんですね? お見合いの相手」
「いますよ。取引先の社長のご子息でね。素敵な方よ。受付けやってるあなたにぞっ
こんでね。父親を通じて社長だった時の、あたしに縁談を持ち掛けてきたのよ。ただ、
あたしがこんなになって、前社長失踪ということになっちゃったから、今中断してる。
でね、英二にもう一度、先方にこちらから話しを持ち掛けているところよ」
「やったあ! わたしも結婚できるのね。できればわたしもお姉さんと一緒に結婚式
挙げたいな」
「それは無理よ」
「どうして?」
「あなたにはご両親がいるじゃない。まずその説得が先なんじゃない? 女性に生ま
れ変わったこと、まだ話していないんでしょ?」
「そうだった……」
「あたしはね。みんなに幸せになってもらいたいの。誰からも祝福されて結婚しても
らいたい。親がいるなら式にも出席して欲しい。わかるでしょ。だから里美はご両親
に会って今の自分を正直に話すのが先決よ。そうしたら、その人を紹介してあげるわ」
「でも……。説得できるかな……。それにわたしが息子だったなんて信じてくれるか
しら」
 里美が、泣きそうな顔をしている。
 そんな顔を見るのはわたしだって辛い。
 里美は、元から十分女性として通用するほどのきれいな顔していた……らしい。直
接見たわけじゃないから……上に、ハイパーエストロゲンで、今では同じ女性でさえ
ため息を覚えるほどの社内一の美人受付嬢になっている。そんなにも美しい女性が目
の前に表われて、あなたの息子です、と告白されてもとうてい信じてくれないだろう
と思う。
 わたしと由香里が、段階的に女性への道を踏んできたのに対し、里美はいきなり突
然女性ですものね。未だに男性と女性の境界線にあって、完全には女性には成りきっ
ていない。それが両親への告白に踏み切れないジレンマになっているみたい。
 はやく割り切って、精神的にも完全な女性になってしまえばいいのにね。
 英子さんも罪なことしたものね。
「いいわ。わたしが一緒に、ご両親のところに付いていってあげる。真実を告白しま
しょう」
「いいの?」
「あたりまえよ。妹一人だけで行かせるわけにはいかないわ」
「ごめんね。本当はあたしも付いていってあげたいけど、あたしの両親と親族との打
ち合わせがあるから……」
「ありがとう、由香里。気持ちだけで十分よ。わたしは、お姉さんさえ付いて来てく
れれば大丈夫だから」

「あははは!」
 突然、英子さんが高笑いした。
「なーんてね……。実は、里美さんのご両親もここに呼んであるの」
「ええーっ!」
 今度は里美が目を丸くして驚いている。
「倉本さん。お入り下さい」
 英子さんが応接室に向かって声を掛けると、その人達が入って来た。
 そして里美の方をじっと見つめながら言った。
「やあ、元気そうだね。里美」
「ちっとも連絡してこないから、心配してたのよ」
 まだ紹介していないが、両親は里美がすぐに判ったようだ。何しろ母親と里美がそ
っくりだったのだ。
「パパ! ママ!」
「なにも言わなくてもいいわよ。みんな英子さんからお聞きしたから」
「ママ……」
 そういうと里美は母親に抱きついて泣き出した。
「えーん。本当は逢いたかったんだよ。でもこんな身体になっちゃったから……寂し
かったよー」
 まるで子供だった。
 パパ・ママなんて呼んでるから、笑いを堪えるのに苦心した。
 どうやら両親に甘えて育ったようね。道理でわたしをお姉さんと慕ってついてくる
理由が今更にしてわかったような気がする。
「泣かなくてもいいのよ、里美。ママはね、里美が女の子になって喜んでるの」
「え? どうして?」
「ほんとは女の子が欲しかったの。だから産まれる時、里美という名前しか考えてな
かったのよ。結局男の子だったけど、そのままつけちゃったの」
「でも、仁美お姉さんがいるじゃない」
「実をいうと仁美は、私達の子供じゃないんだ。パパの兄さんの子供なんだ。母親も
すでに亡くなっていたからうちで引き取ったんだ」
「先に癌で亡くなった伯父さん? そのこと、仁美お姉さんは知ってるの?」
「結婚する時に教えたわ。びっくりしてたけど、納得してくれたわ。わたしが産んだ
子じゃないけど、二人を分け隔てたことないわ。ほんとの姉弟のように育ててきたつ
もりよ」
「うん。知ってる」
「それにしても、ほんとうに奇麗になったね。もう一度近くでじっくりと顔を見せて
頂戴」
 見つめ合う母娘。
「えへへ。ママの若い頃にそっくりでしょ」
「ほんとだね、そっくりよ。だから入って来た時、里美だってすぐに判ったわ」
 そっかあ……。
 里美は母親似だったんだ。
 それにしても良く似ている。
 わたしや由香里も母親似だし、英子さんもそうよね。
 男の子を女にしたら、みんな母親に似るらしい。
「でも、わたしが子供を産んでもママとは血が繋がっていないよ」
「そんなこと気にしないわよ。里美は、ママがお腹を傷めて産んだ子。その子が産ん
だ子供なら孫には違いないもの。里美はママと臍の緒で繋がってたし、里美の子供も
やはり臍の緒で繋がる。母親と娘は血筋じゃなくて、臍の緒で代々繋がっていくわけ
よ。そう考えればいいのよ。でしょ?」
「うん、それもそうだね」
 母親はやさしく包みこむように里美を諭している。
 臍の緒で代々繋がっていく。
 そういう考え方もあるのか……感心した。
 さすがは母親だと思った。妊娠し出産する女性にしか気づかない考え方ね。
 由香里も、なるほどと頷いて、納得した表情をしている。
「里美のウエディングドレス姿を早く見たいわね」
「英子さん達が、お見合いの話しを進めてるらしいから、もうすぐかも」
「楽しみね」
「うん」
 ほんの数分しか経っていないのに、すっかり打ち解け合っている。
 あれがほんとうの母娘の姿だと思った。
 ふと気づいたが、会話にはほとんど父親が参加していない。数えてみたらほんの二
言しか喋っていないし、抱き合っている母娘のそばで、突っ立っているだけで、まる
で蚊帳の外にいるみたいだ。
 こういうことは、男性はやはり一歩引いてしまうんだろうか?
 いや、それでもやさしく微笑んでいるから里美のことを認めているには違いない。
里美が最初に抱きついたのは母親の方だし、母娘のスキンシップを邪魔しちゃ悪いと
思っているのかも知れない。

「それから響子さんには、会わせたい方がもう一人いらっしゃるの」
「会わせたい?」
「秀治さんお連れしてください」
「わかりました」
 秀治は、隣室の応接室に入っていった。
 そして連れて出て来たのは、
「お、おじいちゃん!」
 わたしの祖父だった。
 祖父の娘でありわたしの母親を殺したという後ろめたさと、女になってしまったと
いう理由で、仮出所以来も会う事ができなかった。
「ひろし……いや、響子。苦労したんだね」
「おじいちゃんは、わたしを許してくれるの?」
「許すもなにも、おまえはお母さんを殺しちゃいない。覚醒剤の魔手から救い出した
んだよ。あのまま放置していれば、生前贈与した財産のすべてを吸い尽くされたあげ
くに、売春婦として放り出されただろう。それが奴等のやり方なんだ。いずれ身も心
も廃人となって命を果てただろう。おまえは命を絶って、心を救ったんだ。お母さん
は、死ぬ間際になって、母親としての自覚を取り戻せたんだ。おまえを恨むことなく、
母親としての威厳をもって逝ったんだ。もう一度言おう。おまえに罪はない」
 母親の最後の言葉を思い出した。
 ご・め・ん・ね
 ……だった。
 助けて、とは言わなかった。
 殺されると知りながらも、覚醒剤から逃れるために敢えて、その身を委ねたのだ。
息子に殺されるなら本望だと、母親としての最後の決断だったのだ。
「おじいちゃん……。そう言ってくれるのは有り難いけど……。わたし、もうおじい
ちゃんの孫じゃないの。見ての通りのこんな身体だし、たとえ子供を産む事ができて
も、おじいちゃんの血を引いた子供じゃないの」
「倉本さんのお話しを聞いていなかったのかい? 臍の緒で繋がる。いい話しじゃな
いか。おまえは儂の孫だ。間違いない。その孫から臍の緒で繋がって生まれてくる子
供なら、儂の曾孫に違いないじゃないか。そうだろ?」
「それは、そうだけど……」
「おまえが女になったのは、生きて行くためには仕方がなかったんだろう? 儂がも
っと真剣におまえを弁護していれば、少年刑務所になんかやることもなかったんだ。
女にされることもなかった。娘が死んだことで動揺していたんだ、しかも殺したのが
息子と言うじゃないか。儂は、息子がどんな思いで母親を手にかけたのか思いやる情
けもなく、ただ世間体というものだけに縛られていた。弁護に動けなかった。おまえ
が少年刑務所に送られてしばらくしてからだった。本当の殺害の動機が判ったのはな。
おまえの気持ちも理解できずに世間体しか考えなかった儂は……。儂は、親として失
格だ。許してくれ、ひろし!」
 そう言うと、祖父は突然土下座した。
 涙を流して身体を震わせていた。
「おじいちゃんは、悪くないわ」
 わたしは駆け寄って、祖父にすがりついた。
「済まない。おまえを女にしてしまったのは、すべて儂の責任なんじゃ……」
 もうぽろぽろ涙流していた。
「そんなことない、そんなこと……」
 わたしも泣いていた。
「わたし、女になった事後悔してないよ。秀治という旦那様に愛されて幸せだったよ。
わたしは、身も心も女になっているの。だからおじいちゃんが悲観することは、何も
ないのよ」
「そうだよ。おじいさんは、悪くはないよ」
 秀治が跪き、祖父の肩に手を置いて言った。
「女にしたのが悪いというなら、この俺が一番悪いんだ。刑務所で、ひろしを襲わせ
るように扇動したんだからな。しかし、俺は女らしくなったひろしに惚れてしまった。
女性ホルモンを飲ませ、性転換させてしまったのも全部俺のせいだ。もちろん俺はそ
の責任は取るつもりだ。生涯を掛けて、この生まれ変わった響子を守り続ける。そう
誓い合ったから死の底から這いあがってきた。別人になっても俺の気持ちは変わらな
い。な、そうだろ? 響子」
「はい」
「どうやら君は、いずれ響子が相続する遺産を狙っているような人間じゃなさそうだ
な」
「おじいちゃん! 秀治はそんな人じゃありません」
「判っているよ。今まで、お母さんやおまえに言い寄ってくるそんな人間達ばかり見
てきたからな。懐疑的になっていたんじゃ。だが、彼の態度をみて判ったよ。真剣だ
ということがな。まあ、たとえそうだったとしても、響子が生涯を共にすると誓い合
った相手なら、それでもいいさ。儂の遺産をどう使おうと響子の勝手だ」
「遺産、遺産って、止めてよ。おじいちゃんには長生きしてもらうんだから」
「あたりまえだ。少なくとも、曾孫をこの手に抱くまでは死なんぞ」
「もう……。おじいちゃんたら……」
 ゆっくりと祖父が立ち上がる。腰が弱っているので、わたしは手を貸してあげた。
「秀治君と言ったね」
「はい」
「孫の響子をよろしく頼むよ」
「もちろんです。死ぬまで、いや死んでもまた蘇ってきますから」
「やだ、ゾンビにはならないでよ」
「こいつう……」
 秀治に額を軽く小突かれた。
 わたしの言葉で、部屋中が笑いの渦になった。
「あ、そうだ。遺産って言ったけど、わたしには相続権がないんじゃない? 法定相
続人のお母さんをこの手で殺したんだもの」
「遺言を書けばいいんだよ」
「あ、そうか」
「儂の直系子孫は、娘の弘子の子であるおまえだけだ。遺産目当ての傍系の親族にな
んかに渡してたまるか。まったく……第一順位のおまえの相続権が消失したと知って、
有象無象の連中がわらわら集まってきおったわ」
「でしょうね。お母さんが離婚した時も、財産目当ての縁談がぞろぞろだったもの」
「とにかく、今夜親族全員を屋敷に呼んである。やつらの前で、公開遺言状を披露す
るつもりだ。儂の死後、全財産をおまえに相続させるという内容の遺言状をな。だか
ら屋敷にきてくれ、いいな」
「わたしは、構わないけど。女性になっているのに、大丈夫なの? 親族が納得する
かしら。それに遺留分というのもあるし」
「納得するもしないも、儂の財産を誰に譲ろうと勝手だ。やつらに渡すくらいなら、
そこいらの野良猫に相続させた方がましだ。それに遺留分は被相続人の兄弟姉妹には
認められていないんだ。遺留分が認められている配偶者はすでに死んでいるし、直系
卑属はおまえしかいない。遺言で指名すれば、全財産をおまえに相続させることがで
きるんだ」
「へえ……そうなんだ。でも、やっぱり納得しないでしょね。貰えると思ってたのが
貰えないとなると」
「だから、儂が生きているうちに納得させるために生前公開遺言に踏み切ったのだ」



「さて、みなさん。全員がお揃いになったところで、もう一度はっきりと申しましょ
う」
 英子さんが切り出した。全員が注目する。
「響子さん、里美さん、そして由香里さん。三人には、承諾・未承諾合わせて真の女
性になる性別再判定手術を施しました。それが間違いでなかったと、わたしは信じて
おります。もちろん秀治さんのお言葉ではありませんが、将来に渡って幸せであられ
るように、この黒沢英子、尽力する所存であります。わたしは、三人を分け隔てなく
平等にお付き合いして参りました。今後もその方針は変わりません。そこで提案なの
ですが、三人同時に結婚式を挙げてはいかがでしょうか? もちろん里美さんの縁談
がまとまり次第ということになります」
「賛成!」
 里美が一番に手を挙げた。そりゃそうだろうね。
「しかし俺達の日取りはもう決まってるんだぜ」
 と、これは英二さん。
「延期すればいいわよ。あたしも賛成です。あたしだけ先に挙式するの、本当は気が
退けていたんです。三人一緒に式を挙げれば、何のわだかまりもなくなります。だっ
てあたし達仲良し三人娘なんですから。いいわよね、英二さん」
「ま、まあ、おまえがいいというなら……英子の発案でもあるし」
 相変わらず英二さんは、由香里のいいなりね。
 で、わたしはと言うと……。
「わたしも、秀治さえよければ、三人一緒で構いません」
「ああ、俺はいつだっていい。明人として、一度は祝言を挙げているから」
 というわけで三人娘の意見は一致した。
「それでは、親御さん達は、いかがでしょうか?」

「わたし達は構いませんよ。どうせ縁談が決まるのはこれからです。反対にみなさん
にご迷惑をかけるのが、心苦しいくらいです」
「儂も構いませんよ。秀治君の言った通りです」
 というわけで、わたし達の三人同時の結婚式が決定した。
響子そして(後編)

(十七)帰宅

 祖父の迎えのリムジンで屋敷に向かうわたし。
 が……。なぜか里美が付いて来ている。
 わたしを迎えに来たリムジンを見て、乗り込んでしまったのである。
 どうしても資産家の祖父の屋敷を見たいとか言ってね。
 せっかく両親が迎えに来て水入らずの時間を楽しみにしていたろうに……。
 ともかく今夜一晩うちに泊めて、明日自宅にお送りするということにした。月曜代
休を含めて三連休なので、一日くらいならいいでしょう。
 里美は車内装備の冷蔵庫やらTVなどいじり回している。座椅子のクッションの具
合を確かめようとぴゅんぴょん跳ねたり、かと思ったら窓から首を出したりしている。
「里美、少し落ち着いたら?」
「だって、リムジンだよ。リムジン。一生に一度乗れるかどうかって車だよ」
 そんな里美の様子を、祖父はにこにこと微笑んで眺めている。
 二人が姉妹のように生活していることを聞いて、どうぞご一緒にと誘ってくれたの
である。
「ところでおじいちゃん、お父さんはあれからどうなったの?」
「ああ、愛人のところへ行ったのはいいが。所詮、金の切れ目が縁の切れ目。お母さ
んの財産援助がなくなって、愛人は別の金持ちの男へ鞍替えしたそうだ。酒に溺れた
あげくに急性アルコール中毒で死んだよ。馬鹿な男だ。血液違いで離婚訴訟に勝って
慰謝料を踏んだくるつもりだったんだろうが、お母さんの貞操が証明されて敗訴して
一文も手に入らなかったんだからな」
「以前から愛人を作っていたというのは、本当なの?」
「ああ、そうだ。裁判に勝つために、興信所で調べさせた。間違いない」
「そっか……」
「どうした、あんな奴に同情か?」
「ううん、ちっとも。お母さんの言う事を信じなかったのは、わたしも怒ってるから」
「おまえはお母さんっ子だったからな」
「そ、身も心もお母さん似だからね」
「そうだな……あんな奴に似ているところが一つもなくて良かったよ」
「一つだけあるよ」
「なんだ」
「血液型」
「ああ……仕方がないな……」
「でもわたしの子供はちゃんとしたのが産まれるよ。わたしの卵巣は、Bo型なんだ」
「そうか、奴の血が繋がっていないと考えれば、他人の卵巣というのもいいかも知れ
ないな」
 ゆるゆるとした坂道を登って行った丘の上。
 やがて屋敷が見えてきた。
「ねえ、ねえ。あれがそうなの?」
 里美が車窓から身を乗り出して尋ねた。
「そうよ」
「すごーい」
 花崗岩造りの荘厳な正門を通って広大な前庭から噴水ロータリーのある車寄せへ。
 里美は瞳を爛々と輝かせて雄大な屋敷を見上げている。
「迎賓館みたい!」
「お帰りなさいませ!」
 ずらりと並んだメイド達にびっくり顔の里美。
「すごいね」
 メイド達の中に見知った者はいなかった。
 執事だけが見知っている唯一の人物だった。
「お嬢さま、お帰りなさいませ」
 うやうやしく執事の礼をする。
 もちろん母親の顔を知っているので、母親似のわたしと来賓の里美を間違えるわけ
がない。
 どうやらわたしが性転換したことを知らされて、女性として扱う事を命令されてい
るようだ。そのためにもわたしが男だったことを知っている古参は暇をだされたよう
だ。
「お嬢さまだって……」
 里美が、わたしの小脇を突つきながら、囁いていた。
 そういえば、子供の頃はお坊ちゃまとか呼ばれていたような気がするが……。どち
らかというと、お嬢さまの方が響きが良いね。お坊ちゃまというのは成り金主義とわ
がまま坊主というイメージがあるけど、お嬢さまならどこか清楚でおしとやかな雰囲
気がある。
「そちらのお方は?」
「わたしの親友の里美よ。同じ部屋で一緒のベッドに寝るから」
 いつも一緒のベッドで寝ているし、別の部屋にすると戸惑うだろうとの配慮だ。
「かしこまりました」
「わたしのお部屋は?」
「はい。弘子様がお使いになられていたお部屋でございます」
 弘子とはわたしの母親だ。その部屋ということは、祖父に次ぐ最上位の部屋になる。
つまり正当なる後継者たる地位にあることを意味していることになる。
 一人のメイドが前に出てきた。
「紹介しておこう。響子専属のメイドの斎藤真樹くんだ」
「斎藤真樹です。よろしくお願いします。ご用がございましたら、何なりとお気軽に
お申しつけくださいませ」
 とそのメイドはうやうやしく頭を下げた。
「こちらこそ、よろしく」
「響子、公開遺言状の発表は午後十時だ。ちょっとそれまでやる事があるのでな、済
まぬが夕食は里美さんと二人で食べてくれ。それまで自由にしていてくれ」
「わかったわ」
 そういうと執事と一緒に奥の方に消えていった。
 わたしと里美、そしてわたし付きのメイドが残っている。
「里美に、屋敷の案内するから、しばらく下がっていていいわ」
「かしこまりました、ではごゆっくりどうぞ」
 メイドが下がって、二人だけになる。
「ふう……。息がつまったわ」
 とたんに表情を崩す里美。
 広い屋敷にあって、大勢のメイドに囲まれたりするような経験がないから当然だろ
う。
「せっかく来たんだから、屋敷内を案内するわ」
「サンキュー」
 屋敷内の調度品に多少の変更はあったが、ほとんど昔暮らしていたままだった。
「まるで美術館ね」
 壁という壁には、洋館にふさわしく大きな油彩の洋画が飾られている。
「昔、洋画家を目指していた祖父の趣味よ」
「これ全部、本物の画家が描いたものなんでしょねえ」
「まあ、それなりにプライドがあるから、贋作は飾ってないと思うよ」
 中には美術誌で見たような見ていないような作品もあるが、本物か贋作かは判らな
い。
 鑑賞会よろしく壁に沿って絵画を鑑賞しながら、中庭へとでてきた。
 ニンフが水辺で戯れている風情を表現した彫刻のある、円形噴水のそばの大理石の
ベンチに腰掛ける。
「ねえ。お母さまは、なぜこの屋敷を出たのかしら。何不自由なく暮らせるのに」
「それは親子水入らずの生活をしたかったからよ。わたしを自分の手で育てたかった
みたい。ここにいればメイド達が何でもやってくれるけど、ぎゃくに言えばメイドを
遊ばせないために、自分でやりたいこともやらせなければならないということもある。
たぶんわたしは乳母に育てられていたかもね。自由でいてちっとも自由じゃないの。
まあ、ものぐさな人は楽でいいと思うでしょうけど」
「そうか、自分の子を自分で育てられないというのも問題ね。でも愛人を作るような
父親だったら、こういう生活の方がいいんじゃない? メイドに手をつけることだっ
て可能だから。ああ、だからお母さま、あえて出ていったのかもよ。父親の性格に気
づいてたんじゃない?」
「でも結局そのことが仇になって、覚醒剤の売人を近づけさせることになったわ」
「そうね、この屋敷なら売人も簡単には入ってこれないもんね」
 そういいながら中庭からの屋敷の景観を眺める里美。
「あら、メイドさんが立ってる」
「ああ、真樹さんね」
 中庭に出てくる扉のところに真樹さんが待機して、こちらをうかがっている。
「下がれと、命令されたんじゃない?」
「だから目立たないところまで下がってるわよ。いくら言われたってそれを鵜呑みに
するものではないわ。わたしに万が一があったら、責任を問われるのは真樹さんなの
よ。雇い主であるおじいちゃんから直接言われない限りは、メイドとしての職務は引
き続いているのよ。いろいろ気を遣わなければならないから大変な仕事なんだから」
「ふーん。そうなんだ……」
 別のメイドが食事の用意ができたと伝えに来た。
 自分の部屋で食べると言って返す。
「里美、お食事にするわよ」
「お姉さんの部屋ね」
「お母さんの部屋だったところよ」
「息子だった時の部屋は?」
「ないよ。お母さんの部屋は決められていたけど、わたしの部屋は来訪する都度に用
意されたの。正当な相続人はお母さんだから。それに子供の時は、お母さんと一緒に
寝ることが多かったし」
 部屋への道すがら里美が尋ねる。
「ねえ、響子さんのおじいさんの資産って、どれくらいあるの?」
「そうねえ。千億は下らないんじゃないかな……」
「この屋敷だけでも数百億かかってるんじゃない?」
「そうね。土地の広さだけでも、確か三万坪くらいはあるかな。さっき里美が迎賓館
みたいと言ってたけど、丁度それくらい」
「三万坪……。次元が違うわ。超資産家令嬢じゃない」
「そっかなあ……。考えた事ないから」
「これだもんね。付き合いきれないわ」
「何言ってるの、あなただって縁談がうまくまとまれば、行く末は社長夫人じゃない」
「でも、倒産するかも知れないじゃない」
「英子さんが言ってたじゃない。将来まで幸せであるよう尽力するってね。その時は
きっと援助してくれるわよ。わたしだって妹を見捨てるつもりはないし」
「お姉さん、ありがとう。だから大好きよ」
「これこれ、抱きつくんじゃない」

 部屋に戻ってしばらくすると、料理が運ばれて来た。
 一流ホテルで良く見掛けるテーブルワゴンに乗せて次々と料理が運ばれてくる。
 フルーツトマトのカッペリーニ、白アスパラガスのカルボナーラ仕立て、白ポレン
タのミネストラ、ノレソレと葉わさびのスパゲッティーニ、平目のソルベ・キャビア
とじゃがいものスープ、和牛のタリアータ・香草のサラダ添え、グレープフルーツと
レモングラスのジュレ・ヨーグルトのソルベ添え、カッフェ。
 ワイン係りがそばにいて、それぞれに最適なワインを出してきてくれる。
 それらの料理に目を丸くしながらも平らげていく里美。
「ふう……。おいしかったわ。一皿残さず食べちゃった」
「ほんとに良く食べたわね。シェフも料理のしがいがあったでしょうね」
「わたしはお姉さんや由香里ほど、女性ホルモン飲んでる期間が長くなかったから、
胃腸がまだ女性並みになってないみたいなのよね」
「だからといって、油断してると太るわよ」
「はーい」
 最後のコーヒーをいただきながら、そんな会話している。
 ドア寄りに待機している真樹さんに聞かれているとは思うのだが、躾が行き届いて
いるらしく、表情を変えたりはしない。

 午後九時を過ぎたあたりから、車寄せにベンツやらBMWなどの高級外車が次々と
出たり入ったりしながら来客を降ろしていた。
「ぞろぞろ集まってきたみたい」
 窓から少しカーテンを開けて覗いているわたしと里美。
 里美はネグリジェに着替えていた。
 タンスの中には母親の衣類がそのまま残されていた。
 それを着せてあげたのである。
 わたしは親族会議があるから、それにふさわしい服装に着替えている。
「みんな外車だね」
「そりゃそうよ。この屋敷に入るのに軽自動車なんかで来たら笑われちゃうわ。持っ
ていない人は、どこからか借りてくるそうよ」
「見栄だね。ナンバーで判るからレンタカーじゃないわよね」
 やがて別のメイドが入ってきた。
「お嬢さま、旦那様がお呼びでございます」
 わたしと里美は、見つめ合った。
「いよいよね」
「頑張ってね。お姉さん」
 何を頑張るのかは判らないが……。
 里美を残して、部屋を出た。ふと振り返ると里美が手を振っている。
 二人のメイドの後について、長い廊下を歩いていく。
 大きな扉の前で歩みが止まった。
「少々、お待ち下さいませ」
 軽く会釈すると、その扉を少しだけ開けて入って行く。
「お嬢さまを、ご案内して参りました」
 その開いた扉から、メイドの声が聞こえてきた。
「よし、通してくれ」
 祖父の声だ。いつもと違った威厳のある口調。
「かしこまりました」
 そういう声と同時に、扉がゆっくりと全開された。
 メイドが二人、それぞれ両側の扉を開いていく。

 広い部屋の真ん中に、矩形にテーブルが並べられている。
 一番奥のテーブルには祖父が座り、両側サイドのテーブルには親族が座っている。
そして一番手前には、きっちりとしたスーツを着込んだ弁護士らしき人物が三名座っ
ている。

 わたしの姿を見るなり、親族のほぼ全員が声をあげた。
「弘子!」
 全員の視線がわたしに集中している。
「そんなはずはない! 弘子は死んだ。それに年齢が違う」
「そうだ、そうだ」
 そんな声には構わず祖父が手招きをしている。
「良く来たな。響子、儂のそばにきなさい」
 テーブルを回りこむようにして、彼らのそばを通り過ぎて祖父のところまで歩いて
行く。真樹さんも後ろに付いてくる。

 じゃあ、一体誰よ、この女。
 何者だ。こいつ。

 というような、明さまに敵意を持った目つきで睨んでいる。
 親族にとっては、女性ホルモンと性転換のおかげで、すっかり容姿が変わってしま
っているわたしが、ひろしだとわかるはずもないだろう。
 第一このわたしだって着席している全員を見知っていないのだから。おじいちゃん
の姉弟くらいは覚えがあるが、亡き長兄と次兄の子供らしき人物達は覚えていない。
 祖父の脇にしずしずと立ち並ぶ。後ろには真樹さんが控えている。
「紹介しよう。この娘は、弘子の長女の響子だ」
「馬鹿な!」
 いきなり一人が立ち上がって怒鳴った。あれは祖父の四弟の健児だ。
「弘子に娘はいないはずよ!」
「そうだ、一人息子のひろしだけだぞ」
 口々に叫んでいる。
 祖父がそれをかき消すように言った。
「証拠を見せよう」
 と合図すると弁護士の一人が書類を、それぞれに配りはじめた。
「何よこれ? 戸籍謄本じゃない」
「そうだ、そこにこの娘が弘子の子である証拠が記されている」
 神妙な面持ちで戸籍謄本を確認する一同。
「何だよこれ、長男が消されて長女になってるし、名前もひろしが響子に訂正されて
るじゃないか?」
「じゃあ、その娘がひろし? 確かに弘子には瓜二つだけど」」
「冗談もやすみやすみ言え」
 それに静かに諭すように答える祖父。
「冗談ではない。どうしても信じられないなら、この娘のDNA鑑定をしてやっても
いいぞ。間違いなく、儂の娘の弘子が産んだ娘だ。書類は、もう一種類ある。目を通
してくれ」
 全員が書類をめくる乾いた音が室内に響く。
「何これ、裁判所の決定通知?」
「磯部ひろしの申請に対し、性別と名前の変更を許可する……まさか」
「医師の診断書も添付してあるわ。それによると……。患者は、真正半陰陽であり、
かつ性同一性障害者と診断する。よって男性として生活するには甚だ困難であり、平
時から女性として暮らしており、戸籍の性別と氏名の変更を認めざるを得ない……。
署名、○○大学付属病院心療内科医、如月和人。署名、△△精神内科クリニック精神
科医、駒内聡、署名、黒沢産婦人科・内科病院、性別再判定手術執刀医、黒沢英一郎」
「真正半陰陽って、男と女の両方の性を持っているってことだろ?」
「子供の時は男の子だったけど、思春期を過ぎてから実は女の子だったという話しは
良く聞くけど、ひろしがそうだったというわけね。弘子にそっくりな今の姿を見れば、
納得できない話しでもないけど……」
 あらまあ……。いつから真正半陰陽なんて話しが出てくるのよ。わたしが戸籍変更
した時の申請書類では正真正銘の男性だったわよ。そうか……戸籍変更の正当性を親
族に納得させるために、英子さんが仕組んで偽造したのね。戸籍変更が認められたの
は事実だから、たいした問題ではないとは思うけど……。
「つまり男から女になったというのね」
「そ、そんなことしたって、ひろしの相続欠格の事実は変わらないぞ。今更、出てき
てもどうしようもないぞ」
「そうよ。健児の言う通りよ」

「さて、この娘が儂の孫であることは、書類の通りに事実のことだ。その顔を見れば、
弘子の娘であると証明してくれる。儂が言いたいのは、相続人として直系卑属はただ
一人、この響子だけということだ」」
「それがどうしたというのだ」
「儂は、今この場で生前公開遺言として、この響子に財産のすべてを相続させる」
 椅子を跳ね飛ばして、四弟の健児が興奮して立ち上がった。
「馬鹿な!」
「でも健児、遺留分があるから、すべてを相続させることできないんじゃない?」
「姉さん、知らないのかい? 直系卑属の響子に遺言で全額相続させたら、俺達の遺
留分はまったく無くなるんだよ。被相続人の兄弟姉妹には遺留分は認められていない
んだ」
「ほんとなの?」
「そうだよ」
 さっきから、何かにつけて意義を唱え続けている、四弟の健児。
 なんか変だ……。
 明らかにわたしを拒絶する態度を示している。わたしが響子として紹介された時か
らずっとだ。
「まあ、落ち着け健児。先をつづけるぞ。では、儂の生前公開遺言状を発表する。弁
護士、よろしく」
「わかりました……」
 三人並んだ中央にいた弁護士が鞄から書類入れを取り出した。
「それでは、公開遺言状を読み上げますが、これは正式には公正証書遺言となるもの
で、遺言者の口述を公証人が筆記し、証人二人が立ち会って署名押印したものです。
 なお、証書は縦書きになっておりますので、そのように理解してお聞きください。
 読み上げます。

 平成十六年第一三五号。
 遺言公正証書。
 本職は、後記遺言者の属託により、後記証人の立会いをもって、左の遺言の趣旨の
口授を筆記し、これを証書に作成する。
一、遺言者は、その所有に関わる左記の不動産及び有価証券を、孫娘磯部響子に相続
させる。
 (一)東京都○○○市上寺山一丁目一番二号。
    宅地、十一万二千二百三十平方メートル。
 (二)同敷地内
    家屋番号 十二番。
    鉄骨鉄筋コンクリート三階建居宅一棟。
    床面積 七万千八百七十五平方メートル。
 (三)同屋敷に付帯する設備及び調度品など一切。
 (四)長野県佐久郡軽井沢町軽井沢○○○番一七二一号。
    宅地 四千五十七平方メートル。
 (五)同敷地内
    家屋番号 七番。
    鉄骨鉄筋コンクリート二階建別荘一棟。
    床面積 三千二百十三平方メートル。
 (六)同屋敷に付帯する設備及び調度品など一切。
 (七)千葉県鴨川市上○○○番三号
    宅地 二千五百七平方メートル。
 (八)同敷地内
    家屋番号 二番
    鉄筋コンクリート二階建別荘一棟。
    床面積 二千三百七十平方メートル。
 (九)同屋敷に付帯する設備及び調度品など一切。
 (十)その他、全国に所有するすべてのビル・建築物などの所有権一切。
 (十一)株式会社○○○商事、所有の全株式
    株式会社△△△海運、所有の全株式
    ………………(中略)………………
    株式会社×××製紙、所有の全株式
二、遺言者は、長兄の故一郎の子孫、長姉の依子、次兄の故太郎の子孫、次妹の正子、
それぞれに金十億円を相続させ、四弟の健児には金五百万円を相続させる。その資金
は銀行預金及び有価証券等を売却してこれに当てること。
三、遺言者は、以上を除く残余の財産はすべて、孫娘磯部響子に相続させる。
四、この遺言の遺言執行者として、東京都○○区大和田町三丁目二番地六号。行政書
士、竹中光太郎を指定する。

            東京都○○市上寺山一丁目一番一号
              無職  遺言者  磯部京一郎
                明治四十一年三月十二日生

 右の者は、本職氏名を知らず面識がないので、法定の印鑑証明書によりその人違い
でないことを証明させた。
            東京都品川区西五反田三丁目二番七号
              会社員  証人  渡部登志男
            東京都港区赤坂一丁目二番二号
              銀行員  証人  草薙 道夫

 右遺言者及び証人に読み聞かせたところ、各自筆記の正確なことを承認し、左にそ
れぞれ署名押印する。
              遺言者  磯部 京一郎 (押印)
              証 人  渡部 登志男 (押印)
              証 人  草薙  道夫 (押印)

 この証書は民法第九六九条第一号ないし第四号の方式により作成し、同条第五号に
基づき本職左に証明押印する。
 平成十六年四月一日。東京都○○市上寺山一丁目一番一号所在遺言者居宅居間にて。
            東京都港区赤坂五丁目六番七号
             東京法務局所属
              公証人  歌川 信太郎 (押印)

 以上です」

「馬鹿な! なんで俺だけが五百万円なんだよ」
「おまえは、弘子の遺産を譲り受けているじゃないか。それを相殺したんだ」
「弘子の遺産だと? そんなもん知らん」
「ならば、もう一つの調書を見てもらおうか」
 弁護士が再び書類を配りはじめる。
「儂が弘子に分け与えた土地と家屋に関する譲渡金の流れだ。あの土地と家屋は暴力
団が運営する不動産会社が、弘子から買い上げたことになっている。覚醒剤によって
精神虚脱状態になった弘子から実印と印鑑登録証を取り上げ、架空の売買契約を成立
させたことは明白な事実だ。その売買代金はべつの不動産会社、これも同じ暴力団経
営のその口座に振り込まれた。まあ、暴力団の資金源となったわけだ。さて、その土
地と家屋は、ある人物の経営する会社に譲渡され、短期譲渡に関する法律に触れない
ようにして一定期間後に転売された。その購入代金は、暴力団の不動産会社の取得し
た金額の60%だった。これを通常価格て転売している」
 ここで一息ついてから、
「響子、今話した金の流れの意味が判るか?」
 と尋ねてきた。
「えーと……。つまり早い話し、お母さんの資産を、暴力団とある人物とで、六四で
分け合ったということになるのかしら……」
「響子はかしこいな。その通りだよ」
「他にも宝石・貴金属類、銀行預金・有価証券なども巧妙に分配されている。すべて
は、ある人物によって仕掛けられた巧妙な計画だったんだ。離婚訴訟の最中にあって、
覚醒剤の売人がどうして弘子に近づけたのか? 離婚がほぼ決定的になって、その後
の後釜になろうといろんな男達が近づいて来たし、人間不信から懐疑的になっていた
弘子は、ほとんど人に会う事を避けていた。弘子に近づけるのは数が限られていた。
なのになぜ赤の他人である売人が容易に近づけたか、不審に思った儂は、密かに調査
していた。売人はある人物が紹介したことが判ったよ。弘子を覚醒剤漬けにして財産
を横取りしようと企んだんだ」
「ひどいわ!」
「しかもうまい具合に、息子が弘子を殺して少年刑務所入り、相続欠格者となって、
法定相続人から脱落した」
「響子、弘子の遺産は本来誰が相続するかな?」
「おじいちゃんだよ。元に戻るわけだね」
「じゃあ、儂の死後に儂の遺産はどこへ行くかな?」
「えーと。おじいちゃんの直系はわたしだけだったから、おじいちゃんの兄弟姉妹と、
その子供達ね」
「そうだ。ある人物の最初の計画では、弘子の次にはおまえをも籠絡する計画だった
んだよ」
「う、うそお!」
「おまえはまだ子供だったからね。やろうと思えばいくらでもできるよ。何せ暴力団
とつるんでいるのだから。しかし相続欠格となったことで計画は中止された。財産を
独り占めしようと相続人全員を処分するのはまず無理だし、黙っていても儂の財産の
五分の一が転がり込んでくるしようになったからな。それだけあれば十分だと思った
のだろう。ともかく弘子の遺産があったわけだが、暴力団と手を組んで、不動産譲渡
を繰り返して巧妙に分け合ったわけだよ」
「おじいちゃんは、そのある人物が誰か知っているのね」
「ああ、今この部屋の中にいるよ。そいつの相続額は弘子の財産分を差し引いておい
た」
「ええ? じゃあ」
 一体、誰?
 親族達が顔を見合わせている。
 ただ一人、身体を震わせている人物がいる。
 四弟の健児だ。
 遺産分与で健児だけが差別されている。
 つまり……。だれもが気づいたようだ。

「どうした健児、寒いのか? それとも脅えているのか」
「くそっ!」
 健児が鞄を開いて何かを取り出した。それが何かすぐに判った。
 拳銃だ。銃口は祖父を狙っている。
「おじいちゃん、危ない!」
 わたしはとっさに祖父の前に立ちふさがった。
「響子! どけ!」
 祖父がわたしを押しのけようとするが、わたしは動かなかった。
 パン、パン、ズキューン。
 数発の銃声が鳴り響いた。


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 バーンと扉が開け放たれて制服警官がなだれ込んできた。どこかに隠れ潜んでいた
ようだ。
 腕に激しい痛みがあった。どうやら弾があたったらしい。いや、運良くかすっただ
けだった。
 床に倒れたのは健児だった。
 腕を射ち抜かれてもがいていた。すぐそばに弾を発射した拳銃が転がっている。
 ふと見ると弁護士の一人が拳銃を構えていた。その銃口から硝煙が昇っている。
 さらにはわたし付きの真樹さんも拳銃を構えていた。あれは欧米の女性が護身用に
よく携帯しているレミントンダブルデリンジャー41口径。ガーターストッキングに
でも挟んで隠してたのかな。弁護士の方は、ダーティーハリーで有名なS&WM29
44口径ね。ついでに言うと健児のは、イスラエルIMI製造のデザートイーグル
50AE(通称ハンドキャノン)。50AE.弾を装填できるオート拳銃。女子供が撃てば
反動で肩の骨が外れちゃうという驚異的な威力を持っている。そんなもんどこから手
に入れたんだよ。あれがまともに当たってたら即死だよ。こんなこと知っているのは、
暴力団組長の明人の情婦だったおかげ。銃器カタログが置いてあって、暇な時に読ん
でたらみんな覚えちゃった。もちろん現物を触る機会もあった。護身用にってデリン
ジャー渡されたけど、持ち歩かなった。
「医者だ! 医者を呼べ!」
 祖父が叫んでいる。
 拳銃を構えていた弁護士が、用心しながら健児に近づいて行く。
 健児が身動きできないように確保して、拳銃を納め、代わりに手帳を取り出して、
「警察だ! 覚醒剤取締法違反容疑、ならびに銃砲刀剣類所持等取締法違反と傷害及
び殺人未遂の現行犯で逮捕する」
 と手錠を掛けた。
 健児を引っ立てて行く弁護士姿の警察官。真樹さんに話し掛けている。
「俺は、こいつを連れて行く。マキは後処理を頼む」
「わかったわ、ケイ。しかし、こいつ馬鹿じゃないの。日本人の体格で50口径の拳
銃が扱えると思ったのかしら。その銃の重さや反動でまともに標的に当てられないの
に」
「ああ、しかもデザートイーグルは頻繁にジャミング起こすんだよな。50AEは判
らんが俺の所にある44Magは、リコイル・スプリングリングやらファイヤリングピ
ン、エキストラクターやらがすぐ破損する。とにかくコレクションマニアは、何考え
ているかわからん。とにかく破壊力のあるガンが欲しかったんだろ。こいつの家にガ
サ入れに向かっている班が、今頃大量の武器弾薬を押収している頃だろう」
 ふうん……。弁護士がケイで、メイドがマキか。二人とも刑事か。名前にしては変
だし、コードネームかなんかかな……。

「響子、大丈夫か?」
「射たれちゃったけど、かすり傷みたい」
「すまなかった。こんな目にあわせたくなかったのだが、健児の化けの皮を剥ぐ良い
機会だった。奴を放っておけば、またおまえに手出しすると思ったのだ。だから、警
察と連絡を取合って、罠をかけたのだ。健児は無類の拳銃好きでね。それが高じて暴
力団とも関係するようになった」

 真樹さんは健児が落とした拳銃を、ハンカチで包んで拾い上げて、鑑識に手渡して
いた。そしてわたし達に警察手帳を見せた。
「警察です。みなさんから調書を取らせて頂きますので、このまましばらくお待ちく
ださい。現在この屋敷にいるメイドは全員、女性警察官にすり替えてありますので、
そのつもりでいてください」
 そうか全員女性警察官だったのか、だから知らない人ばかりだったのね。
「こんなものが、鞄に入ってましたよ」
「注射器と……これは、覚醒剤だわ。これで奴の裏が取れたわね」
「三つの重犯罪で、無期懲役は確定ですね」
「そうね……」
 などと鑑識係りと話し合っている。
「でもこんな拳銃を持っているような容疑者がいる場所に、女性警察官を配備するな
んて、もし真樹さんに何かあったらただじゃ済まないのに。報道機関が放っておかな
いわ」
「あはは、彼女はただの女性警察官じゃないよ」
「え?」
「彼女は、厚生労働省の麻薬取締官いわゆる麻薬Gメンさ。麻薬や拳銃密売そして売
春組織を取り締まる、厚生労働省麻薬取締部と警察庁生活安全局及び財務省税関とが
合同一体化して警察庁内に設立された特務捜査課の捜査官なんだ。女性しか入り込め
ないような危険な場所にも潜入する特殊チームの一員なんだ。さっきの弁護士に扮し
ていたやつとペアになって、これまで数々の麻薬・拳銃密売組織や売春組織を壊滅し
てきたエージェントさ。だから地方公務員の警察官とは違うから、場合によっては危
険な場所にも出入りするのさ。国家公務員I種行政と薬剤師の資格も持ってるぞ。響
子の警護役も担っていた」
「信じられない!」
「さっきの詳細な調書も彼らが調べ上げたものだよ」
「そうだったんだ」
 救急箱を持った別のメイド姿の女性警官が近づいて来た。
「ちょっと傷を見せてください」
「まさか、あなたも麻薬Gメン……?」
「ふふふ。わたしはごく普通の女性警察官ですよ」
「あ、そう」
「一応傷口の証拠写真を撮らせて頂きますね。傷害と殺人未遂の証拠としますので」
 と、言ういうと鑑識の写真係りが、傷口の写真を撮っていった。
「お世話かけました。じゃあ、傷の手当をいたします」
 わたしの傷の手当をしながら言った。
「彼女、すごいでしょ? 例えば売春組織に潜入するにはやはりどうしても女性でな
きゃね。何にしても女性なら相手も油断するしね。でも普通の女性警察官を捜査に加
えるわけにはいかないから、彼女が送り込まれるの。射撃の腕も署内では、二番目の
腕前なのよ。女性警官達の憧れの的なの」
 と、制服警官や鑑識官などに指示を出している真樹さんに視線を送りながら言った。
「一番目は?」
「さっきの弁護士に扮してた人が一番よ」
「そうなんだ……」
 真樹さんが近づいて来た。
「あたしのこと、あまりばらさないでよ」
 私達の会話が聞こえていたようだ。
「もうしわけありません、巡査部長」
 と言いつつも、ぺろりと舌を出して微笑んだ。
 へえ……巡査部長なんだ……。しかも慕われているようだ。
 わたしの前にひざまずいた。
「怪我の状態は?」
「はい。かすり傷です。病院で治療するほどではありません」

「すみませんでした。こんな危険な目には合わせたくなかったのですが、奴の尻尾を
掴むためには仕方がなかったのです。この現場のことだけでなく、自殺した時に関わ
った組織のことも合わせて伺わせていただきます。たぶん長くなると思いますので、
今日は一端もうお休み下さい。明日改めてお伺いいたします」
 すくっと立ち上がって、
「済まないけど、響子さんを部屋に連れていって休ませてあげて、そして今夜一晩そ
ばに付き添って泊まっていって頂戴、念のためよ」
「かしこまりました。巡査部長は?」
「今夜中に奴を吐かせてやるわ」
「色仕掛けで?」
「ばか……」
 こいつう、という風に女性警察官の額を軽く人差し指で小突く真樹さん。
 こんな事件の後は、思い出して脅えたり、恐怖心にかられる女性が多いそうである。
そのために、被害者のすぐそばで介護する女性警察官が居残るのだそうだ。
「じゃあ、頼むね」
「かしこまりました」
 敬礼をする女性警官。


「真樹さん。悪いが遺言状の確定を済ませたい。響子を休ませるのも、調書を取るの
もその後にしてくれないか」
「仕方ありませんね……」
「響子、座りなさい。すぐに終わるから」
「はい」
 全員が席に戻った。連行されていった健児の席が虚しく空いている。
 祖父が厳粛に言い渡す。
「ちょっとしたアクシデントにはなったが、今の件で健児は相続人欠格者となったわ
けだ……。ともかく、響子が弘子を殺害に至った経緯には、少なからず健児の野望の
罠にかかってしまったのは、明らかだ。もし健児が何もしなければ、弘子は今も生き
ており順当に儂の遺産を相続し、息子のひろしと幸せにくらしていただろう。この響
子は、おまえ達の想像を絶する苦悩を味わい、生きていくために男を捨てて女になら
なければならなかったのだ。それを判ってやって欲しい。一応おまえ達には遺留分に
相当するだけの遺産を分け与えることにしたから、それで納得して欲しい」
「わたしとして全然貰えないよりましだわ。まあ、十億円あれば……あ、そうだ。弁
護士さん、十億円だと相続税はいくらくらいになるの?」
「三億円を越えると一律に五割で、一億円以上三億円以下で四割ですね。もちろん基
礎控除などを差し引いた額に対して課税されます」
「そ、そんなに取られるの? まあ、半分になっても五億円ならいいわ。正子は?」
 と最初に同意したのは、長姉の依子。それに答える次妹の正子が答える。
「そうねえ。わたしはどうせ長くないし、それだけあれば息子達も食べていくのには
困らないでしょうし。美智子達はどうかな?」
 と、すでに亡くなっている長兄の一郎氏と次兄の太郎氏の子供達に尋ねた。
「遺産金は別にそれでもいいけどさあ。わたし、この屋敷で友達呼んでパーティーと
か開いていたんだけど、これまで通りやらせてくれなきゃいやだわ。それさえOKな
ら承認してもいいわ」
 パーティーねえ……用は金持ちである事を、友人にひけらかしたいわけね。
「どうだ、響子? ああ、言っているが」
「構いません。どうせ一家族で住むには広すぎますから」
 一家族と言ったのは、もちろん秀治と結婚して生まれた子供と一緒に暮らす事を意
味している。
「だそうだ、美智子」
「じゃあ、いいわ。承認してあげる」
「正雄はどうだ?」
「親父の子孫に十億円ということは、妹達と四人で分け合うんだろ。一人頭二億五千
万円じゃないか。相続税払えば半分くらいになるかな……ちょっと足りない気がする
んだが。美智子の方は一人きりで十億円だなんて、おかしいよ」
「何言ってんのよ。法律で決められているのよ。遺産を相続するのは叔父さんの兄弟
であって、わたし達は死んだ親に代わって代襲相続するんだから、その子の数によっ
て金額が変わるのは当然なのよ」
「ちぇっ。いいよ、どうせ俺には子供はいないし、それだけありゃ当面死ぬまで働か
なくても食っていけるから。でもよお、美智子と同じく、屋敷と別荘は使わせてもら
うからな。これまでそうだったんだ。いわゆる既得権ってやつを主張する」
「どうぞ、ご自由にお使いください」
「というわけで、お前達もいいな」
 と弟達に向かって確認する。
「べ、べつにいいよ。俺は」
「そうね……。おじいちゃんが響子さんに遺産を全額相続させるという遺言を書いた
以上、貰えるだけましだわね」
「同じく」
 全員が納得して公開遺言状の発表が終わった。
「真樹さん。もういいよ。調書をはじめてくれ」
「わかりました」
「響子は部屋に戻って休みなさい」
「はい」


「もう、銃声が聞こえてびっくりしたわよ。部屋を出ようとしたら、扉の前にメイド
さんに扮した女性警察官が二人立ちふさがっていて、出してくれなかったのよ」
 部屋に戻ると、里美が憤慨していた。
「しようがないわよ。わたしだって、これだもの」
 と包帯を巻かれた腕を見せた。
「痛くない?」
 里美は人差し指で、包帯を軽くちょんちょんと触っている。
「少し痛むけど、大丈夫よ」
「申し訳ありませんでした。里美さんには、命に関わる危険なところに行かせるわけ
にはいかなかったのです。もし眠れないとか不安とかありましたら申してください。
精神安定剤とか睡眠薬を用意してあります」
 今夜の付き添いとなった女性警察官が言った。
「だったら。生理痛に効く薬ありませんか? ショックで始まったみたいで……」
「あら大変……ありますよ」
 と言いながらコップに水と一緒に薬をくれた。
「しかし、明日は調書がありますけど、大丈夫ですか?」
「ええ。たぶん大丈夫よ」
「明日の調書は、先程の巡査部長が伺うと思いますので、訳を話して手短かにしても
らえるようにしましょう」
「でも、今夜徹夜で容疑者の尋問するんじゃありません? 寝ずにですか?」
「巡査部長は事件となれば六十四時間くらい平気で起きていますよ。その後、二十四
時間寝ちゃうんですけどね。寝だめができるそうです」
「変わってますね」
「そうなんですよ。彼女、あれでも恋人がちゃんといてね。他人が羨むくらい仲がい
いの」
「へえ、恋人がいるんだ?」
「弁護士に扮してた警察官がいたでしょう?」
「いたいた」
「この捜査の現場責任者の巡査部長なんですけど、その人と密かに婚約しているみた
い。彼、何でも銃器と麻薬捜査の研修として、ニューヨーク市警に出向してたらしい
けど、逆に組織からマークされて命を狙われたみたい。それで生きるために狙撃され
る立場から狙撃する立場、特殊傭兵部隊に入隊したらしいの。それで傭兵の契約期間
を終えて日本に帰ってきたらしい」
「すごい経歴なんですね」
「そうなのよ。だから彼の狙撃の腕はプロフェッショナルだそうよ。一キロ先からで
も朝飯前という噂があるわ」
「そんな彼と、真樹さんがどうして恋人同士になれたの?」
「何でも彼女が二十歳の記念に、アメリカ一周旅行している時に知り合ったとかいう
話しよ。それ以上のことは話してくれないの。ま、誰にも秘密はあるだろうから聞か
ないけど」
「じゃあ、真樹さんの銃の腕前も彼に教わったからかな」
「たぶんそうだと思いますよ」

「そんなスナイパーの彼と、純真可憐な真樹さんが恋人同士と、署内で変な噂されて
ませんか? 署内で変な目で見られたり、風紀が乱れるとか問題になったりしない?」
「とんでもないわ。彼女の正式な身分は、国家公務員の司法警察員の麻薬Gメンじゃ
ない。地方公務員の警察官がとやかく言えるような雰囲気じゃないのよね。それでい
てまだ二十三歳の若さでしょう? 憧れの的にはなっても、誹謗中傷されるような存
在じゃないのよね。わたし達女性警察官全員で彼女を見守ってあげてる。それに彼の
方も、みんな避けているし、なんせ一撃必中の腕前なんだから、怒らせたら大変。一
キロ先からでも眉間にズドンだからね。証拠を残さずに抹殺されちゃうよ」
「ふーん……」
「あ、ごめんなさい。つい長話しちゃった……。そろそろ、お休みになって下さい。
わたしは隣の部屋にいますから、何かありましたらいつでも申し付けてください」
 この部屋には常駐するルームメイド用の控え室があってベッドもある。女性警官は
そこに泊まることになっている。

 翌朝。
 小鳥のさえずりと共に目が覚めた。
 部屋の外のバルコニーに来訪する野鳥達だ。子供の頃と変わらぬいつもの朝の風景。
「おはようございます。お嬢さま」
「ん……。おはよう」
 あれ? 女性警察官じゃない……。
 昨日とは違うメイドが三名。わたしが目を覚ましたのを期に、仕事をはじめた。
 どうやら、今朝から本来のメイド達に戻ったようだ。各個室にはルームメイド二名
と個人専属のメイド合わせて三名が必ずいることになっている。カーテンを開け放つ
者、花瓶の花の手入れをはじめる者、そしてわたし付きのメイドはベッドサイドに立
って指示を待っている。やはり見知った顔はいない。八年も経てば入れ代わって当然
だろう。
「今、何時かしら」
「七時半でございます」
「そう……朝食は?」
「八時半からでございます。旦那さまがご一緒に食堂でとご希望でございます」
「一緒でいいわ。シャワー使えるかしら」
「はい。しばらくお待ち下さい。今、ご用意します」
 メイドはバスルームへ入って行った。何するでもない、蛇口を開いてお湯が出るの
を待つだけだ。ボイラー室から、ここまではかなりの距離の配管を通ってくるから、
蛇口を捻っても最初に出るのは水、すぐにはお湯が出ないのだ。冬場なら暖房用に常
時配管をお湯が流れているから、すぐに出るのだが。なお、メイド用の控え室やバス
ルームがあるのは、ここと祖父の居室、及びそれぞれに隣接する貴賓室の四部屋だけ
である。後は共用のバスを利用することになっている。
 里美はまだ眠っている。
 ベッドと枕が変わっているから、なかなか寝付けなかったようだ。もう少し寝かせ
ておいてあげよう。
「お嬢さま、シャワーが使えます。どうぞ」
 ネグリジェを脱いで、メイドに渡してバスルームに入る。
 熱いシャワーを浴びる。うーん……朝の目覚めにはこれに限るね。
 頭もすっきりして外へ出ると、すかさずメイド達が身体を拭ってくれた。バスロー
ブに着替えてベッドを見ると、里美が惚けた表情で起き上がっていた。里美は目覚め
が悪いので、起きてもしばらくはボーッとしていることが多いのだ。メイドが動きま
わり窓を開けて風が入ってきたりして、目が覚めてしまったようだ。
「ほれ、ほれ、里美。あなたたもシャワーを浴びなさい。すっきりするわよ」
「ふえい……」
 はーい、と答えたつもりの間の抜けた声を出す、里美の背中を押すようにして、バ
スルームに放り込む。
「あー。すっきりした。お姉さん、おはよう。食事はまだ?」
 出てくるなり、早速食事の催促だ。実に変わり身が早い。
 あのね……。
「おはよう、里美。食堂で八時半からよ」
「今何時だっけ?」
「八時と少々です」
「よっしゃー。行こう、今いこ、すぐいこ」
「バスローブのままで行く気? ここはわたし達のマンションじゃないのよ」
「あ、いけなーい。着るものは?」
「お母さんが着てたのがあるから、それ着なさい。わたしが着れるんだから、里美も
着れるでしょ。ベッド横のクローゼットに入っているから、どれでも好きなの着てい
いわ」
「はーい」
 そう言うとクローゼットを開けて、早速衣装選びをはじめた。
 わたしと里美は、サイズが同じなので、良く服を交換しあっていた。というよりも
最初の頃、里美は衣装を全然持っていなかったので、わたしの服を借りて着ていたと
いうのが正しい。その後里美自身の衣装が増えていっても、わたしが買った衣装をし
ょっちゅう借りていた。
「ほんとにどれ着てもいいの? 高そうな服ばかりじゃない」
「気にしないで、服はしまっておくものじゃなくて、着るものなんだから」
「んじゃ、遠慮なく」


 朝食を終えて名残惜しむ里美を、リムジンに乗せて見送った後、丁度入れ代わりに
真樹さんがやってきた。今日は私服で来ている。
 一晩わたしの部屋の控え室に泊まった女性警察官が、敬礼して出迎えた。
「おはようございます」
「悪かったね。今日は帰って休み給え」
「はい。では、そうさせていただきます。あ、それから……」
 と何事か耳打ちしている。
「わかった、極力手短にするよ」
 それからわたしの前に歩み進んで、
「おはようございます、響子さん。ご気分はいかがですか?」
「ええ。ちょっと頭痛がしますが、大丈夫です」
「では、どちらのお部屋で調書を取りましょうか?」
「わたしの部屋がいいです」
「わかりました」
 わたしの居室に案内して調書を受ける事にした。
「朝早くから申し訳ありませんね。改めてわたしはこういう者です」
 真樹さんは、ショルダーバックからから手帳を出して開いて見せた。

 厚生労働省、司法警察員麻薬取締官、斎藤真樹。(写真添付)

 という記述があった。でも随分ときれいな手帳。任官されたばかりだから当然か。
{注・平成十五年十月一日より身分証が新しく変わっています}
「こっちが、あたしの正式な身分です。警察には出向で来ています」
 国家公務員が地方組織に出向ねえ、不思議だ。警察官は地方公務員であり、警視正
以上になって国家公務員扱いとなるのだが、彼女は国家公務員ながらも巡査部長待遇
しかないとは、やはり出向だからかな……。手帳をしまう時にバックの中に、あのダ
ブルデリンジャーが覗いて見えた。常時携帯しているようだ。火薬の匂いが着かない
ように、使用後毎回丁寧に清掃しているんでしょうね。支給品じゃないだろうから、
好みに合わせて個人で買い求めたものだろう。確か、麻薬取締官の制式拳銃は、ベレ
ッタM84FSだったと思ったけど……。
 改めて、きれいな女性だと思った。しかも二十三歳の若さで麻薬取締官だなんて、
よほどの才能がないと務まらないと思う。採用資格には薬剤師か国家公務員採用試験
II種(行政)合格。採用されてからでも、麻薬取締官研修から拳銃の取り扱い、逮捕
術の修練、WHO主催語学研修。さらには法務省の検察事務官中等科・高等科研修を
受けなければならない。だからこそ司法警察員なのだが、通常ではとても二十三歳で
それらをすべてこなすことなどできない。

 それから小一時間ほど、型通りの調書を取られた。
「響子さんについては、母親の覚醒剤容疑で死んだ密売人の背後にある、密売組織を
ずっと追っていたんです。その過程で磯部健児やあなた自身のことを、ずっと調査し
ていました。健児はいずれ再びあなたに対して、何らかの手段を取ってくるに違いな
い。遠藤明人を襲った組織は……」
 そこまで言いかけた時に思わず大声をあげてしまった。
「明人をご存じだったんですか!」
「ええ、このあたりの暴力団はすべて知っています。そして磯部ひろしという人物が
遠藤明人の情婦になったという情報もね。つまりあなたです」
「そうでしたか……」
 真樹さんは続ける。
「明人を襲った組織は、健児が関係している暴力団です。そしてあなたがそこに捕わ
れたことも判明しました」
「まさか、健児が……?」
「それは有り得ると思います。実は、響子さんが少年刑務所に収監されてしばらくし
て、磯部京一郎氏が娘の弘子の覚醒剤中毒と息子が殺害に至った経緯についての事情
を知って、響子さんの権利復活に動きだしました。つまり先程の公正証書遺言による
相続人に響子さんを指定したのです。それを知った健児が、再び動きだしました。し
かも殺してしまうよりは、当初の予定だった計画を実行に移そうとしたのです。健児
はあなたが性転換して明人の情婦になっている情報を得て、明人を殺し響子さんを捉
えて覚醒剤漬けにして、何でも言う事を聞く人形に仕立て上げようとした。それと合
わせて京一郎氏を殺害してしまえば、その財産はすべて自分のものになるとね。まあ、
あくまで推測ですが……」
「結局わたしの人生は、健児によって二度も狂わせられたということね。しかも、母
と二人であるいは明人と二人で、苦境から立ち直って幸せな生活を築いていきましょ
うとした矢先に、再びどん底に引き落とされたから、よけいにショックが大きかった
わ」
「お察し致します。その件に関しましては、わたし達捜査陣が一歩も二歩も行動が遅
れてしまったからに他なりません。もっと効率的に動いていれば、あなたの母親もあ
なた自身も救う事ができたかも知れないのです」
「もう気にしていないわ。過ぎてしまったことは仕方ありませんから。楽しい思い出
だけを胸に、前向きに生きていきたいと思っています。それに秀治は生きて戻ってく
るし、子供を産める女になって結婚できるようになった。そしておじいちゃんとも再
会できて遺産相続も元通り。すべて最終的には結果オーライになっちゃってる。何て
言うか、運命の女神は見放していなかったってとこかな」
「そうおっしゃっていただけるとありがたいです。まあ、何にしても健児とその背後
の組織については、もう二度と関わることはないでしょう。ご安心ください。しかし
財産を狙うものはいつの世いつの時代でも存在します。常に油断することなく交際相
手は良く考えることですね。いつ何時健児や麻薬密売人のような奴が近づいてくるか
もしれませんからね」
「ご忠告ありがとう」
 あ、ちょっと待てよ。
 彼女は二十三歳じゃない!
 どうして、わたしの中学生時代の事件を知っているの?
 お母さんと売人の事をどうしてそんなに詳しいの?
 それにやはり、若干二十三歳で麻薬捜査の現場に出ているなんておかしいよ。
「真樹さん、あなたの本当の年齢はいくつなんですか? わたしとそう年齢が違わな
いのに、中学時代の麻薬事件を捜査していたなんてありえません」
「あら、やっぱり気がついたのね」
「それくらい気がつきますよ」
「そうね……。あなたなら話してあげてもいいわね。あたしは、敬と幼馴染みの三十
二歳というのが、本当の年齢なんです」
「敬というと弁護士に扮していた警察官ね」
「そうです。とにかく順を追って手短に説明します。かつて最初の事件であるあなた
の母親の覚醒事件としてあの売人を捜査していました。その捜査線上に磯部健児が上
がり、綿密な調査の結果、逮捕状・強制捜査ができるまでになり、上司の生活安全局
長に申請しようとしました。
 ところが、健児が暴力団に関係しており、この件は暴力団対策課の所轄だとされた
のです。あたし達が調べ上げた捜査資料などは握り潰され、捜査実権は刑事局暴力団
対策課に移されました。実はこの局長が、警察が押収した麻薬・覚醒剤を極秘理に、
健児に横流ししていた張本人だったことが後々に判明しました。健児が逮捕されれば、
横流しする相手を失い、いずれ自分に捜査の手が入ると思ったのでしょう。
 あたしと敬は、研修という名目でニューヨーク市警に飛ばされ、やっかい払いされ
たのです。しかしこれはあたし達を日本の外で抹殺する計画でもあったのです。市警
本部長も計画に加担していました。あたし達は、組織に命を狙われ逃げ回らなければ
なりませんでした。あたしはその銃弾に倒れて動けなくなり、命を失い掛けました。
 そんなあたしを助けてくれた人がいました。アメリカに医学の研修に来ていた産婦
人科医で、臓器移植をも手掛けている名医だったのです。あたしはマシンガンで射ち
抜かれてずたずたに内臓を破壊されていたのですが、たまたま医師のところに日本人
の脳死患者がいて、その内臓をすべて移植して、九死に一生を得ました。その患者は、
二十歳の記念にたまたまアメリカ一周旅行に来ていて、事件に巻き込まれて脳死にな
ったということでした。
 そのままでは、また組織に命を狙われてしまうと考えた医師は、あたしの顔をその
脳死患者そっくりに整形手術もしてくれていて、その患者のパスポートと身分証を使
って、アメリカを脱出して日本に帰国しなさい。そういう医師の協力を得て無事に日
本に戻ってこれたのです」
 実に長い告白だった。
「じゃあ、今のあなたは、その脳死した患者の身分を騙っているというわけですね」
「はい。ですが、その患者だったご両親にはすべてを話して許して頂きました。そし
てあたしを実の娘、斎藤真樹として認めてくださり、一緒に暮らすようになりました。
なぜならあたしの身体には、その患者の子宮や卵巣を含む臓器のすべてがあり、その
両親と血の繋がる子供を産む事ができるからです」
「そういうわけだったの……」
「あたしが麻薬取締官としてすぐに実務につけたのは、警察官としての経験があった
からです」
「敬さんはどうなさったの?」
 女性警察官からある程度のことは聞いていたが、あくまで噂に過ぎない。真樹さん
から真実を聞きたかった。
「あたしが撃たれた時、実は一緒にいたんです。『あたしを置いて逃げて。もう助か
らない』という声を無視してまで、傷ついたあたしを抱きかかえて逃げようとしてく
れていました。しかし、追っ手がすぐそこまで迫っていたので、悲痛の思いであたし
を置いて逃げました。やがて彼は、追っ手から逃げるために、特殊傭兵部隊に入隊し
て、腕を磨き時を待ったのです」
 女性警察官の話したこととは内容がちょっと違うが、傭兵になったということは正
しかったようだ。
「あたしは彼に何とか連絡を取ろうと考えましたが、傭兵部隊に入った事も知りませ
んでしたし、連絡手段がありません。そのうちにあたしと彼の死亡報告が日本の警察
にされた事を知りました。致し方なく斎藤真樹として日本に帰り、あたしを実の娘と
して扱ってくれる新しい両親の下で、何不自由のない女子大生として暮らしていまし
た。ところがある日、敬から突然『帰国するからまた一緒に仕事しよう』というエア
メールが届いたのです。
 実はあたしを助けてくれた先生が、四方八方手を尽くして敬の居所を突き止めて、
あたしが斎藤真樹として生きて日本に帰国したことを伝えてくれたのでした。もちろ
ん、敬を愛していたあたしは再び彼と一緒に仕事をするために、麻薬取締官となるべ
く勉強をはじめ、見事合格採用されることになったのです。あの生活安全局長を覚醒
剤取締法違反で逮捕して、その地位を剥奪・名誉を奪って復讐しようと考えたのです。
そのためには一介の警察官では無理です。地方組織ではない国家的機関である麻薬G
メンにしか、それを可能にできないでしょう。そしてあたし達は、ついにそれをやり
遂げて彼を逮捕に成功したのです。そして現在に至っています」
 聞けば聞くほど哀しい人生の連続じゃない。まるで、わたし自身の経験にも良く似
た悲哀が込められていた。見知らぬ世界へ飛ばされ、恋人の死に直面し、自分自身の
存在の抹殺と再生、そして恋人の生還。わたしと秀治が生きて来た人生とどれだけ重
なる部分があるだろうか。

 しかしどうも解せないことがある。
 産婦人科医と臓器移植という言葉を聞くと、どうしてもある人物の名前が浮かび上
がってくるのだ。

「……さて、そろそろお暇しましょうか。長い間ありがとうございました。また何か
ありましたら何なりとご連絡下さい。あ、これ。名刺です」
 名刺を受け取り、これまで喉のところまで出かかっていた言葉を発した。
「あの……」
「何か?」
「もし差し支えなければ、執刀医のお名前をお尋ねしてもよろしいでしょうか? せ
めて日本人かどうかでも……」
 期待はしていなかった。どうやら非合法的に移植が行われたようだし、整形手術を
行って身分擬装工作の手助けをしたとなれば、執刀医の名を明かす事は医師生命に関
わる場合があるので、秘密にしてくれと口封じされたはずである。
 彼女の口からは意外な答えが返ってきた。
「それ以上のことは詮索しない事が身の為だ。それ以上を知ると再び裏の世界に引き
戻されることになる。……わたしの先生の口癖です、お判りになりますか?」
 ああ……その言葉……。間違いない。
「そうでしたか……判りました」
「そういうことです。では、失礼します」
 そうなのだ。真樹さんは、暗に英子さんのことを言っている。どうやら英子さんは
移植の本場アメリカで技術を磨いたのだろうと思った。その時に真樹さんに偶然出会
って、命を助けたのだ。そう確信した
 英子さんのことは、詮索してはいけない。まして、他人にそれを話してもいけない
のだ。時々裏社会のことを話してくれはするが、もちろん他言無用の暗黙の了解の上
なのだ。たとえ相手もそれを知っていると確信していてもあえて言わない。問わな
い。
 裏と表の境界線上に生きる人間の最低限のルールなのだと悟った。

(十八)大団円

 舞台稽古に向かっていたあの日。
 あの舞台は演じられることなくお蔵入りになったはずだった。
 しかし、わたしの人生という舞台においてそれはすでに開幕し着々と進行していた
のだった。裕福だったわたしが、少年刑務所で娼婦となり、明人という王子さまが登
場して婚約。組織抗争という戦争で死んだと思われた王子さまは、生きて戻って来た。
 そして今、舞台は大団円を迎え、娼婦だったわたしは、憧れの王子さまとの結婚式
に臨んでいる。

 ついにその日を迎える事ができた。
 軽井沢別荘近くにある教会。
 わたしと里美、そして由香里と三人娘。花嫁の控え室で真っ白なウエディングドレ
スに身を包んでいる。里美の縁談もまとまってこの日を迎えることができた。何せ、
最初に縁談を持ってきたのは相手の方、花婿が社内一の美人な里美に一目惚れ、黒沢
英子という資産家のバックボーンもあれば、まとまらないはずがなかった。その後の
交際で里美もその見合い相手を気に入り、相思相愛となっていた。何度か見たけど、
結構いい男って感じね。
 里美と由香里には母親が付き添って化粧などを手伝ったりしている。母娘共々、本
当に幸せそうな顔をしている。
 わたしには母親がいなかった。代わりに屋敷のメイドが数人来ている。
 母親をその手に掛けたのは自分自身だった。
 哀しかった。
 この姿を母親に見てもらいたかった。
 今ここに生きた母親を連れて来てくれたなら、何千億という財産のすべてを差し出
してもいい……。しかしそれは適わぬ夢。いくら英子さんでも灰になってしまった母
親を生き返らせてくれることはできない。
「お姉さん、大丈夫?」
 里美が声を掛けてきた。
 長らく一緒に暮らしているから、わたしの一喜一憂を感じ取ることができる……み
たいだ。
「表情、ちょっと暗いよ」
「そう見える?」
「うん……」
 そうよ。
 わたしが哀しい表情をしていると、里美まで哀しい思いをさせることになる。
「ちょっと昔のことを思い出してたからかな……」
「あの……お母さんを殺した……?」
「ええ、でも……もう、どうしようもないのよね……」
 思わず涙が出てきた。
 それは、母親を手にかけたあの時の涙……のような気がした。
 ああ、こんな時にだめだよ。そう思えば思うほど涙が溢れてくるのだった。
「お姉さん。泣いちゃだめだよ」
「そういう、あなたこそ泣いてるじゃない」
 里美は涙もろい。人が泣いているとすぐにもらい泣きする。
「だって、お姉さんが泣いているから」

 そうだ。
 いつまでも過去の涙を流し続けているわけにはいかない。
 麻薬取締官の真樹さんにも言ったじゃない。
「もう気にしていないわ。過ぎてしまったことは仕方ありませんから。楽しい思い出
だけを胸に、前向きに生きていきたいと思っています」
 ……と。

「ごめん、ごめん。泣いている場合じゃないわよね」
「そうだよ。これから幸せになるんだからね」

 その時、真菜美ちゃんが三人の花婿達そして祖父を連れて入ってきた。
「じゃーん! 花婿さんを連れてきたわよ」
「わーお。きれいどころが三人もいる。素敵だあ」
 わたしの夫となった磯部秀治の姿もあった。
 磯部家を残したかった祖父の希望を入れて、磯部を名乗ることにしたのだ。祖父の
養子として入籍したのではなく、婚姻届で夫婦名の選択で磯部を選んだのだ。元々柳
原は他人の名前だから、何の未練もないと言ってくれた。
「なんだ、泣いていたのか?」
「うん。お母さんのこと考えてたら、つい……」
「その気持ちは俺にも判るよ。しかしいつまでも過去にばかりこだわっていちゃだめ
だよ」
「判ってるわ」



 結婚式がはじまった。
 荘厳なオルガンの演奏される中、わたしはおじいちゃんに誘導されてバージンロー
ドを、神父の待つ教壇に向かって歩いている。その後ろには、同じように里美と由香
里が続いている。誰が先頭を行くかというので一悶着があったが、結局歳の順という
ことで決着した。婚約順とか若い順とか、わたしは意見したのだが、歳の順という二
人に負けた……。言っとくけどわたしは再婚なんだからね。
 教壇の前に立つ秀治の姿が目に入った。
 おじいちゃんが抜けて、わたしは秀治の隣に立つ。他の二人も両脇の新郎にそれぞ
れ並んだ。

 英子さん、英二の妹として式に参列していた。今日は少し控え目のピンクのドレス
を着ている。その立居振舞もすっかり女性になりきっていた。この結婚式の前日に、
今まで住んでいた自宅を英二夫婦に明け渡し、先代の黒沢英子の屋敷に移り住んだ。
 女性化育成プログラム(由香里がそう呼んでいる)は一応終了したらしい。
 へえ……。もうどこから見ても一人前の女性ね。由香里が特訓しただけのことある
わね。
 真樹さんもその隣に、恋人と仲良く並んで座っている。英子さんが招いたようだ。
英子さんにとっては、わたし達も真樹さんも、自ら臓器移植を手掛けた患者はすべて、
大切なファミリーの一員と考えているのだ。

 曲が変わって、結婚の儀がはじまった。
 よくあるような祝詞が上げられ宣誓の儀を経て誓いのキスとなった。
「それでは三組の新郎新婦、誓いのキスを……」
 三人の花婿が一斉に花嫁と向かい合った。秀治が覆っているベールを上げて唇を近
づけてくる。静かに目を閉じそれを受け入れるわたし。
 場内にどよめきがあがった。
「神の御名において、この三組の男女を夫婦と認める。アーメン」


 結婚式は滞りなく終了し、わたし達三人は、晴れて夫婦となった。
 教会の入り口で、参列者から祝福を受けるわたし達。
 親戚一同、会社の同僚達が集まって、歓声をあげている。
「三人ともきれいだよ」
「お幸せにね」
「ブーケ、お願い」
 わたし達花嫁はそれぞれブーケを手にしている。恒例のブーケ投げだ。それを受け
取ろうと未婚の女性達が群がっていた。
 わたしの視界に、ブーケ取りの群衆から少し離れたところにいる真樹さんの姿が映
った。隣には敬さんの姿もある。真樹さんは、敬さんと結婚するつもりみたいだから、
ブーケ取りには参加しないのかな。
 その敬さんに向けてブーケを投げるわたし。強く投げ過ぎたブーケは弧を描いて、
敬さんの頭上を通り過ぎるが、軽くジャンプしてそれを受け止めてくれた。それを真
樹さんに手渡して、頬にキスをした。
「もう……いきなり、何よ」
 怒ってる。でも本気じゃない。
「何だよ、ほっぺじゃ嫌か。それなら」
 抱きしめて唇を合わせる敬さん。
 おお!
 公衆の面前で唇を奪われて、しばし茫然自失の真樹さんだったが、気を取り戻して、
 パシン!
 敬さんに平手うちを食らわした。
「もう! 知らない!」
 頬を真っ赤に染め、すたすたと会場を立ち去っていく。敬さんがあわてて後を追う。
真樹さんが、会場出口付近でふと立ち止まり、ブーケを持った手を高く掲げて叫んで
いた。
 サンキュー!
 声はここまで届かなかったが、そう言ってるみたいだった。
「敬さんと仲良くね。今度のヒロインは真樹さん。あなたなんだから」
 わたしは心の中でエールを送った。



出典:昔からキョンはヘンな女が好きだったもんね
リンク:http://erika.girly.jp/syosetsu/aruhi.html

(・∀・): 95 | (・A・): 38

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