▼熱帯夜。

2007/08/18 12:49 登録: えっちな名無しさん

あの熱帯夜を忘れない。
 眠れなかったのは、熱さのせいなのか、それとも別の理由からなのか。今にも失神してしまいそう。動悸が速い。呼吸の乱れが止まない。頭の中が真っ白、目の前は真っ暗。

 株を何年もやっていて、為替市場でも、それなりに経験を積んできたつもりだったけど、こんなのは初めてだった。
 夜中のニューヨーク市場が気になって眠れない。早朝のオセアニア時間の動きが、混乱した精神に追い討ちをかける。
 欲を出した人間の末路は、あっけない。桁違いの損失に茫然自失。

 どうしてこうなってしまったのだろう。
 始めは、年初から続く円安に便乗して、小遣いを稼ぐ程度だった。日本の脆弱な財務性を追い風に、僕は円を売った。儲かれば儲かるほどに、欲深くなっていく。自己資金の範囲を超えない程度の取引だったのがいつの間にか、身の丈の数十倍、数百倍に膨らむ。僕は調子に乗りすぎていた。おごり高ぶっていた。思い上がっていた。
 そんな時だった。
 年老いた母親が年金の少なさに嘆いているのを見て、声をかけたのは。
「高金利通貨で運用してあげるよ、絶対に儲かるよ」なんて、詐欺師みたいな言葉。
 口座、開かなきゃね。パスワード、どうする?
 母は、声のトーンを下げて、「48968」の数字を入れて、と言った。
 何の数字だ?
 聞いてみると、照れくさそうにクスクス笑って「四葉のクローバー、語呂合わせがいいでしょ?」誰にも言っちゃダメだよ、と唇の前で人差し指を立てた母。別に言う相手なんていないのに。お金が増えることを楽しみにして、はしゃいでいた母。
 口座を開いて、郵便貯金を外国為替の口座へ移して、一気に運用を始めた。
 最初しばらくは調子がよくて、一日で、数十万とか数百万とか、数字が増えた。
 自分の知らない世界に足を踏み入れた母の驚きようは、可笑しかった。本当に、文字通り、目を丸くさせて、口をぽかんと開けていた。
 電源の入れ方さえも分からなかった母に、パソコンとインターネットを毎日、少しずつ教えたのは、彼女が自分で残高を確認できるようにだ。
 僕に教えてもらえる時間は、特に楽しかったみたい。僕の事を「先生」なんて呼んで、はしゃいで。幸せそうだった。
 だけど、今、はっきりと分かることがある。
 理由のある幸せは、形を変えた不幸のことだ。

 東京市場の下落に拍車をかけて、夜中に、文字通り、ナイアガラの滝のような暴落がやってきた。この世の春を謳歌していた欧州通貨は、呪いの殺人通貨に成り下がる。オセアニアの高金利通貨も、かつてない最高速度で下って行く。秒速数千とか数万円の速さで資産は目減りする。「有事のドル買い」とまで言われた世界の基軸通貨、米ドルでさえ、見る影もない。
 怖い。
 凍り付くような恐怖感。
 それなのに、なぜ汗が出てくる?

 あの熱帯夜を忘れない。
 本当に熱い夜だった。と思う。だけど、それは僕の精神状態が、そう感じさせていただけなのかもしれない。耐えられる極限まで耐えて、自分の中で何かが切れて僕は、それまでに買い建てていた分の損失のすべてを確定させると、わずかに残った余力で売りに回った。売った瞬間、「レ」の字を描いてグングン上昇していく。すぐに損切ろう。やはり買いでよかったのだ!買いだ!注文を入れてクリックすれば、僕の買った値段、そこが頂点。そして、再び、ナイアガラ。今度は、すぐに損切れない。さっき「レ」の字に上昇し出した記憶が邪魔をするからだ。そして損失は再び、秒速で膨らんでいく。時々、出たように見えたような利益も、真夏の蜃気楼のように揺れて浮いて遠のいていく。
 なんでこうなるんだよ!なんっで、こうなるんだよ!何なんだよ!何だよ、この相場!いつまで続くんだよ!どこまで下がるんだよ!時間を戻してくれよ!時間、戻してよ!お金、返して!返してよ!オレの金!オレの金、返してよ!!
 心が叫びを上げるけど、市場には届かない。
 上がってよ!さあ!反転しろ!上がってちょうだい!
 願いは、聞き入れてもらえない。

 口座の残高がゼロに近づいた時、四つ葉のクローバーのパスワードを僕は勝手に変えた。お母さん、ごめん。必ず、返すから。必ず、埋め合わせるから。

 昔、会社員をやっていた時、大規模なリストラで多くの社員が退職に追い込まれた事があった。その時、同僚とこんな会話をした。
 「自殺者、出るかもしれないね」と同僚。
 僕が、「みんな家庭のある人たちだから、そう簡単に人生を諦めたりはできないよ」と言うと、その後に、印象的な言葉が返ってきた。
「違う。守るべきものがあるからこそ、死を選んでしまうんだ」
 空っぽになった口座をぼんやり眺めながら、ふと思い出して考える。
 ああ、確かに、背負っているのが自分だけの人生なら、大して重くないかもしれない。少し分かる気がする。どうしていいか、分からない。パニック状態なら、自殺願望はなくても、待っている時にホームの先頭に立っていたら、入ってくる電車の前に身をフラリと投げてしまうかもしれない。

 数千の思考が頭の中を巡って、ほとんどすべてを失った時、明るくなった空を朦朧としながら見上げた。悲しい気持ちの反面、やけにすっきりとしている自分がいた。
 熱帯夜が明けて、誓った。
 生きている限り、僕は必ず返り咲こう、と。
 負けたことがある、という経験は、これからの人生の糧になってくれるだろう。



出典:
リンク:

(・∀・): 106 | (・A・): 58

TOP