月光の囁き

2007/12/10 10:21 登録: えっちな名無しさん



 「父さん、月が追い掛けて来よるよ」


祖母の家に遊びに行った帰り道、月光の照らす山道を車で走っていた。

兄と姉は遊び疲れたようで、リクライニングを倒した後部座席で寝ている。


 「ん?何てや?」


 「そいけん、月がこっちば見よるんよ」


父はヘッドライトが照らす山道の先を見つめたまま、僕の言葉に耳を傾けてくれた。

この当時から思っていたのだが、こういう帰り道の父親というものはとても大きく見える物だ。
皆が寝静まった車内で唯一人黙々と車を運転する姿に、僕は密かに憧たりしていた。


 「ん〜月が、かぁ」


月を見上げることなくそう言った。
当然、運転中なのだから仕方ない。

僕はと言うと、助手席に膝立ちになり、かじりつくように窓に見入っていた。

こうしてマジマジと月を見てみると、月明かりとは中々明るいことに気付く。

人工の明かりとも太陽の光とも違う、怪しげな、それでいて美しい独特の光を放っていた。





 「ほら、全然距離が変わらんっちゃもん」


車の窓をどんどん流れていく景色とは裏腹に、夜空に浮かぶ月だけが僕らを追跡するかのように寸分違わぬ距離を保っていた。


 「あっ……!」




―その時




車が山を通るトンネルに入った。




視界が突如として強いオレンジ色に埋め尽くされる。

トンネルに入ることなど普段は何ともないのに、あまりに突然のことで僕はぼ〜っとしてしまい、トンネルを出るまでずっと変わらず窓の外を見上げていた。

しばらくしない内に、大して長くないトンネルを抜ける。


 「どうや、まだお月さんは追い掛けて来よるや?」


バックミラー越しに僕を見る父。
今思い出して見ると、この時の父は相当悪戯っぽい笑みを浮かべていたような気がする……まぁ、その頃はそれに気付く由もなかったのだけれど。


 「まだ、まだおる!こっちば見よる」


 「ほ〜か、そいならこれでどがんや!!」


父がそう言った瞬間、グ〜ッと重力が体にかかるのを感じ、座席に押しつけられるような格好になった。

スピードがグンと上がったのだ。
制限規則は……たぶん破っていただろう。


視界を流れていく景色が一層速さを増す。
もう景色というよりは、たくさんの『線』が移り行くような感覚だった。





 「まだまだ、ず〜っとついてくるばい!」


興味は既に興奮に変わっていた。
父も僕も悪乗りし易い質で、その後しばらく、帰宅そっちのけで山道を激走した。



途中、兄や姉が起きてしまうのでは?


という心配が浮かんだが、それは不思議な雰囲気と、静かに遠くから、だけど耳元から聞こえてくるような月光の囁きで、いとも簡単に消え去った。


―そう、興味は興奮に変わっていた


僕はもう月に……月が放つ怪しげな光に完全に魅了されていた。



今僕の視界に映る景色は、月と同じようにしっかりと見えている。

あれからしばらく車を走らせた後、僕と父さんは山の中腹にある展望台に来ていた。
そこでもやはり、動かなくなった僕達のように、月も同じく止まり、変わらず僕に囁き続けていた。
姉と兄は、止めてある車の中で眠っている。


 「お月さんはほんなごて速かばい」


 「そうやね、僕達車に乗っとったのに」


崖先を囲うように作られた柵に、僕は伸ばした両手を、父は肘をつくようにして空を見上げていた。


その時、鼻を煙たい匂いがかすめる。
いつの間にか、父は煙草を吸い初めていた。


父が家族の前で煙草を吸う事はひどく珍しい。


 「一本、一本だけな?」


僕がじっと見つめていることに気付いたのか、父はバツが悪そうに笑ってみせた。


ふぅ〜、と父がはいた煙は、月に薄くかかる雲のように空に舞い上がり、そしてすぐに消えていく……。


母が死んでから、父は家族に気を使うようになった。

以前は家庭をあまり顧みない人だった……といっても、決して父親として失格だった訳ではない。
怒るときはしっかりと叱ってくれたし、どこかに連れていってもくれた。

だから、僕ら……もちろん兄も姉も含めて、父に責任があるなどと露とも考えていない。
でも、父自身は責任を感じ自らを戒め抑制するようになった……。
煙草もその中の一つだった。


母が死んでからの父はどこかよそよそしく、遠慮がちだったが……久しぶりにこの煙草の匂いを嗅ぐと、やはり父さんなんだな、と感じる。


 「お月さんはな……」


先が赤々と燃える煙草を指に挟んだまま、父が口を開いた。


 「父さん達ば見張りよるとよ」


 「見張りよる?何ば?」


 「全部さ。悪かことも善かことも全部」


 「そ、そがんことしてどうするとね……」


父はこちらを見ようとはしない。
なんだか複雑な表情のまま、僕らを監視しているという月を眺めていた。


 「別に。どがんもせん。……でも見張りよる、いつも、どこにおっても」


なんだか僕も変な気分になって、父に習うようにして月を見上げる。


……その時、ふと思いつく。


 「じゃあ、昼間はどがんしとるとね。月は見えんばい」


自信満々だった。
これで、さっきからじわじわと沸き上がるよくわからない感情を払拭出来ると思った。




 「そいはこっちが見えんだけさ。昼間でも月は空から俺達ば見よる」


……信じられなかった。
月と太陽は交互に空に上がるのだと……ずっとそう思っていたのに。


昼も……夜もずっと月は見ている。


浮かびつつある漠然とした何かが、足音を起てて近づいてくるのがはっきりとわかった。


―それでも


 「じ、じゃあ、僕も月のことば見てやるったい。全部隈無く見てやる。それでおあいこばい」


どうしても否定したかった。
一度認めてしまえば、もう二度と月の支配から逃れられないような気がしてならなかった。


 「お月さんはそれも許してくれん。お月さんは、ずっと片面だけをこっちに向けとるからな、月の裏側は誰も見たことがない」


 「う、嘘だぁ。だって、月はぐるぐる回りよるもん。だけん月の形は変わるったい」


子供の頃は、きっと皆そう思っていたに違いない。
僕もそうだった。


 「まだお前には難しかかもしれんな」


そう言うと、父はあと少しだけ残っていた煙草を携帯灰皿に押し込んだ。


 「ほら、もう帰ろう。段々肌寒くなってきたけんが」


まだ腑に落ちない僕を余所に、父はずんずんと車に帰り始めた。

僕も、慌ててその後を付いていく。


後ろから、月明かりが囁きかけてきたけど、もう僕は振り返らなかった。


さっきまで漠然としついた感情が、今では手にとるように分かる。
いや、手に取るではなく、僕がそれに支配されつつあった。



―興奮は、恐怖に変わっていた





帰りの車の中、相変わらず一人運転する父を余所に、僕は狸寝入りをしていた。

窓に顔を背けるような態勢。
頬を月明かりが照らしていることが、目蓋を通して感じられる。


もうさっきのように、追い掛けてくる月を見上げることは出来なかった。

どこまでも振り切れず、何もかも見つめる月は、もう恐怖の対象でしかなかった。


僕が嘘寝をしながら恐怖に震えることを知ってか知らずか、父は一言


 「でも、お月さんは綺麗やね……」


と言った。
それは、まるで月光の囁きのようなか細い響きだった。



恐る恐る、寝返りをうつフリをして見上げた夜空。



先程と変わらず空に浮かぶ月は、確かに美しかった。







僕は大人になった。



毎日が忙しく、もう空を見上げることも少ない。


大きくなり、色々なことを知り……。
世界はつまらないものになってしまった。


何も不思議に思うことはない。
何もかもを理由付けし、理解しようとする。
もし理解出来なくても、わかったフリをして誤魔化し、それでもダメなら目を瞑り……そんなの嘘だと無視をする。


―僕はつまらない大人になった



たまに夜空を見上げてみると、あの日のことを思い出す。


理論はもちろんもう理解している。
地球が太陽の衛星で、月が地球の衛星……ただそれだけのことだ。



―でも



すべてを理解し、大人になった今でも、月が僕を見張っているような気がしてならない。


今もあの日と変わらずに、僕の耳元で、月光は囁き続けている。






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