跡形も残らない夜空 vol.2 http://moemoe.mydns.jp/view.php/13669 相変わらずの日々を過ごし、年は明け、春になった。今年も新入社員が入ってくる。 俺も入社して丸二年、今年で三年目になる。任される仕事も増えた。来年当たり、主任が部長補佐になり、紗恵さんが主任になるという噂もあった。 早く紗恵さんの足下くらいには追いつこうと思っていたが、年齢差が永遠に縮まらないのと同じで、仕事でも追いつけることなんて、ないんじゃないか。追いついて対等になって、告白なんてできるわけがない。それは言い訳で、ただ振られるのが怖くて伸ばしのばしにしているだけじゃないか。そろそろ、誤魔化すのはやめよう。 ただ、ちょっと気になることがあった。今年の新入社員の教育係を打診された紗恵さんが、辞退したという。理由はわからないが、断ったというのは確からしい。昇進の話もあるのに、なぜ不利になるとも言える決断をあえてしたのか。 M美は、 『K君の教育係をして、もう懲り懲りだと思ったんじゃないの?』 といつものように憎まれ口を叩いてくれたが。 後輩ができて、わかったことがある。人にものを教えるのは、ものを教えられるより大変だということ。 『教育係になる人だけじゃなく、わからないと思ったら、他の先輩にも迷わず聞け』 というのが、部長の方針だ。俺も新人の頃、紗恵さんが手を離せないとき、休日出勤の代休で紗恵さんがいないとき、主任や他の先輩達に質問したことがある。みんな迷惑そうな顔ひとつせず、親切に教えてくれたものだ。 実際、俺も後輩に質問され、四苦八苦しながら教えた覚えが一度ならずある。 人に教えるってことは、すげー労力を使うんだな――そう思った。ましてや、ずぶのデザインの素人だった俺に、すべて一から専属で教えるなんて紗恵さんの労力は相当なものだったろう。もう二度とやりたくない、と思っても不思議じゃない。抱えてる仕事は、俺なんかより段違いに多い。それなのに新人の教育係になるなんて、ごめんだ、と。 だけど、やっぱり紗恵さんらしくない。紗恵さんが教育係をしているとき、仕事を一手に引き受ける、とまではいかなくても、サポートして負担を減らすくらいはできると自負していた。その結果、残業が増えるくらい構わないと思っていた。俺が新人のときは、紗恵さんも他の先輩もそうだったはずだ。 『先輩が後輩の面倒見るのは当たり前だし、私もみんなも迷惑だなんて思ってないよ』 紗恵さんはそう言ってたのに。だから俺もそう思ってやってきたのに。あれは嘘だったんだろうか? とはいえ、紗恵さんは代わって新人の教育係になった人のサポートも、進んでこなしていた。残業が増えても嫌な顔ひとつしなかった。新人がたまに質問してきたときも、作業の手を止め、根気よく丁寧に教えていた。やっぱり俺の思い過ごしだな。俺を教えていた頃より、紗恵さんの仕事量は増えている。責任も大きい。それに専念したいということなんだろう。 横で見ていて思うのが、紗恵さんの教え方は、すごく的確で解りやすい、ということだ。新人も男女関わらず、紗恵さんに質問することが多かった。どうせなら美人で優しい先輩に教えてもらいたい、てことなんだろう。ま、俺もそれには異議を唱えないけど。 五月の連休明け。七時過ぎに、そろそろ帰るか、とPCの電源を切った。 「K君、今日は終わり?」 紗恵さんが声をかけてきた。 「あ、はい。思ったより順調に進んだんで」 「そっか……。じゃ私も終わうかな」 一緒に帰れるってことか。デートに誘われたわけじゃないけど嬉しくなった。……いい加減、進展させないとな。 紗恵さんと一緒に会社を出る。この二年ちょっとの間でもう何度もある。それでも心は浮き足だっている。 ただ、紗恵さんの口数は少なかった。どうしたんだろう? 少し前のことが思い出される。紗恵さんが電話で誰かと喧嘩して泣いていたとき。なんだかあのときと様子が似ていた。 「K君、今から時間ある?」 「え? はい」 「お茶でも飲んでいかない? 話したいことがあるの」 紗恵さんはそう言って、近くの喫茶店に向かう。話がある? なんだろう? 不安と期待が入り交じった気持ちで、店に入る。紗恵さんはミルクティー、俺はホットコーヒーを頼む。 話があるといった割には注文したものがきても、紗恵さんはなかなか切り出そうとしない。なんだか迷っているようだ。 「あの……話って?」 「あ、うん……」 紗恵さんは、ミルクティーを一口飲むと、俺の顔を真っ直ぐ見た。 「実はね、私、会社辞めるの」 ……はい? 今、紗恵さん、なんて言った? 辞める? 会社を? なんで? 「え……」 言葉が出なかった。そんな急にいわれても……。思考が停止していた。 「あの……聞いてる?」 「は、はい。聞いてます……」 そう答えるのがやっとだった。カップに伸ばしかけた手はそのまま止まっている。 「い、いつですか? 部長には話したんですか?」 「ん……連休前にね、来月末で辞めるって」 「そんな……どうして」 「うん、別の会社に移ろうと思って」 「別の会社……」 完全に頭の中が混乱していた。わからない、来年には主任になるっていう話もあるのに……なんで。 「部長はなんて……?」 「引き留められたんだけどね、考え直してくれって。でももう決めたから。今日もそう伝えて、承諾してくれたよ」 そうか……だから紗恵さんは今年の教育係を辞退したんだ。最後まで面倒を見られないのなら、やる意味がない、と。なんで俺は気づかなかったんだろう。 俺は椅子の背もたれにがっくりと身体を押しつけ、息を吐き出した。 「もう、みんなは知ってるんですか?」 「ううん、知ってるのは部長と主任だけ。辞めるのは来月末だから、みんなにはそのうち……」 紗恵さんはそう言って俺の顔を見てちょっと笑った。 「あ、でもまだ誰にも言わないで、みんなには部長か主任から話があると思うから。だけど、K君には早いうちに言っておきたかったんだ」 「俺には、ですか?」 「うん、私の持ってる仕事あるじゃない? それをK君に引き継いでもらえないかな、と思って」 「俺が……」 「そう、部長にはまだ言ってないけど。そのうち誰かに決めなくちゃいけないから」 「……」 「全部ってわけじゃないの。K君だって担当の仕事があるからね。大体は主任が引き受けてくれるみたいだし、残りは何人かに振り分けることになると思うけど、主だったものはK君にやってもらえないかなって」 紗恵さんが辞める。紗恵さんが会社からいなくなる。紗恵さんに会えなくなる。いや、そのうちこういう日が来るのはわかっていた。だけど、俺はまだ紗恵さんになにも伝えられていない。俺の気持ちを……。 「ごめん、急にこんな話して……負担も増えることになるけど」 「いえ……それは全然構わないんですけど」 その後、なにを話したかあまり覚えていない。いや、実際あまり会話はなかったと思う。店を出て駅まで歩き、いつものようにホームで別れるまで、とくになにも話さなかった。 頭の中が混乱している。その夜、ウトウトしては目を覚ますという、浅い眠りを繰り返し、朝になった。 次の日、明らかに寝不足とわかる顔で出社した俺を見て、紗恵さんはなにか言いたげだったが、俺は努めて普段と同じように振る舞った。 それから毎日、俺は紗恵さんの仕事を引き継ぐために、過去データや、フォーマットやテンプレートのコピー、各仕事別の細かい決まり事などを紗恵さんから教えてもらった。もちろんまだ周りの人たちに言うわけにはいかないから、大っぴらに話したり聞いたりはできなかったけど。 紗恵さんとは、仕事以外の話をこのところしていない。いや、できなかったのだ。なにを話していても、紗恵さんが辞めてしまうことが頭から離れなかった。一緒に帰ることも避けるようになっていた。それが話題になったら、多分俺は笑顔ではいられないから。 「今日のお昼はどうするの?」 ぎくしゃくした日々が一週間ほど続いたころ、紗恵さんが聞いてきた。 「昼ですか? いつも通りですけど」 俺はいつもコンビニの弁当やパンで済ませていた。たまにはホカ弁や、飯屋で済ませることもあった。紗恵さんは自作の弁当か、たまにM美達と外へ出ることもあった。 「じゃ、ちょっと出ない?」 「は、はい……」 今までもたまに紗恵さんと、昼を一緒にしたことはあった。俺にとってはすごく嬉しかったことのはず、だったが、今はなんとなく気が重かった。 会社から少し離れたパスタ屋に入る。席は空いていたが、紗恵さんは俺をカウンターへと誘った。並んで席に着く。 オーダーを済ませて、注文の品を待っている間、俺はできるだけ、仕事の話をして、紗恵さんが辞めることについて話題がいくのを避けようとしていた。 「ねえ、遠慮せずに言って欲しいんだけど」 紗恵さんは、俺の話を遮るように切り出した。 「え……なにをですか」 「K君、ここのところ、ちょっと変だよね」 紗恵さんが、俺の目を見て言う。 「そ、そうですか?」 「……」 紗恵さんは俺から目を逸らすと、水の入ったコップに視線を移した。 「やっぱり……迷惑だった?」 「ええ? なんのことです?」 「私の仕事を引き継いで欲しいってこと」 紗恵さん、なに言ってるんだ? どうしてそんな……。 「ごめん、無理言ってるのはわかってるの。でも、どうしてもK君にやってもらいたくて……」 「さ、紗恵さん?」 「だけど、負担も増えるからね、間違いなく。それが困るって言うのなら……」 「ちょっと待ってください、俺そんなこと全然思ってないですよ」 「K君に任せたいっていうのは、まだ部長には話してないの。だからその前に、無理なら無理って言って欲しいんだ」 「だから思ってませんって」 紗恵さんは、俺の顔に視線を戻す。 「それを言ってから、なんとなくK君、私と話すのを避けてるみたいだし、やっぱり迷惑だったのかなって……」 紗恵さんは、すごく寂しそうな顔をしていた。 「あ……」 このところ、俺は紗恵さんと仕事以外の話をするのを避けていた。一緒に帰ることも、しなかった。俺は紗恵さんが辞めることについて話をするのが辛くてそうしていたんだけど……。紗恵さんには、俺が仕事を引き継ぐのが迷惑だと思っていると感じられたんだ。 「紗恵さん、はっきり言います。俺は迷惑だなんて思ってませんよ」 「……ほんとに?」 「あたりまえじゃないですか。そりゃ、紗恵さんと同じクオリティで仕事ができるかどうかって不安はありますけどね」 「……K君なら大丈夫だよ」 「そう言ってもらえるのは嬉しいです。だけど迷惑だなんて思ってません、ほんとですよ」 「ありがとう……」 紗恵さんはいつもの柔らかな笑顔を浮かべた。別の会社に移ることで不安もあるだろう。紗恵さんは俺を信頼して仕事を任せたいと言ってくれたんだ。 なにをやってるんだ、一体。俺はこの人の笑顔を見ていたかったはずだ。なのに、俺が不安にさせてどうすんだよ……。 「話すのを避けていたつもりじゃないんですけど。でも、みんなにはまだ内緒じゃないですか、なんだかうっかり口滑らしちゃいそうで」 「ああ、そうだね」 紗恵さんは、くすっと笑う。 「ごめん、気遣わせちゃったね。そろそろ、そっちも言わないとね」 俺も腹決めないと。いつまでもこんなことじゃ駄目だな。 それから二日後、紗恵さんと俺、部長と主任の四人は会議室で話をした。俺が紗恵さんの仕事を引き継ぐことを承諾したということと、今後のことについてだ。もちろん、俺が全ての仕事を引き継ぐのは物理的に無理だから、俺と主任が中心になって引き継ぎ、あとは兼ね合いを見て、数名に振り分けるということだった。 紗恵さんが辞めることについては、来週部長からデザイン部全員に知らせる、ということも聞いた。普通、誰かが辞めることになっても、わざわざ部長の口からみんなに伝えるなんてことは今まで無かった。担当している仕事も大きかったし、やはりそれだけ紗恵さんがデザイン部署で大きな役割を占めていて、与える影響も大きいんだろう。 次の週の月曜日、部長は臨時の朝礼を行った。 「ちょっとみんなに話したいことがある。仕事の手を止めてすまないが、前に集まってくれ」 みんな何事かという顔で仕事を止め、前に集まった。俺は少し緊張した。隣にいる紗恵さんの横顔をそっと見たが、とくに変わりなく無表情だった。 部長が紗恵さんが辞めると告げると、みんなは驚き、ざわついた。M美が、ほんとなの? という表情で俺を振り返る。俺はちょっと頷くと、部長に呼ばれて前へ出る紗恵さんの後ろ姿に視線を戻す。 「突然、このような話になってすいません。身勝手ながら来月末でここを辞めることになりました。皆さんにはご迷惑、ご負担をおかけすることになり、申し訳ありません……」 紗恵さんは真っ直ぐみんなの方を見ながら、挨拶する。堂々とした態度だった。 紗恵さんの話が終わると、部長が代わって今後の仕事のことについて話し始める。紗恵さんがこの会社にいるのも、あとひと月なんだな、と改めて思った。 その日、俺がそろそろ帰ろうかと思っていると、M美が声をかけてきた。 「K君、今日は終わり? 一緒に帰らない?」 紗恵さんは、すでに帰っていた。 「あー、いいよ。帰るか」 M美と一緒に会社を出た。しばらくお互い黙ったままだったが、M美が口を開いた。 「……知ってたの?」 「ああ……三週間くらい前に紗恵さんから聞いてた」 「……そう」 「驚いた?」 「うん……かなり」 M美はショックを受けているようだ。 「K君は?」 「そりゃ聞いたときは、驚いたけどさ、とめる権利ないし」 「だけどさ、紗恵さんが仕事をK君に任せるってねえ、信頼されてるじゃん」 「まあな、よく手伝っていたからな、細かい決まり事も他の人たちよりはわかってるし」 M美はちょっと笑った。 「だけど紗恵さんの仕事、ウチの部署内でもかなりレベル高いしねー」 「うん、全部は無理だから、お前にもいくらか振り分けられると思うよ。決めるのは部長と主任になると思うけど」 「ん、それはいいんだけどね」 M美は俺の目を見ていった。 「でさ……いいの?」 「なにが?」 「好きだって言ってないんでしょ、まだ」 やっぱその話か。まあ今更こいつに隠してもしょうがないな。 「うん、でも……」 「……」 「言うつもりではいるよ、機を見て」 M美が可笑しそうに笑う。 「もう二年もそう思ってるんでしょ?」 「うるせーな、だから言うよ」 「あと一ヶ月のうちに?」 「……ああ」 なんだってこいつ、俺に紗恵さんのことで絡むんだろ? 「K君さあ……紗恵さんとじゃ今のままじゃ釣り合わない、追いつきたい、って思ってたんだろうけどさ」 「ん?」 「紗恵さんはK君のこと信頼して仕事任せたいって言ってるんだよ、いちばん認められたい人に認められてるじゃない」 「ん……そうかな」 「そうだよ」 そこまで言ってM美の顔から笑顔が消えた。 「あ、ごめん、あたし忘れ物したから」 「え?」 「取りに戻る、じゃあね、ここで」 「おい、なんだよ、どうした?」 俺はいつもと様子が違うM美に不安を覚え、腕を掴んだ。 「どうしたんだよ?」 M美は俺の顔を一瞬見て、目を逸らした。今まで見たこともない表情だった。 「やだな……あたし、紗恵さんが辞めるって聞いたときさ、すごくびっくりしたけど……」 「ん?」 「そのとき、チャンスかな、って思っちゃったんだよね……」 「は?」 「やだ、ごめん、あたし戻る!」 M美は俺の手を振りほどくと、元来た道を、走って引き返していく。 なんなんだよ、一体……。俺はあっけにとられてその後ろ姿を見送った。 紗恵さんが辞めるという話は、すぐに知れ渡った。紗恵さんのファンらしい他部署の人間が、なにかと用事を作っては紗恵さんに話しかけていた。紗恵さんは笑顔で、淡々とそれに応じていた。 俺も色々と聞かれることが多かった。とくに仕事柄だろうか、押しの強い営業部の先輩からは、何故辞めるのか? どこの会社へ移るのか? もしかして結婚するんじゃないの? などと問いつめられた。うんざりしたが、ほんとに紗恵さんってもてるんだな、と改めて思う。 M美はあれからとくに変わった様子はない。翌日に、昨日はごめん、と言われただけで、その後はいつも通りだった。これが最後だとばかりに誘いをかけてくる先輩達に、グズグズしてたら先越されるよ、なんて言いながら笑ってる。 俺も気が気ではなかったが、紗恵さんの引き継ぎで精一杯だった。紗恵さんが信頼してくれて――いちばん認められたい人に認められて――いるのだから。中途半端に引き継いで、紗恵さんが築き上げたクライアントの信用を失うことになったら、それこそ紗恵さんを裏切ることになる。 紗恵さんが会社に来るのも、あと十日を切った。俺と主任でなんとか仕事の引継ぎは終えた。とりあえず主だった物は俺と主任で引き継ぎ、あとは様子を見て他の人に振り分けることになるだろう。 その週の金曜日に紗恵さんの送別会があった。最終日は次の週の木曜日だったが、平日だし、仕事の関係もあってその日に行われたのだ。デザイン部署は全員出席し、他部署からも多くの参加者がいた。 酒が入って酔っぱらい、 「残念だよ、非常に残念。ウチの大きな損失だな」 と、何度も同じことを繰り返す部長。 「紗恵ちゃ〜ん、俺を置いて行かないでよー」 などと、紗恵さんに寄りかかって甘え、周りから頭を殴られて引き離される営業部の先輩。 「寂しいですー」 と、今から泣いてる後輩の女の子達。 俺はほとんど紗恵さんとは話ができなかった。 それを見ていたM美が、 「いいの? ほら、○○先輩、完全に狙ってるよ、やばくない?」 「まあ、今日はしょうがないよ、あれだけ次々囲まれたら……」 「余裕っすねー、Kさん」 などとからかうように言う。 「馬鹿」 紗恵さんはいつも通りだった。一人一人に話し、笑い、露骨な誘いはさりげなくかわす。 一次会の店がお開きになって、二次会となり、三分の一くらいの人数が帰宅する。いつも二次会は行かない紗恵さんだったが、その日はそうもいかず、二次会にも出る。出席者のほとんどが酔っぱらって収拾がつかなくなったとき、やっと紗恵さんの隣に座ることができた。 「紗恵さん、お疲れさまです。大丈夫ですか?」 「うん、大丈夫だよ。なんだかK君とはほとんど話できなかったね」 「なんか圧倒されちゃって……出遅れちゃいましたよ」 「ふふ、でも来週も四日間は会えるわけだしね、まあいいよね」 こんな感じで、二次会も終え、紗恵さんは花束をたくさん抱えて、帰っていく。 あと四日か……。なんかほんと最後までグズグズしてたな、俺。 最終日に紗恵さんを食事に誘う。そこで告白する。こう言ってしまえば簡単だが、まず紗恵さんが誘いを受けてくれるかどうか。今まで何人もの男が玉砕しているのだから、俺もそうなる可能性は大いにあった。もし駄目なら、最後に一緒に帰って、そのときに告白するまでだ。とにかく気持ちを伝えないと。でなきゃ一生後悔する。 紗恵さんはこのところ、チラシやポスターなど、単発の小さな仕事ばかりを担当している。もう辞めるのだから、長丁場になる仕事はしない。最終日も、定時で終わるだろう。俺もそれに合わせて帰れるようにしないと。 俺は 入稿スケジュールを見て、木曜日に定時であがれるように仕事を進めた。 紗恵さんの最終日の前の日。多分俺は、生まれてからいちばん緊張していただろう。 「どうしたの? ここのところいつも遅くまで頑張るんだね。そんなに詰めなきゃいけないわけじゃないんでしょ?」 紗恵さんは少し不思議そうに聞いてきた。 「いや、まあそうなんですけど。紗恵さんは今日は終わりですか?」 「うん……。なんなら手伝おうか?」 「いえ、大丈夫です。もう俺も終わるんで」 ここまで詰めておけば明日は大丈夫だな。 「じゃ帰りましょうか」 「あ、うん……」 紗恵さんは怪訝な表情だ。かなり挙動不審なんだろうな、俺。 紗恵さんと一緒に会社を出る。 「あー、K君とこうやって帰るのも最後かな」 いきなり出鼻を挫くようなことを紗恵さんは言ってくれた。 「え……明日もあるじゃないですか」 「そうだね、明日も一緒に帰れるといいね」 「帰りましょうよ、絶対に」 「じゃ、仕事が終われるように頑張ってね」 たわいもない会話をしながら、俺は駅が近づくにつれて、心臓の鼓動が早くなってくる。 会話がちょっと途切れたとき、俺は思いきって口を開いた。 「紗恵さん、明日なんですけど、なにか予定あります?」 ちょっと声が裏返ってしまった。 「明日?」 「あ、はい。会社終わってからですけど」 手の平にまでじっとりと汗をかいていた。 「ん……とくにないけど」 「じゃ、俺と食事にいきませんか?」 「え?」 紗恵さんはきょとんとして俺を見返す。 「あ、その……最終日ですし……」 「あ〜」 紗恵さんは、はははと笑った。 「最後にご馳走してくれるってこと?」 「は、はい。そうです」 最後、にはしたくないけど。いや、今は余計なことは考えるな。 「そうかあー」 紗恵さんは、白い歯を見せて笑顔になった。 「うん、いいよ」 ……OK、だよな、これ。 「ほ、ほんとですか?」 勢い込んで俺は聞いた。紗恵さんの肩を掴みかけて、慌ててそれを抑える。 「可愛い元教え子の誘いなんだよ、断るわけないでしょ」 「元、ですか?」 「うん、もう私が教えることはなにもないもん」 「いえ……まだまだ教えてもらいたいことはたくさんありましたよ」 紗恵さんがくすっと笑って、俺の髪にちょっと触れる。 「もうとっくに一人前だよ、何度も言ってるけど」 「……ありがとうございます」 駅に着き、ホームで電車を待つ。 「ね、もしかして明日のために仕事詰めてたの?」 紗恵さんが思いだしたように言う。 「え! あ、いや、まあ……そうです」 紗恵さんはくすくす笑う。 「ありがと、嬉しいよ」 俺の乗る方向の、電車が先に来る。 「じゃ、また明日ね、おやすみ」 「は、はい。おやすみなさい」 紗恵さんは、にこにこ笑いながら手を振ってくれた。 電車内で自然に頬がゆるみそうになるのを我慢する。今まで何人も誘ったけどOKしなかった紗恵さん。これは脈あり、なのか? 俺が男として、まったく警戒されてないってこともあり得るけど。 とりあえず、誘いは受けてくれたんだ、よしとしよう。本題は明日なんだよ。 次の日、俺は朝早く目が覚めた。なにを着ていこうか迷う。やっぱり、いつものジーンズってのもあれかな。 あれこれ悩んだが、結局いつも通りの服装で行くことにした。会社にはいつもより早く着く。もし、紗恵さんがお洒落してきたらどうしよう? ……いや、昨夜の様子だとそれはないな。教え子の誘い、だもんなあ。 「お早う」 紗恵さんはいつも通り途中で買ったカフェラテを片手に出社してきた。ジーンズに清潔な感じの麻の白いシャツ。やっぱり紗恵さんはこういう服装がいちばんよく似合う。 「お、お早うございます」 紗恵さんは俺を見て、にこっと笑った。 予定通り仕事は進み、確実に定時で終われそうだ。時間が近づくにつれ、落ち着かなくなる。あまりそわそわしてると変に思われるよ。紗恵さんは単に俺が今まで世話になったお礼、で誘ったと思ってるに違いないんだから。 定時二十分前、他部署に挨拶をしてきた紗恵さんが戻ってくる。デザイン部署のみんなにも一人一人声をかけている。辞めちゃうんだな、ほんとに。でも、これで最後にしたくない。会社では会えなくても紗恵さんとはずっと……。 全員に挨拶し終えた紗恵さんが、席に戻ってきたときは少し定時を回っていた。 「ごめん、ちょっと遅くなったね」 「いえ、大丈夫ですよ」 「じゃ、出る?」 「は、はい。いつでもいいですよ」 他のみんなはまだ仕事をしている。帰るのは俺と紗恵さんだけみたいだ。紗恵さんはもう一度、部長の前まで行って最後の挨拶をしている。何人かも名残惜しそうに集まってなにか話している。俺は電源を落として、紗恵さんを待った。 「それじゃ、お先に失礼します」 「お疲れさまでした」 「また遊びにおいでよー」 「元気でね」 「お疲れー」 「いつでも戻ってきていいよ」 一斉に声がかかり、紗恵さんは笑顔で頭を下げた。 「じゃお先に失礼します」 俺も後から出ようとすると、 「あれ? K君も帰るの?」 「最後に師匠をお見送りかあ〜?」 と冷やかされた。M美がちらりと俺の方を見た。俺はちょっと視線を送ったが、M美は無表情で、またモニターに目を戻した。 部屋を出て、紗恵さんと顔を見合わせ、くすっと笑った。 「なに言われてたの?」 「最後に師匠をお見送りとかなんとか」 そう言ってまた笑い合った。 「行こうか」 「はい」 目星をつけていた、ダイニング・バーに入る。酒の種類も多いし、料理もかなり充実している。ほんとはホテルのフレンチレストラン、とかがいいんだろうが、あまり気合いの入ったところだと紗恵さんが驚くだろうし。お酒も好きだって言ってたし、気楽な方がいいだろうと思った。俺も少し酒が入った方がいいしな……酒の力を借りなきゃいけないなんて情けないけど。 店に入って驚いた。照明がかなり薄暗かったのだ。雑誌で調べて決めたのだが、こんなに照明が暗いなんて思わなかった。いや、こういう店は薄暗いのが当たり前だよな。だけどいかにも、口説きますよ、って言ってるみたいなもんじゃないか。しかし紗恵さんは気にする風もなく、 「いい感じの店だね」 と言ってくれた。そのとき流れてきた曲に、 「あ、この曲好き」 と、言って俺の顔を見て笑った。紗恵さんは七〇〜八〇年代のロックやポップスが好きだった。この店ではそういう曲が多くBGMとして流れる。これも雑誌で知ったんだけど。気に入ってくれたようだし、まあいいか。 平日なので、客は七〜八部入りといったところだろうか。あまり騒がしくもなく、静かすぎるわけでもなく。俺達は隅の方のテーブルに腰を据えた。 「なに飲みます?」 「最初はビールかな、やっぱり」 料理はテーブルで従業員に注文し、飲み物は、カウンターで注文して、自分で取ってくるらしい。 「じゃ、俺取ってきますね」 ひとまずビールで、 「お疲れさまでした」 と、乾杯する。 「ビールはすぐお腹一杯になるから苦手なの」 紗恵さんは、バーボンソーダやジントニックに切り替えた。照明が暗いのでよく判らないが、多分、頬はほんのり紅く染まっているのだろう。 それでもいくら飲んでもびくともしなかった。会社の忘年会でも、結構飲んでいたけど、あれはきっと抑えてたんだな。紗恵さんがこれほど酒に強いとは思わなかった。俺も弱い方じゃなかったけど、紗恵さんに合わせていると、すぐに潰れてしまう。バーボンのロックをちびちび時間をかけて飲むことで対抗するしかなかった。 「あったよね、そんなこと。もう何年も前の話みたいな気がするけど、ほんのこの間よね、なんか懐かしいな」 紗恵さんはよく飲み、食べ、よく話して、よく笑った。自分のお気に入りの曲がかかると、軽くリズムを取りながら、そのアーティストの話をする。本当に心から楽しんでくれているみたいだ。 紗恵さんとこうやってデートするのは夢だったなあ、と思いながら、俺も楽しんでいたが、これ以上飲んでると酔っぱらってしまう。そうなる前に早く気持ちを伝えなきゃ。 もう一時間以上も話し続けているのに、なかなかきっかけが掴めない。いったん焦り始めると、すぐに態度に出てしまうのか、 「どうしたの? 飲み過ぎた?」 紗恵さんは、心配そうに声をかけてくる。 「いえ、そんなことないですよ」 まずいな、このままじゃ、そろそろお開きにしようか、ってことになってしまいそうだ。いや、とりあえず店を出て酔い醒ましに少し歩きましょう、と静かなところで改めて話すのもいいかな、などと色々考える。 会話が少し途切れ、紗恵さんが好きだという曲にしばらく聴き入っているとき、 「K君、彼女はいないの?」 と、いきなり聞かれた。ドキッとしながらも、 「いえ、いないですよ」 と正直に答える。 「好きな子もいないの?」 好きな人に面と向かってそう聞かれ、平静でいられるほど図太くない。 「あ、それは〜……」 「なんだ、いるんじゃない」 紗恵さんは、悪戯っぽい笑顔を浮かべた。 「M美ちゃん?」 思わず飲みかけていた酒を吹き出しそうになった。やっぱり紗恵さん、誤解してるよ。 「え? な、なんでM美が出てくるんですか、違いますって」 「だって仲いいでしょ、あなたたち」 「そうじゃないですよ、あいつ、いつも俺のことからかって、喧嘩ばかりしてるんですから」 紗恵さんはくすくす笑い、 「喧嘩するほど仲いいっていうしね」 そう言うとジントニックを口に含んだ。 「い、いや、そんなんじゃ……」 「だけどね、M美ちゃんはK君のこと好きだよ」 え……? M美が俺のことを? 「いやあ、ありえないですよ」 「ふふ、M美ちゃんも素直じゃないからねー」 紗恵さんはグラスを置くと、片手で頬杖をついて、俺の目を覗き込んだ。 「心当たりない?」 「心当たり……? あ……」 紗恵さんが辞めると部長から知らされたあの日。 『チャンスかな、って思っちゃったんだよね』 M美の言葉が思い出される。なんのことだかさっぱりだったが、紗恵さんの言うとおりだったら――俺が紗恵さんに想いを寄せているのを知っているのだから。M美の性格からして、紗恵さんのことに関してやけに絡んでいたのもなんとなくわかる。とっとと、くっつくか振られるかしちゃってよ、ってことか。割り込もうとしないところもM美らしい。いや、ほんとに紗恵さんの言うとおりだとしたら、だけど。 俺はそっと溜息をついて、背もたれに身体を預けた。 「思い当たった?」 「え……? いや、まあ」 「K君も鈍感だしねえ」 M美が俺を……。でもあいつのことは好きだけどそういうんじゃない、それは恋愛感情っていうものじゃない。 「だけど、俺が好きなのはM美じゃないですよ」 「そっか……お似合いだと思ったんだけど」 紗恵さんは少し笑うと、またグラスを口に運ぶ。言うなら今だ。告白のタイミングまで紗恵さんにつくってもらったみたいで、ちょっと情けないけど。 「あの、俺が好きな人はですね……」 「ん? 私が知ってる人なの? 会社の子?」 紗恵さんも十分鈍感だよな……。俺は息を吸い込み、呼吸を整えた。 「俺が好きなのは、紗恵さんです」 とうとう言った。俺の耳には、店に流れている音楽も、周りの客のさざめきのような話し声も聞こえていなかった。 紗恵さんは、きょとんとした顔をして俺を見ている。 「え……? わ、私?」 「はい、そうです。俺が好きなのは紗恵さん、です」 俺は真っ直ぐ紗恵さんの目を見ていった。紗恵さんも真っ直ぐ俺の目を見返した。 「そ……そう、なの」 今度は紗恵さんが深く息をつき、背もたれに身体を預けた。やっぱ驚くか、ムードもなにもあったもんじゃないもんな。普段からそう臭わせてればよかったんだけど。いや、それができていたなら、二年間も燻り続けていたりはしないのだ。 やっと俺の耳に周りの音が流れ込んできた。紗恵さんは、しばらくグラスを見つめ、顔を上げて俺を見た。 「驚きました?」 「ん……ちょっとね」 紗恵さんは微かに微笑む。 「でも……私は三つも年上だし、他にもっと若くて可愛い子いるじゃない。あれじゃないの? 若い男の子が年上の女に憧れるってやつ」 「いえ、確かに初めはただの憧れだったかも知れませんけど、すぐに好きなんだって気づいたんです。この二年間ずっと……」 「二年……」 「すいません、急で驚いたでしょうけど。俺、入社して二年ちょっとになりますけど、ずっと紗恵さんのこと……」 「……」 紗恵さんは、自分の指先を見つめた。なにかを思い出そうとしているように。 「もしかして、気づいてました?」 俺も、紗恵さんの端正な指先を見つめながら聞いた。 「ううん……そうね、もしかしたら、と思うことは微妙にあったんだけど」 紗恵さんは俺の顔に視線を戻すと、 「でも、さっき言ったように、ただ一時だけの憧れなんだろうと思ってて。M美ちゃんと仲よかったし、M美ちゃんはK君のこと好きだしね、そのうち二人はくっつくんだろうな、って」 くすっと紗恵さんは笑うと、 「でもM美ちゃんはなんでK君に好きだって言わないのかな、早くK君も気づいてあげなよ、と思ってたのよ」 「それは……もしそうなんだとしたら、俺が紗恵さんのこと好きだって知ってたからじゃないですか」 紗恵さんは、ちょっと驚いたような表情をする。 「え? M美ちゃんは知ってるの?」 「はい……俺から話したわけじゃないんですけど。早いうちから気づいてました。見てりゃわかる、って」 「そ、そうなの……」 紗恵さんは髪をかき上げると、 「M美ちゃんに悪いことしたな」 「え? なにをです?」 「K君が、熱出して倒れたとき、『お粥作ってあげたら?』とか、他にも色々からかうようなこと言っちゃったことあるから」 紗恵さんはちょっと溜息をついた。 「M美ちゃんにしてみれば、私にそんなこと言われたくないよね……」 そう言えばそんなことあったよな。俺はちょっと笑うと、 「M美は紗恵さんのこと、そんな風には思ってないですよ」 その後につけ足した。 「それに俺も」 「そうだね、ごめん」 「いえ……俺もM美にはいつも言われてたんですよ、さっさと気持ちを伝えろってね」 「あ、そうなんだ……」 俺は、椅子に座り直して姿勢を正した。 「今日はそれを言おうと思って誘ったんです、二年間ずっと想い続けて、紗恵さんが辞めるっていうこんなギリギリまで言えなかったんですけど」 「あ、はい……」 紗恵さんも姿勢を正した。 「改めて言います。俺、紗恵さんのことが好きです」 「……」 「よければ俺と……つきあってください」 紗恵さんは、俺の目を真っ直ぐ見ながら、 「ん……その、気持ちはすごく嬉しいの、ありがとう。でも……」 紗恵さんは、そこで言葉を切った。 「ごめんなさい、私、好きな人いるから」 紗恵さんの言葉が残響のように耳に残った。やっぱり、こうなるか……。 好きな人がいるか、つきあってる人がいるかどうか確かめるもんだよな。でも、あらかじめ、それを確かめてからでも、やっぱり俺は告白していたと思う。たとえ振られても、気持ちを伝えずに紗恵さんと会えなくなるのは嫌だった。 「あ、そ、そうなんですか」 予想外のことじゃないはずだった。むしろこうなる確率の方が高いのはわかっていた。だけど、やっぱりダメージでかいな。 「ごめんね……」 「い、いえ。俺こそ突然驚かせてすいません……。あの、その人とはつきあってるんですか?」 「うん……そう」 「もう長いんですか?」 「三年近いかな」 三年……。俺が紗恵さんと出会った頃には既につきあっていたのか。はは、なんだよ、初めから玉砕決定だったんじゃないか。 「もしかして、会社を辞めることとその人がなにか関係あるんですか?」 「ん〜……」 紗恵さんはちょっと唇を尖らせる。紗恵さんが迷ったり、考えごとをするときの癖だ。仕事をしているとき、デザインなんかを考えながら、いつも唇を尖らせ、モニターやラフ原稿とにらめっこしていた。なんか可愛くて好きだったな。 「うん、そうだね」 「そうですか……よかったら理由聞かせてもらえないですか? 嫌ならいいですけど」 「うん……その人がね、仕事の関係でここを離れたから」 「遠いんですか?」 紗恵さんの口から出た場所は、ほんとに遠かった。会いに行くには新幹線で何時間とか、飛行機で移動するような距離だ。 その人の側にいるために、会社辞めてまで、ついていくんだ……もう完全に俺が入る余地なんてなかったんだな。 「羨ましいですよ、その人が。そこまで紗恵さんに愛されるなんて……羨ましいです」 なんかみっともないけど言わずにいられなかった。紗恵さんはちょっと微笑む。 「悩んだんだけどね、私も。その人が向こうへ行ったのは去年の秋だったけど、すぐには決断できなかったからね」 あの出来事を思い出した。紗恵さんが電話で話して泣いていたとき。 『私だってそうしたかったよ、だけど仕事もあるし、簡単に決められないよ!』 そうか、あのときからずっと紗恵さんは悩んでたのか。もしかしてあのとき押していれば、なんとかなったのかも知れないな、と馬鹿なことを考えてみる。 「……結婚、するんですか?」 今更聞いてみても仕方ないんだけど。でもこうなったら徹底的に振られよう、それでスッキリしよう。 「それは……」 紗恵さんは、俺から視線を外した。 「結婚は……しないけどね」 「え、そうなんですか?」 結婚という選択をしないカップルなんていくらでもいる。俺がとやかく言うことじゃない。だけど、その人の側にいるために会社まで辞めるのに結婚しない? 「どうして……」 「……」 紗恵さんは黙り込んで、視線を落とした。 「あ、すいません、余計なこと聞いちゃって」 「ん、いいんだけどね」 そこで俺も紗恵さんも、互いの指先を見つめた。俺は腕時計をしてなかったので、紗恵さんのしている時計を見た。八時前だった。店に入ったのが六時過ぎだったから、二年間の想いが二時間足らずであっさり終わったわけだ。だけどこんな雰囲気で終わりたくないな、紗恵さんとは笑って別れたかった。俺は笑顔を作って言った。 「もっとノロケてくださいよ」 「え? ノロケるって」 紗恵さんが、ちょっと首を傾げて笑う。 「ふふ、ノロケることなんてなんにもないよ」 「いい男、なんでしょう?」 「ん……そうじゃないけど」 紗恵さんは、一口ジントニックを飲み、俺の目を見る。しばらくなにかを推し量っているようだったが、 「じゃ、K君だけには言うけどね」 と、きっぱりとした口調で言った。 「さっき結婚はしないっていったけど、ううん、結婚できないの」 「え?」 紗恵さんは一呼吸置いて続けた。 「その人、男性じゃなくて女性だから」 跡形も残らない夜空 vol.4 http://moemoe.mydns.jp/view.php/13671 出典:* リンク:* |
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