国を超えた友情 (泣ける体験談) 63997回

2004/11/11 21:36┃登録者:えっちな名無しさん┃作者:名無しの作者
小6の頃の話
1学期の終わりごろ、唐突に「戦争」についての授業があった
その時の担任は、いわゆる典型的な日教組教師で、その授業自体も
南京で40万人もの一般市民を虐殺しただの、朝鮮人を無理矢理日本に連れてきて
強制労働させて多くの人が死んだだの、そういう話が大勢を占めていた
そして、教科書には載っていないけど…として話したエピソードが…

終戦間際、東南アジアの島で潜伏しながら戦っていた日本兵は兵隊不足を解消する為に
現地の若者を強制連行して無理矢理日本兵として戦争に参加させていた。
日本軍はその現地の若者を最前線に並べ、多くの罪も無い人が死んでいった
そして、いよいよ敗戦が近くなってくると、日本兵はいつ敵に攻め込まれるとも知れない島に
現地の若者だけを残して自分たちだけ船に乗って撤退してしまった。
島に残った多くの若者は日本兵として殺され、逃げ出した日本兵も
連合軍の船や戦闘機の攻撃を受けて殆んどが沈んでしまった。
というものだった。

当時、俺の祖父は終戦間際に南方(東南アジア)で戦死した。
としか知らなかった俺は、なんて酷い事をするんだ。と自分の祖父を軽蔑していた。

そして夏休み。
夏休みの宿題として、戦争について自分で調べた事をまとめて発表する。と言う課題があった。
しかし、俺はあまり詳しく調べてしまうと、自分の爺さんの「罪」が皆にばれてしまうと思い
適当に近所の図書館で調べて作文用紙に纏めて体裁だけ取り繕えば良いやと考えていた

とは言っても、夏休みの宿題は最後の1週間でやるものと相場が決まっていた当時の俺は
夏休み前半を、親に対する言い訳程度の宿題を片付けるだけで、遊び呆けいていた

お盆の季節には毎年帰省して墓参りに行っていたんだけど、田舎に帰ったときに母が
「宿題の事、お婆ちゃんに聞いてみれば?」と余計な提案をしやがった…
学校で担任から聞いた話が引っかかっていた俺は気が進まなかったのだが、
母から「宿題」の内容を聞いて「話しておいた方が良いかもね」と言って
納屋に何かを取りに行ってしまった祖母の手前、話だけ聞いて、祖母の思い出話程度の紹介にするか
図書館で調べた別の場所での事をレポートにしようと思っていたのだが、
祖母から聞いた思いもよらない話の内容に俺は大きな衝撃を受けることになる…

そして2学期
例の戦争レポートはそれぞれの班で、授業で発表する人
秋の文化発表会で発表する人、2学期の授業参観で保護者の前で発表する人
の3つのグループに分かれる事になった

殆んどの班で一番人気は当然「授業で発表」、じゃんけんで負けた奴が
親の前か先生の前かだったら先生のほうが良い。と文化発表会の席を奪い合い
最後に負けた奴が泣く泣く参観日の発表に回っていた

俺の班でも皆が「授業」の奪い合いでジャンケンだアミダくじだの言い合っていたが
俺だけは一番最初に「参観日」での発表を選択していた。
周りの奴からの反対は当然無かったし、俺はその日に発表するべきだと思っていた

授業での発表では殆んどの奴が南京、強制連行、ヒロシマ、ナガサキ、真珠湾
このいずれかをテーマにして、「旧日本軍がいかに酷い事をしたか」と言う内容に終始した
その時の担任は、「日本軍の蛮行」について非難する内容や「戦争=絶対悪」と断罪する内容があると
我意を得たりと言う感じで満足げにウンウンと頷いていた
多分、その時の俺は物凄く冷めた目でその担任の事を見ていたと思う

参観日当日
多分朝から俺は相当思いつめた顔をしていたのだろう
親からは「今からそんなに緊張していて発表できるのか?」と言われ
クラスの奴らからは「コワイ」と言われ、担任からは「具合が悪いのか?」と言われた

どれも違う。
今思うと恥ずかしい限りだが、その時の俺は本気で今から敵艦に突っ込む特攻隊の心境のように思っていた

参観日での発表は何番目だったか…
真ん中よりちょっと後だったような記憶があるはあるけど定かではない

授業で他の奴が発表する南京、強制連行の話を繰り返すようなレポート
多分皆が同じ図書館で同じような本を調べて書いたのだろう、内容は殆んど一緒だった
それでも担任は満足げな笑顔でウンウンと頷きながら発表を聞いていた…虫唾が走った

俺の順番が回ってくる
明らかに他の奴らより大量の資料を抱えて教壇にたった俺をみて
周りがちょっとざわつくのを尻目に一番デカイ模造紙を磁石で黒板に貼り付ける
赤の極太油性マジックに黒の縁取りで大きく書かれたそのタイトルは

「大東亜共栄圏構想について」

この手の資料はなるべく高い位置に貼るのがセオリーなのだが、俺はあえて
クラスの皆、そして後ろに並んだ保護者にはタイトル以外が良く見えないように低い位置に貼り付けた

教壇の真横に座っている担任にはその紙に書いてある内容が全て見えたのだろう
明らかにそれまでの満足げな笑みが顔から消え、厳しい目を俺に向けているのが分る

それもそのはず、この1枚は俺から担任に向けての「宣戦布告」の意味を持っていた
近所の図書館にある本にはせいぜい『軍部が戦争遂行の為に作り出した単なる「方便」』+α程度しか紹介されていないが
その紙に書いてある内容はわざわざ国会図書館まで行って調べ上げ、
さらに担任の意向に反するように恣意的に編集した内容が書かれていた

明らかに担任の顔色が変わったこと、そして、思いつめた顔をしている俺からただならぬ雰囲気を感じ取ったのか
教室内が一種異様な緊張感に包まれだした頃、手元に発表用の資料(カンペ)を広げ終わった俺が静かに発表を始めた

「夏休みの宿題で戦争について調べる。と言われた時、正直言って『あまりやりたくないな。』と思いました。
1学期の終わりごろ、戦争についての授業で先生が『日本兵は東南アジアの人を無理矢理戦争に参加させて
日本が負けそうになるとその人たちを見捨てて逃げてしまい、多くの人を見殺しにした』と言う話を聞いて
『僕のお爺さんは終戦間際に南方、東南アジアで戦死した』としか知らなかった僕は、なんて酷い事をしたんだろうと思いました。
戦争の事、お爺ちゃんの事等を詳しく調べてしまうと、どんなに酷い事をしたのかが次々と分ってしまい
今でもお爺ちゃんの事を大好きでいるお婆ちゃんや親の事を見る目まで変わってしまうのではないか、そういう思いがしていました」

保護者席がちょっとざわついた気がした。
祖父の事や俺がこれから発表する内容を知っている母は、驚いたような顔をしてその後、担任を睨みつけていた
俺は一呼吸置いて「前置き」の話を続ける

「でも、お盆で田舎に行ってお婆ちゃんの話を聞いて、帰ってきてから自分で一生懸命色々な事を調べて
そんな考えが完全に変わりました。今からそれを発表します」

最初に戦争は欧米の植民地政策からの開放という側面もあった事、中国の便衣兵の存在
併合は朝鮮側からの申し出を受ける形で実現した等の事を担任の意向と真逆の資料をわざと集め、
参考にした本のタイトル、著者の紹介を交えて一通りを流して発表した。

その時の担任の顔は明らかに生徒を見るものじゃなかったと思う
そして、俺にとってある意味「本丸」になる祖父のことについて発表を始めた

ここで初めて大東亜共栄圏構想について一通り説明した後で
「終戦間際の時期に軍隊や国の上の人たちがどう考えていたか、そこまでは分りませんが
末端の兵士、少なくとも、お爺ちゃんの居た部隊やその周辺に居た人たちは、本気で
アジア各国が協力して欧米に負けない強い共同体を作ろうという理想を持って戦っていたそうです」

と、既に殺気だって顔が紅潮しだしている担任にさらに油を注ぐ俺。さらに畳み掛けるように

「授業では『現地の若者を強制的に連れ去り戦争に参加させた』と習いましたが、実際は
その『理想』の為に日本と共に戦う、戦わせてくれ。と自分から志願してきた人たちが参加していました。」

もうこの辺りでは俺は担任の殺気は気にならなくなっていた

「そして、ジャングルでの厳しい戦いを共に生き抜いた彼らの間には家族以上の信頼関係が生まれ
数少ない平穏な時には一緒に『共栄圏』の理想を語り、肩を組んで日本の歌、軍歌や民謡等を歌っていたそうです」

後で聞いた話では、このときの担任はいつ俺に殴りかかるか、という雰囲気だったらしい
そんな事はお構いなしに発表を続ける俺…


〜そして、段々と劣勢になっていき、ジャングルの奥地で隠れる日が多くなり、満足に食事も取れないような日が続いても
「絶対に一緒に生きて帰ろう、生きて帰れたら日本に遊びに来てくれ」と約束をしていたそうです。

しかし、いよいよ終戦間際になり、いつ連合国の掃討作戦が激しくなるかもしれない。という絶体絶命の状態の時
お爺ちゃんの居た部隊の隊長は、現地人の兵士のリーダーを自分の元に呼んだそうです。
現地人の兵士は皆『最後の一人になっても日本兵として戦い抜く』と宣言したそうですが、その隊長は
『貴様ら土人等と共に戦えるか!我々は死んだとしても日本人としての誇りを持って散る。貴様らは明日迎えの船を呼んであるから
それにのってとっとと我々の前から消え失せろ!』と…

その話を聞いた現地の兵士たちは皆落胆し、一晩中泣いていたといいます。
今まで死ぬときは一緒だ、でも絶対に死なん。生きて共に祖国に帰ると誓った約束は何だったのか
家族以上に信頼しあい、分かり合えていたと思っていたのは自分たちの勝手な思い込みだったのか…と

翌朝早く、迎えの船が到着し、現地人たちが失意の中荷物を積み込んでいる時も手伝いどころか見送りに来る日本兵も居なかったそうです

やっぱり、日本人と分かり合えた、同じ理想を共有した仲間だと思っていたのは間違いだったのか
今まで何年も死と隣り合わせで戦って来たのは一体何だったのか。

そんな失意の中船が出発し、陸地から遠く離れんとしていたまさにその時…

1発の銃声を合図に一斉にジャングルの奥、塹壕の影、洞窟の中等に隠れていた日本兵達が海辺に並び
大きく手を振る者、肩を組んで大声で軍歌を歌う者、感極まって涙に暮れる者…
その中には僕のお爺ちゃんや、現地人のリーダーを「土人」呼ばわりした隊長も居たそうです。

その光景を見て現地人たちは理解したそうです。
自分たちの身を案じ祖国に戻るように行ってもそれで帰る人間は誰一人居ないだろう
そんな自分たちの命を救うためにわざとひどい事を言ったのだと…

現地人達も船の上から思い思いに共に歌った日本の歌を大声で歌い、陸地が見えなくなるまで手を振りつづけていたそうです

そして戦争が終わり、その島からは僕のお爺ちゃんを含めて生きて日本に帰ってきた人は誰も居なかったそうです。
お婆ちゃんもお爺ちゃんの生存を諦め悲しみの中に居た頃一通の手紙が届きました

住所や宛先、差出人は子供が書いたようなたどたどしいカタカナで書かれた1通のエアメール
差出人の名前は外国人のような名前でした
その封筒を開けるとその中にまた一つの封筒と、何枚かの便箋が入っていました
封筒の文字は見覚えのある文字…お爺ちゃんの文字だったそうです

その封筒の中身はお爺ちゃんがお婆ちゃんや家族に宛てた遺書でした。
もう自分は恐らく生きて日本に帰ることは出来ないだろう、だからこの手紙を○○(←差し出し人の名前)に託した。と書かれていました

もう一通の手紙は差出人がお婆ちゃんに宛てた手紙でした
その手紙には今僕が発表した内容、東南アジアの島で何があったのか、
その人はお爺ちゃんと一番仲がよかった事、国に帰ってから自分の服のポケットの中に
この手紙と、日本に居る家族に届けて欲しい。というメッセージが入っていたこと
今の自分があるのはお爺ちゃんや一緒に戦った日本兵のおかげであり、感謝しているという事
そんな彼らを少しでも裏切られたと思い恨んでしまった事をお詫びしたいという事等が
下手なカタカナでたどたどしい日本語で書かれていたそうです

…確かに戦争は多くの人が命を落とし沢山の悲しいことを生み出してしまいますが
そんな中でも国を超えた友情が生まれた事、そして決してアジアの人全員が戦争で日本を恨んでいる訳ではないという事が分りました。


そんな感じの発表だったかな
最後の締めに何ていったか覚えてないけど、最後の方は俺も完全に泣いていて涙声になってたと思うし
クラスの女の子や親もも何人か泣いてた。担任もバツが悪そうにしていたのを覚えてる
ほんの数ヶ月とはいえ爺さんの事を悪く思ってホント申し訳ないと今でも思ってるし
自分が間違いなく死ぬことが分っていながら生きて帰る戦友を笑顔で見送れた爺さんやその仲間の事は同じ日本人として誇りに思う

長々とスマソ。以上で終わりです
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