祖父の硫黄島戦闘体験記 (その他) 55881回

2010/06/03 15:07┃登録者:えっちな名無しさん┃作者:名無しの作者
召集

兵庫県西宮署に勤務中の私に召集令状来る。今回は4回目である。
昭和19年2月6日の事なり。私は3回戦争に行き、九死に一生を得て帰ったのに神は私に又行けと云われるのかと思ったがそんなことは口にも出さぬ。
戦にのぞみ敵に当るのが軍人の本分である名誉なのだ。直ちに署長に報告する。

本署で送別を受け我が家に帰る。
隣近所にあいさつにまわり、女房子供には必ず生きて帰る心配するなと言い聞かせ西宮駅から汽車に乗り善通寺に向かった。
土佐の母や兄弟にも会いたかったが時間がない。直接入隊する。

昭和19年2月9日のことだった。

 

入隊

第4回目の軍隊なり。自分の家のようなもの。
召集されたものは顔見知りのものばかりである。
オイ、又来たかや、おおたのむぞ。過ぎし3度の戦場に思いをはせる。
2月というのに夏物の被服が支給される。南方行きはすぐ知れる。

独立工兵東部第2753部隊が編成された。
隊長は來代良平大尉である。中尉2名、少尉2名、准尉1名主計軍曹1名、その他下士官兵278名の小部隊である。私は兵長だから下士官勤務である。

早速週番下士官を命ぜられた。
忙しいのなんの食事の世話、演習の世話、面会人の世話、目がまわる忙しさだ。
面会人は一人30分で外出は許可にならない。面会所で大勢一緒に面会するのだからつまらぬ話もできぬ
。最後の別れと思うのか面会人の多いこと、妻子あるものばかりの兵だから面会人は特に多いのだ。

 

私の面会

私にも面会人が来た。西宮から妻が2人の子供を連れて面会に来た。
汽車の切符も買えない時代によくも善通寺まで来たものだ。
自分の配給米を食わずに私のためにためて握り飯を作って持ってきてくれた。私は兵長の服を着ていた。

勝幸を草の上にすわらせて智恵子を抱いてやる。
3人が握り飯を食う。何にも話すことなし、死に行く者と見送る者とだ。
ただ顔見合すだけで総てがわかる。30分の面会時間は過ぎた。

勝幸は私の若い時の洋服を仕立て直して着ている。
子供服など売ってない時代だ。智恵子は何にも知らず母の背中で笑っている。
勝幸も父が戦争に行くのを何と思ったであろう。死ぬかもしれぬ父を見て何と思ったか、小さい背中を私の方に向けて営門を出て行く。
振り返り笑う妻。見送る私も涙が出る。
帝国軍人だ、陸軍兵長だ、泣く訳にはいかんのだ。

顔で笑って心で泣いて私は妻子と別れた。妻は私の帰りを待たず病死するのであるが、このときは私にはわからなかった。
私は物事を気にしない方であるが、この時ばかりは気になった。
神様が私に妻との最後の別れをさせてくださったのだと今でも信じている。

私の妻との面会の後、今度は土佐から繁兄が老母を連れて面会に来た。うれしかった。西宮から入隊したので土佐へは帰れず母に会いたいと思っていたが今こそ会うことができた。
来てくれなかったら会わずに戦争に行ってしまうところだった。よく来てくれた。
母と兄とにお礼を言った。30分の面会時間は過ぎ去った。

老いた母は兄と営門を出て行く。別れはつらいものだ。
私も顔では笑っているが心では泣いていた。帝国軍人はどんな時でも泣かれんことになっていたのであるが、独り涙が出てきた。

今まで3度戦争に行ったが、家族が面会に来てくれたことはなかった。
それが今回は妻子も母も兄も来てくれた。どうもおかしい。
私は今回の戦争で死ぬのではないか、神様が面会させてくれたのではないかと思うようになった。妻と別れのような気もした。それがピッタリ当るのであるがこのときはわからなかった。

 

出征

昭和19年2月22日、朝早く起こされた。善通寺は寒かった。さあ出発だ。
今度見送り人はない。見送ってはならないことになっていた時代だ。
汽車で善通寺を発し高松に向かう。高松の桟橋で連絡船を待つ。長い時間待たされる。その間の寒いこと震え上がる、歯がガタガタ鳴る。なにぶん冬に夏服を着ているので寒い。ようやく船が来た。みんな乗る。
船は1時間で宇野に着く。宇野から汽車に乗る。ガタゴトゆれて大阪に着いた時は夜になっていた。大阪方面に出稼ぎ中の兵の家族はホームに来ていて窓越しに面会している。兵は下車を許されず、面会人は乗車を許されないのである。軍律はきびしいものである。

 

谷川上等兵

私とならんですわっている高知県出身の谷川政一上等兵、支那の戦争からずっと一緒だった戦友なり。この人後日硫黄島で戦死するのだがこの時はわからなかった。私が九死に一生を得て復員し清水警察署勤務中彼の妻に会い、谷川上等兵の戦死を知らせた。彼の妻は、夫は帰るかもしれないと待っていたが、私の詳しい話を聞いて戦死と知り、再婚した。

 

富士山

汽車は大阪を出て東に向かう。その夜が明けて富士山が見える。
昭和19年2月23日の朝だ。あの富士山を二度と見ることができるであろうかと私は思いながら汽車は東に向かう。
汽車は東京の品川駅に着く。下車命令が出た。この駅は私に忘れられる訳がない。
過ぐる年弟が戦死し遺骨を受け取りに来た駅だ。
又父が上京してこの駅に下車後病気となり宿舎で死んだ時兄が遺骨をとりに来た駅だ。今私が降りた、戦争に行くために下車したのだ、不思議なことだ。
父の病死した病院の前を通って私等の行軍は行く。しばらくして寺に着いた。この寺で宿泊するということになった。寺の娘さんや家族とトランプなどして遊んだ。外出はできない。3日間休んだ。

 

出発

昭和19年2月26日、突然出発命令来る。
東京港芝浦まで行軍する。桟橋に大輸送船が横付けになっている。歩兵部隊が続々と乗船している。
芝殿丸という大きな船だ南方行き専門の船らしい。我等工兵も乗り込んだ。何千人乗ったかわからんが船内はスシヅメ身動きもできん程詰め込まれた。

この頃日本軍は負け戦であり、南方行きは途中でボカチンに遭い満足に目的地に着く船は少なかった。
海のモクズとなるものばかりの時代である。船は動き出した。私は甲板に立ち沖を見た。黒い雲が立ち込めて大時化の様態を示し、私は不吉な予感がした。
今度行く所はよくないぞ、あるいは私は死ぬのではないかと思う。

船は伊豆の山々を見て南下するばかり、八丈島を左に見て進んでいる。
どこに行くのやらわからん、ジグザグ運行が始まる。敵の潜水艦をよけるためだ。
日本の飛行機も出てきた。空をまわってわれらの警備をしてくれる。
われらはボカチンに備えてイカダの乗り移り訓練をする。少しも遊ばせてはくれないし休ませてくれないのだ。

 

19.3.4

長い船旅を終えて今朝はヤシの木高くそびゆる暖かい南の島に着いた。
これは日本の小笠原諸島の父島である。私は生まれてはじめて見る島だ。二見港に入港する。
我が輸送船の大きいのが港にたくさん居るが、横腹や後部に大きな穴をあけられかろうじて浮かんでいる。戦争の傷だ。魚雷にやられたのだ。
我等はよく無事に着いたものよ。

行軍で島の東側扇浦という部落に行く。3月なのに真夏の暑さである。
民家の納屋を借りて兵舎にしている。東京の武蔵野部隊と同居することになる。同じ工兵隊だからである。

 

父島

山はタコ、ヤシ、ゴム、松、杉その他雑木が生い茂っている。島民も大勢居る。
陸海軍の兵隊も沢山来ており日本の慰安婦が沢山来ている。平和な島だった。敵の近接に伴い我等が増強された訳だ。われらは毎日陣地作りをする。
トンネルを掘ったり橋をかけたり道路を作ったり、敵上陸に備えて作業する。まだ敵は来ない。

 

空襲

平和は束の間だった。ある日突然大空襲に見舞われた。
夢は破られたちまち戦場となる。大村という街は火の海となる、港の船は沈められる焼かれる大破されてしまった。
敵機は去ったがどうものんきに暮らしている訳にはいかない、いよいよ戦時状態になっていく。
毎日陣地作りが忙しくなった。私は兵長だから下士官代理として内勤となり、事務所で事務をとることを命ぜられた。
これから重要な事務をとらねばならぬ、大変である。

 

大波に遭う

各部隊から毎日1名軍司令部へ命令受領に行かねばならぬ。
工兵から私が行くことになった。下士官でなければならぬが、私は兵長だから下士官勤務である。
私等の居る扇浦から大村の司令部までは海を渡って行くか陸を大きくまわって歩くしか行く方法はない。
毎日私は海を渡っていた。

今日は大波である。しかし陸を歩いては間に合わぬ。無理を頼んで小舟に乗った。
船頭に聞いた。大丈夫かと言うと、危ないもし舟が沈んだらフカが喰う、と言う。それでも渡してもらった。

水は舟に飛込むビショヌレになる、ようやく渡って司令部にかけつける。
各隊の下士官は来ていた。エライ人の言う事を筆記して持ち帰った。任務は無事終わった。
それ以来私は早く出て陸を歩いてまわり、舟には乗らなかった。危ないので歩いた。

 

ペリリュー島

ペリリュー島を落した米軍はサイパンテニヤンを落した。
悲報は父島の我等にもとどいた。玉砕という。我等南に向かって黙とうする。
みんな泣いた。サイパン島には日本人が多く、婦女子に至るまで軍と運命を共にしたのである。男は軍に徴用されて戦い玉砕、女子供は海中に身を投じ自殺した。
敵軍に身をけがされるのを恥として自害したのだ。
婦女子が海中に身を投ずるのを目撃した米軍はその恐ろしさにアッと言ったまま開いた口がふさがらなかったという。
黒髪を海になびかせて死んでいくのは悲惨な出来事である。戦争はこんなに恐ろしいものなのだ。
内地の女性にこんな事ができるであろうか。
ガム、サイパン、テニヤン島の女性は当時はアッパレやまとなでしこであるとかおみなえしであるとか言われたのである。



南進命令

われらの居る父島にも空襲は来る。硫黄島が危ない、飛行場のある硫黄島が危ないと誰もが感じた。
太平洋の戦争は硫黄島に主力をおかれた。内地の部隊も続々と行く。父島の我々をそのまま置くはずがない。南進命令が来た。
私は父島のほうがよい、硫黄島に行くことはいやだったがそんなことは許されぬ。喜び勇んで行く風をよそおっていた。

 

父島を出る

昭和19年6月30日、その夜我らは軍装をして暗闇の中を出て行く。
扇浦港から上陸用船に乗り込み、住みなれた父島を後に、二度と帰れぬ硫黄島に向かった。
昼間は敵に見つかるので夜間を利用して出発した訳なり。我等をのせた船は出た。
二見港を後に南に向かって走る。私は郷里を出る時妻子に生きて帰ると言って出たが、どうも生きられぬような気がするのである。
空が明るくなった。船は全速で走っている。何時とはなしに日本の飛行機が一台と駆逐艦が出てきて船を守ってくれる。
ジグザグ行進が始まった。敵の潜水艦をかわすためなり。どうか無事で硫黄島に着くよう祈る。
ボカチンをやられたら泳げない私は死ぬより外に道はないからである。

藤邨清一等兵と二人で甲板に出て話しながら行く。親兄弟妻子のことを考えながらじっと沖を見ている。
これは誰も同じことを考えているのではなかろうか。南の方に島が見えてきた。
あれが硫黄島だ。海面に平ぺったい島が絵のように浮かんでいる。

昭和19年7月1日、船は硫黄島の南海岸に着いた。
兵は上陸する。荷物の陸揚げを手伝いする。今空襲が来たら全滅だと思いながら仕事をしたが幸いな事に来なかった。
父島で一緒に居った武蔵野部隊の世話になり、横穴に入り食事もご馳走になる。顔見知りばかりだ。我等も戦場に来たのだ。

 

7月2日

その夜穴の中で夜を明かした。われらが昨日上陸した事は早くもサイパンの敵に知れた。
空襲が来た。地方人も沢山居るのに空襲は物すごい。
地方人も兵隊の横穴に逃げ込む。病人などが困った。私たちの近くにお産をした女の人が居った。自分は動けず赤ん坊と共に自分の家にいた。あわれなり敵の機銃掃射がはじまった。直径5寸ぐらいの木が横に千切れて飛ぶ恐ろしい奴だ。
銃でなくて砲という方が本当だ。爆弾は所きらわず落す、火災が起こる、物質は焼ける、兵は死ぬ。我等陸軍はわずかしか来ていないが応戦する。
空中戦も始まる。地獄のようになった。

 

送還

数十分で敵機は去る。住民は危ないので内地に強制的に引き揚げさせられる。
着の身着のままで便があるごとに内地に送られる。最後に駐在巡査も引き揚げた。
島は男ばかりで女気はない。牛や豚等は軍の食料となった。

 

部隊来る

毎日毎日内地から新しい部隊が来るようになった。野砲も来た。
高射砲、ロケット砲、通信隊、憲兵まで来た。戦時態勢となっていく。
米軍の空襲も毎日定期的に来る。B24という大型機が1万メートルの上空をやって来る。ブルンブルン音を出してくる。沢山銀色に光ってやって来る。
我が高射砲部隊が一斉に火を吐くが飛行機まで弾丸はとどかず飛行機の下でバンバン炸裂する。敵は平気でブンブン飛んで来る。どうする事もできぬ。

それから数日たって大空襲が来た。次から次へと波状攻撃だ。
ドスンドスン大型のバクダンを落す。上空には何時でも敵機が居る状態だ。バリバリドンドンザーザー雷のような爆弾の雨の音、火柱上る、大木も根が上になって空から落ちて来る、岩石も降ってくる、地鳴り震動する、恐ろしき戦場となる。敵さん落すだけ落し撃つだけ撃って帰って行った。
島には火災が起こり弾丸の上に爆弾が落ちたのでパチパチ小銃弾のように独りで飛んで来る、危ない危ない近寄れない。
やれやれ今日はこれだけか命が助かったと私はホッとした。それも束の間であった。たちまち全員顔色変えた。

遠くの海面に敵の大機動部隊が現れた。
それ今度は上陸ぞ、これは大変だと思う。陣地は出来ていない。今上陸せられたら勝つ見込みはないが戦争だから止むを得ん。各部隊戦闘準備に入る。

 

諸君の命はもらった

我等の小隊長、宮崎圓(マドカ)少尉は小隊を集めて訓辞する。
敵は上陸するものと思われる。諸君の命はこの小隊長が今日只今もらった。
皇国の為戦って死んでもらいたい。もちろん小隊長も諸君と運命を共にすると言った。私は小隊長に命をもらわれた。生きて帰ることは出来なくなった。
軍人は戦場に死すは本分であるが今死にたくない、生きて妻子に会いたいと思ったが顔には出さず喜んで死ぬような顔をしていた。皆同じ考えではなかったかと思う。求めて死にたい奴は居らんと思う。

 

墓穴を掘る

小隊長に命を捧げた我等は自分のはいるタコツボを掘る事になった。
各自この自分の掘った穴に自分がはいって敵の上陸部隊と戦い、その陣地で死ぬのだという墓穴である。
胸まではいり、鉄砲で敵をねらい射ち一歩も退いてはならぬのだと言う。
みんな掘る掘る、首だけ出る位掘った。さあ来い我等は日本軍人ださあ来いと待ちかまえた。
私も生きられぬとわかれば見事に死んで見せるぞ。妻子には生きて帰ると言って家を出たがもはや生きる望みはなくなった。
止むを得ん。許せ、父は死ぬがお前らは地下から守ってやるぞと心で叫んだ。今日までの命であった事を深く心でわびた。

 

攻撃始まる

7隻の敵艦隊は白い姿を見せて近付いて来る。
砲門を開いた。物すごい音と共に砲弾が落下する。それが炸裂する、この音が又物すごい。
鉄片が飛ぶ音ウナリて飛ぶ。何十もある砲門から一斉に砲弾が来る。
草も木も皆飛んでしまう。空襲よりまだ恐ろしい。
火薬庫も飛行場も火の海となる。上陸するまで我等工兵は手も足も出ん。
私はどうせ今日死ぬのだと思うから頭を出して敵の軍艦を見ていた。

ますます激しく砲弾が落ちてくる。火薬庫の上にも砲弾は落ちたので小銃弾がパンパン四方八方に自ら飛び散るようになった。
数時間射ちまくった敵弾のため、島は穴ばかりになった。大火災は至る所に起こった。

 

上陸か

敵は急にピタリと砲撃をやめた。それ上陸ぞ、我等の番が来たぞと応戦準備にはいる。全員生きる望みを絶たれた。なぜ俺は4度も召集を受け最後にこの南の島で死なねばならぬのか、何の罰か、まだ1回も戦争に行かぬものも居るではないか。
神は人間を救うと聞くが私は神に見はなされた。内地に残した妻子はどうなるのか、そんなことを考えたりしながら敵の上陸してくるのを銃をかまえて待った。

 

上陸せず

敵艦は上陸する気配なし。我等は今か今かと待っている。
艦隊はクルリとまわり後向きになって帰って行くのだ。どうした事かアッケにとられた。
上陸と見せて引返した。見る見るうちに水平線の彼方に消えて行ったのだ。的が外れた。
やっぱり神は助けたもうたぞ。みんな安心した。小隊長に差し上げた命は又返してもらった。ひとまず安心した。次はいつ来るかわからない。支那の戦争とちがい艦砲でやられるから恐ろしい。

 

移動

我等工兵部隊は他部隊の陣地を借用して住んでいるので自分の陣地を作らねばならぬ。そのため北部落に移動する事になった。
小さな島でも歩けば遠い。行軍で南海岸から北部落まで歩いた。
今空襲せられたら命はないと思いながら歩いたが幸い空襲はなかった。

 

陣地作り

われらは北部落に来たが陣地がない。作るまで仮寝する。
ヤシの木の下、タコの木の下、バナナの下など夜露をしのぐところに自分の分隊の寝るところを作る。
寒くないからどこでも眠れるのだ。私らはタコの木の下であった。分隊長は小池軍曹であった。毎日工兵独特の横穴陣地を掘る。
ツルハシでおこし、スコップでモッコに入れる。それをかつぎ出す。
裸でフンドシ一つで土方をするのだ。汗が身体中流れる。体に土が散りかかる。
ジュンと鳴って身体に付く。痛い。土は火山島だから熱い。
我等も米不自由水不自由着替えなし風呂なし、木の下にごろ寝で暮らすのだ。
飲料水は雨水を天幕に受けてそれを使う。早く自分等のはいる穴を作らんと空襲が来たら大変だ。
地下30メートルないと空襲にやられる。高いガケが至る所にあり、それを利用して横に穴を掘っていく。
平地は陣地にならん。私は西海岸に最近来た歩兵部隊の穴掘り指導に行かされた。
空襲が毎日来る。歩兵に穴を掘らせる。火薬で破壊して掘り進む。
地中で他の方面から来る穴と連結せねばならぬ。そのような事は工兵でないとわからん。
右に掘れ左に掘れ上に掘れ等教えて掘り進む。歩兵は私の言う事をよく聞く。
私も詳しくないが歩兵は私の言う通りに掘って行く。毎日私はここに通った。

 

人間頭飛ぶ

ある日相変わらず西海岸の歩兵の部隊に指導に行った。
40メートルくらいのガケを横に掘る。昼食後の休み時間皆穴の外に出て休む。
岩かげで雑談していた。その時空襲警報が出た。それ今掘った穴へ走れと歩兵に言ったが、仕事中は命令だから私の言うことを聞く歩兵も休み時間は私の言う事を聞かない。逃げる必要はないと言って動かぬ。
ここには落さんと平気である。私は危険を直感したので歩兵と別れ走った。横穴に飛び込んだ。
その時早くも飛行機は来た。爆弾は地ひびき立てて落下した。黒煙と共に火柱がたち、砂煙で何も見えなくなった。
飛行機は海上に去った。私は今別れた歩兵が気になり走って行って見た。誰も居らぬ。地形が変わっている。土煙が残っている。
私はオーイオーイ叫んでみたが返事がない。

それもその筈なり。全員死んでいる。
探してみると、あちらにもこちらにも散り土にまみれて居る者、半分埋まっている者足や手のないもの沢山だ。
歩兵も沢山来た。死体を数えてみると一人足らん。探すうち、はるか遠く飛ばされて下半身を土に埋められすわっている。
よく見ると頭がない。頭の頂上の皮が破れて頭がい骨が全くない。
皮には目も鼻も耳もついている。こんな死に方は見た事がない。支那の戦争以来死んだ人をずいぶん見たが、これは珍しい死に方である。
私の言う事を聞いてあの時逃げてくれたらこんな死に方をせんで済んでいたものをかわいそうにと思った。
人間は誰でも他の者の言う事は聞きたがらんものだ。
それがわざわいを招いたのだ。歩兵の看護兵が死体の頭の皮の中へ脱脂綿を詰め込んで頭のカッコウを作り、その上からホータイをした。
元の通り頭は出来たが中身は脱脂綿である。このように人間の頭の皮が残り中身のないのを見た事がない。
人間の死に方には色々あるものだと思う。看護兵の措置は戦友に対するせめてもの思いやりだと感じた。

 

予感

予感というものはある。暑い夏の夜だった。
私は疲れた身体をタコの木の下に横たえて眠った。ゴロ寝た私は赤痢で腹痛がして便所に度々行かねばならぬ。
今夜はどうも空襲があるような気がする。となりに眠っている仲良しの藤邨一等兵に、おい横穴の掘りかけに行って寝んか、どうも変な気がするから、とゆり起こした。
藤邨一等兵は、私は行かんでありますと言って起きない。やむなく私は一人で行った。10メートル位はなれた掘りかけの横穴にいって横になったその時だ。

 

爆弾

ただ一機陸地すれすれに日本の方向から飛行機が来てドカドカドカーンと沢山の小型弾を落して南方に去った。
私は驚いた。分隊は無事かと立ち上がった。兵長殿、兵長殿、分隊全部やられました、叫んできた兵がある。
見れば頭に血が流れて物すごい。早速傷の手当をしてやる。私は小隊長宮崎少尉のところに飛んで行き報告する。
小隊長と共に分隊のところに来て見ると小隊全部やられている。
暗くてよくは分からんが、4個分隊居らんようだ。1分隊、3分隊、4分隊、衛生分隊、全部吹き飛ばされている。
2分隊は無事である。岩かげにいた2名は助かっている。30名ばかり全滅である。
宮崎圓少尉は、今晩は暗くてどうもならんのう、夜が明けたら良く探してみよう、という事になった。
生き残った兵の手当をして引きあげた。どうもならず手のつけようがないのだ。火をつけて探すことはできぬ。
敵に陣地を知らせることになるので夜間火をつけて仕事をする事はできぬのだ。戦争とは誠に恐ろしい事である。

 

葬式

翌朝早く、宮崎少尉と生き残った4名の兵と2分隊の兵とで死体を探した。
千切れた死体を集める。全部集めて硫黄の吹いているところを掘って埋める。藤邨一等兵が居らぬ。
いくら探しても死体が見付からぬ。一同あちこち探した。居った居った、20メートルくらい西方、バナナの木の下の谷間に土砂と共に打ちつけられて下半身を埋め、すわったようになって死んでいる。
もはやどうも出来ぬ。その場を掘って葬ってやった。小隊長宮崎少尉は地方では神官であるから、高天原を祈って葬式をした。我等も手を合せた。
小隊長は、藤邨も一緒にここに葬ったらよかったのうと涙を流した。

小隊の大部分は死んだが、私はこの日も無事に生きていた。
予感で助かったのだ。分隊長の小池軍曹もこの日死んだ。私の任務もますます重くなった。

 

不発弾

又ある日、矢野軍曹と私は敵状偵察に行った。夜間で暗い。
目の前に大きな砲弾が落ちた。私と矢野軍曹は土砂に埋まった。耳も聞こえず目も見えぬ。気が付いたが死んでいない。顔見合わせて笑った。
その砲弾は地中深くはいったが不発であった。もし爆発していたら私等二人は木っ端みじんであり二度と帰らぬ人となっていたのであるが、このときも私は助かった。

 

硫黄島状況

硫黄島は北方に北硫黄島、南方に南硫黄島があり、その中間にあるのが我等の居る硫黄島なのである。
北と南は無人島である。我等の居ったのは、縦6キロ、横3キロ位の島である。
これに2万あまりの陸海軍が居ったのだ。東京から約1050キロ位、火山島で中央部から煙を噴き上げている。
一年間に10センチ位盛り上がっている。西にスリバチ山があり、150メートル位の山でパイプ山と我等は呼んだ。
中に火口がありパイプのようになっているので、そうよんでいた。

 



水はない。川もない沼もない。雨水を利用して飲料水にするのだ。
毎日スコールという雨が降る。5分間位だが大雨となる。終わると晴天となる。兵は天幕に受けて使う。野原も海面も湯気が立っている。海水は湯になっている。
その箇所は魚も寄り付かない。地面はどこにすわっても尻があつい。
湯気のところへ飯盒を埋めておくと飯が出来る。

 

樹木

タコの木というのがある。一本の幹から枝が沢山出て、それが全部地中にはいり、いずれも根が出て成長する。
数十本で幹を抱き上げているものもある。タコが頭上に幹を差し上げたようになっている。
これの身を打ち割り、中の白いところを喰うとうまい。その他バナナ、パパイヤ、ヤシ、ネム、ラワン等があり、後に兵の食料となった。
ヤドリ木などは飯盒で炊いて喰うたが、ガシャガシャして喰えなかった
。草も木も兵が喰ってしまった。

 

農作物

野菜は出来ない。畑にはパイナップル、麻薬のコカイン、野菜のゲランなどがあるが人間が喰えない。
常夏の国であるから一年中草木は成長している。

 

生物

蛇やトカゲ、ムカデ等全然いない。
地面が熱いので冷血物は生きられんのであろう。鳥はメジロが沢山居る。
カラス、スズメ等居らない。メジロは人間を見ても逃げることを知らないので、兵はよくとって焼いて喰った。

 

空襲

空襲は毎日来る。必ず来る。定期便と名をつけていた。
B24という大型の飛行機で、銀色に光り輝きながら大編隊でブルンブルンと飛行して来る。島の上空から一斉に爆弾を落す。物質は飛ぶ、兵は死ぬ。
大損害である。日本の高射砲は飛行機まではとどかない。下の方で炸裂するだけである。敵さん平気でやってくるのだ。
日本の高射砲のとどかぬように1万メートル以上の空を飛んで来るので撃ち落すことは出来ぬ。1トン爆弾を落されると、地面に10メートル直径位の大穴が出来、土砂が中空から降ってくる。
物すごい音だ。火災は起こる物資は吹き飛ぶ大損害である。

 

艦砲

昭和19年秋となる。敵の機動部隊が多く来るようになった。
毎日来る。島を打ち砕いて帰って行く。兵は死ぬ、物資は吹き飛ぶ、空襲以上の損害だ。地中の陣地に居っても身体が上下にゆれる。
兵は少なくなり、米も水もなくなり大変だ。兵は腹がへるので米を盗んで生のまま握ってかじる。
それが非常にうまい。見付かったら銃殺せられる。軍法会議も何もない。刑は直ちに執行せられるのだ。恐ろしい事だ。

 

明治節

昭和19年11月3日、明治節だ。内地の部隊に居ると外出日だが、軍隊は戦争が本分であり、戦争中は外出など全くない。
米軍は日本の祭日を良く知っている。祭日は特に多く爆弾が来る。その後必ず艦砲射撃がある。陸地は大損害である。
空襲より砲撃の方がまだ損害が多い。兵も物資も大損害を受けた。

 

親子弾

私はある日、兵5名を連れて北部落を歩いていた。
その時日本の方角からただ一機飛行機が近付いて来る。私は敵と直感して兵と共に岩かげに身をかくした。
敵は兵がいないので親子弾を落して逃げた。この爆弾は恐ろしい奴だ。1発が10発になり、10発は数千発に砕けて飛び散る。100メートル四方の生物は必ず死ぬという奴だ。
飛び散る鉄片のウナリは物すごい。私等はこんなのは初めてである。もう少し見付けるのがおそかったら…。われらは岩にかくれて助かった。
全員死ぬところであった。私が早く見付けて岩のかげにかくしたので全員助かった。毎日の重労働で兵は骨と皮となり、それでも文句を言うものはなく、陣地作りをやっている。弱いものは死ぬ。強いものは生き残る。
死んだらその場に埋める。生きていれば重労働だ。

 

工藤軍曹死す

工藤という軍曹が居った。彼は兵を情け容赦なくこき使う。
上官の命は天皇の命だと言う。兵はよく思わないがやむを得ず従っている。
彼は病気になった。岩のかげに寝ていた。軍医も居らぬ南洋の島で、誰にも看取られず淋しく死んだ。その場に埋められた。
悪いことをすると罰があたるという。本当だ。天皇の命も通用せず死んだ。人間死ぬ時は如何なる悪人も真心になると言う。
彼も、兵をいじめたことを後悔して死んだことであろう。あわれである。

 

新年

昭和19年も終わり、硫黄島にも春が来た。新年である。昭和20年の正月である。
日本本土をはなれて1000キロあまり、餅もない、酒もない、金もない、買う店もない正月だ。
敵機は毎日来る。夜も来るようになった。我等を眠らせない神経作戦である。
新年おめでとうと誰も言わない。めでたくないのである。



敵来る

昭和20年2月17日、私は10人くらいで高射砲の陣地作りの作業指導に行った。
父島で世話になった砲兵隊で顔見知りばかりなり。昼食をご馳走になって雑談に花を咲かせていた。
その時、この部隊に電話が入る。敵機動部隊北上中その数約800なり、である。さあ大変だ、来るものが来た。戦争だ。敵は内地に行くのでない、硫黄島に来たのだ。
軍人である我等、恐ろしいだの命が惜しいなど口には出せない。みんな喜んでいるような顔はしているが内心はおだやかでない。次々と電話がはいる。南硫黄島付近を北上中という。もうすぐ硫黄島に来るのだ。
この部隊の兵も我等工兵も少しも騒がぬ。作業を続行する。夕方終わり、我が陣地に帰る。帰っても誰も騒いでいない
。みんな平気な顔をしている。その夜は穴の中で寝る。朝になった。

 

包囲さる

昭和20年2月18日、私は目が覚めた。穴の外に出て海上を見て驚いた。平常驚かない私であるが、この時ばかりは驚いた。
海面いっぱい敵の軍艦である。島は完全に包囲されている。恐れていたものが遂に来た。私は生まれてこれほど多い軍艦を見た事がない、聞いた事もない。
大部分の艦はいかりを下ろしている。大本営発表では、米国にはもはや軍艦はない、爆弾もなくセメントの爆弾を落していると言うが、軍艦が無いどころではない。
大艦隊が目の前に居るではないか。戦艦は白い40センチ砲を6門揃えて島に向けている。大艦隊は全部砲身を島に向けている。
どの艦も一発も撃たぬ。不思議である。私は全員に知らせた。

 

応戦準備

我等工兵もこの時とばかり武器も弾薬も飲料水も、なんでも地上にあるものは全部地下穴に引きずり込む。
敵は撃ってこない。飛行機も全く飛ばぬのだ。嵐の前の静けさである。無気味である。我方も一発も撃たぬ。実に静かである。
おかげでわれらは地上にあったもの全部地下に引きずり込んでしまった。

硫黄島最高司令官栗林忠道中将は全部隊に命令を下した。
「諸士待望の敵来る、諸士は太平洋の防波堤となり最後の一兵たりとも尚ゲリラとなりて敵をなやますべし」である。
最後の一兵たりとも戦えとは聞いたが、最後の一兵となっても死なずゲリラとなって戦えと言うのである栗林中将は玉砕を覚悟でこのような命令を出したものと思われる。
胸中は察しられる。2万の部下と共に死ぬつもりであったかもしれない。

 

攻撃始まる

24時間何事もなくすぎた。敵さんこのまま帰ってくれ、頼む、と思ったがそうはいかん。
島に向けていた40センチ砲以下一斉に火を吹いた。島には大地震が起こった。火柱は天に届くと思われるようだ。
黒煙は島を覆う、鉄片はウナリを生じて四散する。直径1メートルもあるラワンの大木も根の方が上になってふっ飛ぶ。轟音は雷が100も200も一度に落ちたような物すごさである。地下30メートルの穴の中でも身体が飛上る。
正にこの世の地獄となった。

続いて母艦からグラマン機が飛出して来た。その数の多いこと空一面であり、昼間だのに暗くなった
。雲も見えないほど多く飛んできて機銃掃射をする。小型の爆弾を無数に落す。兵隊を見れば地面すれすれまで下って追いかけ必ず殺す。
草も木も空中高く舞い上がる。近くの母艦から来るので、入れ替わり立ちかわりだから空にはいつも同じくらいが舞っている。空いっぱいである。
日本の機銃のようにトントントンドドドウなどの音でない。何十機も一度に掃射する音は、雨のようにザーザーである。スコールが降るような音である。
何物も残さず地上のものをなぎ倒すのである。

次はサイパンから大型機B24が何十機もそろってやって来る。
ブルンブルンとうなりながら来る。銀色である。1万メートル以上の空を飛んで来るので、日本の高射砲などとどかない。
下の方でバンバンと広がるだけだ。敵さん日本の高射砲の高さを計算に入れて弾丸のとどかぬ高さで来るので平気で飛んで来る。
戦闘機も日本は全部やられているので手も足も出ない。島の上に来た奴は1トンという恐ろしい爆弾を落す。次から次と落すその音は恐ろしい。
気の弱い奴は気ちがいになる。ヒューヒューと音を立てて落ちる。続いて大地震が起こる。炸裂する。岩石も土砂と一緒に中天に舞い上がる。そして落下する。直径10メートル、深さ5メートル位の穴が地面に出来る。
人間が居れるような状況にない。まるで地獄である。
連絡等で外に出た日本軍は必ず殺される。夜間を利用して出るより方法はない。

 

夜間の攻防

夜間は敵さん照明弾を数多く打ち上げ、落下傘につるした。
照明弾は空中に長いことあって地上を照らすのである。次から次と夜通しで島全体を昼のように明るくする。
歩いていると空と海から良く見えるのですぐに弾丸が飛んで来る。手の出しようもない。
これからどうなるかわからんが、命のなくなるのはわかっている。

運が悪いのだ。
内地勤務であれば、こんなことにはならないのになあと思う。どう思ってもしょうがない。
今は戦わなければならぬ。我が軍は毎日死んでいく。
敵は多い。上陸した奴をやっつけるよりない。我軍は彼等の上陸を待って一発も撃たずに地中に居るのだ。命令があるまで我軍は撃てないのだ。
一発でも撃てばたちまちむらがる飛行機にやられる、全滅する。
敵に我軍陣地を知られたら大変なんだ。地中30メートルに我軍全部無事なのである。今はただ彼等の上陸を待っているのである。砲弾は物すごくなるばかりである。
硫黄島は敵の砲弾によって打ち砕かれて、方角もわからなくなった。目標物が全部やられたら方角はわからなくなる。
目的地にいけなくなる。10日間引続いて撃ちまくるのであるから、島に砲弾の当らぬ所はない。草も木も一本もなくなった。
支那の戦争もこれ程ひどくはなかった。

米軍も10日間撃ちまくって日本軍の抵抗がないので、全滅したと思ったかもしれん。
上陸気配が見え出した。地中にある日本軍は生きていたのだ。

 

上陸開始

昭和20年2月27日、砲火をあびてから10日目に敵は日本軍全滅と見て南海岸に上陸を開始した。
小舟で近づく米軍を水ぎわまでよせておいて、スリバチ山の砲兵は一斉に砲火をあびせ敵を全滅させた。
この戦には勝った。栗林中将は敵が上陸するまで攻撃してはならぬと命令していたのに、現地の軍は命令を無視して攻撃して全滅せしめたのである。

後が悪い結果となったのである。
我軍の健在を知った敵はうかつに上陸しない。南海岸一帯は前にも増して飛行機がむらがり爆弾の雨を降らしはじめた。
砲弾も集中した。ムチャクチャの攻撃である。恐ろしいことだ。しらみつぶしに撃ちまくる。地形が変わってしまった。

 

遂に上陸

今度はムチャクチャ撃って爆弾の雨を降らせ、島を打ち砕いてから上陸を開始した。
敵の一部は上陸してしまった。空と海とをとられている我軍は都合がわるい。
兵隊や武器弾薬の補給は出来ない。敵の方は毎日増加するばかり。
日本軍は昼間は出られない。
出ればたちまち空からやられる。夜間を利用して斬込作戦に出た。各隊それぞれ5、6名くらいで斬込部隊を作り、暗夜に敵の陣地に斬込をかけるのである。
幕舎でも兵器でも何でもよい、敵のものは全部爆破するのだ。
斬込というのは刀で斬込むのではない。爆弾を持って敵陣に飛び込むのだ。初めのうちは非常に成功したが、敵に知れたのであまり成功しなくなった。
誰も帰って来なくなった。全部やられるのだ。
米軍もマイクを戦場に仕掛けて、我軍が斬込むのを手にとる如く知り、時期を見て機関銃の一斉射撃をあびせ全滅させるのである。
マイクの事は我軍も気付かなかった。それでだいぶやられたのである。我軍も手をかえ品をかえ攻撃したが、皆やられた。
敵は毎日増加するばかり、我軍は毎日死んでいくが、それでも斬込より他に勝てる方法がない。
毎夜各隊各様に斬込をかけるのだ。私は神風が吹いて今に日本軍が勝つだろうとも思っていた。

工兵戦闘

我等工兵は歩兵のように戦闘はせんと思ったら大まちがいで、硫黄島のように包囲されては、工兵でも海軍でも砲兵でも軍人である限り戦わなければならないのだ。
どの部隊も毎日斬込に行く。工兵は爆薬の取扱いには慣れている専門家だ。
20キロの爆弾を自分で作って背中に負い、我が身もろとも敵陣に飛込むのを斬込と名付けて実行した。帰る者はなくなった。毎日死んでいく。
私たち四国の部隊は半分父島に残り半分が硫黄島に居るので、非常に少ない人数だ。隊長の来代大尉は、敵機が来ると穴の中で震えていたが敵機が去ると穴から出て大きなことばかり言う臆病者だったが、敵の上陸する前、病気と言って師団の命令をもらい、飛行機で内地に引きあげてしまった。
隊長が内地に帰った後には父島から中尉の人が来ることになっていた。早く来ればよいと私は思って待っている。
ある日工兵が来たとの情報があった。しかし来たのは兵のみである。中尉は父島を出る時船を爆撃されて死んだという。
我等の部隊のとなりに居った鹿児島の歩兵第145連隊(池田部隊)付の工兵少尉が一人我隊に来た。これで少尉2名、准尉1名、後は下士官と兵のみである。(石坂少尉、宮崎圓少尉)

 

第1回斬込

工兵も軍人であるから戦わなければならぬ。
夜間を利用して敵陣に斬込に行かねばならぬことになった。最初に斬込む者が決まった。我等工兵部隊に属していた輜重兵伍長以下特務兵6名である。
皆さん直ちに2階級進んだ。班長の佐賀謙好伍長は曹長になった。特務兵は上等兵や兵長になった。嬉しそうに新しい階級章を付けて斬込準備をしていた。
その夜20キロ爆弾を背負って敵陣に斬込んで行った。ただの1名も帰ってこなかった。

戦争とは本当にむごいものである。人の命を紙くずの如く殺すのである。

 

第2回斬込

第1回は2階級進級して死んでいった。第2回は進級はない。私も行かなければならなくなった。
天皇のため国のため、東洋平和のため死ぬのだが、私は死にたくなかった。
しかし喜んで死ぬような顔をしていただけだ。班長は矢野千郎軍曹、私を入れて5名であったが兵の名前を忘れた。
20キロ爆弾を作った。夜になった。各人が背負った。明朝天山に来る敵の戦車に飛込み、戦車諸共我が身も死ぬのである。
命令を受けて出発した。走ったり伏せたり止まったりで、ようやくにして天山に着いた。横穴に入る。朝まで戦車を待つことにする
。泣いても笑っても明朝は死なねばならぬ。色々と頭に浮かぶ。身内の事、妻や子供の事思い出される。
やがて穴の中で朝が来た。今か今かと戦車の来るのを待つ。戦車が来たら命はないのだが待たねばならぬ。いくら待っても戦車が来ん。戦車が来ないのにどうも出来ぬ。
一同顔見合わせて待っている。

不思議なことに、私は過去3回の戦争でも絶対に死ぬはずの時に生き残った。
今回も戦車が来んのでまだ生きている。母や妻子が神に祈ってくれるおかげかとも思う。
いくら待てども戦車は来ぬ。夕方まで待ったが戦車が来ないので引きあげる事になった。みんな喜んだ。北部落に引きあげて帰った。腹ぺこだ。
昨夜から何にも喰っていない。穴の中では、よくも生きて帰ったなあとみんな不思議がり、喜んでくれた。

 

第3回目の斬込

元山飛行場はとられ、飛行機はただの一機もない。天山に戦車は必ず来る。
どうしても天山で敵を食い止めんことには司令部も危ないのだ。われらは斬込に行って戦車が来ないので飛込まず帰ってきたのに、又行けという。
一度死にそこなった者は生きて帰ってはいかんのかもしれない。
今度こそ、行って死なねばならぬ。

分隊長  矢野千郎 軍 曹  高知市○○乙○○

隊 員  高橋利春 伍 長  高知県○○郡○○村○○

隊 員  西森道晴 上等兵  高知県○○郡○○○村○○

隊 員  横山義範 上等兵  高知県○○郡○村○○○

その他6名であったが名前は忘れた。今思い出せない。
夜になり20キロ爆弾を背負い、銃を持ち、残りの兵に見送られ出発した。
二度と帰らぬつもりであった。海上から撃って来る。機関砲も物すごい。黄燐弾が落下する。危なかった。
天山の手前に、広島の藤原部隊が居る。歩兵である。この部隊の居るところに来た。各々20キロ火薬を背負っている。天山に斬込に行くと言うと歩兵は非常に喜んで、工兵来てくれたか、しっかり頼むぞ、将校まで出てきてありがとう、頼むぞと礼を言う。
しかし我等は明朝死なねばならぬのであり、ありがたくなかった。
歩兵に別れを言って我等は天山に向かって歩く。海から盛んに弾丸がとんで来る。ようやく天山についた。

 

天山着

今夜は我等工兵10名のみ斬込み死ぬものと思って出て来たが、同じ工兵の他の分隊が出て来た。
我等の後を追ってきたのだ。私は只事ではないぞと直感した。我等が出発した時残っていた分隊も出て来た。全員死ぬつもりだと思った。
いずれにしても我等工兵は生きては帰れないのだ。戦車が来れば飛込むのだ。我が身と共に散るのだ。
死にたくないが止むを得ん。戦争に勝って内地に帰ることはないのだ。死ぬのだと思った。

 

陣地入る

われらの後から来た佐伯分隊は、天山の横穴陣地にはいる。軍医も海軍も砲兵も、憲兵まで来ている。そこへ我等工兵が割込んだのでいっぱいになる。
連日の戦争で穴の中は死体でいっぱい、入口も出口も中の方も死体は山になっている。われらは友軍の死体を踏んで出入りする。
あわれなれど戦争だから止むを得んのだ。

 

現地入り

われらは穴の中で少し休んだ。明朝斬込む場所を話し合う。そして決定した。
それでは現地に行こうと穴を出る。我軍の死体を沢山踏んで出て行く。
グニャグニャする、気持わるい。坂を登って行く。月が出ていた。明朝死ぬなんて思えない静かな夜だった。
各人自分のはいる穴を掘るのだ。タコツボといって縦に掘るのだ。夢中で掘る。このタコツボから戦車めがけて飛込むのである。

 

佐伯軍曹の死

我等が一生懸命に穴を掘っていると、佐伯軍曹が見回って来た。
私は軍曹の顔を見ておどろいた。月の光で見る顔は青白く、目はつり上がり口はゆがみ、この世の人とは思えぬ。私は思った。軍曹は死相が出ている。
この人は死ぬと直感した。果せるかな、その夜おそく戦死した。一番先に死んだ。人間死ぬ前は人相が変わる事を知った。(佐伯重見軍曹だ)

 

内海兵長死す

佐伯軍曹の分隊に居る内海光男兵長も、この夜戦死した。銃弾が盛んに飛んで来る、それにあたったのだ。

 

西森上等兵戦死

我等の分隊は夜通し穴を掘り、朝になった。穴は出来たが、フタを作らねば空から飛行機で見られて全滅だ。
各自それぞれ自分の掘った穴にフタをするため、木の枝や草や土のカタマリなど集めてくる。その時、高知県梼原村出身の西森道晴上等兵が、アイタヤラレタと叫んで右手で左手首を押えている。
私が直ぐとなりに居ったので走りよって見ると、小銃弾で撃ちぬかれている。血が流れている。ホータイを出してしばってやった。
私は西森とは特に親しかったので、矢野軍曹に相談して兵を1名つけて西森を下の横穴陣地に行かせた。
そこに軍医も居るから診てもらえ、そのくらいの傷では死にはせんと言い聞かせて下がらせた。西森はすまんと言って下がって行った。
まもなくわれらは戦車に飛込むのであるが、西森の方がよかったかもしれんのうと話したりした。

フタはすんだ。各自掘った穴に入り、フタをする。持っていた握り飯を喰う。直ぐ死ぬ身でも腹はへる。戦車を待つがまだ来ん。
そのうち明るくなり、日が出た。私は穴の中からフタを少し突き上げて外をのぞいて見た。
直ぐ下の海には敵の軍艦が沢山居り、陸に向けてドカンドカンと撃ちまくっている。空には小さな飛行機が沢山来てグルグル回って日本軍の行動を見ている。
兵隊の一人でも見ようものなら、地面すれすれまで下りてきて機関銃で掃射する。爆弾を落すからたまらん。
私は静かにフタを下ろして、又穴の中ですわる。戦車の来るのを待つ。そのうち戦車は来ず夜になった。
やれやれと穴から出て背のびする。

それから穴にはいりすわる。外がさわがしいので首を出してみると、味方の兵が交代に来たと言うのだ。
われらは申し送って交代する。私は又戦車に飛込まずに助かった。
私は死に直面すると必ず何かが起こって必ず助かる。今までも不思議に助かっている。

我等交代して元の横穴に下がってきた。
大勢の死体を踏んで陣地内にはいる。次の命令を待つ事になった。私は、朝手を撃たれた西森上等兵を探した。
彼は軍医に診てもらったが、手当を受けて死んでいた。腕や足などの傷で死ぬことはないが、何故か死んでいた。
私は看護兵に頼みて後、自分の分隊に帰り報告した。

陸地の3分の1は占領せられ、残る北部落に向けて敵はジリジリ攻めて来るのだ。
とても勝てる見込みはないが、生きている限りは戦わなければならぬ。
我々の居るこの陣地は山の中を掘りぬいたもので、なかなか広い。いずれの部隊が使用してもよいのだ。
各部隊は、ここからそれぞれ斬込んでいくのだ。我等もまた、直ぐ歩兵の散兵壕掘りに出された。めくら弾丸がとんで来るので危ないこと甚だしい。
今日は陸軍記念日なのに、戦争に休みはない。陣地作りばかりさせられる。
戦争はつらいものなりと思う。



3月11日

昨夜は寝ずに陣地作りをしたが夜が明けた。
3月11日なり。戦争は我軍に不利なり。必死の防戦も空しく段々と押されている。
考えてみると、ここ数日穴掘りや斬込みばかりである。戦死者も多かった。
負傷者も多かった。元気な奴は骨と皮である。まともな兵は居らぬ。第一喰うものがないのだからである。
支那からずっと一緒に戦ってきた谷川政一上等兵も死んだと聞かされた。頭に手榴弾を受けて、鉄カブト諸共頭が飛んだという。
かわいそうな事をしたものだ。この友は出征途中、大阪駅ホームで妻と最後の別れを惜しんでいた兵だが、本当にあれが最後の別れであったのだ。

 

部隊に帰る

私のように生きていれば、次の戦いに出される訳だが、天山も敵が来なくなった。
残った兵を集めて、北部落の陣地に帰る事になった。みんな喜んだ。九死に一生を得て今ぞ部落の部隊に帰れるのだ。
ようやく帰りついた。陣地の中には負傷した者など沢山居った。私等を見て、よく帰って来たと大変喜んでくれた。
これでしばらく休ませてくれると思って喜んでいたが、そうは問屋が卸さん、次の命令が出される。

 

3月13日

私は3月1日付で陸軍伍長に任ぜられていた。死にみやげの進級と思う。
いずれ死ぬのだからその土産だ。果して次の斬込命令が来たのである。

今度は下士官として兵を指揮する事になった。
島は半分取られ、ジリジリ押されて3分の1も残っていないような状況だ。
今度の斬込が我が部隊最後の斬込である。1000に1つも生きて帰れる見込みはない。
必ず死である。今度は生きていても帰る所もないであろう。この陣地も数日で落ちる。死は決定的となった。これから斬込の準備をしなければならない。

昭和20年3月13日、最後の斬込命令が出された。下記の8名が決まった。

斬込分隊長  矢野 千郎 軍 曹  高知県  予備役

隊   員  高橋 利春 伍 長  高知県   〃

  〃    吉岡 富造 伍 長  愛媛県   〃

  〃    横山 義範 上等兵  高知県   〃

  〃    石崎  薫 上等兵  愛媛県   〃

  〃    林  正吾 上等兵  徳島県   〃

  〃    木村  甫 一等兵  徳島県  補充兵

  〃    野口勝二郎 一等兵  徳島県   〃

我等は工兵であり、爆弾作りは専門家である。
たちまち20キロ爆弾を各自が作った。これを背負って敵の戦車に我が身諸共飛込むのである。
夜になるのを待って、爆弾を各自背負う。銃をさげた。誰も何にも言わぬ。言いたくもない。明朝はいやでも散らねばならぬのだ。
再びこの陣地に戻る事はないのである。戦局は不利、師団司令部も危ない状況である。さあ出発だ。陣地に残る負傷兵は沢山居る。
我等の出発を見て、一緒に死にたい、連れて行ってくれと泣く兵も居る。私が仲のよかった高橋為数上等兵は足を撃たれ養生していたが、私に、連れて行ってください、共に死にたいと泣きながら頼むのである。
私もかわいそうに思って、歩けるかと言うと歩けますと立ち上がったが、再びばったり倒れた。
お前は無理だ、養生して治ってから斬込め、となぐさめて出発した。あの上等兵の悲壮な顔は、今も忘れられない。

我ら8名は穴陣地を出た。
暗くなっている。弾丸が飛んでいる。横山上等兵が、高橋班長、今夜は敵弾が妙に飛んで来るのう、地面にブスブスはいるが普段とちがうなぜよ、と言った。
あの声は忘れられない。私は各兵の間を30メートル離して行く事にした。集団で行くと、一人に弾丸が当たれば全員死ぬる。
背中の爆薬に火がつき吹き飛ぶからである。それでは戦車に飛込めず、目的が達せられないからだ。
陸からも海からもタマはとんで来る。その中を天山に向かって進んで行く。明朝天山に来る戦車を破壊せねばならぬ。
私は日本を発つ時必ず生きて帰ると妻子に言ったが、どうも約束は果たせない事になった。死なねばならぬ運命になった。
生きていても米ない水ない弾丸ない、どの道生きられないのだ。妻子に許せよ私は生きて帰れない事になったと心でわびた。
今は只死を覚悟で進んで行くのである。

 

天山着

天山はいつも来ているので地形がわかっている。横穴陣地にはいる。
天山に着いたのだ。朝まで休む事になる。昭和20年3月14日の朝になる。
今日が我等の命日となるのだと誓う。交代で穴の出口で敵の来るのを待つ。
私が交替して敵の方を見ていると、目の前がピカッと光った。ドカンと音がして、私は土砂の中に埋まった。
砲弾が目の前に落ちたのだ。不発であった。助かったが、爆発して居れば木っ端みじんになっていた訳だ。
私は、いつでも死に直面すると、何かが起こり助かるのだ。不思議である。

 

戦車来る

来るはずの戦車はまだ来んので飛込む訳にはいかぬ。
交代で見張る。
戦車が来たぞーと見張りは叫ぶ。私が行ってみた。本当に来た。今まで3回も斬込に行ったが戦車が来んので助かったが、今度はそうはいかん、戦車が来た。
茶色で大型M4という最も恐ろしい奴が来たのだ。
200メートルくらい遠くに居る。大砲を突出し機銃を左右につけ、火炎放射器もつけている。我等8名の死ぬ時が来たのだ。
どう考えても助かる見込みはない。覚悟は出来ている。恐れはせぬが、死は我等に刻々と迫っているのである。

別の陣地に4名を連れて見張りをしていた矢野軍曹が、戦車が来たぞー戦闘準備、と叫んで走ってきた。
その顔色は青ざめている。私は早く見付けていたので慌てない。どうせ死ぬのだから恐ろしくない。死ねばよいのだ。
戦車に飛込めばよいのだ。他に道はないのだ。
敵は前方を火炎放射器で焼き払い、機関銃で掃射し、大砲でドカンドカンと撃ってズルズルと進むだけだ。
これを繰り返している。1時間に10メートルも進まない。

我等は戦車が10メートルに近づいたら飛び出せと決めている。
一番先に飛込むのは私であり、2番は矢野軍曹だ。3番は吉岡伍長、4番は横山上等兵、5番は石崎上等兵、6番は林上等兵、7番は木村一等兵、8番は野口一等兵と決めてある。

戦車は何10台も居り、我等は8名だから、8台しか破壊できないが止むを得ん。
二度は飛込めぬのだから、残った戦車は我軍の方になだれ込むであろう。

私は4回目の召集なり。今日ここで死ぬとは運が悪い。
しかし戦陣訓にも書いてある。散るべきときは清く散れである。その散るべきときが来たのだ。清く散るより他に方法はないのだ。
私は覚悟している。みんなの顔を見た。みんな無言でうなづいた。準備は終わった。10メートルまで戦車が近づくのを待つ。

私は兵に、よく休んでおけよと言っておいて穴の出口に行き、戦車を見つめていた。
矢野軍曹も今は同じ陣地で飛込む時期を待っている。一斉に飛込むが、総指揮は矢野軍曹がとることになっている。
いくら待っても戦車は10メートルまで来ない。我軍の飛込みを恐れているのだ。あと90メートルで私は飛込むのだと見つめている。
90メートル近づけば私が一番先に飛込んで見せるぞと自分に言い聞かせていた。その時意外な事が起こった。

 

決死隊

あと90メートル進んでくるのを待っている私の80メートルくらい前に、一人の日本兵が這いながら先頭の戦車に近づくではないか。
只一人だ。私が飛込むと決めていた戦車に向かって近づく。
アッという間の出来事だ。戦車めがけて飛込んだ。
我が身と共に戦車に飛込んだのである。たちまち起こる爆音に戦車は火を吹き燃えはじめた。ヤッターと私は叫んだ。

敵さん騒ぎだした。
日本の斬込隊が居ると知ったから大変だ。敵は火炎放射器で焼きだした。
火炎はボーボー黒煙と共に真っ暗い。一寸先も見えなくなった。先頭の戦車をやられたので、敵さん怒ったにちがいない。
2番目の戦車が先頭になり大砲で撃ちまくる、機関銃でなでる火で焼く、物すごい。

 

花と散る

この我等より先に飛込み見事に戦車1台破壊した兵はどこの部隊の誰かは知る由もないが、南海の島で花と散った。
只一名のみだ。他部隊の生き残りかもわからん。知っているのは私一人だから功績を認める者はない。
誰のために死んだのか、国のためとはいいながら爆弾を背負って戦車に飛込み戦死したのだ。
数刻の後は私もあのように飛込んで散るのであると思った。
世の中には不思議な事も奇蹟も起こる。私が飛込む戦車に味方の兵が飛込み、予定はくるってしまったのも奇蹟だし、私が今このように当時の事を書いているのも奇蹟である。
生きるものが死に、死ぬべきものが生き残る。
驚くべきことである。私が飛込んで死ぬはずの戦車に別の部隊の兵が飛込んで死んだ。敵さん進まず、付近を焼き払い撃ちまくりしている。
我等8名は出るに出られず非常に困った。出れば焼かれる撃たれる、目標の戦車に近づけぬ。
何にも出来ぬ。戦車が近くに来るのを待つより方法はない。じっと待つ。

この時だ。天地も崩れるような大音響と共に地鳴り震動が起こった。
黒煙立ち込め一寸先も見えぬ。ゴーゴーピカピカドンドンバリバリドカンドカン我等も身体が飛び上がるほど震動する。
何事が起こったか、地震か火山の爆発かと思う。何十台、何百台の戦車は我等の頭上を強行通過して行ってしまった。

 

生き埋め

敵は1台やられたので強行手段に出たのだ。台風のように走り去った。
我等はどうも出来ぬ。戦車について来た海兵隊は我軍の陣地の出入口全部に手榴弾を投げ込んでつぶして行く。
我等は地中深く生き埋めになった。天晴れの作戦だ。われらに飛込むすきをあたえず穴の出入口を埋めてしまった。
見事我等は戦に負けたのだ。

 

脱出

戦車に飛込んで死ぬはずの我等8名は地中深く埋められた。
空気と食料、水がない。そのままではミイラになる。地上に出るより生きる道はない。出ることに決まった。銃剣で土を掘り起こし、他の者がその土を後方に手で運ぶ。
暗いところで必死で作業する。何時間たったかわからんが、人間の頭くらいの穴が出来た。空気の心配はなくなった。
外の様子はわからん。出ても命の保証はない。誰も先に頭を出す者がない。私が頭を出した。敵は居らぬ。夜になっていた。
照明弾が高く上り、明るくなったり暗くなったりしている。穴の出口にはガソリン缶が沢山積んである。それで穴を広げて出ることになった。
次から次と穴から出る。全員出たところで矢野軍曹は、我等は斬込に失敗したが仇をうたねばならぬ。ひとまず我等は北部落に帰る。
失敗を報告して次の命令を待つ。これから海に出て、水際を通って北部落に行く、と言う。それ行けとばかり動き出した。

 

3人戦死

照明弾が上っている時は這いながら行き、暗くなれば走りして海岸へ海岸へと行く。
敵に発見されていない。100メートルも行った時、高いところに出た。
我先にと飛び降りる。たちまち機関銃の音と共に火を吹いた。
パッパッと火が出て明るくなる。飛び降りたものはやられた。待ち伏せにあったのである。
後方に下がり砲弾の穴の中で調べてみると、吉岡伍長、岩崎上等兵、木村一等兵は戦死、野口一等兵は自分が来た方向に走った、行方不明である。残念である。

 

矢野軍曹戦死

4人を失った我等は矢野軍曹指揮のもとにさらに北へ100メートルも行った。
海に出るに都合のよいところがある。ここは2メートル位高くなり、下に飛ばなければならぬ。
矢野軍曹自ら飛降りた。バリバリドンドンピカピカと機銃が火を吹き矢野軍曹はやられた。助ける事も出来ぬ。敵はどこにも居ったのだ。又1名失った。
誰か一人でも北部落にたどり着き、状況を報告しなければならぬが、敵の中を通っていくには容易ではない。
敵は夜間絶対に動かぬ。動く奴は日本軍と決まっているので見つかれば殺される。何とかして敵の中を突き抜けることを考えなけばならぬ。
下士官は2人やられた。今度は私が指揮をとらねばならぬ。残ったのは私と横山上等兵と林上等兵の3人となる。
中のよかった同県人の矢野軍曹も死んだ。涙が落ちる、止むを得ん戦争なんだ。

 

横山上等兵戦死

横山上等兵も同県人だが彼は私よりずっと若い。残った3人で又行く。
伏せたり這ったり歩いたり進んで行く。しばらく行くと、飛び降りるに都合のよいところがあった。用心せんと下に又敵が居るかもしれん。
横山が伸び上がりながら下をのぞいた。アッ痛いと言った。うつ伏せになった。下から銃声が起こった。やられたのだ。私が引き起こしたが駄目だった。
胸から背中にかけて撃ちぬかれていた。残念でならない。

次から次へと死んでいく。今度は早く行かないと夜が明ける。
夜が明けたらおしまいだ。たちまち発見せられて命はない。

 

林戦死

私は林と2人になった。林よ今度は海に出ず陸の真ん中を通って行こうと相談してそのようにした。
起きては這いながら行く。照明弾が上がれば伏せる。暗くなれば這って行く。ずいぶん行った。100メートルも前に敵の歩哨が2人見える。
林よ右の歩哨は俺が殺す、左の歩哨はお前が殺せ、その中を突っ走るぞと命令した。2人はジリジリと進む。林上等兵は立ち上がった。ウロウロ見まわしている。
私はあわてた。小さい声で林よ伏せよ、林早く伏せんかと言うが返事をしない。そのうちパンと銃声があった。
林はそのままうつ伏せに倒れた。走りよって引き起こして見たがもの言わぬ。胸から背にかけて撃ちぬかれていた。なぜこんなところで立ったのかわからん。

8名脱出したものが私一人になってしまった。
生きる望みはない。みんな死んだ。私も死のうと覚悟をきめた。東の空は明るくなった。夜明けだ。夜が明けたら駄目だ敵の真ん中だ、直ぐやられる。

 

私も撃たれた

私一人残った。今度は走った。海の方に向かって走った。小高いところがある。明るくなったのでよく見える。
飛び降りるべくのぞいたその時だ、下から上に向けて敵が撃った。私は胸に焼け火箸を突き刺したように感じたと同時に息が出来ぬ。
まっさかさまに落ちた。ああ私も遂にやられた。全員死んだか情けないと思った。
血は飛び身体が動かぬ。気がついたら敵の目の前だ。沢山米兵が居る。その前に私は落ちている、生きていた。突然立ち上がり、横にある横穴陣地に走りこんだ。
物すごく血が流れる。シャツもズボンも血で染まった
。穴の壁に背中を押し付け少しでも血を止めようとしたが、何の効き目もなかった。

敵さんは穴の口に火炎放射器を持ってきて奥に向けて火で焼きだした。
私のところまで火は届かなかった。もう少し前に居ったら焼き殺されるところであった。
私は左腕から背中にかけて貫通銃創を受けていた。
息をすると体がふくれるのでそれが痛いのだ。死ぬ苦しみであるが息をせん訳にはいかん。

 

全滅

最後に残った私も遂にやられた。斬込に行った8人全員がやられた訳だ。
みんな死んだのだから死ぬのは当たり前である。私もやがて死ぬ。医者も薬もない。食うものも水もない、死は目前だ。
うらむことはないと自分に言い聞かせた。目はくらむ、血は物すごく出る。身体中冷たくなった。駄目かとあきらめた。
穴の奥から日本兵が出て来た。誰だヤラレタかと言う。この通りヤラレタと傷を見せる。奥へ来いと言う、ついて行く。
奥に敗残の日本兵が沢山居った。傷ついたのや病人ばかり居った。私の傷をシャツとゲートルで手当してくれた。カンメンボーを少しくれた。
水がなければ喰えぬ。人間重傷を負い血が出ると、水が欲しくてたまらんようになる。その時水をやると必ず死ぬ。それでもあれば飲む。死んでも飲む。飲まねば居れんのだ。
私も水をくれと頼んだが、すずめの涙程しかくれぬ。ないものは飲めんのだ。
土の上に転がって痛さをこらえる。傷は化膿してはれてきた。左手は全然動かなくなった。
うずく、息が出来ぬほど痛い。

米軍は穴の出入口を探して爆破していく。今日も何ヶ所も爆破した。
日本兵を穴の中に埋め込み出られなくする作戦だ。出入口は至る所に開けてあり、少し位埋めても空気の通わぬ心配はない。
空気はあるが水と食料がないのでいずれ全員死ぬに決まっているのだ。重傷者は早やずいぶん死んだ。水の代わりに自分の小便を飲む者もある。
歩兵の元気な奴は脱出する相談をしている。敵の小舟を盗み北硫黄島に逃げると言う。潮の流れを利用すれば行けると話している。
我等重傷者にも話はあったが、とても一緒に行ける状態ではないので断った。10人くらいが夜を利用して外に出た。おそらく全員死んだであろうと思う。

我等は食料がないから明日頃は死ぬより致し方がない。
私は他のものに話してみた。
君等脱出するかここで死ぬかどうすると言うと、私は動けないのでここで死にますと言う返事ばかりだ。
実際に動けん奴ばかりだ。私は穴の中で死ぬより外に出て味方の居るところに行って死にたい。北部落に帰り状況を報告して水をもらって飲んで死にたかった。
このまま喰わず死ぬより出ようと考えた。穴の口まで這って来たが出口が高いので片手で出ようとしたが身体を支えることが出来ず傷は痛い、身体は持ち上げることが出来ん。
又あきらめ、元の所に転んで寝る。一晩中痛さになやまされる。夜は明けた。喰うものはない水もない。
今晩は出なければ明日は穴の中で死ぬ、出ようと又夜を待って這い出て行く。その晩何回も何回も片手で身体を浮かす練習をする。
落ちては上り又落ちる。長い時間かかって遂に出ることに成功した。夜で照明弾が上ったり落ちたりしている。
目的は北部落の味方の陣地だ。明るい時はすわる、暗くなれば這って行く。右手で這い左手は動かぬ。少しずつ進む。北部落に帰って飯をもらい水を飲んだら死ぬと決めている。立って歩いてみる。歩ける。海岸の30メートルくらいの断崖に出た。闇にすかしてみると人間が近づく。只一人だ。敵だったらそのまま死につながる。
私は重傷者だ、手が動かん。銃もない。合言葉は山と川である。私は山と言ってみた。川と答えがあった。友軍だ。日本兵であった。互いによりあった。
私は彼に事情を話して連れて行ってくれと頼んだが彼は元気なのだ。
足手まといと思ったか、ずんずん行った。私は残された。ついて歩けんのだ。
その男浜に下りた。そこで手榴弾の音がした。銃声も起こった。
彼が敵に出会ったのであろう。死んだにちがいない。私もそうなるやもしれんが、行くより方法がない。
目標物は砲弾で飛んでしまい方角がわからん。夜だから特にわからん。海に出て北に歩くより仕方ない。30メートルも高い崖が砲弾で撃ち砕かれて45度くらいの坂になりザラザラの土と石になっている。私はズルズル滑り降りていく。
途中で岩がそのまま残っていた。夜だからわからずまっさかさまに落ちた。
途中背中の傷が化膿しているのを岩に打ちつけながらドンドンと落ちた。10メートルも落ちた。砂浜に落ちた。
背中の傷が破れて膿がどっと流れ出し、ぬるぬるとなり流れ出る。背中だからどうも出来ん。流れっぱなしである。ズボンまで血の膿で染まってしまった。
ああこれで死ぬのか、残念であるが誰も居らんので手当してもらうことも出来ない。それでも立ち上がり、砂浜を歩いて水ぎわに行きついた。
海は戦争を知らずにザーザーと小波が立っていた。水を飲みたくて喉が焼け付きそうだ。海水は潮だから飲めぬ。付近にドラム缶が流れ着いていた。
私は米軍の飲料水かもしれんと思ったので、石でカンカン叩いてみたがなかなか開かない。その音が敵さんに聞こえぬはずはない。
直ちに発見された。2名が私を追ってくる。射殺される。私は銃なし、手榴弾一発のみ自殺用に持っているが使用出来ぬ。
元の方向に逃げる。砂だから足跡は残る。敵さん足跡を追って来る。
背中の傷が破れてヌルヌルになっている。左手は完全に動かぬ。
岩かげに隠れようと近寄ると、そこにも敵は銃をかまえて私の近づくのを待っている。直ぐに私は姿をかくして元の方に走る。さきほど落ちた所に来た。
45度の崩れた坂を登る。這いながら右手を使用して掻きあがる。左手は全く動かない。途中で私は力尽きて気を失ってしまった。

精も根も尽き果てた。
4日も喰わずに穴の中で寝ており、今晩穴を抜け出してこの苦労だ。
傷は化膿する、今破れて膿の出放し、敵に追われていれば気を失うのも当たり前である。
ここは日本軍の死体が山をなしており、その中に私が気を失ったのだから、敵さんも死体と私との区別がつかず遂に私を見失い、追跡をやめたものと思われる。
私が気がついたのは朝になっていた。45度の上り坂の中央部まで這い上がり四つん這いになっていた。
私は死んでいて今生き返ったのか全く意識がない。
坂を登りきり砲弾の穴にはいった。硫黄が吹き上げている。尻が暖かい。昨夜の出来事で私の身体は冷え切っていた。背中の傷から血膿が出放しであり、喰わず飲まず4日だから、自分で自分のことがよく分からない。
傷ついてから何日ぞ、4日になるはずだ。今日ここで死ぬであろう。3月18日だと思う。私の生まれは明治44年3月18日だ。
死ぬのも今日、昭和20年の3月18日だ。このまま自然死か、穴から出て射殺されるか、自殺用の手榴弾で自殺するより方法はない。
命のない事だけははっきりしている。傷は重い喰うもの全くなし水もなし、死より方法ない。手榴弾を出してみた。
振り上げた。しかし軍の命令は最後の一兵となるも尚ゲリラとなり敵をなやませ、である。今私は最後の一兵となったが死んではならん。
ゲリラとなるのだと思い返して手榴弾を雑のうにしまった。

米軍の飛行機が一機私の頭上を地面すれすれに飛んだ。
日本は玉砕したのだなあと思った。私の行くところはすでになくなっているのだ。
北部落にも味方は居らぬ。行くだけ無駄だと思う。女房や子供、母や兄弟に会いたいと思うがもはや生きることさえ出来ないのだ。
私はこの身体は生きる力はない、死ぬなら敵の陣中に行って死んだほうが軍人らしくてよい。そうしよう。戦友は皆死んだんだ。
死ぬのが当たり前なのだ、死のうと考え、砲弾の穴から出た。敵に取り囲まれた。敵は10人位だが、銃を全部私に向けている。動けば蜂の巣のようになって死ぬのだ。
止むを得ん、俺は死ぬのだ。何でこの命が惜しかろう。撃てと胸を叩いて見せた。

米軍は首を横に振り、すわれと手で指示する。
私はすわる。鼻の高い、背の高い、青目の兵隊は銃を私に向けたままだ。私はどうも出来ぬ。殺すなら殺せ。覚悟は出来ているのだ。彼等の言うままになる。
水を飲ませてくれ、死ぬ前に水を飲ませてくれと手で指示する。左手は動かんので右手で示す。兵隊は自分の水筒をくれた。飲んだ飲んだ大きな水筒の水を飲んでしまった。さあ満足だ殺してくれとすわる。彼らは私に来いと招く。ついて行く。私を中にして歩いて行く。私もヤケクソだ、殺しやがれとついて行く、どこまでもついて行く、日本軍の死体の中を歩いて行く。

 

幕舎に行く

軍医の居る幕舎についた。軍医が診てくれた。
私は水は飲ませてもらったが腹はすいている。4日も食っていない。
手で口の中に入れるものくれと動作をする。直ぐわかった。缶詰をくれた大豆を煮たものであった。全部喰ってしまった。
軍医は傷に白い薬をかけてから、傷が重いから野戦病院に行きますと言う。殺さんのかと不思議に思っていると、ジープが来た。後部が抽斗になっており、それを引き出して2人で私を投げ込んだ。
押し込んでカギをかけて走り出した。道でないからたまらん。砲弾の穴だらけだ。車は出たり入ったりドンドンバタバタ走るが、体が引き出しの中であちらに当たりこちらに突き当たり、背中の傷も打ち当てられ死ぬ思いである。
泣いてもわめいても、死んだとて見向いてくれる者はない。敵さんに捕まっているのであるから止むを得ん次第だ。

 

米軍病院

野戦病院についた私は引き出しの中から出され、軍医が診てくれた。
喰うものはくれるし、これは本当かな、夢ではないか、戦死してあの世に来ているのではないかと思った。二世の米国軍人が沢山居るので聞いてみた。
硫黄島は3月17日我々が占領した。日本は負けたと言う。私は無駄な戦争をしたものだ。日本軍2万は玉砕したのか、知らなかった。
俺も死んでいた方がよかった。何故生きているのか、いつ米軍に殺されるかわからん。捕虜生活はつらいものだ。



ガム島

昭和20年3月24日、硫黄島の西海岸からガム島に送られることになった。
大きな船に乗せられた。米国軍人が機関銃を持って我等を警備している。
船は出た。何日も走ってガム島に着いた。ヤシの大木が全部中央部から折れている。満足に立っている木はただの一本もない。草葺きの土民の小屋に沢山の捕虜と共に入れられた。手のない者足のない者色々だ。
我等の仲間も沢山居る。恥ずかしいことはない。毎日日本語のわかる将校が調べる。私は何を聞かれても知らん存ぜんで通した。
私は完全に死ぬのを米軍が助けてくれたのだからありがたいと思っている。

 

ハワイへ

傷はだんだん良くなっていく。ガム島で10日間も過ぎた。
我等は大きな汽車ほどあるバスに乗せられた。港まで運ばれた。大きな輸送船団が着いている。米国に帰る看護婦が大勢乗っている。
看護婦は皆少尉である。みんな美人に見える。長い間女を見てないので、美人に見えたのかもしれない。10隻くらいの船団である。
我等は一つの船に乗せられた。船は出た。どこに行くか言わんのでわからない。船は毎日走る。日本の捕虜が一名死んだ。水葬にすると言う。
布を巻いて海中に投げ込む。それで終わりである。船はその付近を3回まわって葬式終了した。我等は黙祷した。

 

海軍病院へ

私の傷も化膿した。大熱が出た。米国の看護兵が体温計を見て驚いた。
水銀が上にあがり計れないようになっている。45度以上である。
私も自分がわからんようになった。夢に米軍の兵隊が話している。
日本の捕虜は米国に連れて行って殺すと言っている。翌朝目が覚めてみると、

米兵が日本語で話す訳がないから、私の聞いたのは熱のためそんな夢だったことがわかる。
船は10日でハワイに着いた。元気な奴は歩いて上陸する。私はタンカでおろされた。2階のあるバスに乗せられる。
黒ん坊の運転手だ。鍋の底よりまだ黒い。笑って歯の見えるほうが顔である。海軍病院に着いた。昭和20年4月24日である。
長い船旅は終わる。傷は痛い。ハワイ真珠湾の見える丘の上の病院で養生することになった。昭和16年12月8日に日本が空襲したところなのだ。
敵さんにとっては恨みの深い土地である。海が浅いので日本の沈めた船が半分以上水から出ている。焼けたままになっている。

 

病院

手術せず毎日傷口に薬をつける。膿はとまらぬ。
傷口から大きな骨片が出てきた。2ヶ月入院した。今日まで海軍(マリン)の病院だったが、陸軍(アミ)の病院に引き渡される事になった。
大きなトレーラーバスに乗せられてハワイを走る。しばらくして、陸軍の収容所に入れられた。ドイツ、イタリヤの捕虜も沢山居り、我等とは別のキャンプに入れられている。朝鮮人の捕虜は日本人と別にして入れられていた。

 

使役

毎日草引きや掃除をさせられる。運動のためらしい。
夕方になると、ドイツの捕虜とイタリヤの捕虜が鉄条網のそばに来て国歌を歌う。我等はドイツやイタリヤの国歌を歌う。共に万歳を叫んで別れる事になっている。
私も君が代を歌った。異国の空で捕われの身で歌う君が代は自然に涙が出てとまらない。不思議なものである。

 

朝鮮人

朝鮮は日本の領土であり朝鮮人は日本人であった。
兵隊にも軍属にも朝鮮人は沢山いた。ハワイで彼らは日本上陸の訓練をしていた。
釜山に上陸し祖国朝鮮を日本から取り戻すと言っていた。(朝鮮人の捕虜)

 

米国へ

昭和20年6月、ハワイで2ヶ月養生して、米国に送られる事になった。
6月21日、ハワイから米国輸送船に乗せられる。東に東に進む。10隻くらいの船団で行く。10日目に山が見えてきた。
富士山そっくりの山がある。半分雪をかぶり美しい。海中にはオットセイみたいな動物が沢山顔を出して泳いでいる。変な声で鳴いていた。
遂に私は見たこともない米国本土に送られたのだ。両側に陸のある入り江の海を北に進んでいる。しばらくして港に入る。物すごく船の多い港だ。
シヤトルというところだと知らされた。

 

上陸す

昭和20年7月1日、船から桟橋に下りる。街の中を歩かんと検疫に行けん。
500メートル位歩かされた。10メートルおきに米軍の歩哨が銃を持って立っている。街の中は見物人でいっぱいだ。男も女も沢山見ている。
話し合っているが英語だから我等にわからん。
日本の捕虜だと言っているのであろう。いくら悪口を言われても全然わからない。

検疫所に入れられ丸裸にされる。頭から白い水をかけられる。
消毒薬だ。終わって汽車に乗せられた。人間の運命とは全くわからないものだ。又私はどこに行くのかわからず汽車で行くのだ。

 

汽車

汽車は走る。野を超え山を越え走る走る。2日間走り続けた。
サンフランシスコに着く。この日は7月3日であった。
汽車を降りて小舟に乗せられてエンゼル島というところに着いた。
ここに収容所があり、入れられた。各人にタバコが配給された。
自分の寝台に置いて用件をすませ帰ってみると、タバコは盗まれていた。
探してみると、われらより先に来ていた海軍の捕虜が盗んだことがわかった。
我等は後から来て仲間に入れてもらうので文句は言えない。
私は盗まれたことは言わなかった。言えば我等陸軍のものは海軍の奴等にいじめられるのだ。自分等が盗んでおいて、騒げばリンチを加えるのだ。
彼らは実に同じ日本軍の捕虜なのにリンチを加える。私はこの目で見た。

 

リンチ

ある陸軍の下士官が食堂に行った。炊事係は海軍の捕虜がやっている。
それに対して文句を言ったらしい。その日の夕方彼等海軍の炊事係等に呼び出された。米兵の居らん所でリンチを加える。
大勢の捕虜の見ている前で顔を殴る腹をけるげんこつで突きまくる、すみませんと謝るのを殴りまくる。見る見る間に殴られる下士官は顔がむらさき色になった。
はれ上がっていく。後難を恐れて誰もとめる者がいない。同じ日本人であり同じ軍人である。捕虜となり心細い生活をしているのに同胞を異国の土地で殴るなんて、彼等は軍人でない暴力団のような奴等だ、腹がたつが誰も口を出さない。
捕虜の内部では、こんな事も行われていたのだ。或いは殺して便所の中に捨てたと言う話もあった。
米国の便所は口が小さく中が広いので、落とし込んだら人間の一人位はわからないように出来ている。

 

移転

わずか4、5日、この島を去らねばならぬ時が来た。
小さな舟で大河を登っていく。このエンゼル島と陸地をつなぐ鉄の大橋がある。上は車道下は人道で2階で造ってある。
米国の兵が、あれほど大きな橋が日本にあるかと言うので、日本にはまだ大きいのがあると言うと、彼は驚いていた。私はウソを言ってやった。
あんな大きな橋は日本にはなかった。ふねはずんずん登って行く。5キロ位行った頃岸についた。新しい収容所があった。我等は入れられた。
全員に注射をせられた。風邪の予防注射だそうなが、物すごい痛い注射だった。ここでは仕事はなくて毎日歌ったり踊ったりで暮らしていた。

 

汽車に乗る

ここで今度は汽車に乗せられた。内地のような黒い汽車でない。
赤や黄色の美しい汽車だ。我等は汽車は黒いものと思っていたが、美しい色があることを知った。大陸を横断するらしい。食事は缶詰ばかりだ。
ああ日本の米と味噌汁が欲しいなあと思った。缶詰はうまくないが喰わねば死ぬから喰うのみだ。毎日毎日汽車は走る。
汽車の窓から見た米国の状況をそのまま書いてみる。

 

畑の中の汽車

毎日走る、畑が続く。畑の中に鉄道の線が引き込んである。水道も大鉄管で縦横に引き込んでいる。この水は各所に分かれて畑に分布し、くるくるまわる道具をつけてあり、雨の降らぬこの地方に雨を降らせるようになっている。雨が何ヶ月も降らんので人口で雨を降らせて農作物を作るのだ。又、鉄道は出来た農作物を運搬するものであり、貨車を突っ込んできてそれに農作物を積み込み機関車が引き出して行くのだ。日本はこんな所はない。こんな広い畑もない。ケタが違うのだ。

 

作物

大根やにんじんの多いこと、何日走っても山がない。
野菜畑ばかり、支那大陸と同じである。日本の北海道など問題にならぬ。アメリカがこれほど広いとは私は知らなかった。
汽車の窓から製材所が見えた。大きな材木を挽き割る片方がベルトコンベヤーになっていて、それに挽き割ったものが倒れる。
向こうに行ってがけ下に落ちる。下は火の海であり燃えてしまう。中味のよい所だけとって木材として使用し、後は捨ててしまうのだ。
贅沢なものだ。日本人には考えられない。恐れ入った次第なり。持てる国と持てない国とのちがいである。

こんな大国を相手に戦争をして勝てる訳がないではないか。
日本魂も軍人精神も神風も打ちてしやまんも、物量と機械文明の前には何の役にも立たず、我が国はだんだん戦争は不利になっていくのであるが、今の私は捕虜としてアメリカ大陸を横断しているのである。
勝つのか負けるのか全く知る由もないが汽車は大陸を横断しつつあるのだ。

 

山林

汽車は山林に入る。山と言っても平地に木が生えているのだ。
日本のように高い山でない。平野が山林だ。直径1メートルもある大木が乱立しているのだ。行けども行けども同じ山林が続いている。
木材は機械のこで切り倒し、クレーンで貨車に積み込み機関車が引き出していく。平地だから、鉄道を山の中に引き込んである。
世話ない。日本のように高い山から出したり谷底の木を出すのでないから仕事がはかどる。木材はいくらでもあるのだから、自由自在に切り出してよい所をとり、あとは捨てるのだ。何と豊かな国であることよ。
何時間走っても同じような大森林の中からぬけない。その広いこと無尽蔵だ。
汽車は日本人捕虜を乗せて行方も知れず走り続けるのである。

 

横断

昭和20年7月28日、この汽車は米大陸を横断してテキサス州に着いた。
ケネデーという所だ。ここに収容所がある。我等はここに入れられた。下士官と将校は同じところ、兵と軍属は同じところに入れられた。沢山の先輩が来ていた。
主として海軍の捕虜だ。大佐から兵までずいぶん居る。小さな家が沢山あって、その中に5名位ずつ入れられる。私は下士官だから、下士官ばかり4名一緒に入れられた。
寝台も4つある。自由に一戸を使ってよい。
内地の村くらい広いところに家がいくらでもある。みんなそれぞれ4、5名ずつ入った。家具など一切なし。

 

軍神に会う

真珠湾攻撃の軍神は9人であるが、本当は10人行ったのである。一人生きて捕まったのである。
それで九軍神とさわがれたのである。人間魚雷に乗って我が身諸共敵艦に突進するのだから必ず死ぬのだ。ただ一人岸に突き当たり動けなくなり捕まったのが、捕虜第1号の海軍の酒巻少尉である。
この少尉にこの収容所で会うことが出来た。高知県の越知町の人だと本人は言っていたがウソか本当かわからん。
人間こんな時はよくウソを言うものであるから。毎日仕事なし、遊んで暮らす。

草をひいたりして我が家の付近をきれいにするくらいが仕事である。
食事は1日3回食堂に行けば喰える。毎日手当として10セントくれる。
店もあるのでその10セントで何でも買える、安い。1里四方くらいのところに金網が張られてある。逃亡は出来ない。
四隅にはヤグラがあって高いところから歩哨が見張っている。逃亡すれば機関銃でなでられるように出来ている。気のくるった海軍の将校が一人居った。只一人毎日柳の下でグルグル回って何かぶつぶつ言っていた。
捕虜になり気がくるったのだと海軍の兵は言っていた。

 

化膿する

私は毎日のんきに遊んでいたが、傷が化膿して食事も出来んようになった。
係に言うと軍医に診てもらえと言う。診てもらった。切り開いてくれと頼んだ。ウンと言って切り開いて膿を出してくれた。
軍医が切り口から指を入れて探って骨の片を沢山出した。肩まで穴がぬけていると言った。骨のかけらは全部出せんと言った。弾丸傷が中から膿んでいた。
ガーゼを口から詰め込んだ。痛いこと死ぬ思いである。叫ばず居れん。叫んでも泣いても外国である、知る者はない。戦争だから止むを得ん。病室に入れられた。

 

入院

入院してみると日本人患者ばかり沢山居った。歩いて行けるようになった。
楽になった。点呼にも出られるようになった。点呼に遅れると、ヘイ、カマワンといって連れて行かれる。営舎に入れられる。パンと水だけで3日間過ごさなければならぬ。
これが点呼に遅れた処罰である。国が変われば何から何まで変わるものだ。

 

病死

私が入院中、別の捕虜が一人死んだ。米国まで来て死んだのだ。
全員集合させられ自動車で墓地に行くのを見送った。いつ自分がこうなるかわからんのだ。又いつ日本に帰れるのか、或いはこのまま日本に帰る事はないのか、それがわからんのである。
米国で殺されるかもしれないと思うと心細いこと甚だしい限りだ。

 

この地方の状況

この地方はメキシコとの国境に近い。冬でも寒くないのだ。
大西洋の岸だ。地下資源が多く鉄パイプを地下に打ち込みガスを出す。炊事もストーブもそのガスでやる。燃料は只である。私は7月に来て12月になったが、まだ雨は1回も降らない。不思議な国である。」内地ならこんなに日照りが続いたら草も木も枯れてしまうが、ここは草も木も成長している。

 

黒人

この地方は住民がすべて黒人である。女は髪がちぢれて長くならない。」内地の金仏の頭のようだ。色は真っ黒であり鍋の底よりまだ黒い本当の黒人である。元の奴隷が住んでいる所なのだ。金の網の間からこの地方の部落がよく見える。」我等の小屋の周りに青い草が生えた。ずんずん大きくなり、直ぐに木になる。
草か木かわからんようになる。又、ヒマの木があった。ハシゴをかけんと実が取れんほど大きくなり、草でなく大木になっている。
家の中にも外にもサソリが沢山居る。人間にかみ付いた事はないが、私は見つけ次第に殺した。南方の毒サソリではないと米国人は言っていた。
こんなことばかりして我等は毎日を過ごしていた。

 

汽車に乗る

昭和20年12月8日、この日は我が海軍が真珠湾を攻撃した日であり、米国にとっては忘れられない日である。
この日我等捕虜は全員汽車に乗るのだと言われた。さあ大変だ、殺されるかもしれんが汽車に乗らん訳にはいかんから、仕方なくぞろぞろ汽車に乗る。内地に帰ると言う者あり、殺されると言う者あり、デマは飛ぶ汽車は走り出す。
私の考えでは我等は船に乗せられて、実弾訓練をする目標にするのだと思った。撃ち沈められるのだと思った。どうせられても止むを得んと思う。汽車は我等の思いを乗せて、野を越え山越え走り続ける。トンネルを抜けて雪の山を見て走る。
何日も何日も走って大平原の駅に着いた。大陸を横断して太平洋岸のシヤトルに着いた。真っ白な雪の街になっていた。
昭和20年12月13日、再びシヤトルに着いたのである。

 

乗船

大きな船に乗れと言う。何百人も居る日本の捕虜を乗せる。
太平洋の真ん中で撃ち沈めるのか内地に帰すのか、我等には全くわからない。
1週間走った。大時化となった。船は波の下をくぐる、その都度ドーンという音が物すごい。船はミシミシ鳴る。割れて沈むのではないかと思うほどだ。
食事も出来ぬほどゆれる。しかし食事も沢山くれるし傷の手当も毎日してくれるのだ。殺すつもりなれば傷の手当はせんだろうから、或いは我等は生きて日本に帰れるのではないかと思うようになる。

 

日本見ゆ

21日間走り続けた。遂に日本の島が見え出した。
ああ日本だ。伊豆の大島だ、見える。戦争に行く時見たあの島が、2年後の今日また見えた。何たる幸運ぞ。船は東京湾に入る。
米国の艦が沢山居る。夢に見続けた我が日本だ、祖国日本に帰ったぞ。妻や子供に生きて帰ると言ったあの言葉は今こそ本当になったぞ、父は帰ったぞと心で叫んだ。
昭和21年1月4日浦賀に着いた。

昭和19年2月27日同じ東京湾を出てから満2年だ。
あのときの気持ちは忘れん、命はないと思っていた。その東京湾に今帰った。米国の船で米国の服を着て今帰った
。傷を受けながらも今帰った。硫黄島で死を覚悟したこと幾度ぞ。過ぎし戦争を思い出す。涙が出る。日本は焼け野原だ。東京湾の中も米国の軍艦がいっぱいだ。
日本は負けたのだ。早く日本の土を踏みたい。上陸したい。

 

上陸す

浦賀の港に船は着いた。我等病人は車で上陸、元気な奴は歩いて上陸する。
私は元日本の海軍病院に入院する。国立病院となっていた。軍医も看護婦もそのまま居る。

戦陣訓に、生きて虜囚の辱めを受くるなかれ、散るべきときは清く散れとある。
我等は散るべきときに散らず虜囚の辱めを受けたのだ。島流しか死刑になると思ったりしたが、心配無用であった。
我が軍はすでになく、軍法会議もなくなっていた。我等は復員軍人として扱われるのである。ありがたい。病院では日本の看護婦の世話になることになった。
昭和21年1月4日であった。

私の背中の傷口はまだ膿が出ている。船の中でもずっと手当を受けてきた。
今度は日本の病院で世話になるのだ。生きて帰ると誓って国を出た。
この東京湾から船出した。あれから2年遂に帰った。今度こそ妻と子供と共に暮らせるぞ、戦争は終わったのだ。
母にも妻にも兄弟にも生きて帰ったことを知らせたが返事はない。
そのうち傷がまた化膿した。軍医に手術してくれと頼んだが、麻酔薬がないので手術は出来んと言う。
私は生のままでよいから切って膿を出してくれと頼んだ。軍医は生のまま切り開いてくれた。上半身裸でいすにすわる。
軍医はメスで切る。血は飛ぶ看護婦は向こうに顔をそむける。軍医は切り開いた、痛い、泣いても叫んでも致し方ない。
自分が頼んだのだ。しんぼうするより致し方がない。長い間かかって軍医はよしすんだと言った。
軍医は、わしもしんぼう強いがお前もよく我慢したなあ、痛いと一口も言わなかったなあと驚いていた。私は脇の下は汗でびっしょりだ。
痛いとは言わなかったが、死ぬよりましだから切ってもらったのだ。泣いたり叫んだりする訳にいかんのだ。
その夜大熱が出た。手術の熱である。私は何にもわからなくなった。

 

妻の夢

大熱でうなされながら眠った。不思議な夢を見た。
妻が髪振り乱して上半身裸で濁流の中に立っている。左足がちんばになっている。100メートルも幅のある大河の真ん中に居る。私に来いと招く。2年間忘れたことのない妻だが、濁流の中には行けぬ。それでも河にはいり歩いて近づく。背があわん、深い、もう行けん、私は泳ぎが出来ん。引き返して陸に上った。目が覚めた。夢だった。妻の身に異常があったのだ。私の戦死の報で再婚したのか或いは死んでいるのではないかと思う。そこへ、産春兄から手紙来る。思ったとおり妻は昭和20年6月14日、子供2人を近親者に頼み、自分は夫のもとに行くと言って病死したと言う。防空壕を掘る奉仕作業に出ていて左足に古釘を刺して傷を受けていたのが、遂に破傷風となって、髪振り乱して手を突っ張ったり反り返って苦しがり死んだという。

私は困った。今度こそ戦争は終わったので親子仲良く暮らせると思うたのに妻は死亡、子供は2人残り我が身は傷ついて今大熱に苦しんでいる。世の中は物資がない喰う米もない。4回も召集され最後に生きて帰ったというのに神は助け給わぬのか。妻に死なれ二人の子供を養って生きていかねばならぬ運命になった。ままならぬものである。さあ大変だ、私はいつ退院できるかわからん。昨夜の夢は正夢であった。私の傷が重くとても助からんと思った妻は、私を呼んだのだ。川の中へ行ったら私は死んでいただろう。引き返して岸に上ったので助かったのかもしれん。1日も早く帰って、子供を引き取り養わねばならぬ。重大責任が出来た。

 

私の戦死

私は昭和20年3月17日硫黄島に於いて戦死となり、町葬もすんで忠魂墓地に墓標が出来ている。死ぬべき私は生きて帰る。生きているはずの妻が死んでいる。運命は私をまだ苦しめるのだ。2年前善通寺の兵舎へ面会に来てくれた妻、あれが永久の別れとなったのである。私も出発の時、妻とは別れになるような予感がしたが本当となった。

 

習志野へ

昭和21年1月8日、日赤のマークをつけた汽車で我等は千葉県の津田沼駅に着く。習志野元陸軍病院に入院。看護婦も軍医も昔のまま。寝台には、陸軍伍長高橋利春と書いてくれた。自由に外出も出来る。闇市でいわしや団子など買うて来てストーブで焼いて喰うたりする。またケンカする奴も出る。手も足もないのが居る、色々だ。町の婦人会が慰問演芸会を開いて招待してくれる。私は一日も早く土佐に帰り2人の子供の世話をせねばならぬが、傷はまだ治らない。

 

世話課へ

ある日患者がそろって白衣のままで汽車に乗り、足のないのや手のないのが松葉杖をついて千葉の津田沼から東京に向かった。街は一面焼け野原である。元の司令部が今は県世話課となっている。そこに我等は押しかけた。県は驚いた。かたわ者ばかり押しかけたからたまらん。軍服と靴をくれと申し込んだのだ。県では米軍の服と靴を取り上げて日本の服と靴をくれた。こんなことは病院に言わずみんな黙っていた。言ったら叱られる。東京の焼け野原に、米軍人と日本の女が手をつないで歩いていた。笑って楽しそうである。負けても我等は日本の軍人である。日本の女は馬鹿だなあとみんなで腹を立てたが、女もそうしないと喰えなかったのであろう。止むを得んことだったであろうが、当時私達はそんなの見て腹を立てたものだった。大和なでしこと言われた日本の女性が敵と手をつないで身を売るのか、なさけない奴だと思った。夕方千葉に帰った。

 

岡山へ

昭和21年2月2日、汽車で岡山の国立病院に送られた。背中の膿が止まらぬ。毎日診てくれる。治らん。歯も一本抜かれた。軍医は、傷の付近の肉がくさっている。モモの肉を切って植えると言う。私は病院を無断でぬけ出して岡山の街を歩いてみた。焼野原の岡山を歩くと、戦争の激しさがわかる。病院の裏の山にも登った。四国が見える。あの向こうに土佐がある。早く帰りたいと思いながら山を下る。病院にこっそり入る。命ないものと思っていたが、命があるとなると身内のところに早く帰りたい。妻は死んでも子供は居るのだ。今頃どうしているだろうと思うと飛んで帰りたいが、まだ傷は治らぬ。

 

高知へ

私はモモの肉を植えなければ治らぬと書いた書類を持って、只一人岡山から高知に行くことになった。白衣のまま汽車に乗ったが立ち通しだ。誰も席を譲ってくれるものなし。汽車は満員である。朝倉に着いて兵舎の病院に行ってみれば米軍の歩哨が立っている。聞いてみた。国立病院は高知駅の裏に日赤の間借りをしていると言う。また高知に引き返さなければならぬ。朝倉駅に行けば、切符の割り当てがないから売らんと言う。市電で行けと言う。市電を利用して高知に着いた。焼野原である。ようやくたずねあて入院した。書類も渡した。やれやれ、これで飯にありついた。早く入院せねば夕食に困る。金はないし宿屋もない焼野原だ。

 

高知病院

高知の病院は食器なし。竹の節を切って茶碗にしている。水筒も竹製、何にも竹だ。金の茶碗に金の箸は軍隊なれど、ここでは竹ばかりなり。高知から中村へ手紙出す。高知まで帰ったことを知らせる。

妻の父と繁兄が来た。話を聞いた。妻は死に、子供二人は繁兄が見ていると言う。私は早く帰りたい。帰らねばならぬのだ。面会人は中村へ帰った。私は軍医に頼んだ。退院させてもらうよう頼んだ。傷は痛いが、帰ってから治せるだろうと考えた。軍医は、お前は恩給診断をしてからにせよと言ったが、そのような事は眼中になく、子供に会いたさに帰してもらった。軍医は治癒と書いてくれた。治った、退院だ、許可が出た。しかし、この無理な退院が後日物すごい不利になるのであるが、この時は考えていなかった。後日法改正になり恩給が復活した。私も請求するが、治癒となっているため傷害恩給が却下されてしまった。先目の見えぬ人間である。かしこい奴は治っても治らんと言って恩給にありついたのが多いのだ。

 

帰る

昭和21年2月29日、私は只一人退院した。背中にホータイをして病院を出た。久礼からバスで中村に帰る。母も子供も喜んでくれた。勝幸は私を覚えていた。勝は数え年7歳になっていた。智恵子は5歳になっていた。両親が死に、伯父にあたる繁春兄に養われていた。私が引き取って養うことになったが、妻のない男が子供2人抱いて養うのは容易な事ではない。当時金はなく米はなく、マッチに至るまで配給制度であり、喰うものがないのだ。朝早く起きて飯を炊き子供に喰わせ、掃除洗濯後始末、忙しいこと話にならん。大変なことになった。智恵子は繁兄にしばらくあずけて、私は勝幸の世話をすることになった。

 

戦争も終わったのだ。私は永久に軍隊に行く事はない。これから人間なみの生活が出来るのだ。その時に、神は何故私から妻を奪ったのか、なさけなくなった。妻さえ生きていてくれたら、どんなに幸福であったかわからん。どんな苦労もいとわぬものを、世はままならぬものである。

自分の墓は自分で取り去り、戸籍も復活した。子供も入籍した。

 

昭和21年3月までの日記である。後日の参考とせられたい。

終戦後からは毎日の日記に書いてある。

 

昭和21年3月までの従軍記を終わる

元陸軍工兵伍長  勲八等  高橋利春



出典:祖父の硫黄島戦闘体験記
リンク:http://www5f.biglobe.ne.jp/~iwojima/index.html
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