感情を加工するくせがついてしまうとどんどんさびしくなっていくので気をつけようの巻。 その最たる例が「死にたい」だと思う。 シリアスかつカジュアルに「死にたい」と口にする人は、でも、「死ぬのちょーたのしみーッ! 死にたくて死にたくてたまんない! どうやって死のうか迷っちゃうなー! あー早く死にたい!」という感じにはあんまりならない。 だいたいの場合「死にたい」は皮をはいでいくと「もっと楽しく生きたい」「もっと充実感をもって生きたい」になる。 「もっと楽しく生きたい」→ だけどそれは自分には無理ぽい → だったら「死にたい」、そういうことだと思うんだけど、これが感情の加工です。 出だしから「死にたい」だったら「死ぬのちょーたのしみーッ!」ってなるはずなんだよね。 そうならないってのは、欲望と直結してないってことで、それはつまり加工された感情ってことです。 「死にたい」という人には加工のプロセスが当たり前すぎて、自分でも気づかないくらいになってるけど、そういう形で発露された感情はいろいろめんどくさいことになります。だってホントは違うんだもん。 「死にたい」といわれて「じゃあ死ねば?」といっても「がんばって生きて!」といってもだいたい「わかってない」ってことになる。そして当人はますます孤独を深める。そりゃそうだ。だってその話法自体が孤独を深めるための話法だもん。 「死にたい」というところを「もっと楽しく生きたい」と言ってくれたら。加工しないでそのまま出してくれたら。 当人だって自分がどうしたらいいかわかりやすくなると思うし、もう少し人とつながりやすくなると思うんよね。 程度の差はあれ、感情の発露が自責に向かっているときは、ちょっと落ちついて感情が加工されていないかどうか、立ち止まったほうがよいです。 好きでそうしてるならいいけど、そうでないなら、加工前の生の自分の気持ちに気づくだけでまったく逆ベクトルのやり方があることがわかったりするよ。 加工の方向や目的があてつけとかだと、自分が不幸でみじめであればあるほど効力を発揮するような気がしてしまうからねー。よくないスパイラルに陥りやすいのです。 他人(や自分←これ重要)をあてつけとか脅迫で動かすことに慣れてしまうと忘れがちなんだけど、本当に効率がいいのは理解です。正直な方が絶対生きやすいよ。 だからって無理に正直になろうとしてなれない自分を責めたりする必要もなくて(それもまた感情の加工であります)、大事なのは、なんで正直になれないのかを自分で理解することです。 時間がないのでここで切り上げるけど、感情や欲望はなるべくフレッシュなままで! 自分を人質にすんな! それだけでシンプルになることはありますよという生活の知恵。 もちろん好きでやってるならそれでええのよ。 無駄な罪悪感を解除さえできればおばちゃんそれでいいと思ってるわ。 出典: リンク:http://d.hatena.ne.jp/mellowmymind/20080405/1207356601 |
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