ホットケーキ (妹との体験談) 417628回

2005/05/04 01:06┃登録者:えっちな名無しさん◆/fx5HFIg┃作者:部屋にいたのは ◆AtnIpaun2Q
ええと、まずスレ違いと言わんといてください。一応彼女らは妹です。 

高校二年の秋、家に帰ると玄関に靴がたくさんあった。 
来客なんて珍しい。誰が来てるのか気になったが、リビングからは大人特有のぼそぼそ声が聞こえてきたので入りづらかったし、生徒会に所属していた俺はちょうど部費や学校行事の予算をまとめる作業をしていたので疲れきっていた。 
いったん部屋に戻ってうだうだしようと思い、二階に登る。すると部屋からゲームをする気配がした。(なんかあるじゃん、テレビのキーンって音) 
父親がやってるもんだと思った俺は、何の疑いも持たずに部屋のドアを開ける。しかしそこにいたのは女の子二人だった。 
覚えているのが、少し幼い感じの一人が片ひざを立ててゲームしていたのでパンツ丸見えだったこと。白。 
そして俺と同じくらいの歳つきのもう一人が、いやに落ち着いた感じで俺を見つめていたこと。 

予想外もいいとこの展開である。突っ立ったまま、パンツとその姉らしき人物を交互に見るしかできなかった。 
「ごめんなさい、ちょっとお借りしてます」 
口を開いたのは、俺を見つめていた方だった。 
「え、いや。はあ」 
よく分からず返事をしてから、ああそうか、お客さんの娘さんだと気付く。 
「もしかしてお客さんで?」 
「お母さんに付いてきたの」 
と今度はパンツの方が声を上げる。やっぱり娘さんだ。 
へえ、と女の子二人が自分の部屋にいることに感心しつつ、学校から持ってきた部の予算申請用紙とかがぎっしり詰まったカバンをベッドに放り投げる。 

ぎゃっ、とうめくような悲鳴がした。もう一人ベッドにいたらしかった。 
「え、誰か寝てんの!?」 
エミちゃん!と姉の方が慌ててベッドに身体を向けた。むくりと布団からまた女の子が出てきた。 
「…痛い」 
それだけ言って、気が動転してるのか当たりを見回して、俺に気付くと泣き出しそうな顔をした。 
普通のカッコしてたし、顔だって普通のはず。原因は俺じゃない、とその時は思っていた。 
でも俺を見ながら泣き出したし。すすり泣く感じで、俺から顔をそむけた。 

カバンか、カバンが原因なのか!と思い当たり、謝ろうと思って近づくと、姉が一喝。 
「来ないで下さい!」 
「え?」 
さらに泣き出す布団の子。さっきまでぷよぷよやってたパンツの方も立ち上がって、俺を部屋から押し出した。 
俺の部屋なのに、しばらく部屋の前に立ちんぼう。大丈夫だから、とか諌めるような声がドアの向こうから聞こえてくる。 
そりゃ痛かったかもしれないけど、そんなに泣くか?というのがその時の俺の心境だった。 

しばらくすると泣きやんだらしく静かになる。 
ドアがカチャ…とゆっくり開けられ、姉が申し訳なさそうに出てきた。 
「来ないでなんて言ってすいません」 
あまり気にはしてなかったが、かと言って納得もできなかった。 
「あの子は…」 
君の妹?何であそこまで泣くの?という二つがごっちゃになって、歯切れの悪い質問になる。

「すいません」 
しかしそれだけ言って、俺を部屋に入れた。ベッドの上に二人が座っていた。 
妹のエミとハルナです、と紹介してくれた。パンツがハルナで、泣き出した子がエミだった。 
で、姉はユキだと名乗った。ユキが高校二年、ハルナが中学二年、エミが中学一年と付け加える。 
「エミちゃんごめんな」 
さきほどのような恐がり方はしないものの、やはり俺には目を合わせずに「いえ…」と答えた。 
代わりに謝るように、ユキがもう一度頭を下げた。 
なんだか釈然としないまま、俺はもう一度だけ謝って部屋を出た。 
当然といえば当然だけど、なんだか自分が異物のように感じたからだ。 

時間は七時を回っていたし、九時にはお客さんも帰るだろうと踏んだ俺は親の寝室で寝ていた。 
身体が揺すられるのを感じて目を覚ますと、ハルナが俺の隣に立っていた。 
「智也さん、ご飯だって」 
最初、真剣に夢かと思ったくらいに違和感があった。新妻? 
「あれ、ハルナちゃん?」 
起き上がって、時計を見ると八時。晩御飯にしては遅いのは来客のせいだろう。 
「ご飯、って」 
「うん、お寿司。お寿司だよー」 
じゃあ彼女らと一緒に食べるのか。そう思うと憂鬱になる。 
さっきエミを泣かせてしまっているのが取り沙汰されて、親に何か言われるんじゃないかというのが気がかりだった。 
正直なところ、エミを泣かせたこと自体にはあまり罪悪感は無かった。痴漢に間違われた男の気持ちってこんなんだろうか。 

こういう姉妹の親ってのは子煩悩なんだろうなあ、とか思いながら階段を下りると、驚いたことに俺の母親と姉妹の親の姿は無い。 
代わりに配達の寿司が、テーブルの上にどーんと置かれていた。 
「うわっ、ウニだ!」 
寿司を覗いたハルナが誰とも無しに言う。一方で、ユキとエミは葬式に参列しているような雰囲気で寿司の前に鎮座している。 
この時思ったのが、彼女らの性格である。ユキとエミはあらゆる部分が似ていて、しかも暗い。容姿は可愛らしいのだが、なんだか雰囲気が未亡人している。 
特にエミに到っては病人のような儚さというか、あまり健全な感じではなかった。そしてユキはエミを守ろうと必死で、それで疲労しているという感じだった。 
しかしこのハルナというやつは明るいのである。俺に対して既にタメ口だし、二人と違って警戒心のようなものも感じられない。 
そういう意味では、その場にハルナがいることは救いだった。物言わず寿司を咀嚼されたら美味いものも不味くなる。 
今にして思えば酷い勘違いであったが。

「お母さん達は」 
寿司を四人に分けながら、突然ぼそりとユキが喋った。違う意味でドキッとする。 
「今夜は帰って来れないかもしれないそうです」 
今夜はパパもママもいないの、という響きではない。どちらかというと「今夜は吹雪くから泊まってけや(包丁を研ぎながら)」的な印象を抱いた。 
「え、何で?」 
「…すいません」 
分からない、という意味なのだろうか。また頭を下げてしまう。 
「分からないの?」 
また頭を下げて、黙ってしまった。何だこの展開、と思っていると、俺のイクラがハルナに取られていた。 
「うああ、美味しいっ」 
「あ、こら。人の物に何しやがる」 
「あましょっぱーい!」 
これは未だに鮮明に覚えてる。本気で「あましょっぱーい」と言っていた。 

「じゃあハルナちゃんのタコ没収な」 
「いやあん」 
まあ珍しい来客だし、母親も俺を信頼して彼女らを残していったに違いない。ちょっと楽しませようと思ってじゃれるように寿司の取り合いをしようとした。
「ハルナ!」 
そこに姉が本気で叱りつける。 
「いいじゃんよー」 
「智也さんに迷惑かけないようにって言われてるでしょ!?」 
「い、いや、別に俺はマジでイクラが口惜しいとか思ってないからさ(汗」 
「ほら、智也さんだって言ってるよ」 
「ハルナ!」 
しゅんと落ち込むハルナ。慌ててユキが頭を下げる。 
「本当にすいません」 

同年代のユキに謝られてばかりいるので、なんだか居心地が悪くなった。 
「佐藤さん(ユキのことね)、そんなにならなくても俺は気にしないからさ」 
「いえ、私達は」 
何故かそこで切って、再び頭を下げた。 
私達は、何だろう。 
「ああ、これ…!」 
沈んでいた食卓を突き破ったのは、エミだった。今にして思えば、最初にして最後の、生き生きとした声だった。 
「え?あ、なに。なに食べたのエミ」 
しょんぼりしてたハルナがあっという間に調子を取り戻して聞くと、エミが箸でサーモンを示した。 
「へえ、何だろそれ」 
見事なまでにあっけらかんと言うので呆れながら「サーモンだ、サーモン」と教えてやった。

ここで、寿司→風呂→就寝。をすっ飛ばします。 

彼女ら三人は親の寝室で、俺は自室のベッドで寝ていた。 
シーツとか替えがあるから俺のを使って良いと言ったけど拒否されてしまったし、彼女らの来訪に疲れてあまり問答をする気にもなれなかった。 
そういえば、と仕事が残っていたことを思い出す。去年、部の顧問が持ってきた領収書の束を部費の帳簿と照らし合わせて不正が無かったかチェックするのである。 
(正直、生徒にやらせるものじゃねえだろう、と今も思っている。家に持って帰るのOKするし。) 
カバンからその手の書類を引っ張り出して作業を始めていると、隣の部屋の寝室の引き戸が開く音が聞こえた。 
トイレだろうと思い領収書を捲っていると、部屋のドアが開く。そちらを見ずに「トイレなら階段下りて横だよ」と言った。 
しかしドアが閉まる気配はない。どうしたんだろうと思って見ると、エミが立っていた。 

トイレなら、ともう一度言う俺の言葉には応じずに、 
「あの、何してるんですか?」と言った。 
いや、部屋に入ってきてなんだその言葉(汗)とその時の俺は思っていた。 
俺の行動が内職でもしてるように見えたのか、不思議そうに眺めてくる。 
中学生の子に教えてもしょうがないしとっとと寝なさいと言おうと思ったけど、昼間のことを謝りたいのと何か隠してる感じがしたので部屋に勧める。 
「うん、ちょっとベッドで待っててくれる?」 
何も考えずに発した言葉なのでちょっと誤解を招きそうである。しかし、意外にもエミは素直に従ってくれた。 

ベッドは俺の座る机の真後ろに位置している。 
そして、彼女は物言わずにそこいるのだが逆に気になって落ち着かなくなる。 
風呂場で「後ろに幽霊いたらどうしよう」的心境になってきたので、自分がしていることの説明をした。 
「ええとね、俺が今やってるのは、学校の予算チェックなんだ」 
「予算?」 
「うん、馬鹿な学校だろう。こんなもん生徒に押し付けるか、普通」 
半ば独白の愚痴に対して「分かりません」とエミが真剣に答えたのがちょっと可笑しかった。 
「そういえば君たちはどういう用で来たの?」 
「お母さんが恵さん(俺の母親)と知り合いで」 
「へえ、同級生か何か?」 
しかしそれにしても家を空ける理由が分からないし、娘も連れてきやしないだろう。 
「姉妹です」 
「うそぉ!」 

確かに、母親は自分の親戚の話を滅多にしない人だった。その徹底ぶりはある種のタブーともなっている。 
理由として、父方の祖父が知れた人物(社長)だったので、劣等感を抱いているのだと当時は思っていた。 
「姉妹って言っても義理なんです」 
「そ、そうなんだ」 
それにしても従兄弟には違いないのである。親戚だったとは。 
「…智也さん、知らなかったんですか?」 
母親が劣等感を抱いてるから、なんてことは言えず「いや、まあ」と濁す。 
しかしエミと俺の母親の関係が義理の姉妹というのは、どういうことなんだろうか。 

しばらく何も言えず、悶々としながら領収書の印鑑チェックをしていると、ややあって「すごいですね」と言われた。 
「何も知らずによくものうのうと生きてこれたわね!」とかマイナスの方向に考えを持って行ってしまうが違うようだ。 
「なんだかすごい真面目に予算のことやってますよね」 
不真面目だから家でこんな残業めいたことしてるわけだが、誉められて悪い気はせず 
「そ、そうかな〜」 
と浮ついた語調で答えてしまう。でも彼女の次の言葉は俺の気分を叩き落した。

「今、お父さんいないんです」 
暗がりの底に来た気分だった。突然なんでそんな話するかなあ、と思っているとさらに声のトーンを落として続けた。 
「だから今日、お世話になってるんです」 
「…え?」 
思わず振り返ってエミを見つめる。 
「お姉ちゃんには言うなって言われてるんですけど」 
どんどん声の威勢が落ちていき、最後には、会ったときのようにすすり泣き始めた。 
ぎょっとした俺は、色々悩んだ結果彼女の隣に座ることにした。何も言わず、というか言えずに、泣き止むのを待つだけだった。 
それからしばらくして、彼女は事のあらましを教えてくれた。まだ少し気が高ぶっているのかあまり要領を得なかったが、こういうことらしい。 

ユキとハルナは姉妹だが、エミは連れ子なんだという。小学五年生の時に再婚したのだそうだ。 
しかし再婚先の父親は浪費家な上に暴力をふるう人間で、俺を見て泣き出したのは、カバンの衝撃で暴行を思い出したからだという。 
そして今朝、借金の存在だけ残して、失踪していたのだという。 
(彼女も詳しくは知らないらしく、保証人が誰だとかは分からなかった。) 
実家は北海道なので、ひとまず彼女らの父親の妹である俺の母親の所にやって来たということだった。 
義理の姉妹とは、そういうことだったわけだ。今二人が家を空けているのも、その辺の問題のためらしい。 

俺は絶句した。来客、というよりも逃げ落ちてきたわけである。 
「大変だったね」とか「力になれることがあれば」なんてのは無責任な発言にしか思えず、ぽつぽつと語る彼女の隣に座っているだけだった。 
「智也さんには、やっぱり話すべきだと思ったので。すいません」 
エミはそう言って締めくくった。 
「…とりあえず寝た方がいいよ」 
しばらく熟考した挙句、ありがとうと言う気にもなれず、そう言った。 
全身から力が抜けてしまって、もう予算の仕事なんて出来そうにも無い。 
「二人とも寝相酷いんですよね」 
場を和ませようとしたのか、苦笑いといった感じで少し笑ってみせるエミ。 
「じゃあ俺のベッド使いなよ。シーツ交換するから」 

「あ、いや。そういう意味じゃないんです、すいません」 
頭を下げる姿がユキとだぶった。 
「いいよ、俺は下のソファで寝るから」 
「いえ、駄目です」 
どうぞどうぞ、いえいえどうぞ、というやり取りだけは大嫌いだった俺は、 
「じゃあ使わせてもらうよ」 
と答えた。 

それから彼女は部屋を出て行き、俺ももう寝ることにした。電気を消して布団に潜り込む。すると再びドアが開いた。 
「エミちゃん?」 
暗くて顔が確認できなかったけど、なんとなくそう思って口にする。 
「すいません。真面目に寝るスペース無くなっちゃってるので、いいですか?」 
ハルナはともかく、図書委員やらせたら似合いそうなユキまでも寝相がすごいというのはちょっと見てみたい気もした。

「ああ、はいはい。ちょっと待ってな」 
シーツを取り替えようと上半身を起こす。するとすぐ近くにまで寄ってきていたエミが 
「あ、いえ。この下で寝るんで」 
…下? 
カーペットを敷いた床で寝るというのである。 
「いやいや、ベッド使っていいよ」 
これには流石に俺も引けず、「いえいえ」「いやいや」が続いた。 
しかし中学一年生である。すぐに高校生の俺に屈した。 
俺は一息ついて、ベッドから降りようと身体を動かす。 
しかし、何を勘違いしてか、彼女は俺がいる布団の中に入ろうとしてきた。 
え?違くないか?おかしくないか?と思いながら、流されるようにして彼女を布団に引き入れる俺。 
父親に暴行を受けただとか言ってたのに、と思ったが信用されてるのだろうかとも思う。 
逆にここで不審な動きをしたら悲鳴上げられたりするんだろか、と思うと全然動けなくなってしまう。 
別に中学生だし、とか思うもドッキドキ。 

後から入ってきたエミは当然外側で寝る状態にある。 
ベッドはシングルより一回り大きいタイプだったけど、それでも俺が寝返りを打ったらまず突き落としてしまう面積である。 
そういう危険があるからと彼女に伝えて、一旦布団から出てもらってポジションを変えた。 
奥に行ってもらってから気付いたが、ここで襲ったら彼女に逃げ場はない。 
する気は一切なくとも、そういう考えが浮かぶとやましい思いが頭を支配してしまう。 
彼女は少しやせ気味だし、夕飯の時に見た感じでは胸も無いに等しい。女性的では一切ない体つきなのだけど、華奢なところが少女的とでも言うのか、妙な魅力を感じてしまった。 

間違いを犯さないように、布団に入ってから彼女に背を向けるようにして寝た。 
まあ当然寝れるわけもなく、悶々としたものを抱き続けることになる。 
なかなか寝つけないものだから「うー」と小さく唸ると、それに呼応するようにエミが呟いた。 
「智也さん、好きな人っています?」 
直球である。会ったその日の人間に聞くようなことではないと思うが、しかし彼女の口調は浮かれたものではなくどこか真に迫った感じだった。 
「うん、まあね」 
「その人が好きなら、どういうことしますか?」 
「どういうって、それは付き合う前と後で違うよ」 
どう変わるんですか、と聞かれたので、月並みな答えを口にした。 
「前ならプレゼントとか、喜ばれることとか。後ならデートとかで、まあやっぱり喜ばれることをするよな」 
実は大して変わらんなあと言って気付く。 

「じゃあ智也さんは好きな人を喜ばせられるなら、脱がしたりしますか?」 
ええと、猥談? 
まあそんな年頃なのかなとか呑気に考えて 
「喜ばせられるならするかもね」 
と答えた。 
「そうですか」 
それでひとまず会話が止まった。 
そうですか、と言われて気にならないわけがなく、極力自分が変態にならないような物言いで、どういう意味なのか聞き出した。 
「新しいお父さんが、好きだからって言ってたんです」 
聞いた瞬間頭が真っ白になった。しまった、と思った。 
「エミちゃん、その」 
「でも全然気持ち良くないし嫌だったから抵抗したら、すごく怒られて」 

私が好きだからそういうことしたのに、拒んだから怒ったんじゃないのか。そういう疑問を持っていることを彼女は告げた。 
「……どういうことされたの?」 
「身体の色んな所、さわられました。胸なんて無いのに」 
俺は伯父のことはよく知らない。だから単純に変質者だとは決められなかったし、恥ずかしいがエミに魅了された気持ちが分からないわけではなかった。 
「エミちゃんは新しいお父さんのこと好きだったの?」 
「好きになろうとしたけど」 
また黙ってしまう。 

「相手を喜ばせようとして、それで嫌な気持ちにさせるのは違うと思う」 
とりあえずその場しのぎとも言えるような言葉をひねり出す。 
「だから、エミちゃんに悪い部分は何もないんじゃないかな」 
あまりこの話を言及するのは良くないと思った。じゃあおやすみ、と言って半ば強引に切る。 
その時の俺の股間は、竿は硬くはなっていなかったが根元がぎんぎんになるという、変な反応を示していた。 
ちょっとあってから 
「お父さんは私のこと好きだったのかな」 
と聞いてきた。答えることが出来なくて寝たふりをした。 

ユキとハルナはエミとその母親と仲が良かったけど、女一人に三人子供がいるのは経済的にまずいということで、 
三人のうち誰かがうちの養子になる可能性もあったと後で聞いた。俺一人っ子だったしな。 
一番懐いたエミが可能性あったらしいけど、やはり実の娘ということもあってか手放せなかったらしい。 

朝目を覚まして、寝ているエミを起こすか起こすまいか悩み、結局放っておくことにして部屋を出た。 
その日は第二土曜なので学校も休み。とはいえ生徒会としての活動があるので学校には行くのだけど。 
予算のチェックが終わっていなかったので、また先生に叱られるんだろうなあ、と憂鬱になって一階のリビングに向かうと、ユキが一人ソファに座って、何をするでもなくぼーっと放心していた。 
「おはよう」 
彼女はなんとなく苦手だったので、それだけ言って朝飯の準備をしようとした。 
「智也さん」 

俺の名を呼んで、唐突に睨んだ。誇張無しに鋭い目つきに射抜かれた気分だった。 
寝起きで目つきが悪かっただけかもしれないが、何にしても疑いの眼差しを向けられていたのは確かだった。 
当然といえば当然だろう。朝起きたらエミがいないのに気付かないはずがない。 
でも俺は聞かれなかったら答えない主義だったので、しばらくじっと計るような視線の後で「おはようございます」と言われ弁解の機会はなかった。 
「佐藤さんもパンでいいかな?」 
内心で何を思われてるのか心配でどきどきな俺。それでも平静を装ってみる。 

朝食→親から電話「昼に帰る」→生徒会に電話「午後に行く」をすっ飛ばします。 

ハルナが起きてきた。おはようと言わずに 
「エミが智也さんの部屋で寝てるんだけど」 
と出だしで発言。弁解の機会が出来たので喜ぶべきだったが、言葉選びが間違ってる。すごく誤解を生み出すよと冷や汗。 
訂正しようとするも、後ろでパンを咀嚼してたユキが 
「ハルナもパンでいい?」 
と冷たく一言。冷や汗が止まらない。 
そこは長女の威厳か、何か言いたそうにしながらハルナは大人しく席に着いた。俺も言うこと全てスルーされそうで弁解する勇気が出せず、朝食の続きをする。 
「あの、エミは何で……」 
恐る恐る、気を使うような目でユキに質問するハルナ。 
「エミちゃんが下りてきたらその事は聞くから」 
姉は俺を一瞥して静かに言い放った。

とりあえず、エミだ。エミが起きてきて証言してくれさえすれば、万事無事に済む。 
そわそわしながらパンに齧りついて下りてくるのを待つ。 
何とも嫌な空気が流れる。ハルナが気まずそうに何度か視線を送ってきた。 
そこへようやく(十分も経ってないだろうけど)エミが下りてきた。 
「おはよう。……ハルナ、智也さんの隣に移動して」 
ユキが言うままに俺の隣にくる。ユキ・ハルナと対面して座っていたのが、ユキ・エミに変わった。 
寿司の時と同じポジションだったが、おそらく警戒したんだろう。 
エミは席に着くと俺を見てうつむいてしまった。違うだろう、笑顔で「おはよう」だろう(泣 
その様子に、予想が確信に変わったらしい姉の視線がさっきより容赦ないものになる。 
「智也さん、聞きたいんですが、昨日はどういう」 
姉妹会議、勃発。 

「いや、別に何もしてないよ」 
「でも同じ布団で寝てるなんて、変じゃないですか」 
「あー……」 
二人の寝相が、なんて理由になるか分からなかった。 
「エミちゃんはそういうの、駄目なんです。だからもう止めてください」 
具体的に言わなかったが、父親が原因なのだろう。 
「そういう事は無かったってば」 
しかし疑いは晴れず、 
「本当に勘弁してください」 
頭を下げて、震えた声で言う。もはやその場では俺悪役。ちらとエミを見ると、俯いて泣きそうにしていた。 
なんで泣きそうなのか理由は分からなかったが、どうにも俺がイタズラしたことに確定しそうだった。 
これはまずい、そう思ったので 
「分かった」 
と返事をすることにした。 

「エミちゃんに変なことはしない。ただ、エミちゃんの話を聞きたいんだけど」 
実際は「聞いてほしい」わけだが、もちろん俺の意なんて介さないユキは不思議そうな顔をして、それから無言でエミの方を向いた。 
「そういえばエミは何も話してないもんね」 
とハルナが横で付け加える。 
エミが本当のことを話し始めると、ユキが真っ青になって何度も頭を下げた。 
俺は誤解が解けたのにほっとして、 
「もうちょっと早く話してほしかったなあ」 
苦笑しながらエミに話を振った。しかしエミは謝るだけで何も答えなかった。 

その後母親が彼女らの親と一緒に帰ってきた。晩御飯までは家に居るけど、夜になったらまた出掛ける、と告げた。 
聞いても教えてくれないと思っていたし、なんか大変だね、とだけ答えた。 

夕飯を終えて大人がいなくなった後、ハルナの提案で人生ゲームをやったんだけど、 
人生をかけた大博打とか借金手形とか子供を一人いくらで売れるとか、そういうのに恐々とした(泣 
ちょっと精神衛生上よろしくないので、将棋台を持ってきた。そしたら三姉妹の強いこと強いこと。 
ユキに飛車と角行なしで相手してもらって勝てなかったし、エミは王将を端に寄せて周りを固めるし。 
同年代のユキの敬語がどうも慣れなかったので「俺が勝ったら敬語を止める」という賭けをしたんだけど、負けた。 
ただ勝負事の最中に、それまであった警戒心が溶けた感じがあったな。 

今度はユキとハルナがやりあってたんだけど、時間も遅くなってたからエミが「お風呂入ってくる」と部屋を出ていった。 
俺は何とも無しに対局を眺めてたんだけど、エミがまた戻ってきて 
「何かいる」 
とすっかり怯えた様子だったので付いていくことにした。聞いてみると 
「何か物音がするんです」 
とのことなので、開けっ放しの窓から風が入ってきてるんだろうとか思ったが、甘かった。 

脱衣所に来ると、確かに風呂場から物音が聴こえる。 
「ゴトゴトッ」と重いものが蠢いている感じでなんだか不気味に思い、風呂場のドアをそっと開ける。 
中はサウナのようなうだる暑さと水蒸気に包まれていた。 
なんだ?と中をよく見ると、風呂桶のフタが勝手に飛び上がっているのが見える。 
その着地する音が「何か」の正体だったのだが、でもなんで勝手に? 
注視してみると、湯船が泡立っていた、というか煮立っていた。 
「うわ、沸騰してる!」 
膨張した空気がふたを押し上げて音を鳴らしていたのだ。水で埋めないと。そう思ってフタを開けようと手を伸ばす。 
「熱っ!」 
下で熱湯が控えているのだから当然の話であった。 
仕方なく蹴飛ばして、口を開けた湯船に水を注ごうと蛇口に手を伸ばし、また「熱っ!」 
猛烈な勢いで湯気が飛び出してくる。近くに寄れたものではなかった。 
ひとまずその場を退散すると、エミが二人を連れて来ていた。そして早速ハルナが叱られていた。大体察しがついた。 

うちでは蛇口からそのまま湯を張るのだが、彼女達の家では追い焚きをするのかフォーマルだったらしい。 
ハルナが気をきかせて追い焚きしておいたのだが、遊んでいてすっかり忘れていたのだという。 
「あははは、熱湯風呂だ熱湯風呂だ!」 
ハルナが惨状を見てはしゃぐ。しかし文字通りのそれを見るのは、多分人生であれ一回きりだと思う。 
「これカップラーメン作れるな」 
「勿体ないですよ」 
俺の冗談に真剣に答えるエミ。 
追い焚きスイッチを消し、俺とハルナが蛇口を捻ろうと「熱い熱い!」「湯気が、湯気が凶器に!」なんて騒いでいると後ろの二人がおかしそうに笑っていた。 
それもユキがシャワーホースを投げ入れたことで一段落ついたけど。 

「斉藤さん(俺の名字)、すいません」 
「まあ珍しいもの見れたしね」 
今回の謝るユキは暗くなかった。 
「でも風呂に入れるようになるの、しばらくかかりそう」 
「明日は生徒会あるんですか?」 
「日曜だから閉まってる」 
「よかった」 
いい表情だった。この家に着てから初めて気を許した瞬間だったと思う。

風呂に入る順番はエミ、ハルナ、ユキの順だった。 
その後に入る俺は当分待つ羽目になりそうだったので、自分の部屋で寝て待つことにした。 
「智也君」 
寝ようとベッドで寝ころがったところにハルナが入ってきた。その時はもう君付けになっていた。 
「将棋しよ!」 
既に駒が並べられた将棋台を手にしていた。そういえば、時間も遅かったので後でなとハルナとの対局は断っていたのだ。 
約束したのだし、寝るよりは建設的でいいかもしれないと考えて布団から出る。 
しばらく何の問題もなく交互に駒を進めていたが、しかし彼女らしからぬ落ちついた物言いで「エミのことなんだけど」と切り出してから様子が変わった。
「やっぱ可愛い?」 
「そうだな」 
「そうなんだ」 
「あのくらいの歳だとな」 
「ロリコン?」 
「違えよ」 今はそうかもしんないけど。 

将棋をしながらの会話はぱちん、と駒を置く音を挟んで禅問答のようなテンポで進んだ。 
「朝は大変だったね」 
「まあな」 
「お姉ちゃんが怖かった」 
「怖かったなあ」 
二人でうっふっふと、妙なテンションで笑ったのを覚えている。 

「お姉ちゃんさあ、エミが大事なんだよね」 
「なんか似てるしな、二人」 
「私もそう思う」 
「ハルナは似てないよな」 
「うん」 
ぱちん。 
「私ねえ」 
ぱちん。 
「時々エミが嫌になるの」 
「ふうん」 
「かわいこぶっちゃって、って」 
「へえ」 
「分かるかなあ、こういうの」 
この間俺は、それはそれは嫌な汗をかいたわけで(汗 
「俺には、兄弟がいないからな」 
的外れとしか思えない返事でその場をしのいだ。 
「私とお姉ちゃんはさあ」 
ぱちん。 
「昔から一緒だったし」 
「うん」 
「お父さんだってね、一緒だった」 
エミに引き続きどうしてハルナまでこんなどんよりした話を、なんてその時は思ってたけど、今なら分かる気がする。 
俺が思ってた以上に不安に包まれてたんだと思う。見知らぬ俺に、というか見知らぬ相手だからこそ愚痴を吐き出せたのだ。 

「でもエミ可愛いからなあ。私もそう思うもん」 
その時のハルナはなんとなく寂しそうだった。 
「まあ、ハルナだって可愛いよ」 
「……可愛いかなあ」 
「風呂沸騰するしな」 
「あれは、まあごめん」 
ちょっとだけ笑って、そのまま将棋が続く。結局負けたんだけど、俺。 
将棋の駒を片づけている途中でぽつりとハルナが呟いた。 
「今日さ、一緒に寝ていい?」 
「ベッド使いたいなら貸すけど」 
「そうじゃなくてさ、一緒に」 

正直抵抗があった。エミは中学生というものの小学生で通用する体躯なので、子供感が強かった。 
しかしハルナは、一つ年上というだけでずいぶん女らしい身体なのだった。 
発育の良い方だったのかもしれない。目算では姉を上回るスペックだ。主に胸が。 
「一人で寝れるだろ」 
「駄目?」 
「駄目」 
「そっか」 
そう答えるハルナは笑ってた。笑ってたんだけど、やっぱり寂しそうだった。 
「やっぱりエミは可愛いもんね。私は、やっぱねえ」 
最初、泣きだすんじゃないかと思った程の声のトーンだった。でもハルナは、じゃあねと笑って部屋を出ていった。 

風呂の順番が俺に回ってくるころには親も帰ってきていた。 
明日からちょっと四国に行かなきゃいけない。だから三日間だけ彼女らの面倒を見てほしいということだった。 
翌日は日曜だが、残る二日は平日で学校だったが定期テストなので午後には家に帰れる。 
勉強なんてしなかった俺には、特に問題無かった。 

あと三日かあ。風呂から上がって部屋でごろごろして、少し寂しい心境でいた。 
そこにコンコン、とノックの音がした。 
「はい?」 
エミの母親が俺に挨拶でもしにきたのかと思ったけど、聴こえてきた声はユキのものだ。 
三姉妹コンプリートだ、とかよく分からないことを考えながら部屋に招き入れ、勉強机に座らせた。俺はベッドに座り込む恰好で話を聞く。 
「朝のこと謝ろうと思って」 
「エミちゃんのことなら気にしないでよ」 
「それもあるんですけど」 
今朝までに比べれば少し打ち解けた様子のユキだけど、時々敬語を使った。 
「以前、そういうことがあったんです、エミに」 
「それじゃ余計にしかたないよ」 
エミ本人の口から聞いていたけど知らないふりをした。ユキは煮え切らないような相づちの後しばらく黙り、続けた。 
「……あの子は、エミは本当の妹じゃないんです」 
「そう、なんだ」 
「だから過保護になりがちというか。でもそれで、引っ込み思案になっちゃって。今朝も智也さんが聞くまで何も話せずにいたのは、そのせいなんです」 
そこでまたユキは謝罪した。 
お姉ちゃんはエミが大事なんだ、というハルナの言葉とそれに続く話が蘇った。 
連れ子のエミに姉も父親も夢中になり、ハルナは寂しかったんだろうか。 

「まあそういうことならさ、分かったよ。俺もエミちゃんを妹だと思って接する」 
「ありがとう。あの子、智也さんに懐いてるみたいだから」 
最初は軽い気持ちで言ったことだったが、ユキの言葉は真剣だった。 
「そういえば、聞いたかな?君達は後三日で、その、帰れるんだって」 
「そうですか」 
多分、二人は同じことを考えていた。どこに。って。 
「もうちょっとここにいたい気もするかな」 
彼女は独り言のようにそう呟いた。もちろん、俺に出来ることはない。でも何か少しくらいは、そう思ってある考えが浮かぶ。 
「来週はテストですぐに帰ってこれる。だから、暇だろうからみんなでどこか行こうか?」 
言う相手が同年代のユキだったので、なんかデートに誘ってるみたいでどきどきした。 

でも彼女は違う反応をした。 
「勉強しないでいいんですか?」 
「いや、大したことないよ」 
「勉強の手伝いくらいなら出来ますけど」 
突然ユキが母親のようなことを言いだす。見た目通り、真面目キャラだったらしい。 
「ああいいよ、俺頭いいし」(実際良くないです) 
「そうなんですか?」 
自然と口に出てしまったのだろう。しまった、という表情になる。 
その様子が可笑しくて笑うと、彼女も笑った。

朝目が覚めてダイニングに行くとユキがおさんどんしててびびる。 
「あ、おはようございます。台所借りてます」 
「おはよう。何作ってんの?」 
「ええ、和食もいいかなと」 
トントン、と包丁で刻む音がする。ネギを輪切りにしていた。なかなか上手い。 
「慣れてる感じだねえ」 
ちょっと見とれて、間抜けな顔で突っ立っている自分に気付き慌てて新聞を取る。 
でも同い年の女の子が台所に立っているのだ。意識は全部そっちにいっていた。 
「そうだ、食費を頂いたんですけど、智也さん管理します?」 
「いや、俺そういうのだらし無いから、佐藤さんに頼めるかな」 

学校予算のまとめを頼まれてるヤツのものではない言葉に、ユキは分かりましたと答えた。 
しばらくして新聞を読むふりをしながら、ふと考えついたことを口に出した。 
「食費さ、残った分使っちゃわない?」 
「駄目ですよ」 
「いくら預かったの?」 
「四万円です」 
一人一日約三千円の計算になる。まあ余るだろう。 
「少し残せば大丈夫だって。昨日言った、みんなで遊びに行く資金にしよう」 
「みんなで……」 
ちょっと考えた様子を見せるも、 
「やっぱり駄目ですよ。智也さん、テストあるんでしょ?」 
結局その時はいいと言わなかった。 

朝食を済ませて、11時頃にいったん家を出た。昔からの付き合いの友人に会うためだ。 
そいつは本屋の息子で、映画のタダ券なんかをよくくれた。それの四人分を手に入れられないものかと考えたのである。 
その日は無理だったが、明日には用意出来るかもしれないという返事をもらえた。 
ついでにエロ本も押しつけられた。いつもそうやってオカズ補充していたので文句は言えないんだけど。 
しかしエロ本を三姉妹に見つかるわけにはいかない。家に帰るとそそくさと二階の自室に戻り、どこか適当な場所に隠そうと考える。 
だが間が悪いときは本当に悪いもので、ハルナがノックもせずに入ってきた。 
「聞いて聞いて!」 
昨晩の陰鬱さが嘘のような騒がしさだった。 
「今日のお昼は??ん?」 

右手に持っている袋に気付いたようで、視線が袋に移る。 
「何それ?」 
参考書、とか答えておけばそこで興味は薄れたのだろうけど、 
「子供の見るもんじゃないよ」 
平静こそ装っているが、完全にパニックになっていた俺はそう言ってしまった。 
例えば、小さい子供がビールを不思議そうに、これなあに?と聞いたとする。 
子供の飲むものじゃない、と言われた子供は、幼いが故の創造力でもってどんなに美味しいものなのだろうかと目を輝かせるだろう。 
ハルナの目は、そんな感じだったわけで。 
「見せて見せて!」 
「わ、馬鹿!」 
伸ばされた手を避けようと身体を後退させたが、勢い余って後ろのベッドに大の字になって倒れ込んだ。 

右手の袋の中身がこぼれていないか確認する。よし、大丈夫。 
しかし俺に覆いかぶさるようにしてハルナが袋に手を伸ばした。全然大丈夫じゃなかった。 
ぐーっと腕を延ばすハルナと俺。 
「別に減るもんじゃないでしょー」 
「減る!」 
「たかがエロ本でー」 
「違うっ!」 
結局。ハルナから離れようと腕を持ち上げた拍子に袋の中身が落ちてくるという大惨事が起きたのでございます。 
三冊のエロ本を頭にかぶった俺を見て、ゲラゲラ笑うハルナの姿は未だ色濃く残ってるよ(泣 
「何必死になっちゃってさ」 
「……そりゃなるよ」 
「いじけんなよー」 
俺の胸をつついておどけてみせる。下世話な本に抵抗は無いようで助かった。 
ていうか、見られた相手がハルナで本当助かった。 

エロ本を袋にしまっていると、一階から呼ぶ声が聴こえた。昼飯らしい。 
「あ、そうだ。私呼びに来たんだ。あのねえ、今日のお昼は??」 
「二人には言うなよ、絶対言うな」 
「はいはい、分かってるよ。その代わり、後で私にも見せてよね」 
なんだかとても嬉しそうに言っていた。 
しかしまあ、ハルナは風呂沸騰といいエロ本発見といい、何かにつけて一つ引き起こすヤツだったなあ。 

テーブルに並んでいたのは、真っ黒く焦げたホットケーキのなれ果てだった。 
上に乗ったバターがいい感じに白と黒のコントラストを作りだしていた。 
何これ、と言うわけにもいかず半笑いで席につく。というのも、エミが申し訳なさそうな顔で俺を見ていたからだ。 
「あの、ごめんなさい、替えます」 
何度も言っている台詞だった。

「見た目と味は違うよ、大丈夫」 
二段になっていたのに気付き、めくると下の段は見事な焼き加減だった。 
「上手くできてるじゃん」 
感心してそう言うと 
「ごめん、それ私」 
隣のハルナが気まずそうに手を上げた。エミが焼く前に作っていたのだそうだ。 
二階でエロ本騒動をした時にはその後だったということか。 
「エミちゃんは頑張ったわよ、初めてなんだし」 
ね?とユキがなぐさめるんだけど、エミはしゅんとした顔で頷くだけ。 
なんだか可哀相だったので、実際に食べて「うん美味しい」とか言おうと思い、黒いホットケーキを口に運んだ。 
ガリ。 
材質上、ちょっとあり得ないような音が口内から響く。

なんだコレと思って舌で触れてみると、尖ったものが入っていた。多分、卵の殻だ。 
怪訝な顔をしていたのだろう。周囲の視線にはっとなり、 
「大丈夫、食べれる食べれる」 
と笑ってみたけど、もう遅い。エミはやっぱり、という表情で俺から顔を背けてしまった。 
どうフォローしたものかと焦っていると、 
「しょうがないなあ」 
と、ハルナがため息混じりに口を開いた。 
「ほら、もっかい作ろ。私も手伝うからさ。ねえ、待っててくれるよね?」 
「おう」 
「智也君もああ言ってるし、ね?」 
「……ハルちゃん、ごめん」 
そのまま二人は台所へと戻っていった。

エミが時々嫌になる、なんて言ってたわりにはなかなか姉妹してるじゃないか。 
ハルナもいいところあるなあと思ってユキを見ると、ふう、と息をついて席に座るところだった。 
「ごめんなさい、あの子、初めてなんです、料理」 
「まあ、そうなんだろうね」 
「智也さんに食べてもらう、って意気込んではいたんですけど。作っていくうちにどんどんショボ暮れちゃって」 
その様子がおかしかったのか思い出して笑う。 
「私よりも全然懐いてますよ。あー悔しい」 
「佐藤さんは姉ってよりお母さんみたいなもんなんだよ、多分」 

そうなんですかねと、少し間を空けて 
「……仕方ないんですけどね」 
と言う彼女の顔は寂しそうだった。 
この姉妹というのは共通点があって、どんなに明るいと思っていてもどこかで影が差す暗さを持っていることだった。
全体が暗いんじゃなくて、一部に濃い影がぽっかりと存在しているというか。 
エミ製ホットケーキを口にして、これは酷いと笑うユキ。
その笑顔は、とても暗がりを持つ女の子のものとは思えなかったのだけど。 

しばらく経つとまた二人が戻ってきた。 
さっきとは変わってはにかむような笑顔で皿を手にしているエミ。 
今度のホットケーキは、ちゃんとホットケーキしていた。 
「お、いい感じ」 
「ハルちゃんのお陰でなんとか……」 
多分、出来の良さから言ってハルナが大分手を付けたに違いない。 
そうは思うんだけどエミの嬉しそうな顔が、まあいいかと思わせた。 

朝食の準備がユキ、昼食がエミとハルナだったので後片付けくらいはやらせてもらった。 
手伝います、とついてきたエミと並んで他愛のない話をする。 
「そんなに不味かったですか?」 
黒いホットケーキを食べたときの俺の顔についての話だった。 
「不思議な味だった……」 
おどけて感慨深げに言ってみる。 
「食べなきゃ分からんね、アレは」 
「ちょっと私も食べてみたいかも」 
台所の隅に、まだ黒い物が積まれていた。 
「食べる?」 
ほらと皿を差し出したが、エミは洗い物をしている最中だったので手が空いていなかった。 
俺が困っていると「じゃあ」と言って口を開けた。食べさせて、というわけだ。 

「気をつけて食べてね」 
「あはは、これ食べ物ですよね」 
実際卵の殻が入っていたりするので冗談でもなかったが。 
ホットケーキに噛みつくエミ。しばらく咀嚼して、 
「これは……うひゃー」 
言葉に出来ないらしかった。 

部屋に行こうと二階に登るとユキの姿が見えた。ベランダで洗濯物を干していた。 
入口から顔を出して彼女に声をかける。 
「なんか色んなことしてもらっちゃって、ごめんね」 
「いえ、お世話になってるのはこっちですし」 
皿洗いをして家事をやった気になっていたが、一番家のことをしてくれていたのはユキなのだ。 
これではどちらが世話になっているのか分からない。 

「あの」 
男の面子を考えているところに声をかけられる。 
「洗濯物なので、ちょっと出てもらえますか?」 
「は?」 
「ええと、つまりその、今家に居るのは私達と智也さんだけでしょ?」 
言われて気付いた。今物干し竿にかかっているのは俺のか彼女らのものしかない。 

「あっ、あーあーあー。そうだね、ごめん」 
色々見られて困るものはあるだろう。慌ててその場を出て、よくよく状況を考えた。 
一時的に預かる、とはいっても同じ一軒家に住んでいるのだ。 
遊びに来ているわけじゃないのだから、彼女たちの生活そのものがこの家にあるわけで。でもそれは俺も同じだった。俺の下着も彼女の手に触れるわけなのだ。 
恥ずかしくなってきて、なんか妙な気分で部屋に戻る。 
ユキの言葉を思い出して勉強でもしようかと思い、机に座るも何もせずぼーっとしていた。 
そこにまた、例の娘がノックもせずに入ってきた。 
「大変だあっ」 

切迫したハルナの様子に身構えたのだが 
「電池無い!?電池!」 
俺の気持ちを返せと言いたかった。 
「ウォークマンの電池が切れたー」 
その頃にはMDウォークマンもあったけど、まだ高くて学生が買えるような品ではなかった。 
大概は安いテープのプレイヤーを使っていて、彼女が手にしていたのもそれであった。 
仕方ないなと一階の棚を調べるも、出てくるのは単一、単二ばかり。欲しい単三が出てこない。 
「ありゃ、切れてるな」 
「何でさ」 
「何で、ってもなあ」 
欲しいときに無いのが電池である。 

「俺の部屋にCDコンポならあるけど」 
自室に行って見せてやると「おお」と目を輝かせ、CDを手に戻ってくるとそのままヘッドンホンを装着して聴き入ってしまう。 
勝手知ったる、という言葉を思い出しながら再び机に向かった。 
「勉強するんだ、偉いねー」 
「まあ一応な」 
後ろからの声に振り向かずにそう答える。本当は勉強なんてしないんだけど。 
会話はこれきっりで、あとは沈黙が続く。しかし静かであっても後ろに人がいると気が散って仕方がない。 
読みかけの小説を手に取り読みはじめる。まだ気になるので、でかい漬物石が転がってるんだと思うようにした。 
ようやく落ちついた。 

本に夢中になっている内に喉が渇いたので、何か飲もうと机から立ち上がる。 
ハルナをちらと見ると、ヘッドホンを付けたままベッドで寝ていた。起こさないようにゆっくりと部屋を出る。 
階段を下りるとエミがどこかに出掛けようとしていた。 
「どこか行くの?」 
「はい、ちょっと買い物に」 
「買い物?何を?」 
「今晩のおかずとかですね」 
それを聴いた瞬間は本当に驚いた。 
「食費を貰ったんだから店屋物でも頼めばいいのに」 
「やっぱりそういうのは悪いからって」 
そうユキが言ったのだろう。 

「でも店の場所とか分からないでしょ?」 
「いえ、昨日三人で駅の方まで歩いて行ったので」 
もしかして今朝と昼の分も彼女たちが買ってきた食材で作ったのだろうか、と思う。 
そうであるならば俺はずいぶんと甘えていたことになる。 
「何か買ってくるものありますか?」 
「そうだな・・・」 
単三電池、と言いかけて、自分の面子のようなものがむくむくと首をもたげた。そこまで甘える気にはなれない。 
「自分で買いたい物だから俺も行くよ」 

家を出て道を歩いている途中、小さくエミが言った。 
「……よかったんですか?」 
「別に構わないよ」 
「いや、そうじゃなくて」 
わざわざ智也さんが行かなくても、という意味だと思ったが違うようだった。ちょっと考えてからエミは言った。

「智也さんの知ってる人と会ったら、まずいんじゃないですか?」 
なるほど、確かに見た目が小学生の少女と俺が並んで買い物している姿を知人が見たら怪しむかもしれない。 
高校生と小学生の体格差は兄妹でない限り犯罪的なカップリングに見える。 
「んー、まあ親戚の子とでも言うよ」 
実際そうだし。 
「でなかったら生き別れの妹だ」 
「妹?」 
冗談だったのだが、真剣な顔でそのまま考え込む。彼女に冗談が通じた試しがない。 
「智也さんがお兄さんだったら」 
「ん?」 
聞かれるものとして言ったのではなかったのか、返事に慌てるエミ。 
「ええっと、そういうんじゃなくて」 
よく分からない理由を色々述べた後、観念したように「どうなってたのかな、って思うんです」と言った。 

「ハルちゃんもお姉ちゃんも智也さんも最初から同じ家族だったら、って。今みたいな毎日がずっと続いてたら楽しいって思いませんか?」 
一人っ子の俺にはその気持ちがよく分かった。 
「楽しいな」 
「やっぱりそう思いますよね」 
嬉しそうに答えるエミ。 
「だからどうなってたのかな、って思ったんです。ずっと仲良く暮らせる家族って幸せですよ」 
うん、と頷く。俺自身、一度両親が離婚しようとしていたことがあったが、 
今では仲が良くこれは幸せなんだろうなと客観的に思える。 
「そうなんだろうね」 
「……家族だったらよかったのにな」 
家族。もしエミのような妹がいたらどうなっていたのだろうと思う。 
この細い、どこか儚げな少女と一緒に居てやることが出来るなら。もし家族なら。

「ここにいる間はみんな家族だと思えばいいよ」 
「……はい」 
残り二日の疑似家族かもしれなかった。でも記憶に残るはずだと思う。 
ずっと朽ちることなく覚えていれば、そんなに嬉しいことはない。 
「そういえば智也さん」 
「うん?」 
「買いたいものって何なんですか?参考書とか、ですか?」 
さっき言った言葉に効果がありすぎたのか、尊敬すら感じる視線で訊ねてくる。 
「……乾電池」 
しばらくの間の後、彼女にしては珍しい笑い方をした。 

電池を手に部屋に戻るとハルナは同じ態勢で俺のベッドの上にいた。目は覚ましていた。 
ほら、と電池を渡すと無表情に「ありがと」とだけ言って部屋を出ていった。 
機嫌が悪そうに見えたけど、多分寝起きだったのだろうとその時は考えた。 
気を取り直して机に座り小説の続きを読みはじめた。 
しばらくすると電話の鳴る音が聞こえてきて、止まったと思ったら代わりにユキの声がした。 
「智也さん、電話です」 
普段なら二階の子機に転送してもらうところだが、おそらく操作法を知らないだろう。 
自分から下へ取りに行って誰から?と訊ねる。 
「北川さんですって」 
ユキの手から受け取る。生徒会長からだった。

「はいもしもし、斉藤です」 
「あ、斉藤君だ」 
「そりゃそうでしょう」 
「だって知らない人が出てくるんだもん。しかも女の子。あたしビックリだわよ」 
北川さやかという人は、外見は可愛らしいのに仲のいい相手には気を許しすぎて口調がおばさんになる癖があった。 
「ああ、彼女は」 
親戚、と言いかけて止まる。近くにユキとハルナがいた。 
「知り合いです」 
「へえ、中学校の友達?」 
「そんなとこです」 
「嘘ね。まあ、その辺は明日聞かせてもらうわ。ちょっと頼み事があるの」 
女の人ってなんで嘘をすぐ見破るんだろうと思いながら話を聞いた。 

どうもある顧問が部費で自分の為にビールを買ってるとか買ってないとか、という話だった。 
去年の帳簿に不明な部分がないか調べてほしい、という。 
「でもそれ、どうするわけにもいかんでしょう」 
「あるかどうかだけ調べてほしいんだって」 
俺の代の顧問は、設立時からいた老教師が生徒会を退いた為に、半ば押しつけられるようにして顧問になった若い先生だった。 
当然発言権も大して無く職員室で辛そうにしている姿をよく見る。 
でも頭の悪い人ではなかったので、この件も何かに利用するに違いない。 
「ははあ、あったとしても表から非難するわけじゃあないと」 
「あたし知らなーい」 
大人って汚いよねー、と笑いながら言うのが普段の会長だった。 
で、その辺の面倒な事は古参の俺が引き受けることになっている。 
彼女は三年生だが所属したのは去年の冬からだった。一年も経ってない。 

「分かりました。今日中にラグビー部の帳簿チェックしときます」 
「さすが斉藤君。じゃよろしくー」 
「会長も受験、頑張ってください」 
だが俺の言葉が終わる前に電話はぶつっ、と切れた。 
なんだかなあと思いながら電話を置いて、ユキにありがとうと言って部屋に戻った。 
ラグビーという競技は練習においても消耗品が激しい。何かと細かい出費が多い部である。領収書も膨大ではっきり言って面倒くさいが、会長からの頼み事なので悪い気はしなかった。 

その日の夕飯はカレーだった。エミと買い物に行ったときに聞いた話だと、俺の家に寸胴鍋があることを知ってユキは大喜びだったという。 
後でユキに聞いたが、なんでも「量を一気に作れるのって快感」なのだそうだ。 

「野菜はエミちゃんが切ってくれたのよね?」 
「へえ、うまく出来てるよ」 
大きさにばらつきがあったが、昼間のホットケーキを思い出すとそう思える。 
「ま、エミにしちゃ頑張ったわよね」 
隣でハルナが抑揚無く言った。どうもまだ機嫌が悪そうだ。 
「今回ハルナは手伝ってないのか」 
「うん」 
それだけ言って黙ってしまう。 
まあ女の子だし色々あるんだろ。そう納得してカレーを口に入れていった。その日の夕食は静かだった。 

三人に世話になりっぱなしなのも男が廃ると思い、食後は全て任せてもらうことにした。 
その提案にエミがくっついてきて、ハルナは何か言いたげに見つめていた。 
「ハルちゃん何かあったのかな」 
濡れた皿をタオルで拭きながらエミが誰とも無しに言った。 
「やっぱそうなのか、あれ」 
「時々あんな風に考え込んでるような日はあるんですけど、今日のは・・・」 
言いにくそうに、珍しいですねと付け加えた。 
「……俺か?」 

「違うと思います。でもハルちゃん、悩みは口にしないから」 
将棋をした時のハルナを思い出す。あれは、悩みだったのだろうか。 
洗い物が済んで部屋に戻る。まだ先の長いラグビー部の帳簿に取りかかろうとしたところで、部屋がノックされた。 
エミが話でもあるのだろう。 
「どうかした?」 
「私。入っていいかな」 
しかし聞こえてきたのはハルナのものだった。 

入ってきた彼女にいつものような明るさは無い。つまらなそうな顔で、俺には目を合わせずに言った。 
「昼の約束、覚えてる?」 
「昼?」 
黒いホットケーキが浮かぶ。約束なんて覚えていなかった。 
「ごめん、なんだっけ」 
「……」 
何も言わずにベッドにどん、と座る。 
でもその態度は不機嫌だけでなく、恥じらいも混じっているように見えた。 
「本よ、本。エの付く本」 
「ああ!?」 
エロ本か。そういえば昼間、そんなことを言っていた気もする。 

お前一応女の子なんだからと言おうとも思ったが、先程からのおかしな態度が 
気になっていたので部屋につなぎ止めるつもりで本を渡すことにした。 
「三冊あるけど」 
「全部」 
イラストや写真が表紙を飾っているが共通して女の裸だった。 
そんなものを年下の女の子に渡す自分が、なんだか間抜けで仕方がない。 
渡された方も無表情に、だが少し恥ずかしそうに本の表紙を眺めていた。 
その姿を見ていて思う。ハルナは奔放なようで覆い隠している部分が多い。 
最初はただ陽気なだけに見えたが、エミにコンプレックスがあるような一面を垣間見たし、今は部屋に来てエロ本見せろという。午後から急に大人しくなった原因ではないだろう。 
わがままを言っているようにも見えるが横柄な態度ではない。一貫性が無かった。 
こっちもどう対応していいか分からなくなる。そういう意味ではユキとエミの方が分かりやすい。 

「……何かあったのか」 
「何が?」 
ぴら、と雑誌のページがめくられる。 
腰を突き出すようなポーズを取った裸の女性が一面に出現する。 
考えていることを鈍らせるインパクトだった。 
「きゅ、急に大人しくなったろ」 
ハルナもその写真に圧倒されたのか、しばらく黙ってから答える。 
「いつもうるさくしてるわけじゃないよ。私だって疲れること、ある」 
「でもなんか、お前にしては珍しいっていうか」 
エミがそう言っていた、とは言えなかった。それに対しハルナは小さく笑った。 
「別に私のこと昔から知ってるわけじゃないでしょ?明日にはまた元気になってるから気にしないで」 

突き放すような口ぶりだった。いつもなら他人のことに踏み込むことはしない。 
けどその日は、エミに言った「家族」という言葉からかハルナを放っておく気にはなれなかった。 
何か言おうと言葉を探す。でもなかなか出てこない。 
「あー、いや。ごめん」 
口を開いたのはハルナだった。 
「私も分かってはいるんだけどね」 
ごめんね、と俺を見上げた。突然謝られて戸惑い「まあ」とあやふやな返事をした。 
「何かあったか、って聞いたよね」 
俺としてはいつもの彼女に戻ればそれで良かったので、今更事実究明する気はなかった。 
しかし悩み事を吐き出したそうに見えたので、何も言わずに聞きに徹することにする。 
ハルナは読んでいた雑誌を隣に置いた。 
「エミが嫌いなわけじゃないの」まずそう言った。 

エミのことは本当に可愛い妹だと思っているらしい。だが俺と一緒にいるのが気に食わなかったということだった。 
俺を取られるのが嫌、とかそういう陳腐なことではなく「エミが何かを専有すること」がたまらなく嫌なのだという。 
人だけでなく物もそうで、エミがずっと手に持ち続けるもの全てに焦りを感じるのだと話した。 
「焦り?」 
「無くなっちゃいそうで」 
ハルナは苦笑したが、父親が消えた彼女の心中を考えると切実だった。 

「エミが智也君と寝たでしょ?あれでなんかね、スイッチみたいのが入っちゃって」 
そういえばと思う。昨日の夜、俺と寝たいと言ったときエミを引き合いに出していた。 
「今日も私が寝てる間に二人で買い物に行ったって聞いて、益々ね」 
ハルナが甘えてきた理由がそれであるならば、今日は穏やかではなかっただろう。 
取られまいと必死になっていたのに、指の間からすり抜けるように俺はエミの所へ行ったのだ。 
「すいませんねえ、病気なんですよあたしゃ」 
そう笑ってみせる姿が痛ましかった。父親の蒸発とは、そうまで子供に影響を与えるものなのだろうか。 

でもこればかりは、俺がどうすればいいわけでもない。 
「せめて、何かエミも知らないようなことを教えてくれれば気も収まるんだと思う」 
「エミも知らないこと?」 
「今日の電話の人、彼女?」 
途端に調子が戻ったように見えた。 
「え、いや。うちの会長だけど」 
「いや違うね。なにか感じたんだから」 
「仕事の話に色気も何も無いだろ」 
「……本当にそう?」 
ま、いいか。と観念した。実際大した話ではないのだ。 
「彼女じゃなくて、俺が好きなだけ」 
「やっぱあったじゃない、なにか。聞かせて聞かせて」 

前会長は不良で、いい人だったけど喧嘩で怪我をさせてしまい、生徒会から止むなく降ろされた。 
そこで会長を急募するも立候補が出ず、仕方無しに前顧問である老教師が学年主任という立場でもって無理矢理一人引っこ抜いてきた。 
それが学年で一番人気の女生徒、北川先輩だったのは、運動部の予算陳情の粘っこさに 
対抗するために前会長と同等の個性が必要だからだった。 
そんな話をすると、ふうんと相槌を打った。 
「そんなに可愛いの?」 
「綺麗の部類に入るんじゃないかな。でも俺は、あんま綺麗でもなあ」 
美形は顔だけで中身無し、という偏見を持っていた。 
「じゃあなんで好きになったの?」 
「あの人面白いんだ」 
呆気に取られたような顔で「面白い?」と返してきた。 

「こればっかりは会ってみないと分からない話だけど」 
「でも、普通は外見でしょ?」 
「そういう人もいるよな。でも中身が一番だって人も少なくないよ。ハルナは?」 
どっち?という意味で聞いた。 
「私は、外見が大事だと思ってたけど」 
やけに神妙な顔で答えた。 
「まあ第一印象も大事だろうけど。でも話してて楽しい相手は付き合ってから長持ちするよな」 
「そうなの?」 
「そうなのって、人によるけど」 
「そっか、でも。……ああ、そうだよね」 

何か思い出したのか、それとも悟ったのか、うんうん頷きながら一人で勝手に納得し始めた。 
「私でもエミに勝てるんだよね」 
そこで俺もようやく彼女の考えていることが分かった。 
「勝つかどうかは知らんけど、タイマンは張れるな」 
我ながらよく分からない例えだと思う。でも彼女は共感できたようで、そうだよねと嬉しそうに答えた。 


「勉強、ちゃんと出来ました?」 
「ん、まあ」 
当然嘘である。 
「今日の教科なんでしたっけ?」 
「英語と世界史」 
「主要教科二つじゃないですか」 
「ん、まあ頑張るよ。それじゃ」 
「いってらっしゃい」 
「いってきます」 
そんな感じで月曜の朝、玄関を出る。馴染んできたなあ、と思いつつ家を後にした。 

停車している通学バスの座席から外の景色を眺めていると、断りもなしに隣に座られた。 
「よう斉藤」 
昨日の、本屋の息子だった。

「おはよ。何か取れた?」 
早速約束の映画の券の話を切り出した。ユキの性格上、あまり金のかかることは乗り気にならないだろう。 
だがタダ券ならせっかくだから、という風に持ち込める。そう考えていた。 
「おう、いいのが取れたぞ。お前の為に無理言ったんだ、感謝しろ。学食おごれな」 
「枚数は?」 
「四枚」 
持つべきものは旧き仲だなあ、と心の中でガッツポーズ。ほら、と券の入った封筒を渡される。 
その場で出してみると確かに同じものが四枚。そしてゴジラ対ヘドラの文字。 
「……ん?」 
背びれの付いた黒い怪獣と赤い一つ目のドロドロしたやつが取っ組み合っているイラストが四枚に描かれていた。 
女の子に渡すにはどぎついカラーだった。 
「何だこれ」 
「うん、リバイバル上映だと」 
なるほど、どうりでこんな古い映画が。と変に納得してしまった。

「好きだろお前」 
ゴジラといえば怪獣が暴れまわる映画、というのが大体の認知だろう。 
そんな姿が少年時代の俺に心打つことはあったが、高校時代にまで引きずっていたわけではない。 
しかしヘドラだけは違う。違うのだ。 
もはやゴジラというキャラクターで客を呼び込んでいた時世、この作品だけは環境問題に真っ向から取り組んだ社会派作品なのである。内容こそ王道にゴジラが敵をやっつける、ってな内容だが、個人的に初期プロットと噂されるヘドラとゴジラが共倒れ、そしてもう一匹いたヘドラが東京湾から顔を覗かせ??というものの方が。
いや、まあいいや。 
「好きだよ。好きだけど、いや好きなんだけどさ。何で四枚頼んでこれなわけ?」 
「親戚の子と見るって言ってたよな」 
じゃあ怪獣映画だろ、とその友人は笑いながら言った。例の姉妹は事情が複雑なので濁した所が多かったが、失敗だったようだ。

「小学生くらいの男の子ならゴジラが飛ぶ姿見てはしゃぐぜ?」 
そういえばヘドラが人間を溶かすシーンがあったなと思い出した。子供なら泣く場面だ。 
「まあ、ありがと」 
友人の嬉しそうな顔を見ながら別の手を考えないと駄目だなと思った。手元の券をもう一度見る。 
さすがに四回も一人で見たら気分を害しそうだ。これもどうしたものか。 

テストも終わり、妙な緊張感が漂っていた教室も息を吹き返す。 
でもそれもすぐで、全員教室から出ていってしまうと静かになる。 
俺はそこで一人机に座っていた。頼まれた仕事を会長に報告する為である。 
10分もしないうちに会長は姿を現した。事務的に事を済ませ、顧問に報告するまで15分とかからなかった。 
終わってしまえば後は帰るだけである。会長と下駄箱まで歩くと、全校生徒は帰ってしまったらしく人の気配は無かった。 
そこは日が差しているのに夜のような静けさと寒気が存在していた。 
「ねえ斉藤君」 
学年別に別れた下駄箱の、二つ挟んだ向こうから会長の声がする。 
「昨日の電話の子、やっぱりコレなわけ?」 
「何すか?コレって」 
姿は見えないが小指でも立ててるのだろうと想像がつく。 
「彼女でしょ?」 
「違いますよ」 
靴を履いて、一緒に外に出る。ここにもやはり誰もいない。なんだか会長と二人でいるのがいけない事のような気がする。 
「でもあの子「智也さん」なんて言ってたじゃない」 
これにはさすがに返答に困ってしまった。 
「ていうか彼女でも変よね。まさか変な風に調教してるんじゃないでしょうね」 
どうなのよ、と小突いてくる。黙ってりゃモデルなのに、口を開くとおばさんに見えてしまう人だった。その度に俺は、
「先輩、女の人がそういうこと言うもんじゃあないです」 
とお目付のように注意していた。 

「否定しないってことは、やっぱり?」 
「ただの親戚です」 
「嘘だー。だったら斉藤君は「友達です」なんて答えるわけないじゃない」 
やっぱ彼女だ、と楽しげな様子で言ってくる。 
このまま中途半端な誤魔化しを続けていると、先輩の中でユキが俺の彼女になりかねなかった。 
先輩に好意を抱いている俺からするとたまったものではないが、それ以上にユキたちにものすごく失礼なことだと思ったので、秘密ですよと付け加えて本当のことを話すことにした。 
エミから聞いた話を大雑把にかい摘んで話す。彼女たちは親戚だが、父親の蒸発と借金の存在によりひとまず同居しているという状況。しかしユキとハルナは俺がそのことを知っていることは知らないこと。 
そして母親が帰ってくる明後日まで続くということ。 
「なるほど、そういうことなの」 
合点がいったらしくふむ、と腕を組む先輩。それから俺に目を合わせて、
「斉藤君、責任重大ねえ」 
とおどけているのか真剣なのかよく分からない言い方で言った。 

「ユキが身の回りのことから家事までやってくれてるんで。全然不都合は無いです」 
「そうじゃなくてさ、下手にその子たちの信頼裏切るような真似出来ないよね、っていう。だってお父さんが一人で夜逃げでしょ。私なら人間不信になっちゃう」 
三姉妹の父親、つまり俺の伯父だが、どういう人間かはエミの口から聞いた「身体を触ってきて」という暴行の話と賭博癖がある事しか知らなかった。それだけ聞くと駄目人間だ。 
いなくなってむしろ清々したのではないかとも思うが。 
「借金残すような父親でもですかね?」 
「何したって「お父さん」には変わりないわけだし、いきなりいなくなったら悲しいんじゃないかしら。家族ってそういうものだと思うけど」 
「……どうなんですかね。分かりません」 
正直な感想だった。確かに、ユキとハルナにとっては血のつながった実父なのである。 
「まあ、ともかく斉藤君はえっちなことしないようにね」 
「しませんよ」 

初日にエミと寝たことを思い出した。やましいことはなかったが、かといって言える話でもない。 
そのことは永遠に封印しておこうと考えて、ふと思いついた。 
「ああそうだ。先輩、好きな人がいたらどんなことしたいですか?」 
「いきなりなあに。口説いてるの?」 
「エミがそんな質問をしてきたんですよ。でも俺はいい答えを言えなくて」 
うふふ、と笑ってふざける先輩を無視する。何かと冗談を言いたがる人なので全てに対応すると疲れるのだ。 
出会ってから一年も経っていないが、毎日生徒会室で顔を付き合わせた結果だった。 
「何て答えたの?」 
「相手が幸せになることをするよ、って」 
先輩が相手だと言ってて恥ずかしかった。実際、先輩もうっすらと笑いを浮かべている。 
「なに、斉藤君って尽くすタイプ?」 
「どうなんですかね」 
無性に恥ずかしくて大した反論も出来ず「先輩は?」と聞き返した。 

「あたしは、そうねえ。ううん」 
そこで先輩は立ち止まった。ちょうど帰り道の別れる場所だった。 
「……悩み事を聞いてあげることかな。私に出来ることなんて、そんなことくらいだしなあ」 
そう言う先輩の顔はなんだか普段より幼く見えた。 
おばさんや関西人のような妙な雰囲気を持っている人だったが、こういう姿は初めて見る。 
「私も大した答えになってないわね」 
照れながらへへ、と笑う仕種が年下の女の子のようだった。 
「いや、まあいいんじゃないですか。俺はいいと思います、そういうの」 
俺も照れてしまって目を合わせずに答えた。生意気言うわねー、と返事した時の先輩はいつもの調子に戻っていたが。 
「ユキちゃんだっけ?その子がしっかりしてるって話だから困ることも無いだろうけど、何かあったら私に聞きなね。男の子には分からない部分ってあるからさ」 
「そうですね、頼らせてもらいます」
「普段お願い事してばっかだからね。たまには頼られないと、先輩として」 
偉そうに胸を叩く姿を見て、そういえばこの人って会長って役職なんだよなと改めて気付く。 
仕事の時は「会長」と呼ぶものの、心の中はそれに比例した尊敬はない。 
あるのは今のように緊張しないというか、いいひと、という感情だ。 
今さらそんなことを思うのがおかしくて、
「たまには俺も頼りたいですしねえ」と笑いながら答えた。 
それから適当な話を済ませて別れた。その時にヘドラの券が四枚あることが頭をよぎったがまさか誘うわけにもいかなかった。 

「遅い、遅いよ。何してたのこんな時間まで」 
家に着くなり玄関でハルナに責められた。時計を見ると一時半を過ぎたところで、別にそこまで言われる時間でもない。 
「お腹空いて死ぬかと思ったよ」 
「え、まだ昼食べてないのかお前」 
「お姉ちゃんが智也君を待つって言ってねー」 
新妻のようでしたよと嫌な笑いをしながらささやく。同じタイミングで後ろのリビングのドアが開いてユキが恥ずかしそうに顔を出してハルナを睨んだ。 
「なに馬鹿言ってるの。ほら、ご飯にするから。智也さんも、上に荷物置いて降りてきてください」 
照れちゃってまー、と変な顔をしながらハルナが退場する。 
「ハルナの冗談ですから」 
「そうだろうね」 
「……早く降りてきてくださいね」 
それからユキも引っ込んだ。 

あるべき活気のようなものが、彼女たちに戻ってきている感じがした。 
別に俺が影響を与えた等と偉そうなことを言う気は無い。単純に精神が回復しているのだろう。 
何であれ元気が出てきているのは明白だった。嬉しい気分で二階の自室のドアノブに手を掛けようとすると、心境を反映したかのような鼻歌が部屋から聴こえてきた。 
下に二人いるので部屋にいるのは彼女だろう。最初ノックするべきかと考えたが、それも変な話である。 
ただいまと言ってドアを開けた。案の定部屋にいたのはエミで、昨日のハルナと同じようにヘッドホンをしてベッドに寝ころがっていた。 
「あ、わ、きゃ」 
俺を見てから、文字にするとこんな感じの色々混じったような悲鳴が小さく上がった。 
「す、すいませんごめんなさい。借りてました。???痛っ」 
ヘッドホンを慌てて外そうとしたせいで、スライド部分に髪の毛が挟まってしまったようだった。 
しかし慌てているエミはそんなことに気付かず、どうにかしようと引っ張るだけ。 

「ちょっと座ってごらん」 
小動物のような泣きそうな目をしながら従い、ベッドの上でちょこんと正座する。 
俺はその後ろ側に座って、痛くならないよう気を付けながらヘッドホンを取ってやった。 
「あ、ありがとうございます」 
「コンポ使ってても怒らないよ。慌てんな」 
さっきの様子がおかしくて笑いながら乱れた髪を撫でてやる。 
近距離から見るとエミがいかに小柄なのか実感することが出来た。 
肩なんか細くて手の中にすっぽり納まりそうだ。抱きついたら簡単に腕が回るに違いない。 

「あの、智也さん」 
「うん?」 
「おかえりなさい」 
「……いい子だなあ。ハルナと大違いだ」 
大げさに言っておどけてみたものの、言葉自体に嘘は無かった。 
「ハルちゃん?」 
「あいつ俺が帰ってくるなり「腹減った」だと。雛鳥かっての」 

ユキは肩に当たるくらいの長さ。料理時は縛って一本おさげに。 
ハルナは二本おさげ。 
エミは説明すんのが難しいのでグーグルのイメージ検索で「髪型」からみつけてみた。 
#http://www.yoshimiru.com/images/cha/cha_14.gif
こういう感じにまとめてて、写真よりもうちょっと上(つむじの下辺り)のところでおさげになってた。 

ハルちゃんらしい、と微笑む。彼女のこんな表情は最初の時点では想像出来なかった。 
しかしその時抱いた不健全な印象は今は無い。歳相応の笑顔を見せられ、もう大丈夫だな、という一種の安心感があった。 
変な話だが、もう見えない所へ行ってしまっても彼女は大丈夫だろうという親心のようなものが芽生えていた。 
「そういえばもうお昼じゃないですか?」 
エミの言葉に我を思い出して、そうだったと呟いた。 
「早く下に行かないと姉ちゃんに怒られるな、よし急げ」 
ぽんと背中を押してやる。 
「あ、私CD片づけてから行きますから先行ってていいですよ」 
「いや、俺も着替えるから」 
当然エミの前で脱ぐわけもないのだが、彼女はびーんと背を反らせて 
「ごっ、ごめんなさい」 
と言って慌てて出ていった。

着替えてからリビングに入ると三人は既に席に座っていた。 
ハルナがしつけられた犬のようなに皿のカレーを凝視している。 
「昨日の残りなんですけど」 
ユキが苦笑いして言ってきた。 
昨晩のカレーは元々余らせるつもりで作ったらしく、寸胴鍋には結構な量のルーが入っていた。 
「美味しかったから構わないよ」 
「よかった」 
ほっと胸を撫で下ろすといった風のユキ。彼女も相当打ち解けている。 
いっそこのまま三人と暮らしたいと冗談でもなく思う。 
「早く席につけよぅ。遅れた自覚あるのかコラー」 
「お前さ、もうちょっと女の子らしくしようや」 
ハルナも良くも悪くも遠慮がなくなっていた。 
最初部屋で三人と出会ったとき自分が異分子に思えてその場を後にしたが、今は。 

「それじゃ、いただきます」 
後から座ったということで俺が音頭を取った。三人もそれに続いた。 
「今日テストどうでした?」 
「ん、まあまあ」 
「え。何、テストだったの?」 
皿から顔を上げてさも驚いたように俺を見るハルナ。 
「そうだけど」 
そうだったんだ、と言って彼女らしかぬ表情になった。 
「……昨日はごめんねえ」 
昨日?と口に出してから思い出した。昨晩のことを言っているのだろう。 
彼女の悩みが吐き出せたようなので気にはならない。というか元々勉強する質ではないのだ。 
俺にとってプラスこそあれマイナスは無い。 

「ハルナ、あなたもしかしてまた邪魔したの?」 
「いや、ちょっと俺と話してただけで。大したことじゃないよ」 
珍しく反論しないハルナに代わってフォローした。 
「でも私達のせいで成績落ちたりしたら悪いですし」 
ユキの一言一言がぐさりと突き刺さる。勉強してないのだし今更下がるような事もない。それで心配されているのでどうも人を騙している気分になるのだ。 
「いいんだ。勉強自体大してやってないからさ」 
「でも……」 
俺の正直な言葉にユキも返事に困りだす。 
「お姉ちゃん、智也さんの言うことだし信じなよ」 

そこへ口を開いたのはエミだった。言われたユキの表情は呆気に取られていたというか、意外だという表情をしていた。
俺とハルナもそうだったかもしれない。エミがユキに意見するのは、おそらくこれが初めてだったのだ。
「そう、ね。そうよね」
とりあえずユキはそのことには納得したようだったが、俺とエミを交互に見て再び頭を抱える。
エミは何事もなかったようにカレーを食べ始めた。
俺とハルナは顔を見合わせ、そんなエミをしばらくまじまじと見つめていた。

昼食を終え、後片付けをしようとエミと台所へ向かうところでユキに呼び止められた。 
洗い物なら任せてというエミの言葉に甘えることにして、ユキに言われるままリビングのテーブルに着く。 
さっきまで座って昼食を取っていた場所だ。席に着くなりユキはため息をついた。 
「あの子があんなこと言うなんてねえ」 
どうやら第二回姉妹会議(エミ除く)の勃発らしい。 
「私も驚いた。ああいうこと言う子じゃないのにね」 
隣でハルナも同意する。どうもさっきの「智也君の言うことなんだから」という発言を指しているらしかった。 
「でも別に悪いことじゃないんだし」 
フォローというより弁解をする気分で言った。 
俺を巡っての発言だったので、なんだか指を差されてお前が悪いと言われている気がしたのだ。 
「そうですけど、そうなんですけどねえ」 
再びため息。 

「お姉ちゃんはさ、エミの母親みたいなもんだから。きっと今子離れを味わってんのよ」 
ハルナの言葉に皮肉めいたものは無い。素直に思ったことを口にしただけのようだ。 
確か俺も似たようなことを言った気がする。やはり妹から見てもエミへの接し方は姉というより母だったのか。 
ユキはその言葉に違うわよと言いはしたが後は何も言わなかった。 
「エミって人に頼る癖があるけど、これはいい傾向でしょ」 
それからハルナはにやっと俺を見て、
「アレね、愛の力ね」 
と言った。 
「お前それ恥ずかしいぞ」 
「私は真剣だってば」 

その目は笑っているように見えたのだが。 
しかしそう言えるハルナを見て少しだけ安心する。この前の吹っ切れたという宣言は本当らしい。 
「どんな時でもくっついてくるエミに、私もちょっと調子に乗ってたかもなあ」 
ぼやきのようなユキの発言にニワトリとひよこを想像した。大体二人の関係はそんな感じだろう。 
最初は早足の母親に慌てて付いていくかもしれないが、それも徐々に無くなる。ひよこだっていつかはニワトリになるのだ。 

「まあ「お母さん」が終わりでも「お姉ちゃん」が残ってるわけだしさ、がっかりすることもないよ」 
「だからお母さんじゃないですってば。でも、そうですね。お姉ちゃんですもんね」 
「そうそう。私のお姉ちゃん、ってことも忘れないでよね。エミにばっかり目を向けられたら私は寂しくて死んでしまうよ」 
うさぎなのよ、とふざけるハルナだが、半分本心だったと思う。 
それをユキも読み取ったのか、優しい目になって「ごめんねえ」と改まった。 
「え?い、いや、違っ、違うよ。そういう意味で言ったんじゃないって。そんなこと言われても困るってば。ほら智也君も」 
姉の予想外の行動に「何か言ってよ」と俺へすがるような目をする。だがそこは踏み込む部分ではないだろう。 
「エミの所に戻ってやらないとな」 
「うあ、ちょっと待て!待ってよ!」 
ハルナの言葉を背で受け、とっととその場を後にした。

台所では水道から出るシャワーのざーという音が響いていた。洗い物もそんなに減っていない。 
リビングにいた時間は大してなかったようだった。 
「あ、早かったですね」 
「すぐ済んだからね」 
「何か話してたんですか」 
本当のことを言うわけにもいかず、ちょっと悩んでから 
「ほら、明後日はみんな帰るだろ。その辺の話をさ」 
と言ったが、明るい話題になるわけもなく言ってからしまったと思う。 
「……やっぱり私のお母さんの実家に行くのかな」 
「北海道だっけ」 
こくりと頷くだけ。 
「どんな所なの?」

「私が生まれたのは東京で、北海道に行ったのは再婚する前に行ったきりで記憶も曖昧なんですけどいいところですよ。夏に行ったんですけど湿度がないからからっとしてるんです。おばあちゃんも優しいし」 
「いいところなんだ」 
よかったじゃないか、とすんでのところで言うのを止めた。正しい表現か分からなかった。 
三姉妹はようやく地に足が着いた、落ちついてきたという感じだった。 
それなのにもう一度別の土地へ行くというのだから、エミの実家とはいえ行き慣れているわけでもないだろう。 
また不安になるかもしれない。 
「北海道はいいところですよ。でもなんだか疲れちゃった。もうちょっとここでだらだらしていたいです」 
微笑んではいるのだけど、どこか寂しそうだった。そんな様子が見ていられずわざと明るい口調で聞いた。 
「俺飛行機乗ったことないんだよ。エミちゃんはあるんだろ?どんな感じ?」 

「え?ええと、そうだなあ。……当然ですけどすごい高いところ飛ぶわけじゃないですか。あれって離陸した直後はどんどん地面との距離が遠のいていって、高いところに登っていく実感があるんです」 
でも、とエミは何か思い出したのかにわかに表情が明るくなる。 
「上がっていって、また上がっていくともう違うんです。下に広がってるのは地面じゃないんです。模型みたいな感じで、下に人が住んでるなんて思えない。雲も綿みたいで掴めそうで、すごく不思議な気分になるんですよ」 
「へえ、そりゃ俺も見てみたいな」 
「でも見れるのは窓際の席だけですから、私は譲りません」 
意地悪っぽく言って、笑った。俺もつられて笑う。 
「私飛行機が好きだったんですよ、そういえば。でもすっかり忘れてたなあ」

「スチュワーデスに憧れてたとか?」 
「機長になりたいと思ってたんです、女の子なのに。変な子だったんです」 
「別にいいじゃん。なんかかっこいいよ」 
「そう、ですかね」 
「そうだよ」 
そこで話は切れ、ざーという水の音が続く。作業をしながらの会話だと突然無言になる時間がままある。 
「智也さんって夢あります?」 
「俺?」 
少しだけ迷う。とうに捨てていたものだった。 

「……作家になりたかった時期はあったけどね」 
「すごいですね」 
「いや、もう諦めたよ。だからすごくはないな。今は、分からないや」 
諦めた?と首を傾げるエミ。高校二年の時点で「夢を諦める」ということが理解できなかったのだろう。 
「色々ね。別に人に文章を貶されたわけじゃないし、自分の才能に見切りをつけたわけでもないし」 
聞いたってつまんないよ、と加えて洗い物に専念する。 

「でも私聞きたいです」 
「ま、その内な」 
明後日にはこの家を去るエミにこの言葉は優しいものではない。 
分かってはいたのだが話をする気になれなかった。自分にとって嫌な記憶なのだ。それをわざわざ晒す気になれない。 
それきり会話は途切れ、あとは水道の音がずっと続いた。 

自室に戻って勉強でもしようかと昨日と同じように考えるだけ考えてみる。 
机に座って学生鞄の中を開けると例の封筒が目に入った。中身を取り出す。相変わらずエグイやらグロイやら。 
ゴジラはともかくヘドラじゃなあ、とチケットに対して今日二度目のため息をついた。 
誘う相手もいないし、かといって一人だと二回観るのが限界だろうし。 
一瞬ぽっと先輩が浮かんだが、興味あるわけないだろうと振り切る。 
かといって使わないのも勿体無かった。売るのも友人に悪いし。 
見つめているうちに段々呪いの札にすら見えはじめてきた頃、ノックも無しにドア開いた。エミだろう。 

「ちょっと聞きたい事あるんだけど智也君エミに??ん?」 
俺も相当彼女たちに馴染んできてるなと苦笑しながら 
「何かあったのか?」 
と聞いた。しかし 
「……なんかすごいの持ってきたねまた」 
ハルナの意識は机の上に並べられた四枚の呪符に向けられている。 
「まさかこれに誘ってくれるんじゃないでしょうね」 
「最初はそのつもりだったんだけど、予想外に大変なものが届いたからな。本当はもっと誘いやすいものにしたかったんだけど」 
そこで昨日のエロ本の騒ぎで俺が全く弁解をしていなかったのに気がついた。 
三姉妹を家に置いて下世話な本を取りに行ったと勘違いされたままではたまらない。 
今更感もあるが、ここで本当のことを話すことにした。 
「映画のチケットを昨日本屋の友人に頼んだんだ。で、その時にエの付く本を押しつけられてさ。だから勘違いするなよな」 

「別に男の人がそんな本の二三冊。……あれ、私何しにきたんだっけ」 
「エミがどうとか」 
「そうだった。ねえ、智也君エミに何かした?泣いてたよ」 
え!?と柄にもなくでかい声で反応してしまった。 
「泣いてたのか?」 
「うん。何か心当たり無い?」 
「いや、特に……」 
まさか、と頭の中の自分がぎくりとした。さっきの突き放すような言葉が不味かったのだろうか。 
「もしかしたら、あるかも」 
混乱してしどろもどろになる。それを聞いたハルナは何故か驚いた様子で、
「え?あるの?」 
と妙なリアクションを取った。 

「は?」 
「いや、ちょっとカマかけてみただけっていうか」 
お前な、と一言いってやろうとしたが、
「でも心当たりあるっていうのは、どうなのよ」
という強気な言葉にかき消されてしまった。 
「……実際に泣いてたのか?」 
「ううん。でもなんかしょんぼりしてた感じがしたからね。洗い物のすぐ後だったから、まさかと思ったわけ」 
結局俺の心当たりは外れてはいないらしかった。 
「そっか」 
正直その程度のことは予想していた。だが実際に聞いてしまうとどうにも弱ってしまう。 
徐々に元気になっていく姿が我が身のように嬉しかったのだ。 
改めて自分のしたことに反省するが、かといって夢を捨てた理由を話すことには直結しない。 
一人うんうん唸っているとハルナが得意気に口を開いた。 
「だから、ってわけじゃないけどね。私にいい考えがあるのよ」

「いい考え?」 
「実は明日エミの誕生日を祝うつもりなの」 
「今知ったな。俺にも教えて欲しかった」 
「決まったのはついさっきだもん。智也君が洗い物に行った後、お姉ちゃんと」 
「おいおい、いくらなんでもさっき過ぎないか」 
誕生日を祝うのならもっと前もって決めるものだろう。 
「本当は祝う気は無かったもん」 
「冷たいな」 
「そうじゃなくて、明日は誕生日じゃないの」 
矛盾した回答に頭をひねらせていると、ハルナは思い出したように、
「本当の誕生日は二週間後なの」 
と付け加えた。 

「ずいぶん気が早いな」 
「ほら、この家にいられるのも明日が最後でしょ?」 
それが何か関係あるのか、という顔をしていると、ハルナは落胆と驚きの混じった変なため息をした。 
「智也君がいる内にって考えたのよ」 
「俺?」 
「そ。エミは智也君のこと好きみたいだし、私達にしても家族みたいなものだからね」 
家族。その言葉を聞いて変な感慨が沸いてきた。嬉しいような焦れったいような、むずがゆい喜びだった。 
褒められてるけど手を挙げて自慢できない心境というか、そういう不思議な感情。 
「そういうことなら、分かったよ」 
うむと楽しそうに頷くハルナ。 
「でね、手伝ってほしいことがあるの。明日の午後、お姉ちゃんと二人で買い出しに行くからエミに気付かれないようにして」 
「気付かれないようにって、言うほど簡単じゃないだろ」 
仮に俺の部屋に閉じ込めたとしても広い家ではないのだ。物音で分かってしまいそうだが。 
「だからエミを外に連れ出して欲しいのよ」 

「なるほど。何時くらいに帰ればいい?」 
「六時くらいかな。帰ってきたらそのまま夕飯だから、外食とかはしないでね」 
それから、と胸ポケットをまさぐり始める。 
「ぶらぶらするだけじゃエミも可哀相だし、これでどうにかして。まさかゴジラ見せるわけにもいかないしね」 
はい、と一万円札を渡される。 
「こんな金どこから」 
失礼な話だが、彼女の境遇から考えてそんなに持ち金は無いと考えていた。 
境遇抜きにしても中学二年生が簡単に出せる金額ではない。 
「食費。あんなに貰ったんだから余るだろうってお姉ちゃんが。ついでに何かプレゼントも買ってあげてね。私達は別に用意するから」 

余った食費でみんなで遊びにいこうとユキに提案したとき、ちょっと迷ってから彼女はかぶりを振った。 
本当は行きたかったのかもしれない。でもそれを上回ってエミを祝いたいと言うのなら俺は喜んで従おうと思った。 
その考えには男女など無く、ただ家族だからという意識のみが働いていた。 
「よし、じゃあケーキとかよろしくな」 
「そっちは気付かれないようにね」 
二人で親指を立てて小さく笑いあった。 

よろしくねとハルナが部屋を出ていった後、俺はベッドに仰向けになってどうしたものかと腕を組んだ。 
学校が終わって家に戻るのは1時頃になる。エミを連れ出す時間が二時だとしても六時までは四時間ある。 
映画を観ても確実に時間が残るだろう。どこか時間を潰せる場所はないだろうかと頭の中の地図を行ったり来たりするが、都内から離れた県下の地方店というと主婦御用達の実用的な所ばかりで楽しめるところは無い。 
公園も考えるが時期的に少々寒いし一時間もいられはしないだろう。 
困ったな、と一人悩んでいてふと昼間の先輩の言葉がフラッシュバックする。 

ついさっきの話ではあるがこれはちょうどいいと思い、電話しようと身を起こした。 
子機を持ってきて先輩の電話番号をプッシュする。仕事で何度もしていたので電話番号は覚えていた。 
だがプライベートでの電話は初めてだ。なんだかやってはいけないことをするようで、 
変な例えだが、初めてピンクダイヤルに繋げる時の直前の気分と似た心境でベッドに座してコール音を聞く。 
「はいもしもし」 
出た声は先輩のものだった。 
「あ、斉藤です」 
「はあい。どうしたの、何かあった?」 
話をすると、ああそっち、と納得した。どうやら仕事の話だと思ったらしかった。 
「デートね羨ましい」 
「デート?」 
だってそうじゃない、と言われながらそういえばそうだと今更思う。 
外に出て時間をかけて連れ回す、という意識の方が強かった。 

「エミちゃんて中学生だっけ?ぎりぎりオッケーじゃない」 
「何がですか。……いや、いいです聞きません」 
電話口から豪快な笑い声がした。相変わらずビジュアルと似付かない。 
「映画観るって言ったわね。っていうと△△市?」 
「いえ、地元ですよ」 
「ええ?だってデートするならにぎやかな場所の方がいいでしょう?」 
「デートっていうより、何ですかね、妹とぶらつくってイメージなんです。あんまり力入れてどこに行こうって気はしなくて」 
「なによ、じゃあもう決まってるじゃない」 
つまらなそうな声に対して俺は疑問符を浮かべるだけだった。 
「ぶらつくんでしょ。それがそのまんま答えなんじゃないの?」 
「あ……」 
「傍から見ると無計画ってことかもしれないけど、それだけ気を許せる関係なんじゃない。楽しく過ごそうとか気張らずに、一緒に歩いてるだけで退屈しないような関係は、ちょっと羨ましいわ」

そういう考え方もあるのかと感心したが、下手をしたらエミをぞんざいに扱うことになりはしないだろうかとも思う。 
「でも考えも無しに出て、立ち往生なんてことになったら情けないですよ」 
「あら、斉藤君ってもしかして女性経験ない?」 
「ありますよ」 
「じゃあ失敗したのね。早かったでしょ、終わるの」 
人が気にしていることを躊躇無く言って捨ててみせるのも先輩の魅力だ。と思ってはいたが、さすがにこれは痛手だった。 
「本当にいい関係っていうのは無計画でも何とかなるもんよ」 
何事もなかったように当たり前に続ける先輩に、この人を乗りこなせる人っていないだろうなあと馳せる。 
大味とも言うべき性格だった。 
「でも上手く行くか分からないじゃないですか」 
「まあね。でも斉藤君としてはお店で楽しむよりエミちゃんと楽しみたいわけでしょ?場所探すだけ無駄って気がしたのよ」 

「ああ」 
ようやく自分の中で悟った気がした。どこかの店に行って、というのはエミを楽しませられなかった時の逃げ道だったのだ。 
しかし俺が望んでいることは違う。そんな余計な考えは必要ないことだった。単に自信と信頼の問題なのだ。 
「なんとなくですけど、分かりました。地元でぶらつくって意識が最初にあるんだから、変にセッティングするだけ野暮ですね」 
「そうそう。結局また私の助けはなかったわね」 
先輩の威厳はいつになったら、という嘆きが聴こえてくる。そんなことないですと言おうとしたがやめた。 
そういう距離感で満足だった。 

「ていうか自慢された気さえするわ。あー、私もデートしたいっ」 
「誘えばいいじゃないですか。待ってたって誰も来ませんよ」 
整って綺麗すぎる感もある人だったので、初見の人には近寄りがたい雰囲気はあった。 
人気こそあれ、表立った告白というものはあまり経験していないのだという。 
「いたらこんなこと言わないわよ。誰か素敵な人はいないのかしら」 
「俺でよければ老後は面倒見ますよ」 
下らない話がしばらく続いて、最後にお礼を言って電話を切った。 
何だかんだ言って頼りになる人だった。 

机に向かってさて勉強だと構え、結局読みかけの小説に手を伸ばす。 
読み終わってしまうと本格的に暇になってきた。勉強をやろうかなという気さえ沸かなかった。 
違う本でも読もうかと考える。そういえば昨日、本屋にエロ本もらったっけと思い当たった。 
家にいるのは自分だけではない、迂闊なことは出来ないのだ。と自分を戒めるも、一度沸き出た性欲は抑えられない。結局隠し場所である机の引き出しから例の紙袋を取り出した。 
聞き耳を立てて近寄ってくる気配を探る。下の部屋からテレビの音が聴こえるだけだった。 
やや興奮気味だったせいか、これは今しか!と変に高いテンションで机の上に本を出す。 

手にしたのはハルナが昨日読んでいたものだった。最初のページこそまだ綺麗な裸で済んでいるが、後半に進むにしたがってアダルティックな写真が増えていく。それこそ白濁液だったり噴水だったり色々だ。 
ハルナがここまで読んでなくて安心する一方で、読んでたらどんな顔したのか興味も沸く。 
とんとんとん、と階段を上る音が聴こえてきた。 
本に集中していたために、下の部屋から出てくる音を聞き逃してしまっていた。 

しまったぁ!と慌てて左右を見回した。 
元あった場所に戻そうとすると引き出しの奥の、そのノートの下に入れなければならない。 
手間がかかるので隠すところを見られてしまうだろう。さらに雑誌サイズ三冊である。容易に隠せるところは無い。 
落ちついていれば機転も効いたのだろうが近づく足音に頭の中は混乱の極みとなる。 
とにかく「見られてはいけない」という考えのみが残り、結果雑誌の上に自分が被さるという、さながら勉強に疲れて寝てしまったようなポーズを取ることにした。 
今にして思えば綱渡りとしか思えない。なにせ少しでも動けば写真なり卑猥な言葉なりが見えてしまうのだから。 
こんこん、とノックされて心臓が高鳴る。この時点でハルナではないのが確定した。見つかった場合、笑えない。 
「CD取りにきたんですけど」 

エミの声だった。最悪のパターンだ。 
思うにこの時「ちょっと待って」とか言えばよかったわけだが、既に寝たふりを始めている俺には考えつかないことだった。 
人間、極限状態になると攻めを忘れて守りに入るものだ。 

「あの、智也さん?」 
もう一度ノックの音。それからややあって、ぎいとドアの開く音。 
「あ……」 
俺の姿に気付いたらしい声を上げる。俺はさも寝ているかのように深い呼吸で身体を膨らますことを必死にやっていた。 
しばらくして静かになった。部屋に入ろうか迷っていたのだろう。 
鼓動の高鳴りに乗って深呼吸が早くならないよう気を付けながら、胸の下のエロ本が見えてないことを祈るだけだった。 
エミの移動する気配がした。後ろを歩いている。 
それからCDコンポの開閉音がし、ケースにしまうプラスティック独特のかちゃ、という音がする。 
だがそこからエミは動かない。ぼふ、とベッドに重いものが落ちる音が、いや座ったらしい。 

エミはベッドに腰を下ろし、俺の背中をじっと見ているといったところか。 
気付かれた?と思ったがそれでも寝たふりを止めるわけにもいかずひたすら深呼吸。どんなに待っても動く気配は無かった。 
閉じ続けたまぶたの筋肉に違和感を感じたところで、階段を駆け上がる音とドアの開く音がした。ノックは無い。 
「うわ、なんだこの部屋!」 
ハルナの素っ頓狂な声がした。 

うるさいなあと俺は思わず身じろぎしてしまう。しかしエミに動きはない。心配になって起き上がる。 
見るとエミはベッドの上で横になっていた。気持ち良さそうに身体を曲げ、吐息に合わせてゆるやかに肩を上下させている。 
「寝てたのか……」 
ほっと一息。 
「そっちもでしょ。昼間っから二人そろって寝てるもんだからびっくりしちゃったよ」 
「まあ、そうか」 
説明するのは面倒だったのでやめた。机に広がった本をそそくさと片づける。ハルナがにやにやした視線を投げかけてきた。 
「すけべ」 
ハルナの言葉は無視し、エミが寝てる間に机の本棚に背表紙が向かないように入れる。 
最初からこうすればよかったんじゃないか、と考えても後の祭だ。 
「枕の下に夢で見たいものを入れるって話は聞くけど、枕にする人は初めて見た。どうだった?見れた?」 
「お前も試してみりゃいい。で、何か用か」 
「用?別に。エミがいないからここにいるんじゃないかと思って」 

「それだけか?」 
「だって暇なんだもん。外出だってそんなにするわけにいかないし。変でしょ?ここの家の子じゃない女の子が出たり入ったりしてたら」 
事ある毎に三姉妹の誰かが俺の部屋に入ってきていたのはそういうことだったのかと知る。 
ゲーム機も部屋主がテスト勉強していることになっているので使えない。そうなるとやることも無いだろう。 
「そういや初日はぷよぷよやってたなお前」 
「おばさんがいいって言ってくれたからね」 
「やるか?」 
いいの?と目が輝いたが、 
「でも勉強の邪魔しちゃ悪いし」 
と自制するように首を振った。 

「いいよ。どうせエの付く本広げる余裕があるんだから」 
「そういえばエミに見せたわけ?」 
「違うよ。見せまいとして、まああんな格好してたわけだ」 
「馬鹿だなあ」 
笑って「じゃ、ちょっとだけやろうかな」と頷いた。 
「将棋の時のようにはいかないぞ、俺は」 
しばらく並んで遊んでいるとユキが部屋に入ってきた。またこの子は勉強の邪魔をして、と言い出しそうだったので 
「いや、明日は教科少ないから。佐藤さんもどう?」 
とコントローラーを差し出す。最初は渋っていたが、一回だけだからと誘うと、後は部屋から出なかった。 
ハルナとユキの姉妹対決をベッドに座って眺める。はっきりと分かれる腕前ではないので白熱した。 
騒がしくなってきたせいか、目を覚ましたエミが上半身を起こした。二秒ほど俺の顔を眺めてから、
「ご、ごめんなさい」 
と謝った。 

「勝手に寝ちゃって」 
「あーいいよ。俺も寝てたみたいだし」 
あ、起きたわねとハルナが画面から目を離さずに言った。 
「エミも参加よ、順位付けるから。次、智也君とね」 
「ハルちゃん今何位なの?」 
「二位。でもお姉ちゃんに負けたら三位」 
「まあ三位確実だろうけどね」 
姉がふざけた調子でからかう。負けるかーとハルナは意気込んだが結局言う通りになってしまった。 
「今度はエミよ!」 
悔しそうに俺とエミにコントローラーを渡す。エミが負ける前提で「智也君の次は私とだからね」と伝えた。 

しかし俺のやり方はひたすらに右隅に積み上げていく方法(邪道ともいう)だったので 
偶然を味方に付けないかぎり勝機は無い。運がよければどんぶりー(最上級。だっけ?)にまで発展するが、 
酷いときはふぁいやー(二連鎖)すらいかない。 
そして運はエミに味方した。派手さは無いが堅実に攻めてくるエミに敗退する結果となった。 
最終的にはエミ・ユキ・俺・ハルナという順位で確定する。 

悔しそうにハルナがユキにリベンジを申し立てた。ユキもやれるものなら、と挑戦を受けて立つ。 
「二人とも大人げないよな」 
エミに笑いかける。プレイする人間はカーペットに座る形だったので、俺とエミはベッドの上から眺めることとなる。 
「そうですよね」 
ふふ、と笑うエミにハルナが突っかかった。 
「エミは一位だからそんなこと言えんのよ」 
それきり画面に釘付けになってしまう。勝者の余裕か、エミは笑って「頑張ってね」と意地悪く言う。 
気付くと、俺の部屋で三人は楽しそうに時間を過ごしていた。 
部屋に来ることはあったが三人揃うのは初日以来だと思い至る。 
なんで今更気付いたんだろうと思ったが、それだけ彼女たちが自然な存在になったのかもしれない。 
三人この家にいるのが当たり前。そう思えるようになり始めていた時期だった。 
そういう矢先に、彼女たちはこの家からいなくなるのだ。

昨日と違い学校に残ることもなかったので一時前には家に着いた。 
着替えてからリビングに行くとハルナがスパゲティを用意していた。 
「今日も二人で作ったのか?」 
「残念、私だけです」 
席に着いてと促されそれに従う。ハルナ手製のスパゲティを囲んでどうでもいいような世間話をしていると、テーブルの下でハルナの足が触れた。 
何かの拍子に当たってしまったものだと思って無視していたが、次第に蹴り飛ばすといった動きになってくる。 
「何だおい」 
「智也君は今日どうするの?」 
「はあ?」 
人を蹴っ飛ばしといてどういう了見だと思ったが、彼女の焦れったそうな目を見て納得した。 
今言うのかよ、と思ったがエミの前で「何もない」なんて言えない。 
仕方なしに「あ、ソウイヤア」とくさい芝居をすることにした。 

「ちょっと買い物があるなァ」 
「あら大変、一人で大丈夫?」 
何が大変なのかと軽くハルナをねめつける。もうちょっとマシな台詞もあるだろうに。 
「いや駄目かもしれないな。誰か一緒に来てくれると助かるな」 
「じゃあエミ、ついてったりなさい」 
強引ともいえる会話の軌道にエミも「え?」と眼を丸くする。隣で姉が心底呆れたような表情で俺とハルナを眺めていた。 
「何、突然?」 
「べ、別に突然なんかじゃないわよ。洗い物は私とお姉ちゃんでやっておくから、智也君の買い物を手伝ってきなさい」 
ほらと小突かれ俺も「頼めるかな」と手を合わせる。 
なし崩しに「まあいいですけど」という了承を得ると、ユキがため息をついた。 
昼食を終えて部屋にいったん戻る。部屋着から私服に着替えてサイフの中身を確認し 
どう時間を潰そうかと頭の中の地図を引っ張りだそうとして、先輩の言葉を思い出してやめる。 
地元だし地理的な問題なら何とかなるだろうと家を出た。秋晴れと言うべき静かな空だった。

「いい天気ですね」 
「でも女心と秋の空、なんて言葉もあるしね。分からないよ」 
なんですかそれと可笑しそうに笑って空を仰いだ。 
「私ばっかり悪いなあ」 
「悪い?」 
「智也さんを独り占めしてるみたいで」 
今度は俺がなんだそりゃと言う番だった。 
「別に俺みたいなのが横にいたってなあ」 
「いえ、嬉しいですよ」 

屈託のない笑顔だった。どういう意味の嬉しいなのか検討がつかなかったが、かといって聞き返す男気も無い。 
単純に懐いているだけの発言なのかもしれないが、俺はこの時初めてエミに女を感じていた。 
「……変なこと言っちゃいました?」 
エミがおずおずと声をかける。気付くと俺は黙り込んでしまっていた。 
「いや、俺も嬉しいよ、嬉しい」 
気恥ずかしいのを隠し、ひとしきり頷いて空に目をやる。ことわざが頭に浮かんだ。隣でエミは何を考えているのだろうか。 

「今日は何を買うんですか?」 
「え?ああ」 
並んで歩いていると程よい所にエミの頭があった。撫でたくなる位置だ。髪の分け目に何とも言えない可愛らしさを感じる。 
「とりあえず、そうだな。駅に行くか。あそこなら色々揃ってるし」 
名前は失念したが、駅にくっついている大手の百貨店の名を挙げた。映画館も駅の近くにあるのでちょうどいい。 
考えながら、そういえば生徒会室に予算をまとめておくファイルの数が少なかったなと思い出す。 
「生徒会のもので足りてないのがあるんだよ」 
「へえ、そういうのって智也さんが買うんですか」 
「いや、誰でもいいんだけどね。ただ俺の仕事で入り用だから俺が買わないと悪いし」 
ただでさえ仕事遅れてるしなあ、と少しへこむ。 
先生ならまだ理解があるが三年の副会長(男)が小うるさかった。悪い人では無いのだが。 
「責任感があるんですね」 
「面倒って気持ちの方が大きいかな。人に頼むのが面倒。領収書を受け取って印を押すのも面倒。物品の確認をするのがなにより面倒」 

特に年末には買いだめをして怒濤の数の事務品が届くので、別室と呼ばれる生徒会室の小部屋で一人黙々とやらねばならない。そんなようなことを言って、
「気がおかしくなる」 
と大げさなため息をついた。 
「でも任されてるわけでしょう?お金のことで信頼されてるのってすごいですよ」 
現在は会長の魅力で会員も定員の六人だが、それ以前は前会長の見てくれ(睨みが怖ェ)で四人しか集まらなかった。 
会長・副会長は予算の担当になってはならず、後輩の俺がやらざるを得なかったというのが実情である。 
信頼より規則・運営を第一においた結果だったわけだが、わざわざ言う気にはならなかった。 
「まあ俺も生徒会の中じゃ古参だからな」 
ふふんと偉そうにふんぞり返るが、拍手をするように手を合わせ「すごいです」と言うエミに逆に恥ずかしくなった。 

「お父さんはお金のことに無頓着だったので、そういう男の人って何か新鮮です」 
どっちの、とは聞くまい。 
「エミちゃんだって料理は出来ないだろ?男だから、女だから、っていうのは違うよ」 
「こ、これから勉強します」 
俯いて反省する姿が可笑しくて「頑張れよ」と背中を叩いた。 
「……今度、もしまた会えたら、ホットケーキ作りますから」 
俯いているためエミから表情は読み取れない。 
「その時には美味しいって言ってください」 
顔を上げる。優しい表情だったが物憂げだった。 
改めて彼女と過ごす時間は少ないのだと知った俺は、「ん」という肯定を表す短い言葉を発した。

本当なら買い物の前に映画の話をするべきだったが、結局切り出せないまま百貨店の文具コーナーに入った。 
場所は分かっているので真っ直ぐ目的の物が売っている場所に行く。 
「20も買えば間に合うだろうけど」 
紙製のちゃちなやつなので、買ってもかさばって邪魔になることはない。 
どうせ来たんだし他にも何か買ってくかなあと辺りを見回す。エミがクリアファイルを楽しげに眺めていた。 
「これ可愛い」 
手にしているのはミッキーの愛犬、あの黄色いやつがプリントされているやつだった。 
「俺はこいつが好きかな」 
「ドナルドですか」 
「スクルージ小父さんが好きなんだけどね、本当は」 
「ああ、あの三兄弟の」 
「小さいころ大好きでねえ」 
ダックテイルというアヒルを主役に置いたアニメの登場人物で、金持ちなのでコインの山の中で泳げるんじゃ、と華麗な背泳ぎを見せる老アヒルだった。 

「最近のディズニーでもドナルドとか出てるの?」 
「今はアラジンっていうのやってます」 
「そういえばCMで見るな」 
アラビアンナイトを原作にした、アラジンと魔法のランプの話である。 
舞台がアラビアということで登場人物の顔も他ほど濃くは無いディズニー映画だ。 
「あれ観たいんですよね」 
「女の子ってディズニー好きだねえ」 
「だって夢があるじゃないですか」 
男の夢といえばドラゴンボールだなあと言いかけて、映画という言葉に今更反応した。きっかけってぼた餅だ。 
「よし、じゃあ観に行こう」 
「え?」 
「アラジン。金のことなら心配すんな」 

クリアファイルを片手にしばらく呆然とするエミ。 
「いっ、いいんですか?」 
「何が?」 
「だって……迷惑かけちゃ、お世話になってるんだし……」 
俺に、というより自身に対して答えているような口調で言った。 
「おいおい、俺を家族だと思うならそういう台詞は寂しいな」 
「……ごめんなさい」 
「ほらまた」 
「ご、ごめんなさい」と言って口に手を当てる。 
「謝るより笑ってる方が人生楽しいぞ。悲しい時も苦しい時も笑うとさ、空元気も本当の元気になる」 
「本当の元気」 
おうむ返しをして俺を見る。 
「うん。昔仕事で困ってた時「嫌なことでも笑ってればいくらかマシになる」ってね、前の会長に言われた」 

「でも、笑うのって本当は難しいですよね」 
「そうなんだよなあ。俺も「そんなん難しいです」って答えた。そしたら「そういう気持ちだけでも持ってると変わるもんだ」って言われたな。その後「無知の知だ」とも。 
どういう意味かは分からないけど、心に残ったよ」 
世間では不良と呼ばれる側の人間だったかもしれないが、そこらの人よりよほどしっかりしていたと思う。 
外見はともかく会長職をこなす力量をもった人なのだ。しかし校長は暴力という面だけで前会長を評価し、辞めさせた。 
世話になったことを思い出して軽い感傷に浸っていると、エミが耐えきれなさそうに吹き出した。 
「え、なに」 
「無知の知、っの意味って」 
「「知らないということに気付くという進歩」みたいな意味だよね」 
「そうです、けどその人は」笑って「「無知に知を授けた」ってニュアンスで使ってる気がするんです」と続けた。 

聞いて、感じていた違和感ががちりとはまった気がした。 
心に残る名言だと思っていたのに、実は馬鹿にされていたらしい。 
官僚だと豪語している父親が昼間の公園で鳩にエサをあげているのを目撃したような心境でしばらく突っ立っていた。 
「笑っちゃいけないとは思うんですけど」 
「あーいや、謝んなくていいや」 
事実が何であれ、それでも心に深く刻まれた言葉である事と、目の前でエミが笑ってくれている事には変わりない。 
大事なのは現実を笑い飛ばしても否定しないこと。そう言っていたのだ。 
「でもいい言葉だと思います」 
「俺もそう思う」 
収まったらしい笑いを落ちつけるようにふう、と息をついて、
「やっぱり観せてほしいです、映画」 
言ってからためらい無く俺の手を握った。 
その柔らかい感触にどきっとしたが、多分俺の考えてるようなことは彼女の中に無いだろうなと思う。 
ぐい、と引っ張って一歩踏み出すエミ。しかしその場に止まって、
「ファイル買ってきていいかな?」と俺が訊ねると手を離してしまった。 
惜しいことをしたなと思いながら必要量の事務用ファイルをカウンターに持っていった。

映画館への道すがら、エミが俺の片手にぶら下がった買い物袋を見て 
「少ないんですね」 
と呟いた。 
「い、いや。映画観た後にまだ買うつもり。邪魔になるだろ」 
「そうなんですか」 
納得するとしばらく会話が途切れた。別に気まずい気にはならなかった。先輩の「気張らない関係」という言葉を思い出した。 
「天気はいいですけど、ちょっと寒いですよねえ」 
手の甲を摩りながら俺を見上げる。 
「そうだな。もう冬も近いのかね」 
「私寒いの苦手なんですよ。冬はずっとこたつの中がいいです」 

コートのポケットに手を入れて肩を狭める。それから猫のように俺にすり寄ってきた。 
「袋持ってる手、冷えてませんか?」 
「まあ寒いっちゃ寒いかも」 
「持ちますよ。そういうつもりで来たんですし」 
「ん?いいよ、映画館もすぐそこだし」 
「じゃあ」 
袋を持っている側に回ってエミは俺の手を掴んだ。手を握る、という感じではなく俺の手の甲を覆うように触れてきた。 
冷えた手に温もりが伝わってほっとする。 
「これで私も持ってると思いません?」 
いたずらっぽい、この年齢特有のあどけなさと妖しさの混じった笑顔だった。

事前に時間を調べていなかったので、劇場に着いたのは上映開始30分前。 
まだ前の回が流れているので場内には入れず、待合室の座席にて待つ。 
平日の昼間ということで人も少なかった。これなら立ち見はないだろう。 
想像通り、前の回が終わっても人が増えることなくいい席を確保することが出来た。 

アラジンという映画は要約すると、盗賊(義賊?)の一人であるアラジンが、魔法のランプを手に入れたことで魔人に三つ願いを叶えてもらえるようになる話だ。 
並行してアラジンと宮殿の姫君ジャスミンとの恋話もあり、ミュージカルな歌も入り、
良くも悪くもディズニー映画な感じであった。 
まあコメディが四割占めているので、暗い劇場内から子供の無邪気な笑い声がしたりする。俺も素直に楽しめた。 

「楽しかった?」 
「よかったです」 
幕が閉じて明かりが点く。まばらな客がいなくなっていくのが目に入ったが、映画は余韻が大事だと思っているので、俺はエミが立ち上がるまで動く気はなかった。 

「魔法のランプがあれば色々楽できそうだよな。俺としては予算を手伝って欲しい」 
「なんか現実的ですね」 
へこんだふりをする俺を見てふふと笑う。 
「エミちゃんは何かそういう願いある?」 
「イアーゴが欲しい、かな?」 
イアーゴとは劇中でアラジンの敵方に付いていた口の悪い赤色のオウムだった。 
「ええ?だって……。何がいいの、あれ」 
騒がしいところはハルナに似ていると言えば似ているが。 
「なんだか憎めないじゃないですか。可愛くて」 
「そうかあ?」 
「ああいう友達がいたら楽しいですよ。それにほら、鳥なら飛べるでしょう?」 
エミが右手を鳥に見立てて天井にかざし、俺も目をやる。 
「私がどこに行っても、ずーっと一緒にいられるじゃないですか」 
「文句言いながら付いて来そうだけどな」 
「それでも一緒にいられるんですもん」 
ね?と言われて「まあ」と曖昧な返事をする。そこで鳥は手になり、彼女のひざの上に戻った。 
「だから魔法のランプが手に入ったら智也さんを鳥にします」 
冗談にしてもエミらしかぬ発言だなと思いながら、自分が鳥籠に入れられて飼われている想像をする。なんとも滑稽な図である。 
「そうなったら優しくしてな」 
苦笑いしながら「そろそろ行こうか」と腰を上げた。 

映画館を出たはいいが、さてどうするかと頭を捻る。 
時間は30分余裕があるといった程度で、あまりふらふらする時間も無さそうだ。プレゼントって何やりゃいいんだろうか。 
四つ年下の女の子がもらって喜ぶ物なんて想像がつかなかった。先輩に聞いておけばよかったと思うが、それでどうなるものでもないかと改めてその難しさに頭を抱えた。 
イアーゴが欲しいと言っていたが、まさか鳥を買ってやるわけにも。 
「魔法のランプがありゃな」 
「まだ言ってる」笑って「そんなに楽しかったですか?」首を傾げて言った。 
年齢差のある男女が映画を観た後の会話としては、普通は逆だ。 
「どんな悩みでも解決してくれるランプなら誰だって欲しいよ」 
「へえ智也さん、悩みがあるんだ」 
繊細だからな、と馬鹿なことを言ってみる。 
「じゃあ私がランプになりましょう。その悩み、打ち明けなさい」 
ふふふと妙な笑いを浮かべながら珍しくエミも冗談に乗ってきた。 
質問も冗談と思われてしまう空気だ。俺はこれに乗っかることにした。 

「実はですね、隣の女の子が今欲しがっているものを知りたいのです。あ、鳥は無しな」 
外から見ればただの馬鹿だろうと我ながら思うが、人は酔うと馬鹿をしてもあまり気にならなくなる。 
俺とエミは映画の余韻に酔っていた。 
「わ、わたしですか?」 
ランプだろ、と言うと慌てて身なりを正し、
「答えましょう、えーと」 
しばらく悩んでから威厳のないランプはぽんと手を叩いた。 

「本が欲しいです」 
「へえ、漫画とか?」 
「いいえ。欲しいのはその、……料理の本、とか」 
終わりの方が小さい声で聞き取りにくかった。 
「料理?」 
はっきりそう言いなおしてやるとエミは一層小さな声になった。 
「下手ですから、勉強したくて」 
それから恥ずかしそうに顔を背けてしまった。ランプという肩書はもはやそこにない。

「本かあ」 
そんな様子を尻目に考える。料理の本をプレゼントって、ありなんだろうか?むしろ嫌味にしかならないような。 
「とりあえず、本屋に行くか」 
時間もそんなに無いことだし、元々無計画でここまで来たのだ。 
今更考え込むのもおかしな話だと思い、え?と驚くエミを引っ張って足を進めた。 
この時自然と手が伸びていて気付いたのは百貨店の本屋に入る前、握手した右手が汗ばんでからようやく知ったのだった。戸惑って力が抜けると合わせるようにエミの手も緩まる。 
「あの辺にあるはずなんだ」 
本のコーナーを指差すふりをして握っていた手を離した。 
どうも気恥ずかしかったし、本屋で手をつないで歩く馬鹿もいないだろう。 
示したコーナーに着くと、そこには似たような雑誌がずらーっと並んでいた。 
比べるようにその棚を見つめるエミを脇に、俺は何が違うんだろうと一人惚ける。 
自分が読む本は専ら小説かエロ本なのでこういうジャンルは新鮮だった。 
振り向くと後ろには表紙が鮮やかな女性誌が並んでいる。 

セレブ的というか、出来る女系のオーラがにじみ出ている表紙が俺には物珍しかった。 
「智也さん?」 
「ん?決まった?」 
視線を戻した俺を見てから、俺が見ていた棚に目を向けた。 
「いやらしいですね」 
薄ら笑いで以て再び俺を見る。 
「へ?」 
もう一度振り返って棚を眺めてみた。みんな服を着ている。時々俳優が混じってはいるが全裸な人は一冊も無い。 
やだなあもうといった友人然りな雰囲気の視線を浴びせてくるが、俺には全く意味不明である。 
「やらしいって、え?」 
裸もアレもソレも無いよと言いかけて、合点がいった。 
「……これがやらしいと。あっはっは、なるほどなるほど」 
わざとらしい笑いを上げて馬鹿にするようにぽんぽんと頭の上に手を乗せる。 

「可愛いもんだ」 
「え?ちょっ、なんですか?」 
うあと頭を伏せるエミ。 
「まだまだ子供ってことだ」 
「子供じゃないですよう」 
その台詞が子供の証だー!とか言ってやりたかったが、それも阿呆らしいのでへいへいと適当に頷く。 
「で、どうかした?」 
「子供なんかじゃ……」 
「はいはい、悪かったよ」 

さっきの子供発言を気にしながら渋々といった感じで二冊の料理雑誌を差し出す。 
「どっちがいいと思います?」 
片方は小綺麗なおばさんがにっこり笑っていて下に○○先生レシピとか書いてある。 
もう一方は、特に語るところのない普通の雑誌だった。 
「どっちって言ってもなあ」 
料理なんて究極的には口の中で美味けりゃいいんだから。そう思いながら交互に雑誌を見比べる。 

「強いて言うなら、このおばさんが何か胡散臭いんで、こっち」 
「あの、せめて中身見ましょうよ」 
仕方なく中身を検めることにした。そんなに料理に詳しいわけではなかったが、ぱらぱらペ−ジをめくった感じではおばさんのレシピは注文が細かい気がした。 
確かに料理は美味そうだったが難易度も高そうだ。変わってもう一方の地味な方は、表紙同様地味な内容だがエミが作るという話なら。 
「やっぱりこっちじゃないか?」 
「……本当ですか?」 
さっきの選び方がまずかったのか疑いの眼差しを向けてくる。 
「本当だって。おぼさんの方はちょっと難しそうだろ。料理は基礎が大事だって聞くし、変に背伸びしないでこういうベーシックなやつの方がいいよ」 
「そうですか、それじゃあこっちのを買ってきますんで」 
「ああ、ちょっと待って」 
レジに向かおうと振り向いたエミの肩に手をやる。 

「何ですか?」 
「……俺に買わせてくれないか。エミちゃんへの誕生日プレゼントとして」とか気の効いた台詞でも言えればよかったんだろうけど、とても無理だった。 
「その、俺も欲しい本あるからまとめて買おうよ」 
本屋をうろついた結果、買ったのは当時気になっていた「羊たちの沈黙」の翻訳本であった。 
料理本とサイコホラーを重ねてレジに出す。羊たちの沈黙といえばレクター博士が有名だが、この博士は人体の一部を料理して食べるので知られている。 
そのことは後で知ったがなんていうか、店側からすれば悪い冗談だったに違いない。 
とりあえずその場では俺が金を出しておいた。 
払います、というエミに家でなと誤魔化して家に帰る。正式な誕生日プレゼントを買えないまま。

家に帰るとハルナとユキがクラッカーを待機させていた。 
エミがリビングに入った途端、乾いた音が二つ鳴る。それに合わせてエミの体が飛び上がった。俺もちょっとびびった。 
「え、何?何これ?」 
二人の奇行に驚いて、俺に助けを求めるような目で「何ですか?」ともう一度聞く。 
こういう日の常套句を言おうとしたが、その前にハルナが口を開いてしまった。 
「誕生日おめでとー!」 
「私の誕生日?まだ一ヵ月もあるでしょ?」 
「一ヵ月?」 
今度は俺が驚いた。 
「いいのいいの。どうせ今夜がこの家にいられる最後の日なんだから、何でもいいからきっかけが欲しかったの」 
からからと笑うハルナに「お前二週間早いだけって言ってなかったか」とストップをかける。 
「ほら、智也君も乗り気にならなかったら嫌じゃない」 
俺に同意を求められても。 

「それに、やっぱ智也君と一緒に祝いたいってのはあったしね。ほうら、もう一発!」 
ぱんと言う音の後に紙テープが俺に襲いかかった。 
「うお、この」 
負けじと俺も一発打つ。蜘蛛の糸にかかったようなハルナは嬉しそうになって、
「やっぱ男の兄妹がいるといいねえ」とか言いながらはしゃいだ。 
「ほら、ハルナ。主役を置いてけぼりにしないの。智也さんも」 
ごめんなさいと揃って謝る二人。ドアの前で立っていたエミが笑った。 

宴もたけなわ、という言葉が当てはまるかは分からないけど、その日は遅くまで四人で話を続けていた。 
くだらない話を、あの宴会独特の雰囲気というか、少しだらけた感じで話し合っていた。 
疲れていたらしいユキがソファで休んでいる内に、かくんかくんと首が怪しく揺れしだしていた、そんな頃の話だ。 
「そういやエミは智也君に何買ってもらったの?」 
突然何の脈絡もなく言ったハルナの質問に、俺の心臓が高鳴った。 
「え?ああ、そうだ。智也さんにお金渡さないと」 
エミが思い出して財布を取り出す。なんていうか、誕生日の主役に一番やらせちゃいけない行動だろう。

さすがにハルナも呆気に取られていた。 
「いや、その何て言うか。……買えませんでした」 
テーブルに手をついて土下座っぽく謝ってみせる。 
「え、そうなの?じゃあエミが財布出してるのは何で?」 
エミが二冊の本を卓上に出した。料理の本と、羊たちの沈黙。 
「さーいてー」 
「いやいや、こっちは俺のだ」 
焦りながら片方の本を手にした。どっちにしろ最低かもしれんが。 
「……本当に買ってないんだ。智也君、そりゃ駄目だよ。甲斐性なしだよ」 
甲斐性はともかく他は言い返せなかった。ううと唸る俺を見てハルナは溜め息をついてからエミを眺める。 
「エミは?いいの?」 
「別に私はいいよ」 
ひらひらと手を泳がせるエミ。我慢してとかでなく、本当によさそうに見えた。 
まあ言ってしまえば誕生日一ヵ月前なわけだし。 
「今なら何でも言うこと聞いてくれるかもよ?」 
「やれることならな」 
ハルナの言い方にちょっと不安を感じたので、事にならないよう口を挟んでおく。 
しかしその言葉に触発されたのか、何か閃いたような顔になってそれじゃあと口を開いた。 
「一緒に寝てもいいですか?」

「……あんたも大胆ね」 
ハルナの唖然とした言葉にまばたきをするエミ。 
「大胆?」 
「女の子がそういうこと言うもんじゃない、って言ってるの」 
「そうなんですか?」 
くるりと俺に向かって、不思議そうに視線を送る。性の知識はあれど知識だけ、ということなんだろうか。 
落ちついた子というイメージが今まであったが、時々無防備というか子供っぽい振る舞いをすることはあった。 
もしかすると本当は幼いのかもしれない。 
「いや、まあ。どうなんだろう」 
そんな考えが頭を廻っていたのではっきりと答えが出せなかった。 
断るのも悪い気がしたし喜んで承諾することも出来なかった。 
「別にいいんじゃないの」 
「お姉ちゃん?」 
ユキが眠そうな顔でぼんやりとそう言った。 

「だ、だって??いいの?」 
「もう一緒に寝てるんだから、今更でしょ。それに智也さんは信用できます」 
言い分はもっともだと思う。だが理屈と事実は時々噛み合わないもので、心境的にブレーキがかかっていた。 
姉の話を聞いて尚驚いているハルナと俺は同じ気持ちだった。 
「智也さん次第でしょうけど」 
姉の言葉に二人が俺へ視線を向ける。何も言わず、俺の口が開くのを待っていた。 
「……別に俺は、いいよ。けどさ、エミちゃんこそいいの?」 
「何がです?」 

そう答えるのは分かっていた。分かっていたのだが、何かに抵抗するような心境でそう言ったのだった。 
自分でもエミに対して強い衝動を常に持っているわけじゃないから大丈夫だと思う。 
しかし、言葉にできないひっかかりが、悶々とした形になって心に居すわっていたのだ。 
「何が、ってわけじゃないけど」 
「もしかして寝癖ですか?」 
「ああ、エミは酷いからね」 
ハルナが可笑しそうに声を上げる。 

「ハルちゃんだって」 
「お姉ちゃんもね。私らみんなそう」 
「ちょ、ちょっと待ちなさい。勝手なこと言わないの」 
そこから批判合戦が始まった。誰が悪くて、誰にどこを蹴っ飛ばされただの、聞いて呆れるような話だった。 
ハルナがエミの抱きつく寝癖を解説してくれたところで俺はため息をついた。 
「分かった、分かったよ。別に寝癖なんてどうでもいい。ちょっと恥ずかしかったんだ。喜々としていいよなんて言ったら、変だろう。その代わり何故そんなことを言ったのか教えてくれないかな」 
その答えは単純なもので、エミは当たり前だと言わんばかりの顔だった。 
「すごい落ち着いて寝れるんです」 
「え、なんで?」 
「なんでって、ううん、分かりません。でもほら、昨日も智也さんのベッドでCD聴かせてもらってたら急に眠くなるし」 
寝心地がいいんですよと笑顔で話す。それを聞いたハルナは ん?となって、
「つまりベッドがいいってことなわけ?」と聞いた。 

「そうかもしれないし、違うかもしれないし……」 
はっきりしない態度にハルナはどうでもよさそうに続ける。 
「なにそれ。じゃあ別にエミと智也君の寝床を交換するってのでもいいわけね」 
それは困る。ハルナとユキに挟まれて寝るなんて、それこそ倫理的にまずい。 
「それは、困る」 
口を開いたのはエミだった。打って変わって、はっきりとした口調だった。 
「夜に一人じゃ寝れないよ」 
「……ああ、そうだね、ごめんね」 
俺はその時てっきり子供っぽいと笑い飛ばすものかと思っていたが、ハルナは慈しむようにして目を伏せた。 
また父親絡みの話なのかもしれなかった。 
「じゃあよろしくね、智也君」 
「あ、ああ」 
いいとも言ったし実質何も悪いことは無い。しかし何かが釈然としないまま、俺は就寝を待つこととなった。 

その晩は四人一緒に二階へと移動していった。 
それじゃあ、とユキとハルナは俺に妹を託して自分たちの寝室へと入ってしまう。 
引き戸の閉まる音がむなしく廊下に響いた。 
本当にいいのか、という思いのままエミを部屋に入れてやる。 
隣の寝室から持ってきた大きめの枕を抱くようにしてエミは部屋に入った。 
ピンク色の薄い生地の寝間着を身につけていたので、後ろからでも子供然りの華奢な体型がよく分かる。 
とても女と呼べるものでは無かったが、かといって完全な女児というわけでもなかった。 
どちらともいえないアンバランスさが魅力なのかもしれない。 
「うう、寒いですね。早く布団に入りましょうか」 
寒そうに身を縮ませて肩ごしに俺を見る。その様子に緊張は微塵も感じられない。 
意識しているのは自分だけだ。前回と同じようにベッドの奥に先に入ってもらい、後から俺が入る。 
エミの向こうは壁だ。一見、追い込まれた小動物に見えないこともない。手を出すのは赤子の手をひねる以上に容易い。 

「智也さん智也さん」 
暗い考えがうろうろしているところに、ふふと笑って、
「二回目ですね、ここで寝るの」 
楽しそうに身体をこちらに向けた。その様子に俺は毒気が抜かれる。 
「……寝心地がいいって言ってたけど、やっぱこのベッド寝やすいの?」 
「そうですね、何ていうか、いい匂いがするんですよ」 
匂い?という俺の質問に手をぱたぱた振って続ける。 
「あ、いや。いい匂いってわけでもないんですけど??ああ、臭いとかでもないですよ? 
お父さんみたいな匂いがして、いえ全然違うんでけど、なんて言うか」 
色々と言葉を探してから観念したように「違うけど、似てるんです」と抽象的なもので落ち着いた。 
「お父さんって、エミちゃんの本当のお父さんの方?」 
「はい」 
「……そのお父さん、歳はどのくらい?」 
高二の俺にしてみればかなり気になる情報だった。年齢によっては、ちょっと体臭に気を付けねばなるまい。 

「私が小学三年生だった頃で30歳でした」 
「そりゃ若いね」 
少しほっとする。 
「ってことは今34歳なのかな」 
「いえ、もう死んじゃってて」 
別れた父親の「今」なんて話題にするのも軽率だったが、父親の今を知らずにそんな話題を振るのはそれ以上に軽率だった。 
「そうなんだ、ごめん」 
「いいえ、三年生の時のことなんてそんなに覚えてないですから。あんまり実感ないんですよ。いなくて当たり前、みたいな」 
裏のない笑顔で答える。気の毒だなんて考えちゃいけないんだろうけど。 
「だから感覚的に似てるなあって思ったんです。ここの匂いを嗅ぐと、何か溜まる感じがして気持ちいいんですよ」 
胸の辺りを撫で回しながらそう言うエミがいたたまれなくなって、つい「ごめんな」と言ってしまった。 

「いいですって」 
「ああ、うん、そのう……。プレゼントをちゃんと買ってやれなくてって」 
俺の誤魔化しにああと頷く。 
「だからこうやって一緒に寝させてもらってるんですよ?」 
「ん、まあそうだけどさ」 
「それなら、もう一つだけいいですか?」 
何が?と聞きそうになってから気付く。もう一つお願いしてもいいか、という意味だ。 
「いいよ」 
「夢を諦めたって話、聞きたいんです」 

「……それか。面白い話じゃないって」 
「でも聞きたいんです。夢があるから学校に行ったり勉強したりするんじゃないんですか?」 
「そうじゃない人もいるんだよ。なんだろね、こう、だらだらと回りに流されて生きていくわけさ」 
今はどうなのかは知らないが、当時は夢を持っている人間の方が多かった。 
同級生の大概は夢を持っていたろう。そんな中ではぐれ者とも言うべき自分に、半ば自嘲気味にふざけて答える。 
そんな俺にエミは「私は」と小さいながら、はっきりと口を開いた。

「私は、色々やりたいことはあるけど、今は早く料理を上手に出来るようになりたい。 
それで、智也さんにホットケーキを食べてもらいたいんです」 
「……」 
「だから、お願いですからそんなこと言わないでほしいんです」 
真っ直ぐな目で言う言葉に、自分がひどく情けないやつに思えてしまった。 
面と向かってそう言ってくれる子に対して、自分は話すのが嫌だと駄々をこねている気がしたのだ。 
「そっか、それは……ありがたいよ。ほんと、ありがとな」 
ややあってから、よしと自分を奮起する。 
「話すよ。そうだな??どこから話したもんか」 

俺は要点だけ、しかし逃げの無い話をベッドの中で隣にいるエミに聞かせた。 
元々人から文章が上手いと言われはするものの、自分では全く自信がないこと。 
しかしそれなのに、生徒会で発刊している学校新聞では喜々として文章を書かせてもらっていること。 
「好評なんですか?」 
「まあそこそこ。書くのも読まれるのも嫌いじゃあ無いんだ。でも自信は無い。そもそも本当に上手いかどうかなんて分からないし。本当は下手だけど読んだ人が言わないだけかもしれない」

「そんな」 
「まあそんなこと言いだしたらきりないし、実際自分も人よりは書けるんだと思ってる。分かってるんだけどね」 
しかしある日自分はふと気付いた。仮に校内で好評だったとしても、それまでなのだと。 
海原を知らない蛙なのだ。外に出たらちょっと人より上手い人、でしかない。 
「そう思い至ったら突然力が抜けちゃってね」 
情けないったらありゃしない。 
「なにか力を試せる場所とか無かったんですか?」 
「新聞社の開催する小論文コンテストとかあることはあるけど、自分の才能をはっきりさせられるのが怖かったんだろうな。井の中の蛙なら井の中で収まってもいいや、って思ったのかもしれない」 

「そんな簡単に……、諦められるものなんでしょうか」 
「きっかけ自体が大したことないんだよ。小学生の時に書いた作文が 
先生にえらく気に入られちゃってさ、教室で読み上げたんだ。その時好きな女の子にすごいねって言われて」 
何年も一人で舞い上がってただけなのだ。 
そこまで喋りきると何だかどっと疲れが沸いてきた。少し切ない気分になってきたので 
おいで、とエミの身体を寄せる。乾いた髪からうちのシャンプーの匂いがした。 
そっと撫でると恥ずかしそうに頭を傾けた。 
「智也さんだってまだ頑張れますよ。だから作家を目指して頑張ってください」 
「それじゃあ、そうだな。エミもいつか、俺に料理を食べさせてくれよ」 

「……約束」 
薄暗い部屋だったが目と鼻の先にいるエミが小指を差し出したのを確認できた。 
指切りなんて久しかったが、これで本当にもう一度会えるならと淡い希望がよぎる。 
幼稚な儀式でも可能性が開けるのならと応じることにした。 
終えるとエミは寝返りをうって俺に背を向ける恰好になった。 

「抱きついてみてもらえますか?昔、お父さんにそういう風にやってもらってた気がするんです」 
一瞬戸惑ったが、自由の効かない布団の中で小さな背中が闇の中で映えるとブレーキがかかることはなかった。 
黙ってエミの背中から腰に手を回し、情欲と愛情がごちゃ混ぜになった混沌とした頭に従うように、ぎゅっと強く抱きしめた。 
「……痛くない?」 
「ちょっと痛い、けど、これくらいの方が私は嬉しいです」 
お互いに、かどうかは分からないが、その時は確かに俺は欲情してしまっていた。 
早まる俺の鼓動に合わせて腕の中の小さな身体も吐息が荒くなるのを感じる。 
口元のすぐ先にある可愛らしい耳に舌を伸ばしたくて仕方がなかった。 
「エミちゃん、好きな人にどんなことをするか、って聞いたよね」 
早まる呼吸と沸騰する思考に、もはや理性は逸脱しかけていた。 
「ちょっとだけ、試してみる?」 
「……はい」 

こっち向いて、ともう一度エミに寝返りをうってもらい、肩を掴んで引き寄せた。 
正面から抱き合う形になる。エミもおずおずと俺の身体に手を回し、お互いの足を重ねてぴったりと密着した。 
顔と顔が近い。心臓の音が直接耳に響いてきて、身体が熱くなる。 
密着して蒸れてきた全身が動きだした感情へ加速をつけた。 
汗ではりついた髪の毛を拭うようにエミの額に手を当て、熱っぽくなっている顔にたまらなくなってキスをしてしまった。 
少しでも反抗の素振りを見せたなら止めようと思った。しかし彼女は黙ったままで、俺には肯定の意に思えた。 
キスをしたことでタガがほとんど外れてしまい、俺はエミの上に被さるようにして、服の上から腋の下に手を添えた。 
そして親指で弧を描くように発育していないエミの胸をゆっくりと、しかし徐々に力を入れて撫で回した。

「んふっ」 
抑えるような小さな喘ぎに俺はどんどん加速していく。再び唇を奪って、片手を服の下に入れてお腹を撫で回す。 
ふにふにとした柔らかな絹肌と、服の上からでもわかる胸の一部の突起。 
いよいよ興奮は最高潮に達し、腹部から下へ手を滑らせていく。 
しかしエミのパンツに指が触れるか触れないかというところで、俺は異変に気付いた。 
「う……ううっ」 
エミは顔を隠しながら、まさに初めて会った時にそうしたように、静かに泣いていたのだった。 
身体中の血がさーっと引いていく。よく考えなくても隣の部屋ではユキとハルナがいるのだし。

いや、それ以上にエミを泣かしたことへの罪悪感に尽きる。 
最後の最後で、俺は大失敗を犯してしまったと愕然とした。 
エミは新しい父親にいたずらをされたと言っていたから、その時の記憶が蘇ったのかもしれなかった。 
「俺……」 
被さるようなポジションを捨て彼女の隣に寝る。自分に対するいろんな罵倒が浮かぶ。 
「ひぐっ、ごめん、なさい。泣いちゃって」 
嗚咽を含んだ言葉に俺は動くことができずにいた。 

「ごめんな」 
「違うんです、そういうんじゃ!!」 
我慢していたものが限界に到達したのか、エミは一気に泣きはじめた。ベッドの中で俺の胸に顔を当てて。 
だから声自体はほとんど漏れなかったけど、俺の心を響かせるのには十分だった。 
エミは落ち着いてくると顔を上げてもう一度俺に謝った。 
「ごめんなさい」 
「いや、俺が軽率だった。悪いのは俺だよ、本当にごめんな」 
「違うんです。智也さん自体は別に……」 
嫌じゃなかった、と恥ずかしそうな消え入りそうな声だった。 
「懐かしい匂いがしてる中で、その、ああいうことになってたら、本当のお父さんと前のお父さんを思い出しちゃって。混乱してたけど目に映ってるのは智也さんで、しかも明日にはお別れなんだって思ったらもう、訳が分からなくなっちゃったんです」 
確かにお互いずいぶんと興奮していたから、そんなに色々なことが頭に出てきたらごちゃごちゃになるかもしれないと思った。 

「でもやっぱり、しちゃいけないことしたんだし」 
ごめん、と謝る俺にいいんですよと笑って答えるエミ。 
「でもちょっと喉乾いちゃったかな」 
「それじゃあ、下に行って水でも持ってくるよ」 
「私も一緒にいきます」 
起き上がると身体から出た汗で、寝間着の数カ所に染みが出来てしまっていた。 
身体が冷えてしまわないよう、エミに上着を着せてやって一階の水道で水を汲む。 
コップ一杯に注いで、はいと手渡してやった。なんとなく俺は気まずくて、誤魔化すように一気に飲み干した。 
「最近、不安で仕方なかったんです」 
コップの水を半分にしたところで、そう呟く。 

「明日からどうなるか分からないし、お姉ちゃんもハルちゃんも本当の姉妹じゃないから別れることになるかもしれない。智也さんとだって別れるのに、私また一人になっちゃう。怖くて、夜に天井見てるとそれしか浮かばなくて、寝れないんです」 
「それで一緒に?」 
頷くでもなく残りの水を飲み干して、
「もう寝ましょうか」 
そう笑った。一緒に寝たいと言ったのだから、今日だって不安で仕方がないのだろう。 
それなのに彼女はいつものように優しい笑顔を見せてくれた。 
俺はどうしようもない感情が沸いてしまって、衝動的にエミを抱き寄せてしまった。 
「無責任かもしれないけど、俺、何も出来ないけど。応援してるからさ。本当に、応援してるから」 
「……私のこと、忘れないでください」 
「忘れない、絶対」 
俺はエミの見えないところで、一筋だけ涙を流した。 


翌日。あの後遅くまでエミと話しすぎたせいか朝起きると眠気がものすごかった。
よく考えたら今日テストじゃねえか、大丈夫か俺。と頭を叩いて眠気を覚ます。 
勉強してないからどうなるものでもないだろうけど。 
隣ではエミが幸せそうな顔ですやすやと眠っていた。なんかやたら可愛かったのでほっぺをいじくり回してやった。 
「うわひゃ」 
変な声を上げて目を開き、俺に気付いて 
「おはようございます」 
と寝ぼけ眼で一礼。 
「おはよ」 
しばらくじーっとお互い視線を無言で交わした。恋人でも無い、兄妹でも無い、そんな不思議な間柄。 
「よし、俺ァ起きる。学校あるからな」 
「あ、私遅れて出ますんで」 
変なテンションでベッドから飛び起きて部屋を出た。一階に下りると二人は既に着替え終えて朝食の準備をしていた。 

「あ、おはようございます」 
「おはよー」 
エミが下りてくるのを待ちながら、ふと考えが浮かんだ。テストは今日三日目で終わり。 
明日はテスト返却しかない。これならユキも外出の誘いも受けてくれるんじゃなかろうか。やっぱり四人でどこかに行きたかった。
親が帰ってきた後でも少しくらいは時間の融通が効くはずだとその時は思っていたのである。 
「今日でテスト終わりなんだけど、どうかな、午後から四人でどこか行かない?」 
「午後、ですか?」 ぴくりと動くユキ。 
「うん、お金はまあ、食費をちょっと使わせてもらうことになるけど」 
返事に困っているユキを言いこめようと「なあハルナ」と同意を求めたが、ハルナも困ったような表情で返事に窮してしまった。 
「ええと、二人とも気乗りしない?」 
「あの、言ってませんでしたっけ」 
ユキが恐る恐るといった様子で口を開いた。 

「え?」 
「私達、今日電車に乗って○○駅で親と合流するんです」 
「そうか、時間に制約があるのか」 
納得したような俺を見て、さらに暗い口調でハルナが加えた。 
「お昼に向こうに着かなきゃいけないから、智也君が学校に行ってる間には……」 
その時の俺は、不治の病を宣告された患者の気分だった。顔もそんな感じだったのかも知れず、二人は俺に謝る。 
「それじゃあ仕方ないよな」 
笑顔を無理に作ってみせたが、俺はようやく今日が別れの日なのだと実感した。 


テストが終わり、家に帰るとそこには誰もおらず、がらんとした空気を残すのみだった。 
階段を駆け上がる音も、ベランダで洗濯物を吊るす影も、俺を見上げて笑う彼女も、何も無い。 
作っておきました。というメモ書きの上にはラップに包まれた皿がいくつかあった。 
口に運ぶといつもの味だったが、それそのものは冷えきってしまっていた。 
やることも見出せずしばらく部屋をうろうろして、探すようにいろんな部屋を出入りした。 
忘れ物があったら取りにくるかもしれないし、何かしらハルナが妙な仕掛けを残しているいかも、と考えていた。 
とにかく、彼女達と繋がる何かを求めて捜し回った。狭いと思っていたが、一人になるといやに広がりを感じる家だ。 
あったのは掃除をしていったらしく整然とした部屋々々。 
彼女たちが最初からいなかったように、来る前と同じ部屋並みになっていた。 
ユキがやったんだろうとちょっと笑った。 
沈んでいくようなゆるやかな悲しみが俺を襲う。気力が抜けてしまい、自室に戻って机に座り込んだ。

後ろにはベッドがある。最初エミが寝ているとは知らずカバンを投げつけたっけ。それで泣かれたなあ。 
結果は分かっていたが、ベッドをめくらずにいられなかった。当然誰もいない。いるわけがない。 
昨日は、ずいぶんとエロいことしちゃったなあと苦笑して、そういえばエロ本がハルナにバレた時はどうなるかと慌てたことを思い出した。 
引き出しの奥の、ノートの下にある袋を引っ張りだす。これの一冊をハルナは読んだっけ。 
一冊を取り出してみる。ぽとりと見知らぬ白い封筒が落ちてきた。 
「ん?」 
まさか、と思って中身を調べる。そこには三枚の手紙が入っていた。 


「この五日間は本当にありがとうございました。初日の失礼は本当に申し訳ございませんでした。それなのに私達三人を家族のようにしていただいて本当に感謝しています。妹達のわがままに付き合ってもらえて、二人も喜んでいたようです。私から見ても本当の兄妹のようでした。機会があればまた会えますように」 


「まずこの隠し場所に一週間で気づいたなら智也君はちょっとすけべです。三日で気付いたらへんたいさんです。いなくなったその日に気付いたならダメ人間です(笑)大丈夫、この場所に手紙を置いたのは私が勝手にやった事だし、手紙の内容も二人は知らないからね。約束は破ってないよ。もう一回将棋やりたかったね、じゃあまたね!」 


「この五日でいろんなことがありました。最初は怖くて泣いてしまった私に智也さんは優しくしてくれて、とても嬉しかったです。私は一生この五日間を忘れません。だから智也さんも絶対に忘れないでください。もし会えた時にホットケーキの味を比べられるように。                         大好きなお兄さんへ」 


それぞれの手紙に個性が出ていて可笑しくて、嬉しさと悲しさとが合わさってよく分からない顔をしながらその手紙を読み返した。何度も何度も。



読まなくてもいいかもしれない後日談。 

三姉妹に翻弄された日々により全くといっていいほど予算整理に進展が無かった俺は、
テスト休みの間も学校に行って資料整理をさせられた。 
家でやってないのだから生徒会室でやれ、という先生の意見はもっともだろう。 
ガラガラと生徒会室の引き戸を開けると後輩の「おはようございまーす」という声が上がった。 
生徒会室にいるのは会長と、ちょっと口うるさい副会長。それから後輩が三人。俺はこの中で唯一の二年だった。 
会長が本日の第一声を上げる。 
「お、今日も馬車馬のように働きにきたのね?」 
「まずおはようでしょう」 
「斉藤、昨日の処理ノルマはぎりぎりだったんだから、今日はもっと効率よくやれよ。 
でも焦ってやったら失敗するからな、気をつけろ」 
副会長はこの中では一番古株で俺より前に生徒会にいる。悪い人ではないのだが。 

「へいへい、分かってますとも。まあいざとなったら総動員で頼みます」 
「お前なあ」 
「冗談ですってば」 
軽口を叩いて自分の机に座った。先生はいないのでこの時部屋にはちょうど六人。 
生徒会室の戸棚から資料を抜き出して、机に広げて腕をまくる。 
「先輩、手伝いましょうか?」 
心配そうに後輩の一人がそう言った。 
「いいよ、こればっかりは一人でやらなきゃいけないから。総動員なんてのも冗談だから気にすんな」 
ばさばさ、かりかり。しばらく作業する音が続く。 
一時間ちょっと経った辺りで、思い出したように会長が立ち上がった。 
「今日はポスター剥がさないといけないんだわ。斉藤くーん?」 
俺の後ろに立って画鋲箱を手に肩をつつく。 
校内の掲示物でも生徒会管理のものがあるのでそれの取捨も仕事のうちなのだ。 

「一人で行ってください。今忙しいんです。馬車馬ですから」 
「北川さん、よかったら俺が行くよ」 
言いながら立ち上がる副会長。この男も会長に惚れているのだが、俺も彼も野郎同士で想いは打ち明けていて、慰め合うことが多いのでむしろ親密だったりする。 
「私は斉藤君がいいの。ほら、来なさい。馬でも何でもいいから」 
ただこの時ばかりはジェラシーの炎を強く感じた。 

冬も近づいた学校の廊下は寒かった。露出した手の甲を摩り寒さに耐えながら先輩に文句を垂れる。 
「勘弁してくださいよ」 
そんなこと言いながらちょっと嬉しかったり。 
「あのね、私まだデートの結果を聞いてないんですけど」 
「デート?」 
ああ、と思い出す。 

「エミちゃんよ。助言を受けといてそれは無いんじゃない?」 
不良の絡みのように肩に手を回す。こういうことを仲がいい相手には男女構わず平気でやってしまうんだから、彼氏になった人は苦労するだろうなあと思う。自分だって惚れているが、こういう時の思考は他人事になってしまう。 
「そのために引っ張ってきたんですか?」 
「そうよ。気になるでしょ」 
色々な意味のため息をついて、とりあえず掲示板に張られたポスターから画鋲を抜きながらとつとつと話した。 
「まあ、デートって程じゃあないですよ。何度も言いますけど妹みたいなもんでしたから」 
「妹みたいなもの、なんて何だか冷たくない?エミちゃん相手に少しくらい欲情したって私は怒らないわよ」 
うふふと笑う会長にあははと笑い返すが、すいません、思い切り欲情しましたと心の中で土下座をする。 

「……でも手ぐらいは繋いだんでしょ。妹だろうが何だろうかそれはやっぱり」 
「ええ、まあ」 
そこで変な悲鳴を上げて「いーじゃないいーじゃない、恋人しちゃってるじゃない!」と廊下に響きわたる声量で言った。 
「ちょっ、声でかいっすよ!」 
「別に先生しかいないわよ。大丈夫」 
「だから先生がいるんですってば」 

それはさておき、と勝手に先輩は話を変えた。 
「上手くいったの?」 
「まあおかげさまで」 
「よかった」 
「……」 
先輩の応対の仕方に画鋲を抜く手の動きが止まる。 
「なんすかそれ」 
「なにって、何よ」 
「やけに優しいっていうか」 

「まるで私が優しくないみたいな……。私はね、斉藤君が頼り無いから心配してるのよ」 
「いや、いつも頼りにしてるとか言ってるじゃないですか。あれ嘘だったんですか?」 
「仕事は頼りになりますぅ。でも人間性がダメなんですぅ」 
冗談かもしれなかったが、ちょっと傷つく俺のハート。 
「そ、そんなにひどいですかね」 
「ほら」 
それ見たことかと言わんばかりに俺を指さす。 
「そうところ」 
ふふんと鼻で笑って、それから先輩にしては珍しい、優しい目をして俺を眺めた。 
「もっと自分に自信持っていいんだよ。実際、今の生徒会だって斉藤君のおかげで助けられてる部分もあるんだからさ」 
「何すか急に」 
「元気無いよ、最近」 
「忙しいんです」 
「じゃあ休む?別にいいよ、一日くらい」 

「……いえ、いいです。今家にいたって」 
何かを狙ってそう言ったわけじゃないと思うが、それでも俺は、やっぱりこの人にはかなわないなあと一人思った。 
「静かなんですよ。落ち着かなくて」 
「両親はもう帰ってきてるのよね」 
「ええ、でも三人がいないですから」 
「なるほど。それで元気が無いの。そういうのは何シックかしらね。シスターシック?」 
普段なら無視するところだったが、その時はちょっとその冗談に乗ってみることにした。 
エミが俺の冗談に乗ってくれて嬉しかったことを思い出していた。 
「いや、ホームシックです。彼女達がいた時の家と今の家は別モンです」 
「詩人ねえ」 
「そこまで綺麗なもんじゃないです」 
乾いた笑いを上げながらポスターを丸める。輪ゴムで縛って腋に挟んだ。 
「自信無い、っていうのは、そうかもしれません。考えちゃうんですよ。俺といた時は幸せだったのかなあ、これから幸せになれるのかなあって」 

先輩は廊下に座り込んだ。 
「幸せってのはさあ、その人にしか分からんわけよ。でもさ、笑ってる人で不幸な人ってそうそういないと思うわよ。私には彼女達の話をするときの斉藤君がすごく楽しそうに見えるんだけど?」 
「騒がしくて楽しかったですから」 
「それは斉藤君だけの話?」 
「……いいえ」 
それだけ言わせると先輩は満足したように立ち上がった。 
「そういうのを幸せだって言うんでしょうが。まぁた見せつけられた気がするわ」 
「そう、か」 
「頑張ってよ。今さらかもしれないけど、頼りにしてるから」 
ほうら次いくぞぅ、と手のひらサイズの画鋲箱だけ持ってさっさか先に行ってしまう。 
俺は散らばるポスターをかき集めて先輩を追っかけた。 

彼女達が幸せだったのかと聞かれたら、幸せだったと答えられる。そう言えるだけの笑顔があった。 
幸せになれるかどうかと聞かれたら、大丈夫だろう。そういう笑顔だったのだ。 
仮に不安要素があったとしても、俺は応援すると言った。声が届かなくとも、その気持ちは忘れまい。 
そう心に強く刻んだ。けらけら笑う先輩にちょっと感謝しながら。



後日の後日。 

先輩には最後の最後、卒業式の時に告白をした。何て言ったか覚えていないくらい、平凡な台詞で。 
先輩は少しはにかんで「今夜、電話するから」という返事をした。 

その日の夜、電話で開口一番に「いいよ」とのお答え。本当ですか?マジですか?と狂喜乱舞するも、
「でも私のどこがよかったの?」という言葉にちょっと悩む。 
正直に中身、というべきか。それとも外見、というべきか。 
でも最初の一言が嘘から始まると、その後も平気で嘘を続けてしまいそうだから、
「その面白い性格ッス」と答えることにした。
そうすると電話口からほっとしたようなため息が。

「私のこと大して知らずに付き合ってくれって人ばかりだったから、安心」 
「俺は美形は基本的にノーサンキューなんで」 
「え?ちょ?あれ?えーと、ううん。……こういうこと言うのも嫌だけど、私って美形の類じゃない?」 
「だから第一印象は悪かったんですけど、後からこう、スルメのごとく」 
「なにそれ」 

余談ながら、先輩はお付き合いするとびっくりするぐらい大人しくなった。 
今まで付き合っても長続きしなかったのだという。 
しかしまあ、大学生と高校生の付き合いってのもなかなか難しいもので、涙ながらお別れする時も来たけどね。
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