三毛別ヒグマ事件 (恐怖の体験談) 31029回

2011/10/01 17:00┃登録者:えっちな名無しさん┃作者:名無しの作者
三毛別羆事件(さんけべつひぐまじけん、六線沢熊害事件、苫前羆事件とも)とは、1915年12月9日〜12月14日にかけて、北海道留萌苫前村(現:苫前町古丹別)三毛別(現:三渓)六線沢で発生した日本史上最大最悪の熊害(ゆうがい)事件。 
冬眠に失敗した空腹のヒグマが数度にわたり民家を襲い、当時の開拓民7名が死亡、3名の重傷者を出すという被害があった。 
事件の現場となった北海道三毛別六線沢は、日本海の沿岸から内陸へ30kmほど入った地区である。地名の「三毛別」は、アイヌ語で「川下へ流しだす川」を意味する「サンケ・ペツ」に由来する。 


1915年(大正4年)11月初旬のある夜明け前、開拓村の池田家に巨大なヒグマが姿を現した。 
飼い馬が驚いて暴れたため、その時の被害はわずかなトウモロコシに止まった。村は開拓の端緒にかかったばかりの土地でもあり、このような野生動物の襲来は珍しいものではなかったが、主人・富蔵はぬかるみに残った足跡の大きさに懸念を持った。 
そして11月20日、ふたたびヒグマが現れた。馬への被害を避けようと、富蔵は在所と隣村から2人のマタギを呼び、3人で待ち伏せることにした。 
そして30日、三度現れたヒグマに撃ちかけたが、仕留めるには至らなかった。 
翌朝、次男・亀次郎を加えた4人で鬼鹿山方向へ続く足跡を追い血痕こそを確認したものの、地吹雪が酷くなりそれ以上の追撃を断念した。 


●12月9日 
秋から冬にかけ、開拓村では収穫した農作物を出荷する様々な作業に追われていた。三毛別のような僻地ではそれらは人力に頼らざるを得ず、男たちは出払い気味になっていた。そんな12月9日の朝、三毛別川上流に居を構える太田家でも、同家に寄宿していた伐採を生業とする長松要吉(通称・オド)(59)が一足早く仕事に向かい、当主の三郎(42)も氷橋用の桁材を切り出すため出掛け、三郎の内縁の妻・阿部マユ(34)と太田家に預けられていた小児・蓮見幹雄(6)の二人が留守に残った。 
昼、オドがいつものように飯を食べに戻ると、土間の囲炉裏端に幹雄がぽつんと座っていた。ふざけて狸寝入りしているのだろうとオドはわざと大声で話しかけながら近づき、幹雄の肩に手を掛けて覗き込んだ。その時、オドは幹雄の顔下に付着した血の塊と、何かで抉られた喉元の傷を見つけた。側頭部には親指大の穴が穿たれ、幹雄は事切れていた。オドは恐怖に震えながらマユを呼んだが何の応答も無く、ただ薄暗い奥の居間から異様な臭気が漂うのみ。只ならぬ事態に家を飛び出したオドは下流の架橋現場に走った。 
駆けつけた村の男たちは、踏み入った太田家の様子に衝撃を受けつつも、これがヒグマの仕業だと知るところとなった。入口の反対側にあるトウモロコシを干してあった窓は破られ、そこから土間の囲炉裏まで一直線に続くヒグマの足跡が見つかった。おそらく、トウモロコシを食べようと窓に近づいたヒグマの姿にマユと幹雄が驚いて声を上げ、これがヒグマを刺激したものと思われた。足跡が続く居間を調べると、燻ぶる薪がいくつか転がり、柄が折れた血染めの鉞があった。ぐるりと廻るようなヒグマの足跡は部屋の隅に続き、そこは鮮血に濡れていた。それは、鉞や燃える薪を振りかざして抵抗しつつ逃げるマユがついに捕まり、攻撃を受けて重傷を負ったことを示していた。そこからヒグマはマユを引き摺りながら、土間を通って窓から屋外に出たらしく、窓枠にはマユとおぼしき頭髪が絡みついていた。 
オドが幹雄の死に気づいたとき、土間には馬鈴薯が転がり、まだ暖かかったという。そこから、事件が起こってから左程時間は経っていないと思われた。実は事件直後、村人の一人が太田家の窓側を通る農道を馬に乗って通り過ぎていた。彼は家から森に続く何かを引き摺った痕跡と血の線に気づいたが、マタギが獲物を山から下ろし、太田家で休んでいるものと思い、その時は特に騒ぎ立てなかった。これらから、事件は午前10時半頃に起こったと推測された。 
事件の報に村は大騒動となった。しかし12月の北海道は陽が傾くのも早く、幹雄の遺体を居間に安置した頃には午後3時を過ぎ、この日に打てる手は少なかった。太田家から500m程下流の明景(みよけ)安太郎(40)家に男たちは集まり善後策を話し合った。ヒグマ討伐やマユの遺体奪回は翌日にせざるを得ないが、とり急ぎ役場と警察、そして幹雄の実家である蓮見家への連絡を取らなければならない。しかし通信手段は誰かが直に出向くより他に無い。一度はある男が使者役に選ばれたが、本人は嫌がり、頼まれて斉藤石五郎(42)が引き受ける事になった。太田家よりもさらに上流に家を構える石五郎は、所用にて当主・安太郎が外出しなければならない明景家に家族を避難させ、オドも男手として同泊する手はずが取られた。 


●12月10日 
早朝、斉藤石五郎は村を後にした。残る男たちは討伐およびマユの亡骸を収容すべく約30人の捜索隊を結成した。昨日の足跡を追って森に入った彼らは、150m程進んだあたりでヒグマと遭遇した。馬を軽々と越える大きさ、全身黒褐色一色ながら胸のあたりに「袈裟懸け」と呼ばれる白斑を持つヒグマは捜索隊に襲い掛かった。鉄砲を持った5人が何とか銃口を向けたが、手入れが行き届かず銃撃できたのはたった1丁だけだった。怒り狂うヒグマに捜索隊は散り散りとなったが、あっけなくヒグマが逃走に転じたため、彼らに被害は無かった。改めて周囲を捜索した彼らは、トドマツの根元に小枝が重ねられている血に染まった雪の一画と、その下から黒い足袋を履き葡萄色の脚絆が絡まる膝下の脚と、頭蓋の一部しか残されていないマユの遺体を発見した。 
このヒグマは人間の肉の味を覚えた。マユの亡骸を雪に隠そうとしたのは保存食にするための行動だった。奪われたものを取り返しに来る習性を熟知した村のある男は「ヒグマはまた来る」と言い放った。 

夜になり、太田家では通夜が行われたが、村民はヒグマの襲来におびえ、参列したのはたったの9人だけ。その中のひとり幹雄の実母・蓮見チセ(33)が酒の酌に廻っていた午後8時半頃、大きな音とともに居間の壁が突如崩れ、ヒグマが室内に乱入して来た。棺桶が打ち返されて遺体が散らばり、恐怖に駆られた会葬者達は梁に上り、野菜置き場や便所に逃れるなどして身を隠そうとする。この騒ぎの中、ある男があろうことか自身の妻を押し倒し、踏み台にして自分だけで梁の上に逃れた。以来、夫婦の間では喧嘩が絶えず、夫は妻に一生頭が上がらなかったという。 
この騒ぎの中でも、気力を絞って石油缶を打ち鳴らしてヒグマを脅す者に勇気づけられ、銃を持ち込んでいた男が撃ちかけた。さらに300m程離れた隣家で食事をしていた50人程の男たちが物音や叫び声を聞き駆けつけた。しかしその頃にはヒグマは既に姿を消していた。犠牲者が出なかったことに安堵した一同は、いったん明景家に退避しようと下流へ向かった。 

太田家の騒動は明景家にも伝わり、避難した女や子供らは火を焚きつつ怯えながら過ごしていた。護衛は近隣に食事に出かけ、さらに太田家へのヒグマ出没の報を受けて出動していた。太田家から逃れたヒグマは、まさにこの守りのいない状態の明景家に向かっていた。 
太田家からヒグマが消えてから20分と経たない8時50分頃、背中に四男・梅吉(1)を背負いながら討伐隊の夜食を準備していた明景安太郎の妻・ヤヨ(34)は、地響きとともに窓を破って侵入して来た黒い塊に声をあげた。それは、見たことも無い巨大なヒグマだった。南瓜を煮る囲炉裏の大鍋がひっくり返されて炎は消え、混乱の中ランプなどの灯かりも落ち、家の中は暗闇となった。ヤヨは屋外へ逃げようとしたが恐怖のためにすがりついてきた次男・勇次郎(8)に足元を取られ、よろけたところにヒグマが襲い掛かり、背負っていた梅吉に噛み付いた。そのまま三人はヒグマの手元に引きずり込まれ、ヤヨは頭部を齧られた。その時、男番として唯一家にいたオドが逃げようと戸口に走った姿に気を取られたヒグマは母子を離し、この隙に乗じヤヨは子供たちを連れて脱出した。追われたオドは物陰に隠れようとしたが叶わず、ヒグマの牙を腰のあたりに受けた。オドの悲鳴にヒグマは再度攻撃目標を変え、屋内に眼を向けた。そこには未だ7人が取り残されていた。ヒグマは明景家の三男・金蔵(3)と斉藤家の四男・春義(3)を一撃で撲殺し、さらに斉藤家三男・巌(6)に噛み付いた。この様子に、野菜置き場に隠れていた石五郎の妻・斉藤タケ(34)が筵から顔を出してしまい、彼女もまたヒグマの標的となった。ヒグマの爪にかかり居間に引きずり出された身重のタケは「腹をやぶらないで」と子供の命乞いをするも叶わず、上半身から食われ始めた。   
川下に向かっていた一行は、激しい物音と絶叫を耳にして急いだ。そこへ重傷のヤヨがたどり着き、皆は明景家で何が起こっているかを知った。途中オドを保護し、男たちは明景家を取り囲んだ。しかし、暗闇となった屋内にはうかつに踏み込めない。中からは、タケと思われる女の呻き声、そして肉を咀嚼し骨を噛み砕く音が響く。一か八か家に火をかける案や闇雲に一斉射撃しようという意見も出たが、子供らの生存に望みをかけるヤヨが必死に反対した。一同は二手に分かれ、一方は入り口近くに銃を構えた10名あまりを中心に配置し、残りは家の裏手に廻った。そして裏手の者が空砲を二発撃つと、ヒグマは入口を破って表で待つ男たちの前に現れた。先頭の男が撃とうとしたが、またも不発。他の者も撃ちかねている隙に、ヒグマはまたも姿を消した。 
ガンピの皮を松明に明景家に入った者の眼に飛び込んできたのは、天井裏まで飛沫が着くほどの血の海、そして無残に食いちぎられた二児とタケの遺体であった。上半身を食われたタケの腹は破られ胎児が引きずり出されていたが、ヒグマが手を出した様子は無く、その時には胎児は少し動いていたという。しかし、胎児も一時間後には死亡した。明景家の長男・力蔵(10)は雑穀俵の影に隠れて難を逃れ、殺戮の一部始終を目撃していた。明景家の長女・ヒサノ(6)は失神し無防備なまま居間で倒れていたが、不思議と彼女も無事だった。急いで生存者を保護し遺体を収容した一行が家を出たところ、屋内から不意に男児の声があがった。日露戦争還りの者がひとり中に戻ると、筵の下に隠されていた重傷の巌を見つけた。肩や胸にも咬みつかれた傷を負う巌の左大腿部から臀部は喰われ、骨だけになっていた。 
村人は全員分教場へ避難することになり、重傷者たちも3km川下の辻家に収容されて応急の手当てを受けた。しかし、しきりと水を求め、うわ言を洩らしていた巌は20分後に息絶え、この二日間で6人、胎児を含めると7人の命が奪われた。ヤヨら怪我人たちは翌日さらに3km下流の家に移り、古丹別の病院に入院したのは12日になった。 


●12月11日 
すべての住民が三毛別分教場に避難した六線沢に人影は無く、怯えながら戸締りを固く閉ざした三毛別の各農家がヒグマ避けに焚く炎が昨夜から不気味に寒村を照らしていた。小村の住民だけではよもや為す術無く、長老らは話し合いヒグマ退治の応援を警察や行政に頼ることを決議した。その一方、家族に襲い掛かった悲劇を知る由も無く雪道を往く斉藤石五郎は、役所と警察に太田家の事件報告を終えて10日は苫前に宿を取り、11日昼近くに帰路についた。下流の三毛別に辿り着き、そこで妻や子供たちの受難を知らされた彼は、呆然と雪上に倒れ伏し、ただ慟哭をあげるしかなかった。 


●12月12日 
六線沢ヒグマ出没の連絡は北海道庁にもたらされ、保安課から羽幌分署長・菅貢警部に討伐隊の組織が指示された。一方、死亡者の検死のため馬橇で一足早く現地に乗り込んだ医師は、正午頃山道でヒグマの糞を発見した。それを検分し中から人骨や髪の毛また未消化の人肉を見つけると、医師は戦慄に立ちすくんだ。 
菅警部は近隣の青年会や消防団または志願の若者やアイヌたちにも協力を仰ぎ、村田銃や刃物類など、中には日本刀を携えた者を含め、多くの人員が三毛別に集まった。副隊長には土地勘がある帝室林野局(現:林野庁)の人物を置き、隊長の菅警部は要所を固める一方、討伐隊を差し向けた。しかし、林野に上手く紛れるヒグマの姿を捕らえることは出来なかった。 

夕暮れが迫り、手応えを得られない討伐隊本部は検討を重ねた。ヒグマには獲物を取り戻そうとする習性がある。これを利用しヒグマをおびき寄せる策が提案されたが、その獲物が意味するものを前に本部内の意見は割れた。菅隊長は目的のため案を採用し、罵声さえ覚悟して遺族と村人の前に立った。だが、説明に誰一人異議を唱える者はおらず、皆は静かに受け入れた。こうして、犠牲者の遺体を餌にヒグマをおびき寄せるという前代未聞の作戦が採用された。 
作戦はただちに実行された。銃の扱いに慣れた7名が選ばれ、交替要員1人を除く6名が補強した梁の上に張り込んでヒグマを待った。居間に置かれた胎児を含む6遺体が放つ死臭の中森の中から姿を現し近づいてきたヒグマに一同固唾を呑んで好機を待った。しかし、家の寸前でヒグマは歩みを止めて中を警戒すると、何度か家のまわりを巡り森へ引き返していった。男たちはそのまま翌日まで待ち伏せたがヒグマは現れず、作戦は失敗に終わった。 


●12月13日 
この日、旭川の第7師団から歩兵第28連隊が事件解決のために投入される運びとなり、将兵30名が出動した。一方、ヒグマは村人不在の家々を荒らし廻っていた。飼われていた鶏を食い殺し、鰊漬けなどの保存食を荒らし、さらに、服や寝具などをずたずたにしていた。中でも特徴的なことは、女が使っていた枕や、温めて湯たんぽ代りに用いる石などに異様な程の執着を示していた点だった。三毛別川右岸の8軒がこの被害に遭ったが、ヒグマの発見には至らなかった。 
しかし、その暴れぶりからもヒグマの行動は慎重さを欠き始めていた。味を占めた獲物が見つからず、昼間にも拘らず大胆に人家に踏み込むなど警戒心が薄れていた。そして、行動域が段々と下流まで伸び、発見される危険性の高まりを認識出来ていなかった。菅隊長は氷橋を防衛線とし、ここに撃ち手を配置し警戒に当てた。 
そして夜、橋で警備に就いていた一人が、対岸の切り株の影に不審を感じた。本数を数えると明らかに1本多く、しかも微かに動いているものがある。報告を受けた菅隊長が、人間かも知れないと大声で話しかけるも返答が無い。意を決し、命令のもと撃ち手が対岸や橋の上から銃を放った。すると怪しい影は動き出し、闇に紛れて姿を消した。やはり件のヒグマだったのだと仕留めそこないを悔やむ声も上がったが、隊長は手応えを感じ取っていた。 


●12月14日 
空が白むのを待ち対岸を調査した一行は、そこにヒグマの足跡と血痕を見つけた。銃弾を受けていれば動きが鈍るはずと、急ぎ討伐隊を差し向ける決定が下された。いち早く山に入ったのは、10日の深夜に話を聞きつけて三毛別に入った山本兵吉だった。鬼鹿村温根に住む山本は、若い頃に鯖裂き包丁一本でヒグマを倒し「サバサキの兄」と異名を持つ男で、軍帽と日露戦争の戦利品である銃を手に数多くの獲物を仕留めた天塩国でも評判が高いマタギだった。 
ヒグマはミズナラの木につかまり、体を休めていた。その意識はふもとを登る討伐隊に向けられ、忍びつつ近づく山本の存在には全く気づいていない。20mほどまで近づいた山本はハルニレの樹に一旦身を隠し、銃を構えた。そして、銃声が響き、一発目の弾はヒグマの心臓近くを撃ちぬいた。即座に次の弾を込め、すばやく放たれた二発目は頭部を射抜いた。12月14日午前10時、急ぎ駆けつけた討伐隊が見たものは、村を恐怖の底に叩き落した悪魔の屠られた姿だった。 

ヒグマは重さ340kg、身の丈2.7mにおよぶ巨体の雄で、ところどころ金毛が混ざる黒褐色の体躯には胸から背中にかけて「袈裟懸け」と呼ばれる白斑があった。推定7 – 8歳と見られ、体に比べ頭部が異様に大きい特徴を持っていた。隊員たちは怒りや恨みを爆発させ、棒で殴る者、蹴りつけ踏みつける者など様々だった。やがて誰ともなく万歳を叫びだし、討伐隊200人の声がこだました。12日からの三日間で投入された討伐隊員はのべ600人、アイヌ犬10頭以上、導入された鉄砲は60丁にのぼった。 
ヒグマの死骸は人々が引き摺って農道まで下ろされ、馬橇に積まれた。しかし馬が暴れて言うことを聞かず、仕方なく大人数で橇を引き始めた。すると程なくして、にわかに空が曇り雪が降り始めた。事件発生からこの三日間は晴天が続いていたのだが、雪は激しい吹雪に変わり橇を引く一行を激しく打った。この天候急変を、村人たちは「熊風」と呼んで語り継いだ。 

猛吹雪に、5kmの下り道を1時間半掛けてヒグマの死骸は三毛別青年会館に運ばれた。その姿を前に、雨竜郡から来たアイヌの夫婦は、このヒグマが数日前に雨竜で女性を食害した獣だと語り、証拠に腹から赤い肌着の切れ端が出ると言った。あるマタギは、旭川でやはり女を食ったヒグマならば肉色の脚絆が見つかると言った。山本兵吉は、このヒグマが天塩で飯場の女を食い殺し三人のマタギに追われていた奴に違いないと述べた。解剖が始まり胃を開くと、中から赤い布、肉色の脚絆、そして阿部マユが着ていた葡萄色の脚絆が絡んだ頭髪とともに見つかり、皆は悲しみを新たにした。犠牲者の供養のため肉は煮て食べられたが、硬くて筋が多く、あまり美味くはなかったという。皮は板貼りされて乾燥させるため長い間晒された。その後肝などとともに50円で売却されたが、この金は討伐隊から被害者に贈られた。この毛皮や、同じく残された頭蓋骨は後にすべて失われ、今に伝わっていない。 

頭部に傷を負いながらも気丈な姿を見せたヤヨは順調に回復したが、背負われたまま噛み付かれた明景梅吉は、その後遺症に苦しみつつ2年8ヶ月後に死亡した。この少年を含め事件の死者を8人とすることもある。同じ家で羆の襲撃から生還した明景勇次郎は事件の27年後に大東亜戦争(太平洋戦争)で戦死した。オドも回復し翌春には仕事に戻ったが、帰宅時に川に転落して死亡した。ヒグマに受けた傷が影響したのかは定かではない。 
事件は解決しても、村人に心理的恐怖を残した。村外を頼れる者は早々に六線沢を去ったが、多くはそのようなつてを持っていなかった。壊された家屋を修理し、荒らされた夜具や衣類の代わりに火に当たりながら、なんとか越冬した。しかし春になっても村人は気力を取り戻せず、太田三郎は家を焼き払って羽幌へ去った。その後、ひとりまたひとりと村を去り、下流の辻家を除いて最終的に集落は無人の地に帰した。 
ヒグマを仕留めた山本兵吉はその後もマタギとして山野を駆け回り、1950年に92歳で亡くなった。彼の孫によると、生涯で倒したヒグマは300頭を超えるという。 
事件当時に7歳だった、三毛別村長の息子・大川春義は、その後名うてのヒグマ撃ちとなった。これは、犠牲者ひとりにつき10頭のヒグマを仕留めるという誓いによるもので、62年をかけ102頭を数えたところで引退し、亡くなった村人を鎮魂する「熊害慰霊碑」を建立した。ちなみに、春義の息子である高義氏も同じくハンターであり、1980年には、父春義も追跡していた、体重500kgという大羆「北海太郎」を8年がかりの追跡の上仕留めている。さらにその5年後には、他のハンターと2人で、体重350kgの熊「渓谷の次郎」も仕留めている。 



出典:wikiとか
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