私の胸のなかで生きている姉 (泣ける体験談) 49750回

2011/11/08 23:18┃登録者:えっちな名無しさん◆V8JKjFUQ┃作者:西田先生
私の胸のなかで生きている姉

1.「西田先生、先生はどうして、そんなに障害児教育に熱心なんですか?」

こういう質問を、父母や先生方から、時々受けます。その時、いつも私は姉のことが思

い出されるのです。私の姉は、今から40年以上前に亡くなりました。

 私が今から26年前に、突然に障害児学級の担任を命ぜられ、四苦八苦して障害児教育

を始めるまでは、姉の事など思い出しもしなかったし、むしろ思い出したくない記憶で

した。

2.私は、群馬県の田舎の町(吾妻町)で、農家の7人兄姉の末っ子として生まれまし

た。

小さい頃は、引っ込み思案のひ弱な子でした。長兄とは14才も年が離れていたので、

兄弟というよりは、まるで親子みたいな間柄で、精神的な影響は、親より兄や姉の影響

を受けて育ちました。両親は、1町2反の田と畑で忙しく、子どもにかまっている時間

はなかったようです。ですから、相談事はみんな兄や姉にしていました。しかし、たっ

た1つだけ親や兄姉には、口がさけても言えない悩みがあったのです。それは、私より

2才上の姉のことでした。

3.姉は、6才の時、日本脳炎にかかってしまいました。その年は日本が戦争に負ける

前の年でしたので、医者もこの病気についての知識もなく、またあったとしても、戦争

のために毎日の食べものさえ無く、まして、薬など手に入れる事は出来ません。38度

以上の高熱が1週間も続き、医師の手当で何とか奇蹟的に命は助かったけれど、高熱の

ために脳をやられ、知的障害児になってしまいました。やがて、大きくなるにしたがっ

て、てんかん発作が起こるようになってきました。

4.小学校は家から200メートル程の所にあったので、姉は上の姉たちと一緒に通って

いました。私も小学校へ通うようになり、やがて2年が過ぎました。上の姉が卒業し、

私とすぐ上の知的障害の姉だけが、小学校に残りました。その時、姉は5年生、私は3

年生でした。今までは、上の姉がかばっていたので、知的障害の姉はいじめられる事は

ありませんでした。姉は、日本脳炎という病気で知的障害児になるまでは、兄姉の中で

1番頭が良かったのだそうです。ですから、親はとても残念がっていましたし、お祖父

さんは、姉をふびんに思ってか、特別大事にして可愛がっておりました。

 姉は、いじめにあうまではいつもにこにこして、明るい性格だったと記憶しています。

5.かばってくれる上の姉が居なくなったので、姉へのからかいといじめが始まったの

です。当然、年下の私が、姉をかばってやらなければなりません。しかし、ひ弱な年下

の私が姉をいじめている、大きな上級生にかかっていっても、勝ち目はありませんでし

た。

 しかし、いくら負けても、負けても、姉をいじめる子には、かかっていきました。

それが、私が姉にできるたった1つの、姉弟愛の表現だったのです。結果はいつも、私

が上級生にいじめられ、泣かされたのですが……。

 家に帰っても、絶対に姉がいじめられたことは、言いませんでした。それを聞けばお

祖父さんや親が悲しむし、もし、いじめた子の家にでも親が文句でも言いにいけば、次

の日もっと姉がいじめられるのが、分かっていたからです。

 いじめられる悲しみ、馬鹿にされて遊んでもらえず、姉と2人で、ぽつんと皆が遊ん

でいるのを見ているのは、とても辛いことでした。

 その頃の学校は、私にとっては、行きたくない、いやな場所でした。

 ですから、私は大きくなったら、絶対に人を馬鹿にしない先生になろうと、小さいな

がら思ったものでした。

 私の母は尋常小学校しか出ていません人でしたが、困った人にはとても優しかったで

す。口でがみがみ言うよりは、態度で人間を差別してはいけない、ということを教えて

くれたように思います。母は10年前に亡くなっておりませんが、私はそんな母が今で

も大好きです。

 だから、好きな母親には、よけいに姉の事で心配させたくありませんでしたので、親

には、いじめられている事は、絶対に言いませんでした。自分の小さな胸の中にしまい

こんで、耐えていました。

6.私が4年生になった頃、ちょうど姉は、少女へと心も体も変わる時期になっていま

した。その頃になると、体のバランスが崩れることが多く、姉はてんかん発作が、年に

数回起こるようになりました。

 ある時、授業中にてんかんの発作が起こりました。その時の担任の男の先生が、私の

教室に来て「勉強出来ないから、お前の姉ちゃんを家に連れて帰れ。」と言うのです。

 保健室で寝かせてくれれば、5分程すれば、もとに戻るのに……。

 しょんぼりと、姉の手を引いて、家まで帰りました。何十年も経った今でも、その辛

かったことを思い出すと涙が出てきます。

 私は、その頃から先生になろうと思っていましたので、「なんていう先生や、ぼくが

先生になったら、こんなつらい思いをぜったい受持ちの子にはさせないぞ。」と心にち

かって、大きくなりました。

7.私が5年生になった時、姉は中学校へ。

 同級生の皆といっしょに中学へ行けると思って、喜んで行きました。

 ところが、授業のじゃまになるということで(姉は授業中は大変におとなしく、めい

わくをかけるのは、年に1回程てんかんを学校で起こしたときだけなのに)、「学校へ

はよこさないでくれ。」ということでした。

 ところが、姉にはその理由が理解出来ませんので、いくらいじめられても学校が好き

な姉は、友達の後について、止めても止めても、中学校へ行ってしまうのです。

 そのたびに、兄は中学校へ呼び出されて、むかえに行くことを何回も繰り返して、や

っとあきらめて、中学校へは行かなくなりました。当時の学校には、障害児学級はあり

ませんでした。障害児学級が学校に設置されるようになったのは、ずっと後のことです。

8.在宅になった11月の末、私が学校から帰って、寒いので姉と2人でいろりにあたりな

がら、留守番をしていました。いろりでは、大さななべでお湯をわかしておりました。

 私が、まきを取りに家の外へ出て帰ってくる2〜3分の問に、姉はてんかん発作を起こ

して、いろりの火の中に落ちていました。5年生の私が、大きななべをどかして、気を

失ってぐったりした重い姉を、必死に助け上げたのですが、下半身に大火傷を負って、

4日後に亡くなりました。姉の体が次第に冷たくなっていったのを、今でも覚えていま

す。「もっと早く助けてあげられたら、火傷も軽くすんだにちがいない。姉ちゃんを殺

したのはぼくだ。」と、何度も何度も思い、自分を責めました。

 しかし、反面「ぼくは明日から、姉ちゃんのことで、学校ではもう誰からもいじめら

れないし、からかわれることは無くなる。ああ、良かった。」という、きたない気持ち

が浮かんだことも事実です。

 今、教師として、ひょんなことから障害児教育にたずさわってから、「障害をもった

姉ちゃんのことで、これからは誰からもいじめられたり、からかわれたりする事がなく

なる。良かった。」そんな、人間として最も汚い考えを持った自分を、恥ずかしく思え

るように、私は気持ちが大きく変わりました。

 私の汚い考えを変えてくれたのは、障害を持っている子どもたちや、保護者の方々で

した。障害を少しでも軽くし、減らそうと、毎日一生懸命に、あきらめないで努力を重

ねている親子の姿から、私は多くの事を学びました。人間の見方や、生き方を身を持っ

て私に示して下さったのです。

 私の障害児教育への情熱は、幸せ薄く、若くして亡くなった姉への鎮魂歌(ちんこん

か)と、姉弟愛から出たのかもしれません。

 「障害を持った人や弱い立場の人達に、優しくして、一緒に歩いて行ってね。」と言

いながら私がこの世から去る日まで、姉は心の中で生き続けてくれることでしょう。


出典:先生から皆さんへ伝えたいこと
リンク:http://asn.gooside.com/kizuna/
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