至上の鎖 (その他) 82155回

2005/08/13 14:58┃登録者:えっちな名無しさん┃作者:◆5mSXuZ5GjE
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 三年の教室から生徒会室へ向かう廊下の途中に、一年の教室の一部が入っている。
 放課後都がその廊下を歩いていると、必ずその教室のひとつから弟の巧の声が聞こえ
てくる。飽きもせず毎日くだらないことを話していて、なかなか帰らない。
 三年だけ受験対策で終業が遅いため、部活のない下級生の大部分が下校しているタイ
ミングだ。
 つるんでいる仲間は三人ぐらいだろうか。
 その教室に差し掛かるときにいつもちらりと見るだけで、よくはわからない。
 生徒会の仕事をやるようになってから毎日同じ時間、ずっと通っている廊下。
 一ヶ月後には引継ぎがある。それが終わればわざわざ通ることもなくなるのだろうか、
と都は少し複雑な思いに捕らわれていた。
 弟たちの会話がとても楽しそうだったからだ。
 それにしても、と都はいつも思う。
 他の大きいコたちに囲まれていると巧は女の子のようだ。
 身長こそ伸びたが、線の細さは一部の女子に羨まれているし、髪も女の子以上になめ
らかだったりする。

(いっそ本当に女の子だったらよかったのに……)
 ちゃんとかわいがってあげられたのに、と子供の頃を思い出す。
 いつも通りすぎるだけだから、巧たちの会話は断片的にしかわからない。その会話の
顛末を想像してみるのは都にとって楽しいことだった。
 基本的には下世話な男子の会話に過ぎない。
 楽しいのは、家では知ることの出来ない、巧の別の顔を見ることが出来るからだ。
 細い身体に母親似の綺麗な顔のせいで、小さい頃から当然のように女男とからかわれ
続け、当然のようにそれに反発して、口が悪くて手の早いひねくれ者に育ってしまった。
 そう思っていたのだ。
 それが、知らないところで普通に楽しくやっているのを見て、腹が立って殴ったりも
したが、基本的に弟を見ているのは好きだった。

 
 巧はいつもぎりぎりまでサッカー部の練習をさぼっていた。
 監督が顔を出す時間はみんな知っているから、それまでは適当にやるのが部の伝統に
なっている。今日も部長自ら率先してグラウンドを使って遊んでいることだろう。
 入ったばかりの一年の癖にサイドハーフのポジションを取りそうだというので、一部
の先輩たちにはやっかまれている。
 だから巧は、それよりはクラスの気のあった帰宅部連中と話をするのが好きだった。
 彼らに言わせれば巧の中性的な面構えは使えるので、週末は彼らに誘われてよく街へ
出る。早い話が、ナンパ者の類だ。
 次の日曜に遊びに行く場所を決めていると、ふと視界を姉の細い横顔が横切っていっ
た。そろそろ時間か、と時計を見る。
 都の長い髪は午後の陽射しによく映えた。それに知性的な眼差しとほっそりした体つ
きが、ここの制服に本当によく合っている、と巧は思う。
 都が通りすぎるのを待って、仲間の一人が小突いてくる。彼女を気に入って、紹介さ
せられたこともある奴だ。こういう時には、後で姉の話になる。
 
(ああ言ってしまいたい)
 入学直後から巧は「あの」待鳥都の弟ということで、何かと周りに振り回されていた。
 手のつけられない乱暴者の姉が、聡明でおしとやかな女性の鑑みたいに思われている
のを知って驚いたものだ。
 誰も彼もが「すごく女らしい」とか「綺麗で上品」とか、おかしくてしかたがない。
(綺麗は綺麗だけど、ありゃ刃物だからなあ)
 巧の身体には、目立たないけれどあちこち跡の残った傷がある。
 全部都がつけたものだ。 


 次の日は、都は日直にあたっていた。
 今日はもう練習に出てしまっただろうかと巧のことを考えながら、足早に教室を出る。
 
 少し遅くなったけれど、弟たちの笑い声は教室から響いていた。
 普段あまり見せない微笑が浮かんでしまう。
 そのとき教室が大きな盛り上がりを見せ、いつもより明らかに大勢のはやしたてる声
が響いた。都はとっさに歩みを止めて耳をそばだてる。
「じゃあおまえ、あのまま最後まで行っちまったのかよ!」
 よく聞く巧の友達の声だ。
「まじで? 金持ってなかったんじゃねえの?」
「ちくしょう、こいつ連れて歩くのもうやめるか」
「あんなかわいいコをヤリ逃げかよ! 信じらんねえこいつ」
 それはいわゆる男子のくだらない体験談のようだった。
(今日はハズレ)
 そのまま通りすぎることにして、再び都が歩き出そうとしたとき、巧の声が聞こえた。
「しょうがねーじゃん、連絡先も何も教えてくれねーんだもん」

 足が止まる。
 心臓も止まったような気がした。
「何にしても」また違う男子の声が続いて、「これで巧も我らオトナの仲間入り! ビ
バ桐高ナンパ倶楽部!!」
「んな部活ねえっつの」
「とりあえず詳しく話してもらわんとなぁ!」
 
 そんなものを聞くわけにはいかない。
 都は来た道を走って戻り、教室の自分の席にたどり着くと、力なく座りこんだ。
(? ……あれって、そういう話? それに私、なんでこんなに慌ててるの……)
 一瞬止まったような気がした心臓が、今は激しく打ちつづけている。
(そんなに鳴らないで、痛いから……)
 落ち着くのに、かなりの時間が必要になった。
 再び生徒会室に向かう気にはなれた。
 グラウンドの運動部の声がかすかに風に乗って聞こえてくる。
 本当は自分も知りたい事、いつかはしたい事。
 小さい頃からよく知っている巧が、自分の知らないどこかの女の子と関係を持った。
それを聞いて興奮しているだけなのだ。
 刺激の強いゴシップも、そのうち慣れて平気になる。それまで我慢すればいい。でも
何を我慢すればいいんだろうか?
 
 一年の教室はもぬけの殻になっていた。
 扉が開きっぱなしになっているのを、律儀に閉めておく。
 勢いに任せてどこかに流れていったのだろう、都は少し拍子抜けしながらも、ほっと
して廊下を歩きはじめる。 

 2
 
「姉ちゃん、醤油」
「醤油がどうしたの?」
「……あのな」
「はい、お兄ちゃん」
 姉ではなく、妹のはるかから醤油入れを受け取りながら、巧は頬をふくらませた。
「ちぇ、機嫌悪いでやんの。今月二回目の生理か?」
 ガツン、と硬いものが巧の頭を襲った。
「ぐあ、痛ってえ! 皿投げるか普通。割ったらどうすんの」
「あんたが片付けるのよ」
「もー。やめようよ、お姉ちゃん」
 はるかが心配そうに巧の頭を撫でながら都のほうを伺う。父は知らん顔をしてテレビ
を見ている。巧ははるかの手を振り払いながら、
「そうだそうだ。……だいたい裏表ありすぎだっつうの」
 ガツン、とまた投げられる。
「……信じられん」
 異常に機嫌の悪い姉に、巧は顔をしかめるしかなかった。
 はるかが顔を向けてきて、
「お姉ちゃんってもともと乱暴者だけど、本来は直接殴る蹴るが持ち味よね。今朝はど
うしちゃったんだろ?」

 目の前にあるはるかの顔は、ショートボブのせいもあって心持ち都より柔らかい感じ
がする。巧はなんとなくその頬を指で突つきながら、
「まったく、おとなしくしてりゃいい女なんだけどな……」
 それに応戦して、はるかも巧の耳たぶをくにゃくにゃと揉みながら、
「一見平静なんだけど、すごい殺気感じることあるよ」
 それを払いながら巧はトーストをかじり、
「学校で顔合わす度にさ、……」
(いい女……)
 巧とはるかの感じの悪い会話を聞き流しながら、都はその言葉に捕らわれた。
 その都に巧は時々視線を向ける。
 
 無意識のうちに、巧の視線は都の姿をトレースする。極々客観的に見ても、かなり美
人の部類に入ると思う。
(細い割に柔らかそうなんだよなあ……)
 つい先日初めて女の身体というものを知って、巧の頭の中はそういうことでいっぱい
だった。
(つまんねえの)
 せっかく美人なのにそれが身内なのがもったいないのだ。
(姉妹なんてブスでいいから、その分他の女の子に回してもらいたい)

 意味のないことに文句をつけながら、トーストの残りを折りたたみ、紅茶で押し込む
と、
「あい、お先〜」
 巧は一番に家を出る。
「お兄ちゃん、お弁当持ってない〜!」
 はるかが慌てて出てくる。かばんにその弁当を押し込んでいるうちに都も出てくる。
しばらく三人で歩く。中学は方向が違うのではるかが途中で名残惜しそうに手を振って走
り去る。毎朝のことなのに何が残念なのだろうと、都と巧は同じことを考える。そうして
後は、二人で同じ校門へ向かってひたすら歩いていく。
 都の機嫌が悪いときも、特に変わりはないのだった。
 無理に話をするでもなく、気まずいこともない。話したいことがあればするだけだ。
 都も巧も、その時間が結構好きだった。
 お互いにそのことは知らない。


 3
 
 放課後のチャイムが鳴ったとき、巧は最初に今朝の都の事を思い出した。
(あれって、なんかあった……かな?)
 特に思い当たることもなく、仲間に声をかけられて、次の瞬間には初体験の時の、相
手の少女の姿を思い出す。
「また思い出してるだろ?」
「ば、馬鹿言え」
「ちょっとだけ心配してたんだよ」
「何をよ」
「おまえの初体験の相手は男になるんじゃないかってな」
「この野郎……」
 他の仲間たちも寄ってくる。
 
「そろそろ俺らも行くか」
 ひたすらしゃべっていると、仲間のひとりがそう言って立ちあがる。その時に初めて
巧は、都がまだ通っていないのに気付いた。
 仲間たちに声をかけて離れる。
 少し気になって、三年の教室の方に足を運ぶ。どの教室にも姉の姿はない。
(? 帰った?)
 何がというわけでもなく、巧は奇妙な感じを持った。

(練習かったるいし、たまには気にしてみてもいいって感じ)
 誰かに言い訳するわけでもないのに、頭の中でつぶやく。
 まだ何ヶ月も通っていない、なじみの薄い校内のあちこちを散策するように歩く。
 しばらく鞄をしょったままうろうろしているうちに、運動部棟の裏手の方にかすかに
話し声を聞き取った。
 姉じゃなければ、何か話のネタの予感。
 建物に駆け寄る。
 そして隠密行動のつもりが、何も聞かないうちに巧は立てかけてあったボードに蹴り
を入れる。
 大きな音を立てて板は次々と倒れ始めた。
「ぎょええっ! ……ああ、もったいないことを」
 なんとか食い止めようと身体を入れてがんばっていると、
「巧!?」
(やっぱ姉ちゃんじゃん)
 姉の都がこっちに歩いてくる。隣りに三年らしき長身の男が張り付いている。

 声を聞いた瞬間、はっとなった。
(今、声震えてたな……危ないとこを未然に防いだのか、俺。それとも……)
 名前は死ぬほど呼ばれたけど、震える声で呼ばれたことはない。
 隣りの男の素性も目を見ただけでわかる。タラシだ。こういうときは、変に絡まずに
連れ出さないといけない。
「会長サンがお呼びですが?」
「……あ。ありがと、行くわ」
 誘導するように校舎の方へ、都の前を歩いてやる。
 それを制止するように男が口を挟んだ。
「待てよ。その学年章、一年だな。一年がなんで呼びに来るんだ?」
 巧は思わず心の中で舌打ちしていた。頭のいい奴はタチが悪い。ストレートにいく。
「俺、この人の個人的な関係者だからね。この人の嫌がることはしたらだめですよ、先
輩」
「名前を言えよ」
「俺は、『待鳥』巧です」
 巧がちょっと挑戦的だったかと思っていると、男はなんだ、と軽く笑って、
「覚えとくよ」
 そんなふうに去っていくのが巧には鼻についた。
(あれじゃ、姉ちゃんは普通にいやがるだろ)

 二人で校舎に入っていって、しばらくして都は思いきり巧の制服の背中をつかんでい
た。
「とっ、どうしたの、姉ちゃん」
「う……」
 巧が振り向くのに合わせて手を離してみたものの、都は、またすぐに巧の胸元を力い
っぱいつかんでしまっていた。
 何か言おうとするのだが、言葉が出ない。態度に示すことも出来ない。
 顔を伏せたまま、
(感謝してるって……巧に言うのはどう言えばいいの?)
 そういうとき、都はいつもこう言うのだ。
「よけいな事しないで」
 それは胸元をつかみ上げるいつもの自分につながる。
「姉ちゃん」
「何よ」
「……なんで無理矢理いつも通りにしようとしてんの? とか言っちゃだめ?」
「……っ」
 巧の目を見ることができないのはなぜだろう。手を離す。
 それを追うように巧の手が伸ばされる。
 都が身体を引くのを抱きとめて、巧はそのまま、姉の身体を腕の中に包み込もうと両
手を閉じる。

 巧が? と驚く間もなく、都は弟に抱きしめられていた。
 暴れて逃れようとしてもいつものようにいかない。
 どうしても力が入らなかったのだ。
 思いつく理由はどれも正しいような気がする。
 
「あいつ、クラスの奴?」
 巧の問いかけに、抵抗をやめて言葉を探す。
「去年、同じクラスだった」
「そ。今は何組?」
「三組って、言ってたわ」
「三組か……そっか。ウン」
「?」
「いや、気にしないで」
 いつになく丁寧なしゃべり方をする巧の声を聞いていると、気持ちが落ち着いていく
気がする。
(巧の心臓の音を聞いているからだ)
 弟に抱きしめられていることに抵抗は感じない。今しがた悪質の塊から守ってくれて、
落ち着かせてくれている、血を分けた者への素直な愛情。それを実感する。
「できることなら、さ。全部ぶっちゃけて欲しいな。協力は出来ると思うし」
「もう半年くらい、しつこかったわ」

 話しておいたほうがよい、というよりは話したくて都は口を開く。巧にだけ
は何の誤解もされたくないからだ。
「もう、放してくれていいわ」
 背中にある巧の腕から力が抜けて、ゆっくり放される。
 身体を離しながら呼吸を整える。
 促しておきながら、弟の感触が消えていくのを強く意識してしまう。
 都の脳裏には、先日の巧の初体験話が急に浮かび上がってくる。だがそれも、巧の最
後の言葉にかき乱されていった。
「これから卒業するまで俺が、姉ちゃんを大事に守ってやるから」
 そう言って、子供みたいな顔をして笑ったからだ。 

 4
 
(何様のつもりよ、巧の癖に)
 朝目を覚ますなり昨日のことを思い出し、都は怒り狂っていた。
 すっかり立ち直ってしまって、元通りの都だ。
 あんな男に何もされてなんていないし、いざとなったら自分のほうが強いんじゃないか。
(私もまた、なんでおとなしく抱きしめられてるの……)
 教科書を鞄に叩きつけるように放り込み、乱暴にパジャマを脱ぎ捨てる。
(だいたい、毎日のように部活か夜遊びで、そんな暇あるの?)
 
 その疑問の一部はその日の授業が始まる前に明らかになった。
「や。元気? 待鳥さん」
 今年はクラスの違う、サッカー部の主将をしている男が都の所に訪ねてきた。巧が言う
には大馬鹿者だということだが、三年の間では人格者で通っている。その二要素が両立す
ることもあるのかもしれない。
「遠山君……ウチのクラスに用?」
「その冷たい目がいいなあ、相変わらず。君の弟に頼まれたんだけど? 喉元過ぎれば、
で注意を怠らないように、ね」
「……それ、巧が言ったの?」

 反射的に都が眉をつりあげるのを見て、遠山は一瞬たじろぐものの、
「へえ、そんな表情もできるんだな」
 感心するように都の顔を覗きこむ。あわてて都は席から立ちあがって距離を取る。昨日
からずっとなにかにつけ男性というものを意識させられているような気がする。
「今後運動部連中の目の届く範囲で危ない目にあうことはないと思うから。まあ、最悪俺
がナイトになってやってもいいぞ?」
 人懐っこい笑顔が再び近づけられる。
 背もそれほど高くなく、威圧感もないが落ち着きがあった。都はそういう男は嫌いでは
ない。ただ、心が動くことがない。
「ごめんなさい。せっかくだけど」
 改めて席に座りなおしてバリアを張る。そのまま都がノートを開いて鉛筆を取り出すの
を見て、遠山は軽く肩をすくめ、
「いや、悪かった。でも安心してくれていいよ」
 そのまま遠山は自分の教室に戻っていく。
「……」
(何が、俺が守ってやる、よ。他人任せじゃない)
 帰ったら巧に抗議しようとじりじりしているうちに、授業が終了する。
 多くの者がまっすぐ帰っていく。
 都も鞄を取り、帰り支度をしていると廊下に巧がいるのが目に入った。二人の女生徒に
挟まれて楽しそうに話をしている。

 学年が変わって都の仲のよい友人は皆隣りの二組に入ってしまった。そのうち二人が巧
を気に入って、こうやってよく絡んでいるのだ。
 
「やだぁ、じゃあレギュラー当確なの? やっるー」
「なんかヨソのごつい選手にいじめられそう。困ったことがあったらいつでもお姉さんた
ちに言ってきてね?」
「ちょっと由美さんたちじゃ力不足だなあ。もっとこう、俺の魂を揺さぶるいい女でない
と」
 終業直後の喧騒の中、聞き慣れた巧と友人たちの声が聞こえてくる。
「言うわね……最近生意気よ巧クン」
「じゃあさ、じゃあさ、やっぱりあの人みたいなのがいいんでしょ?」
 二人同時にあの人、と言って近づいてきた都を指差して悪戯っぽく笑った。
 巧も都をまっすぐ見て、微笑みかける。
 距離が詰まるまでしばらく見詰め合ってしまう。
 
 三人の目の前に来て、都は順番ににらみつけながら、
「指なんて差さないでよ」
「まーた、都、機嫌悪いー」
 両横に髪を縛った由美が巧の右腕を抱えこみながら言うと、
「いや、この際都にも確かめておこう」
 と反対側、巧の首に腕を巻きつけたまま、長身の環が邪悪な笑みを浮かべる。

 巧にぶらさがっている由美はともかく、巧とほぼ肩を並べた環は女子バスケの部長をし
ている。もう知っているのだろうと都はため息をつきながら、
「何もしてくれなくていいのに」
 そのまま通過しようと試みる。
 当然のように親友二人が両手を引っ張って阻止した。
「まあまあまあ……」
 解放された巧が伸びをしている横で、
「んで、そこらじゅうで噂になってるわけよ、都ちゃん」
「わけよ、都ちゃん」
「由美はいいから」
 環が慣れた感じで由美を押しのける。
「ちぇっ」
 茶々を入れていた由美はあっさり引き下がると、巧の背中にぶら下がり、都の方を好奇
心たっぷりに振りかえった。環が話を続ける。
「待鳥都、名前負けしないみんなのアイドル、至高のクールビューティ! その危機に運
動部は立ちあがったのです!」
 環はポーズを取って右人差し指を高く差し上げた。
「だからね……」
 一転して都の肩に優しく手をかけて、
「安心して。敵ももうあきらめてると思うわ」

 手をそのまま都のあごに沿わせ、顔を近づける。
 都はもう飽きたという表情で、
「……私に告白なんてしないでね」
「都……あんたそんな目で私を……」
 つれない都の言葉に芝居がかったリアクションを返しながらも、環は下がっていって、
由美をぶらさげたままの巧に抱きついた。
「私は巧クン一択なのよ」
 言うが早いか巧の顔に両手を添え、唇に唇を押し付けていた。
「ちょっ……環っっ!?」
 そう叫んだその時の都の顔を、巧は見損ねたのだった。目の前には目を閉じた環の悩ま
しい表情があったのだから。
 
「ずっるーい!」
 由美の声が廊下に響き渡り、
「私にも貸してよう」
 と背中で暴れるのを振り落とし、巧はなんとか環のくちづけも退けることに成功する。
「んが、俺で遊ばないでっていつも言って……」
 都の拳がそのゆるんだ顔面に飛んできた。

 5
 
 巧と都は、下校途上にある。
「一応しばらくついてるけど、大丈夫だと思う」
「何も聞かないのね、巧」
「姉ちゃんは思い出したいの?」
「お断りよ」
「だろ?」
 しばらく考えていた巧が言葉を繋ぎ、
「ここんとこ機嫌悪かったから。はるかじゃないけど俺だって心配してたのよ、これでも」
 にっこりと笑う巧の横顔をまともに見てしまって、都は赤くなる。
 巧に見られないように顔をそらしながら。
 どうしても、一言でも言っておかなければと思って、都は言った。
「……ありがと」
「あ、ああ……」
 巧の声が戸惑っているのがわかる。
 中学に上がって以来。死んだ母の代わりに弟たちをしっかり育てようと空回りしていたことがあって、それから少し都はかたくなになった。
 
「姉ちゃんがお礼言った……、こら、け、蹴るな!」
「なによ」

 巧が避けたのが都は気に入らない。ぶんぶんと鞄を振り回し、
「だいたい、人の手を借りておいて何が守る、よ」
「おわ! それだって俺の人徳じゃん? それに」
 巧の身長が都を追い抜いたのは二年前。今は十センチ以上の差がある。
 暴れる都の腕をやっとのことで捕まえて、巧はそのまま引き寄せる。都は自然巧を見上
げてにらんでいる。
「それに、俺ほんとに守るよ?」
 そんなことを弟に言われた時に、目を見ていてはいけない。その目を信じたら捕らわれ
てしまうから。
 都は目を伏せて逃れると、巧から離れて歩き始めた。
 巧がそれに気付いてわざわざぴったりくっつく。むきになって都が足を速めると、巧は
ますます楽しそうについて行く。
 
「何をやってるんだか」
 こっそり後をつけていた由美が環と顔を見合わせる。
「前から思ってたけど。都ちゃんかなりブラコンだったりしない?」
「だよな。おもちゃの巧クンに遊ばれてるし」
「あ、巧君が手振ってるよ。都ちゃんたら気付いてない」
 手を振り返す由美の後からふと見ると、巧と目が合う。
(あっ……)

 もう、巧は都の相手に戻っていた。
 とっさに反応できなくて、環はちょっとがっかりする。
 その様子を見ていた由美が、
「私は楽しんでるだけだけど、環ちゃ〜ん?」
「な、なんだよ」
「そっちも前から思ってたんだよね。あんたホントは本気でしょ〜」
「……」
「ありゃ。やっぱり」
「都に言うなよ。……帰る」
「ちょっと、待ってよう」
 踵を返した環を小柄な由美はあわてて追いかけていく。
 
 巧は都の心境を、実は結構わかっていた。
 環たちが窓になっていつでも覗くことが出来る。それは後ろめたくはないけれど、少し
気恥ずかしかった。
 母親を失った時、都は七歳、巧が五歳。そしてはるかが三歳だった。はるかはよくわか
っていなかっただろう。
 それから自分たちの小さな世界で暮らしていた。
「姉ちゃん昔、はるかにやきもちやいてただろ?」
「な、何の話?」

「小さい頃さあ。俺が姉ちゃんにべったりで、姉ちゃんは俺とはるかをまとめて面倒見て
て」
「……」
「そんではるかが俺に張りつくようになってから、俺はずっとはるかと遊んでたけど」
 車が通りすぎていく。
 風に髪をなびかせる姉の歩く姿を眺めて歩く。
「姉ちゃんが甘えて欲しそうにしてたの、知ってたぜ」
 姉の顔が少し赤くなるのを見た。
「俺は弟やるより兄貴やるほうがなんか面白かったんだよな。でももっと弟もやっときゃ
よかったかな、と……」
 都の反応がないので、続ける。
「姉ちゃんが俺に暴力振るうのって、それで怒ってたんだろ」
「もう、忘れてたわ」
 都は一言だけ、そう返した。いつもの落ち着いた表情に戻っている。
「うん、昔の話。だから、こっから今の話」
「え?」
「ほんとに、意地張らないで俺にまかしてね」
 逆光の夕日の中でそう言って笑った巧が、都には弟に見えなかった。
「おかえりー。ああっ、お兄ちゃんまたお姉ちゃんに殴られたの?」
「なんですぐ私だと思うの?」

「違うの?」
 玄関に迎えに出るはるかとの会話は、だいたいいつもこういうものだ。
 
 
「ほらん、言った通りでしょ?」
 由美が廊下で待ち構えていて都の肩にぶら下がった。
 巧はもう教室までは来ない。あれから一週間何もない。
「環はどうしたの?」
「えー、なんか球技大会の集まりとか言って、すぐ行っちゃったよ?」
「そうだった。私も行くから、じゃあ」
「あん、また明日〜。巧君によろしくねぇ」
 由美の声を背中に受けて歩く。
 元通りの毎日に戻っていく。巧がたとえ何もしていなくとも、言葉通りそうなったのな
らそれは巧のおかげだと都には思えていた。
 ただそれ以上のことは意識しないようにしていた。
 何事もなく卒業して、一人暮しをして大学に通えればいいと思う。そうすれば何も心配
はいらないだろう。とりあえずあとしばらくのささやかなイベントを楽しみに廊下を歩く。
 いつものように巧たちの笑い声が響いている。
 だんだんと話の中身が聞こえてくると、少しでも長く、と都の足は鈍くなっていく。
 だが、その日の話は少し勝手が違っていた。

 6
 
 巧は最近よく眠れなくて、その理由について考えることが多かった。
 もう一度あの少女に会いたい。でもそれは建前で、要するにセックスをしたいだけだと
いうことを自分ではわかっている。
 好きになったわけではない。知りたい盛りにめくるめく体験をしてしまって、それっき
り放り出されたままなのだった。欲求不満だ。
 ボールを蹴っている時だけは無心になれる。だが一度グラウンドを離れるとすぐに皮膚
に柔らかい感触が蘇ってくる。なりふりかまわなければ相手がいないではないが、ケダモ
ノのように暴走することを許さない何かが頭の中にある。
 姉の友人たちにじゃれつかれるのも少し苦痛になっていた。いつもみるみるうちに制服
の前を勃起させてしまって隠蔽工作に難儀する。
(由美さんも環さんも、ついでにはるかも……姉ちゃんも。手出せないのに限ってかわい
いのはなんでだ……)
 そんなこともあって、巧たちの下世話な会話には熱が入る。それがすこしエスカレート
しただけだった。少なくとも巧はそう思っていた。
 
「同じだろ、そんなの」
「ていうかさ、やっちゃいけないことってやりたくなるじゃん?」
「いや、それとは話が全然違う」

「そうだよな、それだとやっていいことなら気持ちよくないのかってことだもんな」
「おまえら理屈はいいんだ。要は『きょうだいでやると普通より気持ちいい』っていう説
が本当かどうか。科学的に検証するのだ!」
「俺はそんなの聞いたことねえんだけどな」
「科学ってなんだよ!」
 ひとりが笑い転げる。話が幾つかに分かれ始め、
「ほら、マンネリになったカップルが刺激を求めてSMに走ったりするじゃん。そういう
意味できょうだいでするっていう背徳感。最高の刺激じゃないか」

「見てきたようなことを」
「遺伝子だよ、やっぱ。遺伝子が似てると身体の作りが近いから、アソコの相性もばっち
りで気持ちいいんだよ、多分」
「ソレだ!」
「言い訳なんじゃねえの?」
 
 その巧の口から出た一言に、一同が注目した。
「な、なんだよおまえら」
 なぜ自分のときだけ、と抗議する巧に何人かが詰め寄る。
「詳しく言ってみな、ん?」

「何言ってんのよ。悪い事したと思ってるから快感のせいにしてるだけじゃん? なんか
気持ちよかったつもりになってるだけだろ」
 離れたい話題なので、巧は冷たい。
「おまえの嘘臭い意見はいい。問題はだ」
 ひとりが話を引っ張りにかかる。
「おまえがあの麗しのお姉さんに何も感じないのかってことだ」
「そんな話だったか?」
「この際そっちを追求するか」
「おまえらな……」
 巧は本当に、そのことに触れたくない。姉や妹じゃなければ声をかけたくなるに決まっ
ている。それも単純に欲望の対象としてだ。そこに大きな壁がある。
(恋愛感情があるっていうなら、ちょっとは考えないでもないけどな)
 現実にはそれもどうだろうか。
「エロ漫画の読み過ぎなんだよ、おまえら」
「なあ巧。こう考えるとどうだ? もしかしたら本当にきょうだいでする方が気持ちいい
んじゃないだろうか、だとしたら、弟とか妹とか、そういうのがいる奴だけが至福の快楽
を得られるんだ。これは特権だぜ」
「おまえ、頭おかしいんじゃねえか?」
「いいから黙って言わせれぇ!」
 他の一人が興奮して巧を黙らせている。

「どうだ。あの姉さんだけじゃない。おまえには妹もいただろう。巧、おまえはせっかく
の環境を宝の持ち腐れにしているんじゃないのか?」
「お……」
「何、妹もいたの? どんなのよ、写真!」
「俺知ってる。姉ちゃんはちょっと近寄りがたいけど、あの子はすげえいいよ! かわい
いし普通に口きいてくれるし」
「名前は?」
「うるせえ! 名前はキム子で身長2メートル。林檎を握りつぶす逸材だ」
「おおっ、必死に隠してやがる! ひょっとしたら巧、その妹が好きなのか!」
「そういうことなら話は早い。押し倒して事の真相を報告するのだ!」
「わかった、もういい……」
 巧は根負けして机にへなへなとうつ伏せた。
「おまえらの言う通り姉ちゃんも妹も押し倒してアソコの具合とか反応とか相性をつぶさ
に報告するからもういいだろ?」
 場が巧のまさかの発言に固まり、間があって色めきたとうとした瞬間、巧が、
「なんて言うと思うか、この駄目人間ども!」
 と立ちあがって、こきおろした。
 一気に全員からブーイングが起こった。

「まあな、正直うちの姉ちゃんは申し分ないいい女だしな、考えなくもなかった。ちょっ
とやる気出てきたぞ。だが、おまえらはほんのチョッピリも楽しませてやらん! こっそ
り一人で楽しませてもらう!」
 ついには靴のまま机に上って踊りながら巧は煽りまくっていた。
 てめー、この野郎、と怒号がうずまいて、誰もがいつにない元気さだった。
(うーん、ちょっとやりすぎか)
 そう思いつつもやめられない馬鹿騒ぎに巧は時間を忘れる。
 
 都は柱の陰から一歩も動けずに固まっていた。
 目を見開いて、今までで一番酷い動悸に胸を締め付けられている。
 下品な会話とインモラルな題目、理解の外側にある無秩序。
 巧がその場のノリを最大限に利用して遊んでいたことを、都はどれほども理解していな
かった。そして自分が何に衝撃を受けているのかもよくわかっていなかった。
(あのときみたいに……)
 邪な者から守ってくれた時みたいに。
(もし巧が目の前にいたら、私はたぶん何かを言ってしまう)
 自分でも気付いていない何かが口をついて出てきたらどうするのだろう。
(行かなきゃ)
 階段を降り、迂回路を通って生徒会室を目指す。
 頭の中で、全ての人間関係の再定義を始めてしまいそうだった。
 父の屈託ない笑顔が浮かぶ。
 はるかの笑顔。そして、巧。
 いつも必要以上に巧にまとわりつくはるかの、イメージに語り掛ける。
(はるか……はるかは巧のことが好き?)
 答えが返ってくるはずはない。つぶやきながら歩く。
「私は、嫌いよ……」 

 予選大会のレギュラーが確定し、巧は練習に余念がない。
 生徒会の引継ぎを無事終えた都は、それからの放課後をグラウンドで過ごすようになっ
た。
 一度だけ、あの男が通りすぎるのを見たことがある。
 緊張した。そして目ざとく巧と、練習パートナーをやっていた部員がいっしょに話し
掛けて来て、その緊張から解放される。
 それはたった一度のことだったが、そしてあの男はたまたまそこを通っただけだった
のだが、都は軋轢そのものからも解放されていたのだ。
 そのことを思う。
 都の目の前で巧は、ミスを繰り返しながらも、ひとつずつテーマをクリアしていく。
 複雑な連携になるともう都にはその意味がわからなくなったが、巧の身体の動き自体
はサッカーの動きであり、「上手い」とわかる。
 その動きをずっと目で追い続ける。
 
「いやー、こりゃまた大胆なことだねえ」
「環……」
 フェンス越しに鞄を持った環を認め、
「終わったの」

「こっちは室内だからそう長時間続けらんないのよ。もう暑くて」
 がちゃがちゃとフェンスをいじりながら、
「都は巧クンにべったりだし」
「約束を果たしてもらってるだけよ」
「いーなー都。私も巧クンにつきっきりで守ってほしい……」
「後ろで後輩たちが見てるわよ。大人気じゃない、環」
「女はどうでもいいの。ああ、緒戦敗退してサッカー部の応援に専念しようかな」
「先輩、ヒドイ! がんばって優勝しようって……」
 環のフォロアーとおぼしき女子バスケ部員の一部から悲鳴が上がる。
「ほんと、酷い先輩……そういうことをするなら応援も行ってあげないし、友達もやめ
る」
「まあ、マジになんなって。それとも巧クンを独占していたいからとか?」
 外野を片手間であしらいながら、環は笑っている。
「この大会で引退だしさ、その後の時間の使い方を巧クンに相談しないとね」
「受験勉強すればいいじゃない」
「するわよ? 巧クンと。っていうかそっち入れてくんない? あ、私だけ」
 後輩たちの悲鳴がまったく聞こえないふうに、環は移動してきて都の隣りに座った。
「大会終わったら、由美の奴とも遊んでやんないとなー」
「私は勉強するから、誘わないでね」

「誘いませんとも、もう他に誘う相手は見つけております、お姉様」
 環があくまで挑発する。
 挑発だとわかっていて都はこれまで普通に受け流してきたのだが、今の都に流す余裕
はない。顔には出さない代わりに、心の中は酷い状況だった。
「勝手にすれば」
「……」
 環は背伸びをして、グラウンドに目を移した。
「おー、やってるやってる」
 ベンチにだらしなく腰掛け、短い髪を触りながら、
「あ、ボレーシュートだあ。やるう……」
 グラウンドの反対側の土手の上、サッカー部のファンらしき女子の一団が騒いでいる
のが目に入った。半分は三年のレギュラークラスの選手たちに声援を送っているが、残
りは全て巧の名を呼んでいる。一挙手一投足に反応されて、それでも当の巧がそれを意
識している感じはない。
 環はぼんやりとそれを眺め、飽きると、
「待鳥くーん、だってさ」
 都は応えず、目の前の世界に見入っている。
 環は肩をすくめ、
「あのうちの何人かはそのうち巧クンに告白するね、間違いなく。がんばらないと横か
らさらわれちゃうよー」

「それ、私に言ってるの?」
 その都の声の低さに環は思わず引いてしまって、なんとか気を取りなおすと、
「ちょっと心配でさー。都、オトコとつきあったことないじゃない」
「要らないもの」
「そこなのよ。巧クンがいるから、でしょ? もう18なんだからさー、ブラコンは卒
業しないと」
「……ブラコン?」
「だからそうやって顔逸らしたまま凄まない」
「……」
「あ、ほら。練習終わったみたいよ? お疲れー」
 環が立ち上がって、タオルを振り回しながらサッカー部員たちの方に駆け出すのを都
は切なく見送る。
 確かに恋と呼ばれるものをよく知らない。
 恋愛映画を見たり友人たちの話を聞いたりしてそうかと思うものの、どこか他人事だ。
 手紙で、口頭で、一方的に想いを打ち明けられて戸惑う。
 でももしそれが既に知っている感情のどれかだとしたら?
 
(……なんか、うーん)
 巧は環から投げられたタオルを使いながら都のほうを見て、少し注意を引かれていた。
 顔馴染の三年生たちと話しながら、時々環が笑い声を上げている。

「遠山、あんたはエライ!」
 それに引き戻されて、巧は環の横顔を見やる。
 目元の締まった綺麗な顔だ。
 姉の親友でなければアプローチしていたかもしれないと、出会った頃のことを思い出
した。そういえばなぜ姉に気兼ねしたのだったか。
(環さんって……年下好きそうだし)
「なあに? 私に見とれてたか」
 そんなふうに目ざとい環の相手をしながら、巧は都の様子に絶えず気を配っていた。
微妙な違和感が消えなくて胸のあたりがざわついている。
「いたっ!」
 目の前がおろそかになってしまって、フェンスに体当たりした巧を見て環が大笑いし
た。そこで見られていたことに気付いたらしい都が立ち上がって、グラウンドに背中を
向けた。
「いけね。急ぎます、先輩お先」
 後片付けと着替えを手早く済ませて巧が出てきたとき、都はいなくなっていた。
 探してみると、環もいない。
 と思ったら思いきり後ろから抱きつかれていた。
「やっ。お疲れ」

 明らかに女、背中に押し付けられる胸のふくらみと体格ですぐに環とわかる。ついそ
の感触に浸ってしまい、あわてて、
「あのね。いいけど」
「あら、うれしい」
「姉ちゃんは?」
「帰っちゃったかも」
「ええー? なんだよそれ」
 環を引きずって、巧は都を追いかけようとするが、背の高い環につかまえられている
ので苦労する。
「……なんで邪魔すんの」
「んふふー。都に取られたくないから」
「はあ? 姉ちゃんもなんか変だし、環さん、俺の姉ちゃんじゃないし……え?」
「私も帰るわ」
 環がさっさと身を翻し、手を振る。
 応えておいて、巧は疑問符を回転させながらも、都を追いかける。
「あんまり都を困らせんなよー」
 少し投げやりな調子の環の声が背中に届く。
「ありゃあ欲求不満だからなー」
(なんのこっちゃ。欲求不満はこっちだっての) 

 追いかけはじめて、すぐに歩いていく背中を見つける。
(まだなんかあるんじゃないか)
 姉に感じる違和感から、巧の頭にはそれがある。
 姉を悩ませているものに興味があった。
 しばらくその後ろ姿を眺めて歩いた。
(ああいう制服のスカートってのは、お尻の形がいまいちわからなくてダメだよ。で
も、……ほんっと、手足は細いなあ)
 姉の身体について、巧が思うのはまずそのことだった。
 昔は巧も姉以上に線の細い子供だった。
 
 髪をわずかになびかせながら、都は巧の前を行く。
 巧は、今の不安定な姉に引き付けられたままの自分に、少しいらだっていた。
 姉が何を考えていても、今までは大した問題ではなかったのだ。
 今は無性に気になって、そしてそれに簡単に左右されそうになっている。
「またなんかあったろ」
 追いついて並びながら、巧は意識して軽い調子で聞く。
「別に」
 そっけなく、都は巧に顔も向けずに返して歩いている。

「そっかな、ここんとこ変だぞ。脳波乱れっぱなしって感じ?」
「変なこと言わないで」
 そのまま都は黙り込んでしまう。そして、しばらく考えながら歩いていた巧の、突然
の一言に乱される。
「姉ちゃん、恋人つくれ」
 
 都はそのまま歩いて、苦労して、やっとのことで言い返した。
「……何言ってるの?」
「環さんが言うにはさ」
「やっぱり環なのね……」
「なんだ、言われてんだ? あの人、言いにくいこと平気で言っちゃうからいいよなあ。
姉ちゃんの友達ってみんなああだよね。その割にっていうか、そのせい? 姉ちゃんく
らいになったら選び放題なんだし、馬鹿だけどいい奴いっぱいいるぜ?」
 そのあとの言葉に、都は捕まってしまった。
「姉ちゃん欲求不満なの?」
「環に何を言われたのか知らないけど」
 知っておきたいことがある。
 まさかブラコンなんて言葉を聞かされていないか。
「放っておいて」

 聞けないから結局そう言う。
 
 連れだって門をくぐり、玄関を入って靴を脱いで、階段を上って、そこではじめて都
は巧を咎めた。
「どこまでいっしょに来るのよ」
「姉ちゃんの部屋まで」
「来ないで」
「あれ、冷たい」
 その一言で巧があきらめて引いたものと都は思った。
 扉がちゃんと閉まるのを確認しなかった。
 明かりをつけずに、鞄を椅子に置いて制服の胸のリボンを解く。
 スカートのホックに手をかけて、部屋の反対側にくるりと身体を反転させた時、自分
のベッドに腰掛けて楽しそうに見ている巧が目に入った。
 そのまま身体が固まる。
「あ、もう振り向いちゃった」
「……何してるの?」
「姉ちゃん、その声怖すぎ」
 巧に指摘されるまでもなかった。
 思い出せる限りの記憶の断片が、矢継ぎ早に都の心を灼いていた。
 巧の声と言葉、日常的に目にする手や足の動き。
 ボールを追いかける機能的な動き。

 昔から変わらず薄い体と綺麗な顔、髪。
 それを見てきた都の中で、確実に何かを形作っている。その声は、それを身体の外へ
弾き出そうとする刃だ。
 抱きしめられた感触は何度でも蘇ってきた。
 それをどこにも逃がすことが出来ないのでつらかったのだ。
 都にも自分が出した声に聞こえなかった。
 
 巧はその都の目を見て、得体の知れない違和感を感じた。
(なんなんだこれは)
 眉をひそめてしまってから、あわててにっこり笑ってみる。
 いつものように叩き出されるべきだろうと思って、巧は姉の肩に手をかけようとした。
 ふと「違和感」の正体を思いついて、恐れつつも言ってしまった。
「ひょっとして姉ちゃん、今、欲情してる?」
「……ぃ…………」
 
 嫌だ、という言葉が都ののどで止まった。
 本能的に蹴り出した右足が、立ち上がった巧の足の間を抜けた。あまりに直接的な問
いかけのせいで、身体がまともに動いていなかった。軸足になった左の膝が抜けて、都
の身体はフローリングの床に叩き付けられようとしている。
「あぶね! ……っ」

 巧がとっさに出した両手で都の腰を掴み、落ちていく上体を追って、そこから片手を
背中に入れ、そのまま都の身体を横に逃がしてベッドの上に放り出した。
 逃がしきれず、巧も身体を持っていかれる。
 ベッドの上で身体が上下になった。
「あ……」
 息をのんで下から見上げる都に、巧はぎりぎりまで顔を近づけ、
「あぶないって」
「ご、ごめ……」
 そのきわどい距離に都は即座に反発して上体を捻った。薄暗いままの室内でも、この
距離で今の顔を見られるのは怖い。
 その動きがよくなかった。スカートがめくれて、あわてて出した手で巧の足を払い、
巧の身体が都の上にまともに落ちた。
「や……」
 瞬間的な圧力に押され、都は胸を詰まらせた。
 頬と頬が擦れ、巧の頭が都の頭の真横に落ちる。
 都は硬直したが、巧はすっと上体を起こして、都を覗き込んだ。
「姉ちゃんって、やっぱ柔らかい」
 身体が震え始めて、都は頭の中でのたうつイメージの嵐に飲みこまれている。
 巧が目の前でにこりと微笑んだ。
「落ち着けって。なんなら、俺が一時の慰めになってあげよう」

 そんなことを言って、巧が都の細いあごに指をかけた瞬間、都は切れた。
 
「人の気も知らないで!」
 わけがわからなくなって、めちゃくちゃに巧を打った。
「じょ、冗談だって!」
 巧は、都の肘や膝を肉のないところに食らって、廊下に逃げながら、
「いたた……、冗談、ちょっと仕返ししようとしただけじゃん」
 都には聞こえていない。
 完全に目がすわっていて、手の施しようがない。
 巧は容赦ない追い討ちをもろに受け、
「つうか、姉ちゃんかわいすぎ」
 最後に余計な一言を言った。
「そういうことを……言わないで!」
 都の、体重のうまく載った偶然の一撃に、巧の身体が綺麗に飛んで、階段を落ちた。
 聞いたことがないような大きな音が響き渡り、巧は下の廊下でひっくり返ることになっ
た。
(なんでこういうときにはるかがいないんだ)
 右腕に走る激痛と、階段を蒼くなって駆け下りてくる姉の姿に、
(今自分がどうなってるのかまったくわからん。姉ちゃんがなんか言ってるなあ、玄関
の扉の音? 遅いんだよ、はるか)
 巧の意識は薄くなっていく。最後に顔に熱いものが張りつくのを感じて、不思議と痛
みが弱くなった。 

 一度気を失ったのか、ぼんやりしたままだったのかよくわからないまま巧は玄関に横
にされていた。はるかがしきりに声をかけてくれているのに気付く。
「あのな……こんなことで救急車なんか呼ぶな」
「いいから!」
 都の取り乱した声に目が点になる。
 誰のせいだと言いそうになりながら、一応担架に素直に乗せられてみる。
 送りつけられた、夕方の病院内を往復した結果、いつのまにか検査入院することになっ
ていた。
(ばか姉ちゃんめ……三日も……あんな大騒ぎしなきゃすぐ帰れたのに)
 だが、ギプスに固められた右手が、おとなしくしろと痛みを伝えてくる。
 たかが折れただけで意外に消耗するものだと、変に感心する。
 鎮痛剤かなにかの作用で頭がはっきりしてこない中、巧は一連の都の行動をぼんやり
思い返す。その裏にあるものに全く気付かないというわけには、やはりいかない。
 本気の相手に冗談で応じた罰のようなものだ。
 でも、わからない。
 なぜ、そうなのか。
 そう思いながらも、ゆるんだままの頭で考えている。
 姉に触れる方法、姉を喜ばせる方法を。

(一回姉ちゃんにじかに触ってみたいなあ……)
 そしてまだそんなことを考えていたりする。
 検査は明日からになって、とりあえず病院のベッドで退屈な時間を過ごす。
 巧は誤って階段から落ちたと主張したものの、はるかには早々に、都に突き落とされ
たことがばれてしまっていた。
「どう見たって現行犯じゃない。お兄ちゃんいったいどんな怒らせ方したのよう。お姉
ちゃんも! ここまでやるなんて、ほんと信じられない」
 ひとしきり騒いだはるかを父の透が引っ張って帰ると、都は時間ぎりぎりまで、と巧
の世話を焼きはじめた。
 そのうえ明日は休んで検査に付き合うと言い張っている。
 
 巧は気が気ではない。
 都は事の原因には一切触れずに巧の相手をしている。姉が今何を考えているのか、想
像するのも恐ろしい。
 病院の真っ白なシーツを引っ張りあげて、姉の視界から逃げる。
(なかったことにしてしまいたい、あー、このまま便所に流してしまいたい……)
 目を閉じて考えようとするとイメージにつきまとわれて悶えてしまう。
 それでも体力の消耗があったせいか、深く眠れそうな気がする。
「ねむ……」
 伝えるともなく言った後にもう、巧は眠っていた。

 
「……」
 巧が眠ったのに気付いて、都はとたんに落ち着きをなくしていた。
 張り詰める必要がなくなって、なにをしていいかわからなくなる。
 部屋を見渡す。
 四人部屋だが、部屋が余っているのか他のベッドに患者はいない。
 することがないので、無意識に巧の寝顔に見入ってしまって、気付いて目を逸らす。
顔が熱くなる。何度も見てしまう。
 都は何も怒っていなかったし、むしろ、骨折させたことも忘れて、こんな風に人目を
気にせず巧の寝顔を見ていられる状況に感謝し、浸っていた。
 巧の綺麗な顔の目元、口元、あごの線。小さい頃のあどけなさが残っている。
 左の眉の脇に細い小さな傷があるのを確認する。
 小学生の時に他ならぬ都が、ブーメランの角で殴りつけてえぐった傷だ。
 それに触れたい。が、いつ目を覚ますかも知れず、時間もあまりない。
 記憶の中からひとつ、思い出す。
 そういえば、巧が死んだように静かなときは起こしてもなかなか起きなかった気がす
る。
 それならばいっその事。
 都は少しずつ、重力に引っ張られるように、顔を近づけていく。
(本当に動かない……)

 その唇を、見ているだけで熱がこみ上げてくる。
 ここまでくればもうそれを受け入れるしかなかった。これはコンプレックスではなく、
恋そのものだ。
(認めるから、今だけ目を覚まさないで……)
 なんとか身体の震えを押し隠して、唇を近づけた。
 もう少しの所で脳裏に蘇るものがある。
 放課後の巧が、あの時はっきりと語っていた。
 
 目の前のこの唇は、都の知らない女と口付けをした。それからどこに触れたのだろう。
 目の前の綺麗な頬は、女の子の身体のどこに触れたのだろう。
 そして、身体と身体を重ね合わせて、何をしたのだろう。
 
 それでも都はそんな呪縛を突き破り、軽く、唇に唇を載せるように触れ合わせる。
 身体全体が激しくしびれた。
 反射的に離れてそれをこらえる。あまりの甘美な感触に頭がくらくらして、座りこん
でしまう。立ち上がれない。面会時間の終わりを告げる放送が聞こえた。それをきっか
けにしてかろうじて立ち、変わらぬ弟の寝顔をもう一度見る。唇を見て、もう一度触れ
たい衝動に突き上げられる。
「巧……」
 都はたやすく、衝動に打ち負かされた。

 一瞬表情を歪めて、さっきより少し強く口付けた。
 強烈な刺激が返ってきた。
 息が詰まりそうになる。その感覚は極めて純粋な喜びだった。
 間違えようがない。目の前の男の子のことが好きだ。このまま抱きしめてしまいたい。
自分のものにしてしまいたい。
 でもそれは無理な話だ。
 そして巧がちゃんと眠っていることを確かめて足早に病室を出た。
 それ以上そこにいたらどうにかなりそうだった。
(どうしよう、どうしよう……)
 都は脇目もふらずにまっすぐに外に出て、家の方に歩き出す。
 このままでは本当に、弟に普通に接したりできない。そうなれば他の家族にも隠し通
せない。
 巧が家に戻るまでに、自分でけりをつけるしかない。
 そんなことができる自信はどこにもない。
 
(まだ起きてたりして……)
 病室の中では、巧が目を開けて放心していた。
 眠りがまだ浅いうちに唇を奪われたらやはりこうなる。
「あれは……姉ちゃん、だよ、な?」
 前髪を無意識にかきあげようとして、誤ってギプスで側頭部を殴った。
 右手と頭、両方の痛みをこらえながら、一人きりの病室で悶える。
 みっともなくため息をついて、
(俺、酷いことしちゃったのか?)
 巧はその思考が本音から逃げていることにまだ気付いていない。
 そして消灯まで、延々と答えの返ってこない問いを繰り返していた。
 姉の唇の感触は、眠りにつくまで脳裏を離れなかった。 

 朝早くから目を覚ましていた巧は、布団の中で困り果てていた。
 下半身の硬直したものがどうにもならなくなって、びくともしない。
 朝の生理現象とは違うものだ。
「なんてこった。ていうか、すげえ」
 姉が女性として魅力的なのはわかりきっていることで、つまり、問題は自分の内側に
ある。
 蹴られた時にパンツが見えたとか、同様に、殴られたときに胸の谷間がのぞいたとか
脇からブラの紐が見えたとか。すれ違ったときにとてもいい匂いがしたとか。今まで素
通りしていた記憶にいじめられる。
(ひでえ。拷問だ)
 手の出せないものにはフィルターをかけて、普通に(人並みに)見えない振りができ
ていたのに、今の巧は姉に対して完全に無防備だった。
 ふと気がつくと、朝食を運んできた看護士の口元を凝視してしまっていた。
「なあに、待鳥さん」
「え? いや、綺麗な唇だなって」
「年下の癖に、生意気よ」
 その声は咎めるでも喜ぶでもなく、ニュートラルだ。
「検査は時間通りだから。起きててね」

「ねえ高野さん、そのまま退院できないの? 俺」
「だめです。結果出るまではおとなしくしてて下さいね」
「ちぇっ。頭なんか打ってないのにさ」
「あら、こぶ出来てるの見たけどなあ? かわいいお姉さんがすごい慌ててたから、びっ
くりしちゃった」
「……いや、姉ちゃんは騒ぎすぎだから」
「悪かったわね。それに看護士さんの名前を覚えてどうするつもり?」
「げ」
 いつのまにかそこに都がいる。
「あら、おはようございます」
 すかさず高野と呼ばれた看護士は、都ににっこりと微笑んだ。
「あ、どうもご迷惑をおかけしました」
 都はさっき聞かされたばかりの自分の醜態を思い出しながら、少し赤くなって応じる。
「いえ、まあ大事な人が怪我したらあんなもんですよ」
 その明るい感じの看護士は、穏やかな口調に徹していた。少しくだけた話し方ではあっ
たが。都のほうもなんだか今日は落ち着いたように見える。
 その普段通りの姉の物腰がなまめかしく見えて、巧の股間をさらに刺激する。
「ほら、食べて」
 都に促されて味の薄い朝食を摂る。
 都は見たことのない薄いブルーのワンピースで、凛々しささえ感じるいつもの姿とは
多少趣が違っていた。

 身体のラインがわかるし、素足に靴で、膝頭が覗いている。
(まさか、わざとやってないよな……)
 
 都は病院食のフォローに持ってきたらしい包みを解いている。
「これ、はるかが作ったやつ」
 小さな入れ物にはなにやら隙間だらけの黄色いものが入っている。
「卵焼きってさ……こんなすかすかになってるもの?」
「それ、伝言していい?」
「だめ。結構うまいよ、コレ。うん」
 そうするうちに、巧は都の雰囲気の柔らかさの方に気を取られはじめる。
(一晩の間に何があったんだ。なんでそんなに楽しそうなのよ、あんたは。こっちは薬
臭いおじいちゃんの要塞に隔離されてるんだぞ? 看護士さんは綺麗だけど)
 口に出して言ったらまた姉の機嫌が悪くなりそうなので、おとなしく食事を済ませる。
 その不味さに目をさまされて、巧は大事なことを思い出していた。
(予選は無理、だよな)
 軽く、右腕を振る。
 またたく間に湧き出す痛みに顔をしかめ、
(まっすぐ走れるかどうかも怪しい)
 すっぱりとあきらめる。
 いや、本当はそうはいかないけれど、そうするのだと言い聞かせる。

 後からダメージが来ても、と巧は都の穏やかな顔を見ながら得心していた。
(姉ちゃん見てるだけで結構……)
 そこから後を、巧は噛み殺した。
 思わず、顔が赤くなりそうだ。見られていたら、良くない方向に……。
 都が反応したのは、右腕を振った時のしかめっ面にだった。
「だめ」
「わかってるって」
 巧は、都の制する手の力が入り過ぎているのを嬉しく思った。
 
 都が目を離した隙に巧はトイレに脱出し、「用」を済ませる。
 病室に戻ると、照れ隠しに、
「病院食が不味いのってさ、やっぱりぼけた神経醒ましたいんかなあ」
「そんなわけがないでしょう」
 応えたのは、都ではなく年輩の知らない看護士だった。
「ありゃ、高野さんはあ?」
「あれ、おばちゃんで悪かったね」
 そう言って、看護士はけらけらと笑った。だがそれよりもその肩ごしに、都の矢のよ
うな視線が飛んできて痛い。
(わかりやすすぎて怖いよ、姉ちゃん。もう不幸に片足つっこんでるじゃん)
 巧の思い入れは複雑だ。

 姉は自分の人生に直接関与する人ではなかった。
 無責任でいられるからこそ、姉の、からかわれて怒った顔や慌てた顔を見るのが好き
だった。
 そうして今姉を自由にできるボタンを握っているのを実感する。
 それには震えがくる。
 検査を終えると、病室に戻り、周りのことは都に全部任せ、目を閉じる。
 なるほど、怪我人というものを最大限にいたわるこの仕組みはありがたいものだと巧
は感じる。それ相応の代価は必要になるが。
 医学を背景にした信頼感と、家族を背景にした安心感。
(知らないことはまだたくさんある)
 それこそ怪我人らしい弱気さで、巧は現状を受け入れていた。
(姉ちゃんの事も、ちゃんと知らないといけないってことだよな。押し倒しちゃえば手っ
取り早くて、実益にもつながる……じゃなくて、でも、全部吐き出してもらったほうが
本当にいいんじゃないか)
 手段が自分にゆだねられているということだけ注意していれば、何も心配することは
ないのではないか? そう巧は感じた。
(ていうか、余計な事言った環さんのせいだ。そうだ、そうに決まり。あれで知らん顔
できなくなったんだよ)
 天の邪鬼で軽率な自分の行動を棚に上げて怒ってみる。
(なんてな)
 そして子供のようにまどろむ。 

 都は、一応は考えてみた。
 でもそれは考えるようなことではない。巧と、世界を構成する残り全てを比べて、ど
うするのか。
 まどろんだ巧の寝顔に気付くと、もうスイッチが入った。
 額にかかった前髪をなでつけてやると、巧が少し身じろぎをする。細かな挙動がたま
らなく愛しかった。
 近付いて目を閉じ、呼吸の音を聞く。
 今病室の扉は開かれていて、それ以上の事はできない。廊下の人通りは多い。
 都は昨晩決めた事を思い出す。
 待っている時間は長い。
 
「ねえ、環ちゃん聞いた?」
「巧クンの話ならとっくよん。都もやってくれるよねえ。昼休み、どう?」環が由美の
方を見て、にやりと笑う。「カメラ携帯持参で」
「いや〜ん、環ちゃんったらエッチぃ」
「担任経由で遠山の奴が聞いて来てさ、あいつががっかりしてたからな、結構重傷かも
しれない」
 一転して心配げな環の表情を見て、

「環ちゃん、大丈夫だよ」
 由美が大きな目を動かしながら環に笑いかけ、
「バスケット、予選始まったら必ず応援行くからねぇ〜?」
 環の背中に抱き着く。
 環は、由美のこういう慰め方が好きだった。
 背が低くて可愛らしい外見のせいか中学生(かそれ以下)に見られがちな由美だが、
これでも浪人生を含めた全受験生対象の全国模試で二桁順位を誇る大物だ。バカっぽい
言動も、巧の言うように突き抜けて一周してきた思考によるものなのかも知れないと環
は思う。
 そして由美は誰になんと言われようと彼女らしさを忘れない。
 環にとって由美は温かさそのものだ。
「由美……都はあれで結構チャレンジャーだから」
 にっこりと由美に笑い返してやる。
「目撃者にならないとな。あ、遠山が放課後行くって言ってた」
「チャレンジャーっていうかぁ、勇者だよね」
「あははは!」
 
 170cmの環と150cmの由美が昼休みの喧噪の中、学校の裏門を抜け出してい
た頃、都は、少しうとうとしては目を覚ましてあれこれ文句を言い出す巧を、なんとか
寝かし付けられないか思案していた。

 病室の引戸は一応閉めている。
「だいたいだな、姉ちゃんがもっと冗談を冗談として理解してくれればいいんだよ。ほ
ら、はるかを見れ」
「なんでも冗談ですまそうとする方が悪いわ」
「だからそういう声を出すのはやめれ。あれは悪かったって。もうおどかしたりしないっ
ス」と両手を掲げて「降参」する。「不法侵入だったし」
 正直なところなので、都も信じてくれる事だろうと巧は期待する。
「けど、寝心地だけは結構いいのな、このベッド」
「そう」
「どう、いっしょに寝てみる?」
 舌の根も乾かぬ内に巧がそう言うのを、都は固まりそうになりながらも受け流した。
今の都は違う意味で冗談を流せなくなっている。
 本当に巧の言う通りにしてしまいかねない。
 布団の上から巧の腹に一発叩き込んでから都は病室を飛び出した。
(シュールだ……)
 巧は、ブルーのワンピースを着た美少女がベッドの病人にボディブローを喰らわせる
光景を人ごとのように思い浮かべ、一人で笑い転げる。
 それからひとりになったところで昨日の事を考える。
(姉ちゃん絶対狙ってるぞ、あれは。とりあえず寝ないようにしないと)
 それは巧なりの「大人の対応」のつもりなのだ。
 
 都は頭の中をうず巻く妄想と向き合いながら廊下を歩く。
 自分で胸や腰を触って、気にする。
 胸の大きさ、お尻の大きさ、形、巧はどんな女の子が一番好みなのか、女の子にどん
なことをしたがるのか。発想が中学生のように煩悩山盛りになっているのは、これは経
験のない彼女なりに必死なのだった。
 だがそこには相手が弟だという認識が抜け落ちてしまっている。
 ゴン、と曲り角の柱に衝突し、都は妄想から覚めた。
「なにやってんだ、ありゃあ……」
 到着した病院で、近代的なつくりとまだ新しい内装を、不謹慎にもものめずらし気に
鑑賞し回っていた環が、都を見つけてその有り様に頭を抱えていた。
「なになに、都ちゃんいた〜?」
 由美がしなだれかかってくるのを、
「ちょっと面白いから遠くから見よう」
 そう指差して持ちかける。
 しばらくこそこそと怪しげに追跡を続け、ひとしきりウォッチングしてから、由美が
今にも笑い出しそうな顔で、
「ねえねえ、ひょっとしてあれは、『巧君看病イベント』で舞い上がっちゃってるの? 
都ちゃんかわいい〜ん!」
 そうして頭を環の二の腕にぐりぐりと押し付けるので、
「そういうのは巧クンにしてやんな」

「環ちゃんいいの?」
「やっぱりだめ、私のだから」
「都ちゃんに報告むむっ」
 環の素早い攻撃に口を封じられた由美は、環を促して次なる行動に移りはじめた。
「ほへへっほ」
「あ? おお、病室に行かんと」
 そして担任から聞き出した病室が見えるところまで来ると、環は、
「このへんにしよう」
 ソファのある一角を押さえて、
「由美、途中の待ち合い室に自販機あったよね、なんか買ってきて」
「あ〜ん、先に言ってよぉ」
 そう言いながらも、由美はあっという間に今来た方へ消えていったが、少しタイミン
グが悪かった。
 周りを気にしながら都が病室に入るところだった。
 その不自然さが環のツボに入った。
(あっはっはっは! なによあれ、まるで犯罪者じゃん! 由美、はやく)
 声を出さずに笑いながら、自分はそろりと病室に近付く。
 
 都はまったく期待していなかったが、少し離れている間に巧はすっかり寝こけていた。
 不幸な事に、今度は現場を押さえてやろうとがんばっていた巧は、病院の空気にあて
られたかのようにすっかり、本当に眠ってしまっていたのだった。

 とたんに都の頭の中で、邪な発想が沸騰していた。
 スライド式の入り口のドアが少し動くくらいではまったく気付かず、都はまず一度軽
く巧の頬に口付けると、唇に強く唇を押し付けた。
 その異常なまでの甘美さに味をしめてしまって、怖いものがなくなって。
 さらに指で巧の薄い肩に触れ、鎖骨をなぞっていく。
 そこで動けなくなった。
 そこから先に進むことの意味を知っている。その硬直。
 最後に力を尽くして巧から離れる。
 今の都にはそれがせいいっぱいの線だ。
 一歩引いて、弟の寝顔を上気した赤い顔で見つめる。
 その無防備さが締め付けられるような罪悪感となって突き刺さった。
 理性が働かないのは自分のせいじゃないけれど、悪いのは自分だ。
 都にはそう考える他にすることがない。
 涙が出てくるのを、都は堪えないで流れるのに任せた。
 まだうまく気持ちを逃がす事が出来ないでいる。
 
「……」
 ドアを元に戻しながら、環は考える。
 見た時は、一瞬ぎょっとした。でも不思議と都に感心する部分も大きかった。
 問題はむしろシンプルで、環自身の気持ちと競合しているということ。

 そこに、
「おまったっせ〜」
 と、陽気な声と共に環と自分のお気に入りを抱えて舞い戻った由美を、ジュースごと
抱きしめる。
「やっぱ、帰ろ」
 病室から遠ざかるように由美を押して歩く。案の定由美が怒りだして、
「ひど〜い。あたしまだなんにも見てない!」
 環の腹にぽかぽかとパンチを繰り出した。
 環は少し困った表情をかくしきれないままで、
「何も起こってないってば」
 由美をエレベータの方へ押しやる。
「いいから」
 由美はその環のぶっきらぼうな口ぶりにおや、という顔をして、表情を読むように顔
を近付ける。
「ふ〜ん」
「なによ」
「ううん、授業出よっ」
 そうやって由美がにっこり笑って、逆に環を引っ張り始めたので、環は逆らう理由も
なくひきずられ、まあいいかとそれに従う。
 環はこのあと暫く、話し掛ける由美に何もリアクションを返せなかった。
(でも、私は、あれにどう反応すればいいんだ)
 どうにも、何も思い付かないのがつらい。 

 夕方になってから、気付いて巧はかばっと布団の中で起き上がった。
(寝ちまった……)
 ちょっとショック。実に頭がすっきりしていて、記憶もなにもまるでない。
 丸椅子に当然のように腰掛けていた都が顔を向けてきて、
「よく寝てたね」
 なんだか優しく語りかけてくる。
(あ、怪しい)
 限り無く怪しい。しょうがないので、あいまいに笑ってみる。
 後のことを考えれば姉弟だから、興味本意に性欲だけで手を出すわけにはいかない。
だがこっそり寝込みを襲ってくるような困った姉だ。
 これからどうしてやろうかと考えるのはとても楽しかった。
 骨折までして、まったく懲りないのがよくも悪くも巧だ。少し姉に聞いてみたい事も
あったので、
(絶対現場押さえちゃる。それによっては俺も一蓮托生だな)
 他人事のように、姉に笑い返す。
「しかし姉ちゃんも暇だね」
「勉強ならしてるわ」
「まあ、姉ちゃんなら余裕で推薦枠とれるよな」

 姉の友人の由美ほどではないが、姉が成績上位の優等生である事は知っている。
 
 巧が変わらず不味い食事を済ませていると、姉のいなくなったところで看護師の高野
がその肩を叩いた。
「ね、あなたたちって姉弟なのよね」
「あー、何言いたいか大体わかるなー、やだなー」
 巧はわざとらしく、うんざりしたという顔をしてみせて、声のトーンを落としながら
彼女の耳に口を近付ける。かすかなシャンプーか何かの香りを感じながら、
「ここだけの話、俺ホントは突き落とされたの、姉ちゃんに」
「ああ!」
 高野は手をポンと叩き、
「そうだったのね。そうか、そりゃまずいわよねー」
 病院側にも一応、巧が「単独事故」を起こしたというふうに伝えてあったから、彼女
も通達の中でそういう話を聞いていたのだろう。
 ありきたりといえばありきたりだが、姉の態度を誤魔化すのには丁度いい裏話と言え
る。高野は悪戯っぽい笑みを浮かべて、
「ふふっ、あまりにもべたべたしてるから、てっきり姉弟でデキちゃってるのかと思っ
ちゃったわ」
(実はおしいのだよ、ウン、高野ちゃん)
 その思いを隠したまま、彼女と話し込んでいると、また強く視線が飛んできた。

「あ、姉ちゃん」
「あら、どうも」
 高野がにっこりと営業スマイルでかわし、巧の食べ終わった食器を運んで出ていくと、
都はそれを見送ってから、少し遠慮がちに椅子に腰を落とした。
(聞いてたな、姉ちゃん。まったく……)
 なまりきっている神経に姉のそんな姿が心地いい。微笑ましきぬるま湯のような世界
だった。
 巧はあくびをして、右腕を無意識に上に、布団にごろんと転がる。
 病院食というものには睡眠薬が混ぜてあるんじゃないかと疑いたくなるほど、食べた
後はぼんやりしてしまう。
(ああいかん、寝ないようになにかくだらない事を考えて……)
 そうするうちに、背中に何かが被せられる。
 都が巧のむき出しの背に布団をかけたのだが、そのとき巧は都の指がその背中にほん
の一瞬、とどまろうとしたのを感じていた。
 そこまで制禦の効かないものなのだろうか。
 かくいう巧も、姉というワクを飛ばして性的な存在として、都を捕らえはじめている。
だからといって行動に移れないのは、恋をしているわけじゃないからで、運命を共にす
る覚悟なんてしていないからだ。
 それだけを以って自分を理性的な存在だと巧は自認していたが、それは都のいる場所
と実際にはほとんど変わらなかった。「姉弟」というネジが抜けているし、都が本気で
ある以上、いつでも「始める」ことができるのだ。


 こういうことを考えるのはもう何度目になるのか、巧はこの何日かの短い間に無数に
考えてきて、今またぐるぐると難題の周りを回っている。
 姉に対する行動のことごとくに緊張を解く事が出来ない。
 
 いつの間にか姉のいることを忘れるくらいに思考にはまり込んでいた。
 時間も経っていたのだと思う。
 当然、目を閉じていた。
 唇に柔らかいものを感じた巧は、反射的に、ありったけのスピードで両手を出した。
 位置的に必ずそこにいる、確信したちょうどその空間に姉の身体を捉える。
(キャッチ!)
「!!!」
 声もなく激しく暴れようとする姉に、用意していた言葉をそのまま囁く。
「落ち着いて、何もしないから、暴れないで」
 少し、震えるだけになった華奢な身体に、さらに単純な言葉をつなぐ。
「平気だから」
 その時の都の表情を、巧は不思議なくらい冷静に見ていた。
 姉がどこまで想像を働かせたのか、わかる気さえする。
 だから、巧はこう言った。
「姉ちゃん、ごめんね」

 その直後、都の身体が崩れ、床に落ちようとして巧に抱えられたが、都はすぐにそれ
に逆らって椅子に身体を移した。
 都は巧に顔を向けない。
 巧は一瞬だけ、表情を覗き込んでやろうと顔を緩ませたが、すぐにその無謀さに思い
直し、今しかない、言わなければならないことを思い出していた。
 一度、大きく呼吸をつく。
 こればかりは手が震えそうになっていた。
 
「姉ちゃんの好きな人は俺?」
 都の肩が一度だけ、ビクンと大きく動いた。言葉はない。
 巧はそのまま続ける。
「俺の好きな人は──」
「待って!」
 巧がいともたやすくそれを口にしようとした時、都は叫んだ。
「言わないで……言わないで、お願い……」
「いや、今言ったほうがいいんだよ、姉ちゃん」
「だめっ、だめよ!」
 巧がそう宣したのさえも押さえようと、都は伏せていた顔を上げて巧に寄っていった。
 それを待っていたように巧は両手で今度はしっかりと抱きとめた。都の力では逃げら
れないように力を込める。

「やっ、離してっ!!」
「だめ、聞いてもらうもん、俺の考えてること」
「考えるっ必要なんてないわ!」
「姉ちゃんは聞いてくれればいんだ」
「聞こえない!」
 右腕をギプスに固められている巧は都の抵抗を完全には排除できない。左手で、都の
右手を捕らえる。少なくともこれで都は耳を塞ぎきれない。
 巧はそこで続けた。
「俺、環さんと付き合いたいんだ」
「えっ……」
 巧の予想通りに、都は少し拍子抜けしたような反応を見せた。怖れ、かつ期待してい
た名前ではないということになる。もしくはその正反対。そしてその両方。
「ある意味驚いた、かな?」
 都は答えない。
「もちろん環さんが俺なんて眼中にないならそうはならない。けど俺、うまくいく気が
するんだよね」
 都を抱き寄せた腕をさらに引き寄せる。
「姉ちゃんは、親友としてどう?」
「放して」
「答える義務があると思うな、寝込みを襲うようなオネエサマには」

「どうして……」
「気付いたのかって? だって昨日もさあ……」
 それを聞くや、言葉もなく姉が巧の布団の上に突っ伏した。ばっと流れて拡がった髪
の中から真っ赤になった耳が覗いていた。
「姉ちゃんの耳、ちっさくていいな」
 巧がその耳たぶをつまんだ。それで都の緊張の糸が千切れ飛んだように巧には見えた。
 
 掛け布団を力任せに捲り上げたと思うと、都は身体をベッドの上に躍らせていた。
 汗ばんだ薄い胸とパジャマ、そこに飛び込んだのだ。
「わ! こらくつ、靴!」
 巧が言葉で余計な反応しているうちに都は巧の胸に張り付いていた。
 細く白い指がボタンを乱暴に外していくのを、巧はある種の快感をもって受け入れる。
 姉の動きはそのまま止まらず、巧のスポーツマンらしくない貧弱な胸をきつく滑りな
がら腋から背中へ。
 両手が背中で交差すると、そこで腕を引きつけながら頬を裸の胸に擦りつけていった。
 巧の感触を頬でより確かめるように力を強めて、もどかしく顔の向きを変えて、何も
思い付かなくなるまで。
 目を開けたままで巧はじっとしている。
 声にならない呻きが、巧にもかすかに聞こえていた。
 それから少しずつ力が緩んで、巧の身体に都の重みが乗っていった。

 廊下からは何も聞こえない。誰もいないかのようだ。
「もう、いいの? 気が済んだの?」
 都の震えが、その言葉で一瞬巧の身体に伝わり、都が何かを言っているのを巧は感じ
る。
「え……なんて?」
「どうでもいいの?」
「どうでも……何が? ちょっと姉ちゃん」
 巧が上体を起こそうとすると、その前に都が身体を上にずらしてきて二人は顔を突き
合わせることになった。そこで初めて巧は、姉が涙でぐずぐずになった顔をしているの
に気付く。泣きながら巧の胸ででたらめに擦ったのだろう。巧は空いている左手の指で
それをぬぐっていった。
 それに、半ばうっとりするように応えてから、
「巧が……、あんた達が、毎日毎日、馬鹿みたいにくだらない事を話してるからよ……」
「何を言って……え」
「放課後……私があそこを通るのを気付いてたはずよ……」
「えっと」
「わざとよね?」
「いや、そんなことは……あったりしたら、ちょっと、問題……かな?」
 巧は顔を引きつらせながら、一方で深いところでは冷静な気持ちで都の顔を見つめて
いた。

 自分でもお調子者だと自覚があるから、深く考えずに、判っていてやったことだと認
める。下品な話をして、姉をある意味からかっていた。数々の傷跡の、仕返しのような
ものだ。
 都が聞いたのが「それ」だとしたら、巧にも故意であったのかどうかわからないのだっ
た。避けたい話題に仲間の関心が集中していて、核心をつかれた照れ隠しに自爆してみ
た。冷静ではなかった事を認めるのは巧的には恥ずかしいのだ。
 偽悪的にそうだからかっただけだと笑ってごまかせない部分は、むしろ巧の中にあっ
た。
 いつ押し倒してもおかしくない魅力的な白い身体。
 それを持っているのは姉の都だ。
 
「いや……やっぱりそれもはっきりさせとくよ」
 巧はあいまいな罪悪感から解放されたがっていた。
 都は言葉を待っている。
「これでも結構考えてたんだ。一つながりだから、全部言うよ。大事な事だけ」
 胸元の少し頼り無いのを気にしながら、
「俺は今のガッコに入って、姉ちゃんと一緒にいる背の高いお姉さんをちょっと気に入っ
てた。でまあ、困った仲間がいて、連れてかれて街でナンパとかしちゃったりもしたけ
ど、いまいち縁がなかったっていうか」
「でもすることはしたんでしょう……」

「え゛っ……。そ、それもまさか」
「聞いたわ。思いっきり」
「その手、ちょっと待った……、姉ちゃんをさ、今でも守りたいって思ってるよ、俺。
でも、姉ちゃんの気持ち、俺は受けないよ」
 都の表情が、見た事もないこわばったものになったのを、巧は気を入れ直しながら正
面から見る。そうするしかないのだ。
「ごめんね。俺やっぱり酷い事しちゃったんだよね。だから、姉ちゃんが何してきても
俺は逆らわないよ。怒ったりもしない。でも気持ちは返せない。本当に、ごめんね」
 巧は指の間を流れる都の髪を背中に送ってやりながら、
「その、放課後の馬鹿話じゃないけど。姉ちゃんを押し倒したいって、実は今でも思っ
てるけど、それってセイヨクだけのことだよね。そんなことをしたら姉ちゃんよりまず
自分が傷付きそうってのが本音」
「そう……」
「そうじゃなくてちゃんと女の子として好きになりたい。俺には環さんが……」
「わかったから……」
 都がそこで強く巧を押しとどめ、
「でも私を弱い人間みたいにしないで……お願い」
 両手で巧の頭を抱き込むと、そのまま思いきり口付けていった。
 容赦なく、唇を開いて舌で巧の唇を押し込む。巧の中に割って入ろうとしている。
(ぐわ……何をわかったってんだこの人は! こんなに気持ちのいいこと、押し付けて
きたって……)

 巧の唇は、先ほどの「約束」を履行するかのようにその舌に対して開かれた。
 言葉の前半の、快楽には抗えない自分を計算に入れた単純な未来予測。
 巧の舌が都のそれに応えた時、本当は巧は「気持ち」についても履行すべきだった。
それを忘れさせる、初めて知った姉の舌の感触の甘さが、巧の心を芯から揺さぶったの
だ。
 気付かないうちに自ら舌を絡めていった。
 とまどうように、でも情熱的に強く応える都の舌、巧は自分のものではないだ液の味
を知る。そして自分のだ液がきつく吸われるのを感じる。
 何も隔てるものなく生身で混じり合う感覚。
 目のくらむような刺激。その渦の中で巧は、退院したらまず環のところへ駆け付けよ
うと思った。
 それが今の気持ちの一線なのだ。 

 そこから先。
 知らない世界。
 都がそこへ巧を引っ張りこもうとするのを巧は身体を捻って逃れ、その時、ポロッと涙
をこぼした。
「あれっ……なんだこりゃ」
 抵抗をやめて、何が起こったか確かめようとする巧を、都はなんなく押し倒し、その時
にその涙に気付いた。
 二人の動きがそれぞれの感情に縛られて止まっていく。
 都は我に返ったように目を見張り、その雫が自分の手の甲に流れ、染み込んでいくのを
見つめた。
 一方の巧は、原因もわからないまま、ともかく涙を都に見せてしまった事で恥ずかしさ
に顔を赤くし、思いきり都から顔を背けていた。慌てて、
「姉ちゃん。約束、したからな」
 苦し紛れではあったが、なんとか言っておくべき事は言えたので巧はほっとする。
 今のはナシにしておくから、やめようと。
「ごめんね……」
 都が、そう言ってベッドから下りた。靴を結局脱がないまま。消え入りそうな声とうつ
向いた姿に悲痛なものを巧は感じた。

 それを気にしつつ、どの意味なのか巧が考えていると、都はそれを取り繕うかのように、
「サッカーしばらく、できないよね。……ごめんね……」
「んー……まあ」
 巧は少し迷ってから、姉に笑顔を向けた。
「ま、それに関しては……。試合に出られないのは痛いけど、同じくらい姉ちゃんもきつ
かっただろ? って事にしとこうカナ。姉ちゃんには落ち度はないって事。なっ」
 その巧の示唆は都には意外だった。巧にそう思わせたものを、都自身はあまり自覚して
いない。
「私の痛み?」
「って姉ちゃん。俺がいらんことを言ったから、バーストしたんじゃないの?」
「私は……、昔からずっと、変わらない。変わってない」
「もしそうなら……」
 何か言おうとしてみたが、巧はそこであきらめた。
 
 都の最後の言葉は何か異様な重さを感じさせた。
 そのせいで巧はその後、都がいなくなって消灯になるまで悶々とし続ける。
 その間には、入れ違いにやってきたはるか、律儀に見舞いに来たサッカー部主将の遠山、
話を聞き付けておちょくりに来たナンパ仲間、どんどん増えてたまっていく彼等の相手を
複雑極まる面持ちで勤め、疲れ果てることになった。

 それは余計な事を考えないで済むぶん、巧にとっては楽だった。
 ひとりになるとすべてがぶり返してくる。
 そして何もかもないまぜにして抑え込んでいるうちに、朝を迎える。
 
 さすがに今朝は姉が来ないということで、巧は肩の荷を下ろしたように開放的な気分で、
顔馴染みになった看護師達と接していた。もう医師の話を聞いて家に帰るだけ(のはず)
だ。その優雅な時間に、今度は環と由美が押しかけてきたのだった。
 少しだけ戸を引いた隙間に環と由美の頭がひょこひょこと覗いたのを見て、巧は肩をが
っくり落とした。
「あのー、先輩方。なにしてんの?」
「学校なら大丈夫。私ら熱出して寝てるから」
 環が微妙に赤い顔で言うと、
「にゃっはっは、今頃都ちゃん、あたしたちのこと気付いてバーストしてるかも。あ、ジ
ュース買ってきてあげるヨ、何がいい?」
 由美が財布をじゃらじゃらと鳴らしてにんまりと微笑んだ。愛敬のある顔でそういう事
をするので、小悪魔という感じが強くする。
「ありがたいっす。オレンジスカッシュがこの階にあるから、それ」
「ちょっとぉ、朝食時なのよ、巧くん」
 タイミング悪く、トレイを持ってきた白衣の高野が頬を膨らませて巧を睨む。

 それを由美がめざとく、
「あっれ〜、「巧くん」だってえ? 巧クンのえっちぃ〜、看護師さんに何したのよう!」
 笑い出しそうな声でつっついた。
 高野に目を向けると、少しどぎまぎした表情をごまかすように、
「今日は妹さんだったりするのかな?」
「うーん、おしい」
 環がしたり顔で答えると、
「おしくないよっ」
 明らかに自分の事だろうと由美が反応する。
 巧はここは高野を助けてやる。
 ナースセンターで話題にされていることは気付いていたから、彼女がその延長で「巧く
ん」とうっかり呼んでしまったのだろうことは、看護師達の会話を想像しつつ思う。
「検査の結果ってもう出てるんだよね?」
 それを聞いて高野は、
「あ、うん。でも一応それはセンセイに聞いてね」
 巧の朝食のトレイを適当なところに置いて、手をひらひらさせながらそそくさと退散し
ていった。
 それを環と由美は二人揃って、ジト目で見送り、
「……それで、年上キラーの巧くん?」
 二人揃って、巧ににじり寄る。

「都と二人っきりはどんなもんでしたかな?」
 たちの悪い質問だ。
「うるさいな、あんたたちはもう、しっ、しっ、そういう人達は退場っ」
「ご挨拶ね、あなたをこの世で一番愛しちゃってる環様にこの仕打ち……そのうちウチの
女子バス一年の誰かに刺されるわね」
「女王様なんだっけ?」と巧が反応すると、
「おしいっ!」
 これは由美だ。
「おしくねえ! 由美、退場」
 環が喚いて、暴れる。
 その隣りで、「退場」の言葉に「あ」と何かを思い出したように、由美が行動を起こし
ていた。
「ちょっと散歩してジュース買ってくるねっ」
 由美がそのままさっさと病室から出ていく。それを見た環の方も用を思い出して構えた
風に、巧には見えた。
 どうしたのかと環に聞こうとすると、環の方から来た。
「都お姉ちゃんの唇は堪能できたかね?」
「げっ」
 直球ど真ん中の発言に、巧は環の表情を窺った。環の表情は「見た」と言っている。
 どっちを見たのか?

 それによっては巧の足場に関ってくるのだが、環はそんな巧に、
「実は昨日も昼休みに抜け出してきたんだあ。そしたらあろうことか」
 環らしい、悪戯っぽいにんまりした笑みを巧に近付け、
「眠ってる巧くんに都がちゅーって」
「こらっ、そこ、再現しない」
 そのまま口を押し付ける環を巧は手のひらで押し返した。
「ああっ、ひどい」
 「傷付いた」ポーズで腰をひねる環に、
「ややこしくなるから、ちょっとかんべん」
 巧は頭を抱えた。
「うー、まったくあの人は……やったんじゃないかと思ったんだよ。起きたらなんか、
反応あやしかったし」
「…………その口ぶりだと、それ以外にもヤッたのね」
 先の反応で、複数回であることがばれてしまっている。
 環は少し熱っぽく更に巧に迫った。
 妙な迫力を感じ、巧はベッドの上で後ずさりする。
(やべ、昨日の姉ちゃんとおんなじ……)
「あ、あのね、環さん。俺実は話があって」
「なあに。告白でもしようっていうの」
「うん」

「へっ……?」
 環が、欲しいとは思っているが、もらえるとは思っていない言葉だ。
 環は巧の本音を探ろうと、あらかじめ由美に言い含めておいて、今朝の襲撃を考えた。
 それを思い出す。
 臆面もなくうなずいた巧に視線を合わせたまま、表情の作り方を忘れてしまって、環は
ただ顔を赤くしていた。
 巧が都にどのくらい近付いているのか知りたかったのだが、自分の気持ちを試すつもり
ではなかった。
 だから、巧の言った事が一瞬わからなかった。
「環さん、俺と付き合ってくれる?」
 巧は、環に近付き過ぎないように注意深く、体勢を立て直す。
 由美がちゃんと扉を閉めていったので、心配はなかった。
 
「どういう、意味で?」
 環は、おそるおそる言葉を返す。信じきれないでいる自分を感じる。
 大部分は女の子だったが、告白された事は何度でもあるし、した事もある。それとは別
物のような、深く震える感じ。それを巧から隠せているだろうか。
「極端に言えば、俺環さんと一緒に暮らしたい」
「巧くん……キスしていい?」
 返事の終わらないうちに身体を近付けていくと、巧は慌てて、
「わあっ、えっと、その、うん」

 言葉が終わる前に、唇が巧の唇に軽く触れる。じっと巧の目を見て、すぐまた今度は少
し強く触れた。いつも冗談半分で襲っていた巧の唇の、本当の柔らかさに触れた気がして
魂が震えるような思いだった。そして、
「私のことが好き?」
「好きだよ」
 巧にそれ以上の事を言わせないで、今度は口を開いて巧の唇を吸った。そしてまた巧が
反応する前に離れて問いかける。
「都より?」
「待った……なんで姉ちゃんが出てくんの……言いたい事はわかるけど、俺は男と女の話
……環さんだけ……」
 巧の言葉を遮るように何度も巧の唇を襲った。
 そのたび途切れた言葉をつなぎながら、巧が気持ちを伝えてこようとしている。
 それを次々と愛しげについばんでいく。
 巧のそれは間違いなく本音だと環には思えた。
 繰り返す口付けのたびに巧の唇が開いていって、やがて舌と舌が擦れた瞬間に、二人は
身体をぶつけあうように抱きしめあって、布団の上に転がりながらお互いの舌を味わいは
じめた。
(巧くんの熱くて柔らかい舌、巧くんの唾液、巧くんの本当の気持ち)
 環の口の中にそれが流れ込んでくる。
 そして動き回る舌に口の中をかきまわされる感触が、環の身体の奥に熱いものを呼び覚
ましていった。
 自然と身体が、巧に押し付ける動きになってしまう。

 発達した胸と、白い太腿と、そして熱い部分が巧を求めている事を、巧の身体に教えて
いく。
 
 その動きが激しくなったために、巧はめくるめく口付けを中断せざるを得なくなってい
た。
 なぜなら……
「た、環さん……」
「ふふっ、わかってるわよ、巧くんの感触」
 二人の唾液で濡れ光った唇を動かして、環が、
「ごめんね。早いとこ用事済ましちゃって、こんなとこサヨナラしよ」
「あっ、やべ、そろそろ時間かも」
 検査の結果は聞かなくてもわかる。手続きという煩わしいものに一応付き合わないとい
けないだけだ。
「今さら言うのもなんだけど」
 環が、落ち着きのない様子で、
「ここは頑張ってスイッチ切っちゃうね」
「環さん、ばっちり入ってたよね? なーんか、しおらしい環さんって、かわい……」
 そういう巧に、格にもなく環は照れて唇を押し付けて言葉をちぎった。しかし、
「……巧くん。ひょっとして都にそういうからかい方、してないよね?」
「えっと、……この怪我を御覧ください」
 巧は憮然と右腕を動かした。
「なるほど。そういうことなんだ。……私でも怒るかも」
「あ、ひっどいの。でも俺、環さんはからかってない」
「そういうことにしときましょ」

「ちぇっ」
 
 その後も環は椅子ではなく、巧に並ぶようにベッドに腰を下ろしていた。
 今までの事を、差し障りがない程度に話している。
 放課後の馬鹿話や、巧が都を怒らせる数々の方法。環も、巧が知らない自分の話をする。
中学時代の環たち三人の話。
「けど、ひどいことするわねー」
「環さんが姉ちゃんにいらんこと言うからいけないんだよ」
「巧くんでしょ。……でも都のやつは、ほんとに勇者だって事がよくわかったわ」
「正直言って、ちょっと怖すぎ」
「なにが」
「入院初日にさ、実は一回目」
「黙ってさせてたの?」
 これは率直な環の気持ちだろう。巧は少し嬉しく思う。
「うとうとしてたんだよ、いきなりだったし、そのあと姉ちゃん速攻で逃げるし。まった
く。そんで次の日頑張って起きてたけど寝ちゃった隙に環さんが見てたっていう……」
「笑えなかったわよ、あれは」
「そのうち俺、犯されちゃうカモ」
 巧のオカマポーズに、環は軽く拳をぶつけながら、
「わかった。それで私に……」

「違う!」
 巧が急に大きな声を出してから、自分で気付いて、
「と、ごめん、違わないかもしれないけど、別に姉ちゃんから逃げる口実で環さんに声か
けたんじゃないからね。前からすごく気になってたし、環さん、その、すぐ引っ付いてく
るから、胸とか……じゃなくて」
 そこで一旦言葉を切る。そうすると、続く言葉は決まっている。環は巧の視線を精一杯
正面から受け止めた。
「環さんが好きだから」
「あー、わかった、ごめん、面倒くさいこと言わせて。私はね、両方ありだと思うから、
それでいいのよ。それと、わざわざ改まってちゃんと言ってくれるのはやっぱり巧くんだ
なあ。……ありがと」
 そう言ってそのまままた、スイッチが入りそうになるのをこらえている。
「じゃあ、私も言っとくね。実はね、入学してくる前から巧くんの事知ってたし、好きで
した」
 その一見、いつになくいっぱいいっぱいに見える環の告白の有り様に、巧は環の本質的
な魅力を十分に感じることができた。素直で、自分を隠そうとしない。そしてそれが男心
を震わせる見事な肢体に納まっている。すべてがバランスよく外側を向いている。巧が本
当に欲しかったのはやはりこういうものなのだ。
「環さん、ウチ来た事あった?」
「何回か、ね。都が巧くんの話嫌がるから、そん時から怪しいと思ってたんだ」
「信じらんねー、姉ちゃん」
「その時は巧くんまだ子供だったからね」

「二つしか違わないじゃん……」
「凄く違うわよ。それに比べたら高校入って来たときの巧くんって……」
 そこまで言って環は真っ赤になって口を手で押さえた。
「ほんと、環さんのそういう普段あんま見せない女の子っぽいとこがたまんない、俺」
「普段はどうだって?」
「普段は女の人って感じ」
「ふーん」
 環はその曖昧な感想に、曖昧に微笑む。
 それを見て巧は、気持ちの整理が案外簡単についた事を環に感謝したい気持ちになって
いた。
 
『この後、巧くんの部屋に連れてってね』
 年輩の看護師が現れて巧を連れていった後、環は自ら話の最後に巧に持ちかけた言葉を
思い出して、ひとり赤くなっていた。奔放にふるまってはいても、環とてバスケット一筋
の高校生活を送って来た、さほど経験もない普通の少女に過ぎないのだ。
 巧と、巧の部屋ですごす。
 都の親友をやっている以上そんなことはしないだろうと漠然と思っていたのに、他なら
ぬ都の暴走から機会を得る。
 布団に残った巧の熱に触れながら環は、あの巧との口付けの時の都を思い浮かべる。 

「アレッ、巧クン環ちゃんはぁ?」
 一階に降りたところで由美が巧に声をかけ、看護師の後について、巧に並んで歩いた。
 由美の手には当然のようにジュースも何もない。
「せっかく二人にしてあげたんだから、ちゃんとイイコトしたぁ?」
「あのね……。まあ、いいや、おかげ様で」
 巧は思わず開き直って答えてしまった。
 由美はそれを見のがさず、にんまりと笑うと、
「巧くんと環ちゃんがくっついちゃえば都ちゃんもあきらめるでしょ」
 そう、とどめをさすようなことを言った。
(うう、筒抜け……というか)
「ひょっとして由美さん、後ろで糸引いてましたね?」
「えへへ……」
「褒めてないっす」
「えー」
「だって由美さん、基本的に遊んでるでしょう。あーくそ、またあとで」
 そう言い残して、看護師と共に外科診察室に入った巧を見送りながら、由美はその背
中へべーっ、と舌を出して笑った。小さな声で繋げる。
「都ちゃんのためだもん」

 環は、由美が戻ってくるとすぐに由美に頭を下げて追い出した。理由は言うまでもな
いので、「交換条件」有りで意気揚々と由美は帰っていく。
「あーもう。入っちゃえ」
 朝まで巧が使っていた布団の中に、無頓着に服のままで潜り込む。顔を隠したい。
 環は主に恥ずかしさで頭を抱えていた。全部報告する事になるに決まっているからだ。
 都のキスを見たせいで、性急になっていたのかも知れない。思いあまって由美に作戦
立案を「依頼」した。とにかく由美は、たぶんなんでもわかっている、常識はずれに利
口な友人だったから、今まで何度も助けてもらって、今また究極に危うい問題をゆだね
ているのだ。
 多分由美は誰がどうするべきか、どうしたらどうなるのか、もう全部わかっている。
それをすべて話してくれるということはないだろうが、環に不満はない。本当に危うく
て、助けなければならない時は由美は言ってくれる。
(巧くんに振られちゃったら、代わりに愛してあげるからね、由美)
 環はそんな悪戯っぽいことを久しぶりに思った。
「……なにしてんの、環さん」
 突然、巧の声がした。現実に引き戻されたのか、夢の中に引き込まれたのかどっちだ
ろうかと思いつつ、愛しい相手の声を聞く。
「やだ、巧くん女の子の部屋に入る時にはまずノックでしょ」
「あのね……着がえるからちょっと出ててください」

「あら、他人行儀じゃない」
「見たいの?」
「うん」
「…………い、いいけど」
(あれ?)と、環はその巧の反応に少しだけ違和感を感じ取って、一瞬首を傾げる。一
瞬。すぐに環にはわかってしまった。環の意識もそこに引き寄せられていたのだから。
巧は、さっきの約束をとても意識しているのだ。
 少し胸が熱くなって、環は熱くなったところを手で押さえた。
 
 下着を脱ぐわけではないので、巧にとっては別に恥ずかしい事ではない。
 とそこで肝心な事に気付いて、
「あのー。手伝ってもらっていいです?」
 出てて欲しいと言ったり、手伝えと言ったり。いつもながら行き当たりばったりで気
ままなものだ。そう思い、そしてそれが果して環にどのように思われているのか、この
とき初めて巧は意識した。
 環が即座に「えっへっへ、触ってもいいのね」と飛びつかなければ顔を強張らせてし
まっていたかもしれない。
「巧くん、身体薄いね」
「こういうの嫌い?」
「ううん、あたしマッチョってだめだから。ていうか巧くんの身体の線ってセクシー」

 そんなことを言われても、とっさに反応ができない。
(かっこわりぃ、俺)
 女の子に服を着せてもらっているからではない。女の子の顔色をうかがっているから
だ。外科診察室でも、巧は医師の説明を上の空で聞きながら、まだ見た事のない環の裸
のことばかり考えていた。胸や太腿の形や感触、そして……。身体を重ね合わせたらど
うなってしまうんだろう。環は何を思ってくれるんだろう。
 受け入れてくれるだろうか。一度きりの、一ヶ月前の体験の記憶に縋る。しょうがな
いことではあっても、巧は情けなくて、平静を装うので精いっぱいだ。
(本当に今日、本当に?)
 そういうこととは限らないじゃないか。そうして、着替えが終わってもぼんやりして
いると、
「心の準備はできたかね?」
 覗き込む無邪気な顔があった。
 その環のこともなげな言葉に、巧は救われた。本当にあっという間だった。いつもの
自分が巧を動かす。
「片手じゃ出来ない事は要求しないでくださいね」
 そう環を覗き返して、行き掛けの駄賃で唇をさらう。
「ああっ」
 笑ったまま環は反撃し、巧の唇に軽く歯を立てると、巧の荷物を抱えて廊下に走り出
た。

 世話になった医師や看護師の人達に頭を下げ、見送られる。
 後ろから巧に抱き着いて急かす環の態度はこっ恥ずかしくくすぐったい。それを後ろ
に追いやりながら、なぜか真顔の看護師の高野の、環に送る視線を追い、(あ、やっぱ
りちょっとはそうだったのかな)と意識を引っ張られる。だがそのことは、それを嫌が
るように露骨に抱きとめる環の胸の感触、その心地よさを欠片も揺るがすことはなかっ
た。
 とにかく思いがけず入り込んだ場所から日常の中へ帰っていく。
 そして、約束の場所へ近付いていく。
 
 今は二人で、待鳥家へ向かって歩いている。
「はるかはテニスで晩飯の時間、姉ちゃんは定時としてまあ、四時半? 親父はここん
とこ毎晩午前様、つまりオールオッケー」
「なあに、まるまる四時間いっしょに過ごせるって? エッチな巧くんはあたしと何を
したいのかな?」
「セガラリーの二百周耐久アタックとか」
 とっさに思い付いたのはなぜかレースゲームだ。
「よし、それでいこう! 負けた方が御飯作るのよ」
「…………ごめんなさい、うそです」
 環のあんまりといえばあんまりな反応に、あっさり巧は泣きを入れた。
「ていうか、環さんのつくる飯って……」

「失礼ねー、それに勝つ気でいるの?」
「そうですね、まるまる一周ハンデつけましょう」
「要らないわよ」
「ま、それでも俺が勝つけどね」
「そこまで言うなら、もっと賭けようか?」
 話を戻したつもりが沽券をかけた勝負のようになっている。そんな場合か、カッコよ
くエッチ方面に持ち込もうと意気込んだ時、
「負けたら一生巧くんの言いなりになるわ。どんなことでも」
 環があっさりそんなことを言った。
 巧の頭の中は真っ白になった。あまりに真っ白になったので、
「そういえば由美さんは?」
 そんな馬鹿な事を聞いていた。そしてそれなのに環は、一瞬虚をつかれたような妙な
表情をする。
 巧はそれを見て、さっき病室で我を取り戻すきっかけになった環の一言や、今の環の
積極性が、すべて由美の扇動によるものではないかと思った。
(由美さんのことをこれからチャッカマンと呼ぼう。……心の中でだけど)
 結果として悪い事は何もないのだ、しかもこんな勝負じゃ、負けるなんてあり得ない
のだし。
 病室で感じたような切迫したものではなく、ドキドキとワクワクが混ざりあった高揚
感。

 それを分け合っている相手に、巧はその重力から脱出不能なところまで深く引き付け
られていくのを感じていた。
 一生という言葉をあんな風に使う環の奥底はまるで見えない。
   
 待鳥家の門や玄関、二階の都や巧の部屋に続く階段やトイレ、それらを環はとてもよ
く憶えていた。三年になってからは初めて訪れる。
 少なくとも都の部屋へは何度も入った事があった。三人仲が良くなってから、いつも
由美と一緒に。
 都の部屋は巧の部屋よりも奥にある。さらに奥にある妹はるかの部屋との間。
 家の造りは大きい方だろう。二代前の実家が裕福だったからだとか、環は多少のこと
は都から聞いていた。正確には由美と二人で根掘り葉掘り聞き出したのだが。
 今。
 環は巧と共に待鳥家の一階のリビングにいる。巧が片手なので、環が手伝って紅茶だ
のケーキだのを用意していた。ケーキは環が道中で買ったもの。ポテチを選択したいと
ころだったが、「コントローラが汚れる」というもっともな理由から却下。もう、すっ
かり二人とも臨戦体勢である。
「片手? 問題ないって。マイハンドルだし」
 とハンドルコントローラを持ち出してくる巧を見ているうち、環は笑いが止まらなく
なった。

「一周プラス片手がハンデでOK?」
「コースも環さんにお任せ」
 さっきからまるで考えていることを隠しきれていない巧がおかしくてたまらない一方
で、その様子から本当に欲されているのがありありとわかってしまう。環はそのことに
少し胸をつまらせる。
 勝っても負けてもその後に待っているものは同じだ。
(巧くんはそうは思ってないだろうなあ……)
 アナログスティックを親指でぐりぐりと回しながら、少し緊張している身体をほぐし
てみる。空いた右手を胸に持っていって、服の上から軽く揉んでみた。想像をめぐらし
てやると、じわりと湧き上がってくるものがある。心地よいかすかな快感を楽しみなが
ら、リビングの大画面テレビにセッティングされていくゲームマシンと画面上の疑似世
界に視線を向ける。
「あのう、環さん?」
「なあに?」
「一体何をしてらっしゃるんで」
「ふふっ、準備運動、かな」
「それって……」
 絶句して顔を赤くした巧を見て、環はそれ以上巧をからかうようなことはするまいと
思った。そういうつもりでしたんじゃない。ただ気を落ち着かせたかったのだ。それが
リラックスするのに一番お手軽な方法だったというだけで。

「俺、勝つからね」
 その巧の一言を背に、画面にカウントダウンの数字が躍った。
 
「環さん……」
「なあに?」
 ほとんどうめき声で、巧はじったりと環を見た。
「ハメましたね?」
「巧くんてば、情報収集が甘い」
 へたった巧の横に立ち上がって、環は胸を張ってくっくっくと見下ろす。
 その強調された胸を、怨めしそうに巧が見上げた。
 二百周どころか、七十周ほどで巧はギブアップした。その時点で環は巧を四周の周回
遅れにしている。差し引き三周のリードだ。
「まさか、この時のために密かに陰練積んでた……なんてわきゃーない」
 巧はハンドルを握ったまま、まだ固まっている。
「ありえねー」
「はいはい、勝負はあたしの勝ち」
「ひでー……」
 言い続ける巧の頭を撫でたくなるのをこらえ、
「とりあえずお茶入れ直してもらおうかなっ」

 ソファにひっくりかえって、その時予想外の巧の言葉を聞く。
「前の彼氏とやってたとか?」
「えっ……うん」
 とっさに声に出してしまったが、環は巧の方こそ言ってしまったことを後悔し、気ま
ずそうにしているのに気付いた。
 かぶせてしまわなきゃ、と思い、
「巧くんはそういうの気にする方?」
 まっすぐ巧の顔を覗き込む。
 ずるい聞き方だ。だからさらにかぶせて、
「ううん、ごめん、彼氏じゃない。ちゃんとつきあった憶えないし。巧くんにはつきあ
うって言ったよ?」
「わかった」
 巧はそう笑って、いつもの悪戯っぽい表情にあっさり戻った。
 こういう勘の良さも環が巧を好きな理由だ。巧がそういう嫉妬じみた言葉を使ったの
は正直意外だった。そこにはむき出しの心がある。それはころころと表情を変えていく。
本能的に隠し事をしないでいられるのだ。震えそうになって巧の身体を支えにする。
「環さん、苦し──」
 これは全部あなたのものだと、環が体重を巧に載せていくと、巧は熱い眼と息とで迎
え、環を抱え上げようと腰を上げた。
 環がそれを制していっしょに立ち上がると、身長の極めて近い二人の顔は、普通にし
ていても目の前に向き合う事になる。

 一時も間を置かず、唇を捻り込むように突き合わせ、たちまち舌を絡めあった。肩や
背に拙く動くお互いの手がもどかしい。
 巧が足を動かしたので、環はそれに合わせて身体を引いた。一歩また一歩と空間をず
らしていく。意思が通じているのを感じる。唾液に混じるクリームの甘味や紅茶の渋味、
それもまた相手の個人情報の一部だ。二人でいっしょに食べて、飲んだ。
 相手の唇と舌を貪り合いながら、ゆっくりリビングを横切っていく。掛け時計のムー
ヴメントの音が横へ流れていって、巧の右手がドアに当たって確い音をたてるのを聞き、
環は手さぐりで乱暴にノブを回す。少しだけリビングより冷たい空気が流れ込んで来て、
こっちだと行き先を告げている。
 環は巧の怪我を気遣わない。巧とのくちづけに溺れる事が環の誠意だ。少しずつ歩く
角度を変え、階段の方へ。そうする間にも、環の身体は痺れ続けていた。もう身体の中
は熱いもので溢れている。二人分の布地越しに、巧の硬く盛り上がった股間が触れてき
て、離れる。その度にスイッチが次々に入っていく。
 後ろ向きだった環の踵がやっと階段のステップに触れた。快楽へ駆け上がるための階
段。そう思った次の瞬間には、環は本当に駆け上がって服を脱ぎ捨てたくて、巧に訴え
かけようとしていた。顔が熱い。だが、巧の方が早かった。
「環さん、行くよ」
 その言葉尻が流れてしまうほど急に、巧が左手で環の手を取り、駆け上がりはじめた。
転びそうになりながらも追随する。環は、その勢いに呑まれる事を身体の奥底から望ん
でいた自分を、祝福した。
 巧の部屋の扉が目の前で開いていて、ベッドは目の前にある。 

 巧は本当に、負けると思っていなかった。
(迂闊だ……気付かなかった、うう、伏線ありまくりだったのに)
 でも環が一生と言う言葉を安易に使ったのではないこともわかった。すこしほっとす
る。気持ちは深いところに引き付けられたままだった。
 どうしても気になる。
 なぜあんな約束をしたのか。負けた時の事は言わなかったし、振る舞いからは環の意
思がわからない。でも、と巧は思う。
(聞かれたらはっきり答えられるけど。うん、自分で言いたいな)
 勢いだけで環を二階の自分の部屋に引っ張り込んだ巧は、扉を閉じながら奇妙な感慨
にとらわれていた。
(言って変えてしまおう。姉ちゃんのことも)
「環さん」
「はい」
 呼ばれたから応えるシンプルな反応が、不純物のなさを感じさせる。環の顔は熱く潤っ
た感じで、おかげで巧は迷わなかった。巧にとってはチャンスだった。

「どんなに姉ちゃんに迫られても環さんとしかしない。好きな人としかしない。姉ちゃ
んは大切な人だけど、それは家族だから、俺に出来る事は全部やります。姉ちゃんを普
通に幸せになるようにしてやりたい。そのためにも環さんと本気で付き合いたい。だか
ら、環さんだけによっかからせて……」
 恥も何もかも棄てた、いや、むしろ恥ずかしい言葉だけを並べる。後でどれだけ後悔
することやら、と思いながら。たぶんそこまでしなければ自分は環の身体に立ち入る事
は出来なかった。そう思えたので、巧はほっとして、閉じた扉にもたれたまま環を引き
寄せ、なめらかな首筋に唇を這わせた。
 チュッと軽い音がして、それが環にいろんなことを伝える。
 
 それが最初の直接的な愛撫だった。
 環は心がすでにイッてしまっているのを知る。たったそれだけの刺激が、爆発的に全
身に拡がっていって環の身体を震わせた。
(巧くん、巧くん)
 思うだけで切ない。
 何も考えられなくなる前に目の前の恋人に語りかける。言葉にするのを忘れていた、
返事。
「さっきのペナルティよ……時間を忘れて」
 巧が訝しげに時計を見やる。環は熱に潤んだ眼で巧の表情を追った。意味を理解した
巧が優しく微笑んでくれた気がして、安心して身体の力を抜いた。

「ととっ、環さん、これきびしー」
 巧がそれを支え、息を荒げながらベッドへ引きずっていく。たぶん、二人は体重もさ
して違わない。それを片手で運ぶのは相当大変だろうと思う。途中巧が本棚に寄り道し
て取り出したものを見て、おかしくなる。ハードカバーそっくりにデザインされたオモ
チャの(子供出版とでも書いてありそうな)怪しい小物入れだったから。
 やっと、ベッドに降ろされた。
 環は巧に報いるように、両手で巧の髪をかき乱しながら強く短くくちづけると、巧を
脱がせた。病室で着せてやったままのシャツとズボン、靴下。巧がなんとか遅れないよ
うに環を脱がせようとするのを熱く見上げ、体重を逃がして手伝ってやる。でも間に合
うはずがなく手こずってじれるのを、裸の胸を撫でながら鎮めた。下着だけの巧の身体
は熱を帯びて、環の眼に、病室で見た時とは別人のように艶かしく映った。
 ブラウスのボタンを外されながら、スカートのジッパーを下ろされながら、環は唇と
指を巧の上体へ狂おしく這わせる。これも今までの自分には出来なかった事だ。得られ
る喜びがかつてないことが嬉しい。
 そうして、二人とも下着だけになった。
 二人の身体の間に熱い息が渦を巻き、それさえ肌に刺激となって刺さっていく。感覚
が呼び覚まされていく。
「いい?」
 巧が環の胸に震える手を置いて、聞く。一も二もない。
「うん」

 環が上体を捻るのに合わせて、巧の左手がぎこちなくブラジャーを両肩から抜いていっ
た。敏感になった胸を薄く擦られ、環は最初の声を出した。
「ぁ……」
 微かだったが、巧が瞬時に反応して、十分赤い顔をさらに赤くするのがわかる。愛し
い反応。自分の恥ずかしさは抑え、微笑んでみせる。あなたはどんなことをしてもいい
んだっていう拙い告白を、そうやってする。
 環の予想に反して巧は環の胸にそのまま触れなかった。
 疑問に思う前に巧の左手は環の腰骨に触れる。触れた場所から、全体が震える。巧が
『苦戦』する前に、環は手を貸した。
 
 環は周りがうらやむほどには、自分の身体に思い入れがなかった。
 直接触って、心から愛し合わせてくれる相手がいないなら、見られるだけなら、結局
絵に描いた餅だ。
 目の前の年下の恋人の切ない声を聞くのは、ひたすら嬉しかった。
「環さんごめん。ちょっとでもなんかしたら俺、出る。絶対出る。死ぬほど出る」
「あは、そんな言い方しないでよ」
 環の手で下着を抜き取られた巧の股間のものは透明に濡れ、華奢な体つきに不似合い
な凶々しい装いで、まっすぐ環の顔の方を向いていた。
 環の心臓が跳ねた。

 間近のそれは、銃口だ。身体の内側全部が濡れていく気がする。でも今は恋人の切な
い想いを受けてしまいたい。環はしなやかに身体を折り曲げて、それを口に含んだ。恋
人の言葉通りにたちまちそれは激しく震え、環は自分の髪が強くまさぐられるのを感じ
た。愛しい反応。暴れる肉棒から吐き出される粘液は、喉よりも舌や歯茎を打ち、五度
で鎮まった。奇妙な味のする精液は口腔を満たしていて、行き場を失っていた。
 唇の縁で太さを確かめ、眼を閉じて口元に集中する。巧が腰を引くのに合わせてきつ
く口を閉じ、全身で呑む。
 
 二人とも、(ギプス以外)もう何もつけていなかった。
 環がせがむので、巧は振り返って迷う間もなく先へ進めてくる。こういう時にも意思
は通じている。さすがに片手で上になるのが厳しい巧は、環に促されておとなしく環の
隣に横になった。右手を上にする。
 たちまち環は引き寄せられ、首、胸と吸われて悶えた。指や唇だけでなく刷り込むよ
うに擦りつけてくる頬や鼻も、肌を快感で灼いた。
「あ、は……あ、あ、は……」
 とめどなく嬌声が口をついて出てしまう。テクニックも何もない素朴で強い愛撫に、
心が打ちのめされていた。ひたすら求められている。まやかしはどこにもない。痺れる
ものが背筋を何度も走り、そのたび太腿を擦りあわせて堪えた。そこはぬるぬると滑っ
ている。
「た、巧くん……もう……もう駄目……このままじゃ駄目」

 環は我慢できないで腰を、巧の肉棒のあるところへ押し付けていった。
「環さんっ」
 呼吸の切れ目に辛うじて呼んでくる声に、精液で濡れたままの唇で瞼をついばみ、手
で直に巧のものを包み込んだ。環と同じようにぬかるんだそれに手のひらを犯されてい
く。興奮が胸を打った。
 堪らない。そういうものが巧にも伝わっていたのだろう。だから巧は再び切ない声で
吐露した。
「環さん……、やっぱだめ。どうにもできない」
「ちょうだい」
 すぐに応えた。再び身体を大きく折り曲げ、今度は深く口腔にくわえ込んだ。舌で雁
首の周りを激しく撫で付けていくと、来た。
「く……う」
 快感とも苦痛ともつかない巧の呻きが心を打つ。巧の心情を思うと、止まらないのが
環に出来る最高の愛情表現だと信じて、熱く喉を打ちつけるものに耐える。置き去りに
なっている自分のためにも、性急に次を求める。
 自分だからこれほどまでに果ててくれているのだと思って、とても嬉しかった。だか
ら、彼が自分の身体で本当に満たされてくれるまでは終わらないのだ。
 
「リセット。ね、来て」
 これを気遣いだと感じないでほしい。できるだけ熱く巧を抱き締める。口の中でまた
大きくなりはじめたものをすぐ放し、そうした。一瞬アソコに肉棒が触れて、巧が反応
するが、環は確信した。今から巧と結ばれる。

 巧が微笑んだのを見て、その左手に小さな包みを握らせた。
 そのまま手を握りあわせて、きつくくちづけした。
 さっきの名残を巧がまるで気にしないのに戸惑うが、それもやはり嬉しい。雑念は巧
のどこにもなく、愛情とそれを繋ぐ肉体だけがある感じだ。環もそこに心を委ねる。
 ほんのわずかな時間で準備は整い、環は巧の前に脚を開いていった。
 男も女も、線の細さと肌の艶かしさを同じように見せていたが、男はやっぱり力強い
形を見せ、女はただただ柔らかく男を待っている。そんな絵を感じた。
 巧の息が潜められ、動きが消えるのを感じ、環は視線を合わせる。
 巧が言った。
「俺、すごい嬉しいです。環さんに会えたのも、こうやってひとつになったりできるの
も」
 このときばかりは無理をして、巧は上から環に被さった。環が手で誘導してくれてい
るのを知ってそれにはあえて甘え、せめてそこに意地を込めようとしていた。
 胸が熱くなる。
「環さんをいただきます」
「来て……」
 環がそう促した次の瞬間には、巧の肉棒が環を押し拡げていた。
「あ、ああっ! ……っ」
 息苦しいまでの入り口の圧迫感だけでなく、ずりずりと突き入ってくる質量は、環の
予想を超えて性感を押し上げて来た。

 特別大きいというわけではない。
 とにかく今までの相手と違うのは、心がイケるということに尽きた。本当に欲しかっ
た巧の心と身体を取り込んで、また与えている充実感が環を押し上げた。
 キャンセル不能の爆発的な渦に呑まれ、気が遠くなりかける。
 やはり今までの相手に『本当』はなく、自分は巧という相手を探し当てた。
 それは真実だったと思う。
 
 肉棒が奥底に突き当たり、環を痺れさせた。
「すごい……直じゃないのに、めちゃ……くちゃ、気持ちイイ、です」
 腕の負担に耐えかねた巧の身体が落ちて来る。両手で強く抱きとめる。巧の表情は泣
き笑いに見えた。巧の体内を駆け巡っているものが伝わってくる気がする。
「よかった。うれしい」
 環は素直にそれを喜んで、「動いていいよ」と密かにねだった。
 エクスタシーの経験はまだ浅い。だが、この年下の恋人なら、すぐにでも狂わされて
しまいそうだと思う。
 そう、狂わされたい。この二人きりの部屋には雑音は入らない。
「残念ながらそんなに持たないデス」
 巧の言葉から震えが消えているのがわかった。だから、
「それでいいじゃない。いっそ箱がカラになるまでしよう?」

 笑顔でそう言った。
 さっき時間を捨てたのだ、答えはいつでもいい。
「俺、絶対環さんイカせる」
 強い意志をもって言い放ったのを環は身体の奥で聞いた。環もそれを待っている。
 巧は繋がったまま身体を横にし、なんとか保っていた。
 膣内のものが心もち膨らんだように感じ、背中を少し反らせた。
 そしてそれが動き出した。
 擦りあげられる刺激がぐんぐん際どくなってきて、イクと思って身体を強張らせた時、
快感はそこを通り抜けていった。
 未知の感覚だった。イッているはずの快感なのに、その上に昇っていく。そういうこ
とだったのかと、環は興奮を深めた。
「あっ、あっ、あっ、あっ、ああっ、あああっ!」
 拙く単調なはずの巧の肉棒の動きなのに、とめどなく濡れて快感が上がっていく。
 だが、巧が訴えてくる。
「環さん、ごめん」
 打ち付けてくる腰が重く大きく動いて、突き上げて来て止まった。
「い……んん、ああ……くっっ!」
 巧は全身を震わせている。
 その瞬間、環はぎりぎりのところまでせり上がって来たのを感じ、声を引きつらせて
いた。すぐそこまで来た。やはり、この男の子が教えてくれるのだ。言葉を探しながら
懸命に恥ずかしさに耐え、巧に伝えた。

 若いというのはいいことだ、と冗談みたいに心の中で笑う。
 止まらない巧の欲望が今の環にとっては愛情そのものだった。二つ目の包みが開かれ
る。
 
 瞬間、恥じらいもプライドも、なにもかも、環の中から弾け飛んだ。
 本当に来た。
(なにもかも、巧くんに捧げても惜しくない)
 後で巧にそう言うかもしれないくらいに。
 挿入されて、押し拡げられていく最中にもう始まった。肉棒の動きに焦りやがむしゃ
らなところが薄れ、多少余裕を持ったストロークが環の中を満たした。圧迫感は相変わ
らずだ。時々角度や動きが変わり、巧自身が環の中を楽しんでいる様子がある。感触を
調べられているようなその感じが激しい羞恥心になって環の心を乱れさせた。
(調べないでっ!)
 間違っても口に出せない思いは、身体の動きになって巧の肉棒を締め付けていく。締
めた、というのが自分でわかった。そして同時に自分も巧の肉棒を調べているのだと。
「環……さん、さい……最高」
 言葉で評価されてしまうと、もう止めどがなかった。
「巧くん、んっ! のも、最高……よ」
 仕返しのつもりで言ったが、仕返しになっていない気もした。
「あっ、ああ、あ、あああっ、いや、なに、だめっ!」

 そこから来た。
 マグマのように、絶対に冷めない圧倒的な熱を送り込まれている。源泉となる巧の肉
棒の動きも、反応したように激しさを増した。
「巧くん、あたし、ねえ! イクよ、もう!」
 巧に伝えてやりたかったので、伝えた。
 肉棒が喜ぶように大きさを増した。
「俺、俺、も」
(そうか、来るんだ、巧くんが)
 魂の震える音がして、同時に身体中を駆け巡っていた嵐が一つにまとまって身体の中
心を突き抜けていく。
「あ、ああっ、うあ、あ、あ! イ、イクッッ!」
 巧の身体のどこが怪我だったっけと、思う余裕もなく、きつく巧を抱きしめ、荒れ狂
う波に呑み込まれた。
「う……う、あっ、く……ッ!」
「ああああっ、あ、あ、あ…………ッッッ!!」
 声が出せない、搾り出せない状態になるまで叫んでいた。巧が果てるのもわかった。
 絶頂と同時に形容しがたい幸福な気持ちも沸き上がって来て、環は頬に涙が伝うのを
感じた。 

 環の涙に気付いた時、巧は真っ先にそれを吸いにいった。
 涙の理由は問わない。どうあれ、これからはすべて一まとめにして環を包み込むから
だ。胸が詰まる。手を触れてはいけない美術品のような存在だった年上の美女に、「好
き」と言わせたうえその日のうちにたちまち裸をさらけ出させて、声を上げさせ、乱れ
させた。その現実味というものがやってこない。だからこそ巧は大胆に行動し、饒舌に
囁く事が出来る。
 しばらく体重を完全に環に乗せて、たわむ胸の感触を堪能した。巧が身体を動かすと
それに合わせてしっとりと熱く張り付いてくる。環の吐息も添えられるとまるでぬるま
湯に漂っている気分だ。アルバイトなどやったことはないけれど、この行為だけでも丸
一日の労働分の価値はありそうだ、などと不埒な事を考えてしまう。
「環さん、平気?」
 唇に軽くくちづけてから、頬を擦り付けるように頭を隣りに落とした。質問の意味は
二つだ。環は両方に応えて、
「とってもいい気持ち。巧くんの重さがすっごくリアルなの。それに……」
 少しはにかむような逡巡があって、
「肌触りがね、女の子みたいに柔らかくていいんだ」
「……なにげに失礼な事言ってない?」

「あははっ、褒めてるのよ? 好きな相手をもっと好きになれるとこ、ひとつ見つけた
んだから」
「確かに上半身はまるで鍛えてないけどね」
 と巧は拗ねたように息を小さくついた。でも、十分に心をくすぐられていて、顔を緩
ませてしまう。
「まだまだ知らない事の方が多いし、楽しみにしてるね?」
 と、環が顔を横に向けてきて、頬にちゅっとやってきた。
 頬に与えられた感触に痺れながら、さすがに欲情の嵐から解放されていた巧は、そこ
で後始末に思い至り、身体を横に逃がす。
「巧くんこそ右手大丈夫なの?」
「あー、なんか、夢から覚めてシクシク痛くなってきた感じカモ」
 くちづけをやりかえして身体を起こす。
 そして聞きにくかった事を聞いてみた。
「ところでさ。環さんって、女の子好きでしょ」
「あー」
 環はしばしそのまま言い淀んでいる。
 言葉につまったせいか聞かれた内容のせいか、多少バツが悪そうにしながら、
「隠してるつもりもなかったんだけど。嫌いじゃない、くらいだよ、ほんと」
 それでも言えたことにほっとする様子で、
「そうだね。別にどっちでもよかったの」
 どっちでもというのはもちろん、男でも女でもということだ。

 環がちょっとだけ怯えるような眼をして、顔を寄せて来る。正直に言ってみたけど受
け入れてもらえるか不安、そんな顔だ。
 そんなに変なことじゃない。心配はいらないし、それに。それは環らしさの一部だ。
「俺は、環さんが別に俺だけじゃなくてもいい」
 巧はフォローのつもりでそう言ったのだが、環はそう受け取らなかったらしい。巧の
胸に手を当て、少ししつこく撫でてきた。
「服だって革鞄だって、無理すると歪みが出るじゃない、気持ちだって同じでしょ? 
今環さんがどのくらい俺の方を見ててくれてるのか、それなりにわかってるつもりだけ
ど、自分ではどうしようもないことってあるし、そういう部分を縛り付けるとしたら」
 まるで責めてるみたいじゃないかと、心が痛い。
「それって、恋愛感情以外のものが入ってるよね。虚栄心とか、物欲とか。結婚とかの
制度的な損得勘定もだけど、俺は現実的になりたくない。だからさ、環さんが好きなの」
「巧くんって、年いくつ?」
 環が楽しそうに笑う。
「そういう意味では都も巧くんのお眼鏡にはかなうんじゃないの?」
「あのさ、冗談でもそれは言わないで欲しいんだけど」
 こういう返し方をされるとどうにも情けない声になってしまう。

 環もそこのところは汲んでくれて、
「あははっ、ただの言葉遊びよ。こういうのは由美が好きなんだ。──あのね、お肌に
関しては確かに、女の子は好きだけど、なんか女の子は飽きたっていうか。私は女の子
に愛される趣味はないし、こっちがちょっと触ってやると簡単に気失っちゃうし、手し
か使わないから、手を洗ったらもうね、忘れちゃうし、何も残らないし」
「なんか聞いちゃいけないこと聞いてる気がする……」
「するとね、その度になんか気持ちが凍えそうになっちゃうの。あの子達を玩具にして
るだけなんじゃないかって思う。だから近付かないほうがいいのよ、もう。ただね、自
分の中で由美だけはなんか違ってるんだ。首傾げたくなるくらい頭いいし、見すかされ
るっていうか、空恐ろしくなるくらい。ほら、『ラプラスの魔』みたいな人っているじゃ
ない」
「いや、そんなの存在しませんて」
「そんな由美がね、私が困ってるといつも助けてくれて──あ、私と由美は実は幼稚園
からいっしょなのよ」
 環の怪しい告白を聞いている間、巧は天井や壁と環の顔を交互に見て、ぐるぐると思
考を巡らせていた。その視線をこっそり、裸のままの環の身体に寄り道させながら、
「へー。姉ちゃんは?」
「都はね、確か中2からよ、うん」
「なんか、なんとなく距離感でわかる気がする」
「そうかね? ふふ、だからね、私は由美にだけは抱かれてもいいと思っていたの。今
はもう、巧くん以外にそんな気にならないけどね」

 環は“にっこり”と“にたり”の中間のような笑いを見せた。
「そ、そーすか。姉ちゃんはどうなの」
「都はまたちょっと違うよね。私にとっては親友。それ以上でも以下でもありません。
でも、あの子を傷つける奴は絶対許さない」
「怖いって。俺も気ぃつけないと」
「巧くんは初めからそんなことしないでしょ? 私に言おうとしてるの、そのことなん
だよね」
 それはその通りだ。
「……まいるなー」
「ちょっと聞いたけど、最後まで聞かせて」
「恥ずかしくって死にそうっす」
 だが、どのみち現実味がまだない今しか、言う機会はないのではないか。環もまっす
ぐ巧を見ている。なにひとつ見誤らずに受け取ってくれるだろう。
「ほれ」
「乳首で催促すんの、やめて……」
 それを聞いて環の笑いの“にたり”度が高くなったので、巧はやる気になった。
 
「初めてじゃなくてごめんね。環さんは年上だから、俺は全然気にしないけど、俺、初
めてってほんの一ヶ月前だったから」
「……うん」

 その反応だけは窺っていて、大丈夫そうなので、巧は後は続けて話してしまう事に決
めた。
「初めてじゃなくてよかったなーって思っちゃったから。もし今日が初めてだったら俺、
みっともなくて立ち直れなかったかもしれない。それでもかっこ悪かったけど」
「あ、待って。言わせて?」
 環のほうからポーズがかかった。
「巧くん、思い違いしてる。私もそんなに男性経験ないの。場慣れしてるのは認めるけ
ど、だから、初めてだったの」
 声が極端に小さくなった。
「初めてイッたの、巧くんが初めてイカせてくれたんだからね。すごく嬉しかったんだ
から」
 巧はここで環の涙の理由を正しく知った。巧の取るに足らないプライドのために恥ず
かしいのをこらえて言ってくれた気遣いも。
 やっぱり、何一つ隠さずに言ってしまいたい。
「環さん、ありがと」
「って、どこにお礼してんのよお」
「だってこれに催促されたんだもん」
「ひどっ」
 といいつつ環は笑っている。それがとてつもなく優しい微笑みに変わっていくのを見
ながら、巧はくわえた環の乳首を舌で一なめした。

「あっ……、ちょっと、違うでしょうが」
「だって、なんかもう、今日は出し過ぎだからこっちだけでもと思って──嘘です」
「そういう下品なこと言う巧くんはキライ」
「ごめんなさい」
「冗談よ。私も言えなくなっちゃうじゃん」
「あのね……」
 そういうやりとりがやはり楽しかった。断ち切りがたかったが、巧は言葉をつなぎは
じめる。
「姉ちゃんのこと、責任は俺と環さん二人にあると思うんだけど」
「そう……かな?」
「俺気付いたもん。環さんが俺にちょっかい出してくる時って、いつも姉ちゃんがいる
時なんだよね。挑発しすぎ」
「あは……なかなか鋭いじゃない」
「笑い事じゃないっす。でも俺のやったことの方が笑い事じゃない」
「そうなんだ?」
 環は巧のやったことを具体的には知らない。
 だからかいつまんで白状した。『欲情してる?』などと聞いてしまったことも、押し
倒したことも、『慰めてやる』なんて言ってしまったことも。

 思えば環達に出会うまでの悪戯はかわいいものだった。それが環の挑発に倣うかのよ
うに異性としてのからかい方に、よりによって楽しみを覚えてしまった。そして都の中
の眠っていた感情を呼び覚ましてしまった。やったのは巧自身だ。
「俺と環さんは共犯なんだからね。姉ちゃんのことには責任があるんだと思う」
「巧くんはどうしたいの?」
 そして巧はまた極端なことを言った。
「環さん、社会人になったら俺と結婚して。そんで、共働きして姉ちゃん養おう」
 
「姉ちゃんを更正させて、意地でも幸せになってもらうもんね。それまでは面倒見る。
もしどうしてもだめだったら、一生面倒見るんだ」
「巧くんってやっぱり素敵だなあ」
「環さんの意見は?」
「もし私が嫌だって言ったら?」
「ええっ、そんなこと言うの?」
 環は黙ったまま真顔で巧を見据え、答えに代えた。いや、促した。
 それに気付き、巧もはっきりと伝える。
「ひとりでも、やる」
 この言葉に環は、都に対する嫉妬を自覚した。
 姉弟というのは正しくはこういうものなのかもしれない。でも、巧は都を大切にし過
ぎていると環は思う。それに都は絆されたのではないか。
 想像のつかない未来があることを知り、それを怖れる。

 
 環のそんな思いを知らず、巧は言葉を続ける。
「俺って、今まで惚れるってわからなかったから、ずっと性欲と恋愛感情の区別がつい
ていなかった気がする。環さんのおかげで少なくともそのことはわかったんだ。知らな
い子に手紙貰ったり急に抱きつかれたりして、どうしていいかわからなかったけど、そ
ういうのも大切にしていけると思う。だから、生まれた時から隣にいた人を大切にでき
ないわけがない」
 ひょっとしたら巧は本質的には環を必要としていないのではないのか。
 環の怖れはそこに集約されていた。
 確信を持って言える。そこまでまっすぐな巧を自分が見捨てるはずはないのに。自分
が見捨てた後の事まで巧は覚悟している。
 自分達の関係は、言ってしまえばまだたった一日の事だ。それをずっと前からそばに
いるような気になっている。
(巧くんは、それで平気なの?)
 そうではないと信じたい。だから、
「巧くんは一生私の言いなりなのよ? だから、ずっとそばにいて」
 と環は言った。
 
 その言葉を過剰に体現して、巧は環を再び求めてきた。
 巧の舌が首筋をきつく這い、鋭い感覚に環は背中を反り返らせた。
 たちまち、身体じゅうが燃える。が、
「お願い、私にやらせて」
 これ以上巧の腕に負担をかけさせられない。
 環は力任せに巧を下にすると、巧がやったように激しく抱きついて巧の肌を貪った。
巧も逆らわなかった。実際右手の分、他にかかった負荷が巧をくたびれさせていた。
 それでもまだ勃起できる巧も頼もしいと言えるが、環も貪慾だった。エクスタシーと
いうものを経験して執着が増し、それを与えてくれる恋人に心酔している。
 身体の表面すべてを同時に擦り合わせられないものかと環は焦れた。
 いや、もっと切実だ。
(巧くんと混ざりあいたい。そして、都もそう思っている)
 それはあまり嫌な感じのしない想像だったが、ただ巧を失うことは怖くてとても考え
られなかった。
 身体を押し付け、擦り付けるだけで快感が走り、さらに力が入る。だがこれでは巧を
ほったらかしにしている、と思うが止められない。
 その時巧の左手に片尻をつかまれた。股間の皮膚が引き攣れて感覚を生み出す。身体
の奥が収縮していくのがわかった。たまらず胸を巧に擦り付け、乳首同士がきつく触れ
あうと、環はたまらず大声を上げた。
「あああっ! 巧くん、出来そう?」

 自分でもはしたない言葉だと思うが、止められない。聞くしかないのだ。巧の目を見
ると、熱く環を求めているのがわかった。欲望を受け入れてくれる巧に奥底から酔い、
目を覆わんばかりの拙さで防護を施して、一気に、文字どおり巧をくわえ込んだ。
「う、くー、痺れる……」
 巧がかすれた声でそう言うのが麻痺した脳に心地いい。
 恋人をベッドに押し付ける初めての姿勢で身体を貪る。
(そういえば、本当に初めてだ)
 ぎこちなく動き出すと、巧も応えてくれる。その巧とて慣れないことに四苦八苦して
いる。二人して出来損ないのロボットみたいで少しおかしい。その予想できないお互い
の動きが意表をついた刺激を生むので気が抜けない。不思議な緊張感がある。
 自分のやりたいように動いているのに、巧に身を任せるだけより遥かにもどかしい。
 その時巧が上体を起こしてくる。それが二人の間に呼吸を生み出していった。
 ただ馬乗りになっているだけより動きが制限されるので、かえって正確に性感を高め
あっていた。自分が泣き笑いのような顔をしているのを意識しながら、環は少し低い巧
の唇に上体を屈めてくちづけていく。そうする間にも腰を打ちつけあって、唇が激しく
すれ違う。苦労してその口をとらえたところで環は巧の頭を抱え込んだ。巧が口を環に
任せ、環は腰を巧に任せた。
 上と下でつながり、一輪となって快感を互いに流し込む。
 先だってイカせてくれたときと変わらず巧の肉棒は環の内側で暴れ、環を狂乱させた。
まがい物ではなかった。本物に抱かれている。愛でられている。

「イク、またイク……」
 それがすでにあたりまえになっていた。
 巧を喜ばせる声が、とめどなく溢れ出ていく。
「あ、あ、っあ、あああああっっ!!」
 それが巧を刺激しているのがよくわかる。恥ずかしい。でもそれが自分を気持ち良く
もする。奇妙な幸福感。
「あ、あ、巧くん、お願いっ! ああっ、来てっ! あああっ! イク、くあああっ!」
 お互いの口が完全に相手をロストし、声で名を呼び合う。環さんと巧くん。
 意識がどろどろになって、時間や肩書きや、すべてのゲシュタルトが崩れていった先
で、繋がりあった性器の描く軌跡だけが焼きつけられていく。
 完全に満たされる。
 
 気がつくと、巧に強く胸元を吸われていた。
 痺れるような痛みがあって、その跡を温かく舌が這うのを感じる。マークは二つ。
「二人でイッた数」
 巧がひたすら照れくさそうに、でも楽しそうに言った。
 それは二人が共有したセックスの本当の数だ。
 巧がティッシュとゴミ箱と引き寄せて、あれこれと二人の身体の世話を焼いている間、
環は邪魔をしないように巧の空いている肌を撫でた。股間をぬぐわれると、小さく声が
出てしまう。

 お返しに巧の背筋にそって爪を這わせたり、耳朶をつまんだり。
「あのー、邪魔してないつもりだろうけど、ていうか邪魔にはなってないけど、めっちゃ
やるせないんですけど」
 環は声を上げて笑い、巧に協力する。
 少し弾け過ぎているのを感じ、自分にコントロールを促す。そうすると心の中が、目
の前の恋人に対する愛しさだけにまとまっていき、ほっとする。
 巧が環の身につけたものを集め、着せようとしているのに気付いた。そういえば、脱
がされるというのはよくあるが、でもそれは無理だろう。立場が逆だ。
「怪我が治ったらね」
 巧を押しとどめ、自分が巧に服を着せていく。それから布団で巧に目隠しをして手早
く身なりを整えた。巧の不満の声が聞こえる。言い分はもっともだが、これはけじめの
ようなものだ。
 環は窓際に寄って、カーテンを少し持ち上げた。暗くなってはいない。なってはいな
いが……。
「環さん、五時半……」
 巧が伏せてあった目覚し時計を起こしてよくわからない表情で言った。
「大丈夫、都は由美が確保してるはずだから」
 巧がさらになんともいえない顔になり、ベッドに突っ伏した。
「俺、明日由美さんの顔見れねー」

「大丈夫、由美の予言通りになっただけだから」
 言ってから後悔する。本当にこっぱずかしいものだ。
 見つめあってしまって、「最後だよ」と念を押してから、唇を巧にあずけた。巧のた
めにも、際限なく溺れるわけにはいかない。
 舌を舐められた時、包丁がまな板を叩く音を聞いた。
 
 *
 
「げ……はるかだ」
 巧は頭を抱えた。
 入院していたから食事当番のズレ等、その間家であったことは皆目わからない。
 はるかは食事当番の時、早めに部活を切り上げてくる。慌てて自分達の姿を確認し直
し、考える。
(帰って来たらただいまとか言って、まず部屋戻って着がえて、そんでもってシャワー
とかして、それから……てことわ)
 だらだらと汗が吹き出しそうだ。

 腕の中の環も気付いていた様子はない。が、
「あいさつしてから帰ったほうがよさそうね?」
「……楽しそうな顔しないでください」
 トントンと階段を降りていくと、途中で包丁の音が止まった。巧も固まってしまう。
包丁も再開しない。
 よくない反応だ。
 開き直って階段を下り切る。
 よく手入れされた小さな革靴が玄関の隅に揃えられていた。はるかの学校の制靴だ。
巧も去年までは使っていた。巧と環の靴も反対側の隅に寄せられている。
(靴見てこっそり入ってきたのか、まったく)
 どうしようかと考えていると、環に引っ張られた。
「わー、ちょっと待った、っこら、なんでこういうことになると遊ぼうとするん」
 だよ、と言う前にダイニングに引き込まれる。
「おじゃましてまーす」
「あ、た、環さん、お久しぶりです」
「花屋敷以来じゃない? この家も半年ぶりだし」
「あ、お姉ちゃんはまだみたいなんですけど」
「都はね、由美とおデートだから」
「何がおデートか」

「お、お兄ちゃん……」
 状況はまったく予測通りだったようで、はるかの目が泳いでいる。そのうえ真っ赤だ。
後のフォローを今から考えはじめる。しかし、
「包丁なんとかしてくれ。頼むから」
 固まってしまったように右手に握りしめられた包丁をはるかは両手で引き剥がしてシ
ンクに転がした。戻って来て、
「あの、環さんも、食べていきませんか。おね、お姉ちゃんももう、帰ってくると思う
し」
「いや、それは……」
 さすがにまずい。はるかが環の口元や手を目で追っている。何を想像しているかまる
わかりだ。
「巧くん退院するのに付き合っただけだから。じゃあ巧くん、明日からまた学校だね」
「あ、うん」
 『突き合った』だろう、などとは間違っても言えない。礼儀上「送っていく」と巧は
言った。このままはるかと二人にされるのも厳しい。
「それじゃあべこべよ」
 爽やかに返され、そそくさと玄関に下りて靴を履く環の、いつもむき出しのままの綺
麗なうなじを追いかけながら、(キスマーク、あそこにつけてやればよかった)と思う。
 と、環がくるりと振り返ったので巧はどきっとしながら、
「あ、じゃあ、名残惜しいけど。また」
 そんなささやかな仕返しをした。 

(感覚が残ってる)
 環はあからさまにならないように、そっと腹の上に手を置いた。
 ひさしぶりだったせいもある。
 初めてでもないのに、なにか入ったままになっているような感じ。言葉では表せない
幸せな時間だった。まだそれが終わっていないみたいだ。今にもまたその感覚が動き出
して、身体を埋めつくすんじゃないかと思い、軽く背中を震わせた。
(怖いよ、巧くん)
 普通に足を運んで歩いてるのに、いつもの空気を吸っているのに、どこかに迷い込ん
だみたいだ。
 世界が違って見える。よく言われるような、初めての時にはそんなことはなかった。
つまり、本当に好きな人に初めて満たされることで『違って見える』わけだ。そんな風
に変に納得する。
 まっすぐで素直な、誕生直後のカップル。
 でも、その眩しい光に照らされて陰になったところがある。姉弟とはいえ親友が惚れ
た男を取ったという事実に変わりはない。
 由美はどうしただろうか。
 もうひとりの親友のことが気になった。

 由美は環だけのためにこういう状況をつくったわけではない。それは由美から聞いて
知っている。環が巧と二人きりになるということは由美が都と二人きりになるというこ
とだ。つまり、そういう事なのだ。
 環は由美のために少しだけ祈る。
 
 待鳥家から環の家までは多少距離がある。
 コンビニに寄って使う当てもないコロンやリップを物色した。化粧などしたこともな
いが、巧のために遠からずそうしたくなるかもしれない。
(もうすぐ夏だもんね)
 期末試験と、女子バスケ部も予選が迫っている。今日はもう行けないが、部長として
はそうそうさぼるわけにもいかない。環達三年生は最後の大会になることもあり、相当
力が入っていないといけないところなのに、色惚けしていたのでは後輩達に申し訳がた
たない。体調は、邪気が抜けたように良好だった。気の巡りが良くなったような気がす
る。そこに思い至って、歩きながら赤くなった。
(欲求不満が解消されたかな、えへへ)
 それでも最初の大会を棒に振った巧への気遣いを忘れるわけにはいかない。
 待鳥家の夕食を食べ損なったので、環は少し虫抑えをしようと、革鞄からシリアルバー
を取り出し、齧った。部活用にいつも用意してあるものだ。
(はるかちゃん、かわいくなったね。やっぱりみんな似てるし)
 真っ赤になってあたふたしていたはるかを思い出し、恥ずかしいけれど、楽しくなっ
た。巧が今頃はるかに何を言っているか、なんだか結構わかる。

 もしはるかまで巧を見ていたとしたらどうなるんだろう、ふとそんなことを想像し、
振り払った。
 自宅へ向かって最後の角を曲がり、残り電柱二本の道のり。
 そして、自宅に一番近い電柱──そこに由美がもたれていた。
 声をかけようとしてためらう。
 先にかける適切な言葉はたぶんない。由美はゆっくり環の方を見た。
「おかえりー」
 いつもの無邪気とは程遠い気の抜けた声で、由美はそれでも笑った。
「ハイ」
 環も笑う。十何年もそうしてきたから。
「やっぱり、言えなかったんだ?」
 由美の表情は寂しそうだったけど、それは映画の感動巨編を見て泣いた後のような、
余韻のある顔をしていた。だから環にはそう思えた。
「全然それどころじゃなかったもん」
 由美が頬を膨らませたが、怒っているようには見えなかった。一見小さい頃のままの
可愛らしい顔で大人びた目をする、この少女を振り回せるのはこの世でたった一人。
「ま、聞かせてもらいましょ。寄るでしょ?」
「あたし、おなか空いちゃったなー」
「ウチの御飯でよかったらたかんなさい、思う存分」
「えへへー」

 *
 
「で?」
「な、なに、お兄ちゃん」
「なんで赤くなってるのかな? はるかさんは」
「お……、お兄ちゃんのバカ!」
(うーむ、あっさり撃退できてしまった。これからはこのテで行こう)
 巧は、喚き散らしながら階段をバタバタと駆け上がるはるかを見送り、にっこり笑っ
た。こういうことはなまじ取り繕ったりするから旗色が悪くなるのだ。
「あ」
 だがそこで巧は、作戦に大きな欠陥があったことに気付いた。運用上の問題ではあっ
たけれど。あきらめて階段を上がる。
「はーるかちゃーん、晩御飯ー、最後までつくってくーださいなー」
 上がりながら声を大きくしていく。
「お兄ちゃんうるさい!」
 廊下の一番奥のはるかの部屋は、扉が半開きだった。そこに身体を入れると、ベッド
にうつぶせているはるかの身体が見える。
「こら、俺片手なんだからさ、はーやーくー、──スカートめくるぞ?」
「やっ」

 てきめんだ。がばっと起きるや、巧の横をすり抜けてまたバタバタと駆け下りていく。
「バカバカ、お兄ちゃんのエッチ! 変態!」
「なにおう」
 つけっぱなしのはるかの部屋のライトを消してから、
「おまえだってそのうち一弥の奴とするんだろう? エッチな事」
 トントンとゆっくり降りていく。
「な、なんであんなのとそんな事しなきゃならないのよ! わたし、もっとかっこいい
人じゃないと付き合わないもんっ!」
 振り切れっぱなしのはるかの顔はもう完全に真っ赤だった。
 待鳥家のはす向かいには、高松一弥というはるかと同い年の少年が住んでいる。保育
園以来のつきあいらしい。はるか自身がどうなのか知らなかったが、巧は彼に相談を受
けた事があった。もちろんその類いの相談だ。巧は、なんとなく自分に似たその少年が
嫌いではなかった。
(今日の所は話を逸らすために活用させてもらいましょう)
「陸上やめてテニス部に入ったんだよな、あいつ。健気なもんじゃん」
「よくあーいうことできるわよっ、キモイ! あれじゃストーカーじゃないっ」
「幼馴染みなんだからさ、もうちょっと優しくしてやれば?」
 はるかは少々一弥に厳しい。
 勝手に弟分にしている巧としては結構気になっている。
「俺に似て純情だし」


「お兄ちゃんは……、お兄ちゃんはふ、不純だもんっ!」
「不純で悪かったな」
「でもその……、いつから、あの」
 だんだん好奇心が勝って来たらしい。
「ごめん」
 と肩に手を乗せると、はるかはびくんと跳ねた。巧はすぐにその手を引っ込めると、
「なるべく気をつけるから、内緒にしといてくれよ」
「……お姉ちゃん、に?」
「ハイ、女王様に。今怒らしたら俺殺されると思います」
 巧が促すとはるかは思い出して料理の続きを始めたが、手元が怪しい。気にしながら
リビングでテレビをつける。ニュースばかりでちっとも逃げ込めない。
(自分で話題戻してどうする)
「きゃっ!」
「怪我すんなよー」
「うるさいな、お兄ちゃんと一緒にしないで」
「何つくってんの?」
「お兄ちゃんの嫌いなもの」
「そりゃないぜセニョリータ」
「きゃっ、急にこっちこないでっ」
「人間はほんとはグリーンピース食べちゃいけないんだぞ?」

「お兄ちゃんの嘘つき!」
 はるかがぶんぶんとお玉を振り回すので、退散する。だが「肉じゃがにグリーンピー
スを入れるのは間違ってる」というのは本音。
 その時、玄関で音がする。
 父の透ということはありえないので、姉の都だ。
「お姉ちゃんだ」
 はるかがお玉を持ったままリビングの方に来る。
「こら、垂れてるって」
「やっ」
 はるかがバタバタしているうちに、都は二階に上がって、すぐに降りて来た。着がえ
るのが早い。
 と思ってちらっと見て、巧はびくっとした。都はパジャマを着ていた。
「あれっ」
 はるかが気付いて戻ってくると、都は、
「ちょっと熱っぽいから、寝るね」
 と言うとすぐまた二階に上がってしまった。
(び、びっくりした)
 巧は『下着は外して寝ろよ〜』とかつい言ってしまいそうになるのをこらえ、複雑な
気持ちを飲み込んだ。改めて思えば正直かなり寂しいけれど、そうしなければならない。
(確かに──)

 都は少し目が赤くて腫れぼったい感じだった。でも、どことなく晴れやかな顔に見え
た。目の前で座っていた巧に拘泥するでもなく、穏やかに去った。
 巧がやろうとしている事にとって──環との事を逐一都に言ってしまうのがいいのか、
言わない方がいいのか、巧にはまだ判断がつきかねている。
 だからすこしほっとする。
「お兄ちゃん、お姉ちゃんのぶんはとっとくんだから、食べちゃだめだからねっ」
「へーい」
 軽く返しながら巧は、炊飯器の電源が入っていないのをはるかにいつ指摘するか、笑
いそうになりながら考える。
 
 *
 
 環の部屋で、しゃべるだけしゃべって、食後だというのにスナックを食べるだけ食べ
散らかして、環のベッドに潜り込んでしまった由美を、環があっけにとられて見ていた。
「太るっての」
 とため息をつきながら、肩まで布団を上げてやる。
『あたし、感動しちゃった』
 そう言いながら都の話をする由美は痛々しいこともなく、投げやりでもなかった。名
女優の一人芝居を見ているようだった、と由美は言った。

 そういうものかもしれない。環とは違って、都が巧に片思いしていたのは気の遠くな
るような長い時間だろうから。人目を引く鋭い容貌で、芝居ではない本当の恋を唄った
少女に、聡明な由美といえど、何を言えばいいというのだろう。由美は都に告白するは
ずだったのに。
 
 *
 
 次に起こった問題は、これも意外に繊細な問題といえた。
 巧は片手で風呂に入ることになる。
 父が帰ってこないかと、一応待ってみたが、23時。
 苦労して包帯の上にビニールをかけていると、はるかに見つかった。
「お兄ちゃん、そもそもお風呂なんか入っていいの?」
「バカ言うな、これだけはもう我慢ならん。今日もさんざん汗かいて──」
 巧はそこまで言ってあわてて口をつぐんだが、逆にそれではるかには意味がわかって
しまった。
「こ、これだけ、ちゃんとつけてあげるね」
 ごまかすようにしながらも、輪ゴムとクリップを使い、締め付け過ぎないように気を
使いながら手際よくはるかが動く。巧が感心しながら見ていると、思い直したのか、
「背中だけでも流してあげようか?」
「はるかのエッチぃ」

「み、水着着るもんっ」
「そうだとしても俺は裸だぞ? いいのか?」
「ううー……っ」
「ひとりで出来るに決まってんじゃん、ばーか」
「ばかじゃないもん!」
「じゃあ、お利口さんはお勉強ちてくだちゃい」
 言い返す代わりにぼふっ、とクッションを投げ付けると、はるかは湯気を立てながら
ぷりぷりと階段を上がっていく。
「風呂上がりに水着なんかでうろちょろしてたらおまえが風邪引くだろうが」
「べーだ!」
「お、できた」
 準備を整えて、下着を取りに二階に上がる。はるかが部屋に引っ込んだのを確認して
から下着やパジャマを右手のビニールの上に乗せ、部屋を出て、そして……
 ぎょっとして階段で止まった。
「な、何してんの、姉ちゃん」
「お風呂入るんでしょ?」
「いや、大丈夫」
 なんとかそう言ってやりすごそうとするが、できなかった。
「ていうかなんで起きてんの」
「もう五時間寝たから」

「……」
 巧がまたそうっと逃げようとすると、都は人さし指で巧の右手を突いた。
「だ」
 あっけなく着替えは階段に散らばり、巧は急いで拾おうとするもすべて都に奪われて
しまった。そして、都はすたすたと先にたって風呂場の方へ歩いていく。
(な、なんだこりゃ……帰って来た時のあれは)
 巧は呆然と見送り、『嵐の前の静けさ』という言葉を思い浮かべていた。
 パジャマを人質に取られたので、行くしかない。
(ちくしょう、いったいあの悪戯娘に何吹き込まれてきたんだ)
 変な汗が出て来そうだ。
 脱衣所でまたぎょっとする。都はいつのまにか体操着になっていた。女子の学校指定
はシンプルな短パンだ。
「ほら」
 早く済ませてくれと言わんばかりに、普通に急かされる。
(?)
 何か企んでいる感じもしない。巧のシャツを手伝うと、それからダイニングの方に行っ
てしまった。その間に巧は全部洗濯機に放り込んで、風呂場に入ってお湯を被りはじめ
た。確かに、自分一人ではかなり苦しいと巧は思う。情けない。
 ブラシタオルと石鹸を前に悪戦苦闘していると、唐突に戻ってきた都がそれをそっと
巧から奪い、静かに泡立てはじめた。
 その手つきは本当に都らしかった。

「じゃあ、先にやっちゃうね」
 その言葉も生来の柔らかい喋り方で、よどみがない。
 左手では絶対に洗えないところ──つまり左手・左肩と、背中だけを流すと、都はさっ
さと出ていった。
 ほんとうに素っ気無いくらい普通だった。
(えっと。……これも由美さんマジックなのかな?)
 拍子抜けはしたが、おかげで巧は滞りなく身体を洗い終え、湯舟に浸かって本当に久
しぶりのくつろいだ感じを味わう事が出来た。思わぬ緊張も味わったが、そこから一気
に神経が鎮まっていくのが心地いい。
 頭を空にする。
(ホアキンになりたいなあ)
 子供じみた憧れが浮かんでくる。ホアキン、ルーケ、シモン、雲の上のスタープレー
ヤー達に肩を並べられるようなテクニックは望むべくもない。サッカー漬けの毎日を送
るなんてことは考えられないし、だからこそ試合に出られなくてもこの程度のヘコみ方
で済んでいるのだろう。
 じゃあ自分は何になるのだろう。なれるのだろう。二年も先を歩いている恋人につい
ていくのは結構辛いのかもしれない。
(姉ちゃん、毎日あの調子でやってくれるつもりかね)
 それを少しこそばゆく思いながら、湯から上がった。
 やっとこの長い一日が終わる。 

 次の朝。
「ひょっとしてはるかちゃん、おニューの水着を巧くんに見せたかったんじゃないの? 
もうすぐシーズンだしぃ」
「だから、そういうことを楽しそうに言わないでください」
 巧は予鈴前の踊り場で由美につかまった。
 芋づる式に環と、取り巻きの女の子達と顔を合わせる。気恥ずかしいことこのうえな
い。目が合う度に環が目を泳がせるので、巧はまた新鮮な感慨を得た。
 予想以上の意外なあどけなさにくすぐられる。
 一部女子生徒の鋭い視線にも気付く。勘のいい女の子というのはいるものだ。遅れて
その『人込み』に突っ込んだ都が怪訝な表情をしたくらい、変なオーラがうず巻き始め
たので、通りかかったクラスメイトをダシに巧は逃走を計った。
「お? なんだよ巧」
「まあまあ、こないだ言ってたデリダキッズのコンサートの話を聞かせてもらおう」
「今なんか、すごくなかったか? おまえのまわり」
「気にすんな」
「腕は大丈夫なのか? おまえ、女を襲って返り打ちにあったんだって?」
 心配しているような口調だが、顔は思いきり笑っている。
「……」

 サッカー部の上級生にも出会った。
「おまえ、階段から落ちたとか言って、水臭いじゃないかよ。そんなにいい女だったか、
ん? でも無理矢理はよくないよなあ?」
 巧はがっくりしながら、
「まさか、学校中……」
「みんな知ってるな、うん。まあ運動部系はプライバシーないも同然だからな」
 みんな暇なんだろうが、おまえは普段から目立ってる、と付け加えると、彼は他の友
人に呼ばれて去っていった。
 肝心な部分がちゃんとぼかされているのは感謝するべきなのだろうか。
 人の噂も──というわけでしばらくは我慢が必要だ。だがそもそも、右手を吊って歩
き回ったら、自分で宣伝しているようなものである。
(ちくしょう。意地でも姉ちゃんは矯正してやる……)
 そんなことを考えながら教室の扉を引くと、
「勇者発見!」
「きゃー!」
「おかえりなさい、待鳥クン!」
 普段そんなに『クラスの中心人物』というわけでもないのに、朝からやたらハイな連
中が巧を出迎えた。気持ち悪い声を出す者までいる。
 自分の席まで歩くうち、巧は自分の顔が赤くなっているのを感じた。
「まさか、信じている奴はいないだろうな」

 革鞄で机を叩いてみても迫力のない事このうえない。そのまま肯定しているみたいだ。
 無視していればいいのだが、それほど間違ってもいないので、強く出られない。
(ホームルームが始まるまで寝たふりしよう)
 そう思って突っ伏していても横からつつかれる。
「いいかげんに──」
「きゃっっ!」
 はたいてやろうと立ち上がりながら、左手で……
 むにゅっと音がしそうな柔らかいものをつかんだのに気付いた。
「ざ、残間」
 ばっと後ずさり、慌ててまわりを見ると、ほとんどの者が巧の方を見て同じような笑っ
た顔をしている。
(こいつら殺す)
 頭にくるけれど、とにかく振り返って、脇に物を抱え、反対の手の人さし指を突き出
した状態で固まっている隣の席の少女を見た。
「悪いっ……、おまえがそーいうことすると思わなくて」
「う、ううん、平気」
 目をぱちくりさせているのは残間清美という、左隣の席の女生徒だった。女の子を見
た目で『体育系』と『文科系』の二つに分けるとしたら、十人が十人彼女を『体育系』
と言いそうなのだが、園芸部だ。

「ホームルームやんぞー」
 クラス担任の吉見がつかつかと入って来て、やっと皆が座席に散らばりはじめる。
 輪の中心にいた残間清美は、そこで活発そうな短髪をはねさせて小首をかしげ、
「ちょっと差し出がましいかなあとも思ったんだけど」
「は? 何の話」
 巧は彼女の差し出した3冊のノートを眺めた。
 受け取って自分も席につきながら、
「休んでる間の? ありがたいけど、字なんて書けないよ」
「あ、ご、ゴメンね。じゃああとでコピーして来る」
「そりゃ悪いって。ていうか、三日分ぐらい別にいいんだけど」
「そう、ごめん」
 巧は少し考える。
「残間あのさ、もし俺が本当に女襲ったとしたら、それでもこういうことしてくれる?」
「えっ……」
「冗談です」
「──なんだ」
「悪いけど『彼女』とはうまくいってます。怪我は関係ないの」
 とっさに、すこし冷たく言ってしまった。
 巧は話をしている間、礼儀上視界に彼女の姿を入れていたのだが、その自分の言葉の
せいで見ていられなくなって目を逸らした。その時、
「ヨッシー、聞こえねーよ」
「あ!?」

 一生懸命ホームルームをやっていた吉見が、その突っ込みに声を荒げた。
 ヨッシーというのは吉見のことだからつまり、巧と清美の会話が聞こえなくて邪魔だ
と男子のひとりが口を滑らせたのだった。
 聞いていたのはごく一部の生徒だったが、それでまた注目が集まってしまった。
 そんな瞬間に彼女は言う。
「憎ったらしいな……懐に倒れ込んでやろうかしら」
「キャー、清美ちゃんやらしー!」
「な、なによ」
 聞いていた女子の突っ込みに、笑って言った彼女の言葉に巧は救われる。巧は清美か
ら改めてノートを奪い取り、
「今写しちゃうよ、どっから?」
「お・ま・え・ら〜」
 吉見が近付いてくるや、ゴン! と巧の脳天に一撃を加えた。清美には出席簿でバシッ
と一発。
「ああっ、差別」
 巧のわかりやすいリアクションに清美は声を上げて笑った。これでいいと思う。
「いたっ」
 吉見が、その笑ったのを咎めてもう一発出席簿で清美をはたいた。
 
 *
 
 昼休み。
 朝方派手に降った雨のせいで屋上はむっとしている。
「二年の先輩がなんで?」
「学年が関係あるの?」
「そりゃ、ないっすね。俺三年の人とつきあってるし」
「! ……そ、そう」
 会話はそれだけだった。
 
「うんうん、誰にでもモテ期というのはあるもんだよ、巧クン」
「なんですか、モテ期って……」
「そしたら放課後下駄箱に何通か入ってそうね、例のアレが」
「にゃっはっは。総決算だね」
「ええっ、じゃあそれって、今日一日で終わり? うち止め?」
「なにか不満でも?」
「……ありません」
「そんなことより」
 環が巧のシャツをつっつきながら、
「巧くん、さっきの話し方なんか怖かったな」
「えっ」

 環は不安そうな眼をする。何故? と思う。いや、不安の色というかなにか、揺らい
でいる。巧にしてみれば、このタイミングでそんな眼をされるとそれこそ不安だ。心を
通わせてまだたった24時間が経ったばかり。
 環達三人がこっそり見ていたから、巧はその二年の女の子をきっちり切り捨てるしか
なかったのだし、そのために最大限の対処をやった。相手が告白(おそらく)する前に
こちらの事を言ってしまえば、相手はある意味恥をかく前に引くことができる。心づく
しじゃないか。スタンドプレイをしたつもりもない。
「話し方っていうか、セリフがキレキレだったねっ。それになんだか女泣かせな面構え
になってきたねぇ」
 由美の言葉に巧はハッと引き戻された。
「でも、巧クン女ったらしになっちゃだめだよー」
 なんでそうなるのかと不思議でならないが、頭の他の部分では冴えている。
 ゆっくり、都の方を見る。
 都があれからずっと穏やかなのは何故だろう、と思う。
 それから、環の気持ちを考えてみた。
 巧には、今度はその眼が、『知らない人にならないで』と言っているように見える。
 
 *
 
 放課後。

 当然のように下駄箱の前で、
「お約束って、いったいなんなんでしょうね」
 憮然としながら、巧は環に振り返った。
「俺の知らない人が俺に何を期待してるんでしょう」
 今まで巧は知らなかったが、専門学校へ進む予定の環は受験組の追加授業を受けない。
また、運動部系の部長は伝統的に非受験組から選ばれる。
 そんなわけで、部活前の時間を初めて二人で歩く。
「中見ちゃだめですよ」
 幸い、一通だけだったのだが、実際それは下駄箱に入っていた。
「名前だけ──ありゃっ」
「え、なんかやばい人?」
 巧がぱっと環から取りあげると、
「やばい人ってどんなのよ……えっとね、ウチの一年」
「女子バスケ?」
「そ。へー、あの娘がねぇ……ほら、あれよ、あれ。朝巧くんを睨んでたコがいたで
しょ」
「朝ですか? あー、睨まれてたのか」
「そうです、睨んでたんです」
「えっ」「ん?」
 二人してくるりと横を見る。

 キツイ眼の、いかにもヴァレーやバスケが似合いそうな、環ほどではないが長身の女
の子。巧のクラスではない。ぎりぎり髪止めを使える長さの髪を、後ろでまとめている。
 巧たちの方にまっすぐ近付いて来て、言った。
「先輩、待鳥くんとどういう関係ですか?」
(待鳥くん? 口きいた事ないよなあ、俺)と巧がじっと女の子の顔を見ていると、環
がそれに質問で返した。
「言葉で説明するのと行動で示すのとどっちがいい?」
 環が意外にも真顔で女の子を見ているのが、巧には印象的だった。
 その言葉を聞いて一瞬目を見開いた女の子が、
「両方やってください」
 とすぐさま言った。見た目通りの気の強さだ。
(おいおい)
 逃げ出そうと背を向けた巧を環がギュッとつかまえる。巧を見てにっこり笑った。
「マジかよ……」
 それを目ざとく見咎め、慌てて女の子が言い放った。
「先輩を汚したら、ただじゃおかないから」
 そこで巧はあれっ、と環と顔を見合わせ、それからにっこりと環に笑い返した。
 仕返しだ。
(へっへ、俺じゃなかったね。そうそう面白くされてたまるもんか)
 環は軽く頬を膨らませながら巧にひざ蹴りをかましてくる。

 そういうことなら、と、
「残念だなぁ。俺はてっきり、愛の告白をされるのかと思っちゃった」
 巧は手紙を女の子の目の前に出して、振った。
「なっ」
 絶句して顔を赤くするところは、純情そのものだ。それより言うに事欠いて『汚す』
とは何事だと、とっちめようと口を開くと。
 塞がれた。
「や、やだ……」
 女の子の狼狽する声を聞きながら、巧は環の舌を受け止める。次はいったいいつこう
してもらえるのか、早くも気になりはじめていたから、この不意打ちに感謝しながら舌
で応えた。それなのに、あっというまに離される。
「ねえ、吉田ちゃん。今私と巧のどっちにキスしたいと思う?」
 環が巧の首に両手を回したまま、薄く笑った。
 いったい何を言い出すのか、巧は目まぐるしく事態が変化しているのを感じながら、
目の前の少女──吉田麻理に、自身でも答えを求める。
 彼女が答えを出しているのはすぐわかった。目が怖い。
「チャンスは一度だけ」
 環が追い討ちをかける。
「ちょ、ちょっと待った!」
 女の子──麻理が自分の方に来るのを見て、巧は本気で慌てた。

 間に合わない。
 目も唇も固く閉じて、麻理は文字どおり巧にぶつかってきた。
 キスそのものが未知の行為に違いない少女の特攻。
 
 崖から飛び下りるような顔をして、口もきいたことのない男子の唇で、自己紹介もろ
くにしないでファーストキスをする女。
 表面の唾液の冷たい感触に、唇を押し付けた瞬間に気付いて、狂おしくそれだけを求
めた。環の唾液を。
 巧は、頭がおかしくなりそうだった。
 吉田麻理は、巧の唾液で汚れた環にくちづけるより、知らない男子との間接キスによっ
て環に触れる方を選んだのだ。
 
 離れようとした麻理を、巧は反射的に引き寄せた。半端でなく意地の悪い気分になっ
ていた。そういう風にコントロールしないと吐きそうだった。
 麻理は巧の腕に捕らわれた事を知り、暴れようとした。その時に、
「ねえ、吉田さん」
 耳もとで語りかけられて、最低限巧に身体が引っ付いてしまわないくらいに力を加減
する。巧の言葉を待って、聞いた。言葉の意味に身体を震わせた。
「ねえ、例えば、身体でも同じ事ができるけど? したい?」


 柱の裏にいた由美は、胸を震わせた。
 誰より吉田麻理の魂に共振し、同時に乖離する。
 隣の都にそんなことは知られたくない。
 
「君はさ、もうちょっと自分のやってることの意味を考えようよ」
 巧が最後に言ったその言葉で麻理は、おそらくこの場ではあきらめ、立ち去った。
「はー」
 環は感心していう。
「アドリブであんな風に合わせてくれるなんて、嬉しいな、巧くん」
 環は、腕の中に取り入れながら「おあずけの分」と唇を指で突いて、巧を受け入れよ
うとする。
 巧はそれに照れ笑いで応じながら、ゆっくり見つめ返した。
 心の中で、口にはとても出せない怖れを語る。
(環さん。俺、今日一日でもうこれだけ女の子に攻撃的になってる。やっぱりこれって
スタンドプレイだよね? 俺は環さんにそれを見て欲しいんだ)
 巧の顔を覗き込む環は、変わらず優しい目をしている。
(でもあんなことされて、どうしていいかわからない。環さん、俺はこんなんで本当に
いいのかな?)
 巧の揺らいだのをおそらく察して、環が表情を弱めた。それから笑って、
「ごめんね、でも私だって巧くんにいいとこ見せたいんだからね」
 と気持ちを晒した。少なくとも巧はそれを心情の吐露だと感じた。

 もう一度ゆっくり、環を見る。
 そういう環の表情はいつも信じられた。今も巧の心を穏やかに鎮めていく。
「はいはい、お二人さん、出てらっしゃいな」
 環がそう言って柱をゴツゴツと叩いた時には、巧はいつもの巧だった。
 いつもの無邪気な由美と、環と、自分と──都は相変わらず静かだった。
 
 *
 
 夜。
 巧がレトルトをベースに調子に乗ってつくったスペシャルエスニックカレーは、大顰
蹙を買った。
 とにかく辛いのだ。
 怒ったのは都。泣いたのははるか。
 それでも、もりもり食べまくる巧を見ているうちに二人ともがんばって食べ始めた。
怒りながら、だらだら汗を流して食べていた都は完食したが、ミルクでごまかしながら
半泣きで食べていたはるかは半分もいかずにギブアップした。ミルクの飲み過ぎだ。
「お兄ちゃんのバカ!」
 ミルクでたぷたぷになったお腹を押さえながら、はるかがバタバタ階段を駆け上がる。
「ああっ、はるかのやつ明日の朝の分まで飲んだな?!」
「しょうがないでしょ」

 都が巧を睨んだ。巧はおそるおそる、
「ね、姉ちゃん、汗拭いてあげよう」
「要らない」
「悪かったって。でも偉いと思わない? 片手でここまで作ったのよ、俺?」
「あんなにつくって後どうするの?」
「ああ、親父が食ってくれるから。残ったら親父と俺の弁当にしちゃっていいよ、密閉
できるやつあったよね」
 父の透は巧以上に辛いものに強い。
「あーうまかった」
 おいしかったし、都の態度がまるで以前のようでほっとする。激辛カレーのおかげだ。
ただ、今度やったらひっくり返されかねない。
 そうして。
「お風呂入る時は言ってね」
 先に都が言った。昨日と同じように二人の時間をこなす。
 
 湯舟の中で弛んだ身体を揉みながら、巧はため息で振り返った。昨日に続いてせわし
ない一日だったが、最後に思い出したのは、自分の言った言葉だった。
『もうちょっと自分のやってることの意味を考えようよ』
 そうだ、意味をちゃんと考えて、やらなきゃいけない事がある。
 そう思ったが、都からはあまりに何もない。自己解決してくれたのか、由美が変えて
くれたのか。巧は、そうして少しずつ、気を緩めようとしていた。
 それなら自分も少しずつ、姉に気を遣ってやりたいのだ。
 不器用ながら水気をちゃんとバスタオルに吸わせて、下着とズボンに足を通す。それ
からシャツを中途半端にかぶってリビングに戻ると、都は待っている。


 巧のパジャマの腕を入れてやってから、おやすみ、と言うと、都は先に自分の部屋に
戻った。
 風呂上がりの湿った巧の感触が指に残っている。都の心はそこに釘付けになる。
 親友の由美の前で堤防を決壊させ、感情のことごとくを吐き出した。それから踏み止
まれるようになったと思う。
 巧に最も肉迫したと思った瞬間、巧がこぼした涙が、厳しかった。あれが都の今の罪
悪感の根幹をなしている。人の気持ちを蔑ろにするというのがどういうことかわかった
気がした。それから、踏み込めなくなった。
 巧の目を普通に見られない。見たらまたすぐに捕らわれてしまうんじゃないかと思う
と、どうしてもつくった態度に終止してしまうのだった。
 昔の自分はどうやって巧に接していたか懸命に思い出す。長い、諍いの記憶。辿るほ
どに過激さを増す、子供らしい手加減無しの暴力ばかりが思い出され、打ちのめされる。
 そうやって巧にして来た事の罰なのだろうか。
 だから、自分は弟に嫌われているのだろうか。
 母がいなくなったときに分かち合ったいたわりを、自分はどこかになくしてしまった。
きっかけはささいなことだったと思う。でもよくは思い出せない。
 

 あの時、目の前に由美がいた。
 その時のことを都は穏やかすぎるくらい穏やかに思い出す事が出来た。
 由美に何を言ったか、細かい事は覚えていない。初めから覚えているつもりがない。
都が言ったのはたったひとつの事実だけ。
『巧を愛しているの』
 その時、目を開けていられなかった。
 巧が見も知らぬ女の子と身体を交わしたことを知った時、自分の目の前で親友の環が
お仕着せたくちづけを巧が避けなかった時、押し倒して来た巧があくまで自分をからかっ
ているだけなのを知った時、病室で決定的に拒絶された時、そして都と環への想いの違
いを語られてしまった時──その時々に思った事をすべて、自分でもわけのわからない
言葉に変えて吐き出してしまった。
 もう、自分の心臓の肉はえぐり取られようがない。針のように尖った空気が代わりに
流れ込んで来て、心を満たしている。
 空虚だけど、穏やかだった。
 もう命の残り時間を食いつぶしていくだけだと思う。『余生』と言ってもいいかもし
れない。
 自分がいったいどれだけの涙を流しているのか、わからなかった。
 自分より小さな由美が、由美の着ていた洒落た服が全て吸い取ってくれた。
 そうだった。由美。

 それから彼女の心の声に耳を傾けた。たぶん死に物狂いで優しい視線を送ってくれて
いる親友に、だけど応えてはやれない。
 自分の前方を見るしかなかった。
 
 前を見ていながら進めない、もどかしさにも少し慣れてきた。
 それを風呂場での巧の世話を通して確認できた。
 まず元通りに接していけるようになりたかったから、都はそういう今の自分をいたわっ
ている。
 それなのに。
 あのカレーだ。
 殺人的な辛さもさることながら、何もなかったみたいに飄々としている巧を見ている
うち、ふつふつと怒りがこみ上げて来た。
 風呂で相手をしているうち、背中をずる剥けにしてやろうかと思ったり、泡だらけの
ままガスを止めてやろうかと思ったりするが、ここでも踏み止まる。
 それが、布団の中で悶々とするうち、ある種の覚悟に変わった。
(本当に、人の気も知らないで。見てなさいよ……)
 そんな自分を都は、生まれて初めて頼もしいと思いはじめていた。
 
 *
 
 その日、弁当当番だった都は、やっぱり残った忌まわしいカレーで巧の分を満タンに
すると、さらにご飯用のケースにもカレーを流し込んでいっぱいにした。父の分は、ちゃ
んとカレーとライスで二つにしてまとめる。そこにこの時期には不似合いな携帯カイロ
を添えてハンカチで包んだ。一時間ほど前もって発熱させてやれば、これで昼には温か
いカレーが食べられるのだ。
 予想通りというか、起きて来てすぐ、父の透は巧のカレーを絶讃し、作り方を都に聞
いていきた。呆れて物が言えない。それはともかく、はるかと自分の分にすぐとりかか
る。下準備もしてあるので、こちらもすぐに出来上がる。巧はまだ起きてこない。そこ
へ、上からはるかの悲鳴が聞こえて来た。
「お姉ちゃん助けてよ〜。お兄ちゃん起きてくれないー」
「もう……」
 制服の上にかけていたエプロンを外して椅子にかけると、都はすたすたと階段を上がっ
ていく。
「朝ご飯食べる時間なくなっちゃうよう?」
「うー、俺の代わりに食べといてくれ。後で返せよ?」
「わけのわからないこと言わないで、もう〜、信じらんないよ〜」
 はるかが懸命に巧を引っ張り出そうとしているのが見えた。都は、
「私がやるから、はるかも朝ご飯すませなさい」
「う、うん、お姉ちゃん」
 寝ぼけた巧の問題発言で真っ赤になったはるかが、逃げるように下へ駆け降りていく
と、都は巧の部屋のドアを後ろ手に閉めた。

 巧がそれに勘づいたのか、薄目を開けて都の方を窺う。
「巧」
「な、なによ」
「これからは私が起こすわ。すぐ起きなかったら、襲うからね」
 巧が跳ね起きた。
「こ、こらっ、なんでドア閉めてんだっ」
「見られたらまずいでしょ?」
 目の前で巧がすっかり目を覚まして固まっている。
 それで都は、少し気が晴れた。こんなことで自分の気がすむのなら、安いものだ。
 
 *
 
 冗談じゃない。
 さっきの失言を都に言わなくてよかったとは思うが、関係なく姉の方から来ている。
「起きたから、襲わないでくれ」
 思わずそんな間抜けな事を言っていた。
 あっさり姉はドアを開けて、降りていってしまった。
 巧も急いで着がえ、後を追う。
 ダイニングテーブルの上にはすでに出来上がったお弁当と朝食が並んでいる。
 バターを塗ったトーストの上にベーコンエッグを全部のせてまっぷたつに潰し、例に
よって紅茶で流し込んだ。

「お兄ちゃん行儀悪い〜」
「これが正しい食べ方なんだぞ」
「そんなわけないじゃんっ、お兄ちゃんの大嘘つき!」
 そんないつもの巧とはるかを横目に都が一人でさっさと出ていく。
「あ、お姉ちゃん早いよっ」
 はるかと並んで急いで用意する。掴もうとした弁当がはるかのものだと気付き、笑い
そうになった。隣にあった普段使わない密封型の方を取る。もしはるかにまちがって持っ
ていかせたら、大変なことになるだろう。二度と巧のご飯をつくってくれなくなるかも
しれない。
 巧は、都の表情がすごく気になった。昨日よりさらに様子がおかしい。なんだか、雰
囲気が環っぽいし、さっきの発言もちょっと問題ありだ。
 試しに明日寝坊してみようかと思い、慌ててかき消す。
(しゃれにならん)
 はるかと別れ、二人で歩きながら身じろぎする。当然シャツは適当に着ているので、
あちこち不具合があった。着心地がどうにも落ち着かない。
「やっぱり朝も私がやってあげる」
 そう言って都が首に手をかけて来た。少し考えて、
「そこの公園で直してあげる」
 とさっさと歩きはじめた。巧は、いかんともしがたくそれについていく。
 公園にある障害者用にスペースを広く取ったトイレで、巧はシャツを着直させられた。

あまり時間もないので、さすがにてきぱきと都はこなす。とくに危惧するような事は何
もなく、通学ルートに戻る。
(やっぱりおかしい)
 巧は首を傾げながら、校門をくぐった。
 そして、昼休みに弁当を広げて頭を抱えた。
「……」
「おおっ、巧すげえなそれ! メシが見えねえじゃん」
「メシは入ってない……」
 蓋をとったとたんに教室中にそのエスニックな香が広まり、大注目を浴びる。
「まちがっておかず用二つ持ってきたんじゃないの?」
「そんなわけねーっての。姉ちゃんの仕業だ……」
「なにおまえ、あのお姉さん怒らしたんか。そりゃしかたないな、おまえが悪い」
 都が怒ると何故即自分のせいなのか。もちろん言い返せないが。
「誰かご飯分けて……」
 情けない声に応える男子はいない。
「ダイエットしてるから」とかそういって勧めてくれる、もともと少量の女子のものを
奪うわけにはいかないのだが、
「あっはははっ、あたしが恵んでやろう」
 そう仕返しのごとく残間清美が、ぼちゃんとカレーの海に落としたのを、ありがたく
いただく。

(ていうか、ぼちゃんと落とされたものをどうやって返すんだ)
 巧がスプーンを入れるのを、さっとその清美が奪って、カレーを一匙自分の口に入れ
た。
「このくらいいいでしょ?」
 そう悪戯っぽく笑った顔が一瞬にして固まった。
「か……」
「おまえな、そういうのは確認してから──」
「辛い!!!!」
 大声を上げて、清美がバタバタ教室を飛び出していった。
「お茶ならおまえ持ってるじゃん」
 いなくなった机につぶやく。
 逆に、それで男子が寄って来た。
「なに、スゲー辛いの?」
「おお、これで昨日はるか泣かしちった」
「おまえ、あんなかわいい妹泣かすなよ〜」
 そう言いながら一人が、一匙すくった。
「おおっ、これいいじゃん!」
「まじで? じゃ、俺も」
 そのうち、お礼と称してライスが少量ずつ提供され、やっとなんとか『昼ご飯』になっ
ていく。

「あんたら〜」
 戻って来た清美が肩をいからせて、
「あたしが舐めたスプーン〜」
「なんだよ、待鳥のだろ? それとも、待鳥に舐めて欲しかったのか」
 そう言ってべろべろ舐めている。
「〜〜〜っ!!」
 昼ご飯の最中に暴れるわけにはいかないのが気の毒だが、そんな清美を見ていると、
どうしても都の事を思い出してしまう。
 
 部活に出る前のひとときに、巧は人目を避けて環とくちづけを交わした。
 しばらくそれだけが触れ合える時間だ。
「次はいつ〜」と言い出せない自分が少し嬉しかった。だんだんと実感が増してきてい
る。自分は本当に、あの魅力的な三年生とつきあっているのだ。しかもセックスをして、
求めあって、女の喜びというやつを与えたのだ。自分が。そういう自負が育ち、都との
誠実な対話に向けて後押ししてくれる。
 サッカー部も女子バスケット部も次の週末に地区予選の緒戦がある。
 巧は出来る範囲でマネージャーの雑務を手伝い、たびたび抜け出しては環の様子を見
に行っていた。
 健康的な汗を流す部員達の中で、中心になって動く環のユニフォーム姿は、巧にはた
まらなく艶かしかった。

 失うなんて考えられない。必ず、ずっとそばにいるのだ。その執着が強くなっている
のは、環を抱きたいという欲求が止まらないからだという自覚があった。今もあのユニ
フォームのままで汗だくの身体を抱きしめたくて、胸を疼かせている。
 そして堂々と環を求められるように、都を正す。環の活き活きと集中したプレイぶり
に誓ってから、体育館を離れた。
 グラウンドのベンチでは、都が文庫本をめくっていた。
 巧はそのベンチの少し離れた位置に腰を下ろし、
「ウチの部長的には別に帰ってもいいみたいだから、もう帰ろうか?」
 環といっしょだと身体が切なすぎるので、そうしたかった。
 都は普通にうなずいて、本をしまった。
 巧も部室から革鞄を取って来て、二人で学校を後にする。
 
 最初の諍いの記憶。
 巧は、静かに歩き続ける都を目で追いながら、それを思い出した。
 昔、巧はコーヒー牛乳が好きでそればかり飲んでいた時期があった。あれは砂糖のか
たまりのようなものだから、当然のように虫歯になった。仕事の父に代わり都がつきあっ
てくれて、それでなんとか通い続けたのを覚えている。その頃に一度、コーヒー牛乳を
思いっきりひっくり返し、都が気に入っていた白いうさぎのぬいぐるみを汚してしまっ
たのだ。汚したと言うよりはもう、水浸しになった。その時の都は、怒れなくて困って
いる、という感じだったと思う。

 その夜に帰って来た父が、都に気を遣って『じゃあこの子もお風呂にいれてあげよう』
と言い、なのになぜか洗濯機で二人で楽しそうに洗っていたのを、巧はこっそり眺めて
いた。その時に、都は「お風呂なら、お湯であったかくしてあげないと」なんてかわい
いことを言っていた。そして、洗面器にいっぱいにしたお湯を運んで来た都はお約束通
りにつまづいて、見事にそのお湯を巧の上にぶちまけたのだった。
『ぬいぐるみが風呂なんか入るもんか、お姉ちゃんの馬ー鹿』
 巧は、自分が言ったセリフはこれしか覚えていない。代わりに、たまたまそこに片付
け忘れていたブーメランがあったのを良く覚えていた。
 歩きながら、傷跡に触れる。
(これが第一号だったんだな……)
 巧の額をえぐったあのブーメランは、あの後父によってこっそり捨てられてしまった。
裏のシールに血の跡が残ってしまったからだと思う。
(そう言や、あの頃はまだ姉ちゃんに『お』がついてた)
 あれをきっかけに、巧がからかって、都がそれに怒って暴力をふるうというスタイル
が定着した。『お』がついていると確かに相手に対する親しみが先に出てしまって、効
果的に姉を怒らせられなかったかもしれない。
 都が巧の手の動きに気付いた。
「それ、もしかしてまだ痛いの?」
 さすがに、これだけは都は心配する。もちろん大昔の傷跡で、なんともない。都もはっ
きりと覚えているのだろう。だから、今までこれでからかったことはなかった。

「全然。なんかたまに触ると落ち着いたりして」
 軽率な発言だったろうか? と都を見る。
 大丈夫のようだ。
「今日は晩飯姉ちゃんだったよね」
「材料はあるから、直帰でいいわ」
「中華なら四川風でよろしく」
 暗に辛いものを要求する巧を都は睨んで、
「こんどあんなの作ったらひっくり返すわよ」
「はーい……」
 ほとぼりが覚めるまで、しばらくは辛いものが食べられないと思うと少し寂しい。
 
 夕食が終わって、はるかが「宿題、宿題」と唱えながら二階に上がった後で、巧は都
に風呂のことを切り出してみた。
「一人で入ってみるよ。だいぶコツがわかってきたし、あと一ヶ月はこのままだしさ」
「そう、でも困ったことがあったら呼んでね?」
 そんな、普通の姉弟のような会話をして、巧は部屋に戻った。
 音楽を聞いたりマンガを読んだり、しょうがなく教科書を開いてぱらぱらめくってみ
たりして、普通に過ごしながら、はるか達が風呂に入ったり歯を磨いたり、といった物
音を聞いている。
 環に会いたい。いや、会うだけなら十分間に合っている。

(あー、つらいなー)
 股間に手がいってしまいそうだ。外で身体を動かして発散しようにも、まだ走るのも
辛い。せめてリフティングできるくらいになれば。
 静かになったので、見計らって風呂の準備を始めた。防水もぬかりなく、自分だけで
こなせるようになった。さらにテープを巻いて、ギプスの上にボディブラシを固定する。
「完璧」
 トラブルもなく、衣服の着替えもなんとかこなしていく。
 やはり、できないことができるようになると、同じ湯に浸かっていても余裕が違って
いた。人の手を借りないで自分でなんでも出来るというそれだけの事で、今まで以上に
ほっとする。なんとも不思議な気分だ。
 風呂から上がり、リビングには誰にもいないので、もう寝ようと明かりを落とした。
部屋の電気も、点けないでそのまま布団に転がり込もうと、して、ぎょっとした。
 都が寝ている。
(俺の……部屋?)
 それは間違いない。
(どういう嫌がらせだ……)
 本当に寝ているようだ。トイレに行って、間違って──都に限ってそんな寝ぼけた事
はしない。とにかくめくった布団を元に戻してやる。
 しょうがないので、姉の部屋に行った。姉のベッドに予備の布団を乗せて、そこで寝
る事にする。

「きゃー!」
 はるかのけたたましい叫び声を聞いて、巧はぱっちりと目を覚ました。自分が姉の部
屋にいることに一瞬驚き、それから気をとりなおして廊下に出る。
「あれっ? お兄ちゃん、どうなってるの?」
「なにがよ」
 まだ巧の頭はそれほどはっきりしていない。
 巧の部屋から飛び出して来たはるかが、布団を抱えた巧と部屋の中を交互に見て、
「お、お姉ちゃん、おはよう」
 と、巧の部屋から出て来た都に言った。
「お、おどかさないでよっ、一緒に……ふたりで寝てるのかと思った」
「ちょっとした冗談だ」
「ちょっとした冗談よ」
 都は巧の言葉をそのまま使い、自分の部屋に戻って着がえはじめた。
「ううーーっ」
 二人にからかわれたと思って、はるかは、
「お姉ちゃんのばかー! お兄ちゃんの超ばか〜!!」
 手に持っていたタオルを投げつけて、バタバタ駆け降りていく。
「あのな、姉ちゃんが寝ぼけて俺の……聞いてねえ」
 くらくらしながら、巧は起きてしまっていることもあり、しかたなく自分も準備を始
める。

 次の日はもっとひどいことになった。
 都とはるかの部屋には女の子ということで、鍵がついている。普段あまり使わないみ
たいだが、(確認なんてするわけにはいかないし)この夜、都はあろうことかこの鍵を
使い、なおかつ巧のベッドを、下着姿で占領した。
 「調子に乗ってると襲っちゃうよ」論法が逆手に取られているので、手も足も出ない。
反対に、都にはまだ「寝ぼけていた」という言い訳がきく。タチが悪い。
(お、俺は、テロには屈伏しないぞ……)
 巧は客間に行って毛布を確保すると、リビングに降りてゲームマシンを取り出した。
 本当にやると身体が持たないので、これを徹夜でやっていたことにして、ソファで寝
る。これが意外に寝心地が良かった。
 次の朝には、巧は父にそういうときは俺の布団で寝ろ、と勧められた。でも、さすが
にそれは出来ない。自分達は父が働いているから暮らしていけるのだ。テロには自力で
立ち向かう、と父に言うと、楽しそうで羨ましいな、と笑われた。
(楽しそうって……)
 姉は涼しい顔をしている。
 
 さらに次の日。
 まだはるかも起きている早い時間に風呂に入った。はるかが手伝いたがったが、もう
自分でもできるからと、防水処理だけ手伝ってもらった。
 都と二人でリビングでテレビを見ているので、その間に入り、さっさと部屋に戻った。
都が動く気配はない。はるかがいては確かに無理だ。

 やっと落ち着いて、ゆっくりと夜を過ごした。
 巧は今日、サッカー部の部室に死蔵されていた、フォーメーションプレイのビデオを
持ち帰った。
 普段は別の目的で使っているが、そういうものの為にという名目で父に譲り受けて来
てもらったデッキや小型テレビがある。
 プロの映像を見る場合、異常なテクニックやスーパープレイは見てもあまり参考にな
らないのだが、こういう地味な連係を扱ったものは、学生サッカーにも直接応用が効き、
実戦的──らしい。
「噛めば噛むほど味が出る──あれ?」
 映っていたのは、しょっぱなからカンフーキック。どれだけ見ても、唾吐きに頭突き、
肘打ち、後ろからの足払い。
「なによこれ……なんでこんなもの置いとくんだ」
 とは思ったものの、結構面白い。周りの選手の対応とか反応が、ラフプレイに対する
対処法としてやっぱり手慣れているのだ。
(怪我しないように転ぶ方法とか、やられたふりのうまいやり方とか)
 巧は、都に対してどうやって対抗するか考えていたから面白いのかもしれなかった。
 ベッドに横になって、画面を眺めているうちに目の前の問題に頭が切り替わって行っ
て、明日からどうしよう、そんなことばかり考えながら眠りに引き込まれていく。
 
 目覚めがとても爽やかな朝だった。
 ここのところ落ち着いて眠れなかった分、気持ちにも影響しそうなくらい、身体の軽
さを感じる。目につくところに置いてある目覚ましもまだ鳴っていない。
 その時に気付いた。
 腕の中に、下着の姉がいる。 

(かんべんしてくれ……)
 都は巧の左手を半ば腕枕にするように懐にいる。いや、最初は巧に腕枕させていたの
かもしれない。片手を遠慮がちに巧の胸に乗せ、静かな寝息を立てていた。
 弛んであどけないその寝顔が、本当の姉の顔なのだろう、と思う。
 細心の注意を払って、都の身体から離れた。それだけで何分もかかってしまう。
 あたりはあくまで静かで、誰も起きている空気はない。
 ベッドを降り、意識を今見た姉の肢体から無理矢理引き剥がした。
 もしこれが環なら、ブラをいじくったりして、『お、84のBなのか……なかなか』
などと後の心配をせずに戯れることもできるのだが。
(幸せそうに寝ちゃってまあ……)
 シンプルな水色のそろいの下着と、白くなめらかな身体を布団の中に隠してしまうと、
やっと一度息をつくことができた。ゆっくりはしていられない。さっさと身支度をして、
あたりを窺いながら洗面所に逃げ込んだ。ヘッドフォンをつけ、悪霊退散とばかりにM
Dで最近お気に入りのチャーミーチャフを大音量で聴きながら歯を磨く。
 ふと、ヘッドフォンをずらして窺うと、はるかの目覚ましの音が聞こえてきた。よし、
とまたノイズの海に逃避する。
「音漏れてるよ、お兄ちゃん。チャッツー?」

 階段の音がしたと思うと、パジャマのはるかがパタパタとスリッパの音を立てて入っ
てくる。どん、と押されて、
「こ、こら、飲んじゃったらどうすんのよ」
 押し返す。うがいの最中だ。はるかが楽しそうにさらに押し返して来て、
「今度貸してね?」
 コップに水を入れ、自分も歯ブラシににゅるっと歯磨き粉を塗り付けている。
「んー。今日は俺が弁当だろ? 心配しないで寝てろ──ぷはっ」
 巧が濁った水を吐くと、
「お兄ちゃん、冷凍食品ばっかりなんだもんっ、あたしがちょっとアレンジするの!」
「だったら全部お前がやってくれよ」
 はるかはそれには答えず、ちょっと身体を引いた。
「?」
「お兄ちゃん、お姉ちゃんの匂いがする」
(ゲー……ポーカーフェイス、ポーカーフェイス)
 一瞬ビクッとしながら、なんとか平静を保った。ここで迷ってはいけない。
「ちょうどいいや、はるか、おまえあの馬鹿者をなんとかしろ」
「あ……、またお姉ちゃんに苛められたの? まーた、なんか怒らしたんでしょっ!」
 少し戸惑っていたはるかは、巧の言葉に納得がいってすぐいつもの顔になった。
 まあ、一安心だ。

「怒らしたっていうか……、うーん、とにかく、ベッド占領されるわ、先に寝てたら入っ
てくるわ、嫌がらせもあそこまでいくと──」
「セクハラ?」
「おまえいい言葉知ってるな、はるか」
 はるかはきゃはは、と笑って歯を磨きはじめる。
 これではるかはなんとか味方にできた。と思う。
(甘いかな? これで姉ちゃんに釘でも刺しといてくれれば言うこと無しなんだが)
 堂々としていれば問題ない、当初からのスタンスに、巧は確信を持つ。
 でもやっぱりまだ決定的に、足りない。
 姉に諦める気がまったくないことはよくわかった。都は巧に、彼の方から手を出させ
ようとしている。手を出した後のことは想像するのも恐ろしい。
 だが巧の方も、姉が不可抗力を盾にしているうちは知らん顔をできるわけだ。
 降りて来た都は、相変わらず涼しい顔をしていた。
 
 *
 
 改めて考えるまでもなく、巧の作る弁当は、ちょっと寒々しい。
 冷凍のしなびたひとくちカツと、隣の席の小さな弁当箱に入っているおいしそうなだ
し巻を、サッとかっさらって取り換えた。
「ああっ!」

 残間清美が立ち上がって巧を糾弾しようとした時、
「巧くん、久しぶりに晴れてるからさ、上行かない?」
 環が、由美をぶら下げて教室に入って来た。一瞬、教室が静かにざわめいた。
「あれ、もう食べてたの?」
「イヤ、今から」
 清美と箸でチャンバラをくりひろげながら、巧は弁当箱をさっと閉じて後ろに隠す。
「あ、ちょっとぉ、逃げるなあ!」
「俺がやったやつ、それカツだぜ?」
 カツと聞いて、清美が女の子とは思えないリアクションで自分の弁当箱に戻った。
「ホントだ」
 その隙に逃げ出そうとする巧を、数人の男子がつかまえた。
「こら、離せ!」
「頼む、巧! 俺達も連れてってくれ!」
「は?」
「お姉様がたと同席させてくれぇ!」
 もう一人がわかりやすく補足するので、巧はどうしたものかと環を振り返る。
 よく見ると、環と由美の後ろに三年生らしき女子が何人か連なっている。
 どのみち自分達だけにはならないみたいなので、
「ああ。まあいいんじゃないか?」
「同志巧に感謝するぞ!」

「まじ? 俺も行く!」
 結局、十人以上に膨れ上がった三年女子と一年男子の一行が、ぞろぞろ大行進をして、
そうして屋上の座れそうな場所をだいたい埋め尽くした。
 まるで遠足のようだ。
 無理矢理ついてきた巧のクラスメイト達は、なんだかそれなりに楽しそうに『お姉様
がた』と話をしていて、巧はちょっといいことをした気分になっていた。
 だが、メインの『おかず』はやはり巧だったようで、
「ねえねえ、君なんだよね、環の彼氏」
 友人らしい女子の一人が、興味を抑えられなくなった感じで聞いてきた。
「これ、環にやられたの?」
 右腕を差して、言う。
「ちょっと、人聞きの悪いこと言わないでよっ」
 環が慌てて口を挟んだ。
 それを、男子たちがすかさず聞き付けて、全部そっちのけで巧に詰め寄った。
 環は、と巧が見ると、ちょっと照れくさそうな、申し訳なさそうな、そんな目で見て
いた。それには笑って返す。
「どういうことだ、今の話は」
「聞きたきゃそのミートボールを二個よこせ。大橋、おまえはそのレンコンの天ぷらで
いいぞ」

「ふざけるな〜」
「梅干しをやる! さあ話してもらおう」
「ねえねえ、退院した日にさー、結局どこまでいったのー?」
 突然、由美がガソリンを振りまくようなことを言って、全員を注目させた。
 巧の顔がひきつる。環は真っ赤で、下を向いている。
(一番奥まで……なんて言ったらあとで殺されるんだろうなあ)とそんな環を見ていた。
 女子陣も、そんな環を見るのは初めてだったらしい。
「うっそ、環マジじゃん……」
 それまで興味深げにしながらも黙っていた女子が言うと、
「あー、そうよ、私はマジです!」
 環が立ち上がって拳を固めた。とても環らしくて、巧はそれを見ていると嬉しい。
 おおー、とか、やらしー! とか飛び交っている下で、巧の横に来ていたクラスの大
橋守が、
「残間はいいのか?」
 そう真顔で聞いてきた。
 いつかは誰かに聞かれただろうな、と思った巧は、用意してあった答えをただ、返す。
「悪いけど、俺には何もできない」
「そうか」
 大橋は、笑った。

 この男はとてもいいやつだった。ナンパをやっていた頃に、巧は何度か一緒に遊んだ
が、女の子にちゃんと優しいし、約束を守る。名前通りというか。なかなかの男っぷり
だ。巧の知る限り、唯一の一人暮しの高校生でもあった。
「おまえ、それが聞きたくてついてきたのか」
「おまえの女が知りたかったんだよっ」
「いいけどな」
 笑って、そこで巧は環と目が合った。
 環がにっこり笑う。きっちり聞かれていたらしい。それからまた環は、他の女子につ
つかれてじゃれ返している。
「ところで由美さん、姉ちゃんは?」
「おやあ? 気になるの?」
「今日だけいなけりゃ、一応気になりますよ」
「ホントにそれだけぇ?」
 由美は、人さし指をしならせて巧の胸でくねくね遊ばせた。
「で、ね、姉ちゃんは、なにをしてるのかな?」
「生徒会の後輩に呼ばれてまーす」
「初めっから普通に言えないんですか……」
 そこへ、
「環ィ、由美が彼氏誘惑してるヨ!」
 と楽しそうに言っている声がする。

 そんな中で、男子の中でもうひとりナンパ仲間だった男子が、
「待鳥おまえ、こんな年上の彼女がいるのに、なんであんな年下とホテルいったんだ
よー」
 と問題発言をした。
「え、ウソー」
「それ、どういうこと?」
 さっきまで環をからかっていた女子が、巧を見る。
 それをつぶしたのは環だった。
「一ヶ月前の話でしょ。本人から聞いて知ってるわよ? 私たち付き合いだしたの、ホ
ンの一週間くらい前だもん」
「ていうか」
 巧は、ちょっとくらくらして、
「……年下?」
「あのときのグループ、俺らの2コ下だよ」
 巧はたしか、彼女にリードしてもらってやっとのことで初体験を果したのだ。
「まあ、ふたりっきりの時に聞いてあげるから!」
 環が巧の背中を叩いて、そのまま背中を抱いた。
 そのおかげで巧はその話からはそれっきり解放されたのだが、(そもそも一体いつに
なったらふたりっきりになれるのさ)と膨れて、環と目を合わさなかった。
 早く姉のことを話さなきゃならないのに。


 明後日は試合の日だ。
 環の集中を乱さないよう、いろんなことに気を使っているうちに、巧はその日は環と
キスもしないで帰ることになってしまった。
 
 *
 
 寝る前に、ドアの前にベッドを移動した。巧の体重が加わるので、絶対ドアは開けら
れまい。寝坊した場合、はるかが大騒ぎをするだろうがしかたがない。テロリストを撃
退するためだ。姉が今クローゼットに潜んででもいない限り、大丈夫。念のため、クロー
ゼットに姉が隠れていないか確認する。
 巧は、今夜こそと安心して布団に入った。
 それなのに。
(どういうことよ)
 巧の隣ですやすやとかわいい寝息をたてて、都は寝ていた。石鹸とリンスと都自身の
香りに脳をかき混ぜられる。
 まず姉と自分が接触している部分を確かめた。
 都は巧の左手を両手で抱え込んで、巧の足に、足をからませている。
 しかも。とっさにビクッと身体を引いてしまってから気が付いたが……
(俺の指、今姉ちゃんのパンツの中に入ってなかったか……?)
 一瞬の、『毛』が触った感触が指先に残っている気がする。

 それとなんといっても目覚めが爽やかなのが癪だった。人肌うんぬんというウンチク
が頭をかすめるが、
(俺、本当に姉ちゃんに何もしてないだろうか)
 ない。これは絶対に姉の精神攻撃だ。
 前日よりさらに苦労して、下着姿の姉をはがす。姉の太腿や胸の感触にシャレになら
ないダメージを受けながら、なんとか頭からそれを追い払った。
 ベッドから這い出ると、巧は侵入経路を探しはじめた。
 見つけておかないと明日もご対面だ。
(ネズミじゃないんだからさ……)
 答えは簡単だった。ベランダ経由だ。確かに寝る前に確認しなかったが、巧の風呂の
間かなにかに開けておいたのだろうか。先手を打たれていたのだ。
(マジで信じられん)
 予想通り姉の部屋の窓が開いていた。一旦部屋に戻って身支度をすると、そのルート
で下へ降りて、姉はそのまま放置することにする。
 それからはるかの目覚ましが鳴った。
 そして、その朝も都の『涼しい顔』は徹底していた。

 通学途中も、都の感触は巧の頭から離れようとしなかった。
 隣を澄まし顔で歩いている優等生の姉の外面は、本当、非のうち所がないと言ってよ
く、巧がもし『俺この人のパンツの中に無理矢理手を突っ込まされたんです』とか訴え
たとしても、大抵は信じてもらえないだろう。
(屈辱だ)
 プリーツスカートの中で見えないはずの姉の足が見えるような気がしてしまう。今朝
見て感じた全てが透けて見えそうな危うい幻覚。
 混乱を溶かす決定的な何かが欲しい。
 それでも巧は、状況は自分に有利になっていると感じている。
 あれ以上同じ手口がもう使えないのは、姉の方がよくわかっているだろう。
(いやもう、最大限ダメージ計上しましたって)
 だから今こそ決定的な何か。
 校門をちょうど抜けるところで、巧の肩を環が叩いた。
「おっはよ」
「おはよ、環さん。校門で会うの、珍しーね」
「『おはよ、由美さん』はぁ?」
「ごいっしょで」
「なあに、それ。──あ、おはよう都ちゃん」

「うん」
 都は少し由美に対して照れを見せている。表情は柔らかい。
 環はそれから目を逸らし、
「巧くん、ちょっと内緒話しようか」
 こういうところが嫌みがなくて心地いい。
 巧は姉と由美に手を振って、環と校舎の周りを歩いた。
「明日試合なんだよね」
「そ。だから、練習はちょっとだけでみんな早く帰んの」
「会場に男子いないんでしょ? 俺、どうしようかなー、立場的にはサッカー部を優先
しなきゃならないんだけど、行きたくないし」
「巧くん」
「なんでしょ?」
「今日ウチに泊まりに来て」
「えっ」
 環の言い出したそれは、結構唐突な話だった。
「親、温泉旅行だから」
 巧は一瞬ちら、と環を見て、真意を窺う。願ってもないことだけど。
 なんとか気を取り直して、
「こんなときに俺が行っていいの? 行ったら俺、絶対襲っちゃうよ……」
「たまたま取れたらしくってさ、二泊三日。でもま、こっちもピリピリしてるとこだか
ら、ありがたいけどね」

 環は巧の言葉をかき消すように言ってから、
「私も……私もね、このままじゃ試合に集中できないから」
 巧の首に腕を回して、にんまり笑う。
「えっと……」
 それには巧の方が赤くなった。こういうところはまだ巧は環に勝てない。
「ひとり……なの?」
「弟がいたりするけど」
 環はまたにんまりと笑って、
「無理矢理追い出した。ついて行かせた」
 と言った。
 
 とにかく、巧の頭には環の言葉が響いたままになって、巧をくらくらさせた。
 一度帰ってから外でおちあって行くことにして、唇だけで軽くキスをして、別れた。
 こうなると授業もまったく耳に入らない。
 なんとか環と他のことをする妄想で相殺しようとするが、遊園地に遊びに行けば観覧
車、海に泳ぎに行けば岩場の陰で水着のまま、とかエッチ方面にばかり働いて(しかも
ベタだった)、ろくな想像にならない。
 環はああ言っていたが。環は巧の『年頃の男の子の事情』に配慮したのではないか。
 そんなことを思った。試合に集中できないのは、巧が不満を感じているから。

(うぬぼれてるか)
 昼休みには、目だけで気持ちを交わし、別れた。
 放課後までの長い時間をなんとか費やし、巧はしょうがなくサッカー部の部室を訪れ、
試合前日の部員達の中に混ざった。巧が怪我で抜けた穴のことを散々皮肉られ、なんと
かタイムスケジュールを確認して抜け出した。
 同じ総合体育センターの運動場の設備を使うことになったので、両方に顔を出すこと
が出来る。
 男女両バスケチームのミーティングがちょうど終わったところで、そのそばに都と由
美がいた。環は立場上まだ部員達に取り巻かれて忙しいようだったが、待ち合わせ場所
はもう決めてある。
「ほれ、帰ろ姉ちゃん」
 少し方向の異なる由美と途中で別れ、巧は都と二人で家路についた。どうしても早足
になってしまう。
「どうしてそんなに急ぐの?」
 姉に突っ込まれ、巧はとっさに言い淀んでしまったが。
 これはチャンスだ。
 決定的な何かをこれから姉に与える。
「姉ちゃん、今日俺環さんとこ泊まるから。親父によろしく」
 できるだけこともなげに言った。
「そう」

 都もそれに簡単に返しただけだった。
「一旦帰ってから行くけど、メシはいいや」
 それから出かけるまでの間、巧は姉の顔を見なかった。見ないようにした。
 
 外岡(とのおか)家──環の家から数分の、待ち合わせていたコンビニで巧は環とお
ちあい、指を絡ませあってその道程を楽しんだ。
 と言っても、巧の頭の中はもうこの後のことでいっぱいだ。
 環は黒のタンクトップを着ていて、胸の形がすごくよくわかった。それに肩から脇を
大きく晒している。フレンチ袖のTシャツを着た巧とは二の腕をぴっちりと合わせるこ
とができた。巧はまだ背が伸びている最中だ。こうやって同じ高さでじゃれ合えるのも
今だけだと思い、積極的にその感触を求める。
 息をはずませた環は顔を逸らしているものの、身体は巧の方に押し付けてくる。
「なんか、遠いなー」
 環が堪えきれないというように言った。
 
 *
 
 巧が出ていったすぐ後にはるかが帰宅し、都は二人で好きなだけいいものを食べよう
と相談を始めた。
「お兄ちゃんは?」

「友達のところに泊まるって」
 間違ったことは言っていない。環は自分の友達だ。
「じゃあね、じゃあね、甘ーい酢豚とかがいーなー、山盛りで」
 はるかは食事に関してだけは巧が天敵なので上機嫌だ。
「巧がいるとき食べられないもの、ね」
 以前酢豚と麻婆豆腐をセットでおかずにした時には、巧ははるかから麻婆豆腐を奪い、
自分の酢豚をはるかに押し付けて知らん顔をしていた。そういう時はまだいいが、甘い
ものに偏ると大変だ。都としては辛いものも甘いものもバランスよく楽しみたいのだが、
巧とはるかの間で結構苦労する。
 でもそういう喧嘩も楽しいものだ。
 今日の所は平和に二人だけの食事をする。
 お気に入りのドラマを見終わったはるかが風呂に入ると、都はしばらく一人でニュー
ス番組を眺める。頭には入ってこない。別のことをずっと考えている。
 はるかには、都と二人の時には見せない顔がある。真っ赤になって怒っている時の顔、
からかわれてパニックになっている顔。都はそういう時のはるかの顔がたまらなくかわ
いくて、巧を止めるべきなのに、じっと見ていたりすることがあった。
 はるかにそういう顔を、自分はさせられない。巧にしかできない。同様に巧にもさせ
ることはできなかった。それがたぶんできるのが親友の環だ。
 ころんとソファに横になり、「巧」と口に出してみる。
 自分でも重症だと思っている。

 ごまかさずにはっきり告げていったところに都は、巧の強い意志を感じた。
 この一週間、都は幸せだった。もちろんあわよくば、ということを考えなかったわけ
ではない。今でもほんの少し可能性はあると思っている。それ以上に巧に触れていた時
間、その腕の中で本当に深く眠ったあの時間、それだけで都は幸せだった。
 そのために生きているのだ。疑いなく。
 時計を見るともう22時だった。巧が今頃何をしているのか、少し考えただけで胸が
締め付けられていく。都には巧以外の相手など、ありえない。想像できないというので
はない。いないのだ、本当に。巧以外に。それは巧が弟だからだ。彼が生まれてからの
全てを見守り続けてきた。それこそが弟だ。
 痛い。とても痛い。
 巧を引き止めなかった自分に対し、後悔が激しくこみ上げた。
 どう言って引き止められたというのか。方法などない。だけど、引き止めなかったか
ら、心が痛みに悲鳴を上げている。
 この痛みは朝になったら終わるだろうか。それともまた巧に触れられれば終わるのだ
ろうか。巧に愛されない限り終わらないだろうか。
 
 *
 
 外岡家の門をくぐると巧は、急に緊張した。
 玄関を上がって別の家の生活感というものを目の前にして、リアルさが胸に染み込ん
できた。

 それはやはり他の家族にことわりなく他人が中に足を踏み入れるという罪悪感による
ものだろうと思う。そして自分はこの家の娘と身体の関係がある。そういう気負いが拭
えなかったところを、環に突き飛ばされていきなりリビングに転がり込んだ。
「ひでー、かんべんしてよ、環さん」
「気持ちはわかるけどね、しっかりしろっ、タ・ク・ミ」
 そのまま、頭を両手で押さえられ、唇を奪われた。またたくまに痺れさせられる。
「いきなりっすか」
「さすがに早く寝ないといけないからね。でもとりあえずお茶しよ?」
 環の部屋に通され、環が台所に行っている間、巧は部屋中をゆっくり見渡した。
(さすがにいい匂いするな、女の子の部屋)
 机の上のボードに、環と由美のツーショット写真、そして都を入れた三人の写真がピ
ンで止められている。
(ああっ、隅っこに超ちっさく俺が写ってる!)
 そういう写真を選んで貼った環の気持ちをふと想う。それとも、そんなに考えて貼っ
たわけでもないのだろうか。
 環が入って来て、しばらく紅茶でくつろぐ。
「その写真最高でしょ? しかも巧くんちょっとむっとしてんの、コレ」
「えー、そんなのわかんの、これで」
「わからないわけないでしょ、愛しい恋人の顔だもん」

 そういう環の目は悪戯っぽいが、潤んでいる。
「じゃあ愛させてくれー」
 と巧が甘ったるくねだると、環はそれに答える代わりに、一足飛びに巧のシャツを引っ
張り上げた。
「ごめん、もどかしいよね」
 右腕を楽に通すために、巧はフレンチ袖を好んで着るようになっていた。もちろんも
どかしいのはそのことではない。
 脱がせ合いながら、お互い隙あらば相手の肌に吸い付いている。だが巧は十分に応え
ることができない。
「はやく環さんを、ちゃんと両手で抱きしめたいな」
 荒い息で環に訴える。
 姉につけられた傷が、二人の完全なる抱擁を阻んでいる。
 ギプスがまるで、巧を諦めようとしない都の執念そのもののようだった。
 どちらからともなく、環が上になるように動いて、結ばれた。
「巧くん……あうっ!」
 環が上体をぴったりと巧に押し付けると、結合した部分がきつくしなって巧を痺れさ
せた。
 上で身悶える環を左手だけで懸命にかき抱く。
「環さんの動き、エロすぎ」
「な、なによぉ」

 環が締め付けながらやけに恥ずかしげな声を出すので、巧はすぐに堪えきれなくなっ
てしまって、
「もう一個持ってきてるからっ」
 と数回激しく動いて一回目を放出した。
「くぁー、もう、なんていうか、環さんの中ってたまらないです」
 まだ途中の環は、巧の言葉に悶え、言葉もなく荒い息で巧の唇を貪った。巧はそこか
らゆっくり、環の身体に触れながら次の準備をした。
 一週間前よりもやはり余裕を持って環に接することができている。それが嬉しい。そ
のうち、一回目から環をイカせてやるのだ。
「なんか、右手下にしたほうが意外と楽みたい、俺」
 そう気がついてから、巧は環の頭を抱え込んで横に向いた。
 自由な左手で環の身体のラインを丹念になぞる。動きに合わせて環の身体がうねり、
貪慾に愛撫を求めてくる。唇は重ねたまま、とろけるようなくちづけを繰り返し、その
間にも指で環の身体を探っていく。
 そうしながら、巧は片足を環の足の間に入れて股間を擦り上げていった。たちまちあ
ふれてきたもので巧の太腿がぬるぬるになった。
「環さん、楽にしててね」
「うん」
 環は薄く微笑む。
 余分な消耗をさせられない。だから巧は無理をする。身体を起こして、自分の下に環
の両足を押し広げさせていく。右腕が悲鳴を上げるが、挿入するまでの我慢だ。

 仰向けでたわむ胸を名残惜しく舌で吸ってから、一度上体を落とした。すると環は、
「これがたまらないんだ」
 と巧の体重を愛おしげに受け止める。今の巧にはありがたい。そのまま濡れそぼった
入り口に左手で誘導し、ゆっくりと差し入れていった。
「んっ……は……あ…………ん」
 感慨深げな環のその声も巧には狂おしかった。巧が奥までたどりつくと、環はぶるっ
と大きく身体を震わせ、それから激しく巧を抱きしめた。
「ちょっと待ってね」
 と巧を押しとどめ、足を巧の腰にからめてくる。それで環の中が蠢いて、巧はまた身
体の中心を痺れさせた。巧は環に肉棒の感触を確かめられている気がして、恥ずかしく
て堪らなくなった。だが、目をちゃんと開いてみて、自分が組み敷いている女の身体の
美しさといやらしさといったらなかった。
「あんっ! やだ……巧くん」
 環が顎を上げて応えてくれた。その肢体の見事さに刺激されて、巧が肉棒をさらに大
きくしたのを感じてくれたのだ。
「環さん、イッてね」
 環が吐息で答えると、静止状態での悩ましい感触に別れを告げ、巧は前後に動き始め
た。環の膣内の吸い込まれそうな動きに抗い、効果的な動作に勤める。それがお互いの
快感を高めていくのがわかるから、惜しみなく力を注ぐ。

「あっ、あっ、あっ、あっ、ああっ、ああっ!」
 リズミカルな動きで反応する環の声は、途中から一気に大きくなり、巧をさらに急き
たてた。
 早く、もう待てない、と言う代わりに搾り取るような渦巻き状の締め付けが巧の肉棒
を襲う。
 巧はまだいける。重く深く、環を押し広げた。
「だ、だめっ、やあっ! んああああっ!!」
 痙攣に近い動きが混ざって、環が昇り詰めていく。我慢する理由はなかった。一緒に
イキたい。巧も動きを本能にゆだね、
「イク、イクッ、イアアア、や、あああっっ!!!」
 弾けていく環に引き込まれるように、解き放った。
 何もかも忘れてしまいそうな、絶頂の感覚だった。
 お互い脱力し、唇で余韻を与えあいながら、巧が環から抜け出す頃には、環はそのま
ま眠りに吸い込まれつつあるようだった。
 巧は環を精いっぱい綺麗にしてやって、パジャマらしきものを着せてやってから自分
も環の横になった。食事すらしていなかったことを思い出すが、この分だと早起きがで
きてたっぷり準備の時間が取れるだろうと思う。巧は環の頬にキスしたまま、泥のよう
に眠った。
 翌日の一回戦は、好調を維持する環中心の組み立てで、余裕を持って桐高女子バスケ
部は二回戦に進出する。 

 綺麗にイカされた後の身体が、本当にすっきりしていることが、環を酔わせていた。
 不思議なくらい、バスケットに集中できる。
 試合場の応援組の女子に混じった男子の制服。しかも右腕を吊った痛々しい恋人の、目
立ち過ぎる姿が、おかしいくらい頼もしく見えた。
 運命なんて、と思うけど、信じてみたくなる。
 夢じゃないかと思い、今夜もそばにいてくれるだろうかと胸を熱くした。
 
「ほんと本番に強いよね、環ちゃんは」
 由美が持ってきたうちわでぱたぱた扇いでくれている。そして、
「身体のキレもすっごくいい感じ〜」
 そんなことを言っている。
 どうしても顔が赤くなってしまう。
「先輩、ドリンクちゃんと飲んでください、これも選手の仕事ですからっ」
 そんな律儀な後輩の押し付けるボトルを受け取りながら、巧の姿を探す。
 観客席の少し離れたところに、両側を女子に挟まれた巧を見つけた。
(…………なに、あれ)
 環は笑ってひっくり返りそうになった。
 巧の右に都。そして左に補欠の一年の吉田麻理が座っているのだ。

 話をしているのか、していないのか、三人ともあらぬ方向を見ていて、意識だけはしあ
っているようだった。
 由美が時々それを見ている。
 
「先輩すごく調子いいよね。どうしてだと思う?」
 吉田麻理がいきなりそんなことを聞くので、巧は逃げ出したくなった。
「俺に聞いてどうすんの」
「待鳥くんは知ってると思うから」
「そうなの」
 この強気な娘の考えていることはまったくわからない。普通に何かを聞かれても別のこ
とを質されている気がしてしまう。
「白々しいのね。待鳥くんはあの時言ったこと覚えてる?」
「なにをよ」
「身体でも同じ事ができるけど、したいかって。私を誘ったのよ?」
 かんべんしてくれと思う。
「誘ってません」
「私、男の人とそういうことしたことないの」
「誘ってない」
「まあ、私たちの年だと、したことなくてもそんなに変なことじゃないよね。したいとは
思わなかったし。でもね」

「誘ってねえ」
 隣には姉がいるのだ。
「待鳥くんから先輩の匂いがするよ。だから……」
「俺は惚れた女としかしません」
 巧が強く言ったので、そこで麻理は黙り込んだ。と思ったら、都が口を開いた。
「今日は帰ってくるの?」
 弟に向かって、いったいどういう聞き方だ。こんな場所で、声の調子が媚びを含んでい
る。『家庭を顧みずに仕事にのめり込み、毎日会社に泊まり込んでいる夫』じゃないのだ。
 これは、吉田麻理にはどう伝わっているのだろう。
(もうイヤ……神様仏様)
 祈りでも通じたのだろうか、その時、
「はーい、もらって帰るよん」
 いつのまにか後ろに回り込んでいた環が、巧の脇に両手を入れて、「よいしょ」と引っ
張り上げるジェスチャーをしてみせた。
「せ、先輩」
 麻理が慌てて立ち上がってかしこまり、真摯な視線を環に向けた。
 そして都がすがるような目をして見る。環が気付いて、巧に無言で振ってきた。巧に任
せるという信頼と、もうひとつ願望の眼差し。巧は環と同じ気持ちだ。
(そりゃあ環さんがはっきり言ったらむちゃくちゃカドがたつよな)
 巧は環に引き起こされながら、都の目にあえて言った。

「もう一日、環さんのとこに泊まるからね」
 麻理が、このもう一人の先輩はどういう人だろうと伺う気配があったが、巧はそのまま
背を向けて環とそこから離れた。後は由美に任せる。明日の日曜もまた試合なので、簡単
な打ち合わせだけで今日は解散である。
 
「環さん、さっき姉ちゃんが変だって思わなかった?」
「思ったわよ。だいたい想像つくけど」
「後で話すから」
 巧が言うと、環は控えめに微笑んで巧の肩を叩いた。
「由美があのコのことはしっかり見てるから、大丈夫よ」
「それ、よくわからないな、俺」
 試合のご褒美に、環が巧にねだったカップアイスを二人で行儀悪く食べながら、駅前の
小道を肩をつつきあわせて歩いていく。
 環が気持ちよさそうに目を閉じて、吹いてきた風に短い髪を揺らしている。巧は、それ
を本当にまぶしそうに眺める。
 こうして引っ付いて歩いていると、贅沢な話だけど、少し離れたところから形のいいお
尻やすらっと引き締まった脚を眺めたりできないのがちょっと不満だ。自分を見ている環
を違う角度から見てみたい。
「巧くん、お風呂ってどうしてるの?」
「涙ぐましい努力をしてます、ハイ」

「都……?」
「え、いや、もう、ひとりでできるようになりましたが」
 巧が弁解するように言うと、環はトイレに行けるようになった子供みたい、と笑って、
「ごめん、笑い事じゃないんだっけ」
「笑い事じゃありません」
 そんな話をしていたので、外岡家で二人でシャワーを浴びることにした。
 明るいうちから、風呂場で裸になった相手を見ていると、お互いに真っ赤になっている
のがおかしかった。実際恥ずかしいのだが、とても変な感じだ。相手に触れているとその
まま変になってしまいそうなので、巧は環に背中をお願いして、自分で前を洗った。
「やっぱりへんてこだよね」
 環にギプスをつつかれる。
「借金みたいなもんですねー。治ったらまず、それまでの分この右手をかわいがってあげ
てくださいね」
「ふふっ、そういうことなら大丈夫」
 その後は、自然とやはり抱き合ってしまった。お互いの首筋を距離がマイナスになるよ
うに絡ませて抱きしめあう。
「このままここでシたら超疲れそうよね」
 おどけて、環が巧を引っ張った。心を読まれているみたいだ。
 跳ねるように脱衣所に逃げる環の、裸のお尻はたまらない曲線を描いている。それを見
て巧は、絶対今日はバックからヤるんだと決めた。

 *
 
 巧のいなかった昨日の夜、都は風呂から上がるとすぐ、巧の部屋へ行って巧のベッドで
眠った。唯一巧に近付くことができる場所。
 だが起きても巧はいなかった。恋人のところにいるのだから当然だ。
 自分は留守番をする姉にすぎない。
 巧に今夜も帰らないと言われて、周りが見えなくなった。由美に後ろから抱きしめられ
ているうちに少し気持ちが落ち着いたが、痛みはむしろ激しくなっていた。
 環の応援から帰宅し、まっすぐに巧の部屋へ行く。はるかは今日は、友人達と日帰りで
遊びに行っている。ひとりだ。
 TVラックの前に座り、そういえば巧はよくこれでサッカーのビデオを見ていたな、と
思ってTVをつけ、テープを回してみた。アダルトビデオが入っていたので、怒りのあま
りテープを叩き壊して中身を引きずり出した。
 カーテンをきちんと閉めて自分の部屋に戻る。
 もう巧が寝ているときにあの部屋に侵入することはできないだろう。
 起きている時に訪れて、ベッドに並んで腰掛けて話をしたりできれば、それだけでもい
い。そのくらいは、なければ自分は保たないと思って、深く沈み込んだ。
 気持ちを逃がす方法はないから、
(戻ってきたら絶対に襲ってやる)

 都はもう、迷うことなくそう決めて、その時を思い描いた。
 すると、不思議と気持ちが楽になった。だから思うのだ、絶対成功すると。
 
 *
 
 環はうつぶせで、両手で枕を抱えてそこに顔を埋めている。巧がその背中に密着してい
る。
 ぴっちりと閉じた環の両脚を巧の脚が挟み込んでいる。その状態で、繋がっている。
 強烈な締め付けと密着感が、巧のものをただれさせていた。
 ぎちぎちと滑っていくしかない。暴れようとする環を完全に拘束したまま思う存分出し
入れをしているのだ。環は右腕だけを自由に使って、シーツをかきむしった。
 くぐもった声がかすれていって、環の狂態を音以外の世界で堪能した。
「巧くん、……これは、あ、駄目よ、私、明日、試合……んああっ!!」
 環が荒れ狂う快楽に耐えているのが肌で感じられた。だけど、巧は止められない。一回
目の自分が環をイカせるのだ。
 後ろから組み敷いて、『犯している』ような微妙な気分と、そのあまりの密接な姿勢に
環の体型を感じ、お尻の柔らかさを感じ、泣きそうになった。
 刺激が強すぎて、巧は逆にイケない。
 力を緩めると、繋がったまま身体を横倒しにした。その摩擦で、枕から離れた環の口か
ら大きな声が出ていた。

 その声もかすれている。
 やっと空気にさらされた環の胸を、やわやわと揉んでいると、
「こんなの……どこで覚えてきたの? ちょっと」
「今日環さんとひっついてて発見したのっ」
 そう、やたら嬉しそうに言ってしまった。だから照れ隠しに、環のクリトリスのあたり
を刺激してやると、環は身体を震わせながらも、その二の腕を捕えて少し強く噛み付いて
きた。
「いででっ!! 環さん?!」
 見事に歯形の残った腕に、ふーふー息を吹き掛けながら、
「昨日の分、後ろにつけてあげるね」
 これは仕返し。環の綺麗な肩甲骨と背骨のラインの間の小さな空間に唇を押し付け、愛
情を込めて吸い上げる。
「やだっ、見えないとこ」
 環が暴れるので抜け落ちそうになって、慌てて巧は環の腰をつかまえた。もう一度深く
肉棒が環に潜り込んだ。
「や、う、ああんっ!! もう、やっ」
 不満げな声が気になって、後ろから覗き込む。耳たぶは真っ赤だ。恥ずかしがっている
と思って嬉しくなった。
「環さん、さっきイッた?」
 こく、と苦労して頷いているのをたまらなくなって抱き寄せた。

「俺、やっと勝てた。じゃあ、今の分」
 余韻に震えている環の中から、振り切るように抜き出すと、その瞬間だけ果てしなく狭
くなって身体が痺れた。
 すっかり赤みが消えて元通りの胸元に、きつく『最新版』を刻印する。
「巧くんがまだイッてない」
 環が膨れて抗議してきた。
「こっちでイキました」
 自分の胸をツンと触れると、環は「キザ、ヘン」とめちゃくちゃおかしそうに笑った。
 それに、これは嘘だ。環の中で弾けたいに決まっている。
「でも実際、環さんにやっと仕返しできた感じ」
「どうしてそんなことにこだわるの?」
「女の子にはたぶんワカリマセン」
「そうらしいけどっ」
 環は、納得のいっていない顔で反撃に出た。
「私だって女だっ!」
 そのまま巧は押し倒された。
「こら、明日試合っ」
 巧の抗議は空しいし、必要もない。後が怖くないと言えば嘘にはなるが、逆らわなかっ
た。
 
 *
 
 とはいうものの、
「それで負けて、環ちゃん下級生に刺されても知らないからねっ」
「もう負けちゃったんだから、しかたないでしょ?」
 頭を掻きながらなぜか由美に許しを乞うている。
 由美が本気で怒っているようなのが、環はたまらない。
「そのせいで負けたんじゃないってば。アイツら今年は優勝するわよ」
 べーっ、と引き上げる敵チームの方に向かってやってから、下級生より先に都に刺され
るかも、と思った。昨日の夜ヤリまくりましたとは誰の前でも絶対言えない。
「で、巧くんはなんで来ないの?」
「全然起きないから、置いてきちゃった……」
「信じらんない」
 幸い試合後で、上気した顔で赤くなってもわからないのが救いだ。
 汗をタオルで拭ってしまうと、
「都ちゃんがかわいそう」
「んー、そりゃ、どうだろ」
「なにが、どういうこと?」
 今日の由美は怖い。
「わかった、わかったって。ちゃんと気を遣ってるから、だから、いいでしょ?」

 由美の髪をくしゃくしゃといじりながら、昨日巧からコトの最中に聞いた話を思い出し
た。
(都らしいなあ)と久しぶりに思った。他人事だったらどんなに笑える話か。
 巧は環に「絶対諦めさせるから」と言って、言えたことに安心したみたいにそのままば
ったり眠り込んでしまった。その寝顔の晴れやかなことと言ったら、なかった。体力は限
界まで使ったようだったが。
 そして環は、本当に全力を出し切って戦ったのだ。
 雑念は全て巧が吸い取ってくれていた。完全にプレイに集中して、それでもどうにもで
きない壁があったというだけのこと。ひとりになってからたぶん、わんわん泣き出してし
まうだろう。巧には見られたくない。腫れてしまってとても見られない顔になるに違いな
い。
(巧くん、やっぱり起きられなかったかぁ)
 都ははるかと、はるかの友達らしい女の子達といっしょだった。
(わー、あのコ達もモテそうだな。カワイイなあ、中学生って)
 そんな風に気を紛らわせながら、バッグに思い出深いシューズやリストバンドをしまっ
ていく。
 巧はまだウチだろうか。午前中だけで試合は終わりだが、ちょっと会い辛い。きっと結
果を聞いて気にするだろうから。

 *
 
 巧が会場のどこにもいない。
 都は懸命にその姿を探したが、はるか達と一緒に行動していてはあまり目立った動きは
出来ない。
 試合が終わっても、巧は現れなかった。巧と引き離されるような恐怖を覚え、一目でも
見たいと願う。由美にも環にも聞けなかった。
 はるかにことづてをして、誰にも黙って抜け出した。
 環の家に行ってみようとさえ思ったが、結局家に戻ってきてしまった。
 玄関に巧の靴があった。
 バタバタと駆け上がってみると、リビングにいた。
 巧がぎょっとした顔で手に持っていた紙袋をそっと後ろに隠すのを気にも止めず、手の
届く距離まで近付いて行ったものの、そこから足が動かない。だから代わりに、
「どうして応援行かなかったの?」
 と聞く。
「起きれなかったから、なんか照れくさくって。それに、家にいたら電話かかってくるか
もしんないし」
「かかってこないと思うわよ。あのコ、負けた後はひとりで泣きたいはずだから」
「そっか、負けたのか」
 はるかは友人達とそのままショッピングに出かけていった。
 ふたりだ。
 
「今日はもう出掛けない?」
「うーん……」
 都の問いかけに唸ったきり、巧は自分の部屋に戻ってしまった。
 たぶん、なにか企んでいると巧に思われた。気が焦る。追って行って、ノックして、
「シャワー浴びるから、いてよね」
 今から本当にシャワーを浴びる。このセリフは会心の出来だと、ふと思う。
「わかった」
 巧の返事をドア越しに聞いてから、そのまま準備も何もせずに下に降りて風呂場に入っ
た。勢いを増そうと、激しくシャワーをかぶり、力の限り身体を綺麗にしたら、もう止ま
らなかった。ゆっくり湯加減など出来なかったから体中、皮膚が真っ赤になっている。の
ぼせそうだ。引き戸を思いきり引っ張る。
 そのまま脱衣所を素通りして、びちゃびちゃと廊下を水浸しにしながら階段を昇った。

 巧の部屋まで一直線。
 突入した。
「待った! いや、わかったから、待ってくれ!」
 さっきの数倍ぎょっとした顔で、巧が後ずさった。
 なにがわかったのかは知らないが、逃げる隙は与えない。
 ドアを開けてすぐ退路を押さえ、ベッドに引っ張り込む。普段ならともかく片手の弟に
遅れはとらない。

「俺が昨日まで何してたか、知っててやってんの?」
 都は気付く。それはその場逃れをする時の言い方だ。拒絶する時はそうじゃないのだ。
 隙があるわよ、と。
「恋人の応援に寝坊するような人は、犯してやるんだからっ」
 巧が一瞬諦めたような目をしたのを見た。
 願いが叶えられるのだろうか。
 たとえ月を貫通しようと衰えないくらい強いこの願いが。
 
 *
 
 ちくしょう、と姉に顔を見られないように体を入れ替え、巧は都の上になった。
 押さえつけ、動けなくしてやると、姉の方から積極的に大人しくなった。
(かわいそうだと思うけど、しょうがないよ)
 巧は自分に言い聞かせるように、ずぶぬれの姉の、裸の腰を持ち上げた。
 目の眩むような光景に気持ちを持っていかれそうになる。が、あと少しの我慢なのだ。
本当にあと一瞬、そして、カチャンと音がしてそれはハマった。
 やりきれない思いで、巧は呆然とする姉を見下ろした。 

 放課後、環が見つからないのでうろうろしていると、元ナンパ仲間につかまって巧は
教室に連れ戻された。当面少し、環と姉のそばにいないといけないと思うのだが、久し
ぶりに仲間達と馬鹿騒ぎをしてみたい気分でもあった。
「巧、バスケの外岡先輩とデキてるってほんとか?」
「キミタチにはカンケーないよ」
 やけくそ気味に、不敵に笑ってやると、
「なんだその笑いはっっ」
 何人かが憤慨するのだが、
「その話もいいけど、な、昨日の女の子たちなんだけどさ」
「あのカチューシャしてた生意気な女がいたじゃん、あれがさ、まっつんのこと聞いて
きたのよ、俺んとこへ」
「まじで? じゃあ、俺あの仕切ってたコの番号もらってるからさ、今度──」
 聞いていると巧は、意外とこの連中はバランスが取れている奴らだと思う。勘がいい
というのか、変な立ち入り方をあまりしない。こういうのが世渡りとか、そういう技術
に成熟していくんじゃないだろうか。
「で、もうヤッたらしいじゃねーか」
「戻ってこなくていいんだよ、お前らは」

 巧は、この話を都に聞かれるのが少し辛い。昨日あんな目に合わせたのだ。なんだか
んだ言って、環とのことをあまり耳に入れたくはない。今日はまだ追加授業中だから大
丈夫だろうが。
 昨日の姉は今まで自分の知らなかったこと、知らないふりをして避けていたことを暴
き立てていた。
 姉は、やはり魅力的だ。
「いーなー、おまえみたいのがいるから俺達は、まだ熟れてない青い実で我慢すること
になるんじゃないかっ」
「おめーはそっちのほうが趣味だろうが! ロリコン野郎」
「15はぎりぎりセーフだよ」
「そーかあ?」
「映画館とかとおんなじで、13未満だべ」
「おかしいって、それ」
(じゃあ俺もロリコンか。年なんかより、見た目がお年頃ならいいじゃんか)
 とはいえ見抜けなかった自分の浅さには少し幻滅する。
 そんなことを一人で考えていると、目ざとく突っ込まれた。
「あっ、こいつ反芻してやがった」
「反芻? ザッツグレイト」
「も・ど・っ・て・く・る・な」

 
「なあに、今日はロリコン記念日なの?」

 環は、一度は巧達の放課後の馬鹿話を聞いてみたいと、これを密かに楽しみにしてい
た。その割には退屈だったので膨れて振り向くが、都は知らん顔を続けている。
 授業が終わると同時に都を引っ張りだし、柱の陰にこっそり隠れていた。
 環が抱えているせいか、都は腕の中で妙にそわそわと落ち着かない。
(? なにを過敏になってるんだろ)
 一人がナンパの会話術っぽいことを言い出して、その流れから『一番クサいセリフを
考えたやつに全員でオゴる』という賭けになっていた。
 陳腐だろうがなんだろうがとにかくクサい者勝ちだ。意外とこれが盛り上がっている。
次々そんな感じの言葉が飛び交って、巧もむずがゆくなるようなことを言った。『自分
の小指の赤い糸を辿っていったら、君に出会ったんだ』
 環が声をたてないように苦労して笑っていると、腕の中の都が赤い顔で、小指を出し
てじっと見ているのに気付いた。綺麗に手入れされた小さな指。
 その仕草と切れるような美しさが胸をうつ。
 心が引き寄せられる。
(か、かわいい……都、あんたはかわいすぎる! ホント、由美ほどの奴が一目惚れす
るんだもん)
 同時に、胸が痛くなる。
 駄目だ。こんなコから巧を奪った。
 こういうふうに巧の日常を覗き見るのは、本当に楽しかったんだと思う。
(本当に、かわいい……なんでこんな)
 いいコなんだろう。
 巧に関して、環は都から恨み言を聞いたことがない。
(このコを守りたいな)
 由美にするように髪を軽く撫でてやっていると、都は怪訝な顔をしたが、されるまま
になっていた。どんなことを考えているのだろう。
 
 教室の中では、お題の『クサいセリフ大会』がなぜか『理論上の女の子最短攻略時間
の考察』に変わり、さらに『チンコスペック談義』にシフトしていた。
(なんでこうなるかな、男子は)
 男子バスケの連中もこういう感じだ。
 突然、一人が衝撃的告白をする。『俺の、なんかつんつるてんらしいんだよね』
『どういう意味よ』
『全然張り出してないの、先ッちょが』
『あ、それってやっぱり不利なんかな?』
『相手によるし、やりかたにもよるんじゃない?』
 どうもこの連中は恥を忍んで乞うような相手に弱いらしい。我も我もと自慢しあって
いる時の感じとは違い、なにやら真摯にアドバイスを送っているのがおかしい。『俺も
スペック不足感じることあるぞ?』
 巧だ、と環は耳をそばだてた。都が同時にピクッと動いたので、また笑いそうになっ
てこらえる。

『ホントに?』
『いや、だまされるな、こいつはエリンギだ!』
(ちょっと待って……)
 環は慌てた。さすがにこれは笑い声を押さえられないかもしれない。身体を起こそう
としたら都に押さえられた。『細いっての?』
『違う、竿が普通に太くて、でもエリンギなんだよ!』
 妙に熱い主張だ。怒っていると言ってもいい。巧が訝しげに、
『あ、おまえ久我森だっけ、中学。……もしかして修学旅行んとき、居た?』
『居た。っていうか、大浴場にノギス持ち込んだの、俺』
『やっぱそうか! 俺あんとき優勝した奴のチンコ忘れらんねーよ……やっぱ世界は広
いわ』
 チンコ談義は終わらないが、赤い顔の都と目が合ってしまい、環はそのまま目が離せ
なくなってしまった。
 なんとも表現しがたい、奇妙な長い時間。こっちも赤くなる。
 これを横で由美が見ていたとしたら、誤解されてしまったかもしれない。
 チャイムが鳴った。
 三年の追加授業用の短いチャイム。
(ほら、逃げないと!)と都を追い立てて上の階へ逃げる。
「今度由美も連れてこよう」
 と言ったら都は睨んだが、顔が赤いままだったのでしまらなくて、悔し紛れに叩かれ
てしまった。

「環」
「ん、なに?」
「巧をどこにも連れていかないでね」
 都が急にそんなことを言った。おやと都に見入る。さっきの表現しがたい時間と繋が
って、今日の都のらしくなさに思い及んだ。それはなにか、ついこのあいだまでの『私
の巧を取らないで』と言っているような目とまったく違っていた。
(これはぜひ、巧くんに聞いてみないと)
 巧はあっさりと答えた。
「昨日、絶対間に合わないと思って、まあ買い物しつつだけど、そのままウチに帰った
の。そしたら帰ったとたんに襲われたんだよ、姉ちゃんに。大丈夫、姉ちゃんは封印し
たから。これで」
 ミーティング後の部室棟の脇で、キスしたりべたべたしながらそんなことを聞いてい
た。巧が折り畳まれた紙を見せてくれた。『ボディロック 取り扱い説明書』
「て……貞操帯じゃないの、これ?」
「風呂にはそのまま入れるしトイレにもちゃんといけるから大丈夫」
「巧くん……」
 環は尻餅をついてしまって、巧を道連れにして制服を砂だらけにしてしまった。今日
はもう笑いすぎだ。

「チタンワイヤー製のネットをラバーで覆ってあってね、金属でかぶれないし錆びない
し動きも制限されない。鍵がないと絶対外せない優れもの」
「あは、あははは、はははっ! わかった、説明しなくていいから、いや笑っちゃいけ
ないんだけど、あははははは、あはっ!」
「環さん、いくらなんでも笑いすぎ」
 転がったまま散々はーはー言ってからやっと環は立ち上がり、
「今日の都は、それが原因だったのね」
 砂を払いながら巧を起こし、
「都をグラウンドの方に待たすから何かと思ったら、でもさ、それ、使い方が逆よ」
「役に立てばいいんですよ」
 
 けど、と巧は本来の『使用目的』を思ってみる。
『二番でいいから、私にもして……、お願いだから離れていかないで、ねえっ!』
 そう言ってすがるのを巧は結果として突っぱねた。
 これは意地だ。同時に環に掲げられる最大の誠意だと思っている。
 病院では、姉の気持ちを受けないとはっきり伝えた。同時に、何をしてきても逆らわ
ないとも言ってしまった。
 あのボディロックでそれが実現できるのだと思えば、買い物は安かった。
 姉の理性じゃなく心が諦めるまで姉の苦しみにはつきあう。
 だが、昨日の夜から今日に至るまで、都が巧に見せていた従順さと嬉しそうな顔はど
うだろう。

(ひょっとすると、姉ちゃんはとてつもなく自分に都合のいいように解釈してるんじゃ
ないだろうか……)
 つまり姉は今、鍵を持っている巧に独占されているのだという──
(頭おかしくなりそうだ…………)
 環も違和感を感じたはずだった。
「ねえ、環さん」
「逆効果だったかもね」
 環は巧が怖れている通りのことを言った。
 でも大丈夫だと思う。
「このまんまで時間が立てば姉ちゃんも悟ると思うんだけどな」
「じゃあ、ずっとつけっぱなしにさせるつもりなの?」
「姉ちゃん次第っす。ていうか、環さんまだ笑ってるし」
「だってさ──」
 環のバスケ部での活動も基本的に終わりだ。進学しない関係で後輩達に教えることに
はなるだろうが、自分のためにプレイすることはなくなる。
「お疲れさま、環さん」
 巧が手を差し出すと、環は少し顔を歪めて、でもすぐにっこりと笑って手を握り返し
てきた。その一瞬の泣き笑いのような顔は、昨日の名残なのだろうと思った。出来るな
ら一年の頃の環のプレイを見たかったと思ったが、それは言わなかった。
 グラウンドに出ると、まだ勝ち残っているサッカー部が激しい練習を行なっていた。

(うっわー、行きづれー)
 組織力が増して、歴代のチームの中でもいい線を行っているという評判だ。
 巧のポジションに入った選手の動きを見ていても、自分より劣っているとは思えない。
 全治2ヶ月の巧にはチームがどこまで勝ち進んでも出番はない。それがわかっている
から、監督や主将の遠山も厳しいことは巧に言わなかった。
 期末試験も目の前だった。
 担任の吉見から特別にマークシートのテストを作ってもらえることになっている。
「姉ちゃん一年の時のテストとか持ってねーの?」
「真面目に勉強しなさい」
「そーだね」
「環さんまで、冷たいなー」
 待ちぼうけていた姉を拾って、環と姉に挟まれて帰った。環が急に笑い出したりしな
いかちょっと心配したが、そういうこともなく、それぞれの家に向かう。
 
 *
 
 都は、環に思い焦がれる吉田麻理のことを思い出し、環にキスをする自分を想像して
みた。ピンとこない。
 それよりもこの『拘束具』の意味が問題だ。
 何が起こったのか理解できないうちに、巧に『高かったんだから、大事にしてよね』
なんてことを言われたので混乱してしまった。

 昨日巧に触られたところが熱を持ったまま、いつまでも疼いていた。今までと違う領
域に踏み込んだのだ。そこには巧だけが入ってくる。環は入ってこれない。
 弟のものになったという妄想が頭から離れない。
 さすがに、巧がそのつもりでやったわけではないことはわかるのだが、身体のどこか
から湧き出してくるこの嬉しさは理屈では抑え切れない。
 こんなのは普通じゃない。もちろん初めからそうなのだが。そして、どこまでもこう
やってはぐらかされていくのも。
 腹が立って、巧の左手を取り、自分の右手と組ませた。明らかにわかっていてこっち
を見ないが、拒まないので、さらに胸に当たるまで腕を巻き込んだ。
 腰を包み込んでいる違和感が、着実に何かに育っていた。
 試験勉強の細かなストレスは、身近なもので晴らされる。
 夜巧の部屋を訪れて、珍しく教科書に向かって唸っている巧に後ろから抱きついてや
れば大抵、紛れてしまう。
 巧は抵抗しなかった。部屋にも自由に出入りできた。
 無視を決め込むつもりなのだ。
 外堀を埋めた代わりに城壁が高くなっていた、そんな城攻めのような日常になぜだか
心が躍る。 

 期末試験まで一週間を切り、巧は試験が終わるまでの間、環と会わないことに決めて
いた。
 決意を固めないと実行できない軟弱さのあまり、環に宣言してしまった。
 してしまった以上環にお願いすることは不可能だ。
(俺って駄目人間)
 先日虎の子のお気に入りビデオが、姉の手で抹殺されてしまったのも痛い。貯金まで
崩してボディロックを買ったので、財布の中はからっぽ同然である。かろうじてうまい
棒が買える。
 暑くてやる気が出ない時には、一時の慰めにと環の顔を見に行く。
 休み時間の三年の教室は、一年生が足を踏み入れるにはとても勇気のいる世界だ。
 出入り口から、綺麗な横顔を本人に見つからないようにありがたく拝み、回れ右をし
たら目の前に由美がいた。
「お……おどかさないでください」
「環ちゃん? 呼んであげるねっ」
「わー!」
 慌てて由美を引き止め、
「いや、御本尊に触れるのはまずいんです。今は耐え忍ぶ時だからして……」
「巧クン、禁欲してるんだぁ? かわいいことしてるのね〜」

 巧はこのところ、由美の雰囲気が違ってきているのを感じる。こうやって話していて、
相変わらず年下みたいなあどけない表情もするのだが、そう、仕草や言葉の端々にちょ
っとした憂いを感じるのだ。
(だんだん大人になってるってことなんだろうか)
 漠然と思いつつ、
「ところであのー、姉ちゃんを戦闘マシンにしたのは由美さんですか?」
 じとっと見る巧に、由美は一瞬きょとんとして、すぐににんまりと笑って、
「『後悔しないのが一番』って言っただけだよ〜?」
「そういうもっともらしいことをさ、悪用できるときだけ言うのがひでーよなあ」
「あ、そういうこと言うんだ。おかしいなあ、巧くんが一番いい思いしてるはずなんだ
けどなぁ?」
(ちくしょう、いつかぎゃふんと言わせてやる)と思うのだが、由美に効果的なネタと
いうのが、これがなかなかない。
 
 期末試験は3日間。
 それが終わるとすぐ終業式があり、その日までに全ての答案用紙が順次返されてくる。
 巧はそれほど馬鹿でもなく、かといって秀才でもない。補習を受けることはないだろ
うから、手を抜いてつい夏休みの計画を考える方に頭が逃げるかというと、そうでもな
かった。
 宣言以来、環とは挨拶をかわすだけだった。

 近くにいなくても、巧は日々環に溺れていく。それがとても気持ち良かった。『巧く
んとしかしたくない』
 巧は別に構わないと言ったのに、そう答えたのだ、環は。
 その心遣いから、安心感が巧から性急さを奪い、勉強に集中させてくれている。
 それを煩悩に引き戻して巧を悩ませているのは都だ。
 有言実行の姉は、『起きないと襲うわよ』という言葉をとても忠実に実行する。法律
に違反しなければ何をしてもいいと考えるタイプの人間に正論は通用しないのだ。
 この場合、ボディロックだ。
(それ以外は何をしてもいいという)
 試験勉強で夜更かしをして、知らないうちにキスマークをつけられるのはなんだか納
得がいかない。
(いや、とにかく試験が終わるまでは我慢……)
 さらに、制服で布団に潜り込まれ、パジャマを脱がされる。
(我慢……)
「姉ちゃん、もしかして俺の目覚まし止めてない?」
 ふと思って、聞いてみた。
(ああっ、知らん顔してやがる!)
 腹いせに朝食時に家族の前で、
「俺、姉ちゃんに犯される夢見ちった」
 などと言ってからかうと、久しぶりに皿を投げつけられた。表面上は元通りの光景。

 一枚めくればそこでは果てしなく低次元な戦いが繰り広げられている。
 だがそんなやりとりもまた巧の心を潤しているのだ。
 
 *
 
「いてっ」
 屋上でぼんやりしている巧を見つけた時、ちょっと腹が立ったので、由美は後ろから
缶コーヒーを投げつけた。
「中入ってるじゃん! 信じらんねー」
「えっへっへ、手元狂っちゃった」
 このくらいは方便だ。
 環が遠慮しているので、都と三人でお昼の予定だったが、またなにか生徒会に呼ばれ
た都がなかなか来ない。
「頼りない生徒会だよな……」
「都ちゃんたちだって最初はあんなもんだったと思うけどぉ?」
「そっか、そうだよな」
 そう言ったきり、巧がまたぼんやり眼下のグラウンドを見ている。
 由美は、巧がこういうハマり方をするとは思っていなかった。欲望に忠実なところは
予想の範囲内だったが、そのベクトルは環だけに極端に偏っている。もうそれははた目
にも、世界に敵対せんばかりの勢いだと思う。

 最初に感じたのは、(都ちゃんがかわいそう)ということだった。
「腹減ったなー」
 巧が訴えてくるが、由美は都を待っている。その間、巧が弁当箱を開いて中をちらっ
と覗いては閉じたりしているのをそれとなく見ていた。
 髪型や服装が違うので気付きにくいが、都に似ていると思う。
 姉弟だから当然といえば当然だが、はるかも含めて雰囲気や造りがよく似ている。
 そういえば、と思い出す。都に見せてもらった待鳥の両親の写真を見た限りでは、親
は絵に描いたような美男美女の夫婦で、残念ながら出会うことのなかったそのお母さん
と都は生き写しといってもよかった。その写真に、『都ちゃんと私のこと、応援してく
れませんか』と願ったことがある。
「ん、なに? 由美さん」
 巧に目の前に寄られ、不覚にもドキッとした。
 切ないけどこれは違う。巧に残っている都の面影に引きずられているだけだ。
 他意のない眼差しから目を逸らす。
 都が上がってきて、由美の隣にすっと腰を下ろした。巧ではなく自分の隣だ。都自身
は特に考えてやっていることじゃないのに、こんなにも簡単に嬉しくなってしまう。
 それなのに。それ以上に都の気持ちと幸福を優先したくてしかたがないのだった。
 それを叶えてあげられたら、都を好きになったことに価値を見出せる。
 そんなことを思っている。

 *
 
 2日目の試験も全て終わり、なかなかの手ごたえに満足しながら、巧は徹夜組を除い
た面々で放課後の余裕の一時を過ごした。
 柱の陰には都、環、由美の三人。小声で、
「ふーんだ、二人でこっそりこんなことして楽しんでたのね。環ちゃんのいけず」
「私だって新入りだよ? まあ、まだ二学期も三学期もありますぜ、旦那。ね、都」
「都ちゃんのエッチ」
「な、なによ」
「追加授業受けるのやめたら、先生に怒られるかなあ?」
「そこまでするのか……」
『あっはっはっは、馬鹿はおまえだ!』
 笑い声には巧の声が当然混じっている。
 試験期間中ということで、テストの話題が出たりもしていた。
『絶対違うね、そこは』
『関係代名詞ってさ、要はひたすら入れ子にすりゃいいんだろ? いや、超みっともな
いだろうけどさ、文法的にあってたらマルくれんだろ』
「あれ、意外に真面目だね」
「そうだね、でもたぶんこれも賭けの対象になるんだよ」
「成績が上がるんならいいんじゃないの?」

「おっ、なんか先生みたいな発言」
「えへへ」
『お、じゃあ勝負するか? 明日返ってくる巧の古文の点数一本勝負』
『丁だ!』
『じゃあ俺が半』
 環がぷっと吹いた。
「成績の勝負かと思ったら……サイコロじゃん」
『じゃあ、罰ゲーム選択』
『3番!』
『3番は──女装! 女の制服でこっそり終業式に出る、だって』
『まじで? 絶対それ巧にしかできねえよ! 俺は勘弁してくれ』
『なんで俺ならできるのよ?』
『なんでって、なあ?』
 声がいくつかかぶり、巧以外の全員の意見が一致したところで、どうやら区切りがつ
いたようだ。
『校則違反じゃなきゃなんでもいいのだ!』
 三人はそこで退散する。
 
 *
 
 3日目の全ての試験の終了した放課後、巧は憮然とした顔で、環に答案用紙を見せて、
「環さん、貸して」
「は?」
「今日、行ってもいいんでしょ? そんで、罰ゲームやるから洗い替えの制服貸して欲
しいんだけど」
「あははっ、巧くん、賭けに負けちゃったのね。──ごめん、親と出かけることになっ
ちゃって。こないだと逆だけど」
 そんなことを環に言われたら、どうすることもできない。
「あ、じゃあ、制服だけ借りれたらいいっす」
 巧は失望を隠せない。
 体格的に環以外の制服は合わない。そんなわけで、家族に見つからないように制服を
ちょっとドキドキしながら受け取りに行き、
「ムネんとこが余りそー」
「それ、巧くんが言うとヘン」
 言いながら環が近付いてくるのを、巧は慌てて押し止めた。
 今触ったらそのままさらってしまいたくなる。環は寂しそうに笑い、
「また今度、だね。コレに変なことしちゃだめよ?」
 制服を入れた紙バッグをポンと叩くと、門の中に消えた。巧もすぐにそこを離れた。
 家に帰ると、はるかが難しい顔をしてリビングのソファで、テーブルとにらめっこを
していた。

 はるかのところでも期末試験が行なわれ、いつものようにこうやって都にわからない
ところを聞いたりしているわけだ。
「うう、わかんない〜」
 たぶん台所にいる姉に向かってぐずるはるかに、後ろから、
「また俺の勝ちだな」
「昔のお兄ちゃんよりはできてるもん!」
「いや、そんなことはありえないね。俺の方が上、おまえより十万点くらい上」
「お兄ちゃんの大嘘つき……」
 難題が頭の中でぐるぐる回っているのか、覇気があまりない。
「あれ、姉ちゃんなんでまだ制服着てんの?」
「帰ってすぐはるかにつかまったのよ」
 都がトレイに紅茶を乗せてやってくる。確かに都の革鞄もそこにあった。
「あたしはアリアリだよ」
 とはるかが白く濁ったものを取ると、あとひとつ。それは都の分だろうから、アリナ
シ、つまり砂糖アリのクリームナシ。都はここに、直前に普通のミルクを軽く入れる。
「俺のは?」
「葉っぱ足して今やってるから」
 と、都は空のカップとティーポットを巧の前に置いた。巧はいつもナシナシのストレ
ートティーだ。
 巧は、しばらくそれを眺めていて、「おし」と移動してダイニングの棚を開けた。

「あー! お父さんのウィスキー」
 紅茶の上に足すのだ。
「ちょっとだけだよ」
「巧」
 都がちょっと睨んできたが、それ以上なにも言わなかった。
「はるかのも入れてやろう」
「やー!」
 慌ててごくりとやったはるかは、やけどしそうになってミルクを取りに走る。
「そうだ、姉ちゃん」
「なに?」
「ちょうどいいから、これの着方教えてくれ」
「?」
 部屋に行って出してみせると、どんな反応をされるかと思ったが、姉は少し笑った。
(? あれ……笑ってる)
 少し酔いが回ってきているかもしれない。手っ取り早く説明を受ける。
「ホームルームを乗り切ったらばれないと思うからさ」
「担任は吉見先生でしょ? たぶん大丈夫」
「……鈍感?」
「ううん。あの先生、本当は生徒にすごく近いから」
「ああ──」

 説明している、脱いでしまうほど本格的に実演しているわけではないが、都の腰に、
鮮やかなレモンイエローのものががちらついた。下着ではない。巧のつけた件のボディ
ロックだ。裸になってそれだけをつけた姉を見てみたいと、急に思った。
(いけね、酔ってる)
 急いで引き上げると、そのままばったりベッドに倒れ、安心して眠ってしまった。
 
 次の朝は、終業式だというのに朝早くから登校するはめになった。
 部室で女子の制服に着がえるのだ。
 環や由美のものまねをして遊びながら、着がえて鏡を覗いた。
(へー、姉ちゃんみてーだ)
 当然教室では大騒ぎになる。男子よりむしろ女子が騒いでいた。やけくそ気味にしな
をつくって遊んでいると、
「うくくく……。全然男に見えないよ、待鳥くん。あんた、吉見に告白してみない?」
 隣の清美が苦しそうにそんなことを言う。
 その吉見の反応が一番ひどかった。一目見るや爆笑して、
「待鳥、先生ちょっとおまえにときめいた。──告白してもいいか?」
(あんたそれでも教師か)
 結局このままここはうやむやになって、無事終業式の女子の列の後ろの方に並んだ。
居心地の悪いことこのうえない。貴重な体験だ。それよりも女子がちらちらこっちを見
て笑っているのが困る。なぜか、他のクラスの女子も見ている。

(教頭はともかく、学年主任……なんで気付かないんだ)
 校長の念仏のような話を聞き流しながらおそるおそる周りを見渡した。三年の列が目
に入る。こうして見ると、なんていうわかりやすい三人組だろう。
 一番前の方に由美、列の中程に姉の都、一番後ろに環。
 それぞれ身長が150、161、170だから並べただけで結構いい絵になる。
 そういえばまだ彼女らに見せていない。
(いや、あんまり見せたくないけど、後でうるさいし)
 終業式が解散となった雑然とした昇降口で、巧は最初に由美とはち合わせた。
 その時の由美の顔は見物だったと思う。
 後から思えばそれは当然の反応だったのだが、巧は、今しかないと思った。
 姉の立場で誰かをからかうとしたらこういう感じだろうと前に思っていたことが口を
ついて出た。由美の肩を捕えて目を覗き込み、
「由美、愛してる」
 と情感を込めて囁いた。
 その時一瞬真っ赤になった後で由美の目に走った激しい怒りを、由美の後ろから来て
いた都と環の表情を通して、悟った。
 使える全エネルギーで由美は右手を振り抜き、巧の顔が一瞬で真横を向いた。
 強烈。
(マジビンタ……)
「この怒り方はつまり……」

 巧は露ほども知らなかったのだ。
 死に物狂いでひた隠しにしてきた少女の気持ちを、パンツの色を賭けてスカートめく
りをするような気軽さで暴き立ててしまった。しかも、めくったらパンツを穿いていな
かったくらいにキツイ。
 走り去った由美を環が追っていった。一瞬巧を見た環の目は、謝っているように見え
たが、巧はその表情になにか奇妙な違和感を感じていた。
 女子の制服を着ていることも忘れ、そのまま教室へ戻る流れに乗っていった。 

 まずい、と都と環が思った時にはもう遅かった。
 気付いたのは都が先だったが、二人とも間に合わなかったわけだ。
 巧は真っ赤に跡のついた頬で教室に戻る。吉見がテスト最終日の答案を全員に返しな
がら、ずっと肩を揺すって笑っていた。
(何を想像してるんだかね)
 クラスメイトたちも好き勝手にいろいろ言っていたが、残間清美だけは様子が変なの
に勘づき、他のネタを振って話を逸らそうとしてくれていた。
「気使ってもらっちゃって悪かったな」
「鈍感なやつが多いからよ、そっちこそ気にしないで」
 清美はにっこり笑って、頬の手形に自分の手をぺたっと乗せた。
「小さい女の子の手だっ」
「なんかそれじゃ幼児に手、出したみたいに聞こえるからやめてくれ……」
 清美の手は夏でも冷たくて、心地が良かった。
 終業式に出さえすればすぐ着がえてもよかったのだが、今の自分に相応しい間抜けな
格好だと思って放っておいた。右手を吊った背の高すぎる変な女は、そのままサッカー
部の部室に入り、大会を馬鹿な理由で棒に振った一年生部員に戻って、校舎の方に取っ
て返した。
 なによりもまず由美の姿を探すが、見当たらない。

 環もいない。そのままの勢いで学校からも飛び出していったのだろうか。
(漫画じゃあるまいし)
 そこから環、由美の両方とまったく連絡がつかない。
(ていうか、俺おあずけのままなんだけどな)
 すぐそういうことを考えてしまう自分が情けないが、生理的な都合上仕方がない。
 おかしいな、と思ったのは3日ほど経ってからだった。
 
 ついに裸に貞操帯の格好で、幸せそうに張り付いて寝ている姉を死ぬほど苦労して引
き剥がした朝、由美の自宅に電話を入れた。つながらない。家族ごとどこかに出掛けて
しまっているのか。
 また、環の自宅へは母親らしき女性が電話に出て、「あのコどこ行ったんだっけ?」
などと後ろでのんきなことを言っていたので、早々に退散する。
 由美に謝らなければいけないのだが、巧は環にすぐにでも触りたかった。
 スケベ心からだけではない。このままでは姉を触ってしまいそうだ。
 なんとかごまかして、一人で遅い朝食を摂った。
 父はとっくに出勤しているし、はるかはテニス部の夏合宿の前準備とやらで早出をし
ている。やけになって食べまくっていると、姉が食べるものが何もなくなってしまった
ので、最寄のコンビニで一番安いカレーパンを買ってきて、マジックで『さんねんにく
み まちどりみやこ』と書き入れて姉の椅子の前に置いておいた。これ以上くだらない
ことが思い付かない。

 することがない。
 いや、あるけどどうしていいかまったくわからない。
 しばらくぼんやりしていると、後ろからカレーパンを投げつけられた。
 昼間の姉は、すっかり以前の姉のようで、今の巧にはその順応性とこだわりのなさが
うれしかった。由美のことでは怒っているらしいが、巧にはなにも言わない。
「ねえ、由美さんは〜?」
 今朝もまたそう聞いてみると、
「知らない。自分で探しなさいよ」
 と、つれなかった。
「そうしまーす」
 暑くていやだが、やはりそのままにしておくには息苦しすぎる問題だ。外出したから
といってどうにかなるとも思えなかったが、じっとしていられるほど剛胆でもない。T
シャツにジーンズの極限な格好で玄関に降りていくと、姉がそれをじっと見ていて、
「あ、待って。私も出る」
「えー、早くしてくれよ……」
 姉の着替えを待っているうちにも汗が吹き出してくる。
 姉はなかなか部屋から出てこない。
 この日は今年一番の暑さになると予報で言っていた。
 それからしばらく待って降りてきた姉も、Tシャツにジーンズ姿だった。姉のこんな
格好を見るのは初めてだったが、少し都の身体には大きめのシャツ、だがそれよりも……

(なんのマネだ……)
 ペアルックだった。わざわざ同じ色のTシャツを探してこんなに時間を食っていたの
かと思うと泣けてくる。
「俺、着がえてきていい?」
「だめ」
 腕を引っ張られ、ジーンズと青のTシャツ、加えてトートバッグの姉と出かける。
「で、どこ行きゃいいの」
「?」
 訝しげに見てくる姉に、
「もしかして姉ちゃん、アテがあるわけじゃないの?」
「由美がどこでなにしてるかなんて知らないもの」
 ぷるぷると拳を震わせて、巧はどうしてくれようと、姉の背中をふと見た。
「これ、俺のTシャツじゃん……」
 
 梅雨明け直後の強烈な暑さは例年通りで、巧はすぐに音を上げた。右手を吊っている
ストラップさえ煩わしくなり、
「今日の体力終了、だからもう帰ろうよ〜」
 とぐずってみせても姉はびくともせず、巧は駅前の繁華街を引きずり回された。
 ペアルックで片方が怪我人なので目立ってしょうがないのだ。擦れ違う女の子のグルー
プやカップル、営業のサラリーマン、果ては公園のニットキャップマンにさえ好奇の目
で見られてしまう。

 駅前のロータリーで運良くパチンコ屋の販促のうちわを手に入れた。
 駅の反対側に出て、緑地帯の並木でようやく休むことが許され、巧は木陰のベンチで
ぐったりとして休んだ。
 目を閉じるとくらくらして、自分は夢でも見ているのかと思いたくなる。この日常は、
いろんな要素の混じった闇鍋のごとき夢なのだ。この数週間の間にとてつもなくいろん
なことが起こっていた。
 いや、今もまだその渦中で喘いでいるところだ。
 隣から、生温いながらも柔らかい風が送られてくる。都が派手な印刷のされたうちわ
でゆっくり巧の首へ向けて扇いでいた。
 薄く目を開けるとすぐ、余りにも優しい瞳が向いてきて、微笑んだ。巧は見なかった
ことにする。
「俺たちなにしに出てきたんだっけ」
「デート」
「ち・が・う」
 ずるずると腰を前にずらし、巧はまたちらりと都を見やった。
 ジーンズ姿というだけでこんなに別人のような魅力を見せる姉の都。細さ白さが病的
にならずに、強い日ざしに鮮やかに映える。
 しばし、欲望を忘れて美の化身に見入る。
(この下に貞操帯をつけてるなんてとても思えない)

「姉ちゃん」
 吹き付けた熱風に、都はうちわを下ろし、巧の方をじっと見つめた。
「なあ、もうわかったろ。真面目な話、普通の彼氏見つけて俺のこと解放してくれよ」
「ひどいこと言わないで」
「いや、言うね。姉ちゃんはさ、覚悟しちゃってるわけ? そんなことしたらさ、たぶ
ん真っ当には生活できないよ」
「夫婦になることはできないけど、夫婦みたいに暮らすことはできるわ」
「そんな恐ろしいこと平気で言うか……俺には絶対出来ねえよ……」
「そんなこと、ない」
「姉ちゃんにわかんの? 俺、本気で姉ちゃんに幸せになって欲しいの。『自分が幸せ
にしてやりたい』っていうのとは全然違うんだからな」
「じゃあ巧は、私がどんなことで幸せな気持ちになるのか、本当にわかるの? わから
ないでしょ。それなら私の言ってることだって信じてくれてもいいじゃない」
「言ってることは信じてる、と思うよ」
 煮え切らない言い方をしてしまう。揺らぎを見せればすぐに差し込まれる、それはわ
かっているのだが、姉の、静かだけど強い口調に刃向かいきれない。
「それに、二番でいいからって言ったよ、私」
 何度聞いても姉らしくない言葉だ。
「責任とか義務とか独占とか、私には全然関係ない。どうしてわかってくれないの?」
(姉ちゃんこそどうしてわかってくれないんだ)

 こんなに大切に思っているのに。
「口ではそう言っても、実際には一番の人に取って代わりたいって思っちゃうもんだろ。
不倫OLとかとおんなじ」
「思わないわ。環のこと好きだし、幸せになって欲しいけど、それを少し分けてくれる
くらいがちょうど環らしいから」
 環は非日常の象徴、打ち込まれた抜けない楔。
 都は日常的な存在で、それは比べるものではない。
「だいたい、なにが二番だよ……自分でなに言ってるかわかってねえし、そんなこと自
分の姉ちゃんに言われて俺がどんな気持ちになるかとか、考えたこともねーんだろ!」
 言ってから思う。そんなはずはない。
 姉はなにもかも考えた上で、そんなのが現実的な落とし所だと思っているのだ。
 その証拠に、今巧の目の前で都は穏やかに、ただ巧の声を聞いている。
「ちくしょ……、もう決まったことみたいに言いやがって……」
 頭をのけ反らせて、顔を背けたところで涙がこぼれてしまった。左手でそれを隠した。
 こんな涙では姉は二度と動揺しない。
「絶対、はずしてやらねー……」
「それでもいいよ」
 あたりまえのように都が言った。
「これ、一生大事にする」
 巧は虚しくなって、それには何も言わなかった。

 
 そのまま家に帰った。
 はるかが帰ってきて、いつものように軽くちょっかいを出しながらも意識は姉の方へ
引っ張られていた。こういう別な難題があって、環に触りたくて触れない疼きを紛らわ
せている。
 現実逃避を兼ねて、姉にバラバラにされたビデオテープを冗談で(半分本気で)、発
掘された土器のように復元していると、目の前でまた姉に踏まれた。今度こそ再起不能
になった残骸は不燃ゴミのシューターに放り込まれてしまった。
 兵糧攻めだ。溜まったもののやり場がない。
 そして、しょうがなくリビングで、録り溜めしてあった海外サッカーのビデオを見て
いると、両側を都とはるかに挟まれた。
(…………)
 いかんともしがたかったが、待鳥家では、父・透の家長命令によりクーラーの同時使
用が禁止されている。
 じっと画面に映し出される試合を見ていると、やっと気持ちが落ち着いてきた。
 巧たちのサッカー部は過去最高の予選ベスト4まで駒を進め、そこで敗退した。巧も、
走るのに支障がなくなればすぐにロードワークを再開する予定だった。秋から始まる次
の予選には十分に間に合うだろう。隅の方でそんなことを思いながら、しばらく画面上
のゲームの成りゆきに没頭していた。
 ハーフタイムで一息入れて、おやつを漁っていると、たちまち都とはるかが動いてお
茶をやってくれて、ガンガンにクーラーを効かせた中、優雅に後半戦の観戦をする。

 右に座ったはるかが、ぽてっと頭をもたせかけてきた。
 はるかは初めのうちは難しい顔をして見ていたものの、だんだん一心にボールの行方
を目で追っていて、さすがに疲れてきたのかもしれない。休憩だらけのテニス中継とは
だいぶ勝手が違うのだろう。ふわふわとあくびをしたと思うと、こっくりこっくりやり
はじめる。
「重いんだよ、はるか」
「ん〜」
「寝るなら部屋で寝ろ」
「やだ、暑いもん」
 と、はるかはそのまま巧の膝を占領した。
「……嫌がらせか」
 そこで、そこまで静観していた都が、じーっと巧の顔を見てきた。
 巧は知らん顔をして画面に集中する。
 気持ちよさそうに寝ているはるかが重い。姉がなにやら隣室に行くのを見てから、
「はーるかー、起きねーとつっつくからな」
「だめぇ……」
 一応まだ聞こえているらしい。本当に邪魔なので、
「うらうらうら」
 人さし指で、はるかの胸元を連打した。
 飛び起きた。

「やっ、お兄ちゃんの馬鹿、エッチ〜!」
 飛び跳ねて床に転げ落ち、バタバタと逃げる。
「悪いのはおまえだ、まじで、そっちの一人掛けで寝ろ」
「エッチな人がいるところで寝るほど馬鹿じゃないもんっ」
「ホントかよ……」
 都がタオルケットを持って戻ってきて、それを受け取るとはるかは、そのままくるまっ
てすぐ眠ってしまった。
「わけわからん……」
「妹ならいいんだ?」
「姉ちゃんもわけわからんこと言うな」
「わかってないのは巧だけかもよ」
「そりゃ二年分くらいは姉ちゃんの方がわかってんだろーよ」
 画面を見ていても、もう試合内容がろくに頭に入らなくなってしまった。
 都は巧の左肩とソファの背の間に頭を突っ込んできた。首を捻って巧の方に顔を寄せ
る感触がある。巧は意地にかけても反応しない。姉の行動を黙殺することに決めたのだ
から。そうしないともう本当に『ノーフューチャー』である。
 その時廊下の電話が鳴った。
 都が出ようとするが、それよりも早く立ち上がってその行く手を塞ぐ。受話器を取っ
たが、何も聞こえてこなかった。巧も、「もしもし」とも言っていない。

 多少の間があって、
「……巧くん?」
 間違いなく環の、でも少し変に聞こえる声がした。
「環さん、なにしてんの?」
 苛立った声が出たことに巧は自分で驚いていた。これで順番もなにもめちゃくちゃに
なってしまった。
「由美さん……は?」
「いるよ」
「今どこに──」
 都が後ろから抱きついてきた。身体が緊張し、都が脇にまわす手に、寒気のようなも
のが走る。
 巧は、夏の軽装ではどうやったところではっきりわかる場所を、強く吸われていた。

 たとえばはるかはとても自然だと思う。普通に妹であって、巧の多少行き過ぎた悪戯
に対してもバランスを保った反応をする。
 都のバランスの悪さは、気持ちが顕在化するずっと以前からのものだ。
 変化を生むのはこういう不安定な精神だと物知り顔に誰かが言った。そうだとしても、
自ら強く望んで、自力でつくり出した変化こそが自分を守るのだと信じているのが巧だ。
「──」
 状況を説明する環の淡々とした物言いに疑問が湧いた。
(なんで、温泉なんかにいるんだ?)
「巧くん、反省してる?」
 意外に言葉が軽いので、巧は少しほっとしながら、
「そりゃもう。姉ちゃんの時にとっくに懲りてなきゃいけなかったことです。タチ悪い
ですよね……。直接由美さんに言いたいんです」
 そうだ。およそ他愛のない諍いなのになぜ、こんな極端な舞台ができあがっているの
だろう。
 姉は巧を骨折させたことで怒りを相殺されて、結果として冷静になってくれた部分が
あった。由美は平手を浴びせたものの表面だけで、巧におそらくなにひとつダメージを
与え得なかったことで、気持ちの持って行き所をなくしてしまっているのだと思う。と
はいえわざわざ巧から離れたのでは、余計にどうしようもないんじゃないのだろうか。

手加減無しのフルパワーで空中コンボのひとつも決めてくれればいいじゃないか。
「今は言っても聞こえないかもね。あのコずっとお酒飲んでるから。ていうか、つぶれ
てずっと寝てるから」
「未成年……」
「巧くん、ごめんね。私もうちょっとだけここにいる」
「もうちょっと」
「うん」
「俺は今すぐにでも会いたいです……、由美さんに言わなきゃいけないこと、やっぱり
あるし」
 本当は環の後ろで由美が舌を出しているんじゃないかと思いながら、話している。
「環さんは、由美さんの方が大事?」
 なにをくだらないことを聞いているのだろう。子供みたいだ。だけどもしも、と頭の
奥の方が囁いてもいる。
 言ったら絶対後悔するのに、浅はかに考え無しに、口に出した。
「環さん、由美さんとそこで本当はなにしてるんですか?」
 環にははっきりわかったはずだ。
 巧が何を知りたがっているのか、巧が何を願っているのか、巧が誰を責めているのか。
 環が持っている答えは、たぶんことごとく巧の想像通りのはずだ。
「巧くん……、明日、必ず戻るから、待っててね? 巧くんのところに帰るから!」
 環の言葉も剥き出しだった。

 ブツ、とそこで切れたのに気付いて、巧はゆっくり振り返った。
 姉が泣いている。巧の代わりに静かに泣いている。
(勝手に解釈して、泣かないでくれよ)
 都はフックを押さえ、自分が切ったとわざわざそう教えていた。
 受話器を姉に渡し、巧は熱気の異常にこもった自分の部屋で、ぼんやり考える。
(明日っていつのことよ)
 さらに三日、環は戻ってこなかった。
 
 巧はもともとゲイ的な感覚に偏見がない。だから、冷静ではいられない。情報があや
ふやなのをいいことに、楽観的に捉えようとも試みる。
 都は途中から巧の電話を階段に座って聞いていた。
 由美が仕返しに嫌がらせをしているのだというようにシンプルに考えていては、ハマ
るのかもしれない。姉の一筋縄ではいかない意外なまでのしたたかさに、巧は学習させ
られている。
 はるかが合宿で家を空けて二日目となり、巧は生活の大部分の時間を都と二人で過ご
していた。
(環さんは好きにしていいって、俺が言ったんだ)
『両刀のお姉さん』に惚れたときに織り込み済みの覚悟のはずだった。巧は自己評定の
甘さに初めて直面していた。

 注意を欠いて、紅茶をこぼしたり、テーブルにつま先をひっかけたりと、感覚的なリ
ズムがかなり狂ってきている。集中できないのだ。「脆弱な自分」という認めたくない
現実が寄せてくる。
(俺は姉ちゃんを拒絶することで環さんを束縛する理由にしようとしている)
 それだけはちゃんと受け入れた。
 環との電話の後の三日間で巧は神経をすり減らし、都を心配させていた。
 待たされる感覚、宙ぶらりんの立場ほどじわじわ人の心を痛めつけるものはない。
『明日』という約束が反古になり、キツイ方に現実が傾くと、頭痛がし始めた。
 気分転換にサッカーもできない。悪い条件があまりに揃い過ぎている。
 夜、姉の勧めにしたがって、久しぶりに背中を流してもらうことになった。
 巧は多少身構えたが、都は裸で入ってきたりはしなかったし、前と同じように穏やか
に巧に接して、深入りはしてこなかった。
 そう感じながらなにげなく姉に尋ねる。
「姉ちゃんは俺の傷、いくつくらい覚えてる?」
 弟の狼藉に対して姉が行なってきた過剰制裁の、十年間の記憶。
「全部覚えてるよ」
 即答だった。
「だって私がつけたんだもの」
 たぶん姉は本当に、薄くなったり消えてしまって巧自身が忘れてしまった傷だって覚
えている。なんとなくそのことが染み込んでくる。
 そうやってお湯の中に浸かっていると、ようやく安らぐことができた。

(姉ちゃんが電話切ったとき環さん、なんか言おうとしてなかっただろうか)
 それを、妄想じみた記憶のすり替えだと感じる。
 
 巧はクーラーを避け、網戸にしてベッドに転がった。
 うだるような暑さもこうしてみれば気を紛らわせる刺激になる。
 だが、なんだ大したことじゃないじゃないか、と思った瞬間に痛みが襲ってくる。
(姉ちゃんも由美さんも、残間や吉田もみんなこんなものを抱えて、ちゃんと生活して
るんだな……)
 そう考えると自分が劣っているように思えてきてヘコまされる。
 隠してあった『鍵』を取り出して、片手で玩んだ。最後の一線の物理的象徴、巧の精
神的限界。元の場所に戻し、目を閉じると環の感触に思いを馳せた。
 
 *
 
 巧は髪を切ることにして、駅前の最近流行の千円でやってくれる散髪屋へ向かった。
 客層はやはり値段につられた大学生やサラリーマンがメインだ。修行中の美容師見習
いのようなスタッフが多く、結構若者的には評判がよい。巧ももう何度かここで切って
いる。残念ながら、そういう店の常としてスタッフの入れ代わりは激しい。
 ここで面白い組み合わせに出会った。
 先払いの千円をカードに替えていると、正面に並んだ二つの理髪用の大きな鏡が目に
入り、そこに大橋守と残間清美の顔が並んでいたのだ。

 大橋がにっこり笑ったのと対照的に清美は挙動不審になった。
「なんかいいもん見ちゃったなー」
 にやにや笑いながら、清美の後ろから鏡にジェスチャーを出してからかい始めた。敵
は散髪中であり、一方的に攻撃できる。
「お、覚えてろよ……」
「おまえが凄んでも全然こわくないぞ」
「目ェ潤ませて、『ごめんなさい、許して』とか言わねーとな」
 横から守が口を挟んだ。
「大橋ィ〜、あんたがいるからいけないのよ」
「ちょっと、お願いします、前向いててくださいよ〜」
 清美を担当している女性が情けない声を出すので、清美はしぶしぶかしこまって前方
の鏡を向いた。当然薄ら笑いの巧が視界に入る。
「〜〜〜ッ!!」
「やー、残間最高」
「巧」
 守の声に思い直し、巧は黙って下がった。
 それを清美が興味深そうに見ている。
 
「残間がなんか入ってくの見かけたんでな、後つけて俺も入ったの」
 守が意味ありげに言うと、清美がなにか言いたそうにその顔を見て、最後に、

「あんたって、馬鹿みたい」
 と少し嬉しそうに言った。
 二人ともなかなかにシャレたカッティングをしてもらって、機嫌がよさそうなので、
巧はちょっと和んでいた。
 手を振って清美が去って行った後で、巧は、
「おまえ今の、残間に」
「いや、あいつの望み通りになったろ、あれで」
 つまり守はこの暑い中清美を映画に誘って、清美が守ののびすぎた髪にけちをつけた
のでここに入っていたのだ。彼女はこの千円バーバーを知らなかったので、お試しで便
乗したらしい。
「フツー、デートで散髪には行かねー」
「俺が連れ出しただけ。だからさ、おまえに見られて困ってたじゃん、あいつ」
「その気の使い方はおかしいんじゃねーの?」
 巧はそう言いつつも、(いや、あれはあれであのコに対するアピールになったのかも)
と思って、守の健闘を賛えた。
「俺様が100円屋でごちそうしてあげよう」
「100円屋かよ──いや、珍しいじゃん。なんかあった……って顔だよな、それ」
 巧は肩をすくめて一応肯定してみせた。
「別に相談とか愚痴とかじゃなくて暇つぶしたいだけだし、ウン」
「おまえは見かけの割にカタイんだよ。だからさ、人に迷惑さえかけなきゃどんどんバー
ストすりゃいいんだ」

「迷惑の基準ってなによ?」
 守は巧をじっと見た。何かを考え、
「傷つけさえしなけりゃ何をしてもいいんだよ」
 少し先読みしたような言い方をしてくる。
「そーいうもんかね」
「そ」
「……法律に違反しなけりゃ何してもいい、ってのとだいぶ違うよな……」
「意味深だな、それ」
「いや、流してくれ、お願い」
(そういや由美さんは、後悔しなけりゃ、て言ってたな。いろいろあるもんだ)
「おまえって結構苦労してるわけ?」
 別れ際に巧はそう聞いてみた。
 守は楽しそうに笑う。
「俺は苦労から逃げるのに命賭けてるんだ。苦労しなきゃなんでもいい」
(なんだそれ)
 少しばかり涼しくなった頭を意識にしながら、巧は年寄りみたいに日陰から日陰へ、
辿りながら歩いた。
(逆に言うなら)
 都にしろ、環にしろ、由美にしろ。
(傷つけたら駄目ってことだろ。……無理だろ、それ)

 そのとき、やっと首のキスマークのことを思い出した。
 
 やっとのことで家に帰り着くと、都はリビングで居眠りをしていた。
 そうっと二階へ上がり、下着を出してきて水浴びをする。千円バーバーではシャンプー
はしてくれないので、大抵頭に細かい毛が残っているのだ。水を受けている間だけは夏
も気持ちがよく、巧は水風呂に切り替えてたっぷりと時間を使った。
 まだ少し頭痛があった。
 やっぱり自分は痛かったり辛かったりするのは苦手だ。大橋守の言うような苦労しな
い人生、という基準がちょうどいいと思う。
 誠実にやろうとしても周りが許さず、苦労することばかりだ。でもだからといって誰
も傷つけたくないのだ。
(どうしたもんかね、姉ちゃん)
 なにをするにもバイタリティが要る。巧にとってその力の源は環だった。
 環の声が聞きたい。
 環の身体が欲しい。
 風呂場を出ると電話が鳴った。
 三日ぶりの環の声を聞き、だけど心は晴れなかった。
「巧くん、明日帰るね」
 空々しく聞こえるのを知っていて、淡々と言っている。
 明日になってからかけてきて、「今から帰るね」と言ってくれればよかったのにと巧
は思った。

 その方が信じられる。
 めっきり、心が狭くなった。
 ぺたぺたと廊下を歩き、暑さに辟易しながら自室に戻った。
 もう一人、何を考えているのかわからない人物がベッドを占領している。巧が戻って
シャワーを浴びているのに気付いて懲りずに移動してきたのだろう。
 うつぶせで四肢を投げ出し、小さく寝息を立てていた。
 この日もジーンズにTシャツを着ていて、身体の、特に下半身の曲線が綺麗に伸びて
いた。背中から尻に、ブラとボディロックのラインが見える。髪が流れてシーツの上に
大きくひろがっている。ジーンズで押し上げられたお尻の形が目に焼き付いた。
 官能的だ、と思ってしまった。
 逃げられないようにするにはどうしたらいいだろう。
(肩と腰を押さえる)
 姉の目が覚めたらなんて言おうか。
(鍵を外して欲しいかどうか聞く)
 自分の一番やりたいことはなんだろう。
 机の引き出しを取り外し、その奥の板にテープで張り付けておいた鍵をむしった。
 都は眠ったまま動かない。
(姉ちゃん、起きて止めてくれ。それが姉の仕事だろ)
 憤りや焦りと理性が相殺された今、残っているのは欲望だけだ。 

(巧くんに会いたいな)
 窓辺に腰掛けて、ため息をつきながら思う。
 自分と由美のしていることがどんな意味を持つのか、考えるのが怖かった。だから考
えるのは由美に任せている。
 飲み慣れないアルコールであっという間につぶれてしまった由美は、「環ちゃんごめ
んね」とひたすら謝って、環がトイレに行っている間も座椅子の背もたれに謝っていた。
 それを見てまたため息をつき、泣き笑いの顔になる。
 知り合ったばかりの頃、都と先に親しくなったのは環だった。
 一目惚れだったなんて全く知らなかった環は、由美にまるで遠慮することなく都とじゃ
れあって由美を泣かせた。でも、泣かせたことで由美の気持ちを知り、今までの三人の
関係をつくってこれたのだと思う。
(いや、最初接近するダシに使われたんだっけ)
 自分の『変なところ』自慢のようなくだらない話がブームになったときに、都が持っ
てきた変なCDの数々に仲間達が皆頭を抱え、由美だけが面白そうにそれを聞いていた。
その中に、とある映画のサウンドトラックを見つけた由美が今度は皆を、変な映画に連
れまわしてさらに頭を抱えさせた。
 さすがの環もそのときばかりは気が変になりそうで、都に由美を取られたと、ちょっ
とばかり悔しい思いをしたのだった。

 そんな当時から四年以上経ってこんなことになるなんて、わかるわけがない。
 ずっと由美は都の本音に遠慮していて、環が巧とふたりになろうとするその時を利用
してやっと都に近付こうとして、そして絶望した。
 
 四つも下の、はるかのクラスメイトと言われても違和感がなさそうなあどけない寝顔
に、改めてそっと触れると、そのせいで起こしてしまった。
「ん……」
 バツが悪そうに起き上がる由美の側に寄った。
「環ちゃん」
「もっと飲む?」
「いじわる……。私、ちょっとしか飲んでないのに、駄目だなぁ」
 かわいいくしゃみをして上着を探す由美に、探し物を放ってやる。
 環が風呂には別々に入りたがったせいで、由美はいろいろと遠慮がちだった。
 身体の関係がどうとかいうことではなく、心を持っていかれるのが怖いのだ。
 由美だけではなく、環もそれは同じだ。
 絶対に持っていかれてはならない。
(私は巧くんのいいなりになろう)
 気持ちが変わってしまったらそんなことはできっこない。
 今はまだ信頼に足る言葉を吐く力がないから、そんな自分に忠実に一言だけ、「明日
帰る」と巧に伝えた。そして、

「私、帰らなきゃ」
「そだね。都ちゃんによろしくね」
「巧くんに、でしょ、この場合」
「ちぇっ」
 由美は膨れる。まだ腹は立っているのだ。
「由美はどうするの?」
「もうちょっとひとりでヘコんでから帰る」
 膨れたままで言うので、環はしょうがないな、と最後に抱きしめてやってから、手を
振った。
 今日のうちに絶対巧に会うのだ。
 
 *
 
 鍵をジーンズの縁に挟む。落とさないように強く挟む。
 スピード、巧が立てた音に気付いて逃げようとしても絶対反撃に移れないくらい速く、
巧は都の身体を押さえた。スキンのケースを取ってくるのを忘れた。でもいい。
 左手を横にして、姉の両肩を固定した。右膝を腰骨の中心に乗せた。
 少し身じろぎをした姉にドキッとして、力の配分を加減した。そのままゆっくりと体
重をかけていく。だんだんと姉の匂いが近付いてくる。
 女の匂い。くらくらする。そろそろ姉が目を覚ましてもおかしくない。

「──」
 胸をつぶされている感じのかすかな声を聞いて巧は上体にかけた体重を抜いた。
 都はいまや目を覚ましていた。
「巧……?」
「じゃなかったらどうする?」
「ありえないから、どうもしない」
 抵抗もなにもなかった。姉はただ、変化を待っている。
「俺だったら」
「嬉しい」
(なんだそりゃ……そうだろうけど、それにしたって)
 馬鹿げている。
 気持ちなんて知りたくないのだ。知りたいのは、自分のやっていることの障害になる
のかならないのか、ということだけだ。
「俺がなにをしてるか、知りたい?」
 都は沈黙した。おそらくまだ姉は信じ切れていない。巧が自分から求めてくることは
思いもよらない。だから、今度はどう束縛されるのかと思っているだろう。
 ならば、今ならまだ後戻りができる。
「服、脱がせるから、力抜いて。全身」
 巧の言葉通りに、都は全身から力を抜いた。
「力、入れないでね」

 念を押して、巧がジーンズの横から身体の前面に手を入れると、都は手足の先をビクッ
と強張らせて慌ててまた力を抜いた。
 眠る前に緩める意味で外してあったのだろう、一番厄介なはずの堅い前ボタンは外さ
れていて、巧は姉の腰を持ち上げるようにしながらジッパーを一気に引き降ろし、さら
にジーンズを引っぱり降ろしにかかる。当然簡単にはいかない。姉が下半身をくねらせ
て自然と協力するのを見て見ぬふりをした。下半身だけの身体の動きがあまりに艶かし
く、それだけで巧は股間のものを限界まで硬直させた。
 『恋愛的』な手続きはハナからすっ飛ばしているが、『人間的』な手続きさえもすっ
飛ばしてしまいそうになる。もう、そうなっているかもしれない。
 倒錯に近い、背徳の匂い。
 Tシャツを少しはだけさせると、レモンイエローのボディロックの全体が視界に広がっ
た。鍵穴はこのお尻の上の方に、縦についている。
 姉に気付かれないよう、息を必死に押し殺す。そうしながら目の前のエロチックな眺
めを絶対に忘れまいと、シャッターを切るようなまばたきを繰り返した。
 だが、まだ戻れるのだ。姉が巧の欲望に気付いていないうちは。
 苦労の末にジーンズを完全に抜き取り、床に落とすと、左手のひらを姉のお尻のラバー
の上に乗せて、
「鍵、外して欲しい?」
「巧、あの……、うん」
 一秒と滞ることなく巧は鍵を差し入れ、斜めに倒した。そういう特殊な鍵だ。

 チキ、と軽い音がして、同時に何ケ所かのひっかかりが外れて、そして、一気にその
封印は解き放たれた。
「は……」
 おそらくたちまちのうちに都の下半身を襲った、予期せぬ解放感が都に声を上げさせ
る。身体から抜き取ってそれも床に落とした。姉の顔は見えない。
 巧の方を見ることなく、枕の中で震わせている。羞恥にわずかにお尻をよじらせて、
それでも最初の姿勢を崩さずに巧の言葉をぎりぎり守っていた。
 巧は覚悟を決めた。姉に完全に気付かせてやろうと思う。
 姉の両足をぐっと広げた。つま先がベッドの縁にかかったところで足の間に入り、
「姉ちゃん、セックスしたことある?」
 生々しく、狂おしい光景を視界に収めながら、声が震えるのを抑えきれずに言った。
 間違いなく都はその言葉に反応した。
 姉はその機具に、感覚的にはもう身体の一部に近いものを感じていたはずだ。それが
なくなってしまった頼りなさに下半身を持て余していた。それは多分に日常感覚的なも
のであって、性感とは程遠いもので、事実姉のそこはまるで潤っておらず、多少蒸れた
りしてはいても、触ってもそのものの感覚しかないだろうと思われた。
 その都が、巧の言葉を聞いたその瞬間、急激に股間を濡らしていた。
 そういう気持ちになったときはいつもそうだったに違いない。あの風呂上がりにずぶ
濡れで襲われた時も、そこは溢れていたに違いないのだ。
 今巧の目の前でうつぶせの下半身だけを剥き出しにして、足を大きく拡げられて、姉
は完全に欲情していた。

「巧……、巧……」
 泣いているようなせっぱ詰まった声で呼ばれた。
 伸ばしていた両手を堪らず枕に引き付けて顔を枕ごと包み隠していた。足は開いたま
まで、奥からとめどなく液を溢れさせてシーツの染みを広げていく。
 くぐもってはいても明らかに喘ぎとわかる声で、頭の中から切ない感情を追い出そう
としている。そんなことはしなくてもいいのだ。
「姉ちゃん、一分だけ待つから、その間にいなくなってくれ。そうしないと、どうなっ
ても知らないから」
 巧の声はどうしようもなくうわずっている。
 それでも姉の一分のためにベッドを一旦降り、スキンケースを取りにいった。巧は都
が逃げることはないという前提で行動していた。もう、巧の方からは止められない。絶
対に止めない。巧自身の欲望がそれを許さない。言葉は都側に残されているチャンスを
第三者的に指摘しているだけなのだ。
 本棚に手をかけ、ステンレスの板に指を引っ掛ける。ケースを、軽くなりすぎている
それを持ち上げて、開く前に中の状態を知った。
(まさか姉ちゃんが、隠したのか?)
 どこまでもとんでもない。
 予期していたというよりは、あわよくば、という思いが常に姉に性急な行動をさせて
いる。なにひとつ隔てることなく結びつきたいと考えた姉。

 巧は『生』という下世話な単語で、そのめくるめく行為を想像した。
 ありえない。環とだってやったことがない。
 それとも子供が欲しいとでもいうのか。姉なのに。馬鹿なのだろうか。この期に及ん
で余計なことをしている姉に、悪意のようなものさえ感じる。頭に来て、そんな感情が
すべて欲望に上乗せされていく。巧の股間のものは引き攣れるまでになり、痛みを訴え
てきていた。姉は、当然と言わんばかりに巧を待っていた。
(そういうつもりなら、もう知らねえ)
 これが最後の温情だ。
「隠したもの、出せって言っても無駄だろうな。姉ちゃん──」
 姉はテコでも動かない。
「妊娠したらなにもかもおしまい。そんなことはとっくにわかってるんだよね」
 姉の首筋に口を近付けて言った。本当に、環がそうなった場合とはわけがちがう。
「救急箱に一個入ってるアレ、知ってる? ピンクの丸っこいやつ」
 最後に姉の耳もとで直接囁きかけた。
「アレで準備してきてよ。ソッチなら妊娠しないから」
 脇に退いた巧の下から、都はふらふらと廊下に出ていって、ゆっくりと階段を下りる
足音を立てていた。下半身が剥き出しのままだ。たぶんそこらじゅうにぽたぽたと雫を
たらしながら、歩いているのだ。
 最後のチャンスだ。洗濯機の中の汚れものでもなんでもいいから身につけて、そのま
ま外へ逃げ出してくれればいい。鍵を外した今、姉は自由だ。

 巧は扉を閉じて、姉のものでびしょ濡れになったシーツの上で悶えた。巧自身は爆発
しそうになっていた。でも、本当に逃げて欲しかった。
 自分でも最低なことを思い付いたと思う。だが、巧の言葉の意味をしっかり理解する
姉も姉だ。どうかしている。放課後にそういう話をしたことがあるか思い出そうとして
みるが、思い出せなかった。
 とにかく巧は、環と同じことは姉にしたくなかった。これは『性欲処理』なのだ。
 
 長かった。
 時間の感覚が麻痺し、巧の全身を目眩のようなものが包んだ。たぶんほんの10分ほ
どの時間だったのだろう、最初の目的のついでにシャワーを浴び、髪を濡らしているけ
ど格好はさっきのそのまま、上半身のブラとシャツだけを身につけた都が扉を開き、そっ
と巧の方を見つめた。
「逃げなかったんだ?」
「だって、巧が言ったのよ……言う通りにしてきた、から」
「最後のチャンスだったのにな」
「こんなこと……二度とないかもしれない」
 都は、少し寂しげな微笑みを見せた。今まで見たことのない顔。とてつもなかった。
それは巧の心臓をえぐってきた。それを見ることができただけで、もういいんじゃない
か。だけど、巧はベッドの上に立ち上がって手招きした。
「この右手の埋め合わせ、してもらうから」

 都がまっすぐベッドに近付き、巧が場所をあけるのにあわせてまたうつぶせになった。
姉のいないうちに、とシーツを急いで適当に取り換えたので、乱れたようになっている。
そこにまたたくまに染みが広がった。染みは、シャワーで綺麗にしてきたはずの姉の、
股間だけに広がっていく。
 見ているだけではもうとても耐えられなかった。
 巧は意識的に乱暴に都にのしかかった。身体を密着させた。厚いジーンズ越しだとい
うのに姉の丸い尻はやたらと柔らかく、巧の股間にさらに痛みを走らせた。ちょっとだ
け止まって感触に溺れ、すぐ身体を起こして乱雑に脱ぎ捨てた。下着もひとまとめにし
て床に投げ落とした。『突っ込みたい』としか言い表せない激情で、姉の後ろの穴を突
いた。
 だが、蕾は固く閉じたまままるで開こうとせず、巧が力を込めると、肉棒の先端から
泌み出した透明なものがその表面を潤すものの、なんど突いてもらちがあかなかった。
 そうするうちに、先端からきつく送り込まれてきた姉の感触に巧は弾けた。
 あっと言う間のことになすすべなく背中を駆け上る絶頂感を、身体を強張らせて耐え、
受け止めた。そこで、(濡らしてほぐさないといけないんだっけ)となにかで読んでき
たような知識に思い当たった。
 アヌスを中心として、その穴のまわりはどろどろになってしまった。どうしたものか、
困るゆとりもなかったので、巧はそれを使って穴を開きほぐそうとしはじめた。穴の周
りの筋肉や、穴の表面の肉に塗り込めるようにじっくりと揉んでいく。シーツを濡らす
だけだった姉のものもすくってきて、手伝わせる。

 それでも普通には開きそうもなかった。まず、指を差し入れた。
 都がその刺激に身体を硬直させる。吐息がだんだんと大きくなって荒い息に変わり、
巧の心臓を激しく揺さぶった。
 一切、他の愛撫を捨てていた。そもそも、アヌスに対するそれも愛撫ではない。少な
くとも挿入できるように、姉を痛い目に合わせないように、処置をしているだけだ。た
だ、それに対して姉が勝手に声を立てて身体をよじらせているだけだ。
 最初はゆっくりと小指で浅く、出し入れが可能かどうかを試すようにしていたが、だ
んだんと太い指に変え、強く大きい動きに変え、深く突き上げるように手のひらで押し
上げていった。
「巧……巧、た……」
 姉の声は常に呼ぶ声で、飽きることなく自分自身の心を溶かそうとしているようだっ
た。姉はそこで感じてなどいない。その調子を壊すには性感を与えてやらなければなら
ないだろう。迷わず口を持っていった。
「や……えっ……? や、巧、そんな……」
 舌にピリッと刺激を感じながら、神経は都の身体のうねりと声に集中させていった。
 温度の低い指とは全く違う、熱く柔らかく複雑な形状を成すものに舐め上げられ、姉
は背中を反り返らせて、得体のしれないその感覚を必死に逃がした。
 そうしてまた、指で強くえぐる。すぐに舌で舐める。唐突に取り換えられる異質な二
つの刺激が都の身体の中を蛇のようにのたくった。
「や、あっ! あっ、た……巧ッ」

 すでに、入り口は開きかけていた。一度放出していることで巧の欲望は一旦おさまり
かけていて、そこでやめてしまったほうがよいのかもしれないという思いがかすめた。
だけどもう、ここまでやってしまった意地で、行為を完遂するまでやりとおすためにリッ
ミッターを外す。そうして奮い立たせていた。そうしないと気はすまない。
(姉ちゃんが俺みたいなエロガキ、好きにならなきゃ)
 あれこれいじりまわしているうちに、姉と自分の粘液が塗り広げられ、姉の尻はてか
てかにいやらしく光っていた。
 それで完全に巧は、再び痛いまでの硬直を取り戻した。
 姉の愛液はとめどなく、シーツをぐしょぐしょにしている。そうやって姉の発する雌
の匂いは、巧をくらくらさせて最終的な行為に誘っていた。
 うつぶせだった姉の腰を起こさせ、四つん這いにする。素直に、とても自然に、高く
掲げられてくる姉の白い尻が、恐るべき眺めを見せ始めていた。
 恋人の環の尻ではないというだけで刺激的だった。しかも、これは血を分けた姉のも
のだ。理性のひとかけらも、もう巧には残されていなかった。
 高さは合っていた。
 閉じていこうとするアヌスを指で何度もほぐしなおし、巧は肉棒をぴったりとそこに
あてがった。暴発する心配はない。再び透明な液体でぬめった肉棒は、推進力を与えら
れて今度こそ姉の後ろの穴に潜り込みはじめた。
(姉ちゃんが悪いんだ)

 巧は頭の中でそう繰り返している。理性の邪魔をされずに、思うがままに巧は身体を
動かしていた。じりじりと傘の部分が隠れてしまうまで突き入れると、若干竿の所で締
め付けが緩まった。より太い傘の侵入で最大限押し広げられていた入り口がその圧迫か
ら抜け出したので、一瞬だけ解放されるようにそこで都が息を強く吐き、踏ん張ろうと
する身体に力を入れた。それで竿にかかる締め付けもあっという間に激しくきついもの
になった。
(姉ちゃんが、……俺を)
 姉の身体に取り込まれていくような陶酔感に、没頭した。奥へ差し入れようとするが、
締め付けがきつすぎるのと、片手が自由にならないのとで進むこともろくにかなわなかっ
たのだが、引こうとしても傘が激しく動きに逆らい、瞬間、痺れるような感触に巧はそ
こで立ち往生した。
(姉ちゃん、姉ちゃんの、中なんだ、中にいるんだ)
 入りたい。もっと入りたい。
 都は息を詰まらせて激しい息で耐えていた。たぶん気持ちよさなどどこにもないだろ
う。ひたすら耐えている。そんなことにかまっていられない。姉に気を遣うことは、今
はプライドが許さない。
 姉の呼吸に合わせて、微妙に中の感触が動いている。
 それを感じながら、とにかく一番奥を目指した。自分の腰が姉の尻に押し付けられる
まで、どんなことをしてもそこまで行く。
 左手で腰を押さえるのを諦め、上体を半ば重ねて、姉の首の前に手を回した。そのま
ま垂直に引きつけると同時に、腰を進めていく。

 ようやく、少しずつ肉棒本体が姉に潜り込みはじめた。あまりのじれったさに、右手
のストラップを弾き飛ばし、ギプスのままで姉の腹の角度を固定させた。これなら大丈
夫だろう。
 
 *
 
 背中に滴り落ちる汗と触れそうで触れない巧の胸の感触で都は激しく震えていた。
 弟と繋がっているという圧倒的な思いがあって、腹の中を突き上げられる苦しさ、つ
らさをまるで感じないかのように全身が陶酔していた。
(巧が、中にいる、私の中に)
 どこで繋がっているかなど、とてもささいな問題だ。
 じりじりと巧は押し入ってくる。繋がっている部分がどんどん広くなる。広くなるほ
どに心も満たされる。
 目尻に涙を流した。後で思いっきり泣こう。今は巧にできるだけ喜んで欲しい。
(はやく、完全に繋がらせて)
 巧の腰を受け止めるのが待ち遠しい。いったいどこまで入ってくるのだろう。いや、
どこまででも入ってきて欲しい、ひとつに混ざってしまえるくらい。
 巧がふと動きを止めたと思うと、肩を捕えていた手にさらに強く力を込めた。
 心が激しく震えた。今、完全に繋がる。
 力を込めた動きが都の尻を捉え、入り口を太い部分でさらに押し広げられるのをかろ
うじて受け止めた。

 そこで感じているはずはない。だが、押し付けられ、こすり付けられた腰が自分のお
尻にとてつもない疼きを与え、都は身体を支える両手で、堪えがたくシーツの表面を掻
きむしった。
 
 *
 
 肉棒が完全に姉の中に埋まり、巧はそこで身体を震わせながら息を整えた。
 根元の締め付けと密着した姉の尻のなめらかな感触はとても魅力的な女の子のそれで、
加えて身体の奥の、締め付けるかわりにとめどなくやわやわと触ってくる粘膜の動きが
脳をとろけさせてくるようだった。
 息が整うとさっそく動こうとして、その困難さに気付いた。
 腰を一往復させるのにどれだけのエネルギーがいるだろう。でも動かなければこれ以
上の快楽は得られない。中の感触からして、このままでも時間をかければ果てることは
できるだろう。それでは心が満足できない。
「左手」
 と姉を促し、後ろに回してきた姉の白く細い左手を捻るように取った。
 都は合わせてバランスを取るように右手を重心の中央にずらしてやっと身体を支えた。
 姉もわかっている。巧は姉の左手をその背中に押し付けて、取っ手代わりに腰の動き
の支えにし、出し入れをやってみた。

 きつく滑りながらやっと動けるようにはなる。だが自分の欲望のためにやっているの
だ。これでは満足には程遠い。
「つぶすよ、右手抜いて」
 巧の言葉をすぐに理解して、都は力を抜く。右手が外れるのに合わせて腰を突き、繋
がったままで押しつぶした。空気をかたまりで吐いて、都が身悶えた。
 やっぱりこの姿勢が合った。本来の穴でするよりも、アヌスで繋がっているとそれ以
上に交わり以外を楽しむ余裕が持てる。
 目の前には姉の背中。
 本当に綺麗な曲線を描いていて、感触もとてもなめらかで、ふたり分の汗を滑らせて
手と唇で触っていくと都は激しく反応した。繋がったまま背中を貪り続けていると、そ
の動きでアヌスの締め付けも色々に変化していく。たまらなく気持ちがいい。
 ぴったりと身体を重ね合わせ、足からお尻と背中、首筋に至る隅々まで自分の肌で味
わった。たまらなかった。このまま離れるのが惜しくなる。
 ふとさっきの姉の反応に興味が出てきて、上体を離した。
 姉が寂しげにこちらを伺うが、巧が舌で背中を舐め上げていくとたちまち枕に突っ伏
してけたたましく嬌声を上げた。
「んああっ、あ、巧ぃ、い、とめ、とめて、これ……、気持ち……イ……」
 意地悪くその嘆願に逆らってさらに背中を責めた。都は手足をばたばたと暴れさせ、
同時に体内の巧のものを激しく締め付けた。本来きつく閉じるようにできている穴がど
んなに締めても広がったまま閉じないというのはどんな感覚だろうか。

 姉の背中の異常な弱さに気付いた巧は、思う存分それを貪り尽くした。どれだけそう
していたかわからない。残酷なまでに責め、ひたすらそれに終始した。だんだんと特別
よく反応する場所を特定していって、そればかり責めていると、やがて大きく長く震え、
果てたようだった。そこで思い出す。
「姉ちゃん、処女なの?」
 姉がビクと身体を強張らせて、無理矢理叩き起こされたような激しい動悸と共にしば
らく固まっていて、
「…………うん」
 と小さくうなずいた。
「そっか」
 巧はなんとも言えない気持ちになり、
「じゃあ、こんな風にイッたのも初めてだよね」
「…………うん」
 吐息を震わせながら言って、枕に顔を埋めた。その表情を見たくてしょうがなかった
が、今の自分にふさわしくないと思ってそれ以上追いかけなかった。
 その代わりにまた背中を責めはじめた。
「んっ、…………巧……巧、…………巧」
 縋り付くように呼び掛けてくる姉に、巧は答えずひたすら弱い部分を狙い打ちにして
撫で擦り、ついばみ、吸い、舐め上げた。
 この姿勢で都が巧に縋ることはできない。

 手を時々後ろに持ってきて、巧の実体を手さぐりで求めた。巧は、応えない。ただ姉
が自分の責めによってなすすべなく悶え、狂態をさらしているのが気持ちよかった。一
方で、姉を喜ばせてやろうとしているわけではないので、腹も立った。それこそ『人の
気も知らないで』と言いたくなる。
 二度目に都が背中だけでイッたのを見て、巧は無理矢理動き始めた。
 それなりに環に鍛えられた巧の肉棒は、アヌスの強烈な締め付けになんとか耐え続け
ていた。うつぶせのままで、大分なじんできた入り口にスムーズな出し入れも可能になっ
てくる。それとともに刺激的な摩擦が増して、巧に強い快感を送りはじめていた。
(マジ気持ちいい……)
 それだけを追求しようと、ひたすら姉をえぐった。果てしなく好きなように動いた。
 都がのたうつように両手を左右させた。
 苦痛に苛まれている。それでも止められない。
「がまんして、姉ちゃん」
 荒い息に乗せるように告げると、都は振り乱すようになんどもうなずいた。喘ぎ声と
息づかいばかりで、言葉を出せない。
 巧は、さすがに長時間締め付けられて痺れてきていた。
 腰に疼きがどろどろと溜まってきて、やがて堪えがたいまでになった。その状態でな
おも腰を送り続けて、姉の身体から得られる快感を最大限に受け取り、抱き潰す勢いで
激しく何度か突き上げると、そこで身体の中身を全部ぶちまけるように射精した。

 *
 
 巧が、どくどくと脈打つものが収まるまで、きつく姉の身体を抱きしめ、都もまた弟
のそんな愛しい行為に大きく息をついた。同時に、のしかかってくる巧の身体を背中と
お尻全部で味わい、酔った。
 巧が力を抜いて、ゆるゆると腰を回すように余韻を求めると、都は嬉しくなって自分
からお尻を持ち上げて応えていた。
 確かに初めのうちはきついと思ったが、背中を執拗に責められて意識を飛ばされそう
になっていたので、むしろ弟の押し込んでくる圧迫感が都を支える芯となった。
 その芯のまわりを快感がぐるぐると回るような、心から酔える悦楽となっていたのだ。
 話に聞くように、アヌスによって快楽を得るようになったらいったいどういうことに
なるのか、そのことの方が怖かった。
 もちろん都はまだその前の段階が済んでいない。
 それでも全然よかった。
 抜かないで欲しいと願ったが、巧のものは小さくなりかけて、今にも都から離れてい
きそうに思えた。捕まえたいと、締め付けた。
「んくっ……」
 と巧がそれに反応してわずかばかり硬さを取り戻したのを都は感じ、夢中でその動き
を繰り返した。巧をその気にさせる力を自分が持っていると思えることが嬉しい。咎め
るように巧が首筋を噛んできたが、それは痺れるような甘い痛みになり、お尻を引き締
めてさらに巧を甦らせる動きになった。

 都は泣き出しそうだった。
 後ろ向きでいることに救われる。嬉しさに溺れ切って眠りたいが、いまはまだめくる
めく時間の途中にいる。
 しばらく首筋の責めに耐え、また背中への責めに狂いそうになったとき、弟が言った。
「もう一回いくよ」
 弟はいいか、とは問わない。都が拒まないからではない、宣言しただけだからだ。
 都の意思がそこに入っていなくてもかまわない。巧の言う通りこれは『右手の埋め合
わせ』だから。
 完全に同じ大きさと硬さを取り戻したものが、大きく都の中を動き始めた。
 せいいっぱいその動きに応えて、弟のために腰を絞る。
「巧、そ……それ」
 さりげなく、よかった気がする動きに言葉で応える。巧がそれをどう思うのか少し不
安だ。が、驚くくらい早く、巧はその動きを都に再び与えてきた。
「あ、う……ん、あ……」
 背中の時のようないい気持ちだとは言えない。が、その動きが都の、巧が中で動いて
いるという実感をとても味わえる動きなのだと、なんとか弟に伝えたかった。もし今日
が終わってしまって二度と巧に抱いてもらえないのなら、今しか伝えられない。
 都は声と身体を使って饒舌に快感を表した。
 恥ずかしがるゆとりはなかった。

 悠然と突き上げてくる弟のものが考えることを徐々に奪っていく。
 
 *
 
 姉が受け止め方を覚え、応えてくるようになったことが巧は少し気に入らなかった。
 でも巧も繋がり方にコツを覚えはじめて、快感をだんだんうまく引き出せるようになっ
てきた気がして、それを快く思いはじめた。
 ふたりの息が合っていく。身体が合いはじめている。
 もちろん普通に繋がるより難しい行為を続けているせいで、消耗も感じはじめていた。
 きつくならないように早めに呼吸を落ち着け、動ける時は激しく姉の尻を貪っていく。
 その間隔の取り方も姉は覚えようと懸命に腰を振っている。
 巧が他の全ての愛撫をやめていたにも関わらず、姉はアヌスでの快感を得ているんじゃ
ないかと思えるほどに、反応を見せていた。
 アナルセックスの快楽は膣の性感帯を裏から刺激しているに過ぎないと巧は想像して
いたのだが、そうでもないのかもしれない。
 このまま姉のアヌスを開発してしまえるなら、こんな男としてくすぐられることはあ
まりない。そう思ってしまって、思い直す。
 自分は欲求さえ満たせればそれでいいのだ。美人を自分の肉棒で狂わせる、ただ男と
して素直にそれを嬉しく思うだけだろう。
 日が暮れようとしていた。

 真っ暗闇になるまで繋がり続けていた。
 姉はあまり嬌声はあげなくなり、お互いの息づかいだけが部屋に充満していた。都の
尻に打ち付ける巧の腰がぴち、と音を立て、また、繋がっていないところから延々と吐
き出されている蜜液が、ふたりの身体が擦れあうとき、にちゃりと鳴る。
 終わったら果して立ち上がれるのだろうか、と巧は思った。
「そろそろ出すよ」
 巧が言葉と同時に激しく動き始めると、都は多少の苦悶を見せ、快感からは離されな
がら、巧のものを身体の中に受け止める瞬間を待ち望んだ。
「ちょうだい……巧の……」
 そんな言葉を悩ましく言われて、巧は何も考えられなくなって、それでも姉を傷つけ
ないようにまっすぐな出し入れを続けて、突き込んだままイッた。
 イく瞬間にはやはり力まかせに姉を抱き潰し、一番奥に注ぎ込もうと懸命に腰を突き
出した。ビクッビクッと送り出すたびに姉の身体の中と意識し、心が震える。
「はあ、はあ、はあ……くそ、まだ……」
 呼吸が整いにくくなってきたが、まだ空っぽになっていない。
 性欲が空になるまで、姉の中にいるつもりだった。空にして、環が帰ってくるのをい
つまでも根気よく待つ。
 さすがに一度身体を休ませようと、腰を引いてぬるりと抜き出した。二度出したその
中に浸かっていたものだ。どろどろになっているのをティッシュを取り出して拭い、姉
の横にどさっと身体を落とした。息が整えばすぐにでもまた味わいたい身体と隣でひっ
つきあっている。

「巧、やだ、やめないで」
 都は終わりにされるのを怖れてか、巧に向いて首にすがった。
 初めて前を向いた都の裸は、疲れを吹き飛ばして余りあった。片方の胸を押し付けら
れ、巧は頭に血が昇る。
「すげーよ、本当に前も後ろも女の身体なんだな、姉ちゃんなのに」
 うわずった声で認め、考える前に左手で胸を揉んでいた。さほど大きくはないが、綺
麗にまとまった形をしていて、中央にイチゴのように突き出した小さな蕾も巧の琴線に
触れ、感触を確かめようと何度も指を使って揉みしだいた。
 いつまででも揉んでいたいという欲望になんとか歯止めをかけ、かわりに唇で追いか
けた。うまく口に含めずにぷるんと横に逃げたそれを狂おしく追い詰めた。舌で押さえ
てから吸い付いていく。
 
 *
 
 都はいまだ欲情している弟をピリピリと感じ取っていた。
 惚れた相手に女と認識されている喜び、根源的な幸福に胸を詰まらせる。
(本当に、どうなってもかまわない)
 もう身体のあちこちが痛くなっていたけれど、それもかまわない。巧のくれる快楽は
変わらない。揉まれている胸のあまりの気持ちよさに吐息がこぼれ、知らず身体を巧に
押し付けていってしまう。自分の手となにがそんなに違うのかわからない。巧の手は都
のどこに触れてもそこを性感帯にしてしまうみたいだった。

 罪深さに押しつぶされそうだった病院でのくちづけ以来、初めてその罪に見合うだけ
の快楽を手に入れられた気がする。
 巧の手は胸だけに止まらず、都の身体中を這っていた。その後を唇と舌が追ってきて、
都に狂わんばかりの快感をもたらした。
 巧が自分のことを気遣わず、ひたすら巧自身の欲望を満たすために都の身体を貪って
いるのが、奇妙に嬉しかった。
(巧は、満ち足りたらいなくなる? それともいてくれるの?)
 もうそんなことはどうでもいいのかもしれない。
 今弟に抱かれているのは自分であり、それは現実だ。
「もう一回」という巧の宣言を受け入れ、身体を開いた。何度も身体の向きを変えさせ
られ、巧の望むままに欲しいものを与えていく。そして自分も与えられる。
 初めて仰向けで巧の体重を受けた。
 胸を熱く吸われながら巧の背中に拙く両手を這わせる。
 暗闇の中で見えないはずの巧のものが見えたような気がして、ぞくっと身体を震わせ
た。でも、前からなんて入れられるものだろうか。
 巧の身体が都の上から退き、かすかに不安になったとき、両足が抱え上げられ、巧の
両肩にそれぞれ乗せられたのに気付いた。そのまままた進んできた弟の身体が、自分の
太腿の裏側にぴったりとくっつくのを、痺れて受け止めた。

 見えないのにとても恥ずかしい思いをしている。そういえばここまで一度も恥ずかし
いと思わなかった、とおかしくなる。
 巧が指で入り口を探るのを感じ、期待にまた痺れた。
 たった一度だけ、濡れそぼったもうひとつの入り口を触られた。その感触を、切ない
思いをしながら封じ込めた。それを求めてはいけない。やがて、巧のものがアヌスにぬ
るっと押し付けられた。弟のそれは激しく濡れている。
 足を上に押し上げられて股間を弟の方に向けているという、絶対に見られたくない姿
勢のままで、再び侵入してくる弟に歯を食いしばって耐えた。
(〜〜〜っ!!)
 さっきまであれだけ中で動かされて、都自身も受け入れていたのに、また圧迫感が甦っ
ている。最初の傘の部分を過ぎると多少楽になるが、一度抜かれたせいでまた元に戻っ
てしまったようだった。広がっていくそこを、少し怖くなりながらも待ち焦がれた出来
事として、愛おしむ。
 挿入が深まっていくのにあわせて、お尻は大きく持ち上げられ、背中がしなって悲鳴
を上げる。広げた両手で踏ん張るようにシーツをきつくつかんだ。
 下半身の不安定さが感覚に揺らぎを生み、だんだんとさっきのようなやるせない感じ
に変わってきた。いや、さっきよりも早く奇妙な感覚に巻き込まれていく。
 弟のものはもうさっきより確実に都の奥の奥までを満たし、灼けるような性感を生み
出しはじめていた。

 *
 
 姉を何度も裏返し、こころゆくまで感触に溺れる。
 とにかく気持ちよくなりたいのだという気持ち。
 気持ちよくなりたいから、できるだけそれ向きの女の身体を自然と求める。
 エロチックでさえあればこのさい姉でもかまわない。そういうレベルまで認識力が落
ち込んでいての蛮行であれば、後で一人前に落ち込んで土下座して謝って、そんな決ま
りごとのようなルートが用意されている。それを望むかどうかは別として。
 自分はどうなのだ。
 姉を犯せるのならもうなんでもいいのだという気持ち。
 最初に心のどこかにあった仕返ししたい気持ちはきれいさっぱり消え失せた。
 過剰な暴力をふるってきた姉を組み伏せ、抗えない快楽に悶えさせて思い通りに扱う、
そんな快感は、いざ実現してみるとまったく違った感慨を巧の中に生み、惑わせている。
 あと一回出したら終わりだと思って、限界まで姉を折り曲げた。
 そうして手さぐりで穴の位置をつきとめて、間違わないようにゆっくりと腰を進めて
いき、挿入した。
 姉が声にならない声で苦痛を訴えるが、気付かないふりで動きに専念した。
 激しく突き上げる。
 ほぐしたときの余韻を残していたアヌスが徐々にまた巧の肉棒を力強く締め付けはじ
め、出し入れの動きに加わる快感を高めた。

 姉の太腿を左手に抱き込むと、やわらかさにうちのめされた。その胸も、背中も、足
も、しなやかでやわらかなすべて自分が汚している。
 姉が下から懸命に両手を伸ばしてきて、巧が腰を押し込むのに合わせて引き付けよう
とし始めた。自ら自由にならない股間を巧に合うように傾ける。本当に懸命に。
 そうだ、そうやって俺の望むままに動け、と動きを加速させた。
 上体をさらに突っ込ませて、姉の太腿を胸元にまで押し付けて突き続けた。深く潜り
込ませるたび、気の遠くなりそうなくらいに気持ちがよかった。
 でもまだ余裕がある。
 その余力を全て使って姉の後ろの性感を呼び起こしたい。無理でもその欲求のために
動きたくて、姉の反応に注意を向けた。
(姉ちゃんは俺にしか許さない。そして、俺だけが姉ちゃんをイカせるんだ)
 男は女をイカせてなんぼ、というのはあくまで男にとってのステータス基準だ。愛し
あって与えあうというのとは違う一方的な欲望。だから今の自分にはふさわしい。
 腰の動きに合わせて胸を揉みしだいた。
 さらに、目の前にある姉のすねを唇と舌で舐め上げる。
 こだわってこなかった姉の二の腕や頬、頭にも手をのばして指の腹を滑らせる。そう
やって全体を高めてやればかなりの手助けになるんじゃないかと考える。
 そのせいかどうかはともかく姉は、巧が一番奥に突き上げると妖しい声を上げるよう
になり、絶え間なく全身を責め続けていくと、首を振り乱してなにかに耐えるような仕
草を見せ始めたようだった。

(ひょっとしたらひょっとするのか)
 たぶん一番求めていたものを手に入れられる予感が、巧に起こった。
 どんなイレギュラーな形であれ、姉を絶頂に追い上げて快楽に泣かせることができる
なら、巧の今日の行動は、行為全部が意味をなすのだ。
 そこから、巧が愛撫をやめて接合に集中しても姉の激しい反応は衰えなかった。髪が
シーツの上に乱れ、泣きじゃくるような切迫した表情をおそらく見せているだろう。見
えなくても闇の中に感じることが出来る。
 巧はこの時今日最もきつく肉棒を硬直させていた。これ以上血が流れ込んだら破裂し
てしまいそうなくらい膨れ上がり、欲望の面積を増やしていたのだ。
 最も姉の反応の乱れる角度と深さをここだ、と確信して狙いをつけた。
(イけ……イけ!! 姉ちゃん)
 イかない姉を責めるように攻めた。
 狂おしいものがいつものように背中を駆け上がってきた。その波の大きさだけがけた
外れだった。
 それ以上の努力はいらなかった。姉が叫び声をあげるように激しく巧を抱き寄せよう
として、抱き寄せられなくて、暴れていた。間に自分の足があるのだ、無理だ。
(イかせた……のか)
 巧は、限界まで姉の中に突き上げ、強烈な締め付けを根元に味わいながら、最後の一
撃を姉の中に叩き込んだ。
 姉の身体の奥底に、何度も何度も、最後の一滴まで吹き上げた。

 
 都が服を身につけたのを確認をとって、巧は部屋の電気をつけた。自分ももう普段着
の格好に戻っている。
 振り返って姉の目を見ることなどできなかった。
 なのに強引に前に回り込まれ、都に優しく覗き込まれてしまった。
 どちらもなにも言わない。
 物心がついてからこっち、姉のこんなにも幸せそうな顔は見たことがない、と思った。
 なにか取り返しのつかないことをした、それだけはわかって、巧はその場に座り込ん
でしまった。駄目だ、泣いてしまう。
(これじゃ……環さんに顔向けできないよ)
 抗う間もなく涙がボタボタと床に散った。
 絶対見てはいけない顔だった。たったそれだけで巧は絶望した。
 一生忘れられない。
 胸がつぶれてしまいそうになり、呻いて転がった。姉のこともなにもかも意識から放
り出してしまって、心が圧壊する。
 
 *
 
 巧は、夜だというのにどこかに出かけてしまっていた。
 残された都は微睡みの中で不思議な夢を見る。

 小さな子供を抱いている自分、誰もいない寂しいところで暮らしている、風のない静
かな静かな場所、そのうち耳が聞こえていないことに気付き、外に出てまぶしさに目を
閉じると目も見えなくなる、音も光もない、でもまったく不安も渇望もない真なる静寂。
 玄関のベルが鳴った気がして、都は気だるく身体を起こした。立ち上がろうとして、
身体の中心に走る激痛に全身を強張らせて崩れ落ちた。
 ベルがもう一度、鳴った。
 なんとか部屋の入り口まで歩いて、階段もひょこひょこ奇妙な歩き方になりながら、
なんとか降りていった。痛みがおさまらなかった。
 誰が来たのかはわかる。
 誰かが応対するまで待っているだろう。少し身体を落ち着けてからでも大丈夫だと思っ
たが、都は力をつくして玄関に降り、ドアを開ける。
「こんばん、わ……」
 うつ向き加減の環が照れくさそうに都を見た。 

 逃げ出してしまった。
 巧は、とにかく姉のその笑顔から逃れようと外に出て、事実上迷子になった。行くと
ころがない。
 アパート暮しの大橋守がすぐ頭に浮かんだが、訳ありの一人暮しかもしれない。
 とにかく電話を入れる。
 応答がないので、一旦移動する。目立たない小さな公園を見つけて、そのベンチに座
り込んだ。
(姉ちゃんを壊した)
 キスもしなければ「好きだ」とも言わなかったのに、姉はとても喜んでいて、そして
もはや感極まって、泣き出しそうに幸福な笑みを浮かべる姿に、巧は限り無い衝撃を受
けた。
 姉にはそういう表情をつくる能力がないと思っていた。そういう姉ならば、壊れでも
しなければこういう顔はできないんじゃないのか。
 自分は姉を犯したのだ。愛したのではない。
 そのことが重すぎるのだ。
 家を出る時にも姉は、「どこに行くの?」と縛るようなことも言わず、「早く帰って
きて」みたいにすがるようなことも言わず、ただ「いってらっしゃい」という笑顔で見
送ってくれた。

(犯されて喜んでんじゃねえよ……)
 もう一度泣いて、それから環のことを思う。
 今目の前に現れたとしたら、速攻で逃げてしまいそうだ。つかまっても絶対目を見て
話したりできないだろう。
 戻ってくるのだとしたら、明日のいつ戻ってくるのか知らないが、それまでに居場所
をつくって隠れてしまいたい。
 逃げても解決にはならないが、環の言いそうなこと全てが怖かったのだ。
 三度目にコールした時に、守が電話に出た。
 幸い時間は空いているというのでとりあえず風呂を借りたいと言うと、快く承諾して
もらえた。巧はともかくほっとして守の、駅南のアパートへ向かう。
 直前でコンビニの袋を下げた守に後ろから声をかけられた。
「まあこれ飲め」
「サンキュ」
 冷えたウーロンのミニボトル同士でコツンとタッチをして、
「大丈夫なのか?」
 と聞いた。できるだけ迷惑は最小限にしたい。
「一晩なら。明日は人が来る」
「いーなー、女付きで一人暮し。人生いうことなしだな」
「んなわけあるか。炊事や洗濯、全部自分でやるんだぞ」
「似合わねー……なんで一人暮しなのよ」

「親の転勤についていかなかっただけだよ、せっかく受かった第一志望校だしな」
 淡々と、守は部屋の鍵を開けて明かりをつけ、巧を中へ通した。
「ゴミ溜めになってねえ時点でおまえはエライ」
「いや、その、掃除はあんまり」
「女がやってるとしてもだな、この年でそういうコを見つけたってのはキミの実力なの
ですよ」
「ふーん……」
 守が買い込んだものを片づけながら、面白そうに巧を振り返った。
「そんなこという奴は初めてだな」
「そう? ていうか、思わねえ?」
「そんなことより、なにがあったのよ、ひでー面して」
(あ、照れてる)と思いながら、どこまで話していいのか迷う。軽々しく口にはできな
いし、まだ気持ちの整理もできていない。なんだか現実感がない。環の時のように後か
ら実感が湧いてきたりするとしたら、たぶん相当酷いことになる。
 汗を流しながら考えようと思い、
「とにかく気持ち悪くてしょうがないからシャワー貸してくれよ」
「OK」
「お礼にメシつくってやろう」
「いいアイデアあったらくれ。もうネタがなくて困り果ててるんだ」
「彼女は?」

 ユニットバスの体裁をとりつくろった守が、
「毎日来るわけねえだろ……それに、そこまでやらせんのはな。おまえ、女臭いから早
く入れよ」
 巧にいいぞ、とタオルを渡して、台所に向かった。
 巧はそれを見やりながらバスタブに身体を入れ、シャワーのノズルを調節し、蛇口を
ひねり、やっぱり思う。
(似合わねー)
 だが大橋守は、雰囲気の読める男だった。今日もこうやってとても自然に、さも当た
り前のように巧に応えている。
 シャワーのお湯に、汗や汚れといっしょに姉の匂いを流していく。
 ちょっと短かめに切り上げると、さっさと片付けて出る。あとで100円屋で下着類
を買いにいこうと思う。でもそんなことをして、自分はいったいこの先、どうしようと
しているのか。よくわからなかった。
 巧が、守がシャワーを浴びる間になにかつくってやろうと言ったら、どうせなら二人
でなんかすげえものをつくろう、待ってろと言われ、巧は守の小型のテレビをつけて、
ぼんやりそれを見ていた。
 気を遣っているのだろうか、と思う。そういえば、巧は守が自分の事をどう評価して
いるかよく知らない。一度だけ巧のサッカーを評して、『おまえはサイドアタッカーと
いうよりはサイドランナーだ』とこき下ろした。
 
 巧のごり押しで、『デコレーションチキン』なるものをつくることになった。デコレー
ションケーキそっくりにするのだ。
 味付けした鳥と根菜を中心にし、スポンジのかわりに食パンを敷く。鳥の皮で周りを
囲む。プチトマトを苺のごとく飾ることにし、
「生クリームの代わりはマヨネーズのハーフ。マヨネーズはバーナーで炙る」
 と巧が締めると、
「食いたくねー……」
 と守は即座に言った。
「余ったら彼女と仲よくごちそうになってください。ちなみにうちでやったときはひっ
くり返されそうになったけど」
「マヨネーズさえどうにかすればいいんだよ、この味覚音痴」
「おまえな、いつも思ってるけど、本当の事ならなんでも言っていいわけじゃねえぞ。
サッカーのときだって、なにがサイドランナーだ、俺だってセンタリングぐらいできる
んだよ」
「あたりまえだ。つーか、気にしてたのか……」
 意外に元気な巧にほっとした顔を見せながらも、守は目の前の強い匂いを出す物体に
脱力する。
「マヨネーズくせー……、持って帰れ、こんなもの。十秒で」
「悪いが俺は宿無し。まずは食うんだよ、文句言わずに」
「家出とは違うのか? いったいなにやったんだよ、ひょっとしてお姉さん襲ったとか
そういうレベルなのか?」

「ひ・み・つ」
 そう言いながら、巧はやっぱりこの男を巻き込めないと思った。
 部屋の隅っこに毛布を借りて一夜を過ごすと、守が起きるのを待って、
「今度来たらカレーをつくってやろう」
「あれか、あれならまた食いたいな」
 守は屈託なく笑っていた。
 
 そんな友人のおかげで少しは気が楽になっていた。だが、一人寂しく公園の鳩に因縁
をつけているうちに虚しくなって、ちょっとウチに電話してみようと思った瞬間のこと
だった。
 最初に姉の顔が浮かんだ。
 まずい、と思った時には遅く、頭痛と吐き気で立っていられなくなり、すぐそばにあっ
たトイレに駆け込んで、しのいだ。
(なんだこれ……)
 姉のことを考えようとすると駄目なのか。
(環さんなら……)
 だが、少しずつ、環の方にも実感が押し寄せてきた。
 そして頭が割れそうになる。心と身体のすべてが現実から逃げ出そうとしているみた
いな感じだ。うずくまって嵐が去るのを待つ。

 こんな所にいては駄目だ。
 人のいるところ、人の多いところ、他人と関わって気を紛らわせる場所。
 繁華街なら、最後はナンパという手もある。思い付いてから、なにを性懲りもなく痴
れたことを、と自嘲しながらもアーケードへ向かって歩く。
 なにかおかしい。
 感覚が普通じゃないのに気付く。
 交差点まで差し掛かり、さらに奇妙な目眩を感じた。平衡感覚がおかしいというより
も視覚情報が不正確でそれに惑わされている感じだ。
 それはだんだんと弱くなってやがてすっきりとした清浄な世界を感じた。
 信号を渡ろうとしたその時、強い力で引き止められ、叱責と共に引き倒された。
「待鳥くん! どこを見てるの?!」
「どこって……おや、高野さん」
 ナース服の上からサマーカーディガンを羽織った看護師の高野が真上から覗き込んで
いるのが見えた。
「倒れるとは思わなかったわ。ごめんね」
「いや、ちょっと無防備でした」
「ていうか君今、信号見てなかったの?」
「赤で渡ったりしてないけど。──高野さん、制服ピンクじゃなかったっけ」
 高野が巧をじっと見た。
「どうしたんですか?」

 しばらく考え込んでいた高野は、
「ちょっとついてきて」
 と巧を引っ張り、病院の方へ歩き始めた。
 高野が勤め、巧が二泊三日の間世話になった木塚総合病院は駅のすぐ南にある。巧は
まっすぐに外来入り口から連れ込まれ、
「ちょっとロビーで待ってて。私夜勤明けだから、着がえてくる」
「? いいけど」
 少しだけ懐かしい総合受付の前を横切って、待ち合い席の外来患者達に混じって座る。
右手を吊っている外見的にはまったく調和が取れていて、なんとなく苦笑した。
 そうじゃなくても今は病人のようなものだ。高野に連れてこられた理由もなんとなく
わかっている。理屈はともかく、自分も壊れかけているらしい。
 ほどなく高野が戻ってきた。私服だった。
「あれ? 俺を医者に見せるんじゃないの?」
「夜勤明けって言ったでしょ。モーニングつきあってもらって、それから──」
 どういうことかまるでわからないが、どのみち巧には行くところはない。私服に着が
えて別人のようになったこの看護師に、さらわれるのもいいかもしれない。
「おごってくれるんですか?」
「ま、しょうがないわね」
 聞いたこともない名前の怪しいファミレスで、オーソドックスな朝食を摂った。
 味覚は完全におかしかった。

 そういうところも、高野には観察されているような気がする。
「このあとはどうなるんですか?」
 巧がそう聞くと、高野はそれには答えず、
「変な味がするでしょ?」
「……ちょっと。なんで?」
「食べているものの色が君に見えていないからよ」
 確かにその通りだ。期待通りの味がしなくて感覚が混乱している。
「見覚えのある怪我人が歩いてるから、すぐ君だってわかったわ。全然迷わないで突っ
込んでいくからさ、自殺かと思っちゃったわよ」
「いや、赤じゃないと思ったから」
「そういう死に方した人知ってるからね、ちょっとびっくりしちゃった。驚かせてごめ
んね」
「俺、もう大抵の事じゃ驚かないと思うな。空も真っ白だし、今高野さんが着てるその
色っぽいデザインの服も真っ黒ですね。それ以外はどうでもいい気分」
「ありがと」
 そう言いつつ、高野は真顔で巧を見据えていた。
 ちょっと居心地が悪い。高野は、身長は姉よりちょっと低いぐらい、ショートカット
で明るい感じだが、環あたりと比べても大人の雰囲気充分だった。イヤリングと指輪が、
彼女が表情を変えるたびキラキラ光っている。
 ノースリーブの腕に絡まれて、

「このあとどうなるか知りたい?」
「俺は寝る場所を提供してくれる人なら、どこでもついて行っちゃいます」
「んー、つまんない反応ねえ。まあいいわ、ウチにおいで。好きなだけいていいから」
 ファミレスの階段から歩道に下りると、高野は言った。
「私は高野頼子、私んちでは高野とは呼ばないでね、頼子さんでよろしく」
「頼子さん」
「うふふ、そっちは『巧くん』よね」
 腕を環のように取られ、そのことで少し胸がきしんだが、頭痛は来なかった。
 コンビニで買い物につきあい、また腕を取られて歩いた。とりあえず気は紛れている
けれど、これでいいのだろうか。判断に自信が持てない。
 本当に巧をマンションに招き入れた頼子は、適当に服を脱ぎ散らかしながら、シャワー
も浴びずにさっさと寝巻きに着がえた。
「私は今から爆睡するから、君も寝ること。ただし、悪戯しないように。後が酷いよ」
 とカーペットの上に敷きっぱなしの布団を指差した。
「ベッドとかないの? ていうか、俺の分は?」
「あたしといっしょじゃ不満なの?」
「いえ、とんでも」
(なにもかもむちゃくちゃだ……これで看護師なのか……)
 いっしょの布団を強制して悪戯禁止もなにもないだろう。なにもしやしないのだが。
(どうなることやら)
 とは思ったが、とても大人に見えない頼子の振る舞いも、はしたない格好も、大した
ことではなかった。
 とりたてて苦痛はなく、過ごしてはいけそうだった。
 頼子の姿見で自分の有り様を確認してみる。
 なにもかも変わってしまったのに、なにも感じてないみたいな自分の顔が悲しかった。
 いつから自分はこんなに弱くなってしまったのか。 

 朝、大橋守のところで起きてきたばかりだった巧は、それでも深く眠れたわけではな
かったので、素直に頼子の隣で横になった。
 巧の見たところでは頼子は二十代前半、大人のはずなのだが、少しでも社会規範に則っ
た様子がまったくない。加えて、食事をしてすぐに寝ている。
 頼子に背中を向けるとカーペットが目に入る。これが汚かった。
(虫が飛んでるぞ……)
 目を背けて、頼子の方を向いた。
 頼子は環と同じように首筋の生え際を見せ、本当に熟睡してピクリとも動かなかった。
(これじゃ悪戯されたってわかるまい)
 ため息をついて、巧は天井を向いた。
 部屋の中は快適だった。見渡してみると隅で冷風扇と除湿器が静かに働いている。帰っ
てきた時につけた様子もなかったので、これは一日中動かしているのだろう。こういう
ものでエアコンを使わずに効率良く部屋を冷やすことができるらしいことはきいていた。
実際気持ちよかった。
 身体から力を抜き、目を閉じた。開けていてもどうせモノクロの世界だ。
 見たいものがあるわけでもない。でもちらっと隣の異星人の様子を窺う。
 とりあえず男と認識されていないのはありがたいが、安全パイとなめられているのも
癪なので、さっそく悪戯を試みた。

 ブラの胸の間に、そのへんに転がっていた牛のぬいぐるみを挟んでおいたら、夕方に
なって起き出した頼子に飛び蹴りを食らった。
 別な日に今度はパジャマのズボンを脱がせて、タンスから見つけてきたパンツをもう
一枚はかせて二重にすると、ズボンを元に戻して、寝た。
 これは根に持たれた。が、なぜか逆に気に入られたような気がする。
 
 とてつもなく落ち込んでいるはずなのに、毎日妙に静かな気持ちだった。
 ちょっと買い物につきあったりする以外はほとんど外出はしない。ギプスが目立ちす
ぎて知っている人間には速攻で見つかってしまうだろうし、なにより外は猛烈に暑い。
 目がどうにかなった以外はまったくありきたりな日常だった。どうしてこんなに普通
でいられるのか不思議だった。
 頼子は頼子で無頓着に、普通に暮らしている。
 部屋の中を飛び回る虫が増えたくらいに考えているのかもしれない。頼子の同僚か誰
かからかかってきた電話に、
「ミニ柴とか飼ってるみたいで面白いよ」
 とか言っていたのはひょっとしたら自分のことかと思う。
 巧は、そろそろ右腕の検査が一回あるのを思い出し、
「都合のいい日でいいんだよね? 頼子さんの昼勤の日にいっしょに行くよ」
「懐きすぎよ、巧くん。私はいいけどね」
 すっかり『巧くん』だ。

 その夜はパジャマの中に毛布を入れてパンパンにふくらませてやった。
 巧は環の夢を見た。
 色のついた夢だ。現実に色がないので、そんなものかと思う。頼子に蹴り起こされた
せいで細部はまるで思い出せないが、夢の中の環は怒っていて、かと思うと泣いていた。
たぶん勝手な思い込みだ。へたをすると、環ではなく姉だったかもしれない。でも、
ちゃっかりセックスしていた気もする。なんとなくありもしない感触が残っている。
 頼子に蹴られた脇腹を押さえながらのろのろ起きだし、適当に二人分の朝食を準備し
ている間も頼子の機嫌が悪かった。このところ食事はしょうがなく巧がつくっている。
 最初に病院で見た営業スマイルがまったく想像できないダメ女っぷりだ。
 そこから出勤までの変身の様は、見ていて詐欺に近い。一緒に出た巧は検査を受けて、
次の検査まで様子を見てそれでギプスを外してもらえることになった。結果を聞いた頼
子は嘘みたいに嬉しそうににっこり笑った。
 
 多少、どうしても我慢できないところを自分で片付けたおかげで、巧はなんとなく、
部屋の汚さが気にならなくなってきていた。
(いかん、これではダメ人間になってしまう……)
 とあるとき急に思い、頼子がいないうちに徹底的に片付けてしまった。
 その日に頼子が帰ってきた直後に電話があった。巧はそれとなく頼子の話し声を聞い
ている。話の内容も大体わかりそうな電話だった。
「郁美? そっちはどう、変わったことない」

「彼氏なんかいないわよ、…………あんたの同級生じゃ犯罪になっちゃうでしょ」
「全然平気よ、家事担当やとったし」
「あんたも知ってるでしょ、男なんていらないって、母さんにも言っといて、絶対行か
ないって」
「へえ……なんか大変じゃん」
「そういえば最近はるかちゃんには会ってないなあ」
 巧は一瞬(あれ?)と思うが珍しい名前ではない。ただ、少し会いたくなった。
「あと一年で受験でしょ、高校……後で泣けっ」
 がちゃっと乱暴に切ると、頼子は部屋の中を見渡して、
「泥棒でも入ったの?」
 と言った。
「どういう言い種だ……」
 巧は暴れ出したくなるのをこらえ、
「看護師のくせに不衛生すぎ。ていうか女の部屋じゃねえ」
「細かいわねえ。ま、いいわ、今夜は君にもつきあってもらうわよ」
「酒? メシも食わないで?」
「合体させればいいのよ」
 いつものことだ。頼子は自分でかってにがぶがぶ飲んでできあがるので、巧が気を遣っ
てつきあうこともない。と思っていたら、絡まれた。
「だいたい君、誰が本命だったの? 三人くらい取り巻きがいたわよね」

「いません。本命っていうかそれは」
「『環』ちゃん? それとも『都』ちゃん? 寝言で言ってたからどっちかよね」
「う、嘘だ、そんな寝言言ってないねっ」
「あっはっは! いい反応ね、君。二股だったからなの? それとも……なんかいけな
い関係だったとか? その年で不倫とか」
「二股で両方人妻とか? 逆に小学生とか」
「なに自分で穴掘ってんのよ、このすけこましは」
「すけこまし……」
「巧くんってテクニシャンよね」
 頼子は畳み掛けるようににじりよってきた。目がすわるほどには酔っていないようだ
が、目から邪悪なオーラを出している。
「寝ぼけててもあんなことができるんだもの」
「なんの話ですか……」
 頼子に対し、じりじり後退する。
「いつもあんなことやってるの?」
「知らないっつーに」
「あー、そう」
 そこでビールがなくなったので、頼子はせっかく巧が片付けた台所を引っ掻き回して
焼酎を持ち出し、
「そろそろ話してもらおうカナ。でないと君が寝ぼけて私にしたこと、全部彼女たちに
話しちゃうわよ」

 巧の前にもグラスを突き付けた。
「飲まねーっての」
 グラスを突き返し、機嫌が悪くなった頼子に張り付かれると、
「だいたい頼子さん、どうして俺を病院に連れていかないんですか?」
「検査は行ったでしょ」
「…………真面目な話、俺はどうなっちゃってるの?」
「現実が受け入れられなくて、心が萎縮してるだけよ。ウチには精神科はないもの」
「なにそれ。今もこうして頼子さんの嫌がらせに耐えながら現実をたくましく生きてる
じゃん、俺」
「このままもし彼女達に会ったら、どうなるかしらねえ〜」
「……」
(会えるわけないじゃん)
 心のどこかでは逃げられないことを知っていても、今会ったのではもっと酷いことに
なるに決まっているから会えないのだ。でもそれがわかって、頼子は巧をお持ち帰りし
てきたのかもしれない。
「だから俺がなにしたっての」
 頼子が脅しになるような材料を持っているならとっくに言っているはずだ。巧は、あ
くまで突っぱねる。
「連絡先はもう押さえてあるんだけど?」

「ちょ……職権濫用じゃないの、それ……」
「病院は関係ないわよ? 個人的なコネで調べ出しましたっ」
「えらそうに……」
 頼子は、それでもプロの看護師であり、本質的に患者というものを見極めているよう
なところがあった。
「君が現実を受け入れないといけない。でないと、君が弱いせいで周りの人を不幸にす
るわよ?」
(弱い……)
 他人に言われたらとても辛い言葉。自分が一番よく知っている事実。
 話そうという気には、とっくになっていたのだ。
「全然わからないんです。どうしてこんなに自分が脆弱なのか、いつそんなふうになっ
てしまったのか。ガキだっていうのはわかります。でも、こんなふうに、今までやって
きたことが全部否定されてしまうなんて、納得がいかない。理由が知りたい。もし俺が
自然淘汰されるはずの子供だっていうなら、頼子さんにこうして守ってもらう価値だっ
てないんだ……」
 頼子がひどく優しい目をして見ていた。
「友達の話ってことにしといてください──」
 それからの長い時間を巧は頼子の腕の中に囲まれて過ごした。他になにをするでもな
く、話をしていた。
 

 相変わらずだらしのない頼子に辟易しながらの毎日が過ぎて、お盆があけると、巧の
ギプスはようやく外され、サポータだけで過ごせるようになった。
 ロードワークだけでなく、手を使わないプレイなら全く支障がないくらいまで、回復
していた。
 巧はそれでも、頼子のところにいた。
 頼子が出掛けに必ず用事を言い付けるので、ついついそれをこなしてしまう。
 頼子が買ってきた子供用のサッカーボールで少し足を慰めた。感覚はそれほど鈍って
いない。下の階に響かない程度にリフティングをした。ここに本当にミニ柴がいたら、
御主人様がいない間の遊び相手に、大いに喜ばれたことだろう。
 それでも巧は、まだ白黒テレビの中の人だった。
 頼子には全部話してしまった。気は楽になったが、事態は変わらない。
 今の巧には敵味方のユニフォームの判別すらできない。
 このサッカーボールだって、おもちゃ屋で売っている蛍光ピンクやイエローのボール
かもしれないのだ。
(受け入れなきゃならないことって何?)
 そこから始めないといけないらしい。
 時間は容赦なく過ぎていった。
 もうすぐ夏休みが終わるという日に、夜勤明けで帰ってきた頼子に叩き起こされ、
「君を引き取ってもらうことにしたから」
 突然そんなことを言われた。

 子犬じゃないのだ。押し倒してやろうかと思ったら、頼子の方から押し倒され、
「一回やっとく?」
 と顔を思いきり近付けられた。
(やっぱりハッタリだったんじゃないかよ)
 と思いながら、のしかかってくるやわらかい身体に初めて興奮する自分を感じた。
 記憶の中から頼子の髪や肌の色、嗅いだことのある匂いを思い出してみる。
 モテないようには見えないし、巧から見てもとても色っぽい。
 そう言ったら素直に喜び、キスしようとしてくるのを手のひらで止めた。
 にこっと笑ってやると、意味ありげに笑い返してきた。まだまだ底が深そうな、とて
も魅力的な女性だった。このまま離れるのが惜しいと思わせるくらいに。
「頼子さんって、酷い目にあったこと、ある?」
「あるわよ。君のしてくれた話なんて、お笑いぐさにしちゃえるくらいキツイのにね」
 そう曖昧に笑って、巧の上から降りて、お湯を沸かしはじめた。
「最後だしさー、私がとっておきをごちそうしてあげよう」
「食べられますように」
「そういうこと、言うなー!」
 しゃもじが飛んできた。
 こういうところは自分の姉のようであり、別の面では環のようでもある。足して二で
割って、年令の分プラスアルファしたような。
「君の料理、悪くなかったわよ?」

「嬉しいな、あれ褒めてくれる人いないんだよね」
 頼子がじっと目を止めて、
「本当に嬉しそうにするんだね。君がモテてるのはそれなんだろうなー」
「単にモテ期だと言われましたが」
「あははっ、そうかもね」
 頼子がつくったのはとっておきもなにも、普通のシチューだったが、視覚的影響を和
らげる配慮がしてあって、巧にもとても美味しく食べられた。
 それでもやっぱり後片づけは巧の仕事になっていた。
(まったく……)
 そう思いながらも、一抹の寂しさを感じる。この調子なら元に戻ることも難しいこと
ではないのかもしれない。
「そんなわけで、この件に関する最重要人物を呼んでありまーす」
「ええっ! 今?」
「今」
「それ誰よ?!」
 心の準備をする暇もない。ほどなく、玄関のチャイムが鳴った。
 バタバタと玄関に走る頼子を見て、巧はベランダかバスルームに逃げ出したくなった
が、それよりも早く室内に、桐高の女子の制服を着た小柄な影がすべり込んできた。
 由美だ。 

 由美はまっすぐ巧の方を見ていて、巧が目を合わせると、
「巧くん、こんなところで一体なにしてるの?」
 開口一番、これだった。
 なんで夏休みに制服を着ているのかとか、そんなことよりも気にしなければいけない
のは、なぜ来たのが由美なのかだった。
 巧は頼子の言った『最重要人物』という言葉が気になっていた。
 だからとてつもない疑惑が湧いた。
(ひょっとしたら……)
 ちょっと寒気がして、目を逸らす。睨まれたと思ったのは違ったかもしれない。
 たぶんもっとたちが悪い。どうつっかければ由美の真意がわかるのか。
「俺を睨みに来ただけなら帰ってくださいよ」
「おお、いきなり……」
 頼子が茶々を入れるので、
「あのー、そんな真横で聞いてるつもりですか?」
「ああ、気にしないでつるけて。ろっちかが暴走したら、止めなきゃなんないからね」
 頼子は二人の横で、わざわざどこからかスルメを出してきて食べている。当然、酒が
ついている。
(む、むかつく……)

 それより由美である。玄関先なので、
「とにかく、ま、上がってください。汚いとこだけど」
「ちょっとぉ……、私の部屋よ?」
 巧の言葉に頼子が膨れていると、
「お邪魔します」
 由美は仏頂面で巧と頼子の間を抜けると、さっさと部屋に入って、座卓を前にしてちょ
こんと座った。
 頼子に突かれて、巧はしょうがなくその対面に座る。
 目の前にした由美の顔は、少しやつれているような気がする。
 由美はすぐに口を開いて、
「もう一度聞くけど。──こんなところで一体なにしてるの?」
 言い逃れのしようがないので、
「現実逃避してるんです」
 と巧はやけくそ気味で、
「その感じだと、頼子さんからもう聞いてるんですね? 俺、まだ帰るわけにはいかな
いんですよ」
 思っていたことをそっくりそのまま伝える。本当にそれしかなくて、
「逃げられないのはわかってます。でも今二人に会ったらもっとどうにかなっちゃいま
すよ、俺。こんなこと言うのすげー情けないけど、でも──」
 こう言うしかない。

「マジ、カンベンしてください」
 由美が視線を外した。外したまま、
「自分がこんなに弱いなんて知らなかった──とかって思ってるでしょ」
「思ってます」
「巧くんはまだ環ちゃんのこと好き?」
「まだもなにも、ずっと好きです」
「じゃあ──ねえ、もし環ちゃんと都ちゃんが逆だったらどうだったかな」
「逆?」
「環ちゃんが巧くんのお姉さんで、都ちゃんがその友達だったら」
 由美が投げかけたそれはある意味で、究極の問いかけだったかもしれない。巧にとっ
て、果して答えられる問いだろうか、また、答えていい問いだろうかと思う。
「酷いこと、聞きますね……」
「ぶっちゃけそういう話でしょ?」
「由美さんってやっぱ、鬼」
 それに応えたのかどうか、由美は薄く笑って挑戦的に巧を見た。
 かろうじて巧が見返すと、そのまま睨み合いになる。
(ちくしょう、目を回してしまえ)
 と人さし指を目の前でぐるぐる回してやったら由美に噛み付かれた。
「噛まれちゃった……」
 と頼子に訴えると、頼子は腹を抱えて笑い転げた。それを見咎めて、

「答えられないの?」
 と由美が膨れているので、頼子が身を乗り出してきて、
「いっそくっつけ、くっついて話せっ」
 と座卓を蹴って脇へどかし、巧と由美両方の首根っこをひっ掴んで顔を突き合わせよ
うとする。
 キスでもしてしまいそうな勢いだったので、巧は慌てて両手で由美の肩を押さえた。
 頼子に振り回されながら、巧も由美も相手を見ていた。
「ギプス、取れたんだね」
 由美が巧の目を見たままで言う。
 そういえば、あれから初めて右手を使った。
「これでやっと環さんを両手で抱きしめられます」
「都ちゃんは、抱きしめないんだ……」
「いいから抱きしめあえっつーの」
 頼子が二人の後頭部を掴んでサンドイッチにした。もはや存在自体が酔っ払いである。
 たぶん最初で最後になる巧と由美の『接触事故』。ただ強く押し付けられただけの相
手の唇に心を奪われることはなく、お互いに背を向けた。
 そのまま背中合わせにもたれあって、話をすることになってしまった。
 巧はなんとなくそうするのがいいと思ったのだが、由美はどうだったのだろうか。
 話のきっかけを探していた。
 あの時の事を謝ってしまえば、巧にはあえて話すことがない。

 由美と頼子の間で話されたこと、由美が持ってきているはずの『事情』が、解決の糸
口になるのなら、聞きたいと思う。
 じゃあ、謝ろう、と思った時、
「一人じゃ解決できないことを一人で解決しようとしたら、そうなるんだよ」
 由美がぽつりとそう言った。
「巧くんの心は、受け止めきれなかったのね。全部私のせいだね……」
 ゆっくりと、由美が話し始めた。
 いつのまにか頼子がつけたらしいラジカセからドロドロ妙な音楽が聞こえてくるのを
聞くともなく聞きながら、結局自分からは話し出せなくて、そのことを気にしていた。
 
 *
 
 あれはほんのきっかけに過ぎなかった。
 一番大切にしていたものでからかわれた、そのことで火がついてしまったのは、タイ
ミングの良すぎる偶然だったのだから。
 あのときに限って言えば、由美は、都の真似事をする巧から逃げ出しただけだった。
 都に告白しに行ったのに、逆に都から巧への想いを告白されてしまったあの夜、由美
は環に全てを吐き出し、同時に環から巧の言葉をひとつ聞かされた。それが、頭の中に
あった。
 場合によっては環と二人で都を養おうと、巧がそう言ったというのだ。

 由美も最初のうちは、にわかには信じられない奇妙な発言だと思った。
 都を追い詰めたのが本当に環と巧だったとして、都が本当に辛かったのだとしても、
その苦しみは本人だけが背負うものだ。他人にはどうすることもできない。自分でなん
とかするしかない。
 だからその言葉には巧の純粋さが現れているものの、都の事を本当に思いやれている
わけではないことにも、由美は気付いた。
 由美はずっと考えていた。
 都は本当の母親を亡くした後ずっと、巧の前で母親をやっていたわけだ。仕事の忙し
い父の透にはどうやってもできないことを、すべて背負っていたはずだ。
 だが、巧が母親を卒業した時に、都は母親をやめた。はるかはともかく、少なくとも
巧の母親はやめた。肩の荷を下ろして、自分を見つめ直すいい機会になったことだろう。
 そして、かわいい弟にとって自分はどういう存在になってやるべきなのか、考える。
 都の努力によって巧はちゃんと育ったのかもしれない。
 でも都は姉として育ってこなかった。母親をやめた時、自分が巧の姉だとわかる前に、
圧倒的に目の前に存在する巧の魅力に捕らわれてしまった。
 そういうことなんじゃないだろうか。
 
 自分で気付く前に、たぶん都は巧の虜になっていた。
 そして由美は、そこに割り込んでいくことは絶対に不可能だと気付かされる。
 思いつめる都の姿を見続けることで、この先も自分の想いがつのっていくのを予感す
る。決着をつけるためには、都を幸福にするしかない。

 黒くて細い糸を辿って、由美は巧と都をつなごうとした。
 それは厳しい方法だ。
 巧は明らかに、自己の中に確かにある都への欲望を、環に対する想いだけで強力に抑
圧し、あの手この手で迫る都の度重なる攻撃を躱し続けていた。
 その巧の誠実さと行動力に由美は頭の下がる思いだったが、それを逆利用するしかな
かった。そうして環を、おあずけになっていた巧から奪ってみせた。
 巧は、プライドなんてチープな外来語では表せない、まさに誇りを持って戦い抜き、
力尽きたのだ。
 自分達は四人で一つの関係を形作っている。
 由美は、常に都の背中を見つめていた。その都は、巧の背中を。またその巧は環の背
中を。コンピュータの周辺機器のように繋がっていた。
 
 *
 
 由美が苦労して冷静に話を続けるのを、巧は他人事のように聞いていた。
 頼子がいそいそとラジカセのCDを取り換え、新しい缶ビールを開けた。
(話に合わせてBGMを変えてやがる……)
 放っておけばいいのだが、頼子の選曲は見事なもので、それで食べていけるのではな
いかとくだらないことを巧は思った。

「デイジーチェーン接続っていうの、知ってる?」
「機械はあんまり」
「パソコンになにかプリンターとか外付けするときに数珠つなぎにする方法。それがす
ごく私たちの関係に似てるなって思って、ずっと考えてた。もちろん、それはパソコン
本体と繋がってないとなんの意味もないんだけど、環ちゃんから巧くんに、巧くんから
都ちゃんに、都ちゃんから私に、それでその長さには上限というのがあってね、繋ぎ過
ぎると、うまく動かなくなるの。やっぱり無理があるのね。──滅茶苦茶だけどね、そ
う考えたときに、こうも思った。絶壁で足場を失って、私達はやっぱり数珠つなぎで、
ザイルの一番先端に私がぶらさがってる。三人もぶらさがってたら、そりゃ墜落するよ
ね。そういうときには良くある話だけど、一番下の人が自分でザイルを切って他の人を
助けるのよ」
 そんなことを聞かされても、巧には言葉がない。背中に直接響いている由美の声から、
ただ気持ちを逸らさないようにしている。
 言いたいことはわかる気がする。だが。
「普通に考えたら、四人のうち二人が結ばれたらあとの二人は不幸になるのよ? 二人
がどのみち不幸になるなら、都ちゃんをそこに入れたくなかった。私のわがままで、先
頭の環ちゃんと尻尾の私をつないでショートさせてやればなにか変わるんじゃないかと
思った」
 由美が不意に身体を起こして、バランスを崩して後ろに倒れる巧にのしかかった。
「ちょ、由美さんどうしたの──」

 由美は逆さまの巧の頭を抱きかかえると、泣き出していた。
「全部、私が環ちゃんに教えたの。明日帰るって約束したのに帰って来なかったでしょ?
しかもその後でまた明日帰るって言われたでしょ? それ以前に、環ちゃんを無理矢理
連れ出した。無理矢理、いっしょに、……それで巧くん、行き場がなくなって、都ちゃ
んのこと、拒みきれなかったでしょ?」
「由美さん、やめた方が……」
 正確には巧は、自分の方から動いたのだから、そこのところは違う。
 巧は半ば無意識に由美の言葉を止めようとしたが、どうしようもなくて、続けて聞い
ていた。頼子は目を閉じている。
「巧くん、二人とも引き受けなさい」
(唐突に何を言うか、チャッカマンめ)
「巧くん、環ちゃんに言ったでしょ? そうすればいいんだって思ったの。だから──
巧くんが変わってくれればよかったのに」
「俺になにを期待してんのよ……」
「全部放り出すつもりなの?」
 身体を引き起こして、由美は見下ろしている。
 巧は、まんざら冗談でもないつもりで言った。
「卒業したら……姉ちゃんと二人で、どっか地の果てで寂しく暮らすかね」
「真面目に言ってるの、それ」
 由美は、戸惑った。

 巧は環の事を好きだと言ったのに。また自分は巧に無理をさせるのか。それに、巧が
もし責任感だけでそうするというのなら、許すことは出来ない。
「どのみちこれじゃまともに生きていけない」
「そんなことをして欲しいんじゃない、巧くんに、現実を受け入れて欲しいの!」
「俺は今、弱ってる。信号さえ見えなくなって頼子さんの世話になってる」
「そのことじゃないって」
 久しぶりに頼子が口を挟んだ。
「彼女はね、君に心を開けって言ってるだけよ」
「わかるもんか」
 巧が頼子につっかかると、
「君のショックはよくわかってるわよ、確かに衝撃が強すぎて、目の前の出来事から全
力で逃げ出そうとして、そのせいでおかしくなったのよ。君が逃げ出したのは、君自身
の気持ちを認めたくなかったからでしょう?」
 と頼子はベッドの上でリラックスしたまま、平然としていた。
「自分のしたことなら認めてるじゃん」
「あくまで気がつかないふりをするなら言ってやるわよ」
 今度は由美が巧を引っ張り戻して、言った。
「巧くんは、都ちゃんが好きだったのよ、たぶん都ちゃんよりもずっと前からね」
 
「そんなことは、……ない」

 そんなことはない。由美の言葉を聞いた瞬間には間違いなく言い切れた。
 だが、言うのをためらってしまった。もう一度聞かれたら、自分はどう答えるだろう。
 一時間後に聞かれたら。
 急に得体のしれない恐怖のようなものがこみ上げてきた。
 絶対に認めない。認めたら終わりなのだ。そんな感情はない。
 ないことになっている。実際、ない。
「俺は、できることなら今でも環さんといっしょに生きていきたいんです」
 これは嘘偽りなく本当のことだ。
 好きに未来設計をしてみなさいと、課題でも出されたらあっという間に作成できてし
まうだろう。姉に対してそんなことはできない。
 その不可能さが、血縁的な制約のみに依っているとでもいうのか。
 だが、姉のあの顔を見たときの衝撃を、たぶんそれ抜きでは説明しきれない。
(由美さんは確信してるのか)
 すでに知らないところで由美と会っていた頼子が言っていることなのかもしれない。
「じゃあどうして都ちゃんと寂しく暮らすなんてこと言うの?」
「環さんの顔見てなにか言うなんてもう、できないです」
「弱気ねえ」
 とこれは頼子だ。巧はじろっと睨み、
「顔向け出来ないって、言ってるのっ! それに、マジで姉ちゃんのことは責任取らな
きゃならないでしょ?」

「それをどうして環ちゃんにできないのかなっ」
 奇妙に、いつもの由美のような弾んだ声に巧は引かれた。
「それを由美さんが言うんですか?」
「言うよ? 折角不幸になる人を二人から一人に減らす魔法を使ったのに、ドブに捨て
ようとする人がいるんだもん」
「そんな。使った人だけ幸せになれない悲しい魔法は、駄目です……それじゃ魔法とは
いえない」
「じゃあ、私も引き取ってくれる?」
「くれません。子猫じゃないんだから」
「似たようなもんじゃない」
 と、これは頼子だ。巧はむきになって睨み、
「……もう頼子さん口挟むの禁止。つーか、スワローズのメガホンなんかで言うな」
「なんでよ」
「真面目な話をおもしろおかしくする必要なんて、ありません」
「真面目に話すからいけないのよ」
「うるせぇー!」
「ねえ」
 と由美が頬杖をつき、例の挑戦的な目になって言った。
「もし都ちゃんがドアの外で、今の会話全部聞いてるって言ったらどうする?」
「…………」

 たっぷり30秒ほど固まって、
「……まじで?」
 巧はたっぷり動揺していた。
「ねえ、どんな気分?」
 由美が畳み掛けてくる。
「巧くん、さっき都ちゃんとどうするって言ったっけ?」
 答えずに、巧は立ち上がった。手が震えている。ゆっくりと、熊でもいるみたいに慎
重にドアに近付く。
 開いた。
 微かに街道を走る車の音が聞こえてくる。外の熱気が入ってくるだけで、そこにはな
にも見えなかった。つまり姉はいない。
「…………」
「ごめんねえ〜。都ちゃんと環ちゃんは来るときしっかり巻いてきたから」
「巻いたって……もしかして、失敗してたら二人ともここに……」
「それでもよかったんだけど」
(冗談じゃ……)
 ふらふらと部屋に戻り、
「まあ、飲め」
 と頼子に勧められるのに、逆らう気力もなくし、ばったり仰向けに倒れた。
 由美が覗き込んできた。

「その今の気持ちが、巧くんの本当の気持ち」
「由美さん、こんなときに仕返ししないでください」
「これでチャラにしてあげる」
「そりゃどうも」
 姉と環の代わりを頼子がやっている以外、今だけ少し昔に戻ったような、不思議な日
常感があった。この感慨はなんだろう。
「どっちかが嘘なんて考えちゃダメ」
 言いながら由美は立ち上がって、頼子に、お邪魔しました、と頭を下げた。
「感じたことは全部信じるのよ? 私ね、二人でいるときの巧くんと都ちゃんを見て、
すぐわかったの。この二人の間には家族だけしか作れない絆と、もう一つそれ以上に強
いつながりがあるって。たぶんそれは都ちゃんの思い入れがそれだけ強かったからなん
だろうけど、でもその間に入って行けた環ちゃんって本当にすごいコだったんだなあっ
て思ったのよ。だから──」
 そして玄関に降り、靴をゆっくり履きながら、たぶんとても心配そうに、
「環ちゃんにも会いに行ってあげてね? 巧くんのこと聞いて、一番傷付いてるの環ちゃ
んだから。それと──」
 最後に振り返って、巧を見た。わだかまりは感じられない。
「都ちゃんが好きだって、認めなさい。そしたら巧くんの現実は戻ってくると思うから。
ちなみに、指のサイズは都ちゃんが9号で環ちゃんが10号だからね」
 そう言い残して、由美は出ていった。

 静かになった部屋で、巧は、
「あのー、頼子さん、あの人最後になんかろくでもないこと言いませんでしたか」
「まあ、飲め」
「頼子さんは飲み過ぎです」
「な、私がいてよかったろ?」
「なし崩しに緊張感を壊されて、なんだかいつのまにかわかりあったような気になって
いるだけじゃないですか」
 頼子も他人事ながら、いつも以上に晴れやかな顔をしている。
 決してなにかが解決したわけではない。でも、日常に立ち戻るきっかけのようなもの
はつかめたのかもしれない。巧は、頼子の突き出すビールを受け取って口にしながら、
(合意があればいいってもんじゃない)
 そんな往生際の悪いことを考えていたが、気分はそんなに悪くなかった。
 そのせいで、勧められるままに深酒をし、なにもわからなくなりそうなくらいに酔い
しれた。
 いつこの部屋を出るのか、それにはあまりこだわらないことにしようと巧は思った。
 そのまま、泥のように眠る。
 
 *
 
 そうだからといって、こんなことにそう簡単に順応できるわけではなかった。

 誰の悪戯なのか、それはどうでもいいことだ。
 巧はどこかの綺麗な部屋で目を覚ました。
 ガラス張りのバスルームが視界に入り、布団を重く押さえるもののせいで身体もろく
に動かせなかった。
 姉と環の二人が服のままで両側に寝ている。巧だけが布団の中で、二人はまるで上に
『寝かされている』かのようだ。
 とにかく、ラブホテルの巨大なベッドの上で、三人で横になっていた。
(こ、こんなご対面はいやだ……)
 二人を起こさないようにどうやってベッドから出るか、そのことを必死に考えるが、
無理な話だった。 

 巧が最後に環の顔を見た終業式からもう一ヶ月以上が経とうとしていた。
 ベッドの真ん中に沈み込んだまま、身体にかかる圧力の意味を噛み締める。
 この重みが自分の現実の中核を成している。
 頭を動かして、左右の二人の寝顔を見つめた。
 右手の方にいる都。遠足の前の夜の子供みたいな、無邪気な寝顔に見えた。こういう
顔も巧は今初めて見ていた。柔らかい寝息に乗って、姉の匂いがしている。数えきれな
いくらい何度も嗅いできたそのいい匂いを、これも今初めて、悩ましく愛しく捉えてい
る。
 左手の方にいる環。ずっと自分の外側に仮定されてきた理想の恋人。やっとそれを腕
に抱くことが出来るようになったのに、今目の前にいる環は、涙の跡をそのままに、泣
き疲れて眠った子供のように頼りなく小さかった。
 そしてやっぱり環が好きだと実感した。
 でも、姉の事を今までのように見る事もできない。まだ好きだとはいえないけれど、
いつかそれを口にする日は来るのかもしれない。
 やっぱりまだそこで立ち止まってしまうのだった。
 いいことだとはとても思えなかった。
 二人を見ていると、なんとかしなくちゃいけないという思いに突き動かされそうにな
る。だがこれがよくないということだけはもう学んでいた。焦ったときに自然体になる
のはとても難しい。そういうときには欲望を基準に持ってくれば安定するような気がし
ていた。

 そこから、視界に入るものをゆっくり咀嚼していく。
 案外早く、失ったものを取り戻せるかもしれない。その期待感にもまた心を癒されて
いくはずだから。
 できるだけそっと左手を抜いて、環の身体に触れた。肩の体温を指で確かめながら、
引き寄せてくちづける。
 身じろぎをして、目を覚まそうとする環から言葉を奪おうと、くちづけを深くした。
 息を乱した環が急速に意識を目覚めさせて、巧に応えていいのか戸惑っている間にも
巧は、舌と唇をいっぱいに使って環を刺激していた。
 今はこの愛しい女の子に考えさせてはいけない。彼女の戸惑いをねじ伏せて、自分を
求めてくれるようにひたすら繋がった部分に気持ちを込めていく。
 環は何度も目を見開き、抗い、それでも痺れたように目を緩ませ、やがて涙をこぼし
て、その後は迷わずに巧の動きに応えて舌を絡めてきた。
 自由にしたら環は、自分の言葉に押しつぶされるかもしれない。そんなことは絶対に
許すわけにはいかなかった。感覚だけの世界で相手を許し、いたわる。二人だけで。こ
の世界には姉はいてはいけなかった。環がそれを受け入れてくれたのを巧は感じた。
「環さん、少し離れてもらってていい?」
 巧はなんの心配もなく環にそう『お願い』した。
 その心の動きに感応し、環は動いてくれる。巧は現実の片方が再び自分の目の前に帰っ
てくるのを感じていた。
 
 環が壁沿いに寄せられたソファに身体を沈めると、巧はまだあまり無理の出来ない右
手を、姉を抱き起こすのに使った。
 あの日抱いたときにはできなかったキスで起こしてやるのだ。
 まだ朦朧として、理解する前に舌で応え始めていた都は、巧のぎこちなく動かしてい
る右手のことに気付いて、目を開いた。
 どんなチャンスも逃さないといわんばかりの獰猛さで、都は巧を捕らえ、そのまま覆
い被さろうとする。そんな姉に、もうとても巧は馴染んでいて、改めて動揺することも
なければ、不快感もなかった。
「姉ちゃん、話があるんだ」
 姉の動きを食い止めるのではなく、言葉だけで伝えた。
「だから家に戻って待っててくれる? 俺、今日絶対に家に戻るから。待ってて欲しい
んだ。だから──」
 もう一度自分から軽く唇をつけ、
「心配しないでね」
 姉の手を引いてベッドから降りると、都はそれに逆らわずに続き、そのまま巧の背中
に取り付いた。一度だけ強く両手で抱きしめてくる。それもまた快さを巧の中に残して
いった。
 離れた姉に、
「必ず今日帰すからね?」
 とソファの環が立ち上がりながら語りかける。

 今日の巧の滞りない言葉は今まで以上に環にシンクロし、巧の望みのままに事を運ん
でいる。
 都は環のところに近寄って、立ち上がった環をたぶん初めて抱きしめて、言った。
「大丈夫、ちゃんと待ってるから」
 不思議なやりとりがすべて終わると、都のいなくなった室内で、巧と環は力の限り抱
きしめあった。
 巧の覚えている環より僅かに薄くなったような気のする身体が、腕の中でしなって震
えていた。最後に交わったあのときと同じように環が、自分を求めてくれているのを巧
は知った。
 なら、言葉は絶対に後回しにしたほうがいい。
 協力しようとする環を制して、巧は自分の手で環の服を一枚残らず脱がせていった。
 一枚ごとに環が震え、巧も胸を高鳴らせる。環の身体の綺麗な部分がひとつひとつ明
かされるたびに感触を確かめ、環の表情の変化を窺う。
 そのことごとくに喜びが甦ってくる。
 ちゃんと仲直りするのだ。
 
 *
 
 ひとり旅先に残った由美と別れて、待鳥家のチャイムを鳴らしたとき、環はそこに巧
がいないなんて思いもしなかった。

 帰ると言った明日よりも早く会いに行けば、多少由美の思惑と違う部分があってもな
んとか絆を保っていられそうな気がしていた。
 だから、玄関で応対してきた都の異常な姿に、血の気が引いた。
 全部わかる。巧と都のやったこと、都の身体の状態、そして、巧の心に起こったこと。
 反射的に行き先を聞き、わからないと知ると、逃げるように市街へ出て行った。
 いや、逃げたのだと思う。
 八月に入ってしまってから、頼子からはるかに連絡が入った。
 看護師の高野の事は環も覚えていた。
 その高野頼子からはるかを通して情報が伝わったのは、はるかの仲のよいクラスメイ
トに頼子の妹、高野郁美という少女がいたからだった。
「お兄ちゃんかわいそう……」
 最初にそう言って、泣きそうなはるかの口から巧のことを聞かされた。
 胸が張り裂けそうになった。
 
「巧くんに振られるんだと思って、とっても辛かったの」
 押し寄せてくる感情に流されて泣きじゃくりながら、こんなときに環は巧の背が少し
伸びたことに気付いた。
 環は少しだけ顔をあげて、訴え続けた。

「でもそれ以上に自分のしたことで巧くんを傷つけちゃって、もうどうしようもないと
思って、それでも会わなきゃいけないと思って、最後に電話した夜、その日のうちに私、
巧くんのところに行ったのよ? でも巧くんはいなくて、都に会って──そのために一
芝居打ったのに、都を見て、すごく胸が痛かったの。悲しかったの。自分はなにしてる
んだろう、なにしたんだろう、って巧くんを探しまわりながらずっとぐるぐる考えてた。
どんなに探しても見つからないし、もう二度と会えないんじゃないかって本当に怖かっ
た。怖かったの──巧くんを、取り返しのつかないことにしちゃった」
 環は、今までに巧からもらった言葉ひとつひとつをなぞり、そしてそのひとつずつに
心の中で謝ってきた。
 巧ぐらいの年の男の子の純粋さは言い換えれば単純さということでもある。
 それはもう、泣けるほど簡単に振り回すことの出来る、愚鈍で、単純すぎる存在だっ
た。でも、いかに巧が未熟だったからといって、自分達の目的を遂げるために巧の気持
ちを弄んだという罪は消えず、巧も元には戻らない。
 だから巧を失うことを覚悟していた。
 それなのに、目が覚めたとき、巧は環をただ求めてきただけなのだった。
 環の目を覚まさせるために巧が選んだ方法はくちづけだったのだ。
 だから嬉しい。
 本当に嬉しい、許してくれてその上キスしてくれて、もう、他に生きる理由がなくなっ
てしまいそうなくらいに。

「だからね、私は巧くんの言う通りにする。それでも気が済まないかもしれないけど、
全部私に押し付けて欲しいの。巧くんが別れて欲しいなら別れる。顔も見たくないなら
いなくなってあげるから、だから、……でも、……いやだよ、巧くん、いなくならない
で! 巧くんがいないともうだめなの! お願いだから……」
「環さんは約束通り戻ってきてくれたんでしょ?」
 巧が静かにそう言った。
 その言葉だけでなかったことにしてくれようとしている。
「環さん、約束してくれる? 無理に自分達の将来の事、約束しようとしないこと。由
美さんも含めて、隠し事をしないこと。この二つだけでいいから、約束して」
「うん……、うんっ」
 環は巧のシャツの胸のところをくしゃくしゃにしながら、闇雲に頷いた。
 その一方で、巧の身に起こっている異常が未だに頭から離れず、環の心の芯には恐怖
が残っている。
「その上で俺、環さんを今すぐ抱きたいです。時間が少ししかないから、今はちょっと
だけでいいから。姉ちゃんが待ってるから、今日は帰らないといけないし、だから、あ
さって、夏休み最後の日、一日全部俺にください」
「わかった……」
「白黒の環さんも悪くないな。完全に白黒になっちゃうことって滅多にないらしいけど、
でもなんかきっかけみたいなものはつかんだから、もう大丈夫ですよ」
 その一言に、ついに環の感情は抑えきれず溢れだした。
 情熱の全てを使って巧に応じたいのに、巧の意向で自分で脱ぐことができなくて、狂
いそうにもどかしい。

 一枚ずつ、丁寧に脱がされていった。
 一枚剥がされるたび、あらわになった部分に愛撫を受けた。巧も緊張しているのだと
思う。同時に今でも大切にされているという実感に涙が出た。一生かかっても償いきれ
ない債務超過の肉体を、惜しみなく与える。
 最後の一枚が身体を離れるとき、一本の糸がそこに引かれ、巧がその根元に指を這わ
せるのを、上半身をよじって耐えた。
 もう、にちゃりと音が出た。
「巧くん……!」
 早くも訴えて、ベッドの縁に手をかけて巧にお尻を向けた。恥もなにもなかった。巧
の虜になっている自分を見せることで、喜ばせてやりたいとさえ思っている。
 そんな自分を環は知らなかった。
 こんなときにもちゃんとゴムを使って、巧は激しく環の中に押し入ってきた。
 今日は確か大丈夫なはずだったが、そんな失礼なことは巧に言えない。雑念にエネル
ギーを使いたくなかった。
 恋しくて恋しくてしかたがなかったものに中をいっぱいにされ、環は狂乱した。
 罪悪感の混じった灼熱の快楽に身体を躍らせて、巧の動かすのに合わせて懸命に腰を
振った。
(この愛しさがすべて、巧くんに届きますように)
 巧を悦ばせられたことを願いながら、絶頂を迎えた。
 真っ白になりながら、巧をおいてきぼりにしないよう、狂おしく締め上げていく。

 やがて巧の激しい動きが頂点に達し、その力の抜けた全身を受け止めたときに、もう
一度嬉しさに泣いた。
「家政夫代の代わりにここの料金、おごりだって」
「あんだけこき使っておいてラブホ一泊でチャラにする気か……」
 最後に交わした会話がそんな他愛ないものだったので、環はさらにもう一度泣きそう
になった。
 
 *
 
 巧がお昼にならないうちに戻ってきたとき、都はすでに『準備』を終えて待っていた。
 何を求められても平気なように、万事怠りがなかった。
 巧がなにかにつけこういうことに顔をしかめるのが都には心外だったが、自分が冷静
だとも信じていなかったので、比較的気楽に行なって、巧の帰りを待ちわびていた。
 午前中のうちに、はるかは今年最後の海だと言って大勢で出掛けていた。
 つまり今日もまたちゃんと二人きりになれる。
 ただ、巧に引かれるのは悲しいので、さりげないそぶりに徹していた。
 決まり悪そうに自宅の玄関に止まる巧を、背中を押してとりあえずリビングまで押し
込んだ。
 早く部屋まで追い込みたいが、今日は久しぶりの日常のふれあいもちゃんと実感して
みたい。都は、ほとんど恋人のような気分でいたけれど、巧がはっきりと自分の気持ち
を認めているわけではないことも知っていた。
 
 クーラーを聞かせたリビングで、いつも通りの紅茶をいれて、静かに過ごしていた。
 初めてのこそばゆい時間を体験していた。
 つまりお互いに相手の挙動を意識して、牽制しているような期待しているような、ま
るで異性を意識しはじめた中学生のようなぎこちない時間を送っていたのだ。
 間を持たせようと都がいれる紅茶が三杯目になったとき、
「姉ちゃんもたまにはゲームやんない?」
 と巧が助け舟にならないことを言って、
「興味ないから」
 と却下する段になって、ついに都はしびれを切らした。
 ティーカップを投げつけようとして思いとどまり、手元にあったクッションを投げつ
けると、顔面に浴びてそれを取り除こうとする巧の死角から、いきなり接近してソファ
の上に弟を押し倒した。
「いつになったら押し倒してくれるの?」
 なりふり構わない言葉を叩きつける。
「あのな……、これでも心の準備ってもんが必要なの」
「早く済ませて」
 都としては、巧に最初に告白したときから恥なんてないも同然なのであり、巧の往生
際の悪さは見苦しいばかりだ。
「大体、家で待ってろって言っただけじゃん」

 などと巧が言うので、頭に来てTシャツを引っ張ると、派手な音を立ててそれは見事
に裂けてしまった。
 予想外のことだったが、はだけた巧の上体を見て、都は理性を飛ばしてしまっていた。
はっきり自覚できるくらいに欲情してしまった心と身体が、巧に見えていないはずがな
い。あえて手を出さず、身体を押しつけていく。そんなことを都はすでに覚えていた。
 巧を誑かすためならどんなことでもできる。
「なにされても大丈夫にしてあるから」
 と、くるりと背中を向けて、そのまま身体の背面で巧の身体を押しつけた。
 すでに硬くなりきっている巧のものをお尻の下に感じ、情欲に身体をしびれさせなが
ら息を乱していく。ここからは欲望が勝手に身体を動かしてくれる。
「姉ちゃん……」
 巧が息を荒くしながらも、押し止めてきて、
「まだ気持ちがはっきりしているわけじゃないんだ。姉ちゃんのこと好きかどうかまだ
はっきりわからないんだから、待ってよ」
 その困っている様がまた、都の欲望を刺激しているのを巧は知らないだろう。
「でも、姉ちゃんを抱きたいっていう欲望はまちがいなく自分の中にあるんだ……、だっ
て、実際姉ちゃんはエロイんだもん。そりゃヤリたいって思うよ、健康な男だもん。身
内の女が心底エロくていい身体してたら、誰でもちょっとぐらいは思うでしょ、身内じゃ
なかったらなあって」

 巧の方もあからさまな言い方をわざとしているのに都は気付いて、更に身を焦がして
いた。まるで、巧を求めて、肌が自ら巧にすりよっていくようだ。だが、巧を犯したい
のではない。早く、巧に犯されたいのだ。
 巧のやっている『心の準備』と都の身体の動きが二人を交互に追い込んで、
「本当に好きかどうか、わからないんだ。でもヤリたいんだ。それだけでもいいなら、
姉ちゃんに受け入れて欲しい。姉ちゃんと一つになりたいんだ。先の事はわからないけ
ど、自分の気持ちとか、変わってしまうかもしれないけど、今は姉ちゃんが欲しい。そ
れでいい?」
「うん、……いい」
 もう脱がないと汚れてしまうと思い、都はジーンズを下ろした。それをきっかけに巧
が都の上になり、クーラーの冷気にひんやりとさらされた下半身を押し拡げられていっ
た。拡げられるときのその高揚感が都を快楽の熱の中に取り込んでいった。
 吐息が抑えられなくなり、下着が股間に張り付いて限界を訴える。巧がそれに気付い
て、下着の上から擦ってきた。
 強い快感がビリビリと身体を駆け上がる。背中を捻って堪えた。そのうねらせた身体
に合わせて下着を引き抜かれた。
 下ろされていく下着と弟の手が、太腿から脛にも快感を走らせる。
 都が身体を動かすたびに身につけたものが剥ぎ取られ、股間からは抑えようもなく愛
液が溢れていく。ソファが汚れてしまいそうで気にしていると、巧が破れてだめになっ
たTシャツを都の腰の下にあてがうのが見えて、遠慮なく快感に身をゆだねた。

 巧の行為にも遠慮がなくなった。後ろから絶え間なく胸を揉みしだかれ、入れられな
いまでも肉棒をお尻の谷間にこすり付けられている。
 男性的欲求が自分をどのように求めているのかはわからなくても、欲望の対象にされ
ているのがたまらなく嬉しい。自分と弟は今まちがいなく裸の女と男なのだ。
 気付いたときには巧も完全に裸だった。
 ここはリビングだ。見られれば完全に言い訳はきかない。
 巧が背中を吸い始めてきた。これだけはどうしようもない。たちまちどろどろに狂わ
され、めちゃくちゃに掴んだソファの背もたれを剥がしそうになる。
 そして、それに合わせるように巧の指がアヌスを刺激し始めた。
 初めてのときにやったっきりだから、やはり怖い。セックスそのものがまだ慣れない
のと、あの後、とてつもない苦痛を味わったことが身体を怖がらせている。
 それでも、一度やっていることだし、ナンセンスではあるけど巧が彼女の純潔に愛情
表現を重ね合わせているのを感じているから、そこでの交わりにすすんで応じていく。
 穴が十分に拡げられるころには早く入れて欲しくてしかたがなくなっていた。
 巧もゆっくりしていられる状態ではなかったのだろう。すぐに突き入れられてきて、
熱い塊が都の中をいっぱいにしてきた。
 午前中に環と交わって、環を喜ばせてきたに違いないその肉棒の動きは意地悪だった。
 都はだんだんと前と同じ快感と動きを思い出してきて、巧が同じように思い出してく
れるのを感じ、嬉しくて自分からお尻を押しつけるのだが、不安定なソファの上で、まっ
たく快感が得られなかったり、かと思えば強烈に弾けさせられたりと、まるで千鳥足の
酔っ払いのように少しずつ快楽の階段を昇っていった。

 どうせ行為の後には激しい痛みが待っているのだ。もっともっと狂わせて欲しい。
 ついに、はしたなく口に出した。
「もっと、もっと突いて! かきまぜて、イカせてっ、めちゃくちゃにしていいから…
…ッ!!」
 それが巧にどのような刺激となるのかもわからなくなっていた都は、すでに荒れ狂う
絶頂を味わってのたうちまわっていた。
 巧のくれる最高の贈り物を、身体の奥底にこそ欲しいと懇願し、それを果されてまた
意識を弾けさせた。体内でまき散らされた弟の精液は、この後、穴からこぼれ落ちて、
もう一度都を震わせることになる。それまで、弟と身体を密着させて、最後の最後まで
一体感に酔った。
 巧が身体の汗や体液を拭ってくれて、二人で裸のままソファにもたれているとき、都
は、巧に聞いてみたかった質問をした。
「巧、環とするのってどんなふうに気持ちいいの? 私は?」
 そのときの巧の顔がとてもおかしくて、都は夜までそれを引きずった。
 
「普通にはしてくれないのね」
「姉ちゃんが好きだって確信が持てたら、したいと思う……やらせてくれるならだけど」
 セックスについてそんなことを言った。
 もうひとつ、額の二つ目の傷の話をした。
 都は初めて巧につけたあのブーメランの傷をとても気にしていて、それ以来巧をうま
く叱れなくて悩んでいたことがあった。

 これを自分は覚えていたのに巧が覚えていなかったので、頭には来たけれど、これが
会心の一撃になったのだった。
「巧はファーストキスはいつだったか覚えてるの?」
「いきなり、なんだよ、いいけどさ、中二の夏休み前だったっけ。休み時間で英語の先
生に、隙だらけだったから思わず悪戯したくなって、ちゅーって」
「じゃあ、完全に忘れちゃってるのね」
「えっ……」
 巧はほとんど悪夢を見ているような顔で都の話を聞いた。
 つまり。
 子供の頃、先にキスしたのは巧だった。
 巧のファーストキスの相手は都なのであり、このときの諍いで、ファーストキスを巧
に奪われたことでキレた都が巧を本気でぶん殴った、それで巧がソファの肘置きで頭を
強打した結果が二つ目の傷だったのだ。このときも額が割れて大変な騒ぎになった。
 このことで吹っ切れた都はことあるごとに平気で巧を殴るようになった。
 ただ、最初の二つの傷以外で巧が顔に傷をつくることはなくなった。
「ちょっと…………ひとりにしてもらっていい?」
 巧がよろよろと自室に引き上げるのを見送ってから、都は急いでリビングの証拠隠滅
を計り、それから傷の秘密を今の今まで隠しておいた自分に拍手を送った。
 この夜、都は一晩中泣いた。

 嬉しくて、嬉しくて、都は報われて、この日のことを思い出すだけで生きていくこと
ができると思って泣き続けた。
 巧を困らせてやりたくて、嫌がらせに巧のベッドに潜り込んでいた日々の最後に、そ
れなのに求められて、あのときは本当に嬉しかった。
 初めて抱かれて、これで巧がいなくなっても大丈夫だと思ったけれど、今、さらに巧
が歩み寄ってきてくれて、本当の意味で巧のものになれたのが嬉しかった。
 ようやく人生に意味を得たのだと思う。
 
 *
 
 巧はほとんど諦めつつあった。
(簡単に認めちゃったら、今までの俺はどうなるんだ)
 そう思って必死に守ってきた心の拠り所はことごとく粉砕されていた。
 白黒の世界から脱出して生まれ変わるために、すべてが必要なことだったとしたら、
今の自分が本質なんだと思う。
 二人を順に抱きながら、その感触を通して現実感を噛み締めようと、懸命に二人の身
体に溺れた。正確に確実に慈しんで、言葉と身体を使い、心に本当の事を思い出させて
いくのだ。近いうちに自分は元の世界に戻れるだろう。
 自分は姉の本当の魅力を知ってしまった。
 人生には決定的な分岐点といえるものが必ずあって、それがその人の人生のいつどん
なときにあるのか、それは人によってまちまちであると同時に、その結果は人生に大き
な影響を及ぼすのだという。

 そういう意味で姉が一生に一度の恋をしているのは疑いがなかった。
 至福のみを追い求めるその姿は実際美しかった。
 その至福を得る最大の機会に都は弟を相手に選び、由美は女の子を選んでしまった。
とても難しい選択の中で、自分が至福を得るためには相手の至福を奪わなければならな
いことに由美は絶望した。
 そのあとの事は本当に一本の道なき道だった。
 でも、全部終わった。終わってしまった。
 確かに、由美のやったことによってしか、自分達三人がみな幸せになる方法はなかっ
たのかもしれない。その極めて分かりにくい道を案内し終わった今、由美は静かに離れ
ていこうとしている。
(由美さんはどうするの?)
 それだけが、染みのように心に残っている。
 今は、巧にはどうしようもなかった。おそらく姉にも、環にも。
 だから、忘れないように心にしまっておく。
 自宅にようやく帰った夜。
 ファーストキスを巡る衝撃の新事実にくらくらしながらも、巧の頭から離れないのは、
セックスする場所と機会の安定供給という微笑ましい問題だった。
 とりあえずあさっての環とのデートをどうするのか、思いをはせた。
 ふと気がついたときは、世界は、いつもの世界になっていた。 

 毎学期、始業式の日には席替えが行なわれる。
 やっと一学期の困った配置から逃れて、今度はどこか隅っこの方になってくれないか
と思っていたのだが、
「またおまえかよ……」
 右に残間清美がいた。
「神様があきらめるなって言ってるのかもね」
 馬鹿みたいに屈託のない笑顔が少し挑戦的だ。
 よく見ると、さらに右に大橋守がいて、巧の方を見て肩をすくめた。
「……」
 真夏と変わらぬ酷い残暑の中で、なにも言う気になれない。
 クラスの誰もが夏休みの巧のことを知らない。知られても困るが、もうちょっといた
わって欲しいと思う。清美は、頭に来るくらい健康的に日焼けをしていて、少しまぶし
かった。
 始業式の前後の担任吉見の話を聞き飛ばし、巧は久しぶりに参加するサッカー部のミー
ティングのことを考えていた。
 朝一で部長の遠山から、システムが変わるということを聞いていたからだ。
 ポジションごとに専門職を置くため、このシステムの変更がレギュラーのポジション
争いに影響を与えることが多々ある。

(わざわざ俺のとこにまで来るなんて、まめだね)
 進学組ではない遠山は、他の一部の三年生とともに冬の選手権予選にも出場する。イ
ンターハイ予選の好成績に味をしめたのか、今年の三年はあきらめが悪い。
 普通新チームへの移行は早い方がいいのだが、巧としては補欠に甘んじ、出番は後に
してもらった方がありがたい。何故なら、このまま順調にいけば春からは姉も環も都心
に出て、気楽に会えなくなるからだ。今はむしろそっちに時間を割きたいと思っている。
 それなのに巧はレギュラー組のリベロを言い渡された。
「しかもシステムを4−5−1にしておいてリベロってなんの冗談ですか」
 だいたい自分はサイドアタッカーなのに。そもそもリベロというのは、ディフェンダー
なのにボールを持ったらディフェンスを放棄するのが仕事という難易度の高い(イカレ
た)ポジションであり、素人がやるとたちまち愉快なことになる。それに、普通ゴツイ
人がやるものだ。
「トップリベロでもいいぞ。おまえに任せる」
 それにしたって、フォワードなのに守備になったらセンターバック並みに守備をしな
きゃならない。イカレ具合はどっちもどっちだ。
「俺、ホケツがいいナー」
「夏合宿ぶっちぎったお前に選択の余地はねえ」
「個人依存のシステムはよしたほうが……」
「大丈夫、代わりはいないから」
 意味不明だ。

 ミーティングは、なぜかいつのまにか三年と巧だけになっていて、マニアじみたシス
テム談義に巻き込まれ、
(環さんの水着姿一度も見れなかったなー)
 などとぼんやりするたびに突っ込まれ、ミーティングは次第に巧をいじめる集会のよ
うになってきた。よってたかってレギュラー陣に叩かれる。
「足だけは異常に速いんだけどな」
「待鳥のオーヴァーラップって変だよなあ」
「変って、フェイントとか全部だよっ、練習でもさ、守っててすげー守り辛いの」
 つまり先輩達が言うには、誰もついていけないところに走るし、パスを出すし、得体
のしれない謎の動きをするので味方が誰も反応できなくて、結局孤立して攻撃の形を崩
してしまうのだが、
「あれにがんばって合わせようとみんなやってたじゃん、あれがよかったんだよな」
「なにがなにやら」
「待鳥のとこに大川入れただろ? そしたら、待鳥で酷いボールに慣れてるからちょっ
と失敗気味のパスとかでも綺麗に繋がるようになってさ、面白いように勝てるようになっ
たのよ。そんでだんだん大川のペースに慣れてきたらヘタレちゃって、そこで敗退」
「…………俺って噛ませ犬?」
「評価してるんだって」
 遠山がそう言ったように、巧の感覚をベースに組み立てていくつもりなのか、

「おまえの動きは特別にサイドアタック向きの動きってわけじゃなくてさ、相手に予測
させない起点の部分でこそ活きると思ってるんだけど?」
(そりゃまあ、はるかや姉ちゃんの意表をつくためなら、どんな技でもマスターしてき
ましたよ、ええ)
 そんなものを当てにされるのも微妙だ。サッカーってなんだろう、と考え込んでしま
いそうだ。
 そんな間にも(水着見たいなあ……)と思っている。
「だからってボランチとかトップ下できるほどテクないしな、こいつは」
(気にしてるのに……)
 というか、テクニックのない選手を起点にするのはどうかと思う。だから、
「そんなやり方で、ちゃんとしたとこに勝てるとは思えないけどなー」
 とあくまで正論をかざしてみる。
「そういう真っ当な意見を言うやつがああいうプレイをするのが理解できねえ……」
「ていうかさ、強くなるより、俺ら面白きゃいいんよ」
「おまえだけ倍練習して上手くなれば、面白いついでに勝てる!」
「点なんてなにかのはずみで入るんだからな」
 そうだ、もともとそういうところのあるサッカー部だ。つい気が弛んでしまって、
「水着……」
「あ?!」
(やべ、口に出ちった……)
 と思ったときには全員に睨まれ、

「そういや、こいつ外岡とつきあってるんだっけ?」
「いや、今はそうじゃなくって……」
「いい思いしたらそのぶん、働くべきだよなぁ」
「俺達の中に何人未体験がいるか知ってて言ってるんだろうな……」
 未体験という言い方がもうすでにテンパッている。
 巧はなすすべなく突っ伏した。
 全員が知っているのは、やっぱりどうかと思う。
 
 §
 
「というわけで、僕はサッカーに青春を捧げることになりました」
「誰が僕よ」
「姉ちゃんのかわいい弟」
 声もなく都が俯いた。藪蛇だ。どんな顔をしていることか。
「今日はもうお勤め終了だから、帰ろ?」
「うん」
 姉のはっきり楽しそうな顔をまぶしく眺め、前と少し違った気持ちで、連れ立って帰っ
て行く。歩くときの距離が近くなった。
 巧はまだ、本当に自分は折れてもよかったのか、考えている部分がある。
 二学期は何事もなかったように静かに始まり、その初日は巧と都は二人だけで帰った。


 しばらく、環とも姉ともなにもなく、学校中が文化祭の準備に入った頃、久しぶりに
環と二人きりになる機会を得た。
「で、そんなに水着が見たいの?」
「そういうふうに言われるとマニアみたいでやだ……」
「巧くんがマニアになったら私もいやだけど」
 と環は笑い、
「私も、巧くんと海行きたかったな……」
 巧は、もたれかかってくる環を狂おしく抱きしめた。その日、環の水着姿を披露して
もらったのだが、
「家の中で見てなにが嬉しいんだよ、嬉しいけど」
 と言いながら、(海で見たら絶対、勃つよな……)と思って、複雑な気分になった。
その立ち姿があまりに綺麗で艶かしくて、それを他人に見せたくないと思う。
(姉ちゃんにも同じことを感じるんだろうか)
 今ならそうなのかもしれない。
 その後その格好のまま風呂に入って、やたらと盛り上がってしまったせいで、環の中
では巧は水着フェチということになった。
「そういえば、巧くん、最近都がやたらもててるの、知ってる?」
 繋がったままで、姉の話をしている。とても不思議な時間。
「前からもててはいたような」
「誰かさんのおかげで都、明るくなったでしょ」

「なんか、もともとああいう人だったような気がするなあ。表に出せるようになってき
たっていうかね、いいことなんだろうけど」
「そうなんだ。クールが売りだったのに、すっかりイメージチェンジしたせいで新しい
ファンがついてんのよね。それと由美がね」
「由美さんが?」
「また普通に遊んでくれるようになった」
 環は心底嬉しそうに笑った。
 だから巧は、あえてそれを腰を突いて崩してみた。
「や、あ……巧くん、ん……まだ由美のこと根に持ってるのね」
「全然。ていうか、むしろ環さんが」
「私、本当はなにもしてないのにな」
「それは、実は気付いてた」
 巧は、頼子の部屋で由美の涙を見たときに、そう思った。でなければ、今も根に持っ
ていたかもしれないが、由美自身の事については問題ではなかった。
「キスくらいはあったと思ってるけどね」
「否定しないけどっ」
 環はそれ以上は行動で、とばかりに両足を巧の腰に巻き付けていく。
 そこからの時間は、また以前のように他人の介在できない二人だけの世界となる。
 巧にはそれが一番嬉しい。

 §
 
 文化祭直前のある日、巧と都達は首を揃えてある下駄箱の前にいた。
 二年と三年の下駄箱の間にある誰も使っていない何列かの『空き地』に、『ごめんな
さいボックス』と呼ばれるところがある。
 男子用と女子用の二つ。無地のブルーとピンクの紙が入れてあってよくわかる。教師
の間でも黙認されているらしく、それはずっとそこにあった。
 都は毎日のようにそこに通う。もらって開封したラブレターをそこに返すのだ。使用
中の場合はその下に、悪意ある悪戯をするものは少なく、淡々と利用されているらしい。
無関係の人間が見るのはマナー違反だ。
 都はもう専用に近い箱の一つを開き、ばさっと今回分を載せる。
「中学の時と同じなんだよね、これって」
 由美が普通に話し掛ける。中学では人を介して行なわれていたこの風習が、奇妙にシ
ステマチックなのがおかしい。
「こういう定着する習慣って面白いよね〜」
 巧は下駄箱の蓋をじっと眺める。もし自分が姉に対する気持ちを認めるなら、やはり
自分から告白するべきだろうと思っていた。まだ認めてはいない。
(どうせ毎日顔突き合わせてるんだから、あえてこういうラブレターみたいなのも、い
いのかもね)
 ふと、姉の視線を感じて思考を振り払う。

 考えたことがばれてやしないか、ドキッとした。
 
 それでも、普段巧達のうち誰かしら都のそばにいるせいで、直接都を呼び出す勇気の
ある者は少なかった。いたとしても、屋上に呼ばれて、
「私、好きな人がいますから」
 と都に頭を下げられたら、涙をのんで引き下がるのみだ。
 巧は環と連れ立ってこっそりそれを立ち聞きしたりしたが、そういう時の姉の目には
まるで曇りがなく、誇りのようなものさえ感じられた。
 たまに、食い下がる者がいる。
「その好きな人って誰? 教えてくれないとあきらめきれないよ」
 本当に真剣な、そういう訴えかけにも、都は毅然と受け答えをした。
「私自身の気持ちの問題だから。あの人には一切迷惑をかけられません」
 それでも引き下がらない者の中に、実力に訴えようとする者があった。
 都がそのとき手のひらではなく拳を用いたのには、覗き三人組も驚いて顔を見合わせ
てしまった。巧は姉の存在を感じないわけにはいかなくなってきていた。
 それでも。
 やはり不自然なのだ。
 一対二の関係もそうだし、姉弟ということもそうだ。
 目の前の姉の鉄壁ぶりを見るにつけ、その心を大きく動かす誰かの出現を願わずにい
られない。だが姉の目はすべての男をはねつけてはばからない。


 文化祭の当日になり、巧はサッカー部の催しにかり出され、なぜか園芸部を手伝わさ
れ、ろくに遊べないままにもう夕方になろうという頃、何人かの男につきまとわれてい
る都と由美に出会う。
 その時にさえ、巧が割って入る間もなく都は他校生らしきその男達を鮮やかに撃退し
た。
(あ、すげえ……、俺も食らったことないぞ、あーいうのは)
 一人を殴り、もう一人がその腕を掴むと、即座に頭突き。さらに反対の男に蹴り。
 いわゆるお約束の「このアマ!」が出ないうちに巧は連れていたサッカー部員といっ
しょに間に入ったが、なにもさせてもらえないのもなんだか寂しいと思った。
 サッカー部で三年生のいじめに耐えながら日々を過ごしていると、相対的に環より姉
と過ごす時間の方が多くなり、そういう機会も増えることになった。
 休日にはできるだけ環と過ごし、普段は、練習に疲れて寝ていると潜り込んでくる姉
を、腕の中に入れて眠る。朝ははるかに見つからないよう、早いうちに起き出す姉が起
こしてくれる。
 姉は露骨に求めてくることはなかった。
(気を遣うことをおぼえてくれてなによりだ)
 実際には、姉は今はそういう安らぎを求めているだけなのかもしれない。
(でも俺は辛いんですけど……)
 姉の身体に対する思い入れが強くなる。
 腕の中の姉は性急さの消えた自然な柔らかさを巧に伝えてくる。

 幸せになって欲しいという気持ちが第三者的なものかどうかはまだわからない。
 
 §
 
 中間試験の直後に、体育祭が行なわれる。
 もともと足だけが取り柄だった巧は期待されていて、当然のように短距離走とリレー
にノミネートされてしまった。出場組は巧と環で、都と由美は応援組だ。
 一年の間ではクラス単位の大掛かりな賭けが組まれていて、優勝したクラスは他のク
ラス全体からファミレスをおごってもらえることになっていた。
 運動部員を多く抱える一組が言い出したのだが、ギャンブル好きが多かった五組と六
組、こちらもメンバーに自信の三組、これらのクラスが乗ると、即決した。
 巧達は六組だ。
「だから、な」
「な、じゃねえ……」
 巧は七種目に出場する羽目になっていた。環たちにウケた。
「私たちがマネージャーしてあげる」
 受験モードでやる気のない自分達のクラスそっちのけで、都と由美、出場種目のない
ときは環も。
「なんか間違ってると思わねえ?」
 羨ましげに不平を言うクラスメイトに、

「七つも出しといて勝手言ってんじゃねえ!」
 と、このときばかりは巧は姉達をそばに置いておくことに躊躇しなかった。
(誰かバイト代払え……)
 その憤懣をそのままぶつけて最初の百メートルを軽くこなしてくると、次は男子リ
レー。障害物と二百を終わらせて戻ると、もうふらふらになった。さすがにこのところ
の部活でのしごきでスタミナがついているのだが、きついものはきつい。
 昼はみんなで持ち寄った弁当を死ぬほど食べさせられ、そしてクラスメイトに特等席
を用意させてそこに環と陣取った。
「百とリレー取ったからもういいだろ、午後は誰か代わってくれ」
「馬鹿か、おまえは。トップの可能性がでてきたんだ、全部走り通せ」
 クラスの女子までが『ファミレス』に目を血走らせて、
「待鳥くん、パンチラでもなんでもしたげるから、がんばるのよっ!」
 完全に尋常じゃない。
 全七組の全員で持ち寄った一人千円の資金を考えると、クラス全員が好きなものを好
きなだけ食えることは疑いなく、みな必死だ。
(パンチラ、別に見たくないし)
「がんばんなきゃよかった……環さん、なんかご褒美くれる?」
「都と二人でサンドイッチしてあげようか」
「…………いらない」
「ちょっと間があったけど?」
 環はにっこりと笑う。
「い・ら・な・い」
「待鳥くん、赤くなってるよ」
 横から突かれると、
「残間、うるさい」
 午後一の混合リレーで彼女からバトンを受ける。そのすらっとした体操服姿を見てい
ても、やっぱり陸上部かなにかが似合うと思うのだが、文化祭で熱く(なぜか)盆栽を
語っていた表情は本物のようで、巧同様あくまでイベントとしてこの体育祭を楽しんで
いる。
 巧が三位で受けたバトンを二位で完走し、六組はじりじりと順位をあげた。
 そして、最後の騎馬戦を除けば最大の難関といえる四百メートルに挑む。
 
 巧が走り出したとき、都はそれまでの競技と同様、まばたきを忘れて巧の姿に見入っ
ていた。
 巧は昔から足だけは速く、それだけで子供の頃というのはもてるものだから、当然運
動会などでは人気者だったのだが、いかんせん天の邪鬼だった。
 巧のこういう姿をちゃんと見るのは初めてといってよかった。
 都は本当に、普段のたちの悪い悪戯ばかりする巧とはまるで違った真摯な顔を見せる
巧の姿に溺れていた。躍動する姿は美しくさえある。
 本職の陸上部には届かず、これも二位に終わるが、そんなことはどうでもよかった。

 都は泣いていた。
「巧が……好き……大好きなの……」
 本当に巧がかっこいいと思う。かっこよくて、優しくて、どうしようもなく愛おしい。
 横でいっしょに応援していた環に気付かれ、抱き寄せられる。
 溢れるものがまるで止められなくて、都は吐き出し続けた。
「こんなに好きで堪らなくて、もうどうしようもないと思ってたのに、あの子が受け入
れてくれて、嬉しいの、本当に嬉しいの……受け入れてくれるなんて、欲しがってくれ
るなんて……もう、どうにかなってしまいそうなの」
 よしよし、と撫でてくる環のことにも気持ちは広がっていく。
「環、ごめんね、環、私、どうしてももう、やめられないの、あの子がいないともう生
きていけない……」
「わかってるって」
 環は、涙のまったく止まらない都と、反対側に来ていた由美の頭を押さえ、戻ってく
る巧にかける言葉を自分自身失っていた。
 言葉で伝えられるような気持ちではないのだと思う。使える言葉などもうとっくに使っ
てしまっているのだ。
 
「さて、コンスタントに点数を稼いだわが六組は、騎馬戦で一組より上にくれば優勝!」
「んなことはどうでもいいから、酸素くれ、酸素」

 盛り上がっている横で、女子が持ってきたボンベに飛びついてようやく一息つきなが
ら、巧はその騎馬戦にも出ることを思い出した。
「待鳥は上でいいぞ」
「戦闘中は上の方が疲れるんだっての」
 もううんざりという顔をする巧に、
「しばらく後ろに隠れて回復してていいんじゃない?」
 由美がうちわをぱたぱた振りながら、巧を労う。
 実は、由美が作戦に口を挟み、その作戦の出来のよさでクラスの主力陣を唸らせてい
て、さかんに打ち合わせをしていた。食い放題がかかっている。
 トラックを含む広いエリアが空けられ、ほぼ男子の全員が出場する騎馬戦が始まった。
 とにかくこれで解放されるのだと、巧はそれだけしか考えていなかった。
 どこから持って来たのか、怪しげな戦意高揚音楽が大音量で流れ、アナウンスに合わ
せて全部隊が全学年奇数組と同偶数組にさっと分かれ、紅白の鉢巻を巻く。
(いいからはよ終われ、まじで)
 ふと目に入った環にいいかげんに手を振って、巧の乗った馬は、最後尾についていた。 

 巧は都の視線に気付いていた。
 むしろその意識が結果につながっていたと言えるかもしれない。
 最も苦しい四百を、都のために走ったと言ってもよかった。
 だから、走った後は姉の顔が見られなかった。勝てなかった悔しさと、姉を意識して
しまった恥ずかしさと環に対する後ろめたさ。騎馬戦の準備にそのまま取り組んだ。
 酸素補給はクラスの女子に頼み、由美の話を聞いていた。
 毎年行なわれるため上級生ほど有利ではあるが、所詮素人の寄せ集まりである。そこ
までするかと思うくらいに綿密に準備を行なうことでかなり力の差が出てくる。
 馬の意志統一、編隊行動、全体行動それぞれの連係がモノを言うのである。
 そこで、馬の移動は携帯のナンバープレートの5を中心に見立ててやれば、相対方向
を迅速に確実に上の人間が指示できるので、やること。下の三人は全方位に気を配りな
がら、敵の接近を上に伝える。その馬を必ず三騎一組で動かして、敵を数的優位から各
個撃破する。その三騎編隊をさらに一つの部隊に見立て、相互に連係する。この連絡役
をする馬を一騎用意する。都合十騎を一組にして、できるだけ、優勢な敵には近付かな
い。近くの味方と連係してから対応する。
 学年を超えて奇数クラスと偶数クラスに分かれるので、上の学年にも伝える。
 ──というような内容を、由美に甘ったるい喋り方で説明されて、みんなくらくらし
ていた。

(由美さん、やりすぎ。でも楽しそう)
 敵も無策で来るとは思えないし、今回は、やりすぎるだけの理由もあるし。
 戦闘が始まると、食べ物の名前を口走りながら突出する馬が続出し、たいていは乱戦
になって損耗していった。だが、冷静な部隊も結構あって、的確に近くの敵を潰してい
くのを見て、巧はその後ろにつけようと、指示を出した。主に後ろに回り込む敵に対応
していく。
 最初の馬鹿みたいなつぶしあいが過ぎると、だんだん敵味方共に連係の取れた、動き
のいい部隊だけが生き残り、巧もその後ろにちゃっかり随伴する。
(面白れえな、これ。ミリタリーマニアの気持ちがちょっとわかる)
 最後まで無心で戦って、というより逃げ回って、気付くと、総力戦終了の合図のピス
トルが鳴り、巧達は一騎討ち勝負に生き残っていた。
 味方が十五騎ほど、敵は十騎ほどしか残っていない。ここから一対一の勝ち抜き戦で
勝敗を決める。一年生の部隊は三騎。巧はほぼ体力を回復していた。
 どのみち一年の馬から順に出ることになるので、最後までは残れまい。
(少なくとも一騎は倒したいなあ……)
 環たちのいる方向を見た。傾き始めた夕日がまぶしく、いまいち誰が誰やら見分けが
つかない。十五騎のうち、二番目となり、そして一騎討ちがはじまった。
 この一騎討ちには、相打ちがある。最初の一騎がその第一号となり、たちまち出番に
なった。一騎目。
「じゃんけ──」

 巧が合図を取り、相手が一瞬『?』と警戒して、守ろうと切り替える瞬間に、鉢巻を
かすめ取った。
 
「ねえ、巧くん今、じゃんけんしてなかった?」
「超奇襲技だねっ、一回こっきりの」
 緊張している相手に隙をつくるのは単純な方法ほどいいので、あれは逆にセオリーと
も言える。二騎目はそういうわけにもいかないと思ったら、正攻法でいきなり奪い去っ
た。また一歩勝利に近付いた偶数組が沸く。
「すっごーい」
 由美の屈託のない声に顔をほころばせながら、環は都を見下ろした。
 都はただじっと見ている。
 巧が三騎目も四騎目も倒していくのを、見ていた。
 
 §
 
「ところで巧くん、ご褒美はいいの?」
 五騎目の二年生に負けた巧は、力つきて体操マットの上で寝てしまって、起きたとき
には後片づけもあらかた終わって、戦勝パーティの予約取りにクラス委員が走っている
ところだった。
 すぐそばに環が一人で腰を下ろしていた。

 姉はいない。校内では環が公認彼女なので、こうなるのは妥当なのだろう。
「うーん、例えば、まだ早すぎて言えないコトとか」
「婚約指輪、とか」
「それは飛び過ぎ」
「あは、そっかあ、そうだよね。巧くんにはまだ二年あるんだもんね」
「いや、あの、俺はその気ありますよ」
 その巧の言葉に、しばらく見つめあった。
「ただその前にね……」
 巧の話の続きを促すように、環は巧と並ぶ体勢になった。巧はそれを待って、
「俺、姉ちゃんが好きかもしれない」
「そっか……」
「俺は姉ちゃんを甘く見てたよ、もうしぶといのなんの」
「振られたら、そこでもう人生終わりだもんね……死に物狂いになるわよね」
「それなんだけどね」
 巧はマットにまた身体を倒し、環が横に続くのをまた待って、
「姉ちゃんが女の子に見えないわけじゃない、でも、『姉ちゃん』って部分がまだまだ
大きすぎると思ってた。でも今日の姉ちゃんは……純粋に綺麗だなって思ったし」
「たぶんそれは巧くんのせいだよ」
「どうして?」
 巧は、競技で離れている間の都のことを環から聞いた。

 半年前なら笑い飛ばしていたかもしれないが、今の巧には冗談ごとではなかった。
 今どき映画でもそんなベタな話はない。だけど、胸が熱くなる。
「俺なんてただのスケベなガキじゃん。なんで?」
「それは、私にも言ってるのよね?」
 咎めるような、環の抑揚のない言い方にドキッとして巧は顔を向けた。
 環はにんまり笑っていた。
「……」
 どうにも、環のこの手口には慣れない。そもそもこの人には顔向けができないはずな
のだから。
 環はそんな巧を見放すことがない。
「巧くんはさ、もし巧くんが都のこと好きになっちゃったら私が離れていくんじゃない
かって思ってない?」
「ちょっと、思ってる」
「やっぱりなー……ちょっと寂しい」
「ごめん。でも、本音だし」
「そうだね。──ね、巧くん」
 環が巧の手を取った。約束をしたがっている手だ。巧は、決して拒むまいと思う。
「私を奥さんにしてくれたら、一生二人を守ってあげる」
「うん」
「二人を白い目で見るような人とか、社会とか、なにもかも、全部から守ってあげる…
…」

「そんなわけにもいかないよ、環さん──」
「やるんだから、私だって今はそれしか考えられないんだからっ」
「うん」
 巧は、静かな気持ちで、環の言葉を受け止めていた。
「ま、だいぶ先の話になるけどね」
 それは、魂に刻みつけるような、そんな約束だった。
「巧くん、都と、するんだね」
「うん」
 あれから、機を見て環には話してあった。ゴムを隠されて頭に来て後ろでやったと言
うと、案の定大笑いをされたのだが、これで本当の意味で環と都は対等になる。
 環は、着がえてくる、と部活棟の更衣室の方へ消えていった。
 
 §
 
 それからすぐにというわけにはいかなかった。
 初めての場合、ゴムは女の子の苦痛を大きくするらしいという話を聞いて、またスケ
ベ心が湧いてきて、ゴムなしを決意し、
「姉ちゃん、安全日見つけといてね」
 と、身も蓋もないことを言った。
 そのときの都の表情は巧にとっては永久保存ものだったのだが、残念ながら手元にカ
メラはなかった。

 受験シーズンに突入し、大半の三年生が慌ただしい生活を送る中、巧の周りはいたっ
てのんびりしたものだった。
 由美は東大早慶どれでも合格確実のお墨付きだし、都も推薦が決まっていた。環は専
門学校へ進んで、美容師になるという。巧がヤンキーのなる職業だと言うと、こればか
りは環に殴られた。
 そして、巧の方はサッカーの予選を戦っている。
 例のフォーメーションで緒戦をなぜか大勝した桐高サッカー部は、その勢いのまま三
回戦まで勝ち抜いていて、そこで正念場を迎えた。
(これでいいのか、高校サッカー)
 などという心配も、優勝候補を前にして、もう必要ないと思われた試合。
 主将の遠山がいきなり、
「待鳥、右ウィングやれ」
 などと言い出し、春の最初の頃の布陣で望んだことにより、敵が混乱した。プレイメ
イカーをつぶすのは守備の基本だが、相手がそれをそれまでの試合の巧に見立てていた
とすれば、さぞかし守りにくかったのだろう、焦点を絞り込まれないうちにかけた速攻
で、巧のセンタリングから先制し、前半を終えてしまった。
「びっくりですな」
 巧に代わり、そのポジションに入って敵をおちょくっていた二年の大川がとぼけてみ
せると、
「このまま後半、持たないよなー?」
 よりによって遠山が呑気なことを言う。

 巧はこっそりトイレに逃げ出し、外で時間いっぱい環といっしょにいた。都はスタン
ドにそのままいるらしい。これは無理もないことなのだが。
 巧としてはサッカーは楽しいけど、十分楽しんだし、もう勝ち上がりたくない。
「そんなこと言わずに頑張ってみれば?」
 同じ体育系の環はそれを少し惜しいと思っている。
 巧の言い分としては、クリスマスはいっしょに過ごしたいので、それまでに姉との約
束を果しておきたいのだ。時間の余裕があまりない。
 そしてその日はすでに確定していた。
 明日だ。
 明日の月曜、昼間をずる休みして空ける予定なので、勝ち進んでその日も練習なんて
ことにはなって欲しくない。
(10日ほどの安全期のうち、誤差とか考慮して本当に絶対どうしても安全なのは三日
ほどで、それが土曜〜月曜、ベスト・オブ・安全日と思われるのは日曜、つまり今日……
ああ、貴重な一日が流れていく……)
 無理矢理聞き出した話では姉は滅多に狂わないということだが、それでも心理的には
ぎりぎりで、だからといって周りの人間に説明するわけにもいかないし、どうしても明
日以外にない。
 ──とかいうことは、そもそも巧のスケベ心から出た事態なので、環にはとても言い
にくい。『私は結構狂うから駄目だなー』なんて普通に返されるのもある意味困るし。
 その気持ちの高ぶりを環とのキスでごまかした。

 罰当たりだがしかたがない。それを罰当たりと感じる心を変えていかないといけない
のかも知れないし。
 
 後半のキックオフの直前までそんなことを考え、スタンドのどこかにいる姉を思う。
(勃ちませんように)
 そのお祈りが効いたのか、落ち着いて、巧は後半も切れのいい動きを続け、敵陣の左
サイドを脅かし続けていた。マークがさらにきつくなって、やがて、悪質なバックチャー
ジを誘った。
(最低だな……)
 そう相手の選手に対して思っていたはずが、自分に対する評価にすり替わっていた。
 欲望を優先する汚さが、なぜ女の方から求められているのか、そしてそれにつけこむ
ように自分はそれを良しとしている。
 かなり深い位置からのフリーキックとなり、闇雲な波状攻撃を繰り返した末に、思っ
てもみない二点目が入った。
 そこでチームの気持ちが少し変わった。
 もしこれに勝てれば、ずっと上にいけるかもしれないという緊張感。つまりプレッ
シャーだ。
 『全国』を意識して、それを乗り越えられるほど、チーム力はなかった。
 
「あれ、姉ちゃんは?」
 巧は、試合後のミーティングをほっぽって環達のところへ飛んでいったのだが、
「試合が終わったら、あっという間に逃げちゃった」

 環がひとり楽しそうに笑っていた。環には明日やるとだけ言ってある。
「今からさっそく準備でもするんじゃない?」
「……」
 想像できてしまうのが困る。
 巧は、姉の思い入れの強さに接するたびに、いまだ不安になる。姉を抱いてしまって
からも本当に環はずっと自分の隣にいてくれるのか。そんな風に笑っているのは、どう
してなのか。
 環が巧の表情を見て、ちょっと来て、と物陰に誘った。
 巧は、正直なところ明日を心待ちにしている。これは事実だ。だがそれは下半身の事
情であって、巧という人間を構成する魂の大部分は環のものなのだ。
 それをわかって欲しいとずっと思っている。
『彼女公認の浮気』なんていう、それこそ浮ついた言葉を思ってしまった。
 まったくこういう気分には慣れない。
 その『彼女』に引き寄せられて、巧は労われるように、環の唇を受け止めた。
「巧くんはまだ私のこと信じてくれてない」
 咎められて、巧は言い返せなかった。
「普通じゃないかもしれないけど、これだって現実なのよ?」
「信じてますよ。でも明日のその先は信じてないのかも」
「都に、そんなにまで愛されてるって思う?」
「あの人はもうずっと溢れかえってますよ。それに流されてみたくもあるんです。だか
ら、それにまでつきあってもらえる自信はない、ってことかなあ……俺自身が」

「私……たぶん、巧くんにはわからないかもしれないけど、表現が違うだけで、あの子
より私の方が巧くんを好きよ。自信があるわ。絶対放さない。だから──」
 環は顔を伏せ、
「離れていかないで……」
 しがみついてくる環を、胸を詰まらせながら強く抱きしめる。
 そこまで言わせてしまって、そうしてやっと、巧は安心して姉のことを受け入れるこ
とができる。
 
 §
 
 都は玄関で、少しふらついた。
 用事があって応援にいけないと残念がっていたはるかは、まだ帰っていない。
 逃げるように帰ってきてしまった都は、自宅に誰もいないので少しほっとしていた。
 お膳立てがすでに整えられていることを意識して、巧の顔をとても見ていることがで
きなかったので、逃げてきた。今からこんなことでは心臓が止まってしまうかもしれな
いと思う。
 自分のベッドにうつぶせて、顔が弛んでしまうのを止められなかった。
 たまらなくなって、丸めた布団を抱え込んで抱きしめてみる。
 イメージに追いつかない。思いあまって巧のベッドに押しかけ、シーツに残った弟の
匂いを吸い込んだ。
 初めて巧に抱きしめられてからもうすぐ半年になる。
 あのときから、裸のままでそうしてもらいたくて、本当に諦めずにがんばってきた自
分を愛おしむ。胸が潰れて、死んでしまってもいいと何度思ったか。

 下着が汚れてしまって、シャワーでごまかし、また新しい下着を汚してしまった。
 あと何時間ぐらいだろう。
 下着を取り換えるのをあきらめ、欲情に任せて目を瞑っている。
 そこに唐突に弟が現れた。
「……どうして?」
 部屋に入ってきたジャージ姿の弟は、自分のために他の用事をすべて飛ばしてきたの
だと思い、身体を起こして迎えようとする。
 それを逆にベッドに戻されて、抱きしめられた。
 どうして、と思いながら切なさに押し流されていく。腕に限り無く力を込めて、弟の
重みに応えた。
 もう今から始めて、明日のそのときまでお互いを感じ続けるのだ。
「はるかの目を盗めるだけ盗んで、明日まで一秒でも多く二人で過ごそう」
 と巧が言うのを、言葉よりも唇で直接返していく。
「明日になったら、姉ちゃんを俺のものにするんだからな。あんなにまでして強引に俺
のことを手に入れたんだから、全部俺に独占させてもらうから。……なにもかも、姉ちゃ
んの初めては俺がもらうから……」
 巧の汗の匂いを吸いながら、言葉の意味を受け流していった。
(そんなこと、あたりまえじゃない)
 都には本当にあたりまえのことだった。
 今までも、すべてそのとおりになってきたのだから。 

(どうせやるならとことん楽しまなけりゃ嘘だよな)
 という今更な結論から、巧は今回の企てをした。
 はるかがいつ帰って来てもおかしくないことを考え、一旦自室に戻ることを姉に伝え
た。普段着に着がえておこうと、クローゼットから一番融通の効きそうなルーズパンツ
を選び、足を通していて、振り返ると姉が自分のベッドに座っているのに気付き、一瞬
ギョッとした。
 骨を折られたときのことを思い出す。
 あれが始まりだったのだ。
 巧の巧らしさも、姉の姉らしさも、あそこには凝縮されていた。
 巧の反応に満足したのか、都は、
「下でお茶にする?」
 と微笑んで、ひとりで階段を降りていった。
 巧が、今から長い時間を始めると決めたのは、そこに至るまでの日常の手順というも
のをこの短時間で復元してみたいと思ったからだ。
 手を繋ぐタイミングをはかったり、どうやってキスを迫ろうかと悩んだり、キスの時
に胸に触ってもいいものかどうか顔色を伺ったり、そういうものがとことん欠落してい
るのだ。

 環の時にはそれでも別によかった。それは、巧が環に求めているものと今姉に求めて
いるものが、まったく違っているからだと思う。
 着がえるとすぐに後を追うようにリビングに降りていって、ちょっかいを出した。
 巧のクラスの都ファンは、口を揃えて『あの足にほお擦りしてみたい』と言う。それ
には今や巧も同感だ。
 袖をまくって、台所でティーポットを扱う姉の後ろ姿を見つめる。バスケットで鍛え
て引き締まった感じの環とはまったく違った、華奢で繊細な手足の動きがたまらなく巧
の下心を刺激する。
(ごめんね、環さん)
 今だけは環のことを頭から消して、姉のすべてを知りつくしたいと願う。
 後ろから姉に抱きつき、肩の上から両手を回して、服の上から姉の両胸をそっと押さ
えた。
「……んっ……」
 とっさにティーポットをがちゃっと下ろし、無事を確認しながら、後ろ手に巧の腰に
触れてくる。それを制した。
「姉ちゃんからは手を出したらだめ」
 これが最初の『命令』だった。
 そういう約束があるわけではないが、姉はそのすべてに従うだろうと、巧は確信して
いた。姉は、巧のものになる準備をこうやって始めるのだ。
 かすかに震えながら手を前に戻し、都はティーポットを気にしている。

 紅茶の葉とお湯が入ったあとを巧が狙ったので、都はそれに縛られたまま巧のするこ
とに任せていた。
 不満と期待が入り交じったような変な顔をして、都はカップとソーサーを食器棚から
取り出し、巧はそれについていって、姉の身体を服の上から触っていく。
 リビングの入り口は、多少寒いが開けっ放しにしておいた。はるかが玄関の鍵を開け
ればすぐにわかる。代わりにオイルヒーターをつけ、その正面のソファに姉と並んで座っ
た。もう当たり前のように姉は上体を巧にもたせかけてくるが、巧は手を出さず、くっ
ついた肩の温もりだけを受け止めた。
 姉がじれているのがわかったが、今からそれでは困る、と、
「姉ちゃん、あと何時間あるか知ってる?」
 巧がもじもじしている姉の手をぽんと叩くと、都は、怨めしそうに巧を見ながら、そ
れでも嬉しそうに、すぐに顔を赤らめる。その姿は巧と触れあうどんな出来事でもあま
すことなく受け止めようと努めているように見える。
 どうか、我慢して欲しい。そう思う。
 明日になれば絶対にそのぶん返してやれるのだから。そう言い聞かせ、巧もまた高ぶっ
た心臓の音をなんとか抑えた。環の時と違い、他人に知られることの重みがはてしない
この関係に、失敗は許されない。巧は命懸けで、ぎりぎり戻れる場所に自分を置き続け
ている。巧自身が明日得る快楽のためにも、今を緊張感の中で費やしていきたい。
「がんばってね」
 ちょっと変だが、そんな言葉をかけて、巧は求め過ぎないように姉を求め、受け入れ
過ぎないように姉を受け入れた。姉もまたぎりぎりのところで察して、巧を求め続けて
いた。

 都がトイレに立ったのを境に、巧は冷蔵庫を物色しはじめた。今夜の夕食は巧の担当
だ。食事中を含め、はるかがいる間はしばしの『別れ』となる。急いで戻ってきた姉は、
ソファに巧の姿がないのを見るや、まっすぐにそこに来て、冷蔵庫の前にしゃがみ込ん
だ巧に、背中をくっつけてしゃがんできた。
 近付いて、離れて、だんだんと壁を取り払っていく恋人同士を演じる。近付き過ぎて
はいけない微妙な時間だからこそ、そういうときにできるやり方を選んでいくのだ。
 
 巧が無難なメニューを選択し、都が手伝ううちに、はるかが帰ってきた。
 ペタペタとスリッパを鳴らしながら、
「あー、いい匂いだ〜。お兄ちゃんにしては甘そうな料理?」
「おお、今日はメロンパンの佃煮だ」
「ええっ!?」
 バタバタやってきて鍋を覗き込み、それから真っ赤になって暴れるはるかは、ダッフ
ルコートにウールのスカートのいでたちで、ホコリがたってたまらないので、追い払う。
「お兄ちゃんの大嘘つき!」
「おまえは、たまには他のこと言ってみろ」
 はるかが買い物袋を抱えてバタバタ階段を上がっていくのを聞きながら、巧は姉の頬
に唇をつけた。あと数分だけ、安全だ。ぎりぎり待って、もう一度だけ唇を寄せると、
都が正面を向いてもっと熱いキスを求めてくるので、

「それは今は無理だって」
 巧はくるっと姉を後ろに向かせ、緩く流れる髪の中にくちづけた。
「巧い……」
 切なそうに姉が言うのを肩を叩いて押し止めた。
 立場がとことん逆だ。ヤることしか頭にない男におあずけを食らわすはずの女が、自
分からしなだれかかったのではラブコメは成り立たないのだ。
 巧は、とりあえず行動を少しセーブしようと思い直す。
 
 §
 
 茹で鳥とキュウリのピーナッツクリームソース和えをご機嫌で食べるはるかを横目に、
巧は都を観察し続けた。
 感情を押し殺したぶん静かすぎる姉に、はるかが、
「お姉ちゃんどっか調子悪い?」
 と心配そうに覗き込んだときにも、
「ううん」
 と首を振るだけで伏し目がちなのを見て、巧は少し罪悪感を覚えた。
 だが、姉にとってはその気遣いはむしろ心外だろうと思い、普段通りを心掛けてみる。

 そして、
「デザートはこれだ」
 と、前もって本当につくっておいたメロンパンの佃煮をテーブルに出した。はるかが
凄い顔をして、
「誰が食べるの?」
「はるか」
「絶・対・に……いやっ!!」
「じゃあしょうがないから明日の弁当のおかずにしろ」
「なんで私が食べることに決まってるのよ?」
「一弥に『早起きしてつくったの』って出したら喜んで食ってくれるぞ」
「あ……あいつの話しないで。二度としないでよねっ!」
「なんだ、喧嘩でもしてるのか?」
 巧がなにげなく聞いた言葉に、変な顔をして赤くなり、それからむっとした顔になっ
て、
「お兄ちゃんになんか、一生関係ありませんっ!!!」
 がちゃがちゃと乱暴に食器を片づけると、はるかはリビングのソファにたたんであっ
た巧の洗濯物をぐしゃぐしゃにした。そのままいつになく苛立った顔で部屋に戻ってし
まったのを見て、ちょっと様子が変かも、と思いつつもこれはしばらく出てこないと考
え、ちょいちょい、と姉を誘った。
 食べ終わっていないにも関わらず、姉はふらふらとやってくる。

 髪を撫でていると姉はすぐにうっとりした表情になり、吐息で空気を甘く変える。
「姉ちゃん、風呂いっしょに入ろ。ほら、食べちゃって」
 と促すと、
「そんな……その、大丈夫?」
 様々な感情の入り交じった目をして、都は目の前の巧に吸い寄せられてくる。
 本当にもう、都は巧の思うがままだった。
 
 巧がお湯を張っている間姉に、はるかに風呂をどうするか尋ねさせてみたら、ふて寝
をしてそのまま気持ちよさそうに寝ていると聞き、小細工の必要もないから今すぐに入
ろうと姉を引っ張った。
 まだギプスをつけていたときに、巧は身体をさらしているが、いわゆる『毛が生えて』
以降なかった、そして全然意味の変わってしまった、いっしょの入浴だ。新鮮な感動を
得ながら、お互い服を脱ぐのは恥ずかしくて相手に見せられず、順番に入ってからいっ
しょにバスタブに身体を沈めていた。
 ひとつだけ決めておく。
 どちらかが風呂場を出るまで、都は口をきかないこと。
 とっさにアドリブが利くのはやっぱり巧だ。
 夏以来、本当に久しぶりにじかに身体をくっつけあって、お湯の中という違った環境
もあって、それだけで震えそうになる。
 もちろん、股間のものはその存在を姉にしっかりと教えているだろう。姉の息が荒い
のも、巧の心臓が割れそうに鳴り響いているのも、お湯にのぼせているからではない。

 とても明日までもたない。
 しゃべってはいけない姉がバスタブから出て巧を誘うのを、一部始終を見つめていた
巧は、姉の身体のラインのあまりに扇情的な動きにギブアップ寸前になる。そして、目
の前でひざまずいた姉のしていることに、巧は頭がついていかなかった。
 いや、何も考えるな、と巧の半身をなす欲望に押し流された。
 姉の柔らかく熱く潤んだ唇と舌によって、巧の限界まで膨張した肉棒は絡め取られて
いた。見下ろせば、いつもは毅然と結ばれて切れるような装いを見せている姉の唇が、
巧の醜い欲望の形に拡げられてきつく吸い込もうとしている。
 姉は、限界に瀕した巧に気付き、二人のせっかくの約束をダメにしない、とっておき
の行動に出たのだ。
 およそありえないことが起こり、それに歓喜するように巧の下半身は悲鳴をあげ、献
身的にえらをなぞりあげた姉の舌の動きによって、巧はたちまち耐えがたいまでに腰を
引きつらせることになった。
「は、離……!!」
 巧が一瞬の判断で姉を引き剥がそうとした結果、激しく吹き上げたものが姉の顔から
肩にかけてまき散らされ、巧は『汚す』という言葉に捕らわれそうになった。
 違う、これは自分の欲望にとっては充足であり、ならばそれは姉を喜ばせることがで
きる。肯定して嬉しさを姉に伝えなければいけない。
「姉ちゃん……エロくて、気持ちよくて……最高。もっと、見せて」
 剥き出し過ぎる言葉だが、それでいいはずだ。

 すでに上気してしまった姉の顔に浮かぶ表情は判別しにくい。だけど間違いなく、姉
は喜んでくれている。
 ためらうことなく射精したばかりの巧のものに口を再び被せ、都は先端に残る白いも
のを吸っていた。
 とてつもない。
 姉の目には今なにが映っているのだろう。
 快感に酔う自分のだらしない顔なのか、それとももうすぐ自分の中に入ることになる
もの、だろうか。姉は力一杯に巧の腰を抱きかかえ、奥の奥まで飲み込もうとするかの
ように、顔を巧の股間に押しつけていた。
 筆舌に尽くししがたい喜びと罪悪感が巧の心の中に溢れた。
 自分はどんな権利があって、大切な人にこんなことをさせているのか?
 それこそが人生の目的とでも言いそうなぐらい献身的なくちづけ。
 巧はそのまま両手で姉の頭を抱え、泣きそうになっていた。
 姉の動かす舌の動きが、姉の心の動きそのものに思えて、それに懸命に心を傾けた。
 それはいわば、かつてなく鮮明で赤裸々な、姉の告白だった。
 
 §
 
 後から入り、バスタブの中の弟の身体の上に身を沈め、背中全体で弟の存在を感じな
がら、都はアレをしよう、と心を躍らせていた。

 風呂に誘われたときに、真っ先に男性の生理に思いをめぐらせ、そうすることを決め
ていた。
 それはとても不思議な感覚だった。
 違う場所に入っているものと、違うものを中に入れている口。
 より心に近い場所で男の欲望を肯定することだと、都はその行為に直感していた。
 だから、巧が戸惑うことは承知の上で、我がままを通した。
(ごめんね、巧)
 その行為をはじめてするという喜びに勝てなかった。
 そして夢中で巧をイカせた。文句無しに震えが来る。
 巧のものをすぐに口でとらえなおし、
(もちろん巧自身が好きだけど、これも好き)
 と気持ちをこめてみたもののどうしていいのかよくわからず、とにかく歯を立てない
ようにだけ気をつけて、懸命に舌を使って撫でるようにしていた。
 なにかできている手ごたえはなくても、わかってほしかった。
 巧のためならどんなことでもできるのだということを。
 口の中のそれは、目にしたときともお尻で受け止めたときとも印象が違っていて、で
もだんだん同じなんだと思えるようになってきた。これをお尻に入れたのだと思うと激
しく羞恥心が湧くものの、すぐにすべてを受け入れることができた。
 ありとあらゆる方法でその形を覚えたいと思う。
 巧に「もういいから」と促されて口を離しても、その感触に口の中はしびれていた。

 さっき顔や身体に跳ねた巧の精液をお湯と指で優しく拭われて、そのまま陶然となっ
て巧に体重をあずけた。
 巧が尻餅をつくように受け止めてくれるので、冷たいタイルに触れることなく都は全
身を緩ませて弟の身体に酔いしれる。
 身体を交えただけだった今までと違い、愛情が先行している実感がある。
 言葉を禁じられたことでかえって饒舌だった。
 今奪って欲しくなる。
 だけど時間は限られていて、声を出さずにいられる自信もない。
 巧があえて都の弱い部分に触れようとしないのも、そのせいなのだろう。我慢してい
る弟と同じ気持ちでいられるように、願う。
 あと半日近い時間。待ち遠しく焦がれる、これも祭りなんだと思う。
 
 §
 
 姉の手は巧の身体の表面を探るようにさまよい、時間切れを教えるように離れていっ
た。巧も少し気になり始めていた。
 はるかが起き出しているなら、それに見つかるわけにはいかない。
 入ったときと同じく、巧が先に出た。考えて見れば、脱衣所の衣服が非常によくない。
取り繕ってから、姉に合図して洗面所を出た。
 ギョッとする。


 台所ではるかがミルクをコップに注いでいるところだった。
 振り向いた目はさっき夕食の時に見た同じ色をしている。やっぱり学校でなにかあっ
たのか、または休日のお出かけでなにかあったのか。心なしか苛立ちの色が強くなって
いる気がする。
 そう、さっきもいやな予感はしていたのだ。
 巧を待っていたのは、さらなる無理難題の大本命だった。
「お兄ちゃん……」
 はるかは赤い目で、切羽詰まったセリフを巧に押しつけた。
「私は、お兄ちゃんが好きみたい。お兄ちゃんの巧さんが、大好きなの」
 はるかに告白された。はるかはいとも簡単に壁を越えてきた。
(ちょっと待て!!!!)
 よりによってこんなときに、もちろん、聞いてしまった言葉は待ってくれない。
 すでに廊下の先で姉が出てくる気配がある。
 危険。デンジャー。
「はるか……あのな」
 声を出して、はるかがいることを姉に知らせる。ドアの向こうで都が見守っている中、
巧はこれを乗り切らなければいけない。同時に、ここまでこんなにいろんなことがあっ
たんだから、最後もやっぱりこうでなくっちゃ、とも思う。
 ちょっとは成長した自分を、自分に見せてやりたい。

 とはいえ巧には秘策があるわけでもなく、はるかを傷つけずに済ませられるような都
合のいい話もどこにもない。
「お兄ちゃんはそんな話聞きたくありません」
 とふざけて言ってみても反応はなかった。
 間がもたなくて、黙り込んでいるはるかの頬を指でぷすっとやってみると、そこで脛
を思い切り蹴られた。
 素足での蹴りだったから、むしろはるかの足の指が痛かったはずだ。
 歯を食いしばって、痛がっているのか怒りをこらえているのかわからない表情で、今
にも泣きそうになっているのを見てしまった。だから、ちょっと酷い奴になってみよう
としていた巧は、たちまちそんな偽悪的なそぶりをかなぐり捨ててしまった。
 言葉にしたくなかったので、ただ、そっと抱きしめてやる。
「俺なんかに、一生関係ないんじゃなかったのか」
「お兄ちゃんが好きだったんだもん……」
『おまえはまだ子供なんだから、大人になったらな』と言うのも問題だし、『お兄ちゃ
んもはるかのこと、とっても大好きだよ?』なんてベタなごまかし方も避けたい。『俺
達は兄妹なんだから』みたいな陳腐なことも言いたくない。だいたい姉のことがあるか
ら余計にそういう概念に触れたくない。
「ごめ……ごめんなさいっ、言いたかっただけだから、なにもなくていいから。お兄ちゃ
んに知って欲しかったの、心細くて、怖くて、聞いて欲しかっただけなの」

 はるかは巧の腕の中でくしゃくしゃになり、剥き出しになったせいでとても姉に似て
綺麗なことがわかる──自分とは違う心根をさらしていた。
 自分はこんなに綺麗だろうか?
 巧ははるかの顔を起こし、丁寧に拭ってやる。
「なんかあったのか? ……一弥と」
 名前を出してみると、
「ないもん……あんなやつに、襲われたりしないもん。触られる前に蹴ってやったんだ
から」
(しっかりなんかあったみたいだな)
 はるかはあまり穏やかではないことを言っていて、心にはひびが入りかけているので
はないか、と巧は胸を衝かれる。
「はるか、大丈夫なのか?」
 と優しく聞いてやったら、
「うん」
 とはるかはちょっと嬉しそうに巧に答えた。
「あいつは?」
「顔とかお腹とか蹴ってたら動かなくなったから、そのまま逃げてきた」
(それは、急所攻撃ではないのだろうか……かわいそうに)
 その巧の感想は顔に出ていたみたいで、はるかがそれを目ざとく咎めた。
「私はかわいそうじゃないの?」
「そんなこと、言ってないだろ」

 巧にとってはるかは格好のいじめ相手ではあったが、それはあくまで信頼と安心の上
でのことだ。これでははるかは姉と同じになる。
「はるか、環さんと仲よかったっけ?」
「うん。お姉ちゃんと同じくらい好きだよ」
「なあ、はるか。どうしてもして欲しいことってあるか?」
「たくさん……ある」
「もし環さんの前でも言えるんなら、してやる」
「環さんの前で言えたら、そしたら、なんでもしてくれるの?」
「なに言うつもりだ……」
 巧は頭を抱えたくなった。やっぱりあの姉の妹だ。
 そこへ──
「ううん、ひとつだけでいい」
 とても小さな言い方で、はるかが言った。
 はるかは、おそらくあまりにも困った顔をしている巧を見て、そう言ったのだと思う。
「ファーストキス、されちゃったんだから、だから、お兄ちゃんが口直ししてくれな
きゃ、このままずっと、まとわりついてやるんだから。だから、お兄ちゃん……」
「あいつが嫌いなのか?」
「もう嫌い……あいつは、私の好きな人にちょっと似ているだけだもん」
 巧はもう一度頭を抱えたくなった。
 はるかのようなまっすぐな妹が、いったいどういう経緯でこんないい加減な兄を好き
になったりできるのか、巧にはわからない。

 巧は姉の息づかいを感じていた。
 すべてを聞いているはずの姉の、心の動きを自分は支えきれるだろうか、とふと思う。
今は少しだけ妹に近付いてやりたいと思っているのだ。
「お兄ちゃんが好きだったんだもん……キス、してくれなかったら、お兄ちゃんに胸触
られたこととか、全部お姉ちゃんたちにしゃべっちゃうんだから」
(ていうか、そのお姉ちゃんは今これを聞いてるんですけど)
 あれはただの冗談だ、と言ってしまうことは許されない。
 だから、
「しゃべっても、いいぞ」
「ううん、しゃべらない。だから……してくれたら、もう無理なお願いしないから……」
「──は」
 はるか、ともう一度言い聞かせようとしたとき、引き寄せられて、唇を重ねられた。
 はるかの唇はとても熱かった。固さの残るとても雑な唇の合わせ方だったが、それが
今のはるかの心のあり方を、巧に教えていた。姉と同じ、目を逸らせないなにかを持っ
ていることを、押しつけたキスだけで伝えてくるのだ。
 ちゃんと受け入れた証拠に、巧はそっと押しつけ返してやって、それからはるかを身
体から離した。
「あの……」
 はるかがなにかを言いかける。
 そしてすごく無理をして、やめたように見えた。それから無理矢理に笑って、力尽き
るように俯いてしまった。

 巧にできることはない。
(ありがと、ごめんな、はるか)
 覚悟を決めて取りかかってなお、はるかの方に無理をさせることでやっとこの場を逃
れられる、自分はまだまだその程度の男なのだと、思っていた。同時に、本当はそうい
うことじゃなかったんじゃないかと、気付き始めている。
『一人じゃ解決できないことを一人で解決しようとしたら、そうなるんだよ』
 あのとき由美が言った言葉、実は世の中のほとんどのことが、そうなんじゃないのか。
 
 §
 
 ずっと壁の裏で話を聞いていた都は、はるかがなにかを言いかけて、言い淀んだとき、
それがどういう言葉だったのか、はっきりと悟っていた。
『お姉ちゃんはよくて、私はだめなの?』
 はるかは巧にそう訴えるはずだった。
 巧は知らないが、都はその理由を知っている。
 都は、頼子からはるかに電話があったときその場にいなかったから、はるかにすべて
が伝わっているということを情報として知っているだけだ。だけど随分と皮肉な伝わり
方をしたものだと思った。
 巧はおそらく、はるかは何も知らないと思っている。だからこそ、はるかも結局口に
することが出来なかったのだ。

 都は、巧が巧自身の気持ちと二人の間のことを受け入れるのにいったいどれだけの覚
悟が要ったのか、それを感じ切れていない。都自身は真っ先に責任を放棄してしまった
のだ。だから、はるかに対して自分は何も言う権利がない。
 少し寒い。
 身体が冷え始めているし、ここにいない方がいい。都は脱衣所へ引き返して、もう一
度考えて二階の自分の部屋に戻ろうと洗濯物の始末をした。
 そのとき玄関でチャイムが鳴った。
 都はそのままそこにしゃがみ込んで待った。
 
 §
 
 チャイムの音に救われて、その場を逃げ出すようにして巧は玄関の扉を開けたのだが、
そこに立っている高松一弥の顔を見た瞬間に、これは放っておけないと思った。
 ただし、自分がやってはいけない。これははるかの仕事だ。
 一弥を待たせて、嫌がるはるかを無理矢理一弥のところへ連れて行った。
 一弥はいまにも首でも吊りそうな顔をしている。巧が『この世の終わり』という言葉
を思い浮かべたその顔を見て、さすがのはるかも話だけは聞いてやる気になったようで、
巧はリビングを二人に空け渡し、姉も自分も二階にいるから必要なら呼べ、と言って、
それから姉を探した。
 巧は疲れていた。
 脱衣所から出てきた姉を自室に帰し、自分も自室に戻った。

(俺達の素敵な計画はいったいどこへやら)
 一時はどうなることかと思ったが、神経が高ぶっていただけなのか、気持ちを吐き出
せてすっきりしたのか、最初からキスできたらそれで満足だったのか。あっけなく引き
下がったはるかに、いなくなってから頭を下げた。
 助かった。
 あの姉を見て育った妹とは思えない潔さだ。
 それとも姉にとって自分がイレギュラーだっただけのことなのか。
 とにかく、暴走しかけていた自分達を結果的に止めてくれたはるかに心の中で感謝し、
その一方でどうしたらいいのか、なにかやりきれない焦りのようなものが巧の中に生ま
れた。
 姉があれに何も思わないはずがない。
 そう考えたことで、巧は、自分の中に姉に対する執着が生まれていることに、思い至っ
ていた。はるかのことを姉がどれだけ気にかけているかを思えば、今こそが、姉の心を
解放してやれる最大のチャンスなんじゃないか。
 それを望んでいたんじゃないのか。
 そして。
 姉が惜しくなったから、今度はそれに気付かないふりをしようとしているんじゃない
のか。
 
 §
 
 都はすぐに気付いていた。
 自分とはるかは同じだ。
 もし自分が弟に邪な気持ちを抱くことなく過ごし、そのうえで今のこの場面に出会っ
ていたらどうだっただろう。
 さっき巧ははるかとキスをしたに違いない。だから最後の死闘がはるかの中に起こっ
た。はるかが巧に今までのことをぶちまけてしまわなかったので、本当にほっとしてい
た。都は少しだけそのことに胸を焦がし、では環はどうなのだと自分に問いかける。
 環と話がしたい。
 そのためにも弟に抱かれて対等になりたいのに、はるかが立ちはだかっていた。
 ベッドの中に沈み込むと、もう巧の感触に餓え始めていた。
 もう一度考える。自分とはるかは同じだ。もし巧がそこにけじめを見い出してしまっ
たら、自分は巧のものではいられなくなる。
 それは恐ろしい想像だった。
 壁の向こうにいる弟にすがりつくように、壁紙に指を這わせた。もし想像ではなくそ
うなのだとしたら、自分はためらわず、すぐに隣の部屋の弟の胸に飛び込むだろう。そ
こに父やはるかや、他の誰かがいたとしても。
 ざわざわした胸の奥に、光も温かさも一つしかない。取りあげられたら、ウサギや子
象のように寂しさで胸が潰れて死んでしまうだろう。
 
 §
 
 たぶんこのとき、お互いに知らず心の中で複雑なものを抱えてしまって、疲れてしまっ
ていたのだ。
 巧も都も、だから階下にいるはるかを感じながらも部屋を飛び出して、廊下で鉢合わ
せになった。
 都は冷たい廊下に裸足で立っていて、こんなときに限ってスリッパをちゃんと履いて
いた巧はそれを見て、小さな声で、
「姉ちゃん、俺に乗って」
 そう促してから姉の背後をとって、両足を自分の足の甲に踏ませてやった。バランス
が悪くて、ふらっと傾く姉を、巧は拒まれないようにゆっくり抱きしめていった。
 巧が廊下の壁に肩をつけ、それに合わせて都も体重を巧にあずけて力を抜いてきたの
で、違和感なく身体を寄せ合えたことに、巧はほっとした。
 そのまま、随分時間が過ぎたように感じたが、下の様子はわからなかった。
 時々都がぶるっと寒そうに震えるのを見て、そのたび巧は、姉を温めようと大きく抱
えなおす。その場所から二人とも離れようとしない。物に頼らずに自分達の身体で温め
あって、そうすることでこの先の自分達の危うさに正面から対峙しているのだ。
 しばらく、囁くように昔話をした。
 二階の廊下は、この家のいろんな場所に刻まれた思い出のうち、ふたつを記憶してい
た。一つは例の階段落としだった。
 もう一つ、巧は『ピンポンダッシュ』をこの廊下でやっていたことがあった。

 姉の部屋をノックして逃げるというこの実にくだらない悪戯を妙に気に入って、子供
だから、ばれていないと思っていた。
 部屋に戻ったら、ベランダから周り込んだ姉に待ち伏せされていて、ぶん殴られた。
 そう言えば、あの時期姉は手しか出さなかった、と腕の中の姉に聞いてみると、
「蹴ったのも巧の悪戯が元じゃない」
 京人形、というまるでパスワードみたいなきっかけで記憶を呼び戻され、巧は低レベ
ルな悪戯をもう一つ思い出した。
 ガラスケースに入った人形はデリケートな扱いを必要とし、間違ってもそれを運んで
いるときに手を出すものではない。そんなときにわざと姉のスカートをめくろうとして、
姉のバランスを取りながらの見事な回し蹴りを脇腹に食らって、巧はひっくり返って泣
きわめいた。
 泣かされたのはあれが最後だったと思う。というかあれは酷い蹴りだった、と訴える
と、姉は膨れて黙り込んだ。
 確かにあの年頃の女の子にとってスカートめくりというのは、最もメジャーかつ最も
深刻な問題なのだった。そのせいでスカートをやめる子がいるのを知り、巧はすぐに、
一切そういうことはしなくなった。
 都はむしろそのことを覚えていて、蒸し返された巧は恥ずかしくなって腕の中の姉の
胸に仕返しをした。
「……や……」
 慌てた都はなんとか逃れようとするが、音を立てずに、しかもぴりぴりと身体を走る
快感に抗って逃れるのは到底不可能だった。すぐに、逆に背中を巧に押しつけてその先
を求めた。その方が巧も困るだろう。

 実際巧は、両手のやり場に困ってしまって、「ごめん」と都の肩に頭を乗せた。
 それに都は唇を寄せた。
 恋人同士のような時間。
 突然くるっと顔を向けた巧に唇を奪われ、舌で口の中を混ぜられていくうち、たちま
ち都は腰砕けになる。それを支え、
「決めた」
 巧は、いい加減しびれてきた足から姉を下ろし、
「今夜、やろう」
 と都の肩をつかんで強く言った。
「わかる? 今夜、姉ちゃんのヴァージン、いただきます」
 有無を言わせず、具体的なことはなにもなく、そのまま巧が自室に入ってしまうのを
都はあっけにとられて見送った。
 単純に計画が前倒しになったわけではない気がする。
 都は少し不安だったが、巧の今の力強い目を見たことで、葛藤から解き放たれていた。
 ちょっとだけ泣きそうになって、自分も部屋に戻ろうとしたとき、階下のリビングの
ドアが音を立て、それから一弥を見送ったらしいはるかが、疲れた様子で階段を昇って
きた。
 廊下に立っている姉に一瞬ビクッとして、それから曖昧に笑って抱きついてくる妹に、
都はかける言葉がない。
 動き続けている自分達の時間に、すぐに戻っていきたいのだった。 

 はるかをやり過ごした後、はるかの部屋の明かりが消えてたっぷり一時間経ってから、
巧ははるかの部屋の前に立って軽くノックした。一応はるかが起きていたときのために
用事も考えてある。
 次に、玄関のドアの足元に釣り糸を張って、その先に大きな音の出そうなものを手当
りしだいにぶら下げた。父だろうがいのししだろうが、これでわかる。これは半分冗談
だ。父の帰宅は大抵騒々しいので、念のため。
 最後に家中の電気を消して回り、もう一度はるかの部屋をノックする。そして姉の部
屋に鍵がかかっているのを確認して、自分の部屋に戻った。
 巧の勉強机の椅子に、姉は座っている。
「あの子にいい加減なことしないでね……」
 都は唯一の心残りを消そうと、巧に念を押してきた。
「大丈夫、あれで十分だろ? 全部聞いてたんなら」
 巧は、窓の鍵を確認してカーテンをしっかり閉じ、入り口のドアにも障害物を設置す
ると、
「これでもう、邪魔は入らないよ」
 と姉を覗き込みながら言った。

 椅子の上で肩を竦ませ、膝の上に両手を固く握って、姉は震えていた。そんな様子を
見ていると、巧も緊張してくる。姉に自分で立ち上がる力はないとみて、巧は都のそば
に膝をつき、背中と膝裏に両手を入れて、ゆっくりと抱き上げた。
 小さく声を上げる姉に目で大丈夫と言って、強張った姉の身体を抱く力を強くする。
 決して身体の大きい方ではない巧には、結構な重労働だったから、すぐにベッドに姉
を下ろし、力の入った姉の両手、両足、身体のそこかしこをほぐすように感触を確かめ
ていく。厚手のシャツの上にさらに機械編みのベストを身につけた姉はそれでもとても
柔らかく、かえってその触り心地のよさを強く印象づけていた。
 徐々に強張りが抜けていく姉の身体を自分の横に放し、巧は用意してあった最後の理
性を使う。
「これは賭けみたいなもんだから。見つからなかったら、これからもうまくいく。もし
親父に見つかったら、それでお終い。だから、絶対見つからないように気をつけたい。
俺はやっぱり、見つかりたくない、ずっと姉ちゃんともこうしていたい」
 理性とは言えないかもしれない。
 例えばはるかに見つかったら、はるかを巻き込むのだ。
 都が両手を巧の首に回した。
「私も見つかりたくない」
 気持ちのままに強く引き付けられ、目の前で告白された。
「ずっと、巧と……これ、したかったの」

 これ、の中身をはっきりと言わせてやりたいところだったが、今は今だけの二人の関
係を満喫していた巧は、姉の言葉に素直に同意し、髪をまさぐって「俺も」と頬に唇を
滑らせる。それに都がうっとり応えながら、
「あんな、違うとこじゃない、普通のやつがしたかったの」
 それは巧も同感だったが、姉の口からそういうことを次々に聞かされて、巧は興奮しっ
ぱなしだった。
 姉は本当のことを話した。
 巧の初体験話を聞かされたときのくやしさ、(私のもののはずだったのに)と思って
しまった罪深さ、それを受け入れてすべてを捨ててでも弟を手にい入れようとしていた
浅はかさ、さらに環にそのあとを取られたショック。
 その後のことは、巧も知っている。二人で、ずっと向かい合っていたのだから。
 巧は、久しぶりに初めての時の少女のことを思い出した。
 あの子はいまなにをしているだろう、と未だ鮮明に覚えている、手慣れた感じの年下
の女の子の今を思い描く。
 姉達とのことがなくて、あの後もう一度でも出会っていたら、今頃はあの子とこうし
ていたかも知れない。そういう予感があの春の日にはあった。
 まだそれから半年しか経っていないのに、巧はもう何年も戦って生き抜いてきたかの
ような錯覚に陥り、そして現時点を悟った。
 自分の居場所はここでいいのだ。そうして今に立ち戻り、姉が確かに自分の腕の中に
いることを喜びを持って噛み締める。

 明かりを落とし、神経が暗順応するまでの間、しばらく手さぐりで姉の身につけたも
のをはずしていった。姉の白い身体が露出していくのに合わせるように目が慣れていっ
て、巧は目の前にある肌の起伏のあまりの悩ましさに見ていられなくなった。
 こらえきれず、姉の裸の胸元にすがりついた。
 熱く柔らかく、そして求めていた匂いがする。姉の肌だ。呼吸を整えながら、最後の
一枚まで取り除こうと再び姉の身体に手をかける。
 完全に慣れてしまうと、外は月明かりで意外に明るかった。
 首や袖を抜くたびに曲線は様々に形を変え、それが一瞬で移り変わっていく光景に目
を奪われた。
 そして、その暗がりの中で今、真っ白な太腿が大きく広げられていく。
 姉の股間の草むらの奥はとても自然に濡れて震えていた。
 
 巧は自分も手早く裸になって姉の足の間に入ったが、身体を重ね合わせるとすぐに唇
を貪った。下半身が擦れあって性感に神経が悲鳴を上げるけれど、とにかく気の済むま
で舌を絡めあい、きつく抱きしめあって、感情的な確認をする。
 姉に対する想いがまがい物ではないことを感じた。ただの性欲ではないし、この先姉
に後ろめたいことはなにもない。
 姉は濡れていた。
 だから巧はすぐにでも始めたかったが、これから痛みしか感じられない姉のために少
しだけ意地悪をする。

「絶対声出さないで」
 姉の広げた足の間にいた巧は、身体を起こして姉を裏返しにした。
「初めては後ろからの方が痛くないんだって」
 本当かどうかは問題ではない。姉の手足をちょうどいい角度に細かく変えていく。姉
は逆らわずに、受け入れる姿勢をとっていく。これが、自分の運命を無理矢理変えてし
まった女の身体なのだと、いろんな思いをかき混ぜるように、姉の股間ににちゃりと音
を立てている粘液を巧がすくうと、姉の息が激しく乱れ、肩を落として震えた。
 巧はそれをそのままにして、姉の背中に覆い被さって、背筋の弱いところを責めた。
 姉が懸命に声を押し殺して上体を激しく捻る。
 その口元を枕に押し付けさせた。その動きで、一息に狙いをつけ、押し入った。
 
 くぐもった悲鳴と身体の激しい強張りが、巧の胸を詰まらせた。
 迷ってはいけない。根元までぐいぐいと押し進め、突き当たると、力を緩めてそのま
まの姿勢で姉の背中に頬と唇を這わせた。
 姉の身体が激しい痛みから逃れようとしているのか、狂おしさに乱れているのか、巧
にはわからない。巧の身体の下で、姉が上体をどのようにくねらせても、腕でなにを掴
んでも、そのたび巧の肉棒を食い締めて放さない都の熱く狭くうごめく膣肉は、巧の欲
望を遥かに越えたとてつもない快感を、巧の下半身に生み出していた。
 みちみちと乱れた息に呼応して収縮する肉の感触は、もう、たまらなかった。浴室で
唇に吸い上げられたときのことも吹き飛んでしまって、巧は姉の状態を忘れた。

 肉欲に満たされて、巧は前後に腰を動かしはじめる。
 姉のくぐもった声がかすかに、とめどなく漏れ聞こえ、巧はそれにも刺激されて激し
く姉を突き上げた。理性もなにもない動きだった。
 環の力強く押し包んでくる感触と違い、ひたすら狭い姉の肉の穴を彫るようにえぐっ
ていった。
 姉の背中は、巧の動きに引っ張られてぐにゃぐにゃとのたうっていた。
 その艶かしい肌を犯したい。そこに浴びせてやりたいと思った時には、すでに身体を
沸騰させるようなものが肉棒の先を走り抜けていた。
 声にならない声でうめいて巧が腰を強く押し付けると、その力のままに二人の膝は滑っ
て、そのまま押しつぶすように巧は腰を叩き付けた。
 生まれて初めて、巧は、なんの障壁もなく姉の身体の奥底に欲望をまきちらした。強
烈な快感が止まらなかった。二度、三度と腰を打ち付け、そのたびドクドクと絞り出す
ように吐き出していくのを自ら感じ取り、魂を震わせる。
 どうやっても同じセックスなのに、なのにこれは命の喜びとか、そういう別次元の体
験なんじゃないかと思った。酔った。
(こんなの、言葉じゃ絶対伝わんねーよ)
 巧は胸を詰まらせて、押しつぶし、刺し貫いたままの姉をかき抱き、首筋に頬を擦り
付けた。それに反応するように都が首をめぐらせてくる。
 すぐに唇で応えた。
 目的を遂げて萎んだものが姉から抜け出る感触を味わいながら、舌で激しく姉を貪っ
た。

 §
 
 あわよくば二回戦を、と目論んでいた巧は、後始末をしようと明かりをつけた瞬間
ギョッとして、
「ね、姉ちゃん大丈夫?!」
 とベッドでうつぶせのままの姉に駆け寄った。
「?」
 姉が熱い息のままで薄く微笑んで上体を起こし、巧はそのしなやかに反った背中にも
う一度頬ずりでもしたいところだったが、
「シ、シーツ……」
 と姉をそこから起こし、大出血で真っ赤に染まった姉の股間とシーツを、死ぬほど引
き抜いたティッシュで押さえ、
「ごめん、俺、なんも考えてなくて……」
「その、痛かったけど、こういうものじゃないの?」
 姉のかわいいセリフを味わう余裕もない。
 悪くてもせいぜいちょっと染みになるぐらいだと思っていた巧は、まったく備えをし
ていなかった。これは洗ってもとうてい落ちないだろう。干したりなんかしたら、なん
の染みかまるわかりだ。近所中に知れ渡るに違いない。
(す、捨てるしか……)

 シーツを剥がした下のマットにも染みができていた。
 恥ずかしそうな姉を晒しておけなくて、手早く後始末をつけると、念のためナプキン
をそこにあてる姉から慌てて目を逸らし、明かりを消して二人、服を身につけた。
 丸めたシーツを厳重にくるむと、ゴミ袋に押し込んだ。マットはウェットティッシュ
でひたすらつまんだらなんとか綺麗になった。
 巧はくらくらしていた。
 予想外のことに、かえって欲望を刺激されて、今一度、姉を押し倒したくてしかたが
ない。これ一度っきりにしたほうがいいのではないかという気持ちがまだどこかにあっ
て、ならば思う存分貪ってしまいたいという思いが、神経を高ぶらせている。
 そんなことはできるはずがない。だから、せめてその身体をいたわりつつ、まさぐっ
て自分の肌を慰めた。
 都はそんな巧を知ってか知らずか優しい目で見つめ、静かに手を巧の背中に添わせて
いる。
 
 お詫びと称して巧が服の上から触れてくるのを、都は陶然となって受け止めた。
 巧はそれを見ながら、この姉から離れたくない自分を、もう完全に受け入れていた。
嬉しかったのは、やり終わったあとの高揚感がまるで環のときと同じだったことかもし
れない。自分で見極めた自分の気持ちは、間違いではなかった。
 環には「生でやりました」とか「思いっきり中出ししました」とか報告しないといけ
ないだろう。姉に確かめる。

「姉ちゃん、本当に二番でいいと思ってる?」
「そんな、だって……」
 都は、なにをいまさら、と言いたげに膨れた。
 それは確かに自ら日陰者になることを選択したのだから、巧をもそうしてしまわない
ように、ということなのだろうが、巧に都合が良すぎる。
「姉ちゃん、どのぐらい痛かった?」
 巧が下腹を押さえるように聞くので、都は身体をよじってその手をはずし、
「その、痛いのはそれほどじゃなかったの……、すごく汚しちゃったけど、あの、ごめ
んね」
「姉ちゃんがあやまることじゃないでしょ」
 むしろ原因は自分だろうと巧は申し訳なく思い、
(やっぱり、早く気持ちよくさせてあげたいなあ)
 と自分と姉のどっちが嬉しいのかわからないことを考える。
 当面触りたいから触る。姉は喜んでくれる。それでいいじゃないかと思う。
 膝の上に姉を抱え、後ろから胸を揉んでいると、もういつまでも飽きない。そうする
うちにまたできあがってしまった顔の都に、
「ずるい……」
 と言われ、巧はズボンを下ろされてしまった。
「いや、汚れてるから」

 と姉を制し、やっぱりもう一度シャワーを浴びてくると言うと、さらにいっしょに入
りたいと乞われた。渋っていると、
「意地悪」
 その表情がかわいすぎる。
 こういうところは環には絶対真似できない。これだけでも姉を捕まえておく価値があ
るのかもしれない。
 逆に、たったこれだけのことで姉が幸せになるのなら、それを頑として拒んできた自
分のプライドなど紙屑のようなものだと思う。
 
 最後の冒険をしようと、都の部屋はそのままに二人でこっそり降り、急いでシャワー
を浴びた。
「ほんとはもう一回したかったんだけど」
 と口を滑らせ、姉が口を使ってくれようとするのを見て、慌ててそれを止めた。さす
がに下はまだ痛いのだろう、巧はそのかわり、と付け加え、
「予定通り、明日もしようよ」
 と姉を誘った。
「だから今日はもう、そんなことしないで」
「うん……」
 とても恥ずかしそうな、でも嬉しそうな姉を見て、切なくなって巧はそのままシャワー
のお湯の下で姉を抱きしめた。あててあったものを外した姉の股間からは、血とそれに
混じった白いものが腿をつたって流れていく。

 見なかったことにしてそのまま唇を吸い、そこで別れることにした。
 姉は先に出て、部屋に戻る。
 巧は、しばらくお湯を張り直したバスタブに浸かり、姉の身体を反芻し、それからは
るかのことを思った。
 巧が何を考えていようと、周りはそんなことにおかまいなしだった。なるようにしか
ならなかった。
(いーや、なるようになる、だな)
 だから明日も楽しくやりたいことをやって、見逃してもらえればいいなあ、と思って
いる。ゆっくりしてから部屋に戻ると、姉からのプレゼントのようなものが机にたたん
で置いてあった。
(穿いてた下着……)
 とりあえず置き忘れだと思うことにする。
(寐てる間に頭に被せてやろうか──なんてな)
 後日、悪戯として実行した後でただの置き忘れだったことがわかり、久しぶりに殴ら
れることになるのだが、その前に巧には明日も素晴らしいお楽しみがあるのだった。 

 朝九時にはもう二人とも裸になって、都のベッドの中でどろどろになっていた。
 昨夜のことで巧のベッドが使用不能になり、こっそり干してあるので、今度はみっと
もなくも対策をたてて臨んでいる。
 その見返りを考えれば、こんなことはなんでもない。
 マットの上にビニールと鬼ほど新聞を敷いて、廃棄処分決定の血なまぐさいシーツを
折って被せ、そのうえに姉の白い下半身を乗せた。
 足の間に入って太腿に舌を這わせ、膝裏から回した腕で姉の腿を抱え込んだ。
 目の前の下肢は幾許かの性感に震え、姉の股間にうつ伏せで顔を寄せた巧にはもうそ
れを喜ばせることしか頭になかった。
 昨夜血の海をつくったばかりの姉の中へ、そのままでは入っていく勇気はない。よく
はわからないが、環のように、とろとろに濡れて溶けそうになるまで愛で尽くし、いつ
でも自分のものを受け入れられるようになるまで道を拓いていきたいと思うのだ。
 両腕で姉を引き付け、もう濡れ始めているそこをなんども優しく吸った。
「巧、汚……」
 戸惑うような姉の抗議には耳を貸さず、芽のように盛り上がった肉のつぶに舌を持っ
ていって思考そのものを封じてしまう。

 ビクンと背中を反りかえらせ、巧の髪を掻きむしりながらもその手は押しつけていて、
両足は巧の頭を柔らかく締め付け、確かな快感があることと、身体がそれを求めている
ことを巧に伝えていた。
 巧が両腕をさらに引き付けると、姉の腿は巧の頬をもう溶かしそうなくらいに柔らか
く張り付いてきて、頭の中に普段の凛とした姉を思い浮かべるたびくらくらして、巧は
このまま溺れていては男がすたるとばかりにしばらくそこへ執拗に舌を送り込み続けた。
 与えて同時に貪ることが容易なのは、はっきりそこに気持ちがあるからだ。
「だめ、だめ、……巧、だめだから、嫌っ」
 都は言葉を切れ切れにこぼすたび巧を取り込もうとするように、きつく股間を引き締
めてくる。呼吸路をなんとか確保しながら、巧は肉の亀裂を強くなぞり、そのたび姉が
身体を跳ねさせてなにごとか口走るのに向け、
「ぜんぜんだめじゃない」
「ぜんぜん嫌じゃない」
 と、姉に快楽を認めるよう追い立てていった。
 早く気持ちよくなって元を取ってくれと思う。昨夜の巧の身体の中でのたくっていた
ような快楽は、後ろでした時しかまだ姉にはもたらされていない。
 巧はしつこく姉の肉の内外を舐めて吸い、固めた舌先でえぐった。中からあふれ続け
る液体で顔がふやけてしまいそうだが、本当に姉が柔らかくなるまで、続ける。
 冷たかった部屋の空気は甘く濁り、姉の白い肌は紅潮してまさに『食べごろ』と言っ
てよかった。だが、姉はまだ昇りつめていない。

 ここだけはちっぽけなプライドにこだわってみる。今が姉の身体を支配するほんの第
一歩だ。すでに手にした心より、今は身体を手に入れた証が欲しい。
 自分の行為のいかがわしさと卑しさを(これでいいのだ)と決めてしまうのは、とて
も気持ちがよかった。たまらなくいやらしい女の身体を、狂ったように貪らない男なん
て、世界には必要ないのだ。
 今や姉からは硬さがまったく感じられない。
「や、巧、来て……、近くに来て、ぁ……近く、お願……」
 姉の懇願に似た声に胸を熱くしながら、舌を姉のよく反応するところに執拗に送る。
今、痙攣するように姉が手足を突っ張っていくのがわかった。巧はそれを焦らすことな
く、与えられるだけ惜しみなく感覚を与えていくだけだ。
 都は、おかしくなりそうな快感の渦に身体をくねらせながら、すがりつく対象を求め
ていた。だから巧は、ほんの少しだけ待って欲しいと、姉が昇りつめて脱力したところ
へ自分のものをあてがってゆっくりと、滞りなく腰を押し込んでいった。
「はッ…………」
 息を詰まらせるようにして姉がその圧迫感に耐えている姿に、謝りたくなるのをこら
え、昨夜に増して狭く熱く感じる肉の穴の中へ自らのすべてをゆだねるように埋め込ん
だ。
 巧は奥底に突き当たったのを確認して、高揚と快感にしびれる身体を姉の上に下ろし
た。その精神的な充足感は本当にはたまらないったらない。そうして、待たせてしまっ
た姉に思う存分抱きしめさせてやる。自らも、姉にこの気持ちを伝えるために気持ちを
込めて抱き込んでいく。

 巧の腕の中で、健気にも足をいっぱいに広げて巧の分厚い侵入に応え、巧の下半身を
喜ばせている年上の女性は、小さな嗚咽をもらしていた。
「姉ちゃん……泣かないで、頼むから」
 姉の感極まった様を見せられるたび、巧は切なくなる。その切なさが苦しいまでの股
間の快楽とないまぜになって、限り無い陶酔感を生んでいるのは疑いがなかった。
 だからよけいに、この身体が二度と離れないのではないかという怖れにも似た甘さに
巧はハマりきれないのだ。
 巧にとっては、姉が『いつか出ていく人』であることに変わりはない。そのうえで今
は自分の愛しむ心のままにかわいがってやることに欲望を感じて、それを肯定した。そ
れ以外に巧が巧である方法がないことは由美が教えてくれた。
 巧が姉の身体をかわいがれなければ、姉の今の幸福は成り立たない。
 姉の心は、巧には少し重かった。
 快感に酔ってくれるまで、巧は姉を離せない。今だけは姉の気の済むようにと思い、
うごめく姉の膣内の感触をじっと堪能しながら時を待った。
 
 §
 
 姉の激情がおさまるまでその髪を優しく撫でていた巧は、自らの欲望に立ち返って身
体を起こし、
「もうしばらく痛いの、我慢してよね」

 と姉の意識を、繋がったままの自分達に呼び戻した。
 間違いなく痛みが続くだろう姉の苦しみを、できれば今日一日で終わらせてやりたい
と思う。快感を得ることなく巧の欲望を受け止めるだけのひたむきな姿も、それはそれ
で巧の心のどこかを震わせるのだが、本当に欲しいものはその先にある。
 舌で姉の口の中をとろかしてから、巧は腰の動きを始めた。
 力を入れたり抜いたりしながら、自分からも痛みを軽減しようと動く都の姿がとても
愛おしかった。それは巧の欲望をさらに刺激することになり、肉棒の強張りを高めて姉
を痛がらせることは間違いないのだが、しかたがない。
(絶対、気持ちよくなるよ……)
 自分に言い聞かせるように、巧は姉が痛がるところを積極的にえぐった。
 なにか、麻痺しているのかこなれてきているのか、痛がるところと痛がらないところ
がある。
「んっ……」
 と姉が息を吐くたびに身体を傾け、巧は姉の身体をいろんな形に折り曲げていった。
 処女の名残のようなものを探して、横向きにした姉の片方の太腿を抱え、垂直に姉の
内側をえぐっていたら、たまらなくなってきた。
「姉ちゃん、いくよ……」
 遠慮しないでイくときにはイこうと心掛け、欲望のままに腰を振り、送り込んでその
まま激しく注いでいった。荒い息をついて頬に唇を寄せると、都はなんとも言えない嬉
しそうな恥ずかしげな表情で、そんな巧を見上げる。

 姉は幸せそうな女の顔をしていた。
「ん……」
 自分の中で小さくなる巧を、手に入れた勲章のように思っているかもしれない。もち
ろんそんなことはお互い様であり、巧は役得以外のなにものでもない極楽の中にいる。
 巧がまた姉の身体をくるっと回すと、
「最初からそんなに、痛くないの。でもまだちょっと……」
 都はそう赤くなりながら自分の身体のことを説明し、少しだけ辛そうにする。
 巧に気を遣っているだけじゃなく、これが、いずれ通らなければならない道だとわかっ
ている顔なのだ。堪えられない瞬間だ。
 巧は乱れた髪を一度整えてやって、また姉の身体にいやらしく目を向ける。硬さを取
り戻すまでの間、うつぶせた汗ばむ背中に夢中で吸い付いた。
 姉の背中が特別弱いのは疑う余地がない。前に回した両手のひらで胸を揉み上げなが
ら背筋を唇でなぞっただけで、もうシーツを掴んで肩を突っ張らせた。
「姉ちゃん、背中本当に弱いよな」
 そう言いながら舌で背骨をぬるぬると舐め上げていくと、首筋から耳まで真っ赤にな
りながら「意地悪っ」と二度巧をなじり、シーツを掴んだ手をどんどん脇に引き付けて
きて、頭を左右に振って堪えている。
 片手を胸から抜いて、そんな姉をまたえぐり抜くべく下半身を誘導した。
 先端をぴったりあてがった瞬間に、姉が背中のあまりの性感の強さに暴れるので、ぬ
るっと勢いよく突き込んでしまった。

 今度は巧が快感に打ち震える。
 身体をのけ反らせていた姉は、一瞬に穴の中を埋め尽くした巧をぎちぎちと締め付け
て絞った。
「ま、待った、くぁ……」
 意識が飛びそうな刺激を受け、巧は姉をぐちゅっと突き上げた。
「んっ」
 と都が受け止めながら足を心持ち拡げる。うつ伏せの股間からにじみ出るものは、こ
とごとくもう血ではなく、感じている女の喜びの証だった。
 そんな姉を横に勢いをつけて引き倒し、裏返しに自分の身体の上に乗せた。仰向けの
ままで、姉は巧に後ろから入れられている形だ。
 
「こうやってきっちりとくっつくとさ、本当に繋がってるって気がする」
 巧は姉の手と足を自分に合わせて乗せ、両手の指は握りあわせた。
「ついでに姉ちゃんのお尻の形がよくわかって最高」
「や……」
 都がそれを聞いて逃れようとするのは許さない。固く握ったまま姉に続けて囁きかけ
る。
「たまんないんだよ、これ。俺を幸せにしてくれる形。それと──」
 自分の上で恥ずかしさに震える姉をこのまま虜にしようと、
「俺を気持ちよくしてくれる、ここ」
 と、腰を軽く上下させて姉の中を擦ってみた。

「姉ちゃんの身体は女としての魅力を全部持ってるんだよ?」
 その瞬間に姉の中が収縮して、巧は悲鳴を上げそうになる。仕返しに、少し意地悪な
話をした。
「言っちゃうとさ。……環さんも、そうなんだよ」
 都は沈黙で応えた。
 巧の続きの言葉を待っている。
 巧は姉の首筋にちゅっと軽くくちづけると、
「環さんも、姉ちゃんも、全然タイプが違うからとても比べられないけど、最高にいい
女だと思う」
 巧は、環の前ではとても言えないと思いながら、言葉を続けた。
「いまさら、なんで俺なんかに、なんてしらじらしいことは言わないけど。本当に二人
ともたまんないよ、俺。一日中抱いてたいもん、一日中」
 腰をずらして姉から抜き、降ろしてから改めて姉の上になって見下ろし、
「入れるよ」
 と、返事を待つでもなくまたぬるぬると姉の中に入っていった。
 都は目を閉じて息を吐きながら、それを受け入れていく。
 痛みは収まっているようだった。巧の方も今は落ち着いていて、余裕を持って姉の中
を往復し始めた。それを、身体の下でただ感じ取っているというのはどんな感じがする
ものなのだろう。

「大丈夫?」
 一度動きを止めて、念のため聞いてみると、
「たぶんしびれてる……痛くないから、巧がいいようにして?」
「もう好きにやってるし、姉ちゃんはなにも感じない?」
「巧とこうしてるだけで、気持ちいいから」
 姉の顔からはおよそ不満のようなものは感じられなかった。
「なんか、すごく不思議な感じ。あんな大きいのがおなかの中で動いてるのに、形がわ
かっちゃうくらいなのに、どうしてだろうね、好き放題やられてるはずなのに、ううん、
巧だから、私になにをしてもいいからなんだと思う」
 都は濁りのない微笑みを浮かべ、
「巧は私の全部だから」
 と言った。
 心の底ではやっぱりこれが聞きたかったのだと、巧は思い知った。
 本当にこの女が姉だなんて、もったいない話だった。今はどう思っているかと聞かれ
たら、そんなことはどうでもいいと、答えられる。
 腰を動かしながら、舌を絡ませあったり、胸の先端を指で転がしたり、思い付くまま
に姉の身体中を楽しむ。律動に合わせて胸がゆるゆると波打ち、なんともいえず心地よ
さげに見上げて腕をのばしてくる姉に、今度は唇をきつく吸って応え、愛しさを染み込
ませるように奥の奥に突き上げておいてから、じっと沸き上がるものが昇ってくるのを
待った。だが待つまでもない。すぐに、うねうねと締め付けている膣内の動きだけで巧
は脳を掻きむしられるような悦楽に狂わされ、やがて最高に高いところまで弾け飛ばさ
れるように、姉の中に吹き上げた。都は、おそらく半ば本能的に、両足を巧の腰の巻き
付け、巧の射精の瞬間を感じ取ったようだった。二人きつく抱きしめあって、巧はその
瞬間にゼロ距離での歓喜のすべてを味わった。

 §
 
 二度出された巧のもので、都はさすがに中の感触の変化を感じ取っていた。
 都合三度巧のものを身体の奥で受け止めた事実と感動は、何ものにも替えがたい。ふ
と最後の瞬間のぴりっとした違和感に思いを馳せた。
 中で気持ちよくなるってどういうのだろうとずっと問い続け、もしかしたら、とそれ
に期待を寄せる。
 環がうらやましかったが、今はどうだろう。
 少しバツが悪そうに、でもとても気持ちよさそうに自分の上で身体を弛緩させている
弟を、都は、思わず腰に回していた足をこそこそと降ろしながら、優しく抱きしめた。
 最高に恥ずかしかったが、自分の身体に最高の賛辞を送ってくれたエッチな弟のため
に、説明をしてみた。
 もう何度かしてみたら、その行為で気持ちよくなれるかもしれない。
 今は少し痛みがぶりかえしているが、もう通過儀礼のごとき苦痛からは逃れることが
できたと都は確信している。
 都の言葉に、巧がどんな顔をしたか。

 これこそが自分が手に入れた最高の宝物なのかもしれないと思わせるほどの、弟の本
気で嬉しそうな照れ笑いを、永遠に記憶に残しておくのだと目を見開く。それから薄く
閉じ、弟の息づかいを間近に感じながら、もう一度大きくなってくれないかなと、はし
たなく弟の下半身をあやしてみた。
 まんざらでもない手ごたえがあって、さっきの都の告白の成果もあったのか、巧はし
ばらくへたっていたが、おもむろに上体を起こし、都の身体への執着を再び証明してみ
せた。
 
 もう一度巧のものを身体の奥に受けてそれから、学校に持っていくはずだった弁当を
ダイニングで広げて二人で食べた。
 若さと一言で言ってすむのか疑問に思えるほど、巧は都にとって悦ばしい存在となり、
結局さらに午後にも巧は都の中に一回注ぎ込んで、ついにそこでギブアップした。 

 その後、三人になる機会を得た。
 期末試験の終わった後に屋上の給水塔の裏で、姉の胸を制服の上から触っているのを
環に見られてから、巧は二度と学校ではなにもするまいと決めた。環が、
「あんたら、それだけは絶対やばいから」
 と両方の頭にゴツンと拳を振り降ろしたので、真剣に反省する。都の方は、ぱっと見
赤くなっているだけのような気がしたので、巧は人さし指を姉の唇に近付けてみた。
 ちょっと怖い顔をされたので、逆にほっとする。
 自分以外は冷静だということだ。
「ところで姉ちゃん達、なんかめちゃくちゃ寒いんですけど」
「そりゃ冬だしねえ」
「中に戻りてえ……」
 巧はぶるっと身体を震わせる。陽が陰ってきて、お世辞にも暖かいとは言えない。
 巧は都を腕の中に抱えた環ともたれあっていたのだが、それを見た環がいそいそと巧
の反対側に移ってサンドイッチしてきた。
 都も直接巧にもたれかかってきて、そうすると結構暖かい。
 そうやってしばらくじゃれあうように時間を過ごし、陽が傾かないうちに、と屋上か
ら降りていく途中、クラスの馴染み連中と出くわした。

「おまえら、なに残ってんの……」
 と巧が軽くやり過ごそうとすると、その中にいた清美がじっと巧達の方を見てから、
「一瞬、どっちとつきあってるのかわかんなかった」
 とドキッとすることを言う。
 男子の間では巧は、やっかまれる反面一目置かれるような、多少気持ち悪い扱いを受
けていた。因縁をつけようとしたり、逆に変にあやかろうと近付いてくる者もいないわ
けではなかったが、大橋守やこの残間清美のような一部の変わり者がいたおかげで、巧
の周りは概ね平穏だった。
 巧が冬休みのこととか、友達同士での企み事を調整している間、都と環は昇降口まで
降りて行って内緒話をしていた。
 
「イヴイヴにさ、由美と三人で出掛けない? 巧くん抜きで」
「いいけど……」
 都は環のこの手の誘いには慎重に受け答えすることが多かった。
 今の由美にはなにやら熱心に取り組んでいることがあるらしいのでそのままに見守っ
ているものの、後ろめたさは依然として残っている。
 都としても友人としてできるだけのことはしてやりたいので、だからこそ今はそっと
してある。
 それはともかく、12月の23日、いわゆるイヴイヴのその日に、
「カラオケボックスでお勉強ってどうなのよ」

「お勉強じゃないもんねっ、お披露目なんだぁ。あ、ここは全部あたしが払うからね」
「なんで?」
 環が首を傾げると、由美は革鞄の中からなぜか預金通帳と変な書類を持ち出した。
「なにこれ」
 と覗き込んだ環は卒倒しそうになり、
「これもしかして自分のなの?」
 と由美に聞きながら都を押し倒して、都にも中を見せた。
「小遣い稼ぎのつもりだったんだけどぉ、もうね、勝ち決定?」
 たぶん由美一人では、普通に暮らしてたら一生かかっても使い切れない×5ぐらいの
金額が記帳されたそれを、環は生まれたての特別天然記念物(カブトガニとか)でも扱
うような危うさで由美の手に返した。
「あんたって、やっぱり天才?」
「で、財テクお姉さんに呼び出された俺はなにをすればいいのでしょう」
 いないはずの巧の声に都と環はドキッとして振り仰いだ。
「あれ、由美巧くん呼んだの?」
 入り口でダウンジャケットをばさばさ脱ぎ出した巧は、そのまま由美の横に収まり、
環がそれを見て、
「ああっ、なんか怪しいぞ、そこっ!」
 と茶化すのを都は見渡していた。
「そりゃ、あたしたちは一度キスした仲だもんねぇ〜?」
 由美が言い出したことに巧は慌てた。

「ちょっ、あれはその」
「ふーん」
 環が行儀悪くテーブルの上に乗り、対面の巧の方ににじり寄る。
(あっ、またなんかいらんこと考えてる)
 と巧が逃げようとすると、
「こーんな風に──」
 と由美が環と巧の後頭部を捕まえてサンドイッチにした。予定外のこんな場でのキス
に、二人で目をぱちくりさせる。
「──あの頼子さんにやられただけよっ! ふーんだ、そこっ、やって欲しそうにしな
いっ!」
 と今度は、由美は都をつかまえて巧にぶつけた。
 唇の事故、それは都の胸に来た。とても新鮮な感覚。
 こんな風にするキスなんて、自分と相手だけではできないわけで、なにかそれだけで、
都は自分を巧にとっての普通の女の子のように扱ってくれるこのいわくつきの親友を忘
れられないと思う。
 彼女が幸せになるだろうことにも疑いはなかった。
 自分はどうなるのだろう。
 巧が死に物狂いでやろうとしていたことを自分は無慈悲にも完全に破壊し、だけどこ
うやってまるで恋人にでもなったみたいに側にいる。
 自分の性格が嫌にもなり、でも自分をやめることもできない。

 これから巧と離れ、東京の大学に行く。
 都は、それだけはちゃんとしようとしている。

 夏も冬も雨も 遠慮がないからきらいだ
 君も僕も彼も 遠慮がないからきらいだ
 でも大好きだ
 君が大好きだ
 
 巧が嫌がらせのような歌を唄っているのを見つめる。
 不思議とすんなり受け入れていたが、
 
 血が止まらな〜い
 血が止まらな〜い
 
 巧が自分の方を向いてそんなのを唄い始めた時にはさすがに切れて、都は真っ赤になっ
て巧を殴りつけた。

 §
 
 とある女の子イベントの翌日、巧は駅前を巡り歩きながら、環に久しぶりにお茶をお
ごっていた。
「環さんはさ、最初俺のことどんなやつだと思った? 最初から好きだった?」
 恥ずかしくて聞きにくいことを、時々こうやって聞くようになっていた。
「ずっと遠くにある宝石を見つけようと思って双眼鏡で見ていたのに、ふと足下を見た
ら大粒のダイヤが落ちてた──って感じ。一も二もなかったけど?」
 環は恥ずかしげもなくあっさりと答える。
「はあ、さようでございますか」
「しかもそのコが恋人になってくれて、私も女だから、惚れた男がさ、言い寄ってくる
女を片っ端からちぎっては投げちぎっては投げってはねつけるのを見るのは、そりゃ嬉
しかったな」
 そこで環は寂しそうに笑い、
「でもその中に都も入ってるのがすごく悲しかったの」
「環さんの動機はそれだったわけね……」
 いいけど、と巧も気楽に昔を振り返った。
 自分達の周りの時間の過ぎていく速さに、巧はついていけていなかった。
 先日も休みを利用してマンションを探す二人につきあって上京し、まぶしい喧噪の中
で都会人の毒気にあてられながら、巧はやがて現実に来るその日を感じていた。

 安く上げるためとかいろんな理由で、姉と環は二年間二人で生活するらしい。
 あれだけ大騒ぎをしておいて、春になればこの学校には巧一人だけになるというのに、
痛くも痒くもないとでもいうような、二人が表面上はそんなふうに冷静なのが気に入ら
なかった。
 巧は思いあまって、いままでためらっていた姉とのコトの顛末を環に話した。
「そういう話をするってことは、私にもしてくれるってこと? 生で」
「……あんまり環さんらしい返し方なんで、なんにも言えない……」
「お返事は?」
 環の邪悪な笑い方は完成度が上がっていた。
「それっきりやってないんで、できればかんべんしてください、心臓に悪いから」
 と降参する。
「貸しにしとくからね〜」
「環さんが行くガッコって新宿だっけ」
 巧が無理矢理話題を変えようとするのを環はおかしそうに見ていた。
 絶好調の厳しい冬ではなく、今年は暖冬だ。
「ちょっと駅から離れてるけどねー」
 それなりの寒さを楽しむように、やたらと外へ出ていた。自由登校で力が有り余って
いる三年生と、そうでもない一年生。
 今日は駅前で二人で過ごし、後から都が合流することになっている。
 なぜかというと、それは巧が夜のうちにがんばりすぎたからだ。

「あの人、運動不足だから。しばらく大人しくなってくれるといいんだけど、そうはい
かないよなあー」
「じゃあ、都もアレに開発されちゃったのね、このエロエロ少年のせいで」
「いや、まだ」
 巧はいいかげんあからさますぎる会話に赤くなったままで、
「そんな気持ちよくはないみたい、まだ。しかもなんか、気にしてるらしい気配を感じ
るんですけど」
「へー、そっかー。なーんかドキドキするなあ、友達のそういうのって」
 環は、例の表情で好奇心満々に巧を覗き込む。
「環さんひょっとして、見たいの?」
「うん」
「元気よく言うなっ……」
 巧が頭を抱えていると、
「あっ、おーい、都こっち!」
 話題の人物が巧のハーフコートを着て歩いてくるのを見て、
「また俺の着てるし」
 巧が不平を言うと、逆に文句を言ってきた。
「これ、暑すぎる」
「しかもなんか怒ってるし」
 と横を向くと環がけらけら笑いながら、のぼせて顔の赤くなった都を扇いでみせた。

 三人で出掛け、遊ぶのが当たり前になっている。
 お互いのポジションに関して触れるようで触れない会話をし、じゃれあっていても誰
も遠慮をしない。
 そしていつものように巧を真ん中に三人でベンチに座っていると、
「春に都の前で襲ってみせたでしょ」
 と環は古めの話を持ち出した。
「あのときの巧くんともう全然違うんだね」
 環が目を細めて感慨深げに巧に見つめている間、都は目の前のなにもない空間をぼん
やり見ていて、なにを考えているか巧にはわからなかった。
 普段都に触れる時の巧から慎重さが消えることはない。今も触れずに姉を見つめてい
るだけだ。
「カッコいいよ、巧くん」
 帰り際に環が唐突に巧に耳打ちして腕を絡めてくる。
「サッカーやってる時とか走ってるときとかもいいけど、やっぱりそうやって都を見守っ
てる巧くんはカッコいい」
「どういう意味?」
 環はそれには答えず、ふと思い出したように都を向いて、
「東京に行っちゃう前にちゃんと気持ち良くさせてもらいなさいよ」
 と捨て台詞を残して、一人で笑いながら夜道に消えていった。

 こういうのが、家に帰ってもいっしょにいられる二人に対するおなじみの仕返しになっ
ている。おそるおそる姉の方を振り返り、
「バラすか、普通。別にいいけど」
 と笑ってごまかそうとするが、無駄だった。例の低い声で、
「そんなことまでしゃべるのね? それなら今夜中にでもそうしてもらうから」
 と威嚇される。が、迫力がないのはやはり赤い顔のせいだろう。
「いい加減無茶言うのやめてくれ、頼むから」
「無茶だと思ったら巧がしなきゃいいだけのことでしょ?」
 巧はその姉の発言に顕れた変化に新鮮な驚きを感じていた。
 それは心境の変化というよりはシンプルな欲求に近く、巧との接し方をより現実的な
形で欲しがっているように見えた。
 今の巧に、そういう変化を拒む理由はない。
「そう言えば俺、姉ちゃんが出てくる夢って見たことないな。覚えてないだけかもしん
ないけど」
「私はいっぱいある」
 道すがら人目のないところではややつっこんだ、場所を選ぶ話をすることもある。
 例えば今なら、
「俺はなにか、姉ちゃんに精神的にストップをかけてるものがあると思うな」
 一歩踏み込んで、そういう話をしながら帰ることにする。
「明日さぼるからさ、また昼間堂々とやろうか」
 と、自由登校で暇な姉を誘う。

「俺たちはリスクを払っているんだから、その分気持ちよくならないと割りに合わない
だろ?」
 それで都はさらに変化したように巧には見えた。
 この姉のわかりやすさはいつも脅威だったけど、受け入れてしまえばこんなにも心地
がいいのは、懐の深いあの環に包み込まれているからだろうと思う。
 環は会っている時にしかそばにいない。そばにいなくても、残された時間は消費され
ていく。時間というのはこの世で最も冷静な存在だ。春になるまでこの速さは変わらな
かった。
 
 §
 
 巧は、姉達の卒業式の日、由美とひとつ約束をしていた。
「あたしとはここでお別れだねっ」
 由美が屈託のない笑顔で言うのを姉や環と離れた場所で聞いていた。
「都ちゃんをよろしくね」
「それなりにね」
「ひどーい。でも巧くんはいい加減なことしない人だもんね、信じてるから。極端な話、
環ちゃんはなんの心配もいらないけど、都ちゃんは──」
 これまで由美に話されたことはすべて事実だったと思う。
 巧は姉の弱さを知った時に自分の弱さにも気付くべきだったし、自分の気持ちから逃
れられないことを早々に察知して行動に移した姉は、むしろ理性的だったのだと思う。

その行動が行き過ぎるところが感情的ではあったが、巧はもっと不誠実にでもいいから
それを受け止めるべきだったのだから。
 都が遠くから二人をなんとも言えない顔で見ている。
 巧が今、また環の制服と付け毛で女装して由美を見送っているからだ。
 そして今度は、
「由美、愛してる」
 と言ってから、そのまま目を閉じて顔を傾けた由美にくちづける。
 そのお別れのキスが、巧と由美の最初で最後の約束なのだった。
 環が、隠し持っていた使い捨てカメラをおもむろに取り出し、
「激写!」
 とか言ってるのを都が取りあげようともみ合い、じゃれあっているのを巧と由美は振
り返って笑い、そこで手を振って別れた。巧は姉や環ともそこで別れ、由美にしばらく
居場所を譲る。この日一日は三人と離れ、巧は家に帰ってのんびりしていた。このとこ
ろ自身もサッカーをする以外の時間を持て余していたので、アルバイトをしたりして、
今もそれとなくお金の使い道を考えたりしている。
 そしてこの日、思い立って散財しに繁華街へ出掛けた。
 
 目当てのものを手に入れて、それを姉の目から当面隠す方法を考えながら帰った。
 春一番なる風もとっくに吹いて、二人と離れる日はもうすぐだ。

 姉と環の間にどのようなことが話されているのか、巧は知らない。だから、巧は二人
が自分に向ける好意だけを信じることにしている。もちろん完全に会えなくなるわけで
はなく、距離的にもせいぜい電車で三時間。高校生には少々厳しい隔たりであることに
は違いはないだろうが、ただ巧は二人のそれに関する素っ気無さが、なにに起因してい
るのか知らないだけだ。
 姉と、環と、身体を触れあわせるたびに残りの時間は減っていき、巧はただただ二人
が腕の中にいる理由を考え、自分があと二年をこの町で一人で過ごす理由を考えた。
 思い込み以外に得られる答えはない。
 それでいいのだと思う。
 わざわざ新幹線の駅まで見送りに出て、先に送りつけた荷物を追う二人についてホー
ムまで上がった。環の差し金で、他の家族は来ないことになっている。
 無駄にした時間はなかったはずだ。だから、巧は今不思議と落ち着いている。
 都がトイレに寄っている間、環と言葉を交わした。
「二年は都といっしょにいると思う」
 環は二年で卒業だから。その後はまだ決めていないという。
「私たちはいっしょにいるから、もし二年経って卒業した時にまだ好きでいてくれたら、
その時には飛んできてね」
「約束します」
「浮気するならこの二年の間にしといてね。ていうか、しなさい。そのくらいしてくれ
ないと私の気が済まないし。でも、そのかわり私たちのとこに来たら最後、させてやら
ないからね」
 そんな言葉に環の自責がかすかに顕れる。

 夏休みに巧の身に起こったことで、環がどれだけ自分を責めて落ち込んだのか、巧に
は想像することはできない。もし二年後彼女の前にちゃんと立つことができたら、その
ときにそれもわかるのだろうか。
 なんにせよ、最初にはるかの顔が浮かんでしまう自分に苦笑する。
 環の前でそこまで罰当たりな想像のできる自分を、受け入れていいのかどうか。
 だから建て前であっても、こんなことを言ってしまう。
「環さん、あんまりその相手のこと考えて言ってないでしょ、それ」
「そうだね、ごめん」
 環が舌を出して、ちょっと黙り込んだ。
 そうするうちに都が戻ってきて、代わりに環が離れたのを確認してから、
「はるかに手を出したら殺すからね」
 と言った。
 心でも読んだのかと思うが、はるかの気持ちを知っている姉の、もっともな心配だ。
 巧は肩をすくめ、
「姉ちゃんこそどうなのよ」
 と言い返す。
 もちろん聞くまでもなかった。見る間に赤くなっている。
(この人、二年間ずっとボディロックつけたりとか考えてないだろうな……)
 やりかねない姉なので、突っ込んでやろうかと思ったが、やめた。巧の中の姉に対す
る執着は強くなっている。

「とりあえず盆暮れには会えると思うけど、あとは巧くんに全部任せとくね」
 二人は、ゆっくりとホームにすべり込んでくる列車を背にしている。巧はどんな顔を
していいのかわからず、ただもてあました。
 その最後に巧は、小箱が二つ入った紙袋を環に渡した。
「これ二人に、魔よけのお守り。……ていうか男よけ?」
「……後で電車に乗ってから開けるね?」
 環が意味ありげに微笑んでそういうので、(バレバレじゃん)と恥ずかしくなり、
「あー、うん。じゃあ」
 巧が最後に言ったのは、それだけだった。
 列車に乗る二人の背中に手を伸ばしかけ、由美と最後に話したことを思い出して、笑っ
て見送っていく。
『巧くんが二人の面倒をみるんじゃないの、巧くんが二人のものになるんだよ?』
 そんなことをあの魔法使いは言っていたのだ。
 つまり、むしろ都と環の『共有物』になった巧が、不良グループに監禁された女子高
生のように(そんな話があるのかどうかはともかく)、自分の心と現実の折り合いをつ
けてこの先、生きなければならないということなのであって、巧が罪悪感を感じる必要
はないと言っているのだ。

 そういう変なことばかりを言われて、常識的な物の見方がなんだかわからなくなって
くる。それでいいのかもしれないし、よくないかもしれない。巧には、二年間で強くな
ることが課せられていて、結果として二人を受け入れられればそれでもいい。そうはいっ
ても、人の気持ちはどうなるものかわからない。二人が巧をちゃんと待っている保証だっ
て本当はない。だけど、こういうことは年上の方が不安になるものだ。
 保証はないけれど、このままいけば自分達は三人で生きていくことになるのだろうと
思っている。
 でももしうまくいかなくなることがあっても、壊れずに自分らしく対処していける基
盤のようなものはできた気がするし、たぶんそのおかげで不幸な離れ方はしないですむ
だろうし、巧はそういう生きていく基本的な方向性を獲得できたと実感しているのだ。
 さしあたって考えなければいけないのは、父やはるかのこと、環の家族のこと。
 他になにもいらない、なんて無我無欲な人間はいない。だから、姉が最後まで自分を
選び続けるとは巧は思っていない。
 二年という時間がはたして長いのか短いのか、今の巧には想像がつかなかった。
 今考えていることはとりあえず、はるかと一日置きになってしまう食事当番のローテー
ションと、激辛料理の行く末だ。
 バイト代の残りで香辛料を買い漁ろうと、巧は改札からまっすぐ繁華街を目指す。




了 

出典:
http://idol.bbspink.com/test/read.cgi/eroparo/1080659392/
http://sakura03.bbspink.com/test/read.cgi/eroparo/1100864019/
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