「なんでもおまんこ」 その1 「なんでもおまんこなんだよ/あっちに見えてるうぶ毛の生えた丘だってそうだよ/やれたらやりてえんだよ/おれ空に背がとどくほどでっかくなれねえかな/すっぱだかの巨人だよ/でもそうなったら空とやっちゃうかもしれねえな/空だって色っぽいよお/晴れてたって曇ってたってぞくぞくするぜ/空なんか抱いたらおれすぐいっちゃうよ/ざうにかしてくれよ/」 「おまんこ」という言葉は、私たちの共有世界において、ほとんど消える寸前の位置に漂う言葉だ。それは公には認められていない言葉だ。つまりあたかも存在しないかのように待遇される言葉だ。スラングであり、かつ卑猥な言葉とされている。ヒエラルキーの上にあって最も価値の低い位置に追いやられている言葉だ。 なぜそうなのか。 「おまんこ」という言葉の持つ性格は、その社会の上で、あるいはその個人の内面において、性行為が隠蔽されている度合いに応じて、消滅に接近する。逆に隠蔽が全くなければないほど、それは人々や個人のボキャブラリーの中から消滅する。 二つの消滅は現象としては全く別だ。 隠蔽がもたらす消滅は、「おまんこ」という言葉の存在を消すことはない。「おまんこ」という言葉はより一層強力に存在するが、言語活動の表層に現れにくくなるということだ。ある隠されたシチュエーションや、何か関係性の揺らぐ、不安の過ぎる僅かな瞬間に、「おまんこ」という言葉が私たちの眼前の状況を掠めるように通過する。 「なんでもおまんこ」 その2 性行為の隠蔽が全くないか弱い社会や個人の内面に於いては、「おまんこ」という言葉は必要とさえされない。それは認識の対象であっても、表現行為の内側には入ってこない。だから、「おまんこ」という言葉は、隠蔽の影だという言い方も出来るだろう。 性行為の隠蔽は、人間性の否定である。だから「おまんこ」という言葉は、それを発するのが男性であれば、異性を蔑視するような否定性を体現しているし、その発話者である男性の品位を貶めるような別種の否定性を帯びるのである。発話者が女性であれば、自己の品位を汚す意味を帯び、男性の人格を最低線まで引きずり落とす効果を持つ。「おまんこ」という言葉はこのようにして、性行為の隠蔽に復讐するのである。 性行為の隠蔽は、価値のヒエラルキーを維持発展させようとする意志に支えられている。その意志は禁欲的な意志である。この禁欲が、人間性を否定するのである。そこに「おまんこ」という否定性を全身に体現した言葉が生まれる契機がある。「おまんこ」という言葉は、否定された人間性の側からの、禁欲的意志に対する復讐心を身に帯びた言葉だ。 いま谷川俊太郎が「なんでもおまんこなんだよ」と言うとき、この「おまんこ」という言葉の否定性が消失する。なぜなら、この時、「おまんこ」という言葉が性行為の隠蔽という文脈から切り離されているからである。つまり、本来「なんでもおまんこ」である筈はないのだ。性行為の隠蔽という文脈の中でのみ、性行為そのものや女性性器が「おまんこ」と呼ばれうるのである。 するとどういうことになるか。「おまんこ」は今や否定性を失い、その消滅という強度だけを身に帯びて詩の中で震え始める。谷川俊太郎が「おまんこ」といい、性行為を連想するイメージを連呼するたびに、私たちは消え去ろうとする言葉を目の当たりにし続けることになる。この作品は、私たちの視界から消え去ろうとする何かを捉えた作品なのである。 「なんでもおまんこ」 その3 「丘」すなわち大地や「空」は、私たちが生きている空間から私たちにやってくるものの全体を表している。私たちの感受性は、この世界全体と融合しようとしている。すくなくともこの作品はそう言っている。世界と一体化しようとする世界感取が、「おまんこ」のもう一つの意味である。 「そこに咲いてるその花とだってやりてえよ/形があれに似てるなんてそんなせこい話じゃねえよ/花ん中へ入っていきたくってしょうがねえよ/あれだけ入れるんじゃねえよお/ちっこくなってからだごとぐりぐり入っていくんだよお/どこ行くと思う?/わかるはずねえだろうそんなこと/蜂がうらやましいよお/」 「形があれに似てるなんてそんなせこい話じゃねえよ」や「あれだけ入れるんじゃねえよお」などの部分は、性行為と今問題になっている「おまんこ」とは、全く別の文脈にあるということを確認する詩行である。 それからもう一つ、全身の感覚が問題なのだということも分かる。「花」と「蜂」のイメージは、「おまんこ」が、世界の感取であり、言い換えれば世界との一体化であることを明白に物語る。 ここまでは既に考察が済んでいる。この箇所で問題が残っているのは「どこ行くと思う?/わかるはずねえだろうそんなこと」の2行である。 「花」と一体化するイメージが、自分をどこに連れ去るのか、「おれ」にはわからない。なぜなら、そのときには「おれ」は存在しなくなるからである。世界との一体化は、「わたくし=世界」を存在させるが、この存在は、言語的存在ではない。人間の意識はこの存在の上では機能しない。私たちは、意識的にはこの経験を受け止めきれないのである。逆にこのときにおいては、言葉は失われ、意識は機能停止し、入れ替わりに無言が立ち現れ、幸福とでも言えるような世界感取だけが漂うのである。だから、「どこ」は存在しない。世界とわたくしだけがあるからである。 「なんでもおまんこ」 その4 「ああたまんねえ/風が吹いてくるよお/風とはもうやってるも同然だよ頼みもしないのにさわってくるんだ/そよそよそよそようまいんだよさわりかたが/女なんかめじゃねえよお/ああ毛が立っちゃう/どうしてくれるんだよお/おれのからだ/おれの気持ち/溶けてなくなっちゃいそうだよ」 もう一度、「女なんかめじゃねえよお」と言いつつ、性行為とは無関係であるということが言われる。そして「おれのからだ/おれの気持ち/溶けてなくなっちゃいそうだよ」という部分は、はっきりと「私」の融解を言い当てている。 「風」は、世界感取の具体的イメージだ。全身の触感に世界がやってくるのである。それを私たちは「風」と呼ぶ。世界はいつも向こうからやって来るのである。つまり世界感取という場にあっては、主体性は奪われているということだ。その場に於いて「私」は消えて行かなければならないからである。 「/おれ地面掘るよ/土の匂いだよ/水もじゅくじゅく湧いてくるよ/おれに土かけてくれよお/草も葉っぱも虫もいっしょくたによお/でもこれじゃまるで死んだみたいだなあ/笑っちゃうよ/おれ死にてえのかなあ」 大地と一体化する過程を直接的になぞるようなイメージだ。そして、それは死ぬということと、イメージの上でとても似ているという。 けれども、事実、大地との一体化は「私」の死を意味するのだ。そうすると、「わたくし」と死とは、同じものなのだろうか。これはとても素朴な疑問なのだけれども、私たちにはこの問いに答える術がない。なぜなら、「わたくし」も死も、私たちの言葉の支配する領域を越え出ているからである。その越え出ているということが、類似性となって立ち現れてくるのだろうか。そういう言い方も可能だろう。しかし、それ以上のことが私たちには分からないのである。 「なんでもおまんこ」 その5 この作品は、「おまんこ」という刺激的で微妙な言葉を使って、さらに一層、刺激的で微妙な経験に触れようとしている。 谷川俊太郎の朗読をweb上で聞くことが出来るが、実におもしろい。品のない下流社会の中年男性といった調子で谷川俊太郎は朗読をしている。「おまんこ」という言葉の地位が、そういうイメージだからだ。しかし、この中年男性は、消えて行こうとする特異な人間だ。彼が語るのは、性行為ではない。消えて行く「私」というイメージがもたらすエクスタシーを叫んでいるのである。 作品としては、とても派手な部類に属していると思う。刺激が強い。ただ、その刺激の強さがおそらく、一般の理解を妨げるであろうと予想される作品だ。 作品の価値としてはどうか? これは難しい。好き嫌いの問題だが、私はもう少しもの静かな作品が好みだ。 谷川俊太郎「なんでもおまんこ」朗読 すごい! http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=zxvuWYnbOiI 参考:付録部(blog-bu) http://blogbu.doorblog.jp/archives/52345421.html 出典:谷川俊太郎「夜のミッキーマウス」2003.9 について リンク:http://blog.livedoor.jp/osakabekenshou/tag/%E3%81%AA%E3%82%93%E3%81%A7%E3%82%82%E3%81%8A%E3%81%BE%E3%82%93%E3%81%93 |
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