「ガランガラン」 若い夫婦が河原にある社(やしろ)で鈴を鳴らしている。 「よ〜し、奮発するか」 夫、明夫は財布から1万円札を取り出している。 「よしなさいよ。もったいない」 「ケチることないって。川で溺れたりしないようにしっかり守って貰わないといけないからな」 そう言いながら、妻である悠子の制止も聞かずに明夫は1万円札を賽銭箱に入れた。 「もう。こんな小さい神社じゃ御利益もしれた物だわ」 「いや、地元の氏神に参るのが本当なんだから。いくら力の強い神様だって遠くにいたら何にもしてくれないさ」 そんなことを言いながら明夫は「パンパン」と手を打ってお辞儀をした。 悠子もそれに倣うが、赤ん坊を抱いているので拍手は出来ない。 「神様、お賽銭はずんだんですから千尋のこと宜しくお願いしますよ」 「さあ行きましょう。蚊に刺されるわ」 悠子はさっさと小さな鳥居をくぐって参道−と言っても河原から土手に続く獣道のような物だが−を歩き始めている。 悠子は明夫が小走りに追いつたのを横目で確認して言った。 「あ、そう言えば来週から仕事に戻るわよ」 「え、もう?もうちょっと休めば?」 「そんなこと言ってたら仕事貰えなくなっちゃうわよ。貴方みたいにサラリーマンじゃないんですから」 夫婦の去った境内にはいつのまにか一人の少年が立ったいた。 「千尋か…」 少年はそう呟くと、去ってゆく夫婦の後ろ姿を少し微笑みながら見送るのだった。 「ママー」 「もう。ママじゃなくってお母さんって呼びなさいって言ってるでしょ」 「‥お母さん。もうビデオ飽きちゃった。お外に遊びに行こうよ」 「お母さんいまお仕事で手が離せないのよ。お父さん今日はゴルフだからもうじき帰ってくるわよ。お父さんが帰ってくるまでビデオ見てて」 「だって、パパ‥お父さんゴルフから帰ってくるとお昼寝しちゃうじゃん」 「もう…。じゃあ、一人で裏の公園に行ってらっしゃい。下に行けばアキちゃんとかいるでしょう」 「今日はお休みの日だからアキちゃんお出かけだよ」 「そんなこと言ったって、このお仕事今日中に終わらせないといけないんだから。 アキちゃんがいなくたって、誰かお友達がいるでしょ。千尋はもう桃組のお姉ちゃんなんだからお母さんべったりじゃ困るわよ」 千尋は、コンピュータの画面に向かって忙しそうに仕事をしている悠子の背中をしばらく見つめてからとぼとぼと玄関に歩いていった。 「お休みの日はみんなパパやママとお出かけなのにな‥」 そう呟きながら千尋は靴を履いてドアを開けた。 「千尋〜。川の方には行っちゃダメよ〜」 「解ってるよ!」 千尋は玄関をでると、庭を通って垣根の隙間から小さい公園に出た。 ざっと見渡すが案の定、公園には誰もいない。 「やっぱり誰もいないや…」 千尋はブランコに座ってゆっくり漕ぎ出した。 「キーコ、キーコ」 ブランコはきしみながら揺れているが、揺れは余り大きくならない。 「やっぱりお家でビデオ見ようかな…」 千尋が漕ぐのをやめて、惰性に揺られながら空をぼんやり眺めていると、急に背中を押されてブランコは大きく揺れ始めた。 驚いて後ろを振り向くと、そこには白い着物を着た少年がいた。 「千尋。一緒に遊ぼうか?」 「お兄ちゃんだれ?」 「私はコハク」 「コハク?何で私のこと知ってるの?」 「そなたのことは赤子の時から知っている」 「でも私コハクのこと知らないよ?」 「直接会うのは初めてだから」 「ふーん。じゃあさ、お砂場で遊ぼうよ。千尋いろんなお砂場道具持ってるんだよ。コハクにも貸してあげるね」 千尋は足でブランコを止めると、砂場の方に走って行きバケツからシャベルなどを出している。 コハクが砂場まで行くと、千尋はシャベルを一つコハクに手渡した。 「トンネル作ろう」 「トンネル?」 「トンネル知らないの?お山を作って穴開けて、電車を走らせるんだよ」 そう言いながら千尋は砂を掘って山を作り出した。 コハクも少しとまどいながら、千尋を手伝う。 「コハクは小学生?」 「いや、学校には行っていない」 「行ってないの?子供なのに?いけないんだよ〜。千尋だって保育園に行ってるんだよ」 「そうか。千尋はすごいな」 「えへ」 そのとき、垣根の向こうにある駐車場から車のエンジン音が聞こえてきた。 「あ!パパだ!」 千尋はシャベルを握ったまま、垣根の切れ間から顔を出す。 駐車場では、車を停めた明夫が運転席から降りてきたところだった。 「パ‥お父さ〜ん!」 「おお、千尋。ただいま。お友達と遊んでいるのか?」 「うん。新しいお友達が出来たんだ。コハクっていうの」 「コハク?聞かない名前だね」 そう言いながら明夫はトランクからゴルフバックを出すと、千尋のところまで近寄ってきた。 大人の背丈なら垣根を越えなくても公園は一望できる。 「どこにいるんだ?」 「お砂場だよ‥」 そう言いながら千尋が振り返るとコハクはいなくなっていた。 「あれ?いなくなっちゃった。帰っちゃったのかな?」 「ずいぶん照れ屋さんなお友達だな」 「じゃあさ、お父さん遊んでくれる?」 「お父さん今朝早かったから眠くてな。来週は遊んでやるから勘弁してくれ。 そうだ、お土産あるぞ。千尋プリン好きだろ」 「うん…」 千尋は気のない返事をしながら、また振り返ってキョロキョロとコハクを探しているようだ。 「…じゃあ、お父さんは先にお家帰ってるから。道具を片づけたら来なさい」 「うん」 明夫が去っても、やはりコハクは現れない。 さっきまでコハクがしゃがんでいたところには、コハクに貸したシャベルが転がっているだけだ。 「コハク〜!また遊ぼうね〜!」 千尋はそう叫んで、シャベルをバケツにしまうと垣根の向こうに消えていった。 お砂場道具の入ったバケツを持った千尋はまた裏の公園に来ていた。 今日は公園で遊んでいる子供達も沢山いるが、皆小学生位の男の子ばかりだ。 「アキちゃんまだ来てないのか」 千尋はキョロキョロしながら砂場に向かったが、砂場では少年達が大きな川を作って遊んでいた。 どこから持ってきたのか、ホースを公園の水道に繋いでじゃんじゃん水を流し、笹の葉で作った船を競争させている。 「わー!私にもやらせてー!」 千尋が笹の葉を拾って流そうとすると一人の少年がそれを遮った。 「ダメダメ!幼稚園児とは一緒に遊ばないぞ」 「千尋は保育園だもん!もう桃組だよ」 「保育園も幼稚園も同じ!あっち行ってろよ」 千尋の目から涙がこぼれる。 「あ!泣いた!」 「泣き虫、毛虫♪挟んで捨てろ♪」 少年達は千尋に向かって一斉に歌い出した。 「バカ〜!お母さんに言いつけてやるんだからね!」 千尋は泣きながらそう叫ぶと、小走りに公園裏の土手を登って行った。 「あ〜!川の方に行ったらいけないんだぞ〜!」 後ろで少年の一人がそう言っているが、千尋は構わず土手上の遊歩道まで駆け上がると、そこにしゃがみこんだ。 涙で滲む視界には、草だらけの河原とキラキラと陽光を反射する水面(みなも)が映る。 河原には小さな鳥居と社も見える。 そのとき 「千尋。どうしたんだ?」 不意に直ぐ横から話しかけられ、千尋はびっくりしてそちらを向いた。 そこにはコハクが立っていた。 「コハク!あの子達、意地悪言うんだよ!コハクの方があの子達より大きいから強いよね?やっつけてよ!」 「そうか、いじめられたのか。でもやっつけるのは良くないよ」 「なんで?」 「人を傷つければ自分の心も傷つくものだ。 …でも、ちょっと懲らしめるくらいは良いかな」 そう言って千尋に微笑みかけると、コハクは少年達の方に右手をかざした。 すると、少年達の使っていたホースが急に暴れ出した。 「うわー!なんだこりゃ!」 「おい!早く止めろよ」 「だって蛇口に近づ‥ウワッ」 コハクが手を下ろすと、ホースは嘘のようにおとなしくなり、少年達の一人がようやく蛇口をひねって水を止めた。 彼らは頭からびしょ濡れだ。 「スゴーイ!今のコハクがやったの?魔法みたい!」 「私の力じゃない。水の精霊に力を借りただけだ」 「せいれい?」 「ハハ。千尋にはちょっと難しいかな。 あっちにきれいな花が咲いているんだ。見せてあげるよ」 そう言ってコハクは千尋に手をさしのべた。 「でも、お母さんが川には近づいちゃいけないって」 「大丈夫。私が付いている」 千尋はちょっと迷うが、直ぐにコハクの手を取った。 二人は手を繋いで土手を下った。 社の裏の川岸に着くと、そこには沢山の黄色い花が咲いていた。 「わー!綺麗」 「ここは社の影になっているから、余り人には知られていない。私と千尋だけの秘密の場所だよ」 「うん!秘密ね」 千尋が花に見とれている間に、コハクは笹の葉を採って器用に船を造った。 「千尋、これで私と競争しよう」 「わあ、お船だ!ありがとう!コハク上手だね」 「よし、じゃあ流すぞ。それ!」 二人は笹船を川に浮かべた。 「わーい!私の船が勝ってるよー!」 流れていく笹舟を追いかける二人。 千尋は時間を忘れ、日が陰るまでコハクと遊んだ。 「すごい雨だな」 明夫は窓から外を眺めている。 大型台風の上陸で外はすごい風雨になっていた。 「裏の川大丈夫かしら?何十年か前にも氾濫した事あるんでしょ?」 「そうらしいね。それで土手を高くしたらしいけど」 「今日も危ないんじゃない?」 「とりあえず車も会社においてきたし。あんな小さい川なんだから、ちょっとくらい溢れても大丈夫だろう」 「でも、前の洪水の時は流木に直撃された家もあったりして大変だったらしいわよ。お隣のお婆ちゃんは死人も出たって言ってたわ。 だからこんなトコやめようって言ったのに」 「そう言うなよ。来年には埋め立ててマンホールにするらしいから、後ちょっとの我慢だって。 埋め立てた後にはショッピングモール作るらしいから、ここの値段も上がるぞ。その為にわざわざこんなボロ家を買ったんだから」 「そんな都合良く…」 「マンホールってなに?」 不意に聞こえてきた千尋の声に振り向くと、廊下から千尋が顔を出していた。 「千尋、まだ起きていたの?早く寝ないとダメじゃない」 「だって、雨と風の音がうるさくて眠れないんだもん」 「じゃあ、絵本読んであげるから。ほら二階に行きなさい」 悠子は千尋の手を取って階段を登り始めた。 「お母さん。マンホールって?」 「地面の下に埋める大きな管よ。裏の川を埋めてその上にマンションとか公園とか作るんだって」 悠子は階段を登りながら答えた。 「じゃあ川はなくなっちゃうの?」 「無くなる訳じゃないけど、地面の下になっちゃうからもう川とは言えなくなるわね」 「じゃあ、あの綺麗なお花とかも無くなっちゃうんだ…」 「え?お花って…あなた川に行ったの?」 「あ…」 千尋は「しまった」という感じで口を押さえた。 「もう…一人で川に近づいたらダメだって、あれほど言ったのに!落っこちて溺れたりしたらどうするの!?」 「‥大丈夫だよ。あの川浅いし」 「浅くても危ないのよ!それに今日みたいに雨が沢山降ったら、あの川だってお家を流しちゃうくらいになるのよ」 「え?じゃあ、あのお花流されちゃう?」 「お花?」 「神社の裏にあったの」 「多分流されちゃうわね。 そんなことより、これからは絶対に一人で川に近づいちゃだめよ。お約束できる?」 「コハクと一緒でもダメなの?」 「コハクって?」 「よく遊んでくれるお兄ちゃん。千尋のこと赤ちゃんの時から知ってるって言ってたよ」 「お兄ちゃん?近所にそんな子いたかしら…」 「ねぇ。コハクと一緒なら良い?」 「ダメよ。お兄ちゃんって言っても子供でしょ。大人が一緒じゃないときはダメ。お約束できないならもうお外で遊んじゃダメよ。解った?」 「…は〜い」 「今度はちゃんとお約束守るのよ。ほら、ちゃんとお布団掛けなさい」 寝室に辿り着いた悠子は千尋を寝かせて毛布を掛けると、枕元の絵本をとって開いた。 「(あのお花大丈夫かな…明日、見に行かなきゃ…)」 窓に激しく打ち付ける雨の音と悠子の絵本を読む声を聞きながら、千尋は眠りに落ちていくのだった。 ものすごい風と雨の中を、一筋の白い物が身をくねらせながら飛んでいる。 龍。白龍だ。 白龍はやがて薄い雲の中に入り、そのまま雲を突き抜ける。 白龍の向かう先には、巨大な雲の城が月光を背にしてそびえ立っている。 その城の前まで来た白龍が手に持った玉を掲げると、雲に裂け目が出来て中から光が漏れてきた。 白龍はその裂け目に入る。 裂け目のなかは別世界で、立派な社が建っていた。 白龍は社の前まで来ると地面に降り立った。 見る見るうちに龍の姿から一人の少年の姿に変わって行く。 そう、コハクだ。 コハクは本殿の階段を登り、扉を開ける。 本殿の奥には一人の老人が座っていて、その手前には数人の取り巻きが立っている。 「何者だ」 取り巻きの一人が口を開く。 「我はニギハヤミコハクヌシ。この下を流れる小白川の主(あるじ)として祀られております」 「ここはクラオカミ様のお社ぞ。お前ごとき若輩者が突然訪れて良い所ではない」 「御無礼は承知でお願いに参りました」 「身分をわきまえんか!」 取り巻き達はそう叫ぶと龍の姿に変化し始めた。 「よさんか」 その時、奥に座した老人が口を開いた。 「クラオカミ様、しかし…」 「話を聞こうと言うておるのじゃ」 取り巻き達は再び人型に戻って行く。 「クラオカミ様のご厚意だ。用向きを申して見よ」 「ありがとうございます。私の統べる小白川はこの嵐のために溢れようとしております。今まで何とか私の力で押さえて参りましたが、クラオカミ様の嵐の力には遠く及ばず押さえ切れそうにありません」 「当たり前だ。クラオカミ様との神格の差を考えろ」 「はい、到底私の力ではかなうはずもございません。ですから、雨を止めていただきに参りました」 「雨を止めろだと?クラオカミ様のやることにけちを付けるというのか?」 「そのようなつもりはありませんが、このままでは人間達を守れません」 「フォッフォッフォ。元気の良い事じゃな」 クラオカミは奥の座敷から降りてきて、跪くコハクの元に腰を下ろした。 「クラオカミ様。このような若輩者の言うことなど…」 「お前らは黙っておれ。 今、ちいとお主のことを調べさせて貰ったんじゃが…お主の統べる川は人間共に埋められようとしているようではないか。そのような人間共をわしに楯突いてまで守ろうというのか?」 「確かに仰るとおりでございますが、私は人間に祀られてこそ小白川の主です。その人間が私をいらぬと言うのならそれまでのこと。しかし、少なくとも一人は私を信じ必要としてくれている人間がいるのです」 「一度大暴れしてやれば人間共もお主の必要性を再認識するかもしれぬぞ」 「いや、そのようなことになれば人間はより一層川を埋めようとするでしょう。以前にも嵐に耐えきれず溢れたことがありますが、川を埋めようと言う話がでたのもそれからです」 「この程度の嵐はなにも特別なものではない。それでも川が溢れようと言うのは人間が木を切り倒し、山を削り、土を隠した報いじゃ。余りかばいすぎると人間は図に乗るだけじゃぞ」 「…そうかもしれません。しかし、私には守りたい人間がいるのです。何とか我が願いを聞き届けてはくれませんか?」 クラオカミは瞼を閉じてしばし考え込んでから言った。 「…良いじゃろう。お主の願い聞き届けようではないか」 そう言うとクラオカミは立ち上がって、取り巻きから一つの壺を受け取った。 壺を床においてその上に手をかざす。 と、壺は薄ぼんやりと光を放って、再び暗くなった。 「これで良いじゃろう。後はお主の仕事じゃ」 「ありがとうございます!」 「さあ、さっさと戻らんと、お主の守るべき人間がいなくなってしまうぞ」 「え?それはどういうこと…」 クラオカミは先ほどの壺を指さしている。 コハクがその壺を覗き込むと、水面には靴を取ろうとしている千尋の姿が映っていた。 「チュン、チュン」 小鳥の鳴き声が窓の外から聞こえる。 カーテンの隙間から日差しが千尋の顔を照らしている。 「う〜ん…」 千尋は大きく伸びをして、ゆっくりと瞼(まぶた)を開いた。 「…床下浸水等の被害をもたらした台風26号は急速に速度を速め、現在…」 襖の向こうからはテレビの台風情報が聞こえてくる。 「!」 千尋はハッとして布団から飛び起きると、慌てて窓にへばりついて外を見た。 今のところ小白川は氾濫していないようで、この窓から見る限りでは、至る所に水たまりがある以外いつもと同じような光景に見えた。 しかし、この窓は川とは反対方向を向いているため、川自体が見えない。 空を見ると、まだ大きな黒い雲の塊がかなりのスピードで流れていて、太陽が見え隠れしている。 台風は通過したばかりという感じだった。 千尋は慌てて襖を開けると、隣の部屋で寝ころびながらテレビを見ている両親を跨いで、ベランダに出ていった。 「こら千尋!いきなりなんです!」 悠子の声も耳に入らず、千尋は唖然とした表情で川を見つめた。 そこにあるのはいつもの穏やかな小白川とはまるで異なり、怒り狂って全ての物を流してしまおうとするかのような、荒々しい濁流だった。 河原にある社も床下は濁流の中に没しているようだ。 「お花、流れちゃったかな…」 ここからでは社の影になって確認できないが、この調子ではまず流されてしまったであろう事は幼い千尋にも容易に推察できた。 「千尋もこれで川が危ないのは解っただろ。もう中に入りなさい」 明夫がベランダに顔だけ出して言った。 がっくりと肩を落として家の中に戻る千尋。 「千尋。顔洗ってきなさい。ご飯にしましょう」 「お母さん。ご飯食べたら公園で遊んできて良い?」 「え?だって、お庭を片づけないといけないから、お母さんもお父さんも一緒に行けないわよ?今日は他の子も来ないだろうし」 「良いの!千尋一人で遊ぶから」 「まだ新しい長靴も買ってないのよ。今日は水たまりだらけだから普通の靴じゃ汚れるし‥」 「汚さないようにするから!」 千尋のいつにない頑固な態度に悠子と明夫は顔を見合わせた。 「はいはい。じゃあ行っても良いけど、絶対川には近づいちゃダメよ」 千尋は公園に出ると、遊具には目もくれず一目散に土手を駆け上った。 土手から間近に見る風景はベランダからのそれよりもよりひどく見えた。 草花は土ごとえぐられ、流木やゴミや大きな石がそこら中に転がっている。 川のなかには、大きな流木が浮かんだり沈んだりしながら流れて行くのも見える。 社は未だに床下浸水の状態だ。 これでは両親との約束が無くても社の裏にある花を見に行くことは出来そうにもなかった。 「やっぱり流されちゃったかな‥」 そう呟きながらいつかのように土手にしゃがみこんだ千尋は、コハクは来ていないのだろうかと思いたち再び立ち上がった。 キョロキョロと辺りを見回すが、それらしい人影は見あたらない。 荒れ狂う川の流れを見ながらとぼとぼと歩き出す千尋。 その時、視界の端に黄色い物が映った。 ハッとして良く見ると、あの花が株ごと流されてきていた。 咲いていた花は落ちてしまっているものの、つぼみは残っているようだ。 やがて、その花は激流からそれ、土手際の流木に引っかかって止まった。 「あそこならとれるかも‥」 千尋は思わず土手を駆け下りようとして、思いとどまった。 家の方を振り返るが、窓に両親の姿はなかった。 「あそこなら大丈夫だよね‥」 花が引っかかっている流木は土手からわずか1〜2mの距離にあり、増水のために川中となってはいるが、普段は河原であるところだ。 当然、水深は大して深いわけもなく、水流も普段の小白川程度に見える。 これくらいなら幼い千尋でも充分花を取りにいけそうに思えた。 千尋はもう一度家の方を振り返り両親が見ていないのを確認してから、思い切って土手を下った。 土手の下まで来てみると、案の定花の引っかかっているところまでは千尋でも歩いていけそうな感じだ。 しかし、靴のまま入ったのでは、靴が汚れてしまう。 千尋は靴を脱いで土手の斜面に置き、ゆっくり慎重に川に入って行った。 川の水は九月だというのに予想以上に冷たく、流れも見た目ほど弱くはなかった。 しかし、千尋はゆっくりと一歩一歩花に近づいて行く。 あと三歩…二歩…一歩… 「やったぁ!」 千尋は花を掴みあげた。 茎は所々折れたりしているが、まだ幾つかのつぼみは残っているし、根も大丈夫そうだ。 このままどこかに植えれば何とかなるかもしれない。 千尋は再びゆっくりと岸に上がり、ポケットからハンカチを出して濡れた足を拭いた。 そして、靴を履こうと手を伸ばしたとき、 「コロコロ‥ポチャン」 千尋の手が当たって、靴が片方川に落ちてしまった。 靴はゆっくりと流されて行く。 「あ、待って!」 千尋は裸足のまま慌てて靴を追いかける。 いくら流れの緩やかな岸辺とは言え、裸足で土手の急な斜面伝いに歩く千尋には追いつけるはずもなかった。 靴はどんどん流されて行くが、何とか土手に生えた小さな枯れ木の枝にかろうじて引っかかった。 「良かった〜。 お靴を無くしたらお約束破ったのが解っちゃうもんね…そうしたらもうコハクとも遊べないんだから‥」 千尋はそう言いながらもう一度川に入って靴を取ろうかと流れのなかを覗き込んだが、先ほどの所よりも水深が深いようで服を濡らさずに取りに行くことは出来そうになかった。 靴に向かって土手から手を伸ばしてみると、ぎりぎり届きそうだった。 「後ちょっと‥」 あと少しで手が届く。 千尋は無理な体勢で精一杯手を伸ばした。 「きゃあ!」 「バシャーン!」 その時、足下が滑って千尋は転んでしまった。 慌てて立ち上がろうとするが、ぬかるんだ川底と水流のために上手く立ち上がることが出来ない。 「おい!子供が川に落ちたぞ!」 土手を見回っていた作業員の一人が千尋に気がついた。 「助けに行かないと!」 作業員達は慌てて土手を駆け下りるが、千尋はどんどん流されて行く。 「ダメだ!本流に呑まれた!どんどん流されてるぞ!」 「おーい!誰か警察と消防に連絡しろ!…」 作業員達の声がだんだん遠ざかって行く。 千尋は必死にもがいたが、濁流は容赦なく押し寄せてくる。 「苦しい‥お母さん、お父さん、助けて‥コハク…助け‥て…」 ついに千尋は力つき、沈んでしまった。 濁流のなかで小さな体はぐるぐると回され、もう上も下も解らない。 その時… 『千尋。がんばれ。掴まりなさい』 不意に千尋の頭のなかにコハクの声が響く。 千尋は薄れ行く意識のなかで、手に当たったものを掴んだ。 次の瞬間、千尋の目にはくっきりと自分を背中に乗せて泳ぐ白い龍が映った。 千尋はしっかりと龍の角を握りしめると、そのまま気を失ってしまった。 「…千尋。千尋」 遠くで自分を呼ぶ声が聞こえる。 この声は…そう、コハクだ。 「…コハク?」 ゆっくりと目を開けると、コハクが自分の顔を覗き込んでいた。 周りを見回してみるが、そこは千尋の見たことのない川岸だった。 大分下流まで流されたらしい。 千尋は起きあがろうとするが、体が動かない。 「まだ寝ていなさい。無理をしてはいけない」 「コハクが私を助けてくれたの?」 コハクは無言で頷いた。 「ありがとう。じゃあさっきの…」 「そう。私はこの小白川の神。本当の名前はニギハヤミ コハクヌシ」 「川の神様?すごいね」 「すごくなんかないさ。そなた一人を守ってやることさえ出来なかった。私の最後の仕事だったのにね‥」 そう言いながらコハクの送る視線の先には、大きなコンクリート製の土管と、嵐を避けて土手上に上げられた数々の重機があった。 「小白川、埋められちゃうんだよね。そうしたらコハクはどうなるの?」 「死にはしない。けど、ここにはいられなくなる。千尋とももうお別れだ」 「え?やだ!私、コハクともっと遊びたいよ!」 「私は、そなた一人を守ることも出来ない去りゆく神だ」 「コハクは私を助けてくれたじゃない!」 「…もう良いんだ。これが私の運命だ。 私のことはもう忘れなさい。そなたを愛し、守ってくれる存在は他にもある…」 そう言いながらコハクは千尋の額に手を置いた。 「やだ!コハクのこと忘れるなんて…やだ‥よ‥」 千尋の意識は再び遠くなって行く。 やがて視界も暗くなり、コハクの顔も見えなくなった。 「ありがとう。救われたのは私の方かもしれない。最後にそなたに会えて良かった…」 「…千尋!千尋!しっかりしなさい!」 聞き覚えのある声が自分を呼んでいる。 「う〜ん…」 「千尋!気がついた?!」 「大丈夫か?!」 千尋が目を開けると、両親が上から顔を覗き込んでいた。 「…お母さん、お父さん」 「良かった。気がついたか‥」 明夫はそう言うと、脱力したようにその場にしゃがみこんだ。 「もう!だからあれほど川に近づいちゃいけないって…」 悠子は一見怒っているようだが、涙でその先は続かなかった。 「ごめんなさい‥」 上体を起こした千尋を悠子が抱きしめる。 明夫も抱き合う二人の肩に手を置いた。 「…良かった。ほんとに‥」 抱きしめられた肩越しに見える悠子の足は靴さえ履いていなかった。 ストッキングは破れ、足には切り傷も出来て血が滲んでいた。 おまけに、普段汚れるのをあれほど嫌っている悠子が、今は自分のズボンが汚れるのも気にしないで水溜まりの中に膝をついている。 明夫の方も、ボロボロになったスリッパを片足にだけ履いている。 千尋の瞳からも大粒の涙がこぼれてきた。 千尋は悠子の首に腕を回してしっかりと掴まった。 「ごめんなさい…お母さん‥お父さん…」 「ピーポーピーポー」 救急車のサイレンの音が近づいてきた。 「おーい!こっち!こっちだ!」 土手の上で、ヘルメットをかぶった作業員風の男性が救急隊員に手を振っている。 やがて、救急隊員は担架を持って千尋の元までやってきた。 「大丈夫ですか?」 「ええ‥意識は取り戻しました」 「お嬢ちゃんちょっとゴメンね」 救急隊員は千尋を担架に乗せ毛布をかぶせてから、脈を計ったり瞼を開いて目にライトを当てたりした。 「大丈夫みたいですね。でも、一応病院に行きましょう。ご両親も一緒にお願いします」 救急隊員は担架を持ち上げて土手を登り始めた。 「でも、奇跡ですね。ここまで流されたのにほとんど水も飲んでいないみたいですし‥」 運ばれて行く担架の上で、千尋の目には河原に置かれた大きな土管が映った。 季節は巡り、再び夏が来た。 しかし、千尋の家の窓から見える景色は去年とは異なっている。 「ガガガガガ‥ゴットン!」 「もう!うるさいわね。これじゃあ仕事にならないわ。千尋、窓閉めてくれる?」 「は〜い」 千尋は窓際まで行くとベランダの窓を閉めて鍵を掛ける。 外ではパワーショベルやブルドーザー、クレーンなどの重機が川を掘り返していた。 大きく口を開いた穴の底には無機質で大きな土管が横たわっている。 「窓閉めてもうるさいわね。でも、これでやっと安心して千尋をお外で遊ばせられるんだからしょうがないわね‥」 「どうして?」 「あら、もう忘れちゃったの?去年の夏にあなた川に落ちたのよ。大変だったんだから」 「ふ〜ん」 外ではちょうどパワーショベルの爪が鳥居をなぎ倒すところだった。 千尋は何かとても大切なことを忘れてしまったような感じを受けながら、その光景を眺めていた。 出典:忘れた リンク:ごめんなさい |
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