夕暮れが迫る駅前で、彼女はひとりで立っている。 ふと、駅の方へ目をやると、彼女のよく知っている顔を見つけた。 少し、仕事に疲れているように見えた。そんな父に駆け寄り、 「お帰りなさい」と声をかけ、彼女はニッコリと笑う。 少しでも父を元気にしたい、という理由もあったのだが、なにより、父が出張から帰ってきたという事実だけで、 彼女は笑顔を抑えられなくなる。 そして、涙も。 「ただいま」 久しぶりの父の声。とてもとても優しい声。 彼女は、今にも溢れようとしていた涙を手の甲で拭い、父の胸に飛び込んだ。 (お父さんの匂いだ) 父の胸に顔をうずくめ、そっと目を閉じる。昔から、父の胸でこうするのが彼女は好きだ。 「迎えに来てくれて、ありがとうな、[[rb:唯 > ゆい]]」 父は、胸の中の大事な大事な宝物を受け止めながら言う。 「当たり前じゃない。ずっと、待ってたんだから」 父の胸から顔を上げたその顔は、再び笑顔で満ちていた。少し泣いたせいで、 彼女の頬には涙の跡が描かれていた。 娘の笑顔 ―――――それは、父のつかの間の寂しさを満たすもの。 ―――――また、父を安堵させるものでもあり、 ―――――そして、父をこの世で一番幸せにするものでもあった。 ふたりは駅を抜け、共に帰路につく。 「私、お母さんのお墓参りと仏壇のお供え、ちゃんとやってたんだからね〜」 唯のおどけた声に、父から笑みがこぼれる。 「そうか。唯は偉いなぁ。次から中学三年生だもんな」 普段、活発でおしゃべりな唯に対し、父は物静かで、読書を好むタイプの人間だ。 だが、久しぶりの娘との再会。話をせずにはいられない。 「横山さんには、迷惑はかけなかったか?」 唯には母親がいない。なので、父がいなければ、唯はひとりきりになってしまう。 そこで出張の間、昔から仲の良かった隣の横山さんの家に、唯は居候させてもらっていたのだ。 母の仏壇は自宅にあるので、唯は自宅と隣の家を行ったり来たりの生活をしていた。 「うん。多分ね」 チロっと舌を出し、片目を閉じておどけてみせる唯に、父は 『多分って…』と苦笑いをする。 「でも本当に、いろいろお世話になっちゃったなぁ」 いろいろ思い出すことがあるのか、遠くを見るような目になる唯。父は、 「今度、お礼をしないとな」 と言った。 横山さんには、礼をしてもしきれないほどの恩を受けてしまっているのだが、 やれることはやっておきたい。 そんなマメな辺りも、また父の性格だった。[newpage] ふたりは住宅街を歩き続ける。 もう既に日は暮れ、歩く道には、周辺の住宅街に住む人たちの笑い声や、 バラエティ番組の音声などが響いている。 「ねえ。そういやさ、どうして私は唯っていう名前になったの?」 単なる好奇心からの質問のようだが、父は答えに詰まってしまう。 別に答えが分からないのではない。知っている。ただ、その答えを ”言っていいのか”が分からないのだ。しかし、聞かれたならば答えるべきだ。 子供には『知る権利』があるし、親には『答える義務』があるからだ。 そして、父は口を開く。 「唯。お前が生まれた時に、母さんが死んだのは知っているな」 唯の肩が、ピクン、と、少し震えた。 そう、唯は、母親を知らない。 「母さんが死んだとき、まだお前に名前は付いていなかった」 唯の方から反応がない。少し、唯のタブーに触れてしまっているのかもしれないと 思いつつも、父は話を続ける。 「母さんがいなくなってしまうと、俺には、お前しか残っていなかった」 唯は少し照れたのか、顔を少し赤らめ、人差し指で頭をかく。 「名前を決めるのにはかなり時間がかかったさ。お前が生まれた時に桜が咲いていたから『桜』に しようとか、春に生まれてきたから『春香』にしようとか、いろいろ迷ったけど、」 父は、伝えることにまだ少し戸惑う。そのせいか、少しの[[rb:間 > ま]]があった。 「けど、やっぱり、名前をつけた時の気持ちを、俺にはお前しかいなかったんだっていう気持ちを、 そのまま名前に込めたかった。何かに、刻みたかったんだ。自己満足かもしれないけどな」 父は、自嘲するように少し笑った。 「でも、俺にはお前しかいなかった。逆に言えば、唯一、唯一お前がいた。 だから、唯。『唯』だ。」 「だから、唯…か」 唯からそんな声がこぼれた。 父の自己満足で決められた名前。それは、娘に理解できるものなのだろうか。 父は後悔した。このことを話すと、ずっと、嫌われると思っていたからだ。 もう自分に、笑顔を向けてくれることはないと思っていたからだ。 少しの沈黙の中を、二人は歩いていた。 唯はうつむいていた。表情は見えない。泣いているのかもしれないし、怒っているのかもしれない。 そして唯は、ゆっくりと口を開き、一言だけ、静かに放った。 「ありがとう。お父さん」 いつの間にか顔を上げていた唯は、夕暮れ時のような、嘘偽りのない、 満面の笑みを浮かべていた。そして、その目には涙が溜まっていた。 それもまた、夕暮れ時のように。 再び、ふたりの間に静寂が生まれる。 今度は、父がうつむいていた。その肩は小刻みに震え、うまく言葉を発することができない。 時折、父から嗚咽が漏れる。その度に、唯は、歩きながら父の背中をさする。 もはやどちらが親か分からないが、逆に言えばそのくらい、ふたりの関係は強いものなのだ。 やがて、父はしゃっくりのような嗚咽を深呼吸で整え、歩を止め、左へ向いた。 そして、同じように右へ向いた唯の首に両腕を回し、自分の胸に唯の顔を押し付け、思い切り抱きしめた。 唯も、黙って父の腰へ腕を回す。そして父は、唯の耳元で言葉を放った。 「こちらこそ、生まれてきてくれて、ありがとう」 ふたりは抱き合いながら、共に大粒の涙を流す。 そしてしばらくして、ふたりは泣き合い、そして笑い合いながら、再び道のりを歩む。 ふたりの歩幅は揃っていた。 オレンジ色のかかった外灯は、ふたりを照らす。 道路に映し出されたふたつの影は、いつの間にか、手と手をつないでいた。 出典:授業中に リンク:書きました |
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