父と私と。 (エロくない体験談) 6340回

2015/03/26 13:58┃登録者:えっちな名無しさん┃作者:名無しの作者
 夕暮れが迫る駅前で、彼女はひとりで立っている。
 ふと、駅の方へ目をやると、彼女のよく知っている顔を見つけた。
少し、仕事に疲れているように見えた。そんな父に駆け寄り、
「お帰りなさい」と声をかけ、彼女はニッコリと笑う。
少しでも父を元気にしたい、という理由もあったのだが、なにより、父が出張から帰ってきたという事実だけで、
彼女は笑顔を抑えられなくなる。
そして、涙も。

「ただいま」

 久しぶりの父の声。とてもとても優しい声。
彼女は、今にも溢れようとしていた涙を手の甲で拭い、父の胸に飛び込んだ。

(お父さんの匂いだ)

 父の胸に顔をうずくめ、そっと目を閉じる。昔から、父の胸でこうするのが彼女は好きだ。
「迎えに来てくれて、ありがとうな、[[rb:唯 > ゆい]]」
父は、胸の中の大事な大事な宝物を受け止めながら言う。
「当たり前じゃない。ずっと、待ってたんだから」
父の胸から顔を上げたその顔は、再び笑顔で満ちていた。少し泣いたせいで、
彼女の頬には涙の跡が描かれていた。

娘の笑顔
―――――それは、父のつかの間の寂しさを満たすもの。
―――――また、父を安堵させるものでもあり、
―――――そして、父をこの世で一番幸せにするものでもあった。



 ふたりは駅を抜け、共に帰路につく。
「私、お母さんのお墓参りと仏壇のお供え、ちゃんとやってたんだからね〜」
唯のおどけた声に、父から笑みがこぼれる。
「そうか。唯は偉いなぁ。次から中学三年生だもんな」
 普段、活発でおしゃべりな唯に対し、父は物静かで、読書を好むタイプの人間だ。
だが、久しぶりの娘との再会。話をせずにはいられない。

「横山さんには、迷惑はかけなかったか?」
 唯には母親がいない。なので、父がいなければ、唯はひとりきりになってしまう。
そこで出張の間、昔から仲の良かった隣の横山さんの家に、唯は居候させてもらっていたのだ。
母の仏壇は自宅にあるので、唯は自宅と隣の家を行ったり来たりの生活をしていた。
「うん。多分ね」
チロっと舌を出し、片目を閉じておどけてみせる唯に、父は
『多分って…』と苦笑いをする。
「でも本当に、いろいろお世話になっちゃったなぁ」
いろいろ思い出すことがあるのか、遠くを見るような目になる唯。父は、
「今度、お礼をしないとな」
と言った。
 横山さんには、礼をしてもしきれないほどの恩を受けてしまっているのだが、
やれることはやっておきたい。
そんなマメな辺りも、また父の性格だった。[newpage]



 ふたりは住宅街を歩き続ける。
 もう既に日は暮れ、歩く道には、周辺の住宅街に住む人たちの笑い声や、
バラエティ番組の音声などが響いている。

「ねえ。そういやさ、どうして私は唯っていう名前になったの?」

 単なる好奇心からの質問のようだが、父は答えに詰まってしまう。
別に答えが分からないのではない。知っている。ただ、その答えを
”言っていいのか”が分からないのだ。しかし、聞かれたならば答えるべきだ。
子供には『知る権利』があるし、親には『答える義務』があるからだ。
  
 そして、父は口を開く。

「唯。お前が生まれた時に、母さんが死んだのは知っているな」
唯の肩が、ピクン、と、少し震えた。
そう、唯は、母親を知らない。
「母さんが死んだとき、まだお前に名前は付いていなかった」
唯の方から反応がない。少し、唯のタブーに触れてしまっているのかもしれないと
思いつつも、父は話を続ける。
「母さんがいなくなってしまうと、俺には、お前しか残っていなかった」
唯は少し照れたのか、顔を少し赤らめ、人差し指で頭をかく。
「名前を決めるのにはかなり時間がかかったさ。お前が生まれた時に桜が咲いていたから『桜』に
しようとか、春に生まれてきたから『春香』にしようとか、いろいろ迷ったけど、」
父は、伝えることにまだ少し戸惑う。そのせいか、少しの[[rb:間 > ま]]があった。
「けど、やっぱり、名前をつけた時の気持ちを、俺にはお前しかいなかったんだっていう気持ちを、
そのまま名前に込めたかった。何かに、刻みたかったんだ。自己満足かもしれないけどな」
父は、自嘲するように少し笑った。

「でも、俺にはお前しかいなかった。逆に言えば、唯一、唯一お前がいた。
だから、唯。『唯』だ。」

「だから、唯…か」
唯からそんな声がこぼれた。
 父の自己満足で決められた名前。それは、娘に理解できるものなのだろうか。
 父は後悔した。このことを話すと、ずっと、嫌われると思っていたからだ。
もう自分に、笑顔を向けてくれることはないと思っていたからだ。

 少しの沈黙の中を、二人は歩いていた。
唯はうつむいていた。表情は見えない。泣いているのかもしれないし、怒っているのかもしれない。
 そして唯は、ゆっくりと口を開き、一言だけ、静かに放った。


「ありがとう。お父さん」


 いつの間にか顔を上げていた唯は、夕暮れ時のような、嘘偽りのない、
満面の笑みを浮かべていた。そして、その目には涙が溜まっていた。
それもまた、夕暮れ時のように。

 再び、ふたりの間に静寂が生まれる。
今度は、父がうつむいていた。その肩は小刻みに震え、うまく言葉を発することができない。
時折、父から嗚咽が漏れる。その度に、唯は、歩きながら父の背中をさする。
もはやどちらが親か分からないが、逆に言えばそのくらい、ふたりの関係は強いものなのだ。

 やがて、父はしゃっくりのような嗚咽を深呼吸で整え、歩を止め、左へ向いた。
そして、同じように右へ向いた唯の首に両腕を回し、自分の胸に唯の顔を押し付け、思い切り抱きしめた。
唯も、黙って父の腰へ腕を回す。そして父は、唯の耳元で言葉を放った。


「こちらこそ、生まれてきてくれて、ありがとう」


 ふたりは抱き合いながら、共に大粒の涙を流す。
そしてしばらくして、ふたりは泣き合い、そして笑い合いながら、再び道のりを歩む。
ふたりの歩幅は揃っていた。

 オレンジ色のかかった外灯は、ふたりを照らす。
道路に映し出されたふたつの影は、いつの間にか、手と手をつないでいた。
 

出典:授業中に
リンク:書きました
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