インカと安全保障、ねずさんのひとりごと (エロくない体験談) 7690回

2015/06/16 00:20┃登録者:えっちな名無しさん┃作者:名無しの作者

インカ帝国は、いまは南アメリカのペルーのあたりにあった一大文明国です。
最盛期には80の民族と1600万人の人口をかかえていたといわれています。
巨大な石の建築物があり、カミソリの刃も通さないほど精巧に重ねられた石の加工技術、黄金の仮面、水晶のドクロ、土器や織物、謎の高原都市などなど、インカの遺跡は、ものすごく高度な統治システムと、進化した技術に彩られています。
ところが、それだけの巨大文明でありながら、いまでは、その歴史、伝統、文化の一切は失われてしまいました。
遺跡も、いまではただの「謎」になってしまっています。

安全保障をないがしろにしたら、数千年続いた文明であっても、こういうことになるのです。
国会で安全保障にケチをつけている議員さんたちは、日本をそんな国にしたいのでしょうか。
だとしたら、彼らは私達庶民の命をないがしろにするテロリストであり、国民の敵です。

 
インカ文明のおおもとにあたるアンデス文明は、7500年前ころまでに始まったとされています。
7500年といえば、日本では鹿児島沖でカルデラ大爆発が起こり、遠洋漁業が始まった頃です。遠洋漁業の開始はその頃から突然釣り針が大型になっていることで確認できます。

アンデス文明を形成したインカの人々というのは、男性の身長が平均1m57cm、女性が1m45cmくらいで、モンゴロイドであったことが人骨から確認できます。
遺伝子的には、いまから1万8千年ほど前に、地球気温が急速に低下したとき、(北極圏、南極圏の氷が発達。年間平均気温で▲8度くらいだった)これにより、海面がいまより140メートルほど下がり、シベリア、アリューシャン列島、樺太、北海道、本州などがみんな陸続きになったといわれています。

このとき、バイカル湖のあたりにいたモンゴロイドが、一部は、中央アジアへ、一部が太平洋を南下して日本へ、一部がアラスカを経由して北米へと流れ、長い時間をかけて、南米にまで南下した、というのが通説です。
ところが南米のエクアドルあたりでは、日本の縄文式土器が発掘されてもいるわけです。
そうなると、陸路ルートだけではなく、海洋ルートも考えに入れなければおかしなことになります。

また、陸路についても、「バイカル湖あたりにいたモンゴロイドが北米→南米へと移動した」ことを証明するものは何もありません。
モンゴロイドがアジアから北米→南米へと移動したことは、人骨の特徴などで確認できるのですが、その出発点がどこであったかについては、確認がとれていません。

むしろ、最近のDNAの研究では、インディアンのDNAとアイヌのDNAとに濃い血縁関係があることが判明しています。
つまり、大陸と陸続きであった頃の日本列島は、ユーラシア大陸の東のはずれであり、そこから沿岸沿いに、北米→南米へと人が移住していったという可能性のほうが、むしろ説明が合理的なのです。
なぜなら人が移動するには、移動途中の食料確保が不可欠で、そのためには海の幸を容易に入手できる沿岸沿いの方が、太古の昔の人々の移動には適しているといえるからです。

この民族の特徴は、遺跡から武器が出土しないことです。
つまり、武器を持って人と争い、力で敵を征服するのではなく、自然と共存し、武器を持たず、争いを避けて技術の進歩によって人々の幸せを図ろうとし、太陽を信仰するという共通の特徴を持っています。

おそらく、こうしたことは、DNAのなせるわざといえます。
ヒトも動物も哺乳類であり、犬が犬種ごとに、性格がまったく違うのと同様、人間も、人種ごとにその性格的特徴、非常時の行動パターンなどがまるで異なるからです。

インカでは、太陽が崇拝され、灌漑と台地栽培によって、農業生産が行われていたようです。
そして、インカの遺跡からも、不思議なほど、武器が出てきません。
日本も、全国に数万カ所ある縄文時代の遺跡から、現在に至るまでただの一度も対人用の武器が出土したことがありません。
つまり、人が人を殺して「奪う文化」ではなく、人と人とが共同して食べ物を「つくる文化」を共有していたわけです。

一部の本によると、インカでは、灌漑農業のために貴族が労働力を搾取していたなどと書かれているものもありますが、インカの遺跡をみると、神殿、民家、要塞、道路など、きわめてすぐれた技術によって建設されています。
こういうことは、古来、上からの命令と奴隷のような隷従のもとでは、なかなかできるものではありません。

対立と闘争という一面的な見方しかできない共産主義史観では、こういう見方はできなくなってしまいます。
なぜなら人々が、むしろ喜びと未来への希望を持って力を合わせたときに、はじめて高度な技術が誕生するし、それが民生用であれば、なおのこと大きな力となるのは、人類史に変わらぬ真実であるからです。

たとえば、インカの石造りの幹線道路があります。
これは北部のキトからチリ中部のタルカまで、5230kmにも達する道路です。
その道路が、王侯貴族の栄華のためだけに築かれたとするのは、どうみても無理があります。
なぜなら、もし王侯貴族の栄華のための道路なら、その王侯貴族が政治権力を失った後、その施設はジャングルに埋もれてしまうと思われるからです。
みんなが使い、みんなが大事にするから、道路が伸び、補修され、大事にされるのです。

それを言うと、だって万里の長城は、皇帝の権力で完成したのだ、などという人もいます。しかし万里の長城が立派な城砦のような形状をしているのは、観光ガイドの写真に出ているごく一部分でしかありません。
長城といいながら、ほとんどの部分は単なる盛土が延々と伸びているだけです。

馬族の侵入を防ぎ、農地を守ろうとすれば、人々は長城を作ろうとする国家の指針に、進んで協力します。
その協力が、自らの家族や生命、財産を守るのに「必要な」行動だからです。

インカの道路は、王侯貴族が、彼女を連れて馬車で、チョロチョロする程度なら、ほんの数キロの道で構いません。
5000キロもの長い距離の道路が完成し、かつ保持されたのには、そこに一般の庶民の期待と協力と需要があったからと考えるのが自然です。

実際、この道路には、1トポ(約7km)毎に里程、約19km毎にタンボ(宿駅)が、設置されているのです。
この発音もおもしろいです。
トポ(徒歩)、タンポ(田んぼ)にも聞こえます。

他にもチャスキと呼ばれる飛脚が約8km毎に設置されていました。
そのチャスキは、タンボ間のリレー方式で、1日に、なんと約240kmの情報伝達能力を持っていたといわれています。

こうした情報伝達を、軍事利用と規定している解説書が多いのですが、そうした解説書では、インカの遺品に、軍事に不可欠の武器が出土していないことに触れません。
もちろん、武器が何もないわけではありません。
オンダと呼ばれる携帯用の投石機があります。
これは大型獣を倒す狩猟用のものであって、対人用の武器を目的としたものではありません。
そうしてみると、オンダが生まれたのは、多くの人々の情報伝達のため、つまり民生用と考えた方が自然です。

そもそも、なんでもかんでも古代は王侯貴族が大きな顔をし、労働は奴隷にやらせていた社会などというのは、そういう社会体制を基礎とする西洋か、日韓併合前の朝鮮くらいなものです。
一部の貴族だけが贅沢の限りを尽くし、一般の民衆が搾取され(中世ヨーロッパや、李氏朝鮮では、平均寿命が24歳くらいだった)る社会では、文明はかならず停滞し、退廃します。
逆にいえばインカは、すぐれた統治と豊かな民生のある武器を持たない文化が、そこにあったということです。

ところがインカは、それだけ発達した交通網や文化を持っていたことが、結果として、文明を滅ぼしています。
どういうことかというと、スペインの掠奪者、フランシスコ・ピサロの一行がやってきたのです。
武器を持たないインカの民に対し、ピサロは情け容赦なく銃をぶっ放し、女を強姦し、黄金や貴金属、宝石などの富への略奪を重ねました。

そして和平を願って交渉にきたインカの王、アタワルパを逮捕し、まる裸にして辱め、殺害し、ついには、わずか180名(たった180名です)の180丁の銃で、1600万人の人口を持つインカの大帝国を滅ぼし、その文明の痕跡さえも失うまでに、略奪し、滅ぼしているのです。

滅ぼした人数は、たったの180人です。
滅ぼされた側は1600万人です。人口のわずか0.001%です。
けれどたったそれだけの数のスペインの乱暴者が、1600万人の人口を持つ一国の文明を滅ぼし、富も、政治体制も、歴史も文化も、そして言語までも破壊し、失わせています。

申し上げにくいことだけれど、いま、ペルーのインディオたちのDNAは、100%インディオの純潔種というのはいません。
ほぼ100%の人が、スペイン人のDNAを持っています。
これがどういうことか、何を意味しているかは、ご想像におまかせします。

「武器を持たない文化」は、戦後の日本がそうであったように、内政面で人々の平和をもたらし、話し合いと共存、民生技術の進歩等、人々の生活を豊かにします。
なぜなら、対立したときの問題の解決に武器を用いることができない分、発達した内政用の統治システムが必要となるからです。

インカの滅亡は、大切な事実を、私たちに語りかけてくれます。
それは、すぐれた内政統治システムも、歴史も伝統も文化も、そこに安住すれば、「武器を持った粗暴な外国人」の前に、まったく無力だということを証明しているからです。

日本には、ポルトガル人たちが、インカにスペインがやってきたのとほぼ同じ時期にやって来ました。
ポルトガル人も、銃を持っていました。
けれどその銃を見た種子島の領主は、なんと現在のお金で銃一丁を5000万円という高値で、二丁も買い取りました。

ポルトガル人にしてみれば、これは大儲けです。
彼らは、これはすごい商売になる!と、さっそく本国に帰って大量の銃を仕入れ、船に積んでふたたび種子島に運び込もうとしました。
ところが日本は、ポルトガルの船が再びやってきたときには、種子島では買い取った銃を分解し、なんとポルトガル人の数十倍の火縄銃を、量産していたのです。
しかも、ポルトガル人の所持する銃よりもはるかに性能がいい。
だからポルトガル人は、日本を植民地にできなかったし、日本文明を滅ぼすこともできませんでした。

幕末も同じです。
黒船来航の何年かのちには、日本では、各藩が、それぞれに蒸気機関を開発していました。
軍艦も買い取ったし、日本中の武士たちが、攘夷と称して刀を持って暴れまわっていた。
これでは欧米列強は容易に日本に上陸できません。
そうやって時間稼ぎが行われている間に、日本はどんどん国力をつけ、明治政府が誕生する頃には、日本の保有する軍艦の数は、欧米から渡航してきている黒船を、少なくとも数の上では圧倒するレベルにまで達していきました。

何日か前に、広島と長崎に原爆が落とされたのは、日本がその時点で核による反撃ができる可能性が皆無だったからだ、と書かせていただきました。
現在でも、世界には、話し合いや和の心だけで平和的に物事を解決できるだけの高度な世界的統治システムは完成していません。
話し合ってダメなら、あとはチカラに物を言わせる。つまり戦争をして白黒をつける。
それが世界秩序です。
世界は、いまだに法のない群雄割拠の時代にあるのです。

言い換えれば、世界に向けて正義を実現できるのは、話し合いだけでなく、武力が背景にあるときだけです。
弱虫は、どんなに正しい理屈を垂れても馬鹿にされ、蹂躙されるだけなのです。
そしていまの日本は、あきらかに支那や朝鮮に馬鹿にされ、蹂躙されています。
簡単に言ったら、やくざ者に舐められているのです。

この日本の現状を救い、本来の日本の歴史、伝統、文化を取り戻すためには、私たち自身が、武力行使も辞せずという強い信念と実力を持たなければならないのだと思います。


出典:インカと安全保障、ねずさんのひとりごと
リンク:http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2671.html
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